柳原燁子(白蓮)
長谷川時雨
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ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえ究められるものではない。人間と人間との交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽せよう。到底及びもつかないことだ。
微妙な心の動きは、わが心の姿さえ、動揺のしやすくて、信実は書きにくいのに、今日の問題の女史をどうして書けよう。ほんの、わたしが知っている彼女の一小部分を──それとて、日常傍らにある人の、片っぽの目が一分間見ていたよりも、知らなすぎるくらいなもので、毎朝彼女の目覚る軒端にとまる小雀のほうが、よっぽど起居を知っているともいえる。ただ、わたしの強味は、おなじ時代に、おなじ空気を呼吸しているということだけだ。
火の国筑紫の女王白蓮と、誇らかな名をよばれ、いまは、府下中野の町の、細い小路のかたわらに、低い垣根と、粗雑な建具とをもった小屋に暮している燁子さんの室は、日差しは晴やかな家だが、垣の菊は霜にいたんで。古くなったタオルの手拭が、日当りの縁に幾本か干してあるのが、妙にこの女人にそぐわない感じだ。
面やせがして、一層美をそえた大きい眼、すんなりとした鼻、小さい口、鏝をあてた頭髪の毛が、やや細ったのもいたいたしい。金紗お召の一つ綿入れに、長じゅばんの袖は紫友禅のモスリン。五つ衣を剥ぎ、金冠をもぎとった、爵位も金権も何もない裸体になっても、離れぬ美と才と、彼女の持つものだけをもって、粛然としている。黒い一閑張の机の上には、新らしい聖書が置かれてある。仏の道に行き、哲学を求め、いままた聖書に探ねるものはなにか──やがて妙諦を得て、一切を公平に、偽りなく自叙伝に書かれたら、こんなものは入らなくなる小記だ。
燁子さんは、故伯爵前光卿を父とし、柳原二位のお局を伯母として生れた、現伯爵貴族院議員柳原義光氏の妹で、生母は柳橋の芸妓だということを、ずっと後に知った女だ。夜会ばやり、舞踏ばやりの鹿鳴館時代、明治十八年に生れた。晩年こそ謹厳いやしくもされなかった大御所古稀庵老人でさえ、ダンス熱に夢中になって、山県の槍踊りの名さえ残した時代、上流の俊髦前光卿は沐猴の冠したのは違う大宮人の、温雅優麗な貴公子を父として、昔ならば后がねともなり得る藤原氏の姫君に、歌人としての才能をもって生れてきた。
実家だと思っていたほど、可愛がられて育った、養家親の家は、品川の漁師だった。その家でのびのびと育って年頃のあまり違わない兄や、姉のある実家に取られてから、漁師言葉のあらくれたのも愛敬に、愛されて、幸福に、華やいだ生涯の来るのを待っていたが、花ならばこれから咲こうとする十六の年に、暗い運命の一歩にふみだした。ういういしい花嫁君の行く道には、祝いの花がまかれないで、呪いの手が開げられていたのか、京都下加茂の北小路家へ迎えられるとほどもなく、男の子一人を産んで帰った。その十六の年の日記こそ、涙の綴りの書出しであった。
芸術の神は嫉妬深いものだという。涙に裂くパンの味を知らない幸福なものには窺い知れない殿堂だという。
だが、燁子さんは明治四十四年の春、廿七歳のとき、伯爵母堂とともに別居していた麻布笄町の別邸から、福岡の炭鉱王伊藤伝右衛門氏にとつぐまで、別段文芸に関心はもっていられなかったようだった。竹柏園に通われたこともあったようだったが、ぬきんでた詠があるとはきかなかった。しかし、その結婚から、燁子さんという美しい女性の存在が世に知られて、物議をも醸した。それは、伝右衛門氏が五十二歳であるということや、無学な鉱夫あがりの成金だなぞということから、胡砂ふく異境に嫁いだ「王昭君」のそれのように伝えられ、この結婚には、拾万円の仕度金が出たと、物質問題までが絡んで、階級差別もまだはなはだしかったころなので、人身御供だとまでいわれ、哀れまれたのだった。
