遠藤(岩野)清子
長谷川時雨
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一
それは、華やかな日がさして、瞞されたような暖かい日だった。
遠藤清子の墓石の建ったお寺は、谷中の五重塔を右に見て、左へ曲った通りだと、もう、法要のある時刻にも近いので、急いで家を出た。
と、何やら途中から気流が荒くなって来たように感じた。
「これは、途中で降られそうで──」
と、自動車の運転手は、前の硝子から、行く手の空を覗いて言った。
黒い雲が出ている。もっと丁寧にいうと、朱のなかへ、灰と、黒とを流しこんだような濁りがたなびいている。こちらの晴天とは激しい異いの雲行きだ。
赤坂からは、上野公園奥の、谷中墓地までは、だいぶ距離があるので、大雨には、神田へかかると出合ってしまった。冬の雨にも、こんな豪宕なのがあるかと思うばかりのすさまじさだ。
私はすっかり湿っぽく、寒っぽくなってしまって、やがてお寺へ着いたが、そこでは、そんなに降らなかったのか、午前中からの暖かい日ざしに、何処もかも明け放したままになって、火鉢だけが、火がつぎそえられてあった。
その日のお施主側は、以前の青鞜社の同人たちだった。平塚らいてう、荒木郁子という人たちが専ら肝入り役をつとめていた。死後、いつまでも、お墓がなかった遠藤清子のために、お友達たちがそれを為した日の、供養のあつまりだった。
会計報告が、つつましやかに、秘々と示された。ずっと一隅によって、白髪の、羽織袴の角ばった感じの老人と、その他にも一、二の洋服の男がいたので、その人たちへの遠慮で、後のことなどの相談をした。会費と、後々の影向料とがあつめられたりした。
やがて、本堂へ案内された。打揃って座についたが、本堂は硝子障子が多いので、書院よりは明るいが、その冷はひどかった。読経もすこしも有難みを誘わなかったが、私は、眼の前の畳の粗い目をみつめているうちに、そのあたりの空間へ、白光りの、炎とも、湯気とも、線光とも、なんとも形容の出来ない妙なものが、チラチラとしてきた。
──遠藤清子さんは悦んでいるだろう。
たしかにそうも思いはしたが、それよりも、急に、わたしの胸を衝いてきたものがある。廿五年の歳月は、こんなにもみんなを老わしたかと──
誰の頭髪にも、みんな白髪の一本や二本──もっとあるであろう。その面上にも、細かき、荒き、皺が見える。
ひとり、ひとりが、焼香に立った。
悪寒が、ぞっと、背筋をはしると、あたしはがくがく寒がった。雨のなかを通りぬけて来た時からの異状が、その時になって現われたのだが、すぐ後にいた岡田八千代さんがびっくりして、
「はやく、火鉢のある方へ行かなければ。」
と案じてくれた。生田花世さんも、外套をもって来ましょうかといってくれた。
みんなも気がついて、向うへ行っていよとすすめる。焼香もすましているので、あたしは親切な友達たちのいう言葉にしたがった。
外套にくるまって、火鉢に噛りついていると、どんなふうかと案じて来てくれながら、そうではないような様子に、
「おお寒い寒い。」
と、自分も逃げて来たように言って、八千代さんはそこらの障子を閉めてくれて傍へ来た。
「どう? お寺で風邪なんぞひいたらいけないから。」
あたしは大丈夫と言いながら丸くなって、友達の顔も見なかった。見たら、涙が出そうでしかたがない。
みんな、たいした苦労だ──
と、そればかりを噛むように思った。みんな、跣足で火を踏んだような人たちだ。今日の若人たちの眼から見たらば、灰か、炭のように、黒っぽけて見えもするであろうが、みんな火のように燃えていて、みな、それぞれ、その一人々々が、苦闘して、今日の、若き女人たちが達しるというより、その出発点とするところまでの茨の道を切り開き、築きあげて来たのだ。いたずらに増えた髪の霜でもなく、欠伸をしてつくった小皺でもない。
──その間に、こんなにも、こんなにも、女人の出る道は進展した──
前の夜、あまり生々したグループのなかで、何時までもいつまでも話しこんでいたあたしは、あんまり異った仲間のなかにいて、たしかに戸まどいもしているのだった。年月などというものを、さほどに意識しない日頃であって、何時も若い友達と一緒になっていられる幸福のために、かえって、死もの狂いであった誰彼なしの過去に、ひたと、面をこすりつけられたような思いだった。
表面に、溌剌と見えるからといって、青春者が、やはり世の中へたつのは、多少とも死もの狂いであるのと同様、先覚者も決して休止状態でいるのではない。おなじ時代を歩んでいるのではあるが、まあ、なんと、今日から見れば、そんな些事を──といわれるほどの、何もかもの試練にさらされて来た人たちだろう──
私は、神近市子さんの横顔を眺め、舞踊家林きん子になった、日向さんに、この人だけは面影のかわらない美しい丸髷を見た。
