金談にからまる詩的要素の神秘性に就て
坂口安吾
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椋原孔明とよぶ尊厳な弁護士があつた。とある屋根裏に棲んでゐたといふのであるが、東京には欧羅巴の安宿なみの屋根裏なんぞ見当らないといきりたつ性質のよろしくない読者のためには、BON! それでは地下室に棲んでゐたと言ひかへてみても一向私の差支えはないのであつて、要するに尊厳なる弁護士事務所といふものは普通地下室や屋根裏の中にある筈がない──ところが尊厳なる弁護士・椋原孔明氏は屋根裏(どつこい地下室)に棲んでゐたといふわけであり、つまり話はただそれだけのことにすぎない。
さて、尊厳な弁護士・椋原孔明氏は、ひとつの穏やかならぬ(──と私は思ふが、勿論穏やかなことであつても一向私にさしさわりはないのであるが──)事情によつて、大枚三千円といふ聞いただけでも身顫ひのでる金策に苦しみはじめた。参阡円!
だういふ筋の穏やかならぬ事情であつたか、それを聞きたいといふ読者の考へが間違つてゐる。たとへば諸兄姉自らが金策に出向いたとして、金の必要なる所以を滔滔と論ずるところの自分の英姿を想像してみたまへ、概して借金の理由といふものも借金の言訳と同じやうにほんとのことは言へないものだ。要するに掛値のないほんとの話は、金が今にも必要だ! ただそれだけの話であつて、そのほかのことは各々に勝手なさうして逞しい空想力といふものがある。さういふわけで尊厳な弁護士・椋原孔明氏は、三千円の金策に身体のほそる悲しい思ひをしはじめた。──かういふ話は聞いただけでも身の毛のよだつものである。
すべての努力は水泡に帰した! こんな悲しい話はない。けれども生憎この物語の読者諸君は(時々これは信じられない真相であるが──)万人が万人金策の苦労(──うまくいつてもお次には首の廻らぬ苦労といふのがやつてくる!)に叩きあげた鋼鉄の勇士とばかりは限らない形跡がある。さういふ少数の読者のために私は敢て一片の老婆心から余計な説明を加へておくが、金策に必要なこの異常な勇気! (これに要する精神力の総量は往々にして彼自らの所有するエネルギイの総量を突破したかの疑ひすら起させがちなものである)ああ! この異様な一大勇猛心といふものは、その宿命的な命数として概ね水泡に帰しやすい不運な薄命をもつものである。それにも拘らず、これほどの一大勇猛心といふものは、鵯越えの荒武者でさへ必要ではなかつた! ジェノバの人コロンブスでも必要ではなかつた! 然り然して裸一貫江戸へのぼつた岩崎弥太郎ですらこれほどの一大勇猛心は持たなかつた! 見給へ諸君、これによつてこれを見れば、この異様なる一大勇猛心の赴くところ、おごる平家を打ちほろぼし、易々としてアメリカ大陸を発見し、然り然り! のみならず嗚呼巨万の富を蓄積することすら赤子の手をひねるがやうに容易であるにも拘らず、于嗟! 金策の目的をとげることは却々できない! 実にできない! 頑としてできない! 断々乎として出来ないのである。
金策。これはもうあらゆる悪魔がたくらんだ鼠落しへ跳びこむやうなものである。軽率に人間業と思ひこむのが間違ひのもとであると信じなければならないことだ。
尊厳な弁護士・椋原孔明氏も、言ふまでもなく人間業を超躍したあらゆる努力・忍耐・克己を惜しげもなくふりまいた。然しすべては綺麗あつさり水泡に変つてしまつた。そこで話はこのところから始まるのだが、話の本筋にとりかかる前に、例の甚だ少数な(時々これは疑ひたくなる真相であるが──)読者のために、いささか蛇足の挿話を加へて、尊厳な弁護士・椋原孔明氏の人間業とも思はれない努力・忍耐・克己の状をあらまし述べておく必要がある。かういふことは読まないさきからもう心臓がふるへてくる、目をそむけたい、できることなら本をビリ〳〵裂きたいやうなものである。身を切られる苦しさとはこのことだ! やりきれない! とはいへ、こんなことを事こまやかに書かねばならぬ私の方は、これはもう何の因果かわかりやしない!