人身売買と、親戚補助とは、似ていて違っているが、犠牲心の動きか、強いられたためか、父と子のような年のちがいや醜美はともかくとして、石炭掘りから仕上げて、字は読めても書けない金持ちと、伝統と血統を誇るお公卿さまとの縁組みは、嫁ぐ女が若く美貌であればあるだけ、愛惜と同情とは、物語りをつくり、物質が影にあるとおもうのは余儀ないことで、それについて伯爵家からの弁明はきかなかった。
だが、そのままでは、燁子さんはありふれた家庭悲劇の女主人公になってしまう。甘んじて強いられた犠牲となったのかどうか。それは彼女の後日が生きて語ったではないか。
この手紙は今年の春(大正十一年)中野の隠れ家からうけた一節で、
只今お手紙ありがたく拝見いたしました。実はわたくし、二、三日前からすこし気分がすぐれませんので床についております。急に脈がむやみと多くなって、頭がいやあな気持ちになる、なんとも名のつけられない病気が時たま起りますので。でも今日は大分よろしゅう御座いますから、早速御返事申上げて置こうと、床の中での乱筆よろしく御判読願い上げます。(中略)仰せの通り世間のとかくの噂の中にはずい分、いやなと思う事もないでも御座いませんけど、これも致方がないなり行きだと、今までもあまり気にかけたことも御座いません。
私信の一部を公にしては悪いが、わたしの筆に幾万言を費して現わそうとするよりも、この書簡の断片の方がどれだけ雄弁に語っているか知れない。はじめからそういうふうに冷淡に、噂を噂として聞流す女性はすくない。
いつぞや九条武子さんと座談のおり、旅行のことからの話ついでに、
「別府には燁さまの御別荘がおありですから、それはよろしう御座いますの。随分前から御一緒に行くお約束になっていて、やっと参りましたのよ。伊藤さんがお迎えながらいらっしゃるはずでしたところ、風邪をおひきになったって電報が来たものですから、燁さまは急いでお帰りになりましたの。だから残念でしたわ。」
語る人のあでやかな笑顔。それよりも前に、わたしはかなり重く信用してよい人から、こういうふうにも聞いていた。
白蓮さんは伝右衛門氏のことを、此方が、此方がといわれるので、何となく御主人へ対して気の毒な気がして返事がしにくかった。それに、あの人の歌は、どこまでが芸術で、どこまでが生活なのか──あの生活が嫌なのだとはどうしても思われない。
手紙のことといい、武子さんの話の断片といい、この歌の評といい、突然なので、知らない読者には解しかねるであろうが、この間には、例の白蓮女史失踪事件があり、彼女の生活の豪華であったことが、知らぬものもないというほどであり、和歌集『踏絵』を出してから、その物語りめく美姫の情炎に、世人は魅せられていたからだ。
この結婚は、無理だというのが公評になっていた。作品を通して眺めた夫人は、キリスト教徒のためされた、踏絵や、火刑よりも苦しい炮烙の刑にいる。けれど試す人は、それほど惨虐な心を抱いているのではない。それどころか、宝として確かりと握っていたのだとも思われる。冷たさにも、熱さにも、他の苦痛など、てんで考えている暇のない専有慾の満足と、自由を願うものとの葛藤だったのだ。もとより、いつも掴むものは強い力をもち、かよわいものが折り伏せられるのは恒だが──
──これは前のつづきではない。前章は、大正十一年の二月に書いたのだが、その続きがどうしても見当らない、図書館にも幾度かいって探してもらったが、続きの載ったはずの雑誌はあっても出ていない。そこで、よく考えてみたらば、こんなことがあったのを忘れて、続きが出たとばかり思っていたのだった。
こんなこととは、燁子さんの兄さんの柳原伯が、わたくしの母をわざわざ横浜の手前の生麦まで訪ねられて、続稿を、やめさせてくれまいかと頼まれたのだった。箱入り一閑張りの、細長い柱かけの、瓢箪の花入れのお土産を取出して見せながら、母は言い憎そうにいうのだった。わたしは、そのふらふら瓢箪をみながら、止めるとも止めないともいわないで、母のいうことだけきいていた。
