多神教
泉鏡花
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場所 美濃、三河の国境。山中の社──奥の院。
名 白寮権現、媛神。(はたち余に見ゆ)神職。(榛貞臣。修験の出)禰宜。(布気田五郎次)老いたる禰宜。雑役の仕丁。(棚村久内)二十五座の太鼓の男。〆太鼓の男。笛の男。おかめの面の男。道化の面の男。般若の面の男。後見一人。お沢。(或男の妾、二十五、六)天狗。(丁々坊)巫女。(五十ばかり)道成寺の白拍子に扮したる俳優。一ツ目小僧の童男童女。村の児五、六人。
禰宜 (略装にて)いや、これこれ(中啓を挙げて、二十五座の一連に呼掛く)大分日もかげって参った。いずれも一休みさっしゃるが可いぞ。
この言葉のうち、神楽の面々、踊の手を休め、従って囃子静まる。一連皆素朴なる山家人、装束をつけず、面のみなり。──落葉散りしき、尾花むら生いたる中に、道化の面、おかめ、般若など、居ならび、立添い、意味なき身ぶりをしたるを留む。おのおのその面をはずす、年は三十より四十ばかり。後見最も年配なり。
後見 こりゃ、へい、……神ぬし様。
道化の面の男 お喧しいこんでござりますよ。
〆太鼓の男 稽古中のお神楽で、へい、囃子ばかりでも、大抵村方は浮かれ上っておりますだに、面や装束をつけましては、媼、媽々までも、仕事稼ぎは、へい、手につきましねえ。
笛の男 明後日げいから、お社の御祭礼で、羽目さはずいて遊びますだで、刈入時の日は短え、それでは気の毒と存じまして、はあ、これへ出合いましたでごぜえますがな。
般若の面の男 見よう見真似の、から猿踊りで、はい、一向にこれ、馴れませぬものだでな、ちょっくらばかり面をつけて見ます了見の処。……根からお麁末な御馳走を、とろろも鱛も打ちまけました。ついお囃子に浮かれ出いて、お社の神様、さぞお見苦しい事でがんしょとな、はい、はい。
禰宜 ああ、いやいや、さような斟酌には決して及ばぬ。料理方が摺鉢俎板を引くりかえしたとは違うでの、催ものの楽屋はまた一興じゃよ。時に日もかげって参ったし、大分寒うもなって来た。──おお沢山な赤蜻蛉じゃ、このちらちらむらむらと飛散る処へ薄日の射すのが、……あれから見ると、近間ではあるが、もみじに雨の降るように、こう薄りと光ってな、夕日に時雨が来た風情じゃ。朝夕存じながら、さても、しんしんと森は深い。(樹立を仰いで)いずれも濡れよう、すぐにまた晴の役者衆じゃ。些と休まっしゃれ。御酒のお流れを一つ進じよう。神職のことづけじゃ、一所に、あれへ参られい。
後見 なあよ。
太鼓の男 おおよ。(言交す。)
道化の面の男 かえっておぞうさとは思うけんどが。
笛の男 されば。
おかめの面の男 御挨拶べい、かたがただで。(いずれも面を、楽しげに、あるいは背、あるいは胸にかけたるまま。)
後見 はい、お供して参りますで。
禰宜 さあさあ、これ。──いや、小児衆──(渠ら幼きが女の児二人、男の子三人にて、はじめより神楽を見て立つ)──一遊び遊んだら、暮れぬ間に帰らっしゃい。
後見 これ、立巌にも、一本橋にも、えっと気をつきょうぞよ。
小児一 ああ。
かくて社家の方、樹立に入る。もみじに松を交う。社家は見えず。
小児二 や、だいぶ散らかした。
小児三 そうだなあ。
小児一 よごれやしないやい、木の葉だい。
小児二 木の葉でも散らばった、でよう。
女児一 もみじでも、やっぱり掃くの?
女児二 茣蓙の上に散っていれば、内でもお掃除するわ。
女児一 神様のいらっしゃる処よ、きれいにして行きましょう。
女児二 お縁は綺麗よ。
小児一 じゃあ、階段から。おい、箒の足りないものは手で引掻け。
女児一 私は袂にするの。
小児二 乱暴だなあ、女のくせに。
女児三 だって、真紅なのだの、黄色い銀杏だの、故とだって懐へさ、入れる事よ。
折れたる熊手、新しきまた古箒を手ん手に引出し、落葉を掻寄せ掻集め、かつ掃きつつ口々に唄う。
「お正月は何処まで、
からから山の下まで、
土産は何じゃ。
榧や、勝栗、蜜柑、柑子、橘。」……
お沢 (向って左の方、真暗に茂れる深き古杉の樹立の中より、青味の勝ちたる縞の小袖、浅葱の半襟、黒繻子の丸帯、髪は丸髷。鬢やや乱れ、うつくしき俤に窶れの色見ゆ。素足草履穿にて、その淡き姿を顕わし、静に出でて、就中杉の巨木の幹に凭りつつ──間。──小児らの中に出づ)まあ、いいお児ね、媛神様のお庭の掃除をして、どんなにお喜びだか知れません──姉さん……(寂く微笑む)あの、小母さんがね、ほんの心ばかりの御褒美をあげましょう。一度お供物にしたのですよ。さあ、お菓子。
小児ら、居分れて、しげしげ瞻る。
お沢 さあ、めしあがれ。
小児一 持って行くの。
女児一 頂いて帰るの。(皆いたいけに押頂く。)
お沢 まあ。何故ね。
女児二 でも神様が下さるんですもの。
お沢 ああ、勿体ない。私はお三どんだよ、箒を一つ貸して頂戴。
小児二 じゃあ、おつかい姫だ。
女児一 きれいな姉さん。
女児二 こわいよう。
小児一 そんな事いうと、学校で笑われるぜ。
女児一 だって、きれいな小母さん。
女児二 こわいよう。
小児二 少しこわいなあ。
いい次ぎつつ、お沢の落葉を掻寄する間に、少しずつやや退る。
小児一 お正月かも知れないぜ。この山まで来たんだ。
小児二 や、お正月は女か。
小児三 知らない。
小児一 狐だと大変だなあ。
小児二 そうすりゃこのお菓子なんか、家へ帰ると、榧や勝栗だ。
小児三 そんなら可いけれど、皆木の葉だ。
女の児たち きゃあ──
男の児たち やあ、転ぶない。弱虫やい。──(かくて森蔭にかくれ去る。)
