安吾の新日本地理
飛騨・高山の抹殺──中部の巻──
坂口安吾
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飛騨(実にメンドウな字だから以後カナで書かせてもらいますよ)は日本の古代史では重大きわまる土地であります。
隣りの信濃はタケミナカタの神がスワ湖へ逃げてきて天孫に降参したという国ゆずり事変の最後の抵抗地点で日本神話では重要なところだ。ところが、現天皇家が本当に確立の緒についたとみられる天武持統の両御夫妻帝(天武は天智の弟で、天智の御子大友親王《弘文天皇》を仆して皇位に即き、実質的には現天皇家の第三祖に当られる御方のようです)はヒダとスワの両国に対して特にフシギな処置をほどこしております。スワは信濃の国に属しておりますが、一時分離されてヒダ、スワと二国特別の扱いをうけた。その理由は国史の表面には一度も説かれておりません。特にヒダは古代史上、一度も重大な記事のないところで、昔から鬼と熊の住んでいただけの未開の山奥のようだ。ところが国史の表面には一ツも重大な記事がないけれども、シサイによむと何もないのがフシギで、いろいろな特殊な処置がある隠されたことをめぐって施されているように推量せざるを得なくなるのです。
だいたい日本神話と上代の天皇紀は、仏教の渡来まで、否、天智天皇までは古代説話とでも云うべく、その系譜の作者側に有利のように諸国の伝説や各地の土豪の歴史系譜などをとりいれて自家の一族化したものだ。だから全国の豪族はみんな神々となって天皇家やその祖神の一族親類帰投者功臣となっている。そして各国のあらゆる豪族と伝説と郷土史がみんな巧妙にアンバイされて神話(天智までの天皇紀をも含めて)にとりいれられていると見てよろしい。しかし、神話だから、そのとりいれの方法が正確ではないし、所詮はボーバクたる神話なのだから、似ているがハッキリとそれがオレの国の誰それ様だとも言いかねるものが多いのです。ところが大本教だの何だのと色々の新宗教がみんな天ツ神の本家の化身はオレだと言いたてたがるように、そういう気風や人間の存在は大昔から今までどの土地にも絶えず存在したことで、その気風がやや科学的になると昔の郷土史家、愛郷的考証家というものになって、古代史の似た部分だけをとりいれてみんな自国の伝説と結びつけてしまう。だから、九州から奥州の果まで至るところにタカマガ原だの天の岩戸だの天孫降臨の地があるばかりか、特にその土地の名が古代史にも現れて土地の国ツ神と天ツ神の交渉が若干国撰の神話に残っていると、それに尾ヒレをつけて伝説をつくり、郷土の地名などにムリムタイにコジつけてあの神話もこの神話もとりいれる。時にはあんまりツジツマが合いすぎて、却って恐縮せざるを得ぬほどピッタリとヌキサシならぬ一致を示していることもある。何千年前の神話がそうピッタリするのも困るものだ。
ところがヒダに至っては古代史上に重大な記事が一ツもない。だから古代史や神話と表向きツジツマの合うところは一ツもないのです。そのくせ、古代史家がヒダの史実を巧妙に隠そうとして隠し得なかったシッポらしきものを発見しうるし、その隠された何かをめぐってヒダとスワに特別なそして重大な関心が払われ、その結果として古代史上にヒダに関する重大な記事が一ツもない、そういう結果が現れたのではないかと疑うことができるのです。それは恐らくヒダの史実があまり重大のせいではないためでしょうか。
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古代史家が隠しても隠しきれなかったのは何かというと、まず第一に古代の交通路です。たとえば日本武尊の東征の交通路などを見ると分りますが、上野ノ国からウスイ峠をこえて信濃へはいってヒダへ出たのは木曾御岳と乗鞍の中間の野麦峠のようだ。この峠のヒダ側は小坂の町です。
推古三十五年(西暦六二七年)に群蠅が十丈ばかりのタマとなり雷鳴のような音をたてて信濃坂をこえ東方上野の国へ行って散ったとある。さきの日本武尊の路を逆に行ったものでしょう。その前年に蘇我馬子が死んでいます。その結果として大争乱が帝都に起って、クーデタの結果としてある氏族の大群が東国へ逃れる事情が起ったのだろうと思います。この族類がこの路に沿うて古くから移動往来していたことは古代史上からも遺跡からも見ることができます。
それから三十余年後の斉明天皇六年(西暦六六〇年)に、こんどは逆に、信濃の東方から西方へ向って群蠅が巨坂を飛びこえたとある。群蠅が帝都を逃げて田舎に散り隠れる理由がなくなったか、帝都の方で群蠅の帰還助力を必要とする何事かが起ったのかも知れない。
それから四十年ほどの間に斉明、天智、弘文、天武、持統とすぎて次の文武天皇の大宝二年(西暦七〇二年)に美濃と木曾の間に新しく道をつくりました。それから十二年後にも美濃と信濃の境の道が険阻だからと之を廃して木曾路を新設しております。十二年前の木曾路が完成したのか、それを廃して更に新道をつくったのか知れませんが、以上から結論せられる重大なことは、
「古い時代の方が御岳、乗鞍という三千余メートルの高山にはさまれた難険の峠を通っており、次第に海岸側へ、木曾川ぞいの道がひらけている。古代交通の舟行の概念とは逆である」
という一事です。つまり当時の古い交通路は現代の日本人にも困難なアルプス越えであった。ところが、御岳、乗鞍の尾根つづきの穂高、槍、立山、がそれと同じ以前からさかんに里人に崇敬登山せられ、乗鞍を中心にして南方御岳との間に巨坂の峠があって、北方の穂高との間にはアワ峠が古くから交通されていたようだ。
ヒダの一の宮を水無神社という。一の宮だが現社格は近代まで県社ぐらいの低いものだったらしく、祭神が今もハッキリとしない。神武天皇と云い、大国主と云い、その他色々で、水の神サマであるか風の神サマであるか、それもハッキリはしていない。ヒダの伝説によると、
「神武天皇へ位をさずくべき神がこの山の主で、身体が一ツで顔が二ツ、手足四ツの両面四手という人が位山の主である。彼は雲の波をわけ、天ツ舟にのってこの山に来て神武天皇に位をさずけた。そこで位山とよび、船のついた山を船山という」
これはヒダの国守であった姉小路基綱のヒダ八所和歌集裏書きの意訳ですが、これがだいたいヒダの伝説の筋です。
現に水無神社のすぐ近くに位山と船山とあり、山上には巨石群、古墳群があるそうですが、しかし前文の作者は、
「位山は諸木の中でも笏に用いる一位ノ木が多い。麓をまわれば二十余里、宮殿(水無神宮の由)の奥、また府(現高山市)から麓まで七里余」
とある。位山と船山は高山や水無神社から頂上まででも一里半か二里ぐらい。里数が違う。そこで、位山は乗鞍だというのが郷土史家の定説である。むかしは乗鞍を位山と云った。位山が乗鞍を指すのであると多くの史料に見られる位山の記事にピッタリする。その代り、こまったことには船山がない。水無神社の歴史という本には、八所和歌集の記事からだと乗鞍にも当るし現在の位山にも当ると云っている。
しかし乗鞍の麓には船山はないが船津がある。今は神岡町であるが、昔から有名な船つき場で、今の町名の神岡が古い名かどうか知らぬが、船津が同時に神岡なら、これを船山と解して悪くもなかろう。神通川をさかのぼって船津で船をのりすてて乗鞍へ登った。天ツ船は神話では山上へ到着するが、神通川をさかのぼって舟行の限界点として適当な船津でのりすてた。そう俗に、現実的に解して悪くはないであろう。船津の隣り字は石神だの阿曾布だのとこの氏族にふさわしい古い地名が多い。このあたりは昔はスワと云い、今に古スワの地名がある由。舟をすてた最初の聚落がスワで、乗鞍を越えた信濃側にもスワがある。
しかし、乗鞍に位山の古い呼び名があって現に山神崇拝のあとの巨石が多く見られ乗鞍権現もあるけれども、信濃側の信仰からみると、この氏族がヒダから山越えした最初はむしろ穂高で、穂高を梓川まで下ッた現在の穂高神社の地がこの氏族の信濃開拓の交通要所、重大な分岐点をなしているらしい。つまりこの氏族の発展根拠地点でもある。松本の平野へ、またスワへ、伊那へ。遺跡から判断して三ツの古代人の発展方向のその重大な分岐点、聖なる根拠点たる穂高神社。又その山上たる穂高の峯は信濃側の信仰からは一ノ山と見られるのが自然かも知れん。そして船津へついた一行が登るとすれば、乗鞍よりも穂高の方を選ぶのが自然かも知れないのである。その二ツの中間のアワ峠が一番古くひらけた道のようだ。
