朱絃舎浜子
長谷川時雨
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一
木橋の相生橋に潮がさしてくると、座敷ごと浮きあがって見えて、この家だけが、新佃島全体ででもあるような感じに、庭の芝草までが青んで生々してくる、大川口の水ぎわに近い家の初夏だった。
「ここが好いぞ、いや、敷ものはいらん、いらん。」
広い室内の隅の方へ、背後に三角の空を残して、ドカリと、傍床の前に安坐を組んだのは、箏の、京極流を創造した鈴木鼓村だった。
「此処は反響が好い、素晴しく好いね。」
も一度立って、廻り椽の障子も、次の間への襖も、丸窓の障子もみんな明けて来た。
「ええね、ええね、なんか嬉しい気がするぞ、今日は良う弾けるかも知れんなあ。あれ、あんなに潮が高くなった。わしゃ、厳島に行ってること思出しています。ホ!」
また大きな体を、椽のさきまで運んでいった。
「ほう、ほう、見る間に、中洲の葭がかくれた。あれ、庭の池で小禽か鳴いているわい。」
「翡翠でしょう。」
わたしは早く「橘媛」が聴きたかった。
「まあ、すぐじゃ、すぐじゃ。」
鼓村氏は閉口した時にする、頭の尖の方より、頸の方が太いのを縮めて、それが、わざと押込みでもするかのように、広い額に手をあてながら座についた。外で演奏する時には、ゆったりした王朝式の服装と、被りものであるが、今日のように平服のときは、便々たる太鼓腹の下の方に、裾の広がらない無地の木綿のような袴をつけている。
寛々と組んだ安坐の上に、私たちの稽古琴を乗せて、ばらんと十三本の絃を解いた。
「山の手におると、乾くような気がすると、八千代さんはいうているなあ。此家へくると、ジュウっと、水が滲みわたるようじゃというてたが、わしもそう思います。」
「岡田八千代さんは、水がすきで、御飯へもかけて食べますもの、夏は氷で冷たくしたのを。」
「や、そか?」
鼓村師の、大きな体と、ひろびろした頬をもつ顔に似合わない、小いさな眼が、箏の上に顔ごとつきだされた。
「水は好いもんじゃなあ、麹町の家の崖に、山吹が良う咲いているが、下に水があると好えのじゃが──」
椽に栗山桶がおいてあって、御簾のかかっている家の話に移っていった。
そういううちにも大きな掌は、むずと、十三本の絃をいちどきに握って、ギュンと音をさせて締めあげた。
それから一絃ずつ、右の片手の、親指と人差指に唾をつけては絃をくぐらせて、しっかり止める始末をしてゆくのだった。その扱いかたの見事さに、うっかり見とれていると、
「あの、何じゃね、話が先刻飛んでしまったのじゃけど、妙な、不思議な女子で──」
と、指を湿らせる合間に、水をほめる前に、先刻話しかけたつづきを、思出したようにいうのだった。
「わしも、いろんな弟子をもったが、その女子ほどの名手は、実際会ったことがないほどで、それが、こっちから訊かなければ何も知らんふりをしているが、なんでも弾けるのでなあ、忘れてしまうと、わしのものを、わしが教えてもらうので──いや、ほんのこっちゃ。」
鼓村師は、自分の作曲したものでも、自分で忘れた部分は、爪音をとめて、絃の上に手を伏せたまま唄っていることがある。感興が横溢すれば、十三弦からはみ出してしまうほどの、無碍の芸術境に遊ぶ人だった。
「では、河内の国、富田林の、石の上露子さんとどっちが──」
かつて、雑誌『明星』の五人の女詩人、鳳晶子、山川登美子、玉野花子、茅野雅子と並んで秀麗しい女であって、玉琴の名手と聞いていた人の名をいって見た。
ゆきずりの、我小板橋しら〳〵と、
一重のうばら、いづくより流れかよりし、君まつと、ふみし夕べにいひ知らず、しみて匂ひき──
と、私は口のうちで、石の上露子の詩をうたって見ていた。
それを、大きな掌は、遠くからおさえるように動かされて、
「あれは美人じゃからなあ──石河の夕千鳥には、彼女の趣味から来る風情が添うが──わしが、今感心しておる女子は、箏のこととなると、横浜から、箏を抱いてくる。小いさな体をして。」
ちいさな、というのに力を入れて、丁度絃の締まった箏を、軽々と坐ったまま、ぐるりと筆規のように振りかえた便次に、抱えるようにして見せた。
「こんなようにしてじゃぞ。」
私の顔は笑っていたに違いない。鼓村師は割合、細心なところもあるので、箏を振り廻したのを、乱暴したように笑っているのだとでも思いもしたように、豪放のような、照れたような笑いに、また首をちぢめてまぎらわした。
水の清い、石川河の磧に近く庵室をしつらえさせて、昔物語の姫君のように、下げ髪に几帳を立て、そこに冥想し、読書するという富家の女は、石の上露子とも石河の夕千鳥とも名乗って、一人静かに箏を掻きならす上手の名があった。それからまた、横浜から箏を持って習びにゆくという女にもわたしには心あたりがあるので、思わず破顔したのだった。
「共通なところがあるのでしょ。」
と私は言った。それは、たしかに、二女に共通したものがあるのだったが、鼓村師には解せなかった。安坐の上に乗せた箏に、柱をたてながら、
「その小いっこい女は、几帳面で几帳面で、譜をとるのに、これっぽっちの間違いもない。ありゃどうしたことじゃろうかね。箏の音はまた、それとは違うて、渺々としておるので──真の、玉琴というのはああした音色と、余韻とでなければ──」
だが、その玉琴の名手が、なんとしたことか、正午というと、何処でもお弁当を食べだすと、溜息のように、
「それがなあ、汽車のなかででもで──汽車じゃというたところが四十分そこそこの横浜と東京の間で、それも買って食べるのではないのだから、ちゃんと、弁当箱を出すのだからわしの方が恥かしくって、顔見られるようで愁かったが、すまあしてやっとる。見とるとわしも腹が空くが、横浜までは何も売ってはおらんので──」
鼓村師は、大きな口と、小さな眼で笑った。
そう言ううちに膝の上で、箏の調子はあっていた。大きな、厚い、角爪が指に嵌められると、身づくろいして首が下げられた。
私も、ずっと離れて、聴くにほどよい席につき、お辞儀をすると、膝の上に手を重ねた。
渡り廊の方に、聴きに寄っているものたちがいる様子で、父は向うの居間で聴いている気配だった。襖の横には妹たちが来た。
荘重なる音色、これが箏かと思われるほど、他の流とは異なる大きやかな、深みのある、そして幅広い弾奏だった。十三弦は暴風雨を招んで、相模の海に荒ぶる、洋のうなりと、風雨の雄叫けびを目の前に耳にするのであった。切々たる哀音は、尊を守って海神に身を贄と捧ぐる乙橘媛の思いを伝えるのだった。
唄い終ってしまってからも、最後の音が残されていた。心ゆくばかりに弾じたのであろう心足らいに、暫時の余韻をもって絃の上から手はおろされた。
恍惚とした聴者たちは息をつくものもなかった。薄くにじむ涙を、そっと拭きとると、鼻をおさえているものもあった。少時口をきくものもないでいると、鼓村師も満足げに、水の面の方へ眼をやっていた。
五月の潮の、ふくれきった水面は、小松の枝振りの面白い、波除けの土手に邪魔もされず、白帆をかけた押送り船が、すぐ眼の前を櫓拍子いさましく通ってゆくのが見える。
「ああ、よかった。」
誰いうとなく呟やきかわすと、
「あの船も、あっちゃから来たんじゃね。」
鼓村師は、庭へ出れば、安房上総の山脈が、紫青く見えるのを知っているので、ふと、そんなことを言っている。
