ひかりの素足
宮沢賢治
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一、山小屋
鳥の声があんまりやかましいので一郎は眼をさましました。
もうすっかり夜があけてゐたのです。
小屋の隅から三本の青い日光の棒が斜めにまっすぐに兄弟の頭の上を越して向ふの萱の壁の山刀やはむばきを照らしてゐました。
土間のまん中では榾が赤く燃えてゐました。日光の棒もそのけむりのために青く見え、またそのけむりはいろいろなかたちになってついついとその光の棒の中を通って行くのでした。
「ほう、すっかり夜ぁ明げだ。」一郎はひとりごとを云ひながら弟の楢夫の方に向き直りました。楢夫の顔はりんごのやうに赤く口をすこしあいてまだすやすや睡って居ました。白い歯が少しばかり見えてゐましたので一郎はいきなり指でカチンとその歯をはじきました。
楢夫は目をつぶったまゝ一寸顔をしかめましたがまたすうすう息をしてねむりました。
「起ぎろ、楢夫、夜ぁ明げだ、起ぎろ。」一郎は云ひながら楢夫の頭をぐらぐらゆすぶりました。
楢夫はいやさうに顔をしかめて何かぶつぶつ云ってゐましたがたうとううすく眼を開きました。そしていかにもびっくりしたらしく
「ほ、山さ来てらたもな。」とつぶやきました。
「昨夜、今朝方だたがな、火ぁ消でらたな、覚だが。」
一郎が云ひました。
「知らなぃ。」
「寒くてさ。お父さん起ぎて又燃やしたやうだっけぁ。」
楢夫は返事しないで何かぼんやりほかのことを考えてゐるやうでした。
「お父さん外で稼ぃでら。さ、起ぎべ。」
「うん。」
そこで二人は一所にくるまって寝た小さな一枚の布団から起き出しました。そして火のそばに行きました。楢夫はけむさうにめをこすり一郎はじっと火を見てゐたのです。
外では谷川がごうごうと流れ鳥がツンツン鳴きました。
その時にはかにまぶしい黄金の日光が一郎の足もとに流れて来ました。
顔をあげて見ますと入口がパッとあいて向ふの山の雪がつんつんと白くかゞやきお父さんがまっ黒に見えながら入って来たのでした。
「起ぎだのが。昨夜寒ぐなぃがったが。」
「いゝえ。」
「火ぁ消でらたもな。おれぁ二度起ぎで燃やした。さあ、口漱げ、飯でげでら、楢夫。」
「うん。」
「家ど山どどっちぁ好い。」
「山の方ぁい、いんとも学校さ行がれなぃもな。」
するとお父さんが鍋を少しあげながら笑ひました。一郎は立ちあがって外に出ました。楢夫もつづいて出ました。
何といふきれいでせう。空がまるで青びかりでツルツルしてその光はツンツンと二人の眼にしみ込みまた太陽を見ますとそれは大きな空の宝石のやうに橙や緑やかゞやきの粉をちらしまぶしさに眼をつむりますと今度はその蒼黒いくらやみの中に青あをと光って見えるのです、あたらしく眼をひらいては前の青ぞらに桔梗いろや黄金やたくさんの太陽のかげぼふしがくらくらとゆれてかゝってゐます。
一郎はかけひの水を手にうけました。かけひからはつららが太い柱になって下までとゞき、水はすきとほって日にかゞやきまたゆげをたてていかにも暖かさうに見えるのでしたがまことはつめたく寒いのでした。一郎はすばやく口をそゝぎそれから顔もあらひました。
それからあんまり手がつめたいのでお日さまの方へ延ばしました。それでも暖まりませんでしたからのどにあてました。
その時楢夫も一郎のとほりまねをしてやってゐましたが、たうとうつめたくてやめてしまひました。まったく楢夫の手は霜やけで赤くふくれてゐました。一郎はいきなり走って行って
「冷だぁが。」と云ひながらそのぬれた小さな赤い手を両手で包んで暖めてやりました。
さうして二人は又小屋の中にはひりました。
お父さんは火を見ながらじっと何か考へ、鍋はことこと鳴ってゐました。
二人も座りました。
日はもうよほど高く三本の青い日光の棒もだいぶ急になりました。
向ふの山の雪は青ぞらにくっきりと浮きあがり見てゐますと何だかこゝろが遠くの方へ行くやうでした。
にはかにそのいたゞきにパッとけむりか霧のやうな白いぼんやりしたものがあらはれました。
それからしばらくたってフィーとするどい笛のやうな声が聞えて来ました。
すると楢夫がしばらく口をゆがめて変な顔をしてゐましたがたうとうどうしたわけかしくしく泣きはじめました。一郎も変な顔をして楢夫を見ました。
お父さんがそこで
「何した、家さ行ぐだぐなったのが、何した。」とたづねましたが楢夫は両手を顔にあてて返事もしないで却ってひどく泣くばかりでした。
「何した、楢夫、腹痛ぃが。」一郎もたづねましたがやっぱり泣くばかりでした。
お父さんは立って楢夫の額に手をあてて見てそれからしっかり頭を押へました。
するとだんだん泣きやんでつひにはたゞしくしく泣きじゃくるだけになりました。
「何して泣ぃだ。家さ行ぐだぃぐなったべぁな。」お父さんが云ひました。
「うんにゃ。」楢夫は泣きじゃくりながら頭をふりました。
「どごが痛くてが。」
「うんにゃ。」
「そだらなして泣ぃだりゃ、男などぁ泣がなぃだな。」
「怖っかなぃ。」まだ泣きながらやっと答へるのでした。
「なして怖っかなぃ。お父さんも居るし兄なも居るし昼まで明りくて何っても怖っかなぃごとぁ無いぢゃぃ。」
「うんう、怖っかなぃ。」