「清も、よろこんでおりましょう。」
と、もとの座についた、白髪の老人は、重い口調で挨拶をしていられる。
それをきくと、周囲の人がわやわやとして、
「長い間、お心が解けなかったそうですが、いま、お兄さんがそう仰しゃったので、これで、仏さまとの仲も、解けて──」
と、いうような意味の言葉を、一言ずつ、綴るように言った。とはいえ、解けあわぬ兄妹でも、遺骨は墓地に納めさせてくれてあったのを、その人々も知っている。墓を建てたのを、差出たことをしたと思われないようにとも、友達たちは老人をいたわるようにいった。
「どういたしまして、よく、あれの心を知ってやってくださる、あなた方に、こうして頂いた事は、よい友達をもった、彼女の名誉で──」
と、兄という人は思慮深くいうのだった。
「あなた方は、彼女のことばかりお聞きなさってでしょうが──」
と、老人は、感慨を籠めて、わたくしも困りましたと言っていた。
そんな事も、よく聞きたいが、老人とわたしの座とは、かなり間がへだたっている。それに、洋服の男子が、その老人の方へむかって坐って、何か話しかけているので、老人のいうことは、半分もきこえてこなかった。
「彼女も、さぞ、わからない兄だと思ったでございましょうが、わたくしも困りました。わたくしの眼の悪くなったのも──」
と、黄白い四角い顔の、腫れあがったような眼瞼に掌をかぶせて、
「ただいまで申す、殴りこみのようなことを、彼女がいたしましたので──」
新旧思想の衝突──さまざまな家族苦難の一節の、そんなことを話すように、口がほぐれて来たのは、記念の写真をとったり、お墓へ参ったりしたあと、谷中名物の芋阪の羽二重団子などを食べだしてからだった。
「それはどんな訳で?」
と、きいたものがある。
「荷物でしたかなんだか、なんでもわたせと、男どもを連れて押かけてくるというので、それならばと、こちらでも、用心して人もいたのですが──戸障子をたたき破すような騒ぎで、その時、乱暴人に眼を打たれました。」
視力も失したとでもいったのか、まあね、という嘆息もまじってきこえた。
「あ、あすこの──あの時の方ですか?」
後向きの男の人の一人が、そんなふうに言っている。も一人の人は、遠藤氏といって清子さんとは同姓であって、死ぬきわまで一緒に暮していた人だということを、誰だったか、ささやいていた。
雑誌『青鞜』や、その他の書籍がひろげられて、なき人の書いたものが載っているのを、人々は見廻した。しめやかではあるが、わやわやしたなかなので、気分も悪いわたしは、近間で話している、ほんの一つ二つの逸話しか耳に残らなかった。
「ごく若い時には日本髷がすきでね。それも、銀杏がえしに切をかけたり、花櫛がすきで、その姿で婦人記者だというのだから、訪問されてびっくりする。」
「『二十世紀婦人』の記者でしたろう、その時分は。」
「たしか、東洋学生会の仲間で、印度人に、英語を教えていたでしょう。」
人々の眼には、ずっと若い時分の、遠藤清子さんが話されていた。わたしの眼には、それよりずっと後の、大正六、七年ごろ、もう最後に近いおりの、がくりと頬のおちた、鶴見のわたしの家で会食したおりの、つかれはてた顔ばかりが浮んでいる。
荒木郁子さんが、清子さん母子の墓のことを気にかけていたのは、清子さんの死後託された男の子を、震災のおり見失なって以来、十年にもなるがわからないから、その子も一緒に入れて建てたいという発願だった。
郁子さんは、玉茗館という旅館の娘だったので、清子さんの遺児はその遺志によって、『青鞜』同人たちから、郁子さんに依託することになった。そして、あの大正十二年の大震火災のおり、広い二階座敷にいたその子は、表階段の方へ逃げた。郁子さんは、裏階段へ逃れた。表階段の方へ駈けていった後姿は見たが、それっきりで、どんなに探しても現われてこないのだった。その子は──民雄は、岩野泡鳴氏の遺児ではあったが、当時の岩野夫人清子には実子ではないという事だった。父につかないで、清子さんの養子になり、離婚後も母と子として一緒にいた薄命な子だった。
泡鳴氏には、他にも子供は沢山ある。清子さんより先妻のお子、清子さんより後の妻の子。だが、清子さんとの結婚が風がわりであるばかりか、その子になっている民雄も、また別の腹に生れている不幸な子だ。
四十九歳で死んだ岩野泡鳴も、十九年間、わびしく墓表ばかりで、それも朽ち倒れかけた時、やはり荒木郁子さんの骨折りで、昨年、知友によって立派な墓石が建てられた。この人の半獣主義、刹那哲学、新自由主義は、文芸愛好者の、あまりにもよく知っていることだが、まだ知らぬ人のためにもと、昨年建てられた石碑の、碑文は、尤も簡単でよく述べられているから、それを記しておこう。
