海の霧
坂口安吾




 波の上に夜が落ちる。海に沿ふたいしの路に靄の深い街燈の薄明り、夜の暗色と一緒に、むせつぽい磯の匂ひが、急にモヤモヤした液体のやうに、灯のある周囲まわりに浮きながら流れはじめる。ときどき、外国の船員マドロスが、影と言葉を置き去りにして、闇の中へ沈没しながら紛れてしまふ。

 黄昏が下りると、僕はこの路で、自分でも良くは知らない何か思案を反芻しながら、一日に一ぺんづつ家路を辿つた。鮎子も一ぺん家へ帰る。どの路をどんな顔貌かおつきで通つて来るのだか、駈けて来たやうに、いつも騒しく興奮してゐた。白ちやけた電燈の下で僕達の影がもつれ、興醒めた白さが縺れ、くたびれた神経のひびが、虚しい部屋の中で丁度氷の湯気のやうに、一つの柔らかい靄を殆んど幽かに醸しはじめる。僕は冷い水溜り、黙りこくつて片隅の机に頬杖をつきながら、街のあかりに薄く紅紅あかあかと映えてゐる潤んだ夜空に眺め入り、又その奥に何か震へる明日の心を探しはじめる、今日もおわれり、と思ひながら……。

「指が痛むわ、治してよ。アア痛痛……ほんとだぜ、キミ」

 鮎子は時々指を痛めた。翌る夜は頭を、翌る夜は踵を、又翌る夜は齲歯むしばを、目を、肋骨を、肩を、耳を。鮎子は禿鷹の険しい眼差を光らせて敏捷に身構へながら、僕の油断を鋭く窺ふ。或時は窓に凭れて、半身を窓掛に潜ませながら、又或時は壁際に佇んで、少年の息差いきざしをはずませながら、又或時は部屋のさ中に長々と脚を投げ出して、膝と畳にふうわりとしたスカートの、高低のついた柔らかい半円形を描き出しながら。

「指が痛いんだといつたら……。揉んでお呉れつたら……。揉まないと噛みつくぞ」

 僕はお前の高い調子に乗ることが出来ない。僕はお前の指を揉みながら遠い太洋わたつみを百年間も泳ぎ続けて来たやうな、長い疲れに襲はれてしまふ。お前は癇癪を起して僕の頭へ指を突き込む、お前はそれを掻き廻して、イヤといふ程僕を畳へ転がせてしまふ。それでも僕の長い泳ぎは、失はれた藻屑のやうにいつ止むものとも思はれない、僕は深深ふかぶかとした渦巻に酔ひ痴れながら、陥没する木屑のやうに、古い疲れで二つの眼瞼を閉ぢてしまふ。

「陰気坊主! お化け! 間抜け! 弱虫! 意地わる! 気狂ひ! トマト!」

 日本語の語彙ボキャブラリイは、お前を一晩喋らせておく程豊富には作られてゐない、お前は癇癪で目を泣き腫らし、お前自身が分らなくなる、お前は咄嗟に稚児おさなごの心を決めて、爆弾のやうに僕の脾腹へ倒れて落ちる。お前はニヤニヤ笑ひながら、僕と平行に腹這ひに寝てすばやく僕の目の中へお前の笑顔を捩込んでしまふ。

「痛かつて?」

「痛くないこともなかつた」

「近頃健康はいいの……?」

「さう、悪くないこともないが……」

「今日も一日退屈して?……退屈しないこともなかつたのね。ねえ、あたし今日、いろんな事を考へたの……」

 そしてお前はニヤニヤしながら、「いろんな事」を思ひ出せずに探しあぐねて、時々そのまま寝込んでしまふ。僕の近頃は放心が深い、それからの永い夜、僕はお前の寝姿にさへ心付かずに、うつらうつらと物を思ふ、ときどき太く逞しく息を吸ひつつ……。ふとした夜の気配がして、僕は程経てお前の寝顔を発見する、僕は暫く呆然として、不思議に白々と広く虚しい部屋の隅々を見廻しはじめ、やうやく僕の存在と場所と時間に気付き乍ら今しがたお前の探しあぐねてゐた「いろんな事」を思ひ出す、何か不思議な拡がりを持つ胸の痛みと全く一緒に……。

