小説・評論集「文学母胎」後記
豊島与志雄


 本書の性質を一言しておく。

 私は嘗て、李永泰なる人物を見まもっていた。彼の時折の行動について、四つの短篇小説を書いた。最後に、彼の決定的発展段階を示す中篇或は長篇を、書くつもりでいた。その時、彼の前面に、他の人物が大きく立ち現われてきた。如何なる人物であるかは、他日の作品に譲って茲には云うまい。そういうわけで、李永泰は一応このまま放棄することになった。放棄された李永泰は、私にとっては、小さな愛すべき存在であると共に、他の新たな人物の背景的母胎でもある。──これが本書の第一部。

 新たな人物の、或は新たな作品の、生成発育を見まもりながら、作者というものは、いろいろなことを考えるものだ。甚だ真面目な考察に耽ることもあれば、甚だのんきな空想を逞うすることもある。もはや、一つの人物や一つの作品を離れて、目にふれ耳にはいるものについての、謂わば一般的な文学ノートが作られる。──これを少しく整理したものが本書の第二部。

 だが、日本はいま、戦争と発展とのただ中にある。このことは当然、吾々の文学一般の背景的母胎となる。私はこの母胎を、台湾や北支や中支に探ってみた。これは旅行記ではなくて、やはり一種の文学ノートである。但し、これらの土地の事情は刻々に変化しつつあるので、文章のそれぞれに日付をつけておいたし、その日付を考慮に入れて読んで貰いたいのだが、然し、急激な歴史の進展の底の変らぬものを、多少は捉えてるつもりでいる。──これが本書の第三部。

 以上、著者の立前だが、そんなことは無視して、ただ、ちょっと小説をのぞき、それから文学漫談をして、それから少しく旅行をしてみる。それぐらいな気持で読んで頂いてもよろしいのである。

底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社

   1967(昭和42)年1110日第1刷発行

初出:「文学母胎」河出書房

   1942(昭和17)年12

入力:門田裕志

校正:Juki

2013年511日作成

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