安吾の新日本地理
長崎チャンポン──九州の巻──
坂口安吾
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急行列車が駅にとまると、二人か三人の私服刑事らしき人物が車内の人物の面相を読みつつ窓の外を通りすぎる。私の終戦後の遠距離旅行はこの正月からのことであるから、こういう人物の駅々の影のような出迎えがいつごろから始まったのか知らないが、月を追うてこの出迎えが厳重に、どの駅でも規則正しく行われるようになってきた。
これには無論それだけの理由があるに相違ない。まず共産党幹部の地下潜入、朝鮮戦乱や国際情勢の悪化につれて国外からの密入国や国内からの脱出などゝモグラ族の移動往復が相当ヒンパンであろうから、イヤでも交通の要所々々に目玉を光らせる必要があるのであろう。
交通路の要所に関所をかまえて目玉を光らせるという方法は大昔からのことであるが、義経がどっちへ逃げたか、豊臣の残党がどうしたか、と云っても、その取締りは案外に無邪気なもので、草の根を分けてもという全国一丸の警察網を張りめぐらし、長年月にわたって徹底的に断圧、根絶を期したというのは現代に於ては昭和初頭に於ける共産党、過去に於ては切支丹宗門があるのみであろう。
切支丹の断圧は秀吉に始まったが、家康の晩年に於て強化された。彼が自分の手で辛うじて完成した徳川幕府というものを守るために、他の一切に対して示した猜疑、警戒というものは蟻の出入口もないほどの堅固なもの。鉄砲という新兵器への断圧などは序の口で、大きな河には橋を造らせず、渡し舟まで禁じるという警戒万全主義であるから、鎖国だとか切支丹宗門断圧は彼の主義政策の当然な一ツの結論。わが子親類縁者参謀功臣に至るまでまず一切を疑るということをもって政治の前提としているのだもの、外国勢力をトコトンまで国外追放にしたのは彼の統治方針の結論としては奇も変もない自然なことで、切支丹だからどうこうという、切支丹という宗教の内容に重点のある禁圧ではなかったであろう。秀吉の禁令の理由が日本は神国であるというような、多少は外国を異端視した国粋思想からの反撥があるのに比べて、家康の方は他の一切を疑り、進歩の一切を排するという警戒万全主義から発した当然きわまる処置の一ツにすぎなかったのである。
だから秀吉の禁令は多分に感情的でもあるから、その激する時は甚しくても、一面に気まぐれで、例外も抜け道もあるけれども、家康の方は算術の答として割りだされたような無感情な結論で、気まぐれも例外も抜け道もない。鎖国、ならびに切支丹断圧。論争もいらん。理由も不要。ただ断乎たる禁令と、その徹底的な実施あるのみ、である。
だから、信者は地下にくぐらざるを得ん。一方その指導者たる神父は、主としてマカオならびにマニラから日本に潜入する。潜入した神父はヨーロッパ人も多いけれども、日本の学林で一応の教義を学んだ後に国外へ脱走して、マニラやマカオで更に勉強し、修道士(当時これをイルマンという)とか、司祭(つまり神父、パードレである。これを当時バテレン〝伴天連〟という)に補せられて、さらに日本へ逆潜入する。つまり越境してモスコーへ逃げ、そこで共産主義の筋金を入れて日本へ逆に密入国するという今日の様相と変りはない。外国からの思想が断圧されれば、思想の如何を問わず、時代を問わず、こういう様相が現れるのは当り前のことであろう。
家康の禁令後約三十年間にわたって、潜伏信徒と、これを指導するために潜入する神父の活動がつゞいたが、やがて潜入する神父も跡を断ち、表向き信教を奉ずる者もなくなった。もっとも、長崎周辺や天草等に、表面は仏教徒を装うて子々孫々切支丹を奉じた部落はいくつかあり、それらは明治維新となって信教の自由が許されてから公然たる信教を復活したが、その第一番目の復活が、浦上部落の隠れ切支丹であった。
私がこの前に長崎を訪れたのは今からちょうど十年前であった。季節もちょうど今ごろであったろう。その年の十二月に太平洋戦争が始まったのだが、そのキザシは至るところに見ることができた。長崎港内の造船所のドックにはいりきれずに大きな図体を湾内に露出していたのは「大和」であったらしい。
私はそのとき「島原の乱」を書きたいと思い、それを調べるためにあの地方を二週間ぐらいブラブラしていたのである。長崎では、毎日図書館に通って、そこにだけしかない郷土史料を筆写していた。「南高来郡一揆の記」だとか、そのほか三四そこで筆写したものを、戦争中にどこへどうしたか見失ってしまったのはバカげたことであるが、切支丹資料の主要なものはそのころたいがい集めておいたし、地図なども揃えておいた筈だから、と安心しきって、今度の旅行にでかけた。十年前にゆっくり滞在した長崎だ。新しく見聞する必要があるのは原子バクダンの跡だけだ。私はそう考えて、長崎の古本屋で若干の本を買ったりしたが、一番平凡な探し物を忘れていたのだ。
私は家へ戻って長崎の地図を探した。島原も天草も五島も、参謀本部の五万分の一、二十万分の一、みんな揃っているが、長崎だけがないのだ。ない筈ですよ。私はようやく思いだした。長崎は要塞地帯だもの、五万分の一が手にはいらぬのは当然だったばかりでなく、通俗な市街図すら、当時は手に入れることができなかった。私は長崎の人に手製の地図を書いてもらって、それをタヨリに歩いていたが、諏訪神社のベンチに腰を下して長崎港を眼下に眺めつつその手製の地図を見ているときに憲兵につかまって訊問されたことがあった。そのことは覚えていたが、時勢の変った悲しさに、それが手製の地図だったのをすっかり忘れていたのであった。
あのときは驚きましたよ。何事に驚いたかというと、その時まで海軍の憲兵というものを知らなかったから、セーラー服にツバのない水兵帽をかぶって、古風なキャハンをはいた坊やのふくらんだようなのが私を訊問にきたので、おどろいた。彼は私を自分の詰所へ連行した。詰所といってもボックスがあるわけではない。公園の中の自然の立木のようなのに電話器がつけてあって、それ以外には特別なものは何もない。私が調べられている時にも電話がかかってきた。それから判断すると、いたるところの山の上や中腹などにこういうカンタンな詰所だか見張所のようなものがあって、そこから対岸や左右の山中や市街を望遠鏡で見張りあって、お前のところの公園のベンチに変な奴が膝の上の紙と港を見くらべている、取調べよ、というように注意し合っているもののようだ。私の挙動に不審をいだいたのは、ここの詰所の彼ではなくて、どこか遠方の山中から望遠鏡で見張っていた誰かであったようである。
