安吾の新日本地理
秋田犬訪問記──秋田の巻──
坂口安吾
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私は犬が好きだ。何匹いても邪魔にはならないが、小犬一匹の遊び場にも足りないぐらい家も庭もせまいから、欲しい犬も思うように飼えないのである。目下生後五ヶ月のコリーと一歳三ヶ月ぐらいの中型の日本犬がいるだけだ。
コリーは利巧な犬である。牧童の代りに羊の群を誘導して、群をはなれる羊があればつれもどり、また外敵から守って、人間以上の働きをする犬だ。シェパードには専門の訓練師が必要だが、コリーの方は、番犬に必要程度の訓練なら主人でも間に合う。時間の観念が正確だし、自分の欲望を抑えて主人の言いつけに服する力があるし、血気にはやるということがない。よその犬には親しみも持たないし敵意も持たない。その代りには人間が大好きで、誰とでも仲よしである。誰にでもペロペロなめて親愛の情をヒレキするが、よその犬には振り向くこともない。
去年死んだコリーは牧場で相当期間育ってきたらしく、牛や馬を見ると目つきが変るほど喜んで、親愛の情をヒレキしに走って行ったが、今度のコリーは乳をはなれた時から私のウチで育ったから、牛や羊や馬には愛情を感じる習慣がない。しかし弱者を守ったり誘導する本能だけは生れながらにいちじるしいから、子守には人間の子守以上の確実性が考えられるし、女だけの家族にはこの上もない保護者であろう。
もっとも、コリーは容姿が雄大で美しいから、御婦人がこれを連れて歩くと御婦人の方が見おとりがする。ボルゾイの美しさはコリー以上だが、コリーには雄大さがある。日本婦人は体格的にすでに甚しく劣勢で、コリーを連れて歩いて見劣りしないとなれば、これを美人コンクールの最終予選にパスしたものと認めてよろしく、ミス・ニッポンの有力候補であろう。五尺五六寸以上の外国婦人の体格がないと、どうもツリアイがとれないようだ。ウチの女房には、これが嘆きのタネである。
外国種の犬はたいがい利巧で、訓練もきくし、主人をはなれて、一本立ちの行動ができるものだ。そのうちでもコリーは特に利巧な犬であるから、これと小型や中型の日本犬を一しょに飼うと、日本犬の頭の悪さが身にしみて情なくなるのである。
日本犬は主人と合せてようやく一匹ぶんの働きができるのである。家族以外の者には決してなれない。しょっちゅう遊びにくる友人も毎曰くる御用キキも、犬のお医者もダメである。鶏屋のオヤジサンは犬に吠えられるのが大キライだそうで、ウチの犬が店の前を通ると肉やタマゴをサービスしてゴキゲンをとりむすんでいるそうだが、全然キキメがない。無用な吠え方をしないように、すでに七八ヶ月も家の者が気を配っているが、全くキキワケがない。
ただベタベタと、イヤらしいほど主人に忠義である。ワケも分らずに、ただベタベタと忠義というのは全く情ないもので、サムライ日本のバカらしさ、頭の悪さ、そのままである。自分の家の近所と、主人と一しょの時だけは無性に勇み立つ。むやみによその犬とケンカをしたがる。そのくせシェパードのようなはるかに強大な犬に会うとシッポをたれて逃げ腰になる。
一般に日本では犬はケンカをするものと考えて疑わないが、これはチャチな日本産の犬どもだけの話ですよ。外国種の犬は犬同志でむやみにケンカをしたがるものではないし、ケンカをしなければならぬ必要も、必然性も考えられんじゃないか。
シェパードなどもむやみにケンカしたがる犬ではない。訓練のないシェパードが立ち上るようにしてよその犬に吠えたて、主人が綱を押えて必死に制しているような図を道で見かけるが、あれはたいがいケンカをしたがっているのではないのである。愛犬家は吠え声で分るものだが、たいがい「遊びましょう」と云ってよその犬に吠えかけているのだ。シェパードを飼って正式に訓練しないような主人は本当に犬の気持は分らない人が多いにきまっているから、自分の犬の言葉が分らない。散歩のさせ方も不充分であるから、犬は遊びたくて仕様がないのが普通である。遊びましょうとよその犬に吠え訴えている言葉も理解できないし、その原因が飼い方の至らなさにあることも理解できないのである。よく躾けられたシェパードは決して猛犬ではないし、また本来、日本犬ほどケンカしたがる犬でもない。
コリーの如きに至っては、よその犬とケンカすることなど考えたこともない。はじめてコリーを散歩に連れだした当座は、よその犬が自分に吠えると、どういうワケで吠えられるのか理解に苦しむという顔をする。生後三ヶ月ちかいころから散歩にだしたが、その当時はすでに成犬の日本犬がコリーをいくぶん守る様子を見せてくれたところがコリーは日ごとにふとるのが目に見える犬だから一ヶ月のうちに忽ち日本犬を追いこして、生後四ヶ月ぐらいでずッと大きくなってしまった。こうなると相手の図体で強さを測量する日本犬には薄気味わるくて仕方がないらしく、遠慮深くなって、コリーの目の色をうかがい、甚しく懐疑的になっているのである。
かなりよく訓練された、一歳半ぐらいのメスのシェパードが伊東に居って、その主人が時につれてきてコリーと遊んでくれる。まだ仔を生まないシェパードだが、母性本能というのであろう、実にいたわり可愛がってくれるものだ。川のフチを通れば自分が川の側に位置をしめてコリーをかばって歩くし、よその犬に会えばそッちの側に位置をしめて仔犬をかばう。よその仔犬をこんなにかばって遊んでくれる習性も、利巧さも、日本犬にはないものだ。
小型や中型の日本犬は、犬同志だとむやみにケンカしたがるが、猫だのほかの小さな動物などとは仲良しになる習性がある。要するに臆病だから、相手が怖いためにケンカを急ぐオモムキらしく、敵意や実力のない仔猫などとは安心して仲良くなるもののようだ。むやみにケンカをしかけたがるのも臆病のせいだというのが見えすいていて、チャチな日本犬を飼うとガッカリするものである。
