安吾人生案内
その一〔判官巷を往く〕
坂口安吾



     まえがき


 仕事の用で旅にでることが多いので、その期間の新聞を読み損うことが少くない。旅から戻ってきて、たまった古新聞を一々見る気持にもならないので、いろいろの重大ニュースを知らずに過していることがある。

 そんな次第で、オール読物の編輯部からきた三ツの手記のうち、二ツの出来事はちょうど私が旅行中で、知らなかったものである。もっとも、一ツはラジオの社会の窓だそうだが、ラジオが探訪する以上は直前に新聞記事でもあったはずだ。

 はじめの相談では、月々の今日的な出来事、主として犯罪の犯人の手記にもとづく社会時評というのであったが、こうして手記を読んでみると、どう扱ってよいのか、甚だしく困惑するのである。なるほど、本人の手記であるから、本人といえばカケガエのないものだが、その手記がカケガエがないとは限らない。人間の仕でかすことは、個性的なもので、その人だけの特別な何かがある筈のものゝ、それについて説くのでなければ、意味をなさない。けれども、これらの手記は、いかにも申訳に手記らしく心事の一端をまとめたというようなものだ。彼や彼女の性格の型、家庭の型のようなものは推察できるかも知れないが、型の分析に終始するのは、やりがいがない気がして、なんとも、やりづらい。やる気が起らないのである。すすんで書く気持が起らないと、毎日ボンヤリと、ただむなしく〆切に追われ、責任感に苦しむだけで、実にくだらないこと、おびただしい。

 要するに、原料の選定をあやまったのである。もっと多くのことが分らなければ、否、多くなくとも、その人間の本質的なことが一ツでも閃いているのでないと、私にとっては手がかりがないのである。本人は自分の知識だけで自分を語っているのが当然。それを私の目から見ると別の解釈が成りたつ。私のやれることはそれだけであるが、本人の精一パイの言葉がどこかにないと、手がかりがない。たとえば、オカマ殺しの少年がこの手記と同じことを語るにしても、それを私が直接見聞していれば、他の色々のものを感じることもありうるが、この手記だけなら、彼という人間の肉声はどこにもない。他の誰かの手記でもありうるのである。捕縛直後というものは、犯罪事実の調書をとるには適していても、心境を語らせる時期ではないようだ。もしも犯行の事実がこの手記中に於てもっとメンミツに具体的に語られ、又、家出までの口論の模様などが同様にこまかく語られておれば、事実の中から少年の個性を知ることはできる。この荒筋だけの手記からは、彼や彼女の特異なものは空想的にしか知り得ない。犯罪自体がどんなに風変りでも、この程度に型のような心境を語らせた手記では、いくつ集めても根は同じ型通りのもので、この仕事を喜んでひきうけたのは拙者の浅慮であった。

 そういう次第で、来月からは、犯罪者の手記はやりません。まだしも税務署の人になぐられた婦人の手記は面白いが、これも一方的では困るのである。両者の手記、それにこの場合は証人の手記も必要であろう。犯罪にくらべれば、こういう紛争、個人団体をとわずモンチャクの言い分をきく方が、今日的な特殊性、世相や感情の偏向を私流に指摘したり批判したり、しやすいようだ。来月からは、そういうものをやることにします。佐藤春夫、河盛好蔵両先生の大合戦の如きは(文学界二三月号)、期せずして両先生の稀有な手記が机上に並んだようなもので、これだとこの時評になりうるのだが、両先生の名文が長すぎて、のせきれないし、それを無断で載せると両先生に今度は私が征伐されるし、手記を載せなければこの時評の体裁がととのわないというわけで、人生はままならない。この辺の名文になると、カケガエのない手記であるが、世間一般の手記は、こうはいかないのである。まして、国家だの、政党だの、会社などの言い分は概ね伏せてある秘密があって、それは見当のつかない性質のものだから、団体のモンチャクの言い分をきいて批評するとは更に甚しい浅慮、益々手に負えなくなるかも知れない。手に負えそうなものだけ、やることにします。人のモンチャクを批判するなどと云ったって、誰を啓蒙しようというコンタンでもなく、こんな見方もあります、というお慰みまでの読物にすぎません。ヒマツブシのお役に立てば幸せですが、個人の私生活に関するゴシップの類は取扱いません。


     第一話 オカマ殺しの少年の話  佐藤幸三(十六歳)


 ぼくはあの男を殺しました。ひどい奴です。女だと、すっかりぼくをだましたのです。初めから、一寸ちょっとおかしいとは思ったけど、ぼくも上ついて、落ちついて、確かめられなかったのが悪かった。

 アパートへ連れ込まれてからも、セビロが吊ってあったり、どうも様子が怪しかったのに、一しょにフトンの中へ入ってもまだ気がつかなかったぼくもバカだったと思います。だから、男だとはっきりわかった時は、カッとなってしまいました。ナメられてたまるか、ぼくから千円もとっているのです。

 しかし、はっきり殺そうとは考えていなかったと思います。便所へ行くふりをして、廊下でジャックナイフを開いた時も、たゞ夢中でした。いきなり、あいつを突刺すと、ブスッと手ごたえがあって、へんてこな大声でわめいて倒れたので、部屋にあった上衣やズボンを抱えて、窓から逃げ出しました。逃げながらズボンを間違えているのに気がつきました。