地図禁制の地域で手製の地図を見ていた私は、当然相当な取調べをうけるだろうと覚悟をきめたが、彼は私の旅行目的をきいた上で、私の所持の包みを調べ、それが図書館で古い史料を筆写したノートであることを確かめると、ただちに釈放してくれた。私が今日に於ても日本の海軍には陸軍にない親しみを感じているのも、このセーラー服の憲兵が物分りがよくて人を頭から罪人視するような振舞いのなかったことに好感をもったのが理由の一ツであるかも知れない。
私はこの憲兵の取調べをうけたのをよく記憶しており、それが地図を見ていたせいであることもよく記憶しておりながら、それが手製の地図であったことを忘れていたために、今に至るまで私の書庫には一枚の長崎地図もないことに気づかなかったのである。
そのときの長崎旅行は島原天草の一揆の史料をあつめ、実地を見て歩くためであったが、空想癖の旺盛な私であるから、全然ムダなことに精を入れるのは、今も昔も変りがない。実に私が切支丹史の人物中で最大の興味をもっていたのは「金鍔次兵衛」という怪人物で、私が十年前の長崎旅行の後にまず第一に書いたのは彼の行蹟についてであった。
古来から切支丹伴天連の妖術という。伴天連はパードレ、神父の意。新教の牧師に当る。彼らは布教の始めに当って、客寄せというような意味で手品などもやったようだ。新教では奇蹟を説かないが、旧教では神の奇蹟を認めるから、その方便に手品を用いるようなこともあったらしい。それでバテレンの妖術ということは、はじめから言われていたもののようであり、また、当時の日本の習慣にはない獣肉を食用し葡萄酒をのむから、人間の子供の生き血をのんでる等という噂もあった。そして物語の本には切支丹バテレン妖術使いウルガン伴天連。身の丈一丈二尺などゝ多くの怪人物が現れているけれども、そして、それが実在のバテレンの名に相違ないが、いずれもバテレンが酒顛童子のように人肉を食うというような架空な物語にすぎない。
正しい史実に「切支丹バテレン妖術使い」という名と行蹟をハッキリと残している人物はたった一人しか居ないのである。この人物を「金鍔次兵衛」という。その珍妙な名は物語の中の架空の人物のようであるが、却々もって、そうではない。外国側の記録にも、大村藩の記録にも破天荒の彼の行蹟がハッキリ記されており、のみならず彼が捕縛されたところには「金鍔谷」という地名が残り、長崎の地図が手もとにないから、正しい町名なのか、昔からの通称にすぎないのかは分らないが、長崎港外の戸町へ行って「金鍔」ときけば直ちに通じる通り、彼の足跡は今も明確にその所在を残しているのである。そこの山腹に現存する横穴の中で、彼は捕えられたのである。
地下へもぐった共産党の幹部にくらべると、金鍔次兵衛の方がシンパも少く、(彼の活躍した時はすでに切支丹の衰亡に近づきつつある時であった)レンラク、レポの組織なども甚だ幼稚であったばかりでなく、後日の彼は長崎を中心とする信徒の最も重要な支配者であり指導者でもあり、逃げ隠れが能ではなくて、最も積極的な街頭進出に、指令に、慰問に、ミサに明け暮れしたのであるが、実に数万人の捜査網をくぐり、九州から江戸の間を股にかけて七年間というもの日本中を騒がしたのである。
彼の生い立ちは日本側には不明であるが、パジェスによれば、ウオマリ(該当する日本の地名不明)の生れ、父はレオ小右衛門、母はクララ・ボキアイ(落合かも知れん)。この両親はともに殉教者だそうだ。彼はその子供でイヨヒョーエ(日本の記録は次兵衛、または次太夫)という。彼は有馬の学林で育てられた。彼は語学に天才があって、彼の話す完全なラテン語にはヨーロッパの神父も感心したという。二十歳のとき宗教的な地位をうるためにフィリッピンに行きたいと思ったが、一六二二年に至ってはじめて同地に行くことができた。一六二三年十一月二十六日、管区長フライ・アロンゾ・デ・メンチェダ神父によって修道服を与えられ、誓願を立てた後、ドン・フライ・ペテロ・デ・アルセによって司祭に補せられた。日本の記録では「切支丹バテレン妖術使いの張本人金鍔次兵衛」であるが、教会の記録では、トマス・デ・サン・アウグスチノ神父という。
一六三〇年(寛永七年)二月二日フィリッピンより船出して、マリベレス島で難船したが、彼は奇蹟的に助かり、首尾よく日本潜入に成功した。これより日本に於ける神出鬼没の大活躍がはじまるのであるが、彼の足跡をうかがうに、道なき山野をわけ岩をよじ水をくぐり、その運動神経たるや怖るべきものがあったろうと思われる節が多い。マリベレス島で難船して奇蹟的に助かったという一節によっても、水泳なども甚だ達者であったように思われますね。
彼の属するアウグスチノ会のグチエレス長老が、その前年に捕えられて入牢しておったが、まず次兵衛は竹中采女の別当に雇われることに成功した。竹中采女は長崎奉行であり、切支丹断圧の総元締のようなものだ。次兵衛はまんまとこの別当になり、自由に牢内に出入して、グチエレス長老の指図を仰いで伝道に奔走し、自分の乏しい給料で長老に食物を運んでいた。グチエレスは性格の甚だ温和な人らしく論争などを好まぬタチで性来虚弱であったそうだが、入牢後は特に衰えていたらしい。
グチエレスの死後は、彼が長崎の信徒の団体を支配した。昼は長崎奉行の別当をつとめ、夜になると、町々を村々を山野を走って告解をきき、洗礼を施し、教義を伝えた。そしてトマス次兵衛という日本人の神父があって長崎の切支丹を支配しているということは取締りの役人に知れていたが、彼が奉行の別当だということは数年間分らなかった。
一人の転向した絵師が信徒のフリをして教団に出入し、彼の顔を写生するのに成功し、そこで彼が奉行の別当をしていることも分ったものらしい。このときから次兵衛の逃亡生活がはじまったが、彼をかくまった容疑で五百余人が捕えられたが、彼のみは常に最後に煙の如くに掻き消えてしまう。彼の刀の鍔に金の十字架がはめこんであったらしく、彼の姿が消える前にその十字架に礼を払って胸に十字を切る。そしてパッと身をひるがえして煙の如くに遁走する。そこで金鍔次兵衛の名が現れたのだそうだ。彼が妖術、もしくは忍術使いだということは捕吏をはじめ一般に確信されたもののようである。そしてその妖術の鍵が彼の帯刀の金の鍔にあるという俗説も行われていたようだ。
