安吾の新日本地理
道頓堀罷り通る
坂口安吾
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檀一雄君の直木賞「石川五右衛門」が連載されてから、「新大阪」という新聞が送られてくるが、本社から直接来るのじゃなくて、東京支社から送られてくる。おまけに伊東の宛先の新番地が大マチガイときているから、あっちこッちで一服してくるらしく、到着順の前後混乱甚しく、連載小説を読むには全く不適当である。
しかし、この新聞はオモロイな。これを大阪のエゲツナサというのであろう。「いきなりグサッ!」という見出しのついた記事をよむと、娘が暗闇を歩いていると怪漢が現れいきなりグサッ! と刺されて重態だという。なるほど「いきなりグサッ!」に相違ない。あるいは、それ以外の何者でもあり得ないほどの真実を喝破しているのかも知れないが、物事は時にあまり真に迫ってはいけないなア。それを日本語で因果物などとも言うよ。大阪のさるお嬢さんが教えてくれた言葉に、エロがかったエゲツナサを特に「エズクロシイ」と云うそうだ。舌がまわらねえや。昨年来「新大阪」を愛読したおかげで、大阪のエゲツナイ話やエズクロシイ話は、大阪へ行かないうちから、相当心得があったのである。
先月、というと、一月のことだが、その月末ごろに、三流どこのあまりハヤラないダンスホールがダンサー各員一そう奮励努力せよ、そこで週間の売上げナンバーワンからテンまでに勲章を授与した。そう云えば、大阪のストリップは始まる前に軍艦マーチをやるよ。我ながらクダラン所は実によく見物して廻ったなア。この勲章がホンモノの勲章で、勲二等から八等ぐらいまで。ナンバーワンが勲二等をもらったそうだね。古物屋に山程売りにでていて、勲二等でも四百円ぐらいだそうだ。一山買ってきて有効適切に用いたのである。貰った女の子は喜んだそうだ。
女の子がズラリと並んで勲章をクビにかけてもらッている写真と記事を「新大阪」で見て二日目の紙面には、ダンスホールの経営者が軽犯罪法で大目玉をくったという記事がでていた。不敏の至りであるが、私はなぜ軽犯罪にひッかかるのだか合点がゆかなかったが、人に教えてもらってワケがわかった。つまりキンシ勲章はなくなったけれども、文官の勲章はまだ日本にあったんだね。なるほど、我々の老大家も文化勲章をもらった方がいるが、そういう新製品はとにかく勲何等というのはなくなったと思っていましたよ。古道具屋に山とつまれてホコリをかぶっているのだから、シルクハットかなんかかぶって宮城へでかけて、この勲章をもらって、女房よろこべ、感激してわが家へ立ち帰るような出来事がもう日本には行われていないと早呑みこみをしていたのは私一人ではなかったろう。
この勲章を拝受して女房よろこべとわが家へ立ちかえる行事が厳存している以上、これをダンスホールの主人がダンサーに授与しては、ちとグアイがわるいな。国家の栄誉の象徴をボートクしたということになるのだそうだが、どうもね、古道具屋にホコリをかぶっているのを起用して有効適切に女の子を奮起せしめたのだから、廃物利用としてはマンザラではないではないか。買って帰って子供に授与する方が教育の本旨にかなうのかな。それとも当人が国家から授与されたツモリで愛玩している方が勲章の本旨にかなっているのかな。古道具屋に売ってるのだもの、すでにオモチャの値打しかないのさ。そうではアリマセンカ。
とにかく大阪はオモロイや。私は大阪でどこかの新聞記者に会うたびに、きいたものだ。勲章授与したダンスホールはどこにあるか、と。すると、彼らはクサッて答える。あれは新大阪の特ダネや、と。各社の社会部記者は部長に怒鳴りつけられたそうだ。こんなオモロイ記事知らんちう新聞記者あるか! アホタレ!
各社のアホタレどもは無念でたまらないのである。部長に怒鳴りつけられて渋々ダンスホールへおもむいたが、後の祭である。彼らは甚しくふてくされて帰って部長に報告する。行ってみたかて何でもあらへん。アテらが知らんかったんやないでエ。新大阪のアホタレがタネに困ってデッチあげたもんらしいわ。他の人が悪かったせいにしてボヤいている。ほんとにデッチあげたのなら、なおオモロイや。商売のためには何でもやろうという大コンタンは、とにかく大阪のものだ。東京の方から遠く望見していただけでは想像のつかん何かが実在しているよ。宝塚山中で共産党の幹部と会見したという記事をデッチあげた朝日の記者にしても、東京にいて考えると記者の心理分析だのそこまで追いつめられた事情などゝ理窟ッぽく推理を働かせる必要にせまられるが、大阪という都会の心臓の中へまきこまれると、あんなこと、なんでもあらへんネ。理窟はあらしまへんワ。大阪モンはみんなあれぐらいのコンタン持っているようであるよ。
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大阪はエゲツなく、エズクロシイが、同時にそれに対して軽率な反動を常備する本能があるのかも知れん。ストリップ・ショウが軍艦マーチではじまるのも、多少はそのへんの作用によるのかも知れんが、自分は放蕩しながら子供に仁義礼智信を説くようなオモムキがあるなア。ここの警察、曾根崎署というのは大きなネオンサインをつけていたね。もっとも節電で消えていたが、ついたら、壮大なもんだろう。
大阪では電車の起点だか終点だかを「ターミナル」と言います。正しい英語の由。もっとも大阪の「ターミナル」は、その起点終点駅周辺のマーケット地帯、新発生の盛り場をさしてターミナルと云うのである。このターミナルは、どこもかしこも汚らしくエズクロシイが、しかし表の電車通りは、これはまた、いかめしいネ。バリケードというものを縦横ムジンにはりめぐらして、人間どもをトコトンまでソクバクし、いささかの自由をも許さぬ取締りが完備しているのである。裏にはトコトンのエズクロシイ人だまりをいだきながら、表通りだけはあくまで規則ズクメによって人間どものヨチヨチ歩きを封じて一列縦隊かなんかで歩かせてやろうというコンタン、大阪の人間は一足外へでると赤ん坊なみ、全然ソノ筋の信用ゼロらしいや。バリケードをきずき、金網をはって人間どもの勝手なフルマイを封じたのは全国の競輪場だけかと思っていたら、大阪ターミナルの表通りが、そうなんだネ。競輪場の取締りは全大阪市の思想であるらしい。しかしこのバリケードはいかにも国家非常時的に物々しいし、美しくないね。人間に対しても失礼ではないかね。相互に良識を信頼し合うという表情は大阪市には見られない。ただ取締りと号令で、街の表情は戦時めき怖るべき市民征服の精神に溢れたっているようだ。
千日前という賑やかな盛り場がある。劇場だのウマイ物屋が並んでいて、浅草と同じようなところである。道幅は五六間。人の賑いでゴッタ返し、乗り物は通行を許されていない。日曜ともなれば、その賑いは、また格別だ。ところが、その日曜に、この遊楽道路に交通整理物々しく、ズラッと警官が中央に立って、右側通行、その厳格なこと、ちょッと左へよるとお巡りさんのケンツクをくう。自動車の通る道なら整理の必要もあるだろう。だいたい右側通行というのは、人間が車の対面を歩くことによって事故を少くすることができるだろうという考えによって編みだされた方法で、すべて交通整理は根が乗物と人間の交錯という困った事情から必然的に発生したものであろう。千日前は、自動車どころか、自転車も通りやしないナ。ここは人間の通行という用のみに便じる道ではなくて、道を歩くこと自体が遊びであり、あッちの店をのぞき、こッちの店へ色目をつかい、ノンビリ行楽するところである。その行楽まで規則でしばりつけ、働き蟻のように、また兵隊のように、整然と歩かせないと気がすまないのである。遊楽の盛り場ぐらいはウロウロと心のおもむくままに歩かせてはどうかね。大阪の人間は勝手に歩かせておくと、東京のメクラのように衝突してケンカして仕様がないのかなア。ちょッとお客様の目に見える表通りだけは兵隊を扱うように人間を規則ズクメにギュウの音も出させないが、裏通りは、また、ひどいや。