支那種のチャウチャウという犬が、やっぱり日本犬によく似ている。根が同じものかも知れない。そして現在小型の日本犬と称するものには、チャウチャウとのアイノコも多い。臆病故の勇み肌も同じことで、日本犬以上にケンカをしたがる。敵に己れの存在の知られぬうちに、突然うしろから走り寄って尻にかみつくという日本犬もやらないケンカの手を用いる。存在を知られて正面へまわるともうダメで、ヨダレをたらしてむやみに唸っているうちに、クビの根ッ子をくわえられて二三間ふりとばされて退散する。
ケンカをしたがる犬は弱虫の証拠なのである。またバカの証拠なのである。ケンカをしなければならぬ理由も必要もないではないか。ただ相手が怖いのだ。疑心暗鬼である。そしてそのようにバカで疑り深くて、飼い主のほかに信頼のおけない甘ったれた性質が、日本犬の番犬に適しているところであろう。但し、よく吠える点では番犬に適するけれども、真の敵と闘う力や勇気の点では疑わしい。どうも日本犬というものは実質的には凡そ番犬に適しない。むしろ狩に用いた方がやや効能があるのではないか。私はバクゼンとそう考えるようになった。
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私がこのように日本犬について悲観的な考えを持つようになったのもチャチな日本犬を飼ったせいだ。日本犬の中にも外国種に負けない犬がいるかも知れぬ、ということは私の長い疑いであり、希望でもあった。
こう疑って然るべき理由がハッキリ存在するのである。
皆さんが犬屋で日本犬の仔犬をもとめる場合に、これは何犬ですか、とお訊きになると、たいがい犬屋は、
「秋田犬です」
と胸をそらして答えるのが普通である。こうして今では日本犬といえば、大半が秋田犬。東京には秋田犬がウジャ〳〵いることになっています。そして秋田犬にも小型、中型、大型と三種あることになっており、犬の品評会にも三種の秋田犬がそれぞれ出品されて、別々に審査をうけるのである。
しかし、小型、中型は秋田犬というべきではなくて、日本犬というべきだ。耳が立って、シッポのまいた犬は日本の各地にザラにいる。むろん秋田にもいる。チャウチャウもそうだ。それらの中に大型秋田の血が一度や二度まぎれこんだにしても、これは秋田種ではなくて、単に日本種というのが当然であろう。
真の秋田犬とは何ぞや? これまた現代の神話の一ツなのである。秋田犬、秋田犬、と大そうな熱であり騒ぎであるが、本当の秋田犬とはこれです、という解答は東京の愛犬家を歴訪して廻ってもなかなか得られない。
しかし私は根気よくこの質問をくり返したものだ。そのうちに秋田犬というものもバクゼンたるリンカクだけは少しずつ分ってきた。そして秋田犬というものは大型だけを指すものであるが、これはやや絶滅に瀕していて、秋田県でも大館市という一地域にしか見られない。東京では日本橋のワシントンという犬屋に出羽号の何世だかのメスがいる以外には、血統の正しい大型は殆ど見かけることができないだろうという話であった。
一般に東京あたりで大型秋田と云われているものには、三河犬との配合が多いそうだ。三河犬に秋田をかけ合せ、その仔をまた秋田に、また秋田にと何回となくくり返すうちに、色や顔の出来が秋田に近づいてくるのだそうだ、この雑種は繁殖力が旺盛だし、テンパーに強い。そして仔犬の時だけはホンモノの秋田よりも立派だそうだが、結局ホンモノのように大きくなることはできない。
ところがホンモノの大型秋田は大館市に少数残存するだけで、したがって血族結婚になっているから、ニンシン率が甚しく低くて、三期かけ合せても、一期ニンシンすればよろしい方で、しかも一度に幾匹も生れない。二年に一度仔を生めばよろしい方だという。おまけにテンパーに弱くて仔犬のうちにたいがい死んでしまうという。
そこで本場の大館市からホンモノの秋田と称して売っているものも、たいがいは中型の秋田、否、ただの中型日本犬で、稀にホンモノが売り出されても、これはたいがい育たぬうちに死んでしまう。
一方、三河製の秋田犬も盛大に売りだされ、これらのイミテーションは繁殖率が高いから、東京の、否、日本中の到るところに秋田犬と称するものが飼われているが、その名犬と称するものも実はホンモノの秋田犬とは違うのである。品評会の一等賞と云っても、小型秋田、中型秋田とあって、これがホンモノの秋田ではないから、要するに秋田犬のホンモノは東京では見られない。ワシントンの出羽号の子供ぐらいが東京で素性の正しい秋田じゃないか、というのが私の東京の愛犬家から探りだした結論であった。
「要するに秋田県でも大館市だけなんですよ。そこ以外には秋田県でも秋田犬は見られないのです。秋田市の人が、これが秋田犬です、と自慢の犬をあなたに見せても、信用してはダメですよ。まっすぐ大館へ行きなさい。このホンモノの秋田犬こそはタダモノではありませんぞ」
というのが四人の物知りの一致した説であった。その一人が福田蘭童博士であるが、
「あなたがいくら日本犬がキライでも、ホンモノの秋田犬を見れば欲しくなりますよ。ノドから手がでますよ」
という大断言ぶりであった。
ところが、私が秋田に向って出発という時に、女房が念を押した。
「秋田の人が秋田犬の仔犬をくれると云っても貰ってきてはダメですよ。日本犬は絶望よ、見るだけでゾッとするわ」
という、これはまた念入りのゴセンタクであった。わが家の者どもが日本犬に身を切られる思いをしているのは切実であるから、蘭童博士の大断言よりもこの言葉の方が私の身にもしみるのである。
「よろしい。秋田犬はコンリンザイもらってこないが、秋田オバコを仕入れてくるぜ」
と出発した次第であった。