「お困りだそうだから──」
わたしはただ笑った。ありとある新聞が、徹底的に書きつくしたのに、今になってと。だが、その、今になってが困るのかなと思った。だが、母の弱さにも嘆息した。母は合資の、倒れかけた紅葉館を建て直して、儲けを新株にして、株式組織に固め、株主をよろこばせたうえで、追出された。年老いて、我家も投り出しておいて、故中沢彦吉さんに見出されたからと、意気に感じて、夜の目も眠ないで尽した誠実はみとめられずに、喧嘩のように出されて、子たちがいる家にも足むけが出来ないと、死にもしかねない有様に、当時、草茫々とした、破ら家を生麦に見つけだして、そこに連れて来てあげて、やっと心持ちを柔らげさせたのではなかったか。そのおり、利益のあったときには、長谷川さん長谷川さんとやさしくした株主のだれが、優しい言葉をかけたか? もとより、無智だった母の、法律的なことは知らずに、感情からのゆきちがいはあったとしても、権利、義務を主とした会社ではなく、酒と媚の附属する料理店で、お客であって株主でもある人たちは、一番やすく遊んで食べて、利益も得ている、その株主の一人で柳原さんもあったのだ。顔馴染を利用するのが、あんまり現金すぎるとも思い、引受けた母までが嫌だった。だからといって、それとこれを混じて、ものを書くような卑劣さを持つかとおもわれるより、そう思うほうが、よっぽど賤しいと思ったのだった。だが、原稿の続きは出なかったのだ。ガン張っても誌面は自分のものでないから、どうにもしようがなかったのだ。だから、つづきはわるいが、ここからは新しく書くことにする。
白蓮さんを見たのは、歌集『踏絵』が出て、神田錦町の三河屋という西洋料理やで披露があったとき、佐佐木信綱先生から、御招待があったのでいったときだった。柳原伯夫人のお姉さんの、樺山常子夫人が介添で、しっとりとしていられたが、白蓮さんには『踏絵』で感じた人柄よりも、ちょくで、うるおいがないと思ったのは、あまりに、『踏絵』の序文が、
「白蓮」は藤原氏の娘なり「王政ふたたびかへりて十八」の秋、ひむがしの都に生れ、今は遠く筑紫の果にあり。──半生漸くすぎてかへり見る一生の「白き道」に咲き出でし心の花、花としいはばなほあだにぞすぎむ。──さはれ、その夢と悩みと憂愁と沈思とのこもりてなりしこの三百余首を貫ける、深刻にかつ沈痛なる歌風の個性にいたりては、まさしく作者の独創といふべく、この点において、作者はまたく明治大正の女歌人にして、またあくまでも白蓮その人なり。ここにおいてか、紫のゆかりふかき身をもて西の国にあなる藤原氏の一女を、わが『踏絵』の作者白蓮として見ることは、われらの喜びとするところなり。
こういう書きかたであって、しかも『踏絵』が次に示すような、哀愁をおびた、情熱的ななかに、悲しい諦らめさえみせているので、感じやすいわたしは自分から、すっかりつくりあげた人品を「嫦娥」というふうにきめてしまっていたのだった。『踏絵』の装幀が、古い沼の水のような青い色に、見返しが銀で、白蓮にたとえたとかきいたが、それからくる感じも手伝って、嫦娥と思いこませ、この世の人にはない気高さを、まだ見ぬ作者から受取ろうとしていた。
だが、わたしは、そのおりの印象を、ふらんすの貴婦人のように、細やかに美しい、凛としているといっている。そして、泉鏡花さんに、『踏絵』の和歌から想像した、火のような情を、涙のように美しく冷たい体で包んでしまった、この玲瓏たる貴女を、貴下の筆で活してくださいと古い美人伝では、いっている。貴下のお書きになる種々な人物のなかで、わたくしの一番好きな、気高い、いつも白と紫の衣を重ねて着ているような、なんとなく霊気といったものが、その女をとりまいている。譬えていえば、玲瓏たる富士の峰が紫に透いて見えるような型の、貴女をといっている。これはだいぶ歌集『踏絵』に魅せられていた。
