魔法罎
泉鏡太郎
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峰は木の葉の虹である、谷は錦の淵である。……信濃の秋の山深く、霜に冴えた夕月の色を、まあ、何と言はう。……流は銀鱗の龍である。
鮮紅と、朱鷺と、桃色と、薄紅梅と、丹と、朱と、くすんだ樺と、冴えた黄と、颯と點滴る濃い紅と、紫の霧を山氣に漉して、玲瓏として映る、窓々は恰も名にし負ふ田毎の月のやうな汽車の中から、はじめ遠山の雲の薄衣の裾に、ちら〳〵と白く、衝と冷く光つて走り出した、其の水の色を遙に望んだ時は、錦の衾を分けた仙宮の雪の兎と見た。
尾花も白い。尾上に遙に、崖に靡いて、堤防に殘り、稻束を縫つて、莖も葉も亂れ亂れて其は蕎麥よりも赤いのに、穗は夢のやうに白い幻にして然も、日の名殘か、月影か、晃々と艶を放つて、山の袖に、懷に、錦に面影を留めた風情は、山嶽の色香に思を碎いて、戀の棧橋を落ちた蒼空の雲の餘波のやうである。
空澄んで風のない日で、尾花は靜として動かなかつたのに。……
胡粉に分れた水の影は、朱を研ぐ藥研に水銀の轉ぶが如く、衝と流れて、すら〳〵と絲を曳くのであつた。
汽車の進むに連れて、水の畝るのが知れた。……濃き薄き、もみぢの中を、霧の隙を、次第に月の光が添つて、雲に吸はるゝが如く、眞蒼な空の下に常磐木の碧きがあれば、其處に、すつと浮立つて、音もなく玉散す。
窓もやゝ黄昏れて、村里の柿の實も輕くぱら〳〵と紅の林に紛れて、さま〴〵のものの緑も黄色に、藁屋根の樺なるも赤い草に影が沈む、底澄む霧に艶を増して、露もこぼさす、霜も置かず、紅も笹色の粧を凝して、月光に溶けて二葉三葉、たゞ紅の點滴る如く、峯を落ちつつ、淵にも沈まず飜る。
散る、風なくして散る其もみぢ葉の影の消ゆるのは、棚田、山田、小田の彼方此方、砧の布のなごりを惜んで徜徉ふ状に、疊まれもせず、靡きも果てないで、力なげに、すら〳〵と末廣がりに細く彳む夕の煙の中である。……煙の遠いのは人かと見ゆる、山の魂かと見ゆる、峰の妾かと見ゆる、狩り暮らし夕霧に薄く成り行く、里の美女の影かとも視めらるゝ。
水ある上には、横に渡つて橋となり、崖なす隈には、草を潛つて路となり、家ある軒には、斜めに繞つて暮行く秋の思と成る。
煙は靜に、燃ゆる火の火先も宿さぬ。が、南天の實の溢れたやうに、ちら〳〵と其の底に映るのは、雲の茜が、峰裏に夕日の影を投げたのである。
此の紅玉に入亂れて、小草に散つた眞珠の數は、次等々々照増る、月の田毎の影であつた。
やがて、月の世界と成れば、野に、畑に、山懷に、峰の裾に、遙に炭を燒く、それは雲に紛ふ、はた遠く筑摩川を挾んだ、兩岸に、すら〳〵と立昇るそれ等の煙は、滿山の冷き虹の錦の裏に、擬つて霜の階と成らう。凍てて水晶の圓き柱と成らう。……
錦葉の蓑を着て、其の階、其の柱を攀ぢて、山々、谷々の、姫は、上﨟は、美しき鳥と成つて、月宮殿に遊ぶであらう。
木の葉は夜の虹である、月の錦の淵である。
此の峰、此の谷、恁る思。紅の梢を行く汽車さへ、轟きさへ、音なき煙の、雪なす瀧をさかのぼつて、輕い群青の雲に響く、幽なる、微妙なる音樂であつた。
驛員が黒く流れて、
「姨捨!姨捨!」……
「失禮、此處は一體何處なんですか。」
「姨捨です。」
五分間停車と聞いて、昇降口を、峠の棧橋のやうな、雲に近い、夕月のしら〴〵とあるプラツトフオームへ下りた一人旅の旅客が、恍惚とした顏をして訪ねた時、立會せた驛員は、……恁う答へた。が、大方睡から覺めたものが、覺束なさに宿の名に念を入れたものと思つたらう。