お沢 (箒を堂の縁下に差置き、御手洗にて水を掬い、鬢掻撫で、清き半巾を袂にし、階段の下に、少時ぬかずき拝む。静寂。きりきりきり、はたり。何処ともなく機織の音聞こゆ。きりきりきり、はたり。──お沢。面を上げ、四辺を眗し耳を澄ましつつ、やがて階段に斜に腰打掛く。なお耳を傾け傾け、きりきりきり、はたり。間調子に合わせて、その段の欄干を、軽く手を打ちて、機織の真似し、次第に聞惚れ、うっとりとなり、おくれ毛はらはらとうなだれつつ仮睡る。)
仕丁 (揚幕の裡にて──突拍子なる猿の声)きゃッきゃッきゃッ。(乃ち面長き老猿の面を被り、水干烏帽子、事触に似たる態にて──大根、牛蒡、太人参、大蕪。棒鱈乾鮭堆く、片荷に酒樽を積みたる蘆毛の駒の、紫なる古手綱を曳いて出づ)きゃッ、きゃッ、きゃッ、おきゃッ、きゃア──まさるめでとうのう仕る、踊るが手もと立廻り、肩に小腰をゆすり合わせ、と、ああふらりふらりとする。きゃッきゃッきゃッきゃッ。あはははは。お馬丁は小腰をゆするが、蘆毛よ。(振向く)お厩が近うなって、和どのの足はいよいよ健かに軽いなあ。この裏坂を帰らいでも、正面の石段、一飛びに翼の生じた勢じゃ。ほう、馬に翼が生えて見い。われらに尻尾がぶら下る……きゃッきゃッきゃッ。いや化の皮の顕われぬうちに、いま一献きこしめそう。待て、待て。(馬柄杓を抜取る)この世の中に、馬柄杓などを何で持つ。それ、それこのためじゃ。(酒を酌む)ととととと。(かつ面を脱ぐ)おっとあるわい。きゃッきゃッきゃッ。仕丁めが酒を私するとあっては、御前様、御機嫌むずかしかろう。猿が業と御覧ずれば仔細ない。途すがらも、度々の頂戴ゆえに、猿の面も被ったまま、脱いでは飲み被っては飲み、質の出入れの忙しい酒じゃな。あはははは。おおおお、竜の口の清水より、馬の背の酒は格別じゃ、甘露甘露。(舌鼓うつ)たったったっ、甘露甘露。きゃッきゃッきゃッ。はて、もう御前に近い。も一度馬柄杓でもあるまいし、猿にも及ぶまい。(とろりと酔える目に、あなたに、階なるお沢の姿を見る。慌しくまうつむけに平伏す)ははッ、大権現様、御免なされ下さりませ、御免なされ下さりませ。霊験な御姿に対し恐多い。今やなぞ申しましたる儀は、全く譫言にござります。猿の面を被りましたも、唯おみきを私しょう、不届ばかりではござりませぬ、貴女様御祭礼の前日夕、お厩の蘆毛を猿が曳いて、里方を一巡いたしますると、それがそのままに風雨順調、五穀成就、百難皆除の御神符となります段を、氏子中申伝え、これが吉例にござりまして、従って、海つもの山つものの献上を、は、はッ、御覧の如く清らかに仕りまする儀でござりまして、偏にこれ、貴女様御威徳にござります。お庇を蒙りまする嬉しさの余り、ついたべ酔いまして、申訳もござりませぬ。真平御免され下されまし。ははッ、(恐る恐る地につけたる額を擡ぐ。お沢。うとうととしたるまま、しなやかに膝をかえ身動ぎす。長襦袢の浅葱の褄、しっとりと幽に媚めく)それへ、唯今それへ参りまする。恐れ恐れ。ああ、恐れ。それ以て、烏帽子きた人の屑とも思召さず、面の赤い畜生とお見許し願わしう、はッ、恐れ、恐れ。(再び猿の面を被りつつも進み得ず、馬の腹に添い身を屈め、神前を差覗く)蘆毛よ、先へ立てよ。貴女様み気色に触る時は、矢の如く鬢櫛をお投げ遊ばし、片目をお潰し遊ばすが神罰と承る。恐れ恐れ。(手綱を放たれたる蘆毛は、頓着なく衝と進む。仕丁は、ひょこひょこと従い続く。舞台やがて正面にて、蘆毛は一気に厩の方、右手もみじの中にかくる。この一気に、尾の煽をくらえる如く、仕丁、ハタと躓き四つに這い、面を落す。慌てて懐に捻込む時、間近にお沢を見て、ハッと身を退りながら凝と再び見直す)何じゃ、人か、参詣のものか。はて、可惜二つない肝を潰した。ほう、町方の。……艶々と媚めいた婦じゃが、ええ、驚かしおった、おのれ! しかも、のうのうと居睡りくさって、何処に、馬の通るを知らぬ婦があるものか、野放図な奴めが。──いやいや、御堂、御社に、参籠、通夜のものの、うたたねするは、神の御つげのある折じゃと申す。神慮のほども畏い。……眠を驚かしてはなるまいぞ。(抜足に社前を横ぎる時、お沢。うつつに膝を直さんとする懐中より、一挺の鉄槌ハタと落つ。カタンと鳴る。仕丁。この聊の音にも驚きたる状して、足を爪立てつつ熟と見て、わなわなと身ぶるいするとともに、足疾に樹立に飛入る。間。──懐紙の端乱れて、お沢の白き胸さきより五寸釘パラリと落つ。)
白寮権現の神職を真先に、禰宜。村人一同。仕丁続いて出づ──神職、年四十ばかり、色白く肥えて、鼻下に髯あり。落ちたる鉄槌を奪うと斉しく、お沢の肩を掴む。
神職 これ、婦。
お沢 (声の下に驚き覚め、身を免れんとして、階前には衆の林立せるに遁場を失い、神職の手を振りもぎりながら)御免なさいまし、御免なさいまし。(一度階をのぼりに、廻廊の左へ遁ぐ。人々は縁下より、ばらばらとその行く方を取巻く。お沢。遁げつつ引返すを、神職、追状に引違え、帯際をむずと取る。ずるずる黒繻子の解くるを取って棄て、引据え、お沢の両手をもて犇と蔽う乱れたる胸に、岸破と手を差入る)あれ、あれえ。
神職 (発き出したる形代の藁人形に、すくすくと釘の刺りたるを片手に高く、片手に鉄槌を翳すと斉しく、威丈高に突立上り、お沢の弱腰を摚と蹴る)汚らわしいぞ! 罰当り。
お沢 あ。(階を転び落つ。)
神職 鬼畜、人外、沙汰の限りの所業をいたす。
禰宜 いや何とも……この頃の三晩四晩、夜ふけ小ふけに、この方角……あの森の奥に当って、化鳥の叫ぶような声がしまするで、話に聞く、咒詛の釘かとも思いました。なれど、場所柄ゆえの僻耳で、今の時節に丑の刻参などは現にもない事と、聞き流しておったじゃが、何と先ず……この雌鬼を、夜叉を、眼前に見る事わい。それそれ俯向いた頬骨がガッキと尖って、頤は嘴のように三角形に、口は耳まで真赤に裂けて、色も縹になって来た。
