イノチガケ
──ヨワン・シローテの殉教──
坂口安吾
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一五四七年一月、一艘のポルトガル商船が九州の一角に坐礁して引卸しにかゝつてゐると、丘の上から騎馬で駈け降りてきた二人の日本人があつて、手拭を打ちふり、その船に乗せてくれないかと叫びたてゝゐる。
四名の水夫がボートを下し岸へ漕ぎ寄せて聞いてみると、事情があつて追跡を受けてゐる者であるが、かうしてゐるうちにも追手の者が来さうであるから、船に乗せて一時の急を救つてもらひたいといふ頼みである。
水夫達は当惑したが、見れば一人はかねて九州ヒヤマレゴ(該当地不詳)の港で面識のある者であるから、とにかくボートに乗せて本船へ漕ぎもどることにした。
ところへ同じ丘の上から十四名の騎馬の者が現れてきて、二人の者を渡さなければ鏖殺しにしてしまふと敦圉いて罵り騒いでゐる。そこへ又九名の者が駈けつけてきて、追手の数は二十三名となつた。
水夫達は驚いて急ぎ本船に漕戻り、二人を乗せて印度へ向けて立去つた。なかの一人を弥次郎と言つた。
この船の船長はかねて印度の開教者フランシスコ・サビエルの徳を慕ふ者だつたので、弥次郎の行末をあはれみ、改宗をすゝめて、サビエルに会ふ手引をした。その年十一月、弥次郎は馬拉加でサビエルに会ふことができた。
印度土人は無智野蛮で、生活は本能のまゝであり、懶惰狡猾で信義がなかつた。基督教のいましめは彼等にとつて死を意味した。サビエルは布教の前途に失望の念を抱かざるを得なかつた。
さて、弥次郎と暫らく起臥を共にして指導してみると、彼の天性怜悧であり、信義に厚く、信仰は又熾烈である。日本人とはこのやうな者であるなら、日本こそ布教すべき地であるとサビエルは思つた。弥次郎を遣はされたのも日本を伝道せよとの天父の聖旨であらうと信じ、こゝに日本伝道を決意、弥次郎をゴアの学院へ送り、諸般の準備をとゝのへた。弥次郎はゴアで洗礼を受け、その教名をパウロと言つた。
トルレス神父、フェルナンデス法弟、その他の者を従へ、パウロの案内によつてその故郷鹿児島へ上陸したのは一五四九年八月十五日、聖母まりや昇天祭の日であつた。
弥次郎の縁者知己はその転宗を怪しまず、遠く海外を遍歴した勇気を賞讃。島津貴久はパウロ弥次郎を引見して、跪いて聖母まりやの絵姿に礼拝し、改めてその油絵を懇望したが、他に代るべき絵姿がなかつたので応じるわけにいかなかつた。
一般に日本人は宗教に淡泊である。異体の知れない唐天竺の神様でも、神様とあれば頭の一度や二度ぐらゐいつでも下げるに躊躇しない代りには、先祖代々の信心にもそれほど執着してゐない。
日蓮が大きな迫害を受けたのは、彼自らが他宗を非難したからであり、基督教の布教でも、仏僧に宗論を吹かけ、仏僧の堕落を難じ、事毎に異端に向つて敵対を示さなければ、彼等の受けた迫害も尠かつたに相違ない。
一般の善男善女はサビエル一行が天竺から来たときいて、仏教の本場の坊主が来たと思つた。
最も磊落なのは禅僧であつた。彼等は宗派のひとつぐらゐ増えたところで馬耳東風のたちだから、天竺渡来の坊主共をことごとく歓待し、大いに胸襟をひらいてみせた。
鹿児島に福昌寺の忍室といつて博識の聞え高い老僧があつた。サビエルはこの禅僧と親交を結び、屡々往来したが、或る日数人の坊主が坐禅を組んでゐるのを見て、あれは何をしてゐるのかと訊ねた。
「さればさ。あした貰ふ布施のことやら女のことでも考へてゐるのだらうて。どうせ碌なことは考へをらん奴等でな」と年老いた禅僧は磊落に答へてカラ〳〵と笑つた。
サビエルの真摯一方の精神に本来無東西の磊落は通じる筈がないのである。禅僧は己れの神も苦業も信じてはゐないと断じ、仏教のこの大いなる不誠実を忽ち本国へ報告した。
豊後の国で深田寺のなにがしといふ禅僧はじめ数名の坊主と会見したことがあつた。
深田寺は禅問答の要領で、サビエルの顔を熟視しながら、見覚えのある顔だが貴公はその覚えがないかと言つた。
もとより知らない顔だから、その覚えはござらぬとサビエルは答へた。
すると深田寺は失笑して旁の坊主に向ひ、この仁は見覚えがないと言ふが、知らないふりをするのは奇妙千万なと語つて、「貴公は千五百年前、比叡山でをれをつかまへて絹五十反売りつけをつた仁ではないか。今度もあの時の残り物を商ひに来をつたのだらう。ワッハッハッハ」と言つた。
サビエルは禅問答の要領など聞知してゐなかつたから、仏僧共の無智傲慢な言説に唖然として、貴殿はいくつになられるかと訊ねた。
深田寺は五十二になると答へた。
サビエルはこれを聞くより儼然坐を正して仏僧を睨まへて、五十二歳の者がどうして千五百年前に絹を買ふことができたか、又、比叡山は開かれてから千年にも満たない山だといふではないか、とあたりまへの屁理窟を言つて、不謹慎な言説を責めつけた。約束の違ふ言ひがゝりだから、禅僧は語に窮したとある。
禅問答には禅問答の約束があつて、両者互に約束を承知の上でなければ、飛躍した論理も悟りも意味をなさない。そこでかういふ問答の結果がどうかと言へば、仲間同志の禅坊主だけ寄り集つて、彼奴は悟りの分らない担板漢だなどと言つて般若湯で気焔をあげてもゐられるけれども、然し、かういふ約束の足場は確固不動のものではないから、内省の魔が忍びこんでくる時には晏如としてはゐられない。辛酸万苦して飛躍を重ねた論理も、誠実無類な生き方を伴はなければ忽ち本拠を失つて、傲然自恃の怪力も微塵に砕け散る惨状を呈してしまふ。サビエルはじめ伴天連入満の誠実謙遜な生き方に圧倒されて、敬服せざるを得なくなるのである。
仏僧の切支丹転宗は相継いでかなりあつたが、その者は禅僧であつたといふ。
忍室もサビエルの誠実な生き方に心服、自力の本拠を失つた一人であつた。後年鹿児島を訪れた法弟アルメーダに向つて、自分には禅僧としての地位名望があるので外聞をはばかつて控へてゐたが、死に先立つて洗礼を受けたいものだと言ひだした。老僧の孤影悄然木枯の荒野に落ちたやうに哀れであるが、このあつさりした転向ぶりはカトリックの執拗な信仰できたへたアルメーダには判らないから、インチキ千万な坊主だと思つて拒絶してしまつた。
京畿地方を開教したビレラが将軍足利義輝に謁見して布教の免許を受けることができたのも、建仁寺の一禅僧の斡旋であつた。
サビエルも之に先立つて中国から京畿を廻つたが、当時は戦乱の最中で、京都は衰微の極に達し、布教どころではなかつた。この道中、喜捨はすべて貧民に頒ち与へ、自分はボロ服を着て、野宿をしたり食物にも事欠きながら、乞食のやうな旅行をつゞけて説法した。熱帯からやつて来たので特に寒気に苦しんで屡々発病したが、乗物を用ひず、ミサの祭具を詰めこんだズダ袋を背負つて歩いた。欧羅巴にゐた頃から伝道の生涯をかうして押通してきたのである。諸方で信者はできたが、前途の隆盛を望み得るといふ程ではなかつた。
ところへ一艘のポルトガル商船が豊後へ来着して、当時山口に布教中のサビエルを豊後に招いた。
サビエルは招きに応じて例の通りのボロ服にズダ袋を背負ひ途中に発病してフラ〳〵と辿りついたが、ポルトガル商船の方では六十三発の祝砲をぶつぱなし、盛装したポルトガル商人が騎馬の大行列をねつて、彼等の敬愛する東洋の布教長の来着を迎へた。一行は病み衰へたサビエルを見て切に乗馬をすゝめたが、サビエルは肯じないので、一同も馬から下りて、聖師の後から馬の轡を引つぱつて戻つてきた。
府内の城では砲声をきゝつけて、ポルトガル商船が海賊と戦争を始めたものと考へた。早速家老を大将に加勢の一隊を差向けたが、サビエル来着の祝砲と分つて復命。改めて迎への使者を差向けたところが、ポルトガル商船の方では日本人の気質を呑込んでゐて、十五発の大砲を放つて使者の来着に敬意を表したから、使者一行は大満足で、サビエルの威光を肝に銘じて引下つた。
サビエルが領主大友義鎮に謁見の日が輪をかけた騒ぎであつた。砲声殷々と轟く中に、船長ガマを指揮官として、先頭に聖母の像を捧げ、ポルトガル商人水夫総勢揃つて金銀の鎖で飾つた色とりどりの礼服をきて行列をねり、左右二列の楽隊を配し、錦繍の国旗をひるがへして府内城下に乗込んだ。進物として異国の珍器を数々贈つたから、大友義鎮はじめ家臣一同絶大の敬意を払つてサビエルを迎へ、基督教は一時に上下に浸潤した。
ここに於てサビエルは、日本人は威儀の旺なる者を敬ひ、又進物を愛することを痛感し、今後の布教にこの気質を利用すべしと悟り、爾来続々来朝の伴天連はこれを日本布教法の原則のやうに採用した。
始めて信長に謁見したのは神父フロイスであつた。
一五六九年春光麗な一日のことで、かねて尽力を頼んでおいた和田惟政から俄に三十騎の迎へが来て、即刻出頭せよと伝へた。フロイスは黒い法衣をまとふて二条城の工事場へ行つた。
信長は狩衣をきて、堀にかゝる橋の橋板の上に立ち、工事を指図してゐたが、フロイスが遥か遠い所から敬々しく一礼するのを見て、さしまねいた。フロイスが近づくと日が照るから帽子をかぶつてゐても構はないと言つた。
信長はフロイスの年齢や出産地やどこで坊主の勉強をしたかといふやうなことを訊いたのち、日本人がお前の教法を信じなかつたらお前は印度へ帰るのかと尋ねた。フロイスは答へて、たとひ一人でも信じる人がある以上は決して日本を去らないと言つた。談偶々仏僧の上に及んだところ、信長は大きな怒りを表はして、彼等は驕奢放逸に耽り愚民の浄財をまきあげて酒食に費してゐるものだと大声で罵つた。会談二時間に及んで、京都居住と布教の免許を与へた。
フロイスは信長に就て次のやうに書いてゐる。
「信長は尾張三分の二の主たる殿の二男で、その天下を統一し始めた頃は凡そ三十七歳であつた。体格は中背で瘠形で、髯は少く、音声はよく響き、非常に戦に長じ、武術に身を委ね、威厳を好み、又賞罰に厳であつた。苟も己れを侮る者があれば仮藉しない。然し事柄によつては開闊で、又慈心にも富んでゐた。睡眠時間は少く、早起であつた。貪る心はなく、決断に富み、戦闘の術策に於ては甚だ狡猾であり、恐しく又強く怒る。但し必ずしも常に怒るのではない。部下の云ふ事に従ふのは稀で、又多くは之を用ひず、何人も彼を恐れ又尊敬した。酒は飲まず、小食であり、起居動作は極めて鷹揚で、顔付は尊大であつた。日本中の大名等に対して、何れをも軽蔑して、彼等と話すには、自分の部下に対する様であつた。気宇が大きく、又忍耐に富み、戦が不利でも驚かない。理解がよく、判断は明確で、神仏を拝む事や、異教の卜占や、迷信的習慣を総て軽蔑した。名目の上では始めは法華宗に属してゐるやに見えたが、権勢の加はるに及んで、あらゆる偶像や神仏の礼拝を軽蔑し、又或る点では禅宗的見解を抱いて、アニマの不滅や、来世の賞罰等を考へなかつた。その家居には、非常に清潔を好み、何物でも極めて気を配つて順序よくした。又人が話をするのにぐづ〳〵したり、長口上を述べるのを甚だしく嫌つたが、極めて卑賤な者や、最も卑しい奴僕に対しても心おきなく話をしかけた。特に好んだ事柄は、有名な茶の湯、良馬、利刀、鷹狩で、又上下の別なく、裸体で角力をとるのを見て喜んだ。何人でも刀を帯びて彼に近づくのは禁物であつた。然しどことなく陰鬱の暗影があつたが、困難な仕事にかゝれば大胆で恐るゝ所なく、言下にその命を奉じた」
一五七三年、信長天下を統一。仏教を断圧し、諸寺を焼き、僧兵を打ち亡し、切支丹を擁護した。
信長は基督教を信仰してはゐなかつたが、切支丹を擁護し、仏僧を断圧するのが彼の天下統一に便利であつたし、坊主の堕落を憎んでゐたので、清貧童貞に甘んじて私慾なく貧民病者のために奔走する伴天連の誠実を高く買つた。
或る日のこと、信長は京都へ来たついでにオルガンチノとロレンソを招いて、彼等を別室へ伴つて侍臣を遠ざけたうへ、お前達は常日頃説いてゐる神の存在だのアニマの不滅だのといふやうなことを本当に信じてゐるのだらうか、今日は隠さず打開けてくれないかと秘かに訊ねた。いつぞや同じことを仏僧に訊ねたところが、彼等は仏の存在も来世も信じてはゐないが愚民を諭すに便利だから方便として用ひてゐるのだと答へ、切支丹の伴天連だつて同じことで、嘘と知りながら信仰をひろめてゐるのだと附加へた。信長も神仏の存在だのアニマの不滅だのといふやうなことは馬鹿々々しくて信ずる気持になれなかつたので、学識高い伴天連たちが愚にもつかないことを甚だ熱心に説教するのが不思議でならなかつたのである。
オルガンチノは之をきくより旁にあつた地球儀をとりあげ、伊太利亜の地を指して、これは自分の生れた国伊太利亜であるが、本国を遠く離れ、数々の危険を冒して万里の波濤を渡り、知るべもない異国へ神の教へを弘めるために来るからには、もとより一命は神に捧げてしまつてゐる。閣下も良く御存知のやうに自分達は斎戒窮苦の生活をまもつて貧民病者のために又あらゆる人の幸福のために自ら求める所なく働いてゐるといふのも、現世を望まず、一命を天にまします聖主に捧げてゐるからに他ならない。神の存在を信じ、来世の幸福を信じなければ、どうしてこのやうな困苦の生活に甘んじることができませうかと言つた。
信長はこれをきいて、彼等の真摯誠実な信仰を深く喜び、廉潔を愛し、毫も彼等の心事を疑はなかつたけれども、同時に、彼等の脳髄にはどうも異状があるやうだと疑ふ様子であつたといふ。
一説によれば、もし基督教があくまで一夫一婦の掟を強ひなければ、信長も切支丹になつたであらうと言はれてゐる。然し、もとより当にはならない。豊臣秀吉ですら或る時神父に向つて、殿中の侍女のうちで切支丹を奉じる者の操行端正なことを賞讃したあげく、もし一夫一婦の掟をもうすこし緩めてくれゝば自分も切支丹になつてもいゝと公言した。もとより之は機嫌のいゝ時に人の喜びさうなことを言つてみる秀吉の癖であり気まぐれであつた。
信長自身は一夫一婦に辟易したが、伴天連入満が清貧童貞に甘んじて厳しい掟に順ひ苟も私利のためには計らぬ様を賞美した。かくて切支丹は天下統一者の保護を得て、一時に隆盛に赴いた。
信長の居城安土には、城の下の水辺に壮大な南蛮寺が建立され、有馬と並んでセミナリヨ(神父を教師にした洋風の学校)が設けられて、諸国の青年貴公子がこゝに集ひ、ラテン語を学び、油絵を描き、西洋の楽器をかなでた。
