艶書
泉鏡太郎
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「あゝもし、一寸。」
「は、私……でございますか。」
電車を赤十字病院下で下りて、向うへ大溝について、岬なりに路を畝つて、あれから病院へ行くのに坂がある。あの坂の上り口の所で、上から來た男が、上つて行く中年増の媚かしいのと行違つて、上と下へ五六歩離れた所で、男が聲を掛けると、其の媚かしいのは直ぐに聞取つて、嬌娜に振返つた。
兩方の間には、袖を結んで絡ひつくやうに、ほんのりと得ならぬ薫が漾ふ。……婦は、薄色縮緬の紋着の單羽織を、細り、痩ぎすな撫肩にすらりと着た、肱に掛けて、濃い桔梗色の風呂敷包を一ツ持つた。其の四ツの端を柔かに結んだ中から、大輪の杜若の花の覗くも風情で、緋牡丹も、白百合も、透きつる色を競うて映る。……盛花の籠らしい。いづれ病院へ見舞の品であらう。路をしたうて來た蝶は居ないが、誘ふ袂に色香が時めく。……
輕い裾の、すら〳〵と蹴出にかへると同じ色の洋傘を、日中、此の日の當るのに、翳しはしないで、片影を土手に從いて、しと〳〵と手に取つたは、見るさへ帶腰も弱々しいので、坂道に得堪へぬらしい、なよ〳〵とした風情である。
「貴女、」
と呼んで、ト引返した、鳥打を被つた男は、高足駄で、杖を支いた妙な誂へ。路は恁う乾いたのに、其の爪皮の泥でも知れる、雨あがりの朝早く泥濘の中を出て來たらしい。……雲の暑いのにカラ〳〵歩行きで、些と汗ばんだ顏で居る。
「唐突にお呼び申して失禮ですが、」
「はい。」
と一文字の眉はきりゝとしながら、清しい目で優しく見越す。
「此から何方へ行らつしやる?……何、病院へお見舞のやうにお見受け申します。……失禮ですが、」
「えゝ、然うなんでございます。」
此處で瞻つたのを、輕く見迎へて、一ツ莞爾して、
「否、お知己でも、お見知越のものでもありません。眞個唯今行違ひましたばかり……ですから失禮なんですけれども。」
と云つて、づツと寄つた。
「別に何でもありませんが、一寸御注意までに申さうと思つて、今ね、貴女が行らつしやらうと云ふ病院の途中ですがね。」
「はあ、……」と、聞くのに氣の入つた婦の顏は、途中が不意に川に成つたかと思ふ、涼しけれども五月半ばの太陽の下に、偶と寂しい影が映した。
男は、自分の口から言出した事で、思ひも掛けぬ心配をさせるのを氣の毒さうに、半ば打消す口吻で、
「……餘り唐突で、變にお思ひでせう。何も御心配な事ぢやありません。」
「何でございます、まあ、」と立停つて居たのが、二ツばかり薄彩色の裾捌で、手にした籠の花の影が、袖から白い膚へ颯と透通るかと見えて、小戻りして、ト斜めに向合ふ。
「をかしな奴が一人、此方側の土塀の前に、砂利の上に踞みましてね、通るものを待構へて居るんです。」
「えゝ、をかしな奴が、──待構へて──あの婦をですか。」
「否、御婦人に限つた事はありますまいとも。……現に私が迷惑をしたんですから……誰だつて見境はないんでせう。其奴が砂利を掴んで滅茶々々擲附けるんです。」
「可厭ですねえ。」
と口を結んで前途を見遣つた、眉が顰んで、婦は洋傘を持直す。
「胸だの、腕だの、二ツ三ツは、危く頬邊を、」
と手を當てたが、近々と見合せた、麗な瞳の楯にも成れとか。
「私は見舞に行つた歸途です。」
と男は口早に言ひ續けて、
「往には、何にも、そんな奴は居なかつたんです。尤も大勢人通りがありましたから氣が附かなかつたかも知れません。還は最う病院の彼方かどを、此方へ曲ると、其奴の姿がぽつねんとして一ツ。其が、此の上の、ずんどに、だゞつ廣い昔の大手前と云つた通へ、赫と日が當つて、恁うやつて蔭もない。」
と雲を仰ぐと、鳥を見るやうに婦も見上げた。