般若の面の男 (希有なる顔して)禰宜様や、私らが事をおっしゃるずらか。
禰宜 気もない事、この女夜叉の悪相じゃ。
般若の面の男 ほう。
道化の面の男 (うそうそと前に出づ)何と、あの、打込む太鼓……
〆太鼓の男 何じゃい。何じゃい。
道化の面 いや、太鼓ではない。打込む、それよ、カーンカーンと五寸釘……あの可恐い、藁の人形に五寸釘ちゅうは、はあ、その事でござりますかね。(下より神職の手に伸上る。)
笛の男 (おなじく伸上る)手首、足首、腹の真中(我が臍を圧えて反る)ひゃあ、みしみしと釘の頭も見えぬまで打込んだ。ええ、血など、ぼたれてはいぬずらか。
神職 (彼が言のままに、手、足、胴腹を打返して藁人形を翳し見る)血も滴りょう。…藁も肉のように裂けてある。これ、寄るまい。(この時人々の立かかるを掻払う)六根清浄、澄むらく、浄むらく、清らかに、神に仕うる身なればこそ、この邪を手にも取るわ。御身たちが悪く近づくと、見たばかりでも筋骨を悩み煩らうぞよ。(今度は悠然として階を下る。人々は左右に開く)荒び、すさみ、濁り汚れ、ねじけ、曲れる、妬婦め、われは、先ず何処のものじゃ。
お沢 (もの言わず。)
神職 人の娘か。
お沢 (わずかに頭ふる。)
神職 人妻か。
禰宜 人妻にしては、艶々と所帯気が一向に見えぬな。また所帯せぬほどの身柄とも見えぬ。妾、てかけ、囲ものか、これ、霊験な神の御前じゃ、明かに申せ。
お沢 はい、何も申しませぬ、ただ(きれぎれにいう)お恥しう存じます。
神職 おのれが恥を知る奴か。──本妻正室と言わばまた聞こえる。人のもてあそびの腐れ爛れ汚れものが、かけまくも畏き……清く、美しき御神に、嫉妬の願を掛けるとは何事じゃ。
禰宜 これ、速におわびを申し、裸身に塩をつけて揉んでなりとも、払い浄めておもらい申せ。
神職 いや布気田、(禰宜の名)払い清むるより前に、第一は神の御罰、神罰じゃ。御神の御心は、仕え奉る神ぬしがよく存じておる。──既に、草刈り、柴刈りの女なら知らぬこと、髪、化粧し、色香、容づくった町の女が、御堂、拝殿とも言わず、この階に端近く、小春の日南でもある事か。土も、風も、山気、夜とともに身に沁むと申すに。──
神楽の人々。「酔も覚めて来た」「おお寒」など、皆、襟、袖を掻合わす。
神職 ……居眠りいたいて、ものもあろうず、棺の蓋を打つよりも可忌い、鉄槌を落し、釘を溢す──釘は?……
禰宜 (掌を見す)これに。
神楽の人々、そと集い覗く。
神職 即ち神の御心じゃ──その御心を畏み、次第を以て、順に運ばねば相成らん。唯今布気田も申す──三晩、四晩、続けて、森の中に鉄槌の音を聞いたというが、毎夜、これへ参ったのか、これ、明に申せよ。どうじゃ。
お沢 はい、(言い淀み、言い淀み)今……夜……が、満……願……でございました。
神職 (御堂を敬う)ああ、神慮は貴い。非願非礼はうけ給わずとも、俗にも満願と申す、その夕に露顕した。明かに邪悪を退け給うたのじゃ。──先刻も見れば、その森から出て参って、小児たちに何か菓子ようのものを与えたが、何か、いつも日の中から森の奥に潜みおって、夜ふけを待って呪詛うたかな。
お沢 はい……あの……もうおかくしは申しません。お山の下の恐しい、あの谿河を渡りました。村方に、知るべのものがありまして、其処から通いましたのでございます。
神楽の人々囁き合う。
禰宜 知っておるかな。
──「なあ。」「よ。」「うむ。」「あれだ。」口々に──
後見 何が、お霜婆さんの、ほれ、駄菓子屋の奥に、ちらちらする、白いものがあっけえ。町での御恩人ぞい。恥しい病さあって隠れてござるで、ほっても垣のぞきなどせまいぞ、と婆さんが言うだでな。
笛の男 癩ずらか。
太鼓の男 恥しい病ちゅうで。
おかめの面の男 ほんでも、孕んだ娘だべか。
禰宜 女子が正しい懐妊は恥ではないのじゃ。それでは、毎晩、真夜中に、あの馬も通らぬ一本橋を渡ったじゃなあ。
道化の面の男 女の一念だで一本橋を渡らいでかよ。ここら奥の谿河だけれど、ずっと川下で、東海道の大井川より大かいという、長柄川の鉄橋な、お前様。川むかいの駅へ行った県庁づとめの旦那どのが、終汽車に帰らぬわ。予てうわさの、宿場の娼婦と寝たんべい。唯おくものかと、その奥様ちゅうがや、梅雨ぶりの暗の夜中に、満水の泥浪を打つ橋げたさ、すれすれの鉄橋を伝ってよ、いや、四つ這いでよ。何が、いま産れるちゅう臨月腹で、なあ、流に浸りそうに捌き髪で這うて渡った。その大な腹ずらえ、──夜がえりのものが見た目では、大い鮟鱇ほどな燐火が、ふわりふわりと鉄橋の上を渡ったいうだね、胸の火が、はい、腹へ入って燃えたんべいな。
仕丁 お言の中でありますがな、橋が危くば、下の谿河は、巌を伝うて渡られますでな、お厩の馬はいつも流を越します。いや、先刻などは、落葉が重なり重なり、水一杯に渦巻いて、飛々の巌が隠れまして、何処を渡ろうかと見ますうちに、水も、もみじで、一面に真紅になりました。おっと……酔った目の所為ではござりませぬよ。
禰宜 棚村。(仕丁の名)御身は何の話をするや。
仕丁 はあ、いえ、孕婦が鉄橋を這越すから見ますれば、丑の刻参が谿河の一本橋は、気もなく渡ると申すことで。石段は目につきます。裏づたいの山道を森へ通ったに相違はござりますまい。
神職 棚村、御身まず、その婦の帯を棄てい。
禰宜 かような婦の、汚らわしい帯を、抱いているという事があるものか。
仕丁 私が、確と圧えておりますればこそで、うかつに棄てますと、このまま黒蛇に成って踠り廻りましょう。