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出羽の国というところは私が目下やや熱中している歴史にとっても大切な土地なのである。しかし歴史のことは当分ふれないことにしていた。ハリマと四国も大切な土地で、先月はハリマへ行ったが、この時もわざと歴史のことは考えなかった。特に結論を急ぐことは害があるものだ。
秋田犬とオバコという現代の神話的存在をマンゼンと鑑賞して御報告いたそうという、今回は実にノンビリした旅行であった。
上野駅というものが、すでに雰囲気がちがっている。見送人の数が大変である。みんな親類縁者であろう。東海道線では見られない風景である。秋田行の箱にのると、すでに車内の言葉が一変しているのである。ここは一体どこか? すでに東京でないことだけはたしかである。
東京駅にこのような風景が見られないのは、東京駅にはフルサトが失われているのか、距離が失われているのか。私のような風来坊にも切ないのは、よけいな悲しい時間である。駅頭の別離も、上野駅で発車前の車中にすでに誰かのフルサトがあることも、私には切ない。人の別離を見ても、人のフルサトを見ても、切ないものです。ビジネス・オンリーの私の旅行も、まず出発からタジタジであった。
「どうも、この上野駅の風物が、日本犬的なところがあるぞ、さては、秋田犬も……」
と、私は大いに悲観的に考えこまざるを得なかった。おまけに車内の人たちは傍若無人である。すでに寝ている私を叩き起して、自分の椅子の位置をかえる。彼ら四人は椅子を向い合せにして語らっていたので、自分の椅子を平行に直してねむるために、寝ている他人を叩き起す必要があったのである。
「これも日本犬に似ているなア……」
と、私はまた、ふさぎこんでしまった。寝ついたトタンに起されて、私は一晩ねむることができなかった。したがって、翌朝秋田市についたときには、完全にノビていた。
私の生れた新潟市と秋田市はよく似ている。まったく同じものは裏町である。裏町の中流の庶民住宅である。みんな横に傾いたり、家全体がひんまがっているのである。雪国の悲しい特色の一ツであるが、家の造りがいかにも薄く軽く安ッぽいのは、中位の堅牢さよりもこの方が雪に抵抗し易いせいもあるかも知れない。そして人間がまッすぐに立つのに苦労しそうな傾いた家々に人々は平気で住んでいるし、雪につぶされたという話もきいたことがない。しかしほッたらかしておけば、いつかは倒れるだろうし、いつかは修繕したり、たゝきこわして造り代えたりするのであろう。この傾斜の限度が、どこにあるのか? フルサトの裏町に似た秋田の裏町をぶらつきながら、チョコンと傾いて並んでいる家々の傾斜の限度がひどく気にかかりましたよ。そして傾いた屋根の下に、長い一冬の雪の下に、アキラメと楽天との区別のつかないアイノコが人々の心にしみつき、育って行くのである。
秋田の街は戦災をうけていない。恐らく終戦後三年か四年の後ならば、私の受ける感じはちがったものであったと思う。今日ではすでに東京の主要な場所はバラックながらも再建されて焼跡の汚さは見受けることができないし、大阪も、その他の多くの戦災都市も、私の見て歩いた限りでは八分通り再建作業が出来ている。
焼跡の再建都市はバラックではないにしても、乏しい資材で間に合せたバラックまがいの街なのである。それですらも焼けない都市よりは見た目に明るく美しい。整然としてもいる。
美しい港町と云われる長崎すらも──この港町は原爆で屋根やガラスに被害をうけたが、焼けることなく昔日の姿にかえっているのだが、むかし居留地だった洋館地帯をのぞけば、むしろ戦災をうけないための汚らしさの方が、今日に至っては目立つのである。小京都とよばれるヒダの高山も、そして秋田の街も、そうである。戦災をうけないための汚らしさ──それは異様な、しかし、うごかすべからざる事実ですよ。この異様な事実に目をうたれるとき、胸につきあげてくるのは日本庶民生活の悲しさです。
日本の木造建築にも、ピンからキリまである。法隆寺や平等院から雪国の小作農家に至るまで。だが、庶民住宅というものは、百年前から今日に残ったものでも、ほぼ今日のバラックと変りのあるものではない。焼跡のにわか造りのバラック都市ですらも、それが新しいために、そして道路がひろげられて明るいだけでも、焼けない都市の昔ながらの汚らしさがないのである。要するに古来の日本庶民の住宅というものは、いかに資材が豊富なときでも、バラックの域をでることができなかった。たとえば昔の大工や左官が手をぬかなかったために、百年百五十年の耐久力があるにしても、それは、単に耐久力というだけで、庶民生活の豊かさを住宅自体が表しているような豪華なものはどこにもない。
武家屋敷ですらも、中位以下のものになれば、古びて残った哀れさ汚さは、新築のバラックに劣ること万々である。
戦争で焼けたバラック都市を見るよりも、焼かれずに残った、昔ながらの都市を見る方が、日本の庶民生活の貧しさ悲しさに目をうたれるのである。まして雪国ともなれば、風土的にどうにもならない貧しさ悲しさが一そう甚しく目をうつものだ。秋田市は徳川三百年一貫して佐竹氏の城下であるが、領主がいかに善政をしいたところで風土的にどうすることもできない貧しさ悲しさは街々の古い姿にハッキリ現れている。
雪国の小作農家の住宅はひどいものだ。特に小作の多かった新潟県がひどい。東海道、山陽道等の一般農家建築とは、比すべくもない。その小さいことも論外だが、屋根にはタクアン石のようなものを並べ、壁は荒壁のままである。これ式の農家は秋田県にも少くないが、二階に張りだし窓のような独特のフクラミをもった藁屋根の中農家が目立つので、新潟県の農村ほど寒々した感じがない。