「泥濘を捏返したのが、其のまゝ乾び着いて、火の海の荒磯と云つた處に、硫黄に腰を掛けて、暑苦しい黒い形で踞んで居るんですが。
何心なく、眩がつて、すツとぼ〳〵、御覽の通り高足駄で歩行いて來ると、ばらり〳〵、カチリてツちや砂利を投げてるのが、離れた所からも分りましたよ。
中途で落ちるのは、屆かないので。其の砂利が、病院の裏門の、あの日中も陰氣な、枯野へ日が沈むと云つた、寂しい赤い土塀へ、トン……と……間を措いては、トーンと當るんです。
何ですかね、島流しにでも逢つて、心の遣場のなさに、砂利を掴んで海へ投込んででも居るやうな、心細い、可哀な風に見えて、其が病院の土塀を狙つてるんですから、あゝ、氣の毒だ。……
年紀は少し……許嫁か、何か、身に替へて思ふ人でも、入院して居て、療治が屆かなかつた所から、無理とは知つても、世間には愚癡から起る、人怨み。よくある習で──醫師の手ぬかり、看護婦の不深切。何でも病院の越度と思つて、其が口惜しさに、もの狂はしく大な建ものを呪詛つて居るんだらう。……
と私は然う思ひました。最うね、一目見て、其の男のいくらか氣が變だ、と云ふ事は、顏色で分りましたつけ。……目の縁が蒼くつて、色は赤ツ茶けたのに、厚い唇が乾いて、だらりと開いて、舌を出しさうに喘ぎ〳〵──下司な人相ですよ──髮の長いのが、帽子の下から眉の上へ、ばさ〳〵に被さつて、そして目が血走つて居るんですから。……」
「矢張り、病院を怨んで居るんですかねえ、誰かが亡く成つてさ、貴方。」
と見舞の途中で氣に成つてか、婦は恁う聞いて俯向いた。
「まあ、然うらしく思ふんです。」
「氣の毒ですわね。」
と顏を上げる。
「雖然、驚くぢやありませんか。突然、ばら〳〵と擲附つたんですからね。何をする……も何にもありはしない。狂人だつて事は初手から知れて居るんですから。
──頬邊は、可い鹽梅に掠つたばかりなんですけれども、ぴしり〳〵酷いのが來ましたよ。又うまいんだ、貴女、其の石を投げる手際が。面啖つて、へどもどしながら、そんな中でも其でも、何の拍子だか、髮の長い工合と云ひ、股の締らないだらけた風が、朝鮮か支那の留學生か知ら。……おや、と思ふと、ばら〳〵と又投附けながら、……
──畜生、畜生──と口惜しさうに喚く調子が、立派に同一先祖らしい、お互の。」
とフト苦笑した。
「それから本音を吐きました。
──畜生、婦、畜生──
大變だ。色情狂。いや、婦に怨恨のある奴だ……
と……何しろ酷い目に逢つて遁げたんです。唯た今の事なんです。
漸と此處まで來て、別に追掛けては來ませんでした──袖なんか拂つて、飛んだ目に逢ふものだ、と然う思ひましてね、汗を拭いて、此の何です、坂を下りようとすると、下から、ぞろ〳〵と十四五人、いろの袴と、リボンで、一組總出と云つたらしい女學生、十五六から二十ぐらゐなのが揃つて來ました。……」
「其の中に、一人、でつぷりと太つた、肉づきの可い、西洋人のお媼さんの、黒い服を裾長に練るのが居ました。何處か宗教の學校らしい。
今時分、こんな處へ、運動會ではありますまい。矢張り見舞か、それとも死體を引取に行くか、どつち道、頼もしさうなのは、其お媼さんの、晃乎と胸に架けた、金屬製の十字架で。──
ずらりと女學生たちを從へて、頬と頤をだぶ〴〵、白髮の渦を卷かせて、恁う反身に出て來た所が、何ですかね私には、彼處に居る、其の狂人を、救助船で濟度に顯れたやうに見えたんです。
が、矢張り石を投げるか、何うか、頻に樣子が見たく成つたもんですからね。御苦勞樣な坂の下口で暫時立つて居て、遣過ごしたのを、後からついて上つて、其處へ立つて視めたもんです。
船で行くやうに其の連中、大手の眞中を洋傘の五色の波で通りました。