曲からうけた感銘に、ほろほろとしている主客を、救ってくれたのは、鼓村師の好きな素麺だった。古くからいる、年とった女中は、弾奏のあとで、冷たいものを悦ばれるのを知っているので、大きな鉢へ蕗の葉を敷いて、透き通るように洗った素麺を盛ったのを、そのまま鼓村師の膝の前へ押しつけた。
「これを、みな食べたら、恥かしいがな。」
そう言いながら、一鉢はすぐになくなってしまった。それと同時に、
「あなた様の分は、もう一鉢ございます。」
と、代りの、前のよりも大きい鉢が運ばれて来た。
大きな人が、舞妓でもするようにはにかんで、口をつまんで、スッ、ヘ、スッ、ヘ、と中へ笑いながら、その鉢も引きよせたが、素麺を、するりと咽喉にすべり入れると、先刻の、正午のお弁当の話がまたつづけられることになって、
「その女子が断わっていうのには、先生には、誠に済まないのだが、どんなおりにも、正午の時計と、キチンとおなじに食べつけているので、そうしないと、お腹の具合が悪いというて──何処か悪いところがあるのじゃろうが──」
「お腹に病気がありますの。」
わたしは誠に手軽く答えた。
「なにしろ、お医者に言われると、ちゃんと、もう十年にもなりますでしょう、家にいれば、お午飯は、ビフテキ一皿と、葡萄が六顆ばかり。お母さんが、ちゃんと拵らえて、食べる娘は机の上の時計を見ていて──」
「なんじゃ、あんた、知っとるのか? その女子。」
素麺を滝のように口にしたまま、眼を剥いたのが、黒い顔に、いかにもびっくらしたというふうだった。
「ええ。」
お腹から押し出てくる笑まいを、わたしは呆れている、素麺の上にあるその顔にむけた。
「横浜といえば──そうでなくったって、あんな人は、まあないでしょう、浜子でなければ──」
「そうじゃとも。」
鼓村師は、一飲込みしてから大きく頷いて、
「あんた友達か?」
今度はわたしが説明する番に廻って、ええと言った。
「横浜の家へ着くと、お母さんという人が、御馳走をしたのなんのと、わしでも、どうにもならんかった。可愛いんじゃね、一人娘のようじゃったが。」
「おばさんは、浜子さんのお友達なら、どんな奉仕もするのです。彼処のうちの台所は、とても立派な、調理用ストーブが並んでいるし、井戸は坐っていて酌めるように、台所の中央にあるし、料理は赤堀先生の高弟で、洋食は、グランド・ホテルのクック長が来ていたから、おばさんの腕前は一流です。それに、山谷の八百善は妹の家ですから──」
江戸の味覚は、浅草山谷に止めを差すように、会席料理八百善の名は、沽券が高かったのだった。
「浜子さんが、ムッと黙っているので、おばさんが、その代りにニコニコ、ニコニコして、阿亀さんがわらっているように、例も笑い顔をしてるでしょう。」
「そうや、そうや。」
鼓村氏は、浜子が体が弱いので、転地ばかりしているから、その時持ってゆくのに具合の好い、寸づまりで、幅の広い箏を、正倉院の御物の形ちを模して造らせた話をした。
「箏の裏板へ大きな扉をつけて、あの開閉で、響きや、音色の具合を見ようという試みね、巧くいってくれればようござんすね。」
あの箏の、裏板のバネを鼓村師が考えていることも、わたしは知っていた。
「あれは、わしも期待しています。わしゃあ、日清戦争に琵琶を背負っていって、偉く働らいたり琵琶少尉の名も貰うたりしたが、なんやらそれで徹したものがあって、京極流も出来上ったが、あの人は、なんであんなに、箏にはいっていったものかなあ。」
わたしの眼に、ふっと、一文字国俊の刀が見えた。と同時に、横浜の家の、土蔵の二階一ぱいの書籍の集積が思い出された。
わたしが、知りたいものがあるとき、我儘なわたしは、自分で図書館へ行かずに、かくのごときものがほしく候と書いて手紙を出せば、たちどころに、何の中にかくありましたと、それは明細に、一字一点の落ちもなく奇麗に写してよこしてくれるのが彼女だった。あんまりそれがキチンとしているので、わたしは彼女の芸術が面白くなくなる憂いがありはしないかと、余計な憎まれ口を叩いて、漢方医者の薬味箪笥のように、沢山の引出しがあり、一々、書附けが張りつけてでもあるような頭脳だといったりした。たまには間違えて引出しをあけると、毒薬や、笑い薬なども出て来て楽しいだろうにといった。そんなことも、こと細かに、下書きをした上で、その日の日記帳に書き止められ、しかも彼女の批判がつけられてあるのが、浜子の仕方だった。
しかし、彼女には、彼女らしいユーモアが計らまれ、静かに実行にうつされることもあるのだった。言って見ればある時、年長者や、年下の者や、とにかく浜子の箏に心酔する、友達であり門弟である女人たちが集められた会食の席で、わたしに、
「おやっちゃん、ニャアといってごらんなさい。」
と、並んでホークをとっている浜子がいった。わたしはなんの遅疑もなく、早速ニャアンと彼女の言葉の下にやった。わたしの眼はお皿からはなれてもいないし、四辺の眼なんぞ考えにも入れていなかった。ただ、しかし、可愛らしい小猫の柔しみがなかったので、
「まるでドラ猫だ。」
と、呟やきながら、もいちど、せいぜい小猫らしくやって見た。
と、浜子は、下をむいて、クックッと笑いを噛み殺している。それがとても嬉しそうなのだ。で、お皿を下げに来た給仕人の笑い顔を感じて、わたしは卓の人たちを見ると、みんな、呆れきった眼を丸くしてわたしにそそいでいるのだった。
あッはッははは。とわたしは男のように声を出してしまった。これが計画で御馳走があったのかと、見破ったからだった。浜子は、あたしのニャアンと言うことなど、あたりまえのことで、なんとも思いはしないことは知りきっているのだが、ただ、浜子の友達のなかに、こんなことを、平気でするものがあることを、吃驚するであろうみんなの前で披露して、呆れかたが見たかったのだ。それが思い通りだったので、楽しかったのに違いない。お景物に、わたしが、それがなんなの? といった顔をして、呆れている友達たちの顔を見たことまでが、予期した通りの好結果であったのだ。
「おかしな人で──」
わたしはそんなことを思出しながら、笑うとなおと、穿き好いからといって、太いふとい、まむしのような下駄の鼻緒をこしらえさせて穿いたり、丸髷のシンをぬいて、向う側がくりぬけて見えるような髷にゆったりするので、この部屋に来て坐ると、わたしがこっち側からのぞいて、安房上総が見えるといったことなどを、とりとめもなく言って、
「お父さんは、信州の小県郡の、二百年も連綿としたお庄屋様の家督とりで、廿五歳の青年お庄屋様は横浜へ飛んで来て、野惣という生糸問屋へはいってしまったんで、横浜が大きくなり、野沢屋が大きくなると、総支配人で店を掴る人になったのですが──その利かない気性と、強いものがあるところへ、お母さんは江戸っ児ですの。前川という有名な資産家の、太物問屋のお嫁御になって、連合に別れたので、気苦労のないところへと再嫁して、浜子さんを生んだ時に、女の子だったらば、琴が上手になるようにと、箏をつるした下で産んだのだときいています。お稽古のことで面白いことがあるのです。」
あたしは聴いているままを、話した。両親の秘蔵ッ子には違いないが、母の教えたがるものと、父親の教えたがるものとは、すこしちがっていることや、お母さんは、浜子が小さすぎる生れだちで、弱いのを気にして、運動にもなるからと、踊の稽古をはじめさせたが、次の日、乳母だけがお供をしていって、帰ってくると浜子は、
