九条武子
長谷川時雨
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一
人間は悲しい。
率直にいえば、それだけでつきる。九条武子と表題を書いたままで、幾日もなんにも書けない。白いダリヤが一輪、目にうかんできて、いつまでたっても、一字もかけない。
遠くはなれた存在だった、ずっと前に書いたものには、気高き人とか麗人とか、ありきたりの、誰しもがいうような褒めことばを、ならべただけですんでいたが、そんなお座なりをいうのはいやだ。
その時分書いたものに、ある伯爵夫人が──その人は鑑賞眼が相当たかかったが、
あのお方に十二単衣をおきせもうし、あの長い、黒いお髪を、おすべらかしにおさせもうして、日本の女性の代表に、外国へいっていただきたい。
ああいうお方が、もう二人ほしいとおもいます。一人は外交官の奥さまに、一人は女優に──和歌をおこのみなさるうちでも、ことに与謝野晶子さんのを──
歌集『黒髪』に盛られた、晶子さんの奔放な歌風が、ある時代を風靡したころだった。
その晶子さんが、
京都の人は、ほんとに惜んでいます。あのお姫さまを、本願寺から失なすということを、それは惜んでいるようです、まったくお美しい方って、京都が生んだ女性で、日本の代表の美人です。あの方に盛装して巴里あたりを歩いていただきたい。
といわれた。米国の女詩人が、白百合に譬えた詩をつくってあげたこともあるし、そうした概念から、わたしは緋ざくらのかたまりのように輝かしく、憂いのない人だとばかり信じていた。もっとも、そのころはそうだったのかもしれない。
桜ですとも、桜も一重のではありません。八重の緋ざくらか、樺ざくらともうしあげましょう。五ツ衣で檜扇をさしかざしたといったらよいでしょうか、王朝式といっても、丸いお顔じゃありません、ほんとに輪郭のよくととのった、瓜実顔です。
と、おなじ夫人がいったことも、わたしは書いている。
それなのに、なぜ、その時のままのを、他の人のとおりに、古いままで出さないのかといえば、わたしは女でなければわからない、女の心を、ふと感じたからで、あたしには偽りは言えない。といって、生ているうちから伝説化されて、いまは白玉楼中に、清浄におさまられた死者を、今更批判するなど、そんな非議はしたくない。ただ、人間は悲しいとおもいあたるさびしさを、追悼の意味で、あたしの直覚から言ってみるに過ぎない。笞の多くくるのは知っているが、手をさしのべて握手するのも目に見えぬ武子さんであるかもしれない。
昭和二年ごろだった。掠屋が──商業往来にもない、妙な新手のものが、階級戦士ぶってやって来ていうには、
「九条武子さんとこへいったら、ちゃんと座敷へ通して、五円くれた。」
それなのに、五十銭銀貨ひとつとは、なんだというふうに詰った。女というものはそういったらば、まけずに五円だすとでも思っている様子なので、
「あちらには、阿弥陀さまという御光が、後にひかっていらっしゃるから、お金持ちなのだろう。われわれは、原稿紙の舛目へ、一字ずつ書いていくらなのだから、お米ッつぶ拾っているようなもので、駄目だ。」
と断わったことがあったが、吉井勇さんが編纂した、武子さんの遺稿和歌集『白孔雀』のあとに、柳原燁子さんが書いていられる一文に、
──ある日のことだった。思想のとても新らしい若い男が、あの方と話合った事があった、その男の話は常日頃そうした話に耳なれていた私でさえ、びっくりさせられるようなことを、たあ様の前でべらべらとしゃべった。それにあのたあ様は眉根一つ動かさずにむしろその男につりこまれたかのように聞いておられた。そしてその男の話に充分の理解と最も明晰な洞察をもって、今の社会の如何に改造すべきや、現内閣の政治上の事に至るまで、とても確かな意見を出して具合よく応答されたのには聞いていた私が呆れた。「どうせ華族の女だもの、薄馬鹿に定まってらあ、武子っていう女は低脳だよ」
たしかにこんな蔭口をたたいた事のあったこの男も、すっかり参ってしまって、辞去する頃には、「ねえ、僕らの運動の資金をかせいで下さいな、何? 丁度新聞社から夕刊に出す続きものを頼まれてるんですって? そいつはうまいや、いや、どうも有難う。」
その男が帰ってしまったあとで私はたあ様に訊いた。「たあ様の周囲にあんな話をして聞かせる方もありますまいに、いつのまにあんな学問なさったの?」その時、たあ様は笑いながら、「私だってそう馬鹿にしたもんじゃありませんよ。」(下略)
この一節に思いあわせたのだった。その訪問者の軽率なのも、掠屋にもおかしさもあったが、武子さんの晩年の救済事業が、なんとなく冴えてきた心境を感じさせていたので、人を選るいとまもなく、聞こうとしたものがあったのだと思わせられた。死んでしまった、古い宗教から脱けて、自分の救いを──と、いってわるければ、新しくゆく道を探ねていた人ではないかと、思っていたことにこの一節がぴたときたのだった。