信長は教会の音楽を愛したといふが、後に切支丹を断圧した秀吉も西洋音楽を愛好して殿中に楽士を招いて奏せしめたといふことで、一般に切支丹の祭儀の荘厳、リタニヤの音調が人心を惹きつけたことは甚大であつた。
ある仏教徒の大名は切支丹であつた息子の葬儀に参列してその荘厳な儀式に感極まつて落涙、師父に深く感謝の意を表したと云ひ、ガゴが山口へ来て降誕祭の祭儀を営んだ時には、夜半のミサに信者達は感動して泣いてしまつたと云ふ。又長崎に初めてトドス・サントス寺院ができて、復活祭の祝をした時、その聖クワルタ(水曜)の日に、師父自ら十二名の貧民の足を洗つてキリシトの例に傚ひ、つゞいて信者は行列を組んでヂシビリナで身体を打ち血を流しながら罪を悔いる誠を表はして寺院に繰込んだが、これを見る参詣の信者達は泣きだしてしまつた。
かういふ例は諸方に沢山行はれて、やがて切支丹へ改宗の機縁をつくつたに相違ない。
セミナリヨの貴公子達も特に音楽を愛好して、巧に演奏する者もできた。まだ切支丹ではない青年達も神父に就て洋学を習ふことを誇とし、血なまぐさい戦乱を経てきたばかりの安土城下は忽ちハイカラ青年の楽園となつた。
一五七七年、オルガンチノは本国へ次のやうな報告をだして、日本人は気の小さいのが大嫌ひで話の分らない人間を蔑むから、日本人に接するには特に大度が大切である。日本人自体が概して大度で自尊心が逞しく、大袈裟なことをしたいと思ふと、その為には盲進もする。又、頗る新奇を好む気質だから、例へばエチオピアの黒人でも連れて来て見せたら大当りをとるだらう、と書き送つた。
ところが二年後、教会支部長ワリニャーニが巡察使として来朝のとき、本当に黒ん坊を連れて来た。天正九年の復活祭の余興に黒ん坊の踊りをだして絶大の人気をよび、信長に謁見せしめた。信長も度胆をぬかれて、人間の皮膚がこれほど黒い筈は有り得ないから作りものだと疑つて、着物を脱がせ、褌もとらせて仔細に点検した後にやうやく正真正銘皮膚の色に間違ひないと納得、以来この珍物が気に入つて身辺に侍らせ、奴僕として使つてゐたが、本能寺の変に暗夜に紛れて行衛不明になつてしまつた。暗夜に紛れる筈であつた。
一五八二年、信長変死。
秀吉は信長のあとを受けて、表面切支丹を保護することに変りがなかつた。
小西行長の母マグダレナの手を経て差出した願書に許可を与へて免許状を下附し、安土の南蛮寺とセミナリヨを大坂に移させてその献堂式には自ら参列、又、日本従管区長コエリョに公式謁見を許して、支那朝鮮征伐の計画をきかせたり、軍艦二隻の斡旋を頼んだり、平服に着替へてきて城内や工事場を案内して説明してきかせた。切支丹断圧の気配など微塵もなかつたのである。
ところが一五八七年、九州征伐のため筑前博多に出向いてゐた秀吉は、突然切支丹教師追放を発令した。陰暦六月十九日深夜の出来事であつた。
秀吉が九州征伐を終へて博多へ来たとき、従管長コエリョは山口からやつて来て謁見して戦捷祝賀の辞を述べた。秀吉は大変喜んで、その答礼にわざ〳〵コエリョを船中に訪問して、益々切支丹を保護することを約束した。これが陰暦六月十九日昼間の出来事であつた。その深夜追放令がでたのであるから青天霹靂で、秀吉自身も昼のうちは切支丹追放など夢想もしなかつたに相違ない。
その夜、秀吉は酒宴を催して大いに泥酔してゐたさうだ。侍医兼侍従の施薬院全宗が御相手を承つてゐたが、酔つ払つた秀吉に切支丹を讒訴して焚きつけた。秀吉もその気になつて忽ち切支丹教師追放といふことになり、追放令は酒宴の席で書き上げられて発令されたといふことである。
尤も一夜の気まぐれにせよ秀告が急にその気になるためには何か理由がある筈で、丁度その頃平戸に来ていた二艘のポルトガル商船を博多へ廻航させようとして布教長コエリョに命じたところ、コエリョは航路危険と海峡狭隘を理由に拒絶した。これは多分この日の昼コエリョを船中に訪問したときの話であらう。秀吉は表面了解した風をみせたが、内心不快を禁じ得なかつたといふ話もあり、有馬の美女を側女にしようとしたが、いづれも切支丹で側女になる者がなかつたので、美女狩出しの役目を引受けた施薬院全宗が腹を立て、切支丹を奉じる者は小娘まで殿下の命令をきかないと言つて焚きつけたのだといふ話もある。
天下統一を誇つてゐた秀吉は、命令が思ひ通りに行はれない時には忽ち威厳を傷けられたやうに考へて癇癪を起し、思ひをかけた美女が手にはいらぬ腹癒せには千利久を殺し、蒲生秀行の会津百万石を没収した。有馬の小娘ひとりのことでも、酔余の癇癪にまかせて、切支丹教師追放を思ひ立つてしまふぐらゐ、有り得ない話ではなかつた。
当時切支丹の勢力は天下に及びさうな形勢で、さういふ勢力に対する天下征服者の漠然たる反感不安もひそかに育つてゐたであらう。小さな癇癪から一時に爆発、一夜のうちに堂々たる追放令が出来上つてしまつた。
追放令と同時に、明石領主ジュスト高山右近に向けて、棄教命令の使者が立つた。小西、大友、黒田、蒲生、有馬、大村など切支丹大名は沢山あつたが、彼等には沙汰がなく、唯ジュスト高山一人にのみ棄教命令が発せられたといふのは、ジュスト右近は領内の仏寺を毀し、仏僧を追放家臣に改宗を命じる等極端な狂信ぶりであつたから、仏僧側の反感が特に強烈の為であつた。棄教命令の文書には、唯一の天父を信じる者が異端の君主に忠義をつくす筈がないといふ駄々ッ子めいた理窟が書いてあつたさうだ。
ジュスト右近は棄教を拒絶、浪人した。
一方切支丹教師の方は追放令に服したふりをして有馬領に隠れ、法服をぬいで布教に従事、秀吉の癇癪の和ぐ時を待つことゝしたが、折からアゴスチノ小西行長が肥後、天草の領主となつたので、彼等に保護を加へることができた。
酔余の気まぐれから発令された追放令であるから、徹底して行はれなかつたが、秀吉も亦固執せず、一々追究しなかつた。
切支丹の勢力には影響少く、却つて教師が追放されるとの噂に細川ガラシャは急いで洗礼を受けたし、信長の次子北畠信雄やその叔父織田有楽斎など有力な大名も洗礼を受け、筑前山門の城主田中吉政も洗礼を受けてバルトロメヨと名乗り、家臣八百三十人もつゞいて信者となつた。秀吉の弟大和大納言秀長や京都の所司代前田玄以は信者ではなかつたけれども、切支丹に同情して保護を加へた。
表面布教に従事することはできなかつたが、ロドリゲスやオルガンチノはこの最中にも通辞といふ名目で大坂城に出入を許され、他日を期して秀吉の怒りを和げることに力めて、朝鮮遠征軍には従軍教師を送ることもできた。
この時まで来朝の教師達はすべてゼスス会に属してゐた。日本の伝道を統制するため、日本に於ける伝道はゼスス会に限るといふグレゴリヨ十三世の令書が発せられてゐたのであつた。したがつて、マニラに勢力をもつフランシスコ会、ドミニコ会、オグスチノ会は日本伝道を欲してゐたが、志をとげることが出来なかつた。
日本の教師追放令がマニラに伝はり、日本教会全滅といふ大袈裟な誤報となつて飛んできた。かねて日本伝道の機会をねらつてゐたフランシスカン達にとつて、ゼスス会全滅の誤報は、教皇の令書を無視して日本伝道に赴く絶好の口実であつた。
折からマニラのイスパニヤ商人達は、日本に於けるポルトガル商人の勢力を駆逐して貿易を独専したいと思つてゐたので、ポルトガルと関係密接なゼスス会凋落の報に好機到来と見て、自国の宗派によつて日本教会の再興をはかり、貿易の便宜を得ようといふ魂胆をもつに至つた。
さういふ機運のあるところへ、秀吉の使節と自称してマニラに現はれた野心児原田孫七郎が日比通商と教師派遣を説いたから、三者の魂胆一致して、フランシスコ会の神父ペトロ・バプチスタ一行の軽率極まる日本渡来となつた。一五九三年のことであつた。
日本に上陸してみれば、教会全滅は全然誤報で、ゼスス会の教師達は秀吉の怒りを避けて法服を脱ぎ表向きは布教に従事しないふりをしてゐたが、教会の組織は微動もせず、信者にも変動なく、隠然たる盛運を持続してゐる。
ゼスス会への対立意識に盲ひてしまつたフランシスカン一行は、日本の事情に通じたゼスス会と連絡をとることも為さず、ひたすら関白の癇癪を避けて隠忍自重のゼスス会を尻目に、追放令下の国土たることを無視して、公然布教に従事しはじめた。
大坂に「ペレムの家」といふ僧院をたてゝ、長崎にサン・ラザロの寺をつくり、京都にはボルチュンクラ寺院をたてゝマニラから豊富な資金がくるにまかせて華々しく布教につとめ、又、癩病院をもうけて、治療の奇蹟を宣伝した。
この傲慢な布教ぶりは癇癪もちの太閤を刺戟するに十分で、折悪しく突発したサン・ヘリペ号事件をきつかけに、切支丹の一大悲運は到来した。
一五九六年、土佐の浦戸にイスパニヤ商船サン・ヘリペ号が坐礁、五奉行の一人増田長盛が出張して、法規によつて貨物を没収しようとしたところが、船長デ・ランダは憤慨して、海図を持出してきてフィリッピン、東印度、アメリカ諸州等イスパニヤ領の広大なことを示したあげく、イスパニヤを侮辱する時は忽ち日本にも禍がくるであらうと威嚇した。
この報告に秀吉の激怒爆発、切支丹は国土を奪ふ手段であると断じて、切支丹教師逮捕令を発令、石田三成に誅戮を命じた。一五九六年十二月九日であつた。
教師達は殉教の覚悟をかためて逮捕を待ち、諸国の信者は陸続京都へ集つて来た。ジュスト高山は死を覚悟して自首。京都所司代前田玄以の長子左近はその弟従弟と共に八名の近臣を伴つて篠山から上洛、師父と共に殉教を覚悟。内藤如安も死を決意し、細川ガラシャは就刑の衣裳をつくつて命の下る日を待つた。
通辞の役で大坂城に出入してゐたロドリゲスの奔走で石田三成を動かすことができ、その斡旋によつて、切支丹全体の問題からイスパニヤ人を主とする逮捕令に変更。マニラから来た教師のみを死刑と決定。
ペトロ・バプチスタ神父、御昇天のマルチン神父等フランシスカン六名、ほかに日本人信徒パウロ三木をはじめとして十八名、合せて二十四名逮捕。十二歳の少年ルドビコ、十三歳のアントニヨ、十四歳のトマス等も加はつてゐた。
彼等は京都で耳を截りそがれ、京、大阪、堺の街を引廻された上、長崎へ護送。この途中、京都の大工で洗礼名をカユース、同じく京都の信者で洗礼名をペトロとよぶ二名の者が護送の一行と共に殉教を志願、合計二十六名となり、一五九七年二月五日、長崎立山の海にひらかれた丘の上でクルスにかけられて突殺された。
ペトロ・バプチスタは謝恩歌を唱へ、槍の穂先が腋下に突き刺さる時、ゼスス・マリヤと叫び、少年アントニヨは聖母讃美歌を唱へ、槍を受けて後に、ゼスス・マリヤと叫んだ。パウロ三木は槍を受けるまで得意の熱弁で説教し、少年ルドビコは槍が腋下に突込んだとき天国々々と叫んだが、暫く両手のみビク〳〵動いてのちに絶息。マルチン神父は詩篇を唱へ終つて、主よ我魂を御手に委せ奉ると云ふとき脇腹を突かれたが、槍の穂先が折れて腹中に残つたので、刑吏はクルスへ登つて行つて槍を引抜いて降りてきて、もう一度突き直して殺すことができた。
一五九八年九月十八日、秀吉永眠。
家康は貿易を望んでゐたので、切支丹に圧迫を示さなかつたが、秀吉の断圧をきつかけにして、地方の諸侯に部分的な迫害が行はれ、殉教者が現はれはじめた。
加藤清正は領内の切支丹に改宗を命じて、法華経頂戴の誓をなさしめ、転宗を拒絶したヨハネ南五郎左衛門とシモン竹田五兵衛は斬首。ヨハネの母ヨハンナ、妻マグダレナ、養子ルイス(七歳)、シモンの妻イネスは磔にかけられて殉教した。
マグダレナは第一の突きが外れて頭巾が落ち、両眼を覆ふてしまつたので、その時までキリシトの御名を呼んでゐたが、このとき、天が見えませぬ、と言つた。イネスの順番が来たとき、マグダレナの殉教に感動した刑吏はイネスを十字架にかけることを拒絶したので、代りの者が現はれてこれを上げたが、彼等は突き方が下手だつたので数回とも急所を外れ頭巾は用捨なく眼に落ちかゝつて、イネスは息をひきとるまで天を仰ぐことができなかつた。この磔を執行した市川治兵衛は感動して、切支丹に改宗した。
刑場をとりまいた信者達は夕暮れ役人の制止もきかず刑場へなだれこんで、布切や紙や自分の着物に殉教者の血をふくませて持帰り、翌日は血の滲んだ砂の最後の一粒まで持去つた。遺骸は解き放すことを許されなかつたので、くづれ落ちるにつれて集められ、長崎のコレヂヨの祭壇の下へ安置されたが、ヨハネとシモンの首だけは手に入れることができなかつた。
つゞいて肥後の切支丹の柱石だつた三人の慈悲役が四年間の責苦の後に斬首され(一六〇九年)十二のトマスと六つのペトロが、今殺された父親の血潮の上で斬首されたが、六つのペトロが怯えも見せずに血海の中に跪いて小さな首をさしのべたので、三人の刑吏は斬ることを拒み、居合せた非人が斬首の役を引受けてペトロの首に三撃を加へてのちに殺すことができた。
清正の命によつて切支丹の逮捕処刑を司り、最も残酷な迫害を辞さなかつた八代の奉行角左衛門は、処刑を終へて槍を返しに来た役人に、自分は今日からこの槍をもつ資格がないやうな気がすると言つてゐたが、やがて、切支丹にはならなかつたが、手にかけた殉教者達を讃美し、その行蹟を世に伝へた。
毛利領では、その重臣、芸州三入の城主メルキオル熊谷豊前守が一族臣下百余名と共に殉教。同じく山口で神父の代理をつとめてゐた切支丹の中心人物、盲人の琵琶法師ダミヤンが殉教した。
切支丹の熱心な信者でその領土にコレジヨやセミナリヨや多くの神父を保護してゐたドン・ヨハネ有馬晴信は、政治上の失敗から息子のドン・ミカエル直純に訴人されて斬首され、ドン・ミカエルは棄教して最も惨忍な迫害をはじめ、信者の重立つ人々を追放し、ミカエル伊東、マシヤス小市、レオ北喜左衛門等は斬首され、レオは上意打によつて突然首を刎ねられたが、切支丹の正しい死に方をするために、斬られてのちに腰の刀を抜きとつて遠くへ投げすてゝ、ことぎれた。薩摩にも迫害が起つて、レオ七右衛門は片手にロザリオを片手に聖母の油絵を捧げて首を刎ねられて殉教した。
家康も漸次迫害を見せはじめて、先づ直参の切支丹を追放し(一六一二年)大奥に仕へてゐたジュリヤおたあを島流しにしたが、外国教師の大追放を行ひ、切支丹を国禁するに至つたのは一六一四年のことであつた。
家康が切支丹を黙認したのは専ら貿易のためであつたが、一六〇〇年、オランダ船エラスムス号が難破状態で豊後に到着、その水先案内をつとめてゐたウヰリヤム・アダムスは徳川家に召抱へられて、家康のために船をつくり、数学の初歩を教へ、それまで日本に来なかつたオランダ・イギリスの商船を日本に引きつけるもとをなした。
