接吻
ПОЦЕЛУЙ
アントン・チェーホフ Anton Chekhov
神西清訳
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五月二十日の晩の八時のこと、N予備砲兵旅団の六個中隊が全部、野営地へ赴く途中で、メステーチキという村に一泊すべく停止した。砲のまわりで世話をやくのに忙がしい将校があるかと思えば、馬を飛ばして協会の柵のほとりの広場へ集合して、宿舎係の説明に聴き耳を立てている将校もあるという、てんやわんやの真最中に、教会のかげから、馬にまたがった平服の男が一人姿を現わしたが、その乗っている馬がまた一風変った代物だった。淡黄毛の小作りな馬で、きれいな頸と短い尻尾をしているが、その歩き方がまっすぐではなく、なんだか横歩きでもしているような工合で、おまけに四つ脚でひょこひょこ小刻みに踊るような運動を演じているところは、まるで鞭を脚へ当てられでもしているような恰好だった。将校の集まっている所までやって来ると、乗馬の男は帽子をちょいとつまみ上げて、次のような口上を述べ立てた。
「当村の地主、陸軍中将、フォン=ラッベク閣下が、将校の方々にお茶を差上げたく、館まで即刻お越し下さるようお招きでござります……」
馬はぴょこりとお辞儀をすると、またもやダンスをはじめて、得意の横歩きでもって後ずさりした。乗馬の使いは、もう一ぺんちょいと帽子をつまみ上げたかと思うと、瞬く間にくだんの一風変った馬もろとも、教会のかげへ姿を消してしまった。
「ちぇっ、なんてこったい!」それぞれの宿舎へ別れて行きながら、怨めしそうに、そんなことを呟く将校もあった。「こっちは睡くて堪らんというのにさ、フォン=ラッベクとやらがお茶をどうぞとおいでなすった! それがどんなお茶だかってことは、こっちじゃ先刻承知なんだ!」
全六個中隊の将校たちの脳裡には、去年あったことがまざまざと思い出された。それは機動演習の時のことだったが、彼らは或るコサック連隊の将校と一緒に、ちょうど今と同じ筆法で、退役軍人だという或る地主の伯爵から、お茶に招かれたことがある。客あしらいのいい親身のこもった伯爵は、下へも置かず彼ら一同をもてなして、たらふく飲み食いさせたばかりか、村の宿舎へは帰さずに、とうとうひきとめてその邸に泊らせてしまった。勿論それはいちいち結構ずくめの話で、それ以上慾を言うには当らないけれど、ただ迷惑至極だったのは、この退役軍人が青年将校を見て方図もなく喜んでしまったことである。彼は夜が白々と明けかかるまで将校連を相手に楽しかった自分の過去のエピソードを話してきかせたり、部屋から部屋へ案内して𢌞ったり、高価な絵画や古い版画、珍しい武器などを次つぎに披露したり、高位高官の人々の直筆の手紙を読んで聴かせたりしてくれたものだが、一方へとへとに草疲れきってしまった将校連はどうかというと、かつは謹聴しかつは拝観しながら、寝床こいしさに矢も楯もたまらず、こっそり袖口であくびをかくすという惨状だった。やっと彼らを放免してくれた頃には、時すでに寝るには遅かった。
今度のフォン=ラッベクもそんな人物じゃないだろうか? いや、そんな人物であろうとなかろうと、事ここに及んではいかんとも施す術がなかった。将校連は服装をととのえ、念入りにブラシをかけて、さてがやがやと群をなして地主屋敷を捜しに出かけた。教会のそばの広場で道をきくと、地主様さ行くなら下の道からも行ける──それは教会の裏手から川さ下りて、川ぶち伝いにお庭まで出れば、あとは並木道がちゃんと目当ての場所へ連れて行ってくれる、もう一つは上の道で──これは教会から真直ぐ往還さ行けば、村をはずれて四五町ほどで地主様の穀倉に行き当る、とそんな工合に教えてくれた。将校たちは上の道をとることにした。
「フォン=ラッベクってそもそも何者だろうな?」と彼らは途々評定しあった。「プレヴナの戦でN騎兵師団の指揮をした、あの人じゃないかな?」
「いや、あれはフォン=ラッベクじゃない、ただのラッベだ、それにフォンなしだ。」
「だがまあ、なんていい天気だい!」
地主の穀倉のとっつきの一棟のところで、道は二筋に分れていた。一方は真直ぐに走って夕闇の中へ消えており、もう一つは右手へ折れて地主屋敷に通じていた。……将校たちは右へまがると、声を低めて話しはじめた。……道の両側にはずっと、赤い屋根をした石造りの穀倉が建ち並んでいて、その重苦しくっていかつい感じは、田舎町の兵営そっくりだった。道の行手には地主屋敷の窓が明るく輝いていた。
「おっと諸君、辻占がいいぞ!」と、将校の中の誰かが言った。「われらのセッターが先陣を承わってるじゃないか。てっきりあいつ、獲物を嗅ぎつけたんだぜ!……」
先頭に立っていたのはロブィトコという中尉で、背が高くがっしりした体格のくせに、口髭が一本もなく(彼はもう二十五を越しているのに、そのまるまると栄養のいい顔には、どうしたわけだか、まだ若草の萌えいずる気配もなかった)、しかも女性の存在を遠方から嗅ぎ当てるという勘と能力をもって、旅団じゅうに雷名をとどろかせている人物だったが、その時くるりと後ろを振返りざま、こう言った。──
「さよう、ここには必ずや何人かの女性がいる。おれは本能でそれがわかるよ。」
屋敷の敷居ぎわまで将校を出迎えたのは、ほかならぬフォン=ラッベクその人で、見れば風采の堂々たる、年の頃六十ばかりの、平服を着た老人だった。客の手を順ぐりに握りながら彼は、頗るもって喜ばしい、この上もない仕合せですと歓迎の意を表したが、それに附け加えて言うには、この際おり入って将校諸君の寛恕を願いたいことは、せっかくお招きはしたものの悠りと御一泊が願えないことである、じつは妹が二人それぞれ子供連れで遊びに来ている上に、弟どもや近隣の地主連までが泊り込んでいるので、屋敷じゅう空いた部屋が一つもない始末だから、という挨拶だった。
将軍は一同の手を満遍なく握って、しきりに詫びを言ったり、にこやかに笑って見せたりしていたけれど、その顔色によって判ずるに、彼がお客を喜んでいる程度は去年の伯爵の足もとにも及ばず、こうして将校連中を招待したのも、まあ礼儀としてやむを得まいという自家の見解に従ったまでのことだという事情は、ありあり見え透いていた。将校連のほうでも、ふかふかした階段を登って行きながら、主人の挨拶を傾聴しているうちに、自分たちがこの屋敷へ招待されたのは、まるっきり招待しないのも工合が悪かろう程度のものに過ぎないことが感じられて来たし、おまけに従僕たちがあたふたと駈け𢌞って、階下の入口のところや階上の控えの間などに燈を入れている様子を見るにつけて、自分たちはこの屋敷へとんだ迷惑や騒動を持ち込んで来たものだと、そんな気もしはじめた。多分なにか内輪の祝いごとか行事でもあって、子供づれの二人の妹をはじめ、弟たちや近隣の地主連までが寄り合ったところへ、見ず知らずの将校が十九人も乗り込んで来たのでは、義理にもよろこんで貰えるはずがあるだろうか?
