木々の精、谷の精
坂口安吾
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修吉が北越山中の秋山家を訪ねたとき、恰もそれを見るために遥々やつてきたやうに、まづ仏像のことを尋ねた。
仏像は弥勒だといふ話であつた。観音に似た女性的な柔和な相をし、半跏して、右手で軽く頬杖をついて静思とも安息ともうけとれるやうな姿をしたあの像である。この弥勒像の柔和な顔にきざまれた不思議な微笑に就いて、かねて友達の野沢から屡々話をきいてゐたのだ。野沢の姉が秋山家の当主に嫁してゐるのである。
玉木修吉は仏像の研究家でも蒐集家でもなかつたし、また上代文化に特別造詣のあるわけでもなかつたので、この仏像の話に興味を覚えたことが殆んどなかつた。
夏が近づいたとき、野沢と旅の話をした。そのとき、秋山家で一夏暮してみないかといふ話がでたのだ。山中だから涼しいうへに、ほど近い谷間には温泉のわく部落もあるといふ話であつた。十人ぐらゐの来客が一向目立たない大きな家だし、これといふ娯楽のすくない僻地のことだから、漫然たる滞在客を喜ぶのである。牛肉や海のものが食へないぐらゐの不自由を忍べば、なまじ山間の温泉宿で隣室の絃歌や喧噪に悩むよりはましだらうと野沢は言つた。
「奇妙な微笑をたたへてゐる弥勒像のあるうちだね」と、修吉は思ひついて言つた。
「そのうちなんだよ。ところで──」と、そのとき野沢が語つたのである。「そこの娘が、つまり僕の姪に当る娘なんだが、君はかういふこぢつけた見方がきらひかな。年頃になるに順つて、弥勒像の性格だ。二年前の話だが、十九の年に見合ひして、近村の豪農の息子と結婚することになつたのだ。見合ひから帰つてきての言ひぐさが、あんな美男子は始めて見た、少女歌劇の男役よりも綺麗だと思つたなんて、他人のお聟さんでも見物してきた話のやうに笑ひながら言つたさうだ。好きなのかと訊くと、大好きだと答へたので、結婚させることになつたわけだ。ところが、あと十日ほどで結婚式といふ時分になつて、その娘が、誰ひとり知らないうちに婚家の方へ電話をかけて、結婚をやめることにしたからといふ通知をしてしまつたさうだ。縁談はおぢやんになつたが、娘の態度が至極あつさりしたもので、自分のしでかしたことを一向に一大事だとは思つてゐない風なので、両親も叱りやうに困つたといふ話なのだ。これが突飛な行動の第一回目で、その次には、夜中に屋敷をぬけだして、山奥へ失踪したことがあつたさうだ。急に死ぬ方が綺麗のやうな気がしたからだと言つたさうだよ。生れつき一冊の文学書も読む気になつたことのない娘で、泣顔の想像ができないやうな呑気な風があるのだが、僕がまた女の神秘といふやうなものに興味も持ち、いくらかそれにこだはりすぎるせゐかも知れぬが、弥勒の微笑に似た秘密なものが目の中に感じられて、なんとなく行末が気にかかる娘なんだね」
盛夏がきて、愈々二人が秋山家へ出発といふ当日に、のつぴきならない用ができて、野沢は同行できなくなつた。先方ではすでに用意をととのへて待つてゐることだからと、修吉だけ一足先に行くことにした。野沢は用をかたづけて、四五日あとには追ひつく筈であつたのだ。──が、結局彼は一夏中多忙に追はれる破目になつて、修吉の長い滞在中、つひに姿を現さずにしまつたのだが。
修吉は娘にからまるいくつかの話をきいた後になつても、仏像の神秘な微笑といふものを、身を入れて考へてみたことはなかつた。なるほど一夏の温泉宿も月並だ。いくらか窮屈であるにしても、山中の豪家で暮す一夏が、多少は新鮮であるかも知れない。修吉はさう考へて、漫然と行く気になつてしまつたのだつた。
修吉は部屋へ案内してくれた十七八の下婢に向つて、仏像のありかを尋ねてみた。その下婢はまつしろな肌に、眼の色すら青くはないかと疑はれるほど異国風な顔立で、ふさはしい衣裳をまとふてゐたなら、都会でも目立つだらうと彼は思つたほどだつた。仏像よりもこつちの方がいいのぢやないか、と、そんな気持がしてゐたのである。
「そこにあります」
意外にも、下婢はきはめてあつさりと、部屋の床の間を視線で示した。なるほど、そこに仏像があつた。気付かずに、尋ねたことがてれくさいほど、人間なみの大きさをした木像であつた。
「いつもこの部屋におくのかね」
下婢は修吉の質問がのみこみかねて、しばしぼんやり顔をみつめた。ふだんはめつたに使はない特別の客間ださうだが、野沢が仏像を好んでゐるから、この部屋を特に二人の使用に当てたのだといふ。
かうして彼は娘の顔を見ないうちに、まづ仏像を見たのであつた。
なるほど弥勒の像である。台に腰かけた姿勢なのだが、右足を左膝の上へのせてゐる。さうして右手の指先を軽く当てて頬杖をつき、物思ひとも憩ひともつかぬ風をして、かすかに笑つてゐるやうである。立上つたら、ちようど四尺七八寸の仔鹿のやうに敏捷な婦人の姿になりさうだ。胴体や手足は顔にくらべていくらか細く、飛鳥天平の仏像に似て現実的な肉体の線をよほど離れたものであつたが、注目すべき一事には、非現実的な曲線からみづ〳〵しい肉感があふれあがつてゐることだつた。飛鳥天平の肉体の線は、内面の静寂を象徴して、肉感を超えてゐるのが普通なのである。鎌倉頃の観音や地蔵の像には、工匠達がその憧れの肉体をそこにもとめたかのやうに、その肉感のなやましさに見る人々を呆気にとらせるものがある。然し、それらの肉体の線は飛鳥天平の象徴的な手法と異り写実的な手法であつて、現実の女体さながらなのが普通である。この弥勒は現実を夢幻的に歪めてゐること飛鳥天平のものにちかいが、その甚しく非現実的な肉体から、見れば、みづ〳〵しい肉感の縹渺と放つてゐるのである。凝視めてゐると、涯の知れない遠さのなかにあるやうなその肉感が、ひどく身近くせまつてゐるので、妖しい思ひになるのであつた。
この肉感に気付いたうへで顔の表情へもどつてくると、笑ひの神秘がよほどはつきりと分りかけてくるやうだ。モナリザの笑ひとも違ふ。もつと素直で、さり気ない笑ひなのである。さうして、笑ひを意識して視るのでなければ、それを見逃してしまひさうな幽かな笑ひの翳にすぎない。そのくせ、いつたん意識してしまつたあとでは、笑ひに魅入られてしまつた風に、それが深く絡みついてくるやうになる。またその顔の美しさが、ひどく静かで、清潔だ。血を吸ひ飽いた宝石の冷たさよりも静寂である。また、安らかなものであつた。
その村の名を木暮といつた。
谷川の水面から目測して、ざつと二三百米、四五百米の小さな山波にかこまれた変哲もない山間の部落風景にすぎないのだが、それでもひとつ、これは綺麗だと感じた場所は、かなりに深い谷へ降りて、小さな瀞をなしたしじまを見たときだつた。
それはこの村へきて、五六日目の出来事であらうか。修吉は秋山家の例の娘の道案内で、しみつくやうな蝉しぐれを頭上に残して、白昼ながらうすぐらいこの谷底へ降りてきたのだ。
娘の名を葛子といつた。かつら子とよむのださうな。