私は住之江競輪へも出かけて行った。場内の建造物は全部鉄筋コンクリートに改造せよ。金網をはってバンク内への乱入を防げ。競輪人種は暴動の元兇どもの集りと見て、最も警戒せられ、殆ど人間的には信用せられていないのだが、フシギなるかな、全部鉄筋コンクリの建物に改造しないと再開を許可しない筈の競輪場が、全然木造ばかりだなア。今は取り払われた東京の盛り場の最悪のマーケットよりも汚らしい飲食店が並んでいたり、どっちを見てもバラックばかり、その汚らしいこと。規則通りに出来ているのは金網だけで、要するに競輪人種は信用せられてゴッタ返し、不自由な規則に痛めつけられてグウの音もでない面影はなかったのである。実に競輪人種にくらべて比較できぬほどの不信用をうけ、暴動ケンカの元兇の如くに物々しく規則ずくめに自由をソクバクされているのは、表通りや千日前の紳士淑女であった。
だが、大阪の競輪場は面白い。私の行ったのは日曜日で、数万の人間がギッシリ、レースを見ることができないほどの混雑、満員の盛況であったが、レースが終って車券を買いに行くのは、その五分の一にも足らないぐらいの人数である。それでも一レースに五万枚ぐらいの車券が売れるのだから、総体の人数は驚くべきものだ。つまり賭けの目的以外の行楽精神の発露による遊山客が多いらしい。東京方面の競輪場にもこういう遊山客はいるけれども、その人数に於て段がちがう。大阪人は行楽精神に溢れているのだ。その点に於ては甚しい健全人種というべきであろう。
私はひところ競輪に凝って、各地の資料や雑誌や、選手名鑑などを取り寄せて熟読ガンミしたことがある。東京の競輪雑誌は誤植がひどい。一頁に誤字がいくつあるか見当がつかないくらい多い。一秒の十分の一という微細な数字が資料の基本となるのだから、誤植だらけの競輪雑誌などは意味をなさないのである。東京発行の選手名鑑の選手の実力鑑定はいい加減で、関西や九州四国など東京人の知らない土地の選手については特にいい加減であるが、東京附近の選手でも、手近かな資料だけで大ザッパに間に合せたやッつけ仕事、手をつくした努力の跡はミジンもない。各人の上りタイムの比較などもある者は二百であるのに、ある者は二百五十のタイムであるというように、全然比較になり得ないものを並べてすましているというズボラなやり方、万事形だけですましている。
関西の雑誌や名鑑はこうではない。私の見たのは競輪ダービーという雑誌であるが、誤植などは殆ど見ることができないし、各人の実力の比較なども一応人が納得できるだけの資料と方法をつくしている。全国に支部があって、各地の競輪の着順やタイムのみではなく、レースの実際を各支部から報告させて表面の記録だけでは分らないことを載せている。そして月々の全国のレースの結果は殆ど全部あつめてある。これ以上のぞめない程度の実質の粋をほぼつくしている。レースは水ものだから、こうしても正確は期しがたいが、予想の資料としてはほゞ手のつくしうるところまでの努力をつくした感が多分である。
ここが大阪のよいところだ。実質的で、お体裁のところがない。ターミナルのバリケードや千日前の交通整理はお体裁というべきか軍隊調というべきか形式のみ甚だしいが、さすがに金モウケの一念こった競輪ともなれば、大阪人の実質精神は猛然として厳正をきわめるらしい。損をしても諦めやすい東京人とちがって、大阪人は競輪雑誌や名鑑を基に車券を買って損をした場合にはカンカンに立腹してネジこみもするかも知れんし、第一、二度と同じ雑誌を買わないだろう。大阪人は案外物分りがいいから、賭け事の予想に絶対正確をもとめるようなヤボなところはないようだが、一応手をつくした努力の跡が見えて一応は理に合った実質がそなわらないと商品として通用できないようなところがあるようだ。
この実質精神や合理精神は大阪の長所であろう。誤植だらけの競輪雑誌が通用するような庶民精神の存在は賀すべきことではない。
浅草の「染太郎」では、よく「ホルモン焼き」というものを食わせる。臓モツのツケ焼きである。私は牛のキンタマを食わされたこともあった。「染太郎」とは死んだ漫才屋さんの芸名。そのオカミサンのやってるオコノミ焼き屋で、浅草の芸人たち愛用の安直な店。
「今日の食べ物はホルモン焼ッきや」
オカミがこう云うと、
「ありがたい。シメタ」
一膝のりだして相好くずす芸人連。特に私の目にアリアリ残るのは淀橋太郎である。この男の飲みッぷり食いッぷりは人に食慾を感じさせる。ジュウ〳〵煙のあがる臓モツに大口をあいて噛みつく。ムシャぶりつく、挑みかかる、というような食い方をする。そして、ウマイ! というような嘆声を発する。しかし、こういう食い方は淀橋太郎一人のものではなく、概してホルモン焼きに噛みかかる人たちが共通に示す食いッぷりのようでもある。焼きたてのアツイうちに、というような必然的な要求に応じているのかも知れん。
私はどうもホルモン焼きは苦手である。時には、うまいナ、と思う時もあるけれども、ムシャぶりかかるような食い方をすることができないのは、やっぱり本当に好きではないせいだ。つまり、物の味が分らん人間なのである。支那やフランスなどの料理の発達した国では、肉よりもモツの方が値が高いそうだ。牛の脳ミソやシッポなどは特に珍重される由。以前は脳ミソやシッポは牛肉屋がタダでくれたそうだが、高級フランス料理店が買い占めるようになって手にはいらなくなったと林達夫先生がこぼしていたものだ。
そんなに珍味なのか、よし、やろう、というので、これをお好み焼きにしたことがある。臭い物だよ。特別な調味料で、特別な料理法があるのであろう。しかし、よろこんで食った豪傑もいた。私はもう匂いだけで吐きそうになった。
ホルモン焼きというのは染太郎のオカミサンが勝手にこしらえた言葉だと思っていた。彼女も漫才屋の内儀であり、こういうエゲツない私製の言葉を発案愛用するような性癖があるからである。
ところが、大阪は新世界のジャンジャン横丁を歩いたら、おどろいたね。ここはホルモン焼きの天国だよ。人々はホルモン焼きを餓鬼の如くにむさぼり食っているが、決して地獄ではない。数丁にわたるジャンジャン横丁全体がホルモン焼きの煙と匂いにつつまれ、どの店も立錐の余地もなく労働者がホルモン焼きの皿をかかえてムシャぶりついている。どの店の看板にもモツ焼きなどと本来の名はなく、ただハッキリとホルモン焼き。しかもどの労働者もヒジをはり顔を皿にくッつけて無念無想にムシャぶりついているのだ。みんな淀橋太郎である。煙りも匂いもムシャぶりつく人々の身構えも、すべて食慾を感じさせること夥しい。