 んな気まぐれな、だらけ切つた生活が、たとへば永劫に続くとしても、悔む心の萌すときは僕にあるまいと考へてゐた、僕の涯無い無気力は、すべて現実に順応することをのみ生き甲斐として、悩みを悩みとも思ふ時はあるまいとその頃僕は考へてゐた。だが、僕達の知らない場所に僕達の心があつて、その日頃ひそやかに成育を遂げ、もはや隠し切れないその決意を或日僕達に顕はした時、僕達は始めて実に驚愕した。──その話を僕は静かに物語りたい……



 同じ悪夢が、夜毎よごと、氾濫したどぶのやうに枕の下を流れて通る。酷い日は白つぽいドロドロの夜を、同じ悪夢で二度に三度に区切られてしまふ。もう悪夢にも退屈して、グショグショに濡れた朝稀に欠伸あくびが出るくらゐ、キナ臭い首を捥いでヂッと凝視めてゐるとタラタラと、二三滴の透明な液体が、変に美くしく掌へこぼれて落ちた。昼は明るい、見渡せば水平線、真昼まひる海が動いて静かに蒼空を吐き出してゐる。僕も僕の湿り気を薄く真つ白い霧にして、静かに沖へ吐き出してしまふと、かびれた古い「昔」だけが、襤褸のやうにヒラヒラと、広い海風に戯れながら僕の顳顬こめかみに張り付いて残つた。「昔」を負うて孤独ひとりの路を喘いでゐる僕は乾涸ひからびた朽木のやうな侘びしさに溺れてしまふ。

 顳顬に凍てついた古い昔の襤褸をほぐす、丁度あのノウノウとした反芻動物のやうに、僕はウラウラとした海岸のベンチや、たまさかに翳りの深い樹の下で、一つづつ食べ直すものの如くに襤褸をほぐすのが日課であつた。母を憎む扼腕やくわん瞿曇こども(それも今は愛誦すべき聖典の類ひか──)、同じ少年を乗せて飴色の広野を走る汽車の窓、黄昏の紫陽花色の雲のさ中を長々と横ざまに這ふ一匹の小蟹が見える、何時の頃何処の記憶か知らないが、半ば崩れた白壁に一つ裸木の物倦げな影が、秋も深くけてゐる、いろいろの顔やいろいろの女、古い埃に煤けほうけて沸沸と浮んで消える映像の中に、やはり鮎子の面影が黴に煤けて一瞬ひととき空を掠めて通る。昨日の心も、今朝の心も、恐らくは又明日の心も、遠い昔の面影と共に、みんな乾涸らびた思ひ出の匂ひにみて僕の全ての現実はたとへば磯にゐて今追憶に耽ることさへ、それも亦古い幻の風景のやう、ゆらゆらと、風に孕まれて鈍い出帆の銅羅どらが鳴るが、それも亦思ひ出された夢の遠さに聴き取れてしまふ、うつらうつらと一握の砂をむすんで、指を洩る一条ひとすじの煙を測る、ひもすがら同じ砂砂を幾度掬んで幾度零すか、何時のに夜が落ちたか、うしおに濡れて僕はぼんやり家へ帰る。

