決闘
ДУЭЛЬ
アントン・チェーホフ Anton Chekhov
神西清訳
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朝の八時といえば、士官や役人や避暑客連中が蒸暑かった前夜の汗を落しに海にひと浸りして、やがてお茶かコーヒーでも飲みに茶亭へよる時刻である。イヷン・アンドレーイチ・ラエーフスキイという二十八ほどの、痩せぎすなブロンドの青年が、大蔵省の制帽をかぶり、スリッパをひっかけて一浴びしに来てみると、もう浜には知合いの連中が大分あつまっていた。そのなかに、日ごろから親しい軍医のサモイレンコもいた。
大きな頭を五分刈りにして、猪首で赭ら顔で、それに大きな鼻、もじゃもじゃした黒い眉毛、胡麻塩の頬髯、ぶくぶく緊りのない肥りよう、軍人独特の太い嗄れ声──こう並べて見ると、このサモイレンコがこの町に来たての人の眼に、どら声の成上り士官といった不快な印象を与えるのは無理もない。だが二三日も附き合って見ると、この顔がひどく善良な可愛い顔に見えてくる、美しくさえ見えてくる。見かけはいかにも不細工で粗野だが、そのじつ彼は穏かな、底の底まで善良で実意のある男であった。町じゅうの誰彼なしに君僕の間柄である。誰彼なしに金を用立てる、療治をしてやる、婚礼の橋渡しをしてやる、喧嘩の仲裁をしてやる、ピクニックの音頭取りになって、羊肉の串焼きをする、とても旨い鯔のスープをこしらえる。年がら年じゅう誰かしらの面倒を見たり奔走してやったりしている。そしてしょっちゅう何かしら嬉しがっている。衆目の指すところ彼は非の打ちどころのない人間で、あるとしても弱点は二つしかない。一つは妙に自分の親切に羞れて、酷薄粗暴の風を装うこと。もう一つは、まだ五等官のくせに、助手や看護卒から一つ上の『閣下』という敬称をもって呼ばれたがること。
「ねえ、アレクサンドル・ダヴィードィチ、君はどう思うかね」と、このサモイレンコと並んで肩のあたりの深さまで来た時、ラエーフスキイが口を切った、「仮りにだよ、好きで一緒になった女があるとする。そこでまあその女と二年あまりも一緒に暮らしたあげくに、よくある図だが厭気がさして、縁もゆかりもない女に見えて来たとする。まあこうした場合に君ならどうするね。」
「至極簡単だね。さあ、どこへなりと出ておいで。──それだけの話だよ。」
「言うは易しさ。だがその女に出て行きどころがなかったらどうする。その女に身寄りも、金も、働く腕もないとしたら……。」
「なあに、そんなら五百ルーブリで綺麗さっぱりと行くか、さもなきゃ月二十五ルーブリの仕送りで行くか、それで文句なしさ。簡単至極だ。」
「よし、じゃその五百ルーブリがあるとする。乃至は月々二十五ルーブリ仕送れるとする。だがその女が教育のある気位の高い女だった場合、君はよもや金を突きつけるような真似はできまい。やるとしても、どういう具合にやるかね。」
サモイレンコが何か答えようとしたとき、大きな波が二人の頭上にかぶさって、やがて岸に砕けたかと思うと、小石の間をざわめきながら引いて行った。二人は岸へ上がって、着物を着はじめた。
「そりゃ、厭になった女と一緒にいるのは辛いものさ」と、サモイレンコが長靴の砂を振るい出しながら言った、「だがね、ヷーニャ、人情ということも忘れちゃいけないね。仮りに僕がそんなことになったとしたら、まあ厭になった素振りも見せずに、死ぬまで添い遂げるね。」
そこで急に自分の言ったことが気恥かしくなったと見え、
「だが僕に言わせりゃ、そもそも女なんか一人もいない方がいい、女なんか悪魔にさらわれろだ」と言い直した。
着物を着てしまうと、二人は茶亭へ行った。この茶亭をサモイレンコはわが家同様に心得て、茶碗などもちゃんと自用のが備えつけてある。毎朝彼に出る盆には、コーヒーが一杯、背の高い切籠のコップにアイスウォーターが一杯、コニャックが一杯ときまっていた。彼はまずコニャックをぐっとやり、それから熱いコーヒーを飲み、それからアイスウォーターを飲む。それがまたたまらなく旨いのであろう。そのあとではきまってとろんとした眼つきになって、両手で頬髯を撫で、じっと海に見入りながら言うのだった。
「じつに何ともいえぬ眺めだ。」
長い夏の夜を、益もない不愉快な考えごとのため、蒸暑さや夜の闇までが一しおに募る思いがして、殆ど眠れずに明かしたラエーフスキイは、気が滅入ってならなかった。水浴もコーヒーも気分を引立ててはくれなかった。
「ところでまた先刻の話だがね」と彼は言った、「君にはなにも隠しだてはしまい。親友としてすっかりぶちまけて聴いて貰うつもりだ。僕とナヂェージダ・フョードロヴナとの関係は愚劣だ。……じつに愚劣だ。つまらん私事を聴かせてすまない。だが僕はどうしても言わずにはいられないのだ。」
話の様子を察したサモイレンコは、眼を落すと、指さきでテーブルをコツコツいわせはじめた。
「僕はあの女と二年一緒に暮らして、今じゃ厭気がさしちまったんだ」とラエーフスキイは続けた、「いや、本当はこうだ、初めっから愛なんかなかったことが、やっと悟れたのさ。……この二年間の生活は欺瞞だったのだ。」
話をするときの癖で、ラエーフスキイは自分の薔薇色をした掌をじっと見る。爪を噛む、でなければカフスをいじくる。今もそれをやりながら、
「そりゃ君に助けて貰えないことぐらい、僕だってよく知っている。しかしね、僕たち不運な余計者というものは、こういう話でもさせて貰わなけりゃやりきれないんだよ。つまり自分のしたことをいちいち一般化して見ずにはいられない。自分の愚劣な生活に対する説明や弁護を、なにかの理論なり文学上の人物の型なりの中に求めずにはいられない。例えば、われわれ士族階級は頽廃しつつありといった具合にね。……現に昨夜も僕は、『ああ、トルストイの言うことは本当だ。実もって一言もない』といったことを夜どおし考えて、自ら慰めていたのさ。おかげで気が楽になったっけ。いや君、なんと言ったって大文豪だね。」
毎日読もう読もうと思いながら、まだトルストイを読んだことのないサモイレンコは、当惑して言うのだった。
「そう、誰もかれも想像で書く作家のなかで、彼だけは自然をそのままに写すね……。」
「ああ、ああ」とラエーフスキイは吐息をして、「一体僕たちは、どこまで文明に毒されているのだ! 僕は人妻に恋した。女も僕を恋した。……初めのうちは接吻だ、静かな宵だ、誓いだ、スペンサーだ、理想だ、社会の福祉だ……。なんという絵空ごとだ。正直のところは手を取り合って女の亭主から逃げ出したまでなのを、われわれ知識階級の生活的空虚から抜け出したのだなんて自分に嘘をついたのさ。僕たちの描いた未来の夢を聴かせようか──まずコーカサスへ行って、そこの土地と風習に馴れるまでは、とりあえず官服を着て勤める。やがて自由の身になって、そこばくの土地を買い入れ、額に汗して働く。葡萄を作る、畠を作る、それから……というわけだ。もしもこれが僕じゃなくって、君かそれともあの動物学者のフォン・コーレンだったら、ナヂェージダ・フョードロヴナと仲よく三十年も一緒に暮らしたあげくに、立派な葡萄畑や千町歩もある玉蜀黍の畑を子孫に遺しただろうよ。ところが僕は、そもそもの第一日から、ああおれは破滅だと思っちまったのさ。町にいればいるでたまらなく暑い、退屈だ、淋しい。畠へ出れば出るで、どこの藪蔭にも石の下にも百足だの蠍だの蛇だのがうじゃうじゃしている。さて畠の向うはといえば山と荒野だ。見たこともない人間たち、見たこともない自然、みじめきわまる生活程度──すべてこうしたことは、君、温い毛皮外套にくるまってナヂェージダ・フョードロヴナと手を組んで、ネフスキイ〔ペテルブルグ
の広小路の名〕の大通りをぶらつきながら、南の国を夢見るほどのんきなことじゃない。ここでは生きるか死ぬかの戦が必要なのだ。ところで僕は一体どんな戦士かね。憫れむべき神経衰弱患者だ、遊民だ。……そもそもの初日から僕は、せっかく考えていた勤労生活とか葡萄畑とかいうことは、鐚一文の値打もないことを了解したのだ。さて恋愛の方はどうかというと、スペンサーを読み、あなたの為なら世界の涯までもという女と一緒に暮らすのも、そんじょそこらのアンフィーサやアクーリナと一緒に暮らすのも、その索然味においてなんら択ぶところはないのさ。これは断言するよ。相も変らぬアイロンの匂い、白粉の匂い、色んな薬の匂い、来る朝も来る朝も例の捲髪紙、相も変らぬ自己欺瞞……。」
「アイロンなしじゃ主婦の務めはできまい」と、知合いの婦人のことをあまりラエーフスキイがずけずけ遣っつけるので、サモイレンコのほうが赤くなりながら言った、「ねえ、ヷーニャ、君は今日はどうかしてるぞ。ナヂェージダ・イヷーノヴナは教育のある立派な婦人だ。君はまた君で、非常な秀才だ。……なるほど正式に結婚をしていないには違いないが」と、あたりのテーブルを憚りながら、「しかしそれは君たちの罪じゃない。かつ……われわれは偏見を棄てて、現代の思潮の水準に立たなければならん。僕自身としては自由結婚の支持者だ、そうとも……だがね、僕に言わせると、一たびいっしょになった以上は、死ぬまで添いとげるべきだ。」
「愛がなくてもかい?」
「今言うから聴いていたまえ」とサモイレンコはつづけた、「八年ほど前のことだが、ここで嘱託をしていた老人があった。非常な秀才だったが、それが常に語って曰くさ、『夫婦生活に一番大切なものは忍耐だ』と。どうだね、ヷーニャ。愛じゃなくって忍耐なんだ。愛は永続するものではない。君にしてもだ、既に二年間の愛の生活を終って、今や明らかに君の家庭生活は、いわばまあ平衡を保って行くには全忍耐力を挙げて発動せしめなければならぬ、そうした時期にはいったわけさ。……」
「まあ君はその嘱託の老人を信じるさ。僕にとっちゃ、そんな忠言はまったくのたわ言だね。君のいうその老人なら、偽善がやれたかもしれない、忍耐の修行が出来たかも知れない。随ってまた愛してもいない人間を、自分の修行に欠くべからざる物品と看做しえたかもしれない。だが僕はまだそこまでは堕落していないね。忍耐修行がしたくなったら、僕なら唖鈴か荒馬を買う。人間を使う気はしないね。」
サモイレンコは氷を入れた白葡萄酒を命じた。それを一杯ずつ飲んだとき、ラエーフスキイがだしぬけに訊ねた。
「脳軟化症というのはどんな病気かね。」
「それは、さあ何と言ったらいいかな──つまり脳が軟くなる病気さ。……まあ溶け出すんだね。」
「癒るかね。」
「癒る、手遅れでさえなければ。冷灌水浴、発泡膏。……それから何か内服薬と。」
「ふむ。……これでもう僕の現状がわかってくれたろうね。僕はとてもあの女といっしょにはやって行けない。それは僕の力にあまる。こうして君と話しているうちは、僕もこのとおり哲学を並べて笑ってもいられるが、家へ帰ったら最後もう駄目だ。厭で厭でたまらないんだ。仮りに、どうしてももう一と月あの女と一緒にいろと言う人があったら、僕はいっそこの額へ一発やってしまうね。それでいて、あの女と別れるわけにも行かない。身寄りのない女だし、働く腕もないし、金と来たら僕にも彼女にも一文だってない。……一体あれにどこへ行けというのだ、誰にたよれというんだ。考えたって出てくるものか。……ええ、君、一体どうすればいいんだい。」
「ううむ」サモイレンコは返答に窮して唸った、「あの人のほうでは君を愛してるのか。」
「ああ、愛してる。あの年ごろ、またああいった気性の女として、男が必要な程度にはね。僕と別れるのは、白粉や捲髪紙と別れると同じくらいに辛いだろうよ。彼女にとって僕は、閨房に欠くべからざる構成分子なのだ。」
サモイレンコはすっかり度を失って、
「ヷーニャ、本当に君は今日はどうかしている。──睡眠不足なんだろう。」
「いかにも睡眠不足だ。……それどころか、からだ具合が全体に悪い。頭の中はがらん洞だ。圧さえつけられるような感じで、どうも気力がない。……このぶんじゃ逃げ出さなきゃなるまい。」
「どこへかね。」
「あっちへだ、北へだ。松林のあるところ、蕈の生えるところ、人間の住むところ、思想のあるところへさ。……ああ今、どこかモスクヷ県かトゥーラ県かで、小川でぼちゃぼちゃやる、冷たくって顫えあがるね、それから一番びりっこの学生でもなんでもいい、そいつを相手に三時間ほど歩き廻わる、喋る、大いに喋りまくる──それが出来たら、命の半分ぐらいは投げ出しても惜しくはないね。……ああ、乾草の匂い。憶えてるかい? それから夕暮庭を歩いていると、庭の中から漏れてくるピアノの音。遠くで汽車の通る音がする。……」
ラエーフスキイは嬉しくなって笑い出した。その眼には涙さえ浮かんでいる。それを見せまいと、彼はマッチをとる風をして、隣のテーブルへと坐ったなりで身を伸ばした。
「僕はこれでもう十八年ロシヤを見ない」とサモイレンコが言った、「どんなだったか、すっかり忘れちまった。僕に言わせれば、このコーカサスほど結構なところはないね。」
「ヴェレシチャーギン〔有名な画家。ブルガリヤ戦役、聖書などに取材し
た名画が多く、そのほか風景画や歴史画がある〕の絵にこんなのがある。深い深い井戸の底で、死刑囚たちが悲歎に暮れているところだ。君のいう結構なコーカサスは、僕にはちょうどこの井戸のように見えるのだ。ペテルブルグに煙突掃除たらんか、はた又この地に王侯たらんかということになったら、僕は煙突掃除になるね。」
そのまま、ラエーフスキイは考え込んでしまった。その前屈みの体つき、じっと一点に凝らした眸、蒼白い汗ばんだ顔、落ち窩んだこめかみ、噛み耗らした爪、スリッパの踵の方が垂れ落ちて、靴下の不細工な繕いの跡を見せているあたりまで、サモイレンコはつくづくと眺めて、いかにも気の毒な気がした。ラエーフスキイの有様が寄辺ない孤児を聯想させたのだろう、彼はふと、
「君のお母さんは生きてるかね。」
と訊いてみた。
「ああ。だが義絶も同然だ。母は僕たちの関係を許してくれないんだ。」
サモイレンコはこの友達が好きだった。ラエーフスキイは善良愛すべき男だ、大学生だ、共に飲み、共に笑い、共に語るに足る好漢だ、と思っている。ただ、彼にわかる限りのラエーフスキイは、すこぶる気に入らぬ特徴を具えている。時を選ばずに大酒を飲む、カルタを打つ、勤めをおろそかにする、ぶんを越えた生活をする、話をするときしばしば下品な言い廻わしを使う、スリッパのままで街を歩く、人の前でナヂェージダ・フョードロヴナと喧嘩をする──こうしたことがサモイレンコの気に入らない。そのかわり、ラエーフスキイがかつて大学の文科にいたこと、今でも分厚な雑誌を二つも取っていること、めったな人にはわからぬようなむずかしい話をよくすること、教育のある婦人といっしょにいること──こうした反面は、サモイレンコにはさっぱりわからぬながらも気に入っていた。ラエーフスキイは自分より一だん上の人物だ、と思って尊敬していた。
「じつはもう一つ問題があるんだ」と、ラエーフスキイは頭を振りながら言った、「だがこれはここだけの話だよ。ナヂェージダにはまだ言わずにあるんだから、あれの前で喋って貰っちゃ困るよ。……おととい、あれの亭主が脳軟化症で死んだという手紙が来たんだ。」
「それはそれは」と、サモイレンコは吐息をついた、「で君は、なぜあの人に言わないんだ。」
「その手紙をあれに見せることは、つまり教会へ行って正式に結婚式を挙げることを意味するからね。それよりもまず、僕たちの関係をはっきりさせなければならん。もう二人はこれ以上いっしょにやっては行けんという得心があれにいったら、手紙を見せてやるつもりだ。そうなりゃ危険もないからね。」
「なあ、ヷーニャ」と言いかけて、急にサモイレンコは、なにか大事なたのみごとがあるのだが断わられはしまいかと気遣うような、悲しげな歎願するような顔つきになった、「なあ君、結婚しちまえよ。」
「なぜだ。」
「あの立派な婦人に対する君の義務を果たすのさ。あの人の夫は死んだ。つまりこれで、摂理の指し示すところがわかるはずだ。」
「妙な奴だな。それができんと言ってるじゃないか。愛のない結婚をするのは、信仰なくして礼拝するのと同じく、人間として恥ずべき卑劣な行為だ。」
「でも君には義務がある!」
「なぜ義務がある?」とラエーフスキイは詰め寄った。
「君はあの人を夫の手から奪ったじゃないか。それは責任を引受けたということだ。」
「だから僕は愛していないと、ロシヤ語ではっきり言っているのが聞こえないのか。」
「よし、愛せないなら尊敬したまえ、崇めたまえ。……」
「尊敬したまえ、崇めたまえか……」ラエーフスキイは口真似をして、「それじゃ彼女が尼院長みたいだな。……女といっしょにいて、崇拝と尊敬だけでやってゆけると思うんなら、君は憫笑すべき心理学者、また生理学者だ。女にまず要るものは寝台だ。」
「ヷーニャ、ヷーニャ」とまたサモイレンコはへどもどする。
「君は大きな子供だ。理論家だ、僕は若い老人だ、実際家だ。どうしたって合いっこはないさ。もうやめよう。おい、ムスターファ!」とラエーフスキイは大声でボオイを呼んで、「勘定。」
「いいよ、いいよ……」軍医は喫驚してラエーフスキイの腕をつかんだ、「これは僕が払う。僕が註文したんだから」とムスターファに向って「俺につけといてくれ。」
二人はそこを出ると、黙って海岸通りを歩いて行った。やがて遊歩路へ出る角で立ちどまって別れの握手をした。
「なあ君、君も悪くなったものだ」とサモイレンコは歎息した、「運命は君に贈るに、若く美しい教育ある婦人をもってした。それを君は要らないという。僕なら、よたよた婆さんを授かってもいい、ただ親切で、優しくしてくれさえすれば大いに満悦するね。わが葡萄畑のほとりに共に住んで……」
そこで急に気を変えて、
「いやなに、その婆さんにサモヷルでも立てて貰うさ。」
ラエーフスキイと別れたサモイレンコは遊歩路を歩いて行った。でっぷりした堂々たる体躯を雪白の軍服に包んで、きれいに磨き上げた長靴を穿き、結びリボンのついたヴラヂーミル勲章の輝く胸をぐっと張って、厳めしい顔つきで遊歩路を濶歩するとき、彼は大いに自ら満足を感ずるとともに、世間の人の眼にもさぞ自分が愉快に映るだろうと思うのだった。顔をまっすぐ前方に向けて、彼はあたりに眼を配って行きながら、この遊歩路の出来栄えは申しぶんがないと思い、まだ若い糸杉やユーカリや、体液不調だと見えて醜い棕櫚やを実に美しいと思い、今にだんだん大きな樹蔭を作るようになるだろうと思い、チェルケース人〔コーカサス、クパーン河以西に名残りを
とどめる一民族。正統派の回教を奉ずる〕は正直で客好きな種族だなどと思うのだった。そして『このコーカサスがラエーフスキイの気に入らんとはおかしい、どうもおかしい』と考えた。銃をかついだ兵隊が五人、向うから来て敬礼して通る。遊歩路の右側の歩道を、役人の妻君が息子の中学生を連れて通る。
「お早う、マリヤ・コンスタンチーノヴナ」と、サモイレンコはにこにこして声をかける、「水浴でしたか、ハ、ハ、ハ。……ニコヂーム・アレクサンドルィチによろしく。」
そして、独りでにこにこしながら歩いて行く。やがて向うから軍医助手がやって来るのを見ると、急に眉をしかめて呼びとめて訊く。
「患者が来ておるか。」
「参っておりません、閣下。」
「なに。」
「参っておりません、閣下。」
「よし、行け。……」
威風堂々と体を揺すりながら、彼はレモナーデのスタンドへ足を向ける。一見グルジヤ女〔外コーカサスに住む
コーカサス族の一〕とも見まがう満々たる胸をしたユダヤ婆さんが、台の向うに坐っている。その婆さんに、彼は三軍を叱咜するような声で言う。
「君、ソーダ水を一杯たのむ!」
ラエーフスキイがナヂェージダ・フョードロヴナに嫌悪を感ずるのは、なによりもまず、彼女の言うことなすことことごとく嘘乃至は嘘らしく見えてならぬからである。また、今までに読んだ女性ならびに恋愛についての反対論のことごとくが、これ以上は望めぬほどぴったりと、彼とナヂェージダ及びその夫の場合にあてはまって見えるからである。家に帰って見ると、彼女はもう髪をととのえ身じまいを済まして窓際に坐り、むずかしい顔をしてコーヒーを飲みながら、厚い雑誌の頁をめくっていた。それを見ると、彼は心に思うのだ──コーヒーを飲むのに、なにもそんなむずかしい顔をすることはないじゃないか。誰に見せて喜んで貰おうという目的も必要もないこの土地で、なにもそんな時間を掛けて流行の髪に結うことはないじゃないか。雑誌までが、彼には嘘に見えてくる。髪を結ったり身じまいをしたりするのは、美人に見られたいからだ。雑誌を読むのは利口に見られたいからだ。
「今日海水浴に行ってもよくって」と彼女が訊いた。
「どうしてさ? お前が行こうと行くまいと、まさかそのため地震が起こりゃしまいし。……」
「だって私、先生にまた叱られるといけないと思って。」
「じゃ先生に訊いたらいいさ。僕は医者じゃない。」
今度は、彼女のあらわな白い頸筋と後頸を這う捲毛の束とが、たまらなくラエーフスキイの気にさわるのだった。夫への愛の冷めたアンナ・カレーニナにとって、なにより厭でならなかったのは夫の耳だったという話を思い出して、彼は『本当だ、あれはじつに本当だ』と思った。
気分も悪いし、頭が空っぽになったような感じなので、彼は書斎にはいって長椅子に横になり、蠅よけにハンカチを顔にかけた。一つことの周りを堂々めぐりするだらだらともの憂い想念が、雨もよいの秋の夕暮を行く荷馬車の行列のように、彼の脳裡を繋がって通る。彼は、睡いような重たい気分に落ちて行った。ナヂェージダにもその夫にも自分は悪いことをした、彼女の夫が死んだのも自分のせいだ、自分の生活を台なしにしたのも自分の罪だ、高い思想の世界、知識の世界、勤労の世界に対しても、自分はすまぬことをした、とそんな気がした。そしてそういう絶妙な世界が存在し得るのは、オペラがあり芝居があり新聞があり、ありとあらゆる智的労働があるあの北方だけで、餓えたトルコ人や怠惰なアブハジヤ土人〔黒海東北岸およびコーカ
サス山中に住む一民族〕のうろついているこの海辺には、とても存在しえぬような気がした。あそこにいてこそ、正直な人間にも、賢い人間にも、高尚な人間にも、純潔な人間にもなれるので、ここにいてはとても駄目なのだ、理想もなく確乎とした生活方針もないわれとわが身を彼は責めるのだった。もっともそれが何であるかは、今ではおぼろげながらわかっていたけれど。……二年前ナヂェージダを恋した時には、彼女と手を取りあってコーカサスへ行きさえすれば、それで俗悪空虚な生活から救われるものと考えていた。同様に今では、ナヂェージダと手を切ってペテルブルグへ行きさえすれば、それで一切が購えると確信しているのだ。
「逃げるんだ」と彼は呟いた、起き直って爪を噛みながら、「逃げるんだ。」
自分が汽船に乗り込むところ、やがて朝食の卓に向うところ、冷たいビールを飲むところ、甲板に出て婦人たちと話をはじめるところ、それからセヷストーポルで汽車に乗って北へ向うところ──彼の想像は次から次へと展がった。ようこそ、自由よ! 停車場が一つまた一つとひらめき過ぎ、空気は次第に冷え冷えと身にしむ。そら白樺、そら樅。そらクールスク、そらモスクヷ。……停車場の食堂には野菜スープがある、羊肉のオートミールがある、鱘魚料理がある、ビールがある。一と口にいえばもう野蛮なアジアじゃない、ロシヤだ、本当のロシヤだ。乗客たちの話は、商売のこと、新しい声楽家のこと、露仏協商のことだ。どこを見ても、文化的な、教養ある、溌剌颯爽とした生活が感じられる。……急げ、急げ。さあ、やっとネフスキイ広小路だ、ボリシャーヤ・モルスカーヤ通りだ、ああ、ここは学生時代の古巣コヴェンスキイ横町だ。懐しい灰色の空、そぼ降る雨、濡れている辻馬車の馭者。……
「イヷン・アンドレーイチ」と誰か隣室で呼ぶ、「おられますか?」
「いますよ」とラエーフスキイは答える、「何ですか。」
「書類です。」
ラエーフスキイは大儀そうに起ち上がった。少しめまいがする。あくびをしながら、スリッパをぺたつかせて隣の部屋へ行く。往来に立って、開けはなした窓ごしに覗いているのは年若な同僚の一人で、窓の張出しに役所の書類を拡げている。
「今すぐ。」優しくラエーフスキイは言って、インキ壺を取りに行く。やがて窓際に帰って来ると、眼も通さずに署名をして、「暑いねえ。」
「ええ。今日はお出になりますか。」
「さあね。……少し加減が悪いんでね。シェシコーフスキイに、食後にお寄りするって言っといてくれ給え。」
同僚が帰ると、ラエーフスキイはまた書斎の長椅子に寝ころんで、考えはじめた。──
『とにかく、あれやこれやを考えて方針を立てなきゃならん。発つ前にまず借金の片を附けることだ。借金は二千ルーブリからあるところへ持って来て、おれは一文無しだ。……勿論、これは大した問題じゃない。何とかして今一部だけ払って置けば、あとはペテルブルグからでも送れる。なんといっても問題はナヂェージダだ。……まず第一に二人の関係をはっきりさせることだ。……そう。』
やがて、サモイレンコのところへ相談に行って見たら、と考えて見る。
『行って見てもいいさ。だがおそらく何にもなるまい。またおれは、閨房論だの婦人論だの、正しいの正しくないのと、見当はずれの議論をはじめるにきまっている。一刻も早く自分の命を救わなければならないこの際、この呪われた束縛で今にも息が窒りそうで、自殺も同然のこの際、正しいも正しくないもあるものか。……もういい加減にわかってもいい頃だ、このおれのような生活をつづけて行くことが、どんなに卑劣だか、残酷だかが。それに比べれば、他のことは取るに足らぬ些事だ。逃げ出そう!』と起き直って呟いた、『逃げ出そう!』
荒れ寂びた海辺、堪えがたい炎暑、それにいつ見ても黙々と同じ姿をして永遠に孤独な、淡紫に煙りわたる山々の単調さ──こうしたすべてが彼を憂欝にするのだった。それは彼を眠り込ませて、その間に彼の大事なものを盗んだように思われた。いったい自分は、非常に聡明で有能で、とても正しい人間かもしれないのだ。この海や連山に八方から取り囲まれてさえいなければ、自分は地方自治体の錚々の士に、政治家に、雄弁家に、政論家に、功績者になれたかもしれぬのだ。誰がそれを否定できよう。そうだとすれば、例えば音楽家とか画家とかいう天分の豊かな有為の人物が、囚われの境涯を脱れたいばかりに牢を破ったり、看守を瞞したりしたとて、正しい正しくないの問題じゃあるまい。こうした人物の立場から見れば、すべてが正しいのだ。
二時になるとラエーフスキイはナヂェージダと昼食の卓に向い合った。料理女がトマトのはいった米のスープを出したとき、ラエーフスキイが言った。
「毎にち毎にち同じだね。なぜ野菜スープをしないの。」
「キャベツがないんですもの。」
「ふむ、妙だね。サモイレンコのところでもキャベツ・スープをしている。マリヤ・コンスタンチーノヴナのところでも野菜スープが出る。この甘ったるいどろどろした奴を食わされるのは、なぜか知らんがこの僕一人だ、こんなこっちゃ駄目だね、奥さん。」
どこの夫婦もたいていはそうであるが、以前はこの二人も、食事のとき気紛れな口喧嘩をせずにすんだことは一度もなかった。しかし彼女に厭気がさしてからというもの、ラエーフスキイは努めてナヂェージダに逆らわぬようにして、口の利きようももの柔らかに丁寧になった。いつもにこにこして、『奥さん』と呼ぶのだった。
「このスープは甘草汁みたいだね」と彼はにこにこしながら言った。愛想よく見えるようにと努力していたのだが、やはり我慢しきれなくなって、「一体この家には、家のことを見る人間がいないんだ。……君が病気か、それとも読書で忙しいんなら、僕が台所をやろうじゃないか。」
これが以前なら、彼女は「ええ、やって頂戴」とか又は、「じゃ私に料理女になれとおっしゃるのね」とか言い返したにちがいない。だが今では、おずおずと男の方を見て、顔を赤らめるだけだった。
「で、今日は気分はどうだい」と彼は優しくたずねた。
「今日はいい方ですの。ただちょっと元気がないだけ。」
「大事にするんだね、奥さん。僕は心配でならないんだ。」
ナヂェージダはどこか悪いのだった。サモイレンコは間歇熱だと言ってキニーネをくれた。ウスチーモヴィチというもう一人の医者は、昼間は家にいて夜になると両手を後ろに組んで、蘆のステッキをぴんと背中に突立てて静かに海辺を歩き廻わっては咳をするという、人嫌いの背の高い痩せた男だったが、これは婦人病だと言って温湿布をすすめた。以前まだ愛のあった頃は、彼女が病気だと聞くと可哀そうにもなり心配にもなったが、今では病気までが嘘のように思われた。熱発作の終った後のナヂェージダの睡たげな黄色い顔、ものうげな眸とあくび、それから発作の最中に格子縞の毛布をかけて、女というよりは男の子に似ている容子、むんむんと厭な臭いのする女の部屋──すべてこうしたことが、彼に言わせると幻滅の因であり、愛や結婚を否定する素因なのであった。
二皿目には菠薐草と固く茹でた玉子が出た。ナヂェージダは病人だから、牛乳をかけたジェリーだった。彼女が心配そうな顔をしてまず匙で触って見てから、やがて牛乳を啜りながらものうげに食べはじめたとき、こくんと喉の鳴る音がするたびに、彼は嫌悪のあまり髪の根が痒くなるほどだった。こんな感情は、相手が犬の場合でも失礼きわまるものだとは知っていたが、彼は自分を咎める気はせず、かえってこうした感情を起こさせるナヂェージダが無性に腹立たしかった。世の中の男が情婦殺しをする気持がわかるような気がした。勿論自分はそんなことはしまい。しかし、もし自分がいま陪審官になったら、情婦殺しを無罪にするに違いない。
「有難うよ、奥さん。」食事が終ると彼はこう言って、ナヂェージダの額に接吻した。
それから書斎にはいって、ものの五分ほど、横目で長靴を睨みながら隅から隅へ往ったり来たりしていたが、やがて長椅子に腰を下ろして呟いた。
「逃げるんだ、逃げるんだ。きっぱり片をつけて逃げるんだ。」
彼は長椅子に横になった。ふたたび、ナヂェージダの夫の死は自分の罪かもしれぬと思った。
「惚れた、厭気がさした、それだけのことで人間を責めるのは愚だ。」寝ころんだままで長靴を穿こうと両足を持ち上げながら、彼は自分に言い聴かせた、「愛憎は人のよく制するところに非らずさ。あれの亭主が死んだについては、おれも間接の原因の一つなのかもしれんが、おれが彼奴の女房に惚れ、彼奴の女房がおれに惚れたといって、いったいそれがこのおれの罪か。」
彼は起き上ると制帽を探し出して、同僚のシェシコーフスキイのところへ出掛けた。この家には毎日のように役人連が集まって、ヴィント〔四人でするカル
タ遊びの一種〕をしたり冷やし麦酒を飲んだりするのである。
「おれの優柔不断なところはハムレットそっくりだ」と途々ラエーフスキイは考えた、「シェークスピヤの観察はじつに正しい。ああ、じつに正しい!」
退屈を紛らすためと、この町には旅館がないので新らたに赴任して来た人や独身者は食事ができずにひどく困るのを見かねて、軍医サモイレンコは自宅で一種の食堂みたいなものをやっていた。その頃、彼のところに食事に来ていたのは二人だけで、一人は、黒海の夏をめがけてクラゲの発生学の研究に来ている若い動物学者のフォン・コーレン、もう一人は、司祭の老人が療養に出かけている間の代理にこの町へ派遣されて来た、神学校を出たばかりのポビェドフという補祭である。二人とも昼飯と晩飯で月に十二ルーブリずつ出していたが、サモイレンコはこの二人に、きっかり二時に食事に来るという固い約束をさせていた。