この氏族は船津上陸当初は谷沿い道よりもむしろ尾根づたいに歩いていたと見られる。穂高中心に北には立山へ、南には乗鞍、御岳へと彼らは尾根づたいに往復して立山と御岳から低地へ降り、もしくは中間の峠を降りた。御岳を尾根づたいに南下すると三国山と云って、ヒダ、シナノ、ミノ、三国の境、そのヒダ側が竹原村で、そこが尾根から低地へ降りる南限の地点と想像される。今もスワ神社の神事にスワ湖の氷上渡御というのがありますが、これは穂高から御岳への尾根通行を湖水に当てはめたもので、あの氷のワレやモリ上りは一方には中間の乗鞍のクラにのるという意味と、氷がわれるということで通過の雪どけを待つ意味の通交の祈願のような気がします。
竹原村大字宮地の川合平に日本に珍しい枝垂栗の自生地がある。この栗の自生地は他にシナノの某山その他二三しか見られない由であるが、この木のある所は立山から尾根を通る神様の休憩地だから、これに触れると神罰をうけて病気にかかる、と里人は怖れて伐ることがなかったから今日に残ったと里人に信ぜられている。これは尾根を往復する一行の目ジルシでもあり、或いはこの木の実は彼らが故郷たる異国から持参して通過や居住の地ごとに植えつけてきたものではなかろうか。
さて、船でヒダへ来て神武天皇に位をさずけた位山の主のことを姉小路基綱の八所和歌集は一体にして顔が二ツ、手足四本、これによって両面四手と云う、という、この怪人物は日本書紀にチョッピリと記事があって、仁徳天皇六十五年の条に、
「ヒダの国に宿儺(スクナ。以後カナで書きます)という者があって、躰は一ツ、顔が二ツたがいに後向きについてる。各々の顔に各々の手足がある。力強く、早業で、左右に剣をさし、四ツの手で二ツの弓を同時に使う。皇命にしたがわず、人民をさらッて楽しみとするので、難波根子武振熊をつかわして殺させた」
とある。ただ、これだけの記事があるにすぎません。もっとも、そのほかに彼の異形のサマを説明して、顔が二ツだが、頂合いて頸なし、つまり二ツの顔の後頭部はピッタリとくッついて一ツになってるという意味らしい。また、膝ありて膕踵なし、ヨボロクボはクビスの由ですが、この文章からは様相の見当がつきません。
ヒダではこの怪人物を両面スクナと云っています。書紀ではクマソか酒顛童子のような悪漢としてカンタンに殺されてますが、ヒダではこれが天の船で位山へついたという日本の主で、大和の敵軍が攻めてきたとき、ひそんでいた日面の出羽の平のホラアナをでてミノの武儀郡下ノ保で戦い敗れて逃げ戻り、宮村で殺された。その死んだ地がヒダ一の宮の水無神社であるという。
スクナがひそんでいた出羽ノ平のホラアナは今もあってスクナ様のホラアナと怖れられて、そこへ誰かが登ると村に祟りがあると信じられております。私はそのホラアナ(鍾乳洞ですが)へもぐりこんできました。スクナ様の祟りかも知れませんが、ヒドイ目に会いました。残念ながらまったく半死半生でしたよ。
そこは高山から平湯、乗鞍の方へ五里ぐらい行った丹生川村の日面というところで自動車を降り、スクネ橋を渡って道の幅一尺か二尺ぐらいのキコリ径を谷ぞいに山にわけいる。歩くこと十五分か二十分ぐらい。そこからキコリ径をすてて径のない山腹をよじ登る。この悪戦苦闘、余人は知らず、拙者ならびに同行の大人物は一時間ですよ。
長い間ふりつづいた梅雨がやんだばかり。特に前日は大豪雨でヒダの谷川は出水があった。その翌日だ。両手にすがるべき木の根がみつかると安心ですが、手にさわるものは概ね朽ち木で、つかまると折れたり抜けてきたりで、確実な木の根や枝を見出すのが大変だ。足場にかけた岩まで長雨で地盤がゆるみ土もろともグラグラぬけだす危なさ。案内人が方向をまちがえなかったので助かったのですが、さもないと疲労にくたばって谷へ落ちたに相違ない。途中ロッククライミングが二ヶ所。ここだけ針ガネをたらしてありました。しかしブラブラたれてる針ガネだから握ってもすべるし、岩もぬれてすべる。手も足もかけ場に窮して、一息でも気力を失うと墜死するところでした。
こんな難路とは知りませんから、豪雨の直後という悪条件を考慮に入れる要心も怠り、特別な用意が一切ないから、服は泥だらけ。それまでの調査のメモをコクメイにつけておいたノートを四ン這いの悪戦苦闘中にポケットから落して紛失しました。しかしイノチを落さないのが拾い物さ。こッちは商売だから我慢もできるが、同行の大人物には気の毒千万で、彼は翌朝の目覚めに寝床から這い起ることができないのです。必死に手足に力をこめても、二三分間は一センチも上躰が持ちあがらないのですよ。私のことは言わぬことにしましょう。この記述の方法を日本古代史の要領と云うのです。
この難路をどうして予知しなかったかというと、里の人はスクナ様のタタリを怖れて登らぬし、里人への遠慮かそれはヒダの全部の人々にもほぼ共通して、相当の土地の物知りも登っておらず、昔の記録に日面の出羽ノ平のホラアナとあるから、谷川をさかのぼると出羽ノ平という平地があってホラアナがあるのだろうと考えている。
これが大マチガイで、谷川を一足はいってからは平地が全くなく、鍾乳洞まで登りつめても全然平地はありません。しかし、この山頂の尾根づたいの山上に平地があるらしい。正しい地図を見ると、そうらしいのです。その山上の平地が出羽ノ平かも知れません。
鍾乳洞はいつの時代か人々が斧で穴をひろげた跡が歴然たるものです。十間も行くと四ン這いになるところがあるが、そこをくぐって廊下のようなところを這い登るとだんだん広くなって、相当の大広間になり、そのマン中あたりにナワのような太さの水流が落ちているところがあって、自然に石像のように変形した濡れ石ができていた。その広間も人工でひろげたものです。水気はわりに少く、天井の石をくずしてひろげたからツララもなく、水のたれるところに大きくても一寸四方ぐらいのカブトのようなのが出来てるだけです。相当の人数がひそみ隠れていられるでしょう。
両面スクナはその形がシャム兄弟(一卵性双生児の背中がくッついて一体となったもの)のようですが、神話にはあらゆる畸形の怪物が現れますから、それらの何かは現実の畸形児に当然似ますけれども、もともと神話はツクリゴトで、そッくり現実的に解すのはなるべく避けるのが自然でしょう。
私は千光寺の両面スクナ堂でこの像を見ましたが、背中合せに同じ一体の人間が一体になっております。前後両面全く同じです。そしてその頭は神功皇后のカミのような男装の女だか、女装の男だか分らんようなふくよかな美貌でしたよ。書紀によると「力が強く、早業で、四本の手で二ツの弓を同時に射た」とありますが、このスクナの像は弓を持たずに、斧をもっております。そして、他のヒダのスクナ像も必ず斧を持ってる由です。
両面という意味は山上に住んで両側の二国を支配した意と解すのが郷土史家の定説の由ですが、穂高か乗鞍か、または立山から御岳を結ぶ尾根全体を神の住居として両側の美濃(ヒダは大昔はミノと一ツの国でした)と信濃の両国を否、両側の日本全てを支配していたと、見るのは当を失したものではありません。
しかし、一体二面をシャム兄弟と見るのはコジツケすぎるが、ただの双生児かも知れないと想像することはできます。そして古代史に現れる双生児の中で一番有名なのは大碓小碓のミコト。その弟、小碓の方は日本武尊のことです。そして、このミコトが東征の時、天皇がセンベツに斧を与えたのは有名な話。しかし、これをオノ、マサカリと支那の字義通りによんではならぬ、単にセンベツのミシルシと読み解するようにと後世の学者は妙な読み方をでッちあげていますが、斧は当然斧でしょう。
