黒谷村
坂口安吾



 矢車凡太が黒谷村を訪れたのは、蜂谷龍然に特殊な友情や、また特別な興味を懐いてゐたためでは無論ない。まして、黒谷村自体に就ては、その出発に先立つて、已に絶望に近いものを感じてゐたのだが、それでも東京に留まるよりはましであると計算して、厭々ながら長い夜汽車に揺られて来たのだ。

 夏が来て、あのうらうらと浮く綿のやうな雲を見ると、山岳へ浸らずにはゐられない放浪癖を、凡太は所有してゐた。あの白い雲がうらうらと浮いて、むやうな山の季節を感じながら、余儀ない理由で都会に足を留めねばならぬとき、彼は一種神経的な激しい涸渇を感じて、五感の各部に妙な渇きを覚えながら、不図不眠症に犯されてしまふ。特別な理由があるわけではないが、彼の半生を二つの風景が支配してゐた。一つは言ふまでもなく山岳であり、そして他の一つは、あのごもごもとした都会の雑踏であつた。この二つの中へまじるとき、彼はただ、何といふこともなく確かに雑るといふ実感がして、深く身体の溶け消えてゆく状態を意識することが出来るのであつた。日頃負ふてゐる重荷をも路傍へ落し忘れて、静かにそして百方へ撒かれてゆく軽快なリズムを、耳を澄ませば一種じんじんと冴えわたる幽かな音響に、聴き分けることも出来るのであつた。彼は元来脆弱な体質で、山に攀挙することの苦痛は並大抵なものではなかつた。しかし山を降りてからのまる一年、またうらうらと雲の浮く季節になるまでといふもの、追憶の中に浮び出る青々とした山脈の姿は、その彷彿とした映像の中に登攀してゐる彼の像が、その時は喘ぎ苦しむこともなく、ただひたひたと四方の明暗に浸透してゆく愉快な実感を認識させるのであつた。山の沈黙にゐて思ひ出す雑踏の慈愛と同様に、雑踏にゐてふと紛れ込む山脈の映像は、恰も目に見え、耳に冴え、皮膚に泌みる高い香気を持つものであつた。それは丁度、使ひ古して疲労困憊した観念が、その故郷ふるさとに帰滅してゆくかのやうな懐しさを持つものであつた。その劇しいのすたるぢいに犯された瞬間に、彼は身体の隅々に強烈な涸渇を感じながら、もしその時この雑踏の中で一つぺんに気絶したなら、何かふうわりとした夢幻的な方法で、次の瞬間にはその身体が山へ運ばれてゐるのではあるまいかと思はれたりした。そんな時だ、手の置き場所が分らなくなつて、手がそれ自身意志を持つ動物であるかのやうに、肩や腰や背や空や、あてどもなく走り出し騒ぎはぢめるのは。──そんな一日のこと、彼は雑踏のさ中で、ふと蜂谷龍然を思ひ出したのだ。それは別に深い意味があるわけではない。彼は旅費が不足してゐた、そして龍然は山奥に棲んでゐた。

 龍然は、学生時代にも、凡太とそれ程親密な間柄ではなかつた。ただ、二人共ほかに親しい級友を持たなかつたので、かなり親しい友達のつもりで、時々往復し合つてゐた。結局卒業してしまふまで、「あります」「あなた」といふやうな敬語を用ひ、相手がうるさくて堪へられない時や酒のうへなぞでは、別段怪しみもせずぞんざいな言葉を、その時だけは極めて自然に使ひ合つたりしてゐた。龍然はとりわけて才のある男でもなく、一見さう見える通り、実際もごく平凡な好人物であるやうにしか考へられなかつた。取柄といへば、意地の悪いところをまるで持たないことと、田舎者じみてゐるくせに、都会的な感覚なり見解なりを、平凡ではあるがしかし本質的に持ち合せてゐたことだつた。龍然は父母もなく妻もない一人者で、黒谷村の橄欖寺かんらんじに若い住職であつたが、凡太がふと彼を思ひ出した瞬間には、まだ一度も見た筈のない龍然の法衣を纏ふた姿が、何等の不思議さも滑稽味もなく歴々と其処へ立ち現れた程、本来坊主くさい男だつた。額をつき合してゐたら、一時間でも退屈するであらうのに、一夏起居を共にするとしたら、考へただけでも重くならざるを得ない、まして、彼の調べた地図によれば、黒谷村は成程山奥には違ひないけれども極くありふれた山間の盆地にすぎないやうであつた。しかし其の年、凡太は次々に起る不愉快な出来事にむしばまれて自棄まぢりの重苦しさを負担してゐたから、東京にゐて憂鬱の尾を噛みしめるよりはまだしもましであらうと考へ、リュックサックを背にして夜汽車に乗り込んでみたが、重荷は汽車の速力にしたがつて深くなるやうにしか思はれなかつた。

 翌朝山間の小駅に下車して、ぽろぽろとこぼれた十人ばかりの人々と屋根もないプラットフオムに取り残されてみると、思ひがけない龍然の姿が出迎へに出てゐた。彼は草鞋を履き、かみしものやうな古めかしい背広服に顔色の悪い丸顔を載せて、零れた人々を一人づつめるやうな格巧をしながら、よろよろと彼を探し廻つてゐた。やがて龍然は彼を認めて、五六間離れたところから片手にぶら下げた何か細長い物をクルクル振り廻しながら、ぼつぼつと歩み寄つてきて「いやあ──」と言つた。此の並はなれてあけ放しな至極あたりまへな物腰が、凡太を全く喫驚びっくりさせたのであつた。そしてその時から、彼はもはや予想して来た重さとはまるで違つた何とはなしに親密な気持へ、自然に転化させられてしまつてゐた。龍然が片手にクルクル振り廻してゐたものは、も一つの草鞋であつた。彼はそれを凡太に履かせて、二人は其処から十里ばかりの山路を歩くのである。

 人の気配のさらに無い山路に尨大な孤独を噛みしめながら、谷風に送られて縹渺ひょうびょうと喘ぐことを、凡太はむしろ好んでゐた。それは苦しいには違ひない、疲労困憊の挙句、えねるぎいといふものを硬質のものを胎内に感じ当てることが出来なくて、汗ばかりべとべとと、まるで身体全体が滴れてゆく粘液自体であるやうに思はれ、仰ぐと、たまらない明るさばかりがカンカン張り詰めてゐて、眩暈めまいがくるくる舞ひ落ちながら、逞しい空虚と太々とした山の心が一度にぐつと暗闇の幕を開く。山一面に蝉の音がぢいーと冴えて、世界中がただそれだけであるやうに感じられてしまふ。流れ込む汗を喰べながら、一種の泥酔状態に落ちて、其処へらの岩陰にへたへたと崩れたならもうそれなりにどうなつても構はない、自分の身体を人の物程も責任を持つ気がなくて、やりきれない自暴自棄で明るい空を仰ぐと、自分といふ一個の存在がみぢめで懐しくて堪らないのだ。

 山路へかかつてものの一里と行かぬ頃から、凡太は已にそんな泥酔状態に落ちてゐたが、不健康な色をした龍然は、しかし馴れてゐると見えて、初めからたどたどしい足取りのまま乱れを見せないのであつた。つれのあることをもはや忘れつくしてゐるもののやうに、沈黙を載せてぽくぽく辿つてゐた。実際、あれだけの長い距離みちのりの間に、二人の人間がお互の存在に意識を持ち合つたのは、谷川へ降りた時あの時一度だけではなかつたのか。思へばあれは、長い距離みちのりの丁度中頃に当る辺りであつたに違ひない、何か目印でもあるのであらう、龍然は突然谷川の曲点カアブを指し示してあそこで休もうではないかと言ひ出した。見下せば、水音はきこえるが、水の色さへ定かには目に映らない深い深い谷であつた。急峻な藪を下る時ひとたび足を滑らしたならば危険極まるものであるし、降りるには降りても、又登る時の苦痛を考へたなら、なまなかの休息には楽しみを予想する気持にもならないのであつた。しかし龍然は言葉を捨てると何の躊躇もなくはや藪の中へ足を降ろしはぢめたので、同じ動作を凡太も亦行はざるを得なかつた。しかし降りはぢめてみると、むしろ危いのは龍然の足どりだつた。彼はしかつめらしい自信顔で凡太を庇ふやうに時々ふり仰ぎながら、そのくせ彼自身危い腰つきで、どどどうつと一二間滑り落ち、辛うじて立ち止ると自分の様子には一向無反省で、いましめの眼をけわしくぢつと凡太の足もとへふり注ぐのが一つの滑稽であつた。此の道を通る時、龍然は恐らくこの同じ場所で同じ休息をとる習慣にちがひない、降り切ると、当然の順序のやうに衣服を脱いで紅葉の枝に懸け、谷川へヂャブヂャブ潜り込んでしまつた。谷川は此の場所だけはかなり広さもあり、深さも場所によつては鳩尾みぞおちまではあるのだつた。龍然は腹を下に両手を拡げてブクブクとやつたり、急に背を下にしてヒラリヒラリと体をかわしながら又腹を下にしてみたり、凡そ泳ぎ以外の色々の術を試みるのであつた。谷底の木暗いしじまで握飯むすびを食べ終ると、龍然は凡太にもすすめておいて、自分は平たい岩塊の上へ仰向けに寝転び、やがて深い睡りに落ちてしまつた。肋骨や手足の関節が目立つて目に泌みるその不健康な裸体を見てゐると、まるで痩衰やせおとろへた河鹿かじかが岩にしみついてゐるやうにしか思へないのであつた。魂などといふものは勿論、およそ「生きてゐる」といふ何等かの証拠を、まつたく何処にも見出すことの出来ない残骸といふ気がした。凡太は睡る気持にもならなかつたので、それから龍然が目を醒ますまでの三時間ばかりといふもの、変に淋しい自棄やけな気持になつて、水へがぼがぼ潜つてみたり、ふと気がついて頭をあげると谷の枝枝に鳴りわたる風音が耳についてきたり、上の藪を這つてゆく縞蛇に出会つたりした。