先に来るのはいつもフォン・コーレンである。黙って客間の椅子に腰を下ろすと、卓上のアルバムを手にとる。そして、だぶだぶのズボンにシルクハットをかぶった見知らぬ紳士や、箍骨で張ったスカートに頭巾帽をかぶった貴婦人の色の褪めた写真を、注意ぶかく一枚一枚点検する。サモイレンコも殆ど名前は覚えていない。名前を忘れた人のことは、「じつに賢い立派な人物だったが」と言って溜息をするのだった。アルバムの点検がすむと、フォン・コーレンは飾棚からピストルをとって、左の眼を細くして長いことヴォロンツォフ公〔コーカサスの役、トルコの役、ナポレオン戦争に戦功あり、
のちコーカサス総督として、この地方の恩人であった〕を狙っている。さもなくば鏡の前に立って、自分の浅黒い顔や大きな額や、ニグロのように縮れた黒い髪の毛や、ペルシャ絨毯みたいな大きな花模様のある鼠色更紗のワイシャツや、チョッキ代りの幅のひろい革帯やを点検する。この自己観照は、アルバムの検査や高価な象嵌のあるピストルよりもむしろ嬉しそうである。実際彼は、自分の顔つきや、きれいに刈り込んだ小さな顎鬚や、健康と頑丈な体格の立派な証拠である広い肩幅を見るのが、ひどく楽しいのである。上はワイシャツの色に合わせて選んだネクタイから、下は黄色い短靴に至るまで、彼はことごとく自分の伊達好みな服装に満足なのである。
彼がアルバムを点検したり鏡の前に立ったりしている時、台所とそれにつづく板の間では、上着もチョッキも脱ぎ棄てて胸をはだけたサモイレンコが、のぼせ上がって汗だくの態で、サラダや何だかのソースや、冷スープにする肉や胡瓜や玉葱やをこしらえながら、調理台の周りを駈け廻わって、手伝いの従卒を凄い剣幕で睨みつけたり、手あたり次第ナイフやスプーンを振り上げたりしている。
「酢をよこせ」と命令が下る、「それは酢じゃない、オレーフ油だ」と地団駄を踏んで呶鳴る、「どこへ行くんだ、間抜め!」
「バタを取りに、閣下」と、おろおろした従卒が圧しつぶされたようなテノールを出す。
「さっさとしろ。バタなら戸棚だ。それからダーリヤに、胡瓜漬の壺へ蒔蘿を入れさせとけ。蒔蘿だぞ。こら、クリームに蓋をせんか。蠅がたかるじゃないか、頓馬!」
彼の叱咜に家鳴震動せんばかりである。二時十分前か十五分前になると、補祭がやって来る。これは髪を長くした二十二程の痩せぎすの青年で、顎鬚はないが、見えるか見えぬぐらいの口髭がある。客間にはいるとまず聖像に十字を切って、にこやかにフォン・コーレンに手を伸べる。
「やあ」と動物学者は冷やかな調子で、「どこへ行ってましたね。」
「波止場で沙魚を釣っていました。」
「まず、そんなとこでしょう。……お見受けするところ、あなたはいっこうお仕事をなさらんようですが。」
「なあに、仕事は熊じゃないから、森の中へ逃げて行きはしませんさ」と、補祭は祭服の下衣のとても深いポケットに両手を突っ込んだまま、笑いながら言う。
「君ものんきな人だな」と動物学者が歎息した。
それからまた十五分二十分とたつが、食事の報らせはいっこうない。相変らず従卒が板の間から台所へ台所から板の間へ、どたどたと長靴で駈けずり廻わる音と、サモイレンコの叱咜が聞こえるばかりである。──
「テーブルへ載せろというに! こら、どこへ持って行く! 先にそれを洗うんだ。」
腹の減ってたまらぬ補祭とフォン・コーレンはもう我慢がならず、大向うの客よろしくといった調子で、踵で床を鳴らしはじめる。やっと扉が開いて、へとへとになった従卒が、「飯が出来たであります!」と披露する。二人が食堂へはいると、台所の温気でうだって緋の衣みたいな顔色をしたサモイレンコが、ぷりぷりしながら立っている。ぎょろりと二人を睨めつけ、恐々といった顔つきでスープ鉢の蓋を取って、二人の皿に分けてやる。二人がさも旨そうに食べだす様子に、さては気に入ったかと安心が行くのであろう、ほっと息をついて深ぶかとした肘掛椅子に腰を下ろす。すると顔つきまでがぐったりして、とろんとした眼つきになる。……ゆっくりと自分の杯にヴォトカを注いで、こう言う。──
「若き世代の健康を祝す!」
その朝ラエーフスキイと話をしてから昼飯になるまで、サモイレンコはひどく上機嫌ではあったものの、胸の奥に何かしら重い感じがとれなかった。ラエーフスキイが可哀そうで、できることなら助けてやりたいと思っていた。スープにかかる前にヴォトカを一杯飲むと、彼は溜息をついて言った。
「今朝ヷーニャ・ラエーフスキイに逢ったっけ。可哀そうにあの男も苦労しているよ。物質生活にも恵まれていないが、そんなことより精神的に参っている。気の毒なことだ。」
「僕はいっこう気の毒だとは思わんね」とフォン・コーレンが言った、「もし彼奴が溺れかかっていたら、僕はステッキでもっと突っ込んでやるね。さあ、溺れちまえ、溺れ死んじまえってね。」
「嘘つけ。君にそれができるもんか。」
「とは情ないな」と動物学者は肩をすくめて、「僕は善事にかけちゃ君に劣らんつもりだ。」
「人間を溺れさせるのが、善事とは驚いたな」と、補祭が笑い出した。
「ラエーフスキイをかね。そうとも。」
「この冷スープには何か足らんようだ……」と、サモイレンコは話題を変えようとした。
「ラエーフスキイは断然有害な人物だ。社会にとってコレラ菌みたいに危険きわまる奴だ」と、フォン・コーレンは語をつづけた、「奴を溺死させるのは立派な社会奉仕だ。」
「隣人のことをそんな風に言うのは、君にとって名誉じゃないぞ。いったい何がそう憎らしいんだね。」
「つまらんことを言い給うな。ドクトル。細菌を憎んだって仕方がない。細菌を軽蔑したってはじまらん。いわんや、出会した奴ならどこの馬の骨でも一切合財隣人と看做すにいたっては、ありがたい仕合わせながら、思慮がなさすぎるというものだ。人に対する態度に公正を欠くというものだ。一と口に言えば、僕は御免をこうむる。僕は君のラエーフスキイ氏を、人でなしだと思っている。この考えを敢て匿さず、正々堂々と彼を人でなし扱いにしている。ところが君は彼を隣人と看做す。よし御随意にキスなり何なりとし給え。君が隣人と看做すということは、とりも直さず彼を僕乃至この補祭君並みに扱うということだ。すなわち何扱いにもしないということだ。つまり君は誰に対しても一様に無関心なのだ。」
「人でなし呼ばわりするなんて」とサモイレンコはさも厭わしげに眉を顰めて呟いた、「そりゃ君、なんぼなんでも酷すぎるぞ。」
「人はその行為で判断する他はない」とフォン・コーレンはなおつづける、「ねえ補祭君、ひとつ君考えてくれ給え。……僕は君に聴いて貰おう。わがラエーフスキイ氏の行状は、君の眼前にシナの巻物みたいに歴然と繰り展げられている。従って君はその初めから終りまで読むことができるはずだ。彼がここに来て二年のあいだにいったい何をしたか、ひとつ指を折って数えて見よう。まず第一に、彼はこの町の人間にヴィント遊びの味を覚えさせた。二年前まではこの遊びはこの町では知られていなかった。今じゃどうだ、朝から夜中までみんなこれに夢中だ。婦人や未成年者までがやっている。第二に、彼はこの土地の人間にビールを飲むことを教えた。これまた彼が来るまでは無かったことだ。土地の人間がヴォトカの見別け方を覚えたのも一に彼のお蔭だ。今じゃみんな目隠しをされてもコシェリョフ吟造とスミルノフ二十一番とをやすやすと利きわける始末だ。第三に、以前は人の女房と同棲することは人眼を避けてやったものだ。これは泥棒が物を盗むのに人眼を避けて、決して大っぴらにはやらぬと同じ心理だ。人々は姦通というものを、衆人環視裡では行うべからざるものと心得ている。ラエーフスキイはこの点でも先駆者の役目を勤めた。彼は公然と人の女房といっしょになっている。第四に……」
フォン・コーレンはすばやく冷スープを掻き込んで、皿を従卒に渡した。
「僕はラエーフスキイと知り合ったその月のうちに、彼の人物がわかってしまった」と彼は補祭を相手につづけた、「僕は彼と同時にこの町へ来た。いったいああいう種類の人間は、友情とか親密とか仲間とかいうものが非常に好きだ。それはつまり、ヴィントの相手、酒の相手、茶の相手がなくてはすまんからだ。かつお喋りだから、自然聴き手も入用なわけだ。さて僕と彼は友達になった。というのはつまり、毎日彼がふらふらやって来て僕の仕事の邪魔をし、訊きもせぬのに自分の妾のことを洗いざらい喋ったという意味だ。僕は直ぐと、彼の口を衝いて出る途轍もない嘘の連続に唖然とさせられた。ただもう胸が悪くなった。僕は親友として、なぜそう深酒をするのか、なぜ身分不相応な暮らしをして借金ばかりするのか、なぜ遊んでばかりいて本を読まぬのか、なぜそう教養がなく無知なのか──などと一とおりの苦言は呈して見た。それに対して彼は苦笑いをし溜息をついて、こう答えるのを常とした。──『僕は薄命児だ。余計者だ。』乃至『君はわれわれ農奴制の出殻に何を求めようというのか。』あるいはまた、『われわれは頽廃しつつあるのだ』といった調子だ。さもなけりゃ、オネーギンだとか、ペチョーリンだとか、バイロンのカインだとか、バザーロフだとかについて、囈語を並べだす。そして言うのだ。──『これこそ霊肉ともにわれわれの祖先だ。』つまり君、役所の書類が封も開けずに何週間も放り出してあったり、御自身はもとより他人まで酒飲みにさせたからといって、なにも彼が悪いんじゃない。悪いのはオネーギンだ、ペチョーリンだ、薄命児だの余計者だのを発明したツルゲーネフだ、と言うんだね。その言語道断の不品行やふしだらにしても、その原因は彼自身の裡にはなく、どこか彼の外、まあ空中にでもあると言うわけなのだね。それに、どうも性のわるい男でね、不品行で嘘つきで唾棄すべきは何も彼だけなのじゃない、われわれなのだ。……『われわれ八十年代の人間』、『われわれ沈滞しかつ神経質な、農奴制の汚らわしき後裔』、『われわれ文明によって蹇えにされた者ら』なのだ。……一言にして言えば、僕たちは次のことを了解せねばならんのだ。──ラエーフスキイのごとき偉大な人間は、その没落においてもまた偉大であること。彼の不品行、ふしだら、猥雑は、必然によって聖化された自然科学的現象なのであり、その依って来たるところの原因は世界的であり、不可抗力に属すること。かくのごとくラエーフスキイは時代、思潮、遺伝等々の呪われたる犠牲であるから、すべからく彼に燈明を上げなければならぬこと等々。役人連や女連はこれを聴いて『おお』とか『ああ』とか感歎の声を漏らしていたが、僕は長いあいだ、そもそもこれは何者だろうかと了解に苦しんでいた。シニックか、それとも達者な巾着切りか。なにしろ彼のような、一見インテリらしく、少しは教育もあり、自分の生まれのよさを喋々する手合ときたら、際限ない複雑な性格を装うことが上手なものだからね。」
「よさんか!」とサモイレンコは憤然として、「僕の面前で、高潔の士を悪しざまに言うことは許さんぞ。」
「まあ待ち給え、アレクサンドル・ダヴィードィチ」とフォン・コーレンは冷やかに、「もう直ぐ結論にするよ。ラエーフスキイなるものは、きわめて簡単なオルガニズムである。彼の精神の骨骼は次のごとし。──朝、スリッパと海水浴とコーヒー。それから昼飯まで、スリッパと運動とお喋り。二時、スリッパと昼飯と酒。五時、海水浴とお茶と酒。それからヴィントと嘘っぱち。十時、夜食と酒。十二時過ぎ、睡眠とおんな。卵が殻の中にあるように、彼の存在はこの狭小なプログラムを一歩も出ない。彼が歩こうと坐ろうと、怒ろうと書こうと喜ぼうと、そのいっさいは酒と骨牌とスリッパと女に帰するのだ。なかでも女は、彼の生活に運命的、圧倒的な役割を演じている。彼自身の物語るところによると、十三歳にして既に彼は恋をした。大学の一年のとき、さる婦人と同棲したが彼はこの婦人からよき感化を受けたのみならず、その音楽的教養もこの婦人に負うている。大学の二年のとき、彼はさる家から娼婦を請け出して、自分と同等にまで引き上げてやった。つまり妾にした。この女は半年ほどいっしょにいただけでまた元の古巣へ舞い戻ってしまったが、この女に逃げられたことはよほど彼の心の傷手になったそうだ。ああ、かくて彼は悶々の極学業を放棄して、二年間家に為すこともなく過ごさねばならなかった。だがこれが彼に幸いしたというのは、家で彼はある未亡人と慇懃を結ぶことになり、この未亡人が彼に法科をやめて文科に移れと勧めたのだ。彼はその勧めに従った。大学を出ると、彼は今のあの……なんて言ったっけね、あの人妻に熱烈な恋をして、理想とやらを追うてこのコーカサスへ駈落ちをする羽目になった。今日明日のうちにはあの女に厭気がさして、またペテルブルグへ舞い戻るだろうよ。同じく理想を追うてね。」
「どうしてそれがわかる?」とサモイレンコは憎さげに動物学者を睨め据えて呟いた、「それよりもまあ食え。」
鯔の煮附けとポーランド・ソースが出た。サモイレンコは二人の皿に一尾ずつ分けて、自分でソースを掛けてやった。二分ほどは沈黙のうちに過ぎた。
「誰の生活を見たって、女は大切な役割を演じていますよ」と補祭が言う、「こればかりはどうにもならない。」
「それはそうさ。だがそれも程度があろうぜ。われわれにあっては、女は母だ、姉妹だ、妻だ、友達だ。ところがラエーフスキイにあってはどうだ、女はこれらのいっさいであると同時に、またたんに情婦でもある。女──いや女と同棲することが、彼の生活の幸福であり目的なのだ。彼の快活も憂欝も退屈も幻滅も、みんな女が因だ。生活が厭になった──それも女のせいだ。新しい生活の曙光が射した、理想が見出された──そこにも女がいる。……小説でも絵でも、女が描いてなければ面白くない。彼の意見によると、われわれの時代がつまらなく、四十年代や六十年代に比べて劣っているのは、ただただわれわれが恋愛の法悦や情熱にわれを忘れて打ち込む術を知らぬからだそうだ。こういう好色漢の脳髄には、きっと肉腫といった風の特殊な贅肉があって、それが脳髄を圧迫し、心理全体を支配しているに違いない。ラエーフスキイがどこか人中にいるところを観察して見給え、すぐ眼につくことだ。なにか一般的な問題、たとえば細胞とか本能とかの話が出ているうちは、彼は隅に引っ込んで黙っている。ろくろく聴いてもいない。その様子と来たら、いかにもだるい、当てが外れたといった風で、何もかもつまらん、下らん、月並みだといわんばかりの顔をしている。ところが、談ひとたび雌雄のことに及ぶと、たとえば蜘蛛の雌は受胎を終ると雄を食ってしまうというような話がはじまると、彼の眼はたちまち好奇心に燃えて来る、顔が晴ればれして来る、一と口に言えば生き返ったようになる。あの男の考えることは、どんな上品なことでも高尚なことでも平凡なことでも、落ち着く先は一つだ。彼と街を歩いて見給え。例えば向うから驢馬が来たとする。すると、『ねえ君、驢馬の雌に駱駝をかけて見たらどうなるかしら』と来るんだ。それからあの男の見る夢と来たら! 君に夢の話はしなかったかね。なんとも素晴らしいものさ。月と結婚するところとか、警察へ呼び出されて、ギターと同棲を命ぜられるところとか、そんな夢を見るんだ。……」
補祭は噴き出した。サモイレンコは笑いたいのを我慢して、眉をしかめ怒ったような渋面を作ったが、とうとうこれも笑い出した。
「みんなでたらめだ」と彼は涙を拭きながら、「よくもそうでたらめが言えるね。」
補祭はとても笑い上戸で、つまらぬことをいちいち、横腹の痛くなるまで笑い転ける。彼が人中へ出るのが好きなのは、人々にそれぞれ滑稽な一面があって、それに滑稽な綽名をつけられる、それだけが目的だとも見える。サモイレンコには嚢蜘蛛という綽名をつけた。従卒には雄鴨という名をつけた。いつかフォン・コーレンが、ラエーフスキイとナヂェージダに『猿の夫婦』の尊称を奉った時には、有頂天になって喜んだ。彼は貪るように相手の顔に見入る。瞬きもしないで相手の言葉に聴き入る。その眼がだんだん笑いで一杯になり、今に思う存分笑い転げられるぞと、期待で顔が緊張して来る様子がありありと見られる。
「奴は腐敗漢だ、堕落漢だ」と動物学者はつづけた。補祭は、おかしい言葉は出て来ないかとじっとその顔に見入る。「あんな下らん奴にはそう滅多にはお目にかかれん。肉体的にも彼は無気力で懦弱で老人臭い。その智力に至っては、ただ食い飲み羽蒲団に眠り、抱えの馭者を情夫にしている商人女と何ら択ぶところはない。」
補祭はまた笑い出した。
「まあ笑い給うな、補祭君」とフォン・コーレンは言った、「結局は馬鹿げた話さ。だが僕だって、奴の下らなさ加減に注意しておられるほどの閑人じゃない」と、彼は補祭の笑い歇むのを待って言葉をつづけた、「あの男が害毒を流す危険人物でさえなかったら、僕は一顧も与えずに素通りしただろうよ。奴の害毒はまず第一に、女にもてることにある。その結果、後裔を輩出せしめる懼れがある。すなわち、奴自身と同様に懦弱かつ堕落したラエーフスキイを、一ダアスもこの世に送り出す危険性がある。第二に、奴は高度の伝染性を持っている、ヴィントや麦酒のことはさっき言ったとおりだ。もう二年もすれば、彼はコーカサスの全海岸を征服し尽すに違いない。君も知ってのとおり、民衆殊にその中間階級なるものは、インテリ臭だの、大学教育だの、上品な物腰だの、文学めいた言い廻わしだのに、ころりと参るものだ。たとえ彼がどんな怪しからん振舞いをしようと、立派なことだ、ああしなけりゃならんと皆がそう思う。なぜなら、彼はインテリで、自由主義で、大学を出た男だからだ。かてて加えて彼は薄命児だ、余計者だ、神経衰弱だ、時代の犠牲だ。ということは、つまり彼は何をしても許されるという意味に他ならない。彼は愛すべき男だ、誠実な男だ、人間の弱点に対して心から寛大だ。素直でおとなしい、傲慢でない、彼となら酒も飲めるし、猥談も人の蔭口も遠慮なくできる。……一体宗教上でも道徳上でも神人同形説に傾きがちな民衆は、自分と同じ弱点を持っている偶像が大好きなのだね。ねえ君、これで奴の病毒の伝染区域がいかに広いかがわかるだろう。そのうえ彼はなかなかの役者だ、巧みな偽善者だ、何もかもよく弁えたものさ。たとえば奴の舌先の手品を見て見給え。文明に対する彼の態度でもいい。文明のブの字も嗅いだことがないくせに、『ああ、僕たちはどこまで文明に毒されているのだ! ああ僕はじつに野蛮人が羨ましい。文明の何かを知らぬ自然児が羨ましい』などと言う。してみると奴はかつての昔、全身全霊を挙げて文明に捧げたことがあると見える。文明に仕え、文明の奥の奥まで理解したにもかかわらず、文明は彼を倦ませ、幻滅させ、裏切り去ったものと見える。すなわち彼はファウストだ、第二のトルストイだ。……ショペンハウエルやスペンサーに至ってはまるで小僧っ児扱いで、親爺然と肩でもぽんと叩いて、『おいどうだい、スペンサー』といった調子だ。勿論スペンサーなんか一行だって読んじゃいないんだが、自分の女の話をして、『とにかくスペンサーを読んだ女だからね』などとなにげない軽い皮肉を言う時にゃ、まったく可愛くなるよ。ところがみんな大人しく聴いている。あの山師にはスペンサーのことをそんなふうに言う資格はおろか、その靴の裏に接吻する資格だってないことを、誰一人わかろうとはしないんだ。文明や権威の土台をほじくり返す、他人の祭壇の下をほじくり返す、泥をはねかす、おどけた横眼を使って見せる。それもただ、自分の懦弱さや精神の貧窮を押し匿し表面を繕いたいばかりにね。こんな真似の出来るのは、自惚れあがった卑劣な醜怪な動物だけだ。」
「ねえコーリャ、君はいったいあの男をどうしようと言うのかね」とサモイレンコは動物学者をじっと見ながら言った。その顔に憎悪の色は消えて、今度はすまなそうな顔をしている。──「あの男は何も人と変ったところはないじゃないか。そりゃ欠点はある。しかしちゃんと現代思想の水準に立って、役所に勤め、国家に貢献している。十年ほど前この町に老人の嘱託がいたが、それがまた非常な秀才でね、よくこう言い言いしたものだよ……」
「ああ沢山、沢山」と動物学者は遮って、「君は奴が役所に出ていると言うね。だがその勤め振りはどうだ! 彼がこの町に現われた結果、果たして秩序がよくなったかね。果たして役人たちが几帳面に丁寧になったかね。事実はこれに反し、その大学出のインテリたる権威をもって、彼らの放埒を是認したにとどまる。彼が几帳面に勤めるのは月給日の二十日だけだ。あとは家でスリッパをぺたぺた言わせながら、俺がコーカサスにいてやるだけでも、ロシヤ政府はありがたいと思えというような顔をしている。いや駄目だ、アレクサンドル・ダヴィードィチ、奴の肩なんか持ち給うな。君は徹頭徹尾、実意のない男だよ。君がもし本当にあの男が好きで、あえて隣人と認めるなら、まず最初に彼の欠点に無関心ではおられぬはずだ。彼に対して寛大ではおられぬはずだ。それどころか、彼のためにも、どうにかして無害な人間にしてやりたいと考えるところだ。」
「というと?」
「無害な人間にするのさ。もう矯正の見込みはない人間だから、無害にしちまう方法はただ一つ……」
フォン・コーレンは指で自分の頸筋に線を引いて見せて、
「さもなけりゃ土左衛門にでもするか」と言い添えた、「人類の福祉のため、また彼ら自らの利益のためにも、ああした連中は絶滅さるべきだ。断じてそうだ。」
「君はなんてことをいう?」サモイレンコは腰を浮かせて、動物学者の冷静な顔を呆れたように眺めながら言った。──「補祭君、この男は何を言ってるんだろう。君、気は確かだろうね。」
「僕は必ずしも死刑を主張しはしない」とフォン・コーレンは言った、「死刑が有害だと言うんなら、なにかべつの遣り方を考えるさ。ラエーフスキイを殺しちゃいかんとなれば、いっそ隔離しちまうか。番号でも附けて、土木工事〔飢饉や不況時に、その匡救のため国家
や社会団体が興す公共土木事業を指す〕に追い使うか。……」
「まったくなんてことを言う」サモイレンコは身ぶるいをした。「あ、胡椒、胡椒」と、挽肉を詰物にしたとうなすを、胡椒を掛けずに補祭が食いだしたのを見て、彼は情ない声を出して、「あの聡明極まる男のことを、君はなんてことを言う! 吾人の親友、矜りある知識人を君は土方にするというのか!」
「なまじっか矜りがあって反抗でもしたら、それこそ足枷だ。」
サモイレンコはもう一と言も口が利けない。指をぴくぴくやっているだけである。その唖然としたいかにも滑稽な顔つきを見て、補祭は笑い出した。
「もうこの話はやめにしよう」と動物学者が言った、「ただね、アレクサンドル・ダヴィードィチ、この事だけは忘れずにい給え。──原始時代の人類は生存競争や自然淘汰のおかげで、ラエーフスキイの徒の跳梁を免れていた。今やわれわれの文化は著しくこの生存競争及び淘汰作用を弱め、われわれは自ら、虚弱者、不適者の絶滅に心を労さねばならぬことになった。さもないと、他日ラエーフスキイの徒が繁殖を遂げた暁には、文明は亡び人類は遂に退化するだろうからね。もしそうなったら、それはわれわれの罪だ。」
「人間を溺れ死なせたり、首を絞めたりしなけりゃならんのなら」とサモイレンコは言い返した、「そんな文明が何になる、そんな人類が何になる。ええ、何になる! 僕は君に言いたいことがある。なるほど君は大学者だ、非常な秀才だ、祖国の誇りだ。だが惜しむらくは君はドイツ人に毒された。そうとも、ドイツ人、ドイツ人。」
サモイレンコは医学を学んだデルプト〔公式のロシヤ名をユーリエフと言った。また一
名ドルパード。現在はエストニヤの都市である〕を去って以来、ドイツ人にはたまにしか逢わず、ドイツの本などは手にしたこともなかった。しかし、彼の意見によれば、政治上及び学問上の一切の邪説はことごとくドイツ人が因なのである。いったいどうしてこんな意見になったのかは自分でも知らなかったが、とにかく彼はこの見解を持して譲らなかった。
「そうとも、ドイツ人」と彼はもう一ぺん繰り返して、「さあ、お茶を飲みに行こう。」
三人は起ち上がって帽子をかぶると、柵をめぐらした小庭の方へ出て行った。そこには梨や栗や淡色の楓などが蔭を作っている。三人は樹蔭に腰をおろした。動物学者と補祭は小卓の前のベンチに陣取り、サモイレンコは広い斜めの凭れのある籐椅子に身を沈めた。従卒が茶とジャムとシロップを一本持って来た。
その日は非常に暑く、日蔭でも三十度はあった。大気は死んだようにそよりともせず、長い蜘蛛の網が栗の梢から地上に力なく垂れ下がったまま、じっと揺れずにいた。
補祭はいつも小卓の足もとに転がしてあるギターを取り上げて、調子を合わせてから細い声で、
と静かに歌いはじめた。が暑いのですぐやめ、額の汗を拭いて、燃えるような青空を振り仰いだ。サモイレンコは居眠りをはじめた。暑さと静けさと、いつか五体に行きわたった快い食後の睡気に誘われて、ぐったりと酔い心地なのだ。彼の両手はだらりと下がってしまった。眼は細くなり頭は胸に垂れ落ちた。そして、ほろりとしたような面持でフォン・コーレンと補祭の方を眺めて、もぐもぐと呟きはじめた。
「若き世代……学界の明星と教会の光明か……そうら、裾を引きずったハレルヤどのが、するすると大司教に御昇進、まあさ、御手に接吻せにゃなるまい……それもよしよし……どうぞまあ……」
まもなく鼾が聞こえだした。フォン・コーレンと補祭は茶を飲み乾して、おもてへ出て行った。
「君はまた波止場ではぜ釣りですかね」と動物学者が訊いた。
「いや、暑いからやめです。」
「僕の家へ来給えよ。そして小包をこしらえるなり、清書をするなりして見ないか。ついでに君の仕事のこともいっしょに考えて見よう。補祭君、働かなくちゃいかんよ。そんなことじゃ駄目だ。」
「あなたの言われることはいちいちもっともです」と補祭は言った、「だが僕の怠惰は、僕の今の生活の事情を思えば無理もないらしい。どっちつかずの状態が著しく人間を因循にすることは、あなたも御存じでしょうな。僕はここへ一時派遣されて来たのか、それとも永久になのか、神様だけが御存じでさ。僕はここでしがない暮らしをしている。女房は親父のところで、なすこともなく退屈している。じつを言うと、この暑さで脳味噌が少々ふやけた形ですよ。」
「そんな馬鹿なことはない」と動物学者は打消して、「暑さにはすぐ慣れる。女房のいないのにもすぐ慣れる。怠け癖をつけちゃいかん。いつも緊張していなくちゃ駄目だ。」
朝、ナヂェージダ・フョードロヴナは海水浴に出かけた。料理女のオリガが、水差しと銅の金盥とタオルと海綿を持って、後からついて行く。沖の錨地に、汚れた白煙突をした見慣れぬ汽船が二艘碇泊している。外国の貨物船らしい。白服に白靴の男たちが波止場を歩き廻わって、フランス語で何か声高に喚いている。汽船からそれに叫び返す。町の小さな教会でカアンカアンと鐘が鳴っている。
「そう、今日は日曜だっけ」と思うとナヂェージダは嬉しかった。
彼女は非常に気分がいいのだ。うきうきした休日らしい気持なのだ。男物の生地の粗い繭紬で作った、仕立おろしの寛やかな服を着て、大きな麦藁帽子をかぶっている。麦藁帽子の広い縁が両耳のところでぐっと折れ曲がっているところは、ちょうど顔が人形箱から覗いてでもいるような恰好で、じつに愛くるしく見えるにちがいないと思えた。また彼女は思うのだった。いったいこの町で、若くって美しくって教育のある女といったら、この私一人しかいないのだ、また優美で趣味があってしかも経済的な身装の出来る女も、自分一人しかいないのだ。この着物にしてもたった二十二ルーブリしか掛けてないのだが、とてもよく見えるじゃないか。魅力のある女といったら、町じゅう探しても私一人しかいない。ところが男は大勢だ。だからみんな、自然とラエーフスキイのことを羨んでいるにちがいない。
近ごろラエーフスキイの態度が冷たくなって、取ってつけたような鄭重さを見せたり、時には無慈悲で粗暴な態度さえ見せるようになったことが、彼女にはむしろ嬉しかった。彼のヒステリックな言動や、蔑むような冷やかな、奇怪ともなんとも不可解な視線を投げつけられたら、以前の彼女なら泣きもしたろう、怨みもしたろう、出て行きますとか飢え死に死んじまうとか脅し文句も並べたろう。ところが今では、そんな扱いを受けてもただ顔を赤らめて、すまなそうな眼つきで彼を見るだけで、心では彼がちやほやしてくれないのがかえってありがたいのだった。いっそ悪態でも愛想尽かしでも思いきり吐いてくれたなら、さぞさばさばしたいい気持になれるに異いない。というわけは、彼女は彼に対して、なにから何まですまないことだらけだと感じていたからである。彼にすまないことの第一は、彼がペテルブルグを棄ててはるばるこのコーカサスまでやって来た当の目的である勤労生活の夢想に、自分が共鳴できなかったことである。近ごろ男の機嫌の悪いのは、てっきりそのせいだと信じ込んでいる。コーカサスへ来る旅の道中で、彼女が心に描いていたものは何だったろうか。──着けばもうその日のうちに、海べりの閑静なわが家が見つかる。樹々が蔭をつくり、小鳥が啼き交わし、小流れのせせらぎもする楽しいそこの小庭に、草花を植えよう、野菜も作ろう、家鴨や鶏も飼おう、近所の人を招いたり、貧しいお百姓の療治をしてやったり、本を頒けてやったりもしよう……。ところが来てみると、コーカサスというところは禿山と森林と巨きな谿谷ばかりで、気長に計画を立て、精出して経営しなければならぬ場所だった。近所の人がお客に来るどころか、大へんな暑さで、追剥さえ出かねないありさまだ。ラエーフスキイもべつに急いで土地を手に入れようとする気配もない。これは彼女にとってありがたいことだった。まるで二人の間には、二度と勤労生活のことは口にしまいという黙契ができているようだった。男が黙っているのは、つまり自分の方から言い出さないのを怒っているのだと、彼女は思うのだった。
第二に、彼女は男には黙って、アチミアーノフの店から細々したものを、この二年のあいだにかれこれ三百ルーブリも買い込んでしまった。やれ布地、やれ絹地、やれ日傘と僅かなものが積もり積もって、いつのまにかこんなに借りが出来たのである。
「今日こそは言ってしまおう……」と彼女は決心するのだったが、いやラエーフスキイのこの頃の機嫌の悪さでは、借金の話なんか持ち出さぬほうが無事だと、すぐに思い返した。
第三に気が咎めるのは、ラエーフスキイの留守のときに、もう二度も警察署長のキリーリンを家に上げたことである。一度は朝で、ラエーフスキイが海水浴へ出掛けたあとだった。もう一度は夜中で、彼はカルタをしに行って留守だった。これを思い出すとナヂェージダは耳のつけ根まで紅くなって、料理女の方をちらと見た。まるで自分の想念を盗み聴かれはしまいかと怖れるかのように。……昼間の長さ、たまらないその暑さ、退屈さ。宵の美しさ、悩ましさ。夜中の蒸暑さ。そして朝から晩まで、ひたすら時間を持てあまして暮らすこの生活。自分こそこの町で一番の若い美しい女だ、ぐずぐずしていてはこの若さも空しく過ぎてしまう、と片時も耳許を離れない内心の囁き。そしてまた、なるほど潔白で思想的な男かも知れないが、単調で、二六時ちゅうスリッパをぺたぺた言わせ、爪を噛み、我儘ばかり言ってうんざりさせるラエーフスキイ自身。──これらの要素が相寄って、次第次第に彼女をある慾望の俘にしてしまったのであった。もう今では、夜も昼も彼女の想念には一つことしかない。自分の息づかいにも、眸にも、声の調子にも、歩み振りにも、彼女は自らの慾望の息吹きをしか感じない。潮騒も恋せよとささやく、宵闇も恋せよとささやく、山々もまた恋せよとささやく。……で、キリーリンが言い寄った頃には、彼女はもう抗う力も気持もなくて、そのまま身を任せてしまったのであった。……