屋根に石をのッけた農家は、飛騨の農家がそうである。ところが、飛騨の農家は概してそう小さくはないし、独特の様式があって、その様式に多少の文化、工夫とかユトリとかを感じさせる。飛騨の農家は屋根の傾斜が甚しく緩やかである。これは大家族主義で有名な白川郷の農家の屋根が急傾斜なのとアベコベで、白川郷の屋根だと屋根裏部屋が前後にしか採光でぎないが、タクアン石をのッけた屋根のゆるやかな新農家は、屋根裏部屋も前後左右から採光できる。おまけにこの屋根の先端を前後左右ともに長くのばして、二階の左右の窓は屋根が軒の作用をして風雨をしのぎ、前後の窓の外側には屋根から塀のような板ばりを垂らして風雨をしのぐ仕掛けになっている。この板ばりは敷居によって左右に開閉できるから、晴天の日はこの塀の戸を左右にあけて、二階に光を採り入れることができる。ガラス戸や雨戸がないころ、障子だけしかなかったころの産物であろう。ガラス戸や雨戸が自由にとりつけられる今日でも旧態依然というのは智恵のない感じがするが、これを工夫した当時としては相当の工夫であったに相違なく、ともかく一ツの建築文化を感じさせるし、総体に建物も大きく、延坪から言えば新潟あたりの小作農家の十倍以上はタップリあろうというものである。なお、屋根に多くのタクアンの重石のようなものをのせるのは、クギを用いないためであり、つまりクギによる雨モリを防ぐための当時の新工夫であったらしい。恐らく白川郷的な農村建築が先に在って、その屋根をゆるやかに改めることによって屋根裏の採光を工夫し、ワラぶきを軽いコッパぶきにすることによって積雪時の屋根の重量を軽減し、またクギの代りに重石をのせて雨モリを防ぐことを工夫した、という次第ではないかと考えられる。
とにかく飛騨の農家というものは、コッパぶきと重石だけは同じだけれども、独特の工夫もあるし、大きくもある。耕作面積が猫の額ほどしかない山国の飛騨の農家がはるかに立派で、日本有数の米どころたる新潟や秋田の農家が他国の農家の馬小屋の如くに貧困極まるものだというのはウソのような話だ。小作制度というものが論外の悪制度であったのが第一の理由には相違ないが、新潟や秋田の積雪の甚しさも論外なのだろう。冷害や水害や、辛うじて一毛作しかできないという風土の貧しさや暗さは、雪国の農民住宅にも、町の庶民住宅にも生々しく現れすぎている。建築の骸骨のようなものである。昔から骸骨のような家にしか住むことのできない雪国の庶民であった。
焼け残った都市が焼跡のバラック都市よりも汚く暗く侘びしいということは、銘記して我らの再建作業の課題とすべき重大事ではありますまいか。私は秋田市の裏通りを歩きながら、日本の暗さ悲しさにウンザリせざるを得ませんでした。保守党だろうと、進歩党だろうと、そんな区別は問題ではない。いやしくも庶民の代表たる政治家たるものが、庶民生活のこの暗さや貧しさに打たれないのがフシギではありませんか。祖国の力が尽きはてるほどの大戦争に敗北し、生活の地盤の大半が烏有に帰し、その荒涼たる焼野原へ不足だらけの資材をかき集めて建てたバラック都市ですら、焼け残った都市よりも立派なのだ。
焼け残った都市が焼け跡のバラック都市を指して、この戦争の惨禍を見よ、戦争の悲しさを見よと言えないことは奇怪千万ではないか。そう云えたのは焼跡が暗黒マーケット時代の三四年間だけのことだ。たった五年目、六年目で、もうそれが云えない。今では焼け残った都市の方が逆に汚く貧しげで、戦争前の庶民生活が豊かで平和でたのしかったことを実質的に語っているような誇りやかな遺物は殆どない。きわめて一部の社寺や大邸宅が華やかな過去を語っているが、それは大多数の庶民生活にはカカワリのないものだ。秋田県の山村で、車窓から見た小学校の建物などは、爆撃直後の半壊の小学校よりも甚しく、正視に堪えないものがあった。窓のガラスもなく、片手で押しても忽ちつぶれそうな破れ放題のアバラヤ学校であった。
欧米では、保守党たると進歩党たるとを問わず、国民の生活水準を高める、ということは政治家の当り前の役割である。他の政策はちがっても、これだけはあらゆる政党に共通した義務の如きものである。ヒットラーでも、労働者に鉄筋コンクリートの住宅を、自家用車を、と叫んだものだ。
ところが日本の政治家や政党は、この戦争に負けるまで、国民の生活水準を高める、という政策をかかげたことすらもない。労働者のための政党までそうで、働くことだけが正しくて、否、貧乏の方が正しくて、生活に娯楽をとりいれたり、楽しむことに金を費したりすることは悪いこと、ブルジョア的な誤った考えだというタテマエであった。
戦争中なら国民に耐乏生活をもとめることも仕方がないが、平和な時代にも耐乏生活を正しいものと考え、生活をたのしんだり娯楽に金を使うのをムダ使いであり悪いことだと考えるような政治家は完璧に政治家の第一番目の落第生にきまったものだが、明治に政党の起って以来、保守党も進歩党も耐乏生活を要求したり謳歌したりするばかりで、国民の生活水準を高めることなど、念頭にとどめたことがなかったのである。
戦争に負けた今日に至って、アメリカ的な政治常識を猿マネして、国民の生活水準を高めるという政策をにわかにどの政党も一筆書きこみはじめたが、本心からそれを考え、その理想のための個人や党の総力をつくすことを真剣に考えている政治家や政党があるだろうか。国民全体の暮しを楽しく良くするために、また全体の幸福のために、ということには、自分をも国民全体の一人として見つめているシッカリした思想の足場がいるものだ。亭主が酒をのむために貧乏し、家庭生活が破壊されると云って酒の害を説き、酒の害を憂える女房や思想家や政治家は少くない。しかし、酒好きの人間が酒を楽しむこともできないという貧乏の方が悲しむべきことではないか。亭主が好きな酒をたのしんでも家庭生活が破壊されないぐらいのサラリーへ、生活水準へ高める必要のあることを考え、生活水準の低さや国民全体の貧乏を悲しむことを何よりも先に、また切実に知ることが、女房にとっても、政治家にとっても、当り前の考え方というものであろう。