禰宜 榛(神職名)様がおっしゃる。樹の枝へなりと掛けぬかい。
仕丁 樹に掛けましたら、なお、ずるずると大蛇に成って下ります。(一層胸に抱く。)
神職 棚村、見苦しい、森の中へ放し込め。
仕丁、その言の如くにす。──
お沢 あの……(ふるえながら差出す手を、払いのけて、仕丁。森に行く。帯を投げるとともに飛返る。)
神職 何とした。
仕丁 ずるずるずると巻きましたが、真黒な一幅になって、のろのろと森の奥へ入りました。……大方、釘を打込みます古杉の根へ、一念で、巻きついた事でござりましょう。
神職 いずれ、森の中において、忌わしく、汚らわしき事をいたしおるは必定じゃ。さて、婦。……今日は昼から籠ったか。真直に言え、御前じゃぞ。
お沢 はい、(間)はい、あの、一七日の満願まで……この願を掛けますものは、唯一目、……一度でも、人の目に掛りますと、もうそれぎりに、願が叶わぬと申します。昨夜までは、獣の影にも逢いません。もう一夜、今夜だけ、また不思議に満願の夜といいますと、人に見られると聞きました。見られたら、どうしましょう。口惜い……その人の、咽喉、胸へ喰いつきましても……
神職 これだ──したたかな婦めが。
お沢 ええ、あのそれが何になりましょう。昼から森にかくれました方が、何がどうでも、第一、人の目にかかりますまいと、ふと思いついたのです。木の葉を被り、草に突伏しても、すくまりましても、雉、山鳥より、心のひけめで、見つけられそうに思われて、気が気ではありません。かえって、ただの参詣人のようにしております方が、何の触りもありますまいと、存じたのでございます。
神職 秘しがくしに秘め置くべき、この呪詛の形代を(藁人形を示す)言わば軽々しう身につけおったは──別に、恐多い神木に打込んだのが、森の中にまだ他にもあるからじゃろ。
お沢 いいえ、いいえ……昨夜までは、打ったままで置きました。私がちょっとでも立離れます間に──今日はまたどうした事でございますか、胸騒ぎがしますまで。……
禰宜 いや、胸騒ぎが凄じい、男を呪詛うて、責殺そうとする奴が。
お沢 あの、人に見つかりますか、鳥獣にも攫われます。故障が出来そうでなりません。それで……身につけて出ましたのです。そして……そして……お神ぬし様、皆様、誰方様も──憎い口惜しい男の五体に、五寸釘を打ちますなどと、鬼でなし、蛇でなし、そんな可恐い事は、思って見もいたしません。可愛い、大事な、唯一人の男の児が煩っておりますものですから、その病を──疫病がみを──
「ええ。」「疫病神。」村人らまた退る。
神職 疫病神を──
お沢 はい、封じます、その願掛けなんでございますもの。
神職 町にも、村にも、この八里四方、目下疱瘡も、はしかもない、何の疾だ。
お沢 はい……
禰宜 何病じゃ。
お沢 はい、風邪を酷くこじらしました。
神職 (嘲笑う)はてな、風に釘を打てば何になる、はてな。
禰宜 はてな、はてな。
村人らも引入れられ、小首を傾くる状、しかつめらし。
仕丁 はあ、皆様、奴凧が引掛るでござりましょうで。
──揃って嘲り笑う。──
神職 出来た。──掛ると言えば、身たちも、事件に引掛りじゃ。人の一命にかかわる事、始末をせねば済まされない。……よくよく深く企んだと見えて──見い、その婦、胸も、膝も、ひらしゃらと……(お沢、いやが上にも身を細め、姿の乱れを引つくろい引つくろい、肩、袖、あわれに寂しく見ゆ)余りと言えば雪よりも白い胸、白い肌、白い膝と思うたれば、色もなるほど白々としたが、衣服の下に、一重か、小袖か、真白い衣を絡いいる。魔の女め、姿まで調えた。あれに(肱長く森を指す)形代を礫にして、釘を打った杉のあたりに、如何ような可汚しい可忌しい仕掛があろうも知れぬ。いや、御身たち、(村人と禰宜にいう)この婦を案内に引立てて、臨場裁断と申すのじゃ。怪しい品々かっぽじって来られい。証拠の上に、根から詮議をせねばならぬ。さ、婦、立てい。
禰宜 立とう。
神職 許す許さんはその上じゃ。身は──思う旨がある。一度社宅から出直す。棚村は、身ととも参れ。──村の人も婦を連れて、引立てて──
村人ら、かつためらい、かつ、そそり立ち、あるいは捜し、手近きを掻取って、鍬、鋤の類、熊手、古箒など思い思いに得ものを携う。
後見 先へ立て、先へ立とう。
禰宜 箒で、そのやきもちの頬を敲くぞ、立ちませい。
お沢 (急に立って、颯と森に行く。一同面を見合すとともに追って入る。神職と仕丁は反対に社宅─舞台上には見えず、あるいは遠く萱の屋根のみ─に入る。舞台空し。落葉もせず、常夜燈の光幽に、梟。二度ばかり鳴く。)
神職 (威儀いかめしく太刀を佩き、盛装して出づ。仕丁相従い床几を提げ出づ。神職。厳に床几に掛る。傍に仕丁踞居て、棹尖に剣の輝ける一流の旗を捧ぐ。──別に老いたる仕丁。一人。一連の御幣と、幣ゆいたる榊を捧げて従う。)
お沢 (悄然として伊達巻のまま袖を合せ、裾をずらし、打うなだれつつ、村人らに囲まれ出づ。引添える禰宜の手に、獣の毛皮にて、男枕の如くしたる包一つ、怪き紐にてかがりたるを不気味らしく提げ来り、神職の足近く、どさと差置く。)
神職 神のおおせじゃ、婦、下におれ。──誰ぞ御灯をかかげい──(村人一人、燈を開く。灯にすかして)それは何だ。穿出したものか、ちびりと濡れておる。や、(足を爪立つ)蛇が絡んだな。