 しかし、走っているうちに、ズボンのポケットに、ぼくの名前を彫ったメダルが入っていたのを思い出して、ハッとしました。証拠を残してきたのです。しまった! 逃げても、つかまる! 自首しようと覚悟しました。

 あの夜に、ぼくは家出してきていたのです。以前から、ぼくは家の中で孤独でした。ぼくの家には、父と母、次兄とあによめ、三兄、それにぼく、長兄は戦死して、六人暮しです。

 こんなことがありました。戦争中、神奈川県高座郡に疎開していた時、仲のよい同じ年の女の子がいたのです。本当に好きだったので、東京へ帰ってからも、会いたいと思い、とう〳〵去年の八月、家の者に黙って、彼女を訪ねて行きましたが、その一家はどこかへ移っていないのです。それからは、もう何もかも面白くなくなり、母はぼくの元気のないのを心配して、それほど、好きなら、少し早いが、その娘を探して結婚させようといってくれました。それなのに二十になるすぐ上の兄が、

「おれも結婚しないのに、十六ぐらいで」

 と反対し、父もそういうのです。

 それだけでなく、何かにつけて、家の者とケンカをしていました。母だけはぼくを本当に思ってくれてました。あの日の朝も、父とちょっとしたことから口論になり、母あてに遺書を書きました。前々から考えていたことを実行しようと決心したのです。どこでだって暮せる、死んだっていゝと思ったのです。

 学校の月謝と正月の小遣い二千五百円と、去年の暮、護身用に買っておいたジャックナイフをポケットに、午後三時頃、家をとび出しました。途中新宿で降り、最後だからと思って映画を見ました。「女賊と判官」というのです。映画館を出るとピースを買ってのんだが、うまくなかった。

 あてがないので、新宿駅の西口附近をぼんやり歩いていたら、若い男が、

「いゝ女がいるから遊んで行かないか」

 と話しかけできました。最後だから、女を知りたいと思いました。すると、その男が連れてきたのが、あの男なのでした。


 この手記の筋を用いて童話ならできるだろう。少年が死出のミヤゲにパンパンを買いに行ったり、オカマが現れたり、大そう汚い童話だが、ストリンドベルヒ流の童話にはなるようだ。

 十六の少年が疎開中に遊んだ村の娘、そのころ二人は十未満でしょうが、少年はその女の子が忘れられずに、村へ訪ねて行きますが、その子の家はもうないので、落胆してしまいます。

 この辺は「たけくらべ」の恋情を、ムッシュウ・スガンの山羊の素直さにした感じ。まことに至純なメルヘンの世界である。少年の落胆が甚しいので、そんなに思いつめているなら結婚させようと母親は考えるが、オレがまだ結婚しないのにと二十の兄が反対し、父親も兄の言葉に同意見である。十六という年齢が結婚に早すぎるというのは万人がそう考えるのが常識であろう。理につく男親がその常識に従うのも当然。しかし母親が常識を度外視して、そんなに思いつめているなら結婚させたいと考えたのは、いかにも溺愛に盲いがちな母親らしい自然さでもあり、両親の気持のくいちがいや論争など、浄ルリのサワリになるところであろう。

 童話と浄ルリの中の少年が家人とケンカして家出すると、唐突に話が汚くなってパンパンを買うことになるのが現代風だ。家出あるいは自殺というアンタンたる出発に護身用のジャックナイフを持ったというのは頷けないことではない。自殺に行くのに護身用は妙なようだが、自殺も他殺も同じようなもの、諸事アンタンとして気持が悲愴で荒々しく悲しい時には、自殺も家出も道に待ち伏せているかも知れぬオイハギ山賊妖怪もみんな一しょくたで、悲愴な気持の中には不安や苦痛な悪いことがみんな含まれていて一ツだけ分離されているものではない。人間の気持はたとえ十六の少年でも、そう単純で、ハッキリしたものではあり得ない。

 しかし、自殺ということを一応言っておきながら、ナイフを自殺用の道具と云いたてずに、護身用と云っているのは、子供らしく正直な良いところかも知れない。もっとも殺人用と解されるのを怖れて、それにやや用途の似ている自殺用と言いたくなくて護身用と云ったのかも知れんし、近ごろは自殺といえばアドルムであるからジャックナイフでも自殺ができるということをこの節の少年は気がつかないのかも知れんな。街でポンピキによびとめられる。この辺も、汚いけれども、なんとなく童話の世界。北風の中の遍歴という詩情がないことはない。

 昔の女の子が家出すると、悪い奴が駅や道に待ちかまえていて、呼びとめて、だまして売りとばしたものであるが、ポンピキが男の子をひッぱるというのはあまり聞かなかった。今では、こういうところは大人も子供も同じこと。自ら吉原門内へ踏み入ってならとにかく、ただの盛り場の賑いを歩いただけで、子供がポンピキによびとめられる。近代派のポンピキはじめパンパンにしてみれば、お金さえ持ってればお客だという実質精神。もっとも十六よりも幼いパンパンがタクサンいるのだ。