いま、外国の汽船や白服の男たちを見ていると、なぜかしら大広間の光景が心に浮かんだ。フランス語の話声に入れ交って、彼女の耳のなかでワルツの響きがしはじめ、故知らぬよろこびに胸がときめくのだった。ダンスがしたくなった。フランス語が話して見たくなった。
自分の不貞はべつに大したことではないのだ、と考えると嬉しかった。心で不貞をした覚えはないのだ。自分は相変らずラエーフスキイを愛している。論より証拠、自分はまだ彼に嫉妬も感じるし、彼が家にいないと淋しくしょんぼりしているではないか。ところがキリーリンはいっこうつまらぬ男だった。美男子じゃあるけれどがさつな男だった。もう彼との関係は切れているし、これからだって赤の他人だ。過去は過去、なにも他人の知ったことじゃない。万一ラエーフスキイの耳にはいったところで、まさか本当にしはしまい。
海岸には婦人用の海水小屋が一つあるきりで、男は野天で水浴をするのだった。ナヂェージダが小屋にはいって行くと、例のマリヤ・コンスタンチーノヴナという中婆さんの官吏夫人と、その娘でカーチャという十五の女学生とがいた。二人はベンチに腰かけて、着物を脱いでいるところだった。マリヤ・コンスタンチーノヴナというのは人の好い、すぐ夢中になる、よく気のつく婦人で、一と言ひとこと長く伸ばして、いかにも感きわまったような物の言い方をする。三十二の歳まで家庭教師をして、それから官吏ビチューゴフに嫁いだ。これはわずかに禿げ残った毛を念入りに両の小鬢に撫でつけた、じつにおとなしい小男である。彼女はいまだにこの亭主に惚れていて、やきもちもやくし、『愛』という言葉を口にするたびに顔を赤くし、私とても幸福ですわと逢う人ごとに吹聴する。
「まあ、あなた!」彼女はナヂェージダの顔を見ると、つきあい仲間に名高い『巴旦杏表情』というのを早速やって、飛び立つような声を出した、「あなたがお出でになるなんて、ほんとうに嬉しい。さ、ごいっしょにはいりましょう。素敵ですわ。」
オリガは手早く自分の着物と肌着を脱いでしまって、主人の脱衣にとりかかった。
「今日は昨日ほどお暑くございませんのね、そうお思いなさらなくって?」とナヂェージダは、下女が裸身を不遠慮にすりつけて来るのに身を縮めながら言った、「昨日の蒸暑さには本当に死にそうでしたわ。」
「ほんとにねえ、あなた。あたくしももう今にも息がつまりそうでございましたわ。まるで嘘みたいですけど、あたくし三度も海水浴を致しましたのですのよ。……三度もでございますわ、あなた。しまいにはさすがのニコヂームも心配いたしましてね。」
『よくもまあこう不縹緻が揃ったもんだ』とナヂェージダは、オリガと官吏夫人を見比べながら心に思う。それからカーチャを見て、『娘の方はまず十人並みだ』と思う。「本当にお宅のニコヂーム・アレクサンドルィチはなんて思いやりのある方でしょう」と今度は声に出して、「私すっかり首ったけになりましてよ。」
「ほほほ」とマリヤ・コンスタンチーノヴナは無理に笑って、「まあ、素敵ですわ!」
着物から解き放たれると、ナヂェージダはそのまま飛び立ちたい慾望を感じた。実際、両手を羽搏いたらきっと大空へ舞い上がれる、とそんな気がした。裸になった彼女は、自分の真白な肌を、オリガが厭悪の眸でじろじろ見ているのに気がついた。オリガは若い兵隊の女房で、正式の夫婦生活をしている。だから自分は女主人より立派な女、一だん上の女と考えている。またナヂェージダは、マリヤ・コンスタンチーノヴナにしてもカーチャにしても、やはり自分を尊敬の眼で見てはくれず、むしろ気味悪がっていることに気づいていた。それに気づくといまいましかった。で、彼らの眼に映る自分の姿を引立てようと思って、
「あたくしどもペテルブルグでは、今時分はもう避暑地が大賑わいでございましてよ。宅にもあたくしにもそりゃ大勢友達がおりましてねえ。一度会いに帰らなければと思いますの。」
「御主人様はたしか技師でいらっしゃいましたのね」とこわごわマリヤが訊く。
「あたくしラエーフスキイのことを申しておりますの。あれには本当に大勢お友達がありますの。けれどねえ、困ったことにあれの母親が気位の高い貴族主義で、わからず屋で……」
しまいまで言わずに、ナヂェージダは勢よく水へ飛び込んだ。マリヤ・コンスタンチーノヴナとカーチャもそれにつづく。
「本当にこの世間にはいろんな偏見がございますのね」とナヂェージダは言葉をついだ、「見掛けほど住みよいところではございませんわ。」
家庭教師をして貴族的な家庭を渡り歩いたこともあり、一とおりは酸いも甘いもかみ分けたマリヤ・コンスタンチーノヴナは、それに相槌を打って、
「ほんとにそうでございますよ。まるで嘘みたいな話ですけど、ガラトィンスキイのお屋敷では、昼餐はもとより、朝御飯のときまで第一公式で出なければいけませんの。だものですからあたくし、女優さんみたいに、お手当のほかにお化粧料まで頂いとりましたのですのよ。」
ナヂェージダを洗った水からわが娘を守ろうとでもするように、彼女は二人の間に立ち塞がっていた。海に向って開け放してある扉口から、誰だか百歩ほどの沖合を泳いでいるのが見える。
「ママ、あれうちのコースチャだわ」とカーチャが言う。
「あら、まあ」マリヤ・コンスタンチーノヴナはびっくりして牝鶏みたいな声を出す、「まあ、コースチャ!」と呼び立てる、「帰っといで、コースチャ、帰っといで!」
十四になるコースチャは、母親と姉に勇気を見せるつもりか、くるりと潜ってまた沖の方へ泳ぎだした。が、すぐ疲れたと見え、大急ぎで引き返して来た。その真剣な緊張した顔を見ると、どうやら自信はないらしい。
「ほんとに男の子には泣かされますわねえ。」ほっとしてマリヤ・コンスタンチーノヴナが言った、「今にも首の骨を折りはしまいかと、はらはら致しますんですのよ。ねえあなた、子の母になりますのは、楽しみもございますけど、それなりにずいぶん辛いものですわ。気の休まる暇もございませんものね。」
ナヂェージダは麦藁帽子をかぶると、小屋から外海へ泳ぎ出した。ものの五分間ほど泳いだところで仰向きに寝た。水平線まで広々と海が見える。汽船、岸にいる人びと、町も手にとるようだ。それに炎暑や透明な柔しい波が一緒になって、彼女をそそり立て、その耳に『生活しなければ、生活しなければ』と囁くのだった。……すぐ傍を、力づよく波と空気を切りながら、ヨットが一隻矢のように走り過ぎた。舵を取っている男が、じっと彼女を見て行った。そして彼女は、人に見られるのが快かった。……
水から上がると婦人たちは着物を着て、一緒に歩き出した。
「わたくし一日置きに熱が出ますの。それでいて、ちっとも瘠せませんのよ」とナヂェージダは海水で塩辛くなった脣を舌先で清める一方、顔見知りの人々の挨拶に笑顔で応えながら言った、「昔から肥ってはおりましたけど、近ごろまた肥って来たような気がしますの。」
「それはあなた、そういう質でらっしゃるからですわ。肥らない質の人間ですと、まああたくしみたように、なにを頂いてもいっこう利目がありませんのよ。あらあなた、お帽子がぐしょ濡れよ。」
「かまいませんわ。すぐ乾きましてよ。」
ふたたびナヂェージダは、白服の男たちがフランス語で喋りながら海岸通りを歩いているのを眼にする。するとふたたび故しらぬよろこびで胸が波立ちはじめ、どこかの大広間のありさまがおぼろに浮かび出る。いつか自分が踊ったことのある広間のようでもある。あるいはいつかの夢で見たのかもしれない。すると胸の奥の方で、自分はつまらぬ、平凡な、やくざな、取るに足らぬ女だ、と幽かに洞ろな声で囁くものがある。……
マリヤ・コンスタンチーノヴナは自分の家の門口で立ち止まると、寄って一休みして行くようにすすめた。
「お寄り遊ばせな、ねえ、あなた」と手を合わさんばかりの声だったが、と同時にナヂェージダをちらと窺ったその眸には、迷惑そうな色と、まさか寄って行きはしまいという安心の色とがあった。
「じゃ寄せて頂きますわ」とナヂェージダは遠慮をせずに、「あたくし、お宅に伺うのがそりゃ楽しみなんですの。」
そう言いながら彼女は上がって来た。マリヤ・コンスタンチーノヴナは彼女に椅子をすすめ、コーヒーと乳入りパンを出し、それから昔の教え子たちの写真を見せる。ガラトィンスキイ家の令嬢で、今ではみんな縁づいている。また、カーチャとコースチャの通信簿を出して見せる。成績は非常にいいのだが、それをなおさらよく見せるため溜息をついて、本当に今どきの中学はむずかしくてとこぼす。……さまざまに客をもてなしてはいるが、その一方ではナヂェージダを上げたことを後悔している。彼女と同席したため、コースチャやカーチャが悪い感化を受けはしまいかと気を揉んだり、でもニコヂームが留守でよかったと胸を撫で下ろしたりしている。男というものはみんな、えて『こんな』女が好きなものだから、ニコヂームだってナヂェージダから悪い感化を受けまいものでもないと思うのだ。
客と話しているあいだじゅう、今晩催されるピクニックのことがマリヤ・コンスタンチーノヴナの頭を離れない。このことは猿の夫婦──つまりラエーフスキイとナヂェージダには黙っているように、フォン・コーレンからくれぐれも頼まれていたものである。だが彼女はつい口をすべらしてしまう。そして真赤になって、どぎまぎしながら、
「あなたもいらしったらいかが。」
町から南へ二里ばかり、黒河と黄河と呼ばれる二つの小川の合するところにある居酒屋の辺で馬車をとめて、魚のスープでも煮ようというのが、その日のプランであった。五時を廻るとすぐ出発した。先頭の四輪馬車にはサモイレンコとラエーフスキイが乗り込み、次の半幌馬車は三頭立てで、マリヤ・コンスタンチーノヴナとナヂェージダと、それからカーチャとコースチャが乗っている。食糧の籠と食器類はこの車に積み込んである。次の馬車には署長のキリーリンと、アチミアーノフという青年が乗っている。これはナヂェージダが三百ルーブリの借りをこしらえた例の商人アチミアーノフの息子だ。この二人と向いあわせの席には、ニコヂーム・アレクサンドルィチが、ちょこんとあぐらをかいて身体を縮めて坐っている。これは小鬢の髪を撫でつけた、几帳面な小男である。一番後の車にはフォン・コーレンと補祭が乗っている。補祭の脚の間には魚を入れた籃が立ててある。
「み、右!」と、土人の荷馬車や、驢馬に乗ったアブハジヤ人に出くわすたびに、サモイレンコがあらん限りの声で呶鳴る。
「もう二年すると僕は資金も人手も揃うんだ。そしたら僕は探険旅行に出掛ける」とフォン・コーレンが補祭にいう、「ウラジオから海岸づたいにベーリング海峡に出て、それからエニセイの河口まで行くんだ。地図を作る。地方の動植物を研究する。地質学や、人類学・人種誌学的な研究を精細にやる。君も来たいなら一緒に来ちゃどうかね。」
「そりゃ駄目です」と補祭が言う。
「なぜ駄目さ。」
「僕は足手まといのある人間ですよ。」
「なあに妻君は出してくれるさ。妻君の生活は僕らが保障しようじゃないか。君が妻君を説きつけて、公益のため尼さんにならせることが出来たら一番いいな。そうなりゃ君も出家できるし、修道僧になって探険に出掛けられるわけだ。その気なら僕も一つ骨を折るぜ。」
補祭は黙っている。
「君は専門の神学の方は明るいのかね」と動物学者が訊く。
「あんまり明るくもないんです。」
「ふむ。……僕も神学の方は一向御無沙汰だから、それにかけちゃ何の助言も出来ないがね。じゃ君の要る本の目録を作ってくれないか。この冬ペテルブルグから送ってあげよう。行脚僧の旅行記なんかも一通り眼を通す必要があるね。ああいう連中の中には、立派な人種誌学者や東洋語の大家がいるからね。で、彼らの遣り口に親しむと、ずっと仕事がやりよくなる。そこでと、差当っては本がないからといって時間を無駄にしちゃいけない。僕のところへ来て、コンパスの使い方を覚えたり、一通り気象学をやって置くんだね。これはみんな必要なことだ。」
「そりゃまあそうだが……」と補祭は呟いて、それから笑いだした、「じつは中央アジアの方に口を頼んであるんですよ。司祭長をしている伯父も尽力してくれるそうだし。あなたと一緒に出掛けるとなると、みんなに無駄骨を折らせることになりますね。」
「なんだって君は躊躇するんだろう。君がいつまでも、世間並みの補祭でいて、休日だけ勤めてそのあとはぶらぶらしているようだと、十年たったって元の杢阿弥だぜ。そりゃ口髭と顎鬚ぐらいは殖えるかも知れん。ところが君が探険から帰ったとなると、その十年間に見違えるような人間になる。とにかく一つの仕事を果たしたという自覚が、君を富ませるのだ。」
婦人連の馬車から、恐怖と歓喜のきいきい声が起こった。馬車の列はいま、まるで垂直な岩壁の中腹に切り開いた道にかかっている。高い壁に取りつけた吊棚の上を走っているようなもので、今にも馬車が谷底へ転がり落ちはしまいかとはらはらさせる。右手には海がひらけている。左手はでこぼこした褐色の壁で、黒い斑点や紅い岩脈のうえを樹の根が這い廻っている。頭上にはよく茂った針葉樹が枝を垂れ、怖いもの見たさの及び腰で下を覗いている。少しするとまた金切声と笑声が起こった。押しかぶさるような巨岩の下をくぐるのである。
「いったい何しに君たちのお伴をしているのか、僕にはわけがわからん」とラエーフスキイが言う、「じつに愚劣で俗悪だ。僕は北へ行かなくちゃならんのだ。自分を救うために北へ逃げ出さなくちゃならんのだ。だのにこんな馬鹿げたピクニックのお伴なんかしている。」
「それよりもまあ見ろよ。なんてすばらしい見晴らしだ!」サモイレンコは、馬車が左に折れて黄河の谿が眼前に展けるとともに、黄色く濁った川筋がきらきらと光り狂うのを見て言った。
「サーシャ、僕にはちっとも感服できんね」とラエーフスキイは答える、「自然を嘆賞してやまないのは、われとわが想像力の貧しさを語るものだ。僕の空想に描かれるものに比べると、こんな小川や岩ぼこは塵芥だ、それ以外の何ものでもない。」
馬車はもう小川に沿うて走っている。見上げるばかりの切り立った岩壁は両方から次第に近づき、谿がせばまって、行手は峡になっている。馬車の行く道ばたの岩山は、自然の手が巨大な岩塊を畳み上げたもので、巨岩が凄まじい力で互いに押しあいへし合いしている有様は、見やるごとにサモイレンコが思わず唸り出さずにはおられぬ底のものだった。夕暗の迫った美しい山の所々に細い裂目や峡ができていて、そこからはしめっぽい風や神秘の気が吹きつけて来た。峡をとおして、ほかの山々が見える。褐色のや薔薇色のや、薄紫のや靄のかかったのや、あるいはまたきららかな落日を浴びたのが。馬車が峡の前を行くときは、どこか高いところから落ちる水があると見え、滴の音が時おり聞こえる。
「ああ、呪うべき山々よ」とラエーフスキイは嘆息した、「僕はもう厭々したよ。」
黒河の流れが黄河に落ちて、インクのように黒々とした水が黄色い水を濁して闘っているところ、そこの道のはずれに韃靼人ケルバライの営む居酒屋があった。屋根の上にロシヤの国旗を立て、看板には白墨で『楽々亭』と書いてある。傍の柴垣をめぐらした小さな庭に、テーブルやベンチが置いてある。見すぼらしい茨の繁みに、こんもりと美しい糸杉が一本だけ聳えている。
小柄で捷こそうな韃靼人のケルバライは、青シャツに白い前掛けをして道に立っていたが、両手を腹に当て低いお辞儀をして、馬車の一行を迎えた。そしてにこにこしながら白いきれいな歯を見せた。
「やあ、ケルバライカ!」とサモイレンコが呼びかけた、「俺たちはもう少し先へ行く。貴様はあとからサモヷルと椅子を持って来い。直ぐだぞ。」
ケルバライはいが栗頭を縦に振ってなにやら呟いたが、その声は最後の馬車の人にしかわからなかった。「岩魚がございます、閣下。」
「持って来い、持ってこい」とフォン・コーレンがそれに答えた。
居酒屋を過ぎて五百歩ほどのところで馬車は停った。サモイレンコは、腰を下ろすにちょうどいい石の散らばっている小さな草場を見つけた。暴風に吹き倒された樹が一本、長い鬚のある根をむき出し、かさかさに枯れた黄色い刺を見せて横たわっている。丸太を組んだ危なっかしい橋がそこの流れに渡してあり、ちょうどその向い岸に、四本の低い杙を脚にした納屋がある。これは玉蜀黍を乾す小屋で、どうやらお伽噺に出てくる鶏足の百姓小舎に似ている。戸口には小さな梯子がかかっている。
一同の受けた第一印象は、いくらじたばたしてもここからは脱け出せまいという感じだった。どこを向いても重畳たる山々がのしかかっている。そして居酒屋と黒々とした糸杉の方角から、夜の影は見る見る押し寄せて来る。そのため、それでなくても狭い曲りくねった黒河の谿はいよいよ狭く思われ、四方の山々はますます高く見える。ごうごうと川が鳴る。しきりなしに蝉が鳴く。
「まあ好いこと!」とマリヤ・コンスタンチーノヴナが、うっとりして深い息を吸い込みながら言った、「ねえお前たち、御覧よ。なんていいんだろう。なんて静かなんだろうね。」
「そう、じつにいい」とラエーフスキイも相槌を打った。この景色は彼の気に入った。それに、空を仰ぎ、やがて居酒屋の煙突から立ち昇る青い煙を眺めたとき、彼はふっと悲しくなったのである。「そう、じつにいい」と彼はもう一度繰り返した。
「イヷン・アンドレーイチ、この景色を描写して下さいな」とマリヤ・コンスタンチーノヴナが潤み声を出した。
「なぜですか」とラエーフスキイは訊き返した、「いかなる描写も印象には及びません。印象を通じて万人が自然から受けるこの豊かな色彩と音響を、作家というものは醜怪な何やらわけのわからんものにでっち上げてしまうのです。」
「そうかしら?」水際の一番大きな石を選んで、それに坐ろうと攀じ登りながら、フォン・コーレンが冷やかに訊いた。「そうかしら」とラエーフスキイをじっと見据えながら、もう一ど繰り返す。「じゃ『ロメオとジュリエット』は? じゃ例えばプーシキンの『ウクライナの夜』〔プーシキンの史詩『ポルタヷ』の第二歌中、ウクライナの
夜の静寂を写した部分を指す。古今の絶唱とされている〕は? 自然はよろしくその足下に拝跪すべきだ。」
「そりゃまあそうだ……」ラエーフスキイは同意した。彼は考えたり議論したりするのが面倒臭いのだ。「しかし」としばらくして言う、「底を割って見れば、ロメオとジュリエットとはいったい何ものだろう。美しい詩的な神聖な恋なんて言ったって、腐れを匿そうがための薔薇の花に過ぎないじゃないか。ロメオだってやっぱり、みんなとちっとも変らぬ動物に過ぎんのだ。」
「なんの話をしても君はすぐ問題を……」とフォン・コーレンはちらとカーチャの方を見て、言いさした。
「なにに持って行くと言うんだね」とラエーフスキイはたずねる。
「たとえば人が『葡萄の房はじつにきれいだね』と言うとする。すると君は、『うん、だが人にしゃぶられて、胃の腑のなかで消化されるところはみられたものじゃないぜ』と言うんだ。なにもそんなことを言う必要はないじゃないか。陳腐だし、それに……まあ言ってみれば妙な癖だと思うな。」
ラエーフスキイは、自分がフォン・コーレンに嫌われているのを知っていた。したがって彼が怖かったし、彼がいるとみんなまでが窮屈がっているように思われ、また自分のうしろに誰かが立っているような気がした。彼は何にも答えずにそこを離れた。出掛けて来たことが悔まれた。
「諸君、焚火の粗朶を集めに行進!」とサモイレンコが号令をかけた。
みんな思い思いに散って行って、あとにはキリーリンとアチミアーノフとニコヂーム・アレクサンドルィチだけが残った。ケルバライが椅子を担いで来て、地面に毛氈を敷き、数本の酒瓶をそこへ置いた。
署長のキリーリンは背の高い堂々たる男で、どんないい天気でも夏服の上に大外套を着ている。傲然としたその態度、尊大なその歩きぶり、嗄れ気味の幅のある声──どう見ても田舎の若手の警察署長である。もの悲しげな寝呆け顔をしているところは、たったいま無理やりに起こされたと言わんばかりだ。
「おいこら、貴様の持って来たのは、こりゃいったい何だ」と彼は一語一語をおもむろに切りながら、ケルバライに喰ってかかった、「おれはクヷレーリを持って来いと言ったのだぞ。それを貴様の持って来たのは何だ。この韃靼の豚野郎め。ああん、こりゃ何かよ。」
「僕たちの持って来た酒が沢山あるじゃないですか、エゴール・アレクセーイチ」と、ニコヂーム・アレクサンドルィチがおずおずと慇懃な調子でいう。
「いっこうに構わん。僕は僕で自分の酒が欲しいのだ。僕もこのピクニックに加わった以上、立派に自分の分前を出す権利があるものと考える。かん・がえる。こら、クヷレーリを十本持って来い。」
「何だってまたそんなに沢山」とニコヂーム・アレクサンドルィチは呆れた。キリーリンに金の無いことを知っているのだ。
「二十本だ! いや三十本だ!」とキリーリンが喚く。
「いいですよ、放って置きなさい」とアチミアーノフがニコヂームに耳打ちする、「僕が払いますから。」
ナヂェージダ・フョードロヴナは浮き浮きして、思いきりはしゃいで見たかった。跳ねたい、くっくと笑いたい、大声が出したい、からかって見たい、甘えて見たい、そんな気分だった。青い三色菫を散らした更紗の安服に赤い沓をはいて、例の大きな麦藁帽子をかぶっているところは、自分ながら無邪気で可愛らしくて、身軽でふわふわして、まるで蝶々のようだと思った。彼女はぐらぐらする橋を駈足で渡りかけたところで、ちょっと足をとめて下の水を覗いた。すると目が廻りだしたので悲鳴を上げ、笑いさざめきながら向う岸の乾小屋の方へ駈けて行った。男の連中がみんな、ケルバライまで、自分の後姿に見とれているような気がした。見る見る押し寄せて来る夕闇に、樹立が山に溶け込み、馬が馬車に溶け込んで、居酒屋の窓に燈がちらちらしだす頃、彼女は岩と茨の叢の間をうねる小径づたいに岡のてっぺんに出て、石のうえに腰をおろした。下を見るともう焚火が燃えている。焚火のそばを両袖をたくし上げた補祭が歩いてい、その真黒な細長い影が半径のように火のまわりを廻っている。粗朶をくべたり、長い棒の先につけた匙で鍋を掻きまわしたりしているのだ。サモイレンコはといえば赤銅色の顔をして、自分の家の台所でと同様に火のまわりをせかせかしながら、例によって叱咜している。
「塩はどこにある、諸君。忘れて来たんじゃないか。何だって諸君は地主様然と坐り込んでるんだ、わが輩一人に働かしといて。」
倒れた木にラエーフスキイとニコヂーム・アレクサンドルィチが並んで腰かけて、もの思わしげにじっと火を見ている。マリヤ・コンスタンチーノヴナはカーチャとコースチャに手伝わせて、籠から茶碗や皿を出している。フォン・コーレンは岸のすぐ水際に立って、腕組みをし片足を石にかけて、何やら考え込んでいる。焚火の赤い斑が影と入り乱れて、黒い人影のまわりの地を這い、岡や樹立や橋や乾小屋に顫えている。その反対側には、水に穿たれて穴ぼこだらけの嶮しい岩岸がすっかり照らし出されて、ちらちらと川面に映り、矢のような奔流に千々に砕けている。
補祭は魚をとりに出掛けた。ケルバライが川べりで腸を抜いて洗っているのだ。が途中で立ちどまって、ぐるりを眺めた。
『ああ、いい眺めだ』と彼は思う。『人影、岩、焚火、夕闇、不恰好な一本の樹──それだけしかない。だがなんていい眺めだ。』
岸向うの乾小屋のそばに、幾人かの見慣れぬ人影があらわれた。火光がちらつくし焚火の煙もその方角へ靡いているので、一度に一人一人の見別けはつかないが、もじゃもじゃした帽子だの白い頬髯だの、青いシャツだの肩から膝へ掛けた襤褸だの、腹へ横がいにぶら下げた短剣だの、まるで炭で描いたようにくっきり濃い黒眉毛をした若い浅黒い顔だの、そんなものがちらちらと見えた。なかの五人ほどは車座になって地べたに坐り、残りの五人は乾小屋へはいって行った。一人は焚火の方へ背を向けて戸口に立ちはだかり、腕を背に組んで何やら喋りだした。ちょうどそのときサモイレンコが粗朶をくべ足したので焚火がぱっと燃え上り、火花が散って小屋を明るく照らし出したが、すると戸のなかに一心に聴き耳を立てていると見えるのんきそうな顔が二つ浮きあがり、そとの車座の連中もてんでに顔をねじ向けてその男の話を聴きはじめたところを見ると、それはよほど面白い話と見える。しばらくすると車座の連中が何やら静かな声で歌いだした。のんびりした節廻しのきれいな歌で、大精進のとき教会でうたう歌に似ている。……それを聴きながら補祭は、十年たって探険旅行から帰って来た自分のことを空想していた。自分は若い修道司祭だ、伝道者だ。立派な経歴のある有名な著述家だ。やがて掌院になり、つづいて監督になる。大本山で弥撤を司る。法冠に威儀を正し聖母像を胸に下げて、しずしずと説教壇にあらわれる。それから三枝燭台と二枝燭台を手にとって会衆を祝福して、声高に誦する──『主よ願わくは御眸を天より垂れ給え、爾が右手もて植え給えるこの葡萄園を見守らせ給え、訪い給え。』すると童子の群が天使のような声で唱和する、『聖なる主よ。』……
「補祭君、魚はどうした?」サモイレンコの声だ。
焚火の傍に戻って来た補祭は、今度は七月の暑い日に十字架行列が埃っぽい道を行く有様を心に描いた。先頭には百姓たちが教会の旗を担いで行く。女房や娘が聖像を捧げて行く。合唱隊の子供達と、頬を結え髪に藁を揷した番僧がそれにつづく。その次が自分つまり補祭の番だ。つづいて紫帽をいただき十字架を捧げた役僧。そのあとには百姓や女房や子供やの群集が土埃を立ててついて来る。役僧の妻君と自分の妻君が頭布をかぶって群集にまじっている。合唱隊が歌う、子供達が喚く、鶉が啼く、雲雀が声を張りあげる。……行列がとまる。会衆に聖水を振りかけるのだ。……また動き出す。やがて跪まずいて雨乞いをする。それから食事をする。話をする。……
『これもいいな』と補祭は思った。
キリーリンとアチミアーノフは、小径づたいに岡へ登った。アチミアーノフは遅れて立ちどまってしまったが、キリーリンはナヂェージダのいる所まで来た。
「今晩は」と彼は挙手の礼をしながら言った。
「今晩は。」
「そうでした!」キリーリンは空を見上げ、考えながら言った。
「何がそうでしたの?」ナヂェージダはちょっと間を置いて、アチミアーノフが自分たち二人を見守っているのに気がつきながら、こう訊き返した。
「その、つまり何ですな」と署長はゆっくり言葉を切りながら、「われわれの恋は、いわば花を開かずして凋んでしまったのですな。あれはどう解釈せよとおっしゃるのでしょうか。あれはあなたの、また一種のお戯れなのでしたか。それともこの私を、どう扱っても別条ないのろまとでもお考えですかな。」
「あれは間違いでした。どうぞ私にかまわないで下さい!」とナヂェージダは鋭く言い放った。この美しい惜しいような宵に、怯え切った面もちでその男を見つめながら、また、当惑げにわれとわが心に問いかけながら。──『まあ私、こんな男が好きになって一時でもちかしくしたなんて、本当にあったことなのかしら?』
「ほほう」とキリーリンは、立ったまましばらく黙って考えていたが、やがて、「よござんす、御機嫌の直るまで待ちましょう。ただこの際はっきりお断りして置きますが、私は紳士です。この点については何人といえども疑いをさし揷むことを許しません。私を愚弄することは断じてなりません。さよなら。」
彼は挙手の礼をすると、傍の叢を分けて行ってしまった。暫くするとはっきりしない足どりで、アチミアーノフが近づいて来た。
「いい晩ですなあ、今夜は」と言ったが、ちょっとアルメニア訛りがある。
彼は相当の好男子で、流行に合った服装をし、育ちのよい青年らしく態度もさっぱりしている。だがナヂェージダは彼の親父に三百ルーブリ借りがあるので、従ってこの青年も虫が好かない。それにこのピクニックに小商人まで招ばれて来たことが快くなかったし、こんなに気持のせいせいしている晩を選りに選って、彼が身近かにやって来たことも気に障るのだった。
「ピクニックはまず成功ですね」と、ちょっと間を置いて彼が言った。
「ええ」と彼女は相槌をうったが、そこで例の借りのことを急に思い出しでもしたように、さりげなく附け加えた、「そうそう、お店へいらしたらね、二三日うちに主人が、あの三百……だったかしら、とにかくお払いに上がりますからって、そうおっしゃって頂戴ね。」
「僕の顔さえ見りゃ借り借りって、それさえやめて下さるなら、僕もう三百御用立てしてもいいんですがね。じつに散文的だ。」
ナヂェージダは笑い出した。もし自分が浮気のできる女だったら、そしてその気になりさえしたら、一分間であの借金が消えてしまうんだがと、そんな可笑しい考えが浮かんだのである。まあ仮りに、このきれいな顔をした坊っちゃんをのぼせ上がらせて見たとしたら。本当にさぞ滑稽で馬鹿げた無茶苦茶なことになるだろう。そう思うと急に、夢中にならせて搾れるだけ搾って、そのあげくにぽいと抛り出して、その結末がどうつくか見てやりたくなった。
「僕、失礼ですがあなたに忠告があるんです。」おずおずとアチミアーノフが切り出した、「あのキリーリンに気をつけて頂きたいのです。彼奴は到るところであなたを種に怪しからんことを言い触らしているんです。」
「馬鹿がどんなことを言い触らして歩こうと、私の知ったことじゃありませんわ」とナヂェージダは冷やかに言ったが、急に不安な気がしだして、この美青年を弄んでやろうという可笑しい考えも、一瞬にして魅力を失ってしまった。
「さあ下りなくちゃ」と彼女は言った、「呼んでますわ。」
下ではもう魚のスープが出来ていた。それを銘々の皿に分けて、ピクニックでなければ見られない例の神妙な顔をして食べていた。このスープはじつにうまい、ついぞ家ではこんな旨いものが出た例しはない、とみんながそう思うのだった。どこでもピクニックはそうしたものだが、ナプキンだの紙包みだの、風でごそごそ這い廻る不用の油紙だのの堆のなかで、みんなてんでに見当がつかなくなって、どこに誰のコップがあるのやら、どこに誰のパンがあるのやらもわからず、葡萄酒を毛氈に零す、自分の膝に零す、塩を撒きちらす、おまけにぐるり一面は真暗で、焚火もいつの間にか衰えかけているのだが、誰ひとり立って粗朶をくべに行くだけの元気もない。みんな葡萄酒を飲んだが、コースチャとカーチャにはコップに半分ずつだった。ナヂェージダは一杯では足らず二杯目を乾して、酔が出てキリーリンのことなど忘れてしまった。
「豪勢なピクニックだ、それにじつに何とも言えん晩だ」とほろ酔い機嫌のラエーフスキイが言う、「だが僕は、それにもかかわらず敢てよき冬を択るね。『呼気は霜をむすんで、海狸の襟に銀とかがやく』〔プーシキンの『オネーギン』の一節。オネーギンが華やかな社交界で青春を浪費するダンディ
ぶりを叙したくだりで、すなわち強く北方へ牽かれるラエーフスキイの気持を察すべきである〕か。」
「蓼喰う虫も何とやらさ」とフォン・コーレンが一言を加える。
ラエーフスキイは気づまりを感じた。背中からは焚火の火気が圧してくる。胸と顔へはフォン・コーレンの憎悪が押して来る。この頭の進んでしっかりした人間に憎まれることは、恐らくそれに十分の根拠があると思われるだけに、彼を参らせ弱気にするのだった。とてもその憎悪に対抗する勇気はないので、彼は相手の意を迎えるように、
「僕は自然の熱愛者なんだが、自然科学をやらなかったことが残念でならない。僕は君が羨ましい。」