第一回目の金策訪問に於ける椋原孔明氏の毅然たる心事ならびに凜然犯すべからざる態度その他。──
金策に出向く誰の場合も同じやうなものであらうが、第一回目の狙ひをつけるこの緊張した訪問先といへば、いふまでもなく一番金を貸しさうな、そのうへ言ひにくいことを切りだすにも相当気軽で気のおけない(従而先様の方も断はるにつけて気がおけない!)まづザッと地上に一人か二人しかない斯ういふ頼もしい人物を選ぶものだ。いはば金策とよぶ至難な事業の軽い瀬ぶみのやうなもので、拒絶をくつても気がおけないから何んとなく楽天的な余裕もあり、壮烈なほんとの軍はこのあとだ!──つまり、洋々たる前途を望む雄大な気概なぞといふものがあつて、そこで第一の人物を訪ねるときの道々の気持なぞといふものもつひ鼻唄がとびだすほどの言ひやうもなく爽快なもので、戦前すでに敵を呑む痛快無類な気組みなども充分持ち合はしてゐるものである。ところが、扨て、愈々第一の人物に会見し、南無三宝! ここでアッサリと思ひもよらぬ拒絶を喰ふと(──いやまつたくだ! いくら覚悟をきめた上でも拒絶をくふとは思ひもよらない!)それからそれへと思ひもよらない心境の変化が続出してくる。第一に途方にくれてしまふのである。アアもうこれで万事休したと思ひつく。さて改めて、第一の人物ほどの人物が地上に二人とあるものかといふ、凡そ論外なペッシミズムの虜になる。洋々たる前途を望む気概なぞは糞くらへといふ無法極まる癇癪すら起きるのだから言葉もないほど情ない!
尊厳な弁護士・椋原孔明氏は生れつき楽天的な男子であつた。かういふ人こそ大丈夫だと言ひたいやうなものである。かういふ見事な健男児は無役に先走りした神経質な考へごとにクヨ〳〵と余計な苦労をしないもので、拒絶を喰らつたそれからの思ひもよらない心境の悪化なぞにはてんで予感を持ち合はすひまもないから、しんから陽気でおまけに殆んど幸福だつた。言ふまでもなく戦前すでに大敵を呑んだ壮烈な気組みで、誰の目にも颯爽として第一の人物邸へ乗りこんだのである。
玄関口へスックとばかり立つた時には、まづ案内を乞ふ前に「三千円!」と大きな声が腹の奥から突きぬけて脳天へどしんといふほど木魂した。「俺や腹の底の方に途方もなく強情な、負けん気の、勇ましい奴がゐやがるな」と尊厳な弁護士は頼もしさうに呟いたほどだつた。まるでもう三千円が鎧兜に身をかためて腹の奥にふんぞりかへつてゐるやうなものだ。そこで椋原孔明氏は極めて冷静に呼鈴を押した。
第一の人物はニコ〳〵しながら現れた。この男はいつも機嫌がいいのである。こういふ機嫌のいい男は当り障りのないことに打つてつけの人物で、言ひにくいことを切りだすにはどうも都合のわるいものだ。切りこむ機会が見付からなくて取つ付きにくいものである。然し椋原孔明氏は意気冲天の気勢が揚がるばかりであつて、怨敵の笑顔ぐらゐにビクともしなかつたばかりでなく、普段の訪問にくらべると却つて慎しみも遠慮もなかつた。そこで椋原孔明氏は無法なぐらゐ相手かまはず喋りはじめた。
「ほかでもないが三千円要ることがあつてね、三千円貸してくれたまへ」
彼はまづ斯うはつきりと言ひ切つた。
「三千円貸してくれ!」
もう一度つづけさまに唸りをたした。