氣がかりな雲は、其の黒い影で、晴天にむら〳〵と湧いたと思ふと、颶風だ。貴女。……誰もお媼さんの御馬前に討死する約束は豫て無いらしい。我勝ち、鳥が飛ぶやうに、ばら〳〵散ると、さすがは救世主のお乳母さん、のさつと太陽の下に一人堆く黒い服で突立つて、其の狂人と向合つて屈みましたつけが、叶はなく成つたと見えて、根を拔いてストンと貴女、靴の裏を飜して遁げた、遁げると成ると疾い事!……卷狩へ出る猪ですな、踏留まつた學生を突退けて、眞暗三寶に眞先へ素飛びました。
それは可笑いくらゐでした。が、狂人は、と見ると、もとの所へ、其のまゝ踞み込んで、遁げたのが曲り角で二三人見返つて見えなくなる時分には、又……カチリ、ばら〳〵。寂然した日中の硫黄ヶ島に陰氣な音響。
通りものでもするらしい、人足が麻布の空まで途絶えて居る……
所へ、貴女がおいでなすつたのに、恁うしてお出合ひ申したんです。
知りもしないものが、突然お驚かせ申して、御迷惑の所はお許し下さい。
私だつて、御覽の通り、別に怪我もせず無事なんですから、故々お話しをする程でもないのかも知れませんが、でも、氣を附けて行らつしやる方が可からうと思つたからです。……失禮しましたね。」
と最う、氣咎めがするらしく、急に別構へに、鳥打に手を掛ける。
「何とも、御しんせつに……眞個に私、」
と胴をゆら〳〵と身動きしたが、端なき風情は見えず、人の情を汲入れた、優しい風采。
「貴方、何うしたら可いでせうね、私……」
「成りたけ遠く離れて、向う側をお通んなさい。何なら豫め其の用心で、丁ど恁うして人通りはなし──構はず駈出したら可いでせう……」
「私、駈けられませんの。」
と心細さうに、なよやかな其の肩を見た。
「苦しくつて。」
「成程、駈けられますまいな。」
と帽の庇を壓へたまゝ云つた。
「持ものはおあんなさるし……では、恁うなさると可い。……日當りに御難儀でも暫時此處においでなすつて、二三人、誰か來るのを待合はせて、それとなく一所に行らしつたら可いでせう。……」
と云ひ掛けて、極めて計略の平凡なのに、我ながら男は氣の毒らしかつた。
「何だか、昔の道中に、山犬が出たと云う時のやうですが。」
「否、山犬ならまだしもでございます……そんな人……氣味の惡い、私、何うしませう。」
と困じた状して、白い緒の駒下駄の、爪尖をコト〳〵と刻む洋傘の柄の尖が、震へるばかり、身うちに傳うて花も搖れる。此の華奢なのを、あの唇の厚い、大なべろりとした口だと縱に銜へて呑み兼ねまい。
「ですから、矢張り人通りをお待合はせなさるが可い。何、圖々しく、私が、お送り申しませう、と云ひかねもしませんが、實は、然う云つた、狂人ですから、二人で連立つて參つたんぢや、尚ほ荒立てさせるやうなものですからね。……」
婦は分別に伏せた胸を、すつと伸ばす状に立直る。
「丁ど可い鹽梅に、貴下がお逢ひなさいましたやうな、大勢の御婦人づれでも來合はせて下されば可うございますけれどもねえ……でないと……畜生……だの──阿魔──だのツて……何ですか、婦に怨恨、」
と言ひかけて──最う足も背もずらして居る高足駄を──ものを言ふ目で、密と引留めて、
「貴方、……然う仰有いましたんですねえ。」
「當推ですがね。」
「でも何だか、そんな口を利くやうですと。……あの、どんな、一寸どんな風な男でせう?」
「然うですね、年少な田舍の大盡が、相場に掛つて失敗でもしたか、婦に引掛つて酷く費消過ぎた……とでも云ふのかと見える樣子です。暑くるしいね、絣の、大島か何かでせう、襟垢の着いた袷に、白縮緬の兵子帶を腸のやうに卷いて、近頃誰も着て居ます、鐵無地の羽織を着て、此の温氣に、めりやすの襯衣です。そして、大開けに成つた足に、ずぼんを穿いて、薄い鶸茶と云ふ絹の、手巾も念入な奴を、あぶらぎつた、じと〳〵した首、玉突の給仕のネクタイと云ふ風に、ぶらりと結んで、表の摺切れた嵩高な下駄に、兀げた紺足袋を穿いて居ます。」
「それは〳〵……」