オランダとイギリスは新教を奉じロマ教会から分離して、カトリックとは仇敵の間柄であり、中にもオランダはイスパニヤ王なる皇帝の領土から脱したもので、イスパニヤの反逆者であつた。
オランダの東印度会社設立は一六〇二年のことで、ポルトガル、イスパニヤの勢力を駆逐して東洋貿易制覇の野心に燃えてゐたから、その仇敵たる国々を陥れるためには、卑劣な手段も択ばなかつた。
彼等は日本の為政者達が切支丹を疑惑視するのを利用して、中傷密告につとめ、「オランダ人御忠節」といふ日本語を生んだ。
オランダが正式に日本と通商を開始したのは一六〇九年であつた。
同じ年、前フィリッピン総督ドン・ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコは新イスパニヤ(メキシコ)へ赴くためにマニラを出帆したが、難破して日本に漂着、家康の手厚いもてなしを受けた。
ビベロは駿府に於て家康に謁見したが、家康は二段から成る台の上に坐り、その四歩前に金張の衝立があつて、ビベロはその陰に坐つた。家康は六十ぐらゐで、中背でふとつてゐた。顔の色はそれ以前に謁見した秀忠に比べると余程褐色が薄く、白味を帯びて、どことなく情味のある顔付に見えた。
偶々、謁見の途中に或る格式の高い大名が入つてきたが、この大名は百歩手前で平伏して、数分間面を畳に伏せ、二万デュカットの金銀と絹を献上して引下るのを目撃した。
この日、ビベロは家康に次の要求の覚え書を提出した。
一、帝国に在住する各修道会の司祭に対する公式の保護、並びにその駐在所及び天主堂を自由に使用すべき件。
二、皇帝とイスパニヤ王間に於ける同盟承認の件。
三、該同盟の証として、イスパニヤ人の仇敵にして最悪の海賊たるオランダ人追放の件。
家康には、国際間の重要な交渉に宗教のやうな下らぬことを固執するビベロの気持が分らなかつた。
当時新イスパニヤの坑夫は熟練をもつて聞えてをり、日本の坑夫は取り得べきものの半分も取り得ないといふので、家康は新イスパニヤの坑夫五十名の送付方をビベロに依頼したが、ビベロは之に対して、重ねて天主堂の自由使用と聖務執行の許可を条件とし、又、最悪の海賊たるオランダ人追放の請願を再び作製して差出した。
家康はこの請願に応じなかつた。
一六一一年、新イスパニヤの大使ドン・ヌーニョ・デ・ソトヌヨールがフランシスコ会のソテロを伴つて来朝、日本の海辺測量の許可を受けた。
御忠節のオランダ人はこれを知つて勇みたち、新イスパニヤにせよルソンにせよイスパニヤ人が測量した土地は、いづれもやがてイスパニヤの領土となつたと説きふせ、日本の海辺を測量したイスパニヤ及びその同腹たるポルトガルは切支丹を利用して国土を奪ふものであることを家康に信じさせた。
家康はオランダとの通商開始後、切支丹を断圧しても貿易は可能であるとの確信をもつに至つたので、切支丹は国土を奪ふ手段であるとの口実を得て禁教を決意、一六一四年一月二十八日、切支丹国禁、外国教師追放を発令。
大久保相模守は命を受けて上洛、南蛮寺を焼き毀し、手当り次第に信徒を縛して、宗門をころべと命じ、之を拒む者は米俵に入れて、役人が街から街を押しころがして、ころべ〳〵と囃しながら練りまはつた。女は遊女屋へ預け、裸体でさらすこともあつて棄教を強要、内藤ジュリヤは侍女と共に容貌をきづゝけ髪を斬り落した。
外国教師の全部と日本人信徒の中の重立つ人々四百余名は天川とマニラへ追放されることとなり、続々長崎へ送られてきたが、船の準備と順風の都合で、出帆は秋まで延期された。
長崎の感情は激発し、日と共に亢奮の坩堝に落込み、信徒達はマルチリヨの覚悟をかため、それに処する心得を胸にたたみ、日夜に会合をひらいた。
陽春四月、フランシスコ会はその布教長チチヤンが先導となつて大説教をなし、先づ癩病患者の足を洗ひ、上衣をぬいで自分をクルスに縛らせてキリシトの受難になぞらへ、この十字架を先頭に担いで、信者達はヂシビリナで身体を打ちながら、受難の覚悟を示して大行列を開始した。
ドミニコ会は之につゞいてペンテコステの月曜に殉教覚悟の示威行列。その翌日はアゴスチノ会が長崎全市を練り歩き、最も自重してゐたゼスス会も堪りかねて示威行列。かくて日毎に思ひ〳〵の行列が街から街を練り歩き、叫び、祈り、行き違ひ、或ひは合して、うねり流れた。
十一月七、八両日、数艘の船に分乗して、教師信徒四百余名天川とマニラへ追放。尚少数の教師は潜伏して日本に残つた。
翌年三月、七十一名の身分ある信徒が津軽へ追放された。
こゝに切支丹は全く禁令され、これより約三十年、切支丹の最後の一人に至るまで徹底的な探索迫害がくりひらかれ、海外からは之に応じて死を覚悟して潜入する神父達の執拗極まる情熱と、之を迎へて殲滅殺戮最後の一滴の血潮まで飽くことを知らぬ情熱と、遊ぶ子供の情熱に似た単調さで、同じ致命をくりかへす。
一六一五年(追放の翌年)イタリヤ人の伴天連アダミ、ポルトガル人伴天連コウロス、イタリヤ人伴天連ゾラ、その随員日本人入満ガスパル定松、ポルトガル人伴天連パセオ、日本人入満シモン・エンポ、ポルトガル人伴天連コスタ、その随員日本人入満山本デオニソ、ポルトガル人バルレト、日本人ニコラス・スクナガ・ケイアン、いづれも天川へいつたん追放されてのち、引返して日本に潜入。
アダミは潜入後十九年間潜伏布教、一六三三年長崎で穴つるし。コウロスは潜入後二十年潜伏布教、捜査に追はれて田舎小屋で行き倒れ。パセオは一六二六年長崎で火あぶり。ゾラとガスパル定松は肥前肥後に潜伏布教、一六二六年島原で捕はれて長崎で火あぶり。シモン・エンポは一六二三年江戸芝で火あぶり。コスタと山本デオニソは中国に潜伏布教、一六三三年周防で捕はれて、コスタは長崎で穴つるし、山本は小倉で火あぶり。バルレトは一六二〇年江戸附近で衰弱の極行き倒れた。
一六一六年。ポルトガル人伴天連デオゴ・カルバリョ、日本人伴天連シスト・トクウン潜入。
デオゴは奥羽に潜入布教して蝦夷にまで進んだが、一六二四年、仙台領の下嵐江鉱山で坑夫信徒六十名と共に捕へられ、仙台へ送られて、二月十八日の厳寒、広瀬川畔へ水溜を掘り杭を打ちこんだ処刑場へ縛りつけられて氷責。
第一日目は三時間後に引上げられて、マテオ次兵衛とジュリアン次右衛門が砂の上へ引上げられてから、絶息した。
二月二十二日、第二回目の氷責。膝までの水の中で、長く立たせ、又、胸までの水の中で坐らせ、二様の姿勢を繰り返させた。役人たちは棄教をうながしたが徒労であつた。
夕方になつて水に氷が張つてきてから急激に苦痛がまして、レオ今右衛門はひどく苦しみ、最初に息を引とつた。デオゴは苦しむレオに向つて「束の間ですぞ」と叫びつゞけてゐた。
二番目はアントニヨ佐左衛門で、三番目はマチヤス正太夫。神父は彼がまだ生きてゐると思つてゐて声をかけたが、二度呼んで、縡切れてゐることが分つた。つゞいてアンデレヤ二右衛門、マチヤス孫兵衛、マチヤス太郎右衛門が順次に息絶えて、神父はすべての信徒たちが縡切れるのを見とどけた。彼は夜半まで生きてゐた。すべての信徒が死んで後は、動かなかつたし、喋らなかつた。
日本人伴天連シスト・トクウンは長崎で穴つるし。
一六一七年。ペトロ三甫、ミゲル春甫、アントニヨ休意、ゴンザロ扶斎、いづれも天川へ追放されてのち、引返して潜入、一六二〇年捕へられて、いづれも火あぶり。イスパニヤ人ガルベス、イタリヤ人リカルドもこの年潜入して、いづれも火あぶり。
この年、大追放の際逃れて潜伏、布教に従事してゐたペトロとマチャードの二人が捕へられて斬首された。それから五日目、同じく潜伏して布教中のナバレテとエルナンドの二人は、逃げ隠れて効果の乏しい布教に余命を消すよりはと、血といのちの布教を決意、公然法服を着て、長崎の入口に小屋をつくつて説教をはじめた。聴衆三千余人。翌日は伊木力で野外に祭壇を設けてミサ聖祭を献て、大村に乗込んで、棄教した領主に再び改宗をすゝめる書翰を捧げて、捕はれた。
三日後、高島の海辺で斬首。訣別のために群集して叫び追ひ泣く信徒達を避けて、役人は舟で三つの島をめぐり、四つ目の高島に上陸。二人の神父は刑吏達に感謝の言葉を述べ、彼等の首を切る筈の刀を借り受けて押しいただいたのち、各々片手にはロザリオを片手には点火した蝋燭を捧げて、ナバレテは一刀のもとに首を刎ねられ、エルナンドは第一撃で耳の附根まで切られたが、立ち上つて天の方を望まうとして、第三撃で倒れた。
死体は棺に入れて三十尋の海底に沈められた。信徒達は二ヶ月探したが無効であつた。六ヶ月目に一つの棺のみ浮き上つて海辺へあげられたので、屍体はひそかに本国へ送られた。
この殉教はマニラに伝はり、彼の地の信徒に大きな感動をひきおこした。必要ならば尚多くの致命人を送らうと、七人の神父が潜入を決意。一六一八年、商人に扮して潜入。
オルスッチとジュアンの二人は上陸後直ちに朝鮮人信徒コスモ竹屋の家で捕はれ、五年在牢して、火あぶり。
他の五人は各地に散つて潜伏布教、グチエレスは一六二九年長崎附近で捕へられて穴つるし。デエゴとマルチノは消息不明、アントニヨは一六二七年殉教。
一六一九年。クルスのデエゴ、アンデレのフランシスコ、ビセンテ、ペトロ、バラジヤスの五名潜入。前者四名は一六二二年いづれも火あぶり。バラジヤスは東北地方に潜入、一六三八年、仙台で捕へられて江戸へ送られ、芝で火あぶり。伴天連火刑の最後となつた。
この年、十月十七日、京都で五十二名の殉教があつた。
五十二名は十一台の大八車に積込まれて刑場へ送られたが、先頭と最後の二つの車が男と子供で、ほかの車は全部女と乳飲児であつた。大仏殿と向き合つてゐる加茂川べりに火刑の柱が立ち並び、少し離れて杜があつた。
火の手があがると、祈念の声は煙の中で大きなひとかたまりの歌となつた。テクラの娘カタリナは「お母さん、もう目が見えない」と叫び、母親は小さなルシヤを胸にしつかと抱いてゐたが、必死に娘の方を向いて「マリヤ様にお願ひなさい」と叫びつゞけた。テクラは余りしつかと小さなルシヤを抱きしめてゐたので、死後、その胸から幼女の屍体を離すことができなかつた。
又、長崎では、十一月十八日、潜伏教師をかくまつた徳庵、レオナルド木村、ポルトガル人ドミニコ・ジョルジュ、朝鮮人コスモ竹屋、ショーウン等が漫火によつて火炙りにされた。レオナルド木村は焔が綱を焼切つたとき、地面へ屈んで燠を掻きあつめて頭にのせて、「主を讃め奉る」を歌つた。小舟に乗つた信徒の少年達は二つの唱歌隊に分れ、火の絶えるまで、楽器に合せて聖歌を歌ひ、殉教の最後を見とどけた。
一六二〇年。アゴスチノ会のズニカとフロレスは日本人で信徒の船頭平山常陳の船で潜入。直ちに捕へられて長崎で火あぶり。平山常陳も火あぶり。ほかに累連者十二名は首を斬られた。
一六二一年。天川から兵士に扮して潜入した三人のゼスイトがあり、カストロは肥後島原に潜伏布教して一六二六年島原山中で行き倒れ。コンスタンツォは五島で捕はれて一六二二年田平で火あぶり。ボルセスは一六三三年長崎で穴つるし。
ワスケス、カステレド、ミゲル・カルバリョの三名は交趾商人、マニラ人、ポルトガル兵士に扮して潜入。交趾商人に扮してきたワスケスは東洋的な容貌であつたと見えて、後には日本の武士に扮して牢内に忍び入り、とらはれの信者を慰問。カルバリョと共に一六二四年火あぶり。カステレドも一六二四年捕はれて火あぶり。
一六二二年。嘗て支倉六右衛門をローマへ伴ふた伴天連ソテロは日本人入満ルイス笹田を随へて潜入、直ちに捕へられて、二人共に火あぶり。
この年の九月十日に、長崎立山で五十五人の殉教があつた。三十名の日本人信徒が斬首され、次に二十五名の外人及び日本人の聖職者が火刑になつた。
出来るだけ苦痛を長くするために薪は柱から遠ざけられ、時々水をかけて火勢を弱め、又絶望の誘惑に曝されて逃げだすことが出来るやうに縄目がゆるく仕掛けてあつた。それは刑場を取まいた数万の信徒達に、彼等の信ずる師父等の信仰の足らないことを納得させるためであつた。
カルロ・スピノラ神父が最初に死んだ。丁度一時間後であつた。一度衣服に火がついたので苦痛を長くするために多量の水がかけられた。然し、結果は窒息死で、遺骸は長衣をつけたまゝ硬直してゐた。
驚くほどしつかりしてゐたのは日本人神父セバスチャン木村で、死ぬまでに三時間かゝり、腕を十字に組んだまゝ火を視凝めて遂に姿勢をくづさなかつた。
イヤシント・オファネル神父が木村師以上に長く生きて、真夜中に、さうして最後に絶命した。丈高く強壮な彼の身体から「ゼスス! マリヤ!」といふ極めて強いしつかりした叫びが三度発せられて、それが最後の時であつた。
結局、デエゴ柴、ドミニコ丹波といふドミニコ会のイルマン二人だけが火刑の苦痛に堪へかねて、縄目を外して、飛出してひと思ひに首を刎ねられることを願つた。刑吏達は容赦もなく寄つてたかつて二人をつかまへ、火焔の中へ投げ入れて、上から鉤で抑へつけて、殺してしまつた。
敬虔な信徒達は砂時計を持ちだして、犠牲者達の絶息を祈りつゝ視凝めてゐたのであつた。
この年は、この外にも、長崎附近だけで百数十名の殉教があつた。
一六二三年。前年の大殉教はマニラの神父達を刺戟して、その血をキリシトに捧げるために、更に十名の教師が決意をかためて潜入した。奉行は直ちに嗅ぎつけて捜査したが一人も捕へることが出来ず、彼等は諸方に分散潜伏、数年或ひは十数年布教の後捕へられて、アゴスチノ会のフランシスコは火あぶり。カルバリョ火あぶり。フランシスコ会のフランシスコとラウレルも火あぶり。ゴメスは江戸で穴つるし。カブリエルは一六三二年捕へられて殺され方は不明。ルカスは長崎で穴つるし。エルキシヤ同じく長崎で穴つるし。ベルトランは一六二六年癩病小屋に潜伏中逮捕。その宿主でマルタといふ癩病女は神父の捕はれたのを見て自分も共に捕はれて処刑されることを願つたが、許されず。マルタは天に向つて、自分をパアデレ様より離し給ふなと叫びつゝ神父に縋りつかうとしたが手先はなく、之を必死に追ひ縋つたが足先はなかつた。ラウダアト・ドウヌム、その他日本語のオラショを唱へ、パアデレ様と離し給ふなと叫び追ひ、離れ去る気配がないので、ベルトラン神父は火あぶり。マルタほか二人の癩病者は打首。
この年、江戸で原主水はじめ五十名、芝で火あぶり。つゞいて、その妻子二十六名、同処で火あぶり。