さて二階へ通ると、大広間の入口で客を出迎えたのは、背の高いすらりと恰好のいい老婦人で、眉毛の黒い面長な顔をしているところは、ウージェニー皇后〔ナポレオン三世の妃、一八二
六年に生れ一九二〇年に歿す〕に生写しだった。愛想のいい、しかも威厳のある微笑を浮べながら、お客様がたをわが家へお迎え申し上げてまことに喜ばしい仕合せ至極に存じますと挨拶をし、ただくれぐれもお詫び申し上げたいことは、わたくしも主人もあいにくこのたびは、将校の皆様がたにゆるりと御一泊が願える都合に参りませんことでございますと述べた。その美しい、威厳のある微笑は、彼女が何かの用でお客の傍を向くたびごとに忽然としてその顔面から消え失せるのだったが、とにかくその微笑によって判断するに、彼女はその生涯に厭というほど沢山の将校諸君を見て来たので、今じゃ将校連などはまるで眼中になく、よしんば、こうして彼らを自分の屋敷へ招いて詫びごとを言いなどしているにしても、それは彼女の受けた教育や、社交界における地位のしからしむるところに過ぎないのだ、といったことは一見して明瞭だった。
大食堂へ将校連が通されて見ると、長いテーブルの一端に、十人ほどの紳士淑女が老若とりまぜて、お茶を前にして着席していた。その椅子の列のうしろには、ほのかな葉巻の烟につつまれて、男ばかりの一団がぼおっと霞んでいた。そのなかに、どこの何者だか痩せ形の青年が一人、ちょっぴり人参色の頬髯を生やし、つっ立っていて、変に喉仏へからませた発音でもって何やら声高に英語を喋っていた。その一団のかげになっている扉口ごしには、明るい部屋が見えて、そこの家具は空色ずくめだった。
「皆さん、何しろ大勢さんのことだから、とてもいちいちお引合せするわけにはゆかんですなあ!」と将軍は声高に、大いに陽気なところを見せようと努力しながら言った。「まあ皆さんで、銘々ざっくばらんにお近づきになって下さい!」
将校連は、大真面目を通り越していかつい顔になる者もあれば、とってつけたような笑顔を浮べる者もあるといった調子で、みな一様にひどく照れくさい思いをしながら、どうにかこうにか挨拶だけは済ませて、お茶の席についた。
なかでも一番てれくさい思いをしていたのはリャボーヴィチという二等大尉で、これは眼鏡をかけ、山猫みたいな頬髯をぴんと生やした、小兵で猫背な将校だった。今しがた同僚がとりどりに真面目くさった顔をしたり、とってつけたような笑顔を浮べたりしていた最中、彼の顔は山猫みたいな頬髯や眼鏡もろとも声を揃えて、『僕は旅団じゅうで一ばん弱気な、一ばん控え目な、一ばんぱっとしない将校なんですよ!』とでも言っているようだった。初めのうち、食堂へはいったり、やがてお茶の席についたりする間というもの、彼はいくら頑張っても自分の注意力を、何かきまった顔なり物なりに定着させることが出来なかった。いろんな顔、とりどりの衣裳、切子になったコニャックの壜、コップからたち昇る湯気、漆喰仕上げの天井の蛇腹──といったものが一つに融け合って、全体ひとかたまりの尨大な印象を作りあげ、それがリャボーヴィチにいても立ってもいられないほど不安の念と、穴あらば頭をすっぽり隠してしまいたいような思いを起させたのである。初めて公衆の前に立った講演者みたいに、彼には眼前にあるものが残らず見えていながら、しかもその見えているものが、どうもはっきり掴めないのだった(生理学者仲間では、このように対象が見えていながら理解できない状態を『心盲』と名づけている)。が暫らくすると、まわりに慣れて来て、リャボーヴィチは心の視力を取り戻し、そろそろ観察をはじめた。弱気で社交に馴れない人間の常として、彼の眼にまずイの一番に映じたのは、自分の身に生れてこの方あった覚えのないもの、というのはつまり──このお初に知合いになった連中の並はずれた勇敢さだった。フォン=ラッベク、その夫人、二人のかなり年配の婦人、藤色の衣裳をつけたどこかの令嬢、例の人参色の頬髯の青年──これはラッベクの末っ子とわかったが、そうした連中は頗る手際よく、まるで予め稽古でもしておいたような鮮やかさで将校連の間に割り込んで席を占めたかと思うと、あっというまに猛烈な議論をおっぱじめたので、お客のほうでも思わず知らずその中へ巻き込まれてしまった。藤色の令嬢が口角泡を飛ばさんばかりの勢で、砲兵の生活のほうが遙かに騎兵や歩兵よりも楽だと論じ立てはじめると、ラッベクと年配の婦人両名とがその反対を主張する。それがきっかけで、会話のやりとりが縦横十文字にはじまった。リャボーヴィチは、この藤色の令嬢がその身に縁もゆかりもないのみかぜんぜん興味のありようもない問題について、ひどく熱心に議論する有様をじっと眺めながら、その顔に誠意のない微笑が浮んだり消えたりするのを見守っていた。
フォン=ラッベクとその家族は、巧みに将校連を議論の渦中へ引きずり込んでしまったが、自分たちのほうではその間にも油断なくお客のコップや口許に目をくばって、みんな満遍なく飲み物が渡っているだろうか、甘味の足りない人はないだろうか、なぜあの人はビスケットを食べないのだろう、またこの人はコニャックを飲まないのだろう、などと心配していた。そしてリャボーヴィチは眺めるほどに聴くほどにいよいよますます、この誠意のこもらない、とはいえ見事に訓練の行届いた家族が好きになって来た。
お茶が済むと将校連は大広間へ通された。さすがにロブィトコ中尉の勘ははずれなかった。広間には令嬢や若夫人が大ぜいいたのである。セッター中尉は、早くも一人の黒い衣裳をつけた頗るうら若い金髪令嬢の掛けている椅子のそばに近々と立って、さながら見えざるサーベルに凭れかかったような恰好で、上半身をぐいと大胆にくね曲げて、にこにこ笑ったり、思わせぶりに肩を揺すぶって見せたりなどしていた。彼がどうやら何か頗る面白い馬鹿話でもやっているらしい証拠には、相手の金髪令嬢はまあお附合いに聴いていて上げましょうといった表情で、彼の栄養のいい顔を打眺めながら、冷淡な調子で時どき『ほんと?』と聞き返していた。このさっぱり熱のない『ほんと?』の合の手から推して、もし利口なセッターだったら、この分じゃとても『うし!』とお声がかかりそうもないわいと、即座に見切りがついたはずである。
ピアノが轟々と鳴りはじめた。もの悲しいワルツの調べは広間から、一ぱいに開け放たれた窓々から流れ出てゆき、それとともに一同はなぜかしら思い出したように、窓のそばは今や春なのだ、五月の宵なのだということに気がついた。一同はふと空気の中に、ポプラの若葉や、薔薇や、紫丁香花の匂っているのを感じた。リャボーヴィチは音楽のおかげで、飲みほしたコニャックの酔が一時に発して来たので、ちらりと横目で窓の方を見たり、にやりと一人笑いをしてみたり、婦人連の動作を眼で追いはじめたりなどしながら、早くも心機朦朧となって、いやいやこの薔薇やポプラや紫丁香花の匂いは庭から漂って来るのではない、ほかならぬあの婦人連の顔や衣裳から発するのだと、そんな風に思いなされるのだった。