「姨捨です。」
「成程。」
と胸に氣を入れたやうに頷いて云つたが、汽車に搖られて來た聊かの疲勞も交つて、山の美しさに魅せられて身の萎々と成つた、歎息のやうにも聞えた。
實際、彼は驛員の呼び聲に、疾く此の停車場の名は聞いて心得たので。空も山も、餘りの色彩に、我は果して何處にありや、と自ら疑つて尋ねたのであつた。
「何とも申しやうがありません。實にいゝ景色の處ですな。」
出入りの旅客も僅に二三。で、車室から降りたのは自分一人だつた彼に、海拔二千尺の峰に於けるプラツトフオームは、恰も雲の上に拵へた白き瑪瑙の棧敷であるが如く思はれたから、驛員に對する挨拶も、客が歡迎する主人に對して、感謝の意を表するが如きものであつた。
心は通ずる、驛員も、然も滿足したらしい微笑を浮べて、
「お氣に入りまして結構です、もみぢを御見物でございますか。」
と半ば得意の髯を揉む。
「否、見物と申すと、大分贅澤なやうで。」
と、彼は何故か懷中の見える、餘り工面のよくない謙遜の仕方で、
「氣紛れに御厄介を掛けますのです。しかし、觀光の客が一向に少いやうでございますな、此だけの處を。」
「はあ……」と一寸時計を見ながら、
「雜と十日ばかり後れて居ますです。最う雪ですからな。風によつては今夜にも眞白に成りますものな。……尤も出盛りの旬だと云つても、月の頃ほどには來ないのでしてな。」
「あゝ、其の姨捨山と云ふのは孰れでございます。」
「裏の此の山一體を然う云ふんださうです。」
と來合せて立停つた、色の白い少年の驛夫が引取る。
手屆く其の山懷に、蔽ひかさなる錦葉の蔭に、葉の眞赤な龍膽が、ふさ〳〵と二三輪、霜に紫を凝して咲く。……
途すがらも、此の神祕な幽玄な花は、尾花の根、林の中、山の裂けた巖角に、輕く藍に成つたり、重く青く成つたり、故と淺黄だつたり、色が動きつつある風情に、人に其の生命あることを知らせ顏に裝つた。そして、下界に降りて、峰を、原を、紫の星が微行して幽に散歩する俤があつたのである。
「月見堂と云ひますのは。」
「彼處が其です。」と、少年の驛夫が指す。
其の錦の淵に、霧を被けて尾花が縁とる、緋の毛氈を敷いた築島のやうな山の端に、もの珍しく一叢の緑の樹立。眞黄色な公孫樹が一本。篝火焚くか、と根が燃えて、眞紅の梢が、ちら〳〵と夕の茜をほとばしらす。
道々は、峰にも、溪にも、然うした處に野社の鳥居が見えた。
こゝには、銀の月一輪。
「空の色が潭のやうです、何と云つたら可いでせう。……碧とも淺黄とも薄い納戸とも、……」
月が山々に曳いた其の薄衣を仰ぐ時、雲の棧橋に立つ思ひがした。
再び見た時計を納めて、
「あれへ御一泊は如何です。」
目の下の崖の樹の間に、山鳥が吐いた蜃氣樓の如き白壁造、屋根の石さへ群青の岩の斷片を葉に散らす。
唯見ると、驛員は莞爾として、機關車の方へ、悠然として霧を渡つた。
「や、出ますな。」
衝と列車に入つた時、驛夫の少年は車の尾へ駈けて通る。
笛は谺す、一鳥聲あり、汽車はする〳〵と艶やかに動き出す。
窓で、彼が帽を脱ぐのに、驛員は擧手して一揖した。
霧が掠れて、ひた〳〵と絡ひつく、霜かと思ふ冷さに、戸を引いたが、彼は其の硝子に面をひたと着けたまゝ、身動きもしないで尚ほ見惚れた。
筑摩川は、あとに成り行く月見堂の山の端の蔭から、月が投げたる網かと見える……汽車の動くに連れて、山の峽、峰の谷戸が、田をかさね、畝をかさねて、小櫻、緋縅、萌黄匂、櫨匂を、青地、赤地、蜀紅なんど錦襴の直垂の上へ、草摺曳いて、さつく〳〵と鎧ふが如く繰擴がつて、人の俤立昇る、遠近の夕煙は、紫籠めて裾濃に靡く。
