麥搗
泉鏡太郎
|
傳へ聞く、唐土長安の都に、蒋生と云ふは、其の土地官員の好い處。何某の男で、ぐつと色身に澄した男。今時本朝には斯樣のもあるまいが、淺葱の襟に緋縮緬。拙が、と拔衣紋に成つて、オホン、と膝をついと撫でて、反る。
風流自喜偶歩、と云ふので、一六が釜日でえす、とそゝり出る。懷中には唐詩選を持參の見當。世間では、あれは次男坊と、敬して遠ざかつて、御次男とさへ云ふくらゐ。處を惣領が甚六で、三男が、三代目の此の唐やうと來た日には、今はじまつた事ではなけれど、親たちの迷惑が、憚りながら思遣られる。
處で、此の蒋才子、今日も又例の(喜偶歩。)で、靴の裏皮チヤラリと出懸けて、海岱門と云ふ、先づは町盡れ、新宿の大木戸邊を、ぶらり〳〵と、かの反身で、婦が突當つてくれれば可い、などと歩行く。
樣子が何うも、ふびんや、餘り小遣がなかつたらしい。尤も地もの張と俗に號する徒は、懷中の如何に係はらず、恁うしたさもしい料簡と、昔から相場づけに極めてある。
最う其の門を出はなれて、やがて野路へ掛る處で、横道から出て前へ來て通る車の上に、蒋生日頃大好物の、素敵と云ふのが乘つて居た。
ちらりと見て、
「よう。」と反つて、茫然として立つた。が、ちよこ〳〵と衣紋繕ひをして、其の車を尾けはじめる。と婦も心着いたか一寸々々此方を振返る。蒋生ニタリとなり、つかず離れず尾之、とある工合が、彼の地の事で、婦の乘つたは牛車に相違ない。何うして蜻蛉に釣られるやうでも、馬車だと然うは呼吸が續かぬ。
で、時々ずつと寄つては、じろりと車を見上げるので、やがては、其の婦ツンとして、向うを向いて、失禮な、と云つた色が見えた。が、そんな事に驚くやうでは、なか〳〵以て地ものは張れない。兎角は一押、と何處までもついて行くと、其の艷なのが莞爾して、馭者には知らさず、眞白な手を青い袖口、ひらりと招いて莞爾した。
生事、奴凧と云ふ身で、ふら〳〵と胸を煽つた。(喜出意外)は無理でない。
之よりして、天下御免の送狼、艷にして其の且美なのも亦、車の上から幾度も振返り振返りする。其が故とならず情を含んで、何とも以て我慢がならぬ。此のあたり、神魂迷蕩不知兩足䟜跚也。字だけを讀めば物々しいが、餘りの嬉しさに腰が拔けさうに成つたのである。
行く事小半里、田舍ながら大構への、見上げるやうな黒門の中へ、轍のあとをする〳〵と車が隱れる。
虹に乘つた中年増を雲の中へ見失つたやうな、蒋生其の時顏色で、黄昏かゝる門の外に、とぼんとして立つて見たり、首だけ出して覗いたり、ひよいと扉へ隱れたり、しやつきりと成つて引返したり、又のそ〳〵と戻つたり。
其處へ、門内の植込の木隱れに、小女がちよろ〳〵と走つて出て、默つて目まぜをして、塀について此方へ、と云つた仕方で、前に立つから、ござんなれと肩を搖つて、足を上下に雀躍して導かれる、と小さき潛門の中へ引込んで、利口さうな目をぱつちりと、蒋生を熟と見て、
「あの、後程、内證で御新姐さんが。屹と御待ち遊ばせよ。此處に。可ござんすか。」と囁いて、すぐに、ちよろりと消える。
「へい。」と、思はず口へ出たのを、はつと蓋する色男、忍びの體は喝采ながら、忽ち其の手で、低い鼻を蔽はねば成らなかつたのは、恰も其の立たせられた處が、廁の前、は何うであらう。蒋忍臭穢屏息良久は恐れる。
其處らの芥も眞黒に、とつぷりと日が暮れると、先刻の少女が、鼠のやうに、又出て來て、「そつと〳〵、」と、何にも言はさず袖を曳くので、蒋生、足も地に着かず、土間の大竈の前を通つて、野原のやうな臺所。二間三間、段々に次第に奧へ深く成ると……燈火の白き影ほのかにさして、目の前へ、颯と紅の簾が靡く、花の霞に入る心地。
彌が上に、淺葱の襟を引合はせて、恍惚と成つて、其の簾を開けて、キレー水のタラ〳〵と光る君、顏を中へ入れると、南無三。