書紀はそうでもありませんが、古事記によると、このミコトの運命は悲惨です。熊襲征伐の時も天皇が自分を殺すために旅にだすのだと嘆き、東征の時にもいよいよ自分は生きて帰れぬ、天皇は自分を殺すツモリだと嘆いています。そのときミコトに刀を与えたりして励ましているのは、伊勢と熱田の斎宮の皇女ですが、さて双生児の一方はというと、書紀の伝えでは天皇が兄をよんで、熊襲は弟の日本武尊が平げたから東のエミシはお前がうてと命ぜられたが弱虫の兄は顔色を失ってしまったから、そんな弱虫は勘当だとヒダへ流されたという。そしてこの皇子は守君とムケツ君の祖だと云うてますが、ヒダへ流されてからのことは何も伝わっていません。古事記によると、ミノの神大根王の娘に兄ヒメ弟ヒメという姉妹の美人があるときいて天皇が二人の美女を連れてくるようにと大碓命をつかわした。ミコトは二美人と仲よくなったあげくニセモノを天皇にさしあげて自分は二美人とたわむれて朝礼も怠ったから、日本武尊に命じて兄に朝礼するよう忠告せよとつかわされた。日本武尊はその兄をつかみ殺しひきさいて棄ててしまったから、天皇はその蛮勇を怖れ、諸国の悪者退治にだして殺そうとされるに至ったというのである。ミノは当時はヒダも含めてミノであるから、記紀いずれの説にせよ兄大碓はヒダの地と深いツナガリがあるのです。しかし大碓命のヒダの伝えや跡は殆どなくて、三河の狭投神社の縁起に大碓命はサナケ山で毒蛇にかまれて死に当社にまつる、とあるそうです。
ここで注意すべきは、古事記の景行天皇紀というものは大碓小碓双生児のみならず、主要な登場人物が必ず二人、分身的な兄弟姉妹であることで、日本武尊の退治た熊襲も兄弟、大碓命の愛した娘も姉妹である。そして、日本神話には、兄弟、姉妹、二組ずつの話は甚しく多いが、特にこの類型の甚しいのは神武天皇紀に見られるのであります。
このように主役がそろって相似の二人であることは二人合せて一人であることを意味する場合もあるだろうと思います。もっともフィクションの作法から云うと、分身の一ツが真実を解く暗示であって、暗示の役割の方は端役的で目立たない。他の一方の、つまり暗示のカギで解かれる人物の方は表向きの主役であるが、これは真実が歪めてあって、その分身の暗示することをカギとして解明しうるものが真相であるらしい。
たとえば日本武尊が景行天皇にうとまれて天皇は彼を殺すために諸方の悪者退治にだされたというのは、表向きで、実際は兄大碓命が暗示するように、彼はヒダかミノに住み、ヒダかミノの王女と結婚して諸国を平定しつつあった豪傑であり首長であった。古事記の伝えが天皇に殺意ありと云うのは、景行とは血のツナガリなく、実は本来敵として対立する両氏族の両首長を意味するらしいのですが、そのわけは後の方で明かになります。
日本武尊をこういう方と見ると、ヒダに伝わる両面スクナの一生に似てくる。両面スクナを退治したのは仁徳六十五年、武振熊であるが、この人物はその百何十年前の神功皇后時代にも他にただの一度だけ史上に現れて、この時は武内スクネの命令でカコサカノ王、忍熊王の二兄弟を殺している。この二兄弟は仲哀天皇の次に皇位に即く筈のところ、神功皇后は仲哀の崩御を隠して他に知らせず、それは誰か他の人に皇統をつがせる手段らしく思われたので二人の兄弟は反乱を起した。そして兄は山中で赤猪に殺され、(山中で白猪に会ったのが落命のもととなった日本武尊に似ている)弟は武振熊にあざむかれて武器をすてたところを敵軍に追いつめられてビワ潮へ身投して自殺し、長く屍体があがらなかった。この最後は日本武尊の屍体が白鳥となって飛び去り、墓がカラだというのに半分だけ似ています。尚、先帝の仲哀天皇自身も熊襲退治のとき敵の毒矢で死に、これがヒダのスクナ伝説のスクナの最後(敵の矢で死ぬ)に半分似ているし、兄大碓がサナケ山で毒蛇にかまれて死んだというのにも半分似て、矢と毒を合せると同じ一ツになる。なお似た話はタクサンあって全部はとてもここに書ききれません。
武振熊は国史上にたッた二度それも百何十年も距てて突如二度だけ現れて忍熊二兄弟の一方をダマシ討ちにし、次に両面スクナを退治しています。二度しか現れんのも双児や兄弟と同じ意味や同じ原則を示していると解し得るでしょう。
そしてまた双生児やその類型の兄弟は一方が他の一方のカギの暗示である場合もあるし、兄弟二人の運命がまったくアベコベであるという意味を寓している場合もあって、つまり一方は被害者、一方は加害者のアベコベの二つを示す意味もある。
つまり日本武尊は熊襲兄弟を殺した。その殺し方は女に変装して安心させておいて刺し殺した。ところが武振熊は忍熊王をだまして武器をすてさせて殺した。全く同じです。しかも熊襲タケルは死ぬ時にミコトに向い、自分が一番強いと思っていたらあなたはもっと強いから私の名のタケルをとって日本タケルとよびなさいと自分の名を彼に伝えさせている。それは熊襲タケルの運命をそッくり負うてるものが日本武尊でもあって、つまり日本武尊が実はクマソと同じ運命の人であると暗示している如くにも解せられる。そして両面スクナと忍熊王とはともに武振熊によって殺されているが、スクナは熊襲タケル的に、忍熊王は猪に殺された兄の方と合せると日本武尊的に殺されている。これを綜合するとクマソを殺した日本武尊は、自分がクマソを殺した方法で武振熊に殺されてる。また武振熊に殺されたスクナは、書紀では日本武尊に殺されたクマソ的であるが、ヒダの伝説では日本武尊の殺され方と同じで、要するに日本武尊兄弟、忍熊王兄弟、両面スクナは同一人物で、スクナは一体で顔二ツというのが変っているだけですが、このことは、これらの兄弟の神話は二人一組で一人をさし、もしくは、たった一人の史実をいろいろの兄弟や双児の二人組にダブらせて、その綜合でその一人の真相を暗示していると見ることもできます。
ほかに兄弟神話はというと大ナムチとスクナヒコナが同一神の大国主をさしているらしいのが神話中の第一の大物で、次に神武天皇紀が登場人物の多くにわたって両面的に、フタゴ的である。
神武天皇自身すでに五瀬命という兄があって、神武と共に力を合せて戦ううち日本平定直前にチヌ山城水戸で敵の矢に当り、古事記によると途中血だらけの手を洗ったところを血沼海と云い、人に負われて紀国男水門に行って雄叫びをあげて死んだと云うが、書紀は紀伊カマ山まで行って死んだ。とにかく死に場所はハッキリしないが、そのカマ山に葬ったとある。これも両面スクナの正史と伝説の両面、つまり正史においてはクマソ日本武尊の二ツによく似ています。五瀬命は恐らく伊勢大神宮の重大な隠し神様、荒ミタマだろうと思います。そして実際は今の天皇系ではなく反天皇系の大親分の運命を暗示する一ツでもあって、伊勢が内実はそういう面をもつ神でもあることは、伊勢と吉野と近江、それから隠され里のようなヒダ、スワ等のその後の史実が語っております。つまり主として天智後の戦争のたび、又はその平定後、そして平安京が本当に安定する頃までの期間というもの、それらの国々に対し、またその時々の事情に対応して朝廷方からワケの分らぬ方法で利用だか慰撫だかオベッカだか判断しにくい待遇をうけているので見当がついてくるのであります。それは後で説明しますがとにかく、伊勢はここに祭られた神の本当の故郷ではありません。それは文句なしにハッキリしておりましょう。
神武紀に於てはその敵はウカシ兄弟である。これも両面スクナと同じであって、攻撃される方とする方とは、一方がクマソ的であれば一方は日本武尊的で、神武天皇の兄弟たり分身たる五瀬命の運命は日本武尊的ですが、その敵将の運命はクマソ的で、合せるとスクナの両面になる。そして実際はクマソと日本武尊の運命を一身に合せた悲劇的な運命の者の方が実は征服した方の正理をもつものでもあった、即ち日本の本来の首長であった、ということを五瀬命の兄弟分神たるものが征服者で正統の日本の第一祖たる神武天皇であることによって示されてもいると解しうるのであります。