ラッベクの息子は、ある痩せほそった娘をさそって、彼女を相手に二まわり踊った。ロブィトコは寄木細工の床のうえを滑るように、藤色の令嬢のところへ急いで行って、彼女と組んでさっとばかり、広間せましと舞い立った。舞踏がはじまったのである。……リャボーヴィチは扉口のそばの踊らない人々の中にまじって、この光景を見守っていた。生れ落ちて彼はついぞ一度も踊ったことがなく、従って、生涯にまだ一度として、深窓の女性の優腰をかい抱くような機会に恵まれなかった。男子が衆人環視のなかで一面識もない少女の腰へ手を𢌞したり、相手の片手を休ませるため自分の肩を差出したりする有様を見ると、彼にはそれがひどく好もしいものに思えるのだったが、さりとてその男子の位置にわが身を置いて考えることは、なんとしても出来ない相談だった。一時は彼も同僚たちの勇気機敏な立𢌞りぶりを羨しく思って、人しれず胸を傷めたこともある。自分が弱気で、猫背で、ぱっとしない男で、おまけに胴長で、山猫みたいな頬髯まで生えていて──といった意識が彼を深刻に腐り込ませていたものだが、しかし年とともにこの意識にも馴れっこになって、今では踊り𢌞ったり声高に談笑したりしている連中を見ても、もはや羨しいなどとは思わず、ただふっともの悲しい感動に誘われるだけのことだった。
やがて四班舞踏がはじまると、フォン=ラッベク第二世は踊らない連中のところへやって来て、二人の将校を球突に誘った。その二人は賛成して、彼と一緒に広間から出て行った。リャボーヴィチは手持ち無沙汰のあまり、せめて恰好だけでもみんなの行動に一枚加わりたいと思って、この連中のあとからふらふらついて行った。広間を出て彼らは客間へ抜け、それからガラスばりの細長い廊下へ出て、そこからある一室へ通ると、彼らの出現とともにぱっと飛び立つように、従僕の寝呆け姿が三つ、長椅子からはね起きた。やがての果てに、さらに部屋を幾つも幾つも通り抜けてから、ラッベク第二世と将校たちが小じんまりした一室へはいると、そこには球突台が据えてあった。早速ゲームがはじまった。
リャボーヴィチは勝負ごとといったらカルタのほかには一切やったことのない男なので、球突台のそばにつっ立って、勝負をしている連中の顔をつまらなそうに眺めていたが、こっちはてんでに上着のボタンを外し、両手にキューを構えて、横行闊歩したり、地口を叩いたり、何やら素人にはわからない言葉をわめいたりしていた。勝負をしている連中は彼には眼もくれず、ただたまに中の誰かが肘で彼を小突いたり、うっかりキューを彼の服に引っ掛けたりなどした時、はじめて顔を振り向けて、『pardon !』と言うだけだった。最初のゲームはまだ終らなかったが、彼は早くも退屈してしまって、自分は余計者だ、邪魔なばかりだと、そんな気がしはじめた。……ふとまた広間へ帰ってみたくなったので、彼はそこを出た。
その帰りみちで、彼はちょっとした椿事に出くわすことになったのである。中途まで来て気がついてみると、方角をまちがえているらしかった。途中で例の従僕三人の寝呆け姿にお目にかからなければならないはずだということは、彼もはっきり記憶しているが、五つ六つ部屋を通り抜けても、彼らの姿は地へ潜ったか空へ翔ったか、杳として影も形もなかった。これは間違ったと気づいた彼が、少し後戻りをして、あらためて右手へ曲ってみると、今度は薄暗い書斎風の部屋へ踏み込んでしまった。さっき撞球室へ行く時には見かけなかった部屋である。ここにものの半分間ほど佇んでから、彼は行き当りばったり眼についた扉を思い切って押しひらいて、今度は完全に真暗な部屋へはいってしまった。突当りには扉口の隙間が見え、そこからきららかな光が射し込んでいる。その扉の向うからは、もの悲しいマズルカの調べが鈍いひびきを伝えて来る。この部屋も、あの広間と同じように、窓という窓が一ぱい開け放してあって、ポプラや紫丁香花や薔薇の匂いが馥郁と香っていた。
リャボーヴィチは思案に暮れて立ちどまってしまった。……とそのとき、彼が思いもかけなかったことには、気ぜわしげな足音とさらさらという衣ずれの音が聞えて、息はずませた女の声が囁やくように『まあやっとね!』と言ったかと思うと、二本の柔らかな、いい匂いのする、紛うかたなき女性の腕が、彼の頸へ巻きついて来て、彼の頬へあたたかい頬がひたりとばかり押しつけられたその途端に、接吻の音がちゅと響いた。がその時早くその時遅く、接吻した女は微かな叫び声を立てて、リャボーヴィチの受けた感じでいうと、さも厭らしそうに彼からぱっと飛びのいた。彼のほうでもあやうく声を立てそうになって、そのまま例のきららかな扉口の隙間めがけて突進した。……
彼がもとの広間へ戻って来たとき、彼の心臓はどきどきいっていたし、手は手で人目につくほどひどく顫えていたので、彼は大急ぎで両手を背中へかくしてしまった。初めのうち彼は、自分が今しがた女に抱きつかれて接吻されたという事実を満座の人びとがちゃんと知っているような気がして、羞恥と恐怖の念に苦しめられ、小さくなっておどおどとあたりを見𢌞してばかりいたが、やがて広間の人々が相も変らず暢気至極に踊ったり、喋ったりしている様子を見とどけると、彼はやっと安心がいって、今夜はじめて味わった感覚、生れ落ちてこの方ついぞ一度も経験したおぼえのない感覚に、身も心もすっかり任せきってしまった。彼には何やら不思議なことが起っていたのである。……つい今しがた、いい匂いのするふっくらと柔らかな両腕に抱きしめられた彼の頸筋は、香油でも塗られたような気持がしていたし、頬はというと、見知らぬ女に接吻された左の口髭のあたりが、まるで薄荷水でも滴らしたように微かにいい気持にすうすうして、そこをこすればこするほど、そのすうすうした感じがますます強烈になってゆくといった始末で、彼は全身、頭のてっぺんから足の先まで、ついぞ味わったことのない不思議な感じで一ぱいになってしまい、しかも、その感じが刻一刻と増大してゆくのだった。……彼は踊りたくなった、喋りたくなった、庭へ駈け出したり、大声で笑ったりしたくなった。……彼は自分が猫背で、ぱっとしない人間だということも、自分の頬髯は山猫みたいで、おまけに『もやもやした風采』(と或る時の婦人連の会話の中で自分の風采が評されていたのを、彼はひょっくり立聴きしたことがあった)の持主であることも、きれいさっぱり忘れてしまった。そこへ通りかかったラッベクの奥さんに向って、彼はにっこり笑いかけたが、それがいかにも闊達な愛嬌たっぷりの笑顔だったもので、相手は思わず足をとめて、怪訝そうに彼の顔をまじまじと眺めた。
「どうもお宅がおそろしく気に入っちまいまして!……」彼は眼鏡を直し直しそう言った。