「まあ、私なんか残念でも羨ましくもないわ」とナヂェージダが言った。「それどころか、甲虫だのお天道虫だのに一所懸命になってる人の気が知れないわ。食うや食わずの人間もいるのに。」
ラエーフスキイも同意見だ。彼は自然科学のことは一向弁えがない。だから、蟻の触角だの油虫の足だのに没頭している連中の、権威たっぷりの語調や深刻らしい学者面には、何としても我慢がならなかった。そうした連中が、触角や足や、また原形質とかいうもの(なんとなく彼にはそれが牡蠣みたいなものに想像された)を基にして、人類の起原や生態までを包括している問題を解こうとかかるのを見ると、腹が立ってならなかった。しかしナヂェージダの言ったことにも、例の嘘っぱちが見えすいていたので、ただ彼女をやりこめるために彼は言うのだった。
「天道虫が問題なんじゃないよ。問題は推論にあるんだ。」
だいぶ更けて十時を廻わってから、一同は帰りの馬車に乗りはじめた。もうみんな乗ってしまって、足りないのはナヂェージダとアチミアーノフだけだった。二人は川向うで、きゃっきゃっ笑いながら追い駈けっこをしている。
「諸君、早くしてくれ給え」とサモイレンコが二人に叫ぶ。
「だから婦人に酒を飲ませるという法はないのさ」とフォン・コーレンが小声に言った。
ラエーフスキイは、ピクニックとフォン・コーレンの敵意と自分のさまざまな想念とでへとへとになっていたが、とにかく彼女を呼びに行った。すると、すっかり陽気に浮き立ってしまって、羽毛のように身軽な気持になっていた彼女は、息をはずませて笑いながら、彼の両手をつかまえ、胸に頭を押しつけて来たので、彼は一歩退くと声を荒らげて、
「なんだ、そのざまは。まるで……娼婦じゃないか。」
と言ったが、これはあんまり烈し過ぎたと、かえって女が可哀そうになった。男の怒気を含んだ疲れた顔に、自分に対する憎悪や憐憫や腹立たしさを読みとった彼女は、張り切った気持も忽ち失せるのだった。度が過ぎた、羽目をはずしすぎたと気づくと、彼女は悲しくなって、ああ私はやっぱりどたどたした肥っちょでがさつな酔払い女だと思いながら、最初に眼についた空馬車にアチミアーノフと一緒に乗り込んだ。ラエーフスキイはキリーリンと、動物学者はサモイレンコと、補祭は婦人達とそれぞれ同乗して、馬車は動き出した。
「どうだい、あの猿の夫婦は……」とフォン・コーレンは眼をつぶってマントにくるまりながら始めた、「ええ君、あの女は食うや食わずの人間がいる以上、甲虫や瓢虫にはかまっちゃおれんそうだ。猿どもがわれわれ科学者に対する態度はいつもあれだ。十世紀のあいだ笞と拳骨で脅やかされとおした悪賢い奴隷の種族だ。暴力の前でこそ顫えあがって感動して尾を振りもするが、一たんあの猿を頸根っこの抑え手のない自由の天地へ放して見給え、早速ふんぞり返って勝手な熱を吹きだすのさ。あの猿が展覧会や博物館や芝居でどんなことを言うか聞いて見給え。でなきゃ科学を論ずるところを聞いて見給え。ふんぞり返る、後脚で立って見せる、悪罵を飛ばす、難癖をつける……この難癖が附きものなんだ、奴隷根性という奴さ。よく聴いてくれよ、一体この世の中では騙児仲間よりはむしろ自由職業者のほうが悪声を蒙る度数が多いね。それは社会の四分の三が奴隷ども──つまりああいった猿の手合いから成り立ってるからなのだよ。奴隷が君に手を伸べて、働いてくれてどうもありがとうと本心から礼をいう、そんなことがあってたまるものか。」
「だからどうしようって言うんだ、僕にはわからんな」と欠伸をしながらサモイレンコが言う、「可哀そうにあの婦人は、ごく単純な気持から、君を相手に利口な口が利いて見たかっただけの話だ。それを君は、仰々しい結論まで引っ張り出す。君はあの亭主になにか癪に障ることがあるので、あの婦人まで道づれにしちまったんだろう。どうして、あれは立派な婦人だよ。」
「ああ、もう沢山。あれは普通一般のお妾さ、身持が悪くて俗悪なね。ねえ、アレクサンドル・ダヴィードィチ、夫と別れたただの百姓女が、仕事もせずにのらくらして、ケラケラ笑って日を送っているのを見たら、君は『野良に出ろ』って言うだろう。だのになんだって今の場合は、本音を吐くのをびくびくするのだ。つまるところナヂェージダ・フョードロヴナが水夫の妾じゃなくて役人の妾だからかい?」
「このおれにあの人をどうしろというんだ」とサモイレンコはとうとう癇癪を起こして、「打てとでもいうのか。」
「悪徳を甘やかすなと言うのさ。われわれはいつも蔭で悪徳を非難している。だがこれは、腹の中で舌を出してるようなものだ。僕は動物学者、即ち社会学者だ、これはどっちも同じことだ。君は医者だ。社会はわれわれを信頼している。われわれは、あのナヂェージダ・イヷーノヴナのごとき婦人の存在が現在の社会及び次世代に及ぼす怖るべき害毒を、社会に向って指摘する義務があるのだ。」
「フョードロヴナだよ」サモイレンコは直してやって、「そこで社会にどうしろというのだ。」
「社会? それは社会の勝手さ。僕に言わせれば、もっとも確実直截な途は──強制だ。軍隊の手であの女を亭主の手許へ送還する。もし亭主が引き取らんと言ったら、徒刑場へ送るか、感化院へでも叩き込むんだ。」
「ふうむ」とサモイレンコは溜息をついた。少し間を置いてから、彼は小声でたずねた、「二三日まえ、君はラエーフスキイのような人間は絶滅せにゃならんと言ったっけな。……では訊くが、それを──まあ国家なり社会なりが、彼の絶滅を君に委任したとしたら、君は……決行できるかね。」
「ああ、僕の手は顫えまいよ。」
帰って来ると、ラエーフスキイとナヂェージダは、真暗で蒸暑い退屈なわが家へはいって行った。二人とも黙っていた。ラエーフスキイは蝋燭をつける。ナヂェージダは椅子に腰を下ろして、マントも帽子もとらずに、悲しげなすまなそうな眼で男を見上げた。
彼には、女が彼の言いわけを待っていることがわかっていたが、今さら言いわけなどは退屈で無駄で面倒なだけだったし、さっき思わずカッとして荒い言葉を使った自分を省みると、気分が重くてならなかった。そのときポケットの中でふと手紙が指に触った。今日こそは読んでやろうと思いながら、一日延ばしにして来た手紙である。今これを読んでやったら、女の注意がそれるだろう、と彼は思った。
『もういい加減にきっぱり片をつける時だ』と彼は思う、『見せちまおう。どうせなるようにしきゃならないんだ。』
彼は手紙を引っ張り出して、女に渡した。
「読んで御覧。君に関係したことだ。」
そう言い棄てたまま彼は書斎へ行って、暗闇のなかで枕もせずに寝椅子にころがった。ナヂェージダは読んでしまうと、天井が下って来、壁がすうっと迫って来るような気持がした。にわかに狭苦しく、暗く、怖ろしくなった。彼女はあわただしく三度十字を切って、唱えるのだった。
「安息を与えたまえ。……主よ、安息を与えたまえ。……」
それから泣きだした。
「ヷーニャ!」と彼女は呼んだ、「イヷン・アンドレーイチ!」
返事がない。彼女はラエーフスキイがもうはいって来て椅子の背後に立っているのだと思い、子供のようにしゃくり上げながら、
「あの人の死んだこと、なぜもっと早く言って下さらなかったのよ。そしたら私、ピクニックにも行きゃしないし、あんな馬鹿騒ぎもしなかったのに。……みんなに厭らしいことまで言われたのよ。ああ取り返しがつかない、取り返しがつかない。私を救ってよ、ヷーニャ、救って頂戴。……私、気がちがったわ。私もう駄目だわ。……」
ラエーフスキイには女の泣きじゃくるのが聞こえた。ひどく蒸暑く、心臓がはげしく打っていた。やりきれない気持で彼は起きあがって、しばらく部屋の真中につっ立っていたが、暗がりの中でテーブルのそばの肘掛椅子をさぐり当てると、それに腰をおろした。
『これじゃ牢屋だ』と彼は思う、『逃げ出そう……もう我慢がならん。』
カルタをしに行くにはもう遅いし、この町にはレストランもない。彼はまたごろりと横になって、泣声の聞こえぬように指を耳に突っこんだが、ふとそのときサモイレンコのところなら今からでも行けると考えついた。ナヂェージダの傍を通らずにすますため、窓から庭へ飛びおり、柵を乗り越えて往来へ出た。暗かった。汽船が一艘いましがた着いたところだ。燈の様子で見ると大きな客船らしい。……ごろごろと錨鎖の音がする。岸からその船をめがけて走って行く一点の赤い燈がある。税関のランチだ。
『みんなキャビンでいい気持に眠っている』とラエーフスキイは考え、他人の安眠を羨ましく思った。
サモイレンコの家の窓は開け放してあった。ラエーフスキイは一つ二つ覗いて見たが、部屋の中は真暗でしんとしていた。
「アレクサンドル・ダヴィードィチ、もう寝たかい?」と彼は呼んだ、「アレクサンドル・ダヴィードィチ!」
咳払いと、びっくりするような誰何の声がした。
「誰か? どこの何奴か?」
「僕だよ、アレクサンドル・ダヴィードィチ。遅くなってすまない。」
しばらくすると部屋の扉が開いた。手燭の柔らかな光がさして、白い寝間着に白い夜帽をかぶったサモイレンコが、ぬっと姿を現わした。
「どうしたんだ」と、まだ醒めきらぬ深い息づかいで、ぼりぼり掻きながら訊く、「まあちょっと待て、いま表を開ける。」
「いいよ、窓からはいるから……」
ラエーフスキイは窓から這い込むと、サモイレンコに近よってその手を掴んだ。
「アレクサンドル・ダヴィードィチ」と彼は顫え声で、「僕をたすけてくれ。後生だ、拝む。僕の言うことをわかってくれ。僕はもうやり切れないんだ。この境涯があと二日も続いたら、僕は犬でも、犬でもしめるように、自分のこの首を縊ってしまう。」
「まあ待て。……一体そりゃ何の話なんだ?」
「蝋燭をつけてくれないか。」
「おお、お」と蝋燭をともしながらサモイレンコは溜息をついて、「おやおや、君もう一時過ぎだぞ。」
「まあ勘弁してくれ。僕は家にじっとしていられないんだ」と、それでも灯の光とサモイレンコのいるお蔭でずっと気持が楽になって、ラエーフスキイが言った、「アレクサンドル・ダヴィードィチ、君は僕の唯一の一番の親友だ。……頼みに思うのは君だけだ。いやでも応でも、後生だから僕を救い出してくれ。僕はもうどうあってもこの町にはいられないんだ。金を貸してくれ。」
「やれやれ、なんということだ」とサモイレンコはぼりぼりやりながら、歎息した、「うとうとっとしかけたと思うと汽笛だ。汽船がはいったなと思っていると、今度は君だ。……沢山要るのかい?」
「どうしても三百は要るんだ。彼女に百は残しといてやらなきゃならんし、僕の道中に二百は要る。……今までにもう四百ほど借りがあったね。みんなあとで送るよ、きっと。……」
サモイレンコは両方の頬髯を片手に握って、脚を踏み拡げたまま考え込んでしまった。
「そう……」と思案しながら唸った、「三百か。……ふむ。手許にはそんなにはないが。こりゃ誰かに借りなきゃなるまい。」
「お願いだ、借りてくれ給えな」──相手の顔色で、こりゃ貸してくれるつもりだ、きっと貸してくれると見て取ったラエーフスキイが言った、「借りてくれ給え。僕はきっと返す。ペテルブルグに着き次第すぐ送るよ。そりゃもう大丈夫だ。ところでサーシャ」と急に元気になって、「葡萄酒をやろうじゃないか。」
「うん。……酒もよかろう。」
二人は食堂へはいって行った。
「ところでナヂェージダ・フョードロヴナはどうするんだ?」とサモイレンコは、壜を三本と桃を盛った皿とを、テーブルに載せながら訊いた、「あの人がおとなしく残っているかなあ。」
「それは僕が引き受ける、万事引き受ける……」とラエーフスキイは、歓びの思いがけぬ高潮を感じながら、「後から金を送って、あれを呼び寄せる。……そこできっぱりと二人の関係を片づけるんだ。君の健康のために、友よ。」
「待て待て」とサモイレンコが言った、「先にこれを飲んでみてくれ。……それは僕の葡萄園の奴だ。この罎はナヷリージェの葡萄園のだし、こっちはアハトゥロフのだ。……三つとも飲って見て、ひとつ忌憚のないところをきかしてくれ。……僕のはちょいと酸味があるようなんだが。ええ、どうだね?」
「うん。君のおかげで安心したよ、アレクサンドル・ダヴィードィチ。ありがとう……生き返ったような気持だよ。」
「酸っぱいだろう?」
「そんなこと、僕にわかるもんか。とにかく君はじつに素晴らしい、得がたい人物だ。」
彼の蒼白い興奮した善良そうな顔を見ていると、サモイレンコは、奴らは絶滅してしまうべきだというフォン・コーレンの言葉を思いだした。すると彼にはラエーフスキイが、誰にでも造作なくいじめたり息の根をとめたりすることの出来る、護り手のないかよわな幼児のように思えて来た。
「向うへ帰ったらお母さんと仲直りをし給えよ」と彼は言った、「今のままじゃいかんよ。」
「うん、うん、必ずする。」
しばらく言葉が途絶えた。一本目が空になると、サモイレンコが言った。
「フォン・コーレンとも仲直りをするがいいな。君たちは二人ともじつに立派な秀抜な人間だ。それが狼みたいに睨み合ってるなんて。」
「そうだ、あの男はじつに立派な秀抜な人間だ」と、今はもう誰でも彼でも褒め上げて宥してしまいたい気分で、ラエーフスキイは相槌をうった、「あの男は素晴らしい人物だ。そりゃそうだが、彼と仲好くやって行くことは僕には出来ない。とても駄目さ。性格がちがい過ぎるんだ。僕は無気力で弱気で隷属的な人間だ。そりゃ時によっては僕も彼へ手を差し伸べるかも知れない。だが彼の方じゃ顔をそむけるにきまっている、冷笑を浮かべてね。」
ラエーフスキイは葡萄酒を一口やって、隅から隅へ一往復し、それから部屋の真中に立ちどまると言葉をつづけた。
「僕にはフォン・コーレンという人間がよくわかる。あれは鞏固で強烈な専制的な性格の持主だ。君も聞いたろうが、あの男はしょっちゅう探険旅行の話をしている。あれは決して空言じゃないんだ。彼には沙漠が、月夜が要るのだ。あたりを見廻すと、天幕の中にも野天のもとにも、強行軍に疲れ果て、或いは飢え或いは病んだコサックや案内者や、人夫や医者や僧侶が眠りこけている。そのなかで眼を醒ましているのは彼一人だ。まるでスタンレイのように折畳椅子に腰掛けて、おれは沙漠の王者だ、こいつ達の主人だと感じる、彼はそういう人間だ、彼は行く、彼は行く、どこかを指して行く。部下は呻き、ばたばたと仆れるが、彼はやはり進んで行く。やがては彼も遂に仆れる。だが仆れてのちもなお彼は沙漠の暴君、沙漠の王者なのだ。なぜといって、彼の墳墓の十字架は三四十マイルさきからも隊商の眼にうつり、沙漠に君臨しているからだ。彼が軍籍に身を置かなかったことを僕は切に惜しむ。彼はきっと卓越した天才的な司令官になったに相違ないと思う。その率いる騎兵隊を河中に溺らせて、屍の橋を架け得た人に相違ない。実戦に必要なのは、築城術や戦術よりはむしろかかる剛勇なのだ。そうさ、僕はじつによくあの人間がわかるんだ。ねえ君、一体なんだって彼はこんな所でぶらぶらしてるんだろう。ここに何の用があるんだろう。」
「海洋の動物を研究しているんだよ。」
「いいや、それは違う、断じて違う」とラエーフスキイは歎息して、「船中で一緒になった或る学者から聞いたことだが、黒海には動物がきわめて乏しいそうだ。海底に硫化水素が過剰なため、有機体の生活は不可能だという話だ。だから真面目な動物学者はみんなナポリやヴィルフランシュ〔南仏、ニースに近くゼノア湾に
臨む町。避暑地として名高い〕の生物学実験所で勉強している。ところがフォン・コーレンときたら、独立独行の頑固者だ。彼が黒海でやっているのは、ここでは誰もやっていないからなのだ。彼が大学と絶縁し、先輩や同僚に交わろうとしないのは、彼が何よりもまず専制君主であり、動物学者というのは二の次だからさ。まあ見てい給え、今に大したものになるぜ。あの男はもう今から夢想している──探険旅行から帰って来たら、わが国の大学という大学から陰謀と凡庸とを叩き出して、学者連中を手も足も出なくしてやろうとね。専制国が強いのはなにも戦争に限ったことではない、科学の方でも同じことなのだ……。あの男が今年でもう二た夏この臭気ふんぷんたる町に暮らしているのは、都で第二人者たらんよりは田舎で第一人者たる方がいいからさ。ここにいれば彼は王者だ、鷲だ。鉄の鞭を振り廻して、己れの権威の下に住民どもを圧し伏せている。みんなの上に監視の眼を光らせて、他人のことにいちいち干渉する。彼は一切を要求する。だからみんな彼を怖れはばかっている。あの男が僕を憎むのは、僕が奴の足の下から脱け出しかけているからなのさ。僕を絶滅しちまえ、さもなきゃ土方にしちまえって、あの男は言やしなかったかね?」
「言ったよ」とサモイレンコは笑い出した。
ラエーフスキイも笑い出して、葡萄酒をぐっとやった。
「彼の理想を聞いて見てもやっぱり専制的なんだ」と彼は桃を齧り、笑いながら言う、「普通の人間なら、公益のために働くという場合、自分の隣人──僕だとか君だとか、まあ言ってみれば人間を目指すだろうじゃないか。ところがフォン・コーレンにとっては、人間なんて犬っころや虫けらも同然、彼の生活の目的物たるには小さ過ぎるんだ。彼が働いたり、探険に出掛けたり、そこで頸根っこを折ったりするのは、隣人愛のためじゃなくて、人類だの次世代だの人間の理想種だのという抽象概念のためなんだ。彼は人間の種の改良に努力しているんだから、そうした彼の眼から見ればわれわれなんぞ、たかだか奴隷か、砲火の餌食、乃至駄獣にしきゃ見えんのだ。或る者は絶滅するもよい、徒刑に処するもよい、また或る者は鉄則で縛るもよい、アラクチェーエフ〔アレクサンドル一世の寵臣。伯爵。陸軍大臣として、その
極端な反動政治をもって残忍魯鈍の名を史上にとどめた〕がやったように太鼓の音で起床し就床させるもよい、われわれの貞潔と美徳を保持するために宦官を置くもよい、今日の狭小な保守的道徳の埒を越える者は、片っ端から銃殺するもよい──すべてこれ人間の種の改良のためなんだから。……だが、人間の種とは一体何だ。幻さ、蜃気楼さ。……世の専制者にして幻想家でなかった例しはない。ねえ君、僕はじつによく彼がわかるんだ。僕は彼を買っている。彼の価値を否定しはしない。彼のような人たちによってこそ世界は支えられてるんだからね。万一われわれに一任しようものならそれこそ大変、僕らは僕らのおめでたさと親切気とでもって、あたかも蠅がこの画に対してしたと同じことを、この世界に対してしでかすだろうよ。そうだとも。」
ラエーフスキイはサモイレンコの横に腰を下ろして、心からの熱情をこめて言葉をつづけた。「僕は空虚な一文の値打ちもない敗残者にすぎない。僕の今呼吸している空気、この酒、恋愛、一言にして言えば生活──それを僕は今のいままで、虚偽と安逸と怯懦とでもって購って来たんだ。今のいままで僕は、他人を欺き自己を欺き、そしてそのため苦しみ悩んで来たんだが、勿論こんな苦悩なんて安価な下劣なものにすぎん。あのフォン・コーレンの憎悪の前に、僕は意気地なくも両手をつく。なぜなら僕は時どき自分が憎らしくなり、われながら見下げ果てた奴だと思うからだ。」
ラエーフスキイはまた興奮して隅から隅へ一往復し、言葉をつづけた。
「僕は自分の欠点をはっきり識りかつ認めえたことが嬉しい。これは僕が甦生して別人になる途に力を貸してくれるのだ。ああ君、僕がどんなに身悶えして自己更新を渇望しているか、それがわかってくれたらなあ。僕は君に誓う、きっと真人間になって見せる! なって見せる! 酒の勢かそれとも真実そうなのか、それは知らないが、とにかく今夜君のところで過ごしたようなこんな明るい清らかな時を過ごしたことは、まったく久しぶりのような気がする。」
「君、もう寝る時刻だよ……」とサモイレンコが言った。
「そう。そう。……悪かった。じゃ、もう失敬しよう。」
ラエーフスキイは家具や窓の下をのぞいて制帽を捜しはじめた。
「ありがとう……」と溜息まじりに呟いて、「本当にありがとう。……親切と優しい言葉は慈善より嬉しいものだ。君のお蔭で生き返ったよ。」
帽子が見附かると、彼は突っ立ったまま間の悪るそうな眼つきでサモイレンコを見た。
「アレクサンドル・ダヴィードィチ」と彼は哀願するような声で言った。
「何だい。」
「お願いだ、泊めてくれ給えな。」
「ああいいとも。……なんで悪い?」
ラエーフスキイは長椅子に横になってからも、長いこと軍医を相手に喋っていた。
ピクニックの日から三日ほどすると、マリヤ・コンスタンチーノヴナが不意にナヂェージダを訪ねて来た。そして挨拶もせず帽子もとらずに、いきなり彼女の両手をとって自分の胸に押しつけると、ひどく興奮のていで、
「あなた、あたくしもう動転してしまってどきどき言っておりますのよ。昨日主人のニコヂームが、あの私たちの大好きな親切な軍医さんから、旦那様がお亡くなり遊ばしたとか伺って参りましたの。まあ、あなた、このお話本当でございますの?」
「ええ、本当ですわ。あの人は亡くなりましたの」とナヂェージダは答えた。
「本当にまあ、なんということでございましょうね。けどねえ、あなた、悪いことにはきっとまた善いこともあるものですわ。旦那様はきっと、そりゃ御立派な聖人のような方でいらしたに違いありませんわ。そういう方は、この世よりも天国の方で御用がおありなのですわ。」
マリヤ・コンスタンチーノヴナの顔は、まるで皮膚の下で小さな針が無数に跳ね出しでもしたように、その線という線、点という点が顫えはじめた。そこで甘ったるい例の巴旦杏笑いをやり、夢中になって息をはずませながら、
「じゃこれで、あなたも自由のからだにおなり遊ばしたのですわ。もうこれからはなんの気がねもなしに大手を振ってお歩けになれますわ。これからは神様も世間の人も、あなたとイヷン・アンドレーイチのことを祝福しますわ。本当に素敵ですこと。あたくしもう嬉しくって、なんと申し上げていいやらわかりませんのよ。あたくしねえ奥様、仲人を勤めさせて頂きますわ。……あたくしも主人のニコヂームもお二人がそりゃ大好きでしたのよ。それに免じて、お二人の正式な清らかな御縁組みを祝福させて下さいましな。式はいつお挙げになるおつもり?」
「さあ私。まるで考えておりませんの」と手を引きながらナヂェージダが言った。
「まあそんなことがあるものですか。お考えになったわ。きっとお考えになったにきまっていますわ。」
「本当に考えておりませんの」とナヂェージダは笑い出した、「式なんかなぜ挙げなくちゃなりませんの? そんな必要ございませんわ。今までどおりやって参りますわ。」
「まあまあ、なんていうことをおっしゃいますの?」とマリヤ・コンスタンチーノヴナはぞっとしたように、「本当にまあ、何をおっしゃいますの?」
「式を挙げたって、別によくなりは致しませんわ。かえって悪くなるくらいなもので、二人とも自由でなくなりますもの。」
「奥様、本当にあなたはまあ!」とマリヤ・コンスタンチーノヴナは後退りをして、両手を打ち合わせて叫んだ、「どうかしてらっしゃるのですわ。ね、しっかりなさって、気をお鎮め遊ばせな。」
「でも、どう気を鎮めろとおっしゃいますの。私まだ一度だって生活ということを致したことがございませんのよ。それを気を鎮めろだなんて。」
ナヂェージダには、自分が本当にまだ生活というものをした覚えのないことが思い出された。寄宿女学校を出ると愛してもいない男に嫁ぎ、やがて、ラエーフスキイと一緒になり、それからというものは明けても暮れてもこの退屈な沙漠のような岸辺で、何ものかを待ち佗びながら暮らして来た。これが生活といえようか。
『やっぱり結婚するのが本当らしいわ』と彼女はふと思ったが、キリーリンやアチミアーノフのことを思い出すと、顔を赤らめて言った。
「いいえ、駄目ですわ。たとえイヷン・アンドレーイチが膝をついて頼んだとしても、やっぱり私、断りますわ。」
マリヤ・コンスタンチーノヴナは悲しげな真面目な顔をしてじっと一点を見つめたまま、一分ほど黙々と長椅子に掛けていたが、立ちあがると冷めたい声で、
「さようなら、奥様。とんだお騒がせを致しましたわ。これはまことに申し辛いことですけど、御懇意を願いますのも今日限りと思召して下さいまし。あたくしイヷン・アンドレーイチは御尊敬申し上げておりますので、本当に残念でございますけど、もう宅へはお二人ともいらしては頂けませんわ。」
真面目くさってこう言ってしまうと、かえって自分で自分の真面目くさった調子に圧倒されてしまった。彼女の顔はまた顫えはじめ、柔しい巴旦杏表情になって、度を失っておどおどしているナヂェージダの方へ両手を差し伸べ、哀願するような声で、
「ねえ、せめて一分だけでも、あなたのお母様か、でなければ姉さんにならせて下さいましな。あたくしお母さんのように、何もかも申してしまいますわ。」
ナヂェージダは胸の底に、まるで母親が生き返って来て自分の前に立ったような温かさと嬉しさと、自分への憐憫とを感じた。いきなりマリヤ・コンスタンチーノヴナにすがりつくと、顔を相手の肩に埋めた。二人とも泣き出した。二人は長椅子に腰を下ろして、そのまま暫く咽び泣いていた。お互いの顔も見ずに、一言も口を利く力もなしに。
「あたくし、もう本当にお母様になったつもりで」とマリヤ・コンスタンチーノヴナが口を切った、「歯に衣を着せずに、本当のことをずけずけ申してしまいますわ。」
「どうぞ、どうぞおっしゃって。」
「あたくしを信じて下さいましね。この土地の女のなかで、あなたとお附き合いをしたのはこのあたくしだけということは、思い出して下さいますわね。じつを申すと、お初にお目に掛かった日から、これは困った方だと思いましたけど、皆さんのようにあなたを白眼で見ることがあたくしには出来ませんでしたの。あの大好きなイヷン・アンドレーイチがまるでわが息子のように思われて、お気の毒でなりませんでしたの。まだ世の中を御存じない繊弱な若い方が、お母様とも別れて他国に来てらっしゃる──それを思ってあたくし随分苦しみましたの。……主人はあの方とお附き合いしてはならんと申しましたのですけれど、あたくし無理に頼み込んでとうとう説き伏せましたのよ。で、イヷン・アンドレーイチを宅にお迎えすることになりましたが、そりゃ無論あなたも御一緒にでしたわ。さもないとあの方気を悪くなさいますものね。あたくしには息子も娘もございましょう。……子供の柔らかな無垢な心、それは御存じでいらっしゃいますわね。……万一あの小さいのの一人でも汚れに染みでもしたらと、あたくしあなた方お二人をお迎えはしたものの、子供のことでびくびくしてばかりおりましたのよ。あなたもお母さんにおなりになれば、このあたくしの苦労がおわかりですわ。あたくしがあなたを、お気を悪くなさらないでね、淑女扱いに致すと言って、みなさん呆れておしまいになって、当てこすりをおっしゃるのですのよ。蔭口だの邪推だのは無論のことですわ。……あたくし心の底ではあなたを責めておりました。ですけど、あなたが不仕合わせでみじめで向う見ずな方なので、あたくしお気の毒で、一人でくよくよしておりましたの。」
「でもなぜ、なぜですの」とナヂェージダは総身を顫わせながら訊いた、「私がなんの悪いことを致しまして?」
「あなたは怖ろしい罪の女ですわ。祭壇の前で御主人に立てた誓いをあなたはお破りになったのですもの。もしあなたに出会いさえしなければ、身分の釣り合った良い家庭のお嬢さんを正式にお貰いになって、今ごろは世間並みのしゃんとした暮らしをしていらっしゃる筈の立派な青年を、あなたは誘惑なすったんですもの。あなたはあの方の青春を台無しになすったのよ。いいえ、何もおっしゃらないで、何もおっしゃらないで! あたくしども女の犯した罪は男のせいだなんて、あたくし信じませんわ。いつも女が悪いのですわ。男と申すものは家庭の中のことにかけては考え無しのもので、情ではなく頭で生きているものですから、そう何もかもわかるものじゃございません。けれど女には何もかもわかるのですわ。家庭の中のことはみんな女次第ですわ。すっかり女に任されていますから、従ってまた女に要求されることも多いのですわ。ねえ、だからもしこの方面のことで女が男よりも馬鹿か無能でしたら、どうして神様が女に育児の大任をお任せになりましょう。それからまた、あなたは恥というものをすっかり忘れて、悪の小径にお踏み込みになったのよ。これが他の女だったら人眼を避けて家に閉じ籠もって、人眼にかかるのは、お寺で、喪服を着て蒼ざめた顔をしてさめざめと泣いている時だけでしょう。そうなれば皆さんも心から同情して、『主よ、この罪の天使はふたたび御許に還ろうとしております……』と言うに違いありませんわ。ところがあなたは慎しみということをすっかり忘れて、大っぴらにしたい放題はなさるし、まるで罪が御自慢みたいな顔をして、ふざけたり笑ったりしてらっしゃる。そういうあなたを見ていると、あたくし恐くなって身顫いが出ましたのよ。あなたが宅にいらしてらっしゃる時なんぞ、今にも天から雷様が落ちて来て私どもの家を潰してしまいはしまいかと、びくびくしておりましたのよ。いいえ、なんにもおっしゃらないで、おっしゃらないで」と、ナヂェージダの何か言いたそうにするのを見てマリヤ・コンスタンチーノヴナは叫んで、「どうぞ信じて下さいましね。あたくし嘘は申しませんわ。あなたの心のお眼をまやかそうなんて考えてもおりませんわ。ですから聴いてらして頂戴。……神様は大罪人には印しをお附けになるそうですが、あなたにもやっぱり印しが附いておりましたのよ。お覚えがなくって? あなたのお召物は、いつもいつもぞっとするようなのばかりでしたわ。」
自分の衣裳の好みについては日ごろ自信の強いナヂェージダは、この言葉を聞くと泣くのをやめて、さも怪訝そうに相手を見た。
「ええ、ぞっと致しますとも」とマリヤ・コンスタンチーノヴナはつづけた、「あなたのお召物の粋で派手な好みを見れば、誰にだってあなたのお身持ちが知れますわ。あなたを見ては皆さんくすくす笑ったり肩をすくめたりなさるのですもの、あたくし本当に辛うございましてよ。……こんなことを申し上げては何ですけど、あなたには清楚さというものがおありなさらないのね。いつか海水小屋でお目にかかった時だって、あたくし思わずひやりと致しましたのよ。上衣はまだしもですけど、スリップやシュミーズはまあどうでしょう!……本当にあたくし顔が赤くなりますわ。イヷン・アンドレーイチだってお可哀そうに、ネクタイ一つちゃんと結んで上げる方がないのね。あの方のワイシャツや靴を拝見すると、家に誰もかまってあげ手のないことがよくわかりましてよ。それに、ねえあなた、あの方しょっちゅうお腹を空かしてらっしゃるわ。本当に家に誰もサモヷルやコーヒーの世話をする方がなけりゃ、月給の半分を茶亭で飲んでおしまいになるようになるのも無理はありませんわ。それにお宅の中の御様子はまあどうでしょう、ぞっと致しますわ。この町じゅうどちら様に伺っても蠅のいた例しはございませんのに、お宅じゃもう大変、皿も小皿も真黒ですわ。それから窓やテーブルの上を御覧なさいまし、あの埃、蠅の死骸、コップの陳列。……あんなにコップを並べて何になさるおつもり? お宅では今まで食卓をお片づけにならないのね。それから、お宅の寝室と申したら、一足はいったら最後顔から火が出ますわ。下着は投げ散らかし、壁にはつねづね御使用遊ばすいろんなゴム細工が吊下っている、何だかの容器は出しっ放し。……ねえ、夫の眼には何にも触れさせてはならないのでございますよ。妻たるものは夫の前では天使のように清らかでなくちゃなりませんのよ。あたくしは毎朝、夜が白みだすと起き出して、それから冷たい水で顔を洗って、主人のニコヂームに寝ぼけ顔を見せないように致しますの。」