一六二九年。日本人の伴天連が四人、故国へ潜入。トメ六左衛門は一六三三年長崎附近で行き倒れ。ミゲル益田は江戸で穴つるし。ペトロ・カッスイも同じく江戸で穴つるし。四人目のトメイ次兵衛は金鍔次兵衛(又は次太夫とも云ふ)の名によつて当時天下を聳動させた人物で、神出鬼没を極め、切支丹伴天連の妖術使ひと信じられて、九州諸大名の軍勢数万人を飜弄した。
トメイは潜入後、長崎奉行竹中采女の馬廻り役に入込んで、自由に役所牢屋に出入することができ、大村に入牢してゐたアゴスチノ会のグチエレス神父と連絡して、給金をさいて給養し、通信を運んだ。一六三二年グチエレス刑死の後は、アゴスチノ会の教師が絶えたので、トメイは独力信徒の世話につとめ、隠れて市内近郷の信者を訪ねて、慰問し、告白をきいた。嗅ぎつけられて露顕したのは一六三三年秋であつた。
露顕、逃亡するや、大村領戸根の塩釜師が彼を山中にかくまつてゐるといふ密告があり、大村藩では家老大村彦右衛門を指揮官に、同藩の記録によると、城内番人と諸役人、小路町諸村押の者だけを残して「家士残らず諸村の給人、小給、足軽、長柄の者、土民に至るまで悉く相催し、各々頭奉行を定め、手合して警固目附を一組づゝ相定めた」といふことで、藩内総動員を行つた。
長崎奉行は佐賀、平戸、島原の三藩から援軍を繰出させ、総勢数万。長崎から浦上への往還筋から大村湾の西海岸全体の山中到る所に関所を設け、海には見張を出し、海岸線三十里とその山中に監視網を張りめぐらした。寄せ集めの軍勢だから同志打ちの危険があるので合印しをつくり、佐賀勢は藁の占縄、平戸勢は大小の鞘に白紙三つ巻、島原勢は左の袖に白紙、大村勢は背三縫に隈取紙をつけた。各勢は列を定めて出歩く刻限をきめ、夕暮になると合図して押止り、その場所に篝火を焚いて交替で不寝番を置いた。
かういふ騒ぎを三十七日間つゞけて、たつた一人のトメイ次兵衛を追ひ廻したが、労して効なく、この時すでにトメイは江戸へ逐電して、将軍家のお小姓組の間を伝道して廻つてゐた。
布教の結果次第に感化が及んで、信者も多くなり、役人に嗅ぎつけられてきたので、再び長崎へ舞ひ戻り、一六三五年から七年へかけて二年間、又々長崎で大騒動をまきおこした。
トメイは刀の鍔のあたりに金のメダイユかクルスのやうなものを仕込んでゐたらしく、事あるたびにそれを手にとる習慣であつたのが人々の注意を惹くやうになつて、その金鍔に切支丹妖術の鍵があるといふ風説がとび、金鍔次兵衛といふ名前が生れた。
一六三七年、長崎の戸町番所に近い山の穴の中で捕はれ、十二月六日、穴つるし。
一六三三年、ゼスス会の巡察使ビエイラはじめ十一名潜入。
すでに警戒厳重を極めて殆んど活動の余地がなく、ビエイラは大坂で捕はれてのち、長崎へ送られ、幕府の特命によつて更に長崎から江戸へ送られ、将軍に差出す教理要略を書き残して、一六三四年、江戸市中引廻しのうへ他の六名と共に穴つるし。
一六三七年。天草と島原の間の湯ヶ島に切支丹が会合して、次のやうな触れ状をつくり、島原天草領内に配布した。
「態と申遣し候。天人天下り成され候て、ゼンチヨどもは、デウス様より火のスイチヨ成され候間、何者なりとも切支丹に成り候はば、こなたへ早々御越しあるべく候。村々の庄屋、乙名、早々御越あるべく候。島中此状御廻し可有之候。ゼンチヨ方にても切支丹になり候者、御免なさるべく候。恐惶謹言。
右早々村々へ御廻し成さるべく候由中入り候。天人の御使に遺し申候間、村中の者に御申附成さるべく候。切支丹になり申候者の外は、日本六十六国共に、デウス様より御定にてインヘルノへ踏込成さるべく候間、其分御心得なさるべく候。天草の内、大矢野に此中御座なされ候四郎様と申す人も、天人にて御座候。爰元に御座候間其分御心得あるべく候。已上」
天草大矢野に住してゐる小西の旧臣益田甚兵希の子、四郎時貞といふ十六歳の少年を天人に担ぎあげて、事を起さうといふ謀主たちの談合であつた。
かういふ陰謀があるところへ、百姓一揆が起つた。
教会の記録によれば、島原の領主が暴政を擅にして人民を窘げ、年貢の外にあらゆる名目をつけて重税を課し、之に応じない者は厳罰に処し、或ひは妻女を捕へて水責にする習はしであつたが、こゝに平右衛門といふ百姓があつて、やつぱり税の言ひがゝりから美人の娘を召捕られ、水責の上、裸体で杭にいましめられて、松明の火で焼かれたから、平右衛門は狂気の如くなり、日頃の圧政に堪へかねて加勢した村人と共に代官所に乱入して、代官はじめ役人三十余人を殺したといふことであり、日本側の記録によれば、有馬村で、角蔵三吉といふ二名の者が、切支丹の画を祀つてゐるところへ役人が踏みこんだところ、乱闘となり、代官林兵右衛門を殺すに至つたといふ。とにかくこの騒動を口火にして、益田四郎一味の陰謀が合流、島原の乱となつた。
上使板倉内膳は十数万を指揮して攻撃したが却つて反撃され、内膳は銃弾を乳下に受けて戦死。第二回目の上使、松平伊豆守が代つて督戦、翌年春、原城を落して平定した。
謀反人三万七千の軍勢は殲滅せられ、生き残つた女子供は三日にわたつて全部斬殺された。松平伊豆守の子、輝綱の日記「剰へ童女ニ至ルマデ死ヲ喜ビ斬罪ヲ蒙ル。是レ平生人心ノ至ス所二非ズ。彼ノ宗門浸々タル所以ナリ」然し、武器をとつて反抗したかどによつて、この数万の死は殉教とは認められてゐない。
島原の乱の結果は鎖国が施行せられ、切支丹の迫害は又その絶頂をきはめた。かくて全国の切支丹は急速にその終滅に近づいたが、外国教師の潜入は尚つゞいた。
一六三七年。イタリヤ人マルセロ・フランシスコ・マストリリ潜入。
彼は故国イタリヤに於て、血を以て日本潜入を決意。直接将軍に面接して説法の覚悟をかため、数年にわたつて渡来を計画、イスパニヤ国王の援助を得てゴアに渡り、遂に単独日本に潜入、薩摩に上陸して日向の沿岸を伝ひ江戸へと志したが、日向の櫛の津で捕へられた。
二百人の警衛づきで長崎へ引立てられ、水責の後、梯子責で失神、三日目に焼鏝。十月十四日刑場へ引きだされたが、途中説法のできないやうに口に詰物をかまされ、頭の右半分を剃つて左半分は赤く彩色し、膝までしかない赤い着物をきせて、肩から罪状を書いた小旗を流し、鎖でつないで馬に乗せた。穴つるし。四日目にはまだ息があつた。
切支丹禁令以来、神父を入牢せしめれば牢番が感化され、斬首火刑に処すれば刑吏や観衆が感動して却つて改宗する者がある始末に、この対策が頭痛の種で、死の荘厳を封じることが、一代の大事となり、一六三三年、穴つるしといふ殺し方が発明された。この発明に二十年かかつたが、効果はあつて、滑稽異様なもがきぶりは聊かも荘重を感ぜしめず、また一日や二日では死なゝいので、見物人もうんざりして引上げてしまふやうになつた。
マストリリ潜入の年に四名のドミニカンが二名の従者を随へて琉球に辿りついたが、捕はれて長崎へ送られ、皆殺された。刑の執行が秘密にされて殺され方は分らない。
一六四二年。巡察使ルビノは日本潜入を天父の使命と確信、計画遂行に心を砕き、マニラ総督の援助を受けて、同志を二隊に分け、自分は第一隊を指揮して潜入。一行はパアデレ五人に従者三名、支那人に扮して来たが、薩摩の一角で岩に乗上げて、捕はれた。長崎へ送られて、火責め、水責めの拷問で六ヶ月責めつけられたが一人も屈する者がなく、奉行もうんざりして死刑を決し、一六四三年三月十六日、大拷問にかけてのち、マストリリに施したと同様の異様な化粧をさせて引廻しの上、一同穴つるし。
ルビノは五日目に死んだが、最後に三人生き残つて、九日目にも呼吸が絶えないので、しびれを切らして、三月二十五日に首を斬つた。
一六四三年。ルビノ第二隊は先発隊を追ふて筑前かぢめ大島に上陸。
教師五人に従者五人、合せて十名の一行で、一同さかやきを剃り、和服を着て、日本人に扮して来たが、直ちに怪しまれて捕へられ、長崎へ送られ、更に江戸小石川の切支丹屋敷へ移された。こゝで様々の拷問、誘惑を受けて、全員残らず背教した。
この潜入は六十余年後に行はれたヨワン・シローテの例外的な潜入を除いて、日本切支丹史の最後をなした潜入であつたが、この時まで一人の棄教者も出さなかつた潜入教師も、最後に至つて全員残らずころんでしまつた。
この一行の長、ペトロ・マルケスはころんでのち十五年生きのびて八十歳で永眠。アロンゾは一度ころび、後に立直つて死んだ。フランシスコ・カッサロは切支丹屋敷の独房へ女と一緒に入れておかれ誘惑に負けてころび、いくばくもなく永眠。ジュセッペ・キヤラは我国でジョゼフ・コウロと呼ばれ、ころんで後は岡本三右衛門といふ日本名を貰つて、宗門改役の御用をつとめ、四十二年後八十四歳で永眠した。小石川無量院に葬られて、戒名は入専浄真信士。日本人イルマンのビエイラはその本名は不明であるが、棄教して妻を娶り、切支丹屋敷に住んで南甫といふ名で呼ばれてゐたが、一六七八年、七十九歳で永眠。同じく小石川無量院に葬られて、大変いかめしい戒名を貰ひ、正誉順帰禅定門と云ふ。
従者のひとりに広東生れの支那人で棄教後寿庵と呼ばれた者があつた。棄教後結婚して生れた娘に婿まであつたが、後に至つて痛悔して、立上らうと焦り、再び切支丹を奉じる旨の上書を出しかけたのを家族の者が引留めた。一六九一年、八十一歳で永眠。交趾人でトナトといふ者、棄教後は二宮と呼ばれ、結婚して五十余年切支丹屋敷に生き延び、最後まで生き残つて、一七〇〇年、七十八歳で永眠した。日本切支丹は全滅した。
一七〇三年春の初めゼノアの港を旅立つ一団の僧侶があつた。
その首長はアンテオキヤの総司教トマス・トウルノンと云ひ、教皇クレメント十一世の特派使節として北京に赴く人であつた。
この一行に加はつて船出した一人に、ジョヷンニ・バッチスタ・シドチとよぶ筋骨逞しい僧侶があつた。この人のみは途中一行に別れて、単身日本に潜入を志してゐるのであつた。
シドチはシシリヤのパレルモに生れ、貴族の子弟であつたが、羅馬に学んで、枢機官フェルラリの知遇を受け、年若くして重要な聖職についた人である。
少年の頃から日本潜入の夢をいだいて、コームで日本の古い書物を見つけ、その時から日本語の独習を始めた。天正年間宣教師によつて印刷術が伝へられて天草学林で刊行したが、その中には外人教師の日本語独習のために和洋両様に印刷したもの、又辞書なども有つたのである。
すでに日本の切支丹は亡びてゐた。
外人教師の日本潜入も記録の上では一六四三年ジョゼフ・コウロ一行十名が最後で、その後一六六二年にサッカノといふ神父が二十年苦心の後日本に潜入殉教した筈だといふが、日本の記録には現はれてゐない。日本内地の切支丹も之と相前後して全く絶滅したのであつた。
昔より今に渡りくる黒船縁がつくれば鱶の餌となるさんたまりや
昔、長崎にうたはれた小唄であるが、オランダ以外の紅毛船の航通もこれと前後して全く杜絶した。一六四〇年にやつて来たポルトガル公使一行六十余名すら容赦なく殺されて、爾今偶然暴風に吹流されて漂着した紅毛人といへども悉く処刑すべしといふふれもでた。
シドチがゼノアを船出した一七〇三年といへば、すでに日本が歴史の底へ全く沈み落ちた後であつて、ひところの血で血をついだ気狂ひ騒ぎの情熱からは遠く離れてをり、全然新たな意志と冷静な情熱があるべきだつたが、然しひとつの血脈をもとめることも、あながち不可能ではない。
即ちシドチの潜入に先立つ六十余年、島原の乱の年に長崎で殉教したマルセロ・フランシスコ・マストリリといふ神父があつた。
この人は日本潜入の神父のうちでは特異の人で、即ちマストリリを除く潜入教師がすべて天川やマニラに於て、計画を立て、潜入後は潜伏の信徒と連絡して潜伏布教を志してきたのに対し、マストリリのみは本国に於て日本潜入を決意し、潜伏布教を問題とせず、直接江戸へ上つて将軍に直談判し、布教の公許をもとめるために潜入した。
当時の日本の国情では乱暴極まる計画で、将軍に会はないうちに命を落してしまふのが当然すぎる筋書だつたが、拷問刑死は覚悟のことで、ただ日本開教者フランシスコ・サビエルの遺志を継ぐことだけが一途の念願であつた。
マストリリが日本潜入を志すに至つたのは、瀕死の病中にサビエルの幻覚をみて日本潜入を約束し、忽然平癒したからであつた。
即ち、一六三三年のこと、ナポリの府知事が聖母無原始胎胆礼を執行しようとしてマストリリに祭式の補助を頼んだ。そこで彼は工人に命じて祭壇の装飾を指図してゐたが、壁工の一人が重さ二斤の鉄槌を落して、下にゐたマストリリの右額部に命中。マストリリはその場に嘔吐、昏倒し、早速収容手当をしたが、二日目には邪熱を発し、眼は一所を注視して動かなくなり、手足の筋は硬直するし、胃は食餌を受けなくなり、精神錯乱を見るに至つて、医者も全く全快を断念してしまつた。
然るにマストリリはこの危篤の病床でフランシスコ・サビエルの幻覚を見つゞけてゐた。サビエルは夜昼となく白衣を纏ふて現はれてきて、看護慰問し、聖体受領も終つて愈死を待つばかりといふときに、光彩を放ちながら病床に立ち現はれて、日本に渡つて天主のためにその生血を灑ぐ誓を立てるなら病気は平癒するであらうと言つた。マストリリは命を捨てて教法を護ることを誓ひ、国土、肉身、その他一切の日本潜入を妨げるところの愛惜物を棄絶する祈誓を立てた。
このときマストリリは突如として危篤の病床から平癒した。いきなり起上つて、腹がへつたから肉を食はせてくれと言つた。看護の連中は驚いたが、瀕死の病人の言ふことだし、長いこと流動物も摂れない状態にゐたのだから、どうせ死ぬなら望みをかなへさせて死なせようといふわけで、肉を細切にして与へた。と、マストリリは人々の心配を嗤ひながら、忽ちムシャ〳〵と平らげてみせた。一日のうちに平癒してしまつたのである。
これが彼の一生の最初の奇蹟で、これから以後といふものは長崎で命を断つまで実に至る所で奇蹟を起した。印度で、日本で、又船中で、彼の現れる所奇蹟の起らざるなしといふ有様で、噴きだしたくなるやうなのがあり、信用しかねるものゝ方が多いのだが、かういふ数々の奇蹟が疑はれもせず語り伝へられるに至つたといふのも、サビエルの幻を見て危篤の病床から忽然平癒したといふのが動かしがたい事実であつて、まのあたり人々を吃驚させたからではないかと思はれる。
平癒後も折にふれてサビエルの幻を見た。遂にサビエルのフランシスコを自分に冠して、マルセロ・フランシスコと名乗り、一途に日本潜入を念願して日夜焦躁のうち、これも例の忽然平癒一件で度胆をぬかれ尊敬の念を起したイスパニヤ皇帝皇后の援助を受けることゝなり、愈日本潜入を遂行。一足旅路にかゝるより忽ち奇蹟を起しはじめる。