将軍夫人はにっと笑って、この邸はまだ彼女の父親の持物になっていると話してきかせ、さて話頭を転じてあなたの御両親はまだ御存命か、軍隊のほうにはもう永らくお勤めか、どうしてそんなに痩せていらっしゃるのか、などと問いかけた。自分の問いに対する返事が一通り済むと、彼女はそのまま向うへ行ってしまったが、彼のほうでは奥さんと言葉を交してからは一段と愛想よくにこにこしはじめて、今夜の俺はなんて飛切り上等の人たちに取巻かれているんだろうと考えていた。……
夜食の卓についたリャボーヴィチは、すすめられる料理を片っぱしから機械的に平らげ、飲物もぐいぐいと飲んで、人の話なんぞはてんで耳へ受けつけずに、つい先刻の事件をなんとか自分の得心のゆくように説明をつけてみようと一所懸命になっていた。……なるほどあの事件は、神秘的なロマンティクな性質を帯びてはいるけれど、さりとて解釈をつけるのは別に難事ではなかった。察するところどこかのお嬢さんか奥さんが、あの真暗な部屋で誰かと逢引の約束をして、長いこと待たされた挙句に神経がいらいらしてしまって、ついリャボーヴィチを当の相手と思い込んだものに違いない。ましてやリャボーヴィチは、あの暗い部屋を通り抜ける途中で、思案に暮れて立ちどまった、つまりこっちもやはり、何かを待ち設ける人のような様子をしたのであってみれば、この想像はますます的確さを加えるといわなければならない。……と、そんな工合にリャボーヴィチは、例の接吻をわれとわが心に説明した。
『だがいったいどれだろうな、あの女は?』と彼はいならぶ婦人の顔をじろじろ見ながら考えた。『とにかく若い女に違いあるまいて、年寄りは逢引なんかしないからな。おまけに、あの女がちゃんと教養のそなわった婦人だということは、その衣ずれの音からも、あの匂いからも、あの声音からもわかることだ……』
彼は例の藤色の令嬢にふと眼をとめたが、するとこのお嬢さんがすっかり気に入ってしまった。彼女は美しい肩と腕の持主で、それに才気の溢れる顔つきで、えもいわれぬ声をしていた。リャボーヴィチは、このお嬢さんを眺めているうちに、余人ならぬまさにこのひとが、あの行きずりの見知らぬ女であってくれたらさぞよかろうと思った。……ところが彼女は、ふとその時なにかお世辞笑いをしはじめて、よく通った長い鼻すじに皺を寄せた途端に、彼にはその鼻の恰好がいかにも時代おくれのような気がして来た。そこで彼は視線を転じて、黒い衣裳をつけた金髪令嬢を眺めはじめた。これは今の令嬢に比べて年も若く、態度もさらりと眼つきも純真で、鬢の毛をちょっぴり垂らしているところがとても可愛らしくて、おまけに、ひどく綺麗な口つきで葡萄酒のグラスを味わっていた。リャボーヴィチは今度は、この娘がそうだったらさぞよかろうと思った。けれども間もなく彼は、彼女の顔が平べったいことに気がついて、その隣りの女に眼を移した。
『この当て物はなかなか骨だわい』と彼は、空想を逞しゅうしながら考えるのだった。『あの藤色の娘から肩と腕だけを頂戴して、金髪娘の鬢の毛をくっつけ、眼はロブィトコの左に坐っている娘さんのを拝借する、そうすると……』
彼の心の中でこんな組み合せを作ってみると、自分に接吻した娘の面影、彼のあらまほしいと思う面影がまんまと出来あがりはしたものの、さてずらりと見渡したところ、席上にはさっぱり見当らなかった。……
夜食がすむと、満腹した上ほろ酔い機嫌になった客たちは、暇を告げたり礼を述べたりしはじめた。主人夫妻はまたしても、一同に泊っていって貰えないことを詫びはじめた。
「じつにはやなんとも喜ばしいことですわい、皆さん!」と将軍は、しきりにお愛想を振りまいたが、しかも今度は本心からだった(多分それは、客を迎える時よりも送り出す時のほうが、遙かに真心のこもった親切な態度になるという、人間の通有性にもとづくものだろう)。「じつに喜ばしいことですわい! お帰りにも、どうか立寄って下さい! 他人行儀は抜きにしてな! おや、どこへ行かれるな? 上の道を行くおつもりかな? それはいかん、庭を抜けて行き給え、下の道をな──そのほうが近道ですわい。」
将校連は庭へ出た。明々とした光や騒音に馴れたあとなので、彼らにはその庭が一しお暗く静かなように思われた。木戸のところまでは一同黙々として歩を運んだ。みんなほろ酔い機嫌で、浮々して、満足しきった気分だったものの、暗がりと静けさのおかげで、その暫しの間ちょいと瞑想に引入れられたのである。おそらくその一人一人の脳裡には、リャボーヴィチと同様に、ひとつ考えが浮んだに相違ない──果して自分にも、いつかはあのラッベクのように、大きな邸や家族や庭を持つ時が来るものだろうか、そしてよし本心からではないにせよ、人々を厚くもてなして、満腹させたり酩酊させたり満足させたりするような身分に、やはりなれるものだろうか?
木戸を出ると、彼らはみんな一斉に喋りはじめて、わけもいわれもなしに大声で笑いだした。その頃はもう彼らは小径にかかっていて、それがだらだらと川の方へ下り、それからはすぐ水際に沿って、岸辺の藪や、水に洗われて窪んだ場所や、水面に枝を垂れている柳などのまわりを縫いながら、うねうねと走っていた。岸辺と小径とはどうにか見えていたけれど、向う岸はすっかり闇の中に沈んでいた。暗い水面のそこここに星影がうつって、それがちらちら顫えたり砕け散ったりするので、それでやっと川の流れの急なことが察せられた。静かだった。向う岸では寝呆けた山しぎが悲しそうな声を立て、こっち岸では、とある藪の繁みで、将校たちの群にはさらに気をとめる様子もなく、小夜鶯が声をかぎりに歌いはじめた。将校たちはその繁みのそばに暫らく足をとめてちょいと揺すぶってみたりしたが、小夜鶯は平気で歌っていた。
「こいつはどうだい?」と感歎の叫びがひとしきり聞えた。「俺たちがすぐそばに立っとるのに、やつめ平気の平左でいるぜ! なんて図々しいやつだろう!」
行程が終りに近づくと、小径は上りになって、教会の柵のところで本道に合わさっていた。そこで将校たちは、上り坂の強行軍の疲れが出て、ちょっと腰をおろして煙草をふかした。向う岸にその時、ぼうっと赤い一点の火影があらわれたので、彼らは手持ち無沙汰のあまり、長いことかかって、あれは焚火だろうか、窓の燈だろうか、それとも何かほかの物だろうかと評定していた。リャボーヴィチもやはり火影を眺めていたが、彼にはその火影がまるで例の接吻の一件を知っているような顔つきをして、しきりに彼の方に微笑みかけたり、目くばせしたりしているような気がした。
宿舎へたどりつくと、リャボーヴィチは手早く服を脱いで横になった。彼と同じ農家に泊ることになったのは例のロブィトコと、もう一人メルズリャコーフという中尉だった。これはもの静かな口数の少い好青年で、その仲間では教養ある士官として通っており、いやしくも本のひろげられる場所ならどこででも、つねづね肌身はなさず持ち歩いている『ヨーロッパ通報』〔当時のリベラリス