木暮村へ到着忽々、まづ下婢の美貌にたぢろいだのが皮切りで、その後村を歩いてゐると、藁屋根の下に釣瓶の水を汲む娘や、柴を負ふて山を降る女達、また往還の日当たりに乾瓢をほす女などに、出会ひがしらに思はず振向きかけるやうな美人を見出すことが多い。勿論かうした山中のことで、美人を予期してゐないのが過大な驚異を与へるわけだが、脚絆に手甲のいでたちで、夕靄の山陰からひよいと眼前へ現れてくる女達の身の軽さが、牝豹の快い弾力を彷彿させ、曾て都会の街頭では覚えたことがないやうな新鮮な聯想を与へたりする。
さういふ中でも特に念頭を去らないのが、あの下婢の異国風な、古の希臘の女を思はせる顔なのである。整ひすぎてゐるために、却つて余程迫力が薄れるやうな思ひがする。この下婢はお妙と言つた。この村では上流に属する家の娘ださうだ。
葛子はお妙のやうに整然とした美貌ではない。生きてゐるのは、その目であつた。そのために額も頬も生き〳〵として、また眼や鼻の陰影すら、いつも動きを感じさせるやうである。さうして挙動が敏捷で、動作のたびにいつも突然を感じさせ、そのゐる場所に、常に彼女の身から閃めく変化を与へる思ひをさせた。
ありていに言へば、修吉はお妙を念頭におきながら、葛子のその新鮮な現れのために、いつかお妙の幻が掻き消やされてゐることに、なぜか抗意を覚えるのである。掻き消やされた幻をいたむ思ひがするのであつた。あはれむ思ひもするのである。
その思ひがさせた仕業であるかも知れない。ある日のこと、修吉はこの村のあちこちで見た美貌に就いて、それから特にお妙の稀れな美貌に就いて、葛子に語つた。
「牝豹のやうに弾力の深い美貌の女が山から降りてくるのも見ました。また黄昏の靄の中で釣瓶の水を汲んでゐる娘の姿を、自然の生んだ精気のやうな美しさに感じたこともあるのです。また太陽へながしめを送りかねない思ひのする健康な野獣の意志を生き甲斐にした日向の下の女も見ました。その人たちがその各々の美しさで、僕をうつとりさせたのですね。この村の自然は至極平凡な山中風景にすぎないのですが、それはいはば各々の精気のやうなあの美貌を生みだしたあとの脱殻だからで、このありきたりの風景も、あれらの美貌が加はると、生き返るやうに爽やかになります。さう言へば、なるほど、都会でも同じことは言へますね。新鮮な建築の精気のやうな女もあれば、速力の精気のやうな女もあります。然し都会の場合では、美貌を生んだ背後の自然が、その各々の生みだした美貌のために、この山中の自然のやうにめざましく生き返ることがありません。むしろ背後の自然の方が彼女たちを助けるやうな風ですね。この村の美しい女達は、いつも各々のふるさとを生きかへらせてゐるかのやうに、めざましい。とりわけ、あなたの召使ひのお妙の美貌には驚いたのです。それに、あの整然とした美貌だけは、どうも、ふるさとが見当らぬやうです。この村の自然に、あれを生みだした母胎がなく、この村とお妙の二つを結んでゐる脈絡をもとめる余地がありません。さうして、お妙の美貌には、ふるさとのない虚しさとまた悲しさが泌みついてゐますね。視凝めれば却つて形が消え失せて、すべてが皆無になるやうな、よるべなさがあるのですね。かうして、一夏の無駄を賭けた気軽な旅行が、僕の却々に忘れがたい思ひ出になりさうですよ」
そのとき葛子が答へたのである。
「この村に、お妙よりも綺麗な娘が、もう一人ゐるのですよ」と。こだはりの跡形もない声なのである。笑つてゐる。さうして、目に燃えてゐる光のあることを見逃すわけにいくまいが、遊びなら何を措いても逃さぬといふ無邪気な子供は、いつもかういふ眼付であるに相違ない。「志緒乃といふちやうど私と同じ年の娘なのです。さあ。さつそく会見にでかけませうよ。おめかし、なさい。さうして、東京へ帰れなくなる覚悟をきめて下さいね。都会にだつて、ざらに見当る筈のない美人ですもの」
葛子は、すでにひらりと立上つて、修吉が彼女について立上るのを疑ひもせぬ様子であつた。とはいへ、思ひあがつてゐる風はない。人を呑んでゐる風もない。子供はいつもこのやうに、無邪気にひとり決めこんでゐる、さういふ風があるだけである。
かうして、二人は連立つて出掛けることになつたのだつた。──あの谷底の薄暗がりの瀞を見たのは、この日のことであつたのである。
二人は志緒乃の家へ行つた。然し志緒乃はゐなかつた。水浴にでかけて行つたといふのである。そこで二人は水浴の場所へ向つて足を向けたが、そこが即ちこの谷底であつたわけだ。
谷底は、四方が花崗岩の絶壁であつた。前面の壁は二百米を超えてゐるに相違ない。流れの上下はいづれも突然曲折して、岩壁の彼方へ流れの姿を消してゐるから、瀞はちやうど古沼のやうにひつそりと、絶壁の底に深い碧の色をたたへてゐるのである。その水の厚みの深い色をみては、主だとか妖精だとか思ひつかずにゐられないのが自然であるし、掌にすくつた水まで、同じ厚味のねつとりとした深い碧い色のやうに思ひたくなる。水の上を歩くことができさうな、厚味の深い澱んだ色の絨毯なのだつた。この谷底へ独りで降りて来たのでは、いささか凄味がきつすぎて、ひとりぢやとても水中へ片足入れる気にもなれない。
然し、実際の水深は、せいぜい大人の胸までで、ちやうど泳ぎに手頃ださうな。空が頭上に小さくて、泳ぎながら見上げると、なぜか楽しい気になるさうだ。
志緒乃はそこにゐたのであつた。三人の裸女が岩の上にやすんでゐた。
この谷底まで降りてくるのが、並みたいていの苦労ではなかつた。木の幹に突当つたり、縋りついたり、思はず枝にぶらさがることになつたり、転ぶことを食ひとめるのに汗だくだつた。やうやく木の間をぬけでると、今度は岩を辷らぬやうに降りて行くのが一苦労といふことになる。こんな難路をわざ〳〵降りて水浴にくる娘達の気が知れないが、然し、愈々水面の見えるところへきて、下の方にひつそり澱んだ深い色を見たときには、なるほどさすがに修吉も、ちよつと疲れを忘れるやうな気になつた。それはたしかに美しい。我々の生活のある世界とは違つた感じの美しさである。
然し、修吉が水の色と同じぐらゐに驚いたのは、この谷底へ降る途の葛子の姿態であつた。
彼女もむろん木の幹に突き当つたり、危ふく枝にとりすがつたりすることは変りがないが、同じ苦労の動きにも、こなしが如何にも余裕があつた。それはこの径に馴れてゐる熟練のせゐと意味が違ふ。転ぶことを食ひとめるのが精一杯のきはどい時でも、その美しさを取逃さない自然の意志を忘れたためしがないといふ意味なのだつた。そのくせそれを意識してゐる加工のあとはないのである。万事が甚だなげやりで、自由でもあり、自然でもあつた。つまづく姿も美しい。危く足をふみしめて枝にとりつく姿も綺麗だ。閃く足も、流れる手も、走る腰も、すべてが常に新鮮な情感を失ふ時がないのであつた。
修吉は、疑ぐらずにはゐられなかつた。この美しさを葛子自身が意識しない筈があらうか。意識してゐる跡のないのが、一さう癪だ。志緒乃といふお妙以上の美人がゐると答へたときの、あのこだはりの微塵もない自然な顔付を思ひだしてみるがいい。企らみの陰がないのである。瞳に燃える炎はあつても、それが却つて無邪気さのあかしになつてゐるだけだ。邪念を汲みだす余地がないから、一さう腹が立つ気になる。さうして、ちよつと憎くなる。自分の魅力を本能的に知つてゐるのだ。それどころか、修吉がすでに自分の魅力から脱けだすことができないこともその本能がのみこんでゐる。お妙の美貌も、村随一の美人だと自分で折紙つけてゐる志緒乃の美貌も、恐らく自分に比較して言つた覚えはないのであらう。自分は一段別なところへ置いてしまつてゐるらしい。修吉はさういふ風に思ひこみたくなるのであつた。