水は金銀の縫目である。川中島さへ遙に思ふ。
「長野で辨當を買つた時に情なかつた。蓮に人參に臭い牛肉、肴と云ふのが生燒の鹽引の鮭は弱る。……稗澤山もそ〳〵の、ぽんぽち飯、あゝ〳〵旅行はしなければ可かつたと思つた。
いや、贅澤は云ふまい、此の景色に對しては恐多いぞ。」
「伺ひます。」
一停車場で、彼の隣に居た、黒地の質素な洋服を着て、半外套を被つて、鳥打を被つた山林局の官吏とも思ふ、痩せた陰氣な男が、薄暗い窓から顏を出して、通がかりの驛員を呼んで聞いた。
「伊那へは、此の驛から何里ですな。」
「六里半、峠越しで、七里でせう。」
「しますと、次の驛からだと如何なものでせう。」
「然やう……おい〳〵。」
呼ぶと、驛員が駈けて來た。まだ宵ながら靴の音が高く響く。……改札口に人珍しげに此方を透かした山家の小兒の乾栗のやうな顏の寂しさ。
「……驛からだと伊那まで何里かね。」
「山路六里……彼是七里でございます。」
「はゝあ、」と歎息するやうに云つた時の、旅客の面色も四邊の光景も陰々たるものであつた。
「俥はありませうか。」
「ございます。」
と驛夫が答へた。
「次の驛には、」
「多分ございませう、一臺ぐらゐは。」
「否、此處で下ります。」
と思沈んだのが、急に慌しげに云つて、
「此處で下ります。」
と、最う一度自ら確めるやうに言ひ加した。
驛員等は衝と兩方へ。
旅客は眉を壓する山又山に眉を蔽はれた状に、俯目に棚の荷を探り取つたが、笛の鳴る時、角形の革鞄に洋傘を持添へると、決然とした態度で、つか〳〵と下りた。下り際に、顧みて彼に會釋した。
健康を祈る。
隣に居た其の旅客は、何處から乘合せたのか彼はそれさへ知らぬ。其の上、雙方とも、もの思ひに耽つて、一度も言葉は交さなかつたのである。
雖然、いざ、分れると成れば、各自が心寂しく、懷かしく、他人のやうには思はなかつたほど列車の中は人稀で、……稀と云ふより、殆ど誰も居ないのであつた。
彼は、單身山又山を分けて行く新しい知己の前途を思つた。蜀道磽确として轉た世は嶮なるかな。
孤驛既に夜にして、里程孰れよりするも峠を隔てて七里に餘る。……彼は其の道中の錦葉を思つた、霧の深さを思つた、霜の鋭さを思つた、寧ろ其よりも早や雪を思つた、……外套黒く沈んで行く。……
月が晃々と窓を射たので、戞然と玉の函を開いたやうに、山々谷々の錦葉の錦は、照々と輝を帶びて颯と目の前に又卷絹を解擴げた。が、末は仄々と薄く成り行く。渚の月に、美しき貝を敷いて、あの、すら〳〵と細く立つ煙の、恰も鴎の白き影を岬に曳くが如く思はれたのは、記憶が返つたのである。
汽車は山の狹間の左右に迫る、暗き斷崖を穿つて過ぎるのであつた。
窓なる峰に、星を貫く、高き火の見の階子を見た。
孤家の灯の影とても、落ちた木の葉の、幻に一葉紅の俤に立つばかりの明さへ無い。
岩を削つて點滴る水は、其の火の見階子に、垂々と雫して、立ちながら氷柱に成らむ、と冷かさの身に染むのみ。何處に家を燒く炎があらう。
曉の霜を裂き、夕暮の霧を分けて、山姫が撞木を當てて、もみぢの紅を里に響かす、樹々の錦の知らせ、と見れば、龍膽に似て俯向けに咲いた、半鐘の銅は、月に紫の影を照らす。
大なる蝙蝠のやうに、煙がむら〳〵と隙間を潛つた。
「あゝ、隧道へ入つた。」
人も知つた……此の隧道は以ての外鎖がある。普通我國第一と稱へて、(代天工)と銘打つたと聞く、甲州笹子の隧道より、寧ろ此の方が長いかも知れぬ。