 今の少年は家庭に於ては少年であるが、一足出ると大人の門がひらかれていて、同じような経験に遭遇する。パパは会社と家との往復の道のことしか知らないが、子供は映画を見たり、お茶をのんだりしてパパの知らない盛り場を歩くから余計大人の門を実地見学しているかも知れん。しかし、少年には少年らしい理想もあるし、独特の倫理や潔癖を持っているから、大人の門を目の前に見て怪人物の招待をうけても、めったに大人の門をくぐりはしないものだ。オカマ殺しの少年も大人の門をくぐったのはこの日がはじめてのようである。親というものは、子供は案外シッカリしているということを銘記する必要がある。親が酔っ払ってたった一度盛り場へ行くと忽ち怪人物の招請に応じて後々大後悔に及ぶ憂い甚大であるが、子供はそんなに脆くはないものですよ。

 子供を信頼せず、あんまり疑ると、そんなに疑るなら本当にやってしまえ、という気持が次第にたかまり、口実あらば実行せん構え十分になるのが普通である。なぜなら、子供には、潔癖と自制心と同時に、むろん性慾もあるし、甚しい好奇心もある。よき折あって、罪悪感を他に転嫁し自制を失うことができるなら、という気持も必ずあるものだ。それには親に無実の罪を疑られ、そのことで口論してヤケを起して飛びだすような時が最上の機会であろう。なぜなら、とにかく親の圧力が最大のブレーキだから。ブレーキに押しつけられている願望は、なんとかして自然に、又は自然らしく、そして罪を他に転嫁しうる堂々たる口実を得てブレーキを外したいとひそかに待っているのだから。そういう少年少女の気持を理解できない親は子供を却って早く間違いに走らせる。第二話の娘の場合がそうである。子供が親に罪を転嫁すると同様、子供の親は厳格という型にはまった常識的な倫理観に安易にもたれて、自己の無理解、無智無能を転嫁している。子供は口実として他に罪を転嫁しても実は罪の意識に苦しむが、親は公定価格の修身の教えにもたれ、人からも自分からも罪を責められない。

 さて少年は男の案内でアパートへ行く。部屋に男の上衣が吊るしてあるから怪しいと気がつきはじめたが、寝てみると本当に男だったので、ナメられてたまるものかと便所へ行くフリをして廊下でジャックナイフをひらいて、男娼を刺した。ブスッと手ごたえがあって変テコな声をだして逃げようとしたので、とっさに、また斬りつけたら大声でわめいて倒れたので、上衣とズボンをかかえて窓から逃げた。この辺の観察や記憶の角度は映画的である。彼は不幸な犯罪に対処して、追想するに映画の手法しか身についていなかったのかも知れん。しかし、とにかく、ここだけが甚だ映画的にリアリス的(山際さんの用語)である。映画は現代に於ける最大また有能の教育者ならんか。

 あいにく私は巷談師らしくもなくオカマの宿を訪問した経験がないのは面目ないが、上野ジャングルを深更ちかいころ訪問してオカマの群れにはよそながら拝接した。概して彼らの特異性は視覚よりも聴覚にくるものがグロテスクで、一見して男と分らなくとも、声をきくとゾッと水を浴びせられた如く、汚く不潔な感に苦しめられる。オカマのグロテスクなのはその音声が最大なものだが、この少年が女を男と知るに至る経路、観察の角度が又、専一に視覚的で、部屋に男の上衣が吊るされていて怪しいと思いつくくだりなども映画的だ。まるで映画を見るように自分の現実を見たり構成したりしているのだが、実際その手法しか知らないのではないかと思われるのである。男の音声で、はてナと怪しむようなのは普通に映画のとらない手法だ。喋った言葉の内容から怪しみはじめる手法は普通に用いられるものであるが。

 男の上衣が吊るされているので怪しいと思いはじめ、寝てみて男と分ったとは、どういう状況に至って確認したのか、まことに汚いこと夥しい話であるが、「たけくらべ」やスガンさんの山羊や、浄ルリのサワリから、いきなりここへ突入する表裏抱き合せの奇怪さ、一番キレイな幼いものと大人でも顔をそむける汚いものと一体をなしている筋書きが、あまりにも尋常を欠いて、非現実的、私流に言うと童話的というわけなのである。しかし天女と安達あだちヶ原の妖婆と揃って一人の少年を成しているのは別にフランケンシュタインの一族一味ではなくて、日本の現実の一端であり、現代の少年少女の生態にはたしかに此のようなところもあるのである。彼や彼女らの無心に歩くところ、その門はどこにでも開らかれているのだから。

 女だと思いのほか男である。だまされたから怒るのは自然で、これをただ黙ってヘラヘラ笑っておれば、その方が薄気味悪い話さ。しかし、怒ったから、いきなり刺すというのは一般の人のよく為しうることではない。家出、それに自殺という気分も若干つきそって甚しく悲愴に昂揚していた心事の際であっても、いきなり人を刺すことは多くの人の為しがたいところである。

 だまされたと知ってイキナリ武器をとって報復を志すのは幼児の時はややそうであるが、小学校へ行くころとなれば罪の意識も芽生えて、少数のほかはイキナリ武器をとるようなことは控えるようになるものだ。大人は罰せられるから、益々もって、やれやしない。幼児と同じようにイキナリ武器をとって報復するのは、ただ国家というものがあるだけだ。国家に於ては、幼児にだけしか通用しない報復の理由が、戦争をひらく立派な理由になるのである。実にどうも国家というものは赤ん坊よりも理不尽なダダッ子、ワガママなギャングである。