しかし、そのような当然きわまる考え方や、豊かな生活を、日本の庶民生活の歴史の跡から見出すことはむずかしい。蓮の花のひらく音に耳かたむける静寂を知り、一茎の朝顔に丹精こめる喜びを知ることも結構である。しかし一応しかるべき豪華な食卓を人生当然の喜びと考え、趣味を満足させたり、仕事のあとで遊んだり、好みの着物をきるぐらいのことは理窟ぬきに人間あたり前の生活であり、せめてそれぐらいの生活の楽しさは万人の物としなければならない、と考えるような大らかさも、素直さも、日本庶民の生活史には殆ど見ることが不可能だ。いつもアキラメが先に立ち、欲することも正しいことだということが庶民生活に素直にとり入れられたことがないのである。
その不自然さはパチンコの日本征服というような狂躁にみちた狂い咲きとなって現れたり、坊主でもないくせに出家遁世の志となって現れたり、突如としてサビや幽玄からフランケンシュタインの心境へ移行するというような、日本庶民の生活信条は尤もらしくもあるし不可解でもあるし、通算して諸事難解をきわめるのである。
たッた一ツだけハッキリしていることは、なんべん同じ目に合っても性コリもないということだ。
焼けない都市が焼跡のバラック都市よりも汚くて貧しそうで暗いというのも悲痛きわまる話であるが、焼跡のバラック都市の方だッて、今のところ古い物よりも若干マシなものに見える、というだけのことで、なんらの計画性も見られず、十年二十年のうちには狸の本性現れ、目も当てられない化けの皮をさらすハメにおちいること明々白々である。
ほかの都市については多く知らないが、今の熱海の市長は人材であろう。去年の熱海の大火のあと、彼は熱海銀座と三階以上の建築は鉄筋コンクリートでなければならぬ、という断乎たる命令をだした。安直手軽なバラックで営業再開をもくろむのは人情で、市民の大半はゴウゴウと反対したが、彼は断々乎として命令をひるがえさなかった。
それが当り前というものだろう。こりることも知らねばならぬし、焼けた以上は焼けたことを利用し、善用するのが当り前の話さ。易きにつきたがるのは庶民の常だが、政治家はそれぐらいの人間性は知らねばならぬし、焼けた以上はこれを計画的に利用して理想の一ツでも行うのが当り前の話だ。
十年たッたッて鉄筋コンクリの熱海銀座ができるもんか、と市民がブウブウ怒っていたが、わずか一年後の今日、鉄筋コンクリの熱海銀座は既に完成に近づいているのである。
熱海市長のこの処置は当り前の処置なのである。戦争だろうと火事だろうと利用できるものは利用して、計画的により良い新作品を工夫するのが当り前じゃないか。けれども、この当り前のことが日本では珍しいのだ。通俗な庶民感情を押えて断行するだけの洞察力も信念もない政治家や市長が普通だ。彼らが庶民感情を抑えつけて強行断行することは、庶民の利益には反するが、自分の利益になることが主である。熱海市長が断行したのはそのアベコベのことである。市民の当座の利益には反するけれども、やがて熱海にとって地の塩たるべき計画性ある根本的な施策であった。奇も変もない当り前の根本的なことであるが、この当然なことが他の焼跡のバラック都市では殆ど見ることができないのである。
私がフラフラ状態で秋田市へつき、旅館に辿りついたとき、いきなり秋田の新聞記者が訪ねてきた。
「秋田市の印象はいかがですか」
これが彼の第一番目の質問だったが、着いたトタンに印象などがあるもんですか。それにしても何たる忍術使いの記者であろうか。私の旅行はその土地の人には分らぬようにいつも秘密にでかけているのに、風土的に鈍重の性能充分の感ある秋田記者の何たる敏感さよ。ところがアニはからんや私の泊った栄太楼旅館の息子が、新聞記者だったのさ。
また私が秋田駅へ着いたとき、一人の女性がためろう色なくサッと歩みよって、
「旅館からお迎いに上りました」
と云った。この時も、秋田オバコのこは何たる敏感さよと、到着匆々重ね重ね敵の意外な敏感さにおどろくことばかりである。ところがこれもアニはからんや、このオバコ、つまり旅館の女中さんは、戦争までレーンボーグリルの女中さんであったそうな。レーンボーグリルとはその上の文藝春秋の本寨だもの。婦人記者よりも文壇通の、文士については赤外線的な鑑定眼を養成した錬士だったのである。
しかし、着いたトタンに当地の印象いかがとは気の早い記者がいるものだ。その暗さや侘しさがフルサトの町に似た秋田は切ないばかりで、わずかばかりの美しさも、わずかばかりの爽かさも、私の眼には映らない。
けれども私は秋田を悪く云うことができないのです。なぜなら、むかし私が好きだった一人の婦人が、ここで生れた人だったから。秋田市ではなく、横手市だ。けれども秋田県の全体が、あそこも、ここも、みんなあの人を育てた風土のようにしか思われない。すべてが私にとっては、ただ、なつかしいのも事実だから仕方がありません。汽車が横手市を通る時には、窓から吹きこむ風すらも、むさぼるばかりに、なつかしかった。風の中に私がとけてしまッてもフシギではなかったのです。秋田市が焼跡のバラック都市よりも暗く侘しく汚くても、この町が私にとってはカケガエのない何かであったことも、どう言い訳もなかったのです。
「秋田はいい町だよ。美しいや」
私は新聞記者にそうウソをついてやりました。すると彼は、たぶん、と私が予期していたように、しかし甚ださりげなく、また慎しみを失わずに、あの人の名を言いだした。
「あゝ。あの人なら、知ってるよ。たぶん、横手のあたりに生れた人だろう」
私は何食わぬ顔で、そう云ってやった。むろん私はその記者に腹を立てるところなどミジンもなかった。私はこの土地であの人の名をハッキリ耳にきくことによって、十年前に死んだ、その人と対座している機会を得たような感傷にひたった。着いたトタンにいきなり新聞記者が訪ねて来たことも、そしていきなりあの人の名をきいてしまったことも、私とこの土地に吹く風だけが知り合っている秘密のエニシであるということをひそかに考えてみることなどを愉しんだのである。
