東西伊呂波短歌評釈
幸田露伴



 東京と西京とは、飲食住居より言語風俗に至るまで、今猶すこぶる相異なるものあり。それも、やがては同じきに帰す可けれど、こゝしばらくは互に移らざらむ歟。そは兎まれ角まれ、小児の年の初に用ゐて遊ぶ骨牌子かるたに記されたる伊呂波短歌などいふも、東京のと西京のとは、いたく異なりて、其の同じきものは四十八枚中わづかに二三枚に過ぎざるぞおもしろき。今試に東西に行はるゝところのものを取りて之を比較せん。

東 いぬも歩けば棒にあたる

西 いや〳〵三盃

 東のは、事を為すものは思はぬ災を受くることありといふ意、又は其の反対に、才無き者も能く勤むれば幸を得ること有りといふの意にして、西のは、其の語の用ゐらるゝ場合不明なれども、既に人の客たれば、いや〳〵ながらも三盃を斟むべし、といふ意か、いや〳〵三盃又三杯とつゞけてもいふことあれば、薄〻はく〳〵の酒を酌むに、いや〳〵ながらも杯を重ぬれば、其の中にはおのづから酔ひて之を楽むに至るといふことを云へるか、或は又虚礼謙譲のいやしきを笑へる意の諺なるべし。

東 論より証拠

西 論語読みの論語知らず

 東のは寸鉄人を殺すの語、西のは冷罵骨に入るの句なり。

東 花より団子

西 針の孔から天

 東のは徒美とびの益なく、実効の尊ぶべきを云ひ、西のは小を以て大を尽す可からざることを云へるにて、東京の、よの字の短語「よしの髄より天」といへると其の意おなじ。古は西のは、「八十の手習」といへるなりしとか。

東 にくまれ子は世にはびこる

西 おなじ

 舐犢しとくの愛を受けて長ずるものを貶して、祖母ばゞあ育ちは三百やすいといへる諺に引かへ、憎まれ子の世に立ちて名を成し群を抜くことを云へる、東西共に同じきもおもしろし。

東 ほね折り損のくたびれ儲け

西 ほとけの顔も三度

 徒労の身を疲らす有るのみなるを嘆じたるは東の語、慈顔も之を冒すこと数〻すれば怒ることを云へるは西の語なり。

東 屁をつて尻すぼめ

西 下手な長談義

 東は後悔のはかなきを笑ひ、西は拙者の人を苦むるを嘲りたり。

東 年寄の冷水

西 豆腐にかすがひ

 老人のなまじひに壮者を学ぶを危めるは東の諺、鉄釘至剛なるも至軟の物を如何ともする能はざるを歎ぜるは西の語。

東 塵積つて山

西 地獄の沙汰も金

 東は小善小悪も之をあなどり之を軽んず可からざるを云ひ、西は黄金の力の広大無辺なるを云へるなり。

東 律義者りちぎものの子沢山

西 綸言りんげん汗の如し

 東は花柳に沈湎ちんめんせざるもののおのづからにして真福多く天佑有るを云ひ、西は帝王の言の出でゝかへらざることを云へり。

東 ぬす人の昼寐

西 ぬかに釘

 守る者は足らず、攻むるものは余りあるを云へるは東の語也、抵抗せず又随順せざる者の如何ともしがたきを云へるは西の語なり。

東 るりもはりも照せば光る

西 類を以て聚る

 美玉日に遇へば各〻其の光を発するを云へるは東、類を以て聚まり群を以て分れて吉凶の生ずるを説ける繋辞伝の語を挙げ用ゐたるは西。

東 老いては子に従ふ

西 負ふた子に教へられ

 共に仮名違ひながら其は云はでも有らなむ。一は老者の自ら主とせざるを可とするを云ひ、一は幼者の智もまた師とす可きあるを云へる、彼此共に其の意のいささか似通へるところあるもをかし。

東 われ鍋に綴蓋

西 笑ふ門には

 此は、如何なる賤陋せんろうのものにも、世おのづからこれと相従ひあひたすけて功を共にし楽を分つものあるを云ひ、彼は、先づ自ら楽みて笑ひ、又能く笑ひて人を楽ましむるものは、おのづからに和を致して而して福を来すに及ぶを道破せる、共に愉快なる佳諺かげんなり。