 だまされたと云っても、女だと思ったら男だったというようなことは、大人の世界では怒りに価するものではない。人生の表街道のものではなく、裏街ですらもなく、他人にそう邪魔にならない路傍か隅ッこにころがっていて、グロテスクではあるがバカバカしいだけの存在だ。こんな笑止な化け物にくらべれば、政界、官界、実業界、教育界、宗教界、文壇、学界、もっと妖しく実害のある大化け物は他のどこにでも見られることだ。ナイフが何万本あっても足りやしない。舌が三枚も五枚もある化け物など政界にいるが、そんなのも大した化け物ではない。十六年も生きていればオカマ以上の実害ある大化け物と交渉のなかった筈はないのだが、オカマには気がついても大化け物には気がつかないとは、頭の悪い少年だ。

 世間には、大人の世界に無智不案内な子供が純でスレていなくて鷹揚だというような見方もあるのだが、何事によらず知らないということは賞讃の余地がないようだ。知ることと、行うこととは違う。利口な人間は知りたがるし、知っていて正邪を判じる力があり、敢て悪を行わぬところに美点はあるかも知れないが、単に知らぬということは頭が悪いというほかの何物でもなく、長じて知るようになると、純変じてどんなスレッカラシになるか分りやしない。純などゝいうのはつまらぬ時間の差で、しかも甚しく誤差の起りやすい要素をふくみ、わが子に対してそんな判断で安心していると、長じて忽然と妖怪化して手に負えなくなるのである。

 満十六といえば、理解力はほぼ大人なみに成長しかけているものだ。この少年の人生の理解力は低く、いささか低能で、辛うじて映画によって人生を学んでいたようだ。手記の中にも、暗い気持で映画館をでて、ピースを一箱買ってみたが、まずかったというような描写が突然現れる。そういうところも映画的である。失恋か何かでアンタンたる気持の主人公がタバコを吸ってマズそうに捨てるような場面がホーフツとしている。そんなことよりも言わねばならぬ大切なことは他にタクサンありそうだが、そういうところはアッサリとばして甚しく場面的な情景描写にだけ念が入れてある。つまり映画的にしか自分の人生を回想できないのであろう。

 低脳だから人を刺したが、理解力や判断力や抑制力はモッと生長するであろうから、長じて兇悪人物になるとは限らない。彼は家族たちに理解せられざることを悲しみ、孤独と観じ、人にだまされたのを怒ってはいるが、人をだまそうとはしていないようだ。低脳ではあるが、ヨコシマではない。人を刺すこと自体も、映画と自分の区別を知らずに模倣するほど低脳なのかも知れない。

 しかし、これほど低能でも、自分を孤独とみる悲しさがあるのは、人間というものは切ないものだ。実際はこの少年ほど母の愛に恵まれている者はそう大勢はないかも知れないのだが、そのような判断は持っていない。しかし、母の愛情は知っているのである。愛されながら誤解したり、強いて愛されていないと誤解しようとするムキもあるから、それに比べれば、そうヒネクレてはいないのである。ただ自分を理解してくれない父や兄たちやアニヨメに重点をおいて、主として不満を軸としているのは甘ッたれた気持で、母の愛に傷められた甘えッ子の感多く、つまり低能であるが、これもヒネクレているせいではなくて、要するに甘ッタレだ。しかし、理解して貰えない切なさは、真実切なかった筈だ。どんなに幼くとも、低能でも、その切なさは万人の身にしみわたる悲しさで、変りのあるものではない。若いほど身にしみる悲しさかも知れない。とりわけそういう切なさをヒシヒシ感じる魂は幸福な魂ではないが、しかし、ヒネクレていることにはならない。いわば詩人の魂である。低能だから人を刺殺したが、魂はヨコシマではなかったのである。

 殺人にも色々ある。正義とみて大官を暗殺し、わが身は正しいことを行ったと自負しているような低能もある。同じ低能殺人犯にも甚しい相違があって、この自称英雄が大官を暗殺する根柢には政論の正邪の判断がある筈だが、理論的に正邪を判ずるほど成人になっていながら、殺人という手段を選ぶ低能ぶりというものは、野蛮で悪質だ。少年の場合はだまされて千円とられたという理論のない直接のもので、つまり幼年の低能さだ。もっと智能が生育して、やや低能でなくなれば、そういうことは為し得ないであろう。同じように悪を憎み正義を愛すにも、自称英雄は政論の正邪を一人のみこみしたあげく殺人という事柄の正邪をさとらず、むしろ自分の行為を英雄的に自負しているほど生蕃せいばん的で文明人の隣人らしいところがないが、少年の憎む悪は素朴で直接的で、彼の愛している正しさも、生蕃の神がかり的な手前勝手のものではなくて、あたりまえの素朴な市井的な善ということであったろう。少年の低能ぶりは、やがてもっと低能ではなくなるだろうし、低能でなくなれば、という救いはあると思われる。崇高な殺人などを冷静に考える低能には救いがない。狂犬が正義を自負しているようなものであるが、こういう狂犬のたぐいでないと戦争を仕掛けてやろうなどゝは考えない。少年はもっと生長して低能でなくなれば、幼児の理窟で、武器を握って人を刺しはしないだろう。私がこの少年にのぞむことは、悪を憎む心を失わず、早く大人になりたまえ、ということだ。大人は化け物ばかりだよ。君も化け物になるであろうが、大化け物になる素質はないようだ。