街へ散歩にでたら、百貨店の飾り窓に甚しく私の気に入ったステッキがあった。秋田産のカバハリというステッキだった。その店内にたった一本あるだけのステッキでもあった。すべてそれらのことがなんとなく私を満足させ、落付かせた。
秋田市では別に目的もないので、なんとなく本屋だの裏町だのをブラブラ歩いただけである。旅館で食べたショッツル鍋が、さすがに東京の秋田料理屋で食べるものよりも美味であった。そして、地酒もうまかったが、腹をこわしていたので、舌にのせてころがす程度にしか味えないのが残念であった。
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翌日、目的の秋田犬を見るために大館へ出発した。私たちは大館市の秋田犬保存会長、平泉栄吉氏宛の紹介状をもらって東京を立ってきたのである。ところが例の新聞記者の訪問によって、私たちが秋田犬を見るために来ていることが知れたから、私たちが大館に向いつつあるとき、逆に平泉氏から旅館へ電話がきたそうだ。
「秋田犬を見るなら、秋田市ではダメ。大館へ来なければダメではないか」
こういう強硬な申入れであったらしいが、すでに私たちは大館へ出発した後であった。
彼がかくも強硬な申入れを行うのは頷けるのである。たしかに大館へ行かなければ秋田犬を知ることが不可能であるばかりでなく、秋田犬に対して彼の如くに無邪気な熱情をつぎこんでいる人物は天下に二人といないであろうからである。
旅先でこのように邪心の少い好人物にめぐりあうのは嬉しいものである。彼は秋田犬に対して、一見なんとなく控え目に見えるが、実は損得ぬきで溺れこんだ満身これ秋田犬愛の熱血に煮えたぎっているのであった。
彼のように整然たる、抜けるように色の白い美紳士を時々北国で見かけるのは私だけではあるまい。むかしヘルプという薬のマークの美紳士によく似た整然たる白色の紳士なのだ。あのマークの紳士と同じように、色も白いが、美髯をたくわえているのもほぼ共通しているようである。子供心に強く印象に残っているのでは、吉田という伯父がそうであった。これが私の知る実在のヘルプ紳士第一号である。今年の春、塩ガマへ旅行したとき、塩ガマ神社の裏参道の登り口に神様と共存共栄しているサフラン湯本舗のオヤジが、これもヘルプ型であった。もッとも彼は真ッ昼間というのに酒に酔っ払ってふらついていたから、顔の色は抜けるように白いというわけには参らずタコの面色を呈していたし、酔っているから若干ロレツもまわらないし、それにともなってお行儀の方も甲や乙や優や良というわけにはいかなかったが、それは整然たるヘルプ紳士のお行儀として失格しているだけのことで、ただの酔っ払いのお行儀としてなら充分見どころがあったのである。塩ガマ神社の裏参道にトグロをまいているだけのことはあって、ヘルプ紳士の荒ミタマあるいはヘルプ紳士のスサノオノミコトというところであった。
秋田犬保存会長はこういうお行儀のわるいスサノオノミコトではなかったのである。すべてに於てダンチであった。整然たるリンカクに於ても、色の白さに於ても、美しいヒゲに於ても、ヘルプ紳士の最優良種に属していたが、お行儀のよさ、気のやさしさ、物やわらかさ、すべてに申し分のないヘルプ紳士中のヘルプ紳士であった。難を云えば、いささか小柄の点だけだが、色あくまで白く、形あくまで整然たるヘルプ紳士としては、ヨーロッパの貴顕ほどの柄はなくとも、佐々木小次郎から武骨を取りのぞいた程度の柄はもたせたいものであった。もっとも、秋田犬と見くらべざるを得なかったせいで、実際以上に柄が小さく感じられたのかも知れない。
実に秋田犬と共存共栄して、己れの大を誇るということは難中の難事である。それに雪国というものは、どっちを見まわしても物のすべてがうら悲しく小さく見えて仕方のないものだ。秋田城主佐竹侯が何十万石の大々名だか知らないが、その城下町やお濠や城跡をどう見廻しても大名の大の字の片影すらも見ることができない。山々も田も畑もどことなくうら悲しいし、秋田市から大館まで三時間の汽車の旅に、どの駅もどの駅も、材木の山、杉丸太の山々である。よくまア材木があるものだナ、と思うけれども、それとてもムヤミに材木が存在し目につくだけの話で、別に大というものがその材木の山々のどこかに存在しているワケではないのである。大きな材木がないせいではなく、所詮材木の山などゝいうものは、細い一本の鉄にも如かないという実質上の劣勢が、この戦争によってもイヤというほど身にしみているではないか。原子バクダンの時世に、焼夷弾ごときチンピラのチョロ〳〵した攻撃に一となめという哀れさだもの、秋田平野の全体に材木の山を積み重ねヒマラヤ山脈の高さに積んで見せたって、「大」の存在するイワレはない。雪国の風物は悲しいものだ。
ところが、さて、大館へつき、平泉二世の案内で秋田犬の代表的なのを順次訪問して歩いて、ここにはじめて大なるものを「たしかに見た」と云わざるを得なかったね。
大館の市長は平泉二世と同年、三十一だかの日本で一番若い市長だそうだ。助役も若い。私は市役所で彼らに会ったが、市長の留守宅で彼の秋田犬に会った時が、よッぽど市長に会ったような気分であった。
大館には三百頭ぐらいのホンモノの大きな秋田犬がいるのだそうだ。その中で、品評会の賞をもらった犬に、左様、十頭以上、十五頭ぐらいに刺を通じ、拝謁を願ったのである。メスは昼もたいがい放しておくが、オスは動物園の猛獣のオリと同じ物に必ずおさめてカギをかけておくのである。オリの外からこれを見るとまったく猛獣そッくりだ。