 二人が黒谷村の峠まで辿りついたとき、もう黄昏も深かつた。熊笹の中から頸だけを延して顧れば、今来た路は幾重もの山波となつて、濃い紫にとつぷりと溶けてゆくのが見えた。山に遠くかなかなの沈む音をききながら峠を降ると、路は今迄とはまるで別な平凡な風景に変つてきた。山といふ山はみな段々の水田に切りひらかれて、その山嶺まで稲の穂が、昼ならば青々と見えるであらう波を蕭条とそよがせてゐた。時々山毛欅ぶなの杜が行く手を脅かすくらいなもので、あの清冽な谷川も、ここではすぐ目の下に、あたりまへの川の低さになつてしまつた。黒谷村字黒谷は、黒谷川に沿ふて一列に並んだ、戸数二百戸に満たない村落であつた。丁度夜がとつぷり落ち切つた頃、二人は村端れの居酒屋を潜つて、意外に安価な地酒をんだ。二階の窓を開け放すと裏手にはすぐ谷川で、たしかに深い山らしい涼しさが、むしろ膚に寒寒と夜気を運んできた。遠くから又遠い奥へ鳴り続いてゐる谷川のせせらぎを越して、いきなり空へぢてゐる山山の逞ましい沈黙が、頭上一杯に圧しつけて酒と一緒に深く滲みてくるのだつた。龍然は不思議に酒に強く、凡太に比較して殆んど酔を表はさなかつたが、時たま思ひ出したやうに、ひどく器用に居酒屋の女中を揶揄からかつたりした。それがその瞬間には板についてゐて、驚くと、度胆を抜かれた瞬間には、もうもとの妙に取り澄してゐる彼の風貌が、それはそれなりに龍然そのものであつた。凡太はむやみに面白くなつて、慎みを忘れて泥酔してしまつた。居酒屋の女中は酔つた凡太をとらへて、しきりに婬をすすめるのであつた。挨拶に出て来た年老いた内儀もそれへ雑つて、

「和尚さんはいい人がおありですからおすすめはしませんが、客人はぜひ今夜はこちらへお宿りなさい」

 なぞと、あたりまへの挨拶のやうに述べるのであつた。

「来るさうさうから余り立派な記念でもないから、今夜だけは寺でねる方がいいさ」

 龍然は洒脱な物腰で、彼のためにそんな断りを述べた。女達のさわがしい二の句を一つ残さず断ち切つて、巧みに話題をそらしてしまふ程それは苦労人らしい物腰で、女達は「和尚さんの意地わる……」なぞと言ひながら、龍然の口ぶりを面白がつて笑ひ崩れてしまつた。二人は賑やかな見送りを受けて居酒屋を立ち去つたのだ。それは実際賑やかな見送りと言ふべきであつた。なぜならば、其処にだけ一塊の喚声が群れてゐて、それをすつぽりと包んだ、一面の暗闇はただしんしんとするばかり、その喚声のすぐ周囲でさへ、耳を澄ませども見えるもの聴えるものは無いからだつた。やがて暫くして、深い谷音ばかりはつきり耳についてきた。──これは、凡太が黒谷村へ足を踏み入れた第一日の印象だつた。居ついてみると、一見平凡な黒谷村も、変に味はひのある村だつた。

 黒谷村は猥褻な村であつた。気楽な程のんびりとした色情が、──さう思つて見れば、蒼空にも森林にも草原にも、だらしなく思はれる程間の抜けた明るさを漂はしてゐた。凡太は一日、山の段々畑をいくつか越えて何気なく足を速めて逍遥してゐると、穂の間から上半身をあらわした若い農婦がだしぬけに顔をあげて、健康な(HALLOO!)を彼の背中へ叫びかけた。凡太は丁度山嶺に片足を踏みかけてゐたので、ふりかへると遠くはるかな風景が、その中へ農婦の姿をも点描して深々と目にしみてきた。彼は壮快を感じて元気一杯な(HALLOO!)を返しながら山の裏側へ消え込んでしまつたが、考へてみると一つ足りない気持があつた。その夜、その話を龍然にしてみると、果せるかな、これは夜這ひへ誘ふ黒谷村一般の招辞であるといふのだつた。さう言はれてみれば、ある日のこと、尾根伝ひに国境へ通ふ風景の良い路で、わらびを乾してゐる娘から明らかに秋波を送られた経験もあつた。その後凡太は、色々の場所に色々な様式で、之と同じ事情に幾度となく遭遇した。しかしそれは、猥褻と呼ぶには当らない、むしろ透明とか悠久とか、そんな漠然とした親密な名辞で呼ぶにふさわしい程凡太の胆に奥深く触れて来るものがあつた。其は単に隠されてゐるものを明るみへ曝したといふばかりで、むしろ徹底した気楽さが、たとへば振り仰ぐ空の明るさのやうに、坦々として其処に流れ、展開してゐるにすぎない。一年のなかばは雪に鎖され、残りのなかばさへ太陽を見ることはさしてしばしばでないこの村落では、気候のしみが人間の感情にもはつきり滲み出て来るのだつた。夏も亦一瞬ひとときである。あの空も、あの太陽も、又あのうらうらとした草原も樹も。……さういふ果敢無はかなさが慌ただしい色情の裏側に、むしろうら悲しくやるせない刻印を押してゐるやうに思はれて、物の哀れとも言ふべきものが、侘しく胸に泌みて来るばかりであつた。そして凡太は、さういふ色情の世界に居つくと、途方もない気楽さを感じ初めて来たのだつた。それは単に村の風俗に就てばかりではない、この平凡な盆地の山も木も谷も、それら全体にわたつて、じつとりと心に響く一つの風韻がわいてきたのだつた。それは凡太の好色に汚名をきせるのも一理窟ではあるが、いつたい凡太は、この旅の出発に当つて、期するところ余りにも少なかつたのがこの際大きな儲け物であつたのだ。それには橄欖寺の住み心持も、黒谷村の風韻から別にして計算してはならなかつた。