然し葛子の閃く足や、流れる手、走る腰のどの一ヶ所にふと目をとめてしまつただけでも、忽ち怒りも憎しみもただ跡形なく霧散して、想念のすべてのものは、目に泌みわたる冴え〳〵とした情感にさらひとられてしまふのである。つまづいた木の根をエイと蹴りすてて次の急坂を睨んでゐる葛子の閃く構へを見るがいい。修吉はただ快い絢にのまれて、うつとりと余念を去らずにゐられない。讃嘆の溜息を洩らしかねない思ひになつてしまふのである。
結局邪念も企らみも有りやうのない娘なのだつた。彼女の前に立つてしまへば、さういふほかに法がない心になつてしまふのである。ひたすらに無邪気で、明るい。忽ちのうちに人に親しみ、垣を知らず、こだはりに馴れず、悪意をもたない。寛大で、優しいのである。結果に於て人を傷める棘はあつても、それは彼女の意志ではないのだ。可憐な天性の魔女なのである。秘密がこもつてゐるにしても、透明なものを感じさせ、清潔な思ひを人に与へる。恐らく人はこの娘から香気を描くことができても、その体臭を描くことはできまいと彼は思つた。
「まあ、綺麗だこと! 志緒乃! 着物をきちや、だめ!」
葛子は岩を降りながら叫んだ。鋭い叫びは谷の静寂に木魂して、四方の岩壁に幾たびかひびき、またその奥へ余韻を消した。
葛子は水際の岩の上へとび降りた。さうして、志緒乃のかたはらへ進み、裸の肩へ手をかけた。その掌を志緒乃の冷めたい肌へ当てて、胎内の新鮮な気が流れでるのを楽しむやうな風である。
「たべちやいたいやうな肌だこと。できたてのアイスクリームのやうだ」葛子はさう言ひながら、志緒乃の背中にちよつと頬を押しあてた。「お前だけこんな綺麗な肌をもらつて、癪にさはる人だねえ。東京のお客様が木暮村の女王様を見たいんだつてさ。さあ、着物きなさい」
その言葉が歯切れよく終つたときは、葛子がついと志緒乃のかたはらを離れる時と同時であつた。すでに葛子は水際にゐて、澱みの色をみつめてゐた。
なるほど、葛子を映すには、このひつそりした深い碧がふさはしいかも知れなかつた。この村の各々の風景に、その各々を母胎にした美貌の女を見出すことができるやうに、この谷底の精気が化して娘の姿をなしてゐるなら、さしづめそれにふさはしいのが葛子である。修吉は思つた。この娘を全裸にして、この水中にたはむれさせてみたいものだ、と。そのとき、葛子が修吉を見て、話しかけた。
「この谷の色、すこうし凄味がありすぎるでせう。この水色ぢや、とても私は泳ぐ気持になれませんわ。それに私は鉄鎚だから」
葛子は水際にしやがみ、指先を水に浸してぴしや〳〵はじいた。
「つめたい水。こんなところに一分間もはいつてゐたら、私の貧弱なからだ、痩せちやふでせう。志緒乃は文学少女だから、こんなところで泳ぐのが好きなんですよ」
「村の人達はみんなこの谷へ泳ぎにくるわけぢやないのですか」
「どう致しまして。ここにゐらつしやる御三方の御専用です」
なるほど──修吉は思つた。葛子の言葉の中には、この村のある人々の生活を、歴々とその念頭に描きださせるものがあつた。それは彼に静かな挽歌を感じさせ、また快いユーモアを感じさせた。
葛子の言葉の中から、この村落のある生活を描きだしてくるためには、文学少女といふ言葉を、志緒乃の人柄に並べてみればそれで足りる。そこで、志緒乃の人柄を理解するには、まづ都会地の腺病質な文学少女を思ひ浮べ、その人柄の全然逆な型を思へば、すでにいくらか当つてゐよう。
志緒乃に脚絆手甲をつけさせ、柴を負はせ、さうして夕靄の山気の中を歩かせたなら、恐らく村の青年達を悩殺するにふさはしいこの村落の精気がなした美女の姿になるかも知れない。腰は野獣の柔軟さを持ち、踏む足は軽く弾力にとみ、牝豹の鋭敏な感覚を彷彿させるに相違なかつた。またこの人を炉辺に坐らせ、若者達にとりかこませ、さうして彼等の野心をかくし然し甚だ不器用にその情慾をむきだしにした雑談の花の中に置くがいい。志緒乃の顔は生き〳〵と輝き、語る言葉はすべてが機智に溢れてみえ、野性的な身のこなしも高い笑ひも、いかなる華車な美女たちよりも繊細に若者たちの情慾をそそり、うつとりさせるに相違ない。いかにも女王の姿なのである。
然し、志緒乃を文学に組み合はすのは、落語的な効果を生むにすぎないのだ。すでに都会の感覚と組み合はすのが不自然である。文化とか理智といふものと並べておいて、さて、この娘の印象を人に尋ねてみるがいい。炉辺に坐り若者たちに囲まれたときのあの陸離たる光彩は、もはやそこには有り得ない。感覚の鈍さとか、精神美の低さとか、下品さとか、そのやうなものを人々は印象したと答へるだらう。この女が文学少女であるとしたら、まづ普通、それをきいた人々は噴飯するに相違ない。
然し、山中の僻地では、このやうな文学少女がゐることも、必ずしも失笑を生む種にはならない。まづ、このやうな奥山の生活に、都会なみの文学を考へる方が可笑しいのだ。幾つも山を越えなければ汽車にも乗れぬ山中で、名前を知らぬ人に逢ふのが奇蹟のやうな振幅のない生活である。
こんな棄てられた生活の中に、文学青年なんといふ柔弱男子の住む余地が有り得ようとは考へられない。恐らく事実ゐないのだらう。そこで、欠けたものがあれば一方に補ふものがあるといふ理窟が成立つといふことだから、柔弱男子のたてまへを補ふ娘が現れてくる理窟になる。柔弱男子を育てる余地はすくないのだが、もと〳〵柔弱な女子だから、文学少女が出来上るのは奇蹟ぢやない。
彼女達は、都会の少女がとつくに忘れてゐるような素朴な感傷の限りをこめて、都会の少女がもはや鼻もひつかけない月を仰いで泣いたりする。柔弱男子がゐないから、それを笑殺する感覚は村全体にないのである。若者たちには、それが至高の美女である。文学がさういふ形で生きてゐるのだ。
この谷底は御三方の御専用だといふのだが、御三方の鞭のやうに弾力の深い全裸の姿を谷底の岩の上にたはむれさせても、彼女等が手甲に脚絆のいでたちで山を降りてくるやうな詩情の深さを生みはしない。谷底の水をあがつた妖精の清絶感をだいぶん離れてゐるのである。
この谷底の感情に一向つながるもののない野獣の意慾の娘達が、ほかに誰ひとり来る者もない谷底へ好んで水浴にくるといふ、思ひがけないその感傷が愉快であつた。都会ではこの事柄が落語的だが、この山中では、それが素直な自然なのだ。それが素直な生活なのである。
若者達は彼女達のその生活に神秘を受け、驚異を感じ、讃美をおくり、彼女達もそれを甚だ素直に受けて、また自らのこの生活を、限りなくなつかしんでゐるのであらう。
志緒乃はたしかに整つた顔立だつた。それは健康と常識が目鼻の線を描いたやうな顔立であつた。
「この村の青年たち、志緒乃に言葉をかけられただけで、自慢の種にするほどですのよ。ぼうとして、返事もできなくなるぐらゐ」
戻り道、あの峻嶮を小枝に縋つて登りながら、葛子は、後に従ふ修吉に言ふのであつた。
「志緒乃が文学少女だから、この村の若い衆がみんな文学青年になりかけたさうで、うちのパパ、木暮村の村長先生、大弱りです」
