怪談女の輪
泉鏡花
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枕に就いたのは黄昏の頃、之を逢魔が時、雀色時などといふ一日の内人間の影法師が一番ぼんやりとする時で、五時から六時の間に起つたこと、私が十七の秋のはじめ。
部屋は四疊敷けた。薄暗い縱に長い一室、兩方が襖で何室も他の座敷へ出入が出來る。詰り奧の方から一方の襖を開けて、一方の襖から玄關へ通拔けられるのであつた。
一方は明窓の障子がはまつて、其外は疊二疊ばかりの、しツくひ叩の池で、金魚も緋鯉も居るのではない。建物で取𢌞はした此の一棟の其池のある上ばかり大屋根が長方形に切開いてあるから雨水が溜つて居る。雨落に敷詰めた礫には苔が生えて、蛞蝓が這ふ、濕けてじと〳〵する、内の細君が元結をこゝに棄てると、三七二十一日にして化して足卷と名づける蟷螂の腹の寄生蟲となるといつて塾生は罵つた。池を圍んだ三方の羽目は板が外れて壁があらはれて居た。室數は總體十七もあつて、庭で取𢌞した大家だけれども、何百年の古邸、些も手が入らないから、鼠だらけ、埃だらけ、草だらけ。
塾生と家族とが住んで使つてゐるのは三室か四室に過ぎない。玄關を入ると十五六疊の板敷、其へ卓子椅子を備へて道場といつた格の、英漢數學の教場になつて居る。外の蜘蛛の巣の奧には何が住んでるか、内の者にも分りはせなんだ。
其日から數へて丁度一週間前の夜、夜學は無かつた頃で、晝間の通學生は歸つて了ひ、夕飯が濟んで、私の部屋の卓子の上で、燈下に美少年録を讀んで居た。
一體塾では小説が嚴禁なので、うつかり教師に見着かると大目玉を喰ふのみならず、此以前も三馬の浮世風呂を一册沒收されて四週間置放しにされたため、貸本屋から嚴談に逢つて、大金を取られ、目を白くしたことがある。
其夜は教師も用達に出掛けて留守であつたから、良落着いて讀みはじめた。やがて、
二足つかみの供振を、見返るお夏は手を上げて、憚樣やとばかりに、夕暮近き野路の雨、思ふ男と相合傘の人目稀なる横潵、濡れぬ前こそ今はしも、
と前後も辨へず讀んで居ると、私の卓子を横に附着けてある件の明取の障子へ、ぱら〳〵と音がした。
忍んで小説を讀む内は、木にも萱にも心を置いたので、吃驚して、振返ると、又ぱら〳〵ぱら〳〵といつた。
雨か不知、時しも秋のはじめなり、洋燈に油をさす折に覗いた夕暮の空の模樣では、今夜は眞晝の樣な月夜でなければならないがと思ふ内も猶其音は絶えず聞える。おや〳〵裏庭の榎の大木の彼の葉が散込むにしては風もないがと、然う思ふと、はじめは臆病で障子を開けなかつたのが、今は薄氣味惡くなつて手を拱いて、思はず暗い天井を仰いで耳を澄ました。
一分、二分、間を措いては聞える霰のやうな音は次第に烈しくなつて、池に落込む小潵の形勢も交つて、一時は呼吸もつかれず、ものも言はれなかつた。だが、しばらくして少し靜まると、再びなまけた連續した調子でぱら〳〵。
家の内は不殘、寂として居たが、この音を知らないではなく、いづれも聲を飮んで脈を數へて居たらしい。
窓と筋斜に上下差向つて居る二階から、一度東京に來て博文館の店で働いて居たことのある、山田なにがしといふ名代の臆病ものが、あてもなく、おい〳〵と沈んだ聲でいつた。
同時に一室措いた奧の居室から震へ聲で、何でせうね。更に、一寸何でせうね。止むことを得ず、えゝ、何ですか、音がしますが、と、之をキツカケに思ひ切つて障子を開けた。池はひつくりかへつても居らず、羽目板も落ちず、壁の破も平時のまゝで、月は形は見えないが光は眞白にさして居る。とばかりで、何事も無く、手早く又障子を閉めた。音はかはらず聞えて留まぬ。
處へ、細君はしどけない寢衣のまゝ、寢かしつけて居たらしい、乳呑兒を眞白な乳のあたりへしつかりと抱いて色を蒼うして出て見えたが、ぴつたり私の椅子の下に坐つて、石のやうに堅くなつて目を睜つて居る。
おい山田下りて來い、と二階を大聲で呼ぶと、ワツといひさま、けたゝましく、石垣が崩れるやうにがたびしと駈け下りて、私の部屋へ一所になつた。いづれも一言もなし。
此上何事か起つたら、三人とも團子に化つてしまつたらう。
何だか此池を仕切つた屋根のあたりで頻に礫を打つやうな音がしたが、ぐる〳〵渦を卷いちやあ屋根の上を何十ともない礫がひよい〳〵駈けて歩行く樣だつた。をかしいから、俺は門の處に立つて氣を取られて居たが、變だなあ、うむ、外は良い月夜で、蟲の這ふのが見えるやうだぜ、恐しく寒いぢやあないか、と折から歸つて來た教師はいつたのである。
幸ひ美少年録も見着からず、教師は細君を連れて別室に去り、音も其ツ切聞えずに濟んだ。