「踊のおけいこ厭だから、やめてください。」
と、母親にいった。そんなに気がむかないのなら、また、そのうちに行きたくなるまで休ませようと、乳母を師匠のところへ断わりにやろうとすると、
「いいえ、好いの、もうちゃんと来ませんと断わって来ました。」
と、六歳の彼女は言ったものだった。
箏の稽古の方は、箏を父親が好かないので、内しょで弟子入りしたのだった。
師匠の大出勾当は、江戸で名の知れた常磐津の岸沢文左衛門の息子だった。開港地の横浜が日の出の勢いなので、早くから移って来ていたが、野沢屋の主人の囲い者で、栄華をきわめ贅沢をしつくしていた、お蝶さんという権妻のひっかかりだったのだが、そんな縁引きがありながら、盲目のこととて、新入門の弟子の体に触って見たらば、あんまり小さいので、
「これでは仕方がない、大きくなったらまたお出なさい。」
と断わった。
それを、傍らで見ていた大出勾当の母親は、
「なにを馬鹿なことをいうんだ。稽古というものは、教えて見て、弾けるか弾けないかで断わりもするが、小さいから大きいからっていうことはない。大人だって覚えない奴もある。子供だって、覚えようって来たものを、手筋も見ないで帰す馬鹿があるかッ。」
と、巻舌で息子を罵しった。その見幕に、泣き出すかと思った子は、ちょこちょこといって箏の前へ坐ったのだった。
「大出さんは、手ほどきのお弟子ですけれど、浜子さんには敬意をもっていました。いつか、横浜で、その勾当さんの会があったとき、箏を抱えてゆく浜子さんに附いていったらば、行くとすぐ、あの人の番にして、誰も彼も謹聴です。箏のお師匠さんのお盲目さんたちが、コチコチに堅くなって、背中を丸くして聴いていました。ある時、お父さんが、浚っている音色をきいて、待ってくれと、坐り直してから、その後は、間をへだてても、キチンと正坐して聴いたものだといいます。で、そのお父さんが、何かにつけて、御褒美をくださるのに、女の子の、浜子が望むのは、刀なので──」
「刀? これは妙だ。」
鼓村さんはますます興ありげに聴いている。
「ええ、あの人は、幾振りか持っています。そのなかで、思いがけない、今では、国宝級の国俊も、お父さんが東京から買って来て、御褒美に貰ったものだといいます。」
「面白いなあ。当時の横浜は、金がうなるようにあったのだと見える。」
「貿易商が、儲かってしようがなかったのは、弗相場だったといいます。なんにしろ、十六の子に百円の小遣いをもたせて、東京へ遊びによこす──」
「百円? なんで──」
鼓村さんは信じられない顔つきだ。
「東京へ、とまりに来たことがあるのだそうで、四十日ばかり泊っていたのですが、なにしろ、山谷八百善という派手な家業の家ではあり、九代目団十郎のおかみさんは、八百善が実家になっているという親類たちなので、時代は、丁度、明治二十四、五年ごろでしたでしょうから、鹿鳴館時代の直後ですわねえ。でも、浜子さんはそういっていました。父は、あたしが、小遣いをどんなふうにつかうだろうと思っていたのだって。」
「何を買ったかなあ、刀? だが、子供では、他が買わせやしなかったろうが──え、なに、本?」
茶箱に何ばいかの書籍、それを担がせて、意気揚々とおちび少女は帰っていったのだ。
「親馬鹿は感心したろうがにえ。」
鼓村さんは自分も感心したように言った。
「島田に結ってたころ、髭が今に生えてくるでしょ、なんて、からかったけれど──そうそう、こんな話もありましたっけ、佐佐木信綱先生の所へいって、あたくしの友達の、こういう人を連れて来ますと言ったとき、その人ならば、思い違いをしたおかしい話があると、なんでも浜子さんが十五、六の時分ではなかったのでしょうか、錚々たる歌人たちを歌会を開いて招いたときの話で、佐佐木先生も招ばれていったが、どうも、その婦人は、年をとった偉い人なのだろうと出かけてゆくと、立派な家で、集まっている人たちも、浜子刀自とは、どんな人かとみんなが堅くなっていると、現われたのは、紫の振袖を着て竪矢の字に結んだ、小っこい小娘だったので、唖然としてしまったが、その態度は落ちつきはらっていたと──」
あははと、笑いだした鼓村さんは、突然、
「あれ、あれ。」
と、わたしに指差して教えた。家のものたちが、土手のはずれの方へいって、ワイワイ騒いでいるのだった。老父も座敷の前の庭を横ぎっていった。
「どうしたのですか?」
鼓村さんは立っていって、挨拶をしながら聴いた。
「いや、家鴨が河へ出て、沖の方へゆくそうで──」
「やあ、じいやさんが船を出した。」
と、言いながら、鼓村さんは庭下駄をつッかけて、老父のあとへ附いていった。
椽へ立って見ると、どうやら、河口へ出た家鴨を、通りがかりの小舟が、網を投げかけたので、驚ろいて橋の下を越して、沖へ出ていったものらしかった。
白い大きな鳥が、青い潮にういているのがくっきりと見えている。対岸の商船学校から、オールを揃えて短艇を漕ぎ出してくるのが、家鴨とは反対に隅田川の上流の方へむかって辷るように行く。ベカ舟に乗って、コイコイコイコイと、家鴨を呼んでいるじいやに、土手の上で、危いから帰って来いと呼んでいるのを、橋の上の人が、大声で伝えているものも見える。
庭へおりて見ると、小篠の芽が、芝にまじって、健やかな青さで出ていた。そのかげを赤い小蟹が、横走りに駈けたり、鋏で草を摘んで食べている。
浜子さんの噂をあんまりしたが、あれで、鼓村さんに浜子という人の並々でない気性がわかってもらえたかしらと、かいなでの弟子と見てもらいたくない気で、よけいなおしゃべりをしたのが、軽い憂鬱でもあった。
彼女の家は、横浜の、太田初音町の高台にあって、彼女の書斎の二階からも、下の広間の椽側からも、関内のいらかを越して、海が遠くまで見えるのを思ったりしながら、わたしは、蟹を下駄のさきでおどろかしていた。
二
新富町の新富座の芝居茶屋に──と、いっても、震災後の今日では、何処のことか解りようがない。
銀座から行って、歌舞伎座の次の橋を越して、も一ツさきに築地橋という電車の止まるところがある。
この、築地橋の下を流れる川の両岸は、どっちから行っても佃島へむかう、明石町河岸へ出た。浜方の魚場気分と、新設された外人居留地という、特種の部落を控えて、築地橋橋畔の両岸は、三味線の響き、粋な家が並んでいた。夕汐の高い、靄のしめっぽい宵など、どっち河岸を通っても、どの家の二階の灯も艶かしく、川水に照りそい流れていた。咽ぶような闇のなかを、ギイと櫓の音がしたりして、道路より高いかと思うような水の上を、金髪娘を乗せたボートが櫂をあげて、水を断ってゆくのだった。
その、橋の向う角の一角を、東京の者は島原といった。そこにある新富座という劇場のことも、島原という代名詞でいった。
あたくしが幽かに覚えているのだから、明治も中期のことであったろうが、この劇場と、芝居茶屋の前に、道路に桜が植えられ、燈籠がたったほどこの一角は、緋もうせんと、花暖簾と、役者の紋ぢらしの提燈との世界であった。尤も、演劇改良の趣意で建設当時には、花暖簾も提燈もやめさせ、板の看板だけにしたというが──
芝居の裏通りや附近には、有名な役者たちが住み、音曲の方の人たちも、その一角のなかかその近間にいた。櫓下芸妓もあるといったふうで、四囲の雰囲気は、すべてが歌舞伎国領土であった。