禰宜 身どもなればこそ、近う寄っても見ましたれ。これは大木の杉の根に、草にかくしてござりましたが、おのずから樹の雫のしたたります茂ゆえ、びしゃびしゃと濡れております。村の衆は一目見ますと、声も立てずに遁ぎょうとしました。あの、円肌で、いびつづくった、尾も頭も短う太い、むくりむくり、ぶくぶくと横にのたくりまして、毒気は人を殺すと申す、可恐く、気味の悪い、野槌という蛇そのままの形に見えました。なれども、結んだのは生蛇ではござりませぬ。この悪念でも、さすがは婦で、包を結えましたは、継合わせた蛇の脱殻でござりますわ。
神職 野槌か、ああ、聞いても忌わしい。……人目に触れても近寄らせまい巧じゃろ、企んだな。解け、解け。
禰宜 (解きつつ)山犬か、野狐か、いや、この包みました皮は、狢らしうござります。
一同目を注ぐ。お沢はうなだれ伏す。
神職 鏡──うむ、鉄輪──うむ、蝋燭──化粧道具、紅、白粉。おお、お鉄漿、可厭なにおいじゃ。……別に鉄槌、うむ、赤錆、黒錆、青錆の釘、ぞろぞろと……青い蜘蛛、紅い守宮、黒蜥蜴の血を塗ったも知れぬ。うむ、(きらりと佩刀を抜きそばむると斉しく、藁人形をその獣の皮に投ぐ)やあ、もはや陳じまいな、婦。──で、で、で先ず、男は何ものだ。
お沢 (息の下にて言う)俳優です。
──「俳優、」「ほう俳優。」「俳優。」と口々に言い継ぐ。
神職 何じゃ、俳優?……──町へ参ってでもおるか。国のものか。
お沢 いいえ、大阪に──
禰宜 やけに大胆に吐すわい。
神職 おのれは、その俳優の妾か。
お沢 いいえ。
神職 聞けば、聞けば聞くほど、おのれは、ここだくの邪淫を侵す。言うまでもない、人の妾となって汚れた身を、鏝塗上塗に汚しおる。あまつさえ、身のほどを弁えずして、百四、五十里、二百里近く離れたままで人を咒詛う。
仕丁 その、その俳優は、今大阪で、名は何と言うかな。姉様。
神職 退れ、棚村。恁る場合に、身らが、その名を聞き知っても、禍は幾分か、その呪詛われた当人に及ぶと言う。聞くな。聞けば聞くほど、何が聞くほどの事もない。──淫奔、汚濁、しばらくの間も神の御前に汚らわしい。茨の鞭を、しゃつの白脂の臀に当てて石段から追落そう。──が呆れ果てて聞くぞ、婦。──その釘を刺した形代を、肌に当てて居睡った時の心持は、何とあった。
お沢 むずむず痒うございました。
禰宜 何じゃ藁人形をつけて……肌が痒い。つけつけと吐す事よ。これは気が変になったと見える。
お沢 いいえ、夢は地獄の針の山。──目の前に、茨に霜の降りましたような見上げる崖がありまして、上れ上れと恐しい二つの鬼に責められます。浅ましい、恥しい、裸身に、あの針のざらざら刺さるよりは、鉄棒で挫かれたいと、覚悟をしておりましたが、馬が、一頭、背後から、青い火を上げ、黒煙を立てて駈けて来て、背中へ打つかりそうになりましたので、思わず、崖へころがりますと、形代の釘でございましょう、針の山の土が、ずぶずぶと、この乳へ……脇の下へも刺りましたが、ええ、痛いのなら、うずくのなら、骨が裂けても堪えます。唯くわッと身うちがほてって、その痒いこと、むず痒さに、懐中へ手を入れて、うっかり払いましたのが、つい、こぼれて、ああ、皆さんのお目に留ったのでございます。
神職 はて、しぶとい。地獄の針の山を、痒がる土根性じゃ。茨の鞭では堪えまい。よい事を申したな、別に御罰の当てようがある。何よりも先ず、その、世に浅ましい、鬼畜のありさまを見しょう。見よう。──御身たちもよく覚えて、お社近い村里の、嫁、嬶々、娘の見せしめにもし、かつは郡へも町へも触れい。布気田。
禰宜 は。
神職 じたばたするなりゃ、手取り足取り……村の衆にも手伝わせて、その婦の上衣を引剥げ。髪を捌かせ、鉄輪を頭に、九つか、七つか、蝋燭を燃して、めらめらと、蛇の舌の如く頂かせろ。
仕丁 こりゃ可い、可い。最上等の御分別。
神職 退れ、棚村。さ、神の御心じゃ、猶予うなよ。
──渠ら、お沢を押取込めて、そのなせる事、神職の言の如し。両手を扼り、腰を押して、真正面に、看客にその姿を露呈す。──
お沢 ヒイ……(歯を切りて忍泣く。)
神職 いや、蒼ざめ果てた、がまだ人間の婦の面じゃ。あからさまに、邪慳、陰悪の相を顕わす、それ、その般若、鬼女の面を被せろ。おお、その通り。鏡も胸に、な、それそれ、藁人形、片手に鉄槌。──うむその通り。一度、二度、三度、ぐるぐると引廻したらば、可。──何と、丑の刻の咒詛の女魔は、一本歯の高下駄を穿くと言うに、些ともの足りぬ。床几に立たせろ、引上げい。
渠は床几を立つ。人々お沢を抱すくめて床几に載す。黒髪高く乱れつつ、一本の杉の梢に火を捌き、艶媚にして嫋娜なる一個の鬼女、すっくと立つ──
お沢 ええ! 口惜しい。(殆ど痙攣的に丁と鉄槌を上げて、面斜めに牙白く、思わず神職を凝視す。)
神職 (魔を切るが如く、太刀を振ひらめかしつつ後退る)したたかな邪気じゃ、古今の悪気じゃ、激い汚濁じゃ、禍じゃ。(忽ち心づきて太刀を納め、大なる幣を押取って、飛蒐る)御神、祓いたまえ、浄めさせたまえ。(黒髪のその呪詛の火を払い消さんとするや、かえって青き火、幣に移りて、めらめらと燃上り、心火と業火と、もの凄く立累る)やあ、消せ、消せ、悪火を消せ、悪火を消せ。ええ、埒あかぬ。床ぐるみに蹴落さぬかいやい。(狼狽て叫ぶ。人々床几とともに、お沢を押落し、取包んで蝋燭の火を一度に消す。)
お沢 (崩折れて、倒れ伏す。)
神職 (吻と息して)──千慮の一失。ああ、致しようを過った。かえって淫邪の鬼の形相を火で明かに映し出した。これでは御罰のしるしにも、いましめにもならぬ。陰惨忍刻の趣は、元来、この婦につきものの影であったを、身ほどのものが気付かなんだ。なあ、布気田。よしよし、いや、村の衆。今度は鬼女、般若の面のかわりに、そのおかめの面を被せい、丑の刻参の装束を剥ぎ、素裸にして、踊らせろ。陰を陽に翻すのじゃ。
仕丁 あの裸踊、有難い。よい慰み、よい慰み。よい慰み!