と輕く言ふ……瞼がふつくりと成つて、異つた意味の笑顏を見せた、と同時に著しく眉を寄せた。
「そして、塀際に居ますんですね……踞んで、」
「えゝ、此方の。」
と横に杖で指した、男は又やゝ坂を下へ離れたのである。
「此方の。……」
と婦も見返つたまゝ、坂を上へ、白い足袋の尖が、褄を洩れつつ、
「上り角から見えますか。」
「見えますとも、乾溝の背後がずらりと垣根で、半分折れた松の樹の大な根が這出して居ます。其前に、束ねた黒土から蒸氣の立つやうな形で居るんですよ。」
「可厭な、土蜘蛛見たやうな。」
と裳をすらりと駒下駄を踏代へて向直ると、半ば向うむきに、すつとした襟足で、毛筋の通つた水髮の鬢の艶。と拔けさうな細い黄金脚の、淺黄の翡翠に照映えて尚ほ白い……横顏で見返つた。
「貴方、後生ですから。ねえ、後生ですから、其處に居て下さいましよ、屹とよ……」
と一度見て、ちらりと瞳を反らしたと思ふと、身輕にすら〳〵と出た。上り口の電信の柱を楯に、肩を曲つて、洋傘の手を柱に縋つて、頸をしなやかに、柔かな髢を落して、……帶の模樣の颯と透く……羽織の腰を撓めながら、忙さうに、且つ凝と覗いたが、岬にかくれて星も知らぬ可恐い海を窺ふ風情に見えた。
男は立つて動けなかつた。
と慌しく肩を引くと、
「おゝ、可厭だ。」
と袖も裳も、花の色が颯と白けた。ぶる〳〵と震へて、衝と退る。
「何うしました。」と男は戻つた。
「まあ……堪らない。貴方、此方を見て居ます……お日樣に向いた所爲か、爛れて剥けたやうに眞赤に成つて……」
今さらの事ではない。
「勿論目も血走つて居ますから、」
と杖を扱ひながら、
「矢張り石を投げて居ましたか。」
「何ですか恁うやつて、」
と云つた時、其の洋傘を花籠の手に持添へて、トあらためて、眞白な腕を擧げた。
「石を投げるんでせうか、其が、あの此方を招くやうに見えたんですもの。何うしたら可いでせう。」
と蓮葉な手首を淑ましげに、袖を投げて袂を掛けると、手巾をはらりと取る。……
婦は輕く吐息して、
「止しませう……最う私、行かないで置きますわ。」と正面に男を見て、早や坂の上を背にしたのである。
「病院へ、」
「はあ、」
「其奴は困りましたな。」
男は實際當惑したらしかつた。
「いや、其は私が弱りました。知らずにおいでなされば何の事はないものを。」
「あら、貴方、何の事はない……どころなもんですか。澤山ですわ。私は最う……」
「否、雖然、不意だつたら、お遁げなすつても濟んだんでせう。お怪我ほどもなかつたんでせうのに。」
「隨分でござんすのね。」
と皓齒が見えて、口許の婀娜たる微笑。……行かないと心が極まると、さらりと屈託の拔けた状で、
「前を通り拔けるばかりで、身體が窘みます。歩行けなく成つた所を、掴つたら何うしませう……私死んで了ひますよ……婦は弱いものですねえ。」
と持つた手巾の裏透くばかり、唇を輕く壓へて伏目に成つたが、
「石を其處へ打たれましたら、どんなでせう。電でも投附けられるやうでせう。……最う私、此處へ兵隊さんの行列が來て、其の背後から參るのだつて可厭な事でございます──歸りますわ。」
と更めて判然言つた。
「しかし、折角、御遠方からぢやありませんか。」
「築地の方から、……貴方は?」
「……芝の方へ、」
と云つたが、何故か、うろ〳〵と四邊を見た。
「同じ電車でござんすのね。」
「然やう……」
と大きにためらふ體で、
「ですが、行らつしやらないでも可いんですか。お約束でもあつたんだと──何うにか出來さうなものですがね、──又不思議に人足が途絶えましたな。こんな事つてない筈です。」
雲は所々墨が染んだ、日の照は又赫と強い。が、何となく濕を帶びて重かつた。
「構ひません、毎日のやうに參るんですから……まあ、賑かな所ですのに……魔日つて言ふんでせう、こんな事があるものです。おや、尚ほ氣味が惡い、……さあ、參りませう。」