挑みかかり、ムシャぶりかかるような食い方は、いくら空腹の時でも、サシミだのスノモノなどを相手に人間はしないものである。ホルモン焼きのもつ必然的なものが確かにあるのだ。云うまでもなく、第一に美味なのである。私はモツを好まないが、支那やフランスでモツが肉以上に高価なことでもその美味が知られるが、一般に私の知人の食通連もモツに対しては特に愛着をもつようだ。次にその美味に附随して、一定のアツさの程度が大切なのであろう。その味覚のスバラシさは寸分の油断なく身構えて挑みかかり逃してならぬ底の緊密なものであるらしいや。そこでホルモン焼きを食う人はみんなムシャぶりついてしまうらしいね。浅草の染太郎と大阪のジャンジャン横丁を周遊してごらんなさい。一方は畳の上だし、一方はイス・テーブルだが、食ってる人間の食いッぷりと身構えは全く同じことだ。
このホルモン焼きで飯を食って、ジャンジャン横丁の労働者は二十五円で一度の食事ができるのである。労働者の天国だ。浅草が安いたって、とても、こうはいかない。ジャンジャン横丁には碁将棋会所が四五軒あって、どこも押すな押すなの大混雑である。碁将棋会所が軒なみに溢れたっているような風景も東京には完全にない。いずれも労働者たちであるが、金十円という席料の安いせいだろう。めいめいがその好みと分に応じて生活をたのしんでいることが、ここぐらいハッキリ示されているところはない。パチンコ屋もあるし、ストリップもあるし、そして一番混雑していないのは、むしろストリップであったようだ。ここのストリップは腰部をブンマワシのようにふりまわすことのみに専念し、房事を聯想させる目的のためでしかないような卑ワイなものであったが、場内は閑散として、労働者よりもむしろ洋服族が主としてお忍びの態でつめていた。ジャンジャン横丁の正統派はそのような実質をともなわないワイセツを好まないのだろう。ここの正統派にとっては全てが実質だ。そして小屋がけのストリップへお忍びの洋服族のところへはポンビキのオバサン連が忍びよる。
阿倍野。これもターミナルである。国際マーケットから飛田遊廓、山王町を通りぬけてジャンジャン横丁まで、まさに驚くべき一劃である。飛田遊廓なるものの広さが、銀座四丁目から八丁目まで東西の裏通りもいれてスッポリはいりそうな大々的な区域であるが、これがスッポリ刑務所の塀、高さ二十尺余のコンクリートの塀にかこまれているのである。世道人心に害があるというので大阪の警察が目隠ししたのだろうと考えたら(そう思うのは当然さ。駅前や盛り場にバリケードをきずいて人間どもを完璧に整理しようというのだから)ところが、そうではなくて、往年の楼主が娼妓の逃亡をふせぐために作ったものだそうだ。そこへ関東大震災があって吉原の娼妓が逃げそこなって集団的に焼死したので、大阪に大火があったら女郎がみんな死ぬやないか、人道問題やで、ほんまに。大阪市会の大問題となって、コンクリートの塀に門をあけろ、ということになった。その時までは門が一ヶ所しかなかったそうだね。刑務所にも裏門があるそうだが、ここはそれもなかったのだそうだ。それ以来四ヶ所に門をつくって今に至ったのだそうだ。
私はしかしこの塀を一目見た時から考えていた。このバカバカしい塀をめぐらすコンタンを起すのはここの楼主だけだろうか。その目的は違うにしても、大阪の警察精神が、こういう塀をブッたててスッポリ遊廓をつつむようなコンタンを最も内蔵しているんじゃないかナ、ということが頭に浮かんで仕方がなかった。大阪へ一足降りて以来、人民取締り精神というものがヒシヒシ身にせまって、どうにも、やりきれなかったのである。ここの警察は人民の友ではなくて、ハッキリと支配者なのだ。
飛田遊廓を中心にしてこの地帯はほぼ焼け残っているのだが、昔はたぶん安サラリーマンの住宅地帯であったろう。その家並は主として四五軒ずつ長屋になっている。その小さなサラリーマン住宅の殆どが旅館のカンバンを出しているのでなければ、産院であり、カンバンの出ていないのは、女給の下宿で、つまりモグリのパンパン宿であるという。辻々から軒並にたむろしているポンビキのオバサン連はそのへんへ連れこむもののようである。国際マーケット、飛田遊廓、山王町、ジャンジャン横丁、その全部の周辺、サテモ、集りも集ったり、誰に隠すこともなく、これ見よがしの淫売風景大陳列場。上野の杜とちがって、飲食店であり旅館であるから、逃げ隠れのコソコソという風情はない。飲食店の裏は全部旅館、時々産院で、その直結する用途は一目リョウゼンであり、ひしめく人間は彼女自身でなければポンビキであって、露骨そのものでもあるが、簡にして要を得ているな。そして又、人間がゴッタ返しているよ。
私はこの裏側の旅館へ一泊半したのである。さすがに裏側のうちでも最もしかるべき旅館であった。夜半をすぎるまで大いに飲み、翌朝また盛大な御馳走を卓上にひろげて大飲食し、この豪遊の大勘定がたった三千四百円でしたよ。つまりこの旅館では料理をつくらずジャンジャン横丁かそれに類する所から料理をとりよせるのである。自分のウチで料理をつくれば高くつくにきまっているから、そういうムダはしないのである。したがって出前の料理は一品十円か二十円、最大の豪華な皿や鍋でも三十円ぐらいのものだろう。安いッたッて、料理の品目はなんでも出来らア。タイのチリ鍋でもアンコウ鍋でも鳥ナベビフテキ何でもあらア。ちゃんとそれぞれ見分けがつくのだなア。食べる物には限度があっても、酒とビールはキリのはッきりしない物だからずいぶん飲んだはずだが、三千四百円には恐れ入った。チャンと入湯もできるし、二ノ間もついているのですね。実に裏町の大豪遊でありました。
戦後の日本では、たとえば銀座の一流店と場末の裏店と飲食の値段が殆ど変らないというのが一ツの特殊現象であった。六年たって表通りと裏通りの値段のヒラキは次第に大きくなりはしたが、大阪のジャンジャン横丁界隈の如きものは天下の特例であろう。もっとも、病気を貰えば、けっこう高くつくか。しかし、いかな私もここのパンパンやオカマと遊ぶ勇気はなかった。
大阪の新開拓者、檀一雄先生、すすんで案内役を志し、いそがしい仕事をほッたらかして、東海道を駈けつける。彼はジャンジャン横丁で私のドギモをぬくコンタンであったらしいが、私の方は彼の到着以前に、ジャンジャン横丁どころか、その界隈の裏通りの旅館に一泊していたのである。この裏町の旅館街は檀先生もさすがに足跡いまだ到らざる魔境で、巷談師の怖れを知らぬ脚力には茫然たる御様子であった。
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一泊半の暗黒街を除いて、私たちは京家という旅館に泊っていた。雀右衛門夫人の経営するところで、大阪では一流中の一流旅館だそうである。
私は大阪は全然知らないし、文藝春秋新社にも大阪通は一人もいない。案内役の徳田潤君は、東京の大通であるが、大阪は殆ど知らないのである。仕方がないから、読売新聞の大阪支社に万事たのんだところ、予約してくれた旅館が京家であった。大臣の泊るところで、現在の大阪ではツレコミ宿でない唯一の旅館だろうという物々しい話。巷談師には上等すぎたが、幽玄のオモムキ、面白くもあった。
私が上京のたびに泊る小石川の「モミヂ」は今の東京では第一線の旅館なのだろう。毎晩玄関前へ集ってひしめいている高級自動車の数だけでも大変なものだ。もう一ツ「時雨亭」というのへ行ったこともある。これがまた「モミヂ」に輪をかけた大邸宅で、いずれも富豪の邸宅を戦後に旅館にしたものである。
