二た面
泉鏡太郎
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話は別にある……色仕掛で、あはれな娘の身の皮を剥いだ元二と云ふ奴、其の袷に一枚づゝ帶を添へて質入れにして、手に握つた金子一歩としてある。
此の一歩に身のかはを剥がれたために可惜や、お春と云ふ其の娘は繼母のために手酷き折檻を受けて、身投げをしたが、其も後の事。件の元二はあとをも見ないで、村二つ松並木を一帳場で瓜井戸の原へ掛つたのが彼これ夜の八ツ過であつた。
若草ながら廣野一面渺茫として果しなく、霞を分けてしろ〴〵と天中の月はさし上つたが、葉末に吹かるゝ我ばかり、狐の提灯も見えないで、時々むら雲のはら〳〵と掛るやうに處々草の上を染めるのはこゝに野飼の駒の影。
元二は前途を見渡して、此から突張つて野を越して瓜井戸の宿へ入るか、九つを越したと成つては、旅籠屋を起しても泊めてはくれない、たしない路銀で江戸まで行くのに、女郎屋と云ふわけには行かず、まゝよとこんな事はさて馴れたもので、根笹を分けて、草を枕にころりと寢たが、如何にも良い月。
春の夜ながら冴えるまで、影は草葉の裏を透く。其の光が目へ射すので笠を取つて引被つて、足を踏伸ばして、眠りかけるとニヤゴー、直きそれが耳許で、小笹の根で鳴くのが聞えた。
「や、念入りな處まで持つて來て棄てやあがつた。野猫は居た事のない原場だが。」
ニヤゴと又啼く。耳についてうるさいから、しツ〳〵などと遣つて、寢ながら兩手でばた〳〵と追つたが、矢張聞える、ニヤゴ、ニヤゴーと續くやうで。
「いけ可煩え畜生ぢやねえか、畜生!」と、怒鳴つて、笠を拂つてむつくりと半身起上つて、透かして見ると何も居らぬ。其の癖四邊にかくれるほどな、葉の伸びた草の影もなかつた。月は皎々として眞晝かと疑ふばかり、原は一面蒼海で凪ぎたる景色。
ト錨が一具据つたやうに、間十間ばかり隔てて、薄黒い影を落して、草の中でくる〳〵と𢌞る車がある。はて、何時の間に、あんな處に水車を掛けたらう、と熟と透かすと、何うやら絲を繰る車らしい。
白鷺がすらりと首を伸ばしたやうに、車のまはるに從うて眞白な絲の積るのが、まざ〳〵と白い。
何處かで幽に、ヒイと泣き叫ぶ、うら少い女の聲。
晝間あのお春が納戸に絲を繰つて居る姿を猛然と思出すと、矢張り啼留まぬ猫の其の聲が、豫ての馴染でよく知つた、お春が撫擦つて可愛がつた黒と云ふ猫の聲に寸分違はぬ。
「夢だ。」
と思ひながら瓜井戸の野の眞中に、一人で頭から悚然すると、する〳〵と霞が伸びるやうに、形は見えないが、自分の居まはりに絡つて啼く猫の居る方へ、招いて手繰られたやうに絲卷から絲を曳いたが、幅も丈も颯と一條伸擴がつて、肩を一捲、胴で搦んで。
「わツ。」
と掻拂ふ手をぐる〳〵捲きに、二捲卷いてぎり〳〵と咽喉を絞める、其の絞らるゝ苦しさに、うむ、と呻いて、脚を空ざまに仰反る、と、膏汗は身體を絞つて、颯と吹く風に目が覺めた。
草を枕が其のまゝで、早やしら〴〵と夜が白む。駒の鬢がさら〳〵と朝のづらに搖いで見える。
恐ろしいより、夢と知れて、嬉しさが前に立つた。暫時茫然として居たが、膚脱ぎに成つて大汗をしつとり拭いた、其の手拭で向う顱卷をうんと緊めて、氣を確乎と持直して、すた〳〵と歩行出す。
野路の朝風、足輕く、さつ〳〵と過ぎて、瓜井戸の宿に入つたのが、まだしら〴〵あけで。
宿の入口に井戸川と云つて江戸川をなまつたやうな、些かもの欲しさうな稱の流があつた。古い木の橋が架つて居た。