とフト思出したやうに花籠を、ト伏目で見た、頬に菖蒲が影さすばかり。
「一寸、お待ち下さいましよ。……折角持つて參つたんですから、氣ばかり、記念に。……」
で、男は手を出さうとして、引込めた。──婦が口で、其の風呂敷の桔梗色なのを解いたから。百合は、薔薇は、撫子は露も輝くばかりに見えたが、それよりも其の唇は、此の時、鐵漿を含んだか、と影さして、言はれぬ媚かしいものであつた。
花片を憐るよ、蝶の翼で撫づるかと、はら〳〵と絹の手巾、輕く拂つて、其の一輪の薔薇を抽くと、重いやうに手が撓つて、背を捻ぢさまに、衝と上へ、──坂の上へ、通りの端へ、──花の眞紅なのが、燃ゆる不知火、めらりと飛んで、其の荒海に漾ふ風情に、日向の大地に落ちたのである。
菖蒲は取つて、足許に投げた、薄紫が足袋を染める。
「や、惜い、貴女。」
「否、志です……病人が夢に見てくれますでせう。……もし、恐入りますが、」
花の、然うして、二本ばかり抽かれたあとを、男は籠のまゝ、撫子も、百合も胸に滿つるばかり預けられた。
其の間に、風呂敷は、手早く疊んで袂へ入れて、婦は背後のものを遮るやうに、洋傘をすつと翳す。と此の影が、又籠の花に薄り色を添へつつ映る。……日を隔てたカアテンの裡なる白晝に、花園の夢見る如き、男の顏を凝と見て、
「恐入りました。何うぞ此方へ。貴方、御一所に、後生ですから。……背後から追掛けて來るやうで成らないんですもの。」
「では、御一所に。」
「まあ、嬉しい。」
と莞爾して、風に亂れる花片も、露を散らさぬ身繕。帶を壓へたパチン留を輕く一つトンと當てた。
「あつ。」
と思はず……男は驚駭の目を睜つた。……と其の帶に挾んで、胸先に乳をおさへた美女の蕊かと見える……下〆のほのめく中に、状袋の端が見えた、手紙が一通。
「あゝ……」と其の途端に、婦も心附いたらしく、其の手紙に手を掛けて、
「……拾つたんですよ。此の手紙は、」
「え、」
と、聲も出ないまで、舌も乾いたか、息せはしく、男は慌しく、懷中へ手を突込んだが、顏の色は血が褪せて颯と變つた。
「見せて下さい、一寸、何うぞ、一寸、何うぞ。」
「さあ〳〵。……」
と如何にも氣易く、わけの無ささうに、手巾を口に取りながら、指環の玉の光澤を添へて美しく手紙を抽いて渡す。
此の封は切れて居た。……
「あゝ、此だ。」
歩行いて居た足も留るまで、落膽氣落がしたらしい。
「難有かつた、難有かつた……よく、貴女、」
と、もの珍らしげに瞻つたのは、故と拾ふために、世に、此處に顯れた美しい人とも思つたらう。……
「よく、拾つて下すつた。」
「まあ、嬉しい事、」
と仇氣ないまで、婦もともに嬉々して、
「思ひ掛けなくおために成つて……一寸、嬉しい事よ私は。……矢張何事も心は通じますのですわね。」と撫子を又路傍へ。忘れて咲いたか、と小草にこぼれる。……
「何處でお拾ひ下すつた。」
「直き其處で。最う其處へ參りますわ、坂の下です。……今しがた貴方にお目に掛ります、一寸前。何ですか、フツと打棄つて置けない氣がしましたから。……それも殿方のだと、何ですけれど、優しい御婦人のお書でしたから拾ひました。尤も、あの、にせて殿方のてのやうに書いてはありますけれど、其は一目見れば分りますわ。」
と莞爾。で、斜めに見る……
男は悚然としたやうだつた。
「中を見やしませんか。」と聲が沈む。
「否。」
「大切な事なんですから。もしか御覽なすつたら、構ひません、──言つて下さい、見たと、貴女、見たと……構はないから言つて下さい。」
と煩かしい顏をする。
「見ますもんですか、」と故とらしいが、つんとした、目許の他は、尚ほ美しい。