たしかに、わたしは『踏絵』のうたと序文によっぱらいすぎてはいたが、昔ならば、女御、后がねとよばれるきわの女性が、つくし人にさらわれて、遠いあなたの空から、都をしのび、いまは哲学めいた読ものを好むとあれば、わたしの儚んだロマンスは上々のもので、かえって実在の人を見て、いますこしうちしめりておわし候え、と願ったのもよんどころない。それほどに『踏絵』一巻は人の心をとらえた。
われは此処に神はいづくにましますや星のまたたき寂しき夜なり
われといふ小さきものを天地の中に生みける不可思議おもふ
踏絵もてためさるる日の来しごとも歌反故いだき立てる火の前
吾は知る強き百千の恋ゆゑに百千の敵は嬉しきものと
天地の一大事なりわが胸の秘密の扉誰か開きぬ
わが魂は吾に背きて面見せず昨日も今日も寂しき日かな
骨肉は父と母とにまかせ来ぬわが魂よ誰れにかへさむ
追憶の帳のかげにまぼろしの人ふと入れて今日もながむる
船ゆけば一筋白き道のあり吾には続く悲しびのあと
誰か似る鳴けようたへとあやさるる緋房の籠の美しき鳥
歌集のようになるが、もう二、三首ひきたい。
殊更に黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記
わが足は大地につきてはなれ得ぬその身もてなほあくがるる空
毒の香たきて静かに眠らばや小がめの花のくづるる夕べ
おとなしく身をまかせつる幾年は親を恨みし反逆者ぞ
殉教者の如くに清く美しく君に死なばや白百合の床
昔より吾あらざりし其世より命ありきや鈴蘭の花
息絶ゆるその刹那こそ知るべくや死の趣恋のおもむき
三十三歳の豊麗な、筑紫の女王白蓮は、『踏絵』一巻でもろもろの人を魅了しつくしてしまって、銅御殿の女王火の国の白蓮と、その才華美貌を讃える声は、高まるばかりであった。伝右衛門氏は、それほどの女性を、金で掴んでいるというふうに、好意をよせられないのもしかたがなかった。
だが、その時でも、どこまであの生活がいやなのか、あの歌のどこまでが真実なのかといったのは、彼女をよく知っていた人だと私は前にもいったが──
大正十年十月廿二日の、『東京朝日新聞』朝刊の社会面をひらくと、白蓮女史失踪のニュースが、全面を埋めつくし、「同棲十年の良人を捨てて、白蓮女史情人の許へ走る。夫は五十二歳、女は二十七歳で結婚」と標柱して、左角の上には、伊藤燁子の最近の写真の下に宮崎竜介氏のが一つ枠にあり、右下には、伊藤伝右衛門氏と燁子さんの結婚記念写真が出ていた。
その記事によると、十月二十日午前九時三十分の特急列車で、福岡へかえる伝右衛門氏を東京駅へ見送りにいったまま、白蓮女史は旅館、日本橋の島屋へかえらず、いなくなってしまったということや、恋人は帝大新人会員の宮崎竜介氏であることや、結婚の間違っていたことや、柳原家の驚きや、まだ福岡の伊藤氏は知らないということが、紙面一ぱいで、誰にも、ああと叫ばせた。
次の日、廿三日の朝刊社会面には、伝右衛門氏へあてた、燁子さんからの最後の手紙──絶縁状が出た。全文を引かせてもらうと、
私は今貴方の妻として最後の手紙を差上げます。
今私がこの手紙を差上げるということは貴方にとって、突然であるかもしれませんが私としては当然の結果に外ならないので御座います。貴方と私との結婚当初から今日までを回顧して私は今最善の理性と勇気との命ずる処に従ってこの道を取るに至ったので御座います。御承知の通り結婚当初から貴方と私との間には全く愛と理解とを欠いていました、この因襲的結婚に私が屈従したのは私の周囲の結婚に対する無理解とそして私の弱少の結果で御座いました。しかし私は愚にもこの結婚を有意義ならしめ出来得る限り愛と力とをこの中に見出して行きたいと期待し、かつ努力しようと決心しました。私が儚ない期待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はもう十年になりますがその間の私の生活はただ遣瀬ない涙を以ておおわれました。私の期待は凡て裏切られ私の努力は凡て水泡に帰しました。