 黒谷村逗留の第一夜、龍然から与へられた橄欖寺の離れにおさまつてみると、その瞬間から已に借物といふ感じはせずに、いつか昔棲み古したことのある自分の家といふ気楽さだけが意味もなく感ぜられてならなかつた。寺には龍然のほかに使用人も無かつたし、その龍然とも必要のない限りは顔を合はさずにも暮すことが出来たし、顔を合したところで、龍然の方では凡太を別に客らしい意識では待遇もしなかつたので、食事なぞも好きな時に台所へ探しに行ければそれでよかつた。時々むしろ龍然の方で、彼が遊びに訪れたやうな顔付で凡太の離れを訪問するが、実際それは拵へ物でも謙譲でも、まして卑屈でもなく、第一凡太にしてからがその時は龍然の方が遠路の客人であるとしか考へられないのであつた。二人は寝転んだまま何の話も交へないで、ただ漫然と二時間三時間を過すこともあつたが、出発する前に予想したやうな退屈や気づまりは全く感ずることも無かつたし、そのうちに二人とも睡り込んで、やがて一方が目を醒して散歩に出てしまふと、間もなく一方も目を醒して、がらんとした寺の空虚を噛みしめながら、初めから自分一人で其処に寝てゐたやうに考へながら自分の営みに立ち去つてしまふ。この気楽さから身体を運び出して漠然と黒谷村を彷徨すれば、村がいかにものんびりと胸に滲みるのは尤もな話であつたが、それにも増して、本来橄欖寺そのものの内側にも淫靡な靄が漂ふてゐたから……。それは毎晩のことだつた、気のせいか、多少は音を憚かる跫音あしおとが、しかしかつかつといしだたみを鳴らしながら、山門を潜つて龍然の書院へ消え去るが、それは夜毎にここへ通ふ龍然の情婦であつた。もとより龍然は、わざと情婦を凡太に紹介することもしなかつたけれど、さりとて隠し立てするわけでは無論ない、静かすぎる山奥の夜であるから、うむうむと頷く声が聴えたり、日本の裏手は北亜米利加アメリカではないだらう等と、愚にもつかない話声も洩れてきたりするが、流石にまれには女の泣く音も聴えたりしてそれらしい情景を想像させることもあつた。激しい嗚咽が長長と消えない夜も、龍然は別に凡太の手前をつくろつて、それを隠しだてる気配も立てはしなかつた。彼の方でもことさらに聴き耳を立てるわけではなかつたから、つぢつまの合はない物音が時たまぽつんと零れてくる程にしか過ぎない、恋といふ感じよりは、どう思ひめぐらしてみても尋常の人の世の営みを越えた刺激は全く受けることがなかつた。ただ女が、農婦よりはいくらか程度の高い教養を持つ人であることを、薄々感じることが出来てゐた。それだけの話で、かなり長い後まで、女の名前は勿論、女の顔さへ見知ることなく過してゐた。さういへば、一度だけその後姿を見かけた黄昏があつた。それは二人が打ち連れて間道を抜けながら隣字となりあざの温泉──といつても一軒の宿屋が一つの湯槽を抱えてゐるにすぎないのであるが──へ浸りに行く途中のこと、丁度本道と間道との分かれ路にあたる鬱蒼とした杉並木で、本道を歩いて村へ帰る束髪にした女人の大柄な形をみとめたのであつた。三本路のことであるから、別に擦れ違つたのでもなく特別な注意もしてゐなかつたので、凡太はその顔を見なかつたが、暫くして、あれが俺の女で苫屋由良といふ名前だと龍然はふと言ひすてた。実はその時、ほんのわづかではあつたが、まだそれを口に出さない龍然の沈黙の数秒の間に、已にそれを感じさせる何がなしの感傷があつたので、凡太は疾くそれを悟ることができて、どんよりと澱んだ黄昏のなかへ波紋を画きながら拡がつてゆく太い憂鬱を味はつてゐた。そして龍然が口を切るまでの短い沈黙を、堪えがたい長さに圧しつけられてゐたので、その言葉をきいた時にははや振り返る気持にもならなかつた。しかしとにかく振り向いて、女の後姿よりはむしろその前方に暮れかかつてゐる已に漠然とした山山の紫を、ぢつと目に入れて頸を戻したのであつた。それでも気のついた限りでいへば、女は浴衣をきてゐたが、その着こなしが確かに都会生活を経てきたにちがひない面影をあらわしてゐた。ただそれだけの観察であつた。二人は又こつこつと狭い間道を歩いて、その時もはや龍然の物腰にはいつもの残骸といふ感じしか見当てることは出来なかつたが、しかし凡太の心には、深い哀愁が長く長く尾をひいて消え去らなかつた。一体この朝夕、龍然の超然とした物腰には、隠しがたい陰惨な影がほのかに滲み出てゐることを、凡太は見逃すわけにいかなかつた。凡太の思ふには、これは一つには女の事情でもあらうと一人心に決めてゐたために、そのために何故ともなく、淋しい思ひが尚強く胸にこたへてきた。しかし温泉で酒をくんでも、女の話には、もはや龍然は一言だにふれなかつた。

 いつとはなく盆に近い季節となつて、夜毎に盆踊りの太鼓が山の上に鳴りつづいてゐた。盆とはいへ、この辺りでは八月にそれを行ふ習慣であるから、もう夏もすつかりけて、ことに昼は蝉の音にさへ深い哀愁が流れてゐた。その朝、龍然は五里ばかり離れた隣村の豪家から使ひを受けて、かねて知り合ひの其処の次男が急死したために、通夜に招かれて一泊の旅に出掛けてしまつた。ただ一人ぼんやりと夜を迎へたら、かなかなと共にとつぷり落ちた夜の太さに堪らない気持がして、かねて馴染の居酒屋へ酔ひに行こうかとも思案したけれども、尚満ち足らぬ気持があつたので、凡太はガランとした本堂へ意味もなくぐつたり坐り込んでゐた。燈明を点してみたり、又一度坐り直して暫らくして、又立ち上つて冷い床板をぐるぐる歩き廻つたりしてゐるうちに、橄欖院呑草居士といふ位牌を一つ、もう埃にまみれてゐるものを見出したのであつた。彼はぢつと考へて、又一度坐り直したが、いつの間にやら夢の心持で、経文を唱へはぢめてゐた。彼は坊主ではなかつたが、学生時代には印度哲学を専攻したために、二三の短い経文はおぼろげながらそらんじてゐたから。一体位牌そのものの出現が孤独を満喫してゐる凡太にとつて少なからぬ神秘であつたのに、以前彼は龍然からこの寺の先住に就て妙な話をきかされてゐた。それは一応噴飯に価する無稽な話に思はれたが、笑ふ相手もなく孤りでゐるこの時には、別に滑稽味もなく素直に先住の面影が浮んできた。それ故凡太は、噴き出すこともせずに、こんなしかつべらしい端坐を組んで誦経をやり出したのであつた。その話といふのはこうであつた。橄欖寺の先々代は学識秀でた老僧であつたが、酒と茹蛸ゆでだこが好物で、本堂に賭博を開いては文字通り寺銭を稼いで一酔の資とするのが趣味であつた。町へ出る度に、茹蛸を仕入れて帰るのが楽しみであつたが、一日、まるまるとした入道を仕入れたので満悦して山門をくぐつた。その夜も賭博があつて、和尚は焦燥を殺してゐたが、夜が白んで一同全く立去つてしまふと大いに満足して庫裏へ出掛けて行つた。さて、がたがたと鳴る重い戸棚をやうやくに開けて、ぼやけた雪洞ぼんぼりをふと差し入れて見たところが、棚の片隅にぴつたりと身を寄せて、まるまるとした茹蛸は大変まぢめな顔をして自分の足をもぐもぐ喰べてゐる最中であつた。蛸は真面目であつたから、暫くの後やうやく燈りを受けてゐることに気づいて、ひどく恥ぢらつて赤らみながら顔を背けてむつとしたが、和尚は喫驚びっくりしてモヂモヂと立ち去ることを忘れてゐたものだから、蛸はぷんと拗て軽蔑を顔に顕はし、食へ、といふやうに一本の見事な足を和尚の鼻先へぬつと突き延した。和尚は大いに狼狽して、そそくさと小腰をかがめ、命ぜられる通りこれを切り取つてうろたへながら本堂へ戻りついたが、とにかく変てこな気持と共に之をモクモク呑み込んでしまつた。その翌日から和尚は全く発狂して、やたらと女をペロペロめたがり乍ら、間もなく黄泉の客となつた。と、そんな話を一夜龍然はぽつぽつと凡太に語つた。凡太はこの話をきいて、あまり面白い話なのでこれはつくり話であらうと直ぐさま思ひついたから、笑ひながらさう龍然に訊ねてみると、彼もあはあはと笑ひながら暫く黙つてゐたが、とにかく蛸に色情を感じたのは坊主らしくて面白いではないか、と照れ隠しのやうな真顔でさう言つた。その言葉は不思議に劇しい実感を含んでゐたので、そのとき凡太は忘れ難い感銘を、深く頭に泌みこませてしまつた。恐らく龍然の女は軟体動物に似た皮膚を持つ肉体美の女であらうと、そのとき凡太は即座にさう決めた。そして彼はこんな好色な話題を交しながら、猥褻とはまるで別な、やるせない一脈の寂寥を龍然の残骸から感ぜずにはゐられなかつたのだ。──そして事実、龍然の女はたしかに肉体実の女であつた。なぜに分るかといへば、この静かな夜本堂に経文をあげてゐたら、凡太はゆくりなく苫屋由良の来訪を受けたからであつた。