神職 退れ、棚村。慰みものではないぞ、神の御罰じゃ。
禰宜 踊りましょうかな。ひひひ。(ニヤリニヤリと笑う。)
神職 何さ、笛、太鼓で囃しながら、両手を引張り、ぐるぐる廻しに、七度まで引廻して突放せば、裸体の婦だ、仰向けに寝はせまい。目ともろともに、手も足も舞踊ろう。
「遣るべい、」「遣れ。」「悪魔退散の御祈祷。」村人は饒舌り立つ。太鼓は座につき、早や笛きこゆ。その二、三人はやにわにお沢の衣に手を掛く。──
お沢 ああ、まあ、まあ。
神職 構わず引剥げ。裸体のおかめだ。紅い二布……湯具は許せよ。
仕丁 腰巻、腰巻……(手伝いかかる。)
禰宜 おこしなどというのじゃ。……汚れておろうかの。
後見 この婦なら、きれいでがすべい。
お沢 (身悶えしながら)堪忍して下さいまし、堪忍して下さいまし、そればかりは、そればかりは。
神職 罷成らん! 当社の掟じゃ。が、さよういたした上は、追放して許して遣る。
お沢 どうぞ、このままお許し下さいまし、唯お目の前を離れましたら、里へも家へも帰らずに、あの谿河へ身を投げて、死でお詫をいたします。
神職 水は浅いわ。
お沢 いいえ、あの急な激しい流れ、巌に身体を砕いても。──ええ、情ない、口惜い。前刻から幾度か、舌を噛んで、舌を噛んで死のうと思っても、三日、五日、一目も寝ぬせいか、一枚も欠けない歯が皆弛んで、噛切るやくに立ちません。舌も縮んで唇を、唇を噛むばかり。(その唇より血を流す。)
神職 いよいよ悪鬼の形相じゃ。陽を以って陰を払う。笛、太鼓、さあ、囃せ。引立てろ。踊らせい。
とりどりに、笛、太鼓の庭につきたるが、揃って音を入る。
お沢 (村人らに虐げられつつ)堪忍ね、堪忍、堪忍して、よう。堪忍……あれえ。
からりと鳴って、響くと斉しく、金色の機の梭、一具宙を飛落つ。一同吃驚す。社殿の片扉、颯と開く。
巫女 (階を馳せ下る。髪は姥子に、鼠小紋の紋着、胸に手箱を掛けたり。馳せ出でつつ、その落ちたる梭を取って押戴き、社頭に恭礼し、けいひつを掛く)しい、……しい……しい。……
一同茫然とす。
御堂正面の扉、両方にさらさらと開く、赤く輝きたる光、燦然として漲る裡に、秘密の境は一面の雪景。この時ちらちらと降りかかり、冬牡丹、寒菊、白玉、乙女椿の咲満てる上に、白雪の橋、奥殿にかかりて玉虹の如きを、はらはらと渡り出づる、気高く、世にも美しき媛神の姿見ゆ。
媛神 (白がさねして、薄紅梅に銀のさや形の衣、白地金襴の帯。髻結いたる下髪の丈に余れるに、色紅にして、たとえば翡翠の羽にてはけるが如き一条の征矢を、さし込みにて前簪にかざしたるが、瓔珞を取って掛けし襷を、片はずしにはずしながら、衝と廻廊の縁に出づ。凛として)お前たち、何をする。
──(一同ものも言い得ず、ぬかずき伏す。少しおくれて、童男と童女と、ならびに、目一つの怪しきが、唐輪と切禿にて、前なるは錦の袋に鏡を捧げ、後なるは階を馳せ下り、巫女の手より梭を取り受け、やがて、欄干擬宝珠の左右に控う。媛神、立直りて)──お沢さん、お沢さん。
巫女 (取次ぐ)お女中、可恐い事はないぞな、はばかり多や、畏けれど、お言葉ぞな、あれへの、おん前への。
お沢 はい──はい……
媛神 まだ形代を確り持っておいでだね。手がしびれよう。姥、預ってお上げ。(巫女受取って手箱に差置く)──お沢さん、あなたの頼みは分りました。一念は届けて上げます。名高い俳優だそうだけれど、私は知りません、何処に、いま何をしていますか。
巫女 今日、今夜──唯今の事は、海山百里も離れまして、この姉さまも、知りますまい。姥が申上げましょう。
媛神 聞きましょう──お沢さん、その男の生命を取るのだね。
お沢 今さら、申上げますも、空恐しうございます、空恐しう存じあげます。
媛神 森の中でも、この場でも、私に頼むのは同じ事。それとも思い留るのかい。
お沢 いいえ、私の生命をめされましても、一念だけは、あの一念だけは。──あんまり男の薄情さ、大阪へも、追縋って参りましたけれど、もう……男は、石とも、氷とも、その冷たさはありません。口も利かせはいたしません。
巫女 いやみ、つらみや、怨み、腹立ち、怒ったりの、泣きついたりの、口惜しがったり、武しゃぶりついたり、胸倉を取ったりの、それが何になるものぞ。いい女が相好崩して見っともない。何も言わずに、心に怨んで、薄情ものに見せしめに、命の咒詛を、貴女様へ願掛けさしゃった、姉さんは、おお、お怜悧だの。いいお娘だ。いいお娘だ。さて何とや、男の生命を取るのじゃが、いまたちどころに殺すのか。手を萎し、足を折り、あの、昔田之助とかいうもののように胴中と顔ばかりにしたいのかの、それともその上、口も利かせず、死んだも同様にという事かいの。
お沢 ええ、もう一層(屹と意気組む)ひと思いに!