固より身をやつす色氣十分の男であるから、道中笠の中ながら目やにのついた顏は、茶店の婆にも覗かせたくない。其處で、でこぼこと足場の惡い、蒼苔と夜露でつる〳〵と辷る、岸の石壇を踏んで下りて、笠を脱いで、岸の草へ、荷物を其の上。顱卷をはづして、こゝで、生白い素裸になつて、入つて泳がないばかりに、足の爪先まで綺麗に拭いた。
衣服を着て帶を〆めて、やがて尻を端折らうと云ふ頃、ふと橋の上を見ると、堅氣も多いが、賣女屋のある小さな宿、何となく自墮落の風が染まると見えて、宿中いづれも朝寢らしい。
馬のすゞ一つまだ聞こえず、鳥も居ない、其の橋の欄干の上に、黒猫が一疋。
前後の脚三本でのそりと留まつて、筑波の山を朝霞に、むつくりと構へながら、一本の前脚で、あの額際から鼻の先をちよい〳〵と、其の毎に口を箕のやうに開けて、ニタ〳〵笑ひで、下の流を向いて、恁う、顏を洗ふ、と云ふ所作で居た。
「畜生め。」
それかあらぬか、昨夜は耳許でニヤゴ〳〵啼いて、其のために可厭な夢を見た。其の憎さげな、高慢な、人を馬鹿にした形は何うだい、總別、氣に食はない畜生だ、と云ふ心から、石段の割れた欠を拾つて、俗にねこと言ふ、川楊の葉がくれに、熟と狙つて、ひしりと擲げる、と人に見せつけがましく此方を見い〳〵、右のちよつかいを遣つて居たが、畜生不意を打たれたらしい。
額を掠つて、礫は耳の先へトンと當つた。
爀と眞黄色な目を光らしたが、ギヤツと啼いて、ひたりと欄干を下へ刎返る、と橋を傳つて礫の走つた宿の中へ隱れたのである。
「態ア見やがれ。」
カアカア、アオウガアガアガア、と五六羽、水の上へ低く濡色の烏、嘴を黒く飛ぶ。ぐわた〳〵、かたり〳〵と橋の上を曳く荷車。
「お早う。」
「や、お早う。」と聲を掛けて、元二はすれ違ひに橋を渡つた。
それから、借りのある賣女屋の前は笠を傾けて、狐鼠々々と隱れるやうにして通つたが、まだ何處も起きては居ない、春濃かに門を鎖して、大根の夢濃厚。此の瓜井戸の宿はづれに、漸つと戸を一枚開けた一膳めし屋の軒へ入つた。
「何か出來ますかね。」
嬰兒も亭主もごみ〳〵と露出の一間に枕を並べて、晨起の爺樣一人で、釜の下を焚つけて居た處で。
「まだ、へい、何にもござりましねえね、いんま蕨のお汁がたけるだが、お飯は昨日の冷飯だ、それでよくば上げますがね。」
「結構だ、一膳出しておくんなさい、いや、どつこいしよ。」
と店前の縁側、壁に立掛けてあつた奴を、元二が自分で据直して、腰を掛ける。
其處へ古ちよツけた能代の膳。碗の塗も嬰兒が嘗め剥がしたか、と汚らしいが、さすがに味噌汁の香が、芬とすき腹をそゝつて香ふ。
「さあ、遣らつせえまし、蕨は自慢だよ。これでもへい家で食ふではねえ。お客樣に賣るだで、澤山沙魚の頭をだしに入れて炊くだアからね。」
「あゝ、あゝ、そりや飛だ御馳走だ。」
と箸の先で突いて見て、
「堪らねえ、去年の沙魚の乾からびた頭ばかり、此にも妄念があると見えて、北を向いて揃つて口を開けて居ら。蕨を胴につけてうよ〳〵と這出しさうだ、ぺつ〳〵。」
と、頭だけ膳の隅へはさみ出すと、味噌かすに青膨れで、ぶよ〳〵とかさなつて、芥溜の首塚を見るやう、目も當てられぬ。
其でも、げつそり空いた腹、汁かけ飯で五膳と云ふもの厚切の澤庵でばり〳〵と掻込んだ。生温い茶をがぶ〴〵と遣つて、爺がはさみ出してくれる焚落しで、立て續けに煙草を飮んで、大に人心地も着いた元二。
「あい、お代は置いたよ。」
「ゆつくらしてござらつせえ。」
「さて、出掛けよう。」
と今はたいたまゝで、元二が、財布の出入れをする内、縁側の端に置いた煙管を取つて、兩提の筒へ突込まうとする時、縁臺の下から、のそ〳〵と前脚を黒く這ひ出した一疋の黒猫がある。