思うに、日本の忍術使いが真言の九字を切るということは後世の空想的な産物で、その原型は、むしろ切支丹が胸にきる十字、そして金鍔次兵衛の存在や流説などがその有力な原型ではなかったかね。日本の忍術使い、甲賀者は切支丹以前から存在し、島原の乱にも幕府方、松平伊豆守が甲賀者を用いたことが、その息子の日記に見えている。甲賀者は天草四郎の部下の農民に変装して籠城の敵軍にもぐりこむことに成功した。ところがこの忍術使いは忍びの術には達していたが、九州の農民の方言も分らぬばかりでなく、切支丹の用語も知らず、その祭儀に処する身ぶりの心得もないから、たちまちバレて背後から石ツブテをぶつけられつつも忍術使いだけの貫禄を示して、ホウホウのていで逃げ戻ったという。かくの如くに現実の忍術使いに九字を切ることは実在しないし、太閤記だの真田軍記だのと伝説的な忍術使いが現れて胸に真言九字の印をきりだしたのは後日のことで、どうも切支丹の十字の方が忍術の九字の印の原型だろうと私は思う。そして要するに、今日の猿飛佐助の原型、あの胸に九字の印を切る様式の原型は、それを史実に探るとすれば、実は金鍔次兵衛に非ずや。切支丹の十字に対して、一方は真言の九字の印をきるという。まア、真言といえば山伏の法術も真言の秘法の如くではあるが、山伏は九字は切らんな。真言と云い、九字をきると云うところに、それに相応する原型らしき切支丹とその胸にきる十字があり、金鍔次兵衛先生の武者ぶりなどが際立って私の幻にうつるのだが、どうでしょうか。
しかし、金鍔次兵衛の煙の如き遁走ぶりがどんなに破天荒なものであったか、ということは、実は彼の味方たる切支丹の記録からは判然しない。パジェスは彼の神出鬼没の活躍を英雄的に記録して、日本人が彼を魔法使いとよんだことを記録している。しかし、実に彼を追いまわした大村藩の記録には、殆ど世界中の誰しも信じがたいバカバカしい追跡の事実が残されているのである。
もしも徳田球一の隠れ家が分った時に、日本の警察はどれだけの警官をくりだすであろうか。五百人か? 千人か? 三千人か? 五千人か? 一万人か? 戦車か? 飛行機か? 原子バクダンか? まさかね。一連隊の警察予備隊以上をくりだしはしないであろう。ところが次兵衛の隠れ家を包囲するには、すくなくとも六連隊、思うに完全武装した三師団ぐらいのものが一時に出動し、これに海軍も加わっていますよ。以下、大村藩の記録を意訳してみましょう。実に残念なのは、私の手もとに浦上の地図がないことで、地図がないと、この三師団と海軍の包囲網がハッキリ分りにくいのですがね。
寛永十二年(であろう。他の次兵衛追跡に関する記録の年月日からみて、そう見るのが正しいようだ。西暦一六三五年)八月、次兵衛が浦上に隠れていると密告する者があって、長崎奉行は四辺の諸藩とレンラクして捜査中、大村領戸根村脇崎の塩焼き(俗に釜司という由)が彼を山中にかくまっているという情報がはいった。そこで長崎の両奉行から城主に出動の命令があった。
大村藩では、家老大村彦右衛門を大将に、家士の全員、諸村の代官所属の全員、小給、足軽、長柄の者は言うまでもなく、領内の土民に至るまで、武士も土民も十六歳から六十歳までの男を全部召集。よろしいですか。十六から六十までの領内の男の子の全員ですよ。そして残したのは、城内の番人と、諸町村の押えの者だけです。かくの如くに一藩の全員が出動しました。相手は金鍔次兵衛たった一人なんですがね。
むろん、総指揮に当る長崎の両奉行所も全員出動。さらに、佐賀、平戸、島原の三藩も命令によって出動しました。
そこで四藩二奉行所から出動した恐らく何万人という全員をもって、まず往還の通行を止め、半島の海から海に至る線を人垣でふさいでしまった。海と海の間の陸地といえば、今度原子バクダンの落ちたあたり若干の平地をのぞいて、道の尾の方も稲佐山の方も、山また山ですね。これを人垣でふさいだ。この人垣は一人一歩の間隔です。一人一歩の列で半島を横断する人垣によってふさいで、この列をくずさずに、ジリジリと半島の尖端、海の方へ追いつめて行く。夜になると、全員、一列のままピタリと止まり、止まった場所でカガリ火をたいて夜を明す。夜間に人員交替して、不寝番をたて、夜があけると、またジリジリと一人一歩の列をくずさず前進、夜にピタリと止まって、止まった場所でカガリ火。蛇やキリギリスは逃げられるが、ウサギやタヌキは驚いたろうなア。一人一歩の人垣を破らないと、ウサギもタヌキも海辺まで追いつめられてしまう。海の上は舟軍で封じていたのですね。こうして、実に三十五日という日数を費して、一人一歩の列をくずさずに遂に海岸線まで人垣が移動到達したが、次兵衛の姿はどこにもなかった。彼をかくまった小者の姿もなかった。
彼に随行していた小者(塩焼きかね)与一郎という者は三十五日の山狩が終った後になって捕えられた。「とりにがしのバテレンの小者を山狩の人数の引き申し候あとに捕えられ候由、大慶に存候」西宗真が大村彦右衛門に手紙を書いてます。とりにがしのバテレンの小者を捕えて大慶至極という、まことにナサケない話ながら、金鍔次兵衛の神通力が当代を風靡した有様、目に見る如くでありましょう。
次兵衛の活躍は一六三七年までつづきます。パジェスの記事によると、彼は一時は江戸へ逃れ、そのとき将軍の小姓に伝道してその何人かを改宗させた、とあります。どこへ逃げても忙しい先生で、単なる逃げ隠れということは全然やっていないようです。単なるモグラではなくて、夜はミミズク、フクロウ、コノハズクよりも活動的で、白昼もタヌキのようにヒルネしていたワケではなくて、実にもう、かかる神出鬼没の人生こそ何よりも彼の身についたものであるような、たしかに天才的な忍術使いの威風すら感じられるようですね。パジェスによれば「すくなくとも五百余名の切支丹が彼をかくまった容疑で死刑になった」そうであるが、そういう市井の人情に目をくれない魔王のような野性がありますな。その非モグラ的活動力は共産党のモグラ連よりもよほどアカぬけているね。たった一人を捕えるのに四ツの藩と二ツの奉行所の総員出動、三十五日不眠不休の包囲網というのは、日本にも、外国にも、あんまり例のないことではないでしょうか。
彼もついに捕えられました。そのとき彼は戸町の谷間の中腹の横穴にひそみ、相も変らず夜ごとに信徒の間を駈けまわって伝道をつづけていたのです。戸町には当時ひところ外国船がついたこともあり、千人番所というものがあって、いわば長崎周辺で最も整備した探偵陣地であるが、その目と鼻の先の穴ボコの中で悠々住んでいたのですね。今は七八十尺の高さの石段を登り、更に三十尺ぐらい岩をよじて、その穴に到達できますが、当時は恐らく、キリたった断崖の中腹、百尺ぐらい岩をよじる必要があって、そこにケダモノ、鳥類ならぬ人間が隠れ住むということは考えられなかったのではないでしょうか。穴の内部は高さ七尺から三尺ぐらい、二十坪ぐらいはありましょう。中から長崎の海が目の下に、そして対岸は造船所あたりでしょうか。その穴の場所に立って下を見ると、地上百尺ぐらい、私はクサリにすがって登りましたが、昔はこの下方が断崖ではないにしても、やや登るのが不可能にちかい地形であったように思われるのですね。この下を金鍔谷と云って、その谷に今は道があり人家がありますが、当時は海に面した嶮しい谷で、その谷には人が踏み入ることがない秘境であったのかも知れない。この辺一帯は、今でも「金鍔」と土地の人々は申しています。ただし、次兵衛のことは、もう土地の人々は知らない人が多いようです。穴の中には地蔵が十七体ほどあって、土地の人は穴地蔵とか、穴弘法とか云ってます。浦上にも穴弘法というのがありますが、それとは違うのです。穴の中にサイセン箱があったので、私は二十円のオサイセンをあげてきました。