貴方の家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。私はここにくどくどしくは申しませんが、貴方に仕えている多くの女性の中には貴方との間に単なる主従関係のみが存在するとは思われないものもあります、貴方の家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪われていたこともありました。それも貴方の御意志であった事は勿論です。私はこの意外な家庭の空気に驚いたものです。こういう状態において貴方と私との間に真の愛や理解が育まれようはずがありません。私はこれらの事についてしばしば漏らした不平や反抗に対して貴方はあるいは離別するとか里方に預けるとか申されて実に冷酷な態度を取られた事をお忘れにはなりますまい。またかなり複雑な家庭が生む様々な出来事に対しても、常に貴方の愛はなく従って妻としての価を認められない私はどんなに頼り少く淋しい日を送ったかはよもや御承知なきはずはないと存じます。
私は折々我身の不幸を果敢なんで死を考えた事もありました。しかし私は出来得る限り苦悩を、憂愁を抑えて今日まで参りました。この不遇なる運命を慰めるものは、唯歌と詩とのみでありました。愛なき結婚が生んだこの不遇と、この不遇から受けた痛手から私の生涯は所詮暗い帳の中に終るものだと諦めた事もありました。しかし幸にして私には一人の愛する人が与えられて私はその愛によって今復活しようとしているのであります。このままにして置いては貴方に対して罪ならぬ罪を犯すことになることを怖れます。もはや今日は私の良心の命ずるままに不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機に臨みました。虚偽を去り真実につくの時がまいりました。依ってこの手紙により私は金力を以って女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護りかつ培うために貴方の許を離れます。永い間私を御養育下された御配慮に対しては厚く御礼を申上げます。
二伸、私の宝石類を書留郵便で返送致します。衣類などは照山支配人への手紙に同封しました目録通り、凡てそれぞれに分け与えて下さいまし。私の実印は御送り致しませんが、もし私の名義となっているものがありましたらその名義変更のためには何時でも捺印致します。
伊藤伝右衛門様
この手紙が出るまでもなく、前日の家出だけでも、事件はお釜の湯が煮えこぼれるような、大騒ぎになっていた。各新聞社は、隠れ家の捜索に血眼だったが、絶縁状が『朝日新聞』だけへ出ると物議はやかましくなった。しかも、その手紙が、肝心な夫伝右衛門氏の手にはまだ渡っていないのに、新聞の方がさきへ発表したというので騒いだ。黒幕があるというのだ。
おなじ廿三日の、おなじ欄に、伝右衛門氏の九州福岡での談話が載った──
「天才的の妻を理解していた」という見出しで、
互の世界はちがっていても、謙遜しあうのが夫婦の道、だが絶縁状を見たうえは、何とか処置する。
勿論、今朝の(廿二日)新聞で事情の大略は知ったが、しかし、そんな事が実際あるべきものとは思われない。燁子としても、そんな無分別なことを果してしたものだろうか、本月末には博多に帰って来る約束をしてある。家庭のことを振りかえって見ても、不愉快や、不満に思うふしは毛頭あるはずがないと思います。随分我儘な女です。何不自由なく、世間から天才とか何とかいわれるまで勉強もさせ、小遣だって月五十円はおろか一万円にものぼることすらある。あの女を、伊藤なればこそ養っているなどと噂もある。
それは柳原さんや、入江さんも知っている。
私は田舎者の無教育ですから、燁子が住んでいる文学の世界などは毛頭知りません。だからその点遠慮して、どんな事をしようが、何一ツ小言をいった事はありません。