「矢車さん矢車さん……」

 はぢめはさういふ声を幻聴のやうに凡太はきき流してゐたが、するとすぐ、「ごま化しながらお経をあげてゐますこと」といふ声が、個性を帯びてはつきり背筋に触れてきた。凡太は愕然として振り返ると、本堂の丸柱と並んで、大柄な女が一人うつすらと立ちはだかつてゐた。凡太はあまり不思議なことなので……いや、不思議とはいふもののこれは情景の説明ではない、凡太の意識内容の説明であるが、この突瑳とっさの瞬間に、彼はしばらく気抜けのやうな驚愕を味得して、呆然としたままその思惟を一時に中絶してしまつた。元来、これは必ずしも定則ではないけれども、凡太はしばしば孤独に耽つてゐる折、突然人像の出現に脅やかされるとき、現前に転来した事実とはまるで別な一種不可解な無音無色の世界へ踏み迷ふことがあつた。それは出現した人間の個人の個性とは凡そ無関係なもので、第一その場合その人を多少なりとも認識したものかどうかさへ疑はしい程突瑳な瞬間の出来事であるが、なぜかぎよつとして、ばたばたばたと転落する気配を感ずるうちに、自分一人の何物かを深く鋭くぢいつと見凝めてしまふのであつた。もはやその時それは一種の夢にちがひない、突然開かれたその門を茫漠と歩いてゐるうちに、凡太は彼の一生に於て、恐らくは最も孤独な、あらゆる因果を超越してただ寂漠と迫まつてくる一つの虚無──、何か永劫に続いてゐる単調な波動を、やりきれぬ程その全身に深々と味つてしまふのであつた。暫くして彼はその状態から覚醒しはぢめるとき、まづ何事か熱心に暗中模索を試みる情緒の蠕動を感じて、やがてしんしんと澄みきつてゐる白板の中へ次第にありありと現像する外界を漸次再認するのであつたが、彼はこの夜もその同じ過程ぷろせすを経過して、漸次現実の静寂が耳につきはぢめてくると、其の時その静かな夜気の中にふと湧き出でて次第に波紋を拡げてゆく狂燥な笑ひ声を鋭く耳に聴いた。しかし彼は、この覚醒の瞬間に於ては、もはや絶対に物に驚くといふ心情を消失してゐる習慣であつたから、泰然としてがまのやうに蹲くまりながら、ぢつと下から由良の顔を見上げた。

「あなたもいくらか気狂ひですね。龍然もやはり気狂ひです……」

 由良のぺらぺらと流れる癇高い声を聴きながら、彼はしかしこのふくよかな肉附を持つた女が、粗雑な言葉とは全く逆に妙に古風な瓜核うりざね顔をしてゐること、それは古い絵草紙の人物のやうな一種間の抜けたおとなしささへ表はしてゐること、かなり酒に酔ひ痴れてゐること等を一纏めに感じ当ててゐた。凡太はどうしたはずみか、大変まぢめに端座して「僕は気狂ひではありません」とごもごも答へてからはぢめて我に返つたが、女はその声にはまるで構はず、左手をまずべつとりと床板につき下して重心をそこへ移しながら、崩れるやうに腰を落して両足を投げ出した。

「今晩は。はぢめてお目にかかりましたね」

「今晩は。はぢめてお目にかかりました」

「龍然は留守でせう──?」

「今夜は帰るまいと思ひます。御存知ですか?」

「出掛けるとき、さう教へに来ましたから──」

「ああ成程──」と凡太は当然なことに暫く慚愧ざんきして耳を伏せたが、つらつら思ひめぐらすにこれは当然慚愧するには当らない根拠があると気がついた。龍然は今朝早く使ひを受けると、特別に支度を必要としない男のことだから、已に魂は遠く無しといふ骸骨にポクポクと跫音をひびかせて、すぐさま山門から空間の方へ消失してしまつたが、あの姿で女のところへ留守を知らせに立ち廻るほど繊細な精神を含蓄してゐやうとは、これは実際奇蹟であり不合理であり驚愕であり滑稽であり、──そして、考へてみれば胸にこたへてくるものがあつた。凡太は長嘆息を噛み殺して白い顔をした。

「龍然はわたしをずい分可愛がつてゐますわ」

「さうですね。そのやうに見えますね。僕は友達といふのは名ばかりで、ろくすつぽ話もしたことがないのですし、同じ寺に寝起きしてゐても二三日顔を合はさずに暮すことさへよくあるくらいですから、あの男に就ては実際のところ何も知つてゐないのです」

「龍然は、でも、あんまり悧巧な男ではありませんわね。冷たくて冷たくて、時々ぼんやり何か考へごとをしてゐてやり切れないのです。妾を可愛がるのもいいけれど、とにかくさういふ気持を自分で反省するとき淋しい自己嫌悪を感じるのは苦痛だから、可愛くても可愛いいというふうに思ふのは厭だ厭だと言ふのですわ。それでゐて気狂ひのやうに劇しく妾を抱くのです。龍然の淋しい気持は妾にも大概分りますけれど、表へ出す冷たさが妾にはあき足らないのです。龍然は莫迦野郎ですわね。龍然はほんとうに莫迦野郎ですから、妾は別れる気持になりました──」

「ははあ……それは今朝のことですか──?」

「いいえ、ずつと昔からですわ。でも、ほんとうに決めたのはたつた今しがたなんですわ。村に女衒が来てゐるのです。三月と盆は女衒の書き入れ時ですから。妾はずつと昔にも一度女衒に連れられて村を出たことがありました。お分りですか? 凡太さん……妾は今も女衒と一緒に寝てきました。あははははは……嘘嘘嘘、一緒に酒をのんできただけ……」

 由良は床板に強く支へてゐた両腕をするすると滑らして、横に倒れると一本のだらしない棒となつてねてしまつた。

「女衒は上玉だつて大悦びでしたわ。妾はそれを教へてあげに此処へ来たのです──」

「僕にですか──?」

「さう。誰にだつて教へてやりたいから、あなたにも教へてやりに」

 由良は顔を拾ふやうに持ち上げたが、又それを両腕の中へすつぽりと落して、もう拾ひあげやうとはしなかつた。かなり深く酔ひ痴れてゐるのだ。そこで凡太はぢつと腕を拱いて、──実は途方もない別なことを、一心に考へ初めたのであつた。いや、別なことを考へはぢめたと言ふよりは、何も考へない思惟の中絶へ迷ひ込んだと呼ぶ方がむしろこの際又しても正しいのであつた。凡太はこの数年来、常に現前の事実には充分に浸ることが出来なくて、全てが追憶となつてから、その時の幻を描き出してのち、はぢめて微細な情緒や、或ひは場面全体の裏面を流れてゐた漠然たる雰囲気のごときものを、面白く感じ出す不運な習慣に犯されてゐた。ありていに言へば、この男は如何なる面白い瞬間にも、それに直面してゐる限りは常に退屈しきつてゐて、今のことではない、その昔経験した一場面の雰囲気へ、何時いつともなしにぼんやりと紛れ込んでしまつてゐる。音楽をきいてゐてさへ、スポオツを見てゐてさへ、無論矢張りそれはその通りで、現在ショパンの音楽をききながら、それにすつかり退屈を感じて、いつか聴いたモツアルトの旋律を思ひ出してそれにうつとり傾聴してゐたり、一塁の走者を見てゐながら頭の中ではそれを三塁へ置いて盛んに本塁盗塁ホオムスチイルを企てさせて興奮してゐたり、さういふ芸当は日常茶飯のことで、それでゐてショパンの音楽を聴いてゐなかつたわけでもない証拠には、他日又その瞬間を実に楽しく彷彿と思ひ出して来るのであつた。ショパンはいい、ショパンの音楽は実に素敵だと夢を追ふやうに慌ただしく知人達に吹聴しながらショパンの演奏される日を待ちかねて音楽会場へ殺到するのだが、さて腰を下してぢつとしてゐると幕も上らぬ頃から又してものべつ幕なしにうんざりと退屈しきつて、演奏の終る時までやたらに別のことばかり考へてしまふ。興奮することを知らない男かと言へば、それは断じてさうでない、ただ、大いに激昂して叫喚乱舞に耽溺してゐる最中に、興奮してゐることそれに就て波のやうな退屈を感得し、落胆がっかりしてしまふのであつた。