     第二話 カゴヌケした娘の話  山口公子(二十歳)


 ジミーと知り合ったのは、ホテルに勤務している頃で、二世だと自分でいっていました。私に対する好意を率直に表わし、親切にしてくれました。

 二十歳の今日までの私の生活は、何不自由のないものでした。むしろ、両親から甘やかされ、我儘一ぱいに育てられた方だと、自分でも思います。でも、父も母も、私が年頃になると、私の行動に、とても神経質になり、うるさく干渉しはじめました。私が両親を説いて、ホテルに勤めるようになったのも、そんな重苦しい家庭の空気が、いやでたまらず、自由な社会へ出たかったからです。

 だから、ジミーに対しては、別に恋愛感情など、なかったのですが、彼との交際は、私には救いでした。すべてが愉しかった。

 遊ぶといっても、私はダンスなどできませんでしたから、銀座を歩いたり、映画を見たり、レストランへ入ったりするくらいなものでした。

 でも、鎌倉の家には、毎晩きちんと帰りました。父は夜は八時を門限ときめていました。遅れないように注意していましたが、ジミーと交際するようになってからは、その時間をすぎて帰宅することはしば〳〵ありました。その度に、父はひどく叱ります。不満でした。ちょっと映画を見ても、鎌倉まで帰ると、八時をすぎるのは当り前なんです。

 家出したのは九月、その夜もジミーと一しょでした。気がついた時には、とっくに、八時をまわっていました。どうせ叱られる、覚悟をして、遅くまでジミーといました。

 家へ着いたのは十時でした、戸がしまっていましたが、灯りはついていました。でも、父も母も、どうしても家へ入れてくれないのです。かっとなって駅へ引返しましたが、行く先のあてといっても、結局、ジミーのホテルよりほかはないのです。

 その夜、ホテルで、ジミーにはじめて許しました。仕方がなかったのです。両親への反抗だったかも知れません。それに、彼はとても親切でした。

 それっきり、家へは帰りませんでした。一しょに暮しているうちに、ジミーは二世の貿易商だといっていましたが、本名は新仏典儀といゝ、広島に父母もあることがわかってきました。でも、ジミーはお金を沢山もっていたし、本当に愉しい日々でした。なんでも買え、いつでも映画が見られ、呼リン一つで用の足りるホテル生活──アメリカ映画の様でしたが、一月はじめ、雅叙園に移ってから、ジミーもお金に困るようになりました。

 時計屋で、お金をつくろうと彼から相談されたのは、ホテルから度々宿泊料を催促されたあげくでした。その話を聞くと、うまく行きそうな気がしたし、やはりお金が欲しかった。これまでのような生活が捨てきれない気持が強く働いていたのだと思います。

 ジミーにいゝつけられたとおり、二十三日ヤシマホテルで都商会の人に会い、六十六万円をうけとり、ホテルを脱け出したときは、わく〳〵していました。待っていたジミーにあうと「新しい服でも買って、太陽ホテルでしばらく様子を見ていろ」といわれ、そのとおりにしました。ホテルではお金をかくし、一日部屋にとじこもっていましたが、不安でした。心細くて、早くジミーに会いたかった。けれど、来たのは彼ではなく警察の人でした。警察でははじめは虚勢を張って、強いことをいゝましたが、落ちついてみると、悪いことをしたとしみ〴〵思います。どんなに叱られても、やはり家へ帰りたい、これからはまじめになって、英語の家庭教師でもしたいと思っています。ジミーとは、もう別れられないのではないかという気もするんですが……


 無智な親が気付かずに娘の家出のお手伝いをしていた話である。東京に働いている娘が毎日八時までに鎌倉に帰らねばならぬとは、ムリな話だ。それほど心配なら首にクサリをつけて、つないでおくに限るな。映画ぐらい見たいのは当り前だし、娘が一人前になって働きにでた以上は、恋愛するのが当然と心得、よき恋愛をするように協力した方が策を得ていたであろう。協力してもマチガイは起きがちではあるが、マチガイに罪悪感をいだかせず、再びその愚をくり返さぬイマシメとして役に立つことができれば、それは一つの人間の進歩で、それでも結構なことである。第一話でも述べたように、少年少女というものは、大人の門が眼前にあっても、そう軽率にくぐりはしないものだ。子供の自発的なブレーキに理解がなく、いたずらにシツケの厳格を誇るのは手前勝手で、子供が反逆して事を起すに至っても、自分がお手伝いしていたことには気付かず、親の義務をつくしたことを確信しているのが多いらしい。

 十時に帰って来た娘を締めだして、戸を叩いても中へ入れず、とうとうお手伝いの仕上げを完了するとは恐れ入った低脳の両親である。相当の社会的地位にあり、一通りの学問はあるのだろうが、何を学んできたのかしらん。人間の心理をといた小説をよんでも、それぐらいの子供の心理に通じるのはヒマがかからない。教育をうけない労働者でも、自己への省察や周囲の事実からの無言の教訓だけで、一通りの心理通になっているのは自然なのだが、男女社員を率いて長と名のつく人物で、こう低能なのは不思議でワケがわからない。