秋山家の北面の離れに、親戚の病少年が保養にきてゐた。都会の暑熱を避けるためだ。
少年の病は結核性関節炎であつた。
膿は腰、腹のあたりから、肉を破つて、でてくる。少年は片足ギブスに包んでゐるのだ。松葉杖に縋つても、歩行は甚だ不自由である。年は十七。然し、長い病臥のために、殆んど発育がとどまつて、見たところ十二三の幼さであつた。
夏の三ヶ月ぐらゐづつこの山中へ避暑にくるのが、ここ数年間、病少年の習ひになつてゐるのださうだ。そのあひだ、一回ぐらゐ、ギブスを変へに東京へ行くこともある。ギブスを変へて四五週間もたつ頃になると、そろ〳〵身辺に膿の悪臭が漂ひはじめる。やがて部屋へ一足はいると、もう悪臭に堪へがたい日がくるやうになる。そこでギブスを変へなければならないのだ。
少年は葛子の従弟に当つてゐた。
この少年は、苦痛のほかには、人間らしい感動を表はすときがないといふ。父母弟妹が時々見舞ひにやつてくる。いらつしやいも言はないし、立去るときに、さよならも言はない。さうして立去つたあとになつても、悲しむ風はまつたく見せない。もう東京へついたかしら、と、思ひだして突然人に訊ねてみたりするさうだから、やはり親しい人々を考へてゐないことはないのだ。そこで少年の悲しい心を思ひやつて、いたはりの籠つた返事でもしたら大当違ひで、返事なんかきいてやしないよといはんばかりに死んだやうな顔をして視線も向けないさうである。
ある日、修吉は、裏庭の藤棚の下に休んでゐる葛子と少年に出会つた。少年と修吉は大きな建物の両端に住まつてゐるうへ、少年はめつたに部屋をでないので、顔を見たのがその時はじめてのことだつた。
「やあ」と、修吉は少年に挨拶した。
少年は、素知らぬ風をしてゐた。
「だめですよ。こんな奴、相手にしたつて。馬の耳に念仏よりも感じがないんですもの」
と、さう言ひながら、葛子は少年の喉をくすぐつた。
「人間なみの挨拶ぐらゐ覚えなさいよ。こら!」
少年はまつたく無感動である。喉をくすぐる葛子の手をいくらかうるさげに首を動かしただけだつた。少年は藤棚の下に台をつくつて横臥してゐた。ギブスのために、腰かけるわけにいかないのである。
顔色が透きとほるやうな蝋色だ。人形のやうに美しかつた。
「をぢさんに何か話していただきなさいな。すこしぐらゐお世辞を使つて」と、葛子は、今度は指で蝋人形の頬を押して、言ふのである。「こんな顔して、忍術使ひの豆本ばかり読みたがつてゐるのですよ」
少年の膿の始末に毎日苦労するさうだ。
傷口は腐つた腸が露出してゐるやうな具合に突起してゐる。さうしてむつと顔をつつむ死臭のやうな膿の匂ひだ。看護婦もいやがる。表面にでることのない心理なのだが、病少年の感覚はそれに対して敏感だつた。看護婦の世話を嫌ふのである。そこで、家では、母親が、もつぱらガーゼを取換へてやる。
ところが毎年この山中へ来るあひだだけ、母親の手がいらなくなるのだ。葛子が毎日ガーゼを取換へてやるからである。少年はそれを決していやがらない。
葛子のやりかたは乱暴だ。ピンセットを火箸のやうにガチャ〳〵使ふ。
「うう。くさいなあ」葛子はそんな風に言ふだらう。修吉は二人を見ながら空想する。「人の身になつて、考へてごらん」
さう言ひながら、古いガーゼを少年の鼻先へ突きつけようとしたりする。顔をしかめて投げすてる。さうされながら、葛子に親しむ思ひを増すばかりの病める少年の心を思ふ。
また修吉は思ふのだ。さうされながら、まぢろぎもしない蝋人形の冷めたい顔を。──どうせ葛子のやることは気紛れにすぎないのだが、もし、少年が透きとほる蝋人形の美しさをもたなかつたら、この看病が幾日つづくものだらう、と。
修吉は、葛子が病少年に頬ずりしながら、かう言つたのを忘れなかつた。
「あなたはいつまでも大人にならないから、いいわねえ。おととしも、去年も、今年も、ちつとも変りがないんですもの。子供の奴、ぢき大人になるから、きらひだよ」
さういふことがあつてから、修吉は日に幾たびか仏像をぼんやり眺める習慣がついてしまつた自分に気付いた。仏像の秘密の深い静寂に、葛子のもつ人柄を結びつければ、結びつかないこともなかつた。然し、仏像を見てゐるときは、さういふ意識が殆んどはさまる余地がない。芸術の傑れた個性は独特の世界を創造する。その独特の性格は、葛子の存在を必要とするものではなかつた。
然し、また、病少年と葛子の並んだ姿を見てのちは、特別の空想によつて、仏像の静かな微笑を、その縹渺たる肉感を、眺めることも多かつた。
修吉の部屋の前には滝がある。大小様々の岩石が重なりあつて上へ上へ盛りあがつてゐる。岩石にしがみついた木の根がある。それらの樹木が頭上に鬱蒼と枝を張つて、滝壺に冷え冷えとした日陰を絶やしたことがない。いつも蝉がなきしぐれてゐる。書見に疲れた目をあげても、心はあまり晴れ〳〵としない。
ふと振向いて仏像を見ることになる。つい立上つて、結局仏像の前まで行つて、坐りこんでしまふのである。
「やつばり芸術はすばらしいものだな」
と、修吉は、仏像の前に坐りこんでしまつたときのこの感想が、ちかごろでは癖になつてしまつてゐた。
仏像は静かであつた。葛子の閃く姿態が日頃修吉の目の中へ差込むやうな、鋭い情感はないのである。突きさしてくるものはない。すべて甚だやはらかだつた。ひろびろと静かなものが、はるばると、身にせまつてくる思ひであつた。
涯の知れない透明な波に幾重にもまかれてしまつたやうである。茫洋として掴まへどころがないのであつた。そのくせ、珠玉の美をこめた顔が、柔軟の生理をつくした肉感が、秘密のすべてを暗示した静かな微笑が、まがひなく刻みだされて、すぐ眼前に歴然とあるではないか。
「かういふ奴にかかつては、この現実の美といふものも、かたなしだな」
何よりも、安らかな思ひがするのである。重さを一皮脱いだやうな、ほつとした、憩ひを感じてしまふのである。現実の犇めいてくるどぎつさには、こんな安らかな余裕がない。その犇めいてくるどぎつさが現実の魅力であるには相違ないが、それだけで満しきれない大きなものが、ここにひろびろと尽され、さうして、遊楽してゐる。
修吉は、仏像の凝視めるさきに蝋人形の病少年を置きながら、考へてみることがあつた。頬にあてた弥勒の指は、膿のために濡れてゐる。あたりに澱んだ膿の悪臭が厚くたちこめてゐるのである。然し、汚れた指によつて頬杖をつく弥勒の顔は、彼の想念がどう足掻いても、不潔の翳をとどめない。
彼はまた病少年の膿を吸ふ弥勒の口を考へてみた。病少年の腹のあたりに、十ちかい傷口があるさうだ。それは腐つた腸のやうに突起して、膿を流してゐるのである。それらの突起を口にくはへて膿をすゝる弥勒の様子を考へてみる。膿をごく〳〵のみこんでゐる。さうして顔をあげたところだ。素知らぬ風をして、軽く頬杖をつき、かすかに笑つてゐるのである。口のまはりは厚味の深い腐色の膿でぬる〳〵と濡れ、顎の方へ汁が流れて、したたつてゐる。
静かな笑ひは輝くばかりに美しい。深い秘密はむしろ清潔をますばかりである。胸に幼児をいだいてゐる聖母の乳くさい匂ひすらない。聖母には秘密をもたない不潔さがあるせゐかな、と修吉は思つた。
結局至高の静寂であり、美しさだと思ふ以外に法がなかつた。