はじめは、たゞあまりに通過ぎるつもりで、事とも爲なかつたばかりで無い。一向、此の變則の名所に就いて、知識も經驗も無かつた彼は、次第に暗く成り、愈々深くなり、もの凄じく成つて、搖れ〳〵轟然たる大音響を發して、汽車は天窓から、鈍き錐と變じて、山の底に潛込むが如き、易からぬものの氣勢に、少からず驚かされたのである。
「此は難所だ。」
美人に見惚るゝとて、あらう事か、ぐつたり鏡臺に凭掛つたと云ふ他愛なさ。で、腰掛に上り込んで、月の硝子窓に、骨を拔いて凍付いて居たのが、慌てて、向直つて、爪探りに下駄を拾つて、外套の下で、ずるりと弛んだ帶を緊めると、襟を引掻合せる時、袂へ辷つて宙に留まつた、大切な路銀を、ト懷中へ御直り候へと据直して、前褄をぐい、と緊めた。
「いや、なか〳〵だぞ、尚だ。……」
汽車は轟々と、唯瀧に捲かれた如くに響く。
此處で整然として腰を掛けて、外套の袖を合せて、一つ下腹で落着いた氣が、だらしもなく續けざまに噎せ返つた。
煙が烈しい。
室内一面濛々とした上へ、あくどい黄味を帶びたのが、生暖い瀬を造つて、むく〳〵泡を吹くやうに、……獅噛面で切齒つた窓々の、隙間と云ふ隙間、天井、廂合から流込む。
噂も知らなかつた隧道が此だとすると、音に響いた笹子は可恐しい。一層中仙道を中央線で、名古屋へ大𢌞りをしようかと思つたくらゐ。
「何にしろ酷いぞ、此は……毒を以て毒を制すと遣れ。」
で、袂から卷莨を取つて、燐寸を摺つた。口の先に𤏋と燃えた火で勢付いて、故と煙を深く吸つて、石炭臭いのを浚つて吹出す。
目もやゝ爽かに成つて、吻と呼吸をした時──ふと、否、はじめてと言はう、──彼が掛けた斜に、向う側の腰掛に、疊まり積る霧の中に、落ちて落かさなつた美しい影を見た。
影ではない、色ある衣の媚かしいのを見たのである。
「女が居る。」
然も二人、……
と認めたが、萎々として、兩方が左右から、一人は一方の膝の上へ、一人は一方の、おくれ毛も亂れた肩へ、袖で面をひたと蔽うたまゝ、寄縋り抱合ふやうに、俯伏しに成つて惱ましげである。
姿を、然うして撓やかに折重ねた、袖の色は、濃い萌黄である。深い紫である。いづれも上に被た羽織とは知れたが、縞目は分らぬ。言ふまでもなく紋があらう。然し、煙に包まれて、朦朧としてそれは見えぬ。
小袖も判然せぬ。が、二人とも紋縮緬と云ふのであらう、絞つた、染んだやうな斑點のある緋の長襦袢を着たのは確。で、搦み合つた四つの袖から、萌黄と其の紫とが彩を分けて、八ツにはら〳〵と亂れながら、しつとりと縺れ合つて、棲紅に亂れし姿。……
其の然も紅は、俯向いた襟を辷り、凭れかゝつた衣紋に崩れて、膚も透く、とちらめくばかり、氣勢は沈んだが燃立つやう。
ト其の胸を、萌黄に溢れ、紫に垂れて、伊達卷であらう、一人は、鬱金の、一人は朱鷺色の、だらり結びが、ずらりと摩く。
「おや〳〵女郎かな。」
雖然、襦袢ばかりに羽織を掛けて旅をすべき所説はない。……駈落と思ふ、が、頭巾も被らぬ。
顏を入違ひに、肩に前髮を伏せた方は、此方向きに、やゝ俯向くやうに紫の袖で蔽ふ、がつくりとしたれば、陰に成つて、髮の形は認められず。
其の、膝に萌黄の袖を折掛けて、突俯した方は、絞か鹿の子か、ふつくりと緋手柄を掛けた、もつれ毛はふさ〳〵と搖れつつも、煙を分けた鬢の艶、結綿に結つて居た。
此女が上に坐つて、紫の女が、斜めになよ〳〵と腰を掛けた。落した裳も、屈めた褄も、痛々しいまで亂れたのである。
年紀のころは云ふまでもない、上に襲ねた衣ばかりで、手足も同じ白さと見るまで、寸分違はぬ脊丈恰好。