これと同じことを暗示していると思われる分身的兄弟の例は崇神垂仁時代をはじめその他の諸々にもその例を見ることができますが、それらがみんな同一の事件と、同一の人物をさしているものと見てさしつかえないかと云えば、私は然りと思う。つまり日本の神様も、天智以前の天皇様も、実は何人もいなかったのです。何代もどころか、本当の神代のはじめから、天智以前までは百年にも足らないぐらい短いのだ。だが、重大な秘密、たとえば国譲りの問題などで、何をおいても隠さねばならぬという、緊急、重大きわまる大事があった。それほどの大事はせいぜい二ツか三ツか、多くても五ツぐらいのことでしかない。その秘密が重大で隠す必要があるのは、それぐらい現実的で生々しくて、つまり時間的に遠からぬ短期間のうちに起った問題だということで、つまり隠すべき重大な秘密が国譲りやクーデタや戦争なら、その全部がとにかく遠からぬ事件である。そして神話も天皇紀も、ダブリにダブらせて、その重大なことを、あの神様、あの天皇、あの悪漢にと分散してかこつけて、くりかえし、くりかえし、手を代え、品を代えて多くの時代の多くの人物にシンボライズした。それは正しい真相を知る者がよんでも、どこかで正しい真相とひッかかりがあって、彼らをも、また自分の良心をも、どこかで満足させる必要があったせいだろう。また諸国の伝説にツジツマを合せたり、帰順した諸国に史家を派して、郷土史に合せて重大な秘密を諸国へ分散させ、また記紀に合わせて、適当な地名や神名を各地につくらせるようなこともしたのではないかと思われます。新しい統治者がそこまで苦心して、自分の新しい統治に有利な方策をあみだして実行するのは理の当然で、その利巧さが賞讃されても、それだからその子孫たる現代の天皇がどうだこうだ、という。そんなバカげた理論は毛頭なりたたない。ただ神代以来万世一系などゝはウソであって、むろん亡ぼされた方も神ではない。しかし当時は神から位を譲られたというアカシをみせないと統治ができにくい未開時代だから、そこでこういう歴史ができた。これは当時における当然で必至の方便であるが、現代には通用しないし、それが現代に通用しないということは、天皇が神でなくとも害は起らぬだけの文明になったという意味であるのに、千二百年前の政治上の方便が現代でもまだ政治上の方便でなければならぬように思いこまれている現代日本の在り方や常識がナンセンスきわまるのですよ。この原始史観、皇祖即神論はどうしても歴史の常識からも日本の常識からも実質的に取り除く必要があるだろうと思います。さもないと、また国全体が神ガカリになってしまう。私は学者じゃないから、重たい本をひッくり返しているとすぐ目マイがして頭痛もする、まことに大そうツライのですが、本職の先生方がおやりになる気配がないから、仕方なくやってる次第です。子供の時から学問というのはニガ手なのですよ。
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つまり日本の官撰史は諸国へありがたそうな神様や恐しそうな悪者を分散させてその土地のユカリのものとし、また土地の豪族やその歴史をとりいれて自分の身内の神としました。しかし、先にも申したように神様を諸国へ分散させたと云っても、その神様は実はごく少数しか原形がなくて、諸国の各時代へ分散した多くのものが実はその少数の原形の変形であり、くりかえしにすぎない。そのなかで、ありがたそうな神様の分配には一切あずからなくて、両面スクナという奇怪な悪漢だけ分配されてるのがヒダの国です。
ところがヒダの伝説は書紀とアベコベのことを伝えており、偶然にも国史と伝説までがスクナを両面的に仕立てる結果になりましたが、実はスクナが両面でなければならぬ本当の理由はこれで、これによって本質的に両面でなければならぬのがスクナである。そう見ても差支えはないようです。
つまりスクナの両面の片面はヒダ側の伝説となって伝われるのみで、ヒダの国史にはスクナの反対の分身、ありがたい方の分身の分配が全然ないし、他のありがたそうな神様も全然分配されておりません。古代史に於ては珍しい例で、全然というのは面白い。
つまり、分配されない理由があって、それをヒダ側の伝説が補足説明していると見ることができますまいか。よその国にはタカマガ原だの、天の岩戸だのと、方々に見られますが、ヒダには国史にツジツマを合せようとしたような跡はミジンもありません。よその国は国史の指示によって、また人たる者の自然の気風によって、国史にツジツマを合せた。しかしヒダの国はツジツマを合せる必要はない。ヒダにツジツマを合せたのが国史の方なのだ。ヒダの方からツジツマを合せる理由はない。だから全然ツジツマは合わないけれども、国史がツジツマを合せた原形たるものは何の手入れも施されず、したがって雑然としながらもなにがなし厳たる貫禄をもって、みんなヒダに実在しているようです。古代の国史の地名の原形らしいものは殆ど全部この地で見ることができます。
天孫降臨の段に、天稚彦を葦原の中ツ国につかわした。ところが日本平定の大事を忘れて大国主の娘と良
い仲になって八年たっても帰らない。そこで使いの鳥を偵察にやったらワカヒコは鳥を射殺してしまった。その矢がタカマガ原の大神のところへ飛んできたから手にとって見ると血がついてる。それを下界へ投げ返したらワカヒコの胸に突き刺さって死んだという。これも両面伝説の一ツで、五瀬命や忍熊王やスクナと同じく矢で死んでいる。殺した方は天皇側で、自分の肉親の大神であることは、古事記の日本武尊が天皇に殺されたのと同じい。
天ノワカヒコとは兄弟ではないが、アジスキ高根彦という親友がいて、友の死をとぶらいに来た。ところが顔がワカヒコとそッくりだから、アッ生きていると云って遺族がすがりついた。するとアジスキはオレを死者扱いは何事であるかと刀をぬいて喪屋を切りふせ足で蹴って突き離した。美濃国の藍見河の河上の喪山がそれだと云う。
つまりワカヒコの喪屋は切りふせて蹴とばされて離れ去っている。これは日本式尊の白鳥伝説とカラの墓にも似ているし、五瀬命やスクナが矢で殺されて後、死所や墓所がハッキリせず、伝わる死所と墓所の位置とが離れているのにも似ている。
そして、美濃の藍見川のほとりとあるが、伝説上のスクナの負傷地もこのあたりであるし、日本武の負傷の場所も、それから、ミノ、ヒダをめぐって天武持統朝に妙なことが行われたのも、みなこの近辺をさしているのである。そして国史の不破の関はここではないが、人麻呂が歌によむ不破山は実はこのあたりにあって、恐らく喪山近辺の山の一ツか総称かであり、したがって不破山を越えて行った筈のワサミガ原のかり宮というのも不破の関ではない筈である。地名をさがせば、多くの原形はたいがいそろっておる。ミノ、ヒダにない原形はないほどです。そして、天ノワカヒコを葦原の中ツ国につかわした。その日本のマンナカの大国主の住むという中ツ国がミノの藍見川のホトリであるという。しかし、これぐらいのことに驚くことは毛頭ない。もっと、もっと、重大なことはいくらもある。大和朝廷の方がいかに多くヒダ、ミノの地名をかりて自分の土地をコジツケたか。それを証明する例はあとで申上げます。
両面スクナの伝説で見のがせないのは彼が日本の首長たるべきであるのに敵にはかられて殺されたということで、日本武尊もそれに似ているし、五瀬命ももし生あらば自分が兄であるから日本平定後即位するのは彼であったであろう。
スクナは日本の首長たるべき人であったとも云う。伝説だからハッキリしません。そして皇位をつぐべきであったのに、帝に憎まれて追われたというのは、古事記の日本武尊の方がむしろハッキリそうであるが、この日本武尊の運命に似た人々が古代史に多く現れ、それはまたこの地になんとなくユカリありげに暗示されている。その似た宿命というのは、日本武尊とその分身の大碓命を合せたようなもの、つまり、恋人だの皇后たる人の兄が妹をそそのかして天皇を殺させて自分が天皇になろうとする、そして却って殺される。そのアベコベに殺したのが女帝自体だというのもあり、仲哀天皇や天ノワカヒコはその例であるが、前者の方には崇神帝の場合があり、その他いくらも似た例がある。これも両面伝説の主人公の悲劇性の一ツとしてダブって重なり、合せて一ツの真相を暗示しているのかも知れぬ。
ところが、後世に至って大友皇子と天武天皇の例が起った。大友皇子は天智の子。天武は天智の弟で皇太子。しかし、皇太子をゆずらないと自分が殺されそうなので、いったん大友皇子にゆずって吉野へ隠れた。しかし天智天皇の死後に挙兵して大友皇子を殺し、自分が即位した。
この天武は古事記や書紀のヘンサンを命じた女帝の父たる人である。だから、官撰の国史というものは当然、天智の死とその子たる大友皇子殺害事件が偽装すべき重大な秘密の一ツであったことは申すまでもないし、そのゴマカシが官撰国史の主要な任務でもあったろう。だから官撰国史の天智、大友皇子の話は決してそのままに信用はできない。
ところが、なんとなく大友皇子的運命らしいものが、両面伝説の立役者の一ツの運命として悲劇性の一ツとしてダブッており、これまた各時代の各人物に分散せしめられたオモムキが見られるのである。
天武天皇は大友皇子を殺す前に、自分の方が兄の疑いや憎しみをうけて、いったん殺されそうになっている。結局、自分の方がやらないと、自分がやられそうな場合でもあって、やむを得ず大友皇子を殺して、皇位につくというのが国史の語る筋である。
