能面の秘密
坂口安吾
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オツネはメクラのアンマだ。チビで不美人だが朗らかな気質でお喋り好きでアンマの腕も確かだから旅館なぞもヒイキにしてくれる。その日は朝のうちから予約があってかねてこれもオトクイの乃田家から夜の九時ごろ来るようにと話があった。
乃田家へよばれるのは奥さまの御用の時とお客さまの御用の時があって、お客さまは大川さんの場合が多い。この日も大川さん。オツネが九時十五分ごろ行ったときには食事の終るところで、九時半ごろからもみはじめた。
食事は本邸だが大川さんの寝るのは別館で本館にくらべればよほど小ヂンマリした洋館であった。乃田といえば昔は大金持だったそうで本邸なぞはどんな旅館も及ばないぐらい豪奢なものだそうだ。茶室と能舞台なぞ国宝級のものを買いとって運ばせたもので、五千坪ほどの庭園もあった。熱海で今もこれほどの 邸宅を旅館にもせず持ちこたえていられたというのは莫大な土地や山林を所有していたからで、少しずつそれを売って非常にゼイタクな生活をしていた。そういう用で時々見えるのが大川と今井という二人の人。たいがい二人一しょに来ることが多いようだ。二人はここの旦那の生前に秘書をしていたそうで、この日は大川さん一人のようであった。オツネが別館へもみに行くとき、
「あとで奥さまもお願いなさるそうですからすみ次第来て下さい」
と女中さんから話があった。これもいつもの習慣だ。今井さんはまだ若いからアンマをとらなかった。
大川さんは少量の酒で気持よく酔う人だった。しかし寝る前に催眠薬をのむので四五十分もむうちに大イビキで眠りこんでしまう。この日もそうだった。この人は変った人で、
「お前のようなまずい顔のメクラでも酔ってアンマをとるうちにはとかく変な心も起きやすいものだから、その壁にかかった鬼女の面をかぶってもんでもらうことにしよう」
こういう妙な習慣になっていた。小心で用心深い人なのだろう。そのくせアンマは強くて、もっときつく、もっと力いっぱいと催促されるので、こういう人をもむと何人前も疲れるからアンマには苦手の客だ。オツネは大川がねこんだのにホッと一安心、鬼女の能面を外して卓上へおいて部屋をでた。
オツネはメクラながらもカンのよいのが自慢だから、行きつけの家や旅館に行ったときには女中たちに案内されるのが何よりキライだ。
「私はカンがいいのよ。一人で大丈夫」
どこへ行ってもこう云わないと気がすまない。もちろんどこの女中もそれがキマリになっているから案内に立とうとする者もいなくなっていた。乃田家でもそうだ。壁に手さぐりで進むから跫音もなく唐紙をあける。すると奥の部屋から奥さんの声で、
「オツネサンかい」
「そうです」
「ちょっとそこで待っててね」
「ハイ」
誰か人がいるらしい。奥さんはあまり人にきこえないように声を低くしかし力をこめ、
「あなたのあつかましさにはもう我慢できなくなりました。今までに一千万円はゆすっているのですよ。私ももう六十七にもなりましたから名誉ぐらいどうなってもかまいません。もう絶対にお金はあげませんから私の秘密をふれまわったがいいでしょう。第一、窓の外から夜中に戸を叩いてゆするなぞとは何事ですか。さっさと行きなさい」
「あとで後悔しますよ」
窓の外でふくみ笑いしてこう捨てゼリフを云う男の声がきこえた。奥さんが窓の戸をしめたので男は立ち去ったらしい。
──大川さんではないようだ、とオツネは思った。彼は熟睡しているし、男の声は低くてよくも聞きとれないぐらいだったが、大川の声とは違っていたようだ。来客は一人の様子であったが、この邸内にいる他の男と云えば、それは息子の浩之介か庭番の爺やだけだ。浩之介は南方の戦場から足に負傷して戻ってきてビッコであった。この二人にはオツネはほとんどナジミがなかった。奥さんはオツネを奥の部屋へよびいれて、
「とんだところを聞かれましたね。このことはくれぐれも人に話してはいけませんよ」
「ハイ。決して云いません」
「大川さんはおやすみですか」
「ハイ。高イビキでおやすみでした」
「そう」
それからオツネは奥さんをもんで出たのは十一時半ごろであった。いつもならその時刻だとまた行きつけの旅館へ顔を出してみるところだが、この日は大川をもんで疲れたので師匠の家へ戻って、
「今夜の乃田さんは鬼女の面の旦那だからとても疲れたんです。やすませて下さい」
客の席ではさすがにこんな話まではしないのだが、師匠の家ではずいぶんひどい話もうちあけて茶のみ話にしあっている。そこでこう云って休ませてもらい、疲れた晩の例によって五勺ほどの酒をのみ、