……と云ふ、其の脊丈恰好が?……
「見世ものに成る女ぢやないか。」
一度、然う思つたほど小さかつた。
が、いぢけたのでも縮んだのでもない。吹込む煙に惱亂した風情ながら、何處か水々として伸びやかに見える。襟許、肩附、褄はづれも尋常で、見好げに釣合ふ。小さいと云ふより、……小造りに過ぎるのであつた。
汽車は倒に落ちて留まない。煙が濃いのが岩を崩して、泥を掻き〳〵、波のやうな土を煽つて、七轉八倒あがき悶ゆる。
俗に、隧道の最も長いのも、ゆつくり吸つて敷島一本の間と聞く。
二本目を吸ひつけた時、彼は不安の念を禁じ得ないのであつた。……不思議な伴侶である。姿に色を凝らした、朦朧とした女の抱合つた影は、汽車に事變のあるべき前兆ではないのであらうか。
嘗て此の隧道を穿ちし時、工夫が鶴觜、爆裂彈の殘虐に掛つた、弱き棲主たちの幻ならずや。
或は此の室にのみ、場所と機會に因つて形を顯す、世に亡き人の怨靈ならずや。
と、誘はれた彼も、ぐら〳〵と地震ふる墓の中に、一所に住んで居るもののやうな思ひがして、をかしいばかり不安でならぬ。
靜坐するに堪へなく成つて、急に衝と立つと、頭がふら〳〵としてドンと尻もちをついて、一人で苦笑した。
ふと大風が留んだやうに響が留んで、汽車の音は舊に復つた。
彼は慌しく窓を開いて、呼吸のありたけを口から吐出すが如くに月を仰ぐ、と澄切つた山の腰に、一幅のむら尾花を殘して、室内の煙が透く。それが岩に浸込んで次第に消える。
夢から覺めた思ひで、厚ぼつたかつた顏を撫でた、其の掌を膝に支いて、氣も判然と向直つた時、彼は今までの想像の餘りな癡けさに又獨りで笑つた。
いや、知己でもない女の前で、獨笑は梟の業であらう。
冥界の伴侶か、墓の相借家か、とまで怪しんだ二人の女が、別條なく、然も、揃つて美しい顏を上げて居たから。
「矢張り隧道に惱んだんだ。」
と彼は頷いたのであつた。
「そして、踊……踊の歸途……恁う着崩した處を見ては、往路ではあるまい。踊子だらう。後の宿あたりに何か催しがあつて、其處へ呼ばれた、なにがし町の選ぬきとでも言ふのが、一つ先か、それとも次の驛へ歸るのであらう。……踊の催しと言へば、園遊會かなんぞで、灰色の手、黄色い手、樺色の手の、鼬、狐、狸、中には熊のやうなのも交つた大勢の手に、引𢌞され、掴立てられ、袖も振も亂れたまゝを汽車に乘つた落人らしい。」
落人と云へば、踊つた番組も何か然うした類かも知れぬ。……其の紫の方は、草束ねの島田とも見えるが、房りした男髷に結つて居たから。
此方は、やゝ細面で。結綿の娘は、ふつくりして居る。二人とも鬘を被つたかと思ふ。年紀が少い、十三四か、それとも五六、七八か、眦に紅を入れたらしいまで極彩色に化粧したが、烈しく疲れたと見えて、恍惚として頬に蒼味がさして、透通るほど色が白い。其の紅と思ふ瞼の紅がなかつたら、小柄ではあるし、たゞ動く人形に過ぎまい。
「何にしろ弱つたらしい。……舞臺の歸途として、今の隧道を越すのは、芝居の奈落を潛るやうなものだ、いや、眞個の奈落だつた。」
──心細いよ木曾路の旅は
笠に木の葉が舞ひかゝる──
人形のやうな此の女達、聲を聞きたい、錦葉に歌ふ色鳥であらう。
まだ全く消え果てない煙を便宜に、あからめもしないで熟と視る時、女は二人、揃つて、目を睜つて、四ツの目をぱつちりと瞬きした。……瞳は水晶を張つたやうで、薄煙の室を透して透通るばかり、月も射添ふ、と思ふと、紫も、萌黄も、袖の色が𤏋と冴えて、姿の其處此處、燃立つ緋は、炎の亂るゝやうであつた。