巫女 お姫様、お聞きの通りでござります。
媛神 男は?
巫女 これを御覧遊ばされまし。(胸の手箱を高く捧げ、さし翳して見せ参らす。)
媛神 花の都の花の舞台、咲いて乱れた花の中に、花の白拍子を舞っている……
巫女 座頭俳優が所作事で、道成寺とか、……申すのでござります。
神職 ははっ、ははっ、恐れながら、御神に伺い奉る、伺い奉る……謹み謹み白す。
媛神 (──無言──)
神職 恐れながら伺い奉る……御神慮におかせられては──畏くも、これにて漏れ承りまする処におきましては──これなる悪女の不届な願の趣……趣をお聞き届け……
媛神 肯きます。不届とは思いません。
神職 や、この邪を、この汚を、おとりいれにあい成りまするか。その御霊、御魂、御神体は、いかなる、いずれより、天降らせます。……
媛神 石垣を堅めるために、人柱と成って、活きながら壁に塗られ、堤を築くのに埋められ、五穀のみのりのための犠牲として、俎に載せられた、私たち、いろいろなお友だちは、高い山、大な池、遠い谷にもいくらもあります。──不断私を何と言ってお呼びになります。
神職 はッ、白寮権現、媛神と申し上げ奉る。
媛神 その通り。
神職 そ、その媛神におかせられては、直ぐなること、正しきこと、明かに清らけきことをこそお司り遊ばさるれ、恁る、邪に汚れたる……
媛神 やみの夜は、月が邪だというのかい。村里に、形のありなしとも、悩み煩らいのある時は、私を悪いと言うのかい。
神職 さ、さ、それゆえにこそ、祈り奉るものは、身を払い、心を払い、払い清めましての上に、正しき理、夜の道さえ明かなるよう、風も、病も、悪きをば払わせたまえと、御神の御前に祈り奉る。
媛神 それは御勝手、私も勝手、そんな事は知りません。
神職 これは、はや、恐れながら、御声、み言葉とも覚えませぬ。不肖榛貞臣、徒らに身すぎ、口すぎ、世の活計に、神職は相勤めませぬ。刻苦勉励、学問をも仕り、新しき神道を相学び、精進潔斎、朝夕の供物に、魂の切火打って、御前にかしずき奉る……
媛神 私は些とも頼みはしません。こころざしは受けますが、三宝にのったものは、あとで、食べるのは、あなた方ではありませんか。
神職 えっ、えっ、それは決して正しき神のお言葉ではない。(わななきながら八方を礼拝す。禰宜、仕丁、同じく背ける方を礼拝す。)
媛神 邪な神のすることを御覧──いま目のあたりに、悪魔、鬼畜と罵らるる、恋の怨の呪詛の届く験を見せよう。(静に階を下りてお沢に居寄り)ずっとお立ち──私の袖に引添うて、(巫女に)姥、弓をお持ちか。
巫女 おお、これに。(梓の弓を取り出す。)
媛神 (お沢に)その弓をお持ちなさい。(簪の箭を取って授けつつ)楊弓を射るように──釘を打って呪詛うのは、一念の届くのに、三月、五月、三年、五年、日と月と暦を待たねばなりません。いま、見るうちに男の生命を、いいかい、心をよく静めて。──唐輪。(女の童を呼ぶ)その鏡を。(女の童は、錦をひらく。手にしつつ)──的、的、的です。あれを御覧。(空ざまに取って照らすや、森々たる森の梢一処に、赤き光朦朧と浮き出づるとともに、テントツツン、テントツツン、下方かすめて遥にきこゆ)……見えたか。
お沢 あれあれ、彼処に──憎らしい。ああ、お姫様。
媛神 ちゃんとお狙い。
お沢 畜生!(切って放つ。)
一陣の迅き風、一同聳目し、悚立す。
巫女 お見事や、お見事やの。(しゃがれた笑)おほほほほ。(凄く笑う。)
吹つのる風の音凄まじく、荒波の響きを交う。舞台暗黒。少時して、光さす時、巫女。ハタと藁人形を擲つ。その位置の真上より振袖落ち、紅の裙翻り、道成寺の白拍子の姿、一たび宙に流れ、きりきりと舞いつつ真倒に落つ。もとより、仕掛けもの造りものの人形なるべし。神職、村人ら、立騒ぐ。
お沢 ああ、どうしましょう、あれ、(その胸、その手を捜ろうとして得ず、空しく掻捜るのみ。)
媛神 それは幻、あなたの鏡に映るばかり、手に触るのではありません。
お沢 ああ唯貴女のお姿ばかり、暗い思は晴れました。媛神様、お嬉しう存じます。
丁々坊 お使いのもの!(森の梢に大音あり)──お髪の御矢、お返し申し上ぐる。……唯今。──(梢より先ず呼びて、忽ち枝より飛び下る。形は山賤の木樵にして、翼あり、面は烏天狗なり。腰に一挺の斧を帯ぶ)御矢をばそれへ。──(女の童。階を下り、既にもとにつつみたる、錦の袋の上に受く。)
媛神 御苦労ね。
巫女 我折れ、お早い事でござりましたの。
丁々坊 瞬く間というは、凡そこれでござるな。何が、芝居は、大山一つ、柿の実ったような見物でござる。此奴、(白拍子)別嬪かと思えば、性は毛むくじゃらの漢が、白粉をつけて刎ねるであった。
巫女 何を、何を言うぞいの。何ごとや──山にばかりおらんと世の中を見さっしゃれ、人が笑いますに。何を言うぞいの。