ト向直つて、元二の顏をじろりと見るやうにして招き、と云ふ形で蹲んだが、何故か無法に憎かつた。で、風呂敷包みと笠を持つて立ちながら、煙管を其のまゝ片手に持つて、づいと縁臺を離れて立つて出た。
元二が、一膳めし屋の前を離れて、振返る、と件の黒猫が、あとを、のそ〳〵と歩行いて居る。
此處まで堪へたのは、飯屋の飼猫だ、と思つたからで。最う、爺さまの目の屆かないのを見澄まして、
「畜生。」
と、雁首で、猫の額をぴしりと打つた、ぎやつ、と叫ぶと、猫は斜かひに飛んで、早や、其處が用水べりの田圃に飛んだ。
「おさらばだい。」
と、煙管を吹く。とじり〳〵と吸込んで吹殼のこそげ附いて拔けない奴、よこなぐりに、並木の松へトンと拂つて、花の霞の江戸の空、筑波を横に急ぐ。
トあれ見よ、其の頭を慕つて、並木の松の枝から枝へ、土蜘蛛の如き黒猫がぐる〳〵と舞ひながら。
さても、其の後、江戸で元二が身を置いた處は、本所南割下水に住んで祿千石を領した大御番役服部式部邸で、傳手を求めて同じ本所林町、家主惣兵衞店、傳平と云ふもの請人で齊く仲間に住込んで居たのであつた。
小利口にきび〳〵と立𢌞はつて、朝は六つ前から起きて、氣輕身輕は足輕相應、くる〳〵とよく働く上、早く江戸の水に染みて、早速情婦を一つと云ふ了簡から、些と高い鼻柱から手足の先まで磨くこと洗ふこと、一日十度に及ぶ。心状のほどは知らず、仲問風情には可惜男振の少いものが、鼻綺麗で、勞力を惜まず働くから、これは然もありさうな事、上下擧つて通りがよく、元二元二と大した評判。
分けて最初、其のめがねで召抱へた、服部家の用人關戸團右衞門の贔屓と目の掛けやうは一通りでなかつた。
其の頼母しいのと當人自慢だけの生白い處へ、先づ足駄をひつくりかへしたのは、門内、團右衞門とは隣合はせの當家の家老、山田宇兵衞召仕への、居まはり葛西の飯炊。
續いて引掛つたのが同じ家の子守兒で二人、三人目は部屋頭何とか云ふ爺の女房であつた。
いや、勇んだの候の、瓜井戸の姉はべたりだが、江戸ものはコロリと來るわ、で、葛西に、栗橋北千住の鰌に鯰を、白魚の氣に成つて、腮を撫でた。當人、女にかけては其のつもりで居る日の下開山、木下藤吉、一番槍、一番乘、一番首の功名をして遣つた了簡。
此の勢に乘じて、立處に一國一城の主と志して狙をつけたのは、あらう事か、用人團右衞門の御新造、おきみ、と云ふ、年は漸く二十と聞く、如何にも一國一城にたとへつべき至つて美しいのであつた。
が、此はさすがに、井戸端で、名のり懸けるわけには行かない、さりとて用人の若御新造、さして深窓のと云ふではないから、隨分臺所に、庭前では朝に、夕に、其の下がひの褄の媚かしいのさへ、ちら〳〵見られる。
「元二や。」
と優しい聲も時々聞く。手から手へ直接に、つかひの用のうけ渡もするほどなので、御馳走は目の前に、唯お預けだ、と肝膽を絞りつつ悶えた。
ト此の團右衞門方に飼猫の牡が一疋、これははじめから居たのであるが、元二が邸内へ奉公をしてから以來、何處から來たか、むく〳〵と肥つた黒毛で艶の好い天鵝絨のやうな牝が一つ、何時の間にか、住居へ入つて縁側、座敷、臺所、と氣まゝに二つが狂ひ遊ぶ。
處が、少い御新造より、年とつた旦那團右衞門の方が、聊か煩惱と云ふくらゐ至極の猫好で、些とも構はないで、同じやうに黒よ、黒よ、と可愛がるので何時ともなしに飼猫と同樣に成つたと言ふ。此の黒が、又頻りに元二に馴れ睦んで、ニヤゴー、と夜も晝も附添ひあるいて、啼聲も愛くるしく附いて𢌞る。