 映画も見たいし、ダンスもたのしいし、銀ブラも、レストランをおごってもらうのも愉しいという娘の心境は非難すべきところはない。そういうことがキライ、家事が好きだッたり、読書や学問が好きだという人にくらべて、彼女の方が道徳的に低いということにはならない。好き好き、趣味の問題である。私が女房を選ぶんだッたら、家事が好きだという型よりも、遊びの好きな型の女を選ぶ。その方に魅力をひかれるのだから。これも好き好き、趣味の問題で、あげつろう性質のものではない。

 娘が多少の自由を欲した気持は当然で、八時という門限をきめて反逆のお手伝いをしていた両親の低脳ぶりの方が、バカバカしくて話にならないのである。罪悪感を他に転嫁する口実が成りたてば、子供は潔癖好きのブレーキをすてて、好奇心の方へ一方的に走りたがる。そんなに疑るなら、疑られるようになってみせるわ、というようなインネンのつけ方は子供には最もありがちな通俗なものだ。誰の胸中にも善悪両々相対峙しているのは自然で、その対峙を破って悪の方へ一方的に走りだすのは当人にも容易ならぬ覚悟を要するものであるが、それを最も簡単に破らせ易いキッカケとなるのは、親がそのことで疑りすぎてヤケを起させた場合。娘の方もいくらか悪いところがあるようだ。なぜならヤケまぎれに一方的に走りだす口実を得ても、実際にそれをキッカケにして踏み切る娘よりは、まだ踏み切らない娘の方が多いだろうからである。しかし親の低能が、それ以上、はるかに甚しいのは当り前のことだ。

 いっぺん踏み切ってしまえば、あとは男次第。男が女を愛してくれて、両親との生活よりも楽しい生活を与える力があれば、娘はそッちに同化する。踏みきった以上は、それが当り前で不思議はない。男が詐欺の常習者と分っても、お金に不自由なく、女にゼイタクをさせ、可愛がってくれる以上、その生活に同化しても、娘が性本来悪を愛する悪質の女だという理由にはならない。踏み切った以上は、どうなろうと男次第というのが普通の女で、要するに踏切らせた親の無智無能がひどすぎたと解すべきである。男の生活に同化するから男次第で荒れもするし、しとやかにもなるのは自然で、詐欺師と豪奢な生活をし、またぜイタクの反面、ホテルの支払いに苦しんだり、一仕事企んで切りぬけたりしていれば、それ相当の女らしくなるのも当然。捕えられて「お金さえ返せばいいんでしょ」と平然たる有様であったと新聞に報じられているが、右から左へモトデいらずで金が生れる生活に馴れていれば、それぐらいのタンカはきるようになるのが自然である。そんなタンカをきるように生れついてきたワケではなくてかなり多くの平凡な女が、彼女のようなコースを辿る素質があるのだし、同じコースを辿れば同じようなタンカをきるようになるであろう。かえって本当にずるい人間は、そんな時には、神妙にして見せる技術を心得ているもので、それはもう中学生ぐらいからその手腕を発揮するものだ。

「ジミーとはもう別れられないのではないかという気もするのだが」

 と手記を結んでいるところ、とにかく、ウスッペラで、これも低脳な娘にはちがいない。彼女がたのしかったのは、ジミーよりも、彼の手腕による豪奢な生活であったろう。ジミーが捕えられて出所したところで、手に職があるわけではなし、財産があるでなし、詐欺の特技を封じられれば、楽しい生活はできやしない。人間は現在にてらして未来を考えるのは当然であるが、捕えられたジミーが過去同様未来に於ても華やかであるか、それについて当然考えてみるのが普通の智能である。彼女には、その智能もなく、考えてみること少く、甚しくウスッペラだ。左文は保釈で出て、母と一しょに天理教のタイコをたたいてお祈りしている写真を見たが、これは又バカバカしい。いずれ三転、そうでなくなるであろうが、この娘も同じようにバカバカしい。この経験を良い方に生かして再起する実力を蔵しているかどうか、大いに疑しいであろう。たまたま良い男にめぐりあってその男の力で再起する見込みはあるが、自力で再起する素質や実力はないようだ。又、他人に転嫁して踏み切って、そういうことを繰返さなければ幸いである。もっとも、それを繰り返して悔いがないなら、それも結構。不和の良人おっととの堪えがたい生活を忍び、ほかに行き場も経験もないのでただ涙にくれているような夫人にくらべれば、当然この娘の生涯の方が悔いなきものだし、そういう計算をすれば、各人各様いろいろの答えを出すべき性質のものであろう。踏み切った時が運命の岐れ目かも知れない。素質があっても、必ずそうなるというものではないだろう。しかし、この娘の場合に於ても、智脳の低いのが、運命をひらき、智能相応の素質だけ呼びさましているようだ。とにかく悧口になることは大事なことだ。誰でも一応その人間の限界までは悧口になる素質があるのだから。


     第三話 税務署員に殴られた婦人の話  竹内すゑ(四十四歳)