「忘れがたき別府の一夜」の題下には、大正八年一月末に(『踏絵』が出てから数えて三年目)湯の町の別府に、宮崎氏が白蓮さんをたずねた。その後『解放』の同人たちに噂が高く、春秋の上京に、散歩、観劇などを共にしていたとある。
雑誌『解放』は、吉野博士を中心にして、帝大法科新人会の人たちが編輯をしていた、高級な思想文芸雑誌だった。白蓮女史の劇作「指鬘外道」を掲載することについて、誰かがうちあわせにゆくことになり、宮崎氏がいったのだった。そのあとでは、宮崎氏の机上はうずたかくなるほど、電報で恋の歌がくるというので、みんなが羨んだということだった。
この事件についての、世間の反響の一部分を、おなじ新聞からとってみると、廿三日のに、九大の久保猪之吉博士夫人より江さんが──この夫妻も、帝大在学「雷会」時代からの歌人で、
上京前に訪問したら、涙ぐんで、めいりこんでいて「伊藤が愛がないのでさびしくてしかたがない。高い崖の上からでも飛降りて死んでしまいたい」といっていたが、感情が昂じてこんな事になったのか、ある意味で白蓮さんはうたを実行されたのだ。
と語っている。
また、九条武子さんは、まあと大きな吐息をついて、
只今が初耳でございます、随分思いきった事をなさいましたねえ。あの方とは、昨年お目にかかりました後は、お互にちょいちょいゆき来はしておりますが、唯うたのお友達というだけ、それほど深い話もありません。先日も九州でおめにかかりましたが、それほど深いお悩みのあることは、素振にもお見せになりませんでした。御主人は太っ腹な、それは気持ちのいい方です。まさか短気なことは遊ばしはしませんでしょうね。お年もとり、御思慮も深い方ですが、どうなる事でしょう。
と、さすがに友達の身を案じて、じっとしてはいられぬという面もちだったとある。
博多中券の芸妓ふな子は二十歳で、白蓮さんに受出されて、おていさんという本名になって、伊藤家にいる。その女のいうのには、
燁子さんは、お父さまにつかえているつもりだといって、平生からさびしそうにしていたが、(私が)妾になったのもうけだされたのも、奥さまからなので、嫌だけれど納得したのに──
といっている。
廿三日附朝刊には、論説も「燁子事件について」とあって、その概略をつまんでみると、
燁子の事件はあくまで慨嘆すべきものか、あるいはかえって謳歌すべきものか、吾人はこれを報道した責任として、ここにいささか批評を試みたい。(略)
彼女の精神生活は甚だ同情すべきものだが、技巧と粉飾が臭気の高い歌で訴えるように事実苦しみぬいていたかどうか。(略)この行動が、はたして自動的か他動的か、これもまた批判してその価値をさだめる有力な材料でなくてはならない──
──燁子事件の真相と燁子の思想とによってわかるるものと思う。更に細論の機会をまたんとす。
といっている。
廿五日ごろになると、帝大法科の教授連が批判回避の申合せをし、白蓮問題は、暫く何もいうまいということになったが、牧野、穂積両博士が興味をもっているとあり、投書の「鉄箒」欄が段々やかましくなっている。
白村の近代の恋愛観のエッセイを読み続けてゆくと、家名、利害をはさまず、人格と人格の結合、魂と魂との接触というが、白蓮、伊藤、宮崎各々辿るべきをたどった。(鉄箒)
「法廷に立て」伝右衛門が白蓮女史に送った手紙誰が書いたのか、甚だもって伝右衛門らしくない。彼がとる態度は、有夫姦の告訴、白蓮は愛人をともなって法廷に立て。(鉄箒)
「栄華の反映」自分を崇拝している年下の男の方が、自分の弱点を知る石炭みたいな男より我儘が出来るのが当然だが愛がなくてもの同棲十年は、相当情誼を与えたはずだ。(鉄箒)
天才は不遇な裡に味もあれば同情もあるのだ──虚名を求めて彼女の轍を踏むときバクレンとなるなかれ。(鉄箒)
「鉄箒」欄がいっている伝右衛門の手紙というのを引きたいが、夕刊紙かまたは他紙のであったのか、見当らなかった。震災が中にあったので、とっておいた参考紙も失なってしまったのでいまではわからない。
