日本人に就て
──中島健蔵氏へ質問──
坂口安吾
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健蔵兄、作品社から「中島健蔵氏へ質問」といふものを書けといふことで、文学には多々疑惑のみ溢れがちな日常ではあり渡りに舟と引受けたのですが、さて引受けてみて吃驚しました。なるほど疑問は次から次へとあるやうですが、さてそれを謙虚な質問といふ形に表はしてみやうとすると、これが非常にむづかしいのです。自分では疑問のつもりでゐるものが、質問の形に表はしてみやうとすると、いつのまにやらチャンと疑問に解答を与へてゐる不思議な自分に気付くのです。つまり僕の文学上の疑惑は常に「自問自答」といふ形にすつかり馴らされてゐて、唐突に心構えを変へてみたところで十日や廿日のことでは本心から謙虚な構えで他人に質問のできる自分でないことに気付きました。
これは甚だ不幸なことです。僕は正直にさう痛感しました。けれども反面それほど質問がむづかしいことに改めて気付いたのでした。すくなくとも僕にとつては、まことに謙虚な質問ができるやうな大海のやうにフランクな心構えになること、そのことだけで僕の文学がすでに半分くらゐは光りある救ひのなかへ足を踏み入れることになりさうだと感じました。さうして、要するに僕はつまり終生他人に質問はできさうもなく、僕の文学は自問自答の孤独な生涯を送るのだらうと、いささか暗澹として考へたのです。けれどもこれは一に貴兄への質問といふことにあれかれと正面から肝胆を砕いた揚句、一向埒のあかないうちに遠慮会釈もなく締切の期日がとつくに過ぎ去つてしまつたことに由来する悒鬱極まる自責の念が手伝つて、いささか無役に暗澹としすぎたのかも知れません。然り、締切がとつくに過ぎ、必然の結果としてこれの返答を執筆する貴兄の時間が不当な短縮を余儀なくされる洵に正義人道上我ながら悲憤慷慨せざるを得ない不埒な事態を招致するにしても、僕は(!)遊んでゐたのではなく、しかく真ッ正面から肝胆を砕きすぎてゐたための不幸な結果にほかならないと賢察(!)していただくまでのこともなく、僕の頑固な自問自答の悪癖と、質問といふが如き地上に最も謙虚な心を必要とする至難な事業に到底一朝一夕に着手できやう筈のない孤独児の悲劇に就ては、先刻聡明なる貴兄が充分知りぬいておられることを、僕もとくより知りぬいてゐました!
左様なわけで質問のもてない自分に呆れかへつたのですが、そこで僕も気持をかへて、いつそ気軽になにか感想でも書いてみやうと思ひついたのです。あとで貴兄の感想を洩して下されば幸福です。
僕は時々日本人であることにウンザリします。むろんウンザリしてはいけないのですが、時々ウンザリするのです。近頃自意識過剰といふことが言はれてゐますが、我々日本人の場合これを自意識過剰といふべきや行動過少といふべきや甚だもつて疑はしいと思はれるのです。
日本人は宗教心を持たない代りに、手軽な諦らめとあんまり筋道のはつきりしない愛他心とに恵まれてきました。元来情熱は一途に利己的なものであるやうですが、日本人はこれまで情熱を追求することを教へられず、途中で抑へ、諦らめることに馴らされてしまひ自分の正しい慾念よりも他人の思惑の方を余計気にしたりするやうであります。それの愚かしいことに重々気付き、又憎んでゐても、長い習慣から脱けでることができません。
横光氏の作品が西洋臭いやうに言はれてゐても、なかなかさうではないやうです。たとへば西洋臭さうな「悪魔」をとりあげてみても、まづ主人公が窓ぎわで顔を洗つてヒョッと顔をあげると前の二階に女がこつちを見てゐる、ちよつとバタ臭い場面のやうでゐて、その実この情景のあまりにも生き生きしてゐるのに驚いた私は、これが最も日本的であるからだといふ一つの考へに思ひ至つたのです。
年がら年中内攻した生活の中にくすぶつてゐる日本人には、西洋人が異性の肌に直接手をふれて感じるであらう情慾を、一目見るだけで感じだすやうに馴らされてゐる傾向もあるでせう。直接話を交してのち男女理解し合ふといふなら普通でせうが、外面てんでんバラバラに生活してゐる我々日本の男女にとつては、話もせずに話を交したと同量の濃度をもつた感動を受けたりする垣間見ただけの感覚、さういふものに西洋人以上の深さと真剣味が含まれてゐるやうに思ふのは不当でせうか? 前掲の悪魔の一情景の如き、日本人ならではこれほど生き生きと感じ、美しく描けないのではありますまいか? 日本人は異性同志が言葉を交し合ふだけでさへ西洋人に分らない労力と複雑な計算と、さうして西洋人同志ではてんで意味もない小さな言葉のきれつぱしにも驚くべき広がりと深さをもつて官能に理性に響きを受けることがある筈です。ここには我々をああ又かとウンザリさせるところもあるでせうが、一面当然意識していい新日本的な美があるやうにも思はれます。