ト元二が又、撫でつ擦りつ可愛がる。最う此の頃には、それとなく風のたよりに、故郷の音信を聞いて自殺した嫂のお春の成ゆきも、皆其の心得違ひから起つた事と聞いて知つて居たので、自分、落目なら自棄にも成らうが、一番首一番乘、ソレ大得意の時であるから何となく了簡も柔かに、首筋もぐにや〳〵として居る折から、自然雨の寂しく降る夜などはお念佛の一つも唱へる處。且又同じ一國一城の主と成るにも猛者が夜撃朝懸とは質が違ふ。色男の仕こなしは、情を含んで、しめやかに、もの柔しく、身にしみ〴〵とした風が天晴武者振であるのである。と分別をするから、礫を打つたり、煙管の雁首で引拂ふなど、今然やうな陣笠の勢子の業は振舞はぬ、大將は專ら寛仁大度の事と、即ち黒猫を、ト御新造の聲を内證で眞似て、
「黒や、黒や。」
と身振をして、時々頬摺、はてさて氣障な下郎であつた。
其の年寛政十年、押詰つて師走の幾日かは當邸の御前服部式部どの誕生日とあつて、邸中が、とり〴〵其の支度に急がしく何となく祭が近いたやうにさゞめき立つ。
其の一日前の暮方に、元二は團右衞門方の切戸口から庭前へ𢌞つた、座敷に御新造が居る事を豫め知つての上で。
落葉を掃く樣子をして箒を持つて、枝折戸から入つた。一寸言添へる事がある、此の頃から元二は柔かな下帶などを心掛け、淺黄の襦袢をたしなんで薄化粧などをする、尤も今でこそあれ、其の時分仲間が顏に仙女香を塗らうとは誰も思ひがけないから、然うと知つたものはなかつたらう、其の上、ぞつこん思ひこがれる御新造のお君が優しい風情のあるのを窺つて、居𢌞りの夜店などで、表紙の破れた御存じの歌の本を漁つて來て、何となく人に見せるやうに捻くつて居たのであつたが。
其の時御新造は日が短い時分の事、縁の端近へ出て、御前が誕生日には着換へて出ようと云ふ、紋服を、又然うでもない、しつけの絲一筋も間違ひのないやうに、箪笥から出して、目を通して、更めて疊み直して居る處。
「えゝ、御新造樣、續きまして結構なお天氣にござります。」
「おや、元二かい、お精が出ます。今度は又格別お忙しからう。御苦勞だね。」
「何う仕りまして、數なりませぬものも蔭ながらお喜び申して居ります。」
「あゝ、おめでたいね、お客さまが濟むと、毎年ね、お前がたも夜あかしで遊ぶんだよ。まあ、其を樂にしてお働きよ。」
ともの優しい、柔かな言に附入つて、
「もう、其につきまして。」
と沓脱の傍へ蹲つて揉手をしながら、圖々しい男で、づツと顏を突出した。
「何とも恐多い事ではござりますが、御新造樣に一つお願があつて罷出ましてござります、へい。外の事でもござりませんが、手前は當年はじめての御奉公にござりますが、承りますれば、大殿樣御誕生の御祝儀の晩、お客樣がお立歸りに成りますると、手前ども一統にも部屋で御酒を下さりまするとか。」
「あゝ、無禮講と申すのだよ、たんとお遊び、そしてお前、屹と何かおありだらう、隱藝でもお出しだと可いね。」
と云つて莞爾した。元二、頸許からぞく〳〵、
「滅相な、隱藝など、へゝゝ、其に就きましてでござります。其の無禮講と申す事で、從前にも向後にも他ありません此のお邸、決して然やうな事はござりますまいが、羽目をはづしてたべ醉ひますると、得て間違の起りやすいものでござります、其處を以ちまして、手前の了簡で、何と、今年は一つ趣をかへてお酒を頂戴しながら、各々國々の話、土地處の物語と云ふのを、しめやかにしようではあるまいかと申出ました處部屋頭が第一番、いづれも當御邸の御家風で、おとなしい、實體なものばかり、一人も異存はござりません。
處で發頭人の手前、出來ませぬまでも皮切をいたしませぬと相成りません。