これが本当の話であるか、偽装がほどこされているか、それを正確に知る手段はもとよりないけれども、天武天皇の皇后たりし女帝(と云っても持統帝ではなくその妹帝である)のヘンサンを命じた史書だから、万事話が天武側に有利につくられてるのは自然であろう。いったん古事記をつくり、しかる後に更に書紀のヘンサンを命じたのは、国史の偽装が細部にわたるまでツジツマよく施されておらぬウラミがあって不満があってのことに相違ない。しかし女帝は天智の娘でもあるから、身内同志のケンカで、特に父側を悪しざまに作るわけにもゆかなかったであろうから、この偽装は微妙を極めていると思われる。
結局、天武と大友皇子の悲劇は、両面神話の主人公の悲劇と相似たものに作られた。その原形がどちらか、あるいはどちらも真実相似たものであったか、それをツマビラカにはなし得ないけれども、多くの両面神話が相レンラクして暗示するものには、天武大友の悲劇をホーフツせしめるものが含まれておるし、天智大友天武の関係からは両面神話の主人公の悲劇的な運命の最も大きくて本質的なものをホーフツせしめてもいるのである。
これはむろん微妙な考慮が施されてのことであったに相違ない。いったん即位した兄の子を殺して自分が天皇となった。自分の妻は先帝の娘で、殺した太子の姉でもある。
神話や上代天皇史の多くが父子兄弟相争う悲劇であり、その原因としてはどの子供に皇位を与えるか、また、自分の弟にか、実子にか、またそこには恋人であり皇后でもある人の問題も含まれていて、父や兄に味方するか、良人に味方するか。肉親同志の微妙な相続問題や、愛憎問題が主として各天皇史の多くの悲劇の骨子となっている。
神話や上代史がそうなった理由の最大のものは、その国史をヘンサンした側が、直前に肉親の愛憎カットウの果てに兄の子を殺して皇位についているからで、それを各時代の神話や天皇史に分散せしめて、どの時代でもそれが主要な悲劇であり、悲しいながらも美しいものに仕立てる必要があってのことだ。それが記紀ヘンサンの主要な、そして差しせまった必要であったはずである。
赤の他人の天下をとるということは、それほど神経を使う必要のないことだ。赤の他人同志なら勝った方が英雄で、それで通用するはずのものだ。だから日本の古代史だって、恐らく当時のレッキとした王様に相違ないものがクマソとかエミシとか土グモとかと、まるで怪物でも退治したように遠慮会釈なく野蛮人扱いにされて、アベコベに退治した方の側はいつも光りかがやく英雄と相成っているではないか。
むろん統治の方便として、それだけでは済まないから、一応は敵を野蛮人に扱っておいても、同時にその土豪の子孫や帰順者の首長を国ツ神に仕立てて統治者の一族の如くにしてやることも必要であろう。
しかるに両面神話は、その最も主要な問題が肉親間の相続争いを各時代の悲劇として美化するだけのものではなくて、両面の一方には他人も含まれている。即ち肉親相続の悲劇と他人の天下を奪ったのとが相重なり合い、それによって両面神話を複雑にもしているし、両面神話の形式がどうしても必要であった必然性も現れているのである。それはなぜであろうか。
その「ナゼ」を物的証拠で推理するのはどんな名探偵でも不可能で、特に私のような素人歴史探偵には困難であるが、しかし、それをいくらか推理する方法がないこともない。
それを推理する方法は、新しく天下を平定した人たちが平定後に何をやったか、ということだ。現存官撰史から判断して、新統治者の第一祖は天智天皇であるが、しかし官撰史を必要とした当面の人々は天武の一族であるから、この天武、及びその皇后で次の天皇たりし持統帝及びその直系の帝らが平定後に何をやったか。それをシサイに見てゆけば何かの手ガカリはある筈です。ところが、たしかに驚くべき奇怪なことが行われておるのであります。
天武天皇の十三年二月に使をつかわして畿内に遷都の地をさがさせたが(この使者の主席は広瀬王です)同じ日、三野王らを信濃につかわして地形をしらべさせた。書紀の文はそれを評して、
「マサニコノ地二都ヲツクラムト欲スカ」
とありますよ。信濃へ遷都のツモリならんかと時の人は疑ったのでしょう。三野王は四月に戻ってきて信濃の図を奉ったが、翌年十月にも使をだして信濃に行宮をつくらせた。これは筑摩、今の松本あたりの温泉へ行幸のためならん、と書紀は書いています。
ところが、信濃遷都も行幸も実行されなかった。信濃へ遷都とか行幸の問題がなぜ起ったかというと、大化四年にもエミシ退治のため信濃に要塞をかまえるようなことをやってるから、そういう必要があってのことでしょう。天武天皇は「帝都はいくつも必要である」と言明した記事が見えてます。これだけなら、別に変でもないが、それから三十三年後に妙テコリンの事が起った。
元正天皇が美濃に行宮をつくって行幸し、数日間タギ郡タド山の美泉というのをのんで帰って、
「朕はミノのタド山の美泉を連用して参ったが、顔と手はスベるようになる、痛みはとまる、白髪は黒くなる、夜も目が見えてくる、その他の何にでもきく。まさに老を養う水の精とはこれだ。このフシギを目のあたり見てはジッとしてはおられん。よって養老と年号を変え、罪人の罪を許す」
大そう変ったミコトノリを発して年号を変えて、大赦を行いました。「俗に云う孝子と養老の滝が酒になったという話はツクリゴトで、これが養老改元の発令された真相なのであります。
信濃と美濃へ遷都だとか行幸という目的は、実はその温泉が目当てのようだ。
ここに思いだされるのは、日本武尊が伊吹山で気を失って死にかけたとき、清水をのんだら、いったん目がさめたという。それでサメ井の美泉とか称されて天下に名高い美泉伝説がある。
大友皇子の運命は日本武尊の悲劇によく似ている。どちらも天皇に殺されてるし、殺された場所が伊吹山を中にはさんで東と西、ミノと近江に分れているだけだ。おまけに日本武尊の死体は白鳥となってなくなり、大友皇子は首を敵に持って行かれてしまう。
さて、ここで壬申の乱、天武天皇と大友皇子の戦争のところの文章を見ていただきたいのです。天武天皇は美濃に陣をかまえて近江へ攻めこみますが、この文章の順だと、近江に近い方から、不破、野上、ワサミの順に陣をかまえた筈でなければならないが、ワサミに大軍がおってこれを握ってる高市皇子は近江の方へは全然動いた記事がありません。のみならず、近江方の羽田公矢国という大将が帰投すると、これを味方の大将に任命して、越へ攻め入らせています。近江に敵がいるのに越を攻めるとはワケが分りません。
まア、そのへんはどうでもいいのですが、伊勢、伊賀、尾張、美濃などの大軍がうごき、近江の方も九州や東国へ援軍を送るように使者をだしている。それによると、東の方は天武の領分で、西の方の諸国は近江方の領分のように思われますが、大友皇子の命で筑紫へ援軍をもとめにゆく使者がアズミ連です。
一番変テコなのは、すぐお隣の国で、そしてどちらの陣にとっても一番ちかいお隣りのヒダに、どちらも援軍をもとめない。それどころか、信濃という言葉はでてきても、ヒダという言葉は完全に一度もでてきません。これはどういうわけでしょうか。
すでに申上げたように、両面神話はたいがい一応アベコベにひッくり返してあるものだ。壬申の乱では伊吹山を中心に敵味方が西と東になってるが、筑紫へ行く使者が明かに信濃の生れたるアズミ氏だから、これも恐らくアベコベになっているのだろう。それも伊吹山が中心ではなくて、両方にとって隣国でありながら全然タブーの如くに一度も名が現れないヒダというひみつの国が実は中心であって、ヒダ中心に東と西が逆になっている。こう見ると多くのことが大そう分り易くなって参ります。
それ以前の歴史で見ても、日本武尊の東征の順路とか群蠅の飛んだ順路などで、ヒダ、シナノ、上野、常陸、越、奥州などが皇威に服さぬ一連のエミシどもの住む土地であることが分る。すると、実は東国の方が大友皇子の側だということが分るでしょう。
したがって、日本書紀に現れる戦争の地名は、むろん戦場がその土地ではない筈だから全然デタラメなコシラエモノにきまってる。しかし、両面神話というものは、それが各時代のいろいろの両面人となって現れてるうち、そのどこかに真実が隠され暗示されているものだ。