「何ぁ怖っかなぃ。」
「風の又三郎ぁ云ったか。」
「何て云った。風の又三郎など、怖っかなぐなぃ。何て云った。」
「お父さんおりゃさ新らしきもの着せるって云ったか。」楢夫はまた泣きました。一郎もなぜかぞっとしました。けれどもお父さんは笑ひました。
「ああははは、風の又三郎ぁ、いゝ事云ったな。四月になったら新らし着物買ってけらな。一向泣ぐごとぁなぃぢゃぃ。泣ぐな泣ぐな。」
「泣ぐな。」一郎も横からのぞき込んでなぐさめました。
「もっと云ったか。」楢夫はまるで眼をこすってまっかにして云ひました。
「何て云った。」
「それがらお母さん、おりゃのごと湯さ入れで洗ふて云ったか。」
「ああはは、そいづぁ嘘ぞ。楢夫などぁいっつも一人して湯さ入るもな。風の又三郎などぁ偽こぎさ。泣ぐな、泣ぐな。」
お父さんは何だか顔色を青くしてそれに無理に笑ってゐるやうでした。一郎もなぜか胸がつまって笑へませんでした。楢夫はまだ泣きやみませんでした。
「さあお飯食べし泣ぐな。」
楢夫は眼をこすりながら変に赤く小さくなった眼で一郎を見ながら又言ひました。
「それがらみんなしておりゃのごと送って行ぐて云ったか。」
「みんなして汝のごと送てぐど。そいづぁなぁ、うな立派になってどごさが行ぐ時ぁみんなして送ってぐづごとさ。みんないゝごとばがりだ。泣ぐな。な、泣ぐな。春になったら盛岡祭見さ連でぐはんて泣ぐな。な。」
一郎はまっ青になってだまって日光に照らされたたき火を見てゐましたが、この時やっと云ひました。
「なあに風の又三郎など、怖っかなぐなぃ。いっつも何だりかだりって人だますぢゃぃ。」
楢夫もやうやく泣きじゃくるだけになりました。けむりの中で泣いて眼をこすったもんですから眼のまはりが黒くなってちょっと小さな狸のやうに見えました。
お父さんはなんだか少し泣くやうに笑って
「さあもう一がへり面洗なぃやなぃ。」と云ひながら立ちあがりました。
二、峠
ひるすぎになって谷川の音もだいぶかはりました。何だかあたたかくそしてどこかおだやかに聞えるのでした。
お父さんは小屋の入口で馬を引いて炭をおろしに来た人と話してゐました。ずゐぶん永いこと話してゐました。それからその人は炭俵を馬につけはじめました。二人は入口に出て見ました。
馬はもりもりかひばをたべてそのたてがみは茶色でばさばさしその眼は大きくて眼の中にはさまざまのをかしな器械が見えて大へんに気の毒に思はれました。
お父さんが二人に言ひました。
「そいでぁうなだ、この人さ随ぃで家さ戻れ。この人ぁ楢鼻まで行がはんて。今度の土曜日に天気ぁ好がったら又おれぁ迎ぃに行がはんてなぃ。」
あしたは月曜日ですから二人とも学校へ出るために家へ帰らなければならないのでした。
「そだら行がんす。」一郎が云ひました。
「うん、それがら家さ戻ったらお母さんさ、ついでの人さたのんで大きな方の鋸をよごして呉ろって云へやぃな、いゝが。忘れなよ。家まで丁度一時半かゞらはんてゆっくり行っても三時間半にあ戻れる。のどぁ乾ぃでも雪たべなやぃ。」
「うん。」楢夫が答へました。楢夫はもうすっかり機嫌を直してピョンピョン跳んだりしてゐました。
馬をひいた人は炭俵をすっかり馬につけてつなを馬のせなかで結んでから
「さ、そいでぃ、行ぐまちゃ。わらし達ぁ先に立ったら好がべがな。」と二人のお父さんにたづねました。
「なぁに随で行ぐごたんす。どうがお願ぁ申さんすぢゃ。」お父さんは笑っておじぎをしました。
「さ、そいでぁ、まんつ、」その人は牽づなを持ってあるき出し鈴はツァリンツァリンと鳴り馬は首を垂れてゆっくりあるきました。
一郎は楢夫をさきに立ててそのあとに跡いて行きました。みちがよくかたまってじっさい気持ちがよく、空はまっ青にはれて、却って少しこはいくらゐでした。
「房下がってるぢゃぃ。」にはかに楢夫が叫びました。一郎はうしろからよく聞えなかったので「何や。」とたづねました。
「あの木さ房下がってるぢゃぃ。」楢夫が又云ひました。見るとすぐ崖の下から一本の木が立ってゐてその枝には茶いろの実がいっぱいに房になって下って居りました。一郎はしばらくそれを見ました。それから少し馬におくれたので急いで追ひつきました。馬を引いた人はこの時ちょっとうしろをふりかへってこっちをすかすやうにして見ましたがまた黙ってあるきだしました。
みちの雪はかたまってはゐましたがでこぼこでしたから馬はたびたびつまづくやうにしました。楢夫もあたりを見てあるいてゐましたのでやはりたびたびつまづきさうにしました。
「下見で歩げ。」と一郎がたびたび云ったのでした。
みちはいつか谷川からはなれて大きな象のやうな形の丘の中腹をまはりはじめました。栗の木が何本か立って枯れた乾いた葉をいっぱい着け、鳥がちょんちょんと鳴いてうしろの方へ飛んで行きました。そして日の光がなんだか少しうすくなり雪がいままでより暗くそして却って強く光って来ました。
そのとき向ふから一列の馬が鈴をチリンチリンと鳴らしてやって参りました。
みちが一むらの赤い実をつけたまゆみの木のそばまで来たとき両方の人たちは行きあひました。兄弟の先に立った馬は一寸みちをよけて雪の中に立ちました。兄弟も膝まで雪にはひってみちをよけました。
「早ぃな。」