こと旅館に関する限り、東京と大阪はアベコベのようだ。江戸ッ子は保守的で渋好みであるが、そういう土地で幅をきかせそうな京家が、進歩的で、新しいもの、豪壮なものの好きな大阪で格式をもっているのは意外であった。もっとも旅館にツナガリをもつのは土地の人ではなくて旅行者だが、自他ともに許すには結局土地の性格が物を云うはずであろう。するとこういう保守的な一面も大阪にはあるのだろう。
およそ京家には戦後の変化が見られないし、戦前のモダニズムにも関係がない。水道が出たり電燈がついたりするのがフシギなぐらいで、便所は水洗式ではなく、例の関西風にフタをのッけておくという式のものだ。庭なども二十坪ぐらいの採光用の空地といった方がよいようなものがあるだけだ。
しかし、たった一ツ、時代を超越して飛びきり理にかなっているのは、ジャンジャン横丁界隈の旅館と同様に、京家でも朝食以外は出前のみで、料理人をおかないことだ。旅館としては、この方が本当だろう。旅行者は土地の名物が食べたいのだし、他に然るべき料亭のない温泉などとちがって、土地名題のウマイ物店がタクサンある大阪だもの、食べ物は客の好みにまかせ、専門の料理店にまかせるのが至当。さすがに大阪生ッ粋の旅館だけのことはあって、期せずしてホテルの要領を体現している。
しかし、モダニズムに縁のない昔風の大阪人というものは、これはまた歯切れのよいところがなくて面白い。つまり浄ルリの中のトツオイツ煩悶して一向にラチのあかない女、ただ運命に従うか、死ぬほかに方法を知らないような、一向に積極的な生き方をもたないのが今もなお昔ながらに存在しているのである。そういう女は案外多いのだ。
檀君の根城のOKという名前だけはパリッとした店がそのデンなのである。彼が到着した夜は、私は大阪へ持ちこした仕事のために徹夜しなければならず、外出できないし、酒ものめない。徳田君が代って檀君の待つOKへレンラクに行ったが、狐につままれたように茫然たる面持で戻ってきて、
「大変なところですよ」
「ジャンジャン横丁的ですか」
「とんでもない。近所はアカアカと電燈がついているのに、そこだけは真ッ暗ですよ。どうも変だナと思いきってはいってみたら、ローソクでやってますよ。電燈とめられちゃッたんだそうです。梅田通りの一流の土地なんですがね。まるで山寨ですね」
そこは某新聞記者の溜り場の一ツらしい。記者連がゴロゴロ酔いただれているところへ、檀君は食堂車でのみつづけて大虎となって現れ、一団に合流していずれへか車で去ったという。
翌日の夜、檀君に案内されてOKへ立寄ったが、おどろいたな。OKなどとはもッての外で、シャレた名にふさわしいところは一ツのない。バンカラ大学校の校内のバラック食堂だと思えばマチガイない。一流の商店街にこういう店が電燈をとめられ尚かつ営業しているリリしさは大そうだが、リリしいのは飲んだくれのお客の方で、女主人はただ実にもう好人物で、オドオドと、一向にリリしいところがないな。彼女は運命に従順であるから、お客を恨むようなところはなく、サイソクしたって無いものは無いからサイソクしてもムダだという心得やアキラメもシッカリしている。けれども電燈がつかないと困ることは確かであるから、
「ローソクは高うついてかなわんわ。早う電燈つくようにしておくれやす」
と、ボソボソ呟く。すると飲んだくれどもは返事の代りにゲタゲタと笑いたてるのである。しかも彼女はその運命を愛しているな。天も人も恨んでおらんよ。これも亦最も古風で正統的な大阪人の一ツなのかも知れない。
京家にも同様にリリしいところが一ツもないのである。ここの女中(たぶん女中であろう)は美しい娘であった。これが多少現代風にハキハキはしているが、実に古風でリリしいところがないのである。
中食はお二人前でございますか、と訊きにくる。そこで、あるいは新聞社からお客があるかも知れないから、しかし、その理由まで彼女に語ってきかせる必要はない。とにかく、三人前にして下さい、と私が云うと、これに対する彼女の答え。これを東京の言葉に飜訳するとこうなる。
「そうですわねえ。ほんとに、そうなさいますのが何よりでございますわ」
自分もあなたの意見に同感だという意味の言葉を情のこもった大阪弁で実にシミジミと答えるのである。なんのために三人前の中食が必要であるか、その理由は彼女は知らないのであるが、いかにもその理由を知悉した上で、ことごとく同感だという情のこもったなれなれしい賛成の仕方で返答する。
東京にはこんな時にこんな返事の仕方はない。ハイ、かしこまりました、とか、ハイ、三人前でございますね、と云うだけであろう。東京式の理にかった言い方で、理由も知らずに、
「そうですわね、三人前になさるのがとても正しいと私は思うわ」
とでも答えたら、これは奇ッ怪千万なものだ。大阪の言い廻しやアクセントではそれが奇ッ怪でないばかりか、シミジミと耳に快い。大阪人という性格を育て上げる重大な環境の一ツはこのような言い廻し、言葉だろうと私は思った。
反対に、エゲツなくザックバランにポンポン云う言葉が発達している。江戸ッ子はタンカをきるのが好きであるが、ポンポン云いまくる言い方は大阪がはるかに進んでいるし、表現が適確でもある。人を罵倒する無数の汚らしい言葉が発達している上に、実にエゲツなくグサリと人の弱点を突き刺す言い方が自在に口から出る仕組みになっているらしい。
東京の罵言が紋切型であるのに比べて、大阪のは、その物、その場に即して、写実的であり、臨機応変即物的に豊富多彩な言い廻しが自ら湧いてつきないという趣きがある。おまけにその口の早いこと。こればかりは生れついての大阪人でないと、よくききとることもできないし、紙上に再現することもできない。私はジャンジャン横丁やストリップ劇場などでパンパンと労働者の罵倒の仕合いや弥次の名言などを耳にし、なんとまア細いところまで適切に言いまわしていやがると大感服をすることはあっても、あんまり早口で内容が豊富で変化にとんでいるから、とても覚えられなかったのである。
私は道劇(正しくは道頓堀劇場と云うらしいが、劇場自体が幕にもプログラムにも手ッ取り早く道劇としか書いておらないね)というところへ行って驚いた。ここは大阪役者の人情劇とストリップと漫才をやる小屋で、最も大阪的な小屋の一ツなのであろう。
私たちの前に陣どっている三人づれの労働者は手にサントリーの大ビンをにぎり、グラスをのみまわしながら見物している。彼らはストリップ目当てにきているので、早くストリップをやれ、着物をぬげという意味のことを頻りに喚いているが、舞台では全く軽演劇の軽の字にふさわしくない人情悲劇を熱演中であるから、ストリップファンがイライラするのはムリもない。外題は「裁かれたる淫獣」という怖るべきものだが、内容はふざけた外題とは大ちがいのクスグリの一ツない大悲劇。浅草の即製品の軽演劇役者とちがって、曾我廼家式に年期を入れているらしく特に端役が揃って芸達者であるが、それだけにストリップとウマの合った軽快なところがない。今しも舞台は、主役の芸者が離れに酔いつぶれ、同席していた恋人に用ができて別室へ立ち去ったところ。芸者はコタツに足をいれて寝てしまう。と、芸者にふられて恨みをむすび復讐をちかっている盛り場のアンチャンが怪しき様子で舞台の一方からぬき足さし足現れてくる。
「来た、来た、来たア! 来てまッせえ!」