ティクな大雑誌〕をあけて読んでいるという男だった。ロブィトコは服を脱いでからも、なんだかもの足りなそうな顔をして、部屋の隅から隅へ長いこと行ったり来たりしていたが、やがて従卒を呼んで、ビールを買いに外へ出した。メルズリャコーフは横になると、枕もとに蝋燭を立てて、一心不乱に『ヨーロッパ通報』を読みだした。
『一体どれだろうな、あの女は?』とリャボーヴィチは煤ぼけた天井を眺めながら考えていた。
彼の頸筋は、いまだに香油でも塗られたような気持だったし、口のあたりはまるで薄荷水でも滴らしたようにすうすうしていた。彼の想像の中にはちらちらと、藤色の令嬢の肩だの腕だの、黒服の金髪令嬢の鬢の毛だの純真な眼つきだの、そうかと思うと誰彼の腰だの衣裳だのブローチだのが、浮んだり消えたりしていた。彼はそうした幻の上に自分の注意をじっと据えてみようと努力したけれど、相手のほうではお構いなしに跳ね𢌞ったり、微塵に砕け散ったり、明滅したりするのだった。やがて、誰でも、眼をつぶると見えるあの広びろした真黒な背景の上から、今いったような幻がすっかり消え失せてしまうと、今度は彼の耳に気ぜわしげな足音や、さらさらいう衣ずれの音や、ちゅっという接吻の響きがきこえだして、──強烈な、これという理由もない歓喜の情が、彼をとらえてしまった。……その嬉しさに身をゆだねながら、彼は従卒が帰って来て、ビールはありませんと復命するのを夢うつつのうちに聞いていた。ロブィトコはおそろしく憤慨して、またもや大股に歩きはじめた。
「なあ、こいつ白痴じゃないのかい?」と彼は、リャボーヴィチの前に立停ったり、メルズリャコーフの前に立停ったりしながら言うのだった。「ビール一つ見つけられんなんて、木偶の坊とも大馬鹿とも、方図が知れんじゃないか! ああん? いやさ、こいつ横着なんじゃないのかい?」
「当り前ですよ、こんな所にビールがあるもんですか」とメルズリャコーフが言ったが、眼は相変らず『ヨーロッパ通報』から離しもしない。
「へえ? 君はそう思うのかい?」とロブィトコはからんで行った。「やれやれ情けない話だ、この僕だったらたとえ月世界へ抛り出されたところで、即座にビールでも女でも見つけだして差上げるぜ! そうだ、これから一っ走り行って見つけて来よう。……もし見つからなかったら、僕を卑劣漢とでもなんとでも呼び給えだ!」
彼はぐずぐずと長いことかかって服をつけ、大きな長靴をやっとこさで穿いてから、黙々として巻煙草を一本すい終ってから、ようやく出て行った。
「ラッベク、グラッベク、ロァッベクか。」彼は玄関で立停りながらぼやきはじめた。「一人で行くのはつまらんなあ、畜生め。リャボーヴィチ、君ひとつプロムナージュ〔プロムナード(散
歩)の覚え違え〕を試みないかい? ええ?」
返事がなかったので、彼は引返して来て、ぐずぐずしながら服を脱いで、寝床に横になった。メルズリャコーフは溜息をつくと、『ヨーロッパ通報』を傍へ押しやって、蝋燭を吹き消した。「ふむ、そうか?……」とロブィトコは暗闇の中で巻煙草を喫いつけながら呟いた。
リャボーヴィチは頭からすっぽり毛布を引っかぶって、からだを蝦みたいに丸めると、想像の中で例のちらちらする幻を拾いあつめて、一つの完全な姿にまとめ上げようとしだした。ところがさっぱり駄目だった。間もなく彼は眠りに落ちてしまったが、彼が最後に考えたことは、誰かが自分を愛撫して喜ばせてくれたのだ、自分の生涯に何かしら並々ならぬ、馬鹿らしい、とはいえ頗るもって甘美なよろこばしい出来事があったのだ、ということだった。この想念は夢の中でも彼を離れなかった。
彼が眼をさました時には、頸筋の香油を塗られたような気持や、唇のあたりの薄荷水を滴らしたようなすうすうした感じはもうなかったが、ぞくぞくするような嬉しさは昨夜と変りなく、胸の中に寄せつ返しつしていた。彼は悦びにうっとりしながら、さし昇る朝日を受けて金色に輝いている窓枠を眺めたり、往来に始まっている人や車の動きに耳を傾けたりした。すぐ窓の下で大きな話声がしていた。リャボーヴィチの隊の中隊長をしているレベデツキイが、今しがた旅団に追いついたところで、日ごろ物静かに話しつけない人だものだから、とても大きな声で部下の曹長を相手にしゃべっていた。
「まだ何かあるか?」と中隊長がどなった。
「昨日の蹄鉄打換えの際、中隊長殿、小鳩号の蹄を傷つけました。軍医補が醋酸を加えた粘土をつけてやりました。目下列外へ出して手綱を曳いてやっております。それからまた、中隊長殿、きのう鉄工卒のアルチェーミエフが泥酔しましたので、中尉殿が彼奴を予備砲車の前車へ乗せるように命令されました。」
曹長の報告はまだ続いて、カルポフが喇叭の新しい紐と天幕の杙を忘れたとか、将校の方々が昨夜フォン=ラッベク将軍のお邸へ招ばれて行かれましたとか述べ立てて行った。この会話の最中に、ぬっと窓の中にレベデツキイの赤髯の首が現われた。彼は近視の眼をちょいと細めて、将校連の睡そうな顔つきを眺め、やあお早うと挨拶した。
「万事異状なしかね?」と彼はたずねた。
「砲車の鞍馬が鬐甲をすり剥きました」とロブィトコが欠伸をしながら答えた。「頸圏が新しいものでね。」
中隊長は溜息して、ちょっと思案してから、大声で言った。──
「僕はまだこれから、アレクサンドラ・エヴグラーフォヴナのところへ寄って行くつもりだ。御機嫌伺いをせにゃならんのでね。じゃ、さよなら。夕方ごろには諸君に追いつくよ。」
十五分後には旅団は行進を起した。途中で例の地主の穀倉の傍を通りかかると、リャボーヴィチは右手の屋敷の方を見やった。窓にはすっかり鎧戸が下りていた。てっきり屋敷の人はまだみんな寝ているのだ。あの昨夜、リャボーヴィチに接吻した女も眠っているのだ。彼はふと彼女の眠っている姿を心に描いてみたくなった。一ぱいに開けはなたれた寝室の窓、その窓をのぞき込んでいる青々した樹の枝、朝のすがすがしい空気、ポプラや紫丁香花や薔薇の匂い、寝台が一つ、椅子が一つ、それにふわりと掛けてあるのは昨夜さらさらと鳴ったあの衣裳、小さなスリッパ、テーブルの上には小型な懐中時計──といったものは、残らずはっきり手に取るように思い描かれたけれど、眼鼻だちとか、愛くるしい夢うつつの微笑とか、つまり肝腎の特徴的な点になると、まるで水銀が指のまたからこぼれるように、彼の想像から滑り落ちてしまうのだった。四五町も行った頃、彼があとを振返ってみると、黄色い教会や、例の屋敷や、川や、庭園は、さんさんと光を浴びていた。川は目のさめるような緑の両岸にふちどられて、水面に浅葱いろの空を映しながら、ところどころ陽の光を銀色に射返して、とてもきれいだった。リャボーヴィチは名残りの一瞥をメステーチキ村へ送ったが、するとまるで、とても馴染みの深い親しい人に別れでもするような、ひどく遣瀬ない気持になってしまった。