一説では、彼トマス金鍔バテレンは天草島原の乱に参加し妖術を用いて幕府軍を悩ましたとありますが、彼は一揆の起る直前、一六三七年、太陽暦の十二月六日に、穴吊しという方法で死刑にされて死んでいます。私の希望的空想的執念にも拘らず、残念ながら、彼は島原の乱には参加不能。もっとも、その地の信徒と生前にレンラクがあったことは考えられる。けれども捕えられたのが六月十五日だそうで、島原の乱には全然関係がなかったでしょう。彼のひそむ穴が分ったのは密告によるもので、時をうつさず大包囲網をしき、彼はこの穴ボコで縛についたもののようです。
彼の刑死した年に、長崎では、アウグスチノ会員のイルマンたちやおびただしい信徒が捕縛されているところを見ると、大先生とともに、彼の支配下の組織全部がやられたように思われます。私は金鍔神父の捕われた穴ボコの中にたち、海を見下して、感無量でしたよ。それは悲劇的ではなくて、牧歌的──いわば、彼だけは切支丹史上に異例な、切支丹西部劇というようなスガスガしくて無邪気で明るい牧歌的なものを私は考える。この穴ボコから長崎の港そのものは見えないが、それにつづく静かな海が見え、その海にひらけた谷間はきりたった断崖と緑におおわれていたであろう。朝夕も白昼も静かだったろうね。
この谷に今では長崎の教会のカリヨンが海をわたってきこえてくるが、彼はこの風光やカリヨンの幻聴などが問題ではない充実した動物だったろう。野生のカモシカのような。
なつかしい一匹のカモシカ神父よ。
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私が自分の目で見た戦災地のうちで、一番復興がはかどらないのは、宇治山田市。次が浦上であった。宇治山田の戦災はきわめて小部分にすぎないが、その小さな焼跡は全然と云ってよいほど復興していなかった。それは敗戦後の数年間、復興に必要な条件たる神宮の参拝客を失っていたせいであろう。
浦上の方は所在の戦災工場が殆ど戦争用のものであるために復活せず、その工場人員の居住を要しなくなったせいもあろうが、土着の浦上町民の大多数が死亡したせいもあろう。土着民の多くは先祖伝来の切支丹で、昭和二十年に一万余名という浦上切支丹のうち、原子バクダンの一閃と共にその八千五百名を失った由。土着民の大部分を失ったのだから、復興がおそく、人家と人家の間や周辺に非常に多くの空地が目立ち、旅人の心を暗くさせる。
私一人の特殊な感傷であるかも知れないが、私は浦上の運命については感慨なきを得ないのである。
浦上は原子バクダンによって世界的な名所となったが、こういう異常な犠牲となる以前から、浦上は日本に於ける最も特殊な村落の一ツであった。私の十年前の旅行に於ても、浦上訪問は私の大きな関心事で、その土をふみ、農家の前に立つだけでも、なんとなく異様な思いが胸にさわぐのを押えることができないような気持であった。
九州には隠れ切支丹が多かったが、そのうちで最も有名なのは浦上であった。それは主として、切支丹の子孫のうちでここが最初に復活したせいであろう。また四回にわたる浦上崩れというものがあって、切支丹信仰がまったく地下に隠れて後に四回も信仰が露顕し、四回目には村民の殆ど全部の三千余名が諸藩に分散入牢せしめられて棄教をせまられた。明治二年のことであった。そんな根強い地下信仰の歴史もあって、諸方に隠れ切支丹があるうちで、浦上だけは特に一般に名を知られ、その代表のようなものだ。長崎市民は浦上切支丹を「クロ」とよんで白眼視していたものだ。「クロ」はクルス(十字架)からきたというが、本当かね。とにかく決して善意をこめて呼ぶ名ではないね。本来は隠れ切支丹をさして「クロ」とよぶということだが、しかし十年前に私が長崎の二三の市民にききただしたところでは、
「浦上がクロですと」
というような返事で、浦上の切支丹をクロとよぶものだと心得ていたようだった。異教徒から見れば、浦上は特別の切支丹地帯で、別人種的にも思えたかも知れん。私が十年前に浦上の土をふんだだけで、また、農家の内部をチラと見ただけで、何か胸に騒ぐ感慨を押えがたかったのは、それもやっぱり異境にさまよう妖しさが胸底にあったせいであろう。
日本に切支丹の子孫がいる。それは表面仏教徒を装いながら祖先伝来の切支丹の信教をつづけているはずだ、ということは、外国の宣教師が概ね予想していたことである。新井白石が政治をやってる時に潜入したヨワン・シローテもそういう子孫の実在を信じてのことであった。元治二年(一八六五年)に大浦天主堂が落成した。これは在留の外国人のためのもので、日本人に伝道しては相成らんという約束のものであったが、外人神父の肚の中では、切支丹の子孫がどこかに隠れているはず、いつかはそれを突きとめたい、名乗りでてくれないか、というひそかな願いが第一であった。
すると浦上の村民が十五人ばかり天主堂の見物のフリをしてやってきて、他の見物人の去った時を見すまして、プチジャン神父にちかづき、私たちはあなた様と同じ心であります、と云って名乗りでた。それが一八六五年三月十七日であったという。これが隠れ切支丹復活の日だ。その時以来、浦上切支丹の多くは信教の復活に酔っぱらったとでも云うべきか、実に非常に亢奮したもののようだね。彼らの中の相当数の人々は農耕もうっちゃらかして、九州諸方の隠れ切支丹を嗅ぎ当てては、信教復活の遊説に、頼まれもせず手弁当で巡回して歩くような、悪く云えば宗教タンデキ家的な世話好きが続々現れたようだ。復活切支丹の先覚たる光栄に酔っぱらったとでもいうのか、山野を忍び歩き人目を怖れ怯えつつ、よその村のイロリ端で神の教えを一席ぶって宗論をたたかわせ説服するのがイヤ面白くてたまらん、というゾッコン打ちこんだ楽しそうな様子がアリアリ見えるようだね。浦上切支丹史でもよんでごらんなさい。アリアリ見えますよ。その後この村からは神父になって説教を本職にする人がたくさん現れた由だが、復活後のソモソモの気風がそうだから当り前の話さ。