すると、大友皇子によく似ているのは日本武尊であるから、この戦争の陣立がアベコベになってるように、日本武尊も東征の往路と復路の二ツがあるから、その復路の方が、そして日本武尊が信濃坂で道に迷い伊吹山で死ぬまでのところが大友皇子の場合を現しているのかも知れない。一応は、こう見るのが自然かも知れません。
私はしかしそうではないと思うのです。なぜなら、日本武尊と大友皇子の話は伊吹山を境にアベコベになっています。ところが壬申の乱の陣立は、必死に隠されているのがヒダですから、このヒダを中心にアベコベになっているらしいのです。ところがヒダのマンナカにはヒダとミノの国境に接するあたりに重大きわまる両面神話があるのです。実際、まったくマンナカなのですよ。神話自身がマンナカだと云っているのですから。
つまり、豊葦原の中ツ国という天孫降臨にからまる両面神話があったではありませんか。日本の中ツ国で大国主の住むところだと云うから大和かと思うと、さにあらず、ミノ藍見川のほとりだ。そこはヒダがミノに接するほぼマンナカでもあって、その近所には三和もある。八阪ヒメの生れたところらしい八阪もある。昔のミノのマンナカらしいミノの町もあるし、大和もあるし、伊瀬もあるし、富波もある。この場合の不破の関は武儀郡と境を接する富波であったに相違ありません。この富波からヒダへ向えば、天ノワカ彦の喪山をはじめ山また山がつづくことになるのです。人麻呂が不破山をよんだ歌の順路はピッタリします。
天のワカ彦が天照大神の返し矢で胸を射ぬかれて死んだのは藍見川の左側ですが、両面スクナのヒダ伝説によると、彼がミノへ出陣して矢で負傷して敗退した地点はブギ郡の下保で、実に藍見川をはさんでちょうど右と左なのです。
しかし高市皇子が天武軍の先陣をうけもっていたらしいワサミは、今のヒダ金山のあたり、この郡は当時はミノの国に含まれていたようで、この金山近辺をワサミ郷と昔は云っていたらしいようでもあります。
けれども、この同じ郡の北端ちかく、ヒダへ最も近いあたり、小坂だの萩原だのと重大な二つの町のマンナカへんの上呂に、昔から有名な浅水橋という橋があるそうです。この浅水がワサミかも知れませんな。ここは昔のヒダ、ミノ両国の交通の最大の要点でしたろう。さすれば、ここに侵入軍の先鋒があったのは当然でしょう。しかし、そこで大友皇子の敗退の地がどこであるか。むろん正しい真相がこれに限るという如くに分りッこありません。
この敗退ぶりをスクナの伝説で申すと、下保で負傷して、いったん宮村へ逃げ、宮川をはさんで戦って今の水無神社のところで死んだということになっています。
書紀の戦記は近江に当てはめてるから、ハッキリ分りませんが、大友皇子は二十日あまり奮戦の後、粟津で負けて逃げ場がなくなり山前に身を隠してクビをくくって自殺したという。このとき皇子側には智尊という大将が突如現れて大奮戦していますが、橋のマンナカを切り落して戦ったという。ヒダに「中切」という地名が方々にあるのは、これと関係があるのでしょうかね。皇子の自殺は七月二十三日でした。多くの家来はみんな皇子をすてて逃げ散りました。皇子に仕えている重臣はみんな天智帝以来の高位高官で、蘇我赤兄、中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人、この五人が特別重臣。特に最も重臣たるのが左大臣蘇我赤兄ですが、これと同じ名が妙なところに現れています。
諏訪神社の神氏系譜というものに、神様から代々の系図があって、武ミナカタの命の子孫がスワの大祝として今に相伝えて、当時は
乙穎(天智の人)──赤兄
となっており、天智のころの人の次の赤兄といえばまさに時代が合っています。なお、蘇我という地名はこのあたりにはフンダンにあったのも事実です。
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さて大友皇子を征伐した一行は二十四日ササナミに集合して、二十六日に、大友皇子の頭を持って不破宮へ戻って天武天皇にこの首をささげております。彼らが集合したササナミの地名はヒダの国府から二三里のところに実在しておりますが、細江と書くのがそれに当るそうです。
さて、ここに問題なのは、ヒダには国造、つまり朝廷の任命したヒダ長官のすむ都が今の高山市内の七日町というのに当っていて、ここにはこれを無言で証明する如くに国分寺趾や惣社がある。ところが、もう一ツ昔からヒダの首府と伝えられている現在の国府があって、ここは昔は広瀬と云っていた。この広瀬というのは、恐らくヒダの古代における最も重大な名の一ツのようです。その附近は大きな古墳がタクサンあります。そして広瀬神社というのがある。また今の荒城の神というのが、当時の広瀬の神かも知れないということでもあります。
ところがヒダの地を平定した天皇は、天武四年に、風の神を龍田の立野に祭らせ、大忌神を広瀬の河曲に祭らしめたということが書紀に現れております。その祭った場所は大和国三郷村立野の龍田神社と大和国河合村の広瀬神社でありますが、決してヒダの地で祭ったのではありません。大和の国へ祭った。そして天武天皇史を見るとビックリなさると思いますが、一年間に何回となく勅使をだして、この風の神と大忌神を祭っておって、実際キチガイじみているくらいこの二神にこだわっておるのです。天武天皇がこんなに熱心にこだわってる神様はもちろん外にはありません。
この二神がヒダの神様なのはハッキリしているようです。広瀬というのは、ヒダの国の首府の名だ。よその国の首府は政府の知事たる国造が居る、ところが、ヒダの国造が居たのは今の高山の七日町で、広瀬の方ほそれとは別なミヤコなのである。さすれば広瀬の神がヒダの王様を祭ったものだということは当然分ることで、もしも天武天皇が自分の手でその人を殺しているなら、それはタタリを怖れる必要があって大忌の神に当るというのはハッキリしています。
もう一ツの龍田の神という風の神様がやや問題で、これはヒダ一の宮たる水無神社に当るように思われる。ところが、そうではないらしい。伝説的に今の一の宮のほかにもう一ツ、ヒダの一の宮と伝えられている神様があるのです。下原村の中津原というところに郷社の八幡様があるが、ここは昔は水無神社のあったところだと伝えられている。この地はどういう土地ガラであるかというと、ヒダの最南端でミノに接するところだが、昔はミノの国に所属して、壬申の乱のころは、この辺をワサミ郷と云ったらしい。つまり天武天皇の行在所があったところかも知れない。先程そう申しておいた場所です。
広瀬の河曲というが、ヒダの広瀬神社はヒダの広瀬の川が合流して曲ったところにあったもののようです。大和の広瀬神社はその地形の特徴をとって大和の河合村に鎮座することになったようです。ところが龍田神社の所在地は大和の三郷村という。一見したところヒダのワサミの神様に関係した地名ではないようですが、このヒダのワサミという地名は下原、中原、上原、という三ツの村を合せてワサミ郷と云う大きな総称で、さすれば三郷村というのと通じるところがあるのです。しかし、こういうコジツケめいたことはよしましょう。
さて、この現在の一の宮、水無神社とは何をお祭りしているか。これが昔から大そうヤッカイな神様で、信濃の水内の神と同じものだろうという説が多い。水無は水内だと云う。
日本武尊の伝説では屍体は白鳥となって墓から飛び去ったと云いますが、大友皇子も首を持ち去られてしまった。その他、忍熊王、五瀬命、天ノワカヒコ等、いずれも屍体が一時は見つからなかったり喪屋を斬りふせ蹴とばされたりする始末で、死体がなかったり墓域が荒らされたりするのがこの型の神の宿命であるらしいから、水無は身無で、その墓に屍体がないという意にも解せられないことはない。昔の神社はその社殿の後にたいがい古墳があるものだ。水無神社のうしろには古墳がない。しかし五六丁離れて存在するオミコシの旅所が古墳だろうという説もある。ここは神楽丘とよばれております。
こう考えると、両面スクナの分身の片面は天皇たるべき人であったに相違ないように思われる。そして、それが天武天皇によって亡ぼされたこともほぼ確実でしょう。なぜなら、天武帝はヒダの主たる神を大和へうつして一年に何回も勅使をさしむけて拝ませており、しかもその神が風の神と大忌みの神だから、タタリを怖れての策であるのは一目リョウゼンであります。