サントリーを握りしめた酔っ払いの見物人が叫んで、芸者に急をつげる。役者は先刻承知でしょうよ。しかし、こういうときの敬語が面白いな。その辺で着物をぬいでみせないか、という時でも、脱いでくれませんか、たのむ、という意味を言い廻しのややこしい敬語で云うから、エゲツナイことは確かだが、東京の言葉の世界では現すことも感じとることも出来ないナンセンスを現す。その敬語の言い廻しは実に相手の人格を最大限に認めて同時に自分は最大限にへり下った言い方であるから、エゲツないことをポンポン言っても、その角がたたない。大阪人がエゲツないことを言い易いのも、このせいかも知れない。東京の言葉は理づめで、断定的であるから、エゲツないことを云うと的確にエゲツナサだけに終るけれども、大阪の言い廻しは断定的でなく、逃げ路や抜け路や空気孔のようなものが必ずあって、全体として、とりとめなく、感性的なのだ。
しかし、この芝居には驚いたね。この忍んできた男が、突如として、ねている芸者を刺し殺すわけでもなく、抱きつくわけでもなく、まずコタツのフトンをまくり、ねている女の裾を一枚一枚まくりはじめたのだね。もう一寸まくると全部が露出するところまでユックリとティネイにまくるのだから驚きました。エロ劇や喜劇の最中ではなく、一つのクスグリもないマジメ一方の大悲劇の最中のことだもの、アレヨと驚くのは私一人ではなかろう。さすが饒舌の酔っ払いも、この時ばかりは叫ぶことを忘れていましたね。
ストリップがはじまるときに停電した。節電のための計画停電という奴だ。時は真昼であったから、二階の窓を二ヶ所だけあける。舞台の後方にだけローソクをつける。馴れているのだね。さて、二名の座員はかねて用意のものらしき映画撮影用の反射板を持って南向きの二階の窓辺に立ち、太陽の光線を頭上の板にうけとめて舞台の踊り子に反射させるのである。見物人によく見えるようにというためではなくて、そうする方が踊り子に便利のためだろう。なぜなら、客席が見えたら踊りづらいに相違ないから。また肌にも光沢がつき白く照り映えてよかろうというものだ。
このへんは停電にそなえての苦心の程なかなかによろしかったが、さて、ストリップというものは、ライトがあって、それがパッと消えて真ッ暗になる瞬間がないと、まことに困ったものなんだね。いまや着物が腰の下へパッと落ちるという時にパッと暗くなる。畜生め! 大事なところでライトが消えやがったとぼやくのは素人考えで、それが暗くならないと、まことにどうも、なんとも味の悪いことになるのだね。踊り子はお尻を半分露出したところで必死に着物をおさえている。そんなカッコウで颯爽と歩くことは練習していないから、暗ければ着物を手にとって大威張りで大股に歩いてひッこむだろうが、仕方がないから、前と後を両手で押えて、ずり落ちそうな着物をひきずりながら、ヘッピリ腰でモゾモゾと大きな虫のようにズリ足で幕の陰へとお急ぎになる。イヤ、どうも、きまるべきところで、きまらないと、物事は困るものなんだ。ストリップという奴は、消えるべき時に消えないと、百年の恋がさめるのさ。ここのストリッパーがさのみ芸術性ゆたかなものでなかったから良いようなものの、ヒロセ元美というようなとにかく芸で見せようという心意気なのが、お尻と前を押え着物をひきずりながらモゾモゾモゾとひッこむのを見てごらん。それは切ないでしょう。闇の中にあるべきものを照すべからず。それはワイセツのためではなくて、滑稽であり気の毒であるからです。白昼の光の下では、ワイセツを救うものは芸術なのさ。ストリップとても原理は同じですよ。
計画停電は全国的なものであるから、ストリップ劇場のあるところ、全国すべて同じことが行われているに相違ない。しかしあの瞬間に半分お尻をだして必死に前と後を押えているのは大阪だけかも知れん。停電を見こしてこういう型、つまり危くズリ落ちそうなところで着物をおさえてくいとめる型を発明したとするなら、臨機の商才しかも必ずしもワイセツではなく、このへんは大阪商人の鬼才たるところであるかも知れん。
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こんどの大阪旅行は苦しかった。二月はじめに身体を悪くして仕事に支障をきたし、出発までに終るはずの小説新潮と別冊文藝春秋の二ツが残ってしまった。十二日の晩は徹夜だ。十三日の朝九時にとにかくオール読物だけを書き終り、小説新潮と別冊にはおことわりの電報をうって、上京、午後五時半から芥川賞の銓衡委員会。該当者なしときまって大そう早く会を終ったのはよろしいが、小説新潮の小林君が会場へ現れて、半分だけでよろしいから旅先で書いてくれ、同じ汽車でついて行きます、クビになりますから、というので、人をクビにするわけにはいかないから、仕方がない。別冊は別冊で、随筆的なものでよろしいから旅先でたのむ、という。随筆的なものでもよろしいなら、まア、この方はなんとかなりそうだが、小説新潮は連載の捕物帳だ。私はこの捕物帳で短篇探偵小説の新しい型をつくってみたいと思っていた。推理小説では短篇はムリである。西洋でも短篇推理小説で面白い読物はまずない。私は捕物帳に推理の要素と小説の要素を同時にとり入れて新しい型をつくってみたいと考えた。はじめは暗中模索であったがどうやら五回目ぐらいから、新しい型を自得するところがあった。したがって大いにハリキッている際であるから、やッつけ仕事はしたくないし、また、探偵小説というものはメンミツな構成がいるものだ。いっぺんちゃんと殺人事件をつくりあげて、それをひッくり返して書いて行くもの、したがって書くという仕事よりも構成する仕事の方に苦労を要する。構成ができれば一部分書くのも全部書くのも、大して相違はないのである。だから旅先では甚だ心もとなくて弱ったが、小林君は蒼白になってクビになりそうだと沈んでいるから、ここはこッちも旅先でムリをしても書いてやるより仕方がない。とはいえ日本地理の見学をそのためにオロソカにしては巷談師たるもの職人の本分にもとるから、これを天の定めと見て、睡眠時間を極度にきりつめることによって三ツながら全うしてみせるという覚悟をかためざるを得なかった。
当夜はモミヂへ宿泊。三人の女中たちとバカ話をして酒をのみ、アンマをたのんで、もんでもらっているうちに十時前にねてしまった。翌朝六時まで昏睡状態。前の晩が徹夜だからだ。
朝九時ツバメにのる。同行する筈の檀君は仕事がおくれて不参。私の座席は展望車であるから考えごとには不向きであったが、檀君の席があいていたので、助かった。考えだすと気ちがいじみてしまう。様子を見にきた小林君は驚いて逃げて行った。
大阪へつくと大雪。実は東京がさらに大雪だった由であるが、そういうこととは知らないから雪を呪いつつ未知の大阪をうろついて、ようやく自動車をひろって、読売支社へ。それから京家へ落ちついたが、結局大阪でたった一軒静かな旅館だというここへ泊ったことは幸運であった。しかし京家には甚しく迷惑をかけた。
なんしろ私は仕事にとりかかってしまうと気違いじみてしまうのです。奥湯河原の「かまた」という旅館でも、まだ仕事が終らぬうちに仕事が終ったとききちがえたオヤジが仕事完成の挨拶にノコノコやってきて、私の雷のような罵倒をうけて飛上ッて逃げたことがあった。人間はハッと思うと飛上って振りむいて一目散に走るらしいや。飛び上ること、ふりむくこと、走ること、この三ツが同時に行われているものだね。私の女房も、旅館の女中も、私が仕事をはじめると薄氷をふむ思いになるらしく、みんな部屋へはいるとき、ひきつッた顔でオドオドしているのである。なれてる女房や女中でも、私の様子がガラリと変るから、それにつれて自然そうなるのだもの、何も知らない京家の女中が蒼くなったのは当然であろう。仕事の性質にもよるが、捕物帳という奴はつまらぬ仕事のくせに、ぬきさしならぬ構成に要するメンミツな思考力注意力が常にはたらいていなければならぬから、殺気立つようになりやすいや。ハタは迷惑だが仕方がない。