然し、こんな目覚ましい美しさが、また、あらゆる微妙な生理をこめた肉感が、目をつぶると、みんな消え失せてしまふのである。それはいささかも誇張のない事実なのだつた。この仏像の美しさは、一旦視線をそらしたときは、描くことができなくなる。
はじめは、それが、修吉の最も物足らないところであつたが、日を経るにつれて、やがては甚だ快いものとなつてきたのであつた。振向いて、視線を緑蔭に向けてしまへば、緑蔭がすべてのものになるのである。その素直さ、その淡泊さ、それが甚だ快さを与へてやまぬものとなつた。
さうして彼は葛子の閃く情感の鋭さを、時々厭うてみるのであつた。
ある日、お妙が茶菓をもつて、彼の部屋へはいつてきた。
修吉は滝がいくらかうるさくて、障子をしめて、書見してゐた。盛夏であるが、山中の涼しさは、白昼とざした部屋にゐても暑さを感じることがない。室内が煙草のけむりで濛々してゐた。
「旦那さん。すこし障子をあけましたら?」と、お妙が低い声で言つた。
「や。なるほど」修吉はお妙の言葉の原因がやうやく分つて、叫んだ。
修吉は障子を開け放すお妙をみつめた。なるほど、ひらかれた外の景色も爽やかであつた。然し、お妙が美しかつた。お妙の横顔の美しさ、優美な線で描かれた色の白さ。その向ふにある緑蔭が、お妙の白さをぬきだして、静かであつた。
汚れといふものが塵ほどもない美しさである。冴え〳〵と目にあざやかな涼気を与へてくるやうである。目をつぶれば、あとにとまらぬ美しさである。これほどの目覚めるやうな美しさが、ふと目をそらせば、すでに消え失せて、ないと云ふ。そのはかなさが、また美しい。この現実のあくどい印象の数々が、すべてお妙の幻を掻き消すためにあるやうである。そのいたましさが、一さうお妙を塵もとどめぬ清浄なものに思はせる。
「お妙さん」と、修吉は話しかけた。「この仏像、誰に似てゐると思ひますか」
お妙は即座に嫣然と笑つて答へた。
「お嬢さまにそつくりでせう。みなさん、同じ思ひですこと」
お妙も信じて疑はぬのである。
「なるほど、ね。あつはつは」
言はれてみれば、如何にもまさにその通りである。お妙に似てゐると思つたのは、ただ、目をそらせば、その各々の美しさが、忽ち消えてなくなるだけの点である。
お妙にはこのやうに秘密の深い微笑はない。このやうな妖しい肉感の情炎もない。さうして、お妙の唇は膿に汚すことができない。ごく〳〵と膿をのみこむお妙の姿は在り得ないのだ。
「東京から到来したお菓子ださうでございますから」
吩ひつかつてきた口上を思ひだしたのであらう、お妙は障子を開け放してから、急須に湯をさして茶を注ぎながら、さう言つた。すぐ目の前にまつしろな襟足がみえる。さうして、動く手首がみえる。
茶をいれ終つて嫣然と立つ異国風な幼い顔を、修吉は又ないものに眺めつづけた。今消えるのだ。立ち去れば、もう、幻の中にすら住むことのない顔なのである。
そのうち、こんな出来事があつた。やがてそれが一夏を悲劇でとぢる序曲となつた。
秋山家は山の中腹に位して、村の往還を下に見てゐる。裏門をでると、山づたひに隣字へ通じる間道にでるのである。この間道はぶなの密林をくぐつて行く。するとぶなの密林がそのまま山にはいらうとする所へきて、小さな沼のふちへ出る。脂ぎつた山の緑が沼の上にかぶさつてをり、また、沼の平地のふちのまはりはぶなの密林がとりまいてゐて、いつも陰気で、湿つてゐる。ぶなは巨大な喬木である。薪木以外に物の役にたたないさうで、伐採することがまづないから、山中でぶなといへば延び放題の巨木ぞろひで、林の下は日盛りにも洩れる光がないくらゐ、澱みの中はいつも静かで濡れた感じだ。
沼の水面は一面菱が密生して、水の色が見えないのである。沼のふちは雑草が延び放題で爬虫類なぞ想像させ、陰気の上に、うす汚くて、不気味である。
沼のふちから山へかかつて、一山越すと、隣字の小さな部落で、お妙の家がそこにあつた。
お妙の祖母は秋山氏の乳母であつた。さういふわけで、お妙の父母もしよつちう秋山家へ出入りするし、お妙の祖母は、もう七十を越してゐるが、殆んど毎日秋山家へやつてきて、百畳敷もありさうな台所の炉端に坐つてゐるのである。矍鑠として、甚だ陽気だ。人を見れば話しかけて、笑ひさざめき、座敷に酒宴が始まれば給仕のついでに踊つてみせる。秋山家の主のやうなものである。
そんなわけで、修吉はお妙一家と忽ち親しむやうになつた。
修吉は秋山家の裏口からでて間道を通り、お妙の家の前を通つて、夏峠といふ見晴らしのひらけたところへ登つてくるのが好きだつた。晴れた日は大概そこへ散歩に行く。さうして、散歩帰りには、お妙の父母たちと話しこんでくることもあつた。
ある日ぐれ、散歩の帰りにお妙の家へ顔をだすと、そこにお妙が居合はした。お妙は生家へ用たしにきて、ちようど帰るところであつた。二人は一緒にたそがれの間道を歩いて帰つた。
その時まで、沼の水面を隠してゐる水草がなんといふ名前であるのか、修吉は知らなかつた。お妙に尋ねて、それが菱であることをやうやく知つたわけである。
菱の実は食用になるさうである。鬼の角を前後左右に生やしたやうな菱の実を修吉も見た覚えがあつて、奇異な形に一驚した記憶をもつてゐたのであつた。
「これが菱か」と、修吉は日頃知らずに見馴れてゐたその水草をなつかしんだ。
「どれ」修吉は雑草をわけ、沼のふちへ降りようとした。菱を採つて眺めたいと思つたのである。
「まあ。旦那さん。その菱は──」と、お妙がうしろから小さく叫んだ。「それは、いけません」
「ほう。採るわけにいかないのですか」
「はい」
戻つてきた修吉に、お妙はにつこり笑つて言つた。
「不吉な沼ですから、この菱の実はとる人がありません」
「なるほど。不吉な伝説があるのですね」
「はい」
お妙の顔は静かであつた。不吉な話を強調してみせようとする凄みも怖れも表はしてゐない。素直で、さうして、安らかであつた。たそがれの森のくらやみに浮きだした夢のやうに美しい。
「この沼に身を投げて死んだ人がたくさんあります。水が汚れてゐますので、この菱に手をふれるものがありません」
きいてみれば、伝説があるわけでもなかつた。この村の自殺者達が屡々ここを死場所にする。いはばこの村の三原山といふわけだ。ただそれだけの意味であつた。
こんな村にも自殺がある。──山、森、谷。さうして、空。それと同じ自然のやうに思ひたくなる村人達が。けれども、自殺は一年にひとつふたつは絶えたためしがないさうな。貧乏もある。病気もある。希望をすてた孤独者もある。この村の自殺者達はむしろ概ね年寄に多く、失恋自殺といふことが却つて稀であるといふ。村落の生活は花がすくなく、暗いのである。
修吉は、然し、この陰鬱な沼の咒ひを忽ち忘れてゐたのであつた。生き〳〵と残るものはただ花やかな記憶のみ。さうして、ぶなの森のそぞろ歩きに思ひだすのは、たそがれの靄の中に浮きだしてゐたお妙の顔のことであつた。その顔が森のどこかに今もなければならぬやうな親しい思ひが湧いてくる。暗い森が今は花やかな径であつた。「はい」といふお妙の返事が沼のほとりに漂うてゐる気配であつた。
然し、この沼のほとりから、暗い話が、やはり始まる。