ところが、官撰国史はこの二柱の神がヒダの神だということを決して書かないのです。元来大和に祭られた神であると人々に信ぜしめようとしている。これは壬申の乱がヒダで行われたにも拘らず、ヒダということが完全に隠されている、ということを裏づけるものだろうと思われます。
そしてホンモノのヒダの神様にはなかなか位をやらなくて貞観九年にはじめて従五位下をやり、延喜式神名帳では、ヒダは全部でたった八ツの神で、それも全部小ですよ。大社というのが一ツもない。実に冷遇虐待せられておって、そのくせ別の神様として大和に祭られた方は大も大、大そうな扱いで伊勢の外宮の分身となっておるのであります。
こうして、天智、弘文(大友皇子のこと)、天武と日本史上に於てはじめてホンモノの人皇が定まったらしい重大きわまる時期に、ヒダの国だけは一度も史上に名が出たことがなかったのです。隣国で皇位相続の大戦争があって一度も名がでてこないのですよ。
ようやく持統天皇の朱鳥元年になって名が現れた。それはどんなことでかというと、天武帝が死ぬと大津皇子がムホンをたくらんで死刑になった。その一味の曲者であるというので、行心という新羅の坊主がヒダへ流されたのです。大津皇子は殺されましたが、その味方した曲者は二人残して全部ゆるされた。その二人の一人が行心で他の一人がトキの道ツクリ。これは伊豆へ流されています。
こんなバカバカしい裁判があるでしょうか。これは苦心サンタンの計略だろうと私は思う。天武帝が必死の如くにヒダの神を祭っておがんでいるので分りますが、ヒダのタタリやその反撃が何より怖しい大和朝廷だったのでしょう。そこで、天武の死を機会に、自分の最愛の皇子の一人をヒダの皇子か天皇かの運命と同じものにさせた。ムホンを起したことにさせたのです。そして、殺してしまった。しかし全然ムホンは実在しないから、無実の一味の者を本当に殺すわけにゆかない。新しいタタリも怖しかったでしょう。それでも、悲しい辞世をのこして泣く泣く死んだ皇子をジッと見送ったのは、ヒダに対してよほどのことがあるからだ。皇子の辞世に「百伝うイワレの池に泣く鴨を云々」とありますが、それは百代万代伝わるべき我が家のギセイとなって、という意味ではないでしょうか。
そして、他にたった二人の一味の曲者だけ流刑になったのも計略で、こうして愛する皇子をムホン者に仕立てて殺して、その一類を流刑にする。ヒダと伊豆に対して。そういうカラクリをめぐらしてまで、まるめこむ必要があったように思うのです。行心という名の方は普通ですが、伊豆へ流された「トキの道作り」という氏名は、彼の秘密の役割をチャンと語っているではありませんか。
持統天皇即位前記の条に「この年蛇と犬と交ってニワカにともに死んだ」とありますが、これはヒダとシナノが反乱したことを表していると思います。日本武尊は信濃では犬に助けられてその兄大碓はヒダで蛇で死んでますが、だいたいシナノは犬養だのカラ犬だのと犬に縁が多いところで、ヒダはヘビに縁が多いところです。
次の文武、元明両帝は各々信濃坂が険しいからと、ミノ木曾間の道をひらいております。つまり今までのヒダ、シナノ間の道が危険で通れなくなったからでしょう。そして、これによって知りうる他の一ツは、平地の道や川の舟行よりもアルプス越えの道の方が早くできていた、という一事で、ヒダは馬の国だと云われ、ヒダの騨の字はそのせいで後日改められたと云われるぐらいですが、書紀にもスクナの早業という特徴が書き加えられていた如くに、彼らヒダ人はこのアルプスの難路を馬にのって風のように走りまわっていたのではないでしょうか。
そして次の元正女帝に至って、ミノの行宮へ行ってタド山の美泉をのんで、あんまり霊験イヤチコだからと、年号を変えて大赦を行っているのです。
なるほど、書紀に表現された日本武尊の伝によると、近江ざかいにちかくて伊吹山にもちかいタドの美泉が死なんとする日本武尊を一度正気に返した清水だということになります。
しかし実際に日本武尊、否、大友皇子、否、天武天皇との戦に敗走したさる高貴な人が美泉をのんでいったん死をまぬかれた聖泉というのは、前述の如くに書紀の記述が両面神話の要領によりアベコベであって信用できないとすると、書紀の示す美泉は正しいタドの美泉ではないことになる。スクナ伝説ならば藍見の喪山の近所にあるべき泉であろうし、ワサミを下原村あたりとするなら、下呂に当るかも知れん。二ツのどちらか、それは見当がつきかねますが、とにかく書紀の示す美泉がタドの美泉でないことは確かだ。しかし、自分の御手製の史書ではそれがタドの美泉に当るから、それは自分の言ってることに従うべきで、さもなければ自分のウソを広告するようなものだ。そこで、タドの美泉は霊験イヤチコで、改元し、大赦を行うに価いするほどであると云って、ヒダ人が神聖なる霊地とする泉をトコトンまでほめあげた。
天武帝が筑摩の温泉へ行宮をつくろうとしたのも、シナノ側にもある神聖なる霊泉をほめたてて敵を喜ばせて敵にとりいるコンタンであったかも知れません。
養老三年にヒダの位山のイチイの木で笏をつくることを故実ときめたのも、ヒダを喜ばせてヒダにとりいるコンタンらしい。
しかし、それから二年後には信濃から諏訪を分離して、ヒダとスワの二国を合せてミノの按察使の支配下においた。その時まではヒダには国守を送った記事は一度もなくて、養老五年に至って、ヒダとスワの二ツを、一まとめにしてミノの按察使の支配下においた。そして国守は送っておりません。甚しい特別扱いですが、それでも一歩前進して、とにかく、ヒダにカントク者らしき者をきめ、ヒダの支配者たる形式に一歩ちかづいたものと見られましょう。敵の霊泉をほめたたえた計略がだんだん図に当ってきたのでしょうかナ。
次の聖武天皇の時代には、ミノの不破頓宮で新羅楽とヒダ楽をやらせたという。この不破頓宮は元正行幸のタドに近い不破の関ではない筈です。これはワサミかワサミに近い実際の前線指揮処だった行在所で、つまりその地点で天皇が大友皇子の首実検をしたところだ。そこもヒダ人の聖地中の聖地であった筈であります。ヒダ楽は分りますが、新羅楽の方は大和朝廷側の音楽なのかも知れませんな。両者の霊なる楽の音で死せるミコを慰めたのでしょうか。
まもなく諸国に国分二寺を建てさせたが、ヒダにも建てた。このころから、どうやら税も命令するようになった。ヒダだけ按察使の支配に属していたのが、どうやら他国なみに国守を送るようになったのは称徳天皇の時からです。
しかし、ヒダの統治はなかなか思うようにいかなかったようです。ヒダと出羽に風が吹いた、とか、ヒダに慶雲が現れた、とか、一喜一憂で、(気象台にきかなくたってヒダと出羽にだけ大風が吹くのは妙でしょうが)ヒダの国分寺がたちまち焼けたのも、焼かれたのかも知れませんナ。空海も巡錫したが、そう効果もなかったようです。
私の見解では空海の弟子の真如がヒダへ行って千光寺をつくった。この時から次第に好転して、ヒダがだんだん他国と同じような領国になったように思います。
真如は廃太子高岳親王の僧名です。親王は嵯峨帝の皇太子だが、その先帝平城の御子です。平城上皇に薬子の乱が起ったために、高岳親王は廃せられて、空海の弟子となって仏門にはいった人です。
しかし、廃太子の真如がヒダへ行って千光寺をつくる前に皇太子恒貞親王のムホンに連座してヒダへ左遷された橘末茂がおります。このムホンというのが、また、どうも、これもヒダを相手にしてのカラクリのようだ。
先に帝たりし嵯峨上皇の死をキッカケに恒貞皇太子がムホンして捕った。ところが死んだ嵯峨上皇はかつて自ら高岳親王真如を廃太子にしているし、おまけにちょッと前に淳仁上皇の死を送ったばかりで、ここ何代というものは誰の代も例外なしに皇太子のムホンだなんだと廃太子つづきである。これもヒダのタタリかというような考えが強かったようだ。彼の遺言をよむと、それがハッキリします。人間死ぬのは当り前で厚く葬るほど愚なることはないから、棺はうすいのでタクサンだし、ムシロで包むがいい。着物もフダン着てるのでタクサンだ、という。まさか、首と胴を二ツにチョン斬って棺に入れろ、とは言わないけれども、殺されたヒダのミコが自分の先祖を埋められたと同じような扱いで自分の葬式をやれと遺言しているようです。
こういう遺言のあとで、すぐムホンが起って、誰の目にも無実らしかったというのは、やっぱりヒダ相手のカラクリだったのだろう。そして、それに連座したカドであると称してタチバナ末茂がヒダ権守となって左遷された。そして、ずいぶん長くヒダにとどまって、官位も上っていますが、廃太子高岳親王真如が千光寺を建てるに至ったのも、それとレンラクあってだと考える余地はありそうです。