そこで諸村の隠れ切支丹がみんな改めて洗礼をうけて正式のカトリック教徒に復活したかというと、そうではないから、おもしろい。
新しい切支丹のお祭の方法はオラガ村の祖先伝来のやり方と違う。オラガ村の方のが正統派で、新しいやり方に改めた者はインチキだ。祖先伝来の正統な教えを忠実にまもっているのはこのオラガ村だぞ、と云って、威張り返って、今日に至っても、てんでローマ法王のカトリックを相手にしない部落がタクサンある。それは全部長崎県に限られているけれども、二十数ヶ村あるそうだね。たしか浦上の一部にもオラガ村の先祖伝来の正統を主張してホンモノのパッパ様(法王)のカトリックをてんで受けつけない部落があったようだ。復活切支丹の連中はこのガンコ派を「はなれ」と呼んでいる。ブラジルの神道連盟のようなものさ。日本人の在るところ、切支丹であろうと、日本神道であろうと、共産主義であろうと、ホンモノ以上の絶対正統派や、絶対不敗派が必ず存在して、力み返っているものらしいや。ガンバレ。ガンバレ。先祖伝来のパッパ様や、先祖伝来の天皇様や、先祖伝来のコミンフォルム様がついてらア。
十年前に私が浦上の地をふんだとき、それは「火の消えたような」とでも申しましょうか、私がそこに感じたのは孤絶した哀れさ、オドオドした悲しさでした。そのとき彼らは、いつの時代よりも白眼視されていたのかも知れませんね。捕吏を敵とする時代はあったが、こんなに民衆を敵にした時代はなかったのではあるまいか。彼らが一切の上にいただく天にまします父は、日本の頭上の天にではなくて、西洋の頭上の天にまします。先祖代々日本の地上に住んではいても、彼らは日本の天の下には住んで居なくて、西洋の空の下に居り、つまり彼らは精神的な異人だというような白眼視であった。私に「クロ」という呼称の存在を教えてくれた長崎市民の一人は、明らかにそう考えていたようだし、浦上の人家や山河には、その異人視を百倍も強く感受してオドオドと孤絶しているような住民たちの悲しさが至るところに沁みついているように感じられたのである。
私はまた他の一日、大浦の天主堂を訪ねて行った。それは長崎の図書館長が、島原の乱について教会側の記録をまとめたパンフレットが大浦の天主堂からでていますから、それをもとめなさい、と教えてくれたからである。
ところが応待に現れた日本人の神父さんは顔色を失うぐらいに狼狽して、そんなものは出版したことがありません、そう云いながらソワソワと足もとが定まらないような様子にさえ見えた。
「私は図書館で実物を見てるんです。近年でたばかりで、定価五銭と印刷してあったかしら。非売品となってましたかしら」
彼は泣きそうになって、
「二十年ぐらい前に、そんなものが出たようなことがあったかも知れませんが、イエ、そういうものには、全然心当りがありません」
「ぼくは怪しい者ではありません。島原の乱を小説に書きたいと思って史料を探している文士ですが」
と名刺をだしても、まるで名刺に悪魔が宿っているように目もくれないし、手をだそうともしなかった。甚しくおびえきった様子であった。私自身この町でセーラー服の憲兵に誰何されたばかりの身であるから、人々からの異人視を百倍も強く感じているに相違ない彼らの気の毒な立場を理解するにヒマはかからなかったし、同感もできた。しかし、そのパンフレットが本当に欲しくって仕方がないのだから、実にウンザリもしましたよ。
彼が私を警察か何かの者だと思いこんでいるのはハッキリしていた。自分たち信者以外の全ての者が敵に見え、自分たちをおとし入れるいろいろな怖しい陰謀をめぐらす者に見えるのであろう。そのオドオドと孤絶した哀れさは、浦上の人家や山河にまで、同じような暗い陰が至るところに落ちてしみついているように見えたものだ。
その浦上に原子バクダンが落ちたと知った時には、私はまったくアッと思ったまま、しばしは考えることが途切れてしまいましたよ。しかも浦上の天主堂のすぐ真上ちかくでバクハツしたというのですから、運命のイタズラにしても全く二の句がつげなかったのは当然でしたろう。
日本の地上に住んではいても彼らの天は日本の天ではないのだという異教徒の白眼視が百倍も強く彼らの身に感受されていたはずでした。私はその悲しさを浦上の人家や山河や樹木や畑の物にまで感じたのだもの。人の白眼視を百倍も強く感じているということは、それが彼らの意志や本心ではなくとも、彼らが自然に日本の空よりも、よその空の中に、自分の空を見るような現実が生れるに至るだろうということを、私がいつからか確信するようになっていたとしてもフシギではありますまい。人が疑るように、自分が似てくるね。人は弱く悲しいものですよ。
彼らが自分の空だと思ってみたりしたこともある空の中から飛んできた飛行機が、彼らの天主堂の上で原子バクダンを落した。私が最初の一瞬に考えたのは、そういうことでした。それは私の思い違い、思い過しであるかも知れませんが、しかし、私が最初の一瞬にハッと思ったことは、とにかく、そういうことだったのです。そして、その原子バクダンが私の頭上にも落ちたのか、否、その原子バクダンを落した奴が私自身だったのか、何がなんだかワケが分らないような、奇妙キテレツな気持でしたよ。
私はどうしてだか、大浦の天主堂のあの日本人の神父さんを今でもアリアリと覚えていますよ。身長も高いが、ふとってもいましたね。黒い僧服をきて、僧院の階段を走り降りて現れてきましたね。そのときだけは元気で無邪気でしたのに。大浦の天主堂は原子バクダンの被害をそう蒙らず、今は改装の手入れ中でしたが、彼が今もこの僧院にいるなら、否、どこの僧院で、どこの路上で彼に再会しても、私はただちに彼を確認できます。長い顔でしたが頬の肉が豊かで、たるんでいるような坊やじみた顔で、たしか鉄ブチの眼鏡をかけていたと思います。
私は今回、長崎へ行き、浦上の原子バクダンのバクハツ中心地から、浦上の天主堂の廃墟へと登りました。天主堂の丘は庄屋の屋敷跡だそうですね。この庄屋は浦上切支丹の召捕や吟味には先に立って手伝い、踏絵をやらせ、流罪を申渡したりしたのもこの丘の上の庄屋の屋敷でやったことだそうですね。
浦上切支丹はその悲しみの丘を買いとって天主堂をたて、彼らの聖地としたのでしたが、それがさらに天地の終りとも見まごうような悲しみの丘に還ろうとは。
爆心地の記念館には、昭和二十四年度訂正として、
死者(検視済ノモノ) 七三、八八四名
行方不明 一、八八七名
重軽傷者 七六、七九六名
とありました。