で、柳原家の方では、合理的処置──円満離婚の上で自邸に引取る方針だ。その上で当事者の考えで解決するといい、宮崎氏は、燁子はきっと保護する。ただ父に(滔天氏)叱られはしまいかと、いかにも若々しい学徒の純情でいっている。
厨川白村氏の「近代の恋愛観」が廿回ばかりつづいて、やはり『東朝』に出ていた時分だったので、白村氏は「鉄箒氏」に答えて、
──今日の見合いの方法に、改良を加え青年男女に正当な接触を与えるのが、今日の社会のために望ましい事である。私は本紙に、近代の恋愛観というのを草し、連載中燁子事件突発。近代生活の重要な問題として、概括的に一般に恋愛と結婚について述べたかの一文の中に、今回の事件について、凡て私の見解にはあまり明瞭すぎて、露骨なほど明かに書いておいたから、いま質問を受けるのを遺憾と思う。
──今度の行動には多くの欠点手落ちがあった。絶縁状が相手に落ちないうちに発表され、自分が独立しないで多くの人に依頼したこと、自ら妾を夫に与えていた事、非難の点多し。これは外面的な、従属的なことである。
──今度のようなことは、男でも女でもちょっと思いきって決行出来ないのが普通だ。それを断行した事によって、このインフェルノから救われたのは、独り『踏絵』の女詩人ばかりではなく、伝右衛門氏にとってもまた幸福であったことを考えねばならぬ。(概略)
白蓮さんの方で、着物も指輪も手紙をつけて送りかえしたといえば、伝右衛門氏の側では、絶縁状は未開封のまま突きもどすといい、正式に離婚をするといっている。各々の立場が違って、宮崎氏の方は、燁子さんの環境から見ても、どこまでもああした、自覚的態度を強調させようとし、事件が大袈裟になることは、もとより覚悟の上であったろうが、絶縁状の字句が、何やらん書生流で、ほんとに、心から底から、がまんのなりかねた女がつきつける手紙としては──情熱の歌人の書いたものとしては、おなじキッパリしすぎるなかに欠けたもののある感じと、踊らせよう、騒ぎたたせようとするいとがあるふうにも感じられる子供っぽい理窟、世馴れない腕白さがあるのとは反対に、伝右衛門氏の方で、正式に離縁というのは、どことなく、どっしりして、わるあがきがちょっと去なされたかたちにもとれる。
廿三日には隠れ家も知れて、黒ちりめんの羽織を着て、面やつれのした写真まで出ていた。軽い風邪で寝ていて、親戚の人にも面会を避けると、自殺の噂が立ったり、警察でも調べたとあった。
そのころ、丁度ワシントン会議のあったころで、徳川公爵や、加藤友三郎大将の両全権が、鹿島丸でアラスカの沖を通っている時に、日本からの無電は白蓮事件をつたえ、乗組の客はみんな緊張して、すさまじい論戦が戦わされた。それは廿四日のことだとも伝えてきた。
と、いうだけでも、どんなにこの事件が、何処もかもを沸騰させたかということがわかるではないか。まして生家の御同族がたをや! 真に、白蓮燁子は身の置きどころもない観だった。
だが、ああいった武子さんは、自分で綿入れを縫って隠れ家へ届けている。
わたしが訪ねたのは、もう写真班の攻撃もなくなった、燁子さんの廻りも、やっと落附いてきた時分だった。山本安夫と表札は男名でも、燁子さんと台所に女の人がいただけだった。ふと、痩せた女の、帯のまわりのふくよかなのが目についた。そのことを、どこの何にも書いてなかったのは、気がつかなかったのかも知れないが、煩ささが倍加しなくてよかったと、わたしは心で悦んでいた。晒し餡で、台所の婦人がこしらえてくれたお汁粉の、赤いお椀の蓋をとりながら、燁子さんが薄いお汁粉を掻き廻している箸の手を見ると、新聞の鉄箒欄の人は、自分を崇拝している年下の男の方が、我儘が出来るのは当然だがといったが、どんなところから割出したものかと思った。昨日までは、精神的の苦痛はあっても、いわゆる我儘な生活が出来たのだ。こんどは、精神的幸福はあっても、我儘な生活が出来るわけがないではないかといいたかった。ほんとの、生きた生活に直面するのに──生きた生活とは、そんな生優しいものではない。