岩野泡鳴本名美衛、明治六年一月二十日淡路国洲本に生る。享年四十八歳、大正九年五月九日病死す。爾来墓石なきを悲み、友人相寄り此処にこの碑を建つ。泡鳴著作多く、詩歌に小説に、独自の異才を放つ。その感情の豊饒と、着想の奇抜は、時人を驚せり。その表現の率直なるは善良なる趣味性を害ふの感あるも、誰も泡鳴の天賦を疑ふものあるを聞かず、彼が文学的円熟期に入らずして死せるは、最も惜しむべきものとす。泡鳴初め浪漫主義を信じ、転じて表象主義に入り、再転して霊肉合致より本能の重大を力説して刹那主義なる新語を鋳造せり。泡鳴は人生の神秘を意識し、その絶対的単純化に依る生活力の充実を期せるものなり、遂に彼は、その信念を進めて新日本主義となせり。思ふに泡鳴は、一時代先んじたるものにして、将に来らんとする時代を暗示せり。
碑文はヨネ・ノグチ氏の撰である。(句点は仮に読みやすいように筆者が入れた。)
死ぬること愚なりといひて
高笑ひ君はまことに
命惜しみき
泡鳴子をおもうと、蒲原有明氏の歌も刻されてある。
かくのごとき文人と、その最も、思想的にも人間的にも精悍であったであろう時期に、深い交渉をもったのが遠藤清子なのであった。
一方に泡鳴氏が、一風も二風もある、風変りの人であるのに、彼女もまた、一通りのものでない考えを、恋愛と結婚についてもっていた。それがまた、潔癖すぎるほどに堅固に霊の結合をとなえ、精神的な融合から、性の問題にはいるべきだと、実に、きびしすぎるほど真面目に、彼女自身への貞操を守っているのだった。
彼女は、泡鳴氏に結婚を申込まれる前に、五年間もある人を思っていて、そして失恋している。プラトニックラブにやぶれた彼女は、国府津の海に入水したほど、「恋」に全霊的であり、彼女は事業も名誉も第二義的のもので、恋を生命としていたものは、それに破れれば現世に生きる意義を見出せないとまでいっている。そして、その最初の恋を、心の底にいつまでも宿していた。
彼女は、明治末期の、女性覚醒期に生れあわせて、彼女は大きな理想のもとに、それまでの女性とは異なる、生活方針を創造しようとした。我国において最初、覚醒運動を起した仲間の一人なので、彼女は彼女のゆく道を正しく歩もうと闘かったのだ。その理想主義者──泡鳴にいわせればローマン主義者の、愛の闘争は、破れたといっても決して敗北とはいわれまい。
そこへ忽然と現われたのが、半獣主義を標榜する泡鳴だったのだ。
明治四十二年十二月に、泡鳴は、突然面識もない彼女に、逢いに行って、二時間ばかりの間、率直に自分の半生の経歴を、告白的にあからさまに語りきかせた。清子はそのおりのことを日記では、泡鳴氏の素行には同感できなかったが、恬淡な性質には敬意を持つことが出来たと書いている。
その日はそれで帰ったが、五日ほどたつと、泡鳴は二度目の訪問をした。その日は清子の父親が来あわせていたので、
「明日、も一度会見したい。実は、重大な御相談があるのだが。」
と言って帰っていった。翌日は、ちゃんとやって来て、こんどは家庭の事情を告白した。
──妻とは名義だけであって、物質の補助をしてやるだけだから──
「三年以上も絶縁しているのだが、妻の同意がないので、正式の離婚が出来ないでいるだけだ。」
だから、気にかけないで清子に同棲してほしい、同時に結婚もしてくれと申込んだ。
午後二時ごろ、お昼飯をたべに、麻布の竜土軒へ行き、清子は井目をおいて、泡鳴と碁を二回かこんだが、二度とも清子が敗けた。そのあとを、二時間ばかり、泡鳴が玉突きをするのを見物していたが、こうした友人づきあいが、すっかり打解けた気分にはいりこめたものと見えて、幽霊坂の上でわかれる時には、引っこしの話までまとまって、新らしく家を借りる金を十五円泡鳴は清子に渡した。
「愛のない結婚なんて、自身を辱しめることだし、男を欺く罪悪だ。」
と清子は結婚は拒絶したが、一家に同棲して見るのは承知した。
「無論、あなたの人格を尊重して──」
という約束をした。
この約束は、突飛なようでもあるけれど、二度の告白で、泡鳴の正直さは、正直な彼女の心に触れたのでもあったろうが、だが、彼女は独りになると机の前で考えこんだ。愛は霊からはいったものでなければ本当でない、そして、正しい理智から出発したものでなければならないという、平常からの持論が拒んだ。
──あたしは、あなたに友情以上はもてない。
そう書いて、預かったお金を封入してかえそうとするうちに泡鳴の方から手紙が来た。
勿論第一条件だけでも拒絶されるよりもよいが、第二条件もなるべく考え直して承諾してもらいたい──そんな文面だった。
「あなたは、樗牛を愛読することから来たロマンチスト、僕があなたのロマンチストになるか、君が新自然主義になるか。」
泡鳴はそんなふうにもいったが、とも角共同生活にはいる話は、手っとりばやく纏まったのだった。