また、天主堂の廃墟の建札には、浦上の信徒一万余名、死者八千五百名とありましたよ。死者の全数にくらべれば一割強にすぎないが、信徒にしてみれば危く全滅をまぬかれたような惨状ですね。
天主堂の丘から四方を見ますと、小さな家がマンベンなく建ってはいますが、どの家の周囲にも目立つのは樹木のない空地の広さばかりですよ。それは一見して旅人の心を暗く重くさせますね。
しかし、私はその丘の上に立ちつつあるうちに、私の心がだんだん明るくなるのに気がつきました。それはね。十年前には甚しく異境のような感じがした浦上の土が山河が、生き残りの樹木もなく冷めたい土の肌を寒々露出しながら、今度はバカバカしいぐらい親しみのあるなつかしいものに感じられたのですよ。
「もう、誰も、クロと云う人はいないだろう」
クロという言葉を私に教えたり、その意味を云ってきかせたりした男の顔も女の顔も思いだす必要すらもないことだ。
すぎた悲しみというものは問題にする必要がないものだね。ここに一つの新しい温いものが天から降って住みついてるよ。もう誰もクロなんて言葉を云う必要がないし、そんな言葉の存在すら、なくなったなア。悲しみは、すでに、つぐなわれているよ。そして、この丘の上の空は誰の空でもなくて、実に明るい空だなア。
浦上は、もう明るいし、もう暗くならないのだな。
私が浦上の天主堂の丘の上で発見した新しい地図はそれだけでしたよ。
★
長崎の市街は金比羅山のおかげで助かったのですかね。とにかく山の端を外れた長崎駅や大波止の方、県庁などの少数の建物がいくらの幅もない一本の直線型に焼けただけで、長崎市のほぼ全部は昔ながらに、そっくり健在でした。
十年前に長崎へ行ったときは、大浦天主堂の真下のイーグルホテルというところに泊りました。なぜかというと、長崎旅行の手引きをしてくれた長崎出身の人が、長崎で一番特徴があるのはこの旅館かも知れませんよ、と云って紹介状をくれたからだ。
ここは外国のマドロス専門の旅館であった。それも、そう上等ではないマドロス相手らしいね。けれども当時は外国船の長崎入港ということが殆どなくなった時であるから、あるいは営業を休んでいるかも知れんが、この紹介状があれば休業中でも泊めてくれますよ。マドロス宿屋の壁や寝台にしみ残った流浪者たちの無頼ながらも悟りきった謎のような独り言でも嗅ぎだしてらっしゃい。壁際によせてある毀れたイスだのヒキダシの中の誰かが捨てて行ったパイプなどが急に何か話しかけてきかせてくれることが有るかも知れないものですよ、というような話であった。
まさしく休業状態で、七十ぐらいの脚の悪いラテンともユダヤともつかないような小柄な老人が、たった一人下宿しているだけであった。私の案内されたのは、幅が二間半ぐらいに、奥の深さが五間ぐらいもあるような実に殺風景な部屋さ。途方もなく大きなダブルベッドがあって、西洋の中学生の勉強用に適当のような机があった。そして、たしかに、使用にたえないイスが一つ壁際によせてあったね。
部屋へ案内してくれたホテルの娘さんが、陶器の大きな水差しに水をいれて持ってきて、鏡の載っかってる台の上においてあった陶器の大きなカナダライのようなものの中へ、水差しの水をジャーボコボコと半分ぐらいつぎこんで立ち去った。
巴里の屋根裏の映画かなんかに、たしかに何回も見た覚えがありますよ。人を殺した男かなんかが、血だらけのナイフをこの台の上へおいて、水差しの水をジャーボコボコとこの陶器のカナダライ的なものへ半分ぐらいついで、血だらけの手をさしこむ。水がサッと血で黒くなるというような、そんな映画がよくあるでしょうが。ウーム。なるほど、マドロス宿か。長崎的々はこれであるな、と大感服致したものさ。
このホテルは、もう、なくなっていたようでしたね。ここの主人は、たしか伊野(?)さんとか仰有ったかな。親切な人で、郷土の地理歴史につまびらかに、私の調査旅行に有益な教示や助言を与えてくれた。こういう長崎的々な、否、全然日本ばなれのした外地の安宿そのまま的の存在がいつまでもこの町にあるということは、物好きな旅行客には有難いことなんだが、復活しませんかね。
長崎の市街は意外にもエキゾチックなところが少くて、一番異国的なのは、大浦天主堂の裏手の丘の居留地、緑につつまれた古風な洋館地帯だけでしょうかね。オランダ坂というのは、たぶんここへの登り道を云うのだろう。イーグルホテルに泊っていた時は、近いせいもあって、時々そこを散歩しました。
長崎は殆ど火事がなかったところで、したがって、どんな家でも百年以上の歴史があって、小さな長屋の如きものでもそうであるから、内部へはいると何べんも何べんも修繕してツギハギのあとがあって、どの家の柱も板も真ッ黒だね。また、したがって、多くの道路が細い。そして、各々の家の住人たちも大がい何代も前から同じ一族が住みついて変ることが少いそうで、ハイカラの町だと思うと、どう致しまして、まことに市街も家も人間も古風ですよ。
「長崎にはパンパンが居ないんです」
宿屋の女中も料理屋の女中も云い合したようにこう云って自慢するのであった。なるほど、旅行先でこういう自慢をきいたのは長崎がはじめてでしたな。しかし、私は長崎駅へ到着したとき、待合室で数名のパンパンをたしかに見ましたよ、と云うと、
「それは佐世保から来るんです。長崎には居りません」
断々乎たる御自信であった。しかし、このパンパンなる言葉の解釈が長崎的で面白いのですよ。彼女らが断々乎としてその存在を否定しているのは、つまり街娼ということですね。
音に名高い丸山は昔から今に盛大に営業していらせられますよ。思案橋だの、見返りの柳だのと、若干怪しからぬ的々な鉱物植物が原子バクダンにやられもせずに厳としてありますな。公娼というものは今はない筈のタテマエであるから、今の丸山のお蝶さん方は糸川がパンパンならば同じように丸山のパンパンと云うべきであるらしいが、否々々。断々乎として何百万遍も否である。長崎に於ては断乎としてパンパンは居りませんぞ。これが長崎のよいところですな。長崎の丸山は、常に永遠に絶対に長崎の丸山であって、他のいかなるものでもないですぞ。パンパンではないかと。かのお蝶さんをパンパンであると云うたことが誰一人もなかった如くに、丸山の現今のお蝶さん方がパンパンであると云う人は在りうべからざることですぞ。
そういうワケで長崎にはパンパンが絶対に居ないのである。こういうところは実に長崎的々ですよ。黒船時代に於ける開港場長崎の丸山の女性が、今日の世態風俗に照り合して元公爵夫人に似ているか、映画女優に似ているか、女事務員に似ているか、婦人警官に似ているか、女学生に似ているか、と云えば、そのどれよりもパンパンに似ているらしく思われるが、そんな思弁は長崎では通用しないね。丸山は現代の物ではないですわ。よってパンパンではないです。長崎には怪しき新製品の如きものは存在しとらんですぞ。長崎気質というものは実に古風なもので、開港場にふさわしい進歩的なものは殆ど見られないですよ。