ある日のこと、修吉がいつもの道を夏峠まで散歩して沼のほとりにさしかかると、その時もたそがれ近い時刻であつたが、思ひがけなく病少年の姿を認めた。
少年は沼のほとりのぶなにもたれて、暮れようとする沼を見てゐた。あたりには附添ひの女の姿もなく、葛子の姿も見当らなかつた。
門外ではついぞ見かけたことのない姿であつたし、たつたひとりが不思議であつたが、修吉は少年の前へ歩いて行つて、やあ、と言つた。少年の表情は微塵も動いた気配がない。一瞥を与へようともしないのは、いつもの通り、同じことだ。
何をきいても素知らぬ風で、返事をしない。それも亦、それが始めてのことでないから、何ひとつ推察のてがかりがなく、ぶなに物言ふやうである。帰りませう、と言つてみたが、それも素知らぬ風であつた。
さりとて、附添ひの姿が見えない以上、病少年を森の中へ置き残して、自分だけ帰つてしまふわけにいかない。修吉はやむを得ず叢の上へ腰を下した。かうして低い姿勢になると、沼地の湿気が冷え〳〵とせまつてくるのが分るやうで、この沼のいやらしい濁つた感じがあざやかになる。
そのうちに、少年は松葉杖を当て直して、ぶなの木の一部のやうに動かなかつた背中を離した。さうして、修吉になんとも言はず、ぴよん〳〵と森の小径を戻りはじめた。修吉もそのあとについて、戻つてきた。
秋山家では、すでに騒ぎがもちあがつてゐた。少年を探しはじめたところであつた。誰ひとり気付かぬうちに、見えなくなつてゐたのださうな。まづ第一に少年の専用便所をかきまはしたと云ふのであつた。誰の思ひも、そこへ墜落したことを、先づ、まつさきに思つたさうだ。
とにかく無事に戻つてきたが、何をきいても例の素知らぬ風だから、敢てきかうとする者もない。きくだけ馬鹿な思ひを深める。
「歩いてもみたくならうぜ。この子のあこがれは、歩くことさ」
と、秋山氏は言つた。たしかに一理あることだ。秋山氏は甚だ陽気で、単純である。葛子のやうに敏捷な娘がなんのはずみで生れたらうと思はれるぐらゐ、二十四五貫の脂肪ぶとりで、涼しい山中に、たつたひとり汗を流して、いつも裸でふう〳〵してゐる。
「俺のあこがれも、歩くことだぜ。坊と同じだ。思ひ当る」
秋山氏は、酒だ酒だと怒鳴りながら、団扇にばた〳〵胸をあほいで、行つてしまつた。
修吉もその出来事を忽ち忘れて、夜をむかへた。
夜になつて、秋山夫人が修吉の部屋へ訪ねてきた。夫人は野沢の姉に当る人である。
「沼のほとりにゐたのですつてね。をかしな子供、どんな風にしてゐたのでせう?」
「どんな風にと云つたつで、あの坊つちやんの様子は、いつに限らずたつたひとつですから。とにかく、ぶなにもたれて、例の顔付でしたね」
秋山夫人の疑ひは、自殺であつた。
葛子もそれをやりかけたことがある。秋山夫人は、子供達の子供らしさをそのまま信用することができなくなつてゐるのであつた。大人の心にあるものはみんな子供の心にもある。──愛情からでた警戒のためにさういふ怖れを秋山夫人は感じてゐる。
「あんな子供も、死ぬ気になることがあるでせうか」と、燃し、夫人は自らの疑惑にも半信半疑の様子であつた。
あの沼でたくさんの人が自殺したこと、それを少年も話にきいて知つてゐる。それゆゑ死ぬ気になつたとすると、さしづめあの沼へ出掛けるほかに智恵の働くことはあるまいと夫人は言つた。
なるほど自殺は子供達にも有りうるだらう。まして病弱な子供の心は病的に歪んでゐるから、大人の心も思ひつけないことがあらうと修吉は思つた。然し、理由がなければならない。病弱とはいへ、抽象的な厭世観から自殺するとは思はれぬ。
秋山夫人もその心配の根拠に就いては語らなかつた。これといふよりどころのない不安であるかも知れなかつた。修吉も亦尋ねようとはしなかつた。
葛子と少年。修吉は二人を並べて考へて、今までは気付かなかつたひとつのことが分つてきた。それは人間の脆さであつた。それのもつ妖しさ、美しさだつた。今にも、こはれてしまひさうだ。
葛子が病少年をこはしてしまひさうである。ちようど人形をこはすやうに。さうして、葛子も亦、こはれてしまひさうである。
火遊びといふ言葉がある。それを、然し、修吉は二人の場合に空想しながら、実は信じてゐなかつた。少年は身動きにすら不自由の多い廃人だつた。その心も亦病み疲れて、遊びの言葉を当てはめてみる余地のない暗さであつた。
慰め、さうして、甘い言葉。いくたびか傷になれた大人の心も、虚飾の甘美な快さから脱けきることは容易ではない。その一生をシニックな思弁で通した大人たちでも、思弁では割切りがたい甘さが残つてゐるものである。ヴォルテールとかショオといふ老齢の哲人のみが、生気や肉体の磨滅と共に、やうやく甘さを脱却したシニスムの完璧の相を示すらしい。
この少年はその病弱の肉体のために、思弁の国を通らずに、すでに年老いたシニスト達の心に住んでゐるやうだつた。その父母の見舞ひにすら、いらつしやいも、さよならも述べたことがないといふ。又それらしい感傷を示したことがないといふ。修吉を見る眼付にしても、木石を見てゐるそれと全く同じことだつた。
修吉はこの少年の心のうちに遊びの明るさを見る思ひにはなれなかつた。
なるほど、遊ばれる余地はあり得たわけだ。さうして、やがて、こはされることもあり得たわけだ。修吉は、はじめて思ふ。それが次々に絵巻物をくりひろげる。それにしても、自殺はちよつと思ひ浮べる気持になれない。
少年の肉体は、自殺を思ふことが不可能なほど、すでに死に近づいてゐるのであつた。腕も首も、ちよつと力をいれて握れば、ポキ〳〵折れてしまひさうだ。この少年を殺すには、抵抗も、苦悶も、血潮も思ふことができないほどだ。人形と同じやうに、こはれることがあるだけに見える。
そこで修吉は考へる。葛子はこの少年のこはれさうな美しさを最も知つてゐたであらう、と。それにしても、膿の悪臭を差引いてなほ残るほどの愛情を、その陰惨な秘密のゆゑに、反撥したくなるのであつた。とはいへ、その反撥の表皮を破つて、冴え〳〵とした幻が静かに沁みてくることを否むわけにはいかなかつた。
秋山家の裏庭に、大きな柿の木の切株があつた。あるとき、裏庭を歩いてゐると、女中のひとりが、この切株の由来に就いて語つてきかせたことがある。
秋山家に長次といふ下男がゐる。四十五六の小さな男だ。この下男が柿の木から落ちて足を折り、不具になつた。去年の秋のことだといふ。それ以来、この木を切つてしまつたのである。
柿の木の下に葛子がゐた。長次は葛子の頼みをきいて、柿の実を採りに登つたのだ。上へ上へと登つていつて、枝が折れ、落ちたのだつた。長次は柿の木の下にのたうつてゐた。駈けつけた人々の顔をひとつ〳〵必死に視凝めて、かたはらに落ちてゐる柿の実のひとつをさぐりとり、お嬢様に、お嬢様に、と差出しながら言つたさうだ。
長次は今も尚秋山家に使はれてゐる。雞小屋の世話をしてゐるのであるが、無断に卵を飲んでしまつて仕方がないと女中達が言つてゐる。修吉を見ると、松葉杖の歩みをとめて、小さいくせに、見下すやうな顔付をする。誰を見るときも、さうらしい。哲人のやうに偉らさうにするが、それが如何にも愛嬌がある。女中達はびつこ、びつこと冷やかすのだが、なるほど冷やかしてみたくなるのだ。すると彼は一方の松葉杖をふりあげて、その見幕たらないのである。白痴のやうな妻女があり、子供が七人もゐるさうだ。