武子さんを書く場合に、普通常識ではかりきれないものがあるということを、はっきりさせておかないと具合がわるい。身分があるとか、金持ちだとかいうのとは、また異っている。それらの人たちからも拝まれてもいれば、一般からもおがまれている。ある時は人間であり、ある時は阿弥陀さまと同列に見られ──見る方が間違っているのだが、特別人あつかいで、それが代々、親鸞聖人以来であり、しかもその祖師は、苦難をなされはしたが、もとが上流の出であり、いかなる場合にも凡下とはおなじでなく、おがまれ通してきた血であることだ。本願寺さまは本願寺さまでなければならぬところを、大谷家になり、子爵と定まり、伯爵となったが、それだけでも門徒には大打撃だったのだ。生仏さまの血脈が、身分が定まってしまったのだから、信徒の人々には一大事で浅間しき末世とさえおもわれたのだ。
武子さんはそうした家柄の、本派本願寺二十一代法主明如上人(大谷光尊)の二女に生れ、長兄には、英傑とよばれた光瑞氏がある。
で、また、ここに、他の宗教家と著しく違うところに、親鸞聖人の妻帯は、必死の苦悩を乗りこした浄土であったのだが、いつからのことか、このお寺だけはお妾のあることがなんでもないことになっていて、お生母さんというものがあることなのだ。姻戚関係もおおっぴらで、もっとも縁の深いのが九条家で、月の輪関白兼実の娘玉日姫と宗祖の結婚がはじまりで、しかも宗祖は関白の弟、天台座主慈円の法弟であったのだから関係は古い。ごく近くでは、光瑞氏夫人が九条家から十一歳の時に輿入っているし、光瑞師の弟光明師には、夫人の妹が嫁がれている。重縁ともなにとも、感情がこぐらかったら、なかなか面倒そうだ。
山中峯太郎氏著、『九条武子夫人』を見ると、父君光尊師は幼いころから武子さんを愛され、伏見桃山の麓の別荘、三夜荘にいるころは、御門跡さまとお姫さまのお琴がはじまったと、近所のものが外へ出てきたりしたという。武子さんの文藻はそうしてはぐくまれたというが、この父君の雄偉な性格は、長兄光瑞師と、武子さんがうけついでいるといわれているそうで、武子さんは暹羅の皇太子に入輿の儀が会議され──明治の初期に、日支親善のため、東本願寺の光瑩上人の姉妹が、清帝との縁組の交渉は内々進んでいたのに沙汰やみになったが──武子さんのは、十七の一月三日、暹羅皇太子が西本願寺を訪問され、武子さんも拝謁されたが、病いをおして歓迎、法要をつとめ、その縁談に進んで同意だった、父法主が急に重態となり遷化されたので、そのままになってしまったという、東本願寺の元老、石川舜台師の懐旧談がある。──兄光瑞師──新門様──法主の後嗣者が革命児で、廿二、三歳で、南洋や、西蔵へいっていることを見ても、その人たちと似た気性といえば、武子さんはなみなみの小さい器ではない。
しかし、愛された父法主は逝き、新門跡は印度にいてまだ帰らず、ここで、木のぼりをしても叱られないでお猿さんと愛称された愛娘に、目に見えない生活の一転期があったことを、見逃せない。それは、新門跡夫人の父君、九条道孝公が、家扶をつれて急いで東京から来着し、主な役僧一同へ、
──かねて双方の間に約束いたしおきたることは、もし当山に万一の事ありし時は、速かに私が罷り出て、精々御助力いたすべく──
これはみな、前記山中氏の著書のなかにあるから、信頼してよいものと思う。こうなると、前法主お裏方の勢力も、お生母さんのお藤の方もなにもない、お裏方よりは愛妾お藤の方のほうが、実はすべてをやっていたのだというが、もはや新門跡夫人の内房でなければならない。と、同時に、武子さんの位置もおなじお姫さまでも、かわったといわなければならない。
十八、十九、二十と、山中氏の著書の中にも、美しき姫の御縁談御縁談と、ところどころに書いてあるが、武子姫の御縁談のことを、重だってお考えになる方は、お姉君の籌子夫人が、その任に当られるようになりましたとある。本願寺重職の人々が、それぞれ控えていまして、その人々の意見もあり、籌子夫人お一方のお考えどおりには、捗行かぬ煩らわしい関係になっているのでした、ともある。
その一節を引くと、
二十の春を迎え給いし姫君、まして、世の人々が讃美の思いを集めています武子姫の御縁談につきまして、本願寺の人々が、今は真剣に考慮するようになりました。
「たあさまは、二十にお成りあそばしたのだから」
「しかし、それについて、御法主は何とも仰せがないから、まことに困る。」
「我れ我れから伺ってみようではないか」
と、室内部長とか、執行部長とか、本願寺内閣の要職にある人々が、鏡如様(光瑞師)の御意見を、伺い出ますと、
「お前たちが選考して好しい。己には今、これという心当りがない」と、一任するという意味でした。(註『九条武子夫人』、一四九頁)
それよりさきに、若き新門様光瑞師は、外国にいたときに、愛妹武子さんの将来を托す人をたった一人選みだしたのだった。よき伴侶と見きわめ、妹を貰ってくれといったのだというふうに、わたしはきいている。私は一連枝にすぎないからと、先方は一応辞退されたのを、人物を見込んで言いだした人は、地位などで選みはしなかったのだから、二人だけの約束は結ばれた。帰朝すると、夫人にもその事は話され、武子さんもきいて、その人も帰ると表向きの訪問が許され、内園を、連れ立っての散歩も楽しげだったというのに、それはどうして破れたのか──
その間の消息は、山中氏の著書ばかり引くようだが、