三千円! 三千円! 三千円! そこでもう彼の喉に彼の拳に彼の膝に三千円の大洪水が溢れだしたのであつた。言葉といふものは不便なものでどう急いでも一語づつしか出ないものだが、それが何よりじれつたい様子で、尊厳な弁護士・椋原孔明氏は言葉の泡を吹きはじめたのだ。つまり、如何にして、又如何様に三千円が必要であるか、それが必至の事情によつて殆んど必死の状態にまで必要欠くべからざるものであるかといふことを、微に入り細にわたり、しかも豊富な感激に狂つたやうに酔ひながらまくしはじめたのである。まるでもう思ひもよらぬ出来栄えであつた。五分あまりの時間といふもの溢れる水と同じやうに、むやみに言葉が・感激が・落付きが、(いや全く! 落付きまで!)流れだしてくるのである。非常な亢奮に拘らず、非常に冷静な計算が、彼の態度を時に応じてととのへさせるのであつた。彼は真剣な顔をした。時々シンミリと落付いた苦笑を(さうだ! 決して微笑ではない!)浮かべた。時々情熱を漲らした。時々ちよつと気取つてみた。時には巧みにへりくだつた。これはもう作為と自然が合致した至妙の芸術と言ふべきもので、金策といふ唯一の場合でなかつたら、フロオベエルもこんな境地に浸つたことはなかつたのである。
語り終つた凱旋的な好気分! 孔明氏は思はずホッと一息洩らして手中の獲物を見すくめるやうに相手の様子をうかがつた。──と、返事がない。皆目手応といふものがない。木像だ石臼だ蟇だ梟だ鮟鱇だ……
「どうもすこし──」と孔明氏はゾッとしながら考へた。「調子にのつてあんまり早口に喋りすぎたやうだつたが、そこで話がききとれなかつたといふわけかな? そのほかの理由といふのが考へられない……」
そこで椋原孔明氏は閃めくやうに勇気を燃やし、今度は落付きの方に充分以上の気を配りながら、整然たる順序を追つて同じことを丁寧にくりかへした。
二度目の話が完全に終りをつげた瞬間だつた。
「いや、もう、二度だけで充分」と、第一の人物はすこしも周章てずに言つた。
「三千円! ああ! その金が俺の懐に今あつたら! 俺はすぐにも兜町へ飛んで行くんだ。畜生! みす〳〵儲けが分つてゐながら……」
第一の人物はなほも至極冷静に述懐をつづけた。
「三千円! 逆様にふつても鼻血もでないとはこのことさ。先月ちよつと儲けたと思ふと今月はもう倍の損だぜ。ここ四五日といふものは一日に五回ぐらゐの割合で自殺がしたくなるほどなんだ。やりきれない!」
「冗談ぢやないぜ! 君が三千のはした金をもたないなんて!」
椋原孔明氏は呆気にとられて、自分の呆気を打ち消すやうに周章てふためいた大きな声で喧嘩腰にかう喚いた。
「冗談はよさうぜ! 俺はもうギリ〳〵ほんとに三千円必要なんだぜ! おい三千円貸せつたら! たつた三千円のことなんだぜ! たつた三千円──」
「これが冗談だつて? 驚き入つた話ぢやないか! 俺は自殺をするところだぜ。この瘠せた頬つぺたを見てやつてくれ! くぼんだ眼玉を見てやつてくれ! ああ! 二週間といふものは夜もろく〳〵眠れやしない! 毎日々々考へるのは自殺ばかりだ! 毒薬にしやうか、首をくくらうか、鉄道線路の露と消えるか……」
「いやはや、そんなことは君──」と、椋原孔明氏は相手の言葉を一気に打消したいもどかしさから、猛烈に両手をふつて身悶えした。
「そんなことは君、とにかくそれでいいことだよ! とにかく俺は三千円──」
「だから君、逆様にふつても鼻血もでない状態なのさ」
「冗談ぢやない! たつた三千円! 俺はほんとに必要なんだぜ!」
椋原孔明氏は完全に亢奮して立ち上つた。完全に亢奮して第一の人物邸をとびだした。その諷爽と又猛然とふるひたつた意気込みは今迄の凜然たる構えでさへも比較にはならぬ見事なもので、まるでこれからがほんとの金策に出掛けるところだ! と思はせるやうな勇ましいものに見えたのである。
「冗談ぢやないぜ! たつた三千円! 俺はほんとに必要なんだぜ!」