さて眼を返して行手に横たわっているものを眺めれば、それはみんなとうの昔からお馴染みの、さっぱり面白くない光景ばかりだった。右を見ても左を見ても、まだ背丈の低いライ麦の畑と蕎麦畑で、白嘴烏がぴょんぴょん跳ねているばかり。前方を眺めれば、見えるのは埃と後あたまの行列だし、あとを振向いても、見えるのは同じ埃と人の顔だけだった。……一ばん先頭には刀を手にした四人の男が足並そろえてゆく──これが前衛だ。その後には軍歌隊の一団がつづき、軍歌隊のあとには乗馬の喇叭隊が進む。前衛と軍歌隊は、葬列の松明持ちがよくやる伝で、のべつに正規の距離のことを失念して、ずんずん前へ出てしまう。……リャボーヴィチは第五中隊の第一砲車についている。彼には前に進んでゆく四つの中隊が残らず見える。軍人でない人が見たら、行進中の旅団があらわすようなこの長ったらしい重苦しい行列は、やけに七面倒くさい、ほとんど了解に苦しむごしゃごしゃ騒ぎに見えるのが常だ。どうしたわけで一門の大砲のまわりにこんなに大勢くっついているのやら、どうしてこんなに沢山の馬が、てんでに変てこな輓具でがんじがらめにされながら、一門の砲をえっさらおっさら曳きずって、まるでその砲が実際それほど重たい怖るべき代物であるかのような騒ぎを演じているのやら、そこがわからないのである。ところが、リャボーヴィチは何から何までわかり切っているので、さればこそ頗るもってつまらないのである。どうして各中隊の先頭には、士官と轡を並べてがっしりした砲兵下士が一人馬を進ませているのか、なぜこの下士が『前駆』と呼ばれているのか、なんていう事はとうの昔に知り抜いている。この下士のすぐうしろには第一挽索の乗馬兵、それから中部挽索の乗馬兵の姿が見える。リャボーヴィチは、彼らの乗っている左手の馬が驂馬と呼ばれ、右手のが副馬と呼ばれることも承知しているが──これまたすこぶる詰らんことである。そうした乗馬兵のうしろには二頭の後馬がつづく。その一頭には、昨日の埃を背中にかぶったままの兵が跨がって、不恰好な、とても滑稽な木製の脛当を右の足にくっつけている。リャボーヴィチはこの脛当の役目を知っているので、彼には別に滑稽ともなんとも思えない。馬上の兵たち……いやしくもそこにいる限りの者は残らず、機械的に革鞭を振りあげたり、時おり大声を張りあげたりしている。御本尊の大砲にしてからが、みっともない恰好だった。砲の前車には燕麦の袋が積込まれて、それに防水布の覆いがかけてあるし、砲身はというと、べた一面に茶沸かしだの、兵隊の背嚢だの小嚢だのが吊り下げられて、その有様たるやさながらに、どうしたわけだか人間や馬にひしひしと取巻かれてしまっている小っちゃな無害の動物といった恰好である。砲の両側には、風しもの方から、両手をやけに振りながら、六人の砲手がのっしのっしと歩いている。その大砲のあとには、またもや別の前駆や、乗馬兵や、後馬の行列がはじまり、その後からまた別の、といっても最初の奴に劣らずみっともなくもあれば貧相でもある大砲が曳かれてゆく。この第二の砲のあとに第三、第四の砲がつづき、四番目の砲のまわりに将校その他が進んでゆく。旅団には中隊が全部で六個あり、中隊ごとに砲が四門ある。といった次第でこの行列は蜿々四五町にわたっているのだ。殿りをつとめるのは輜重で、その傍にさも物思わしげに、ぴょんと長い耳のついた頭をうなだれながら歩いている、一匹の飛切り可愛らしい面つきの畜生があったが──これはマガールという驢馬で、或る中隊長がトルコから連れて来たものだった。
リャボーヴィチは無関心な気持で前や後ろを見やり、後あたまや顔を眺めていた。いつもなら、こっくりこっくりやりだすところだが、今はそれどころではなく、例の新しい愉しい考えごとに耽り込んでいたのだ。最初、旅団が行進を起したばかりの頃は、彼は無理にも自分の心を説き伏せて、あの接吻の一件なんか、面白いにしたところで高々ちょいとした不思議な偶然の出来事だけの話で、本当はくだらん事なのだ、あれを真面目にとやかく考えるなんて、内輪に言ってもまず馬鹿げた話だわい、と思い込もうとしていた。ところが間もなく、彼はそんな理窟をきれいさっぱり振り棄てて、空想に身をゆだねてしまった。……自分がラッベク家の客間で、あの藤色の令嬢と黒服金髪の令嬢とを、半々に突きまぜたような少女と並んで坐っているところを想像に浮べてみたり、かと思うと今度は眼をつぶって、自分がそれとは別人の、ひどく目鼻だちのはっきりしない、まるっきり見知らぬ少女と一緒にいるところを瞼に描いてみるといった調子で、心の中で話をしたり、愛撫したり、相手の肩へしなだれかかったり、さてはまた、戦争や別離や、その後の再会を思い描いたり、妻と水入らずの夜食の場面や、子供たちを想像してみたりした。……
「ブレーキをかけえ!」という号令が坂を下りるたびにひびき渡った。
彼もやはり『ブレーキをかけえ』と呶鳴るのだったが、その都度、この叫びが自分の空想を破りはしまいか、自分を現実へ呼び戻しはしまいかとびくびくした。……
ある地主の領地の傍を通りかかった時、リャボーヴィチは外周りの植込みごしに庭を覗いてみた。彼の眼にうつったのは、長い、まるで定規みたいに真直な並木道で、それに黄色い砂が撒いてあり、白樺の若木が両側に植わっていた。……空想におぼれ込んだ人間に現われるあの執念ぶかさで、彼は婦人の小さな足がその黄色い砂を踏んで行くところを念頭に浮べてみたが、すると全く思いがけなく彼の想像裡には、例の自分に接吻した女の面影、ゆうべの夜食の席で彼がやっとこさで心に浮びあがらせたあの女の面影が、くっきりと描き出された。その面影は彼の脳裡におみこしを据えて、もはや二度と再び彼を見すてなかった。
正午になると、後方の輜重のあたりで、こんな叫び声がきこえた。
「歩調とれえ! 頭ァ左! 将校敬礼っ!」〔この号令の前二句は兵卒に対するも
の、最後の一句は将校に対するもの〕
二頭の白馬に曳かせた半幌の馬車で、旅団長が通りかかったのである。彼は第二中隊の辺で車をとめて、何やら大声を立てはじめたが、何を言ってるのか誰にもわからなかった。彼をめがけて数名の将校が馬を飛ばせた中に、リャボーヴィチもまじっていた。
「で、どうかな? ええ?」と将軍は訊ねながら、赤い眼をぱちぱちさせた。「病人はあるかな?」
返答を耳にすると、小兵で痩せっぽちの将軍はちょいと口をもぐもぐさせて、何やら思案していたが、やがて一人の将校に向ってこう言った。──
「君の隊の第三砲車の後馬に乗っとる兵は、脛当を外しおってな、所もあろうに前車にぶら下げておるぞ、怪しからん。あいつは処罰したまえ。」
それから眼を上げて、リャボーヴィチの顔にぴたりとつけると、言葉をつづけた。──