あらためて申すまでもなく、才貌ともにお麗しく気高い武子姫に、御縁談の申込みは、すでに方々から集まっていました。中にも、先ず指を折られるのは、東本願寺の連枝(法主の親戚)の方でした。(中略)東本願寺の連枝へ、武子姫が入輿されますと、両家の間はいよいよ親密に結ばれることになるのでした。しかしながら、西本願寺の重職の人々にしてみますと、法主の妹君として、まして世に稀れなる才能と、比いなき麗貌の武子姫が、世間的に地位なく才腕なき普通の連枝へ、御縁づきになる事は、法主鏡如様の権威に関わり、なお自分たち一同の私情よりしても、堪えられないことに思われるのでした。──
おお! まあ、そんなことで否決して、会議は幾度も繰りかえされたのだ。
「明如様(光尊師)が御在世ならば、御一存ですぐ決まるのだけれど……」
「──たあさまが家格の低い所へ御縁づきというのでは、我れ我れが申訳けないことになる。」
「それは無論、御在世ならば、先方の人物本位にと仰せられるに相違はない。」
「いや、しかし、子爵以下では、何とも当家の権威に係る」──(『古林の新芽』、一五二頁)
おお! まあ、なんと、そんなことで、華族名鑑をもってきても、選考難に苦しんだとは──
ここで、前記の、
「お前たちが選考してよろしい、己には今、これという心当りがない。」
という光瑞師のいったことが、まことに痛切に響いてくる。
私は一連枝にすぎないからと、一応辞退したというその人にも先見の明がある。私はその名もきいたが──
「世間的の地位なく」と断わるのは、若い人にむかって無理だと誰しもおもおう。それは、東の法主の後嗣者でもないのにという意味にとればわかる。だが、「才腕なき普通の連枝」とは、失礼なことを言ったものだ。この人、先ごろからの、東本願寺問題に、才腕ある連枝だとの評が高い。
かりそめの 別れと聞きておとなしう うなづきし子は若かりしかな
三夜荘 父がいましし春の日は花もわが身も幸おほかりし
緋の房の襖はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや
二
東西本願寺の由来は、七百年前、親鸞聖人の娘、弥女が再婚し、夫から譲られた土地に、父親鸞上人の廟所をつくったのにはじまる。この弥女は覚信尼といい、この人の孫が第三世覚如。親鸞の子善鸞から、如信となり、覚信尼の孫、覚如の代となるまでには、覚信尼は創業の苦労と煩悩もあったわけだった。八世の蓮如上人の時、伝道教化につとめ、九世実如のとき、準門跡の地位にまでのぼったのだ。十世証如のころは戦国時代ではあり、一向一揆は諸国に勃発し、十一世顕如に及んで、織田信長と天正の石山合戦がある。
石山本願寺は、現今の大阪城本丸の地点にあって、信長に攻められたのだが、一向宗は階級的な強さがあるので、負けるどころではなかったが、綸旨が下って和議となったのだった。天正十九年に、豊臣秀吉から現在の、京都下京堀川、本願寺門前町に寺地の寄附を得た。しかし、この時に今日の東西本願寺──本願寺派本山のお西と、真宗大谷派本願寺のお東とが分岐した。東は、西の十一世顕如の長子教如の創建で、長子が寺を出たということには、意見の相違があり、閨門の示唆によって長子が退けられたともいわれている。
東本願寺教如上人は、徳川家康の寄進で、慶長七年に六町四方の寺地を七条に得、堂宇も起してもらったが、長子であって本山を追われたという苦い経験が、世々代々、長子伝燈の法則が厳しい。そこに、いかなる凡庸でも長子より法主なくということになり、見込みのある御連枝(兄弟、近親)でも、御出世はないものと見られ、せめて子爵でなくとも、男爵ででもおありならと、武子さんの配偶が断られた訳もそこにある。三百年間親戚としての往来はおろか、敵視状態だったのが、明治元年に絶交を解いて、交際が復活したからとて、両方の法主──光尊、光瑩の両裏方を、お互いに養女としあって、戸籍上の姻戚関係をむすんだといっても、お宝娘の武子さんを、となると、惜んだもののあったのも、わからなくもない。
本願寺さんのお姫さんは、本願寺さんのでおきたいと、京都の人たちは惜んでいるというのも、いつまでもあの麗人がお独身でと、案じているというのも、結びあわせてみると、卑俗な言いかただが、西から東へ人気が移る憂いは充分ある。お西さんからお東さんへ、掌のなかの玉をさらわれるふうに考えたものもなくはあるまい。
なんと、因襲と伝統の殻との束縛よ、進取的な、気宇の広い若人たちには住みにくい世界よ、熟議熟議に日が暮れて、武子さんの心はぐんぐんと成長してゆく、兄法主には、大きく世界の情勢を見ることを啓発され、うちにはロシアとの戦争に、報国婦人団体が結成され、仏教婦人会の連絡をとり、籌子夫人について各地遊説に、外の風にも吹かれることが多くなって、育ちゆく心はいつまでおかわいいお姫さまでいるであろうか。人を見る目も出来れば人の価値も信実もわかってくる。阿諛と権謀の周囲で、離れてはじめて貴とさのわかるのは真だけだ。
一葉女史の「経づくえ」は、作として他のものより高く評価されていないが、わたしはあの「経づくえ」のお園の気持ちを、いまでも持っている女はすけなくはなったであろうが、あるとおもう、明治年代の、淑やかに育てられた、つつしみぶかい娘には、代表してくれている涙を包んでいる。あの中には、一葉女史の悲恋をも多分にふくめているが、武子さんにあの読後感をききたいとおもいもした。無論、あすこはぬけ出てしまって雑誌『白樺』の武者小路氏の愛読者となったのは、心持ちが整理されてからではあろうが、別れてのちに、しみじみと知るまたとなきその人のよさ、世をふるにしたがって、思いくらべて惜しむ心はなかなかにあわれは深い。