オリに入れておかないと、人間に噛みつく危険もなきにしもあらずだが、何よりも犬同志で盛大なケンカをやるのだそうだ。こんな大きな奴同志にケンカをやられては、たまったものではない。奴らは自分よりも小さい犬がいくら向ってきても相手にしないが、同格の奴を見ると、たちまち一戦を挑むのだそうだ。いくら図体が大きくても、こういうところが、やっぱり日本犬である。しかし自分よりも小さい犬を相手にしないというところは、見どころがある。その見どころがある限りは、訓練次第で犬同志のケンカなどはサラリと忘れた性質へ持って行くことができるかも知れない。
ホンモノの大きな秋田犬というと、人々は闘犬、ケンカを考える。東京で私に秋田犬のことを教えてくれた四人の物知りたちも、秋田犬といえば闘犬、今でも大館では闘犬が行われているようなことを私に教えた。
そういえば私の少年時代、新潟市でも、大きな秋田犬を飼って闘犬をやらせるのがはやっていた。それは紅白のシメナワのような太いものでタスキ十字にかけたいかにも犬の力士のようなケンカの専門家という見事な押し出しであった。大館では今でもそうだということを四人の物知りは説明してきかせたのである。
とんでもない大ウソですよ。第一、力士然とタスキ十字にからげた豪傑などは一匹もいません。一等賞の大名犬も、二等賞の中名犬も、みんなが言い合せて諸事ケンヤクを専一にこれつとめているように、実に貧弱で安ッポイ駄犬用のようなクビワをかけているだけだ。
東京では、やせてチッポケな、ニセモノの秋田犬に横綱のようなシメナワを十字にキリリとかけて歩かせたりしているが、大館のホンモノの方には、十字のタスキをかけた犬など完全に一匹もいないのである。そして完全に駄犬用のチョロ〳〵した安輪を首にかけているだけさ。
今や大館の愛犬家にとって、ウチの愛犬がケンカをやらかしては、これ天下の一大事なのである。なぜなら、ホンモノの秋田犬は減る一方なのだ。ニンシン率が全然低くなるばかりであるのに、テンパーに弱い。なんとかして、わが愛犬に、またはわが愛犬の種を生ませてお金モウケをしなければならぬ。ケンカしてカタワになっても一大事だし、死んでしまえばすでに天下の終りではないか。
だから闘犬などゝいうことは、すでに大館には影も形もない思想なのである。また、闘犬ということは、秋田犬本来の性格でもないかも知れない。自分よりも小さな犬は相手にしないという性格には、自分と同格の者も相手にせずにいられる素質を示しているようにも思う。闘犬という習慣と、そういう意識による飼い方が、犬自身には不本意な性格になれさせてしまったのかも知れない。
二匹のオスを合せると、先に闘志をもやして勇み立って吠えるのと、一向に動ぜず、だまって身じろぎもしないのと、いろいろタイプがある。結局、先に吠える方が弱いというのが定説で、それをシリメに一向に身じろぎもしないのが居ることも事実だから、やっぱり本来ケンカを好んでいるワケではないようにも思うのである。
だが、秋田犬という図抜けて大きなこの種族も、牢固たる日本犬の習性の一ツはどうすることもできないらしい。
その習性とは何ぞや、と云えば、チャチな日本犬が電信柱や木の根ッ子にムヤミに小便するように、この図体の大きな熊の親類のような奴が、やっぱり電信柱や木の根ッ子に、ふとい大足をチョイとあげて、ムヤミに小便するのである。
西洋犬はこんなことはしません。四ツ足を大地にふみしめたまま、馬と同じようにジャーと長々と小便をたれる。一度小便をすれば、一時間の散歩の途中に再び小便するようなことは殆どないものだ。
だから、西洋犬は自転車で朝晩の散歩を走らせるのは楽であるし、当然そうすべきものなのである。
ところが秋田犬は自転車では散歩させることができない。秋田犬同志で出会うとケンカする怖れがあるから綱を握って自転車にのらなければならぬ。ところが電信柱のところでチョイと立ちどまって片足をあげて小便するたび、奴メは静かに立止ったツモリでも、綱を握っている自転車上の人物は、ズデンドウとモンドリうッてひッくり返るのである。
ホンモノの秋田犬の五分の一もあるなしのウチのチンピラ日本犬でも、ユダンしていると、電信柱のところで、ひッくり返されてしまう。小さくてもバカ力だけは大そうなもので、ホンモノの秋田犬ときては、どれほどユダンもスキもなく構えていたって、必ず電信柱のところでズデンドウは確実まちがいなしである。チャチな日本犬を飼っただけでも、ズデンドウの確実無比なのが手にとる如くに分るものだ。あの図体のバカ力は羽黒山程度でどうにかツリアイがとれるかも知れんが、彼といえども自転車に乗ッかッとればズデンドウはまぬがれない。
自転車で散歩させる手がないとなると、奴めの世話をさせるために怪力の犬係りを用意する必要がある。だいたい大館では朝晩一時間ぐらいずつ歩かせているようだ。歩かせて一時間というのは、どういうものだろうか。大型の西洋犬だと、自転車で一時間でも、あるいは少いかも知れない。秋田犬のあの図体で歩かせて一時間は、ちと不足ではないでしょうか。図体に似合わず、食べる量が多くはないようだ。秋田犬が虚弱になった原因はつまらぬ闘犬ごッこに精を入れて、ノルマルな運動や訓練を忘れたせいがあるのではないかなア。
私が秋田犬を見た時が夏の終りで、毛がぬけていつもよりも毛並のわるい時期ではあったが、そして私の見た名犬には下痢をして食のすすまぬ病犬などもいたのだけれども、私らが西洋犬を飼う時の通常の心づかいに比べて、秋田犬の育て方には合理性の欠けた、なんとなく病的な習慣的方法が感じられてならなかったのである。
しかしホンモノの秋田の仔犬はすごいものですよ。生後五十日で買い手に渡す習慣だそうだが、小型日本犬の成犬よりもすでに大きいぐらいで、その前足などはすでに太い物干竿よりも太いぐらいである。肩の幅がそッくり二本の足を合せた太さに当り、つまり肩幅を二ツにわッて下へ二本の棒に垂らしたのが前足だという見事な太さなのである。