「そんなことみんな小っぽけなことばかりですわ」とナヂェージダは大声に咽び泣きながら、「私が仕合わせでありさえすればねえ。でも私こんなに不幸なんですもの。」
「そうよ、そうよ、あなたは本当に不仕合わせな方よ」とマリヤ・コンスタンチーノヴナは泣き出しそうになるのをやっとこらえながら溜息をついた、「それに、行末にはもっと怖ろしい苦患が待っておりますのよ。一人ぼっちの老年、病気、それから怖ろしい裁きの庭でなさる返事。……ああ怖い、怖いことだわ。今なら運命の方から救いの手を差し伸べていてくれるのに、あなたは無分別にもそれを押し返そうとしてらっしゃるんですわ。ね、結婚なさいまし、一日も早く結婚なさいまし。」
「ええ、本当にね、それが本当ですわ」とナヂェージダは言った、「けど、それが出来ないの。」
「どうしてですの?」
「出来ないの。ああ、そのわけをあなたが御存じでしたらねえ。」
ナヂェージダは思い切ってキリーリンのことを話してしまおうかと思った。それからまた昨夜美青年のアチミアーノフと波止場で行き逢って、例の三百ルーブリの借金から脱れる気狂いじみた滑稽な考えが浮かんでとてもおかしかったこと、それから自分はもう取り返しのつかない淪落の女だ売女だと思いながら夜更けの道を帰って来たことも、話してしまおうかと思った。自分でもなぜあんな事になったのかわからなかった。で今こそマリヤ・コンスタンチーノヴナの前で、きっとあの借金は返しますと誓いたかったが、こみ上げて来る歔欷と羞恥とで口が利けなかった。
「私、ここを発ちますわ」と彼女は言った、「イヷン・アンドレーイチには残って貰って、私は発ちますわ。」
「どこへいらっしゃるの?」
「ロシヤへ行きますわ。」
「でもどうしてお暮らしになるおつもり? だって何にもおありにならないじゃないの。」
「翻訳をしますわ。さもなきゃ……さもなけりゃ小さな図書館でもやりますわ。……」
「そんな夢のようなことを、あなた。小さな図書館だってお金が要りましてよ。でもあたくしもうお暇しますわ。どうぞね気を落ち着けて、よく考えて見て頂戴。明日になったら晴れ晴れしたお顔で宅へいらして下さいましね。素敵ですわよ、きっと。じゃさようなら、天使さん。さ、接吻させて頂戴。」
マリヤ・コンスタンチーノヴナはナヂェージダの額に接吻して、彼女に十字を切ってやると静かに部屋を出て行った。いつの間にか暗くなっていて、オリガが台所で燈をつけた。ナヂェージダはまだ泣きながら寝室へ行って、ベッドに横になった。はげしい熱が出て来た。横になったまま彼女は着物を脱いで、脱いだ着物を足の方へ揉みくしゃにすると、毛布をかぶって丸くなった。水が欲しかったが、持って来てくれる人はなかった。
「返しますとも」と彼女は独り言をいった。夢現の境で、自分が誰か病気の女の傍に坐っていると、だんだんその病人が自分になって来るのが見えた。「返しますとも。私がお金のためにあんな真似をしたなんて、とんでもないことだわ。……私ここを発って、ペテルブルグからあの人にお金を送るわ。はじめは百……それからまた百……それから残りの百……。」
夜が更けるとラエーフスキイが帰って来た。
「はじめは百よ……」とナヂェージダは彼に言った、「それからまた百……。」
「キニーネでも嚥んだらいい」と彼は言って、心の中で考えた。──『明日は水曜で船が出るが、おれは発てない。すると土曜までここにいなけりゃならんな。』
ナヂェージダはベッドに膝で立つと、
「私いま何も言わなかって?」と、微笑を浮かべ、蝋燭が眩しいので眼を細めながら訊いた。
「いいや、何も。明日の朝になったらお医者さんを呼ばなきゃなるまい。もうお寝み。」
彼は枕を抱えて扉の方へ行った。ナヂェージダを後に残してここを発ってしまおうと決心が極まってからというもの、彼女のことが可哀そうにもなりすまない気持もするのだった。彼女の前に出ると、殺してしまおうと決めた病気の馬か老いぼれた馬の前に出たように、なんとなく気が咎めた。扉のところで立ちどまって、彼女の方を振り返った。
「ピクニックの時は思わずカッとして、乱暴な口をきいてすまなかった。御免ね。」
そう言って彼は書斎へはいり横になったが、なかなか寝つかれなかった。
翌る日の朝、ちょうど祭日なので礼装をして肩章をつけ勲章をぶら下げたサモイレンコが、ナヂェージダの脈を見、舌を見て、寝室を出て来ると、閾の外にラエーフスキイが待っていて心配そうに訊いた。
「どうだったね。どんなだったね。」
その顔には、恐怖と、極度の不安と、希望の色が見えていた。
「安心し給え。大したことはない」とサモイレンコは答えた、「ただの熱だ。」
「そのことじゃないよ」とラエーフスキイは苛立たしげに眉を寄せて、「金は出来たかい?」
「あああれか、本当にすまんが」とサモイレンコは、扉の方を振り返ってどぎまぎしながら囁いた、「本当にすまんが、誰の所にも遊び金がないんでな。あすこで五ルーブリ、ここで十ルーブリという具合に集めて見たが、みんなで百十ルーブリにしかならん。今日もっと他の所を掛合って見る。もうちょっと我慢してくれ。」
「だがぎりぎり結着のところ土曜までだぜ」とラエーフスキイはじりじりしながら身を顫わせて囁いた、「後生だから土曜までに頼むよ。土曜にもし発てなかったら、僕はもう一文だって……一文だって要らん。第一医者のところに金がないなんて、僕にはさっぱりわからんな。」
「うむ、それがどうもね、仕方がないんだ」とサモイレンコは語調を強めて早口に囁いたが、咽喉でひゅうっと変な声がした、「みんなに借りられちまったんだ。七千からの貸しになっている。そして僕も借金だらけなんだ。これが僕の罪かい?」
「じゃ土曜日には大丈夫だね? そうだね?」
「とにかくやって見るよ。」
「頼むよ、君。金曜の午前中には僕の手にはいるようにね。」
サモイレンコは椅子に掛けると、キニーネ溶液、臭剥、大黄浸、ゲンチャナチンキ、蒸溜水を合剤にして、苦味を消すため橙皮舎利別を加える云々と処方をして、帰って行った。
「まるで僕を捕縛しにでもやって来たみたいだな。」──礼装ではいって来たサモイレンコを見て、フォン・コーレンが言った。
「なに前を通りかかったから、ちょっと寄って動物学に敬意を表そうと思ってね、」そう言いながらサモイレンコは、動物学者があり合わせの板を打っつけてつくった大きなテーブルの傍に腰を下ろした。「やあ今日は、神父君」と窓際でせっせと何か写しものをしている補祭に会釈して、「ちょっと一服して、おひるの仕度に駈けて帰るよ。もう時間だからな。……邪魔じゃなかったかい。」
「いいや少しも」と、細かい字を一ぱいに書き込んだ紙をテーブルの上に並べながら動物学者が答えた、「写しものをしているところだ。」
「なるほど。……ああ、いやはや……」とサモイレンコは歎息した。そして、かさかさに乾いた毒虫の死骸の載っている埃だらけの本をテーブルの上でそっと引き寄せて見て、「しかしだね、ここに一匹の緑色の甲虫が、なにか用たしに出掛けるとするね。その途中でいきなりこんな目に逢う。こいつの恐怖が思いやられるなあ。」
「うん、僕もそう思うね。」
「この虫には敵を防ぐ毒があるのかね?」
「あるさ。それで防いだり、相手を攻めたりする。」
「ふむ、なるほど、なるほど。……そこでつまり、自然界には何ひとつとして役に立たぬものはない、意味のないものはない」とサモイレンコは溜息をして、「ただ一つ僕にはわからんことがある。君はすばらしい秀才だ、ひとつ教えてくれないか。よくこんな獣がいるね。大きさは鼠ぐらいで、見たところはなかなか綺麗な奴だが、根性が君ひどく下劣で不道徳なのだ。例えばまあそ奴が森の中へ行くとするね。小鳥が眼にはいる、すぐさま捕まえて喰ってしまう。少し先へ行くと草の蔭に巣があって卵がはいっている。もう腹が一杯で喰いたくはないんだが、でもやっぱり卵の一つは噛み潰して、残りを巣から蹴散らかしてしまう。やがて蛙に出逢うと、いい相手とばかりおもちゃにする。蛙をいじめ殺してしまうと、自分の躯をぺろぺろ舐めながらまた先へ行く。今度は甲虫に出逢う、それも足で一潰しだ。……こんな調子で途にあるものは手当り次第ぶち毀し滅ぼすんだ。………他の獣の窩へ這い込む、蟻塚をやたらに荒らす、蝸牛を殻ごと噛みくだく。……鼠に出逢えば組打ちをはじめる。蛇や仔鼠を見れば絞め殺さずにはいられない。一日じゅうそんなことをしている。ところで君、こんな獣がなんで必要なのかね。なんのために創造られたのかね。」
「君が何という獣のことを言ってるのか僕は知らないが」とフォン・コーレンは言った、「たぶん食虫動物の一種なんだろう。で、それがどうだと言うんだね。小鳥は不注意だったから奴の手に落ちたまでだ。卵のはいっている巣が奴にやられたのは、不器用な鳥で巣のかけ方が拙くって、隠しおおせなかったからだ。蛙はきっと保護色に欠陥があったにちがいない。さもなけりゃ見附からずにすんだ筈だ。以上すべて同断だよ。君の言うその獣に滅ぼされるのは、弱いもの、不器用なもの、不注意なもの、つまり何かの欠陥の持主で、自然が後代へ伝える価値なしと認めたものに限るのだ。利口なもの、注意ぶかいもの、強いもの、発達したものは、生き残るものだ。といったわけで君の言うその獣は、自らは知らずして自然界改良の大目的に仕えているのだよ。」
「ふむ、なるほど、なるほど。……時に君」とサモイレンコは磊落な調子で、「ちょっと百ルーブリほど貸してくれ。」
「ああいいよ。食虫動物の中には随分面白い奴がいるんだ。例えばモグラだね。こいつは害虫を駆除するから有益だと言われている。こんな話があるよ。昔あるドイツ人が、モグラの皮で外套を作ってヴィルヘルム一世に献上したそうだ。ところが皇帝は、有用動物をこんなに沢山殺して怪しからんというわけで、その男に譴責を命ぜられた。だがね、このモグラという奴は、残忍さにかけては君の言うその獣に決して劣らないんだ。それにひどく牧草地を荒らすから、きわめて有害な動物なんだよ。」
フォン・コーレンは手文庫を開けて、百ルーブリ紙幣を出した。
「モグラは蝙蝠と同じく逞ましい胸郭をもっている」と彼は手文庫を閉めながらつづけた、「骨骼と筋肉が驚くほど発達しているし、口には異常な武器を備えている。あれでもし象ほどの大きさがあったら、一切を破壊し得る天下無敵の動物だったろうにね。面白いのは二匹のモグラが地の下で出喰わした時だ。二匹ともまるで言い合わしたように土を掘り拡げはじめる。つまり戦争に便利なように広場を作るのさ。さて広場が出来ると、猛烈な戦闘が開始される。そして弱い方が仆れるまでは決してやめない。さあ、百ルーブリ」とフォン・コーレンは調子を落して、「ただし条件つきだ、ラエーフスキイのためじゃないという。」
「ラエーフスキイのためだっていいじゃないか」とサモイレンコはカッとなって、「君の知ったことじゃあるまい。」
「ラエーフスキイのためなのなら、僕は貸すのはお断りだ。僕は君が金を貸したがる性分なのは知っている。君は頼まれれば追剥のケリムにだって金を用立てる人だ。だがね、失敬だが僕は君のそうした傾向に力をかすわけには行かない。」
「いかにも僕はラエーフスキイのために借りるんだ」と、立ち上がって右手を振り廻しながらサモイレンコが言った、「然り、いかにもラエーフスキイのためだ! しかもどこのどんな悪魔だろうと鬼だろうと、僕が自分の金を処分するのに口を出す権利は断じてないのだ。君は貸せないのか? そうなのか?」
補祭は声を立てて笑い出した。
「まあそうカンカンにならずに、少しは考えて見給え」と動物学者は言った、「僕に言わせるとラエーフスキイ氏に恩を施すのは、雑草に水をやり、蝗に餌をやるの愚にひとしいよ。」
「ところが僕に言わせると、隣人を助けるのはわれわれの義務だ」とサモイレンコは叫んだ。
「そんなら、あの塀の上に寝ている飢えたトルコ人を助けてやり給え。あれは労働者で、君のラエーフスキイよりも有用かつ有益な人間だ。あの男にこの百ルーブリをやり給え。それとも僕の探険旅行に百ルーブリ寄附するんだな。」
「貸すのか貸さんのか、それを訊いているのだ。」
「じゃぶちまけて言ってしまい給え。あの男はなんでその金が要るのかね。」
「そりゃ秘密でも何でもない。土曜日にペテルブルグへ発つんだ。」
「なあるほど!」とフォン・コーレンは一言ずつ長く曳きながら言って、「ははあ……それでわかった。ところであの女も一緒か、どうだ?」
「女の方は一まず後に残る。あの男がペテルブルグに落ち着き次第金を送って寄越す。そしたら女も引き上げるのだ。」
「うまい!……」と動物学者は言って、テノールで短く笑った、「よく出来た! そいつは名案だ。」
彼は急いでサモイレンコの傍へ寄って顔をつき合わせると、相手の眼にじっと見入りながら訊いた。
「さあ匿さずに言い給え。彼奴は女に飽きが来たんだろう? そうだろう? さ、言い給え、飽きが来たんだね。」
「そうだ」とサモイレンコは口に出して、汗ばんだ。
「なんて厭な話だ!」と言ったフォン・コーレンの顔には、嫌悪の色がありありと見えた、「こいつは二つの中のどっちかだね、アレクサンドル・ダヴィードィチ。君が彼奴とぐるになっているのか、それとも君が、失礼ながらよっぽどおめでたいのか。君は彼奴に、まるで子供でもあしらうようにいい加減な嘘八百で操られて、それに気が附かないのかい? 彼奴は女から逃げたいのだ、女をここに棄てて行くつもりなんだ。そんなことは白日のごとく明らかじゃないか。女は君の頸っ玉へぶら下って居残る。で君がとどの詰まりは、自腹を切ってあの女をペテルブルグへ発たせることになるのも、同じく昭々として白日のごとしだ。君のあの立派な友人はその数々の美徳をもって、こんな簡単明瞭なことがわからなくなるまで、君の眼を眩ましおおせたのかね?」
「それは単なる臆測に過ぎんよ」とサモイレンコは腰を下ろしながら言った。
「臆測だって? じゃなぜあの男は女を連れずに一人で発つんだ。なぜ女の方が先に発って男が後からじゃいけないんだ、奴にひとつ訊いて見給え。じつに狡い奴だ。」
友人への思いも掛けぬ不審と疑惑の念に気が挫けて、サモイレンコは急にぐったりとなって調子を低めた。
「いや、そんなことはあり得ない」と、ラエーフスキイが泊って行った夜のことを思い出して彼は言った、「あの男はじつに苦しんでいる。」
「それがどうだと言うんだ? 泥棒や放火犯人だってやっぱり苦しむさ。」
「仮りに一歩を譲って、君の言うとおりだとしよう」とサモイレンコは思い惑うように、「仮りにまあそうして見よう。……だがね、彼は青年だ、見ず知らずの他国に来ている。……大学を出た男だ。われわれも大学を出たのだ。われわれの他にはここで誰一人あの男の力になってやる者はない。」
「君と奴とが時を異にして大学に籍を置いて、御両人とも何ひとつ覚えなかったというだけの理由で、奴の怪しからん行為を援助するというんだね。馬鹿もいいかげんにし給え。」
「ちょっと待て、ひとつ冷静に考えて見よう。どうだろうな、こういう具合にして見たら……」とサモイレンコは指を揉み揉み考えて、「いいかね、やっぱり金は貸してやることにする。その代り、一週間の内には必ずナヂェージダ・フョードロヴナの旅費を送ると、紳士の面目にかけて立派に約束させる。」
「そりゃ約束ならいくらでもするだろうよ。それどころか涙を流して、自分で自分を信じるだろうよ。だがその約束になんの価値があるかね。奴は決して守りはしないよ。で一年か二年もして、ネフスキイを新しい情婦と手を組んで歩いているところを、君に見つかるとするね。すると奴は、僕は文明に害われたとか、僕はしょせんルーヂンに過ぎないとか言いわけをするにきまっている。あんな男は打っ棄ってしまい給え、頼むよ。泥んこから身を引き給え。両手で泥んこを掻き廻すような真似はやめにし給え。」
サモイレンコはちょっと考えていたが、やがてきっぱりと、
「いや、僕はやっぱり貸してやる。君は厭なら厭でいい。たんに臆測を楯にして人の申し出でを断る、そんなことは僕には出来ん。」
「それは結構。まあ彼奴を抱いて接吻でもするさ。」
「じゃ、その百ルーブリをくれ給え」とサモイレンコはおずおずとたのんだ。
「いやだ。」
沈黙が来た。サモイレンコはぐったりしてしまった。悪いことをしたような、恥じ入ったような、相手の鼻息を窺うような顔つきになった。肩章と勲章をつけているこの巨大漢が、こんな情ない、子供のようにはにかんだ顔をしているところは、なんだか妙なものだった。
「ここの主教猊下は、馬車を使わずに馬に乗って管区を巡廻なさるんだが」と補祭がペンを置きながら言った、「馬上のお姿はじつに神々しいきわみですよ。あの方の質朴と謙虚さは、聖書の偉大さに充ち満ちていますね。」
「いい人かね」と、話題の変るのを喜んでフォン・コーレンが訊いた。
「でなくてどうします。いい方でなかったら、僧正になれる筈がないじゃないですか。」
「僧正といわれる人の中には、ずいぶんと立派な優秀な人物がいるものだ」とフォン・コーレンが言った、「ただ惜しむらくは、彼らの多くは自ら為政家をもって任ずるという弱点があるね。ある者は国粋化につとめ、ある者は科学の批判をしたりする。だがこれは彼らの仕事じゃないね。それより管区監督局へもっと顔を出して貰いたいものだよ。」
「俗人に僧正を論ずる資格はないですよ。」
「なぜだい、補祭君。僧正だって僕と同じ人間じゃないか。」
「同じでもあるし、同じでもないですからね」と補祭はムッとしてペンを取り上げながら、「もしも同じだったらあなたは天恵を授かって、僧正になってる筈じゃありませんか。ところであなたが僧正でないとすれば、つまり同じだとは言えないわけですね。」
「つまらんことを言い給うな、補祭君」とサモイレンコは憂欝そうに、「なあ君、こういう案はどうかね」とフォン・コーレンに向って、「その百ルーブリは貸してくれないでもいい。君はこの冬までまだ三ヵ月僕の所で飯を食うだろう。その三ヵ月分をひとつ先払いしてくれ。」
「いやだ。」
サモイレンコは眼をぱちぱちさせて、真赤になった。彼は機械的に毒虫の載った本を引き寄せて、じっとそれを見た。やがて立ち上がって帽子を取った。フォン・コーレンは気の毒になって来た。
「まあせいぜいああいう紳士と仲よくやって行くさ」と動物学者は言って、落ちていた紙片をいまいましげに隅の方へ蹴飛ばした、「君、そんなのは親切でも愛でも何でもない。弱気だ、怠慢だ、害毒なんだ。せっかく理性が築いたものを、君のそのぐにゃぐにゃなやくざな心情がぶっ毀してしまうんだ。僕が中学生時代に腸チフスをやった時、叔母さんが可哀そうだと言ってきのこの酢漬を喰わしてくれた。お蔭で死ぬところだったよ。叔母さんも君も、人に対する愛は心臓だの胃の腑だの腹だのにあってはならぬ、そらここにあるべきだということをわきまえるんだね。」
フォン・コーレンは額をぽんと叩いた。
「持って行き給え」と彼は言って、百ルーブリ紙幣を抛り出した。
「なにも君そう怒ることはないよ、コーリャ」とサモイレンコは紙幣を畳みながら穏やかに、「君の気持はよくわかる。だが……僕の身にもなって見てくれ。」
「君は百姓婆あだ。それだけさ。」
補祭は噴き出した。
「ねえ、アレクサンドル・ダヴィードィチ。最後のお願いだ」とフォン・コーレンは熱した口調で、「あの悪党に金を渡すとき条件をつけ給え。令夫人を連れて発つか、それとも先に発たせるか。それを言わずに金を渡し給うな。あんな奴になにも遠慮することはないんだ。そう言うんだぜ。もし言わなかったら、僕は誓って奴の役所へ押しかけて行って、奴を階段から突き落してやる。君とも絶交だ。そう思っていてくれ。」
「なんだ、そんなことか。女と一緒に発つにしろ、女を先に発たせるにしろ、結句その方があの男にも好都合だろうじゃないか」とサモイレンコは言った、「かえって喜ぶだろうよ。じゃ、さよなら。」
彼は愛想よく別れを告げて出て行ったが、後ろ手に部屋の扉を閉めようとしてフォン・コーレンを振り返り、怖ろしい顔をして言った。
「君を台無しにしたのはドイツ人だ。そうとも、ドイツ人だ!」
あくる日の木曜に、マリヤ・コンスタンチーノヴナは息子のコースチャの誕生祝いをした。人びとはお午のピローグ〔ロシヤ特有の揚
げまんじゅう〕に招ばれ、また晩にチョコレートに招かれた。その晩、ラエーフスキイとナヂェージダがやって来た時には、動物学者はもう客間に陣取ってチョコレートを飲んでいた。
「君はもうあの男に話したのか」と彼はサモイレンコに訊いた。
「いや、まだだ。」
「必ず遠慮し給うなよ。あの連中の厚かましいのにはまったく呆れるよ。ここの一家の人たちが奴らの同棲生活をどんな眼で見ているかはよく承知でいながら、平気の平左でやって来るんだから。」
「世間の奴らの偏見をいちいち気にしていたら」とサモイレンコが言った、「出ては歩けんことになる。」
「じゃ君は、世間が私通や不品行を擯斥するのを偏見だというのか?」
「そうとも。偏見と憎悪さ。兵隊は尻の軽い娘を見ると笑声を立てたり口笛を吹いたりする。だが訊いて見るがいい。彼ら自身は一体どうだと。」
「いや、彼らの口笛は無意味ではない。娘たちが私生児を窒死させて徒刑地へ行く事実、アンナ・カレーニナがわれとわが身を汽車の下敷にした事実、田舎で門口へタールを塗る〔その家内の女に不身持があった場合に、村人が侮辱乃至譴責の意
を表わす目的で表扉にタールを塗る。一種の道徳的私刑である〕という事実、君にも僕にもあのカーチャの純真さがなぜとなく好ましく思えるという事実、何人にせよ清純な愛などはあるものでないとは知りながらなおかつ漠然とその要求を心に感ずるという事実──これは果たして偏見だろうかね。いや君、これこそ自然淘汰を無事にくぐり抜けて来た唯一のものなのだ。もしも、両性関係を調整するこの得体の知れぬ力がなかったら、それこそラエーフスキイの徒が時を得顔にのさばって、人類は二年を出でずして退化してしまうだろう。」
ラエーフスキイが客間にはいって来た。一同と挨拶を交わし、媚びるような微笑を見せてフォン・コーレンと握手をした。やがていい折をつかまえて、サモイレンコに、
「すまないが、アレクサンドル・ダヴィードィチ。君にちょっと話があるんだが。」
サモイレンコは立ち上がると彼の胴に腕を廻して、二人はニコヂーム・アレクサンドルィチの書斎にはいった。
「明日は金曜だ……」と爪を噛みながらラエーフスキイが言った、「約束のもの出来たかしら。」
「まだ二百十ルーブリしか出来ん。あとは今日明日の中に拵える。安心してい給え。」
「ありがたい!」とラエーフスキイはほっと息をついて、嬉しさに両手を顫わせた、「君のおかげで助かるよ、アレクサンドル・ダヴィードィチ。神にかけて、僕の幸福にかけて、いや何でも君の好きなものにかけて、僕は着き次第返すことを誓うよ。古い借金も返すよ。」
「ところで、ヷーニャ……」と相手の釦をつかまえて赤くなりながらサモイレンコが言った、「君の家庭のことに喙を容れるようですまないが……なぜ君はナヂェージダ・フョードロヴナと一緒に発ってはならんのかね。」
「君も妙な男だな。そんなことが出来るものか。一人はどうしても残らなくちゃならんのだ。さもないと債鬼どもが喚き出すからな。なにしろ方々の店をあわせると少くも七百ルーブリは借りがある。まあ待ち給え、金を送って奴らの口を封じた上で、あの女にここを引き上げさせる。」
「なるほど。……だがなぜあの人を先に発たせないのかね。」
「とんでもない、そんなことができるもんか」とラエーフスキイは身顫いをして、「あれは女じゃないか。一人で行って何が出来る、何がわかる? ただ時間潰しとよけいな費用がかかるだけだ。」
『それも一理ある』──とサモイレンコは思ったが、フォン・コーレンとした会話を思い出すと、眼を落して不機嫌な調子で、
「僕にはそうは思えないな。あの人と一緒に発つか、あの人を先に発たせるか。さもなけりゃ……さもなけりゃ僕は金を貸すのはことわる。これが僕の最後の言葉だ。」
彼は後退りをして扉にどしんと背中でぶつかり、ひどく混乱して真赤になって客間に戻った。
『金曜日……金曜日……』と、客間に帰りながらラエーフスキイは考えた、『金曜日……。』
彼にもチョコレートが出た。熱いチョコレートで脣や舌を火傷したが、それでもやっぱり考えていた。
『金曜日……金曜日……。』
金曜日という言葉が、どうしたものか頭にこびりついてはなれなかった。金曜日のことしか考えられないのだが、しかも頭の中ではなくどこか心臓のへんで、土曜日には発てまいということだけがはっきりわかっていた。その彼の前に、几帳面な、両鬢をきれいに撫で上げたニコヂーム・アレクサンドルィチが立って、勧めるのだった。
「ひとついかがです、さあ、どうぞ……」
マリヤ・コンスタンチーノヴナは、お客にカーチャの通信簿を披露して、例のとおりひと言ひと言ひき伸ばしながら、
「当節はねえ、そりゃもう学校がむずかしくなりましてねえ。課目もふえます一方ですし……」
「あら、ママ!」とカーチャは、羞しさと褒め言葉の中で隠れ場所がなくなって、怨むような声を出した。
ラエーフスキイも通信簿を眺めて、褒めた。修身、国語、操行、五点、四点〔五点満点
である〕などの字が眼の中で踊りだし、それがみんな、附き纏って離れぬ『金曜日』や、ニコヂーム・アレクサンドルィチの両鬢の髪や、カーチャの真紅な頬と一緒くたになって、底無しのとてもやりきれぬ欝陶しさとして押し寄せるのであった。彼は危うく悲鳴を上げそうになり、自分の心に訊いた。──『本当に、本当におれは発てないのか?』
骨牌卓を二つつなぎ合わせて、一同は郵便ごっこをやることになった。ラエーフスキイも仲間にはいった。
『金曜日……金曜日……』と彼は微笑を浮かべ、ポケットから鉛筆を取り出しながら考えた、『金曜日……。』
彼は自分の陥っている状態をよく考えて見たかったが、また考えるのがこわくもあった。自分でも長いあいだ用心して眼をつぶっていたごまかしを、軍医に見破られたと意識するのが怖ろしかった。己れの将来のことを考える時には、彼は必ず自分の思考に或る制限を加えて来た。汽車に乗る、汽車が出る──それで自分の生活の問題は解決だと考え、それ以上はいっさい考えないことにして来た。時たまは彼の脳裡に、まるで遙か野の涯に見る微かな一点の火のように、遠い将来のいつかにはぺテルブルグのどこかの横町で、ナヂェージダと手を切り借金を返すため、何か一つ小さな嘘を吐かなければなるまいという考えが、ひらめくことがあるにはあった。だが嘘はただ一度きりで、それからまったく更生の生活にはいるのだ。小っぽけなたった一つの嘘で大きな真実が購えるのだから、これはいいことではないか。
それがいま軍医の拒絶に逢って、自分のごまかしが無残にも図星を指されて見ると、嘘の入用なのはなにも遠い将来だけではなく、今日も明日も一ヵ月後も、いやおそらく生涯の終りまで入用なのだということが、わかって来るのであった。実際出発するには、ナヂェージダにも債権者にも上役にも嘘を吐かなければならぬ。それからペテルブルグで金を手に入れるには、もうナヂェージダとは手を切りましたと母親に嘘をつかなければならぬ。しかも母親は五百ルーブリ以上は出してくれまいから、その近々に軍医に金を返せぬことになり、つまり既に軍医を瞞したことになる。やがてナヂェージダがペテルブルグに出て来れば、手を切るために大小さまざまの詭計を用いなければなるまい。そしてまたもや涙だ、倦怠だ、厭わしい生活だ、後悔だ、つまり更生のコの字もありはしないのだ。ごまかし、あるのはそれだけなのだ。ラエーフスキイの想像の中に、嘘の大山が盛り上がった。小出しに嘘をつかずに一ぺんでそれを飛び越すには、断乎たる手段をとらなければならぬ。例えばものも言わずに起ち上がって帽子をかぶり、即刻一文無しで黙って出発しなければならない。しかしラエーフスキイは、そんなことは出来ないと感じた。
『金曜日……金曜日……』と彼は思った、『金曜日……。』
一同は手紙を書いて、それを二つに折って、ニコヂーム・アレクサンドルィチの古シルクハットへ入れた。手紙が大分たまると、コースチャが郵便屋になって、卓のまわりを配達して廻った。補祭とカーチャとコースチャは、自分でも出来るだけおかしいことを書こうと頭をしぼっていたので、滑稽な手紙を受取ると有頂天になって喜んだ。
『ぜひお話したいことがあります』とナヂェージダは手紙を読んだ。そしてマリヤ・コンスタンチーノヴナと眼を見合わせると、相手は巴旦杏笑いをして頷いて見せた。
『なんの話すことがあるのかしら』とナヂェージダは思った、『どうせ何もかもぶちまけられないのなら、話して見たってしかたがないわ。』
今晩お客に来る前、彼女はラエーフスキイのネクタイを結んでやったが、こんななんでもないことが彼女の心を優しさと悲哀とで一杯にしたのであった。男の顔に浮かんだ狼狽の色、放心の眸、蒼白さ、この頃の彼に見られる不可解な変化、それのみならずネクタイを結んでやるときの彼女自身の手の顫え──これらすべてがなぜとはなしに、もう二人が一緒に暮らすのも長いことではあるまいと彼女に告げるのだった。彼女は聖像を見るように、畏怖と後悔の眸で男を見て、『許して、許して……』と心に呟いた。テーブルのちょうど向う側にアチミアーノフが坐っていて、恋慕の黒眼をじっと彼女から離さない。彼女は慾望に心が乱れ、そういう自分を恥じ、また自分の憂愁にしろ悲哀にしろ、彼女が今日明日にも不純な情慾の俘になるのをとどめる力はあるまいと思い、自分はもう酔いどれ女のように踏み堪える力はないのだと思い、不安な気持になるのだった。
自分にとっても恥かしくラエーフスキイにも不面目なこの生活を、これ以上つづけぬため、彼女はこの町を去ろうと決心した。どうぞ自分をいかせて下さいと泣いて彼に頼んで見よう。もし彼が不承知なら、こっそり出て行ってしまおう。出来てしまったことは一切彼には話すまい。せめて自分の思い出を男の胸に清らかなままで残して置こう。
『恋しい、恋しい、恋しい』と彼女は読んだ。これはアチミアーノフからである。
どこか片田舎に住んで稼ごう。そしてラエーフスキイには匿名で、お金や、刺繍をした肌着や、煙草を送ろう。そして老境にはいってから、或いは男が重い病にでもかかって看病する女が要るようになったとき、はじめて彼のところに帰ることにしよう。老人になってやっと、どういうわけで彼女が妻になることを拒み彼を棄てたかがわかった時、男は彼女の犠牲をありがたく思い、許してくれるだろう。
『あなたの鼻は長いですね』──これはきっと補祭かコースチャからだろう。
ナヂェージダは、ラエーフスキイと別れるとき男を強く抱きしめその手に接吻をして、あなたのことは一生死ぬまで思いつづけると誓う自分の姿を想像した。それから片田舎の身も知らぬ人達の間に佗住居をして、自分にはどこかに清らかな上品な高尚な一人の親友がいる、自分について清らかな思い出を抱いている愛する男があると、明け暮れ思いつづける自分を心に描いた。
『今夜どこそこで逢おうとおっしゃらぬなら、私は神明に誓って相当の手段をとります。それは決して紳士を遇する途でないことを、よくよく考えられたし』──これはキリーリンからだ。
ラエーフスキイは手紙を二つ貰った。一つを開けて見ると、『発つのはおやめ、ねえ君』とある。
『誰がこんなことを書いたのだろう』と彼は考えた、『無論サモイレンコではない。……補祭でもない、あの男はおれの発とうとしていることを知らない筈だ。フォン・コーレンかな?』