もとよりわたしは、たしかにそうと断定しない。わたしがその人の口からきいたのではないから。それにもかかわらず、わたしはいたましく思い、人世とはそんなものだとしみじみと感じる。もしそこに、若き灼熱の恋があったら、桃山御殿の一部で、太閤秀吉の常の居間であったという、西本願寺のなかの、武子さんが住んでいた飛雲閣から飛出されもしたであろうし、解決は早くもあったろうに、若き御連枝はムッとしてそのまま訪問されず、しかも、その人も配偶をむかえてから、代る女はなかったとの歎をもたれたのだから悲しい。
も一度、
かりそめの 別れと聞きておとなしううなづきし子は若かりしかな。
この歌は、嫁がれてのち、夫君を待って読んだ歌だと解釈されているけれど、もうそのころ、武子さんは二十三歳、令嬢としては出来上りすぎている立派な人だった。十八に、十七に、十九におきかえて考えると、おとなしううなずきし子が目に見えてくる。
爵位局より発布の「尊族簿」が幾度もひっくりかえされているうちに、日は経ってゆく。お家柄第一、二十六、七歳より三十歳までの若様で、勝れた家の爵位を嗣ぐ人、宗教は浄土真宗。これだけ具備した人を探しだそうとするのだが、幾度繰っても頁数はおなじで、いなかった人物が紙の上に飛出してくるはずもない。ここまで来て籌子夫人から、天降り案が提出されたのだから、捏ね廻してしまったものには具合がよかったと、ことが運んだわけだった。
山中氏の『九条武子夫人』百六十二頁に、
──重職会議へ極めて内々のお諮りがありました。御生家の九条公爵の御分家たる良致男爵を選考するようにとの、それは夫人よりの直接の御相談なのでした。
籌子夫人は十一歳の時に、鏡如様のお許嫁として、大谷家へ入輿せられ、幼き日より朝夕を、武子姫と共に──良致男爵は籌子夫人の弟君に当られます。なお、夫人の妹君には九条家に紝子姫がいられるのでした。ことに、良致男爵へ武子姫が、なおまた鏡如様の弟君の惇麿様(光明師)へ紝子姫が、御縁づきになりますことは、籌子夫人御自身の深いお望みなのでした。その暁には、九条家と大谷家との御兄弟が、互にお三方とも御結婚になり、両家にとりてこの上のお睦みはないのでした。
籌子お裏方より直接のお諮りを受けまして、重職の人々は、九条良致男爵を、初めて選考の会議に上すようになりました。それまでは、子爵以上とのみ考えていたのです。
なぜ、子爵だ、男爵だというのか、それは前に、東の御連枝という人を、無爵だといって断わったからで、男爵というのに拘わるのも、それでは男爵になれるようしますからとまでいって来たのを、すくなくも子爵でなくてはと拒絶したといわれているのを、わたし自身が頷くために、引いてみたのだが、良致氏は前から男爵ではなく、武子さんを娶る前になったのだった。
良致氏はお気の毒な方で、やったり、とったりされた人だった。ずっと前に他家へゆかれ、それから一条家の令嬢の婿金として、養われていたが帰されて──やっぱりこれも例をひいた方がよいから、山中氏の前のつづきを拝借すると、
──かつて一条公爵家の御養子として、暫く同家に生活していられました。それは、元来一条家よりの懇ろなお望みがありまして、御結縁になったのでした。しかし、家風の上から、その後、男爵は再び九条家へ、お復りになったのでした。(前掲一七四頁)
なぜ、この山中氏の著書からばかり引例にするかといえば、材料の蒐集に、『婦人倶楽部』の多くの読者と、武子さんの身近かな人々からも指導と協力を得ているといい、筆者はもうすにおよばず、発行が、野間清治氏の雄弁会出版部であり、およそ間違いのないものであること、著者の序に、初校を終る机のそばに、武子さんが、近く来りていますように感じつつ、合掌、と書かれた敬虔な著であるので、信頼して読ませて頂いたからだ。その行間からわたしは何を見たか──
籌子夫人のこのお婿さん工作も、愛弟だったときけば頷けるし、実家の嫂は東本願寺からきた人で、例の御連枝と縁のある方であり、それらの張合もないとはいえまいが、良致氏は、籌子夫人の手許へ引きとられていたというものがあるから、武子さんとも顔を合せていなくてはならないのに、この書では、結婚の日が初対面と記されてある。この初対面という方に従ってゆくと、これはまた、あれほど大切にしたお姫さんを、なんと手軽にあつかったものだか──もとより何もかも、知りすぎる位にわかってる方が進めてゆくのだから、誰にも安心はあったであろうが、いやしくも人生の最大事業をおこなう男女当事者が初対面とは──無智蒙昧な親に、売られてゆく、あわれな娘ならば知らず、一万円持参で、あの才色絶美、京都では、本願寺からはなすのはいやだと騒がれた美女なのに──
籌子夫人は幾度か上京し、仕度万端、みな籌子夫人の指図だった。
も一度。
緋の房の襖はかたく閉ざされて今日も寂しく物おもへとや
三夜荘父がいましし春の日は花もわが身も幸おほかりし
緋の房の襖の向うは、彼女の胸の隠家でなくてなんであろう。