すツかと立揚つた大漢子がある。
先に──七里半の峠を越さうとして下りた一見の知己が居た、椅子の間を向うへ隔てて、彼と同じ側の一隅に、薄青い天鵝絨の凭掛を枕にして、隧道を越す以前から、夜の底に沈んだやうに、煙に陰々として横倒れに寐て居たのが、此の時仁王立ちに成つたのである。
が、唐突に大な材木が化けて突立つて、手足の枝が生えたかと疑はるゝ。
茶の鳥打をずぼりと深く、身の丈を上から押込んだ體に被つたのでさへ、見上げるばかり脊が高い。茶羅紗霜降の大外套を、風に向つた蓑よりも擴く裾一杯に着て、赤革の靴を穿いた。
時に斜違ひにづかりと通つて、二人の女の前へ會釋もなくぬつくと立つ。ト紫の目が、ト其の外套の脇の下で、俯目に成つたは氣の毒らしい。──紅は萎む、萌黄の八ツ口。
大漢子の兩手は、伸をして、天井を突拔く如く空ざまに棚に掛る、と眞先に取つたのは、彈丸帶で、外套の腰へぎしりと〆め、續いて銃を下ろして、ト筈高にがツしと掛けた。大な獲もの袋と、小革鞄と一所に、片手掴みに引下したのは革紐の魔法罎。
で、一搖り肩を搖つて、無雜作に、左右へ遣違へに、ざくりと投掛ける、と腰でだぶりと動く。
獲もの袋が重さうに、然も發奮んで搖れた。
──山鳩七羽、田鴫十三、鶉十五羽、鴨が三羽──
づしりと其の中にあるが如くに見て取られる。……
昨日、碓氷で汽車を下りて、峠の權現樣に詣でた時、さしかゝりで俥を下りて、あとを案内に立つた車夫に、寂しい上坂で彼は訊ねた。
「些とも小鳥が居ないやうだな。」
「搜すと居ります。……昨日も鐵砲打の旦那に、私がへい、お供で、御案内でへい、立派に打たせましたので。」
と狡しげな目を光らして云つた。鴫も鳩も、──此處に其の獲ものの數さへ思つたのは、車夫が其の時の言葉の記憶である。
此の山里を、汽車の中で、殆ど鳥の聲を聞かなかつた彼は、何故か、谷筋にあらゆる小禽の類が、此の巨な手の獵人のために狩盡されるやうな思ひして、何となく悚然とした。其も瞬時で。
汽車は留まつた。
「鹽尻、鹽尻──中央線は乘換。」
其の途端である。……鷹揚に、然も手馴れて、迅速に結束し果てた紳士は、其の爲に空しく待構へて居たらしい兩手にづかりと左右、其の二人の女の、頸上と思ふあたりを無手と掴んで引立てる、と、呀? 衣も扱帶も上へ摺つて、するりと白い顏が襟に埋つた、紫と萌黄の、緋を流るゝやうに宙に掛けて、紳士は大跨にづかり〳〵。
呆氣に取られた彼を一人室内に殘して、悠然と扉を出たのである。
あとの、もの凄さ。
紅さいた二ツの愛々しい唇が、凍てて櫻貝の散つて音するばかり、月にちら〳〵と、それ、彼處に此處に──
「あゝ、寒い。」
温泉に行かうとして、菊屋の廣袖に着換へるに附けても、途中の胴震ひの留まらなかつたまで、彼は少なからず怯かされたのである。
東京を出程つ時から、諏訪に一泊と豫定して、旅籠屋は志した町通りの其の菊屋であつた。
心細い事には、鹽尻でも、一人も同じ室へ乘込まなかつた。……其の宿の名は、八重垣姫と、隨筆の名で、餘所ながら、未見の知己。初對面の從姉妹と、伯父さんぐらゐに思つて居たのに。………
下諏訪へ來ると、七八人、田螺を好きさうな、然も娑婆氣な商人風のが身を光らして、ばら〳〵と入つて來た。其の中で一人、あの、其の女二人居た處へ、澄まして腰を掛けた男があつた。
はつと思つたが、一向平氣で、甲府か飯田町へ乘越すらしい。上諏訪に彼が下車した時まで、別に何事もなく、草にも樹にも成らず、酒のみと見えて、鼻の尖の赤いのが、其のまゝ柿の實にも成らないのを寧ろ怪む。