國許にござります其の話につきまして、其を饒舌りますのに實にこまりますことには、事柄の續の中に歌が一つござりますので。
部屋がしらは風流人で、かむりづけ、ものはづくしなどと云ふのを遣ります。川柳に、歌一つあつて話にけつまづき、と云ふのがあると何時かも笑つて居りましたが、成程其の通りと感心しましたのが、今度は身の上で、歌があつて躓きまして、部屋がしらに笑はれますのが、手前口惜しいと存じまして。」
と然も若氣に思込んだやうな顏色をして云つた。川柳を口吟んでかむりづけを樂む、其の結構な部屋がしらの女房を、ものして、居るから怪しからぬ。
「少しばかり小遣の中から恁やうなものを、」
と懷中から半分ばかり紺土佐の表紙の薄汚れたのを出して見せる。
「おや、歌の……お見せな。」
と云ふ瞳が、疊みかけた良人の禮服の紋を離れて、元二が懷中の本に移つたのであつた。
「否、お恥かしい、御目に掛けるやうなのではござりません。それに、夜店で買ひましたので、お新造樣お手に觸れましては汚うござります。」
と引込ませる、と水の出花と云ふのでもお君はさすがに武家の女房、仲間の膚に着いたものを無理に見ようとはしなかつた。
「然うかい。でも、お前、優しいお心掛だね。」
と云ふ。宗桂が歩のあしらひより、番太郎の桂馬の方が、豪さうに見える習であるから、お君は感心したらしかつた。然もさうず、と元二が益々附入る。
「本を買つてさぐり讀みに搜しましてもどれが何だか分りません。其に、あゝ、何とかの端本か、と部屋頭が本の名を存じて居りますから、中の歌も此から引出しましたのでは先刻承知とやらでござりませう。其では種あかしの手品同樣慰になりません、お願と申しましたのは爰の事、御新造樣一つ何うぞ何でもお教へなさつて遣はさりまし。」
お君さんが、ついうつかりと乘せられて、
「私にもよくは分らないけれど、あの、何う云ふ事を申すのだえ、歌の心はえ。」
「へい、話の次第でござりまして、其が其の戀でござります。」
と初心らしく故と俯向いて赤く成つた。お君も、ほんのりと色を染めたが、庭の木の葉の夕榮である。
「戀の心はどんなのだえ。思うて逢ふとか、逢はないとか、忍ぶ、待つ、怨む、いろ〳〵あるわね。」
「えゝ、申兼ねましたが、其が其が、些と道なりませぬ、目上のお方に、もう心もくらんで迷ひましたと云ふのは、對手が庄屋どのの、其の。」
と口早に言足した。
で、お君は何の氣も着かない樣子で、
「お待ち。」
と少し俯向いて考へるやうに、歌袖を膝へ置いた姿は亦類なく美しい。
「恁ういたしたら何うであらうね。
思ふこと關路の暗のむら雲を
晴らしてしばしさせよ月影
分つたかい。一寸いま思出せないから、然うしてお置きな、又氣が着いたら申さうから。」
元二は目を瞑つて、如何にも感に堪へたらしく、
「思ふこと關路の暗のむち雲を、
晴らしてしばしさせよ月影。
御新造樣、此の上の御無理は、助けると思召しまして、其のお歌を一寸お認め下さいまし。お使の口上と違ひまして、つい馴れませぬ事は下根のものに忘れがちにござります、よく、拜見して覺えますやうに。」
としをらしく言つたので、何心なく其の言に從つた。お君は、しかけた用の忙しい折から、冬の日は早や暮れかゝる、ついありあはせた躾の紅筆で懷紙へ、と丸髷の鬢艶やかに、もみぢを流すうるはしかりし水莖のあと。