結婚式をあげに東京へ出発、馬車のうちにはうなだれがちに、武子さんがいた。本願寺の正門から、七条の駅へ──けれども、御婚儀の日が、初対面の日なのでした。──昨日までの武子姫は、良致男爵……その人について、何も御存じがないのでした。男爵においても、それは同じく、新夫人の性格そのほか、更に御承知はないのでした。
──七条駅近くの大路には、東本願寺の門がある。
性格も趣昧も教養も、まさしく反対の二点にたっているとも書かれている。九月二十五日に九条家に入り、新男爵邸に即日移り、十二月には、先発の法主夫妻のあとを追って新婚旅行に、欧洲へ渡航する。しかも新郎は、英国に留学する約束だった。黙々読書する良致氏に、仕度の相談にゆくと、
「よろしいように」
と静かに答えるだけだったという。
印度では光瑞法主一行の、随行員も多く賑わしくなった。少女時代をとりかえしたように武子さんが振舞うと、明るい笑声のうちに、いつも姿を見せないのが良致氏であったという。籌子夫人が気にすると、船室にかくれて読書しているという。一方が明るくなると、一方はだんだん寡黙になる。
船室でお茶がすんで、ボーイが小さなテーブルの上をかたづけにくると、武子さんは立上る、
「では失礼します。」
「どうぞ。」
水の如き夫妻だ。
武子さんも気にせず、良人もそれに不満足を感じるような、世俗的なのではないと、山中氏はいっていられるが、しかし、わたしははっきり言う。それはどっちかが軽蔑しているのだ。どっちかがすくんでいるのだ、でなければもっと、重大な、何か、ふたりは、表向きだけの夫婦ごっこ、互に傀儡になったことを知りすぎているのだ。性格的相違だけには片づけられないものがある。そして、短かい外遊期間中なのに、良致男は別居してしまった。だが、武子さんは社会事業の視察、見学をおこたらなかった。
シベリア線で、籌子夫人して武子さんが帰朝ときまったとき、訣別の宴につらなった良致氏は、黙々として静かにホークを取っただけで、食後の話もなく、翌日、出立のおりもプラットホームに石の如く立って、
「ごきげんよう」
と、別れの言葉は、この一言だけだとある。
良致さんという人が、この通り沈黙寡言な、哲学者かと思っていたらば、先日、ごく心やすくしていたという男の人が来て話すには、なかなか隅におけない、白粉を袖や胸にもつけてくる人だというし、またある人も、気さくなよいサラリーマンだといった。新婚のころは、特別に、そんなムッとした人にならざるを得ぬことがあったものとおもえる。世間からは花の嫁御をもらって、日本一の果報男といわれたが、他人ではわからないものが、その人にとってないとはいえまい。
また、それでなければ、新婚三月の新夫人をかえしてしまって、滞欧十年、子までなさせて、そこの水に親しんではいられないはずだ。
三年たった。ここいらから武子さんが、麗わしい武子だけでなく、同情と、人気とその人のもつ才能とが一つになって、注目される婦人となった。武子さんはいよいよ光り、良致さんはよく言われなかった。
空閨を守らせるとは怪しからん。と、よく中年の男たちが言っていた。操持高き美しき人として、細川お玉夫人のガラシャ姫よりももっと伝説の人に、自分たちの満足するまで造りあげようとした。
この間も、斎藤茂吉博士の随筆中に、武子夫人が生ていられたうちは書かなかったがと、ある田舎へいったら、砂にとった武子さんのはいせき物を見て、ふといふといと下男たちが笑っていたということを記されたが、そんなばかげた事もおこるほど、よってたかって窮屈な型のなかへ押込んでいった。
三
武子さんの第一歌集『金鈴』を、手許においたのだが、ふととり失なってしまって、今、覚えているのは、思いだすものよりしかないが、
ゆふがすみ西の山の端つつむ頃ひとりの吾は悲しかりけり
見渡せば西も東も霞むなり君はかへらず又春や来し
作歌の年代を知るよしもないが、これらはずっと古くうたわれたものときいている。一年半以上も外国でくらして、秋も深くなって帰ると翌年の春、籌子夫人が急逝された。その人の望みによって武子さんの生涯は定まってしまったのに、それを望んだ人は死んでしまって、妻という名の、桎梏の枷をはめられて残された武子さんの感慨は無量であったろう。全く運命というものは変なものだ。
しかし、おかくれ遊ばした総裁様の御遺志をお伝えするが使命と、武子さんのうるわしい声が、各地巡回宣伝にまわられると、仏教婦人会の新会員は増えてゆくばかりなので、九条武子となっても、本願寺に起臥して、昔にもまさって本願寺の大切な人であった。そして、思い出したように、お美しい方が空閨に泣くとは、なぞと、時々書いたりいわれたりしたが、武子さんの場合だけは、それが不自然ではなく、なんとなくそれで好いような気がしていた。語らざる了解があるように思われた。そうしているほうが、お互が気楽なのではないかと思えた。
遺稿和歌集の『白孔雀』をとって見ると、
百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
その一歩かく隔りの末をだに誰かは知りてあゆみそめむぞ
この風や北より吹くかここに住むつめたき人のこころより吹く
この胸に人の涙をうけよとやわれみづからがくるしみの壺
おもひでの翼よしばしやすらひて語れひとときその春のこと