結局多くの代表的な秋田犬を見たが、秋田犬保存会長平泉氏の龍号が私の趣味には一番ピッタリするものだった。黒色の秋田犬である。黒色の秋田になると、見た感じは熊のようなものだ。平泉氏は自分の代々の愛犬の毛皮を保存していたが、犬の毛皮というのもはじめて見たのだが、それが主人の愛惜の産物であるから、いじらしく、その気持は犬を愛する我々には分りすぎるほど通じるものだ。
この人ぐらい秋田犬保存会長という名誉職にふさわしい人はないように思う。秋田犬に対して純粋で損得ぬきの打ちこみ方や、しかし静かでよく行きとどいた愛情など、まことに愛犬家の最高のタイプと云うことができよう。私はもしも保存会長にこのように善良で、秋田犬に対してあくまでも深く静かな愛情をそそぐ紳士の存在を知ることができなければ、心底から秋田犬の性能を紹介するだけの勇気は持てなかったと思う。
大館市でも、中型に交尾させて、東京産の代用品と同じようなものを秋田犬と称して売りだしてもいる。純粋の大型の秋田のニンシン率が低くて、ホンモノ同志の仔がなかなか育たないせいもあろう。
だから大館市の愛犬家に直接たのんでも、ホンモノの仔犬はなかなかオイソレと注文に間に合わないのが、普通かも知れない。だが、ともかく、この保存会長にたのめばいつかは間違いなくホンモノの仔犬を世話してもらえるでしょう。
ホンモノの秋田犬は、生後五十日で、一万五千円というのが大館の最低の相場だそうだ。これは中型などの交流しない純粋に大型からだけのホンモノの血統の値段で、ホンモノの秋田犬の値としては、東京では信じられない安値であろう。送料や箱代は売り手がもってくれるから、犬の値だけでよろしいそうだ。
秋田犬の展覧会で一等賞二等賞を得た犬の一番よい血統が三万円だそうだ。
「あんまり安いようですね、もうちょッと高くしておきなさい。本当の愛犬家の手にはいらずに、ブローカーに買いしめられる恐れがありますよ」
と私が云ったが、ヘルプ紳士もその二世も、大館の仔犬の相場をそれ以上つりあげるのに賛成ではないようだった。
ホンモノの秋田犬の欲しい方は保存会長平泉栄吉氏にたのむのが便利でもあるし正確でもありましょう。この整然たるヘルプ紳士は自分の愛犬の仔犬を売って商売にするわけではなく、大館全市の秋田犬の仔犬を探したり選んだりしてくれるだけのことでしょう。彼は秋田犬に仕え、秋田犬の声価のために一生を棒にふることをも喜びとするような、本当に善良で純粋の愛犬家であります。これぐらい信用のできる愛犬家、保存会長がザラにあるものではないのです。
だが、秋田犬を買いたいという人に一言申上げたいが、シェパードと同じように本職の訓練師につけて正しい訓練をするだけの気持がなければ、高い金でホンモノを買ってもムダだと私は思いますよ。またテンパーに甚しく弱いそうだから、今まで相当犬を飼いもし殺しもして、自分で犬のお医者ができる程度の自信のない人は、結局育て得ずに仔犬のうちに殺してしまうと思います。はじめて犬を飼う人が、テンパーで死に易い高価な犬を買うのは、お金を捨てるようなものですよ。駄犬から飼いはじめて、犬の育て方に充分の心得を会得してから、高価な犬に手を出すようにしないと、必ずお金を捨てるだけの結果になり、これに例外はないようです。
私自身の趣味から云うと、ホンモノの秋田犬は訓練次第で相当の性能を示す見込みがあるとは思うが、どうしても、コリーやシェパードよりも好きにはなれないのです。ケンカを好む片鱗があるだけでも、そしてそれが訓練によって失う見込みがほの見えても、どうも私は犬のケンカを好む片鱗というのが生来的にキライなのである。
かの善良にして愛情の深い静かな秋田犬保存会長には相済まないが、どうも私自身の性分として、あなたの愛する秋田犬にあなたから見ればまるで正しい理解を持つことのできない私がフシギで信じがたいことかも知れませんが、性分は仕方がないし性分だけはハッキリ申し上げておかざるを得ません。善良なあなたによせる私の友情からも偽らずに申し上げざるを得ないのです。秋田へ出がけに念を押した女房も、すでに私と同じように性分的なカンが働いていたようです。モッと俗なことを申上げると、電信柱に片足あげて小便するあの日本犬の習性が、生来的に嫌悪のタネになっているのかも知れません。そしてわが家の女どもは、小ッちゃくてチャチな日本犬にすら時々ズデンドウとやられて不倶タイテンの怒りを日本犬の立小便に結んでいるオモムキもあり、この恨みがいささか決定的なオモムキもあるようです。女の恨みは怖ろしいものだ。
あなたの大事な秋田犬をおだててみたり、悪口云ったり、甚だしく陰陽ただならぬところはゴカンベン願う。すでに檀一雄が三万円の口で日本一の奴をたのむと頻りに申し込んでいるのですが、私は握りつぶしているのです。彼は生れてはじめて駄犬を飼ってようやく一ヶ月になったばかりの新米だから、みすみす三万円を殺すにきまっているのです。そのときは生き残りの駄犬をつれて私のところへナグリ込みの危険があり、こういう物騒な新米には世話ができない。
良き犬を飼うには、愛犬家の資格というものが確かに必要なものだ。秋田犬がケンカに強いと思う人もこれも思いちがいに終るだろうと私は思う。
同族同志ケンカをしたがる犬に強いのがいる筈はない。むしろ秋田犬は性来温厚という見込みで飼って育ててみると成功するかも知れないという私見です。
電柱の立小便は気に入らないが、日本犬として一きわ頭ぬけた存在であることは確かでしょう。
底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第一五号」
1951(昭和26)年11月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第一五号」
1951(昭和26)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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