ここにも、ひとりの犠牲者がある。これもこはされたひとりであつた。こはされた人は木像のやうに何も知らない。切株のあたりの土には、のたうちながら長次が掴んだ爪のあとが今もあるやうに思はれるほど、こはれた姿が生々しく当時を語つてくれてゐるのに。長次の話をきいたときも、また修吉は葛子を憎む思ひを感じてゐた。
何よりも修吉がまづ嫉ましいのは、掴まへればきつと逃げてしまふやうな葛子の軽さであつた。常に秘密と裏切りを感じさせ、さうして独専の不安と怖れを思はせる。修吉はそれを憎まずにゐられなかつた。愛すまへに、すでに嫉妬に疲れさせてしまふのだ。
聖賢高僧を堕落させ、仙人行者の通力を失はしめるのはいいとして、いちばん愚かな男の力に征服される危さである。さうしてすでに閃きも軽さも失せた脱殻のやうな女に化してしまはないと言へるだらうか。修吉はまたそれを憎んだ。
秋山夫人がひらいてくれた窓のやうな言葉がある。死といふ言葉だ。それが俄に新鮮な想念の火をともしてくれる。この娘の危なさに、百万人の憎しみと嫉妬がこもつてゐるだらう。そこから葛子を救ひだすには、殺すか、死なすかすることだ。今のうちに、こはしてしまふことである。
そんなことを考へるが、この葛子の爽やかな幻が浮んだときには、かなはない。
お妙が修吉にこんなことを言ふ。
「旦那さん。お嬢さま、かはいらしいとお思ひでせう」
「さて」修吉は胸を張りながら威張つて答へる。「僕はお妙さんの方が好きなんだがな」
お妙はてんでとりあはない。
「お嬢さま、男の方の写真が一枚欲しいんですつて。なんべん見ても見飽きない写真が。旦那さん。一枚差上げなさいませ」
「僕はまたお妙さんの写真が一枚ぜひとも欲しいものだね」
「あら。東京のお方にも似合はない。羞しがつてらつしやいますこと」
と、お妙が修吉を冷やかすのだつた。
修吉は秋山家から山つづきの禅寺へでかけて、未明、座禅三昧に耽ることの快味を知つた。早朝の寺の本堂はいいものだ。山気堂にみつといふ感じで、家庭の精神の低さとは全然異つた遠い国へ連れ去つてくれる。まことに静かで、心は常のものではないが、平静である。うたたねとは勝手の違ふねぶたさで、坊主がお経を読んだりしても、そのねぶたさは深まり、沈むばかりといふ太平楽な有様であつた。一坐りして、朝陽のさした外へでると、目の覚める爽快さだ。一週間と坐らぬうちに、悟りをひらいてしまひさうだ。
あるとき、例の如く朝陽のさしかけた本堂へ坐りこんで太平楽をきめこんでゐると、おくれて這入つてきた者がうしろへ坐つた気配がして、やがて山寺には思ひもよらない花やかな香料の匂ひが漂つてきた。それはかねて覚えのある葛子のものに相違ない。修吉は憤然とし、また呆れかへらずにゐられなかつた。事々に悟りを妨げる奴である。
外へでると、葛子が冷やかして言つた。
「悟りすましてゐましたね。うちのお客さんたち、一夏ゐるうちに、たいがい座禅やりだすのよ。活動写真や酒場がないと、山寺が代用品になるらしいわ」
葛子は修吉の手をとつた。それを両手で握りながら、笑つて言ふ。そのこだはりのなさが爽やかで、修吉はあまり呆気なくその透明な現実に冴え〳〵とすひこまれてゐる自分の姿が、少々馬鹿に見えるぐらゐだ。
「急にお話したいことがあつたんですもの。私たいへんな寝坊でせう。早く起きて、ここへくるのに大変でしたわ。まだ朝のお食事には早すぎるでせう。あなたの好きな夏峠まで歩きませうね」
ところが、沼のほとりへくると、葛子は立止つた。
「坊がぶなに凭れてゐたのは、どの木でしたの」
葛子は修吉の返事をきくと、そのぶなの幹に凭れて、沼を視凝めた。
「お分りでせう。あの子死ぬつもりで沼をみつめてゐたんですわ。死んでしまへばよかつたのに」
「あなたの入れ智慧ですね」
「どう致しまして。大人の方に分らないことですわ」と、葛子は平然たるものである。「大人たち、死ぬこと、色々とむつかしく考へるでせう。私達さうぢやないんですよ。理窟がないんですもの。自分ながら、自殺したつて、まさかに死ぬとは思つてゐないほどですのよ。莫迦々々しすぎるから大人に分る筈ないわ。でも、ママ、分つたんですね。あの晩あなたに相談したでせう。ママつて、違ふものですね」
「僕にその話をしたくなつたのは、どういふわけですか」
「話しいいから。ママなら、怒るでせう。だつて、私達毎日ダイス振るでせう。十六が五へん続いたら、死んぢやう約束したでせう。四年昔の約束ですもの。秋がきて別れるとき、たうとう今年、出なかつたわ。今年もまたね。今年も。すると、あの日、たうとう出たでせう」
「ぢや、もう、死ぬのはやめることにしたのですね。さうでせう。それがいい」
葛子はそれには答へず、修吉の手をとつて笑みかけた。
「夏峠へ行つてみませう。三年ぐらゐ、登つたことがありませんわ」
朝の夏峠は爽やかだつた。なだらかな草原が、はるかの下に靄の中までつづいてをり、その底の静かな沼が光つてゐた。
峠を降りて、お妙の家の前までくると、老婆が洗濯してゐた。
「お早う。婆や」
葛子は老婆が絞つて並べておいた洗ひ物をとりあげて、ひとつづつ、ほしはじめた。
「まあ。お嬢様」
「婆やの若かつたころ、村の人達ちよん髷ゆつて段々畑耕してた?」
「御冗談でございませう。七三に分けたハイカラ頭で、今時の都風に、それ、旦那の頭がそつくりそのころの若い衆でございますよ。いい男ぞろひでね。下落したのは若い衆と地酒の味だ。この節の村の娘とのんだくれは、気の毒なものでございますよ」
「うちのパパ松の木に縛つておいて、婆やあひびきしたんだつてね」
「あはははは。お嬢様も、おつつけ、あることでございますよ」
と、この連中の話ときたら、呑気なものだ。葛子は村人たちの話題の中へ自由に滑りこんで行く。
笑ひながら、ひとつづつ洗濯物を竿に通す葛子の姿態が、のびのびとして爽快だつた。家庭の労働に泌みついてゐるせまい感じも暗さもない。見てゐれば、文句なしに、その透明な情熱にまきこまれずにゐられなくなる。
今のさつき自殺の話をしてゐたのが、同じひとりの娘なのだ。自殺の話にこだはることができなくなつてしまふのは、やむを得ないところであらう。どこへでも自由に滑つて行くだけだ。どのひとつを静止の姿で捉へることも、ただ馬鹿々々しくなるのである。
然し、葛子がほんとに身を投げて、死んでしまつた。夏の終りのことである。
死んだといふ事実のほかには、修吉に分ることがひとつもない。
葛子の行方が知れない。死んでゐるかも知れない。さうして、人々が騒ぎはじめたとき、修吉が誰にもましてその心配を信じなかつた。「冗談でせう。自殺なんか、する筈がない」
然し、人々は例の沼をかきまはした。竿に菱がからみつき、下から濁つた水面が現れてくるばかりである。
葛子が死んだとすれば、あの谷底の瀞だらう。修吉はそんなことを考へた。その想念は泌々美しいものだつた。さうして自分の思ひつきを人々に語つてみた。果してそこに葛子の死体が浮いてゐた。それを言ひ当てた修吉は、その想念の美しさには溺れてゐたが、それが実際ありうることを殆んど信じてゐなかつた。さうして、美しい想念が事実となつた話をきくと、忽ち想念の美は掻き消えて、ただ暗澹たる空虚をみつめたのみだつた。