影ならば消ぬべしさはれうつそ身のうつつに見てしおもかげゆゑに
引く力拒むちからもつかれはてて芥のごとく棄てられにしか
たまゆらに家をはなれてわれひとり旅に出でむと思ふときあり
たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因かこれ
執着も煩悩もなき世ならばと晴れわたる空の星にこと問ふ
空しけれ百人千人讃へてもわがよしとおもふ日のあらざれば
夢寐の間も忘れずと云へどわするるに似たらずやとまた歎けりこころ
むしろわれ思はれ人のなくもがなあまりに病めばかなしきものを
ふるさとはうれし散りゆく一葉さへわが思ふことを知るかのやうに
ふるさとはさびしきわれの心知れば秋の一葉のわかれ告げゆく
叫べども呼べども遠きへだたりにおくれしわれの詮なきつかれ
岐れ路を遠く去り来つ正しともあやまれりとも知らぬ痴人
夕されば今日もかなしき悔の色昨日よりさらに濃さのまされる
水のごとつめたう流れしたがひつ理りのままにただに生きゆく
震災後下落合に家を求めてからを知っている人が、武子さんの日常を、バサバサしたなつかしみのない、親分の女房みたいだと評し、わざとらしいしなをつくるが、電話の声と地声とはちがい、外から帰ると寛袍にくつろぎ、廊下は走りがちに歩く、女中にきいてみたら、京都へゆく汽車の中では、ずっと身じろぎもしないで、座ったままだというのに──と、良致さんとの夫妻生活を、およそ男性のもとめるイットのないものとくさしたが、わたしは胸が苦しかった。武子さんはもうそのころ自分の表面的な職分と、自分の心だけでいるときとの、けじめがはっきりついて、卑近な無理解など、どうでもよいとの決心がついていたにちがいない。なぜなら、その人がいったようなただ、あざけた女に、こんな心の声があろうか、
さくら花散りちるなかにたたずめばわが執着のみにくさはしも
ちりぢりにわがおもひ出も降りそそぐひまなく花のちる日なりけり
さくら花散りにちるかな思ひ出もいや積みまさる大谷の山
まぼろしやかの清滝に手をひたし夏をたのしむふるさとの人
やうやくに書きおへし文いま入れてかへる夜道のこころかなしも
これはみんな、世にない人を思い出した歌ではない。ふるさとの人とは、誰をさしていったものだろう、そんなことは言っては悪いと叱られるかもしれない。だが、それだからこそ人間ではないか、それだからわたしは武子さんが悲しく、そして忘れないのだ。ただ、わたしはいう、あの豪気な、大きい心の人が、なぜその苦しみとひたむきに戦わなかったか、この人間の苦しみこそ、宗祖親鸞も戦って戦いぬいて、苦悩の中に救いを見出し大成したのではなかろうか、良致氏が外国で家庭生活をもっていたことが、かえって武子さんを小乗的にしてしまったのかもしれない、仏教のことばなんかつかっておかしいが、そんなふうにもおもえる。さし詰った苦しさというものは、勇気を与えるが、それも長く忍んでいると詠歎的になってしまうものだ。
『白孔雀』の巻末に、柳原白蓮さんが書いているから、すこし引いて見よう、
百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
第一この歌に私はもう涙ぐんでしまった。あのたあ様は本当に深い深い胸の底に涙の壺を抱いていた人だった。
私が今の生活に馴れるまでの間を、たあ様はどんなに励まし、かつ慰めてくれたことであったろう、「貴女は幸福よ。」この一言によって私は考えさせられた。人というものはどうかすると自分の幸福を忘れている事がある。幸福だという事を忘れれば幸福にはぐれてしまう、という事を教えられた。私は何といってあの方に感謝していいかわからない。人こそ知らね私には深い思いがあるからである。
美しき裸形の身にも心にも幾夜かさねしいつはりの衣
「ねえ、私だって、ああなのよ、こうなのよ、ねえ、よう。」甘えるように私の手をとってゆすぶったりした。私は、「そんなら御勝手になさいまし、ただ、くしゃくしゃ語ったって、私がどうにもして上げられるもんじゃなし。」とつんと突き放したものいいをすると、その時、ほっとためいきをつきながら「もういわないから、かんにんよ。」あの時の少女のような身のこなしが、今も目に浮かんで来てしようがない。
──たあ様の歌は本当の実感から生れたものだった。
私の友よ、友の霊よ、この歌の一つ一つが、貴女の息から生れたものなのだ、それぞれに生命があるのだ──
人生の裏も底も、涙も知りつくしたはずの歌人、吉井勇さんが『白孔雀』巻末に書いた感想をひいてみると、
──今その手録された詠草を見ると、「薫染」に収められた歌以外のものに、かえって真実味に富んだ、哀婉痛切なる佳作が多いような気がする。私は先ず手録された詠草の最初にあった、
百人のわれにそしりの火はふるもひとりの人の涙にぞ足る
の一首に、これまでの武子夫人の歌に見られなかったような情熱を覚えると同時に、かなり感激した心持でこの新しい歌集『白孔雀』の編輯に従うことが出来たのであった。
この十一月初旬、この遺稿の整理をしに往った別所温泉は、信濃路は冬の訪れるのが早いのでもう荒涼たる色が野山に満ちて、部屋の中にいても落葉の降る音が雨のように聴えた。が、手録の詠草を一首々々読んでゆくうちに、私の耳にはだんだんそんなもの音も聴こえなくなった。私は真実味の深い歌が見出される度ごとに、若うして世を去った麗人を傷むの情に堪えなかったのである。