そして、まさしく、このころから、ヒダは次第に支配しやすくなってるのです。
私はケサ山千光寺へ登ってきました。これがまた大変なところで、八町坂とか云うそうですが、その八町が胸をつくような急坂で、拙者のようなデブには登るのが大変なところです。
この寺は変った寺で、本堂の隣に両面堂と云ってスクナを祭っている。そして、この寺の開祖はスクナであると縁起にある。仁徳天皇時代に殺されたスクナが、当時仏教もないのに開祖というのはおかしいようだが、彼が天武天皇に殺されたその人なら、彼が開いた寺であっても全然フシギはありません。彼は人民にしたわれた威徳ある統治者であったらしいから、立派な社寺を建てたにしてもフシギはないでしょう。しかし、彼は建てなかったかも知れない。
私はこの寺の後の山がどうも気になるので(と申すのは、ヒダの社寺の後にある山の上には古墳らしいのが多いのですよ)そこで寺のうしろの山上にあるアタゴ社のホコラを見物に登りました。一目リョウゼンですよ。ホコラのうしろはヒョウタン型か前方後円か形はハッキリしないが古墳にマチガイありません。たぶんアタゴ社の下を掘ると羨道の入口があるのだろうと思いますよ。
この古墳は、まッすぐ御岳サンと向い合っております。御岳サンの頂上のちかいところにもクラガリ八町という高いガケがきりたった暗い坂があって古来有名だそうですね。千光寺の老樹ウッソウとして昼もなお暗い八町坂とこの点も対になっております。あの山中では日本武尊が遭難しかけていますが、そしてあそこに濁江温泉というのがあって、日本武尊の遭難に合せると、そこにも霊泉を考えてもよろしいのですが、しかしそこまでのコジツケはやめにしても、山岳崇拝が持ち前の宗教だったヒダ人が御岳サンと高貴な人の墳墓をはるかに向い合せに造るのは全くフシギがない。
この寺の縁起の上で開山になっているのがスクナで、本当に寺をたてたのが真如だとすると、廃太子真如ということから考えて、ここがスクナの墓、否、大友皇子、日本武尊らの運命を負うた人の墓と見てよろしいかと思う。たしか縁起の一本にはここがタタリの本家でここを霊場にしないと天下は平にならんという意味が書かれていたのがあったようだ。ここがそういうヒダの国のヒツギのミコの墓なら、ここにも墓の中に身がないのか、胴だけでもあるのか、これは見当がつかない。この寺は戦国時代に武田信玄の手勢に一物も残さず焼き払われてしまったが、それはここに僧兵が籠っていたためであった。この焼亡がなければ恐らく相当の珍しい史料があったと思う。千光寺はヒダの社寺でただ一ツ後々の世まで国家守護のオマモリを朝廷へ毎年お納めしています。
とにかく、両面神話の主人公の本当の運命がどの神や天皇や皇子にちかいのか、それは知ることができないが、ただスクナのように古い時代のものではなくて、天武即位直前の犠牲者であったと見るべきであろう。
したがって、スクナが鍾乳洞を常の住居にしている筈はなく、彼がそこに住んだとすれば、それは追いつめられた最後の時であり、そして大友皇子の場合を当てはめれば、彼はそこで首をくくって自殺したのであろう。スクナは敵軍来るときいて、ミノのブギ郡の下保へ出陣したとあるが、そしてその辺がたしかに両面神の最も主要な戦場を暗示しているのは事実であるが、ケサ山千光寺の所在地をヒダの丹生川村下保という。彼が傷いて敗退したミノの地名をかりたのかも知れない。
しかし、この山奥へ追いつめられてホラアナで死んだミコは、この山奥で王様たるべき人ではなかったようだ。それは書紀の壬申の乱の戦場をシサイによむと、その戦場は大和ではなくヒダでなければならぬ筈だが、ヤマトだのナラの山ができて、それを兵隊たちが「古京」とよんでいるのだ。その古京は恐らく近江に対する古京ではなくて、ヤマト、アスカに対する古京であり、そしてヒダの地に古京があるユエンは、ヒダの王様がここのミヤコを去ってヤマトやアスカで新しい都をひらいていたせいだろう。
その一族と天武帝の一族が赤の他人か血族であるか。どうも血族的ですね。そしてまつろわぬスサブル神(赤の他人)を平定した前世代はヒダの地へ天ツ船でのりこんだんだろう。それもそう遠い過去ではなかったようだな。しかし、その船つきの地点に古墳が一ツもないそうだが──それは彼らの良き地を探しての移動が迅速のせいかも知れん。彼らはたしかに甚だ活動的な人種で、馬と弓矢に長じており、この二ツと斧が主要な生活必需品であったらしいし、すでに建築の心得もあった。ヒダのタクミと云う通りさ。
もっとも、逃亡したヒダのタクミ(奈良や京都の建築に徴用された奴隷だ)の捜査と逮捕を命じている千百年ほど昔の官符の一ツに「ヒダの人間は言葉も容貌も他国に異るから名を変えてもすぐ分る」と但し書がついてる。これがどうも分らぬけれども、タクミの系譜は日本の支配者たりしヒダ人とは別なんですかね。とても拙者の手には負えません。
しかしヒダ特有らしい顔、ヒダのタクミの顔は今も多少残っています。どんな顔かというと、仁王様や赤鬼青鬼や、女の顔の場合だとナラのミヤコの古い仏像がそうだ。自分たちの顔が仁王や仏像の原形なのさ。仁王様がスゲ笠なんかかぶって歩いているのに何人も会ったよ。二ツの目の上やホッペタにゴツゴツとコブのある顔だ。女の場合にもそうでもあるが、脂肪によってコブとコブの谷間が平らになると、まんまるい仏像の顔になる。今でもヒダの名もない寺の名もない仏像に、勿論その存在は誰にも知られていませんから国宝などではないが、それは驚くべき名作がありますよ。探せば諸方の名もないところに、いくらでも在るのかも知れませんが、そっちの方を見て歩くヒマがありませんでした。
私の見たのは大雄寺(ダイオージとよむ)の身長三尺ぐらいの小さな仁王一対と、国分寺の伝行基作という薬師座像と観音立像とヒダのタクミ自像二ツですが、大雄寺の仁王は日本一の仁王だと思いましたし、国分寺の薬師と観音に至っては日本の仏像でいくつもない第一級品中の一級品ですよ。これは国宝になっていますが、伝行基作はウソで、ヒダのタクミの作にきまってます。
ヒダのタクミには名前がない。タクミはヒダのあたり前の商売のせいか、米やナスをつくる百姓が作者としての名を必要としないように名を必要としないらしい。かかる本質的な職人が名人になると、怖しい。濁りも曇りもありません。その心境にも曇りなくムダな饒舌がなく、そして、その心境と同じように技術が円熟して、まことにどこにもチリをとめないというのがヒダの名人の作です。それが国分寺の薬師と観音ですよ。アア美しい、と云えば、それで尽きてしまうぐらい、カゲリと多くの観念とが洗い去られているのです。
高山の商店へ買い物に行くと、これは出来が悪いから良い品が来たとき買ってくれ(よそ出来の製品を売る洋品屋でもそう云う)と云う店と、さかんによその店の悪口をならべたてながらあまり良からぬ品をうりつける店と二ツのタイプがある。前者もタクミのカタギであろうが、後者とてそうで、タクミの中にもヘタもいるしヘタのくせに悪口は一人前に云う。世界中のタクミに共通する気質の一ツだろう。しかし、この二ツの差が甚しくて、実に一方の方はウンザリするほどよその悪口を言いたがりますよ。しかし商人のタクミ気質にも拘らず高山の細工物は必ずしもタクミ的ではない。やや良き物もあるが、甚だ悪い物も少くない。人麻呂時代にかえるべし。人麻呂は歌っていますよ。
かにかくに物は思はずヒダたくみ打つ墨縄のただ一筋に
底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第一二号」
1951(昭和26)年9月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第一二号」
1951(昭和26)年9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「《」(非常に小さい、2-67)と「》」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月13日作成
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