「早がったな。」挨拶をしながら向ふの人たちや馬は通り過ぎて行きました。
ところが一ばんおしまひの人は挨拶をしたなり立ちどまってしまひました。馬はひとりで少し歩いて行ってからうしろから「どう。」と云はれたのでとまりました。兄弟は雪の中からみちにあがり二人とならんで立ってゐた馬もみちにあがりました。ところが馬を引いた人たちはいろいろ話をはじめました。
兄弟はしばらくは、立って自分たちの方の馬の歩き出すのを待ってゐましたがあまり待ち遠しかったのでたうとう少しづつあるき出しました。あとはもう峠を一つ越えればすぐ家でしたし、一里もないのでしたからそれに天気も少しは曇ったってみちはまっすぐにつゞいてゐるのでしたから何でもないと一郎も思ひました。
馬をひいた人は兄弟が先に歩いて行くのを一寸よこめで見てゐましたがすぐあとから追ひつくつもりらしくだまって話をつゞけました。
楢夫はもう早くうちへ帰りたいらしくどんどん歩き出し一郎もたびたびうしろをふりかへって見ましたが馬が雪の中で茶いろの首を垂れ二人の人が話し合って白い大きな手甲がちらっと見えたりするだけでしたからやっぱり歩いて行きました。
みちはだんだんのぼりになりつひにはすっかり坂になりましたので楢夫はたびたび膝に手をつっぱって「うんうん」とふざけるやうにしながらのぼりました。一郎もそのうしろからはあはあ息をついて
「よう、坂道、よう、山道」なんて云ひながら進んで行きました。
けれどもたうとう楢夫は、つかれてくるりとこっちを向いて立ちどまりましたので、一郎はいきなりひどくぶっつかりました。
「疲いが。」一郎もはあはあしながら云ひました。来た方を見ると路は一すぢずうっと細くついて人も馬ももう丘のかげになって見えませんでした。いちめんまっ白な雪、(それは大へんくらく沈んで見えました。空がすっかり白い雲でふさがり太陽も大きな銀の盤のやうにくもって光ってゐたのです)がなだらかに起伏しそのところどころに茶いろの栗や柏の木が三本四本づつちらばってゐるだけじつにしぃんとして何ともいへないさびしいのでした。けれども楢夫はその丘の自分たちの頭の上からまっすぐに向ふへかけおりて行く一疋の鷹を見たとき高く叫びました。
「しっ、鳥だ。しゅう。」
一郎はだまってゐました。けれどもしばらく考えてから云ひました。
「早ぐ峠越えるべ。雪降って来るぢょ。」
ところが丁度そのときです。まっしろに光ってゐる白いそらに暗くゆるやかにつらなってゐた峠の頂の方が少しぼんやり見えて来ました。そしてまもなく小さな小さな乾いた雪のこなが少しばかりちらっちらっと二人の上から落ちて参りました。
「さあ楢夫、早ぐのぼれ、雪降って来た。上さ行げば平らだはんて。」一郎が心配さうに云ひました。
楢夫は兄の少し変わった声を聞いてにはかにあわてました。そしてまるでせかせかとのぼりました。
「あんまり急ぐな。大丈夫だはんて、なあにあど一里も無ぃも。」一郎も息をはづませながら云ひました。けれどもじっさい二人とも急がずに居られなかったのです。めの前もくらむやうに急ぎました。あんまり急ぎすぎたのでそれはながくつゞきませんでした。雪がまったくひどくなって来た方も行く方もまるで見えず二人のからだもまっ白になりました。そして楢夫が泣いていきなり一郎にしがみつきました。
「戻るが、楢夫。戻るが。」一郎も困ってさう云ひながら来た下の方を一寸見ましたがとてももう戻ろうとは思はれませんでした。それは来た方がまるで灰いろで穴のやうにくらく見えたのです。それにくらべては峠の方は白く明るくおまけに坂の頂上だってもうぢきでした。そこまでさへ行けばあとはもう十町もずうっと丘の上で平らでしたし来るときは山鳥も何べんも飛び立ち灌木の赤や黄いろの実もあったのです。
「さあもう一あしだ。歩べ。上まで行げば雪も降ってなぃしみぢも平らになる。歩べ、怖っかなぐなぃはんて歩べ。あどがらあの人も馬ひで来るしそれ、泣がなぃで、今度ぁゆっくり歩べ。」一郎は楢夫の顔をのぞき込んで云ひました。楢夫は涙をふいてわらひました。楢夫の頬に雪のかけらが白くついてすぐ溶けてなくなったのを一郎はなんだか胸がせまるやうに思ひました。一郎が今度は先に立ってのぼりました。みちももうそんなにけはしくはありませんでしたし雪もすこし薄くなったやうでした。それでも二人の雪沓は早くも一寸も埋まりました。
だんだんいたゞきに近くなりますと雪をかぶった黒いゴリゴリの岩がたびたびみちの両がはに出て来ました。
二人はだまってなるべく落ち着くやうにして一足づつのぼりました。一郎はばたばた毛布をうごかしてからだから雪をはらったりしました。
そしていゝことはもうそこが峠のいたゞきでした。
「来た来た。さあ、あどぁ平らだぞ、楢夫。」
一郎はふりかへって見ました。楢夫は顔をまっかにしてはあはあしながらやっと安心したやうにわらひました。けれども二人の間にもこまかな雪がいっぱいに降ってゐました。
「馬もきっと坂半分ぐらゐ登ったな。叫んで見べが。」
「うん。」
「いゝが、一二三、ほおお。」
声がしんと空へ消えてしまひました。返事もなくこだまも来ずかへってそらが暗くなって雪がどんどん舞ひおりるばかりです。
「さあ、歩べ。あと三十分で下りるにい。」