さて、話の中の物語り、煩はしいから略く、……祝の夜、仲間ども一座の酒宴、成程元二の仕組んだ通り、いづれも持寄りで、國々の話をはじめた。元二の順に杯も𢌞つて來た時、自分國許の事に懲りて仔細あつて、世を忍ぶ若ものが庄屋の屋敷に奉公して、其の妻と不義をする、なかだちは、婦が寵愛の猫で、此の首環へ戀歌を結んで褄を引くと云ふ運び。情婦であつたお春の家に手飼の猫があつたから、袖に袂に、猫の搦む處は、目で見るやう手に取るやうに饒舌つて、
「實は此は、御用人の御新造樣に。」
と如何なる企か、内證の筈と故と打明けて饒舌つて、紅筆の戀歌、移香の芬とする、懷紙を恭しく擴げて人々へ思入十分で見せびらかした。
自分で許す色男が、思ひをかけて屆かぬ婦を、恁うして人に誇る術は隨分數へ切れないほどあるのである。
一座、目を欹てた。
けれども、對手が守子や飯炊でない、人もこそあれ一大事だ、と思ふから、其の後とても皆口をつぐんで何にも言はず無事にしばらく日は經つた。
元二は、絶えず、其の歌を、肌に添へて持つて居て、人の目につくやうに、つかないやうに、ちら〳〵と出しては始終熟と視る。
然うかと思ふと、一人で、思ひに堪へ廉ねるか、湯氣の上に、懷紙をかざして、紅を蒸して、密と二の腕に當てた事などもある、ほりものにでもしよう了簡であつた、と見えるが、此は其の效がなかつたと言ふ。
翌年、二月初午の夜の事で、元二其の晩は些と趣を替へて、部屋に一人居て火鉢を引つけながら例の歌を手本に、美しいかなの手習をして居た。
其處へあの、牝の黒猫が、横合から、フイと乘りかゝつて、お君のかいた歌の其の懷紙を、後脚で立つてて前脚二つで、咽喉へ抱へ込むやうにした。疾い事、くる〳〵と引込んで手玉を取るから、吃驚して、元二が引くと放さぬ。
慌てたの何のではない、が、烈しく引張ると裂けさうな處から、宥めたが、すかしたが、其の效さらになし、口へ啣へた。
堪兼ねて、火箸を取つて、ヤツと頭を打つたのが下へ外れて、尖の當つたのが、左の目の下。キヤツと啼く、と五六尺眞黒に躍り上つて、障子の小間からドンと出た、尤も歌を啣へたまゝで、其ののち二日ばかり影を見せぬ。
三日目に、井戸端で、例の身體を洗つて居る處へ、ニヤーと出て來た。
最う忘れたやうに、相變らず、すれつ、縺れつ、と云ふ身で可懷い。
目の下に、火箸の尖で突いた、疵がポツツリ見える、ト確に覺えて忘れぬ、瓜井戸の宿はづれで、飯屋の縁側の下から出た畜生を、煙管の雁首でくらはしたのが、丁ど同じ左の目の下。で、又今見る疵が一昨日や昨夜怪我をしたものとは見えぬ、綺麗に癒えて、生れつき其處だけ、毛の色の變つて見えるやうなのに悚然した。
はじめから、形と云ひ、毛色と云ひ、剩へ其が、井戸川の橋の欄干で、顏洗ひを遣つて居た猫と同一ことで、續いては、お春の可愛がつた黒にも似て居る。
とは知つたけれども、黒猫はざらにある、別に可怪とも思はなかつたのが、此の疵を見てから堪らなく氣になり出した。然も、打たれた男に齒向いて、ウヽと爪を磨ぐのでない。それからは、猶更以てじやれ着いて、ろくに團右衞門の邸へも行かず、絡はりつくので、ふら〳〵立ちたいほど氣に掛つた。
處へ、御新造お君さんが、病氣と云ふ事、引籠り、とあつてしばらく弗と姿が見えぬ。
と思ふと、やがて保養とあつて、實家方へ、歸つたのである。が、あはれ、此の婦人も自殺した。それは昔、さりながら、田舍ものの圖々しいのは、今も何よりも可恐しい。
底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年9月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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