はじめ、もう其のあたりから、山も野も眇として諏訪の湖の水と成る由、聞いては居たが、ふと心着かずに過ぎた、──氣にして、女の後ばかり視めて居たので。
改札口を冷く出ると、四邊は山の陰に、澄渡つた湖を包んで、月に照返さるゝ爲か、漆の如く艶やかに、黒く、且つ玲瓏として透通る。
白きは町家の屋根であつた。
水から湧いた影のやうに、すら〳〵と黒く煽つて、俥が三臺、つい目の前から駈出した。
──俥が三臺、人が三人──
「待てよ、先刻の紳士は、あゝして、鹽尻で下車たと思ふが、……其とも室を替へて此處まで來たか、俥が三臺、揃つて。」
と見る、目の前へ、黄色い提灯の灯が流れて、がたりと青く塗つた函車を曳出すものあり。提灯には赤い蕋で、車には白い紋で、菊屋の店に相違ない。
「一寸、菊屋の迎かい。」
「然うで。」
とぶつきら棒立。仲屋の小僧と云ふ身の、から脛の、のツぽが答へる。
「おい、其處へ行くんだ、俥はないかね。」
「今ので出拂つたで、」
「出拂つた……然うか。……餘程あるかい。」
「何、ぢき其處だよ。旦那、毛布預ろかい。」
縞の膝掛を函に載せて、
「荷もつも寄越すが可いよ。」
「追剥のやうだな。」
と思はず笑つたが、これは分らなかつた。奴はけろりとして、冷いか、日和下駄をかた〳〵と高足に踏鳴らす。
「おい來た。」
と出さうとした信玄袋は、顧みるに餘りに輕い。函に載せると、ポンと飛出しさうであるから遠慮した。
「これは可いよ。」
「然うかね、では、早く來さつせいよ。寒いから。」
ありや、と威勢よく頭突に屈んで、鼻息をふツと吹き、一散に黒く成つてがら〳〵と月夜を駈出す。……
猪が飛出したやうに又驚いて、彼は廣い辻に一人立つて、店々の電燈の數より多い、大屋根の石の蒼白い數を見た。
紙張の立看板に、(浮世の波。)新派劇とあるのを見た。其の浮世の波に、流れ寄つた枯枝であらう。非ず、湖の冬を彩る、紅の二葉三葉。
「酒を頼むよ、何しろ、……熱くして。」
菊屋に着いて、一室に通されると、まだ坐りもしない前、外套を脱ぎながら、案内の女中に註文したのは、此の男が、素人了簡の囘生劑であつた。
其のまゝ、六疊の眞中の卓子臺の前に、摚と坐ると、早や目前にちらつく、濃き薄き、染色の葉に醉へるが如く、額を壓へて、ぐつたりと成つて、二度目に火鉢を持つて來たのを、誰とも知らず、はじめから其處に火を裝つて備附けられたもののやうに、無意識に煙草を吸つた。
細い煙も峰に靡く。
「お召しかへなさいまして、お湯へ入らつしやいまし。」
「然うだ、飛込まう。」
と糊の新しい浴衣に着換へて──件の胴震ひをしながら──廊下へ出た。が、する〳〵と向うへ、帳場の方へ、遙に駈けて行く女中を見ながら、彼は欄干に立つて猶豫つたのである。
湯氣が温く、目の下なる湯殿の窓明に、錦葉を映すが如く色づいて、むくりと此の二階の軒を掠めて、中庭の池らしい、さら〳〵と鳴る水の音に搖れかゝるから、内湯の在所は聞かないでも分る。
が、通された部屋は、すぐ突當りが壁で、其處から下りる裏階子の口は見えない。で、湯殿へは大𢌞りしないと行かれぬ。
處で、はじめ女中に案内されて通つた時から、
「此處では醉へないぞ。」と心で叫んだ、此の高いのに、別に階子壇と云ふほどのものも無し、廊下を一𢌞りして、向うへ下りるあたりが、可なりな勾配。低い太鼓橋を渡るくらゐ、拭込んだ板敷が然もつるりと辷る。
彼は木曾の棧橋を、旅店の、部屋々々の障子、歩板の壁に添つて渡つて來た……其も風情である。