それまで、彼女は、五年間ばかりいた赤坂檜町十番地の家を引き払うことにしたのだ。拾った猫で、よく馴れているのがいたが、泡鳴が厭いだというので、近所へあずけてまで行くことにした。たしかに清子は、泡鳴に引かれたものであったには違いない。
その前年かに、泡鳴は小説「耽溺」を『新小説』に書いている。自然主義の波は澎湃として、田山花袋の「蒲団」が現れた時でもあった。
ここで、泡鳴と清子の、不思議な生活がはじまることを書こうとする前に、婦人解放の先駆、青鞜社の文学運動が、男の連中をも、かなり刺激したことを思出した。生田春月さんが、花世さんに求婚したのも、そんなふうな動機だった。
そしてまた、そのころは、自由劇場が、小山内さんによって提唱され、劇運動の炬火を押出した時でもあった。
偶然といえば、今、わたしが机にむかっているところは、赤坂檜町である。十番地は乃木坂のちかく、わたしの住居の裏の崖の上になっている。いま、音楽家の原信子の住んでいるところとの間になっている。あたしが、はじめに赤坂の家から遠藤清子のお墓にゆくところを書きだしたのも、ふと、その事を思ったからだ。しかも、泡鳴が清子を訪れたのは十二月の一日がはじめてで、十日にはもう大久保へ移転している。
今日は、昭和となってから十二年、もっとも画期的な年の、南京陥落をつげたその十二月であり、暦は廿二日だが──新劇運動の親、小山内薫氏のなくなったのも、クリスマスの晩で、十年前のこの月廿五日の宵だった。そして、自由劇場再進出の計画が、市川左団次によって実現されようとしている。
私は、霜白き暁を、多少の感傷をもって黙然としている。
二
テトテトと、暁の霜に冴えるラッパの響きに、眠りついたばかりの床のなかで、清子はうっすら眼をさました。
歩兵一聯隊の起床ラッパを、赤坂檜町の旧居で聴いている錯覚をおこしていたが、近くで猫が、咽喉を鳴らしている気もした。
はっきりしない頭のどこかで、猫は近所へあずけて来たはずだがと、預けたとはいえ、空家へ残して来た、黒と灰色との斑の毛並が、老人のゴマシオ頭のように小汚ならしくなってしまっていた、老猫のことがうかんだ。
──あれは、一ツ木の縁日へいった時、米屋の横の、溝っぷちに捨てられていたのを拾ってやったのだが、また宿なしになってしまやしないかしら。
泡鳴氏が汚ながるし、厭いなので、捨てて来はしたが──
と、そう思うと、引越しのとき、山のように積んだ荷車の、荷物の上へせっかく捨てた古柄杓を、泡鳴氏は拾って載せた──あんなことをしなければ好いのにと、見ないふりをして眼を反らしたが、冬の薄ら陽が、かたむきかけたのを痩せた背に受けて、古びしゃくを拾いあげて荷物の上にさしこんでいる、厭だった姿が、まぶたの上にはっきりとした。
「あ、赤坂の旧家じゃない。」
パッチリと眼がさめると、猫だと思ったのは、隣室から、男のいびきがきこえていたのだった。
ラッパの音は、戸山学校からきこえてくるのだった。大久保の新居に来ての朝夕、馴染のない場処でありながら、赤坂に住んだ五年間と変らないのは、陸軍のラッパの、音をきくことだけだった。
──もう、やがて、二十日ぢかくにもなる──
目がさめさえすれば、妙にしょんぼりと、越して来た日のことが、目に浮ぶのが、この頃のならわしになっていて、十二月九日に泡鳴氏と、此処に同棲しはじめてからのことが、またしても繰返して思いだされるのだった。荷物を出してから、二人して来たこの家に、家主のところから提燈を借りて来て、二人は相対していた。冷々した夕闇のなかで、提燈を抱えるようにして暖まったり、莨を吸ったりして荷物のくるのを待った。
お蕎麦で夕食をすませると、もう荷物も着くだろうと、家のなかを見廻して清子は言った。
「とにかく、同棲しても、まだ友人関係なのですから、あたしの寝間は、此処を茶の間にして、そっちの六畳ときめますから。」
「では、僕は、八畳の方か。あすこ、客間だね。」
と泡鳴氏はいった。二人は寒い、なんにもまだ置いてない室に眼をやった──その寝間から、いびきは洩れてくるのだった。
「あんなに、泣いたり、怒ったりしても、よく寝られるものだ。」
清子は毎夜のように持ちあがる、二人の間の暗闘──許す、許さぬの絡みあいを思った。俺は腹を切るといって怒るかと思えば、これほど熱愛を捧げる誠意を酌まないのかと泣く男が、枕につくと、ぐっすりと寝てしまうのを、不眠症になってしまって、朝まで眠れない自分とを思いくらべた。
──けれど、だんだん私は岩野を好きになっている。
と思わないわけにはゆかない。けれど、恋愛の芽もまだ宿してはいないと、心で頭は横に強く振った。
そんなことを思う傍らで、まだ移転の日のつづきを思い出しているのだった。翌日に着いた泡鳴の荷物は、荷車に二台の書籍と、あとは夜着と、鉄の手焙りだけだった。