 由良の肢体はだらしなく床板の上に寝そべつてゐたが、凡太の丹誠によるほのかな燈明のおかげで、幸ひそれは人魚のやうに可憐に縹渺として童話風な恋情をそそつた。凡太は腕を拱いて空間を凝視してゐたが、やがて波のじつとりと落ちた広い広い海原に、倉皇と海面みのもを走る遥かな落日を、その皮膚にすぐ近くひたひたと感じはぢめてゐた。それは遥かな海であつた、已にとつぷりと暮れた東南の紫は次第に深くくろずみ渡り、西方の水平線にはわづかに残る薄明がひろい寂寥を放つてゐたが、そのとき、深くうなだれた一人の男が永遠に帰らんとするものの如く、足を速めて西へ西へ海原を歩くすがたを見出してゐた。鋭い影は一線に海を流れてすでに深いうしろの闇に溶け去つてゐるが、男はそのただ一つなる決意のみを心とする人の如く、ひたすらに帰らんとして疲れた足をいそがせてゐる、しばらくして、ものに怯えた人の如く、男はふと頸をめぐらしてうしろの闇をぬすみみた、そして……うう、「如是我聞、如是我聞──」、算を乱して逃亡する自我の滅裂を感じながら、居ずまひを立て直した凡太は、勇気をかりおこして経文を呟きはぢめたのであつた。それも亦束の間のこと、ぶつぶつ煮える呟きも次第に低く引き去れば、山上の金比羅大明神の前栽に鳴りひびく盆踊の樽太鼓のみ、静かに脊髄に泌みついてきた。そのとき由良ももつくりと起きた、暫らく手をゆかについて、重たげな頭をぢつと下に向けながら、様々な音響を耳にこまかく選りわけてゐるやうな形であつた。

「踊りの太鼓がきこえますわね……」

「さう、トントントトトトトントン……と、はあ、きこえる」

「行つてみませうか」

 由良はふらふら立ち上つて、燈明の方をぢつと見てゐたが、がつかりして笑ひ出した。

「ほら、燈明をぢつと凝視めてごらんなさい。くすぐつたいやうに、ちろちろ気どつて揺れはぢめる……気のせいばかりぢや、ありませんわね。厭な奴。ああああ──」

 歩き出してみると、凡太の杞憂したほど由良の歩行は乱れてゐなかつた。風は死んでゐたが、夜気そのものが冷え冷えと膚に迫つて、その度に冥想すべき何等かの思考力を植え落してゆくもののやうな、沈鬱な過程ぷろせすが感ぜられた。橄欖寺の裏手から墓地を抜けると、杉並木の嶮しい間道がものの四五丁もして、やがて鬱蒼と山毛欅ぶなの林に囲まれた金比羅大明神へ続くのであつた。歩いて行く先々さきざきにぷつんと杜切れる虫の音は、その突然の空虚むなしさで凡太の心をおびやかして、その激しい無音状態がむしろうるさく堪えがたい饒舌に思はれてくる、なぜかと言へば自分自身の精神が湧く波の如く饒舌なものになりはぢめるから。零れ落ちる月明を頼りに、やうやく山毛欅のこんもりとした金比羅山の麓まで辿りつくと、それらしい燈火は何一つとして洩れて来なかつたが、ごやごやした人群の喚声が、葉越はごしに近くききとれた。その山へ差しかかつてはぢめて、かなり劇しく喘へぎ出した由良を助けながら、境内の平地へ一足かけてぬつと頭をつき出すと、群れてゐる群集の分量とは逆に、点つてゐる提灯の燈りは思ひがけないほど乏しい数だつた。ぼんやりと浮かび出てゐる薄ら赤い明りから人群の大部分はむしろはみ出しており、外側からは無論見えない樽太鼓を中に、村の衆は男女を問はず広い花笠に紅色の襷をかけて、唄ともつかぬ盆唄を祈祷のやうに呟きながら、単調な円舞ライゲンを踊つてゐた。それは実際 der Reigen と呼ぶにふさわしいものであつた。九月にはもう劇しい雨雲の往来、やがて山といふ山の木木に葉といふ葉が落ちつくして、裸の枝ばかり低い空一面に撒きちらされた山を、いそがしく落葉をたたいて時雨が通る、十一月も終る頃にはもはやとつぷりと雪に鎖されて、年かわり、山の曲路かあぶに煤けた吹き溜りの雪がやうやく蒼空に消え失せるときはもう五月、明るい空を山一杯にほつと仰ぐともう夏の盛りが来てゐた。一年の大部分は陰惨な雲に塗りつぶされて、太陽の光を仰ぐといふことは一年にただ一回の季節であつた。瞬時ときのまにその夏も亦暮れる、そして生活も暮れてしまふ、蒼い空の在ることをさへ忘れつくして、湿つた藁屋根の下に村人たちが呟くであらう嗄れた溜息が、明るい夏空の裏側に透明な波動となつて見え透いてゐる。黄昏に似た慌ただしさで暮れてゆく一瞬ひとときの夏に追ひ縋つて、あの蝉の音に近い狂燥を村の人達は金比羅山に踊るのであつた。同じ気候のしみを負ふて、鈴蘭の咲くころ、乙女達が手を執りながら青い草原に踊る北欧のライゲンは、凡太の古来最も共鳴を感ずる一情景で、凡太は彼自身の心細い生存を、このやうに甘美な狂燥と共に空へ撒きすてて死滅へまでの連鎖を辿りたいと、日頃念願して止まなかつた。彼が止みがたい放浪を感ずるのも、一つにはこの狂燥のしみが、あまりやるせないリズムを低く響かせるから。──凡太は金比羅大明神の前栽に、深く深く流れてゐる感慨の香気に噎びながら、それに溶けてゆく無我のよろこびを感じた。

 円舞をとりまいてゐる観衆の円陣を、さらに二人は遠くから黙々と一廻りした。このとき、しかし凡太の浸つてゐた静かな雰囲気は、さう長くは続かなかつた。──暗い群衆の中頃から一つの頭がゆらゆらと揺れて出て、由良の背中を追ふて来たが、「姐さん、一寸お願ひが……、」そんな低い声を耳にしたまま、凡太はしかし一人五六歩ばかりなほ前方へ歩きすぎて静かに振り向いた。それは、角帯に頭を商人風に当つた、一見どこやらの番頭といふ風態の小男であつた。二人の男女は早口に何か二三受け答へしてゐたかと思ふうちに、由良は間もなくさつさと男から離れて凡太の方へ近寄つて来たが、その顔には気の抜けきつて感情といふもののまるで無い白さを漂はして、ぢつと凡太と向き合はせた。

「さよなら……」

「さよなら」

「──あいつ、さつきお話した女衒……」

「女衒?──」

 その時由良はもう振り向いて──背中を彼等二人の方へ向けながら、一人ぶらぶら群衆から離れて空を見ながらぶらついてゐる女衒の方へ、歩き出してゐた。見てゐると、二人は何事かひそひそ相談してゐたが、やがて女衒はまだその方をぼんやり見つめてゐる凡太の姿に気づいて、遠くから会釈した。凡太はひどく狼狽してそそくさ会釈を返したが、気まづくなつたので、一人ぽくぽくと又一度かなり大きい円陣を、時々立ち止つては中の踊りを覗き込みながら歩いた。それから、思ひ切つて金比羅山を振り棄てると、いま登つてきた坂道をすたすたと黒い黒い塊の中へ速足はやあしで下りはぢめたが、自然の加速度で猛烈な速力となり麓までは夢のうちに降りたまま、麓でも止まることが出来ずに次の坂道へ十歩ほど余勢で駈けてほつと止つた。凡太は其処から、何の気もなく今駈け降りた山を振り仰いだが、もはや群衆の喚声もさだかではなかつたし、燈火も無論洩れ落ちては来ない、ただひたひたと流れるやうな哀愁が、深い一種の気分となつて彼の胎内を隈なく占領してゐた。凡太はそれにぢつと浸りながら、本街道に沿ふて平行に流れてゐる暗い嶮しい間道を伝ひ、ひつそりと音の落ちた山を二つ越えてから本街道へ現れてみると、もう黒谷村の家並を遠く通過して、熊笹ばかり繁茂した黒谷峠のただ中へ、間もなく迷ひ込むばかりの、そんな地点に当つてゐる憂鬱な杜だつた。凡太はいそがわしく廻れ右をして、今度は本街道伝ひに黒谷村へ戻りついたが、恰も長い長い歴史の中を通過してきたかのやうに感じながら、居酒屋の灯を見出してそれを潜つた。居酒屋の女中も盆踊りにまよひ出て、ほの暗い土間の中には老婆が一人睡ぶたげな屈託顔をしてゐたが、凡太は二階へ通らずに、一脚の卓によつて酒を求めた。