「それから君の乗馬の鞦は、どうも長すぎるようだぞ……」
まだそのほかに二三の退屈な注意を与えると、将軍はロブィトコの顔に一瞥をくれて、にやりと笑った。
「それからロブィトコ中尉、君は今日ばかに沈んだ顔をしとるなあ」と彼は言った。「ロプーホヴァ夫人が恋しいかな? どうじゃ? なあ諸君、この男はロプーホヴァが恋しゅうてならんとさ!」
ロプーホヴァというのは頗る肥った頗る背の長い婦人で、もうとうの昔に四十の坂を越していた。将軍は、自分が大柄な女さえ見れば年はどうあろうと食指を動かすたちだったものだから、部下の将校たちにも同様の好みがあるように勘ぐっているのだった。将校たちは恭しくにんまり笑った。旅団長は何はともあれ頗る滑稽な毒舌を一発くらわしたので嬉しくなって、からからと笑いだし、馭者の背中をちょいとつついておいて、挙手の礼をした。馬車は先へ進んでいった。……
『思えば、おれが現在空想しているようなこと、現在おれには有り得べからざる、到底この世のものではないように思われることの一切も、実のところは頗る平々凡々たる事柄にすぎんのだ』とリャボーヴィチは、将軍の馬車のあとを追っかけて行く濛々たる砂塵を眺めながら考えるのだった。『何もかも頗る平凡な、人間なら誰にもあることなのだ。……例えばあの将軍にしたって、若い頃には恋をして、現在じゃ女房もあれば子供もあるというわけだ。ヴァフテル大尉だってそうだ。あんなみっともない真赤な後頸をして、胴中ときたらまるで四斗樽みたいなずんぐりもっくりなくせに、ちゃんと女房があって、おまけに大事にされている。……サーリマノフときたらあの通りのがさつ者で、おまけに韃靼人のこちこちときているんだが、あの男にだって一場のロマンスがあって、まんまと恋女房を手に入れたのだ。……俺にしたってみんな同じ人間だ、晩かれ早かれみんなと同じ経験をするに違いないんだ……』
そして自分だって世間なみの人間だ、自分の生活だって世間なみなんだという想念で、彼は嬉しくなって勇気も出てきた。彼はもう思いっきり大胆に、例の女の面影や、やがて来るべき自分の幸福を心に描いて、なんの憚るところもなく想像の翼をひろげて行った。……
やがて日暮れになって旅団が目的地に着いて、将校たちがてんでに天幕にはいって休息している頃、リャボーヴィチ、メルズリャコーフ、それにロブィトコの三人は、大トランクの周りに陣どって夜食をしていた。メルズリャコーフは悠然と口へ運んで、ゆっくりと咀嚼しながら、膝の上にひろげた『ヨーロッパ通報』を読んでいた。ロブィトコはのべつ幕なしに喋り立てながら、しきりにコップへビールを注ぎ足しているし、リャボーヴィチはというと、終日の空想のおかげで頭がぼんやりしていたので、黙りこくって飲んでいた。
三杯目をあけると彼は早くも陶然となって、ぐったりしてしまい、それと同時に自分が新たに味わった感覚を、同僚に聞かせてやりたくって堪らなくなって来た。
「あのラッベクのところでね、僕は妙な事件にぶつかったんだがね……」と彼は、自分の声に冷静且つ皮肉な調子を帯びさせようと努力しながら、口をきった。「実は僕、撞球場へ行ったんだがね、すると……」
彼は微に入り細を穿って、例の接吻の一件を語りだしたが、一分もするとぷっつり言葉が絶えてしまった。……つまりその一分間で彼は語り尽してしまったわけで、我ながらこの物語にたったそれだけの時間しかかからないことがひどく意外だった。この接吻の一件は、優に夜が明けるまで語りつづけられるような気がしていたのである。彼の話を聴き終ると、ロブィトコは何しろ自分が作り話の大家で、従って誰の話も信用しない男だものだから、疑わしそうに彼の顔を見て、にやりと笑った。メルズリャコーフは眉をぴくぴくさせると、相変らず『ヨーロッパ通報』から眼を離さずに、穏かにこう言った。──
「おかしな話だなあ!……声もかけずにいきなり首っ玉へかじりつくなんて。……てっきりそりゃあ何か精神病だぜ。」
「うん、てっきり精神病だね……」と、リャボーヴィチが同意した。
「そういや、それと同じ事件がいつか僕にもあったっけ……」とロブィトコは、眼をまるくして見せながら言った。「去年コヴノへ行った時の汽車の中の話だがね。……切符は二等にしたのさ。……車室は大入り満員の盛況でね、眠ることなど思いも寄らん。そこで車掌に五十コペイカ玉をつかませた。……すると奴さん、僕の荷物を抱えてね、特別室へ案内してくれたんだ。……で横になってね、すっぽり毛布にくるまった。……暗いんだよ、いいかい。すると不意に人の気配がして、誰かしら僕の肩先にさわってね、顔へ熱い息を吹きかけるんだ。僕はそこでこういう工合に片手を動かしてみると、誰かの肘にさわったじゃないか。……はっとして眼をあけてみた。するとどうだい君、──女なんだぜ! 黒いつぶらな眼。真赤な脣はまるで生きのいい鮭のよう、鼻孔は情熱を息づき、胸はといえば──緩衝器がむっちりと二つ。」
「ちょいと待ってくれ」とメルズリャコーフは穏かにさえぎって、「胸のことはそれでもわかるがね、どうして君には脣まで見えたんだね、実際暗かったとすればさ?」
ロブィトコはなんとか言いくるめてしまおうと、メルズリャコーフの血のめぐりの悪さ加減を嘲笑しはじめた。そんなことからリャボーヴィチは厭な気持になってしまった。彼は大トランクの傍をはなれて、横になると、もう二度と再び打明け話なんかしまいと心に誓った。
野営生活が始まった。……すこぶる似たり寄ったりの日が流れて行った。そうした日々を通じて、リャボーヴィチの物の感じかた、物の考えかた、またその振舞いは立派にもう恋をしている男のそれだった。毎朝、従卒が洗面の用意をととのえてくれると、彼は冷たい水を頭へかぶりながら、その都度きまって思い出すのは、自分の生活にも一種こう甘美な温かいものが出来たわい、ということだった。
晩になって、同僚たちが色恋や女の話をやりだすと、彼はじっと聴耳を立てて、近くへ身を乗り出してゆくのだったが、その面上には、自分たちの参加した戦闘の話を謹聴している兵卒の顔によく見られるような表情が浮んでいた。また晩によっては、一杯機嫌の尉官連中が例の猟犬ロブィトコを先頭に押し立てて、いわゆる『部落』へドン・ファン的襲撃を試みることもあったが、リャボーヴィチはその襲撃に参加しはするものの、その都度きまって気が滅入って、まことに申しわけないような気がし、肚の中でかの女に赦しを乞うのだった。……無聊に苦しむような時、または眠られぬ夜など、子供の頃のこと、父のこと、母のことをはじめ、押しなべてわが身に親しく近しい物ごとを偲びたい気持がわくような時には、彼はきまってあのメステーチキ村や、例の一風変った小馬や、ラッベクや、ウージェニー皇后そっくりなその夫人や、あの真暗な部屋や、扉口のきららかな隙間などをも思い出すのだった。……