「いや、此は惡かつた。まあ、更めて、更めて御禮を申します。……實際、此の手紙を遺失したと氣が附かなかつた中に、貴女の手から戻つたのは、何とも言ひやうのない幸福なんです。……たとひ、恁して、貴女が拾つて下さるのが、丁と極つた運命で、當人其を知つて居て、芝居をする氣で、唯遺失したと思ふだけの事をして見ろ、と言はれても、可厭です。金輪際出來ません。
洒落に遺失したと思ふのさへ、其のくらゐなんですもの。實際遺失して、遺失した、と知つて御覽なさい。
搜さう、尋ねようと思ふ前に、土塀に踞んで砂利所か、石垣でも引拔いて、四邊八方投附けるかも分らなかつたんです。……
思つても悚然とする。──
動悸が分りませう、手の震へるのを御覽なさい、杖にも恥かしい。
其を──時計の針が一つ打つて、あとへ續くほどの心配もさせないで、あつと思ふと、直ぐに拾つて置いて下すつたのが分つた。
御恩を忘れない、實際忘れません。」
「まあ、そんなに御大切なものなんですか……」
「ですから、其ですから、失禮だけれどもお聞き申すんです。」
「大丈夫、中を見はしませんよ。」
と帶も薄くて樂なもの。……
「決して、」
と又聲に力を入れた。男は立淀むまで歩行くのも遲く成つて、
「貴女をお疑ひ申すんぢやない。もと〳〵封の切れて居る手紙ですから、たとひ御覽に成つたにしろ、其を兎や角う言ふのぢやありません。が、又それだと其のつもりで、どんなにしても、貴女に、更めてお願ひ申さなければ成らない事もあるんですから。……」
「他言しては不可い、極の祕密に、と言ふやうな事なんですわね。」
と澄して言ふ。
益々忙つて、
「ですから眞個の事を云つて下さい、見たなら見たと、……頼むんですから。」
「否、見はいたしませんもの、ですがね。旗野さん、」
と婦は不意に姓を呼んだ。
「…………」
又ひやりとした、旗野は、名を禮吉と云ふ、美術學校出身の蒔繪師である。
呆氣に取られて瞻るのを、優しい洋傘の影から、打傾いて流眄で、
「お手紙の上書で覺えましたの……下郎は口のさがないもんですわね。」と又微笑す。
禮吉は得も言はれず、苦しげな笑を浮べて、
「お人が惡いな。」
とあきらめたやうに言つたが、又其處どころでは無ささうな、聲も掙つて、
「眞個に言つて下さい。唯今も言ひましたやうに、遺失すのを、何だつてそんなに心配します。たゞ人に知れるのが可恐いんでせう。……何、私は構はない。私の身體は構はないが、もしか、世間に知れるやうな事があると、先方の人が大變なんです。
恁うやつて、奴凧が足駄を穿いて澁谷へ落ちたやうに、ふらついて居るのも、詰り此手紙のためで、……其も中の文句の用ではありません──ふみがらの始末なんです。一體は、すぐにも燒いて了ふ筈なんですが、生憎、何處の停車場にも暖爐の無い時分、茶屋小屋の火鉢で香はすと、裂いた一端も燒切らないうちに、嗅ぎつけられて、怪しまれて、それが因で事の破滅に成りさうで、危險で不可い。自分の家で、と云へば猶更です……書いてある事柄が事柄だけに、すぐにも燃えさしが火に成つて、天井裏に拔けさうで可恐い。隱して置くにも、何の中も、どんな箱も安心ならず……鎖をさせば、此處に大事が藏つてあると吹聽するも同一に成ります。
昨日の晩方、受取つてから以來、此を跡方もなしに形を消すのに屈託して、昨夜は一目も眠りません。……此處へ來ます途中でも、出して手に持てば人が見る……袂の中で兩手で裂けば、裂けたのが一層、一片でも世間へ散つて出さうでせう。水へ流せば何處を潛つて──池があります──此の人の住居へ流れて出て、中でも祕さなければ成らないものの目に留まりさうで身體が震へる。
身に附けて居れば遺失しさうだ、──と云つて、袖でも、袂でも、恁う、うか〳〵だと掏られも仕兼ねない。……
……其の憂慮さに、──懷中で、確乎手を掛けて居ただけに、御覽なさい。何かに氣が紛れて、ふと心をとられた一寸一分の間に、うつかり遺失したぢやありませんか。