先づ彼がゴアへ一足かけるより、メリヤポルトのサン・トマスの祠堂の十字架から汗のやうに鮮血が流れはじめて二十四時間つゞき、おまけに下の方から上へと流れて数枚のハンケチでも拭きゝれない程であつた。又、折しもゴアのキリシトの像が突然パッチリと眼をひらき、日本の方角を睨みはじめて、彼の行先を示してゐるやうであつた。
ゴアにはサビエルの墓があつた。
マストリリは日本潜入を決意以来、印度を通過する時には何とかしてサビエルの遺体を一見し、手を触れてみたいと牢固たる宿願をかけてゐた。とはいへ聖者の柩をあばくといふ事が出来るものではないから、そこで本国にゐるうちから用意周到に企らんで、イスパニヤ皇后をたきつけてサビエルの墓へ寄進の品々をことづかり、その品々の中に特にサビエルの遺体を蔽ふ一襲の外套を用意してもらつた。おまけに、聖師の遺体にこの外套を着更へさせるに当つては、マストリリ自らの手によつて之を執行すべしといふ命令書を貰つたのである。その熱情や怖るべく、その企らみも亦驚嘆すべしといふほかはない。
印度の司教もこの命令書があつては仕方がない。立会の司祭法弟を従へて、司教自ら深夜ひそかに柩をひらいた。そこでマストリリが進みでゝ遺体の外套を着更へさせたのであつたが、遺体の頸にまかれた白布を解いてみると、これに染みこんだ鮮血がまだ乾いてゐなかつたといふ話なのである。
マストリリは自分の胸を刺した血で、わが生血を日本の地にそゝぐであらうといふ誓言を紙片に書いた。柩を閉ぢるに当つて、この誓紙を遺体の指間にはさませたが、さて、終つてのち宿所へ戻つて、遺体の状態を筆録しようと試みたが、ただ感涙が溢れるばかりで、どうしても文を成すことができない。仕方がないので、立会の僧に代つて記録してもらつた。それによると、遺体はなほ湿気があつて異香馥郁とし、片腕は羅馬へ送られて無く残つた片腕を胸に当て、面部は細長く色は黒ずみ、頭髪と鬚髯は斑白であつた。双眼閉ぢず、威あつて猛からざるの顔色也とある。
マニラから日本へ渡る航海では、暴風と海賊船に苦しめられたが、その都度奇蹟が起つて救はれた。これは妖魔の妨げであつたとマストリリ自ら本国へ報告してゐるのであるから、これくらゐ確かな話は先づないやうなものであるが、然し思ふにマストリリは山師ではなかつたのであらう。彼自身はこれらの奇蹟を実際経験しつゞけてゐたのであらうと思はれる。
だいたい日本潜入を決意するに至つた瀕死の大病といふのが、抑々頭部の打撲傷から始つたのである。病中精神錯乱したといふことであるし、潜入の決意も忽然たる平癒も共に幻覚の暗示から由来してゐる。忽然平癒したときには、マストリリはすでに日本潜入の観念に憑かれた精神病者ではなかつたかと疑ふことも出来るのである。
何分にも一途の念願が日本潜入といふ至難の一事で、拷問も覚悟の上、その生血を流しきつて絶息も亦覚悟の上の仕事なのである。目的自体が超人的な大事業であつたから、マストリリの精神異常は見分けがつかず、却つて数々の奇蹟を生み残した。曾てサビエルが苦しみ奇蹟によつて救はれた航海では、彼も亦同じ妖魔の妨げに逢ひ、又、天主の加護によつて救はれる奇蹟の幻覚を見つゞけてゐたのであつた。
一六三七年九月十九日、薩摩の一角に上陸。上陸に当つてアンドレ籠手田といふ信徒と連絡したが、この人はこのために捕はれて刑死した。
マストリリはひとり陸路江戸を指して日向の浜辺を進む途中、林の中で焚火中に捕はれた。
長崎へ送られて馬場三郎左衛門の取調べを受け、水責、梯子責の拷問を受けて失神、三日目に引出されて今度は焼鏝の拷問、棄教を迫られて屈せず、十月十四日処刑と決し、口中に詰物をして途中説法や祈りのできないやうにし、頭の右半分を剃り、左半分は赤く彩色し、膝までの赤い着物をきせ、肩から罪状を書いた小旗を流し、鎖でつないで馬に乗せて街を引廻した。処刑は穴つるしで、四日目か五日目ぐらゐに絶息したらしい。
然るにこの殉教に際しても数々の奇蹟が語り伝へられるに至つた。
先づ日向の浜辺で捕はれるに際しては天地鳴動したといふやうな件から始まつて、長崎の公廷へ引出されるや、彼の頭上に光彩がかゝつて消えないので役人共が驚愕したとあり、彼の籠められた牢舎の屋根には夜毎に光明が走り流れ、穴に吊るされるや天人が天降つて額の汗をぬぐつたといふ。穴に吊されて五日目は町の祭礼に当つてゐて罪人の死一等を減じることになつてゐるので、四日目に引出して斬首することになつたが、切れども切れず、刀が折れ、マストリリの祈りが終つてのち彼の励ましの言葉を受けて刀を振り降したところ一刀のもとに首が落ちたといふ。この時地は震ひ、天は忽ち黒雲を起し、又その屍体を焼いた日は、俄に大風が吹起つたにも拘らず、煙がまつすぐ天へ昇つた。
マストリリの殉教がマニラや天川へ伝はると共にかういふ伝説が流布した。やがてこの伝説が日本へ逆輸入されて来たから、これを聞いた宗門奉行井上筑後守をはじめ、処刑に当つた役人達カン〳〵に腹を立てた。
マストリリは日本の記録ではマルセイロとよばれてゐるが、これによると、穴の中で泣きわめいて死んだといふことになつてゐる。どつちが本当だかもとより断定できないが、この記録のある文献の史料価値や事柄の事実性から判断して、泣きわめいたかどうか、とにかく苦悶して息果てたといふのが多分本当だらうと私は思ふ。
だいたい穴吊しといふ刑にかゝると、堂々たる死に方などは出来ない仕掛けになつてゐた。そのために幕府が三十年もかゝつて発明した方法なのである。
マストリリの処刑から六年目に教師五人従者五人合計十名の潜入があつた。ジョゼフ・コウロ岡本三右衛門ことジュセッペ・キヤラの一行で、記録に残る日本最後の(シドチを除いて)潜入であり、この時までの潜入教師に一人の棄教者もなかつたのに、この時ばかりは十人一時に背教したといふ異例の潜入椿事であつた。
井上筑後守を始め日本の当事者がマストリリの伝説にどんなに業を煮やし大腹立てゝゐたかといふと、ジョゼフ・コウロ一行の棄教誓約書の中にまで天川に流布したマストリリの伝説を持ちだしてきて「右の通り、天川にて偽申すを実と存じ此方へ渡り承り候へば、右の通にて無之、マルセイロ吊され、穴の中にて泣きわめき苦しみ相果て候由を承り、伴天連も驚き申候」云々といふ一札をとつた。この糾問の条文によると、この一札を入れない限り勘弁まかりならぬといふ決意の程がうかがはれ「斯様の誑りにあひ日本に渡り候四人の伴天連同宿共第一のたわけ者、異国にても人に勝れたるたわけ者ゆゑ、此の如くに候儀は日本国御名誉誰か是を論ぜんや。若し是を偽と申し候はゞ、三右衛門を始め入満寿庵トナト白状いたさせ申すべく候」とあつて、天川の伝説は間違ひでしたと言はない限り車裂きにも致しかねない思ひつめ方、眥を決し双肌ぬいで詰め寄る形相物凄い。入満寿庵トナトとあるのは潜入神父の従者で、前者は広東人、後者は交趾支那人であつた。
シドチは日本潜入に当つてマストリリから伝はるといふ十字架を携へてきたといふので、二人は祖国を同じくし、伊太利亜の地に尚華やかに語り伝へられるマストリリの英雄的な伝記がやがてシドチの強靭な決意を育てた揺籃の唄の一節であつたかも知れない。
すくなくとも、直接将軍に直談判して布教の公許をもとめようとの潜入は、開教者サビエルについでは、マストリリ、シドチの二人があるのみだつた。
シドチが日本潜入の公許を教皇に願ひでたとき、その師たる人、教皇だか枢機官だか分らないが、シドチに向つて、日本はつとに切支丹を国禁し、国禁を犯して潜入した教師達はほゞ百名にも及んだが一人として生きて帰つて来た者がない。今また足下が潜入して、幸にもその使命が果されて布教の公許を受けることが出来ればいいが、許されず、捕はれの身となる時は、日本の国法によつて裁かれるより仕方がない。国に入つてはその国法に従ふべきもので、斬首をもつて望まれたら首を刎られて死ぬべきものだし、火炙りに処せられたら焼けて死ぬより仕方がない。いさゝかもその国法にたがふところが有つてはならないと言渡した。
果してそのやうに言渡した人があつたかどうかは分らないが、シドチは新井白石の取調べにさう答へてゐるのである。もとより骨肉形骸の如きはどうならうと国法にまかせるだけのことであるとその時も師たる人に答へて来たと述べ、日本高官の取調べを受けて真情のすべてをもつて訴へて尚且切支丹の公許を受けることができないなら万やむを得ない話で、自分は本国をでる時から生きて帰る心だけは毛頭持合せがなかつたと言つてゐる。渡航の船すらも求めがたい国へでかけて帰るべき船を予定することはもとより出来得べきことではない。
彼の唯やむべからざる念願は、とにかく日本へ潜入して、全滅した切支丹を再興すべくその為し得る全ての努力だけはしてみたいといふことであつた。
渡航の機会をうかゞふうち、アンテオキヤの総司教トマス・トウルノンが教皇の特派使節として北京に赴くことを知り、彼も亦日本潜入を教皇に願ひでゝ、同行を許され、一七〇三年ゼノアを出帆。シドチは三十五歳であつた。
シドチがどのやうな資格で故国をあとにしたか? 彼も亦教皇の特派使節であつたかどうか。シドチは白石の取調べに対して、自分とトウルノンは教皇の同じ使命を受けて、一は日本へ、一は北京へ赴いたものだと述べ、教皇と枢機官の会議に於て、昔チイナも切支丹を禁じてゐたが今は国禁を解いて天子の使が来てゐるし、スイヤムも亦同断である。ひとりヤアパンニヤのみ国禁すでに年久しいが、先づメッショナリウスを送つて訴へ、次にカルデナアルを公使として遣したら国禁を解くことができるかも知れない、と衆議一決、シドチが選ばれて来たものであると言ふのであつた。
事の真偽は分りかねるが、審問者の感情に対処して、これが適切な答弁であつたことは頷ける。白石は大義名分を尊ぶ人であるから、公の使たる者がなぜ堂々と乗込まないで変装潜入するやうな卑劣な手段を用ひたかと問ひつめてゐる。これは然し日本の外交史を無視した筋違ひの難問で、日本へくるなら潜入以外に手はない筈だが、然しかういふ詰問の裏を流れる白石の感情に対して、シドチの応対は聡明自在で変に応じ虚実をつくして答弁した。自分の利益のためではなく、自分の托された大いなる使命の達成のためであつた。
十一月六日、ポンジシエリ着。
一行はその地に於ける使命を果して、翌年七月二十一日呂宋へ向けて出帆。九月マニラに上陸した。
トウルノン総司教の一行はこゝで新たな便船を得て北京へ向つて出発したが、シドチはひとり別れてマニラにとゞまり、さて愈日本潜入の機会をうかゞふことゝなつた。
そのころマニラには三千余人の日本人が住んでゐた。彼等はひとつの部落をつくり、本国の俗をそのまゝ伝へて士族は双刀を腰にさし、其他の者も一刀を帯びないといふ者がなかつた。そのかみ追放を受けた切支丹の子孫もゐたが、三年前漂流してマニラへ着いたといふ十四名の漁師がゐて、シドチは特にこの人々から日本の新たな情勢をきゝ、また日本語を学んだ。
いくら待つてみたところで日本通ひの便船があるべき道理はなかつたし、金にあかして頼んでみても命を的の航海を引受けるといふ者もなかつた。遥々マニラまで辿りつきながら、一歩のところで思ふにまかせぬ悲運に日夜焦躁したが、徒らに落胆すべきではないので、彼は先づ聖約翰院と名づける病院をたてゝ哀れな病者を収容し、日々自分で世話をみた。
余暇には四方を駈け廻つて孤児や寄辺ない老人や貧民を訪ひ慰め、食物を恵み、福音を説き聴かせた。やがて富裕な同情者を得て、病院の傍に聖クレメント学院を設立、教育のためにも働いた。
四年の歳月が流れた。
比律賓総督ドミンゴ・ザルバルブル・ルシェベルリはシドチの為人を知つていたく敬服の念を懐いたが、その金鉄の宿志をきいて深く憐れみ、一切の費用を負担して一艘の大船を艤装し、彼を日本へ送りとゞける決意をかためた。
同時に、ミゲル・デ・エロリアガ提督は決死の航海を指揮するために、進んで船長の職務に当ることを申出た。
一七〇八年八月二十三日、聖三位号に乗込み、マニラ出帆。
途中三回の暴風にあひ、難航をつゞけて、夢寐にも忘れかねた日本の島影を初めて認めることが出来たのは十月三日のことであつた。種ヶ島であつたらうと云はれてゐる。
十月十日 聖三位号は屋久島海上にさしかゝつた。風向をはかつて陸地に沿い一里ばかりの沖合を進んでゐると、一隻の小舟を見出した。
双眼鏡で眺めると七名の漁夫が乗組んでゐる。彼等は異様の大船を見て、陸地を指して急ぎ帰らうとする様子である。
シドチは之を見て提督に向ひ、あの小舟に乗移らせて貰ひたいと願ひでた。異体の知れない漁船に托してこのまゝシドチを日本に送つていゝかどうか、提督は躊躇したが、シドチのやみがたい切願に抗しかね、ともかくボートを降して、数名の水夫と、通訳として一名の日本人を乗込ませた。この日本人はマニラに漂流した漁夫の一人で、今この船の船員であつた。
シドチのボートは帆をはつて漁舟を追ふたが、漁舟の方でも帆をあげて逃げはじめた。ボートの方では更に水夫がオールを下して力漕したので、忽ち差をつめ、十間程の距離をおいて停船を命じた。
そこで通訳の日本人に命じて先づ水が欲しいといふことを伝へさせたが、彼は何事か話合ふうち俄に顔色蒼ざめて恐怖の色を現し、頻りに本船へ漕ぎ戻りたがる様子である。
そのわけを問ふと、国の掟が厳重で異国人に一杯の水を与へてすら刑死をまぬかれぬ定めであるから、たつて水が欲しいなら長崎へ往けといふ返事であつたと言ふ。
それにしては顔色の変りやうが仰山であるし、恐怖の色がたゞ事でない。何か切支丹に関することを口走るか聞かされるかしたのではあるまいかといふ不安もあり、シドチは諦めかね、更にボートを近づけさせて自分で話しかけてみたが、彼の習つた日本語では話が全く通じない。
ただ彼等の様子から、深く怪しみ、一途に怖れてゐることのみが分つたから、今は諦めて空しく本船へ漕ぎ戻るほかに仕方がなかつた。
既にかうして日本人に顔を見せてしまつた以上、風聞が伝はり、監視が厳しくなるに相違ない。一刻遅れても時機を失ふ怖れがあり、躊躇すべき場合ではなかつたから、その夜のうちに、急ぎ上陸を決行することにきめた。
そのかみの神父達の潜入は、当時は日本に潜伏の切支丹が沢山ゐて、それらの信徒と連絡して上陸するのが例であつた。伊太利亜で日本潜入の決意をかためてやつて来たマストリリですら、天川で日本の信徒と連絡して上陸した。が、切支丹全滅の今となつては連絡すべき何者もなく、様子も地理も皆目わからぬ。