 よる更けて、夜毎に僕は酒場へ通つた。僕の飲む酒はいつもコニャック。様様な苦心をして、チャラチャラと衣嚢かくしいろふ数個の銀貨を、例外なしにみんなコニャックに代へてしまふ。古ぼけた記憶の中に目覚ましい幾つかの太陽があつた、僕の両肩に耳朶とスレスレの軌道を縫ふて忙しく明滅し、取り留めのない毎日が、同じ処に幾日を重ねて来たか、今日と昨日の識別みさかい最早もはや着かない混乱が続いた。僕は時々上を見上げて、深くヂッと考へてみる。すると僕の考へが、急に僕の額から煙のやうに逃げ出してゆく、僕は空洞カラッポの額のなかに、憔悴した僕の頬を、そればかり目瞼一杯に映してしまふ。

 それでゐて、僕の毎日は不思議に鋭く緊張してゐた。誰人の意志が又何故なにゆえにこの不思議な緊張を斯くまで僕に強ふるのか、それを僕は知ることが出来なかつた。知り得ることは、僕の意志では斯の緊張をどうすることも出来はしないといふ事ばかり、僕はただ、日毎に強く張り切つて行く、不思議に休む時もない震幅を感じ続けてばかりゐた。やがて或日、其の緊張に極点が来て止む無く緊張それ自身を破裂せしめる時がある、その時僕はどう成つて何処へ行くのか、それも僕には分らない。僕は毎日怒つたやうな、妙に切迫した怖い顔を結んで、極く稀に、ふとした機勢はずみでしか笑ひ出すことが出来なかつた。誰の物とも思へない不思議に低い笑声が、僕の喉から可笑しなハズミで転げ出て行く、僕は慌てて口を開けるが、喉を駈け出る笑ひの煽りは北風のやうに冷く白い、壁に虚しく木霊した空洞うつろな音はまるで凋んだ風船のやう、部屋の中空をフワフワと浮いて、閉ざし忘れた僕の口へ波紋を描いて戻つて来る、僕は頬つぺたを膨らませて、物も思はず、それをモクモク呑み干してしまふ。

 夜の酒場で、其処でも僕は、怒つたやうな顔貌かおつきを崩すことが出来なかつた。見知らない人達の多くの顔が正面の鏡に居流れて、強い体臭を放ちながらそれぞれの営みを示威してゐるが、近頃僕はそれらの顔に恐怖も羨望ももはや感じはしなかつた。骰子ダイスを振るマドロス、日本語を喋る日本人、絞るやうな笑ひ声、ときどき酒場一杯の喚声が、同じ不図したハズミによつて、鶏小屋のやうなケタタマシイ物音に蒸れたりするが、それでも僕は驚くばかり安心して、僕の孤独ひとりを噛みしめてゐる。親方マスタアが時々僕を慰めに来る、あきらめて、背中を向けて、行つてしまふが、それでも僕の安心は、海のやうにウラウラと深い。

 その頃、永い雨が降り続いてゐた、もう丁度二週間……。時々僕の額から、圧し潰された癇癪が、どす黒い雨雲になつて走り出す、窓から、煙る雨脚を眺めてゐたり眺めてゐなかつたりすると、腐りかけた脊髄を冷いものがタラタラと這ひ滴れて行く。そんな雨降りの毎日にも、僕は外出をめるわけにはゆかなかつた。この三月みつき僕は帽子を被らずに、杖を振り振り街を流れる、雨の日も傘や外套を僕は着けない、赤茶けた髪に風が騒ぎ、屑のやうに額に揺れ、僕の目に雨のしずくを差し落す、冷いものが襟に滲みる其の度に、僕は豪然と肩を聳やかして捩れた足の歩調を取つた。斯様なだらしない服装が僕の趣味だと言ふのではない、なぜだか、不図さうせずにはゐられない不思議な誰かと僕は一緒に住み慣れてゐた。