此で思ふと……石を投げた狂人と云ふのも、女學生を連れた黒い媼さんの行列も、獸のやうに、鳥のやうに、散つた、駈けたと云ふ中に、其が皆、此の手紙を處置するための魔性の變化かも知れないと思ふんです。
いや、然う云ふ間もない、彼處に立つてる、貴女とお話をするうちは、實際、胴忘れに手紙のことを忘れて居ました。……
貴女……氣障でせうが、見惚れたらしい。さあ、恁うまで恥も外聞も忘れて、手を下げます……次第によつては又打明けて、其の上に、あらためてお頼み爲やうもありませうから、なかの文句を見たなら見たと云つた聞かして下さい。願ひます、嘆願するから……」
「拜見しましたよ。」
とすつきり言つた。
「えゝ!」
瞳も据らず、血の褪せた男の顏を、水晶の溶けたる如き瞳に艶を籠めて凝と視ると、忘れた状に下まぶち、然り氣なく密と當てた、手巾に露が掛かつた。
「あゝ、先方の方がお羨しい。そんなに御苦勞なさるんですか。」
「其の人が、飛んだことに成りますから。」
「だつて、何の企謀を遊ばすんではなし、主のある方だと云つて、たゞ夜半忍んでお逢ひなさいます、其のあの、垣根の隙間を密とお知らせだけの玉章なんですわ。──あゝ、此處でしたよ。」
男が呼吸を詰めた途端に、立留まつた坂の下り口。……病院下の三ツ角は、遺失すくらゐか、路傍に手紙をのせて來ても、戀の宛名に屆きさうな、塚、辻堂、賽の神、道陸神のあとらしい所である。
「此の溝石の上に、眞個に、其の美しい方が手でお置きなすつたやうに、容子よく、ちやんと乘つかつて居ましたよ。」
と言ふ。其處へ花籠から、一本白百合がはらりと仰向けに溢れて落ちた……ちよろ〳〵流れに影も宿る……百合はまた鹿の子も、姫も、ばら〳〵と續いて溢れた。
「あゝ、籠から……」
「構ふもんですか。」
と、撫子を一束拔いたが、籠を取つて、はたと溝の中に棄てると、輕く翡翠の影が飜つて落ちた。
「旗野さん、」
「…………」
「貴方の祕密が、私には知れましても、お差支へのない事をお知らせ申しませうか、──餘り御心配なすつておいとしいんですもの。眞個に、殿方はお優しい。」
と聲を曇らす、空には樹の影が涼しかつた。
「何うして、何うしてです。」
「あのね、見舞ひに行きますのは、私の主人……まあ、旦那なんですよ。」
「如何にも。」
「斯う見舞の盛花を、貴方何だと思ひます──故とね──青山の墓地へ行つて、方々の墓に手向けてあります、其中から、成りたけ枯れて居ないのを選つて、拵へて來たんですもの、……
貴方、此私の心が解つて……解つて?
解つて?……
そんなら、御安心なさいまし。」
と莞爾した。……
禮吉は悚然としながら、其でも青山の墓地の中を、青葉がくれに、花を摘む、手の白さを思つた。……
時に可恐かつたのは、坂の上へ、あれなる狂人の顯れた事である。……
婦が言つた、土蜘蛛の如く、横這ひに、踞んだなりで、坂をずる〳〵と摺つては、摺つては來て、所々、一本、一輪、途中へ棄てた、いろ〳〵の花を取つては嗅ぎ、嘗めるやうに嗅いでは、摺つては來、摺つては來た。
二人は急いで電車に乘つた。
が、此電車が、あの……車庫の處で、一寸手間が取れて、やがて發車して間もなく、二の橋へ、横搖れに飛んで進行中。疾風の如く駈けて來た件の狂人が、脚から宙で飛乘らうとした手が外れると、づんと鳴つて、屋根より高く、火山の岩の如く刎上げられて、五體を碎いた。
飛乘る瞬間に見た顏は、喘ぐ口が海鼠を銜んだやうであつた。
其も、此の婦のために氣が狂つたものだと聞く。……薔薇は、百合は、ちら〳〵と、一の橋を──二の橋を──三の橋を。
底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
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