一郎はまたあるきだしました。
にはかに空のほうでヒィウと鳴って風が来ました。雪はまるで粉のやうにけむりのやうに舞ひあがりくるしくて息もつかれずきもののすきまからはひやひやとからだにはひりました。兄弟は両手を顔にあてて立ちどまってゐましたがやっと風がすぎたので又あるき出さうとするときこんどは前より一そうひどく風がやって来ました。その音はおそろしい笛のやう、二人のからだも曲げられ足もとをさらさら雪の横にながれるのさへわかりました。
たうげのいたゞきはまったくさっき考へたのとはちがってゐたのです。楢夫はあんまりこゝろぼそくなって一郎にすがらうとしました。またうしろをふりかへっても見ました。けれども一郎は風がやむとすぐ歩き出しましたし、うしろはまるで暗く見えましたから楢夫はほんたうに声を立てないで泣くばかりよちよち兄に追ひ付いて進んだのです。
雪がもう沓のかゝと一杯でした。ところどころには吹き溜りが出来てやっとあるけるぐらゐでした。それでも一郎はずんずん進みました。楢夫もそのあしあとを一生けん命ついて行きました。一郎はたびたびうしろをふりかへってはゐましたがそれでも楢夫はおくれがちでした。風がひゅうと鳴って雪がぱっとつめたいけむりをあげますと、一郎は少し立ちどまるやうにし楢夫は小刻みに走って兄に追ひすがりました。
けれどもまだその峯みちを半分も来ては居りませんでした。吹きだまりがひどく大きくなってたびたび二人はつまづきました。
一郎は一つの吹きだまりを越えるとき、思ったより雪が深くてたうとう足をさらはれて倒れました。一郎はからだや手やすっかり雪になって軋るやうに笑って起きあがりましたが楢夫はうしろに立ってそれを見てこはさに泣きました。
「大丈夫だ。楢夫、泣ぐな。」一郎は云ひながら又あるきました。けれどもこんどは楢夫がころびました。そして深く雪の中に手を入れてしまって急に起きあがりもできずおじぎのときのやうに頭をさげてそのまゝ泣いてゐたのです。一郎はすぐ走り戻ってだき起しました。そしてその手の雪をはらってやりそれから、
「さあも少しだ。歩げるが。」とたづねました。
「うん」と楢夫は云ってゐましたがその眼はなみだで一杯になりじっと向ふの方を見、口はゆがんで居りました。
雪がどんどん落ちて来ます。それに風が一そうはげしくなりました。二人は又走り出しましたけれどももうつまづくばかり一郎がころび楢夫がころびそれにいまはもう二人ともみちをあるいてるのかどうか前無かった黒い大きな岩がいきなり横の方に見えたりしました。
風がまたやって来ました。雪は塵のやう砂のやうけむりのやう楢夫はひどくせき込んでしまひました。
そこはもうみちではなかったのです。二人は大きな黒い岩につきあたりました。
一郎はふりかへって見ました。二人の通って来たあとはまるで雪の中にほりのやうについてゐました。
「路まちがった。戻らなぃばわがなぃ。」
一郎は云っていきなり楢夫の手をとって走り出さうとしましたがもうたゞの一足ですぐ雪の中に倒れてしまひました。
楢夫はひどく泣きだしました。
「泣ぐな。雪はれるうぢ此処に居るべし泣ぐな。」一郎はしっかりと楢夫を抱いて岩の下に立って云ひました。
風がもうまるできちがひのやうに吹いて来ました。いきもつけず二人はどんどん雪をかぶりました。
「わがなぃ。わがなぃ。」楢夫が泣いて云ひました。その声もまるでちぎるやうに風が持って行ってしまひました。一郎は毛布をひろげてマントのまゝ楢夫を抱きしめました。
一郎はこのときはもうほんたうに二人とも雪と風で死んでしまふのだと考えてしまひました。いろいろなことがまるでまはり燈籠のやうに見えて来ました。正月に二人は本家に呼ばれて行ってみんながみかんをたべたとき楢夫がすばやく一つたべてしまっても一つを取ったので一郎はいけないといふやうにひどく目で叱ったのでした、そのときの楢夫の霜やけの小さな赤い手などがはっきり一郎に見えて来ました。いきが苦しくてまるでえらえらする毒をのんでゐるやうでした。一郎はいつか雪の中に座ってしまってゐました。そして一そう強く楢夫を抱きしめました。
三、うすあかりの国
けれどもけれどもそんなことはまるでまるで夢のやうでした。いつかつめたい針のやうな雪のこなもなんだかなまぬるくなり楢夫もそばに居なくなって一郎はたゞひとりぼんやりくらい藪のやうなところをあるいて居りました。
そこは黄色にぼやけて夜だか昼だか夕方かもわからずよもぎのやうなものがいっぱいに生えあちこちには黒いやぶらしいものがまるでいきもののやうにいきをしてゐるやうに思はれました。
一郎は自分のからだを見ました。そんなことが前からあったのか、いつかからだには鼠いろのきれが一枚まきついてあるばかりおどろいて足を見ますと足ははだしになってゐて今までもよほど歩いて来たらしく深い傷がついて血がだらだら流れて居りました。それに胸や腹がひどく疲れて今にもからだが二つに折れさうに思はれました。一郎はにはかにこはくなって大声に泣きました。
けれどもそこはどこの国だったのでせう。ひっそりとして返事もなく空さへもなんだかがらんとして見れば見るほど変なおそろしい気がするのでした。それににはかに足が灼くやうに傷んで来ました。
