傲慢な眼
坂口安吾
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ある辺鄙な県庁所在地へ、極めて都会的な精神的若さを持つた県知事が赴任してきた。万事が派手であつたので、町の人々を吃驚させたが、間もなく夏休みが来て、東京の学校へ置き残した美くしい一人娘が此の町へ来ると、人々は初めて県知事の偉さを納得した。
一夕町に祭礼があつて、令嬢は夜宮の賑ひを見物に出掛けた。祭の灯に薄ら赤く照らされた雑踏の中で、自分に注がれた多くの眼が令嬢を満足させたが、最後に我慢の出来ない傲岸な眼を発見した。その眼は憧れや羨望や或ひはそれらを裏打した下手な冷笑を装ふものでもなく、一途な傲岸さで焼きつくやうに彼女の顔を睨んでゐた。令嬢は突嗟にその眼を睨み返したが、すると、彼女の激しい意気組を嘲けるやうに、傲岸な眼は無造作に反らされてゐた。その後、同じ眼に数回出会つた。眼は思ひがけない街の一角から、彼女の横顔を射すくめるやうに睨むのであつた。
或日のこと、海から帰るさに、令嬢は道でない砂丘へ登つた。一面に松とポプラの繁茂した林であつたが、その木暗い片隅に三脚を据えで、画布に向つてゐる傲岸な眼を発見した。傲岸な眼は六尺に近い大男であつたのに、破れた小倉のズボンや、汚い学帽によつて、まだ中学生の若さであることが分つた。
その日、令嬢は二人の女中に付添はれてゐた。令嬢は一寸女中達のことも考へてみたが、振向いたりせずに、まつすぐ傲岸な眼の正面へ進んできて立ち止まつた。
「貴方はなぜあたしを憎々しげに睨むのですか?……」
令嬢ははつきりした声で言つた。
少年は幽かに吃驚した色を表はしたが、うつろな眼を画布に向けて、返答をせずに、顔を赭らめた。そして次第に俯向いてしまつた。
「あたしが生息気だと仰有るのですか。それとも、県知事の娘は憎らしいのですか」
併し少年は大きな身体を不器用に丸めて、俯向いたまま、むつと口を噤んでゐた。暫くしてから、困つたやうに、筆を玩びはじめた。
「では──」令嬢は少年の頭へきつぱりした言葉を残した。「二度と睨んだりしませんね!」
そして鋭く振向いて戻りはじめた。併し令嬢が振向く途中に、少年は突嗟に顔を挙げた。そして、傲岸な眼に光を湛えて、刺し抜くやうに彼女を睨んだ。もはや令嬢は振向いてゐたので、どうすることも出来なかつた。
「あの子はきつとお嬢様を思つてゐるのでございませう」と女中は言つた。それは愉快な言葉であつたが、彼女を安心させなかつた。自分はなぜ、あの時再び振向いて、叱責してやらなかつたかと悔まれた。
翌日の同じ時刻に、令嬢は一人で砂丘の林へ行つた。傲岸な眼は果してその場所で画布に向つてゐたが、令嬢を認めると、明らかに狼狽を表して、やり場を失つた視線を画布に落した。令嬢は画布越しに少年のもぢやもぢやした毛髪を視凝めてゐたが、次第に和やかな落付が湧いてきた。
「貴方は此の町の中学生ですか?」と令嬢は訊いた。
「さうです」と少年はぶつきら棒に答へた。
「貴方は画家に成のですか?」
少年はむつつりとして頷いた。そして慌てたやうに画筆を玩りはじめた。令嬢は胸の閊へがとれたやうな楽な気がした。そこで松の根本へ腰を下した。振仰ぐと葉越しに濃厚な夏空が輝いており、砂丘一面に蝉の鳴き澱む物憂い唸りが聞えた。少年はもぢ〳〵してゐたが、軈て写生帳を取出して、俯向きがちに令嬢を描きはじめた。
令嬢は暫く素知らない風をしてゐたが、やがて笑ひながら、あたしを描いてゐますの? と訊くと、少年はむつとした面持で併し小声に、動かないで下さいと呟いた。