「僕は、なにしろ、蟹の缶詰で失敗したから、何にもない。洋服が一着あるのだけれど、移転の金が足りなかったから、質に入れてしまった。」
その費用の幾分でも、分担しようと、清子が銀時計を出すと、
「君の品なんぞ出さなくったって好い。何しろ、樺太で、蟹の缶詰で一儲けしようと思ったのだが──蟹はあるが、缶の方がうまくいかなかったんだ。」
彼はてれくさく、笑いながら言った。
──良いところのある人だ──
清子は頬をおさえた手に、頬骨がさわる気がした。毎朝見る鏡に、眼ばかり大きくなってゆくのがわかるのだが、こう段々に、夜が苦しいものになって来ては堪らないし、眼のさめた瞬間の心さびしさも、朝々ごとに、たまらないものに思った。
腕力をもってくるなら、反抗する決心もあるが、沁々と訴えられるのは愁い。自分の思想を守るのに、そんなことで屈伏したり、陥落は出来ないとも思った。
最初の「霊の恋」の対手の男は、もう、すっかり醒めてしまっているのに、
「あなたは、泡鳴氏と、もう結婚したのですか。」
と、この同棲の新居へ訪ねて来て言った。
「どうとも、あなたの御想像にまかせます。」
と答えただけで、並んで月を見た。泡鳴もそれを見ていた。あとで嫌味をいったが、十月の冬の月は、皎々と冴え渡っていた。
お互の胸は、月と我々との距離だけの隔りを持っていると、その時はっきりそう思った。その男への執着でなく、霊の恋の記念のものだけが焼きすてかねて、再び見まい、手にも触れまいと、一包にくくって、行李の底に押籠んでしまった。
──だから、言って見れば、泡鳴に、霊の恋が芽生えさえすれば好いのだ──
けれど、それは、半獣主義を標榜する人に無理はわかっている。といって、それがそうならないからこそ、もろともに悩み呻吟くのではないか──
彼女は、窓の外の、軒端で笑っているような、雀の朝の声をきくまいとした。蒲団をひきかぶるようにして、外は、霜柱が鋭いことであろうと思った。なにもかもが、きびしすぎると感じながら、自分の主張は曲げられないと、キッシリと眼を閉じていた。見かけだけは仲の好い、新婚夫婦に見えて、霊肉合致の域にいたるまで、触れさせまいとする闘いに、互に心肉の鎬を削っている、妙な生活!
去年の今ごろ(明治四十一年)は、日本婦人の権利擁護のために、治安警察第五条解禁の運動に朝から晩まで駈け廻っていたものだが、今年は肉と霊との恋愛合戦に、血みどろの戦いだ!
彼女は、首を縮めて、ふとんをかぶると、大丸髷が枕にひっかかった。
*
許す許さぬの解決はつかないままだが、日が立つにつけ、この同棲生活の厳寒も、いくらかゆるんで来た。いらいらした霜柱も解けかけて来た。杉の木の二、三本あった庭には、赤坂からもって来た、乙女椿や、紅梅や、海棠などが、咲いたり、蕾が膨んだりした。清子の大好きな草花のさまざまな種類が、植えられたり種を播かれたりした。
「まあ、あなたが、そんな事して下さるようになったわね。」
と清子がいうように、泡鳴氏が土をいじっていることがある。文壇の交友たちの話をきくことも多くなって、清子も小説を書こうと思いたったりしはじめた。
一ツ石鹸箱をもって、連立って洗湯にゆくことも、この二人にはめずらしくはなかった。男湯の方で、水野葉舟や戸川秋骨氏と大声で話合っているのを、清子は女湯の浴槽につかってのどかにきいていることもあった。今日も、一足おくれて帰ってくると、家のなかで女の声がしていた。
「いま現金がないから、そのうち金のある時に返すといっているのに。肯かないのか。」
と、言っていたが、
「さあ、これが証文だ。」
何か書いて渡している様子だった。帰してしまうと、六畳の部屋へ顔を差入れて、化粧をしている清子の鏡のなかへ、自分の顔をうつしこんだ泡鳴は、
「彼女だよ、放浪(小説)のモデルの女は。缶詰事業のとき、彼女の着物も質に入れてしまったので、返してくれといって来たのだ。金がなければ、証文にしろといって、持っていった。」
清子は、今帰っていった女のことなどは、あんまり気にならなかった。鏡にむかって、鬢を掛きながら、思いだしていたのは、いつぞや、此処へ来て間もなく、やっぱりお湯から帰ってくると、主客の問答を、襖越しにきいた。
「まだか?」
「まだだ。」
その時の客は、正宗白鳥氏だったのだ。泡鳴氏の友達の方には、もっと手厳しいのがあって、ハガキで、そんなことをしていて、清子に男が出来たらどうするとか、彼女は生理的不具者なので、よんどころなくそうしているのだろうなぞといってきているのもあるのだった。
清子には、そんなことはなんでもない非難だと思えた。それよりも辛抱のならない女客があることが厭だった。それは、泡鳴氏の先妻幸子だ。三年前から別居しているという彼女は、冷やかな調子で、
「私は、貰うものさえ貰えば好いんですからね。どうせ、この夫とは気が合わないんだから、この夫はこの夫で、勝手なことをなさるがいいんです。あなたとは、気があっているそうだから結構でさあね。」