「楢夫は。」ふっと一郎は思ひ出しました。
「楢夫ぉ。」一郎はくらい黄色なそらに向って泣きながら叫びました。
しいんとして何の返事もありませんでした。一郎はたまらなくなってもう足の痛いのも忘れてはしり出しました。すると俄かに風が起って一郎のからだについてゐた布はまっすぐにうしろの方へなびき、一郎はその自分の泣きながらはだしで走って行ってぼろぼろの布が風でうしろへなびいてゐる景色を頭の中に考へて一そう恐ろしくかなしくてたまらなくなりました。
「楢夫ぉ。」一郎は又叫びました。
「兄な。」かすかなかすかな声が遠くの遠くから聞えました。一郎はそっちへかけ出しました。そして泣きながら何べんも「楢夫ぉ、楢夫ぉ。」と叫びました。返事はかすかに聞えたり又返事したのかどうか聞えなかったりしました。
一郎の足はまるでまっ赤になってしまひました。そしてもう痛いかどうかもわからず血は気味悪く青く光ったのです。
一郎ははしってはしって走りました。
そして向ふに一人の子供が丁度風で消えようとする蝋燭の火のやうに光ったり又消えたりぺかぺかしてゐるのを見ました。
それが顔に両手をあてて泣いてゐる楢夫でした。一郎はそばへかけよりました。そしてにはかに足がぐらぐらして倒れました。それから力いっぱい起きあがって楢夫を抱かうとしました。楢夫は消えたりともったりしきりにしてゐましたがだんだんそれが早くなりたうとうその変りもわからないやうになって一郎はしっかりと楢夫を抱いてゐました。
「楢夫、僕たちどこへ来たらうね。」一郎はまるで夢の中のやうに泣いて楢夫の頭をなでてやりながら云ひました。その声も自分が云ってゐるのか誰かの声を夢で聞いてゐるのかわからないやうでした。
「死んだんだ。」と楢夫は云ってまたはげしく泣きました。
一郎は楢夫の足を見ました。やっぱりはだしでひどく傷がついて居りました。
「泣かなくってもいゝんだよ。」一郎は云ひながらあたりを見ました。ずうっと向ふにぼんやりした白びかりが見えるばかりしいんとしてなんにも聞えませんでした。
「あすこの明るいところまで行って見よう。きっとうちがあるから、お前あるけるかい。」
一郎が云ひました。
「うん。おっかさんがそこに居るだろうか。」
「居るとも。きっと居る。行かう。」
一郎はさきになってあるきました。そらが黄いろでぼんやりくらくていまにもそこから長い手が出て来さうでした。
足がたまらなく痛みました。
「早くあすこまで行かう。あすこまでさへ行けばいゝんだから。」一郎は自分の足があんまり痛くてバリバリ白く燃えてるやうなのをこらへて云ひました。けれども楢夫はもうとてもたまらないらしく泣いて地面に倒れてしまひました。
「さあ、兄さんにしっかりつかまるんだよ。走って行くから。」一郎は歯を喰ひしばって痛みをこらへながら楢夫を肩にかけました。そして向ふのぼんやりした白光をめがけてまるでからだもちぎれるばかり痛いのを堪へて走りました。それでももうとてもたまらなくなって何べんも倒れました。倒れてもまた一生懸命に起きあがりました。
ふと振りかへって見ますと来た方はいつかぼんやり灰色の霧のやうなものにかくれてその向ふを何かうす赤いやうなものがひらひらしながら一目散に走って行くらしいのです。
一郎はあんまりの怖さに息もつまるやうにおもひました。それでもこらへてむりに立ちあがってまた楢夫を肩にかけました。楢夫はぐったりとして気を失ってゐるやうでした。一郎は泣きながらその耳もとで、
「楢夫、しっかりおし、楢夫、兄さんがわからないかい。楢夫。」と一生けん命呼びました。
楢夫はかすかにかすかに眼をひらくやうにはしましたけれどもその眼には黒い色も見えなかったのです。一郎はもうあらんかぎりの力を出してそこら中いちめんちらちらちらちら白い火になって燃えるやうに思ひながら楢夫を肩にしてさっきめざした方へ走りました。足がうごいてゐるかどうかもわからずからだは何か重い巌に砕かれて青びかりの粉になってちらけるやう何べんも何べんも倒れては又楢夫を抱き起して泣きながらしっかりとかゝへ夢のやうに又走り出したのでした。それでもいつか一郎ははじめにめざしたうすあかるい処に来ては居ました。けれどもそこは決していゝ処ではありませんでした。却って一郎はからだ中凍ったやうに立ちすくんでしまひました。すぐ眼の前は谷のやうになった窪地でしたがその中を左から右の方へ何ともいへずいたましいなりをした子供らがぞろぞろ追はれて行くのでした。わづかばかりの灰いろのきれをからだにつけた子もあれば小さなマントばかりはだかに着た子もありました。瘠せて青ざめて眼ばかり大きな子、髪の赭い小さな子、骨の立った小さな膝を曲げるやうにして走って行く子、みんなからだを前にまげておどおど何かを恐れ横を見るひまもなくたゞふかくふかくため息をついたり声を立てないで泣いたり、ぞろぞろ追はれるやうに走って行くのでした。みんな一郎のやうに足が傷いてゐたのです。そして本たうに恐ろしいことはその子供らの間を顔のまっ赤な大きな人のかたちのものが灰いろの棘のぎざぎざ生えた鎧を着て、髪などはまるで火が燃えてゐるやう、たゞれたやうな赤い眼をして太い鞭を振りながら歩いて行くのでした。その足が地面にあたるときは地面はがりがり鳴りました。一郎はもう恐ろしさに声も出ませんでした。