暫くしてから、少年には構はずに、令嬢は急に生々と立ち上つて、それをお見せなさい、と命じた。少年は矢張りむつつりしたまま、二三筆手入れをしてのち、黙つて写生帳を差出した。同じ姿が巧に数枚描かれてゐた。令嬢は考へ乍ら一枚々々眺めてゐたが、
「さうね、ぢや、あたしモデルになつてあげるわ。明日の此の時間に新らしいカンヷスを用意して、此処でお待ちなさい」
少年は驚いて令嬢を見上げたが、彼女は少年の返答を待たずに振向いて、木蔭へ走り去つた。
それからの一週間程といふもの、二人は同じ砂丘で、毎日画布を差し挟んで対坐してゐたが、殆ど言葉を交さなかつた。令嬢が微笑しながら話しかける度に少年は怒つた顔をして、さうです、とか、いゝえ、とか、ただそれだけの返答をした。そして、焼けつくやうな眼を、令嬢と画布へ交互に走らせてゐた。
一日急用があつて、令嬢は少年に断りなしに十日程の旅に出た。帰ると、生憎それからの数日は連日の雨であつた。そして慌ただしく夏が終らうとしてゐた。
雨の霽れた昼、令嬢はきらきらするポプラの杜へ登つていつた。いつもの場所へ来てみると、少年は、其処へ据えつけられた彫刻のやうに、黙然と画布に向つて動かずにゐた。
「明日、あたしは東京へ帰るの……」
「もう、一人でも仕上げることが出来ます」
少年はぶつきら棒に答へて、令嬢が姿勢につくことを促すやうに、もう画筆を執り上げてゐた。雨の間に、去り行く夏の慌ただしい凋落が、砂丘一面にも、そして蒼空にも現れてゐて、蝉の音が侘びしげに澱んでゐた。画は令嬢の予期しなかつた美しさに完成に近づいてゐた。別れる時、令嬢は再び言つた。
「もう、お別れね。明日は東京へ帰るの……」
「もう一人でも仕上げることが出来ます」
少年は怒つたやうな、きつぱりした声で、同じことを呟いた。そして、朴訥な手つきで汚い帽子を脱ぐと、大きい身体を丸めて、別れのために不器用な敬礼をした。
翌日令嬢は旅立つた。親しい人々の賑やかな見送りを受けて停車場を出ると、線路沿ひの炎天の下に奇妙な人影を見出して吃驚した。絵具箱を抱えた大きな中学生が電柱に凭れて、むつとした顔をしながら、あの祭礼の日に見出した傲岸な眼を車の中へ射込んでゐた。そして、車が擦れ違つてしまふと、物憂げに振向いて、大きな肩をゆさぶりながら歩いて行つた。
次の冬休みに、令嬢は父の任地へ帰らなかつた。無論、少年にこだはることは莫迦々々しく思はれたし、事実少年に再会するとすれば、不気味千万なものに考へられた。
併し令嬢は、ある喋り疲れた黄昏に、一人の友達へ囁いた。
「あたし、別れた恋人があるの。六尺もある大男だけど、まだ中学生で、絵の天才よ……」
天才といふ言葉を発音した時、令嬢は言ひたいことを全部言ひ尽したやうな、思ひがけない満足を覚えた。なぜなら、此の思ひがけない言葉に由つて、夏の日、砂丘の杜を洩れてきたみづ〳〵しい蒼空を、静かな感傷の中へ玲瓏と思ひ泛べることが出来たから。
底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「都新聞 第一六二一二~一六二一三号」
1933(昭和8)年1月8日~1月9日
初出:「都新聞 第一六二一二~一六二一三号」
1933(昭和8)年1月8日~1月9日
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
2016年4月4日修正
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