シドチはマニラで日本の武士の服装を一揃もとめて来たが、これとて確たるよりどころが有るわけではない。昔の記録によると、この変装で潜入するのが先づ定石で、マストリリもさうであつたが、そこでシドチも腰に大小をさしこみ(日本の記録によると大刀ばかりの様子だが)さかやきを剃り、髭を落し、日本風に結髪した。
荷物は袋の中へひとまとめに詰めこんで、先づマストリリから伝はつたといふクルス一個、悲しみの聖母の額一面、メダイユ四十二、聖油の小箱や香具その他聖祭用の器具一式、ディシビリナ、法衣二枚、書籍十六冊、オラショ類を書いた紙片二十四枚等々。それに提督が餞別として贈つた黄金の延金百八十一枚と粒百六十、ほかにマニラで手に入れた日本の金貨若干と少量の食物であつた。
夜陰に乗じて船が陸に近づく。ボートが下される。どこといふことは分らぬ。
ミゲル提督自らシドチの手をとつてボートに乗移つた。生命をなげうち絶東の異域へ単身布教に赴いて行く偉僧の上陸をわが目でしかと見届けるためであつた。そのほかに水夫、水先案内都合八名の者にまもられて、シドチのボートは暗闇へ消えた。
漕ぎ寄せた所は高いきりぎしに囲まれた小さな入江で、岩を噛んで打返すうねりが高くて、辛くもボートを岸へ乗りつけることが出来た時には余程時間が過ぎてゐた。
遂にシドチは日本の土を踏みしめた。
はらからを棄て、ふるさとの山河をすてゝ一念踏む日を焦り祈つた日本の土であつた。やがては彼の墓たるべき土でもあつた。鉄石のはらわたからすら涙が溢れた。シドチは天を仰いで天父に謝し、感極まつて地に伏して、愛する日本の土に接吻した。
何ものゝ棲む所とも分りかね、ミゲル提督は心もとなく、別れかねて、シドチをいたはり、いくつかの小山を越え流れを渉つて、やゝ広い谷間へでることが出来たときには、あたりが白みかけてきた。詮方なく「天主よ御身のために尽したるミゲル提督ならびに部下の人々を恙なく故国へ戻らせたまへ」といふシドチの祈りをあとにして、本船へ戻つた。
大隅の国馭謨郡の海上屋久島に出漁して、その島の粟生村といふ所に泊つてゐた阿波の国久保浦の漁師、船頭市兵衛その他七名の者が、湯泊といふ村の沖合二里ばかりの海上で漁をしてゐると、見なれない大船が現れ、小舟を下して十名ばかりの異様の者が乗込み、近づいて来て、水をもとめた。市兵衛はじめ漁師一同ひたすら拒絶して一途に陸地をさして漕ぎ戻つた。宝永五年八月二十八日(一七〇八年十月十日)のことであつた。
同じ日の夕方、矢張りこの島の尾野間といふ村の沖を、沢山の帆をはつた大きな船が一隻の小舟をひいて東をさして走るのを認め、村人が怪しんで浜へ出て見まもるうちに、日が暮れて、行方は分らなくなつてしまつた。
その翌日のことであつた。
この島の恋泊といふ村に藤兵衛といふ農夫があつたが、松下といふ所へ行つて炭を焼く木を切つてゐると、うしろで人の声がした。ふり向いてみると、大刀を帯びた男が手招いてゐる。
形はまさしく日本人で、さかやきを剃り、浅黄色の碁盤縞の木綿の着物をきて、二尺四寸程の刀を一本差しこんでゐるが、言葉が異様で通じない。
水が欲しいといふ身振りをしてみせるので、藤兵衛は器物に水を汲んできて、これを地上において、自分はそこを立ち離れて男のすることを見まもつてゐると、男は器物を執りあげて水を飲みなほも手招きする。然し怪しんで近づかずにゐると、男はふと気がついた様子で、腰の刀を鞘ぐるみ抜きとつて差しだした。そこで藤兵衛も近づいて行くと、四角板の形をした黄金一枚とりだして与へようとした。
昨日見たといふ船の者ではあるまいかとふと藤兵衛は気付いたから、刀も黄金も受取らうとせず、一目散に逃げだして、先づ磯へでゝ海上浜辺を見廻したが、それらしい敵影は見えず、又ほかに人のゐる気配もない。
村へ戻つて近隣に人を走らせ、これを告げた。
平田村の五次右衛門、喜兵衛といふ二人の者がこれを聞いて、藤兵衛と連立つて松下へ行つてみると、異様の男は尚その場所にをり、彼等の来た方を指して、そちらへ行きたいといふ身振を示した。
疲れきつた様子であるから、一人がそれを助け、一人は刀を、一人は袋を担つて、恋泊の藤兵衛方へ辿りつき、食物を与へると、男は食べ終つて、黄金の四角板一枚とまるい形をした二粒をとりだして差出したが、藤兵衛は堅く辞して受取らなかつた。
このことが薩摩の国守にきこえ、宮の浦といふ所に牢をつくつてこの男を保護、長崎奉行所へ報告した。ローマだとかロクソンだとか、この男の言ふ異様な言葉の断片を録したものを報告に添へて差出したが、長崎奉行所でオランダ人に訊きただしてみても、なんのことやら要領を得ない。
とにかく長崎へ護送させることになつたが、冬の末で海は荒れつゞき、船は二度まで吹き戻されてしまつた。
男は長崎を忌み嫌ふ様子で、ひたすら江戸へ行きたがる様子であつたが、この男の望みにまかせるわけには行かないので、多くの舟でひき、網場といふ所へ上陸、陸路長崎へついた。
陽暦十二月二十日長崎へついて、第一回審問は二十三日に行はれた。その三日間シドチは予て用意の聖体を日に一度づつ拝受のほかは米も水も摂らなかつたが、奉行所では之を見て丸薬を用ひてゐると思つた。
長崎奉行永井讃岐守に別府播磨守の両名。通訳として和蘭の甲必丹マンスダール、商人シクス、手代ヰッセールそれに羅甸語のやゝ解るドューウといふ者が立合ひ、彼等はこの日取調べる二十五箇条を箇条書にしたものを持ち、その答弁を書きこむ手筈になつてゐた。
男のさかやきはすでに一分ほど延び、日本服の上に金鎖のついた木の大きな十字架を首から下げ、手に念珠をもち二冊の書籍を腋にはさみ、臂のやゝ上部を縛されて現れた。書籍の一冊はヒイタ・サントルムといふ天草学林刊行の羅甸語と日本語の対訳本で、他の一冊は日本語の辞典であつた。
取調べは一時間半つゞいたが、結局ローマカトリック教司祭ヨワン・バッティスタ・シローテといふ氏名が分つた程度であつた。氏名の訛は白石も亦同じやうに聞き違へて、結局彼は日本の記録にヨワン・バッティスタ・シローテといふ氏名を伝へることゝなつた。取調べが終つてのち、和蘭人の書込みを合せてみても殆んど要領を得ず、イタリヤ、パレルモ、ローマ、フランス、カナリヤ、天主、父、子、聖霊などゝいふ単語がポツ〳〵通じたにすぎなかつた。
この審問にシローテは甚だしく和蘭人を憎み嫌ふ様子が現れて、オランダといふ言葉がでるたびに必ず頭をふり「たぶらかし〳〵」と日本語で叫んだ。
かういふ風では和蘭人に訊ねさせても却つて沈黙させる怖れがあるといふので、第二回目の審問には障子を距てゝ和蘭人を隠しておいてシローテの答弁をきゝとらせることにしたが、之又皆目分らない。
シローテが袋につめて携へてきた品々も皆目用途が分らなくて、本人にたゞしてみても「れす・さくれ」と答へるぐらゐで異体が知れない。昔の長崎奉行所なら一目でそれと分る切支丹祭具で、捕吏達が鵜の目鷹の目嗅ぎまはつてゐた品々だつたが、最後の潜入からわづかに六十数年、十字架の何たるかまで分らないほど切支丹に縁遠い時世になつてゐた。
愈最後の試みで、ドューウに羅甸語で訊問させることになつた。
シローテが和蘭人を嫌つてゐるのが分つてゐるから、和蘭人を上席において調べては返事をしないかも知れないと変な所へ気をまはして、ドューウとシローテの席を並べておくことにした。と、今度はドューウが腹を立て、罪人と同席は不都合であると席を蹴立てゝ立去つた。奉行は困却してドューウをなだめ、かのシローテなる者は和蘭人を見ることも喜ばぬ様子であるからまして上席から訊問を受けては返事も言ひしぶるであらうと思つてこのやうに取計つた次第で、事情を推察して忍んでもらひたいと説明したが、ドューウは頑として聞き入れず、余儀なく席を改めて、上席から立会はせた。
然しながら羅甸語の審問はどうやら通じて、この日のために用意した十七箇条は悉くシローテの明確な答を得ることができ、こゝに始めて彼の来由が判明した。
如何様にしても江戸へ上り、将軍に拝謁して宗門の説明をなし改宗をすゝめたい所存であつたと述べ、屋久島で日本人に話しかけたのも一隻の船を雇つて江戸へ行きたい為であつたと答へた。今も唯願ふところは、江戸へのぼつて将軍に拝謁したいこと、この一つのみであると言ふのであつた。
又、足下は何事か屋久島の村民に宗門の話をしなかつたかといふ訊問に対しては、もとよりその為に来たのであるから自分は常にその話のみ致さなければならないのであると断言した。
この報告が江戸へ来て、新井白石が初めて之を耳にしたのは宝永五年十二月六日のことであつた。
この日西邸へ伺候して家宣(この時はまだ将軍ではなかつた)に拝謁すると、その年八月一人の蕃夷が大隅海上の島へついたといふ長崎からの報告が話題に上つて、ローマ、ロクソン、ナンバン、カステイラ、キリシタンといふ言葉などが聞きとれたが、ローマはとにかくとして、ロクソン、カステイラなどは甲必丹にも意味が分らなかつたといふ話なのである。ロクソンだのカステイラなど白石でも聞き覚えのある地名だが甲必丹にも分らないとはをかしな話で、曖昧な報告であつた。
そこで白石は、家宣に向つて、その蕃夷は西洋の国から来た者に違ひありますまいが、然し、言葉がきゝわけられぬとは心得られぬ話です、と答へた。
家宣は自信たつぷりの断言ぶりをあやしんで、心得られぬとはどういふわけだと尋ねた。
白石は之に答へて、昔の人の話によると、西洋の国の者は極めて多くの言葉に通じ、その昔はじめてナンバンの人が日本に渡来した時も数日のうちに日本語を覚え、その宗門を伝へることもできたといふ話であるが、のみならず、その時以来数十年は西洋と交通があつて日本人が欧洲へ行くこともあり、又禁教の後は追放されてあちらへ移住した者も相当あつた筈である。それゆゑ西洋の者が自分の国で日本語を習ふことも不可能ではなく、まして何事か求めることがあつて遥々日本へやつて来る以上、日本語に通じなければその志を遂げることが出来ないわけで、必ず西洋にゐるうちから日本語を習ひ覚えて来てゐるのに相違ない。とはいへ元来言葉といふものには方言があり、又、昔の言葉と今の言葉とは違つてゐる。特に切支丹が追放されたのは今から百年近く前の話で、今回やつて来た蕃夷がそのやうな人達の子孫から日本語を習得して来たとすれば、現在我々の用ひてゐる言葉とは余程違つてゐるに相違ない。だからさういふ心得で、方言だの昔の言葉だの考慮に入れて訊きたゞして行けば、日本語で取調べて必ず通じる筈である。と言ふのであつた。
家宣も一理ある言葉であると頷いた。
宝永六年正月十日綱吉永眠。家宣があとを継いだ。
その年の十一月九日、家宣は白石を召し寄せて、大隅の国へついた西洋人が近々江戸へ送られてくる筈であるからその来由を訊問せよと命じ、長崎奉行の注進状の写しを与へた。白石の自信たつぷりの断言を家宣は忘れてゐなかつた。
長崎奉行がなまじ和蘭語などで訊問したからこんがらかつてしまつたので、日本語できけば必ず通じる。白石はあくまで之を信じてゐたが、地名だの宗門のことに関しては日本語になり得ない特殊の言葉がある筈で、この予備知識がないことには取調べに困難であると思つたから、切支丹の用語の飜訳したものを借していたゞきたいと願ひでた。そこで宗門奉行が蔵を探して切支丹のことを説いた三冊の本を届けてくれた。これは例の岡本三右衛門がころんで後に書き残した切支丹の教義要略といふやうなもので、かなり明細に教義の大意が説いてあつたが、用語の飜訳といふものはなかつた。
宝永六年九月二十五日ヨワン・シローテは牢輿に乗せられ、長崎出発。大通詞今村源右衛門、稽古通詞加福喜七郎、品川丘次郎その他二十六名の者が附添ひ、十一月朔日江戸表へつき、小石川茗荷谷の切支丹屋敷へ入れられた。
この道中、シローテは牢輿に入れられたまゝ夜もその中で寝なければならず、外の景色も太陽も皆目見えず、足を折り曲げて三十何日揺られ通して来たものだから、江戸表へついた時には全く衰弱し、第一両足がなへてしまつて不具となり、全然歩行ができないやうになつてしまつた。
諸般の準備がとゝのつて第一回目の審問が開かれたのは陰暦の十一月二十二日。場所は切支丹屋敷内の白洲で、二人の宗門奉行横田備中守と柳沢八郎右衛門が立会ふことになつた。
宗門奉行といふのは作事奉行の兼官で、切支丹など一人もゐない時世だから、宗門奉行は名ばかりで切支丹のことなど何一つ御存知ないのである。横田備中守が大通詞今村源右衛門に命令してシローテに詮義した十三ヶ条といふのが愛嬌のある代物で、切支丹のことは一つもなく「人参は南蛮イタリヤ国などにても朝鮮人参を用ひ候哉。但ロウマなどにも人参有之候哉。常々病気の時分南蛮人も人参用ひ候哉」かういふことを訊いてゐる。日本とイタリヤの丁度真中は何と云ふ所だらうとか、蒼海には大魚獣や異形のものがゐるだらうといふことを詮議してゐるのである。大変好人物でのんびりしてゐて何一つ屈托のない奉行であつた。
さて十一月二十二日、この日先づ白石は午前中に切支丹屋敷へやつて来て、シローテが携へて来た品々を検分し、つゞいて通詞の人々を呼び寄せて、その心得を言ひきかせた。つまり切支丹法禁以来その宗門の言葉を口にしたゞけで処刑される程であるし、まして禁令以来百年近い歳月が流れて切支丹の教義に通じた者も言葉に通じた者も全くゐない。そのうへ通詞といつても和蘭語だけのことで伊太利亜の言葉が分らないのは是非もないが、然し万国地図を調べてみると、伊太利亜と和蘭は同じ欧羅巴の地続きであるし、長崎と陸奥ほど遠くは離れてゐない。だから和蘭語を元にして推察すれば伊太利亜語の七八に通じることが出来ないとも限らない。公のことに関しては推量で答へることは許されないが、今の場合は用を弁じればいいのであるし、又自分としては足下等の推量をそのまゝに鵜呑みにしようとは思はず、それを参考にして自分の判断をするつもりだから、充分納得が行かず不安があつても構はないから、推量で大意を伝へてもらへば結構である。推量が違つてゐても咎めはしない、と言つたのである。
午すぎて、審問が開かれた。
シローテは歩行できないので、二人の番卒に左右から助けられて現れた。非常な大男で六尺をはるかに越えてゐるやうに見え、番卒は左右の腋にもぐりこむぐらゐであつた。庭に榻をすゑ、これに彼をかけさせた。