新島原という名は、京都で有名な、島原遊廓から来たものであったろう。あまり短命だったので、知れていないが、明治二年に、あの土地へ遊廓が許されて、新島原が出来かかったのだが、次の年の秋に大暴風雨があって、中万字という妓楼が吹き倒され、遊女が八人も怪我をしたので、遊廓の未完成のまま立退きを命じられた。
新富座の前名の守田座は、その島原へ建った。もともと、遊廓と芝居は離れない因縁をもっていて──歌舞伎の創業時代に遊女が小屋がけをしたことなどをいっていると、それだけでも長くなるが──江戸開府のころ、日本橋区人形町附近の、葭の生えているような土地を埋めたてたりして、葭原という廓が出来、住吉町、浪花町などと、出身地の地名をかたどった盛り場となり、その近くへ芝居小屋が建築されたそれが、いわゆる三座と称せられた江戸大劇場の濫觴で(中村座、市村座、山村座。そのうち山村座は、奥女中江島と、俳優生島新五郎のことで取りつぶされた)、堺町、葺屋町にあった。大火後、遊廓は浅草田圃へ移され、新吉原となり、芝居だけ元の土地に残っていたが、ずっと下って天保十三年に、勤倹令を布いた幕府の老中、水野越前守が、中央に芝居小屋などのあるのはもってのほかのこと、御趣意に反くというわけで、浅草猿若町へ転地させられた。
そのころ、京橋木挽町にあった守田座が、猿若町に立並んで三座となったが、この、守田座は、委しくいえば、もとから、芝居は四座あって、守田座だけが別の土地に離れていたので、これも古い名ではあるが、十一代目を継いだ──下総あたりのお百姓から出て、中村翫右衛門と名のった、あまり上手でない役者が座元の養子になり、その子の十二代目守田勘弥を、子供の時分からその道に暁通するように育てた。
その人が、演劇道に有名な守田勘弥という策士で、明治維新後の情勢を見て、帝都の中心地となる京橋へ劇場進出を目論んだ。元来木挽町は、以前の土地ではあるし、木挽町へ劇場を建てようという運動は、それよりも一足さきに、これもおなじ土地にあった河原崎座が采女が原へ新築許可を願い出ていた。これはたぶん、目下の歌舞伎座の辺であったろう。──河原崎座主、河原崎権之助は、九世団十郎が、市川宗家に復帰しない、養子にいっていた時の名──現今でもあのあたりは、歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場が鼎立している。
守田座移転は明治四年だというが、新富町新富座という、堂々たるものになったのは、九年霜月末に焼けてから再築し、十一年春に、西南戦争を上演して大入をとってからだ。
明治十年の西南戦争は、明治政府の功臣たちの間の争いであり、兵の組織も新式になってからであるから、薩南の地であったとはいえ、朝野を挙げて関心をもっていた。西郷隆盛は、江戸人が恩人として尊敬し、愛していた大人物だった。その人の最後を知ろうとするものが殺到したのだから、大入りだったわけだ。しかも、この戦争劇が、守田勘弥を上流人に接近させる便宜を得させたのだった。
芝居人と紳士、学者との交際が対等になった。それは明治の諸政一新という御思召により、四民平等の恩典に浴したためではあるが、西南戦争劇上演のために、薩南の事情を明らかにするには、当時の顕官に接近せざるを得ない。もとよりその機を望んでいた勘弥が、取り逃すようなことはしない。新富座主の豪遊する、木挽町の待合は、明治顕官の遊ぶところで、当時の待合のおかみ、芸妓たちは、お客の顕官を友達のように思っていたりするので、勘弥とその人たちを結びつかせた。
時は、洋行帰りの新人や、学者たちの間に、丁度演劇改良熱の勃興しつつあったおりで、勘弥はその機運をいちはやくも掴んだのだ。で、新富座本建築のときは、四十二軒あった附属茶屋を、大茶屋の十六軒だけ残して、あとは中茶屋も廃した。間口の広い、建築も立派な茶屋だけ残したのだから、華やかなはずだった。
つい十年ほど前の、旧幕時代には、芝居者は河原乞食と賤しめられ、編笠をかぶらなければ、市中を歩かせなかったという。差別待遇が甚しかったため、七代目団十郎(隠居して海老蔵、白猿と号す)は、
錦着て畳の上の乞食かな
と白したほどのばからしさが、新富座開場式には、俳優の頭領市川団十郎をはじめ、尾上菊五郎、市川左団次から以下、劇場関係者一同、フロックコートで整列し、来賓には、三条太政大臣を筆頭に、高級官吏、民間名士、外国使臣たちまで招待したのだった。
それからの新富座は、外賓接待には洩らされない場処となって、ドイツ皇孫ヘンリー親王の来朝の時から、我国の宮殿下方もお揃いにて成らせられ、その時の接待係は、鍋島、伊達の大華族であり、そのあとへは香港の太守、その次へは米国前大統領グラント将軍という順に、国賓たちを迎えた。
欧風熱は沸騰して、十二年の九月には、外国役者の一座、英、米、仏人混合の一座をかけたりしたが、言葉がわからないので一般には不向きで不入りだったという、種々の経緯はあったが、新富座は劇道人の向上にはたいした役割をもった。その後、麻布鳥居坂の井上邸で、天覧芝居という、破天荒の悦びをもつことになったのだ。
読者は、本文と、関係もなさそうなことを、なんで長々と書いているのだと、お思いになるかもしれない。この辺で、閑話休題と書くところなのだろうか、実はなかなか閑話休題どころではない。
明治十二、三年から、浜子の生れた十四年以降の、劇界の開展は、こんな時代だったのだが、すべての世の中も、またこんなふうな発展進歩の途をとっていた。新富座主が新機運を掴んだ機智と並んで、劇界の大明星であった、九世市川団十郎の人格、識見──伝統的大立物の風格が、当時の学者、識者、貴顕たちに、自分たちの埒外の分野から同格者を見出した欣びを以て尊敬し迎えいれられたことが見逃せない。団洲とよび、三升とよび、堀越と呼び、友達づきあいの交わりを求め許した。そして、団十郎以外にも、彼にならんで名人菊五郎のあることも知った。
「勧進帳」その他が、明治天皇陛下、皇后宮、皇太后の宮と、天覧につづき台覧になったことは、劇界ばかりではない、諸芸の刺戟になったのだ。ことに、堀越家とは姻戚に、荻原浜子の母方はなっている。浜子が八歳の明治廿一年には、末松青萍氏たちの演劇改良の会が(末松氏は伊藤博文の婿)「演芸矯風会」に転身して、七月八日に発会式を、鹿鳴館で催し、来賓は皇族方をはじめ一千余名の盛会で、団十郎氏令嬢の、実子と扶貴子が、浜子とあまりちがわない年齢で、税所敦子──宮中女官楓の内侍──の作詞を乞い、杵屋正次郎夫妻の節附け、父団十郎の振附けで踊っている。
ここに、見逃せない事実は、女性進展の機運が、著るしくみなぎって、こうした方面にも、立ものの娘だからということばかりではなしに、女優というのが、なくてはならないと、たとえ泰西の模倣そのままでも、論じられていもしたのだ。
そんなことを細かく言っていたらば、一篇の、風俗史的な女性発展史になってしまうから、それこそ閑話休題であるが、面白いのは、新富座が越して来て間もない、明治八年ごろの、築地風俗に、こんな日常時小話がある。
当時の新聞からとって見ると、
雪の肌に滴々たる水は白蓮の露をおびたる有さま。
艶々したる島田髷も少しとけかかり、自由自在に行きつもどりつして泳ぐさまは、竜の都の乙姫が、光氏を慕って河に現じたり。また清姫が日高川へ飛びこんで、安珍を追ったときはこんなものか、十七や十八で豪気なもの。