死ぬまでも死にての後もわれと云ふものの残せるひとすぢの路
そういう死をうたった歌や、
この胸に人の涙もうけよとやわれみづからが苦しみの壺
といったような悲しみの歌を読むと、私の目はひとりでに潤んだ。
たまゆらに家を離れてわれひとり旅に出でむと思ふときあり
たたかへとあたへられたる運命かあきらめよてふ業因かこれ
うつくしき人のさだめに黒き影まつはるものかかなし女は
そのことがいかに悲しき糸口と知らで手とりぬ夢のまどはし
まざまざとうつつのわれに立ちかへり命いとしむ青空のもと
しかはあれど思ひあまりて往きゆかばおのがゆくべき道あらむかな
何気なく書きつけし日の消息がかばかり今日のわれを責むるや
酔ざめの寂しき悔は知らざれど似たる心と告げまほしけれ
こういう寂しい心境をうたった歌を読んで、その人がもうこの世にないということを考えると、人生、一路の旅の、果敢なさを思わずにはいられなかった。──『白孔雀』から──
吉井さんにしても、燁子さんにしても、人世の桎梏の道を切開いて、血みどろになってこられたかたたちだ、その人の心眼に何がうつったか? ただ、寂しい心情とのみはいいきれないものではなかったろうか。白蓮さんの感想には、書かれない文字や、行間に、言いたいものがいっぱいにある気がする。遠慮、遠慮、遠慮! 昔だったらわたしなど、下々ものがこんなことを言ったら、慮外ものと、ポンとやられてしまうのであろうが、みんなが武子さんを愛しむ愛しみかたがわたしにはものたらない。こんな、生きた人間を、なんだって小さな枠に入れてしまうのだろう。
──いや、武子さんは、御自分のしていることがお好きなのでした。御満足だったのです。一番好きなことをしていたのです。
こういった中年男は、良致さんが大好きで、男は何をしても、細君はいとまめやかに、愛らしくという立場だから、失礼なことをいうのも仕方がない。どんな売女でももっている、女っぽさや、女の純なものがないの、けちんぼだの、勘定が細かいのといった。わたしはそれに答えてはこういう。
武子さんは、「女」を見せることを、きらったのだ、誰にも見られたくなかったのだ。わざとする媚態があるというが、それは、多くのものに、よろこばせたい優しみを、とる方がそうとりちがえたのではないか。算当が細かいというのは、本願寺はある折、疑獄事件があって、光瑞法主はそのために、責をひいて隠退され、武子さんは、婦人会の存続について大変心配された。そんなことから、日常のことにも気をつけるようになられたのだろう。『無憂華』の中の、「父に別れるまで」の一節に、
──今思うとこんなこともあった。そのころの道具掛の者が知らなかったのかどうか、割れなくていいというような意味から、金の水指を稽古用に出してくれたのが、数年のあとで名高い和蘭陀毛織の抱桶であったことや、また幾千金にかえられた堆朱のくり盆に、接待煎餅を盛って給仕が運んでおったのもその頃であった。
そうした器物まで払いさげられたりして、経済のこともよくわかっていたのであろうし、それよりも、これはあとにもいうが、つまらないことで失いたくない、要用なことにと、いつも心に畳んでいられたのだと思う。
武子さんは、あまり広く愛されて、世間のつくった型へはめられてしまって、聖なる女として、苦しんだ。その切ないなかに生きぬいて、自分の苦しんだのとは、違う苦しみかたをしている気の毒な層の人たちを、広く愛そうとする、真に、しっかりした心の転換期がきたのではあるまいか。二十年、恋は空しいと観じ、本願寺婦人会の救済事業を通じて、心身を投じようとしたその時に、あわれ死がむかって来たのではあるまいか──
おせっかいな世間は、武子さんが完全な人となろう、としているときに──外国にいる人も、そちらにいる方が家庭円満であったかもしれないのに、麗人に空閨を十年守らせるとは何事だと、あちらで職について、帰りたがらぬ良致氏を無理に東京へ転任ということにしたということだが、十年ぶりで、帰る人にも悩みは多かったであろうし、武子さんは、まぶたもはれあがるほど泣きに泣いて、こころをつくろう人世へのお化粧をしなおされたいうことだ。
死ぬる日の半月ばかり前に、偶然に行きあったのは、かの、かりそめの別れとすかされて、おとなしく頷ずいて別れた東の御連枝だった。だが、今度はかりそめの、この世での、それが長い別れになってしまった。おもいがけない病が急に重って、それとなく人々が別れを告げに集るとき、その人も病院を訪れたというが、武子さんは逢わなかったのだった。お別れはもう先日ので済んでおりますと、伝えさせたという。
私が、戯曲的に考えれば、生母の円明院お藤の方が、手首にかけた水晶の数珠を、武子さんが見て、
おかあさま、そのお数珠を、私の手にかけてください。
といわれたということが、新聞にも出ていたが、その水晶の数珠は、かつて、武子さんが、御生母へあげたものだということから、その数珠には、母子だけしか知らない温かい情が籠っているかもしれないと、思うことだった。
君にききし勝鬘経のものがたりことばことばに光りありしか