 雨の日に、矢張りボヤけた黄昏がきた、僕は殆んど無意識に湿つた洋服を着込んでしまふ。部屋も体躯も妙にドロドロと湿つぽい、そして黴れた玄関に、なぜだか僕はヒソヒソと靴を結んで立ち上ると、急にソワソワと白らけた不安がこみあげてくる、足や手が一度にイライラと騒ぎ初めて、ひたすらに収拾し難い混乱が一瞬ときのま僕を絶望へまで導いてしまふ。ふと幽かに、羽搏きに似た何か物音が、耳を澄せば棟の何処かに、繁くバタバタと聴え初める、暗い廊下の片隅に、たとへば濡れた壁の中から誰か知らない金切声が頻りに僕へ叫びはじめる。

「行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ……」

 僕は僅かに心を動かす、暫くは動かずにゐて、僕の黴た靴先へ潤んだ眼差を落しながら、冷えた自分の心臓へ、たとへば一から十の数へ、暫く計測の耳を澄ますが、やがて又、鈍く硬い心になつてフヤケた白色を呑み込んでしまふ。僕は項垂れて扉を開ける、扉を閉ぢる僅かな時に僕はチラリと空をぬすむ、寒々と白くぼやけた雨雲が僕の額に一杯煙る、死んでもいい、何処へ行くのだか知らないが、僕はとにかく出発しやう……僕は何んだか自棄まじりにイヤに大袈裟な決心をする、すると何んだか自棄まじりの熱い涙がこみあげさう……しかし僕は何も考へずに、だから別段泣き出しもせず、杖を振り振りただスタスタと雨の中へもぐり込む。



 僕達は、永い間、切札のやうに一つの言葉を用ひ合つた。「死にたくはないねえ……まだ、生きてゐたいよ、ねえ……」

 僕は本当に死にたくはなかつた。だから僕は斯の言葉をお前に話し掛ける時、その時だけは莫迦のやうに安心して、妙に感慨を鎮めながら言ふのだつた。するとお前は、僕が狡猾に予想してゐたと全く同じに、お前も亦莫迦のやうに安心して、「ほんたうにさうよ、あたし、いつまでも生きてゐたいの……」と笑ひ出すのだ。その時お前は油ぎつた二つの目をキラキラと光らせながら、自分の感慨に溺れるやうに、肩を窄めて皺だらけの口元をしてしまふ。僕達は顔を見合はす、僕達は探り合ふ、そして僕達は、今僕達が純粋な真実ばかり述べ合つたことを相手の心へ押し付けやうと試みる、僕達はいそがはしく深い満足の笑ひ顔をつくり出すのだ。その笑顔を、長い間、僕達は疑ひの目で見直すことを怠つてゐた。僕達は笑ひ顔に馴れてゐない、そのために、下手な笑ひが変な虚構みせかけに思はれるのだと想像し合つた。そして僕達の「死にたくない」心持は、僕達の下手な笑ひが虚構である場合にも、疑はるべきものではないと信じてゐた。そして若し、ある日僕が愚かにも「僕は死を怖れない」と述べたなら、お前は窓へ顔を背けて、潤んだ夜空に尖つた唇を隠しながら、堪へがたい可笑しさを紛らすやうに肩をゆすぶり、劇しい軽蔑を後姿に表はすであらう、恰も僕が濁つた夜の退屈に、ふと思ひ出して、「僕はお前を愛してゐない」と言ふ時のやうに。

 お前の時間と、お前の気持が許しさへすれば、僕は毎日の幾時間をお前と居ても困ることは無かつたのだ。僕は何物にも溶けて紛れるヤクザな外皮を持つてゐた、そして又何物にも溶けやうとしない、一つの頑なな、沈殿物に悩まされてゐた。

 僕達は、稀に波止場へ散歩に出掛けた。見送りの人波に紛れて、僕達は上甲板に、ゆるやかな午後を幾廻りかの散歩に費してゐた。賑やかな船の中にも密集地帯に一定の法則が行はれて、ときどき誰も通らない不思議な場所が隠されてゐた。其処では、細長い板敷の廊下が遠く遥かな海に展け、板壁の白いペンキが廊下と同じ長さに長い、紛れ込んだ人々にふとお饒舌しゃべりを噤ませてしまふ不思議な間抜けさが漂ふてゐた。又其処からは、海の形が画布の中の絵に見えた、僕達は軽くチョット笑ひ合ふ、それからかなり離れて欄干てすりに凭れ、銅羅が鳴るまでの長い間、足をブラブラさせながら、自分一人の海を見てゐる。