彼は道へとびだしてから、部屋の中で喚いたよりもよつぽど情熱のこもつた声で、はりさけるかと思はれるぐらゐ荒々しく叫んだ。その凄然たる叫びをきけば、どんなに血のめぐりの悪い人達でさへ、ああ椋原孔明氏は今しも三千円の切実な必要に迫まられておるなと納得せずにゐられない鋭いものがあるのだつた。そこで椋原孔明氏は彼がなほ何人かの邸内に於て何人かと会見しつつあるかのやうに、その同じ叫びを呟きつづけて道を歩きはじめたのだ。
「冗談はよしてくれ! 俺はほんとに、たつた、三千円……」
然し椋原孔明氏の頑固一徹な呟きから、次第々々に力と情熱がぬけてきた。呟きから力が抜けてきたばかりか、全身から、つまり、歩く足から、股の付根から、腰骨から、頸から眼玉のまはりへかけて、力がそつくり抜けてきたのだ。今にもヘタ〳〵と道路の上へへたばりつくかと思はれたのである。
「冗談ぢやないんだぜ! 俺はとにかく、たつた……」
最後に椋原孔明氏がからくも斯様に呟いた瞬間は、彼が丁度停車場へ片足辿りついた時であつた。同時にそれは、扨て、これからワシはどこへ行つたらいいんぢやらうといふ皆目目当のない不安が一時にこみあげてきて、胸が全く暗闇になつた時でもあつた。さういふわけで、最後の呟きを洩らした瞬間、彼はもはや全くどうすることもできなくなつたのであらうが、なんの躊躇ふところもなく傍へのベンチへただヘタ〳〵と崩れ落ちたのであつた。──これから先の心境の変化は先刻すでに書いておいた通りである。
椋原孔明氏の第二回目の金策訪問。
はじめに一言断つておかねばならないことは、尊厳な弁護士・椋原孔明氏が再び蝋燭の如き勇気を燃焼せしめて第二回目の出陣にとりかかるためには、ちようどまる九日間といふ完全に何事もしない日数が必要だつたといふことである。そこで椋原孔明氏は何もしないといふことの底知りがたい平和の歓喜をこんなに強く感じたこともないのだつた。まる九日のあひだといふもの殆んど寝床にもぐり通して暮してゐたが、こんな柔らかな幸福には生れてこのかた巡りあつた記憶がなかつた。
第二の人物を訪ねる時には、椋原孔明氏の胎内に臆病といふチャチな悪魔が棲みはじめてゐた。ガサツで気障でにやけた奴だ。
第二の人物氏邸の門前まで辿りついた時のことだが、ガサツな奴め! 鼻持ちならないにやけた根性の瓢六玉で、いきなりクルリと振向くと尻尾を下げて後ろも見ずに走りだした。孔明氏が吃驚して、ドドドドどこへ行くんだ、オオおれの行先はそつちぢやないぜと言つてるうちに一町あまり戻つてしまつて、それですんだと思ひのほか太い畜生があるもので、まるで散歩に来たやうな取済ました面魂で第二の人物氏邸を大廻りに一周した。もしやくしやした孔明氏はこみあげてくる癇癪で涙がでさうになるのであつたが、にやけた根性の瓢六玉はなんとも不快な小人物で、ムッとふくれて顔をそらしてしまふのである。なじられるのが気にいらないといふわけである。
漸くのことで第二の人物に会つてみると、この人物は所用があつて大阪へたつ間際であつた。小人は養ひがたしと云ふことがあるが、キザでにやけた瓢六玉の畜生め、ここでもひどい大間違ひをやらかしたのである。
「なんぢや、用かね?」と、待ち構えてゐた大事な文句をうまいぐあいに第二の人物が言ひだした時に、瓢六玉の青二才! 豚の尻尾! 「いいえ、別段、ヘッヘッヘッ」と、孔明氏が呆気にとられる隙も洒々とぬかしたものだ! そのうへ恥の上塗りで、「お忙しいところをお邪魔しまして、まことにどうもイヤハヤ」なんぞと余計なところで下らん頭をさげたのである。くさつたのが孔明氏で、用もないのに便所へ遁れて荒縄のやうな溜息をもらした。
「然らば──」といふわけで、第二の人物は忽ちスッと立ちあがる、自動車にのる、東京駅へ行つてしまつた。