と、合引橋の泳ぎ場で、新富町の寄席、内川亭にいる娘が泳いでいたのを、別品女中を連れて游ぎに行くと出ている。
それも無理のないのは、その辺、紅毛人の散歩場なのでもあるし、つい先ごろまでは、人中で肌などあらわすようなことは、死んでもしないというふうに女はしつけられていたのだから、白昼衆目の見る前で、島田の娘の水泳ぶりには、記者も驚いたのであろう。
だが、また、佃島から、渡舟でわたって来た盆踊りは、この界隈の名物で、異境にある外国人たちを悦ばせもした。そうかと思えば、島原の芝居は炎暑で不入り、元金七千円金が、昨日の上り高では千五百円の大損、それに引きかえて、同所の、火除け地へ、毎夜出る麦湯の店は百五十軒に過ぎ、氷水売は七十軒、その他の水菓子、甘酒、諸商人の出ること、晴夜には、半宵の物成高五百円位、きわめて景気よしともある。
なんと、蝦夷錦のように、さまざまな色彩の錯合ではないか──それらの人々の頭の上を照らすのに、
美なるかな、明なる哉、街頭に瓦斯ランプ立つ。これで西洋の市街に負けぬという見出しで、
美なるかなランプ、明なるかなガスランプ、一度点じ来て、我々の街頭に建列するに及びてや、満街白昼の観をなさしむ。これに次ぐものはオイルランプなり、これまた一行人をして、手に提燈を携ふの煩とわかれしむ。
といっている。新富座はもとより新設備を誇りにしている。当時流行の尖たん花ガスは、花の形ちをした鉄の輪の器具の上で、丁度現今、台所用のガス焜炉のような具合に、青紫の火を吐いて、美観を添え、見物をおったまげさせていたのだ。
そこで、この間、明治四十年に至るまでには、新富座興亡史があり、歌舞伎座が出来上り、晩年は借財に苦しめられた守田勘弥が歿くなってしまうと、新富座は子供芝居などで、からくも繋いでいるような時もあった。
その新富座の茶屋丸五の二階。盛時を偲ばせる大きな間口と、広い二階をもったお茶屋が懇意なので、わたしは自作の「空華」という踊りの地方の稽古所に、この二階をかりてあてた。
試演は歌舞伎座で催すのだが、沢山の人を集めた和楽オーケストラなので、広い場所でなくっては稽古が出来ない。この丸五の二階で、幾日も幾日も、みんながお弁当を食べた。
主として箏をもって、この歌劇風の「空華」の気分を出そうという最初の試みなので、作曲者の鈴木鼓村氏は、私の母がいる箱根へいって、頭を冷し、気分を統一して、そして漸く出来あがったのだった。
それを創意のまま鼓村さんが弾くのを、受取ってくれるのが浜子であった。彼女は、一度聴いていて、膝の上で右の薬指を軽く打っているが、直に正確な譜にうつした。鼓村さんは弾いてしまうと、その次には、例の、気分によって弾奏の手がちがうのだった。
末の方へいって伴奏に三味線がはいるのを、長唄研精会の稀音家和三郎が引きうけていた。少壮気鋭だった三味線楽家は、この試みが愉快でならないのだが、そんなふうで、鼓村さんとは合せるたびに、ぴったりしていたのがそう行かなくなる。
箏の方の弾手も多い。長唄三味線の方も多い。歌は、音蔵という立唄いの人の妹で、おかねちゃんという、それは実に好い声の娘と──その人は惜しくも亡くなったが──その姉さんとが主であった。岡田八千代さんも箏の方を助けてくれた。
とにかく、私の友達は、この仕事にみんな手つだってくれた。踊りの方は市川猿之助が主役、女の方の主役は、堀越実子──市川翠扇という女優の名で出演し、七人の舞女は、そのころの新橋七人組といわれた、小夜子、老松、秀千代、太郎、音丸、栄竜、たちだ。この組はこの組で、浅草千束町の市川段四郎氏自宅の舞台と、歌舞伎座案内所の表二階とで稽古していた。
楽座の方は、曲の打合せが重なるほど、面白い出来ごとがあった。とうとう、ある日、箏と三味線の正面衝突となって、和三郎がカンカンに怒り出す。鼓村さんは、幾杯もコップの水を呑んだが、それでも熱して、そら豆のゆでたのを盛った大どんぶりのからになったのに、これに水をくれといって、水が運ばれた来たのも知らずに弾いていたが、
──そんなこというて、わしゃあ──
と、言うが早いか、どんぶりの水を口にもってゆかずに、一、二分苅りの赤い熱頭の上へ、こごんだまま、ザブッとぶっかけてしまった。
箏の上である。夕立ちのように水は落ちた。それも知らないで彼は熱中している。和三郎は小腕をまくって、ブルブル慄えながら、冷静をとりもどそうとして、煙管に火を点けたが、のぼせているので火皿の方を口へもっていった。
みんな、座中のものは、びっくりしたように、おかしさもおかししではあるが、気の毒さで押だまってしまっていた。
と、その時、その騒ぎと引き離れて、膝の上に箏尻を乗せ、片手で懐紙に書いた譜を見ながら弾きだしたのは浜子だった。彼女は、喧嘩には捲きこまれず、両方の言い分をきいて、両方の譜を、その争いのなかからうつしとって、合うように接合してしまっていた。
浜子が弾きだすと、和三郎は煙草を止め、鼓村も弾く手を伏せて聴いた。
「あ! それなら好い」
そう叫んだのは和三郎だ。
「ああ、そや、そや。なんじゃ、それじゃったわい。」
と、鼓村さんも叫んだ。
みんなの顔に、ホッとしたくつろぎが浮び、同時に誰も彼もの笑いが爆発した。
「なんのこった。」
と、呟きながら、和三郎は三味線をとって、浜子の方へ、せわしなくむき直った。鼓村さんは、例の首をひっこめて、きまりわるそうに、箏にかかった水の始末を、弟子たちにしてもらった。
みんなが、急に景気よく、しゃべったり笑ったり、揶揄したりするなかで、浜子だけは、別天地にいる人のように、すこしも動揺されず、直に最後まで完全につくりあげてしまった。
「ほんのこというと、まだよう、まとまっていなかったのじゃ。」
鼓村さんは、自分だけでなら、どんなふうにも弾けるので、癖になってしまってて、困ると自分でこぼして、気持ちが軽々したように、
「浜子さん、有難う有難う、助かったわい。」
と機嫌よく言った。
その時、わたしは、浜子は、ひっこみ思案なのだが、大きなものの作曲も出来ると信じた。
千束町の喜熨斗氏の舞台へ、私と、浜子と鼓村さんと翠扇さんとが集った時、猿之助役の大臣の夢の賤夫と、翠扇役の夢に王妃となる奴婢とが、水辺に出逢うところの打合せをした。猿之助の父は段四郎で踊りで名の知れた人、母のこと女は花柳初代の名取で、厳しくしこまれた踊りの上手。この二人が息子のために舞台前に頑張っている。鼓村さんは息子が踊りで叱られるのまでハラハラして、その方へ気をつかうので、琴柱をはねとばしたりした。
「おや、おや、どうも。この方が乱れて──」
と、温厚な段四郎は、微笑しながら飛んだ琴柱を拾いに立った。可愛らしい鼓村は、大きな、入道のような体で恐縮し、間違えると子供が石盤の字を消すように、箏の絃の上を掌で拭き消すようにする。
浜子の方に狂いはない。その日の帰りに、千束町を出ると夜暗の空に、真赤な靄がたちこめて、兀然と立ちそびえている塔が見えた。
「あれは、なんだろう。」
私は、すこしぼんやりしていて、見詰めて立ちどまった。
「公園裏の方にあたるから──十二階でしょうよ。」
「ああ、凌雲閣?」
まあ、なんて綺麗なのだろうと、二人は夜の、浅草公園の裏から見る、思いがけない美観に見とれた。
──楽劇「浦島」!