 船が動く、海がひろびろとウシロに展ける、黒く蠢めく人波が、長い岩壁に、丁度立ち去つた汽船の長さだけ残る。それらは暫く動かない、ただ少数の人々が、立ち去る船とスレスレに並んで、船の歩調と同じ緩さに合はせながら、岩壁の突端まで、船を見上げて歩いて行く。僕達も船と一緒に歩きはじめる、しかし僕達は下を見て行く、下にテープがもう、寝腐れて藻屑のやう、そして僕達はそんなテープを跨ぎながら、妙に永く記憶に残る会話を交したね。

「えキミ、ボク達は生活を変へやうよ。キミがいつたい良くないんだもの──キミはあんまり乾いてる、ボクきらひ、ボクきらひよ……」

 僕は返事をしなかつた、僕は当惑したやうな、ウルサクて困るやうな、苦笑ひを浮べながら、コツコツと、船と一緒に歩いてゐた、時々、わざと大袈裟に人の背中を避けたりしながら……。しかし僕は鮎子の言葉をハッキリと耳に残して歩いてゐた、そして狡るさうに投げかけたその愛くるしい眼差を反芻しながら、今にも叫び出したい興奮を危ふく苦笑ひに誤魔化してゐた。

「さうだ、僕達は生活を変へなければならない。そして僕達はモット充実した生活を暮さなければ……」

 僕はかう答へたかつた、だが僕は其れを口には言ひ出さない、なぜならば、それを口にした瞬間に、愚かにも僕の目瞼に涙が光る、それを僕は予想することが出来たから。僕は僕の陰性な生活を、常にこれらの愚かな興奮に悩まされて来た、所詮脱け難い僕の陰鬱な生活に、ややともすれば溺れ易い、そして又醒め易い興奮が重い負担を永々と負はせた記憶は、思ひ出しても厭な気がする、その計算に怯える故、それ故僕は躊躇して、この興奮を紛らすわけでも又なかつた。僕はただ、長い長い習慣から、裏と表の組合せのやうに、僕の激しい、興奮をいつも苦笑に噛み潰してしまふ。

 僕達は岩壁の突端に辿りついて、誰もゐない一隅に腰を下した。も一つの隅に、そこまでは船を追うて来た僅かばかりの人群れが、突端の石に爪先を立てて、尚それからも暫くは高々と手を振つてゐるが、やがてガッカリ肩を落して、一塊ひとかたまりづつ散つてしまふ、一人立ち去るその度に、広い海に囲まれて白々と鈍く輝やく岩壁の背がまるで零れた汚点しみを抜くやう、遠い海風うみかぜに吹き渡られて妙に侘しく漂白されるが、たうとう誰も見えなくなつた。

「アアアアア……」

 僕達は、やうやくホッと息をして、表情の死んだ、板のやうな顔を見合はす、その顔を、二人は直ぐに逸らし合ふ、逸らす目の緩く流れた抛物線パラボールには、縹渺とした海の遠さが薄く一杯。二人は下の波を見る、波を伝ひに、だんだん遠い沖へ目をやる。船は港を出やうとして、やるせない程遅鈍な緩さに半廻転を試みてゐた。岩壁から長々と沖へ彎曲した太い航跡ウエーキに泡も消えて、流されてゆく波紋のかしらに時々白い空が揺れた、小さな船が、広い航跡を横切つてゆく。