楢夫ぐらゐの髪のちゞれた子が列の中に居ましたがあんまり足が痛むと見えてたうとうよろよろつまづきました。そして倒れさうになって思はず泣いて
「痛いよう。おっかさん。」と叫んだやうでした。するとすぐ前を歩いて行ったあの恐ろしいものは立ちどまってこっちを振り向きました。その子はよろよろして恐ろしさに手をあげながらうしろへ遁げようとしましたら忽ちその恐ろしいものの口がぴくっとうごきばっと鞭が鳴ってその子は声もなく倒れてもだえました。あとから来た子供らはそれを見てもたゞふらふらと避けて行くだけ一語も云ふものがありませんでした。倒れた子はしばらくもだえてゐましたがそれでもいつかさっきの足の痛みなどは忘れたやうに又よろよろと立ちあがるのでした。
一郎はもう行くにも戻るにも立ちすくんでしまひました。俄かに楢夫が眼を開いて
「お父さん。」と高く叫んで泣き出しました。すると丁度下を通りかかった一人のその恐ろしいものはそのゆがんだ赤い眼をこっちに向けました。一郎は息もつまるやうに思ひました。恐ろしいものはむちをあげて下から叫びました。
「そこらで何をしてるんだ。下りて来い。」
一郎はまるでその赤い眼に吸ひ込まれるやうな気がしてよろよろ二三歩そっちへ行きましたがやっとふみとまってしっかり楢夫を抱きました。その恐ろしいものは頬をぴくぴく動かし歯をむき出して咆えるやうに叫んで一郎の方に登って来ました。そしていつか一郎と楢夫とはつかまれて列の中に入ってゐたのです。ことに一郎のかなしかったことはどうしたのか楢夫が歩けるやうになってはだしでその痛い地面をふんで一郎の前をよろよろ歩いてゐることでした。一郎はみんなと一緒に追はれてあるきながら何べんも楢夫の名を低く呼びました。けれども楢夫はもう一郎のことなどは忘れたやうでした。たゞたびたびおびえるやうにうしろに手をあげながら足の痛さによろめきながら一生けん命歩いてゐるのでした。一郎はこの時はじめて自分たちを追ってゐるものは鬼といふものなこと、又楢夫などに何の悪いことがあってこんなつらい目にあふのかといふことを考へました。そのとき楢夫がたうとう一つの赤い稜のある石につまづいて倒れました。鬼のむちがその小さなからだを切るやうに落ちました。一郎はぐるぐるしながらその鬼の手にすがりました。
「私を代りに打って下さい。楢夫はなんにも悪いことがないのです。」
鬼はぎょっとしたやうに一郎を見てそれから口がしばらくぴくぴくしてゐましたが大きな声で斯う云ひました。その歯がギラギラ光ったのです。
「罪はこんどばかりではないぞ。歩け。」
一郎はせなかがシィンとしてまはりがくるくる青く見えました。それからからだ中からつめたい汗が湧きました。
こんなにして兄弟は追はれて行きました。けれどもだんだんなれて来たと見えて二人ともなんだか少し楽になったやうにも思ひました。ほかの人たちの傷ついた足や倒れるからだを夢のやうに横の方に見たのです。にはかにあたりがぼんやりくらくなりました。それから黒くなりました。追はれて行く子供らの青じろい列ばかりその中に浮いて見えました。
だんだん眼が闇になれて来た時一郎はその中のひろい野原にたくさんの黒いものがじっと座ってゐるのを見ました。微かな青びかりもありました。それらはみなからだ中黒い長い髪の毛で一杯に覆はれてまっ白な手足が少し見えるばかりでした。その中の一つがどういふわけか一寸動いたと思ひますと俄かにからだもちぎれるやうな叫び声をあげてもだえまはりました。そしてまもなくその声もなくなって一かけの泥のかたまりのやうになってころがるのを見ました。そしてだんだん眼がなれて来たときその闇の中のいきものは刀の刃のやうに鋭い髪の毛でからだを覆はれてゐること一寸でも動けばすぐからだを切ることがわかりました。
その中をしばらくしばらく行ってからまたあたりが少し明るくなりました。そして地面はまっ赤でした。前の方の子供らが突然烈しく泣いて叫びました。列もとまりました。鞭の音や鬼の怒り声が雹や雷のやうに聞えて来ました。一郎のすぐ前を楢夫がよろよろしてゐるのです。まったく野原のその辺は小さな瑪瑙のかけらのやうなものでできてゐて行くものの足を切るのでした。
鬼は大きな鉄の沓をはいてゐました。その歩くたびに瑪瑙はガリガリ砕けたのです。一郎のまはりからも叫び声が沢山起りました。楢夫も泣きました。
「私たちはどこへ行くんですか。どうしてこんなつらい目にあふんですか。」楢夫はとなりの子にたづねました。
「あたしは知らない。痛い。痛いなぁ。おっかさん。」その子はぐらぐら頭をふって泣き出しました。
「何を云ってるんだ。みんなきさまたちの出かしたこった。どこへ行くあてもあるもんか。」
うしろで鬼が咆えて又鞭をならしました。
野はらの草はだんだん荒くだんだん鋭くなりました。前の方の子供らは何べんも倒れては又力なく起きあがり足もからだも傷つき、叫び声や鞭の音はもうそれだけでも倒れさうだったのです。
楢夫がいきなり思ひ出したやうに一郎にすがりついて泣きました。
「歩け。」鬼が叫びました。鞭が楢夫を抱いた一郎の腕をうちました。一郎の腕はしびれてわからなくなってただびくびくうごきました。楢夫がまだすがりついてゐたので鬼が又鞭をあげました。