「もう若い者はいつこうに踊りに夢中でして──」と、老婆は黒谷村に不似合な世馴れた笑ひを浮べながら、この村では出稼ぎの女工達も踊りたいばかりに盆を待ちかねて帰省するが、なぞと語つた。凡太はむやみに同感して深くうなづいてみせた。此処へ来て酒を掬むに、あの甘美な哀愁はなほ身辺を立ち去ることなく低く四方に蹌踉し、むしろその香わしい震幅を深くするやうに感ぜられた。彼はこの旅に出て以来このかたといふもの、この夜ほど深い満足と共に杯を把りあげたことは無かつたので、盛んに饒舌を吐きちらしながら盃を重ねてゐたが、遂ひには軽快な泥酔状態に落ちて、老婆を相手に難解な術語などを弄しながら人生観を論じ初めたりしたが、老婆は至極愛想が好くて、「さうですぜの、ほんとうに、その通りですぜの」と相槌を打つてゐた。やがて夜が一段と更けて、壁の中から何か古臭い沈黙が湧いて出るやうな気配を、幾度となく感じはぢめる時刻になつてゐた。──そのうちに、女中も踊りから帰つて、賑やかな足取りを金比羅山の山つづきのやうに土間の中へ躍り込ませて来たが、すると、直ぐそのうしろからのこのこと頸を突き入れた小男を見て、凡太は愕然とした。それは疑ひもなくあの女衒で。──女衒は上框あがりかまちに腰を下して片足を膝に組みながら、鋭く凡太に一瞥を呉れたが、すぐに目をらしてそ知らぬ顔をつくり、二階へ上つた女中に向いて「もう上つてもよいのか」と、ひどく冷い横柄な言葉を投げた。それらの全ての物腰には、凡太にとつてとうていなづむことの出来ない冷酷な狡智を漂わしてゐたので、彼はむらむらと憎悪を感じて女衒の顔をうんと睨みつけたが、女衒は平然としてとんとんとんと二階へ上つてしまつた。「やいやい待て。そして戸外おもてへ出ろ。喧嘩をしてやるから──」と、凡太は憤然叫び出したい勃勃たる好戦意識を燃したが、やうやくそれを噛み殺して、一とまづ考へ直した。しからば女中を張つて鞘当をしてやらうかと、無性に癪にさわり出してつまらぬ空想をめぐらしはぢめたが、勿論張りがひのある女ではないから、一晩中女衒と交代に女を抱くとしたならば、蓋し一代の恥辱であると痛感して、憤然居酒屋を立ち去ることに決心した。老婆と女中は驚いて、「旦那が先客でありますぞい、おとまりなさいまし」とすすめたが、決心止みがたいこと磐石の及ばざる面影を見出したので、「又だうぞ」と言ひながら奥から提灯を持ち出してきて無理に凡太に持たせた。家並の深く睡りついた街道にさて零れ落ちて一歩踏みしめてみるに、意外に泥酔が劇しくて殆んど前進にさへ困難を感じる程だつたので、手にした提灯のうるささに到つては救ひを絶叫してわつと泣き出したいばかりだつた。やり切れなくなつて振り向いてみると、幸ひ老婆はまだ戸口に佇んでこちらを見てゐたから、凡太はほつとして提灯を道の中央へ置き棄てたまま、一目散に逃走を開始した。睡つた街道の路幅一杯を舞台にして鍵々に縫ひ転がりながら、時々立ち止つては一息入れて遂ひに黒谷村の西端れまで来かかると、死んだ四囲の中に、不思議とまだ大勢の人達が路の中央に群れてゐて、それは隣村から踊りに来た若者たちがトラックに満載されて引き上げるところであつた。凡太は狂喜して駈け寄り、「僕も乗せて呉れたまへ」と提議したが、鉢巻姿の若衆は「お主は酔つておいでだから、それはなりませんぜの」と押し止めておいて、臭いガソリンの香を落したまま闇にすつぽり消えてしまつた。凡太は暫く呆然として、消え失せた自動車よりも、突然目の前に転落した闇と孤独にあきれ果てたが、気を取り直し、低く遠く落ちてゆく自動車の響きをも振り棄てて、金比羅大明神の参道をえいえいと登りはぢめた。嶮しい杉並木の坂も中頃で、凡太はつひに足を滑らしてけたたましく数間ばかり転落したが、もう起き上る気持には微塵もならなかつたので、しんしんとして細くかぼそく一条の絹糸程に縮んでゆく肉体を味はひながら、皮膚に伝ふ不思議に静寂な地底の音に耳を傾けてゐると、山の上から人の近づく気配がした。凡太は頸をもたげてそれを待ち構えてゐたが、それはしかし人間ではなく、くさむらの中を何か動く昆虫の類ひであらう、やがて高く頭上に当つて、杉の葉の鈍く揺れる澱んだ風音がした。彼はもつくり起き上つた、そして遂ひに辛酸を重ねて金比羅大明神の境内へ辿りつくと、果せるかな、それも已にひつそりとした闇の一部に還元してゐて見えるものも聴えるものも無かつたが、流石に地肌に劇しい荒れが感ぜられて、ことに円舞の足跡が鮮やかな輪型に描き残されたまましきりに其処にはたはた揺らめいてゐるやうな、何かなつかしい匂ひが鼻にまつわつた。凡太は暫らく冥目して、素朴な社殿にいくつかの拍手かしわでを打ちならしたが、忽然と身を躍らすと目には見えない輪型の中へ跳び込んで、出鱈目千万な踊りを手を振り足を跳ね、泳ぐが如くに活躍して、幾度か身体を地肌へ叩きつけた。凡太はううんううんと痛快な苦悶の声を闇に高く張りあげながら、その場一面に一時間近くのたうち廻つてゐたが、やうやくいささか我に帰つて、再び険阻な坂道を転落しながら橄欖寺の離れへ安着することが出来た。帰着してみると、当然暗闇であるべき筈の離れには一面にありありと燈りの白さが映えてゐて、流石に凡太の泥酔した神経にもこれはおかしいと思はれたが、しかし見廻すにただ白々と其処に広さがあるばかり、人影はたしかに無い、いや、在つた、机の上に豪然と安坐して、一房のバナナが部屋一杯の蕭条とした明るさを睥睨へいげいしてゐた。言ふまでもなく由良の仕業に相違あるまい、凡太は堅く腕を組んで、暫くぢつとバナナの不敵な面魂を睨んでゐたが、腕をほぐすとゐざり寄つて、またたくうちに一つ残さず平らげてしまつた。

 翌日龍然は車に送られて帰つて来た。日の落ちるまで顔を合はす機会は無かつたが、一風呂浴びて夕膳の卓に向き合ふと、ポツポツ語り出した龍然の話は、山奥に目新しいトピックであつた。龍然の招かれた先の豪家では、彼のかなり親密な友達であつた其処の次男は、急死とは言ひ乍ら、病死ではなくて、実は催眠薬による自殺であつた。県内でも屈指の豪農であつたから、新聞社などはいち早く口止がきいてゐて、龍然に与へられた多額な布施の如きにも、それに対する心持が含まれてゐた。その男は多少は学問もした人で、数年間欧羅巴ヨーロッパへ遊学して来たりなぞした経歴を持つてゐたが、日頃無為の境遇に倦怠して激しい虚無感を懐いてゐた。「自分のやうな無為の存在は結局一匹の守宮やもりほどもこの世界とは関係を持たないらしい、広々とした建物の中にぢつと坐つてゐると、其処に人間が居るのだか居ないのだか、まるきしその気配さへ分らないし、たとへ其処に居るとは分つても、人々はこの建物に当然のしみほどにしか考へない、守宮やもりを発見した時のやうな賑やかな騒しさでは誰も自分の存在を問題にすることがない。やがて自分は死ぬであらうが、自分の死滅したのちもこの古い厳めしい建物はなほ厳然と存在してゐて、人々は尚その中に住み乍ら、むかしこの建物の中に自分といふ存在がしみのやうに生きてゐたこと、今は已に消滅して見当らぬことなどを考へる者もなく、第一その話を思ひ出してさへ、かつて自分が存在したゞらう確証を認識するにさへ困難して苦笑するであらう。いはば自分は死の中に生き続けてゐるやうなもので、結局生命にひけめを感じながら、生きてゐる限りは存在に敗北しつづけてゐるやうなものだ……」と、その男は結局これと同じ内容のことを種々な様式によつて常日頃龍然に述懐してゐたが、時々は興奮して、ひと思ひに左翼へ走つて自分の生命力を爆砕したいなぞと猛り立つたりした、そんな淋しい男だつたさうである。その男は、ほかに親しい友達が無かつたのであらう、死に当つて龍然にも遺書を残してゐた。そこには、長い間の友誼を深謝す、と、ただそれだけの意味のことが数行にわたつて簡単に述べられてあるだけのことであつたが、その遺書は龍然の手に渡る以前に、すでに家族の手によつて開封されてゐた。勿論それだけのことならば、龍然のことであるから立腹する筈はなかつたであらう、不幸にして、この一家が死者に対する待遇は、恰も唾棄すべき不孝者を遇するが如き不潔な冷酷さを漂はしてゐたために、無論それは体面を重んずる豪家として詮方ない次第でもあらうけれど、龍然は友人であるだけ甚だ気に入らなかつた。彼は開封された遺書に対して一向に礼儀を心得ぬ卑劣な言訳をきくと、全く憤慨して、通夜の席上で大いに啖呵を切つてきたさうであつた。