私は自分のそういう時の顔を見たわけではないから知らないが、人があんなにオドオドするところを見ると、どんな悪相なのだろう。京家へつくと、一パイのんで九時にねむり、三時間ねて、十二時に起きた。大雪の寒い日だから、コタツをだせ、コタツの上にのせる板はないか、ガミガミやられて、京家はちぢみあがったらしいな。
京家の人たちは旅館業という客商売らしい世馴れたところがないのである。諦め深い人たちの侘び住居というようなところだ。浄ルリの合邦の婆さんみたいなのが同じような弱気の女中を二三使って、てんで能率的でない旅館業を営んでいるような感じだ。彼女らは私の怖るべき形相にすッかり困惑して、思いみだれたアゲク、だいたいここは予約の客しかとらないところだが、予約の客を全部ことわって、私と徳田君以外の客を全部しめだしてしまった。時まさに土曜日曜だというのに、まことに、どうも、こッちの意志に関係はないが、悪いことをさせたものさ。ああいう人相のわるい奴にとんでもないことでも書かれたら大変だという心配があったにしても、客をみんな締めだすというのは、尋常なことではない。人のキゲンをとるに、どこの旅館がこんな妙な方法を用いるだろうか。およそ古代人の疫病神に対するような、また、娘を大蛇の人身御供にあげるような思いきった悲しいアキラメがあるではないか。しかし、心を鬼にして、それに甘えたおかげで、小説新潮も、文春別冊も、書きあげることができたし、大阪見物にも支障がなかった。この忙しい最中にも住之江競輪へのしてたった二レースだが、やってるのだから。四百円もうけて四百円損したからタダだ。大阪滞在を通じていくらも眠らなかったが、京家の一大犠牲的奉仕によって、こッちの身命を完うしたようなものである。世話物だったら、人の悲しさも知らないで、鬼じゃ畜生じゃという悪漢が、私のことであろう。
しかし、どうもね。諦めきった侘び住居というようなのが、大阪第一級の旅館として現存しているというのは、実際どうもここに泊っている限りは、山中深く居るようなもので、生気盗れる大阪の街を思いだすこともできないような時間の逆転、異様だなア。全く、どうも、現代というものがない。大阪にお伽話が実在しているようなものだ。焼けなければ、これに類する古風なものは、古い商店街などにまだかなり残っていたのかも知れない。ローソクで営業していたOKはその現代風に変形した同じ心象風景であったろう。
私は声楽家の山本篤子さんに依頼して、大阪の戦後派の(悪い意味ではなく、むしろアベコベの意味の)ソウソウたる代表的なお嬢さん方を数名あつめてもらった。このへんは巷談師の心眼というものだ。見込みたがわず彼女は甚大の苦心を払って、至れり尽せりの人選をしてくれたのである。彼女がいかに苦心を払ったかということは、集まった娘さんたちの職業を見ると分るのである。
花柳有洸 お名前で一目リョウゼン。関西新舞踊の明星である。
村田珣子 デザイナー。昨年度全国コンクールで総理大臣賞受賞。まだ二十一、二だろうね。日本的な人材であろう。
佐々木雅子 このお嬢さんはしとやかで、かつ飲ン平の代表という人選であったらしい。そういうこととは知らないから、女はお酒をのんではいけません、酔うと泣きだして見苦しいものだ、と私と檀君徳田君だけ飲んでいたので、後で分った時は手おくれ、人選の任を果さぬことになってしまった。若年にして男子以上の飲ン平というお嬢さんは、私も東京に二人知っている。文藝春秋に一人。新潮に一人酒量のほどは分らなかったが、しとやかの点では東京軍惨敗。
森脇寿美子 これは文学愛好者の代表らしい。もっとも、そう文学に凝ってるわけじゃなく、ヴァイキングという同人雑誌の院外団格のようなおとなしいお嬢さんである。戦争中鹿児島へ疎開して、女学校三年生の三月ばかり前田純敬先生の授業をうけた由。それが彼女を文学に親しませる機縁になったという程度の至って文学少女的でない文学ファン。
山本節子 篤子さんの妹でミス大阪である。ミス大阪という取澄ましたところが全然なくて甚しく平凡なのが面白い。母校の帝塚山学院の幼稚園だか小学校だかで保健婦? ちがったかも知れん。とにかく、子供がころぶと赤チンを持って慌てて駈けつけたりする役目で、毎日学園内を右往左往御多忙の由である。甚だしくミス大阪らしからぬ仕事に従事している善良なお嬢さんである。
船越うつ美 行動美術に属する画家。
山本篤子 上野音楽学校卒業。松阪屋文化教室の先生。
このお二人は姐御株で、お嬢さん連に相当ニラミのきく存在らしい。
大阪はコセコセしているというが、どうだろう。非常に積極的な実利主義と同時に、長い物にはまかれろという諦めが表裏一体をなして、行動的であると同時にメソメソしたところがあり、爆笑と泣き顔がいつも一しょにチラついているような物悲しさがあるよ。男がそうなんだ。郷土的な、宿命的なものの責任を一人で負って狂おしいまでにあやつられているようなところがあるよ。私のお目にかかったお嬢さん方の多くは、大阪は好き、しかし大阪の男はキライや、という。なぜだろうねえ、大阪の男は立派ですよ。
大阪にミジメなものがあるとすれば、東京に対する対立感が強すぎることだ。人生は己れの最善をつくせば足るものであるが、東京はこうだ、東京に負けまい、と考えることは二流人の自覚でしかない。東京の人間は大阪に負けないなどゝ考える必要は毛頭ないのである。もっとも、アメリカはこうだ、フランスはこうだ、という二流人はいます。
京都の学者がそうである。東京を意識しすぎ、対立感をもちすぎる。学問や芸術に国境はないのであるが、郷土的な対立感をもつと彼の仕事は二流のものになってしまう。対立感は同時に劣等感ということだ。そこで彼らが優越を示そうと志すと、東京を否定せずに日本を否定します。東京に対する京都の優越はないからだ。何よりも自分の優越がないのだ。国境を超えて自立している仕事もないし優越もない。したがって優越を示すには日本を否定する以外にないし、なんによって否定するかというと、自分の優越がないから、外国の優越によって日本を否定します。桑原武夫先生はじめ京都のお歴々は主としてそうだ。
同じようなことは批評家にも当てはまる。彼らは自分自身が文学の生産者でないという劣等感によって、その優越を示すには、外国文学の名に於て日本文学を否定するという妙な切札しか持たないのである。
大阪にミジメなものがあるとすれば、東京を意識しすぎるということだけだ。それは己れを二流にするだけにすぎない。