シローテは木綿の白い肌着に茶褐色の袖細の綿入を着てゐた。これは薩摩の国守が与へたものであつた。すでに厳寒の候であるから、これだけでは寒さを防ぐに足りない。
そこで審問に先立つて、宗門奉行が着物を取り寄せて与へた。が、切支丹は異教徒の施与を受けてはならない定めであるからと言つて拒絶し、毎日食物をいたゞくだけでも大きな国恩を受けてゐるのに更に衣服をいたゞいては宗門の掟にそむくこと甚だしいし、この衣服でも寒気を防ぐに充分だから、心をわずらはしてくれるなと言つた。
この問答が終つてから愈白石の審問にはいつた。
白石は先づ懐中から持参の万国地図を取りだした。
この審問の眼目は言ふまでもなく如何なる目的があつて潜入したかといふことであるが、欧羅巴の国情歴史風俗、さういふものを充分に弁へてゐなければ彼の来由を訊きたゞしても本意をつかむことが不可能であらう。白石はさう考へて来由の詮議は後まはしにして、先づその前何回でも審問を開いて、欧羅巴の事情を得心ゆくまで問ひたゞし、そのあとで切支丹の問題にふれる予定を立てゝゐた。
ところが持参の地図を取りだしてシローテに示したところ、その地図は日本で刷られたもので精密を欠き、役に立たないといふ返事である。幸ひ宗門奉行に外国版の古い地図があるといふ話なので、次からそれを用ひることにした。
さてシローテの語る言葉をきいてみると、果して白石の確信通り、とにかく日本語を語りうるのである。しかも予ての想像通り方言のごちやまぜで、畿内、山陰、西南海道の方言が主で、これを伊太利亜の巻舌で発音するから、ちよつと聞いては日本語のやうに思はれない。けれどもその心得で聞けば手真似を入れてなんとか日本語で通じることが出来るのだ。却つて通詞達は和蘭語にとらはれてゐるので、白石よりも分りにくい時があつた。
そのうへシローテは自分の言葉を理解させたいといふ真摯な情熱を持つてゐて、ひとつの言葉を必ず反覆して言ひ、通詞が理解できない時は何度でも根気よく繰返して、どうしても理解させねばやまないといふ真面目さがある。前掲の宗門奉行の愚劣極まる詮議の条々に対しても彼の答といふものは誠実で、調子を落したり、いゝ加減でお茶をにごすやうなことはしてゐない。
この日は欧羅巴の事情の極めて初歩的なことをあらまし尋ねて、日の傾いたころ審問を終つた。
この時シローテは通詞を通して次のやうなことを申出た。
自分が日本へやつて来たのは教法を伝へてこの国の人々を利し救ひたいといふ為であつたが、しかるに自分が日本へついて以来といふものは事毎に多くの人々をわずらはすのみで恂に本意なく思つてゐる。あまつさへ江戸へ来てのちは、すでに年も暮れようとし、ほどなく雪の降る季節になつたといふのに、此処に詰めてゐられる士分の方々を始め番卒御一統日夜を分たず守りについていたゞいて、自分としては見るに忍びない思ひである。それといふのも自分が逃げてはとの御懸念からであらうが、自分の生涯の念願といへば、どのやうにもして日本の国へ行きついて教をひろめたいといふこの事のみで、万里の風波をしのぎ、六年の歳月を費してやうやく一念を貫き、かうして今や江戸へ着くことが出来たのである。逃げるなどゝは思ひも寄らないことであるし、よしんば逃げてみたところで、一見してそれと分る異国の者が一日も無事隠れおはせるものではない。とはいへ上の命令によつて御守り下さる上は務めを怠るわけには行かないであらうが、昼の守りはとにかくとして、夜間は手枷足枷をつけ牢につないでいたゞいて、せめて人々を安眠させていたゞくやうに御取計ひを願ひたい。
この言葉をきいて、二人の奉行をはじめ一座の人々一様に哀れと思つた様子であつた。
白石はこれを見て、この者は見かけによらぬ偽り者ぢや、と言つた。
婦女子風の感覚を嫌ひ、誠実の押売りを厭ふ日本式の儒教論理は過去の外人神父達がいづれも応接に一苦労した難物で、これに就いては、多くの報告がもたらされてをり、このへんの概念は漠然ながらシローテも懐いてゐたであらうと思ふが、事実に当つてぶつかつては誰でも驚く。
シローテは恨みをこめた顔色で白石を視凝めてゐたが、人にまことがないほどの恥辱がありませうか。まして私共の教では妄語を戒しめてをりますものを。私が事の情をわきまへてこのかた一言の偽りを申した覚えがありませぬ。何故殿は私を偽り者と仰せられますか、と言つた。
白石はこの詰問に押しかぶせて、おまへは年の終りも近づき寒気のきびしい折から番卒共が昼夜を分たず守りについてくれるのが見るに忍びぬと申すのであるな、と訊く。いかにも、それに相違ございませぬ、と答へた。
「さて、それならばこそ、おまへの申す言葉には偽りがあると申すのぢや。番卒がおまへを守るのは奉行の命令を重んじてのことであり、又、奉行は公家の仰せを受けておまへを守つてをられるゆゑ、おまへの身に事故なきやうにと思ひはかられ、寒からうとの御配慮から衣服を与へようと仰せられる。もしもおまへの申す言葉がまことの情であるなら、奉行がおまへの身を案ぜられての御心配をなぜ安んじてあげないのか。異教徒の配慮を受けることが出来ないといふなら、番卒の配慮も亦こだはるに及ばないではないか。それゆゑ、おまへの先程の言葉がまことなら、今の言葉は偽りの筈ぢや。又、今の言葉がまことならば、先程の言葉は偽りの筈ぢや。申しびらきもあるまい」
感情自体の真偽を無視して屁理窟一点張りの日本風の論法であるが、白石は又このやうな非情の理窟を自らの生活として誠実に生きぬいてきた傑人である。奉行達の感動に反撥して、紅毛人ごときにといふ強情で意地の悪い向ふ意気もあるけれども、牢固たる信条とその信条に一貫せられた誠実も亦疑ひ得ない。
シローテはこれをきいて成程と思ふ様子であつたが、やゝあつてのち、まことに私のあやまりでございました。いかにも衣服をいたゞきまして御奉行の御心を安んじたいと存じます、と言つた。
好人物の御奉行はすつかり喜んでしまつて、よくぞ仰有つて下すつたと大いに白石を賞讃、感謝したとある。
やゝあつてのち、重ねてシローテは通詞に向ひ、同じやうなことではありますが、絹類では私の心が安らかではありませぬので、木綿の衣服を給はるやうにお願ひ致します、とつけくはへた。
第二回審問は三日目の十一月二十五日で、午前十時頃から始められ、専ら欧洲事情をきゝたゞした。シローテはすでに与へられた木綿の衣服をかさねてゐた。
白石はこの日から宗門奉行所に保存されてゐた万国地図を携へて行つた。シローテはこれを見て、七十余年前和蘭でつくられた地図であるが、今ではあの国でも得易からぬ品物で、こゝかしこ破れてゐるのは惜しむべきであるから、修補して後々まで伝へられるが宜しからうと言つた。
さて、この日白石が感嘆久しふしたことは、シローテがまことに博聞強記、天文地理をはじめとして多学にわたり、企て及ぶべしとも見えぬ学才をあらはしたことであつた。
日がすでに傾いたので白石が奉行に向ひ、何時だらうかと尋ねたところ、このあたりには時を打つ鐘もないので何時頃とも分らないと奉行が答へた。
するとシローテは頭をめぐらし、日のある所を見て、次に地下の影を見て、指を折りまげて数へてゐたが、自分の国では丁度何月何日だから何時何分頃に当りませうと言つた。
白石は驚いたが、然しこの程度のことなら、その方法を覚えこみさへすればまだ易しからうといふ推察はついた。
ところが例の和蘭版地図を取出して、ローマはどのへんだと訊ねたところが、シローテは通詞に向てチルチヌスはありませぬかと先づきいた。通詞がないと答へたので、白石がなんのことだと問ふてみると、和蘭語ではパッスルといふもの、ローマの言葉ではコンパスといふものゝことであると言ふ。ところが驚いたことには流石に白石で、かねてコンパスを用意してをり、その物ならこゝにあると懐中から取出してみせた。
シローテは之を受取つて暫く工夫してゐたが、このコンパスはネヂが弛んでゐて用に立たないが無いよりはましであらうと言ひ、地図の目盛に合せて測つてゐたが、やがてコンパスを立てゝ此処ですと言ふ。そこを見ると成程西洋の文字でローマと記してある。その他和蘭であれ江戸であれコンパスで測つて、さし違へたといふことがない。
白石は甚大の驚愕を喫し、悉く敬服してしまつた。感嘆のあまりシローテに向つて、おまへは全てこれらのことを学び覚えたのかと尋ねた。いかにも習ひ覚えたのだが、これしきのことは至極易しいことだとシローテは答へる。いかにも尤もな答である。けれども白石はこの時つく〴〵長大息して、自分は数学に拙いからとても之だけのことは学ぶことが出来まい、と、之は又とんだ所で数学を引合ひにだして大きく嘆いたものである。これではシローテが慌てざるを得ない。否々、これぐらゐのことに数学など微塵も必要ではなく、殿ごとき方であるなら極めて容易に覚えこまれる筈であると言つて白石を慰めた。
三百年前の和蘭版万国地図といふものがどういふ仕掛けの物だか知らないが、コンパスで目盛を測つてさし当てるとはどういふことであらう。コンパスで目盛を測るぐらゐなら緯度経度或ひは里程を正確に暗記してゐる筈である。そんなら何もコンパスで測らなくつても地図を一見してそれと指摘できないことがなさゝうだ。太陽とその影を見て時間を判断するにしても一々指など折りまげなくとも良さゝうで、どうもシローテのやることには白石の気質を見込んだ芝居気がありさうだ。
白石も亦白石で、これぐらゐのことで数学を引合ひにだしてまで驚くほどなら、なんのためにネヂの弛んだコンパスなど懐中に入れてゐたのか分らない。
然しながら、シローテはかういふ具合に茶羅化すやうな人ではなかつた。
和蘭の戦艦には多くの窓があり、上中下の三層があつて各大砲をだしてゐるさうだがと云ふことを訊きたかつたが、言葉だけでは通ぜず、手真似でも表はしにくいことであつたが、仕方がないので、白石はその左の手を横に立てゝ四本の指をだし、その間から右手の指頭を三本だして見せた。シローテは之を見て、打ち頷き、如何にもその通りであると答へ、通詞に向つて、殿は敏捷であらせられると言つて賞讃した。
又、通詞達がシローテのラテン語を和蘭風に訛つて発音するたびに、繰返し〳〵教へ、遂に習ひ覚えて正確に発音すると大いに賞美するのが例であつた。
欧羅巴なら小学校の子供でも出来ることに数学を引合ひにして長大息する白石であつたが、シローテはその人物、その識見を決して見誤りはしなかつた。
と云ふのも、白石自体が実にすぐれて偉大であつたせゐもあらう。彼の質問は常に適切で要をつくし、しかもその主旨は一貫して欧羅巴文明の本質をつき、隙もなく弛みもなかつた。
白石はこの審問の後に十一月晦日に三度目の審問をひらき、この時も亦宗門のことにはふれず、専ら欧羅巴の事情のみを尋ねたがわづかに前後三回の審問だけでローマの何処たるかすら知らなかつた白石が、欧羅巴各国のみならず東洋各地、南北アメリカ等にわたつて、その各の地理歴史国情風俗等について殆んど余す所なく、又殆んど誤る所なく記録を残した。
審問時間の総計から考へては想像に絶する記録であるが、ひとつには白石の知識慾に最も敏感に応じることのできたシローテの偉大さも計算に入れなければならないであらう。
「まのあたり見しにもあらぬ事どもは」しるさず、又信じないのが白石の生涯を一貫した学的精神で、シローテ審問の要領も亦もとよりこの軌道の上にあり、科学的訓練のない当時にあつて真に異例の精神であつたが、之に応じたシローテが又その知識に於てその誠実真摯な信仰に於て遜る所のない人物であつた。
あるとき白石がヲヽランデヤノーワ(オーストラリヤ)は日本からどのぐらゐ離れてゐるかと尋ねたところ、その時までは問へば飽くまで熱心に答へてゐたシローテが、どういふわけだか口を噤んで答へない。
重ねて問ひたゞしたところ、シローテは通詞の者に向つて、切支丹宗門の戒めでは人を殺すより悪事はないと言はれてゐる。それであるのに人に教へてよその国をうかゞはせるやうなことがどうして出来ませうや、と答へた。
白石は不審に思つて、そのわけを問はせたところ、思ふことがあつて、この地方のことは申上げることが出来ない、と言つて、それ以上答へたがらぬ風である。
尚も追究したところが、さらばといふ風をして、この殿を見受けまするに、日本に於てはどのやうな地位におはす方か知らないが、もし私の国に生れ遊ばしたとしたならば必ずや大きな事業を残さずに終られるといふ方ではない。ヲヽランデヤノーワは日本を距ること遠くもないので、この殿が侵略されることを怖れて、その旅程を詳には申上げないのである、と言つた。
白石の短所かどうかは言ふべき限りではないけれども、彼は元来自ら恃むこと恂に逞しく、その不羈独立の精神から由来した自慢癖を持つてゐた。
太閤そこのけの大人物に見立てられて、気のいゝ御両人の御奉行が度胆をぬかれて讃嘆したに相違なく、白石はてれたふりをして、御奉行にきかれるのも片腹痛い限りで失笑したなどゝ書いてゐるが、大いに気を良くしたに相違ない。
どこまでシローテの本音であるかは知り難いが、又白石の気質を見込んでの権謀術数もたしかに有つたと思はれる。
元来日本の切支丹禁教令は宗教をだしに使つて国を奪ふ魂胆であるといふ理由のもとに発せられたものであつた。徳川家康は喰へない親爺で、彼の識見はもつと大きく深い所にあり、軍事上ばかりでなく経済上その他のことでも鎖国を救国の策と看破し、一応の口実を見つけて切支丹を国禁したが、案外彼自身は切支丹を道具にしての軍事的侵略などといふことを信じてはゐなかつたといふ見方もできる。
然しながら大御所の魂胆はとにかくとして、切支丹は国を奪ふ手段であるといふことは日本の上下に信じられ、又切支丹もそれを信じて、切支丹は人民救済の宗教であつて何等一国の政策とは関係のないものであるといふ申開きが彼等の最大の念願であつた。この念願が達成して日本政府の理解を得れば、切支丹は再び日本に行はれるに相違ないといふことが彼等の希望であつた。
シローテの希望も元よりそれであつて後日白石に向つて、日本が切支丹を禁令したのは和蘭人が日本の為政者を動かして国を奪ふ手段であると信じさせた為である。然るに我ローマの国は国がひらかれてこのかた千三百八十余年寸土尺地といへども他国を侵略したことがなく、むしろ和蘭の如きは侵略の常習犯でいつ何をやりだすか計りがたい国であると切言してゐる。