永遠性を誓えない邪恋を押退け純一無二のものでなければならないと、賤しむべき肉の恋をこばんで、苦しむ身に投げつける言葉のそれは、まだ忍耐するとしても、名ばかりの夫妻とはいえ、夫が厳冬の夜も二時三時まで書いていることを、この女は知らないのだろうか、文学家の朝夕は、思ったより悲惨なものであるのに、その金を催促に来て、いう言葉がそれなのだ。
──あの、賤しい女に、何で、わたしは見下げられるのだ──と、ふと、そのことを、いま、帰っていった、襖の向うの女の声から、連想を呼び出されていたところだったのだ。
「なにをぼんやりしているのさ。」
泡鳴氏は、はりあいなさそうにいった。
「ふん、これね、なんだか冷たい恋のようで、わたしたちに似ているから。」
と、清子は心にもないことをいって、はぐらかして、生けてあった連翹の黄色い花を指さしたが、鏡の中に、陰気くさい、気むずかしい顔をしている自分を見出すと、彼女は、またしても家のなかの空気を暗くしてしまう自分を、どうしようもなくなって、気をかえに散歩にでも一緒に行こうと、立上ると、八畳の部屋を覗いた。すると、泡鳴氏は後むきになって横になっていた。清子はその背中から、悶々としている憂愁を見てとった。
*
「僕はもう諦める。僕にそういう心を起させるものを切りすてる。泣くには及ばない。」
せせぐり泣く枕許で泡鳴はそういった。そんな事をさせてはならないと、二十八歳の処女は泣いたのだ。とはいえ、二ツの思想が同棲している以上、この争闘はくりかえされなければならない。
彼女は、どうかすると早起をして、台所に出たり、部屋の大掃除をしたり、菜漬をつけたりする。と思うと、戸山が原へ、銀のような色の月光を浴びにいったりする。「別れたる妻に送る手紙」という小説を書いた、近松秋江氏に同情して、この人のロストラブの哀史を、同情をもって読んでみようと思うといったりしていた。
立場の違う苦しみに、互に、弄り殺しのような日をおくりながら、二人の相愛の気持ちは日々に深まっていったのだった。日記をつけるのにも、岩野氏とか、泡鳴氏とか書いたのが、「君」となったが、三月ばかりするうちに、主人という字になった。
「あの女って、随分失礼な女だ。不作法ったってなんだって、教養のある婦人だというのに、いつだって案内もなしで、いきなり上りこんでくるなんて我慢が出来ない。」
彼女は先妻の幸子が、いつもの癖で、ずかずか上り込んで来て、例のくせで、朝、起きはぐれているところを、荒い足音で、わざと目をさまさせられたのを憤った。
中学教師をしていた時代の泡鳴と、女学校教師だった幸子とは、泡鳴が樺太へ蟹の事業をはじめる前に別れたのだが、清子は友人同棲をはじめてからも、幸子に同情して、泡鳴に復帰するようにさえ勧めたこともある。米や炭を送って、幸子の生活をたすけもした。それなのに、何時も来ると、自分が退いてやっているのだぞといわないばかりの仕打ちに、清子は腹を立てた。
だが、そんな不愉快な日ばかりもなかったのは、若葉の道を蛇の目傘をさしかけて、連れ立って入湯にゆくような、気楽さも楽しんでいる。
──主人の体量、万年湯ではかったら、十四貫三百五十目あったといって、よろこんでいらっしゃったと、日記につけたりしている。
暑い晩に、泡鳴は半裸体で原稿を書き、彼女は傍でルビを振っている。と、青蛙が飛び込んで来た。泡鳴は団扇で追いまわし、清子も手伝った。灯によって来た馬追虫もいる、こおろぎもいる、おけらもいるという騒ぎに、仔犬もはしゃいで玄関から上ってくれば、飼猫も出て来た。虫のとりあいをして、猫がこおろぎを食べると、犬がくやしがってワンワン吠えたてた。
「まるで動物園だ。」
と泡鳴が笑っているという図もあったりした。家庭生活にそこまで、犬も猫もきらいな泡鳴をひっぱりこみ、浸らせた清子の、一筋でない信念の強さがそれでも知れるが、そればかりではなかった。泡鳴は、そうした和やかな団欒には、勧進帳をうたったりなんかして、来あわした妹に、こんなことは兄さんはじめてだと、びっくりさせたりした。
──進んでノラともなれず、退いて半獣主義に同化することも出来ない。恋と思想と一致しない。私たちは常に絶えざる苦悶と懊悩とを免かれない。しかも君に対する恋の執着はどうすることも出来なくなっている──
それは偽りのない彼女の告白だ。
泡鳴は、金が出来たら広い場処に移って、鍵のかかる部屋をつくってあげようといい、結婚式は立派にしようと、優しくいった。
けれど、けれど、清子の思想は主張は、強かった。四十三年の一年は、その相剋をつづけて、四十四年の一月、熱海への三泊旅行も、以前の関係のままで押通した。