動物学者は卓上にかがみ込んで、ピラミッドを描いている。その眼が微笑を含んでいるようにラエーフスキイには見えた。
『さてはサモイレンコが喋ったな……』とラエーフスキイは考えた。
もう一つの手紙にも、やはりわざと筆蹟を崩した尾の長いくねくねした字で、『誰かさんは土曜日には発ちません』とあった。
『つまらんいたずらをする』とラエーフスキイは考えた、『金曜日、金曜日……。』
なにかが咽喉もとにこみ上げて来た。彼はカラーに指を触れて咳をした。が咳のかわりに笑いが咽喉をついて出た。
「ハ、ハ、ハ」と彼は笑い出した、「ハ、ハ、ハ。」──『なにを笑ってるんだ』と彼は思う、「ハ、ハ、ハ!」
自分を抑えようと手で口を塞いでみたが、笑いは胸や頸の根にこみ上げて来て、手で口を塞ぐどころではなかった。
『だがなんてまあ馬鹿げたことだ』と、笑いこけながら彼は思った、『おれは気が違ったのかな?』
笑い声はますます高くなって、なんだか狆の吠え声に似て来た。ラエーフスキイは立とうとしたが脚が言うことをきかず、右の手は心にもなく卓上を妙な具合に跳ね廻って、痙攣的に紙ぎれを捉えるとそれを握りしめた。人々の呆れたような眸や、サモイレンコの愕然とした真顔や、冷やかな嘲笑と嫌悪に満ちた動物学者の眸を認めると、彼はやっと自分がヒステリーにかかったのだと覚った。
『なんという醜態、なんという恥辱だ』と、涙が温かく頬を伝わるのを感じながら、彼は思った、『ああ、ああ、なんという恥っ掻きだ。ついぞこんなことが起こった例しはないのに……。』
すると、両脇に手をかわれ、後頭を支えられて、どこやらへ連れて行かれた。そしてコップが眼の前にきらきらし、歯に当って、水が胸にこぼれた。小さな部屋、真中に寝台が二つ並んで、清らかな雪のように白いシーツで蔽われている。彼はその一つに倒れて号泣しはじめた。
「なんでもない、なんでもないよ……」とサモイレンコが言っている、「よくあることさ……よくあることさ……。」
恐怖のあまり冷えきってしまって、総身をふるわせながら、なにか怖ろしい予感がしてならないナヂェージダは、寝台の傍に立って訊いている。
「どうなすったの? 何ですの? 後生だからおっしゃってよ……。」
『キリーリンが何か書いたのじゃないかしら』と彼女は考えた。
「何でもないんだ……」と泣き笑いをしながらラエーフスキイが言った、「向うへ行っておいで……いい子だから。」
その顔には憎悪も嫌悪も現われていない。して見ると彼は何にも知らないのだ。ナヂェージダはやや安心して客間へ帰った。
「ま、御心配なさいませんでね、あなた」とマリヤ・コンスタンチーノヴナが、隣へ坐って彼女の手を取りながら言った、「すぐに快くおなりですわ。男の方もやはり、私ども罪深い女と同じにお弱くいらっしゃるのね。本当にお二人とも今が一番お辛い時ですわ……お察ししますわ。で、あなた、あのお返事はいかが? お話を致しましょうよ。」
「いいえ、お話は御免遊ばして……」とナヂェージダは、ラエーフスキイの歔欷に耳を澄ましながら答えた、「あたくし、気が欝いでなりませんの。お暇させて頂きますわ……」
「まああなた、何をおっしゃるの」とマリヤ・コンスタンチーノヴナは驚いて、「私がお夜食も差上げずにお帰しするとお思いになって? 御一緒に頂きましょう。それからならお引きとめは致しませんわ。」
「あたくし気が欝いで」とナヂェージダは呟いて、倒れまいと両手で椅子の腕につかまった。
「あれは驚風だよ!」とフォン・コーレンは客間にはいって来ながら愉快そうに言ったが、ナヂェージダの姿を見ると間誤ついて出て行った。
ヒステリーの発作が過ぎると、ラエーフスキイは他人の寝台に起き上がって、考えた。
『恥っ掻きだ、女の子みたいに泣くなんて! 滑稽な唾棄すべき男に見えたに違いない。裏口から出て行こう。……だが待てよ、それではおれがヒステリーを重視したことになる。冗談にしちまうに限る……。』
彼は鏡を見、しばらく坐っていて、それから客間へ出て行った。
「このとおり罷り出ました!」と彼は微笑して言った。たまらぬほど恥かしかったが、彼の出現がみんなにも恥かしい思いをさせているのが感じられた。「よくあんなことがあるので」と腰を下ろしながら、「坐っていると急にその、怖ろしい刺すような痛みを脇腹に感じるのです。……とてもやりきれん奴で、神経がもう参っちまって……。で、まああんな馬鹿げたところをお目にかけてしまいました。なにせ一世を挙げての神経病時代で、致し方もないわけです。」
夜食になると彼は葡萄酒をやり、雑談を交わした。そして時どき、まだ痛みの去らないのを見てくださいと言わんばかりに、痙攣的な溜息をして脇腹をさすった。だがナヂェージダのほかには誰一人本当にする者はなかったし、彼もそれを知っていた。
九時を廻ってから一同は遊歩路へ散歩に出た。ナヂェージダは、キリーリンに話しかけられては大変だと思って、いつもマリヤ・コンスタンチーノヴナと子供達の傍を離れないように気を配った。彼女は恐怖と気欝とで力も何も抜け果てて、熱の予感に悩みながら、やっと足を運んでいるのだった。しかも家へ帰ろうとしないのは、必ずキリーリンかアチミアーノフか、又は二人ともいっしょに、ついて来るにきまっているからだ。キリーリンは、ニコヂーム・アレクサンドルィチと並んで後から歩いて来た。そして小声で歌っていた。
「われは戯れをゆーるさじ、われはゆーるさじ。」
遊歩路から茶亭の方へ折れ、海岸づたいに歩いた。そして海が燐光を発するのを長いあいだ眺めていた。フォン・コーレンは燐光の説明をはじめた。
「そうそう、ヴィントの時間だった。……みんなが待っています」とラエーフスキイが言った、「失礼します。皆さん。」
「私もいっしょに行くわ、待ってよ」とナヂェージダは言って、彼の腕をとった。
彼らは一同に別れを告げて立ち去った。キリーリンも別れを告げ、同じ道だからと言って二人と肩を並べた。
『どうせなるようにしかならない……』とナヂェージダは思った、『どうともなれ……。』
彼女は、厭な思い出がみんな頭の中から出て来て、暗闇のなかを自分と並んで歩きながら、苦しげな息づかいをしているような気がした。彼女自身はと言えば、インキの中に落ちた蠅のように、やっとのことで甃石道を這いながら、ラエーフスキイの脇腹や手を黒くよごしているような気がした。『もしキリーリンが』と彼女は考えた、『なにか厭らしい真似をしかけたとしても、悪いのは彼ではなくてこの私なのだ。だって以前は、キリーリンのような口のきき方を自分に敢えてする男は一人もない時代もあったのに、この私が自分でそれを糸みたいにぷつんときって、取り返しのつかぬことにしてしまったのだ。それが一体誰の罪だろうか? 自分の欲望に痴れ果てて、おそらく彼がみてくれのいい背の高い男だったばかりに、見も知らぬ男に微笑みかけ、二度の逢曳でうんざりして棄てた。そうまでされても』と彼女はいま考えるのだった、『この男には、私に勝手な振舞いをする権利がないというのか?』
「じゃあお前、僕はここで別れる」とラエーフスキイは立ちどまって言った、「お前はイリヤ・ミハイルィチに送ってお頂き。」
彼はキリーリンに挨拶して急ぎ足で遊歩路を横切り、往来の向うに窓をあかあかと見せているシェシコーフスキイの家の方へ行った。やがて木戸をぱたんと言わせる音がした。
「では事をはっきりさせて頂きましょうか」とキリーリンははじめた、「私は子供ではありません、そんじょそこらのアチカーソフでも、ラチカーソフでも、ザチカーソフでもありません。……これは切に御注意を促して置きます。」
ナヂェージダは激しい動悸がしだした。彼女は何にも答えなかった。
「あなたの私に対される態度の急激な変化を、私は最初媚態かと思っていました」とキリーリンはつづけた、「今にして私は、あなたがたんに紳士に対する態度を御存じないのだと知りました。あなたはあのアルメニヤの少年と同じく、たんに私をおもちゃにしようと思われたのだ。だが私は紳士です、そして紳士としての待遇を要求いたすのです。では、何なりと伺いましょう……」
「あたくし、気が欝いで……」とナヂェージダは言って、しくしく泣き出した。そして涙を見せまいと顔をそむけた。
「私もやはり欝いでおりますよ。だが、それだからどうなのです。」
キリーリンはちょっと黙っていたが、やがてはっきりと一語ずつ切りながら、
「繰り返して申しますが、奥さん、今夜もし逢って頂けなければ、今夜のうちにも一騒動持ち上げてお目にかけますよ。」
「今夜はどうぞ失礼させて下さいまし」とナヂェージダは言ったが、あんまり悲しげな微かな声だったので、自分の声とは思えなかった。
「私はあなたを懲らさねばならん。……荒い言葉を使って失礼ですが、どうしてもあなたを懲らさねばならん。さよう、遺憾ながらあなたを懲らさねばならん。今日と明日と、二回の会見を求めます。明後日はもうあなたはまったく自由です。誰でも好きな人とどこへなりとお出でなすってよろしい。今日と明日と。」
ナヂェージダはわが家の木戸まで来て、立ちどまった。
「失礼させて下さいまし!」わなわなと顫えながら彼女は囁いた。眼の前の闇のなかに、白い制服のほか何ひとつ見えない。──「あなたのおっしゃるとおりです、私はひどい女ですわ。……私が悪いのです。けど、どうぞ失礼させて下さいまし。……お願いですわ……」彼女は男の冷めたい手に触れて見て、びくっとして、「後生ですから……」
「ああ!」とキリーリンは歎息した、「ああ、しかしこのままお帰しするわけにはまいりませんな。私はただあなたを懲らしたいのだ、思い知らせたいのだ。それに、奥さん、私は女というものを一向に信じませんのでな。」
「私、気が欝いで……」
ナヂェージダは単調な海の響きに耳を澄ました、星を撒き散らした空を見上げた。すると、何もかも早く切りをつけて、海だの星だの男だの熱の発作だのという、この呪わしい生の感覚から脱れてしまいたくなった。……
「ただ私の家でないところでね……」と彼女は冷めたく言った、「どこへなりと連れて行って下さい。」
「ミュリドフの所へ行きましょう。あすこが一番いい。」
「それはどこ?」
「城址のすぐ傍。」
彼女は往来をずんずん歩いて行き、やがて山手へ向う横町へ折れた。暗かった。甃石道にはところどころ、窓から射す蒼ざめた光の帯が落ちていて、それが彼女には自分が蠅のようにインキの中へ落ちたり、また這い上がって明るみに出たりするように思われた。キリーリンは後からついて来たが、何かにつまずいて危うく倒れそうになり、そして笑いだした。
『酔ってるんだわ……』とナヂェージダは思った、『どっちにしたって同じだわ、同じことだわ。……どうともなれ。』
アチミアーノフも間もなく一同に別れて、ナヂェージダの後を追って行った。舟遊びに誘おうと思ったのである。彼女の家まで来ると柵の間から覗いて見た。窓はすっかり開け放してあったが灯影はない。
「ナヂェージダ・フョードロヴナ!」と彼は呼んだ。
一分ほど過ぎた。彼はまた呼んだ。
「どなた?」とオリガの声がした。
「ナヂェージダ・フョードロヴナはおいでですか?」
「いいえ、まだお帰りになりませんよ。」
『おかしいぞ。……じつにおかしいぞ。』とアチミアーノフは激しい不安に駆られはじめながら思った、『家へ帰ったはずだが。……』
彼は遊歩路から往来へかけてぶらぶら歩いて、やがてシェシコーフスキイの家の窓を覗いて見た。ラエーフスキイは上衣を脱いでテーブルに向い、一心に骨牌を睨んでいる。
「おかしい、どうもおかしい……」とアチミアーノフは呟いたが、先刻のラエーフスキイのヒステリーのことを思い出すと、きまりが悪くなった。──「家にいないとするとどこへ行ったんだろう、あの女は?」
彼はまたナヂェージダの住居へ引き返して、真暗な窓を眺めた。
『瞞したんだ、瞞したんだ……』と彼は、今日の昼ビチューゴフのところで一緒になったとき、彼女の方から今晩の舟遊びを約束したことを思い出して、そう思うのだった。
キリーリンの家の窓も真暗で、玄関際のベンチに巡査が居眠りをしていた。その暗い窓や巡査の姿を見たとき、アチミアーノフには一切が明瞭になった。もう家へ帰ろうときめて歩き出したが、いつのまにかまたナヂェージダの住居の傍に来ていた。そこのベンチに腰を下ろし、帽子を脱いだ。嫉妬と忿懣とで頭が燃えるようなのを感じながら。
町の教会の大時計は、正午と夜半と一昼夜に二回だけ時を打つ。大時計が夜半を報じてまもなく、せわしげな足音が聞こえた。
「じゃ明日の晩もまたミュリドフのところでね」とアチミアーノフが耳にしたのは、キリーリンの声だった、「八時ですぞ。ではまた。」
柵の傍にナヂェージダの姿があらわれた。ベンチに掛けているアチミアーノフに気づかずに、影のように前を通り過ぎると、木戸を開けて、後も締めずに家の中へ消えた。自分の部屋にはいった彼女は蝋燭をともし、手早く着物を脱いだ。が寝床にははいらずに椅子の前に膝をついて、椅子を両手で抱くようにして俯伏せになった。
ラエーフスキイの帰って来たのは二時すぎだった。
一ぺんに嘘をつかずに小出しにつくことにきめて、ラエーフスキイは翌る日の一時すぎに、サモイレンコの家へ出かけた。どうしても土曜日に発ってしまうため、金を貰いに行ったのである。昨日のヒステリーのおかげで、ただでさえ苦しくてならぬ気持に鋭い羞恥の情までが加わった今となっては、この町にとどまることはとても考えられぬ仕儀だった。彼は考えた。──もしサモイレンコがあくまで例の条件を突張るようだったら、承知したと言って金を貰おう。そして明日の出発の間際になって、ナヂェージダが行くのは厭だと言ったことにすればいい。女の方は今夜一晩がかりで、万事これはお前のためを思ってのことだと説きつける。万一また、明らかにフォン・コーレンに鼻柱を引き廻されているあのサモイレンコが、金は一切出さんと言うか、或いは何か別の条件を持ち出すようだったら、おれは今日のうちにも貨物船かさもなければ帆船でもいい乗り込んで、ノーヴイ・アフォンかノヴォロシースク〔黒海東北岸にある
コーカサスの港市〕へ行く。そこから母親へ電報で泣きついて、旅費を送ってくれるまではそこを動かぬことにする。
サモイレンコのところに来て見ると、客間でフォン・コーレンと顔を合わせた。動物学者は今しがた食事にやって来たところで、例によってアルバムを開けて、シルクハットの紳士や頭巾帽子の貴婦人を点検していた。
『悪いところへ来た』と、彼を見てラエーフスキイは思った、『こいつがまた邪魔をしやがるぞ。』──「今日は。」
「今日は。」振り向きもせずフォン・コーレンは答えた。
「アレクサンドル・ダヴィードィチはいますか?」
「ああ、台所にね。」
ラエーフスキイは台所へ行ったが、サモイレンコがサラダに夢中なのを扉口から見ると、客間へ引き返して腰を下ろした。動物学者の前へ出ると彼はいつも気詰まりを感じるのだが、今日はまた、例のヒステリーの話が出はしまいかとびくびくものだった。一分の上も沈黙の中に過ぎた。フォン・コーレンは急に眼を上げてラエーフスキイを見、そして訊ねた。
「昨日のこと以来、具合はどうです。」
「じつによろしい」とラエーフスキイは顔を赤くして答えた、「実際のところ、べつに大したことはないんですからね。」
「昨日まで僕は、ヒステリーという奴は婦人にかぎるのかと思っていましたよ。だからはじめは、君が舞踏病に罹ったのかと思った。」
ラエーフスキイは迎合的な微笑を見せたが、心に思った。
『なんて無遠慮なものの言い方をする奴だ。おれの辛い気持は百も承知なくせに。』……「ああ、とんだお笑い草でね」と彼は相変らず微笑しながら、「今日は朝じゅう独りで笑っていましたよ。ヒステリーの発作で奇妙なのは、馬鹿げたことは承知でいて、腹の中では自分を笑いながら、しかも泣けてしようがないことです。まあこの神経病時代にあっては、われわれは神経の奴隷なんですね。奴は僕らの主人で、僕らをしたい放題にするんですね。文明はこの点、かえって僕らに熊の親切〔熊が主人の顔にとまった蠅を追おうとしてその顔を叩き潰してしま
ったという、クルイロフの寓話詩からきた慣用語。有難迷惑の意〕をしてくれたわけですね。……」
しゃべりながらラエーフスキイは、フォン・コーレンが真面目な顔をして一心に彼の言葉に聴き入り、まるで研究でもするように彼の顔を、注意ぶかく瞬きもせずに見詰めているのが、不愉快でならなかった。のみならず、フォン・コーレンに好感を抱いてもいないくせに、迎合的な微笑をどうしても面上から消すことの出来ぬ自分にも、腹が立ってならなかった。
「だがしかし、じつを言うと」と彼はつづけた、「あの発作にはそれ相応に根ぶかい近因もあったわけです。最近ひどく健康がすぐれないのに、その欝陶しさにかてて加えて、明けても暮れても金の苦労です。……話相手もなし、共通の話題もなしね。まったく県知事の境遇よりみじめですよ。」
「そう、君の状態は絶望ですね」とフォン・コーレンは言った。
嘲笑ともつかず、頼みもせぬ予言ともつかぬものを、裡に含んでいるこの冷然と落ち着き払った言葉は、著しくラエーフスキイの耳に障った。彼は、嘲笑と唾棄の色に満ちた昨夜の動物学者の眼を思い出し、しばらく黙っていたが、やがて微笑をおさめて訊き返した。
「君は、どうして僕の状態を御存じなんです?」
「たった今君が自身で言われたじゃないですか。それに君の友人たちが君のことを大いに気を揉んでいてね、日がな一日君の噂で持ちきりという始末なんでね。」
「どういう友人です? サモイレンコですか?」
「そう、あの男もそうですね。」
「じゃ僕は、アレクサンドル・ダヴィードィチはじめ僕の友人なるものに、人の心配はいい加減にしてくれと頼みたいものですな。」
「ほら、サモイレンコが来た。ひとつその心配はいい加減にしろという奴を頼んで見給え。」
「僕にはわからない、どうして君がそう妙なものの言いかたをするのだか……」とラエーフスキイは呟いた。彼は、動物学者に憎まれ軽蔑され愚弄されていること、また動物学者が自己にとってもっとも兇悪な不倶戴天の敵であることが、今はじめてわかったような気持がしたのである。──「そんなものの言いかたは、誰かほかの人のためにとって置かれたらいいでしょう」と彼は小声で言った。憎悪がまるで昨夜の笑いの衝動のように、もう胸や頸筋を圧迫して来ていたので、大きな声が出せないのである。
上衣をとったサモイレンコが、台所の温気に顔をかっかと火照らせて、汗だくではいって来た。
「ああ、君来ていたのか」と彼は言った、「どうした、君。飯はすんだかい? 遠慮せずに言ってくれ、すんだのか?」
「アレクサンドル・ダヴィードィチ」とラエーフスキイは立ち上がりながら、「よしんば僕が、なにか一身上の頼みを君に持ちかけたとしても、それは君が慎しみを忘れていいということにはならんし、またひとの秘密を尊重せんでもいいということにもならんのだからね。」
「そりゃなんの話だ」とサモイレンコは眼をまるくした。
「金がないならないで」と声をたかめて、興奮のあまり脚をのべつに変えながら、ラエーフスキイはつづけた、「貸してくれないでもいいのだ、ことわってくれればいいのだ。それをなんだって、僕の状態が絶望だのなんだのと、横町から横町へ触れ廻すことがあるんだ。一文のことを一両のことでもしたように言う、そんな慈善や友情なら僕は真平御免だ。そりゃ勝手に自分の慈善を自慢して歩くがいい、だがひとの秘密を明るみに出す権利は君にはない筈だ。」
「なんの秘密だ」とサモイレンコは思い惑って、そろそろ怒りだしながら訊いた、「喧嘩をしにきたんなら、帰ってくれ。あとで来て貰おう。」
友達に腹が立ったら心の中で百かぞえろという格言を思い出し、彼は急いで数えはじめた。
「僕のことは一切心配しないで貰おうじゃないか」とラエーフスキイはつづけた、「僕のことは放っといて貰おう。僕がどうだろうとどんな生活をしようと、それが誰になんのかかわりがあるんだ。なるほど僕は発とうとしている。なるほど僕は借金だらけだ、酒も飲む、ひとの女房と同棲している、ヒステリー持ちだ、平凡な人間だ、誰かのように深遠な思想もない、だがそれが誰になんのかかわりがあるんだ。人の人格を尊重し給え。」
「ちょっと君、失敬だが」と三十五まで数えてサモイレンコが言った、「しかし……」
「人格を尊重し給え」とラエーフスキイはかまわずに、「しょっちゅう人のことを噫だとか嗟だとか噂ばかりしているんだ。しょっちゅう人の跡をつけ廻して、立ち聞きしているんだ。それで友情が……ふん、聞いて呆れるよ。金は貸す、そのかわり条件がある、まるで子供扱いだ。いやはやもうさんざんな目に逢ったよ。僕はもう何にもいらない!」興奮のあまりよろよろしながら、またヒステリーが起きたのじゃないかと不安になりながら、ラエーフスキイは叫んだ。『すると土曜日は発てないぞ』という考えがさっと閃いたが、「僕はもう何にもいらない! ただどうぞ、後見を解除してくれ。僕は子供でも気狂いでもないんだ。その監視を解いてくれ。」
補祭がはいって来た。が、真蒼な顔をして両手を振りながら、ヴォロンツォフ公の肖像に向って妙な演説をしているラエーフスキイを見ると、扉口に棒立ちになった。
「僕の気持をしょっちゅう穿鑿するということは」とラエーフスキイはつづけた、「取りも直さず僕の人格に対する侮辱だ。故に僕は素人探偵諸君に向って、そのスパイ行為の停止を切願する。もう沢山だ。」
「何だと……いや、君はいま何と言われたか?」百まで数えきったサモイレンコは、満面に朱をそそいで詰め寄った。
「たくさんだ」とラエーフスキイは息をはずませ、帽子を取りながら繰り返した。
「僕はロシヤの軍医だ、士族だ、五等官だ!」サモイレンコは一語ずつ切りながら、「スパイをやったことは未だかつてないぞ。このおれを侮辱することは何人にも許さん!」と声を顫わせ、最後の一語に力を入れて呶鳴った、「黙れ!」
補祭はまだ一度も、こんなに堂々と威張り返って、満面に朱を注いだ怖ろしい軍医を見たことがなかったので、口に手をあてて玄関へ逃げ出し、腹をかかえて笑いころげた。霧を通してでも見るようにラエーフスキイの眼には、フォン・コーレンが立ち上がり、ズボンのポケットに両手を突っ込んで、まるでその先を待ち設けるような姿勢をとって、立ちどまるのが映った。落ち着き払ったこの姿勢が、ラエーフスキイにはこの上もなく横柄な侮蔑的なものに見えた。
「あの言葉は取消して貰おう!」とサモイレンコは喚いた。
ラエーフスキイはもう、なにを自分が口走ったのか覚えがない。で、答えた。
「僕にかまわないでくれ給え。僕は何にもいらないんだ。僕の欲しいのは、君やユダヤ系ドイツ移民に、かまって貰いたくないことだけだ。さもないと僕にも覚悟がある。戦いも敢えて辞すまい。」
「これで話がわかった」とテーブルの向う側から出て来ながら、フォン・コーレンが言った、「ラエーフスキイ氏は当地を発つ前に、ひとつ気晴らしに決闘をして行こうと言われるのだ。僕は氏の望みを叶えて上げよう。ラエーフスキイ氏、僕は君の挑戦に応じる。」
「挑戦?」とラエーフスキイは、動物学者に近寄って、憎悪の眸をその浅黒い額や縮れ髪に注ぎながら、小声でいった、「挑戦? よろしい。僕は君を憎む! 憎む!」
「大いに愉快だ。明日の朝早目に、ケルバライの店の附近。条件は一切君に任せる。が今は帰ってくれ給え。」
「僕は君を憎む」と苦しそうに息をつきながら、ラエーフスキイは低く言った、「ずっと前からのことだ。決闘! いいとも。」
「この男をつかみ出してくれ、アレクサンドル・ダヴィードィチ、さもなきゃ僕が出て行く」とフォン・コーレンが言った、「今にも咬みつきそうだ。」
落ち着いたフォン・コーレンの調子が、軍医の熱を冷ました。何かの拍子でふと自分に返ると、はっとして、両手でラエーフスキイの腰をつかまえ、動物学者の傍から引き離しながら、興奮に顫える優しい声で呟くのだった。
「なあ、君たち……君たちはいい人なんだ、本当にいい人なんだ。少し激し過ぎただけだよ、もういい……もういいよ。なあ君たち。……」
もの柔らかな友情のこもった声を耳にするとラエーフスキイは、自分の生活に今のいま、何かしらこれまでになかった異様な出来ごと、まるで汽車に轢かれかかったような事件が、起こったところだと感じた。彼は泣き出しそうになって片手を振ると、一散に部屋から駈け出した。
『わが身を他人の憎悪の実験台にする、おれを憎んでいる人間の前に、みじめな卑しいたよりない姿をさらす──ああ、なんてなさけないことだ!』しばらくたって、茶亭の椅子に坐った彼はそう思うのだった。今しがた身をもって味った他人の憎悪のため、まるで身体が錆だらけになったような気がした。『ああ、なんて野蛮なことだ!』
コニャックを入れた冷たい水が彼を元気づけた。傲然と落ち着き払ったフォン・コーレンの顔や、昨夜の眼つきや、絨毯みたいなシャツや、声や、白い手やがはっきりと心に浮かび、重苦しい燃えるような憎念の餓鬼が胸の中をのた打ち廻って、復讐をせがむのであった。空想のなかで彼はフォン・コーレンを地面に叩きつけて、両足で踏んづけはじめた。起こった事がらが隅の隅まですっかり思い出され、なぜあんな下らん人間に追従的な笑顔が見せられたのか、いやそれよりも、一体この地図にもおそらく出ていず、ペテルブルグで相当な人間と言われる人なら誰一人知ってはいまいと思われるこんな吹けば飛ぶような町の、名もない小っぽけな連中の言うことをなぜ尊重できたのか、われながら不思議な気がした。この小汚ない町が突然陥没したところで、丸焼けになったところで、その新聞電報をロシヤの人々は、古家具の入札広告と同じ退屈さで読むだけだろう。明日フォン・コーレンを殺そうが生かして置こうが、どちらにしたって同じく何の益も興味もないことだ。足か手を狙って怪我をさせ、せせら笑ってやろう。それから彼が、脚を捥がれた昆虫が草の中をまごまごするように、お手前同様下らん連中の中を疼くような悩みを背負って迷い歩くところを見てやろう。
ラエーフスキイはシェシコーフスキイの所へ行って、事情をすっかり話し、介添人になってくれとたのんだ。それから二人で郵便局長のところへ行き、彼にも介添人になって貰って、そのまま夕食に居坐った。食事中は大いに冗談が飛び大いに笑い合った。ラエーフスキイは、てんで射撃の心得のない自分を嘲って、王様の射手だのヴィルヘルム・テルだのと呼んだ。
「あの紳士ひとつ思い知らしてやらにゃならん……」と彼は何度も言うのだった。
夕食がすむと骨牌の卓を囲んだ。ラエーフスキイは骨牌をやり、葡萄酒をやり、一方色んなことを考えていた。一体決闘という奴は、問題を解決するどころかかえって紛糾させるにすぎんから、愚劣かつ無意味な代物だ。だが時には無いと困る場合もある。例えば今の場合、フォン・コーレンを治安判事に訴えるわけにも行かんではないか。それに今度の決闘のありがたいのは、その後ではどうあってもこの町にいるわけには行かなくなることだ。彼はほろ酔い機嫌になり、骨牌に夢中になり、いい気持だった。
けれど日が沈み暗くなって来ると、不安な気持に襲われだした。食事中も骨牌をやっている間も、どういうわけかこの決闘は無事に終るという確信が頭を去らなかったところを見ると、これは死に対する恐怖ではない。それは、明日の朝早く彼の生活に初めて起こるべき未知の何物かに対する恐怖、また近づきつつある夜に対する恐怖であった。……その夜が長い不眠の夜であろうこと、それに考えごとも、フォン・コーレンや彼の憎悪のことばかりではなしに、差し迫ってぜひ越さねばならぬ嘘の山、越さずにすます力も方策も自分にはないその山のことも、考えねばなるまいことは目に見えていた。彼はまるで急病にでもかかったようだった。卒然として骨牌や話相手に興味を失い、そわそわしだし、もう帰らせてくれと言い出した。一刻も早く床に横になって、じっと動かずに、来たるべき夜に備える心構えがしたかったのである。シェシコーフスキイと局長は送って出て来て、決闘の打ち合わせにフォン・コーレンの家へ向った。
わが家の傍まで来たラエーフスキイは、アチミアーノフに出逢った。青年は息を切らして興奮している。
「僕はあなたを捜してたんです、イヷン・アンドレーイチ!」と彼は言った、「どうか直ぐ来て下さい。……」
「どこへ?」
「あなたの御存じの紳士が、お目にかかりたいと言っています。非常に重大な用件があるそうです。一分間でいいからぜひお出でを願いたいと言っています。なにかお話しなければならんことがあるらしいんです。……その人にとって生死の問題らしいんです。……。」
興奮のあまりアチミアーノフは酷いアルメニア訛りで喋ったので『生死』が『シェイ死』と聞こえた。
「いったいそれは誰です?」ラエーフスキイは訊いた。
「名は言わんでくれと頼まれたんです。」
「僕は今忙しいと言ってくれないか。もしよかったら明日……」
「どうしてそんなことが!」アチミアーノフは眼を丸くして、「その人は、あなたにとってとても重大な話があると言ってるんですよ。……とても重大な! もしいらっしゃらないと、取り返しのつかぬ不幸が起こりますよ。」
「妙だな……」とラエーフスキイは呟いた。何故アチミアーノフがそう興奮しているのか、またこの退屈な誰にも入用のない町に生じ得る秘密とは一体何か、さっぱり腑に落ちない。「妙だな」と迷いながらもう一度言って、「とにかく行って見よう。どっちみち同じことだ。」
アチミアーノフは大急ぎで先に立った。彼は追って行く。通りに出て、やがて横町へ曲がる。
「くそ面白くもない」とラエーフスキイが言った。
「もう直ぐ、直ぐです。……じきそこなんです。」
城址の近くで、柵で囲った空地と空地の間の細い路を抜け、とある大きな構えの中にはいって、一軒の小さな家に足を向けた。……
「あれはミュリドフの家じゃないか」とラエーフスキイが訊いた。
「そうです。」
「じゃなぜ裏から廻わるんです、僕にはわからんな。通りからだって行ける。そのほうが近いんだぜ……。」
「いいんです、いいんです……」
ラエーフスキイはますます変だと思った。アチミアーノフは裏口へ案内して、もっと静かに黙ってと言うふうに、手を振って見せるのである。
「ここです、ここです……」とアチミアーノフはそっと扉をあけて、爪先を立てて裏廊下にはいりながら言った、「静かに、静かに、お願いです……聞こえると困るんです。」
彼は聴き耳を立て、苦しげに息を継ぐと、ひそひそ声で言った。
「この扉を開けておはいりなさい。……平気です。」
ラエーフスキイはためらいながら扉をあけてはいった。天井の低い部屋で、窓にはカーテンが下ろしてある。テーブルに蝋燭が一本立っている。
「何用だ?」と次の部屋で声がした、「君、ミュリトカか?」
ラエーフスキイがその部屋を振り向くと、キリーリンの姿が見えた。その横にはナヂェージダが。
何を言われたのか耳にはいらなかった。後退りをすると、どうして通りへ出たかも覚えがなかった。フォン・コーレンへの憎悪も不安も、胸から消え失せてしまった。帰りながら彼は右手を不器用に振り、足下にじっと眼をつけて平らなところを選って行った。帰って書斎にはいると、両手をこすり、背広やシャツが窮屈かのように肩や頸をひくつかせながら、隅から隅へ一往復したが、やがて蝋燭をとぼして卓に向った。