東 かつたいのかさうらみ

西 蛙の面に水

 東は悪因を有するもののいたづらに悪果を恨み歎ずるを笑ひ、西は冷〻然として平らかなるものの如何ともす可からざるを憎めるなり。

東 よしのずゐから天を覗く

西 よめとほめ

 葭管かくわんより天を窺ふは、管小に過ぎ天大に過ぎて尽す可きにあらず、夜眼遠眼、凡を過つて美となすことあり信ず可からず、二者意相似て聊か異なり。

東 たびは道づれ

西 たていたに水

 東は同伴者の尊ぶべきを云ひ、西は単に弁舌の快なるを云へり。東の諺の方、意に於て優りたり。

東 れうやく口に苦し

西 れんぎで腹切る

 腹は擂木を以て切るべきにあらず、能はざる事をば滑稽に云ひ取れるなり。良薬は口に苦けれど病をば癒すべし。これも東の諺の方宜しけれど、仮名違なるは是非なし。

東 惣領の甚六

西 袖のふりあはせも

 東は長子の愚多きを云ひ、(或は曰く自然に禄を伝へ受くるをいふと)西は瑣〻の因縁も由つて来ること遠きを云へり。明眼論めいがんろんに本づける西の諺おもしろし。

東 月夜に釜をぬかれる

西 東におなじ

 闇夜には物を奪はれず、躓くは坦途に於てする習ひ、東西異なる無しと見ゆ。一噱す可し。

東 念には念を入れよ

西 猫に小判

 東は事に処し物に接するすべからく精確詳密にすべきを云ひ、西は機に投じ縁に応ぜざれば金珠も土礫に等しきを云へるなるが、東の方の諺は詩趣無く、西のは佳意無し。

東 なきつらに蜂

西 なす時の閻魔顔

 禍はひとり到らず、悲を破るの勇気無きものはまた新に悲を得るを云へるは東、人情嶮峻にして金を借る時は仏顔をなし、返す時は閻魔顔をなすの陋態を罵れるは西のなり。

東 楽あれば苦あり

西 来年の事云へば鬼が笑ふ

 近をきて遠を謀るは愚人の常態にして、陋なること笑ふべければ、西の諺の方は甚だ佳趣あり。楽あれば即ち苦あるは免る能はざるの数ながら、語に奇味あること無し。

東 無理がとほれば道理引込む

西 むまの耳に風

 東は理もまた時ありて屈伸することを云ひて、世情の頼む可からざるを憤り、西は馬耳東風何の饗応無きを云へり。

東 うそから出た真

西 氏より育ち

 仮を弄して真を成す、世おのづから其の事多く、橘を植ゑてからたちに変ずる、土之をして然らしむるなり。二語共に佳、悦ぶ可し。

東 芋の煮えたも御存知ない

西 鰯の頭も信心がら

 東のは迂闊漢をそしりて骨に入り、西のは一切世界唯心所造の理を片言に道破せり。共におもしろし。

東 咽頭のどもと過ぐれば熱さ忘るゝ

西 鑿といへば鎚

 東のは懲りて復これを忘るゝものを云ひ、西のは人須らく智を運し功をすみやかにすべきを云へり。西のは東の方にては云はぬ諺なるが、鑿は鉄鎚を待つて其の功を遂ぐるものなれば、鑿をと云はば鎚をも添へて与ふるやうにせよとなり。東のは失敗の径路を指摘して戒め、西のは成功の用意の如何にすべきかを教ふ。西のの方おもしろし。

東 鬼に鉄棒かなぼう

西 鬼も一八

 既に強力なり、加ふるに利器を以てす、人誰か之に当るを得ん。東のは之を説けり。物皆時あり、至醜のものといへども小美の時無くばあらず。西のは之を談ぜるなり。両諺共に佳。

東 くさいものには蓋

西 くさいものに蝿

 東のは臭腐のもの須らく之を掩ふべきを云ひ、西のは穢は又おのづから穢を引きて、臭物の蒼蝿を致すことを云へり。古は西の短語「くさいものに蝿」と無くして「くさつても鯛」とありし由、今のかるたにも、画には鯛を描けり。腐つても鯛と云へる諺は余り好ましからず。

東 やす物買ひの銭失ひ

西 やみに鉄砲

 低価の貨物を買ふなかれとは江戸の人の気象をあらはし、闇夜に鉄砲を放つがごときことを為すを嘲るも亦、京坂地方の人の気象をあらはせり。

東 負けるは勝

西 まかぬ種子たねは生えぬ

 気を負ひて忍びざる東に、負けるは勝の諺の用ゐらるゝもおもしろく、理智に長けたる人多き西に、播かぬ種子は生えぬといへる諺の用ゐられあるは当に然るべきやうに思はる。

東 芸は身を助ける

西 下駄に焼味噌

 東のは意明らかなり、西のは汚潔混淆の愚を斥けたるにや、其の意不明にして確解すべからず。

東 ふみはやりたし書く手は持たず

西 ふくろうの宵だくみ

 東のは幼にして学ばざりしを悲み、西のは思ふこと多くして做すこと少き痴を笑へるにや。西のは、もとは「武士は喰はねど高楊子」とありし由なり。

東 子は三界の首枷

西 これにこりよ道西坊

 欲界より色界無色界に至りても、親子は恩深ければ、枷鎖相纏はりて脱せずといへるは東のなり。西のは其の意明らかならねども、秘事は四知を免れず、拙為は独歎を発するに足れり。凡庸の徒おほむね先見無し、一蹉躓一顛倒して後自ら懲戒するも、数の免る能はざるところなり。唯よく自ら懲り自ら戒めよとならん。

東 えてに帆を上げ

西 えんと月日

 東は意を得て勢に乗ずるを云ひ、西は因縁の到来と日月の経過とを待ち得ば、苦去り甘来らんと云へるなり。むかしは、「縁と月日」と云ふ語ならずして、「栄曜に餅の皮むく」と云へる語なりし由也。