大阪の男は狂おしいほどあやつられていますね。あの言葉がそうだ。彼らが甚しく実利的合理的であるにも拘らず、その言葉が感性的で、何物をも捉えずに、むしろ放そうとしているのは、理の怖しさや断定の怖しさを知りすぎるからだろう。理を知る故に、むしろ理が身についている故に、理に捉われる怖しさが分るし、理への反逆も起るのだ。大阪の言葉は怖ろしいまでに的確でありながら、同時にモヤモヤと、感性的なのである。大阪の言葉はファルスをつくるに最もふさわしい言葉の一ツであろう。だいたいファルス(道化芝居)というものは、理が身についた人間が、理をのがれようとしてもがき発するバクハツです。意味を知りすぎた人間が意味から無意味へ駈けこんで行ぐ遁走ですよ。悲しいのです。これ以上に悲しい姿はありませんや。大阪人はファルスと共に実生活しつつある唯一の日本人ですよ。狂おしいまでに、あやつられていますね。身についた理にも、人情にも、金もうけにも、アキラメにも、言葉にも、郷土にも。
女にも郷土はあるし、それは一面、男以上に郷土を持ちすぎているかも知れない。しかし、その責任のようなものは持ちませんね。どこの国の女でも、女というものは、そういうものではないかな。運命は負うているが、運命の責任のようなものは、女は負うていませんや。
女は自分の責任を負わず、自分の負うべき袋を負うて喘いでいる男が、ミジメで、イヤに見えるらしいや。実に憎むべきは女であるか。否、否。可愛いのです。最も憎むべきところを愛す以外に手がないという状態だ。どこの国の女でも、郷土の男を嫌いがちだが、別して大阪はその傾向が激しいかも知れん。それは男が多くの袋を負いすぎて、狂おしいまでに、あやつられすぎているせいかも知れん。
しかし、大阪の御婦人方は面白いや。私と徳田君はいっぺん京家をでたことがあった。ほかの旅館を知ることが必要だったから。そして、心斎橋にちかいあたりへ宿を予約してもらった。行ってみると、二部屋と思いのほか、一部屋だ。二人だから一部屋だという。つまりツレコミ宿だ。要するに私たちが旅館をさがして苦難をなめたのは、一人で一室を占領することがツレコミ宿の方針にそわなかったことと、大阪のたいがいの宿がツレコミ宿であったせいだ。私たちが読売支社を訪れて、この苦難を物語ると、折から居合せて傍できいていた某嬢、とつぜん大声で、
「そんならウチをエキストラに使うてくれはッたらよかったんやわ。遠慮せんかてええわ」
新聞記者諸先生方居並ぶ前で、怖れを知らぬ大音声。本人に変テコな意識は何もないのだね。トッサに思いついた親身の情の自然の発露にすぎないのだが、しかし、表現がムチャクチャだな。とにかく、よほど心が善良でないと、こういう堂々たる大宣言はできないようだ。
「あのときは、ハッとしましたよ」
と徳田君が東京へ戻って、まだ冷汗をかいてるような顔をしたが、誰だってハッとするね。しかし、ハッとする方が悪いのさ。こういうアラレもないことを口走るお嬢さんは大阪だけとは限らない。百花園千歳のF子嬢は東京の下町娘だが、アラレもないことを口走ることでは代表選手の趣きがあった。大井広介夫人にもその趣きがあるし、ふとっちょの実業家D夫人(夫人自身がふとっちょで実業家也)は、普通の人がそんなことを口走ると一週間も寝込みそうなことを次から次へと口走ってケロリと忘れているが、お金モウケに忙しいから、てんでこだわらずに年中怖しいことを口走っていらせられるよ。しかし、あの人にも大阪ナマリがあるなア。すると、大阪人か。
私は大阪のお嬢さん方に会って、一番感心したのは、どれもこれも凡庸だということであった。キゼンとした身構え、むしろ見せかけというようなものに殆ど心をわずらわすことがないように見える。彼女らは職業に従事し、その道のベテランであったりしながら、殆ど職業化した中性人の風をもたない。いつも家庭人であって、そのままスッと、どこへでも気楽にはいりこめるようである。私が彼女らと会ったのは、大阪を立ち去る三時間半前ぐらいで、ゆっくり話もきけなかったが、ミス大阪はじめ二三のお嬢さん方は私たちを送ってコンドルという織田作にゆかりのバーへ立ち寄ったが、東京の娘だと肩を怒らして堅くなるようなこういうところへ来ても、彼女らは実に楽々と同じことで、家庭にいると同じように、どこへでもコダワリなく滑りこめる感じであった。彼女らは平々凡々であるが、平々凡々とどこへでも滑りこみ、ちゃんと仕事の責任を果し、クッタクがないという非凡人でもあるらしい。
総理大臣賞のデザイナーというと物々しいが、この人にも職業化した中性人の風がミジンもない。面白かったな、この黒ちゃんは。徳田君は十九ぐらいでしょうと云うが、マサカね。二十一、二にはなってるだろう。顔が真ッ黒けだね。大雪のあとだからスキーに行って焼けてきたのである。その黒さが並大ていの黒さじゃないね。ここまで思いきって黒くなれるもんじゃない。しかし村田珣子さんは一年の大半かくの如くに真ッ黒だそうだね。夏は海で、冬は雪山で。白くなるヒマが少いそうだね。しかし彼女は美人なのである。至って無口であるが、いつもニコニコしている。言葉の通じない南洋美人と一しょに居るようなものだ。これも亦、平々凡々、総理大臣賞でもないし、デザイナーですらもない。花柳有洸さんも、対坐していればタダの娘である。専門家という特別なものを、平常は全く身につけていないところが、フシギな思いがするほどだ。見るからに平々凡々たる娘さんであり、平々凡々とどこへでも滑りこんでいるような感じは、この人たちの場合でも同様であった。
一番よい意味の家庭人という感じである。家庭人でありながら、そのままどこへでも気楽に滑りこめるし、どんなに専門的な仕事に従事していてもいつも立派にそして平凡に家庭人だというような、理窟ぬきでそうなっている自然さがあった。こういうお嬢さん方に会ってみると、あの大阪の盛り場の雑踏がよく分るね。大阪の盛り場は、とても東京では見ることのできない混雑である。盛り場はいくつもあるが、なんてまア人間が多いのだろう。どこへ行ってもごッた返してらア。
よく働き、よく遊べ、という甚だしく平凡な生活人の町なのだろうな。労働者は労働者の盛り場で、これはまた、己れの快的な愉しみに従事しているね。大阪は凡人の街なんだね。そして女が男よりも美しい街だ。なぜなら、大阪の男は凡人であるよりも、もっと悲しい凡夫だからさ。自分の袋を自分で背負わない女には、悲しい凡夫は袋の重味だけでもとても勝てッこないのです。
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凡夫はせっせと働き、頭に策をめぐらして、とんでもないことをやらかす。
御堂筋に三ツ寺というのがあるね。私はこれには悩まされた。京家から自動車にのる。どこへ行くにも、どうしても三ツ寺の前を通るんだね。一日に二度でも三度でも、自動車にのれば必ずこの前を通るというのは怨霊のせいかと遂にはイライラしたほどである。
昔、吉原だの浅草の遊女屋が、西洋風に改築するのが流行したことがある。外側は白やピンクのけばけばしい壁にぬり、窓がズラリと一階二階三階平行して同じように並んでいる。それらはみんなこの戦争で焼滅してしまったが、天下に一ツだけ残ったのが三ツ寺なんだね。大阪の人は「三ツデラサン」という。鉄筋コンクリートだから形が残るよ。そして屋根だけが、いくらか寺だ。妙なチョンマゲのような屋根である。真言宗だかのお寺ですよ。大阪の凡夫は狂おしく頭をしぼって、こういうお寺をつくるから、袋を背負わぬ女の子は自分の町の男の子を軽蔑するね。しかし袋の重味で凡夫はいろんな策をめぐらさなければならないのだ。