私の頭のなかに、いつか手をつけて見たい、大きな望みがその時、かすめて過ぎた。
楽劇「浦島」の一部分上演を、坪内先生から許されたのは、それから二、三年後だった。
浦島は六代目菊五郎、狂言座第一回を帝劇で開催するときだった。
作には、箏の指定はないのだ。各種の三味線楽と、雅楽類だったのだが、私は、おゆるしをうけて、浜子の箏を主にして、三味線は一中節の新人西山吟平、雅楽は山之井氏の一派にお願いしようとした。
だが、なんといっても箏の浜子を説きおとすことが一番の難関なのだ。
わたしはぶらりと行って、なんでもないような顔をして、彼女を散歩に引き出した。伊勢山の太神宮の見晴しに腰をかけた。
「何をそんなに眺めているの。」
「海を。」
彼女は、何かわたしが計画んでいるなと見破っていた。わたしが突然に行って、歩こうなぞということから例外すぎるのだったから。
「海なら、佃からでも、あたしの宅の座敷からも見えるのに。」
「うん、でも、歩いて見たかったの、芒村から、横浜新田を眺めた、昔の絵が実によかったものだから。」
そんなことつけたりで、先刻、横浜駅前の(現今の桜木町駅)鉄の橋を横に見て、いつもの通り、尾上町の方へ出ようとする河岸っぷちを通ると、薄荷を製造している薄荷の香いが、爽快に鼻をひっこすった、あのスッとした香を思いだして、私は一気に言った。
「坪内先生の浦島ね、竜宮のところだけ、作曲してもらいたいの。」
「だめ、だめ。」
浜子は強い近眼鏡を光らして、呆れたように、
「あなたは、あたしを買いかぶりすぎている。」
「いいえ、臆病だとさえ思っている。他の人は、七、八分もった才能を、十二分にまで見せている。浜子さんは、十二分にもっているものを、一、二分しか見せない。それも、よんどころない時だけにね、けちんぼ。」
それっきりで、二人は黙りあって、いつまでも腰をかけていた。日が暮れかかると、どっちからともなく立って歩きだしたが、口はきかない。
三
日はすっかり暮れかけていた。黙ってさきへ立って、浜子が導びいた広間のうちは、一層たそがれの色が濃かった。
浜子は、壁によせて立ててある「吹上げ」という銘のある箏に手をかけていた。「吹上げ」の十三本の絃の白いのが、ほのかに、滝が懸かったように見えている。
吹上げの浜の白ぎく
さしぐしの夕月に──
とか、なんとか、わたしが即興詩を与えたことがあったが、その、朝と夕べとの小曲の作曲が、どうも気に入らないといって、どうしても聴かせてくれないので、わたしも、その歌を忘れてしまっている箏だった。
浜子は言った。
「調子は?」
それは、やるともやらないとも、返事を口にしないが、たしかに「浦島」の作曲についていっているに違いなかった。
「変えなければいけないでしょう、今までになかったのでもよろしい。そして、音を複雑にするために、高いのと低いのがほしい。以前からある替手というものとは違った意味で──」
箏の調子を低くしろということは、これは凡手には言えないことだ。限りのある柱のおきかたであるから、低くするには、絃の張りかたをゆるめるよりほか手はない。してまた、ゆるめた絃は最も弾きにくいのだ。第一、爪音が出ない、下手に強く爪をあてれば柱が動き出す。
「荘重な音を出す工夫は──」
鼓村師の独特の爪でなければ──だが、鼓村師のはまた格別な品だ。象牙の、丸味のある、外側を利用して、裂断た面の方に、幾分のくぼみを入れ、外側は、ほとんど丸味のあるままで、そして、爪さきの厚味は四分もあるかと思われる、厚い、大きな爪だ。それなればこそ、撫でるような、柔らかな、霰のたばしるような、怒濤のくるような響き──あの幽玄さはちょっと、再び耳にし得ない音色だった。
「あああれは、あの人でなければ出来ない。」
そうはいったが、浜子も、その事も考えてもいたのだ。
「この音色で、非力なわたくしの爪音が、どこまで達しるかしら。」
充分に、絃と、柱との融合を計ったうえ、浜子は研究の態度でいった。やれるかやれないかは、この、音の響きひとつであるという真剣さが溢れていた。
私は、縁側の障子を開いた。高みから見る横浜関内の、街々の灯は華のようにちらめいて、海の方にも碇泊船の燈影が星のようにあった。次の間の境をあけると、家の人たちは、二人でむっつり帰って来て、燈もつけない室で、箏をとり出して、弾くのでもなく、何かもずもずやっているので、何ごとかと案じていたように、そっと来て様子を見ていた。
「こんど、菊五郎と、狂言座という研究劇団を組織して、帝劇で、坪内先生の楽劇『浦島』をやらせて頂けるので、浜子さんに、箏を引受けてもらいたいので──」
と、私は説明して、
「やってもらえるか、もらえないか。この音が、何処まで響くか──出来る出来ないより、きこえないようなものが弾いたってしようがないというのです。」
そう言い足すと、浜子は、その通りというように、絃に触れながら、頷いた。
浜子のお母さんほど好い人はない。そして、浜子の養子さんの賢吾さんもまた、それに劣らずよい人で、浜子の芸術に尊敬をもっている。
お母さんは奥深い土蔵前に陣どり、賢吾さんや、女中たちは、外へ飛出した。坂の下へいったり、邸の裏へ廻ったり、ずっとさきの角まで行ったりして、只今は低く、只今のはハッキリと聴えたと、幾返りか報告した。
聴えないというものはない。箏の音とは、はッきりわかりませぬが、響きはきこえましたと、ずっと、さきの方へいったものまでが知らせた。浜子は、ほ、ほ、とそれが例の、こごむようにして笑って、
「あなたへの同情は、素晴らしいものだ。」
それが、では、やりましょうという、返事のかわりなのである。
「まあ、まあ、まあ。そうでございますか、浜さんが、やると申しましたか?」
顔中が、笑まいでくずれそうにいう母御へむかって、
「あなた方は、おやっちゃんが来たときから、気持に縛られてしまっていたのですよ。」
と、もう彼女は、楽劇「浦島」の初版本を出して来て、わたしのと突きあわしている。
改めて私は、もう一度、一番低い音をきかせてもらった。
「この絃を、もう三本か五本足して、箏の丈を、もう一尺ばかり長くして見ようか。」
私の空想は飛拍子もないことを言い出す。と、浜子は咄嗟に、
「わたしというものを、生み直させなければ、それは不可能でしょう。」
彼女はクックッ、おかしそうに、機嫌よく笑っている。わたしは、人並より小さな彼女を見直していった。
「しようがないな。」
「ほんとにしようがない。これで勘弁しといてもらいましょう。」
大正三年の二月、狂言座は、夏目漱石、佐佐木信綱、森鴎外、坪内逍遥、という大先輩の御後援をいただいて、鴎外先生は新たに「曾我兄弟」をお書き下さるし、坪内先生は、「浦島」の中之段だけ、めちゃくちゃにいじるのを御寛容くださるし、松岡映丘氏は、後景、衣装を全部引きうけ、仲間になって下さった。これは、前回に書いた舞踊研究会の「空華」の時、松岡さんと、私の好みと、鈴木鼓村さんの箏曲とがぴったりしたので、松岡さんが進んで会員となられたのだが、今度は、その松岡さんが随分お疳癪で、日文、矢ぶみで、わかるのは君だけだろうという詰問状がぞくぞくと来た。ずっと後になってから、
「わたしも年をとったから、もう疳癪はおこさないが、時雨さんの疳癪もたいしたもんだ。」
なぞといわれたが、過日、『源氏物語』劇化について、随分お骨折なされたにもかかわらず、良い結果を見なかったあとで、氏の顔を見た時に、当局の許可不許可にかかわらず、芝居道というものがどんなもので、疳癪を起してもどうもならないということを、さぞ不味にお味いになったことも多かったろう、当年の疳癪など、芸術家としての疳癪で、むしろ、思出は悪くないと思った。
が、そういう大規模の中幕「浦島」の竜宮での歓楽と、乙姫との別れの舞踊劇は、浦島の冠りものとか、履とかあまりに(奈良朝期の)実物通りによく出来たので、首が動かせずさすがの菊五郎も踊れなくなってしまったりして、箏の作曲の評判はすばらしくよかった。
*
「浜子さん、あなたは、自分の箏を、もっと生かして見る気はない。」
病弱であった私は、何かしら、精一ぱいのことをしていなければ、生きている気のしない気質だったので、躯の弱い彼女に、生きているかぎり、力一ぱいのものを残させたい気がして、ある日、差向いでいるときに言った。
「それは、願うことだけれど、──出来るかどうか。」
そんなこんなで、彼女の箏曲を聴いてもらう会をつくるようになった。麹町区有楽町の保険協会の地下室の楽堂で、大正九年に開催したのがはじめで、震災の年まで三回つづいた。私は文壇の人に主にお出を願った。