葛子は水を殆んど飲まずに死んでゐたさうだ。飛びこむ前に気を失つてしまつたのだと修吉は思ひこんでゐるのである。
一夜の通夜をすまして、その翌日、修吉は東京へ帰つた。
帰るとき、お妙の祖母から譲つてもらふ約束だつた下手物の徳利や茶碗を、お妙がもつてきてくれた。それをつめこむ場所がなくて、二人はトランクを掻きまはした。
「もう、お妙さんにも会へないのだね」
「また遊びにいらつしやいませ」
「今度くるとき、お妙さんはお嫁さんになつてるね」
「さうかも知れません」と、お妙の返事は明快である。
「男の子ができたら、お妙さんは何に育てるつもりだらう?」
「海軍の軍人」
「へえ」
「叔父さんが海軍の水兵です。外国からの便りやおみやげを貰ふことがありますでせう。ねむる時も離したくないほど、それがなつかしくてなりません」
お妙の心は甚だ素直だ。山中の人の心がすべて素直のやうである。葛子を理解する鍵のひとつも、そのへんにあるかも知れない。修吉はそんなことでも思ひつくのが精一杯のところである。
お妙と葛子と弥勒の像と三つの美しいものを知つたが、どのひとつが最も深く印象に残り、思ひ出の中に生きるだらうかと修吉は思つた。
さうして、立去りがたいのは、弥勒の像の前であつた。
弥勒の像の前に立つと、葛子もその中にをり、お妙もその中にゐるやうだつた。さうして、人間の秘密のすべてがあるのだが、小さな生死だけがない。
この村は賭博の盛なところである。一般に雪国の山中は概ねさうだといふことだ。冬は仕事がないからである。秋山夫人は出入りの者と一戦して冬毎に小気味よく莫大な敗北ぶりを見せるさうだが、案外なのが葛子で、ある晩手合せが始まつたとき、修吉が見てゐると、葛子は勝負に執着がすくなかつた。熱中することがないのである。その発見が修吉を驚かした。この葛子が仏像にいちばん似てゐるやうだなと彼はその時思つたのだ。
この仏像は悔恨と窶れを持つてゐないやうだ。この仏像の深い秘密を、それが高めてもゐるのだが、また仏像の印象を稀薄にするのも、それのためだ。直接深刻なものが微塵もない。
少年の膿を吸はしても悔恨がない。人を殺しても悔恨がない。この仏像はさうである。人を救つてくれさうもない御面相だ。しよつちう人を苦しめて、傷けながら、高めたり、ほつとさせたりしてくれる、さういふ御面相である。
いくら明朗で、また透明でも、生身の人間はかうはいかない。あの葛子でも、悔恨や窶れの翳が全然なかつたわけぢやない。強いて探せば、思ひ当ることがある。
「いいなあ」修吉は思つた。この仏像を見てゐると余念の浮かぶ余地がないから、助かるのだ。
「あの坊つちやん、どうしましたか」
通夜のとき、修吉は人にきいてみた。
例の通り、素知らぬ風だといふことである。顔色ひとつ動かさないし、赤の他人の話のやうに聞き流して、こまかく穿鑿したがる風もなかつたさうだ。
なぜ葛子は死んだ? なぜ少年は死なない? さういふ「なぜ」を修吉はみんな忘れてゐることにして、ことさら考へることを避けたがつた。
葛子の死んだことも忘れよう。さういふ彼の希ひであつた。
かつて可憐なひとりの娘がこの山中にゐた。ゐたといふ事実だけが、すべてである。その考へを、彼は仏像から教はつたのだ。
彼が愈々村を去る時、乗合の止るところまで、お妙が送つてきてくれた。
「あの山の向ふに、もうひとつ高い山が見えるでせう」往還で、乗合を待ちながら、お妙が山を指さした。「あの山に、昔、鬼がゐたんださうです。あるとき、お姫さまをさらつてきたら、神様が憐れんで、お姫様を百合の姿にしたんですつてね。どの百合がお姫様やら分らなくなつて、今でも、百合をつむ人に鬼が祟りをすると言ひます」
「ぢや、あの山には、百合がたくさん咲くわけですね」
「さう言ひますけど、見てきた人はありません」
さうして、乗合が動きだすと、お妙が言つた。
「お達者でお暮しなさいませ。今度は六月ごろいらつしやいませ。山の緑がなにより綺麗でございます」
お妙のまつしろな顔が、みる〳〵小さくなつてしまつた。
車窓から、鬼のゐたといふ山を見ながら、修吉は思つた。どうやら、お妙は、あの山の百合の精かも知れないな、と。これで村の美女たちも、みんなやうやくその故里がきまつたやうだ。
葛子も、あの谷底から生れて、あの谷底へかへつたのだらう。まあ、そんな風に思ふのが、この一夏の感傷にちようど手頃なしめくくりだ。修吉は思つた。
軽便鉄道の停車場で、偶然、修吉は野沢に会つた。彼は慌てて駈けつけてきたところであつた。
「へえ。さうかな。年頃の娘が原因もなく死んぢやうかな。どうも俺には呑みこみにくいな。男なんかがあつたわけぢや、ないのかな」
「あつはつは。君まで、さう思はずにゐられないとは、どうも都会の感情はせちがらいな」修吉は高らかに笑つた。
「山へいつたら、例の君の愛人の弥勒の像にきいてみたまへ。あれの語つてゐることが真相だね」
「うつふ。一夏のうちに、俺のお株をとつてしまつたぢやないか」
二人は曖昧宿のやうな薄暗い旅館の座敷で、二時間ばかり酒をのんだ。
「あの村に、森下の仙蔵といふ蕎麦打ちの達人がゐるんだがね。君もその蕎麦を食つてきたに相違ないが」
「うむ。今朝出発の朝食にも、それを馳走になつたばかりだ」
「それから倉之助の蕨餅といふのがある」
「それは知らない」
「いづれも逸品だね。田舎の感覚は、線が太いが、案外デリケートなものだ。さうして、ほんものだね」
夏の終りは、山がそろ〳〵荒れだす時だ。晴れると思ふと、黒雲が走り、雨がぱら〳〵落ちてくる。蝉の明滅が、波のやうに、湧き起つては、また、ひく。
同じ山中の村落でも、停車場のある村までくると、よほど下界へ降りてきた感情になつてしまふものだ。さうして、野沢と卓をかこみ、久かた振りに都会の感情に立返つて物を眺める恰好がついてしまふと、さつき別れた木暮村が、よほど違つた相貌で、修吉の心に生れ変らうとしてゐるのである。
お妙も弥勒も、もはや案外遠いところへ飛び去つてゐる。
まざ〳〵と生きてくるのが葛子であつた。その死がいかにも惜しいものに思はれる。あの情感の深い姿態が忘れられない。あの山中にゐたときは、葛子の死に、何より同感したのであつたが。
人の心は当てにならない。たつた二十キロの山道を車が走つてくるうちに、もう、これである。柄にもなく、未明に起きて山寺に坐つたことなど、思ひだしても、笑ひだしたくなるばかりだ。
「なるほど、な。葛子さんも、案外、死にたくなるやうな心の秘密があつたかも知れないな」
「わつはつは。君は弥勒にだまされて、うかうか一夏過したのだらう」
二人の思ひは、死んだ葛子を追惜する同じ暗さに、自然に落ちて行くやうだつた。
底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文芸 第七巻第三号」
1939(昭和14)年3月1日発行
初出:「文芸 第七巻第三号」
1939(昭和14)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:北川松生
2016年9月9日作成
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