丁々坊 何か知らぬが、それは措け。はて、何とやら、テンツルテンツルテンツルテンか、鋸で樹をひくより、早間な腰を振廻いて。やあ。(不器用千万なる身ぶりにて不状に踊りながら、白拍子のむくろを引跨ぎ、飛越え、刎越え、踊る)おもえばこの鐘うらめしやと、竜頭に手を掛け飛ぶぞと見えしが、引かついでぞ、ズーンジャンドンドンジンジンジリリリズンジンデンズンズン(刎上りつつ)ジャーン(忽ち、ガーン、どどど凄じき音す。──神職ら腰をつく。丁々坊、落着き済まして)という処じゃ。天井から、釣鐘が、ガーンと落ちて、パイと白拍子が飛込む拍子に──御矢が咽喉へ刺った。(居ずまいを直す)──ははッ、姫君。大釣鐘と白拍子と、飛ぶ、落つる、入違いに、一矢、速に抜取りまして、虚空を一飛びに飛返ってござる。が、ここは風が吹きぬけます。途すがら、遠州灘は、荒海も、颶風も、大雨も、真の暗夜の大暴風雨。洗いも拭いもしませずに、血ぬられた御矢は浄まってござる。そのままにお指料。また、天を飛びます、その御矢の光りをもって、沖に漂いました大船の難破一艘、乗組んだ二百あまりが、方角を認め、救われまして、南無大権現、媛神様と、船の上に黒く並んで、礼拝恭礼をしましてござる。──御利益、──御奇特、祝着に存じ奉る。
巫女 お喜びを申上げます。
媛神 (梢を仰ぐ)ああ、空にきれいな太白星。あの光りにも恥かしい、……私の紅い簪なんぞ。……
神職 御神、かけまくもかしこき、あやしき御神、このまま生命を召さりょうままよ、遊ばされました事すべて、正しき道でござりましょうか──榛貞臣、平に、平に。……押して伺いたてまつる。
媛神 存じません。
禰宜 ええ、御神、御神。
媛神 知らない。
──「平に一同、」「一同偏に、」「押して伺い奉る、」村人らも異口同音にやや迫りいう──
巫女 知らぬ、とおっしゃる。
神職 いや、神々の道が知れませいでは、世の中は東西南北を相失いまする。
媛神 廻ってお歩行きなさいまし、お沢さんをぐるぐると廻したように、ほほほ。そうして、道の返事は──ああ、あすこでしている。あれにお聞き。
「のりつけほうほう、ほうほう、」──梟鳴く。
神職 何、あの梟鳥をお返事とは?
媛神 あなた方の言う事は、私には、時々あのように聞こえます。よくお聞きなさるがよい。
──梟、頻に鳴く。「のりつけほうほう」──
老仕丁 のりつけほうほう。のりたもうや、つげたもうや。あやしき神の御声じゃ、のりつけほうほう。(と言うままに、真先に、梟に乗憑られて、目の色あやしく、身ぶるいし、羽搏す。)
──これを見詰めて、禰宜と、仕丁と、もろともに、のり憑かれ、声を上ぐ。──「のりつけほう。──のりつけほうほう、ほう。」
次第に村人ら皆憑らる──「のりつけほうほう。ほうほう。ほうほう」──
神職 言語道断、ただ事でない、一方ならぬ、夥多しい怪異じゃ。したたかな邪気じゃ。何が、おのれ、何が、ほうほう……
(再び太刀を抜き、片手に幣を振り、飛より、煽りかかる人々を激しくなぎ払い打ち払う間、やがて惑乱し次第に昏迷して──ほうほう。──思わず袂をふるい、腰を刎ねて)ほう、ほう、のりつけ、のりつけほう。のりつけほう。〔備考、この時、看客あるいは哄笑すべし。敢て煩わしとせず。〕(恁くして、一人一人、枝々より梟の呼び取る方に、ふわふわとおびき入れらる。)
丁々坊 ははははは。(腹を抱えて笑う。)
媛神 姥、お客を帰そう。あらしが来そうだから。
巫女 御意。
媛神 蘆毛、蘆毛。──(駒、おのずから、健かに、すとすと出づ。──ほうほうのりつけほうほう──と鳴きつつ来る。媛神。軽く手を拍つや、その鞍に積めるままなる蕪、太根、人参の類、おのずから解けてばらばらと左右に落つ。駒また高らかに鳴く。のりつけほうほう。──)
媛神 ほほほほ、(微笑みつつ寄りて、蘆毛の鼻頭を軽く拊つ)何だい、お前まで。(駒、高嘶きす)〔──この時、看客の笑声あるいは静まらん。然らんには、この戯曲なかば成功たるべし。〕──お沢さん、疲れたろう。乗っておいで。姥は影に添って、見送ってお上げ──人里まで。
お沢 お姫様。
巫女 もろともにお礼をば申上げます。
蘆毛は、ひとりして鰭爪軽く、お沢に行く。
丁々坊 ははは、この梟、羽を生せ。(戯れながら──熊手にかけて、白拍子の躯、藁人形、そのほか、釘、獣皮などを掻き浚う。)
巫女 さ、このお娘。──貴女様に、御挨拶申上げて……
お沢 (はっと手をつかう)お姫様。草刈、水汲いたします。お傍にいとう存じます。
媛神 (廻廊に立つ)──私の傍においでだと、一つ目のおばけに成ります、可恐い、可恐い、……それに第一、こんな事、二度とはいけません。早く帰って、そくさいにおくらし。──駒に乗るのに坐っていないで、遠慮のう。
お沢 (涙ぐみつつ)お姫様。
巫女 丁どや──丑の上刻ぞの。(手綱を取る。)
媛神 (鬢に真白き手を、矢を黒髪に、女性の最も優しく、なよやかなる容儀見ゆ。梭を持てるが背後に引添い、前なる女の童は、錦の袋を取出で下より翳し向く。媛神、半ば簪して、その鏡を視る。丁々坊は熊手をあつかい、巫女は手綱を捌きつつ──大空に、笙、篳篥、幽なる楽。奥殿に再び雪ふる。まきおろして)──
底本:「海神別荘 他二篇」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年4月18日第1刷発行
2001(平成13)年1月15日第4刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十六巻」岩波書店
1942(昭和17)年10月15日第1刷発行
初出:「文藝春秋」
1927(昭和2)年3月
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2007年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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