孔明氏は絶望した。猫イラズにしやうか、瓦斯管を頬ばらうか、いつそ身投げにしてくれやうか。さういふ下品な考へごとが浮んだおかげで、今度は逆に奇蹟のやうな勇猛心が溢れあがり(──といふほどでもないが)まづ、溢れるやうに零れてきたと言つておかうか。そこで突然一大決意をかためると猛然円タクに身を躍らして、蒼然たるあの黄昏の狂燥で東京駅へ駆けつけたのである。
「RORORORO! なアンぢや! 見送りに現れをつたか!」と、第二の人物は暗然たる面持をして心底深く呆れかへつた模様であつた。
「マ、左様なわけで。ヘッヘッヘ」
と、孔明氏は言葉を濁して頭をかいたが、愈々汽車が動きだすとそこは丈夫の一念で一時に血潮がただメラ〳〵と燃えあがり、三千人が(三千円だ)一度に喚きはじめたやうな慌ただしさで汽車諸共に動きながら拳を振つて叫びはじめたのであつた。
「三千円拝借したいと思ふのです。一言よろしいと言ふだけで沢山! イヤ、ほかの言葉は罪ですぜ! 三千円だ! 必要だ! ぜひとも必要! たつた三千円!」
「ウム、三千円か。若干の金額ぢや。生憎当今嚢中逼迫、イヤ、心緒揺落に逢ひ秋声聞くべからざる有様ぢや。秋風落莫諸行無常イヤハヤまことに面目ない次第ぢやて。ワアッハッハ。ある所には山とあるのがこれ又黄白の持前ぢや、天理でナ、ノンビリと探すにしくものはない。イヤモウ人間は一擲千金渾て是れ胆ぢや。嚢中自ら銭有りといふこともあるがな。心配いたすな。大鈞は私力なく万理自ら森着すぢや。イヤ誰しもが黄白には悩みおるて。ワアッハッハッハッハ。安心いたせ!」
と、見る〳〵あちらへ行つてしまつた。汽車の尻尾が消えてしまふと、孔明氏はホッとして振返つた。汗がグッショリ滲んでゐたが、ヤレ〳〵これでひとまづ一難すぎさつたといふ戸惑ひした梟のやうなガサツな平和が流れてきた。──なるほど金談を切りだすに当つて、これ程あと腐れのない好機会といふものは、これを仕事に狙つてゐてもめつたにぶつかるものではない。然し又、断はる方にしてみても、これぐらゐ胸のすくほど快々適な絶好機会といふものは、よつぽど運のいい男が一生涯にたつた一度めぐりあふばかりとある。
第三回目・第四回目・第五回目……それはもう一々語る必要はない。要するに万事万端蹉跌した。さうして椋原孔明氏は蹉跌の回が重なるにつけて、うねうねと曲りくねつた平和の底に深まりこんでゐたのであるが、──話は愈々これからで……
さて、かういふ平和なとある一日のことであつたが、尊厳な弁護士・椋原孔明氏が平和そのものの目覚めをむかへてふと気のついた時であつた。言ひやうもなく絢のある、妖しいまでになまめかしい考へごとが宙ブラリンに浮いてゐて、フォッと眼玉へとびこんでくると脳味噌の中へおさまつた。
「オヤ!」先生やにはに吃驚して跳び起きた。夢ではないかと思つたのである。そこで目玉をこすつてみた。
「冗談ぢやないぜ。人をからかふのもいい加減に、そんな莫迦な……」
と彼はうろ〳〵部屋の中を歩きだした──が夢ではない!
「こりア驚いたな! どうして今迄──わしアびつくりしてしまつたな! こんな手近かな、年中思ひだす男のことを、どうして又今度に限つてフッツリ忘れてゐたのだらうな! やあモウ俺は……こりア人間業ぢやあない!」
いや、驚いたのは孔明先生ばかりではない。私でさへも気絶するほど吃驚仰天したのである。
第一の人物中の第一の人物(──さうだ全く第一の人物中の第一の人物!)地上に二人とかけがえのない大人物を今迄すつかり忘れきつてゐたのではないか! 第一回目の金策は当然この人物へ行くべきもので他の何人へ廻ることも不可解であり、然して見給へ、第二回目と出向く必要はないところの、地上に一人のかけがえのない人物ではないか!