そこで長崎の人間は古風で温和で気が弱くて実にお蝶さんのように可憐であるかというと、否、否、否。長崎の彼や彼女をあまく見ると、ひどい目にあうよ。実に長崎の彼や彼女というものは、実に、実に、また実に、おどろくべき大食人種だね。お蝶夫人がシッポクやチャンポンを食うところはオペラには出ないかも知れんが、チャンポン食堂の場というようなのがあってごらん。彼女が長崎の女である限りは、お蝶さんが肺病と脚気と弁膜症を併発して瀕死の病床にあっても、それは実に、驚くべき大食らいにきまっておりますよ。
長崎の街を散歩して、ちょッと手軽にヒルメシを食いたいな、お八ツ代りに何かちょッと腹に詰めておきたいな、というような際に、長崎ならばチャンポン屋というものがあって、そういう時にはこれに限るというようになんとなく市民のお腹が生れながらにそう考えているようだ。
そこで私もチャンポン屋へはいる。陶器製のカナダライに相違ない平鉢の中へ、高句麗の古墳の模型をつくって少女が運んでくる。古墳の上側にかけてある物をしらべると多量のキャベツやキノコや肉などを原料に支那と日本の中間的なウマニに煮たものである。その下には日本のウドンと支那のウドンのアイノコのようなものが全部を占めていて、カナダライに水をナミナミと満した場合にはカナダライの内部が直接空気にふれる空隙というものはなくなるのであるが、日本のウドンと支那のウドンのアイノコの場合に於てはその空隙がないのみでなく更にカナダライの高さと同じぐらいのものが上へ盛りあげられており、更にその上にキャベツ一個分はないけれども一個の半分以下ではないらしいキャベツとキノコと肉などが積みあげられているのである。
キャベツとキノコと肉の山がウマニでなくて、また、日本と支那のアイノコのウドンに日本と支那のアイノコの汁がかけてなくて、つまり、単なるキャベツとキノコと肉とアイノコのウドンだけである場合には、私はこれを牛か豚の食糧と判断して、ハテナ、長崎の食堂の女の子にはオレが牛か豚に見えるとは思われないが、しかし彼の女の神経や視覚はかの八月九日の放射能によって──私はいろいろハンモンしたかも知れないね。
しかしこれはウマニであるしアイノコ的なウドンに相違ないから、どうしても人間のために作られたものに相違ないが、案ずるに長崎チャンポンの法則として一度に一日ぶんのチャンポンを買って三度の食事ごとにここへ通ってきて三度目に食いあげる、なるほど大陸に近いだけのことはあるな、と考える。
しかし、その時、おどろくべきものを見たなア。学校帰りの十四五ぐらいの女学生三人組と、母親らしき女と十一二の男の子の一組が、ちょッとお八ツ代りにチャンポンを食いに来たらしき様子であったが、五六ぺん笑い声をたててお喋りしているうちに、みるみる古墳の山をくずして、三食分のチャンポンを一キレのカステラのようにやすやすと平らげてそこにカラのカナダライがなければまだ完璧に何も食べていないような顔でしたなア。実に私は目を疑ったね。おどろくべき女学生がいる。おそるべきオカミサンとその子供がいる。かかる子供やオカミサンの胃袋に満足を与えるために、その父親や宿六は他の父親や宿六の何層倍の汗水を流さねばならぬか。さらに涙をも流さねばならぬであろうよ。シミジミ怖ろしき者どもであるな。
ところがチャンポン屋に回を重ねて通ううちに、長崎の老若男女というものは実に一人のこらず同じような特別の胃袋の持主で、そこに例外は決してないということが、たちまち明白になりましたね。マダム・バタフライの楚々たる外形にだまされてはいけませんぞ。長崎の胃袋こそは警戒しなければならん。かのお蝶さんはピンカートンに恋いこがれて涙のかわくヒマがなくとも、五六ぺん泣きじゃくるうちに古墳の山をくずして東京の男の三食分をペロリと平らげて、まだ前夜から何も食べていないような悲しい顔でむせび泣いているにきまっているね。
私はこの戦争中に、当時出版されたばかりの「浦上切支丹史」を読んで、呆気にとられたことがあったのである。第四回目の浦上崩れで、浦上切支丹の全員三千余名が諸藩へ分散入牢せしめられて、拷問に責められ棄教をせまられた。ところが相当に気も強く、信仰も堅くて、寒ザラシだの、生爪の中へクギを差しこむような拷問には我慢したツワモノが、食べ物の量が少いというので我慢ができず、意外にも役人の方ではそれを意識してやったことではないのに、自らすすんで棄教を申しでる者が続出するのだね。その我慢のできない少量の食べ物というのが、驚くべし、実に一日当り三合ではないか。その三合の食べ物で棄教させる作戦ではないのだから、チャンと一日三合、けっして量をごまかして減らすようなことはしていなかったのですよ。
特に津和野藩へ預けられた二十八名は選り抜きの信者でテコでも棄教の見込みのない筈の連中だったが、これすらも一日三合に苦もなく降参して拷問にも至らず棄教する者続出ですよ。
私がこの本を読んでいたのは終戦にちかいころの、一日一合七勺、それが十日、三十日という遅配欠配の最中ですよ。実に異様でしたね。どうにもワケが分らんですよ。一日三合、それも白米であるという。それに降参してたくまずして棄教せしめるに至ったという。生ヅメの間へクギを差しこまれたり、雪の降るのにハダカで一夜坐らされても棄教しなかったという勇ましきツワモノたちがなんて哀れにも変テコな降参ぶりをしたものであろうか。まるで、戦争中の日本人は浦上切支丹の最悪の拷問以上の大拷問に平然と堪え忍んでいるようなものではないか。どうも、オレの方が浦上切支丹よりも我慢強いような気がしないが、変テコな話があるものだ。しかし、実にワガハイが一日三合の白米どころか、一合七勺のその十日三十日の遅配欠配にさしたる顔もせず、自分一人アメリカ向けに白旗をふって降参しようなどゝ考えたこともありやしない。すると、オレはそんな偉い人物なのかな。しかし、どうも、一日に白米三合も食べていながら、腹が減って、腹が減って、どうしても神様を売らずにいられん、という妙な切支丹があるもんだとは、不可解であるな。まったく私は当時この奇怪きわまる史実に甚しくハンモンしたものでありましたよ。
しかし、私はこのたび長崎に至り、チャンポン屋へはいって長崎の彼や彼女の例外なき胃袋に接し、十年前に見たそれらの胃袋の怖るべき実績をアリアリと思いだし、
「ユウレカ!