 私は東京の新宿区に住み、十八を頭に四人の子供があり、主人は経師屋きょうじやです。

 ところで、税金で頭を痛めるのは何処様でも同じことでしょうが、税金ではほんとに身を切られるような想いを致します。昭和二十四年度の所得額は六万円と申告して、その一期分と二期分、おの〳〵千三百八十九円を納めました。税務署の方ではそれを十八万円と更正決定して来ましたが、実収入はとてもそんなにありませんので、異議申請をしました。すると、その決定はやはり十五万円余りで、税金の滞納額二万七千円に対して、去年の九月初めに、火鉢、茶ぶ台、衝立の三点を差押えられてしまいました。

 それから一月ばかり経った十月の十三日、丁度主人の留守中に、四谷税務署の二十二三の若い方が、人夫三名とトラックで差押えの引上げに見えました。

 その態度の横柄な事といったら全く言い様がありません。余り不体裁なので親類から借金して新しく入れた表のガラス戸をじろ〳〵見ていましたが、入って来るなり「今日は……大分儲かったなあ」と、こういった調子です。そして、早速仕事にかゝりましたので私も茶ぶ台を上り口まで運んで手伝いました。

 火鉢は重くてとても私の力では運べませんのでお願いしました。税務署の方の態度が余り乱暴なので、私も失礼だとは思いましたが「なるほどその火鉢は差押えになったでしょうが、まさか灰や炭火までは差押えになったんではないでしょう。私達貧乏人にとっては灰を買うんだって大変ですから、灰はそこの土間にうつして行って下さい」と申しました。税務署の人はその通りにしましたが、辺り一面灰神楽はいかぐらになったので、私は布切れで上り口をはたきました。

 それから調書に表のガラス戸四枚を追加して書き入れながら「判を借せ」と云うのです。そこで私は「主人が留守ですから判をお借しする訳には参りません。それにあのガラス戸を外されたのでは、奥が丸見えですし、盗難を防ぐ訳に行きません。若しどうしても外すとおっしゃるのなら、主人の居る時にして下さい」と言って判は渡しませんでした。

 その後、一旦奥に行ってまた店に出てみますと、もうガラス戸を一枚外して、二枚目に手を掛けようとしているではありませんか。私は跣足はだしで飛びおりて「それだけは勘弁して下さい」と必死になって頼んだのです。すると、いきなり拳固で私の右の眼の下をしたたか撲りつけました。その一撃でカッとなった私はその後のことはよく覚えませんが、目撃者の話によりますと、その猛烈な一撃の後、平手で五六回たて続けに打たれたのだそうです。

 目撃者といえば、近所の人も数人ありますが、その時たま〳〵表を通り合せた村田という若い方が、見るに見かねて近くの交番にその由を知らせて下さったので、お巡りさんが早速現行犯を捕えるのだといって馳せつけて呉れましたが、もうその時は税務署のトラックは引揚げた後でした。さすがにそのガラス戸は残して行きました。

 子供の知らせで驚いて馳せ帰った主人は早速、警察へ行って詳しく話しましたが一向に埒があきませんでした。

 その晩、四谷税務署から課長さんとも一人の方が本人を連れて詫びに来ました。課長さんは「飛んだ粗相をして全く面目もありません。あの人の家は農家で今景気が悪く、クビになると生活できないからどうか寛大な処置を」としきりに詫びていました。

 その応対に出た夫は「兎に角、自分も今昂奮しているから、また出直して貰いたい」と云って税務署の方達には帰って戴きました、。ところが、その後十日近く経っても何の挨拶もないので、十月の二十三日近所の人達三十名ばかりと一緒に主人は税務署に出掛けました。署長さんは主人と代表四名に会って呉れましたが、その席で「自分の部下に落度はない。あの晩、税務署から三人行ったのは事実の調査に行ったので詫びに行ったんじゃない。むしろ公務執行妨害だ」と申されたので、その帰途、主人は肚を決めて告訴したのです。

 あの人独りではないでしょうが、近所の人達も、大衆に接する税務署員に若い人が多く、横暴な目に余るような言動が多いと云ってみんなこぼしています。

 公僕として親切であるべき人達がこんな事でよいものでしょうか。私は敢えて抗議する訳です。


 これは係争中の事件で、手記の婦人は原告でもあるし、被告でもあるそうだ。したがって、犯人の手記のようにそれ一ツ独立の対象として論議しうるものではないが、あいにく殴られた婦人の手記だけで殴った方の言い分も、証人の証言もないから、この手記を一方的に信じて書くのは不当であるが、私は元々紙上裁判しようというコンタンがあるわけではなく、およそ裁判官的な意識は持っていないのである。

 殴ったか、殴らないか、それを見分けて正邪をつけるのは、私のやることではない。しかし法律というものは、その網の目をくぐる要領を心得て、表向きが要領にかなっていると、どうしても罪にならない仕組みであるから、たよりないものである。私はラジオ探訪を聞かないから分らないが、人にきいたところでは、税務署側は殴ったのではなく、婦人の方が逆上してフラフラよろめいて勝手にぶつかったというような意味のことを云っている由であり、証人の言葉は? ときいたら、これはハッキリ覚えておらんそうで、この結果が法律的にはどういうことになるのか、私には見当がつかないことだ。二週間外へも出られなかったという婦人の顔の怪我も治ってしまえば本当かウソか医者にもかかっていないから立証の余地がない。目撃者の証言がどこまで事実認定の証拠たりうるか、言葉の証言だけで他にヌキサシならぬものがないようだから、素人目には、この法律的な判断はどんな結論になり易いのか、とても見当はつけられないのである。