大きな国技館が立ちよると思っていたら、出来上ってカンバン(ネオンだね)があがったのを見ると、メトロというキャバレーだったそうだ。大阪新名物だと今のところ大騒ぎだが、イヤハヤ、馬鹿々々しく大きいね。そして大ゲサなアトラクションだが、飲ませるものときたら、ひどいね。ジンヒーズをたのんだら、ジンらしき香りがチョッピリ。二杯目をたのんだら、カルピスの中へチョッピリとジンをたらして持ってきた。カルピス・ジンというのは珍しい。しかし、ジンの方は分るか分らぬ程度に小量でカルピスがほぼ全部。おまけに高いのである。こういうところが押すな押すなの混雑だから、女の子が男の子を軽蔑するのはムリがないようなフシもあるね。便所へ立ったら、客用の便所は修理中使用禁止とあり、楽屋の便所を使う仕組みになっている。ダンサーの脱衣所の隣りである。
キャバレーにはコリゴリして、バアをさがす。織田作ゆかりのコンドルというのを、まだその時は知らないから、とにかくカルピスジンではないピリリとした洋酒をのませる店を見つけようというので、ずいぶん歩いた。心斎橋や道頓堀界隈にはバアというものがないようだ。東京の飲んだくれは小料理屋で一パイのんでバアかなんかで洋酒で仕上げをするというのが普通のコースであるが、大阪はバアに代るのがキャバレーという訳でもない。カルピスジンでは仕上げになりませんや。
大阪は食道楽だというが、現在の大阪はそうではないね。フグ料理は大阪では一般に普及した大衆的な食べ物だ。ジャンジャン横丁的なフグ料理屋すらあるのである。私が食べたのは第一流の店ではなかったかも知れないが、名の知れた店ではあるらしい。東京のフグ料理とは比較できない不味である。第一にフグの品質がわるいし、職人の腕もヘタだった。一般に普及しているもの、必ずしも美味ではないのである。街々には、まだ東京には復活しない甘栗があった。食べてみると、昔と同じのはあの焼いている匂いだけ。甘栗ではなくて、ユデ栗の皮だけが甘いだけの話だ。甘くっても皮は食えないな。
大阪人は実質派であるけれども、味覚的な実質、審美的な実質まで届かずに、安値で一応味覚にかない満腹すれば足るという程度の実質派である傾きがある。だから大衆食物で高価なものは不味なのだろう。トコトンまで高価にして味覚専一にやれないからであろう。元々一番安いというもの、キツネウドンだのホルモン焼きのようなものが、実は一番うまいのかも知れない。大阪で一番美味を味っているのは、あまりゼイタクのできない人たちであるかも知れないのである。もっとも飛びきりゼイタクな料亭は、あるいはうまいのかも知れないな。
例の三ツ寺の隣りに入口の小さいバアらしきものを見つけて飛びこんだら、これが中へはいると大そうな広さで、やっぱりバンドがドカドカやっているキャバレーだ。コンパという店名であった。大阪は妙なところで、メトロのようにバカバカしく華美な装飾を施したのがあると思うと、まるでミルクホールのように殺風景なのがあるのである。コンパの殺風景なこと。大きな店内に、植木鉢もなく広さの目立つこと夥しい。こういう殺風景なのは、とても東京では見かけることができない。しかし大阪には、こういう殺風景なのがタクサンあって、コンドルも殺風景だし、OKも殺風景だ。ゴタゴタとバカバカしく華美にやる店よりも、私には殺風景な店の方が気持がよい。バカバカしく派手な店は気心が知れなくて、つきあう気になれない。どうせカルピスジンのたぐいだろうと思われるからである。さすがに殺風景だけあって、コンパでは本式のジンヒーズをのませてくれた。
檀君の案内で織田作ゆかりのコンドルというところへ行ったが、なんとなく、なつかしいや。しかし、この店などは東京で云うと、どういう種別にはいるのだろう。やっぱり、バアかね。バアとすれば、場末のバア。いかにも、そういう感じであった。北海道の山奥なんぞに、金鉱かなんぞが発見されて突如として人口二三万の町ができゴールド・ラッシュで山男の呑みッぷりがよろしいという時に、コンパというキャバレーや、コンドルというバアや、OKという喫茶店ができるような気がするな。それが北海道の山奥にはなくて、大阪の目貫きの街にあるんだね。するとつまり、大阪には北海道の山奥に住むのが然るべきようなゴールド・ラッシュ派の山男的存在がタムロしているという証明にもなるのかな。なるほど、織田作にはそういう山男的なところもあった。将棋の升田だの坂田などゝいう人も、殺風景なところで酒をあびるにふさわしい豪傑であるし、案外、拙者なども、そうかも知れんわ。ジャン〳〵横丁ごときには、てんで驚かないのだからね。イヤ、大阪出身、北海道の山奥みたいなところが、たしかに、あるね。ゴールド・ラッシュの夢をえがいて人がひしめいているのは、アラスカだの北海道の金鉱区にかぎったことではないのだね。大阪が一面そういう町なのだ。金鉱町はバラックであるが、大阪という町にも、表通りはとにかくとしで、どこかしらにゴールド・ラッシュ的山男人種のバラックが存在するにきまっている。いや、表通りにすらも。それが鉄筋コンクリでも、その内実はバラックなのである。そして、今までのバラック族が本建築族に出世する時には他の区域にバラック族が住みついて、永遠にバラックの絶えることがない町なのであろう。
バラックの心。それは一つの勇心ボツボツたる魂でもあるかも知れない。バラックへの郷愁。ボツボツたる勇心の流す涙かね。織田作の霊よ、安かれ。
どうも私はストリップだのジャンジャン横丁だのキャバレーだのと、ロクでもない大阪ばかり見物し、会見した人物といえばお嬢さんだけとは怪しからん、という抗議をなす人があるかも知れないが、これがどうも私のせいではないのである。
私も大阪のしかるべき代表的名士に三四会見を申込んだが、一応は承諾したのち、みんな用を構えて逃げられたのだから仕方がない。申し合せたように一応は承諾するところが、面白いな。結局巷談師安吾という奴は、どんなことを書くか分らん、というのが心配のタネであったのだろう。
要するに、会見に応じて悠々と現れて下さッたのは、お嬢さん方だけであった。そういう次第なのである。大阪のお嬢さん方は、巷談師安吾の如きにはビクともしないのである。どんな動物だか見てあげましょうというような軽い気持で、実に彼女らは天真ランマンですわ。大阪の実業家だの名士というのは、やっぱり二流だね。一流の魂があれば、巷談師ごときに怖れるところはなかろう。おそらく東京だったら、私が会見をもとめた政治家や実業家は悠々と会うかも知れんが、お嬢さん方の方は怖れをなすんじゃないかね。
また、大阪では、あやしい所を遍歴するたび、警察の人にまちがえられて、大いに困った。徳田君といっしょに裏町やテント張りのストリップやマーケットなどへ見物にでむくと、私服の案内で巡察にきた何かのように間違えられて、ストリップが突然着物をきて、全然ハダカにならなくなったりするのである。ポンビキなどゝいうものは、私のところへ寄りついたこともない。どうも外套をぬいで出かけなければならなくなった。今後は変装の必要があるかも知れん。
予定では、大阪といっしょに神戸もまわる筈であったが、時間がなくて、まわることができなかったのは残念でした。
底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第五号」
1951(昭和26)年4月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第五号」
1951(昭和26)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。