東 亭主の好きな赤烏帽子

西 寺から里へ

 松浦肥前守、赤き烏帽子を戴きしといふ奇解の塩尻に出でしより、人皆之に従ひて怪まず、多くの画にも、人の赤き烏帽子冠れるさまを描きたれど、土地によりては、赤烏帽子と云はずして、「亭主の好きな赤鰯」といふもあるなり。赤鰯は鰯の塩蔵もしくは乾蔵せるものにして、其の味の美ならざること言ふまでも無し。語の意は、赤鰯珍とするに足らず、されど亭主之を好まば又数〻用ゐられんのみ、人之を如何ともする無し、といふに在り。寺から里へとは、物の顛倒せるを云ふ。二諺共に妙無し。

東 あたま隠して尻かくさず

西 あきなひは牛の涎

 東のは蔵頭露尾の醜を笑ひ、西のは商估の道、気を伏せ心を寛うすべきを云へるなり。西の諺教へ得て甚だ好し。

東 三遍回つて煙草にしよ

西 猿も木から墜ちる

 能く勤めて而して後休む可しと云ふは東のなり。既に慣るゝも猶且つ過つ有らんと云ふは西のなり。共に嘉言にして佳趣あり。

東 聞いて極楽見て地獄

西 義理と犢鼻褌

 東のは、耳聞と目撃との甚だ異なるを云ひ、西のは、欠く能はざるものの畢竟欠くべきにあらざるを云へるなり。東の方の諺佳趣あり。

東 ゆだん大敵

西 ゆうれいの浜風

 東のは意義顕露なり。西のは情趣晦昧なり。幽魂の海風に吹き散ぜらるゝが如く、力無きものの、つひに自ら保つ能はざるを云へるか。西の諺、東には行はれず。

東 めの上のたん瘤

西 めくらのかきのぞき

 眼上の肉瘤、甚だ厭ふ可く、盲者の目を張る、又何の益あらんとなり。二諺共に佳趣無し。

東 身から出た錆

西 身は身でとほる

 東のは鏽花外より到るにあらず、災星多くは自ら招くを云ひ、西のは、口あれば食はざること無く、肩あれば衣ざること無く、憂ふる勿れ身あれば即ち活くに足るとなり。東西共におもしろし。

東 知らぬが仏

西 しわんぼの柿の核子たね

 無悩又無憂、知らざるもの即ち是れ仏なり。吝嗇の徒柿の核子にもまた依〻恋〻として之を棄つる能はざる、悲む可く笑ふ可きなり。東の方おもしろし。

東 縁は異なもの

西 縁の下の舞

 東のは赤縄紅糸の相牽連するは、人意を以て測る可からざるものあるを云ひ、西のは縁の下の舞の舞ひ得て妙なるも、堂上の眼に入らざることを云へるなり。東の方にて「縁の下の力持」と云ふよりも舞といへるはおもしろし。

東 びん乏暇無し

西 瓢箪に鯰

 貧者余閑無しといへる、瓢箪は鯰を捉ふ可からずといへる、二語共に妙無し。西の諺、むかしは「膝がしらの江戸行」といへるなりしよし。

東 もんぜんの小僧習はぬ経を読む

西 餅屋は餅屋

 東のは薫染の力の大なるをいひ、西のは当業の技の優れたるを云へる、意は異なれど、勝劣無きに近し。

東 せに腹はかへられぬ

西 雪隠で饅頭

 東のは、親は疎に代ふる能はざるを云ひ、西のは自利の念の甚しきや陋醜唾棄すべきの事を敢てするに至るを嘲れるなり。西のの諺、痛刻ならざるにあらず、たゞ其の狠毒こんどくの極汚穢を諱まざるを病む。

東 粋が身をくふ

西 雀百まで躍りやまず

 才有り行無くして路花ろか墻柳しやうりうの間に嬉笑するもの、多くは自ら悦び自ら損ずるを悲めるは東の方の諺にして、獧薄けんはく乖巧くわいかうの人の其性改まらずして、老に至つて猶紅灯緑酒の間に蹁蹮するものを歎ぜるは西の言なり。二語皆佳。

東 京の夢大阪の夢

西 京に田舎あり

 京の夢大阪の夢といへる諺、古より明解無し。無境漂蕩定まり無きを云ふ歟、或は曰く、京に在つて夢みる時は却て大阪を夢むといふの意にして、夢魂多くは異境に飛び旧時に還るを云へるなりと。京に田舎有りといへるは、物必らずしも全美全雅なる能はざるを云へるなり。西の諺、意明らかにして趣有り。

底本:「日本の名随筆70 語」作品社

   1988(昭和63)年825日第1刷発行

   1992(平成4)年410日 第7刷発行

底本の親本:「露伴随筆 第二冊」岩波書店

   1983(昭和58)年4

※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)

入力:渡邉 つよし

校正:門田裕志

2002年124日作成

青空文庫作成ファイル:

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