「楢夫は許して下さい。楢夫は許して下さい。」一郎は泣いて叫びました。
「歩け。」鞭が又鳴りましたので一郎は両腕であらん限り楢夫をかばひました。かばひながら一郎はどこからか
「にょらいじゅりゃうぼん第十六。」といふやうな語がかすかな風のやうに又匂のやうに一郎に感じました。すると何だかまはりがほっと楽になったやうに思って
「にょらいじゅりゃうぼん。」と繰り返してつぶやいてみました。すると前の方を行く鬼が立ちどまって不思議さうに一郎をふりかへって見ました。列もとまりました。どう云ふわけか鞭の音も叫び声もやみました。しぃんとなってしまったのです。気がついて見るとそのうすくらい赤い瑪瑙の野原のはづれがぼうっと黄金いろになってその中を立派な大きな人がまっすぐにこっちへ歩いて来るのでした。どう云ふわけかみんなはほっとしたやうに思ったのです。
四、光のすあし
その人の足は白く光って見えました。実にはやく実にまっすぐにこっちへ歩いて来るのでした。まっ白な足さきが二度ばかり光りもうその人は一郎の近くへ来てゐました。
一郎はまぶしいやうな気がして顔をあげられませんでした。その人ははだしでした。まるで貝殻のやうに白くひかる大きなすあしでした。くびすのところの肉はかゞやいて地面まで垂れてゐました。大きなまっ白なすあしだったのです。けれどもその柔らかなすあしは鋭い鋭い瑪瑙のかけらをふみ燃えあがる赤い火をふんで少しも傷つかず又灼けませんでした。地面の棘さへ又折れませんでした。
「こはいことはないぞ。」微かに微かにわらひながらその人はみんなに云ひました。その大きな瞳は青い蓮のはなびらのやうにりんとみんなを見ました。みんなはどう云ふわけともなく一度に手を合わせました。
「こはいことはない。おまへたちの罪はこの世界を包む大きな徳の力にくらべれば太陽の光とあざみの棘のさきの小さな露のやうなもんだ。なんにもこはいことはない。」
いつの間にかみんなはその人のまはりに環になって集って居りました。さっきまであんなに恐ろしく見えた鬼どもがいまはみなすなほにその大きな手を合せ首を低く垂れてみんなのうしろに立ってゐたのです。
その人はしづかにみんなを見まはしました。
「みんなひどく傷を受けてゐる。それはおまへたちが自分で自分を傷つけたのだぞ。けれどもそれも何でもない、」その人は大きなまっ白な手で楢夫の頭をなでました。楢夫も一郎もその手のかすかにほほの花のにほひのするのを聞きました。そしてみんなのからだの傷はすっかり癒ってゐたのです。
一人の鬼がいきなり泣いてその人の前にひざまづきました。それから頭をけはしい瑪瑙の地面に垂れその光る足を一寸手でいたゞきました。
その人は又微かに笑ひました。すると大きな黄金いろの光が円い輪になってその人の頭のまはりにかゝりました。その人は云ひました。
「こゝは地面が剣でできてゐる。お前たちはそれで足やからだをやぶる。さうお前たちは思ってゐる、けれどもこの地面はまるっきり平らなのだ。さあご覧。」
その人は少しかゞんでそのまっ白な手で地面に一つ輪をかきました。みんなは眼を擦ったのです。又耳を疑がったのです。今までの赤い瑪瑙の棘ででき暗い火の舌を吐いてゐたかなしい地面が今は平らな平らな波一つ立たないまっ青な湖水の面に変りその湖水はどこまでつづくのかはては孔雀石の色に何条もの美しい縞になり、その上には蜃気楼のやうにそしてもっとはっきりと沢山の立派な木や建物がじっと浮んでゐたのです。それらの建物はずうっと遠くにあったのですけれども見上げるばかりに高く青や白びかりの屋根を持ったり虹のやうないろの幡が垂れたり、一つの建物から一つの建物へ空中に真珠のやうに光る欄干のついた橋廊がかかったり高い塔はたくさんの鈴や飾り網を掛けそのさきの棒はまっすぐに高くそらに立ちました。それらの建物はしんとして音なくそびえその影は実にはっきりと水面に落ちたのです。
またたくさんの樹が立ってゐました。それは全く宝石細工としか思はれませんでした。はんの木のやうなかたちでまっ青な樹もありました。楊に似た木で白金のやうな小さな実になってゐるのもありました。みんなその葉がチラチラ光ってゆすれ互いにぶっつかり合って微妙な音をたてるのでした。
それから空の方からはいろいろな楽器の音がさまざまのいろの光のこなと一所に微かに降ってくるのでした。もっともっと愕いたことはあんまり立派な人たちのそこにもこゝにも一杯なことでした。ある人人は鳥のやうに空中を翔けてゐましたがその銀いろの飾りのひもはまっすぐにうしろに引いて波一つたたないのでした。すべて夏の明方のやうないゝ匂で一杯でした。ところが一郎は俄かに自分たちも又そのまっ青な平らな平らな湖水の上に立ってゐることに気がつきました。けれどもそれは湖水だったのでせうか。いゝえ、水ぢゃなかったのです。硬かったのです。冷たかったのです、なめらかだったのです。それは実に青い宝石の板でした。板ぢゃない、やっぱり地面でした。あんまりそれがなめらかで光ってゐたので湖水のやうに見えたのです。