雖然、心覺えで足許の覺束なさに、寒ければとて、三尺を前結びに唯解くばかりにしたればとて、ばた〳〵駈出すなんど思ひも寄らない。
且つは暗い。……前途下りに、見込んで、其の勾配の最も著しい其處から、母屋の正面の低い縁側に成る壁に、薄明りの掛行燈が有るばかり。他は、自分のと一間置いて高樓の一方の、隅の部屋に客がある、其處の障子に電燈の影さすのみ。
「此は、そろり〳〵と參らう。」
獨りで苦笑ひして、迫上つた橋掛りを練るやうに、谿川に臨むが如く、池の周圍を欄干づたひ。
他の客の前をなぞへに折曲つて、だら〳〵下りの廊下へ掛ると、舊來た釣橋の下に、磨硝子の湯殿が底のやうに見えて、而して、足許が急に暗く成つた。
ト何處へ響いて、何に通ふか、辿々しく一歩二歩移すに連れて、キリ〳〵キリ〳〵と微に廊下の板が鳴る。
ちよろ〳〵とだけの流ながら、堤防も控へず地續きに、諏訪湖を一つ控へたれば、爪下へ大湖の水、鎬をせめて、矢をはいで、じり〳〵と迫るが如く思はるゝ。……其の音さへ、途留むか、と耳に響いて、キリ〳〵と細く透る。……
奧山家の一軒家に、たをやかな女が居て、白雪の絲を谷に繰り引く絲車の音かと思ふ。……床しく、懷しく、美しく、心細く、且つ凄い。
ト又聞える。
(きり〳〵、きり〳〵
きいこ、きいこ。)……
彼は引据ゑられるやうに立つた。
古の本陣と云ふ構への大きな建ものは、寂然として居る。
客は他にない。
湯に行つた留守か、もの越、氣勢もしないが、停車場から俥で走らした三人の客、其の三人が其處に、と思つて、深く注意した、──今は背後に成つた──取着きの電燈を裡に閉切つた、障子の前へ、……翼を掻込んだ、地を渡る鳥の影が黒く映つた。
小形な鳩ほどある、……
唯見ると、する〳〵と動く。障子はづれに消えたと思ふと、きり〳〵と板に鳴つて、つる〳〵と辷つて、はツと思ふ袂の下を、悚然と胸を冷うさして通拔けた。が、颯と、翠に、藍を襲ね、群青を籠めて、紫に成つて、つい、其の掛行燈の前を拔けた。
が、眞赤な嘴口を明けた。
萌黄色の首がする〳〵と伸びて、車が軋つて、
(きり〳〵、きり〳〵
きいこ、きつこ、きいこ。)……
(樹へ行こ、樹へ行こ。
樹樵來るな、樹樵來るな。きいこ、きいこ。)
と鳴いた。
あゝ、あの、手遊びの青首の鴨だ、と見ると、續いて、追ひ状に袖の下を拔けたのは、緋に黄色に、艶々とした鴛鴦である。
ともに、勾配にすら〳〵と、水に流るゝ、……廊下を辷る。
「何處かへ絲を引掛けた。」
廣袖へ着けて女中が、と、はた〳〵と袖を煽つたが、フト鳥に成るやうに思つて、暗がりで悚然とした。
第一、身に着いた絲の、玩弄具の鳥が、彳んだものを、向うへ通拔ける數はない。
手を緊めて、差窺ふ、母屋の、遠く幽なやうな帳場から、明の末が茫と屆く。池に面した大廣間、中は四五十疊と思はるゝ、薄暗い障子の數の眞中あたり。合せ目を細目に開けて、其處に立つて、背後に、月の影さへ屆かぬ、山又山の谷々を、蜘蛛の圍の如く控へた、星に屆く黒き洞穴の如き大なる暗闇を翼に擴げて、姿は細き障子の立棧。
温泉の煙に、ほんのりと、雪なす顏、黒髮の髷。
幻の裳に月影さすよと、爪先白く立つたのが、花の魂のやうな手を上げて、ちらりと招く。
きり〳〵と、鳥の形は柱を繞つた。
其の女は──
──此に就いて、別に物語があるのである。
底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年9月4日作成
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