「君の言う人道学なるものは、その進展の過程において精密科学と一致し、それと相並んで進む場合にはじめて、人類思想を満足することになるわけだ。この両者の一致が顕微鏡の下で行われるか、新しいハムレットの独白においてであるか、それとも新宗教としてであるかは僕は知らん。だがそうなるより先に、地球が氷の層で蔽われてしまうだろうと僕は思うね。あらゆる人道的な学問のなかでもっとも堅固で生命のあるのは、いうまでもなくキリストの教えだ。だが見給え、それですらいかに解釈がまちまちであることか。ある連中はすべて隣人を愛せよと教える。しかも兵隊と犯罪者と狂人は例外とする。すなわち第一の者は戦争で殺してもいいとし、第二の者は隔離し或いは死刑にしていいとし、第三の者には結婚を禁ずる。またある解説者は、すべての隣人を例外なしに正・負の差別なしに愛せよと教える。彼らの教えによると、もし結核患者なり殺人犯なり癲癇持ちなりが来て君の娘をくれといったら、やれということになる。クレチン病の白痴が心身ともに健全な人間に戦を挑んできたら、首を差しだせということになる。この愛のための愛の説教は、芸術のための芸術と同じく、万一勢力を得ようものならとどのつまりは人類を全滅に導き、かくて開闢以来空前の壮大きわまる罪悪が成就されるに相違ない。解釈はじつにたくさんあるが、さてたくさんあるとなると真剣な思想者はそのいずれにも満足しえないで、種々雑多な解釈の上にさらに自己の説を加えることを急ぐだろう。そういうわけだから、君の話のように問題を決して哲学的基礎、或いはいわゆるキリスト教的基礎の上に置いてはならんのだよ。そうすれば君は、いたずらに問題の解決から遠ざかるばかりだ。」
補祭は動物学者の言葉にじっと聴き入っていたが、しばらく考えてから訊いた。
「道徳律というものはどんな人間にも生まれつき具わっているものだが、あれは哲学者が考え出したものでしょうか、それとも神が肉体といっしょにつくられたものでしょうか。」
「知らないね。しかしその律が、あらゆる民族及び時代を通じて頗る共通性があるところを見ると、どうやら僕には、それが人間と有機的に結合しているものと認むべきもののように思われるな。あれは考え出されたものじゃない、現にあり、将来もあるものだ。僕はなにも、今にそれを顕微鏡にかけて覗ける時が来るなんて言うんじゃないよ。ただその有機的結合については、既に検証的に証明が出来ると言うのだ。つまりだ、重い脳の疾患といわゆる精神病の一切は、僕の知っているかぎりでは何よりもまず最初に、道徳律の倒錯となって現われるね。」
「わかりました。するとこうですね、胃の腑が食物を要求すると同様に、道徳感は隣人を愛することを要求するとね。そうですね? ところが僕らの天性には利己心というものがあって、良心や理性の声に反抗して、そのためいろんな頭の痛くなるような問題が起こるじゃありませんか。哲学的基礎の上に問題を置いちゃならんとおっしゃると、この解決は一体誰にたのんだらいいんでしょうね?」
「われわれの所有している少量の精密科学の知識にたよるんだね。検証と事実の論理とを信じるんだね。そりゃ寥々たるものにはちがいないさ。がそのかわり、哲学みたいに土台のぐらぐらな模糊たるものじゃない。かりにまあ、道徳律が人間を愛せよと要求するものとしよう。かまわんじゃないか。愛はすなわち、あれこれのやり口で人類に害を及ぼしかつ現在及び将来に人類の禍根となるべきものを、一掃することにある筈だ。われわれの知識及び検証は、人類の脅威は精神的肉体的に常軌を逸したる者から来ると告げる。果たしてそうなら、その異常者と闘えばいいじゃないか。彼らを正常にまで高めてやる力が君に無いとしても、彼らの毒を抜く、つまり絶滅するくらいの力と腕ならあるだろう。」
「すると、強者が弱者を征服するところに愛があるんですね。」
「確かにね。」
「しかし、強者はわれらが主イエス・キリストを十字架につけたじゃありませんか!」と熱した口調で補祭は言った。
「つまりそこなんだが、彼を十字架につけたのは強者じゃなくてじつは弱者なんだよ。人類文化は生存競争や自然淘汰の勢を殺いだし、また現にそれを零に近づけようとしている。そこで弱者の急激な増加となり、彼らが強者を圧倒することにもなるんだ。まあ考えても見給え、もし現在の未熟かつ発育不完全な形態における人道的思想を、蜜蜂にうまく吹き込んだとしたら、どんなことになるだろうね。殺されねばならぬ雄蜂は生き残って蜜を食い尽くす、働蜂を堕落させ絞め殺す──結局は弱者が強者を圧倒して、後者の退化となる。まったく同じ現象が今や人類にも起こりつつあるのだ。すなわち弱者が強者を圧迫しているのだ。まだ文化に接触したことのない野蛮人にあっては、もっとも強く賢く最も道徳的な者が、先頭に立って行くのだ。彼が酋長であり君主であるわけだ。ところがわれわれ文化人はどうだ。キリストを十字架につけ、なお現に続々とつけつつあるのだ。つまりわれわれには何かしら欠陥がある証拠だ。……この『何か』を取り戻さなければならん。さもないかぎり、この謬見のやむ時はあるまい。」
「だが、どんな標準で強者と弱者を別けるのです?」
「知識と検証とさ。結核患者や瘰癧患者はその病状を見ればわかる。悖徳漢や狂人はその行状を見ればわかる。」
「でも、間違うこともあるじゃありませんか。」
「そう。しかし洪水が来ようという時、足の濡れるのを心配するには及ぶまい。」
「そりゃ哲学だな」と補祭は笑い出した。
「そんなことはない。君はあまりに神学校的哲学に毒されているものだから、何ごとにもただ霧だけを見ようとするのさ。現に君の頭に一杯に詰まっている抽象学にしたって、君の智を検証から抽き出して来るものだからこそ抽象と称せられるのだ。悪魔の眼を真向から直視したまえ、でもしそれが悪魔だったら、これは悪魔であるとそう言い給え。説明を捜しにカントやヘーゲルのところへ駈けつけることはないんだ。」
動物学者はちょっと言葉を切って、またつづけた。
「二に二を掛ければ四だ。石はすなわち石だ。明日は決闘がある。それは愚かで不合理なことだとか、決闘はもう時代遅れだとか、決闘は一見貴族趣味ではあるが、本質的には酔漢が居酒屋でやる喧嘩となんら異るところはないとか、まあそんなことを君と僕がここでいくら気焔をあげたところで、やっぱり僕らは思い止まらんだろう、出掛けて行って闘るだろう。すなわち、われわれの推論よりも力強い或る力が存在するんだ。われわれは常づね声を大にして、戦争は追剥だ、蛮行だ、戦慄だ、兄弟殺しだと叫ぶ。われわれは失神せずして血を見ることは出来ない。しかしだ、フランスやドイツが一度でもわれわれを凌辱したら最後、われわれの士気は忽ちにして揚がり、じつに心底からのウラーの叫びを上げて敵陣に突進するのだ。君らはわれわれの武器の上に神の祝福を祈り、われわれの勇敢は国を挙げての心からなる熱狂を喚び起こすだろう。ふたたびすなわち、われわれ及びわれわれの哲学よりも高所に在るのではないとしても、少くともそんなものよりも力強い或る力が存在するんだ。われわれがそれを阻止することの出来ないのは、そらあの海の向うから湧いて来る黒雲をとどめる力がないのと同じなのだ。偽善はよし給え、その力に向って腹の中で舌を出すのはやめ給え、『なんて愚劣だ、なんて時代遅れだ、なんて聖書に悖ったことだ!』などとぶすくさ言うのはやめにし給え。それよりかその力をまともに直視して、その合理的な正当さを認めたまえ。そして例えばその力が、虚弱で瘰癧やみで淫蕩な種族の絶滅を欲するなら、曲解された福音書からでっち上げた君の丸薬や引用句でその邪魔をし給うな。レスコフ〔短篇を得意としたロシヤの小説家。僧侶、商
人階級、小市民などを描くのを特色とした〕の書いたものに、律気者のダニーラが町の外で癩病やみを見つけ、愛とキリストの名において彼に食物を与え、また温めてやるというのがある。もしこのダニーラにして真に人間を愛するのだったら、おそらくはその癩病やみを町からもっと遠いところへ引きずって行き、濠の中へ抛り込んだだろうよ。そして自分は健全な人々に奉仕することにしただろうよ。キリストの説いた愛とは、願わくは合理的な、意味のある、有益なものだったと思いたいね。」
「あなたはなんて人だ」と補祭は笑い出した、「キリストを信じてもいないくせに、なぜそうたびたび引き合いに出すんです。」
「いや、僕は信じている。ただそれが、無論君流にではなく僕流なだけだ。ああ、補祭君、補祭君!」と動物学者は笑い出し、補祭の腰を抱いて愉快そうに、「で、どうだい。明日は決闘へ行こうね。」
「職務上困りますね。でなけりゃ行くけど。」
「なんだい、その職務っていうのは?」
「僕は僧職にある者です。僕には天恵があるんです。」
「ああ、補祭君、補祭君」とフォン・コーレンは笑いながら繰り返した、「だから君と話をするのが大好きなのさ。」
「あなたは今、信仰があると言いましたね」と補祭が言った、「一体どんな信仰です。僕の叔父に僧侶になっているのがあるんですが、その信仰といったら、旱魃のとき野原へ雨乞いに行きますね、すると帰りに雨に濡れない用心に必ず雨傘と皮外套を持って行くんですよ。これが本当の信仰です。この人がキリストの話をするときは、からだから後光が射して、百姓爺さんも婆さんもおいおい泣き出すんですよ。あの人ならあの雨雲をとめる事もできましょうし、あなたの言うその力だって追っ払ってしまうでしょうよ。そうですとも。……信仰は山をも移す。」
補祭は笑い出して、動物学者の肩を叩いた。
「まったくですよ……」と彼はつづけた、「現にあなたはしょっちゅう研究ばかりしている、海の奥秘を探り、強者と弱者を分類し、書物を著わし、決闘を挑んでらっしゃる。だがそのため別に世の中が変りもしない。が御覧なさい、どっかのよぼよぼ爺さんが聖霊に感じて、一言もぐもぐとやるか、或いはまたアラビヤから新しいマホメットが半月刀を振りかざし駒を飛ばして現われたら、何もかも一どきに引くり返って、ヨーロッパにはそれこそ滄桑の変が来ましょうよ。」
「そうそう、補祭君、天に熊手でそう書いたったっけな。」
「仕事を伴わぬ信仰は死物だ。が、信仰を伴わぬ仕事はもっと悪い。ただ時間つぶしにしかならないんです。」
海岸どおりに軍医が現われた。補祭と動物学者の姿を見ると、こっちへやって来た。
「どうやらこれで用意はいいよ」と彼は息を切らしながら言った、「介添人にはゴヴォローフスキイとボイコがなる。朝五時に来てくれるはずだ。こりゃあ、すっかり曇っちまったな」と空を仰いで、「何にも見えやしない。ひと雨来るな。」
「君も来てくれるんだろうね」とフォン・コーレンが訊いた。
「いや、僕はひとつ堪忍してくれ。この通りくたくたなんだ。かわりにウスチモーヴィチが行ってくれる。もう話をして置いた。」
遠い海上で稲光りがした。雷鳴が陰にこもって轟いた。
「夕立前の蒸暑さったらないな!」とフォン・コーレンは言った、「何なら賭をしてもいい、君はもうラエーフスキイのところへ出掛けて、奴の胸にすがって泣いて来たろう。」
「あの男のところへなんか行くわけがないじゃないか」と軍医はどぎまぎして答えた、「まだそんなことを言う!」
じつは日の沈む前、ラエーフスキイに逢えはしまいかと思って、遊歩路や通りを二三度ぶらついて見たのである。カッと逆上せた自分も恥かしかったし、またそのすぐあとで、思い出したように急に親切になった自分も恥かしかった。彼は冗談のようにしてラエーフスキイに詫まって、意見もし宥めてもやりたかったのだ。そしてまた、決闘は中世の蛮風の遺物ではあるが、摂理そのものが二人の和解の手段として決闘を指し示したものであること、というわけは、ともに立派な人物であり非常な秀才である二人は明日銃丸の遣り取りをした後で、きっとお互いの真価をさとって、仲のいい友達になるだろうから──とも言ってやりたかったのだ。しかしラエーフスキイにはとうとう逢えなかった。
「あの男のところへなんか行くわけがないじゃないか」とサモイレンコは繰り返した、「僕があの男を侮辱したんじゃない、あの男が僕を侮辱したんだ。君ひとつ教えてくれ、何だってあの男は僕に突っかかって来たんだ。なんの悪いことを僕がしたと言うんだ。客間へはいって行く、とたんに頭からスパイ呼ばわりだ。まったくいやはやさね。おい教えてくれ、そもそも事の起こりは何だ。君は何を言ったんだ。」
「君の状態は絶望だねと言ったのさ。そうに違いないもの。一体どんな窮境からでも脱し得る人間は、正直者か騙児かにきまっている。正直者で同時に騙児でありたいと望むような人間には、出口は無いものだ。ところで諸君、もう十一時だよ。明日は早起きだからね。」
突然、風が吹き起こった。海岸通りの砂塵を上げ、それに旋風を巻かせ、ごおっと唸って潮騒の音を消した。
「疾風だ!」と補祭が言った、「早く行かないと、眼があいていられなくなる。」
歩きだしたとき、サモイレンコは制帽を抑えながら、溜息をついて言った。
「とても今夜は寝られそうもないなあ。」
「心配し給うなよ」と動物学者は笑いだして、「安心してるんだね、決闘はまず無事に終了さ。ラエーフスキイは鷹揚に空を射つだろうよ、奴にはそのほかに遣り方もないしね。僕はまあぜんぜん射たんつもりだ。ラエーフスキイなんぞのために裁判に掛けられて時間を潰すのは、まったく間尺に合わんからね。時に決闘はどんな罪になるのかね。」
「拘留さ。が相手が死んだ場合には、三年以下の要塞禁錮だ。」
「要塞ってペトロパーヴロフスク〔ペテルブルグ、ネ
ヷ河に臨む旧要塞〕のかね。」
「いや、たしか陸軍のだと思った。」
「だがあの先生、ひとつ懲りさせてやるほうがいいんだが。」
背後の海の上で稲光りがして、一瞬間家の屋根や山並みを照らし出した。遊歩路の近くで三人は別れた。軍医の姿が闇に消えてもう足音も聞こえなくなった時、フォン・コーレンが叫んだ。
「明日は天気に邪魔されたくないなあ!」
「さあ、どうかなあ。天気にしたいもんだが。」
「おやすみ!」
「すみがどうしたって? なんと言ったのかよお。」
風と潮騒とそれに雷鳴とで、よく聞きとれなかった。
「何でもないよ!」動物学者はそう叫んで、家へ急いだ。
……愁いにしずむ私の胸に
くるしい思いがむらがっている、
思い出は言もなく私のまえに
長い巻物をくりひろげる。
かくて味気なく来しかたの生を読み
私はおののき私はのろう、
いたく歎き にがい涙を灑いでも
哀しい文字は洗うすべもない。
──プーシキン
明日の朝よし殺されるにせよ、または命を助けられて笑いものにされるにせよ、どっちみち自分は破滅だ。生き恥を曝したあの女も、絶望と羞恥とから自殺をしようと、惨めな生をつづけようと、いずれにせよ破滅したのだ。……
その夜遅くラエーフスキイは卓の前に坐って、相変らず手をこすりながら、そう思った。窓がふいにばたんと開いて、どっと風が室内へ吹き入り卓上の紙を飛ばした。ラエーフスキイは窓をしめて、床の上の紙を拾おうと身をかがめた。自分の身体になにか新しい感じ、今までになかった一種のぎごちなさが感じられて、なんだか自分の動作ではなく、ひとの動作のような気がした。肘を張り肩をひくつかせながら、おずおずと歩いていたが、やがて卓に坐るとまた手をこすりはじめた。身体が柔軟性を失ってしまったのだ。
死の前夜には近親に宛てた手紙を書かなければならぬ。ラエーフスキイはそれを忘れずにいた。彼はペンをとると顫える字で、
『お母さん』と書いた。
あなたの信じていらっしゃる慈悲ぶかい神の御名によって、私に辱かしめられた孤独で貧しく弱い不幸な女に隠れ家を与え、優しくいたわってやって下さい、女が過ぎし日の一切を忘れかつ赦して、その犠牲でもってあなたの息子の犯した怖ろしい罪を、せめて幾ぶんなりと贖うようにさせて下さい──と書くつもりであった。しかし、母親がでぶでぶと肥った老婆で、レースの頭巾をかぶり、朝になると狆を連れた居候女を従えて庭へ下りて、がみがみと園丁や召使にものを言うところや、その傲慢で横柄な顔つきを思い浮かべると、いま書いた字を消してしまった。
三つある窓の全部に、さっと稲妻がひらめいた。耳を聾するばかりの長い雷鳴がそれにつづいた。はじめは陰にこもった鈍い響きであったが、やがて爆ぜるような轟きに変って、窓のガラスがびりびり鳴るほどの烈しさになった。ラエーフスキイは立ち上がると窓に寄って、額をガラスに押しあてた。戸外は荒れ狂うめざましい雷雨だった。水平線では稲妻が白い条をなして絶えまなく黒雲から海へ放射され、沖一面に黒い濤のうねりを照らし出した。右にも左にもおそらくは屋根の上にも、閃々と稲妻が光った。
「雷雨だ」とラエーフスキイは囁くように言った。誰かに、何かに祈りたい気持だった。稲妻にでもいい、黒雲にでもいい。──「ああお前、雷雨!」
昔のことが思い出された。彼は雷雨になると、何もかぶらずに庭へ駈け出す子供だった。すると明るい髪の青い眼をした娘が二人、あとから追って来て雨に濡れる。彼らは喜んできゃっきゃっと笑う。が、恐ろしい雷様の音がすると、娘たちは子供の彼をたよりにして抱きついて来る。そこで彼は十字を切って大急ぎで『聖なる、聖なる、聖なる……』と唱える。ああ、お前たちはどこへ行ったのだ、どこの海に溺れてしまったのだ。あの美わしい清らかな生活の芽生えは? 今はもう雷雨もこわくない、自然も愛しはせぬ、神もない。かつて知り、彼の胸にたよって来てくれた娘たちも、みんな彼や彼の同年者たちのために身を滅ぼした。生涯のあいだ、自分の生活の庭に一本の若樹も植えず、一本の小草も育てず、生あるものの間に生きながら、一匹の蠅すら救った覚えはない。ただ破壊し滅ぼし、そして嘘ばかりついて来たのだ。……
『おれの過去に、悪徳でないものがあったろうか』と彼は自問した。断崖の下に落ちた者が木の蔓にとり縋るように、なにか明るい思い出に縋りつこうとしながら。
中学は? 大学は? それもごまかしだった。ろくろく勉強もせず、教わったことはみんな忘れてしまった。社会に出てからは? やっぱりごまかしだった。役所に出ても何ひとつせず、ただ月給を貰って、彼の勤めはつまり法律に触れない醜悪な官金費消だったではないか。
真理は彼に不要だった、求めもしなかった。彼の良心は悪徳と嘘とに呪縛されて、眠り込んでいた。でなければ黙っていた。彼は他国者のように、また別の遊星から傭われて来た人のように、人類の共同生活に参加しなかった。彼らの悩みにも思想にも、宗教にも学問にも、探求にも闘争にも、一こうに無関心だった。ただの一言だって人びとに善いことを言ったためしはなく、ただの一行でも有用な非凡なことを書いたおぼえもなく、一文の値打ちのあることもしたおぼえはない。ただ彼らのパンを食い、彼らの葡萄酒を飲み、彼らの妻をぬすみ、彼らの思想で生活して、自分の破廉恥な寄生生活を人前にまた自分に対して繕うため、つとめて彼らより一だん高い優れた人間だというような顔をして来ただけである。嘘だ、嘘だ、みんな嘘だ。……
昨夜ミュリドフの家で眼にしたことを彼ははっきりと思い出し、嫌悪と悲痛さとでたまらなく胸苦しくなった。なるほどキリーリンとアチミアーノフは唾棄すべき輩だ。しかし彼らのしたことは彼がはじめたことの延長ではないか。彼らは彼の同類であり弟子なのではないか。自分をじつの兄以上に信頼してくれた若い弱い女性から、彼は夫を奪い、友達を奪い、故郷を奪った。そして彼女を、この炎暑と熱病と倦怠の巷へ連れて来た。来る日も来る日も、彼女は鏡のように彼の安逸と悪徳と虚偽を、自分の心に映さなければならなかった。それだけで、ただそれだけで、彼女の弱い凋んだ惨めな生活は一杯になっていたのだ。やがて彼は彼女に飽き、見るのも厭になったのだが、それでも思いきって棄てるだけの勇気は出ず、まるで蜘蛛のように、女をますます固く嘘で縛り上げようと一所懸命だったのだ。……あの二人はただその仕上げをしてくれただけだ。
ラエーフスキイは卓に坐ったり、また窓に寄って見たりした。蝋燭を消して見たり、点けて見たりした。彼は声を出して自分を呪い、泣き、哀訴し、赦しを願った。絶望のあまり幾度もテーブルに駈け寄って、
『お母さん!』と書いた。
母親のほかには一人の身内も隣人もなかった。しかし母親がなんの助けになってくれよう? それに母親はどこにいるのだ? 彼はナヂェージダの所へ馳せ寄って、その足もとに身を投げ、その手や足に接吻をして、心から彼女の赦しを願おうと思った。が、彼女は自分の犠牲で、まるで死人のように怖ろしい。
「生活は滅びた」と手をこすりながら彼は呟いた、「一体なんのためにおれはまだ生きているのだ、ああ情ない!……」
光の微かな自分の星を、彼は天から突き落したのだ。星は沈み、その跡形は夜の闇に紛れ込んでしまった。星はもう天に帰ることはあるまい。人生は一度しか与えられず、二度と繰りかえすすべもないのだから。もし過ぎし歳月を今に返すことができるのだったら、かつての日々の嘘を真実に、安逸を勤勉に、倦怠を歓喜にかえ、自分の奪った純潔をその人に返してやりもしよう、神と正義を見出しもしよう。しかしそれは、沈んでしまった星をまた元の天に戻すことができぬと同じく、できない相談である。それができないからこそ、彼は絶望に陥ったのだ。
雷雨が過ぎてしまうと、彼は開けた窓際に坐って、静かにわが身に起きようとしていることを考えた。フォン・コーレンはおそらく自分を殺すだろう。あの男の明晰冷厳な世界観は、虚弱者と不適者の絶滅をよしと見る。いざという時にその考えが変ったとしても、このラエーフスキイが彼の胸に喚びおこす憎念と嫌悪感とが、彼の決心を助けるにちがいない。またもし彼が狙いそこねるか、或いは憎むべき敵を嘲笑するため、ただ負傷させるにとどめるか空を射つかしたら、その時はどうするか。どこへ行ったらいいのか。
「ペテルブルグへ行くか?」とラエーフスキイは自分にたずねた、「だがそれはしょせん、現におれが呪ってやまぬ怖るべき生活を、また新規にはじめるにすぎまい。候鳥のように場所を変えることに救いを求める者は、決して何ひとつ探し当てはしないのだ。なぜならその人間にとって地上はどこも同じだからだ。他人の裡に救いを求めるか。誰にどうして求めるのだ。サモイレンコの親切と寛大にしたところで、救う力の薄いことは、補祭の笑い上戸やフォン・コーレンの憎悪と何ら撰ぶところはない。救いは結局自分の裡に求めるほかはないのだが、もし見つからなければ、なんで時間を徒費することがいろう。自殺、それだけだ。……」
馬車の音が聞こえて来た。もう夜が明けかかっている。半幌の馬車は家の横を過ぎて向きを変え、湿った砂に車輪をきしめかせながら、すぐ傍に停まった。馬車には二人乗っている。
「ちょっと待って、今すぐ行く」とラエーフスキイは窓から声をかけた、「僕は起きてるんだ。だがもう時間かね?」
「うん、四時だ。まだ大丈夫じゃあるが……」
ラエーフスキイは外套を着、制帽をかぶり、ポケットに巻煙草を入れ、さて立ちどまって考え込んだ。なにかまだほかにしなければならぬことがあるような気がしたのである。往来では介添人が小声で話をし、馬が鼻を鳴らしている。人はまだ寝静まって、空がわずかに白みそめた湿っぽい夜明けに、聞こえて来るこうした物音は、ラエーフスキイの胸を不吉な予感に似たもの憂さで満たした。しばらく思案顔で佇んでいたが、やがて寝室へはいって行った。
ナヂェージダは格子縞の毛布に頭からくるまって、自分の寝床に長ながと寝ていた。身動きもせず、とりわけその頭の恰好がエジプトのミイラに似ていた。無言で彼女を眺めながら、ラエーフスキイは心の中で詫びを言い、もし天が空っぽなのではなく本当に神がいますのなら、神はきっと彼女を守って下さるだろうと考えた。もし神がいまさぬのなら彼女は滅びるがよい、このうえ生きていてなんになろう。
彼女は急に跳ね起きて、寝床に坐った。真蒼な顔をあげ、怯えたようにラエーフスキイを見まもりながら、彼女は訊いた。
「あなたでしたの。もう雷雨はやんで?」
「やんだよ。」
彼女ははっと思い出し、両手で頭をかかえて、総身をふるわせた。
「ああ、私つらい」と彼女は口走った、「このつらさがわかって下すったらねえ。私待ってたのよ」と半ば眼をとじてつづけた、「今にもあなたが殺しにいらっしゃるか、でなきゃ、あの雨と雷様の中へ追い出しにいらっしゃるかと思って。けどあなたは、おためらいになったのね……おためらいになったのね……。」
彼はやにわに彼女を抱きしめて、その膝や手に接吻の雨を降らせた。それから彼女がなにか彼に呟いて、思い出にわなわなと戦くと、彼は女の髪を撫でてじっとその顔に見入りながら、この不幸な罪の女こそ自分の唯一の隣人、親身の、かけがえのない人間であることを覚った。
外へ出て馬車に乗ったとき、彼は生きて帰りたいとしみじみ思った。
補祭は起き上がって服を着ると、節だらけの太い杖を手にとって、そっと家を出た。真暗で、通りに出てからも初めのうちは、自分の白い杖さえ見えなかった。空には一つの星影もなく、また降りだしそうな気配だった。湿った砂と海の匂いがした。
『このぶんならチェチニャ人〔北部コーカサス
に住む未開民族〕も襲って来まい』と補祭は、甃石道に突いて行く杖の音が、夜の静けさの中で高く淋しく響き渡るのに耳を澄ましながら、そう思った。
町外れに出ると、やっと道も杖も見えだした。真黒な空のところどころに朧ろな斑があらわれ、まもなく星が一つ覗いて、臆病そうに片眼で瞬きはじめた。補祭は高い岩壁のうえをたどって行くので、海は見えなかった。海は下の方にまどろんでいて、姿の見えぬ波がものうげに重苦しく岸をうち、まるで『うう!』と溜息をしているようだった。また、その緩やかな調べはどうだろう。一つの波が打ち寄せてから補祭が八歩かぞえると、次の波が岸をうった。それから六歩あるくと第三の波が打った。やはりまるで何ひとつ眼には見えず、そして闇のなかで海のもの倦い睡たげな音がして、神が混沌の上を翺っていた頃の、涯しなく遙かな想像すべからざる時が聞こえていた。
補祭は不気味になって来た。不信仰者の仲間入りをし、しかも彼らの決闘をまで見に行く自分を、神が罰し給わねばよいがと考えた。この決闘は血も見ぬ、つまらぬ滑稽なものではあろうが、それはどうあろうとしょせんは異端の観物であり、その場に居合わすことは僧侶の身としてもってのほかである。彼は立ちどまって、引き返そうかと思った。が、はげしい落ち着きのない好奇心が遅疑の念に打ち克って、彼はまた歩きだした。
『あの連中は不信仰者ではある。が、いい人たちだから救われるに違いない』と彼は自分の心を宥めるのだった。「きっと救われるだろう!」と煙草に火をつけながら、声に出して言った。
人を正しく判断するには、どんな尺度で価値を測ればよいのだろう。補祭は自分の仇敵である神学校の生徒監を思いだした。その男は神も信じ決闘をしたこともなく、行い澄ましていたが、いつか補祭に砂のはいったパンを食わしたことがあるし、ある時などは危うく耳を千裂りかけたことさえある。もし人間の生活が、あの無慈悲で不正直で、お官の倉をかすめている生徒監をみんなして敬い、その健在と救いとを学校で祈るほど甘く出来ているものなら、フォン・コーレンやラエーフスキイを、不信仰者だというだけで毛嫌いするのは、果たして当を得たことだろうか。補祭はこの問題を解こうとしかけたが、急に今日見たサモイレンコの噴き出したくなるような顔つきを思い出し、おかげで考えの流れが断ち切れてしまった。明日はまたどんなにおかしいことがあるだろう。補祭は空想して見た。──自分が藪かげに身をひそめて覗いているところ、明日の昼飯のときフォン・コーレンが自慢話をしだす傍から、自分が笑いながら決闘の有様を細かに喋りだすところ。
『何だってそう何もかも知ってるんだ』と動物学者が訊くだろう。『つまりそこが術ですよ。家に坐ってて、ちゃんと知ってるんですからね。』
決闘のことを滑稽めかして手紙に書いたらさぞ面白かろう。舅は読んで腹をかかえるだろう。なにしろ舅と来たら、おかしい話を聞いたり読んだりするのが三度の飯より好きなのだ。
黄河の谿が眼のまえに展けた。雨のため河は川幅と水勢を増して、もうこの間のような呟き声ではなしに、咆え声を立てていた。夜が明けてきた。灰色のどんよりした朝、そして雷雨の雲に追いつこうと西へひた走る雲、霧を帯にした山やま、濡れそぼった樹々──何もかもが補祭には、ぶざまな不興顔をしているように見えた。彼は小川で顔を洗い、朝の祷りを唱えると、舅の家で毎朝食事にでる酢クリームをかけた火傷しそうな揚饅頭で、お茶が飲みたくなった。自分の妻と、彼女がピアノで弾く『かえらぬ昔』が思い出された。彼女はどんな女なのだろう。補祭は一週間のうちに、紹介された縁談が運び結婚したのである。そして一と月もいっしょに暮らさぬうちにここへ出張になったので、今のいままで彼女がどんな人間なのか見当もつかずにいるのだ。でもやはり、彼女がいないとなんとなく淋しかった。
『手紙をやらなくちゃ……』と彼は思った。
居酒屋の上の旗が、雨に濡れしょぼって垂れている。居酒屋はというと、屋根が濡れているせいか、せんよりも暗く低いように見える。扉口に荷馬車が一台とまっている。ケルバライと、どこかのアブハジヤ人が二人と、ケルバライの女房か娘と見えるトルコ風のズボンを穿いた若い韃靼女とが、居酒屋から何かの袋をしきりに担ぎ出して、玉蜀黍の藁を敷いた荷馬車に積んでいる。荷馬車の傍に、頭を垂れて驢馬が二匹立っている。袋の積み込みがすむと、アブハジヤ人と韃靼女はその上に藁をかぶせはじめ、ケルバライはせかせかと驢馬をつけはじめた。
『抜け売りだな、きっと』と補祭は考えた。ほらここに、かさかさに枯れた刺のある例の倒れ木がある。焚火の黒い跡もある。ピクニックのことが何から何まで思い出された。火、アブハジヤ人の歌、僧正と十字架行列の甘い夢想……。黒河も雨のため黒さと川幅を増している。補祭は用心しながら、濁流の鬣がもう届きそうになっている危なっかしい橋を渡り、小さな梯子を攀じ上って乾小屋の中へはいった。
『すばらしい男だ』と彼は藁の上に長ながと寝て、フォン・コーレンのことを思い出してこう考えた、『立派な男だ。ねがわくは健在なれだ。ただどうも残酷なところがある。』
なぜあの男はラエーフスキイを憎み、ラエーフスキイは彼を憎むのだろう。なぜ二人は決闘なんかするのだろう。もしあの二人が、補祭のように子供の時から不自由な目に逢って来たのだったら、無教育で薄情で利慾に飢え、一片のパンのことでも口汚なく罵り、粗野で下等で床へ唾を吐きちらし、食事中でも祈祷の時でも平気で噯を出すような、そういう人たちの間で育ったのだったら、子供の時から恵まれた環境と選ばれた人々の間に甘やかされずに来たのだったら、二人はどんなにお互いにたよりあい、めいめいの欠点を喜んでゆるし合い、それぞれの持前を尊重し合うことだろう。よし外面だけの紳士にせよ、この世にはじつに少ないのではないか。なるほどラエーフスキイは気紛れで放埒で変な男ではあるが、まさか盗みはしまい、床へべっと唾もしまい、妻君のことを『大飯ばかりくらいおって働こうともしねえ』と叱りもしまい、手綱で子供をぶちもしまいし、召使に臭くなった塩漬肉を食わしもしまい。それだけでも寛大にしてやるには不足だというのか。なおその上に、彼は負傷者が傷に苦しむように、誰よりもまず自分でその欠点に苦しんでいるではないか。退屈まぎれか、つまらぬ誤解がもとで、お互いの裡に退化だの死滅だの遺伝だの、その他ろくろくわかりもせぬものを探ぐり合うよりは、もう少し低いところへ下りて見て、その憎悪や忿懣を、街じゅうが野卑な無学さや貪慾や叱責や不潔さや、罵詈や女の金切声やでわんわん言っている方へ、向けた方がよいではないか。