一郎はさっきの人を見ました。その人はさっきとは又まるで見ちがへるやうでした。立派な瓔珞をかけ黄金の円光を冠りかすかに笑ってみんなのうしろに立ってゐました。そこに見えるどの人よりも立派でした。金と紅宝石を組んだやうな美しい花皿を捧げて天人たちが一郎たちの頭の上をすぎ大きな碧や黄金のはなびらを落して行きました。
そのはなびらはしづかにしづかにそらを沈んでまゐりました。
さっきのうすくらい野原で一緒だった人たちはいまみな立派に変ってゐました。一郎は楢夫を見ました。楢夫がやはり黄金いろのきものを着、瓔珞も着けてゐたのです。それから自分を見ました。一郎の足の傷や何かはすっかりなほっていまはまっ白に光りその手はまばゆくいゝ匂だったのです。
みんなはしばらくたゞよろこびの声をあげるばかりでしたがそのうちに一人の子が云ひました。
「此処はまるでいゝんだなあ、向ふにあるのは博物館かしら。」
その巨きな光る人が微笑って答へました。
「うむ。博物館もあるぞ。あらゆる世界のできごとがみんな集まってゐる。」
そこで子供らは俄かにいろいろなことを尋ね出しました。一人が云ひました。
「こゝには図書館もあるの。僕アンデルゼンのおはなしやなんかもっと読みたいなあ。」
一人が云ひました。
「こゝの運動場なら何でも出来るなあ、ボールだって投げたってきっとどこまでも行くんだ。」
非常に小さな子は云ひました。
「僕はチョコレートがほしいなあ。」
その巨きな人はしづかに答へました。
「本はこゝにはいくらでもある。一冊の本の中に小さな本がたくさんはひってゐるやうなものもある。小さな小さな形の本にあらゆる本のみな入ってゐるやうな本もある、お前たちはよく読むがいゝ。運動場もある、そこでかけることを習ふものは火の中でも行くことができる。チョコレートもある。こゝのチョコレートは大へんにいゝのだ。あげよう。」その大きな人は一寸空の方を見ました。一人の天人が黄いろな三角を組みたてた模様のついた立派な鉢を捧げてまっすぐに下りて参りました。そして青い地面に降りて虔しくその大きな人の前にひざまづき鉢を捧げました。
「さあたべてごらん。」その大きな人は一つを楢夫にやりながらみんなに云ひました。みんなはいつか一つづつその立派な菓子を持ってゐたのです。それは一寸嘗めたときからだ中すうっと涼しくなりました。舌のさきで青い蛍のやうな色や橙いろの火やらきれいな花の図案になってチラチラ見えるのでした。たべてしまったときからだがピンとなりました。しばらくたってからだ中から何とも云へないいゝ匂いがぼうっと立つのでした。
「僕たちのお母さんはどっちに居るだらう。」楢夫が俄かに思ひだしたやうに一郎にたづねました。
するとその大きな人がこっちを振り向いてやさしく楢夫の頭をなでながら云ひました。
「今にお前の前のお母さんを見せてあげよう。お前はもうこゝで学校に入らなければならない。それからお前はしばらく兄さんと別れなければならない。兄さんはもう一度お母さんの所へ帰るんだから。」
その人は一郎に云ひました。
「お前はも一度あのもとの世界に帰るのだ。お前はすなほないゝ子供だ。よくあの棘の野原で弟を棄てなかった。あの時やぶれたお前の足はいまはもうはだしで悪い剣の林を行くことができるぞ。今の心持を決して離れるな。お前の国にはこゝから沢山の人たちが行ってゐる。よく探してほんたうの道を習へ。」その人は一郎の頭を撫でました。一郎はたゞ手を合せ眼を伏せて立ってゐたのです。それから一郎は空の方で力一杯に歌ってゐるいゝ声の歌を聞きました。その歌の声はだんだん変りすべての景色はぼうっと霧の中のやうに遠くなりました。たゞその霧の向ふに一本の木が白くかゞやいて立ち楢夫がまるで光って立派になって立ちながら何か云ひたさうにかすかにわらってこっちへ一寸手を延ばしたのでした。
五、峠
「楢夫」と一郎は叫んだと思ひましたら俄かに新しいまっ白なものを見ました。それは雪でした。それから青空がまばゆく一郎の上にかかってゐるのを見ました。
「息吐だぞ。眼開ぃだぞ。」一郎のとなりの家の赤髯の人がすぐ一郎の頭のとこに曲んでゐてしきりに一郎を起さうとしてゐたのです。そして一郎ははっきり眼を開きました。楢夫を堅く抱いて雪に埋まってゐたのです。まばゆい青ぞらに村の人たちの顔や赤い毛布や黒の外套がくっきりと浮んで一郎を見下してゐるのでした。
「弟ぁなぢょだ。弟ぁ。」犬の毛皮を着た猟師が高く叫びました。となりの人は楢夫の腕をつかんで見ました。一郎も見ました。
「弟ぁわがなぃよだ。早ぐ火焚げ」となりの人が叫びました。
「火焚ぃでわがなぃ。雪さ寝せろ。寝せろ。」
猟師が叫びました。一郎は扶けられて起されながらも一度楢夫の顔を見ました。その顔は苹果のやうに赤くその唇はさっき光の国で一郎と別れたときのまゝ、かすかに笑ってゐたのです。けれどもその眼はとぢその息は絶えそしてその手や胸は氷のやうに冷えてしまってゐたのです。
底本:「宮沢賢治全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年3月25日第1刷発行
1992(平成4)年3月10日第6刷発行
入力:あきら
校正:伊藤時也
2000年2月4日公開
2005年10月18日修正
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