浜子は、彼女の耳で、彼女の心で、鈴木鼓村の箏曲を認め師事したが、彼女はいちはやくも、朝鮮から帰り、上京したての宮城道雄を若き天才と許していた。であるから、この浜子の箏を聴く会の、第一回だか二回目だったかの時、宮城氏に助演を乞うて、「唐砧」のうちあわせは、真に聴きものだった。会が終ると、彼女は眼の暗い宮城氏の手をとって、それは実に幸福そうに自動車へ導いていった。そして、花束を傍におきそのまま宮城氏を送っていった。
浜子を主席にした卓へ帰って来たときの彼女は、実に生々して、はじめて見せる顔だった。まさに、この時分の彼女の爪音には、彼女の細い腕から出るものではない大きな、ふくみのある、深い、幅の広い音が出ていた。
「浜子は巧い。」
「浜子さんの箏は好いなあ。」
何処でも好い評判だ。
菊五郎の、芝公園の家では、なんでも、しんみりと、浜子と宮城氏との合せものを聴きたいというので、ある夜、その会合があった。実際、あんな好い気持のものを聴く機会はそうあるものではない。と、今でも思出すほど、宮城氏の三絃と浜子の箏とが、流れる水のように、合し、むせび、本流となり、あるいは澱む深味へ風が過ぎてゆくようになったりする音色は、曲が止んでも、弾いたものも聴くものも、消えてゆく、去りゆく音を追って、すぐ、果敢なくも思出となってしまう脆さを、惜しむ思いにホロホロとする気持に浸っていた。
朱絃舎──そんな名を選んだのも、その時分のことだった。「朱絃」という名の定まるまでには、どんなにさまざまの名がえらまれたか知れない。私の大形ブックの幾頁かも、古い詩句の中から、およそ、これはと眼にとまり、心にとまるものを抜きだして、書いておいたか知れないのだった。
前にも書いたかも知れないが、彼女が、何処か『源氏物語』のなかの、明石の上に似ているので──気質もそうであれば、箏の名手でありながら、我から聴かそうとは決してしない。それに、容貌も立ちまさっているのではないが、人柄が立ちまさって見える点など、私は、彼女にそんな事をいったこともある。彼女もその評は、嬉しくないこともなかったのだ。そしてまた、彼女の趣味も、その精神は、王朝時代のものであった。私は、もちっと古く遡って、もっとずっと、今日よりも新らしくと言うので、ともするとくいちがうのだが、「朱絃」は、ともかく納まった。彼女の門下はみな、朱絃──朱い絃の十三絃をもちいることにした。
覚悟はよいか? そんなことばではないが、私は時おり、もはや、後退してはならないと、生活に余裕のありすぎる彼女に、回避的になりがちな用心癖を警戒した。が、それほど熾烈に、芸術的良心をもたぬ人々の間には、彼女が軌道に乗って、乗りだしてゆくのが不安にもなった。古い側の人の悦びは、困らない奥さんの芸であって、名人だとされればそれだけでよいというようなところもあった。また、あまり彼女を惜みすぎて、名物茶入れのように箱に入れて、あんまり人目に触れさせないのを、もっとも高貴であると考えるものも出来てきた。
彼女は私にむかって、若い夫人をもって、物質のためにいらいらしていた鼓村さんのことを、よく、こんなふうにいった。
「鼓村さんが、盲目になったら、どんなに名人になるだろうに。」
と、わたしはすぐ、
「浜子のうちが金持ちでなくなると、どんなにこの人は好くなるかしれないだろう。」
その時分のことだった。市川猿之助が、明治座で、「虫」という新舞踊を上演したいが、尺八と箏でやって見たいと相談をうけた。「空華」の時のこともあるし、箏は浜子に頼みたいといった。
オー・イエス! 私は嬉しく心楽しいとき、よくこんなことをいう。猿之助もよく踊らせたい。それに、劇場で、箏を主とし、しかも、あの、芸術的香気の高い、いわゆるお賑やかなケレンの多くない、まことに、どっちかといえば手のこまない、一本一本絃の音をよく聴かせようとする、テンポの早くない箏を、用いさせようというのには、よほど劇場当事者によい印象を与えていることを思わなければならない。これは、真の箏曲というものを、一般に認識させる上に、非常な良好な機会だと思った。しかし、また、冷静に考えて、「虫」であるというには、尺八が主になることもあり得べきことだが、尺八ばかりではまとめてゆけないから、ある部分は尺八に譲っても、結局箏を主にすることになると考えた。
猿之助も、その間のことはよく知っている。
「浜子さんをお願いする以上、あの方の芸術、あの方を、いわゆる芸人あつかいには決してしません。あの方が、好意をもって出てくださることを、『虫』は別番附にしますから、あの方の待遇は別に御出演下さる口上を書いて添えます。座方からも、決して失礼のないように、楽座の席も別につくらせます。それでもいけなければ、作曲して下さるだけでもよいから。」
私は、猿之助の気持を嬉しいと思った。そこまでに事を運び、主張を通すのは、なかなかな誠意でなければ出来ない。
「さあ、浜子さん、作曲してあげるかあげないか、出演は第二の問題。」
と、私は厳く言った。なぜなら、この位な皮切りをした方が、彼女をお道楽芸にしておこうとするものへの、決戦的な──といおうか、大切にしている腫ものへの大手術だと思ったからだった。
ともあれ、その稽古所と、打合せの場処をつくらなければならない。私が、佃島の家にいることがすくなくなって、新に、母の住むようになった、鶴見の丘の方の家にいたし、佃島では出入りに不便でもあるので、小石川に大きな邸をもって、会計検査院に出ていたお父さんが歿なり、家督の弟御が役の都合で地方にいるので、広い構えのなかに、ポツンと独りで暮している、若い時分は、詩文と、名筆で知られていた、浜節子という、これも浜子の古い仲良し友達で、朱絃舎の一員である人の、邸の表広間を借りることにした。
で、便次に、朱絃舎の門弟といえば、浜子の箏の耽美者である、最も近しい仲の人たちばかりだった。それらが密接なつながりで垣をつくり、師の芸を盗むどころか、師の芸は伝えられないものとしてあがめている。この、浜節子さんは、年少のころから片上伸氏たちを友人にもっていたような、浜子には学問の友達である。彼女が泊りがけで、箏の稽古に横浜まで来る時には、リの字のようにふとんを敷くのだと笑った。節子さんは娘時代には、一反半なくては、長い袖がとれなかったという脊高のっぽ、浜子は十貫にはどうしてもならなかったか細い小さな体だった。私の妹の春子も、泊り込みの通い弟子で、浜子のお母さんからは料理、浜子からは箏を、ずっと教えてもらっていた。
春のお魚は鰆、ひらめ、などと、ノートさせられて「今日午後六時の汽車にて帰す」と浜子が書き添え、認印を押してよこした年少のころ、浜子の母人はホクホクして、
「なんて可愛い、おとなしい子なのだろう。」
というと、浜子は、
「おしゃま猫が、いつまで猫をかぶるかしら。」
と笑ったりした。その春子も成人して、ぐっと逞しくなってしまっていた時、「虫」の作曲の顔寄せがあったのだった。
金屏の前に、紫檀の台に古銅の筒の花器、早い夏菊の白が、みずみずしく青い葉に水をあげていた。深い軒に、若葉がさして、枝の間から空は澄んで見えた時節だった。好い毛氈の上に幾面かの箏が出されてある。猿之助は、黒の紋附きの羽織に袴をつけて、
「荻原さん、聴入れて頂きまして、ありがとうございます。」
と、手をついていった。浜子も丁寧におじぎをかえした。
であるから、いかなる異変があっても、この約束は破れないと、私は信じた。が、遅れてはいって来た春子は、いかにも腹が立つように、苛々そこらを歩いて、唾を吐いたりした。猿之助は帰ったあとで、尺八の方の人が残っていたが、それも帰ると、浜子の芸術を冒涜するということを、彼女は雄弁に泣いて諭めた。
これは、春子を通して、浜子の周囲一同の代弁であったのかもしれなかった。後から来た浜子の手紙でも知れた。私は、それを、無理とは思わないが、世間見ずな思い上りだと思った。若い猿之助の悲憤を思いやった。慰めようもない思いでわびた。そのかわりに違約の責をひいて、私は浜子と絶交すると言った。
猿之助からの返事は、小生ゆえに、長い友達と絶交してくれるなというのだった。
私は、以前から箏曲では「那須野」が、すこしの手も入れないで、あのまま踊になるということをいつも言っていた。それで故尾上栄三郎が「踏影会」を市川男女蔵とつくった時に、浜子の地で上演したことがある。芒すらあまり生えない、古塚の中から、真白の褂を着て、九尾に見える、薄黄の長い袴で玉藻の前が現われるそれが、好評であったので、後に、歌舞伎座で、菊五郎が上演しようとし、地の箏は朱絃舎浜子にと、随分と望み、浜子もその心持でいたのだが、その実現は見なかった。
ともあれ、箏曲の劇壇への進出は、朱絃舎浜子を嚆矢とする。
*
大正五年世界大戦の余波は、我国の経済界をも動揺させた。横浜開港の時からの生糸商、野沢屋の七十四銀行の取附けとなり遂に倒産した。