又、自分が教皇の命を受けて日本潜入の決意をかためたとき、同時に三つの志を立てた。その一つは望み請ふところを許されて再び日本に切支丹が行はれるやうになるなら元よりこれにまさる喜びはない。二つには、望み請ふところが許されず日本の国法によつて処刑される場合は、もとより宗門のため又師のため自分の骨肉形骸の如きはどうならうと構ひはしないが、唯、国をうかゞふ間諜のやうに沙汰されるなら、之以上の遺恨はない。三つには、師命を達し得ず、万里の行をむなしくして、生きて本国へ還されるほどの恥辱はないといふ、以上三つのことであつたと白石に言つた。
かうして彼は折にふれ、機を見るたびに、切支丹は国を奪ふ手段でないといふことを信じさせようと努力した。彼とても亦、禁令の根本理由がそこにあると思ひこんでゐたからであつた。
たま〳〵ヲヽランデヤノーワのことに行き当り、ヲヽランデヤノーワといふからには第一仇敵和蘭が侵略した土地であり、それを更に白石の侵略に引つかけて逆効果をねらひ、切支丹は決して他国を侵略しないと言ふことを暗に呑みこませようとした──さういふ風に考へて、必ずしも不自然ではないと思ふ。
ところがシローテのこの術策はてんで白石に通じなかつた。
白石がもしシローテの想像通り切支丹は国を奪ふ手段であると信じてゐて、特にその点を意識して切支丹を危険視してゐる人であつたら、彼程聡明敏活の人が、よしんば如何ほど自慢癖に憑かれてゐても、シローテのおだてに乗つて気を良くして、裏のことには気がつかないといふことが有り得ようとは思はれない。さてはと忽ち気がついて、食へない奴だと思ひついたに相違ない。
ところが奇妙な因縁で、白石は審問にかゝる前から、切支丹は国を奪ふ手段でないといふことだけは、あらかじめ心得てゐたのであつた。
不思議な因縁で──まさに然り。彼は審問の始まる前に、切支丹の特殊な用語の飜訳が知りたいと思ひ、宗門奉行から三冊の本を貸してもらつた。これは背教者岡本三右衛門(彼はシローテとその国籍を同じくし、のみならず、ふるさとも亦同じシシリヤであつた)が背教後書き残したもので、切支丹の教義要略ともいふべきものであつたが、彼がこの一書の中で最も力説してゐることはと言へば、切支丹は国を奪ふ手段にあらずといふ一事であつた。人の悲しい弱さによつて力つき背教したとはいへ、彼も亦その志の一分だけは、神に背いてのちに秘かに果しておいたのだ。とはいへ同じふるさとの剛毅誠実な後輩の取調べに利用されようとは、もとより知らう筈がない。
白石はこの三冊の書物を精読して、取調べにかゝる前から、切支丹は国を奪ふ手段にあらずといふことだけは否応なく分らせられてゐたのであつた。それゆゑシローテが常に最も意識してゐたことに、白石の方ではてんでこだはりを持たなかつた。
尤もシローテのこの術策の深い言葉には案外本気も含まれてゐて、実際白石が侵略も致しかねない人物だと思つてゐたかも知れなかつた。
といふのは、シローテが日本潜入に当つて持参して来た十六冊の書物の中には、タイカフサメ(西洋では秀吉をかういふ風に訛つてよぶ)の事蹟を書いた書物もあつたといふことで、タイカフサメは切支丹国禁の張本人になつてをり(シローテは決して家康のことを言はない)明ばかりでなくマニラ遠征を企てゝゐた──企てもしなかつたが、マニラの方では企てゝゐると思つてゐた──典型的な侵略家であつた。
さういふわけでシローテはタイカフサメの侵略精神に充分の概念を持つてをり、白石の探究精神によつて根掘り葉掘り国々の事情を問ひつめられては、多少白石の魂胆を疑ふ気持にもなつたであらう。
ひところの外人宣教師が日本の文化や国民の知能を高く評価してゐたことは非常なもので、当時の宣教師の報告がそれを充分に語つてをり、西教史の序文などでも、日本人は支那人などゝは比較にならぬ高級な国民だと言ひ、西洋最高の文明国はローマだが、日本の文化のみは蓋し之にも劣る所がないなどゝ途方もない大讃辞が呈してある。
あるとき白石がシローテに向つて、同じ東洋のうちには日本の外にチイナがあり、その文物声教は古より中土と称するほどであるがその実状はどうであらうかと尋ねた。
この時シローテは答へて、日本人はまるい物を見るが如くであり、チイナの人は角ある物を見るが如くである。日本人の温和なことはこのやうだと言つて自分の衣服を掴んでみせ、チイナの人の固く渋つてゐる様は又このやうだと言つて榻をなでゝみせた。さうして、近きを賤しんで、遠きを尊ぶべきではないと言つた。
ヲヽランデヤノーワはとにかくとして、東洋では日本人が最も優秀な国民だとは分つてゐたし、白石が油断のならない人間だとは思つてゐたに相違ない。
彼は榻につくたびに必ず手を拱して一拝して、坐つてのちに十字を切り、目をつぶつて、坐つてからは泥塑のやうに身動きをしない。白石や奉行が立つことがあれば、必ず自分も立上つて一拝してのちに坐につき、還つてきて坐につかうとすると、彼の方が先に立上つて一拝して又坐につく。この礼儀の正しさには儒教の行儀で鍛へてきた白石もほとほと感心した。
十一月二十五日の審問のあとで、シローテの獄中生活を見学したが、牢獄は大きな牢舎を三つの小部屋にしきつたもので、シローテは西面の一室に住んでゐた。赤い紙を切つて十字架をつくり、これを西の壁にはりつけて、その下で経文を誦してゐた。
食物にも限度があるといふことで、長崎以来一定の食事をしてゐたが、平日は午と日没後とに二度、主食物は薄い醤油に油をさしたものゝ中で小麦の団子と魚と大根とひともじを入れたものを酢と焼塩をそへて食べる。菓子は焼栗四ツ、蜜柑二ツ、干柿五ツ、丸柿二ツ、パン二ツ。これを一日に二度食べるわけである。
斎戒の日は主食物は午の一度で、菓子だけは平常通り二度食べた。切支丹屋敷へ来て以来入浴したことがなかつたが、垢のついた跡もなく、食事の外には湯も水も飲まなかつた。又、果実の皮や種はどういふ風に始末するのやら、あとを見たといふ者が誰もなかつた。
父母はどうしてゐるかと白石が尋ねたところ、父は十一年前に死に、母の名はエレヨノーラ、今猶生きながらへてゐるとすれば六十五歳になる筈であり、兄弟は四人で、長女は夭折し、次は兄で名はヒリプス、次が自分で四十一歳、末弟は十一の折死んでしまつたと答へた。
男子が国命を受けて万里の行につくからは一身を顧ぬことは言ふまでもないが、おまへの母もすでに年老い、兄も亦壮んな年はすぎた筈で、おまへはそのことを思ふ時がなかつたかと白石は重ねて尋ねた。
暫く返答がなかつたが、顔に一抹の憂気が流れ、やがてシローテは身を撫して、もとより一国の薦挙により日本渡来の師命を受けてこのかたは、いかにもして日本の土を踏みたいと思ふほかには余念のあるべき筈はなかつた。老母老兄といへども、自分が国のため又教法のため一身を棄てゝ赴くことを彼等自身の幸ひであると喜んでくれた。とはいへ、その血肉を分ちあつたはらからの事であるから、生きながらへてゐる限りはどうして忘れることが出来ませうか、と答へた。
審問は十一月二十九日にも開かれ、この日も亦専ら欧羅巴事情の究明に費して宗門の話には微塵もふれるところがなかつた。
シローテは折にふれ機を見ては頻りに宗門の話にふれようと焦つたが、白石は未だその時機ではないと心にかたくきめてゐて、むしろシローテの焦躁をあざけり楽しむぐらゐ冷酷な、一抹の底意地悪さをたゝへながら、シローテが宗門のことを言ひだすたびに素知らぬ風をして、全くそれに取りあはなかつた。さうして自分の訊きたいことだけは執拗に訊きつゞけた。
翌日白石は本丸へ伺候して、すでに審問三回に及び、欧羅巴の地理歴史文化風俗国情等一通りは訊きたゞし、又シローテの言葉を聞き違へるといふ恐れがなくなつたから、この上は愈彼の来由を糾問したい意向であると言上。前回の審問は宗門のことにはふれないので奉行の出席をもとめなかつたが、次回は切支丹宗門のことにわたる筈であるからと言つて、奉行の出席を要請。愈来由を問ふことゝなつた。
十二月四日、シローテがその一生を賭けて待ちかねた最後の審問がひらかれた。
この日シローテを呼出し、例の如く各座についてのち、愈来由を問ふむね白石が申渡したとき、シローテは喜悦に堪へざる有様で、日本布教の師命を受けてこのかた六年、万里の風波をしのいで日本の土を踏むことができ、遂に国都江戸に到着することも出来たが、折しも今日は本国では新年の初の日に当り(正月三日に当つてゐた)人々がお祝ひしてゐる時であつて、この日に当つていのちの念願が達せられ、切支丹宗門のことに就いて言上することが出来やうとは、これにまさる幸せがありませうやと言つて、かくて彼はその一生の熱血をこの一日に傾けて、キリシトの教を説いた。
とはいへ、この糾問の座に於て、如何に声を大にしてキリシトの教を説いてみても、国禁を解きうる見込みはすでに微塵もなかつたのである。白石には冷然たる批判の眼があるのみであるし、のみならず、彼の立場は布教師にあらず、とらはれの一罪びとにすぎなかつた。
今はたゞ説くのみであつたであらう。誰に向つてといふこともない。白石が相手でもなかつた。その一生のいのちであつた念願にかけて、たゞ専らに説き明し、専らに説き尽さねばやむべくもない思ひであつたに相違ない。
シローテは白石に向つて、本国を出る時から生きて帰る心だけは毛頭なかつたと述べ、さりながら、今なほ公教の東漸すべき時機ではなく、一生の情を傾けつくして告げ訴へて、尚かつ布教の公許を受けることが出来ないなら、万やむを得ない話であつて、自分の骨肉形骸の如きはどうならうと元より誰を咎むべきでもありませぬ、と言つた。
将軍へ差出した白石の上書によれば、シローテの熱烈真摯なる有様、その志の堅固なる有様を見ては心を動かさずにはゐられなかつたと述べ、すみやかに首を刎ねても到底その志を変ぜしめる見込みはなかつた、と附加へてゐる。
だが、シローテの説く切支丹宗門の本義に関してのみは、白石の批判は冷酷無残で、博聞強記多学多識企て及ぶべしとも思はれぬこの人が、ひとたびその教法を説くに至つては一言の道理にちかいものもなく、智愚たちまちに地を変へて、さながら二人の言を聞くやうであつた、と述べてゐる。
彼はキリシトの教を理窟にてらして一々説破し、超理的なるが故に人性の秘奥にむすびつく宗教の本義に関しては恬として心を振向けようとしなかつた。
この糾問のゝち、白石は羅馬人処置の献議として、第一に、彼を本国へ返さるゝは上策。第二に、彼を囚人として助けおかるゝは中策。第三に、彼を誅せらるゝことは下策、といふ三策を立て、第一策によつて助け返さるゝことを至上とすると進言した。
之に対して家宣は中策を採用し、囚人として切支丹屋敷に住はしむべしと命令。一国の使臣としてその宋門の無実を告訴へる為に来た者ならばその国信といふべきものを携へてくる筈であつて、日本人に変装して潜入したのは、たとへ彼の言葉が真実であるにしても尚疑るのが至当であり、即ち中策をとり、その生涯囚人として幽閉せしめるものであるといふ言葉であつた。後日に至つて一国の使臣であるといふ証拠があがつた場合は帰してやつてもいゝといふ甚だ穏当な処置であつた。
切支丹屋敷内の北隅に一軒の家があつて、そこに長助はるといふ二人の老人夫婦が住んでゐた。
彼等は罪人の子供で幼時から切支丹屋敷に養はれ、日本へ潜入とらはれた広東人、背教後は黒川寿庵とよばれた者の奴婢として暮して来たものであつた。黒川寿庵は岡本三右衛門一行の潜入の際従者として共に潜入した一人であつた。
寿庵の死後も、そのかみ切支丹であつた者に仕へてゐたといふ理由によつて、長助夫婦は切支丹屋敷内から一足出ることも許されず、一軒の家をもらつて住んでゐたが、シローテが幽閉されるに及んで、改めてその奴婢として身辺に仕へることゝなつた。長助はそのとき丁度五十歳であつた。
シローテが幽閉されて五年の歳月が流れ、一七一四年冬の一日、長助夫婦は突然自首して、自分等は禁令の切支丹を奉じる者であるから、国法に従つてどのやうにでも裁いていたゞきたいと申出た。
その告白によれば、彼等は先に仕へた黒川寿庵に屡々改宗をすゝめられたが、国法に背くことを怖れて当時は教に従ふことがなかつた。然るに寿庵の死後年月が流れて、シローテが幽閉せられることゝなり、その身辺に仕へることゝなつたがこの人がその一身をかへりみず万里の風波をしのいで日本に潜入、とらはれの姿を見るにつけ、いくばくもない余命を惜しんで地獄に堕ちる怖しさをひし〳〵と感じるやうになり、遂にシローテに願つて洗礼を受け切支丹となつたもので隠してゐるのは国恩に背く罪と信じ、死をかへりみず自首して出たものであるから、国の法に従つてどのやうな刑罰にでも処してくれ、と言ふのであつた。即ち教法のためと国恩のため、一命を投げすて、殉教の覚悟をかためて自首したものであつた。
絶東の国へ大志を立てゝ潜入、その情熱のすべてのものを傾けつくして告げ訴へて尚かつその志を達することの出来なかつたシローテだつたが、幽閉五年、けなげな信徒を得たのであつた。
役人は直ちに彼等を引離して別々に監禁し、シローテは禁令の宗門をさづけた罪によつて改めて牢内に禁獄せられることゝなつたが、こゝに至つてその真情やぶれ露れて(白石の言葉)大音をあげてのゝしり呼ばゝり、長助夫婦の名をよびつゞけ、たとへ死すともその教を棄てることがあつてはならぬと日夜を分かたず叫びつゞけてゐたといふ。
長助は一七一五年十一月十三日牢死。それから丁度二週間目の二十七日夜半に至つてシローテも亦牢内で死んだ。多分ゼジュン断食であつたであらうと言はれてゐる。そのとき四十七歳であつた。はるの最後は伝はらない。
シローテの墓の上には榎が植ゑられ、ヨワン榎とよばれてゐたといふことだが、今はすでに跡片もない。
底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:前篇「文学界 第七巻第七号」
1940(昭和15)年7月1日発行
後篇「文学界 第七巻第九号」
1940(昭和15)年9月1日発行
初出:前篇「文学界 第七巻第七号」
1940(昭和15)年7月1日発行
後篇「文学界 第七巻第九号」
1940(昭和15)年9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:美濃笠吾
2010年9月7日作成
2011年5月20日修正
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