「アアア、あたし何処かへ飛んで行きたい、知らない国へ、ひとりぽつちで旅をしたいわ……」

「僕も何処かへ飛んできたいや……」

 僕の大きな体躯から、自棄な溜息が漏れて落ちさう。僕はガックリ蒼空を見る、その瞬間をお前はまるで予期したやうにその時険しく僕を睨む、それも一瞬ひととき、お前は素早く瞳を逸らし、鈍く耀やく石畳へ棄て去るやうに其れを落す、お前は息を呑みながら小さく肩を聳やかし、劇しい軽蔑を強調しながら、ふと立ち上つて歩きはじめる。

「あたし何処かへ行きたいの……」

 お前は再び小さな声で、同じ言葉を呟き直す、恰も僕の良心へその呟きを押しつけるやうに。そしてお前は急ぎはじめる、急ぐうちに僕のみ一人侘しく遠い岩壁にさく残して、お前は白い石畳をだんだん早い速力で、ただ一条ひとすじに駈けぬけて行く。

「お待ち……」

 僕は危ふく言ひかけて、ハズミで息をゴクンと呑んだ、お前は其処にもう居ない、お前は小さく凋んでゆく、僕は暫く眺めてゐるが、やがて其処から目を逸らし、海を見て又空を見て、ながながと、欠伸をしたい気持になるのだ。しかし僕も立ち上る、疲れた体躯を一振りして、黙々と顔を伏せながら、お前の後を走りはじめる。僕はやつれた豚のやう、皮膚の中では僕の体躯が、何か重たい荷物のやうに、無器用なをゴトゴト立てて右と左に揺れてゐる、その震動を僕は数へ、時々海を偸み見ながら、長い岩壁をポクポクと駈けてゆく。



 永い雨の二週間、僕の奇妙な緊張は、不思議な速力で育ち初めてゐた。霖雨ながあめのうちに、六月が過ぎて、やはり煙つた七月が来た。すると僕は、もはや六月の僕でなかつた。一日のうちに一日の推移を、二つの瞬間ときに二つの段階を、僕は明らかに感じ分けることが出来た、もうやがて破裂が近い……それはもう僕にとつては概念でない、今明確な感覚に耳を澄ませば、たゆみなく震幅を増す跫音あしおとに、僕の胎内から聴きとれてしまふ。

 破裂とは如何なる結果を意味するか、それが僕には分らない、生きるか死ぬか知らないが、僕の全ての「生命力」を打ち込んで何か一つをやらかしさう、そんな気持がしてならない。その結果、結局僕は死ぬのかも知れない、しかし僕は死にたくない、何故なぜでも僕は生きてゐたい、僕はただ破裂してしまふだけ、それだけは厭でも僕に仕方がなかつた。破裂の結果が死であるなら、それはそれで止むを得ない、みじめな事ではあるけれども、それに怯えない心はあつた。その意味では、今僕は「死も怖れない」と言ふことが出来やう、そして其の意味で言へば、僕は今、僕の切札を変へてもよかつた、「僕は死にたくない、それでも僕は、死も怖くない……」

 昔は僕は、午後の日和に、見送りの人波に紛れてコソコソと船に乗り込んだ、僕は豪奢な社交に酔つて、部屋の片隅に佇んだり、ある時高い人気ない場所に、遠く海へ撒かれてゆく僕の潤んだ哀愁を眺めたりした。僕は今、豪然として船に乗り込む、サロンの丁度中程の、僕は豪華な肱掛椅子に腰を埋めて、部屋の主人であるやうな傲慢無礼な様をしながら、銅羅の鳴るまで身動みじろぎもしない。一人の旅人を取り囲んだ見送人の組組が、一ツ又一ツ僕の鼻先を往来し、稀には僕の肩のあたりに暫く群れて動かずに、ややあつて去る一団もあつた。ときたま二三の人々が僕の姿をふと見出して、咄嗟に声を落してしまふが、間もなく群の空気に紛れて、僕を忘れて行つてしまふ、僕はただ、笑ひもせずに、それを見てゐる。