熱海の間歇温泉ではないが、この、珍無類夫妻の間には、間歇的に例の無言の闘争が始まるのだった。そして、彼女は終日唖になり、泡鳴はいろいろの所作をした。
「泣いたり、怒鳴ったりするのは、まだ悲しみや怒りの極みじゃない。悲痛の極は沈黙だ。沈黙が最も深い悲痛だ。」
と、泡鳴は言った。
飽満の後にくるたるみならば、まだ忍べるが、根本の愛の要求に錯誤があるからだと、彼女は悩みになやみぬいた、その夜の夜明けに、いよいよ気分をかえて、新しく彼を愛してゆこうと決心した。
「理智の判断を捨ててしまって、盲目に恋に身を投げだそう。そうしたら泡鳴も満足し、自分の淋しさも消えるかもしれない。」
自分を没くなすことは、もっと大きな自分をつくるために必要かもしれないと、彼女は自分に言いきかせた。そして、それをするならば、それは今日だ、この覚悟が崩れないうちにと思った。
打明けるには、快い顔をしていたかった。気分を軽くするために、晴れた日の下に出た。お友達の家で闘球をして遊んで、夕ぐれになって帰るとき、これならば、心から笑って話せると思った。新しい恋人の心持ちで話しあおうと急いだ。はずみきって玄関から上りながら、旦那さまおうちときいたら、婆やは、お出かけですと答えた。
清子の勢いこんだ覚悟は挫けてしまった。
泡鳴氏も苛々して酒ばかり飲んだ。そして、
「私は不幸な男だ。あなたも不幸だ。その上、貧乏はする。さぞ詰らないだろう。」
とつくづく言った。精神的にも、物質的にも、なんとか打破しなければいけない。それには、生活をすっかり改えるのに、限ると思ったためかどうか、『大阪新報』に入社することになった。後から清子も行くことになる前に、音楽家の北村氏夫妻が、新劇団体をつくるのに、女優にならないかと勧められて、清子の心は動いた。
「僕は自分の妻を、公衆に見せるのは嫌だな。」
と泡鳴は反対した。それには、うんといわなかった清子も、稽古を見にいってくると、すっかり厭になって断ってしまった。
*
いよいよ泡鳴が大阪へ出立する二日前の、三月廿六日の日記には、
──私の心は黒い夜の森のような、重い空気につつまれている──
と清子は書いている。二人で饑えても離れて心配するよりいいというような泡鳴からの手紙を読むと、想思の人が東西を離れるようになるとは、ほんとに憂世ではあるといい、苦労をともにする人は、呼べど答えぬ百余里の彼方の難波の宿にいるといい、すこしばかりの金を手にすると、この金を旅費にして、大阪にゆこうかしら、会いたいのは私ばかりでもあるまいからと、一緒にいれば、争闘つづける泡鳴を恋い慕った。蛙の声が気のせいか、オオサカオオサカときこえるともいうようになっていた。
君帰り物語りすと見しは夢、ふとうたたねの春宵の夢
君住むは西方百里飛鳥の、翼うらやみ大空を見る
と、だらしがないほど彼女は恋しさを告白するようになった。
とうとう、婆やを連れて、大阪へ、家財道具そっくり持ってゆく日が来た。
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大阪郊外池田山の麓に家居した彼女は、汽車に乗っただけで、郊外から郊外へ移って来たほど気が軽かった。
青菜に靄のかかる宵は、青葉の匂いのはげしいころだった。おなじような郊外の住家というが、二階から六甲山も眺められる池田での生活には、彼女はガラリと様子が一変してしまった。主人が、今朝のお出かけには御機嫌がよかったのに、お帰りになってから悪い、私がお出むかえしなかったからだろうか、なんぞというようになった。だが、それは表面だけで、四十四年五月十一日の日記には、
──私は結婚生活に経験がない。始めて男性に心身を許してしまった今日、私の結婚生活に対する幻影は早くもさめてしまった。古人が結婚は恋愛の墓だといっている。私は、恋人の努力によって、内外一致した恋愛生活が、真の結婚生活だと信じていた。結婚を葬るのは、当事者の努力が足りないためだと思っていた。しかし、これは私一人のイリュージョンかもしれない──
と、何処やらに絶望を噛みながら、それでも、純一に夫を愛そうと、恋の自伝を書くために、行李の底へ押込めておいた、五年間もつづけたという霊の恋の、形見の書簡を、陶器の火鉢をひっぱり出して燃してしまった。電燈が薄ぐらく曇る煙りのなかで、泡鳴を揺り起して見せると、
「妙なことをする人だ。急に何を思出したんだ、この夜更けに。」
と、もうそんな事には興味ももたなかった彼は、ともすると、
「なにも、いやいやいてもらいたくない。」
というようになった。
*
前号に、荒木郁子さんに養われて、震災の時に死んだ男の子を、清子の実子でないように書いたが、それは、あんまり諸方訊きあわせたための行きちがいであった。生田花世さんは、その頃、ペンネームを長曾部菊子といわれたが、芸術まず生活の実行からと、水野葉舟氏の家に女中奉公をされていた。仲のよかった岩野、水野の両家の交わりは、紫紺の釣金マントを着て、大丸髷の清子女史を伴なった泡鳴氏がお得意の面で、