夜が明けると、多勢の通學生をつかまへて、山田が其吹聽といつたらない。鵺が來て池で行水を使つたほどに、事大袈裟に立到る。
其奴引捕へて呉れようと、海陸軍を志願で、クライブ傳、三角術などを講じて居る連中が、鐵骨の扇、短刀などを持參で夜更まで詰懸る、近所の仕出屋から自辨で兵糧を取寄せる、百目蝋燭を買入れるといふ騷動。
四五日經つた、が豪傑連何の仕出したこともなく、無事にあそんで靜まつて了つた。
扨其黄昏は、少し風の心持、私は熱が出て惡寒がしたから掻卷にくるまつて、轉寢の内も心が置かれる小説の搜索をされまいため、貸本を藏してある件の押入に附着いて寢た。眠くはないので、ぱちくり〳〵目を睜いて居ても、物は幻に見える樣になつて、天井も壁も卓子の脚も段々消えて行く心細さ。
塾の山田は、湯に行つて、教場にも二階にも誰も居らず、物音もしなかつた。枕頭へ……ばたばたといふ跫音、ものの近寄る氣勢がする。
枕をかへして、頭を上げた、が誰も來たのではなかつた。
しばらくすると、再び、しと〳〵しと〳〵と摺足の輕い、譬へば身體の無いものが、踵ばかり疊を踏んで來るかと思ひ取られた。また顏を上げると何にも居らない。其時は前より天窓が重かつた、顏を上げるが物憂かつた。
繰返して三度、また跫音がしたが、其時は枕が上らなかつた。室内の空氣は唯彌が上に蔽重つて、おのづと重量が出來て壓へつけるやうな!
鼻も口も切さに堪へられず、手をもがいて空を拂ひながら呼吸も絶え〴〵に身を起した、足が立つと、思はずよろめいて向うの襖へぶつかつたのである。
其まゝ押開けると、襖は開いたが何となくたてつけに粘氣があるやうに思つた。此處では風が涼しからうと、其を頼に恁うして次の室へ出たのだが矢張蒸暑い、押覆さつたやうで呼吸苦しい。
最う一ツ向うの廣室へ行かうと、あへぎ〳〵六疊敷を縱に切つて行くのだが、瞬く内に凡そ五百里も歩行いたやうに感じて、疲勞して堪へられぬ。取縋るものはないのだから、部屋の中央に胸を抱いて、立ちながら吻と呼吸をついた。
まあ、彼の恐しい所から何の位離れたらうと思つて怖々と振返ると、ものの五尺とは隔たらぬ私の居室の敷居を跨いで明々地に薄紅のぼやけた絹に搦まつて蒼白い女の脚ばかりが歩行いて來た。思はず駈け出した私の身體は疊の上をぐる〳〵まはつたと思つた。其のも一ツの廣室を夢中で突切つたが、暗がりで三尺の壁の處へ突當つて行處はない、此處で恐しいものに捕へられるのかと思つて、あはれ神にも佛にも聞えよと、其壁を押破らうとして拳で敲くと、ぐら〳〵として開きさうであつた。力を籠て、向うへ押して見たが效がないので、手許へ引くと、颯と開いた。
目を塞いで飛込まうとしたけれども、あかるかつたから驚いて退つた。
唯見ると、床の間も何にもない。心持十疊ばかりもあらうと思はれる一室にぐるりと輪になつて、凡そ二十人餘女が居た。私は目まひがした故か一人も顏は見なかつた。又顏のある者とも思はなかつた。白い乳を出して居るのは胸の處ばかり、背向のは帶の結目許り、疊に手をついて居るのもあつたし、立膝をして居るのもあつたと思ふのと見るのと瞬くうち、ずらりと居並んだのが一齊に私を見た、と胸に應へた、爾時、物凄い聲音を揃へて、わあといつた、わあといつて笑ひつけた何とも頼ない、譬へやうのない聲が、天窓から私を引抱へたやうに思つた。トタンに、背後から私の身體を横切つたのは例のもので、其女の脚が前へ𢌞つて、眼さきに見えた。啊呀といふ間に内へ引摺込まれさうになつたので、はツとすると前へ倒れた。熱のある身體はもんどりを打つて、元のまゝ寢床の上にドツと跳るのが身を空に擲つやうで、心着くと地震かと思つたが、冷い汗は瀧のやうに流れて、やがて枕について綿のやうになつて我に返つた。奧では頻に嬰兒の泣聲がした。
其から煩ひついて、何時まで經つても治らなかつたから、何もいはないで其の内をさがつた。直ちに忘れるやうに快復したのである。
地方でも其界隈は、封建の頃極めて風の惡い士町で、妙齡の婦人の此處へ連込まれたもの、また通懸つたもの、況して腰元妾奉公になど行つたものの生きて歸つた例はない、とあとで聞いた。殊に件の邸に就いては、種々の話があるが、却つて拵事じみるからいふまい。
教師は其あとで、嬰兒が夜泣をして堪へられないといふことで直に餘所へ越した。幾度も住人が變つて、今度のは久しく住んで居るさうである。
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2007年4月9日作成
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