ユウレカ!
ユウレカ!」
浦上も長崎のウチなんだ。あるいは長崎以上の胃袋かも知れないのだ。ワカッタ! オレが一合七勺の遅配欠配に我慢ができても、長崎の胃袋は三合ズツの完全配給に音をあげるのは当り前だ。
実に歴史というものは、むつかしいものだなア。浦上切支丹が一日三合の配給になぜ神を売ったか。それは私が長崎浦上に単に旅行しただけでは分らない。実に長崎でチャンポンを食べてみなければ全然理解しがたい謎中の謎であったのである。
長崎のチャンポン屋へ行ってみないと、浦上切支丹の棄教の秘密が分らんということを、拙者のほかの誰が見破ったか。史実を解く鍵の中にかくの如き奇怪なものがあるとは、これは、どうも困ったな。歴史を解くということは、なみなみならぬムツカシイ事業であるぞ。
しかし超特製品の胃袋が全市民に共通している長崎は、さすがに食べ物が安いね。だいたいに九州全体が安いのだろうか。
私は福岡で汽車を二時間待つ間、水タキを食う気になって、案内所で、駅に近い水タキ屋をきいた。手軽でお値段も高くないという近所の店をきいて出かけると、料理屋じゃなくて、汚い小さな旅館だったね。住吉町の住の江旅館と云った。
ここで五人でも食いきれないような大量な水タキが運ばれ、サシミが現れ、ビールを四本のんで、御飯をくって、この二人分の勘定が二千円で何十円だかオツリが来たのですよ。このオツリが金鍔次兵衛のサイセン箱へ差上げた二十円だったらしいな。東京なら五六千円より安い筈はなさそうだが、実におどろきましたよ。建物や部屋は汚かったが、女中も親切で感じがよかった。ここに旅館名を御披露して責任をもってスイセン致しておきますから、汽車を待ち合す時間が二三時間あったらお試し下さい。自動車で三分、歩いても十分ぐらいでしょう。安直に、そして不味ということもなく、裏切られるということはまずないと思いますよ。
長崎も食べ物は実に安いね。そして、さすがに、日本では最も特徴のある郷土料理をもっていますよ。
そして、結局、本格的な料理で食ったものよりも、私の泊った旅館の料理が一番うまかった。福島旅館というのです。ここで食ったシッポク料理は料理屋のよりもうまかったのです。
あとできいたら、福島旅館なるものは、終戦前まで仰陽亭とか云って、長崎第一級のシッポク料理屋だったそうですよ。うまいわけだ。当時の第一級の板前は居ないにしても、前身がそうであればそう変テコな板前を置く筈はないから当然であろう。宿の定食のあたりまえの料理でもうまい。いわゆる宿屋料理というものではありません。大そう感じのよい静かな旅館でした。
花月という料理屋へ行ったら、こっちの方は十五年前まで女郎屋だったそうですよ。女郎屋といっても特別格の女郎屋で、その建物は築地あたりの第一級の料亭よりも貫禄がありそうだが、この春雨の間で端唄「春雨」が作られたとか、頼山陽の食客の間だとか曰くインネン多々あっても一向に面白くもないものばかりだが、一番面白かったのは、私が酒をのんでいた春雨の間の隣室は支那風の部屋で、ここはオイランのセッカン用の部屋の由、昔は牢屋のような格子がはまっていたものらしく名所旧跡的な曰くインネンよりも、怪談怨霊的曰くインネンの方がはるかに多種多様に部屋々々に伝わっていたものらしいようであった。どうしても楼主の命にしたがわず、身をうらずに、セッカンされて悶死したような娘がここには相当多かったものらしいね。これも長崎的なのかも知れないな。
実際、長崎というところは、開港場であって、それに相応した開放的な気風もたしかにあるにはあるのだが、そのアベコベの鎖国的、閉鎖的な気風が少からずありますな。そして、長崎の女は、他の九州の女のように武士道的に、葉隠れ的に、また切支丹的に身を守らずに、かなり自由な自分の感情だけで身を守っているようなオモムキがありますよ。そして彼女のかなり自由に選択された自分の感情というものが、開港場的に開放的に現れずに、むしろ保守的に、閉鎖的に、不自由にと、自ら選ぶようなオモムキになるようですね。
しかし、とにかく、長崎には、非常に独特な都市の感情がありますね。それはたしかに他の都市の感情よりも悪いものではありません。その感情は実に古風で保守的であるが、因習的にそうなのではなくて、かなり自由奔放な魂や感情が、自分一個の立場で、古風なもの、保守的なものを選んで愛しているような、やっぱり開港場的な、古風で保守的ながらコスモポリタンでもあるという各人めいめいの生き生きとした自由な魂もあるのですね。
「長崎にはパンパンはいません」
という。それを改めて思いだすと、古風で、自由で、可憐な長崎が、かなりよく分るではありませんか。パンパンはいないけれども、およそ旅人に窮屈を感じさせる街ではないのです。そして、甚しく古風であっても、決して恋のない街ではないのですよ。あるいは昔から、この港町にだけは、恋があったのかも知れないな。いつまでも、古風で、かなり明るくて、かなり自由奔放で、なつかしい港であるに相違ないね。概ねかたよったところが少く、そのなつかしさをかなり信用して愛するに足るものがあろう。
しかし、この街の胃袋だけは──しかし、痛快でもあるなア。一日三合の配給に神を売らざるを得なかった胃袋というものは、考えれば考えるほど、決して人の心を暗くさせるものではないなア。
要するに、胃袋の欲する量を欠かしてはならないということは、平和の根本条件なんだね。長崎と浦上の胃袋は、けだし平和の根本条件の化身の如きオモムキがあるのさ。チャンポンのカナダライが一とまわり小さくなる時は、まさに長崎滅亡の時であろう。
底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第一一号」
1951(昭和26)年8月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第一一号」
1951(昭和26)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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