君をのみかなしき人とおもはじな秋風ものをわれに告げこし
この日ごろくしき鏡を二ツもてばまさやかに物をうつし合ふなり
勝鬘経は、印度舎衛国王波斯匿と、摩利夫人との間に生れて、阿踰闍国王に嫁した勝鬘夫人が仏教に帰依した、その説示だという、最も大乗の尊さを説いたもので、わが聖徳太子も、推古女帝に講したまいし御経ときいたが、君とは、父法主でも、兄法主でもない人を指している。
築地別院に遺骸が安置され、お葬儀の前に、名残りをおしむものに、芳貌をおがむことを許された。
二月八日の宵だった。梅の花がしきりに匂っていた。わたしは心ばかりの香を焚いて、「秋の夜」と署名した武子さんからの手紙を出して、机上においた。そこへ、安成二郎さんが訪れられて、どうしてお別れにいって来ないのかといわれた。蘭燈にてらされて、長い廊下を歩いていって、静な、清らかな美しいお顔を見ると、全くこの世の人ではない気がしたといわれた。そして、どうしてゆかないのかと、再び問われた。
あまり多くのものに、死者の顔を見せるのは嫌いだから、見られるのはお厭だろうと思うと、答えたわたしの胸には、ちょっと言いあらわせないものが走った。
震災前、あの別院が焼けない前に、ある日の日かげを踏んで、足許にあつまる鳩を避けて歩きながら、武子さんに、ずっと裏の方の座敷で逢ったことがあった。その時ふと胸にきたものは、あんなに麗かな面ばせで、れいれいとした声で話されるに、憂苦といおうか、何かしら、話してしまいたいといったようなものを持っていられるということだった。
その時、
「燁さまは、どうしてあんなことをなすったのでしょうね。」
と、突然と武子さんがいった。それは、白蓮さんが失踪して間もなくで、世上の悪評の的になっているときだった。
二人は目を見合わせたきりで、探りあう気持ちだった。この人は、もっともっと大きい苦悶をかくしているなと、思った。
震災に、なんにも持たずに逃れ出たが、一束の手紙だけは──後に焼きすてたというが、──あの中で、おとしたらばと胸をおさえて語ったお友達がある。──そういえば、秋の夜であり、きくであり、そのほかにも、種々のかえ名があるにはあったが──
武子さんは、もうちゃんと、ああ出来上ってしまって、あれがいいのだから、美人伝へよけいな感想なんか書いてはいけないと。知っている人たちがみんなこういう。もとより、武子さんはわたしも大事にする。けれど、もっと大胆に、いいところをいってもいい、人間らしいところを話ても、あの方の苦節に疵はつきはしない。お人形さんに、あの晩年の、目覚めてきた働きは出来ない。本願寺という組織に操られてでも、それを承知で、自分自身だけの、一ぱいの働きをするということは、ああいう場処にいる人には、あれでよいので、あらゆる事に働き出そうとしたことは、劇や舞踊の方にまで進んで、かなり一ぱいの努力だったと思う。
そういえば、武子さんは快活な、さばけたところのあるのは、幼いときからだというが、人徳を知るのに面白い逸話がある。ある美術家のうちの床の間に、ブロンズのドラ猫があった。埃りまみれでよごれているのを、武子さんは猫が好きだったが、震災で焼いてしまったので、その埃りまみれの置物を、かあいい、かあいいと撫で廻していた。その事を、あとで、猫を作った某氏にその人が話して、君が逢えばきっと猫をつくらせられてしまうよといったらば、いや決して僕は魅惑されないといっていたのが、いつか銀の猫をつくって、呈上してしまって、そういったものへは内密にしていた。だが、それが縁で、デスマスクはその人がつくったということだ。
あなかしこ神にしあらぬ人の身の誰をしも誰が裁くといふや
ただひとりうまれし故にひとりただ死ねとしいふや落ちてゆく日は
をみなはもをみなのみ知る道をゆくそはをのこらの知らであること
はつ春の夜を荒るる風に歯のいたみまたおそひ来ぬ──
この最後の一首は、磯辺病院で失せられた枕もとの、手帳に書きのこされてあったというが、末の句をなさず逝かれたのだった。
「嵯峨の秋」という脚本のなかで、蓮月尼には、こう言わせている。
みめよい娘じゃとて、ほんに女は仕合せともかぎりませんわいな。
おお、そうですぞ、おまえさんの正直な美しい恋のまことが、やがてきっと、大きな御手にみちびかれてゆきまする。
昭和三年一月十六日より歯痛、発熱は暮よりあった。十七日、磯辺病院へ入院、気管支炎も扁桃腺炎も回復したが、歯を抜いたあとの出血が止まらず、敗血症になって、人々の輸血も甲斐なく、二月七日朝絶息、重態のうちにも『歎異鈔』を読みて、
有碍の相かなしくもあるか何を求め何を失ひ歎くかわれの
この人に寿あって、今すこし生きぬいたらば、自分から脱皮し、因襲をかなぐりすてて、大きな体得を、苦悩の解脱を、現らかに語ったかもしれないだろうに──
底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
1936(昭和11)年2月発行
初出:「近代美人伝」サイレン社
1936(昭和11)年2月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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