馬車の軋りが聞こえて来て、補祭の思いを破った。彼は扉から覗いて半幌の馬車を認めた。中には三人乗っている。ラエーフスキイとシェシコーフスキイと、それから郵便局長である。
「ストップ」とシェシコーフスキイが言った。
三人とも馬車から降りて、互いに眼を見合わせた。
「向うはまだ来ておらんな」と、シェシコーフスキイが泥を落しながら言った、「さればさ。幕があかぬうちに、一ついい場所を見つけに行くとしますかな。ここじゃ身動きもできはせん。」
彼らは川上の方へ歩いて行って、間もなく見えなくなった。韃靼人の馭車は馬車に上がって、首を肩へかしげて睡り込んでしまった。十分ほど待ってから補祭は乾小屋を出て、見つからぬように黒い帽子を脱ぎ、身を屈めてあたりを見廻しながら、藪や玉蜀黍の列の間を掻き分けて、川岸をたどりはじめた。樹々や藪から大粒の滴が彼に降りかかった。草も玉蜀黍もびしょ濡れである。
「恥だ!」と彼は、濡れて泥んこな裾を端折りながら呟いた、「こうと知ったら来るんじゃなかった。」
まもなく人声が聞こえ、人の姿が見えた。ラエーフスキイは両手を袖口につっ込み、前屈みになって、森の中の小さな草地を急ぎ足で前後に歩き廻っている。介添人たちは岸のすぐ際にたたずんで、煙草を巻いている。
『おかしいぞ』と、別人のようなラエーフスキイの歩みぶりを見て補祭は考えた、『まるで老人だ。』
「奴ら、無作法にも程があるぞ」と郵便局長は時計を見ながら言った、「学者の流儀じゃ遅刻してもいいのか知らんが、僕に言わせるとこれは豚の所行というものだ。」
シェシコーフスキイは黒い頬髯のある肥った男だが、耳を澄ますと言った。
「来たですぞ。」
「生まれてはじめてお眼にかかったよ。なんて素晴らしいんだ!」とフォン・コーレンは草地に姿を現わすと、東の方へ両手を差しのべて言った、「見給え、あの緑いろの光の条を。」
東の山巓から、二条の緑いろの光が射し出ていて、それは実際美しかった。日が上るのだ。
「お早う」と動物学者はラエーフスキイの介添人の方へ頷いて見せ、言葉をつづけた、「遅れやしなかったかね。」
その後から彼の介添人たちがついて来た。白い夏服を着た、同じ背丈の、とても若い二人の士官ボイコとゴヴォローフスキイと、ひどく痩せた人間嫌いの医師ウスチモーヴィチとである。医者は片手に何かの包みを提げ、片手を後ろに廻している。例によって背中にはステッキが真直ぐに立っている。包みを地面に置くと、誰にもお早うとも言わずに、あいた手も背中に廻して草地を歩きはじめた。
ラエーフスキイは、もう直きに死ぬかもしれないというのでみんなの注目の的になっている男の、気苦労と間の悪さとを感じていた。一刻も早く殺すか、家へ連れて行ってくれるかして貰いたかった。日の出を見るのは生まれて今がはじめてである。この朝明けも緑いろの光の条も湿っぽい空気も濡れた長靴を穿いた人々も、自分の生活にとっていりもせぬ、よけいなものに思われ、窮屈でならなかった。こんなものはみんな、いろいろな想念や良心の呵責に責められとおした苦しいその一夜と、何のつながりもないのだ。だから決闘になる前に帰れるなら大いにありがたいがと思っていた。
フォン・コーレンは眼に見えて興奮していて、それを匿そうとして緑いろの光の条に一番興味をひかれている振りをしていた。介添人たちはまごまごして、自分たちはなぜここにいるのだ、どうすればいいのだと問いたげに、互いに視線を交わしていた。
「諸君、私はこれ以上先へ行く必要はないと考えるですな」とシェシコーフスキイが言った。「ここで結構ですな。」
「ああ、勿論」とフォン・コーレンが同意した。
沈黙が来た。歩き廻っていたウスチモーヴィチが、突然くるりとラエーフスキイの方を向いて、息を彼の顔に吹きかけながら小声で言った。
「あなたには多分まだ私の条件をお伝えする暇がなかったと思います。双方とも各々十五ルーブリを私にお支払い下さることになっています。どっちか片方が亡くなった場合には、生き残った方で全額三十ルーブリをお支払い下さい。」
ラエーフスキイは前からこの男と知合いであったが、今はじめてはっきりと、そのどんよりした眼や、剛そうな口髭や、骨ばかりの肺病やみみたいな頸を見たのだった。これは高利貸だ、医者ではない! 彼の息は不愉快な牛肉のような臭いがした。
『世の中には随分いろんな人もあるものだ』とラエーフスキイは思い、返事をした。
「結構です。」
医者は頷くと再び歩きはじめたが、その様子で見ると金が欲しいのでは決してなく、ただ憎悪から彼らにそんなことを持ち出したものらしかった。一同は、もうはじめる時だ、乃至は既にはじまっていることを終るべき時だと感じていたが、別に始めも終りもせずに、歩いたりたたずんだり煙草を喫ったりしていた。生まれてはじめて決闘に立ち会う若い士官たちは、彼らの意見によれば文官的であり無用であるこの決闘を、今になってもほとんど信用しないで、丁寧に自分の夏服をしらべたり袖を撫でたりしていた。シェシコーフスキイは彼らに近づいて小声で言った。
「諸君、われわれはこの決闘が成立せぬよう全力を尽して然るべきだと思うですな。あの二人を和解させるのですな。」
彼は顔を赤くして言葉をつづけた。
「昨夜僕のところへキリーリンが来て、その晩ナヂェージダ・フョードロヴナと一緒にいるところをラエーフスキイに見つけられた云々というわけでしてな、愚痴をこぼして行ったですよ。」
「そう、僕らもその話は聞いています」とボイコが言った。
「だからまあ御覧。……ラエーフスキイの手はぶるぶる顫えておるし云々というわけでしてな。……あれじゃピストルも上げられんです。あの男を相手に決闘をするのは、酔払いかチフス患者を相手にやるのと同じく不人情ですな。もし和解が成立せんまでも、なあ諸君、せめて決闘を延期したらどうでしょうな。……かかる残虐行為は見るに忍びんです。」
「あなたひとつフォン・コーレンと掛け合って見たら。」
「僕は決闘の規則は知らんですし、そんなものは悪魔にくれちまえで、べつに知りたいとも思わんのですが、ひょっとしたらあの男は、ラエーフスキイが怖気づいて僕を差し向けたと思いはすまいかな。だがまあ何とでも思わしときましょう、一つ掛け合って見るとしよう。」
シェシコーフスキイは煮えきらぬ様子で、足が痺れでもしたように軽く跛を引きひき、フォン・コーレンの方へ行った。咽喉を鳴らしながら足を運んで行くあいだ、その全身はものうさを息づいていた。
「ここに一つのお話があるんですがな、先生」と彼は、動物学者のシャツの花模様にじっと瞳を凝らしながらはじめた、「これはごく内々の話でしてな……私は決闘の規則は知らんですし、そんなものは悪魔にくれちまえで、べつに知りたいとも思わんのですが、そして介添人として云々というわけではなしに、人間として考えるというだけの話ですがな。」
「なるほど、それで?」
「介添人が和睦をすすめても、普通はまあ用いられずに、とおり一片の形式と看做されるのが例でしてな、つまりこれは自尊心というだけの話ですな。しかし私はあんたに折り入って、ひとつイヷン・アンドレーイチの様子に眼をとめてもらいたいとお願いするです。あの男は今日は調子が狂っとるです。いわばまあ動転して惨めな有様ですな。あの男には不幸がありましてね。人の噂話をするのは私はしのびんのですが」とシェシコーフスキイは赤い顔をしてあたりを見廻した、「しかし決闘のゆえにあんたにお伝えする必要があると思うのです。昨夜のこと、あの男はミュリドフの家で、自分の奥さんがその、ある紳士といっしょなところを見たのでしてな。」
「なんて汚らわしい話だ」と動物学者は呟いた。彼は蒼くなって眉をひそめ、ペッと唾を吐いた、「ちえっ。」
下の脣がぴりぴり顫えていた。彼はもう先は聞きたくないと言わんばかりにシェシコーフスキイの傍を離れ、知らずになにか苦がいものを味わった時のように、もう一度ペッと唾を吐くと、憎悪をこめた眼つきでその朝はじめてラエーフスキイを一瞥した。やがて興奮と気まずさが去ると、彼は頭を一振りして、大声で言った。
「諸君、なにをわれわれは待ってるのかと訊きたいね。なぜはじめないのです?」
シェシコーフスキイは士官たちと眼を見合わせて肩をすくめた。
「諸君!」と彼は、誰の顔も見ないで大声で言った、「諸君、われわれは君がたに和解をすすめます。」
「手続きのほうは手っとり早く願いたいな」とフォン・コーレンは言った、「和解の話はもうすんだ。そこでまだどんな手続きが残っているんです? お早く願いたいですな、諸君。時間は待ってくれん。」
「しかしわれわれは依然として和解を主張するです」とシェシコーフスキイは、ひとのことに容喙することを余儀なくされた人のような、すまなそうな声で言った。彼は顔を赤くして、片手を心臓に当てて言葉をつづけた、「諸君、われわれは侮辱と決闘との間に然るべき関係を認めぬ者です。人性の弱点として時にわれわれが互いに与え合う侮辱とこの決闘との間に、なんの共通したものもないです。君がたは大学を出られた教養ある方がたです。そして勿論決闘というものに、ただただ時代遅れの空虚な形式云々というわけのものを、御自分で認めておられるに違いない。われわれはじつにそういう観方をしておる者であり、然らずんばここに参りはしなかった筈です。なぜならば、われわれの面前で人間が射ち合いをするのを許すわけには行かんというだけの話でして。」シェシコーフスキイは顔の汗を拭って、またつづけた、「諸君、君がたの誤解を清算されて、互いに握手をされて、手打ちの杯をあげに家へ帰ろうではありませんか。まったくですぞ、諸君!」
フォン・コーレンは黙っていた。ラエーフスキイは皆の視線が自分に集まっているのに気づいて言った。
「僕としてはニコライ・ヷシーリイチになんら含むところはないのです。もしあの人が僕が悪いと言われるのなら、謝罪してもいいと思います。」
フォン・コーレンは色をなした。
「どうやら諸君は」と彼は言った、「ラエーフスキイ氏が寛大な紳士また騎士として帰宅することが御希望と見える。しかし僕は諸君及び同氏にこの満足を与えるわけに行かんのです。手打ちの杯をあげ、むしゃむしゃと食い、決闘は時代遅れの一片の形式であるという説教を聴くだけのことなら、なにも朝早く起きて町から十露里もあるここへやって来る必要はなかったのです。決闘は決闘だ。それを実質以上に愚劣化し欺瞞化してはならんのだ。僕は闘うことを望む!」
沈黙が来た。士官ボイコが函からピストルを二梃とり出し、一梃はフォン・コーレンの手に、一梃はラエーフスキイの手に渡った。そこでちょっとごたごたが起こって、しばらく動物学者や介添人達を笑い興じさせた。つまり居合わせた連中は誰一人として、生まれてこのかた決闘に立ち会ったことが一度もないので、どういう具合に立ったらいいのか、介添人が何を言い何をなすべきかを、誰もよく知らないことがわかったのである。が、やがてボイコが思い出して、にこにこしながら説明をはじめた。
「諸君、レールモントフがどう書いていたか、覚えてる人はないか」とフォン・コーレンが笑いながら訊いた、「ツルゲーネフにもバザーロフが誰かと射ち合うところがあったが……」
「思い出してもはじまらんよ」とウスチモーヴィチが、立ちどまりながらいらだたしげに言った、「距離を測り給え。それでいいんだ。」
そう言って、あたかも測り方を教えるように、三歩ほど歩いて見せた。ボイコが歩数をかぞえると、その同僚が刀を抜いて両端の地面に引っ掻き痕をつけた。柵のつもりである。
二人の敵手は、一同の沈黙のうちに位置についた。
『モグラだ』と、藪の中に坐っていた補祭は思い出した。
シェシコーフスキイが何か言い、ボイコが再び何か説明した。がラエーフスキイの耳にははいらなかった。もっと正確に言うと、耳にははいったが理解しなかった。彼は、その時が来ると撃鉄を上げて、重い冷たいピストルの銃口を起こした。外套のボタンを外すのを忘れていたので、肩先や腋の下がとても窮屈で、まるで袖がブリキ仕立てでもあるかのように、腕はいかにもぎごちなく持ち上がった。彼は浅黒い額や縮れ髪に対する昨日の自分の憎念を思い出して、たとえ昨日あの烈しい憎悪と忿怒の最中でも、自分にはとても人間は射てなかったろうと思った。弾丸がどうかした拍子でフォン・コーレンに当ってはいけないと思い、彼はピストルをますます高くあげた。そして、このあまりにも露骨な寛大は不作法でもあり、かえって寛大でないことになると感じたけれど、そのほかには手立てもしようもなかった。明らかに初めから相手が空を射つことを確信していたにちがいないフォン・コーレンの、嘲けるような微笑を含んだ蒼ざめた顔を見ながら、ラエーフスキイは思うのだった──ああありがたい、もうすぐ何もかも終りだ、ただちょっと引金に力を入れさえすればいいのだ。……
猛烈な反動が肩へ来た。銃声がひびき、山並みの木霊が答えた、「ぱぱーん!」
するとフォン・コーレンが撃鉄を上げて、ウスチモーヴィチの方を見た。医者は両手を背中に廻したまま、何ごともいっさい知らんという顔で、相変らず歩き廻わっている。
「ドクトル」と動物学者が言った、「ひとつその振子のように歩き廻わるのはやめて頂きたいですな。眼がちらちらしてならん。」
医者は立ちどまった。フォン・コーレンはラエーフスキイに狙いをつけはじめた。
『最後だ!』とラエーフスキイは思った。
真直ぐに顔に向けられた銃口、フォン・コーレンの姿勢にも全身にも見える憎悪と侮蔑の表情、そして今まさに一人の紳士が白昼数人の紳士の面前で行おうとしているこの殺人、この静寂、ラエーフスキイを直立させたまま逃げようとさせぬ得知れぬ力──これらすべてはなんと神秘的で不可解で、怖ろしいことだろう。フォン・コーレンが狙いを定めている時間は、ラエーフスキイは一夜よりも長く思われた。彼は哀願するような眸を介添人たちに投げた。彼らは身動きもせず真蒼な顔をしていた。
『早く射てばいい』とラエーフスキイは思い、自分の真蒼に顫えているみじめな顔は、きっとフォン・コーレンの憎念をますます大きくするにちがいないと感じていた。
『いま殺してくれるぞ』とフォン・コーレンは額に狙いをつけ、既に指を引金に触れながら思っていた、『そうとも、勿論殺してくれる。』
「ああ殺す!」突然どこかひどく近いところで、必死の叫びが聞こえた。
とたんに銃声がひびいた。ラエーフスキイが倒れず元の位置に立っているのを見ると、一同は叫び声の起こった方角に眼を転じて、補祭の姿を認めた。彼は蒼い顔をして、濡れた髪の毛を額や頬にべっとりとはりつかせ、全身びしょ濡れ泥だらけで向う岸の玉蜀黍の中に立って、なんだか変な笑顔を見せながら濡れた帽子を振っていた。シェシコーフスキイは嬉しさに笑いだしたが、やがて泣き出してその場を離れた。
それからしばらくたって、フォン・コーレンと補祭は橋の畔で一緒になった。補祭は興奮していて、苦しそうに息をし、相手の眼を見るのを避けていた。自分の臆病さも恥かしかったし、泥だらけの濡れた服も恥かしかった。
「あんたが殺すつもりでいるように見えたんですよ」と彼は呟いた、「あれはじつに人間の本然に悖ったことですね。じつに不自然きわまることですね。」
「だが何だって君はやって来たんだい」と動物学者は訊いた。
「それを訊かないで下さい」と補祭は手を振って、「悪魔が誘ったんです、行け、行け、ってね。……でやって来たんだが、怖ろしさのあまり危うく玉蜀黍の中で死ぬところでしたよ。……だがまあ、ありがたい、ありがたいことだ。……僕はあなたがすっかり気に入っちまいましたよ」と補祭は呟いた、「嚢蜘蛛爺さんもさぞ満足でしょう。……おかしい、こんなおかしいことはない。だがこれは断ってのお願いですが、僕のきたことは誰にも言わないで下さいね。でないと上役にどやしつけられますからね。補祭は介添人たりし、とか何とか言いますからね。」
「諸君」とフォン・コーレンが言った、「補祭君は、諸君がここで彼を見掛けたことを誰にも言わんで貰いたいそうです。困ることがあるらしい。」
「ああ、じつに人間の本然に悖ったことだ」と補祭は溜息をついた、「僕のしたことを許して下さいね、だって先刻のあなたの顔では、こりゃきっと殺すと思ったもんでね。」
「僕には、あの卑劣漢の息の根をとめてくれようという強い誘惑があった」とフォン・コーレンは言った、「が、君がすぐ手許であんな声を出すもんだから、狙いが狂っちまった。とにかく面倒な手順は慣れんのでじつに厭なものだね。僕は草臥れちまったよ、補祭君。もうすっかりへとへとだ。一緒に乗って帰ろう。……」
「いや、僕は歩いて帰らせて下さい。乾かしちまわないと、ぐしょ濡れで凍えそうなんです。」
「じゃ、好きにし給え」とへとへとになった動物学者は、馬車に乗ると眼をとじながら、だるそうな声で言った、「好きにね。……」
皆が馬車の傍を歩いたり乗り込んだりしているあいだ、ケルバライは道傍に立って両手を腹に当てながら、低いお辞儀をしては歯を見せるのだった。旦那方は風景をたのしんでお茶を上がりに来られたのだと思っていたので、なぜ皆が馬車に乗り込むのか合点が行かなかった。一同の沈黙のうちに馬車の列は動き出して、居酒屋の傍には補祭が一人のこった。
「家へはいる、茶を飲む」と彼はケルバライに言った、「私たべたいある。」
ケルバライはロシヤ語を上手に操る。しかし補祭は、韃靼人には破格なロシヤ語のほうが通りがよかろうと思ったのだ。
「卵を焼く、チーズをくれる。……」
「さあさ、おはいり、坊様」とケルバライがお辞儀をしながら言った、「みんな差し上げます。……チーズもある。……葡萄酒もある。……なんなと好きなものを召し上がれ。」
「韃靼語じゃ、神のことを何というね」と補祭は居酒屋へはいりながら訊いた。
「あんたの神様も私の神様も同じでございますよ」と質問の意味が呑み込めないでケルバライは言った、「神様は誰のも一つですが、人間だけがさまざまあります。あるひとロシヤ人、あるひとトルコ人、あるひとイギリス人、いろいろの人ありますが、神様は一つです。」
「よろしい。もしあらゆる国民が唯一の神を拝するものならば、なぜ君たち回教徒はキリスト教徒を永遠の敵と見ているのかね?」
「なにを怒ります?」とケルバライは両手を腹に当てて言った、「あんたは坊様、私は回教徒、あんたは食べたいとおっしゃる、私は差し上げる。……お前の神はどうの、俺の神はどうのと喧ましいことを言うのはお金持だけで、貧乏人には何も同じことで、どうぞ食りなさいまし。」
居酒屋で神学問答が行われている一方では、ラエーフスキイが家路を馬車に揺られながら、回想するのだった。夜明けにこの道を揺られて来たときには、道も岩膚も山並みも濡れて真暗でじつに胸苦しい思いがし、知られざる未来のことが底の見えぬ深淵のように怖ろしく思われた、が今では、草や石にとまっている雨の滴が日を受けてダイヤモンドのようにきらめき、自然は嬉しそうにほほえんで、怖ろしい未来も後方へ去ってしまった。……彼はシェシコーフスキイの泣きはらした不機嫌な顔を眺め、またフォン・コーレンやその介添人たちや医者を乗せて前を行く二台の馬車の方を眺めた。そしてまるで、皆の生活の邪魔ばかりする厄介至極な鼻持ちのならぬ人間を今しがた葬って、墓場からみんなで帰るところのような気がした。
『なにもかも終った』と彼は過去を思ってそう考えた。指さきでそっと頸を撫でながら。
右の頸筋のちょうどカラーの辺に、小指ほどの長さと太さのみみず腫れが出来ていた。そして頸筋へ焼鏝でも当てられたようにひりひり痛んだ。弾丸がかすったのである。
やがて家へ帰り着くと、彼にとっては長い、不思議な、甘い、そしてまどろみのように朦朧とした一日が訪れた。彼は牢獄か病院から出て来た人のように、久しく見馴れている物にじっと見入って、テーブルや窓や椅子や光線や海が、絶えて久しい間覚えたことのない子供のような生き生きした歓びを、胸に呼び醒ますのに驚くのだった。蒼ざめてひどく面窶れのしたナヂェージダ・イヷーノヴナは、男のもの柔しい声や妙な態度に合点が行かず、急いで自分の身に起こった一切を物語った。……男はきっとよく聞こえないので話がわからないのにちがいない、と彼女には思われた。もしすっかりわかったのなら、彼女に呪いの言葉を浴びせかけ、殺そうとするにちがいないのに。けれど男は彼女の言葉に耳を傾けて、顔や髪を撫で、じっと眼に見入りながら言うのだった。
「僕にはお前のほかに誰もいないのだ……」
それから二人は長いあいだ、ぴったりと寄り添って小庭に坐っていた。二人は黙っているか、さもなければ自分たちの未来にある幸福な生活を夢み語り、短いきれぎれの言葉を口にした。そして彼は、自分が今まで一度も、こんなに長い美しいお喋りをしたことはないような気がした。
三月あまり過ぎた。
フォン・コーレンが出発することに定めていた日が来た。朝はやくから大粒の冷めたい雨が降って、北東の風が吹き、海は大きなうねりを立てていた。こんな天気では、汽船はとても錨地までははいるまいという話だった。時間表によると船は午前十時前にはいっていなければならなかったが、フォン・コーレンが正午と昼飯のあとに海岸通りへ出て見たけれど、双眼鏡にうつるものは灰色の浪と、水平線を包む雨のほかには何もなかった。
日暮れ近くなって雨はやみ、風も著しく鎮まりはじめた。フォン・コーレンは今日はもう発てまいと諦めて、サモイレンコと将棋を指しはじめた。ところが暗くなってから従卒が来て、沖に燈火があらわれ、狼火が見えたと報告した。
フォン・コーレンはあわてだした。彼は小さな嚢を肩にかけ、サモイレンコや補祭と接吻を交わし、べつに用もないのに部屋部屋を覗いて廻わり、従卒や料理女に別れを告げ、何かしら軍医のところか自分の家に忘れ物をしたような気がしながら、往来へ出た。往来では彼はサモイレンコと並んで行き、その後ろに箱を抱えた補祭がつづき、一番あとから従卒がトランクを二つ携げてついて行く。沖の微かな燈火が見分けられるのはサモイレンコと従卒とだけで、他の二人は暗闇に眼を凝らしても何も見えなかった。船はずっと沖合いに錨を下ろしたのである。
「早く、早く」とフォン・コーレンがせかせかした、「出られちまったらことだぞ。」
ラエーフスキイが決闘後に間もなく引越して来た窓の三つある小さな家の前にかかると、フォン・コーレンは窓を覗いてみずにはおられなかった。ラエーフスキイは向うむきに背を丸くして机にかじりついて、書き物をしていた。
「どうも驚くね」と動物学者は小声で言った、「すっかり自分を縛り上げちまったんだね。」
「うん、まったく驚嘆に値いする」とサモイレンコは嘆息した、「ああして朝から晩まで坐りとおしに坐って、こつこつやってるんだ。借金を払いたい一心にね。暮らしときたら、君、乞食よりひどいんだ。」
半分間ほど沈黙のうちに過ぎた。動物学者も軍医も補祭も窓の下に立って、じっとラエーフスキイを見守っていた。
「ああしてとうとう出発しなかったんだ、可哀そうに」とサモイレンコが言った、「憶えてるだろう、どんなにあの男がやきもきしていたか。」
「ふむ、ひどく自分を縛り上げちまったもんだ」とフォン・コーレンは繰り返した、「結婚はする、ああして一日じゅう一片のパンのために仕事はする、顔にはなにか新しい表情が見えるし、態度までが──これはすべてあまり変りすぎていて僕にはどう呼んでいいかわからん」──動物学者はサモイレンコの袖を捉えて、感動した声でつづけた、「君、僕が発つとき二人のことを驚嘆して、よろしく言ったと、あの男にも妻君にも伝えてくれ。……そして、もしできるなら僕のことを悪く思わんように頼んでくれ。あの男は僕の気持を知ってるんだ。あのとき僕がこうした変化を予見できたら、きっと彼の一番の親友になっただろうことを、あの男は知ってるんだ。」
「いっそ寄って、さよならを言って来いよ。」
「いや、それは困る。」
「なぜ困る。もうこれっきりあの男に逢えんかもしれないぞ。」
動物学者はちょっと思案してから言った。
「それもそうだな。」
サモイレンコはそっと指さきで窓を叩いた。ラエーフスキイはびくっとして振り向いた。
「ヷーニャ、ニコライ・ヷシーリイチが君に別れを告げたいと言うんだ」とサモイレンコは言った、「今発つところだ。」
ラエーフスキイは机を起って、扉を開けに玄関へ出た。サモイレンコとフォン・コーレンと補祭は家にはいった。
「ちょっと一分ほど」と動物学者は、玄関でオーヴァシューズを脱ぎながら、そして自分が情に負かされて招かれもせぬのに上がり込んだことを後悔しながら、口を切った。『出過ぎた形だな』と心に思う、『どうも愚劣だ。』──「とんだ邪魔をしてすまんです」とラエーフスキイの後から部屋に通りながら彼は言った、
「これから発つところで、急に会いたくなったのです。またいつ会えるかわかりませんからね。」
「非常に嬉しいです。……どうぞお掛け下さい」とラエーフスキイは言って、ぎごちない手つきで客に椅子をすすめた。まるで彼らの道を塞ごうとしているように見える。そして自分は部屋の真中に、手をこすりながら立ちどまった。
『しまった、立会人どもは往来へ置いて来るんだった』とフォン・コーレンは思い、きっぱりした口調で、「僕のことを悪く思わんで下さい、イヷン・アンドレーイチ。過去を忘れることは勿論できないことです。それはあまりにも悲しかった。そして僕は何も、詫び言をいったり、僕が悪くはないなどと言いに来たのではありません。僕は誠意をもって行動したのですし、あれ以来僕の信念に変りはないのです。……なるほど今になって見れば、じつによろこばしくも僕の君に関する見解は誤っていました。だが坦らな道でも躓くことはあるものですし、しょせん人間の運命とはそうしたものです。大本においては誤らぬまでも、区々たることについては間違うものです。誰もまことの真実を知る者はないのです。」
「ええ、誰も真実を知る者はありません……」とラエーフスキイは言った。
「ではさようなら。……お互いに健在でいたいものです。」
フォン・コーレンはラエーフスキイに手を差し出した。こちらはそれを握って、頭を下げた。
「くれぐれも悪く思わんで下さい」とフォン・コーレンは言った、「奥さんによろしく。お別れの挨拶ができなくて非常に残念ですとお伝え下さい。」
「家におりますが。」
ラエーフスキイは扉口へ近づいて、次の間に声を掛けた。
「ナーヂャ、ニコライ・ヷシーリイチがお別れをしたいとおっしゃるが。」
ナヂェージダ・フョードロヴナが出て来た。扉のところに立ちどまっておそるおそる客たちを見た。申しわけなさそうな怯えたような顔で、両手は叱られている女学生のようにしていた。
「僕はこれから発ちます、ナヂェージダ・フョードロヴナ」とフォン・コーレンは言った、「で、お別れに上がりました。」
彼女はおずおずと彼に手を差し出し、ラエーフスキイは頭を下げた。
『しかし、二人ともじつにみじめな有様だ』とフォン・コーレンは思った、『これまでになるには容易なことではない。』──「僕はモスクヷへもペテルブルグへも行きますが」と彼は訊いた、「あちらから何かお送りするものはないですか?」
「まあ」とナヂェージダ・フョードロヴナは言って、びっくりしたように夫と眼を見合わせた、「べつに何にも……」
「ああ、何にも……」とラエーフスキイは手をこすりながら、「どうぞ皆さんによろしく。」
フォン・コーレンはこのうえ何を言えるか乃至言うべきかわからなかった。先刻ここへはいる時には、とてもたくさんの好いこと、温かなこと、大切なことを言おうと思っていたのだが。彼は無言でラエーフスキイとその妻の手を握り、重い気分で別れて出た。
「なんという人たちだ」と補祭が後ろから小声で言った、「ああ、何という人たちだ。まことに神の右手がこの葡萄園を植え給うたのだ。主よ、主よ。ある一人は数千人に打ち克ち、またある一人は数万人に打ち克つ。ニコライ・ヷシーリイチ」と彼は有頂天になって、「ねえ、あんたは今日、人類の最も大いなる敵に打ち克ったのですよ──傲慢に!」
「もうたくさんだよ、補祭君。僕やあの男がどうして勝利者なものかね。勝利者なら鷲みたいに見えそうなものだ。ところがあの男はみじめで、おどおどして、気息えんえんとして、まるでシナの土偶みたいだし、僕は……僕は憂欝なんだ。」
後ろで足音がした。ラエーフスキイが見送りに追って来たのだ。波止場には従卒がトランクを二つ持って立ち、少し離れたところに橈子が四人いる。
「やっぱり吹いてるな……プルルル」とサモイレンコが言った、「これじゃ外海は荒けとるぞ、やれやれ。悪いときに発つもんだな、コーリャ。」
「僕は船酔いは平気だ。」
「そのことじゃないよ。……この馬鹿どもが君を引くり返さんけりゃいいがな。代理店のランチで行くがいい。──代理店のランチはどこか?」と彼は橈子に叫んだ。
「もう出ました、閣下。」
「税関のは?」
「それも出ました。」
「なぜ報告に来んのか」とサモイレンコは腹を立てた、「間抜めが!」
「まあいいさ、心配し給うな」とフォン・コーレンは言った、「じゃ、お別れだ。丈夫でい給えよ。」
サモイレンコはフォン・コーレンを抱いて、三度十字を切ってやった。
「僕のことを忘れないでくれよ、コーリャ。……手紙をくれよ。……来年の春は待っとるぞ。」
「さよなら、補祭君」とフォン・コーレンは補祭の手を握りながら、「君の交誼といろいろ面白い話とを感謝する。探険のことは考えて置き給えよ。」
「いいですとも、世界の涯だってもね」と補祭は笑いだした、「厭だなんて言ってやしないじゃないですか。」
フォン・コーレンは暗闇のなかにラエーフスキイの姿を認めて、黙って手を差し出した。橈子達はもう下へ降りてボートを抑えている。防波堤で大浪は遮ってあるのだが、それでもボートは杙にぶつかっていた。フォン・コーレンはタラップを降りてボートに飛び込み、舵のところに坐った。
「手紙をくれよ!」とサモイレンコは彼に叫んだ、「からだを大事にな!」
『誰もまことの真実を知る者はない』とラエーフスキイは、外套の襟を立て両手を袖口に差し入れながら思う。
ボートは素早く埠頭を廻って、沖へ乗り出した。波間に隠れるかと思うと、すぐまた谷の底から高い丘へせり上がって、人影から橈まで見分けられる。ボートは三間ほど出ては、二間ほど投げ戻される。
「手紙をくれよお」とサモイレンコは彼に叫ぶ、「悪魔めが、とんだ天気に君を引っ張りだしたなあ。」
『そうだ、誰もまことの真実を知るものはない……』とラエーフスキイは、悲痛な眸を荒れ騒ぐ暗い海に注ぎながら思う。
『ボートは投げ戻される』と彼は思う、『二歩出ては一歩さがる。けれど橈子は頑強だ。たゆまず橈を働かせて、高い波も怖れない。ボートはだんだん前へ出る。ああもう見えなくなった。半時間もすれば橈子の眼に、はっきりと船の燈が見えだすだろう。一時間もすればもう船のタラップに着くだろう。人生もこれと同じだ。……真実を求めて人は、二歩前へ出ては一歩さがる。悩みや過失や生の倦怠が、彼らをうしろへ投げもどす。が真実への熱望と不撓の意志とが、前へ前へと駆り立てる。そして誰が知ろう、おそらく彼らはまことの真実に泳ぎつくかもしれないのだ……』
「さようならあ、あ、あ!」とサモイレンコが叫ぶ。
「もう見えも聞こえもしない」と補祭が言う、「道中お大事に!」
雨がぽつぽつ落ちて来た。
底本:「チェーホフ全集 8」中央公論社
1960(昭和35)年2月15日初版発行
1975(昭和50)年12月10日再訂版発行
入力:阿部哲也
校正:米田
2010年7月22日作成
2012年2月20日修正
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