 しかし、この事件が一税務署員の悪質きわまる行為から起っているのは疑う余地がない。表戸のガラスを差押えの品目に加え、それをはずしにかかるとは呆れ果てたことである。殴ったの殴らぬよりも、こッちの方がもっと悪質きわまる弱い者イジメであろう。泥棒の心配はしなければならぬし、真冬の寒風は吹きこむし、不安や健康を損うような破壊を置き残して、その程度の差押えの仕方については悔ゆべきところもないらしい日常茶飯事らしいから、言語道断、まったく鬼畜の行為が身についているのである。法律がこれを罰しうるかどうかという問題などは下の下であろう。

 個人の責任に於て威張るのはまだよろしいが、権力をカサにきて無道をはたらき弱者をイジメル役人は困りもので、国民たちの一番大切な毎日毎日の生活が直接このような役人とつながり、その支配下にあるのだから、やりきれないのである。どうも、日本人は、役人に向かないようだ。この役人が役人でない時は鬼畜の性を発揮する人間ではないのであろうが、ひとたび役人となると、威張りたがり、あげくに鬼畜性をふるって弱者をイジメたがる。軍人でも政治家でも、どうも特権をもたせるとガラリと変る性癖があって、当分のうちは誰が役人になっても役人に特権のある限りダメだと覚悟をきめる必要があるらしいから、なさけない話である。

 それにしても、戸のガラスまで外して持って行くようなことを全ての税務署員がやる筈はないと思うのは当然であろうが、これも疑わしいフシがある。殴ったとか殴らないとか、法にサシサワリのある点だけ一応詫びる必要があると思っているようだし、もっとも税務署は詫びたんじゃないと云ってるそうだが、どッちにしても戸のガラスを外したことなど問題にもしていないところを見ると、これが彼らの通常の心事であり処置であるように判断しなければならないようだ。

 詫びに行ったのではなくて、事実の調査に行ったという言い分は面白いな。どういう事実を調査に行ったのだろうね? この手記にある限りで判断すると、殴られた婦人の一家はその日はまだ殴られたことで税務署へねじこんではいないのである。応待した良人は、とにかく今日は自分は亢奮しているから後日にしてくれと言っているから、この日彼がすすんで税務署へでかけている筈はないのだ。

 もっとも彼は警察には訴えたが埒があかなかったと記してある。すると、警察が税務署へ電話でもしたのかも知れないが、事実の調査というものは先ず警察のやるべきことで、当事者自身がやるべきことではないだろう。警察が自身調査もしないで、当事者に電話をかけて、彼自らに調査をゆだねるようなことが有りうるのだろうか。

 誰から話をきいて何を調査に来たのか、まことにどうも雲をつかむようである。

 自分の方に落度がなくて、むしろ公務執行妨害だというのがまた面白い。公務執行妨害という大そうな罪があるなら、例の事実調査の直後にやるのが然るべきようだが、先方から捩じこまれるまで問題にならない悠長な罪があるものらしいや。どういう点が公務執行妨害になっているのか、そこのところが知りたくて仕方がない。

 殴ったのか、殴らないのか。それはどうでもいいや。たとえば税務署の言うが如くに、この婦人が逆上してフラフラして勝手にぶつかって怪我をしたにしても、彼女が逆上するのは当然。女一人の留守宅へきて戸のガラスを外しはじめれば、取りみだすのは当り前だ。躍りかかって首をしめて女の金歯を抜きとる方がもう少しユーモアがあるかも知れん。おもむろにカミソリをとりだして女の髪の毛をジョリ〳〵と丸坊頭にしてしもう。これをカツラ屋に売るとガラス四枚ぐらいの値段にはなるかも知れん。平安朝の昔に、一人の百姓が婚礼のフルマイ酒に窮してお寺の坊主から二斗のお酒を借りた。返さないうちに病気で死ぬことになったので、坊主が枕元へきて、コレお前や、借りたものを返しもしないうちに死ぬなどとはいけませんよ、死んだら牛に生れ変って私の寺へきなさい、四年働くと借りたものを返したことにして許してあげるから。百姓は仕方がないから、泣く泣く牛に生れ変って四年間働いて、どうやら成仏させてもらったそうだ。平安朝の昔は坊主も特権階級だった。百姓の両腕をもいでお寺へ持って帰っても、両腕が毎日野良をたがやすことができやしないね。牛に生れ変らせて四年間コキ使って貸しを取り返したとはアッパレなものだ。

 しかし、本当に殴っておいて、殴らないと云ってるのだったら、こういう役人に占領された日本はもうダメだね。日本を叩きこわした方がいいや。

底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房

   1998(平成10)年1220日初版第1刷発行

底本の親本:「オール読物 第六巻第四号」

   1951(昭和26)年41日発行

初出:「オール読物 第六巻第四号」

   1951(昭和26)年41日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:tatsuki

校正:深津辰男・美智子

2009年108日作成

青空文庫作成ファイル:

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