「ウアッ! 畜生! なんて又俺はだらしがなさすぎたんだ! 箆棒め! いくら取りみだしたとはいつたところで、こんな大事な友達のことをどうして今まで……タッハッハ! まるでもう目がくらむ! 気狂ひになりさうだ! 大願成就がやつてきた!」
孔明氏はあまり激しい喜びのために一時はあぶない状態だつた。かういふあぶない喜びは若いうちに誰しも一度は覚えがある。三日ぐらゐといふものは眠れないので愈々俺もこれまでだと厭世的な書置きを書きしたためたりするものだ。
かけがへのない人物は北国の山の底にすんでゐた。金? そんなものは腐るほどある! 三千円──イヤハヤどうも、さりとはケチな話でないか! ワッハッハ! かけがえのない人物は全くもつて意気好みの万事が派手で綺麗な男だ。天性自ら風流を解し人情の秘奥に通じ雑学の大家とある。磊落にして豪放、訪客の絶えざる時は数年といへども觴を持して不眠といふから凄いものだ。尊厳な弁護士・椋原孔明氏とは莫逆の友であつた。ああ、また何をか言はんや。
尊厳な弁護士・椋原孔明氏は旅費の苦面がつかなかつた。──ほんとの話を打ち開けると、苦面しやうとしなかつたのである。人間の顔を見るのはもう沢山だ! かけがえのない人物でも(かういふ愉快な人物は考へただけでもう幸福だ──)わざ〳〵顔を眺めるのはもうブル〳〵だといふ奴で、人癲癇といふこともあるがそれとは余程種類の違ふものである。陽気の加減で神経がおきるといふ奴ではなく、あのブル〳〵を思ひだすと陽気の方まで変つてくるといふ奴だ。人癲癇に覚えはなくとも、こつちの方は誰しも胸に覚えがある。それに尊厳な弁護士は、どういふものか持つて生れた性質で、喋る方は苦手であるが、(稀代の名文!)筆さへとれば鬼神を悩ます自信もあるといふのだつた! 手紙。それの効果を考へると、もう金策は成功以外の何物にもぶつかることのありえぬことが、手にとるやうに分るのである。
彼は手紙をしたためた。手がふるへる胸がふるへるといふことはとかく世間にありがちだ。汗がでる熱がでるといふこともある。然し椋原孔明氏は泰然として騒がざること山岳のごとく、沈思黙考ほしいままに詩神の国をかけめぐつて、あらゆる技巧、あらゆる至妙の殺し文句を総動員した。それはもう完璧とのみ言葉はない。いつかな罠にはかからない銀狐でも、こんな手紙を読んだなら、身ぐるみ脱いで早速毛皮を送つてやらうといふ気になつたに違ひない!
投函した! その瞬間から世界中に大戦争が勃発したに相違ないと思はれる理由は、椋原孔明氏の行く先々では何から何まで殺気立ち、眼が血走り、諸肌ぬいだ緊張ぶりから分るのだつた。けつまづく。背中へ本が落ちてくる、頭へ時計だ、椅子が脛へ喰らひつく。額縁がヒラリ〳〵と壁から壁へとびまはる、あつちでコップが、こつちで瓶がわれはじめる、ボヤがでる、うつかりすると命があぶない。
二日すぎ、三日すぎた。四日・五日となつてくると、アルヂェリアぢやあ五六百万戦死者がある、一週間、世界中の軍艦といふ軍艦があらかた海のもくづと消えて大西洋ぢや土左衛門で海が見えない、二週間、愈々地球もおしまひだ──と、手紙がきた! まさしく返事が来たのである。──
手紙の奴を二本の指につまみあげてフラフラフラッと机の前まで歩いてくると、まつさきに身体全体ぼんやりした。お次がゾッと凍りついて思はずブル〳〵ふるへあがつた。どうしてくれやうこの手紙。どこへ置いても目ざわりだ。一目見るともう心臓がゾッとくる! で、よそみをしながら机の上へ投げだした。振向いて後ろも見ずに窓際へくる、晩春のくつきり澄んだ朝空をみる、青い空! アア畜生! どうも腰骨がガタ〳〵する! 跫音を殺しながら又フラ〳〵と机のところへ戻つてきて、机の周囲を三周四周五周六周・七へん廻つてなんとかといふあのあたりで、これだ! といふ思ひつきがとびだした! さうだ、かうしちやゐられない。上着をかぶる帽子をきる慌てるな窓掛をおろせ。机の方はふりむくな例の奴には目をくれるな鍵をおろせ外へとびだせ。忽ち外へとびだしてホッとしながら空を仰いだ。青空だ!