浜子の家では、当主賢吾氏が、子飼から野沢屋の店に育ったので、生糸店とは別会社の、他の重役たちのように策を施さなかったので、父親譲りの財産は、無償働らきのようにお店へかえしたとおなじことになって、預金はそのままになってしまった。しかも、浜子の父平兵衛が、長い間支配人として、どんなに店を富ませたか知れないので、莫大もない慰労金が分けられることになったまま、父親が死に、主家の主人が二代つづいて死んだので、そのままになっていたのも、取らずじまいになってしまった。
「金持ちなんて、それは間違いだけれど、品物だけはどうにかこうにか、あるにはある。」
と、浜子はいっていたが、名物ものや、美術品などはさほどでないとしても、横浜開港時に手に入れた舶来品が、忘れてしまうほどあったのだ。切子の壺ばかりも、好いのが沢山あった。古い洋酒が、土蔵の縁の下にコロコロしていて、長持の中は、合紙がわりに、信州から来る真綿がまるめて、ギッシリ押込んであり、おなじような柄の大島がすりが、巻いたままで、幾本もはいっていて忘れたというふうであった。
「おやっちゃんに見せたことあるかしら、光琳の蒔絵の重箱を。」
と、いうと、賢吾氏が、二十五歳にもなるが、そんなのは私も見たことがないというようであった。
炭は、土蔵の縁の下にも住居の下にも、湿けないようにと堅炭が一ぱい入れてあるといった家で、浜子一代は、どんなことがあっても家に手を入れないですむようにと、壁の中にも鉄棒のしんの入れてある念入りの普請を、父親は残しておいた。それらはみんな、大正十二年の震火災であともなくなってしまった。
「外国の保険だの、外国の銀行にあったものだのが、かえって、こっちでは、わからなくなってしまっても、ポツポツ先方から知らせてくれて。」
と、彼女は言った。身をもって逃れて、路で草履を拾って母にはかしたといったほど、何もかも失ってしまったが、秩序が回復すると、私たちにくらべれば、やっぱり閑かに暮してゆける人だった。
「お店がああなって、横浜にいなくって好いのだから、東京へ来るのに、家を売ろうかと思っているうちに──」
邸は震火に失ってしまったのだ。彼女はあんまり用心深かったことがいけなかったといった。一ツひとつ、思出の深い箏も、みんな焼いてしまったが、思いがけない悦びは、芝の寺島(菊五郎家)氏から、衣類をもって見舞いにいった者が、家でも角の土蔵は焼けたが、母屋や、奥蔵が残ってといって、お預りしてある箏も無事ですといった。
「おお、『若草』が──」
彼女は、すぐにも、『若草』という箏の絃に触れて見たい衝動を、おさえられなかったほどだった。
数日の後、荻原一家は、神奈川台の島津春子刀自の家にいた。この人も長い間の、年長の友達であった。そして、小石川の浜節子の邸に落着いた。
これも、友達である三菱の荘田氏の令嬢である宮田夫人が、牛込余丁町の邸の隣地に、朱絃舎の門標を出させる家を造ってくれた。門をはいるとすぐ雷神木があるのを、私が、坪内先生の御邸内に建った文芸協会へ誘っていった時に、その木が、お住居の門のすぐそばにある事を話したことがあったので、浜子は、すくなからぬ奇縁のように悦んだ。
そのころ、坪内先生のお宅は、以前の文芸協会のあった方に建って、古いお住居や、お庭や、畑の方は荘田家で買いとり、小路も新しくついていたが、まだ、先生のお家と朱絃舎の間には、空地があって、大きな樹が二、三本残っている。その樹の下のあたりで、浜子は坪内先生と行きあった。
彼女ももうだいぶ年もとったし、震災にもあったりして、気が練れて来たので、
「あたくしは、狂言座で、『浦島』を作曲させて頂きました、荻原浜子でございます。」
と名乗りかけた。
「それは珍しいお方にあった。」
と、晩年の、坪内老博士は大層よろこばれたといった。お話は尽きなかったのであろう、その後で、例年のように届けてくれる、小田原の道了さまのお山から取りよせる栗でつくったお赤飯を、母が先生にも差上げたいといったから、持参してお話をして来たと、感慨深そうにした。
菊五郎門下の「菊葉会」に、九条武子さんの作、四季のうちの「秋」に作曲したが、長安一片の月、万戸衣を擣つの声……の、あの有名な唐詩の意味をよく作曲しだして、これはまとまった、情景そなわる名曲となった。私は、「虫」以来、彼女の作曲について遠ざかっていたが、「秋」の出来栄をききにきてくれといわれ、出来がよかったので嬉しかった。
彼女は、近年は殆ど、高橋元子(藤間勘素娥)の舞踊茂登女会に出演し、作曲していた。元子のお母さん姉妹も、浜子の友だちだった。元子も朱絃舎門下で、浜子の晩年の日記は、元子を恋人とさえ呼んでいたが、育ちゆく人々は、いつまでも彼女の秘蔵弟子、愛しい人形ではいなかったから、彼女は怏々と楽しまない日がつづいて、そのうちに坪内先生のお棺を送り、すぐまた、五十余年を、一日も傍を離れなかった、浜子の老母が、ぽくりと、それこそぽくりと、早朝顔を洗いながら、臥床から離れる娘へ、
「羽織をひっかけないと寒いよ。」
と世話をやきながら、そのまま、うっぷして、娘と一緒の生涯を終ってしまった。
それからの浜子、さびしそうだった浜子、来年は箏を弾いてから五十年になるから、祝いをしたいと思うといって来た浜子。小閑を得て訪ずれると、二階へともなって、箏を沢山たてた、小間の机の前でこういった。
「此処へ、上って、作曲するだけが楽しみであり、生きている気がする。」
彼女の研究は、古楽に、洋楽に、学問の方もますます深まっているようだった。何か素晴しい作を与えて、彼女の沈みきった心の灯を掻きたてなければならない──
私がそう思った眼を見て、彼女は嬉しそうに、青い絃を張った箏をとりだした。
「これが、いつぞやお話した金井能登守の作の箏。」
震災に、頭だけ、うっすら火をかぶったのを、名作と知らぬ持主が、売に出したものであろう、手に入れてよく調べると、胴の真ん中に銘があったのだ。
「能登守の作は、二面しか残っていないという記録があるから、そのうちのこれは一面です。好いあんばいに、天人の彫りは無事で、焦げた箇所は波形だけですが、その波形は彫でなくって、みんな、薄い板が組み合せてあるのです。」
その手のこんだ細工の波がたは、箏の縁を、すっかりとりかこんでいるのだった。彼女はこの箏に「青海波」の名を与え、青い絃を懸けた。
「この箏で、五十年の祝いには弾こうと思う。鼓村さん(那智俊宣)が、放送したのもこれ、赤坂三会堂で演奏会を催して、この箏について説明をして、巻物にして書いておくるといっていたが、そのままになってしまって──」
京都へ行ってから、鼓村さんは絵の方を主にして、那智俊宣と名が変っていた。この古箏の歴史についても委しかったのであろうが、それよりも、私は、なんとなくいやな予感がした。鼓村さんは、間もなく歿なっているのだ。
関東における、八ツ橋流を預っている彼女の、含蓄のある真伎倆を、も一度昂揚させるために、よい作を選み、彼女の弾箏五十年の祝賀にそなえたいと思ううちに、彼女も亡母によばれたように大急ぎでこの世を去ってしまった。
病床についたある日、眼ざめていうには、
「お母さんが来て、お乳を飲めといってあやした。」
彼女は赤んぼにかえって、母の懐にねむった夢を見たのだ、そして、間もなく逝ってしまった。
形見の名箏と、名剣を守って、賢吾氏が一人さびしく朱絃舎の門標のある家に残っているのを見ると、彼女が娘であって、わたしが陸奥の山里にいたころ、毎日毎日、歌日記をよこしてくれて、ある日、早い萩の花を封じこめ、一枚の写真を添えて、この男を、亡父が、養子に見立てておいたのですが──といってよこしたことを思出す。
あなたの亡父さんが、あなたのために考えておいたことなら、きっと、あなたがたを、良くお世話してくださるでしょう。
私はたしかにそう答えたのを覚えていて、今は、白髪になった人の孤影を、お気の毒に見守るばかりだ。病弱な浜子とは、殆ど夫婦関係ということなしに、よく仕えいたわられた。
死ぬ前に、彼女はこういったという。
「こんど、大阪へ演奏にいったら、私がプランをたてて、大和めぐりに行きましょう。」
養子として、長い奉仕への、それがお礼心であったのであろう。立てなくなってからも、張りかえをする障子へ、めしと、一ぱいに書いて、御酒肴アリとつけたし、へへののもへじと、おかしな顔を描いた。慰安の旅行も果さないで先立つということを、そんな、とぼけたやりかたで、謝びていたものでもあったろう。
底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「婦人公論」
1938(昭和13)年5~7月
初出:「婦人公論」
1938(昭和13)年5~7月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2007年9月5日作成
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