「──実際大きな建物といふ奴は不思議な迫力を持つものでね。僕なんぞもこのガランとした寺にぢつと坐つてゐると、その男と同じやうな漠然とした不安を、やはりしみじみ思ひ当ることが時々あるやうだね。単に建物だとかその暗い壁だとか、そんな物に変にがつちりした存在を感じて敗北を噛みしめるばかりではない、自分が現に存在し、又寺の一隅に坐つてゐることに対して無意味を痛感し、痛感するばかりでなく、そのことがすでに又無意味に思はれる程何かがつかりした倦怠を感じ、それと一緒に自分の存在がいつぺんに信じられなくなつてくる。それが、自分の心の中でさう思ひ当るばかりでない、自分よりももつと強烈な生命力を持つこの建物の意志の中に、妙にみぢめに比較されてさういふ倦怠の気配を感得するから、実に実にやり切れない心細さに襲はれてしまふ……」

「それはさうだらうね。君の場合には棲む場所が直接この強烈な建築だから、だからつまり建築を対象にしてさう感じてしまふのだらうけど、僕の生活には建築なんぞ大した関係を持たないから、何か漠然とした一つの全体を対象として……」

 凡太は同感してそんなことを言ひかけたが、議論の対象そのものが茫漠として所詮は一生の十字架であり、口に乗せて弄ぶのも無役であると思はれたので、さつさと口を噤んで沈黙してしまつた。それに凡太は、由来自分の虚無思想に対しては甚だ謙虚な心を懐いてゐて、自分はとうてい虚無に殉ずる底の深遠な実際を味得しうる人物ではない、自分は浅薄な男で、本来楽天主義者でもなければ虚無主義者でもなく、常に何事も突き詰めることを避けるところのいはば一種の気分的人生ファンで、取柄といへばその自分の人生に対して甚だ冷淡そのものであること、それくらいなものであらうとあきらめをつけてゐたから、人生を理論で争ふ意志は毛頭持たなかつたばかりでなく、他人の深い虚無感に対しては、常にこれを深刻なる先輩として、実際まぢめな意味で若干の敬意を払ふことにしてゐた。彼はただ、彼自身の立場としては全てを漠然と感じればそれでよい、それを単に言葉に表はして憂鬱なる一時ひとときをさらに憂鬱にすることは退屈以外の何物でもあり得ない──実際それは退屈以外の何物でもなかつたから、その時も彼はいそいで口を噤むと、もはや別の事をぼんやり考へはぢめて、一体全体そもそもこの龍然と呼ぶどんよりとした坊主が、通夜の席上で啖呵を切つたといふ耳よりなゴシップは果して真実であるのか、と、そんなことにひどく興味を持ち出してゐた。

「いつたい、君が大いに啖呵を切つたといふのは、ほんとうの話かね?」

「それはほんとうの話さ。一座の連中をすつかり慄へ上らして来たよ。尤も腹の中では、僕は大いにいたづらな気持だつたがね……」

 と、龍然は例の至極あたりまへな顔付に、それでも少し苦笑を浮べて、あああああ……と奇声をたてながら実にだらしなく欠伸あくびをした。

 ところがその翌日、意外千万な出来事が起つた。事件そのものが甚だ意外であつたばかりでなく、事件の原因をなしたところのものが実に奇想天外──いや、これも亦凡太の意識内に於ける不屈な好奇心の説明であるが、とにかく奇抜千万であつたために、凡太はひどく奇異を感じた。即ち、龍然は通夜の席上で実際憤然として悲憤慷慨の演説を試みたばかりではない、しかも屡々過激な言辞を弄して資本主義ならびにブルヂョアを攻撃したといふのである。勿論それは、相手が県内でも有数な勢力家であるために、針小棒大に誣告ぶこくして司直の手を煩はしたことかも知れない。しかしとにかく、厳めしい佩剣はいけんの音が翌日山門を潜つたのは事実で、それは村の駐在巡査が一人の高等係を案内して寺を訪れたのであつた。高等係はしかし案外物の分つた男とみえて、田舎なまりの割合に温和な口調で、無論相手が相手のことで物の分らない富豪のことだから、何かの反感で無理に口実をつけたのであらうけれども、その方面には弱い警官のことであるから余儀なく義務上一応お訪ねしただけの話で、決して貴僧に疑ひをかけてゐるわけではないが……などと、くどくど長く述べ立ててゐた。凡太は隣室の唐紙に凭れて息を凝しながら形勢を展望してゐたが、刑事の言葉には裏にも毒がないやうに思はれたので、ほつと安心はしたものの実のところは気抜けがして、虻の羽音のやうな話声をもはやそれ以止注意して聴こうともしなかつた。すると突然大変な物音が隣室に湧き起つたので思はず彼は唐紙から身を離すと、それは丁度発狂した男がその最初の発作に発するであらうやうな激越を極めた金切声で、疑ひもなくそれは龍然の叫喚であつたが、龍然は単に叫喚するばかりではない、恐らくは部屋一面を舞台にして縦横無尽に地団太踏んでゐるものらしい猛烈な物音であつた。聴いてゐると、しかしそれは単なる叫喚ではない、たしかに龍然としては何事か一意専心演説を試みてゐるものに相違ない、それが今迄演説とは気付かなかつたのはあながち金切声のせいばかりではなく、正気できいたら噴き出さずにはゐられぬやうな支離滅裂を極めた句と句の羅列であつたからで、「大日本帝国は万世一系の……」と言つてゐるかと思ふと、「ああ拙僧の名誉も地に落ちたり、忠君愛国のほまれも空し、ああ悲しい哉……」「印度に釈迦瞿曇くどん生誕してここに二千有余年──」等々々。

 凡太は一体龍然の学識には相当の敬意を払つてゐたのだつた。それは彼が初めてこの寺へ第一歩を踏み入れた夜のこと、龍然はその書院にかなりうずたかく積まれた書籍を隠すやうにしながら、「売り払ふ古本屋も山の中には無いので……」と恥ぢた顔付をした。凡太の経験に由れば、書籍を所有することに心から恥を持つ人は、おほむね勝れた学識を持つ人達であつたから、龍然の学識に対しても、忽ちこの時から敬意を払ふことにして、別にそれ以来議論を交したこともないから、そのままその時の敬意を払ひつづけてゐたのだつた。ところが隣座敷の狂態たるや支離滅裂も何もあつたものではない、土台論理も論旨もあるわけでなく言葉の体裁をさへ調へてはおらぬのだから、或ひは発狂したのでもあらうかと思へば、恐らくさうでもないのであらう、刑事もつくづく度胆を抜かれてやうやくに龍然を宥めすかし、飛んだ疑ひをかけて相済まない、今となつては青天白日で貴僧の名誉に傷はつけないから──と詫びながら舞ふやうにして退却した。凡太もほつと安堵して玄関へ龍然を迎へに行くと、龍然はもう、どこを風が吹くのかといふやうに、いつもの通りあつけらかんと残骸のやうなしよんぼりした顔をして戻つて来るところだつた。凡太が歩み寄つて龍然の肩をたたくと、別にそれに報ひやうとする顔付もせず、二人肩を並べて黙々と書院へ歩き出したが、敷居を股ぐ時、龍然は鼻を鴨居へ押しつけるばかりにして、あはあはあは……と笑ひ出した。凡太はすつかり毒気を抜かれて、今のは芝居だつたのかい、と訊いてみるのも莫迦らしい程がつかりした気落ちがしたので、いささか胆の白くなる驚嘆を味はひながら、一体この坊主は莫迦なのか悧巧なのか手に負へない怪物だと考へた。

 其の後、もう来ないのかと思つてゐた女は、相変らず毎夜龍然を訪れて来た。どういふ変化があるだらうと聴耳をたててゐても、別に変つたこともない、離れにぢつと瞑目して机に凭れて頬杖をついてゐると、すぐ目の先にある小さな古沼、それを越してすぐさま丘の上にある墓地、その又上にひつそりとしてゐる山の腹、都合三段の静寂な気配がそれぞれのニュアンスを持つて、もうすつかり闌けてしまつた初秋の香りを運んだ。なぜだか、身体がやはり一つの気配となつて朦朧とさまよつてゐるやうな、爽やかではあるが一種ぢつとりと落ちついた重い侘びしさが、物体に障碍されることなく一面に流れ漂ふてゐた。いはば、まるで現実とは別種な感覚の世界を創造するもののやうに、目を瞑ると、甘い哀愁の世界がひろびろと窓を開いて通じてゐた。それは「無」──実際は、無といふにはあまりにも一色ひといろの「心」に満ちた、蕭条とした路であつた。それは事実、路といふ感じがした。