上段づきの大廣間、正面一段高い處に、疊二疊もあらうと思ふ、恰も炎の池の如き眞鍮の大火鉢、炭火の烈々としたのを前に控へて、唯見る一個の大丈夫。漆の中に眼の輝く、顏面凡て髯なるが、兩腿出した毛むくぢやら、蝟の大胡坐で、蒋生をくわつと睨む、と黒髯赤く炎に照らして、「何奴だ。」と怒鳴るのが、ぐわんと響いた。あつとも言はず、色男、搖るやうにわな〳〵と身をくねると、がつくりと成つて、腰から先へ、べた〳〵と膝が崩れる。
少時目が眩んで、氣が遠く成つて居たが、チリ〳〵と琴が自然に響くやうな、珠と黄金の擦れ合ふ音に、氣つけを注射れた心地がして、幽に隅の方で目を開けて、……車上の美人がお引摺りの蹴出褄、朱鷺色の扱帶と云ふので、件の黒髯の大きな膝に、かよわく、なよ〳〵と引つけられて、白い花咲く蔓草のやうに居るのを見た。
「二歳。」と呼んで、髯の中に赤い口をくわつと開け、
「何うだ、美しからう、お玉と云つて己が妾だ。むゝ、いや、土龍のやうな奴だが、此を美しいと目をつけた眼力だけは感心ぢやわ。だが、これ、代物も此のくらゐの奴に成ると、必ず主があると思へ。汝竟想喫天龍肉耶、馬鹿野郎。」
言畢つて、肩に手を掛け、雪なす胸に毛だらけの手を無手と置き、横に掴んで、ニタ〳〵と笑ふ。……と婦も可厭はず、項も背も靡いて見える。
其の御樣子を見せらるゝ、蒋生は命の瀬戸際。弱り果て、堪りかねて、「お慈悲、お慈悲、歸ります、お歸し下さい。」と矢たらに叩頭をするのであつた。
其の顏も上げさせず、黒髯は大喝して、
「成らん!」と喚いて、
「折角來たものを唯は返さぬ。奴、先づ、名を名乘れ。何と云ふ、何處の青二歳だ。」
惡く僞りを申上げると、股から裂かれさうに思つたので、おめ〳〵と親の姓、自分の名を言ふ。
「お慈悲、お慈悲。」
是を聞いて、黒髯、破顏して笑を含み、
「はあ、嘘は言ふまい、此の馬鹿野郎。汝の爺と、己は兄弟分だぞ。これ。」
「や、伯父さん」と蒋生蘇生つたやうに思つて、はじめて性分の黄な聲を出して伸上る。
「默れ! 甥の癖に伯父樣の妾を狙ふ。愈々以て不埒な奴だ。なめくぢを煎じて飮まして、追放さうと思うたが、然う聞いては許さぬわ。」
と左右を顧み、下男等に言つけて、持つて來さした握太な杖二本。
「這奴、尻を撲せ。」
畏まつて候と、右左から頸首を取つてのめらせる、とお妾面を蔽うた時、黒髯は眉を顰めて、
「や、撲すのは止めろ、杖が汚れる、野郎褌が薄汚い。」
さて〳〵淺間しや、親の難儀が思はれる。先づ面を上げさせろ。で、キレー水を熟と視めて、
「むゝ。如何にも其の面、親に似ぬ鼻の低さを見ろ。あつてもなうても同じ物ぢや、殺いでくれう。」
と小刀をギラリと拔く。
今は早や、お慈悲、お慈悲の聲も嗄れて、蒋生手放しに、わあと泣出し、涙雨の如く下ると聞けば、氣の毒にも又あはれに成る。
「もう可うござんす、旦那、堪忍して遣らしやんせ。」
と婀娜な聲で、膝を擦つて、其の美人がとりなしても、髯を振つて肯かないので。
「其のかはり、昨日下百姓から納めました、玄麥が五斗ござんしたね、驢馬も病氣をして居ます、代驢磨麺贖罪」と云ふ。
「驢馬の代りはおもしろい。何うだ。野郎、麥を搗くか。」
生、連聲應諾。
「はい、はい、はい、何うぞ、お慈悲、お慈悲。」
「さあ、もう、おやすみなさいまし、ほゝほゝゝ。」
と婦が袖を合はせる、さらりと簾。其の紅の幕の外へ、
「失せをれ。」
と下男兩人、腰の立たない蒋生を抱へて、背戸へどんと掴み出す。
えつさ、こらさ、と麥を背負つて、其の下男どもが出直して、薪雜木の手ぐすね引いて、
「やい、驢馬。」
「怠惰けるとお見舞申すぞ。」
眞晝のやうな月夜に立つて、コト〳〵麥を搗いたとさ。
縁日あるきの若人たち、愼まずばあるべからず、と唐の伯父御が申さるゝ。
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※表題は底本では、「麥搗」とルビがついています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。