一直線に公園の中へとびこむと風を切つてグン〳〵歩く。爽快といひ健康といふのはこのことだ。そこで──手紙ア、手紙! 読める! 平気だ! なんのこつた、朝めし前の腹ごなしにもつてこいといふ奴ぢやないか! エエ畜生! なんだつて又ポケットの中へあいつをねぢこんでこなかつたんだ! 千慮の一失、一期の不覚といふ奴で、そこで椋原孔明氏は突然わが家の方をめざして全速力で走りはじめた。──が、机の前まで戻つてくると急にゾッと縮みあがつてブル〳〵ふるへた。どうもいかん! 手紙を掴んだはずの手がどういふものかし雑誌を掴んで戻つてきたので仕方がない、頁をめくつて部屋の中をグルグルグルグル廻つてみる。深呼吸。便所へ行く。水をのむ。──然し丈夫の一念でそこは流石に見上げたものだが、たうとう手紙の封を切つて椅子へどつかり落ちこんだ。そこで次にあるやうな、かけがえのない人物からの大事な手紙を読みはじめた。
なつかしい哉孔明先生
山の奥にも春がきました。谷も径も杜も峠も一様にまだ数尺の残雪がくまなくしきつめてゐるのですが、雪国の春ならで見られない輝やきみちた青空。雪原もかがやき、山もかがやき、中空もかがやき、大空の奥ふかく又輝やける透明が跳ね光り降り、なべてひたすら光らうとのみするやうです。長い陰鬱な雪空におしつぶされてゐた村人は、この青空の訪れをみると全ての用をなげうつて広い雪原へ走りでずにゐられなくなります。彼等は口々に声かぎりの叫びを放ちながら、青空をさして腕を高らかにふりあげ、かゞやきみちた雪原を右往左往にかけめぐるのです。光りに向つてひらかれた甘美なさて又狂燥にみちた官能の唄声、それは嗚呼ひとり里人のみに限られたものではありません。嗚呼木木が嗚呼草が又さうなのです。嗚呼地上にはなほ数尺の残雪が石のやうにかたまりついて張りつめてゐるのに、嗚呼山毛欅の林はやはらかな緑の芽を嗚呼ふきだしてくるのです。半年ぶりに嗚呼新鮮な緑を眺めた里人たちのよろこびは、嗚呼ひたすらな無言、嗚呼身動きすら忘れきつた長い長い凝視によつて表はされるのです。さて又堅い数尺の雪をわれば、嗚呼雪の下にも嗚呼ふるへるやうな青い芽が嗚呼ふきだしてゐるではありませんか。嗚呼季節に向つて孜々として歩きださずにゐられない嗚呼生けるものの嗚呼泪ぐましい意志に打たれて、人々は嗚呼と驚きの叫びを放ちます。その芽をとつて食卓に供へた夜の嗚呼賑やかさ。嗚呼新鮮な味覚。さて又翌日をむかへれば、麓への交通をつけるために里人は山がひの径へ集合しますが、嗚呼勤労の歓喜、彼等は径の雪をわり深い谷底へ嗚呼歓喜の叫びをあげながら突き落とすのです。嗚呼かくて大地を再び見ることの嗚呼感激、嗚呼嗚呼嗚呼。夜は夜で嗚呼生ける季節の祝典のために村芝居の支度にとりかかるのですが、折もあれ嗚呼村一番の義太夫語り鎮守の神主が嗚呼風をひくといふ嗚呼驚きに襲はれます。芝居の初日もさしせまつたこととて嗚呼村人の心痛は一方ならず、村医者は嗚呼枕頭につききり、青年団も嗚呼徹宵看護につとめますが、神主は嗚呼村医者の薬餌には見向かうともせず嗚呼長年の習慣どほりの一升酒でみるみる嗚呼治つてしまふのです。さて又村芝居の始まる頃は嗚呼桜もチラホラ咲きはじめ、やがては又嗚呼泌みるがやうなあの青葉の季節、嗚呼山また山の青葉をわたる広々とした嗚呼爽やかな嗚呼初夏の嗚呼風、嗚呼さては又嗚呼谷底の嗚呼雑草の嗚呼陰に嗚呼顔をだす嗚呼名も知らぬ嗚呼小さな嗚呼花花。さうして全ての残雪が谷の底からも消え去る時は、嗚呼もうあの綿のやうな雲の浮く夏の盛りがきてゐるのです。その夏も亦ひととき。ゆく春や、嗚呼多感多感。
一陣の風となりて消えたるにや杳としてわがますらをの消息知る人もなしといふ
底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第六巻第七号」
1935(昭和10)年7月1日発行
初出:「作品 第六巻第七号」
1935(昭和10)年7月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年5月30日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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