 由良とも友達になつてゐるのだから、二人打ち連れて遊びにおしかけて来はしないかと、凡太はそれとなく待ち構えてゐたが、別に来るやうなこともない、龍然はあの夜のことを知らないのであらうかとある日訊ねてみたところが、ああ、さうさう、さういふ話をきいてゐた、君によろしく伝へてくれと言ふことだつた、いよいよ俺達も別れることに決つてね、なぞと落ついた返事だつた。

「あの女は別に女衒と一緒に東京へ行かなくとも良いのだから、君さへ邪魔でなかつたら、君の帰る時あれも一緒に連れてつて貰ひたいと言つてゐたよ。東京に知り合があると思へば心強く暮せることだらうからね。ぜひ一緒に連れて帰つて今後も力になつて呉れたまへ。いづれ今晩でも改めておひき合せしやうから。まつたく僕もあの女と別れることになつてせいせいしたよ」

 龍然はそんなことを言ひながら、無心に鼻の油を拭いてゐたりした。そのくせ、やはり女と別れることが、別れ切れない心持もあるのであつた。丁度その頃のことであつたらう、凡太と龍然はある黄昏の杉並木を金比羅大明神の方へ散歩にぶらついてゐたが、嶮しく高い坂道の途中で、偶然上の方からただ一人下りてくる例の女衒に擦れ違つたのであつた。女衒は手に短い杉の小枝を携へてゐて、それを弄びながら急ぎ足ですたすた下りていつたのだが──その時凡太は、それは恐らくその時の結果から推してさう思ひ当るのかも知れないけれど、もし自分が龍然の身の上で、そして今自分一人でこんな山奥に女衒と擦れ違つたとしたならば、或ひは自分は女衒を殺害して谷底へ埋めてしまふかも知れない……と、そんな風な空想をたしかその時めぐらしたやうに思ひ出されるのであつた。しかし龍然はまるで何でもない顔付で、女衒の存在にさへ気付かぬやうな物腰でやり過してしまつたから、凡太はほつとして、これは龍然は女衒の顔を知らぬのかしら等と考へながら上の杉並木を洩れる空模様を仰いで息を吸つた。するといきなり耳もとで、さつと風を切る激しい音がした。

「女衒はよくないぞ!」

 龍然は坂の下をぢつと睨んで直立してゐたが、鋭く張つた四角な肩に激しく息を呑む気勢が感ぜられた。凡太も坂下の方を見下すと、叫ぶよりも前に龍然の手から投げられてゐた下駄が、女衒には当らずに、一本の杉の幹に痛々とした跡を残して、尚ころころと一二間ころげて止まるのが見えた。女衒は腰を浮かせて逃げかけたが、龍然の気配に追求のないのを見てとると、卑屈にねちねちした度胸を見せて、知らぬ顔を粧ひながら麓の方へすたすた降りていつた。流石にその日龍然は、息の乱れを収めてもとの顔付にもどるまで十数歩の歩行を要したが、それも収まると、また超然とした残骸に還元して、一方の足ははだしにしたまま長い坂道を傾きながら歩いた。凡太は何とも言へぬ寂漠を感じて、君、足は痛まないのかと訊いてみるにも言葉はもはや不用なものに考へられ、胎内に充満してくる空虚を味得した。

 もう山は秋が深い。それは、昼の明るさが尚寂寥に堪えがたくて、ひたすら死滅へ急ぐもののやうにしか考へられぬ蝉の音の慌ただしさや、已にいそがわしく遠い空に走り初めた幾流れもの雲や、そしてぽつかりと空洞うつろに落ちたこの明るさ──ひとまづこれで、ぱつたりと杜絶する生活力の断末魔あごにいが山といふ山に、路に、藁屋根に、目に泌みるリズムとなつて流れてゐる。女衒もすでに黒谷村を去つて、沈滞した村の軒からは、何か呟く呪ひの声が洩れてくるもののやうに感ぜられた。そして龍然は、物置から埃まみれな草履を一つ探し出して、下駄とちんばにこれを突つかけながら、黒い法衣を秋風にさらし、流れはぢめた雲の慌ただしさに狂燥を感ずるものの如く、村の法用に山門をいそがしく往来してゐた。凡太はぢつと帰ることを考へた、いやむしろ、立ち去つた後の黒谷村の侘しさを、恰かもそれが永遠に自分の棲まねばならぬ運命の地であるかのやうに、呆然と思ひやる日が多かつた。

 もう九月に這入つた一日、凡太はいよいよ出立した。その未明、まだ明け切らぬ黒谷村の、人気ない白い街道を、龍然と二人肩を並べて一言も物を言はずに通過してしまつた。谷間からどす黒い靄が湧きあげて、近い山さへまるで視界には映らない、そして、蜩の音が遠い森から朝の澱みを震はして泌みる頃、丁度朝の目醒めを迎へたであらう黒谷村は、振り返つても、もはや下には見えなかつた。由良は朝の一番列車に間に合はせて、自動車で停車場へ来る筈になつてゐた。

「君、東京へ帰つたら、忘れずに手紙を呉れたまへ」

 龍然はだしぬけにそんなことを言つて、まだ停車場へ七八里もあるのに、凡太に握手を求めた、「又来年もぜひ来てくれたまへ」と附け加へながら暫く手を離さなかつたりして。そして長い中絶の後に、もう一里も歩いてから、又さつきの話を思ひ出して、「もし来年も達者でゐたら……あははは──」と笑つたりした。さうかと思ふと、凡太の言葉にはまるで邪慳に耳もくれず、ただすたすたと歩いてゐた。

「どうだい。君にあの女を進呈しやうかね」

 龍然は又、いきなりそんなことも言ひ出した。

「尤もあんな女ではね。しかし、女郎や淫売よりはたしかに清潔だから、そのつもりで玩具にする気なら、いつでも自由に使用したまへ。どうせ女衒の手へ渡れば、あいつは何をやり出すのか知れたものではないのだから」

 そして凡太が困惑して、返事も出来ずにゐるうちに、彼は煙草に火をつけて、屈託もなくパクパクと煙を浮かせながら歩いてゐた。来る路に、龍然が残骸をねせたあの曲路かあぶでも、二人は休まずに通りすぎた。もう明るい太陽が、それでも尚朝の潤ひを帯びて、張りつめるやう山一杯にかんかんと照り、二人を汗にぐつしより濡らした。停車場へ着いて暫くすると乗合自動車も後から来て、由良は大きな行李を抱えながら待合所へ崩れ込んだ。その時の疲労で喉が塞がるもののやうに粧ほひながら、わざとはあはあと大息をして、実は空虚な白い気持で喋る気にもならぬのを、笑ひ顔で胡魔化してゐたが、笑ひ顔もひとりでに収まると、放心した顔を窓の外へぢつと見やつて、坐らうとさへしなかつた。三人は劇しく退屈して暗い顔を互にそむけ合つてゐたが、誰が言ひだすともなくただ時々、夜の幾時に上野へ着く筈だね、もう東京も寝る頃であらうね、なぞといふ空虚な言葉を交し合つたりした。

 汽車がついた。汽車に乗ると、由良はもう劇しく泣きはぢめてゐた。

「達者でありたまへ」

 龍然は二人のどちらに言ふともつかず、そんなことを一言二言言ひすて、短い停車時間、ぼんやり窓際に立つたまま明るい空を見つめてゐた。

 汽車は動きはぢめた。さようなら。そして由良は泣きながら堅く窓にかぢりついて、激しく手巾ハンカチをふつてゐたが、凡太も亦、彼はデッキのステップに身を出して龍然に目礼を送りながら、目に光るものの溢れ出るのを、どうすることも出来なかつた。もはや列車はするすると、屋根もない短いプラットフオムを走り出やうとしてゐた、人気ないプラットフオムにただ一人超然として、全ての感情から独立した人のやうに開いた両股をがつしり踏みしめて汽車を見送つてゐた龍然は、已に明るい太陽の下に一つ取り残されて小さく凋んでゆくやうに見られたが、突然みにくく顔を歪めたやうに想像されると、小腰をかがめ、両手のひらにがつしりと顔を覆ひ、恐らくは劇しい叫喚をあげながら、倒れるやうに泣き伏した姿が見えた──

底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房

   1999(平成11)年520日初版第1刷発行

底本の親本:「青い馬 第三号」岩波書店

   1931(昭和6)年73日発行

初出:「青い馬 第三号」岩波書店

   1931(昭和6)年73日発行

※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。

入力:tatsuki

校正:伊藤時也

2010年48日作成

2016年44日修正

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