「清子も、とうとう僕の子を、ここへ入れている。」
と、細君のお腹をさして、満足気にいってたのを見て知っているということだった。
釣鐘マントの流行は大正三、四年ごろだった。その時分に、この夫妻は大阪から帰って、東京巣鴨宮仲に住んでいた。四年の夏のころ、清子の健康はすぐれていなかったことや、大正十二年に九歳位だというのにも合っている。しかも、泡鳴氏が清子さんに別れる時、
「もう、あなたとも、永久のお別れですね。」
といったとき、泡鳴氏はこういっている。
「おれはそうは思わない。いつ喧嘩して帰って来るかも分らない。それに坊やは時々見にくるよ。」
泡鳴氏は、そのころ、筆記者に雇った蒲原房枝(後の夫人)と、不義の交わりがつづいていたのだった。
「蒲原とのことならば、もう一月も前から……が出来ていたのだが、私はあなたに対する尊敬は、今日でも持っている。」
とその関係を軽い調子で告白したのだった。
それは、清子にとって、重大なことだった。同棲して七年間、泡鳴の品行に一点の汚点もなくなったことは、清子の誇りでもあり、泡鳴の誇りでもあったのだ。多年の放縦生活を改めたという、家庭の美事光明が、一瞬にひっくりかえってしまったのだ。
清子はその侮辱を、冷静に考え処理しなければならないと思ったが、昂奮した。謀反者の間にいることがたまらなかった。
蒲原房枝は彼女にこういった。
「こんな関係になりましたからって、決して定まった月給よりほか頂こうとは思っていません。私は、お金をもらって囲われているようなことはしたくないのです。」
それからの泡鳴は、いっそ知れてしまったのをよい事にして、夜ごとに公然と、蒲原のところへ出かけて行くようになった。
千仭の底へつきおとされた気持ち──清子にとって、それよりもたまらないのは、そうなっても夫婦関係をつづけようとすることだった。
別居か離別か、その二ツに惑った彼女は、青鞜社に平塚明子さんをたずねた。
別居する決心がついた。収入の三分の二を渡してもらって、子供を養い、妻としての権利をもつのを条件に、私製証書は二通つくられた。
あんまり事件が突然なので、誰も彼もびっくりしたが、岩野氏はあっさりと、荷物を積んだ車と一緒に、
「さようなら。」
といって出ていってしまった
白々しい寂寞!
彼女はこんなことをいったことがある。
「あたしは芝で生れて神田で育って、綾瀬(隅田川上流)の水郷に、父と住んでいたことがある。あたしの十二の時、桜のさかりに大火事に焼かれて、それで家は没落しはじめたのです。その時の、赤い赤い火事に、幼い心をうたれた紅さと、泡鳴氏が出ていった夏の日の──八月でしたが、あの真昼の、まっ白な空虚さは、心からも、眼からもわすれられない。」
*
その後の清子さんは、切花や、鉢植の西洋花を売る店をひらいた。
泡鳴氏からの物質は約束通り届けられなかったものと見えた。後には、店の面倒をよく見てくれたり、深切にしてくれた青年と結婚した。大正九年に、その人との中に女の子が生れたので、夫の郷里京都へ、もろもろの問題を解決に旅立ったが、持病の胆石が悪化して、京都帝大病院で亡った。
暮の押迫った時分だった。『青鞜』はもうなくなったが、新婦人協会の仕事で、平塚さんは東京が離れられなかった。ありったけの手許の金を送ってやると、
「まあ、あの人も、仕事のことで、いま、お金がなくって困っているだろうに、送ってくれるなんて、少しでも、これは実に尊いお金だ。」
と、悦んだが、その時分には死を充分覚悟していて、泡鳴氏との遺児を、友達に頼みたいということを、遺言の第一に書いた。
悲しい結びつきであった。泡鳴氏にしても、大正四年四月、「新体詩作法」と、「新体詩史」を合したものを提出して、博士論文を要求していたのだが、審議に上っていた時に、清子さんと蒲原房枝とをめぐる事件の、世評がやかましくなったので、殆ど通過する間際になって否定されたということだ。
廿八歳まで、霊肉一致の、恋愛至上主義に生きぬこうとした意志の強い女性の、ほんとにこれは、断片を語るにすぎないが、彼女が、泡鳴氏との同居に、頑固なほど身を守っていた明治四十三年は、幸徳事件があったりした時だった。
底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「婦人公論」
1938(昭和13)年2~3月
初出:「婦人公論」
1938(昭和13)年2~3月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2007年9月5日作成
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