西洋では男女の交際にかなりの公式があり階梯があり必然性もあるやうですが、日本ときては殆んど大部が偶然にたよるほかに仕方がないやうです。行動過少といふべきか寧ろ発表過少ともいふべき日本人にとつて必然的な行動とは即ち過剰な自意識の綿々たる内攻のことであり、発表や行為は全てこれ偶然──といふのはちとヒドすぎますが、然しとにかく一々の発表や行動の直後にすぐさまなにがしの内省批判自卑の念まで懐きがちなところから推察しても、今日の日本人には単に意見を発表するといふことすら意識の必然的な流れに比べて凡そ偶発的な相当に本人自らにとつても突拍子もないことであるらしいのは残念ながら認めないわけにいかないやうであります。
近頃唱へられてゐる長篇小説の偶然論は極めて尤もなことと思ひます。長篇小説に限らず小説にとつて新鮮な偶然ほど重大な要素もすくないやうに考へてゐるのですが、行動に型も形式もない日本人ほど新鮮で独特な偶然を持ちうる国民があるでせうか? 悒鬱な過剰な自意識はそれ自体一向に発展性がない代りに、ひとたび飛躍を与へればあらゆる可能の彼方へ飛び立つことができます。
僕の考へでは一人の男を二度同じ境遇におき同じ条件を与へても決して必ずしも同じ行為をせぬばかりでなく、まるつきり反対のことさへやりかねないと考へてゐるのです。我々は常に無数の返答、無数の可能をもつてゐます、そして、ちよつとした紙一重の気配の相違でまるつきり反対の思ひもよらない表出をとることがあつても、それは有りえないことではありません。これは日本人に限つたことではないのです。けれども行為に馴れない日本人には特にそれが可能のやうです。
ジイドはロシヤ人の愛と憎悪の激しい転換を指摘してゐますが、年がら年中内攻してゐる日本人、異体の知れない不当な自卑にギュウギュウうなされてゐる日本人には、愛と憎悪の転換くらゐてんで目新らしいことでさへなく、自卑が一瞬にしてドンキホーテの夢となり、帝王の自恃となり世界を相手の憎しみとなり、なにしろちよつと考へただけでも実にはや忙しいことではありませんか。
先刻日本人であることにウンザリしてゐると述べたくせに、ふと気がついたら日本人であることをひどく嬉しがつてゐるやうですね。我ながら呆れました。これも日本人であるための可能の国の出来事ですか! まつたく、可能の日本人を考へると実に新鮮で愉快ですが、自分の現実の日本人に気がつくと、ウンザリせずにゐられません。
日本人の精神生活を性生活にたとへると全くオナニズム的ではないでせうか? 性的な意味だけではなく、日本人の小説を読んでゐると打たれる美の多くのものがオナニズム的な傾向を多分にもつてゐることに僕はよく気付くのです。けれども日本人が年中オナニズムにふけつてゐるわけでなく、あたりまへの性生活だつてチャンとやつてゐるやうに、日本人の小説も所詮オナニズム的であることはまぬかれないとして、もつと積極的な行為の生活へはいつてゆく必要はあるでせう。
いや、何を言つてゐるのだか自分ながらわけが分らなくなつてきました。質問の要素なんて、てんでどこにも見当らないに相違なく書けば書くほど恐縮するばかりですが、それでは健蔵兄、今更仕方がありませんから僕から右様の手紙を受けとつたことにして気軽な返事を書いてくれませんか? 貴兄の日本人に就ての感想をきかせて下さい。外国文学専攻の貴兄から我々と立場の違つた日本人観をきかせてもらうのは愉しいことです。
僕が稚拙な饒舌を弄して多少とも話を日本人にふれさせたのは、文学に於ては欧洲的な方法がもはや一つの行詰りを示してゐて、我々が新らたに出発するためには全然別の発足が必要であり、然して我々が日本人であることがそのことの大きな強味になりはしないかと思はれたからです。けれども僕は従来の最も日本的な枯淡の風俗やらさびとやらいふものには全く絶望してゐます。むしろ激しい反感を持つてゐます。僕の日本といふ意味がさういふものでないことは稚拙ながら今迄の饒舌の中から推察してもらへると思ひます。さうして、僕の意味する日本的なることが然ういふ新らたな発展に結びつかうとしてゐるために、特に貴兄のやうな外国文学に堪能な士から日本人をききたいといふ僕の微意も分つていただけるでせう。妄言多謝。
底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第六巻第七号」
1935(昭和10)年7月1日発行
初出:「作品 第六巻第七号」
1935(昭和10)年7月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
2016年4月4日修正
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