長男香織さんは生れた。生れる子供の籍だけは、こちらへほしいとは伝右衛門氏の願いだった。柳原家で拒んだのだという。生れた子のことで、燁子さんは姿をかくさなければならなかった。わたしは子供を離さずに転々していた燁子さんを、あんなに好いたことはなかった。昨日は下総に、明日は京都の尼寺にと、行衛のさだまらないのを、はらはらして遠く見ていた。あとでの話では、かえってその時分は経済的に楽だったのだということで、何処かしらから物質は乏しくなく届いていた。愁かったのは宮崎家の人となってから、馴れぬ上に、幼児は二人になり、竜介氏は喀血がつづいて──ただ一人のたよりの人は喀血がつづく容体で──その時の心持ちはと、あるとき、語りながら燁子さんは面をふせた。
燁子さんは働きだした。達者に書いた。長編小説でもなんでも書いた。選挙運動には銀座の街頭にたって、短冊を書いて売った。家庭には荒くれた男の人たちも多くいるし、廃娼したい妓たちも飛込んできた。そのなかで一ぱいに立ち働らきもする。かつての溜息は、栄耀の餅の皮だと悟りもした。
いつわらぬ心境を歌にきこうと、最近、以前のと近ごろとの歌を自選してくださいとおたのみしたらば、こんなのが来た。
筑紫のころ
われはここに神はいづこにましますや星のまたたきさびしき夜なり
和田津海の沖に火もゆる火の国にわれあり誰そや思はれ人は
われなくばわが世もあらじ人もあらじまして身をやく思ひもあらじ
その後
思ひきや月も流転のかげぞかしわがこし方に何をなげかむ
かへりおそきわれを待ちかね寝し子の枕辺におく小さき包
子らはまだ起きて待つやと生垣の間よりのぞく我家のあかり
子をもてば恋もなみだも忘れたれああ窓にさす小さなる月
ああけふも嬉しやかくて生の身のわがふみてたつ大地はめぐる
なんという落附いた境地だろう。この安心立命の地を、武子さんはどう眺めたろう。おおそういえば、燁子さんは面白い話をしたことがある。武子さんが九州へゆかれたとき、伊藤伝右衛門氏は、筑紫の女王のところへ、本願寺の生菩薩さまが来られるときいて有頂天になり、座ぶとんは揃えて、緞子、夜具類はちりめん、襖をはりかえさせ、調度は何もかも新しく、善つくし、美を尽さねばならぬときめた。それはおなじ九州のある豪家へ武子さんが招ばれた時には、何千円かを差上げて来ていただいたというのに、我家へは無償でこられるということより何より、それほどの人にわが成金ぶりと、何処にも負けない豪奢ぶりを見せなければおさまらないのだった。それをふと、
本願寺さまだってお手許が──武子さんはそんなにおごってはいません、といってしまったらば、急に見下げて、何もかも新しい調度は取消しにして、何もさせないので困ってしまったということだ。
それが、何もかもを語っているとおもう。出来ない辛抱は、今の道にくるまでの、新らしい生活にもあったかもしれない。けれど、澄みたる月は暴風雨のあとにこそ来る。あらしはすぎた。燁子さんのこしかたも大きな暴風雨だった。
燁子さんの生母さんのことも、このごろわかったが、もうお墓の下へはいっていて、燁子さんは墓参りをしただけで、なんにも言えなかったのだ。若くて死んだお母さんは、柳橋でお良さんと名乗り、左褄をとった人だった。姉さんは吉原芸妓の名妓だったが、その老女は、燁子さんを姪だということを、どんな親しい人にも言ったことがないほどかたい人だった。この姉妹は幕末の外国奉行新見豊前守の遺児だという。ここにも悲しき女はいたのだ。
底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
1936(昭和11)年2月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年8月13日作成
2014年7月27日修正
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