八月の三十一日に彼は野営から帰途についたが、今度は旅団全体と一緒ではなく、二個中隊と行を共にしていた。道中ずっと彼は空想したり興奮したりして、まるで生れ故郷へ帰る人のようだった。彼は無性にもう一度あの風変りな馬や、教会や、あの誠意のないラッベク一家や、真暗な部屋などが見たくてたまらなかった。いわゆる『内心の声』は恋をする人々を実にしばしばあざむくものだが、それが彼にも何故とはなしに、きっとあの女に会えるぞとささやくのだった。……そうなるといろんな取越し苦労が彼をなやました──どんな工合にあの女に出くわすことになるだろう? あの女とどんな話をしたらいいだろう? あの女は接吻のことなんかきれいに忘れちゃいないかしら? 『万一間がわるくって』と彼は考えるのだった、『あの女に逢えないにしても、あの真暗な部屋を歩き𢌞って、思い出に耽れさえすりゃ、それだけで俺はもう十分うれしいんだがなあ……』
夕暮ちかく地平線上に、例の見覚えのある教会と白い穀倉が見えてきた。リャボーヴィチの胸は高鳴りはじめた。……彼は轡をならべて進んでいる将校が、しきりに自分に話しかけて来るのを、てんから聴こうともせず、無念無想の境にあって、むさぼるように瞳を凝らし、遥か彼方にきらきらしている川や、屋敷の屋根や、鳩小舎や、その上空を折からの入日に照らされながら円を描いて飛んでいる鳩の群などに、じっと眺め入っていた。
教会の傍まで馬を乗りつけて行く間も、やがて宿舎係の説明を謹聴している間も、彼は柵のかげから例の乗馬の男がひょっくり現われて、将校の方々をお茶に招待するのを、今か今かと待っていたが……宿舎係の報告が終り、将校連中が或いは急ぎ足で或いはぶらぶらと村へはいって行った頃になっても、乗馬の使者は一向姿を現わさなかった。……
『もうじきラッベクは、われわれの到着のことを百姓から聞いて、迎えをよこすだろう』──リャボーヴィチはそんなことを考えながら百姓家へはいって行ったが、だのにどうして同宿の友が蝋燭をともすのやら、またなぜ従卒たちがあたふたとサモヴァルの支度をするのやら、さっぱり腑に落ちなかった。……
やるせない不安の念が彼をとらえた。彼は一度横になったが、やがて起きあがると、乗馬の使者が来はしまいかと窓を覗いてみた。が乗馬の使者の姿はなかった。彼は再び横になったが、半時間もするとまた起き出して、不安の念に矢も楯もたまらなくなり、往来に出るとそのまま教会の方へ歩いて行った。柵のほとりの広場は真暗で、人っ子一人いなかった。……ただどこかの隊の兵卒が三人肩を並べて、ちょうど坂の下り口のところに立ったまま黙然としていた。リャボーヴィチの姿を見ると、彼らは飛びあがらんばかりにあわてて敬礼をした。彼はそれに挙手の礼を返すと、見覚えのある小径づたいにそろそろ下りて行った。
対岸の空は一めん紫金いろに染まっていた。月が出るのである。どこかの百姓女が二人、大きな声で話し合いながら、野菜畠を歩いてキャベツの葉をむしっていた。その野菜畠の向うには百姓家が二三軒黒々と影をにじませている。……一方こちら岸は、何から何まで五月に見たときそのままの姿だった。小径、藪の繁み、水面に枝を垂れている柳……ただ違うところといえば、例の勇敢な小夜鶯の声がきこえず、それにポプラや若草の匂いがしないことだった。
庭のところまで来ると、リャボーヴィチは木戸ごしに中を覗いてみた。庭は真暗で、ひっそりしていた。……見えるのはただ、真近かな樺の木の白々とした幹が数本と、並木道の片端とだけで、あとは残らず真黒な一かたまりに溶け合っていた。リャボーヴィチは、しきりに聴耳を立てたり眼を凝らしたりしていたが、十五分ほども立ち尽した甲斐もなく、物音一つ灯影一つ見えも聞えもしなかったので、またぶらぶらと後へ引返した。……
彼は川ぶちへ歩み寄った。彼の前には仄々と白っぽく、将軍邸の水浴小屋と、小橋の欄干に掛けてあるシーツが浮んでいた。……彼は小橋へ上って行って、そこに暫く足を停めていたが、そのうちなんの用もないのにシーツの一枚にそっと手を触れてみた。さわってみるとそのシーツはざらざらで、ひやりと冷たかった。彼は水を見おろした。……川は流れが早く、聞えるか聞えないほどのせせらぎの音を、水浴小屋の杙にあたって立てていた。赤い月が左岸寄りに影を落していた。その影の上を、さざ波がしきりに走って、それを引き伸ばしたり微塵に砕いたりしながら、運び去ろうとかかっているように見えた。
『実に愚劣だ! 実に愚劣だ!』とリャボーヴィチは、流れてゆく水を眺めながら考えた。『何もかも実に愚かしいきわみだ!』
もはや何一つ待ち設けるものもない今になってみると、接吻の一件も、自分の焦慮も、とりとめのない希望も、幻滅も、白日の光を浴びて彼の前にさらけ出されていた。彼にはすでに、将軍邸の使者に待ちぼけを喰わされたことも、自分を他人と間違えてうっかり接吻したあの女に二度と再び会うおりがあるまいということも、一向に不思議と思えなかった。それどころか、もしあの女に会えたとしたら、そのほうがよっぽど不思議なのだ。……
水はどこへとも、なんのためとも知れず、しきりに流れていた。それはかつてあの五月にも、やはり同じ様子で流れていたのだ。その水は五月の月に小川から大河に流れ込み、大河から海へそそぎ、やがて蒸発して雨に姿を変え、そしてひょっとしたらほかならぬその同じ水が、今またリャボーヴィチの眼の前を流れているのかもしれない。……どうしようというのだろう? なんのためだろう?
するとこの世界全体、この人生一切が、リャボーヴィチには、不可解なあてどもない戯れのように思われて来た。……そこで眼を水面から転じて空を振り仰ぐと、彼はまたしても、運命があの見知らぬ女の姿を借りて、思いがけない愛撫をこの身に与えてくれた次第を思いおこし、また例の夏の日の空想やまぼろしを思いおこし、つくづく自分の生活がわれながら並外れて退屈な、みじめな、ぱっとしないものに思われて来た。……
やがて彼が宿舎になっている百姓家へ帰ってみると、同僚は一人のこらず出払っていた。従卒の報告をきくと、みんな揃って『フォン=トリャープキン将軍』の屋敷へ出掛けたとのことだった。今度はこの人が、乗馬の使者を迎えによこしたのだ!……一瞬リャボーヴィチの胸に、ぱっと歓喜が燃えあがったが、彼はすぐさまそれを揉み消して寝床へもぐり込み、わが身の運命に対する面当てに、まるでわざわざ運命を残念がらせてやろうとでもするように、将軍のところへは行かなかった。
底本:「チェーホフ全集 7」中央公論社
1960(昭和35)年6月15日初版発行
1976(昭和51)年9月16日改版第1刷発行
入力:阿部哲也
校正:米田
2010年5月18日作成
2010年11月2日修正
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