 僕の悪い風態が、時々僕を交番や、密行の刑事達に誰何すいかさせた。僕はこれまで、交番を、穏やかな心持では通ることが出来なかつた。今は違ふ、西も東も同じ心で、一色の水を泳ぐやうに、僕はひたすら街を流れる。

 霖雨ながあめも終りに近い一日だつた、その日僕達は、東京へ行く電車に乗つた。僕達の正面に、常ならば僕に礼儀を強ふるであらう、綺麗な婦人が乗つてゐた。僕の体躯は雨でグッショリ、僕の心も亦そのやうに、気取る余裕はもう無かつた。杖の柄に僕は劇しく両肱を組み肱の上には不遜な肩を鋭く張つて、がまの形にのめり出しながら、憎々しげに隅の一方を凝視めてゐた。故意ではないが、僕の目は、時々睨む形をつくつた、路傍に濡れた雨垂が、僕の顎から床板に滴れた。僕達は新橋で下車した。

「あんまりお行儀が悪いぢやないか、キミはあんまり──」

「大丈夫だ、大丈夫だ、俺はシッカリしてゐるのだ」

「何が大丈夫なもんか! キミも男なら、恥を知るものよ」

「ウン……俺は大丈夫なんだ──」

 駅の屋根を出切るとき、鮎子は僕を置き去るやうに、激しく息を呑みながら、スタスタと雨脚の中へ駈け込んで行つた。僕は雨具の用意を持たない、僕はドシャ降りの煙を浴びて、鮎子の背筋を噛むやうに追ふた。

 コイツ……僕は鮎子の襟頸を抑へ、劇しく顔を引き戻して、その顔イッパイに睨みつけてやりたいと思つた。僕は劇しく、イライラしながら、それでも怒りを圧し潰して、頬に伝ふ雨のしずくを甜めながら、酔ひ痴れたやうにダラシなく泥濘を歩いてゐた。暫くして鮎子は突然ふりむいた。

「キチガヒ!」

「バカ!」

 お前はまるで皺だらけな、力の脱け切つた顔貌かおつきをして笑つた。その皺に、みんな一条ひとすじ、何か冷い液体が滲み出るやうな顔貌かおつきをしながら……。そしてお前は手を高々と延しながら、やうやくお前に追ひついた僕の体躯を覆ふやうにして、僕を傘に入れて呉れた。

「どうしたの?……近頃変よ、ネ、シッカリして……」

「俺は大丈夫なのだ……」

 僕は長くボンヤリして、表情の死んだ顔貌かおつきをしてゐた。


 それから、太陽のある夏が来た。



 その頃から、こと毎に、お前は僕を憎んだり、軽蔑したりしはじめた。それは時々、徒事ただごとでなかつた。

 僕への深い尊敬の、逆な表現ではあるまいか、僕は時々さう考へた。それは有り得ることだつた、少くとも、お前は僕を怖れはじめてゐた。ヒョッとして──死にたがるのは、むしろお前ではなかつたのか、僕は時々さうも思つた。

 僕はことさら肩を張り、傲然と高く杖を振り振り街を歩いた。お前は空を裂くやうに、鋭く街を渡つてゆく、時々お前の顔貌かおつきは金属性の狐のやうに、硬く冷く尖つて見えた。お前の肩に切られた風が、不思議に綺麗な切断面を迸しらせて、多彩な色と匂ひとで僕のうなじを包んでしまふ、僕はときたま噎せながら、不思議にそれを綺麗だと思つた。


 ──尊敬は恋愛の畢りなり。

 この不思議な逆説を、間もなく僕達は経験した。

底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房

   1999(平成11)年520日初版第1刷発行

底本の親本:「文藝春秋 第九年第九号」

   1931(昭和6)年91日発行

初出:「文藝春秋 第九年第九号」

   1931(昭和6)年91日発行

※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。

入力:tatsuki

校正:伊藤時也

2010年48日作成

2016年44日修正

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