「乃田の奥さんは誰かにゆすられているんだよ。もう一千万円もゆすられたらしいよ。鬼女の面の旦那じゃないけどね」
と今しがた人に云ってくれるなと頼まれたばかりのことまでお喋りしてしまった。そして五勺の酒によい気持になってグッスリねたから、オツネはその晩の火事を知らなかった。
*
火事のあったのは乃田家の別館であった。山の手の水利の悪いところだし広い庭の中でホースがとどいて水がでるまでにもずいぶん手間どってしまった。それで別館一棟だけがキレイに焼け落ちてしまったが、焼けた中に一人の男の死体が発見された。二部屋にフトンがしかれていて死体の方は一ツである。死体の部屋が火元らしく、この部屋の二ツのドアには鍵がかかっていたことが焼跡の調査の結果確定した。廊下に面したドアには内側から、隣りの部屋に通じるドアには外側から。そしてその隣室にもフトンがしかれていたのである。死体は大川であった。密室の死体であるから煙草の火の不始末か自殺かと一応結論がでかかっていたのであったが、たまたまオツネのアンマ宿の向いに新聞記者が住まっていた。そしてこの記者が現場の取材から戻ったとたんに女のアンマと近所の人の立話をきいてしまったのである。
「あのウチにはオツネサンがゆうべもみに行ったんですよ。その人が妙な人でね、オツネサンのような年増の不美人でも酔っぱらってアンマをとると乙な気持になって困ることもあるからと顔に鬼女の面をつけさせてアンマをとる例なんですッてね。ところがまたオツネサンはあすこの奥さんがゆすられてるのを聞いたんですッて。今までに一千万もゆすられてるからもうイヤです。秘密を方々で云いふらしなさいッてね。すると男がいまに後悔しますよと怖しい声で云ってたそうですよ」
この記者は東京のさる新聞の支社員だ。今しも現場から戻ってきて本社へ平凡な過失死らしいと電話したばかりである。殺人なら大記事になる。温泉町ではこうした記事が大いに話題になるから、その方面に敏腕なのがそろっているものだ。近いころ関東の農家で似たような八人殺しがあって全国的な話題となったばかりであるから、これこそ特ダネとよろこんだ。
「そのオツネサンは今どこにいますか」
「まだグーグーねてますよ」
「もう十時をまわったじゃないか」
「アンマはそれぐらい寝ても毎日毎日疲れきってる商売よ」
そこで、記者はオツネに面会を申しこんで叩き起してもらった。そんな大事件が起ったと知るとオツネは顔の色を失ってしまった。
「そんなこと新聞に書かれちゃ大変だよ。まさかそんなことが起るとは知らないからウカツに喋っちゃッたけどさ。もう何を訊かれても答えないわよ」
「答えてくれなきゃ尾ヒレをつけて書くだけさ。君が悪事をしたわけじゃアあるまいし、むしろ君は一躍有名になって日本中に名を知られるぜ。君を悪く云うどころか、すごい名探偵だなぞと人々がもてはやしてくれるぜ」
「どうしても書くつもり」
「それがぼくの商売だもの、これが書かずにいられるものかい」
「それじゃア仕方がないわね」
とオツネは昨夜聞いたこと経験したことを辻記者に語ったが、なにぶんにも目の見えない人間の話であるからカンジンなところが一本釘がぬけてるようなアンバイだ。
「大川という人、君にゆすりらしい話をしたことがあったかい」
「まさか自分はゆすりですッて云う人ないと思うわよ」
「すると君は大川が眠ると部屋をでたんだね。そのとき鍵をかけずにでたわけだろう」
「あたりまえさ」
「大川の隣の部屋には誰が泊っていた?」
「誰も泊ってる様子はなかったけどね」
「ところが隣室と同じようにフトンがしいてあったらしいのだがね」
「それじゃア今井さんかな。大川さんと今井さんはお揃いで東京から来て泊ることが多いんだがね。私はしかしゆすりの男が今井さんだったと云うつもりはないんだよ」
「大川は君に鬼女の面をつけさせてアンマをとるぐらいだから時々みだらな素振りを見せたかい」
「それぐらい用心深い人だから、そんなことしたことないにきまってるよ。そんなことまで尾ヒレをつけられちゃアこまるじゃないか。注意しておくれ」
「ヤ、すまん。君に変な素振りをするようじゃア乃田の奥さんと何かがあっても不思議じゃないと思ったからだよ。つまり隣室のフトンが奥さん用かという意味さ」
「バカバカしい」
辻はその他多くのことを聞きだしたが、アンマの観察だから確実と見てよいものは少かった。やや確実なのは次のことだ。
オツネは九時半ごろから十時半ごろまで大川をもんだ。大川は酒と催眠薬をのんだと語っておりアンマの途中に大イビキで眠った。オツネはフトンを直してやり面を卓上において鍵をかけずに部屋をでたが、煙草の吸ガラがどうなっていたかは分らない。大川はアンマの最中煙草に火をつけたことは確かだがそれが何かに燃えうつった気配は感じられなかった。(オツネは鼻の感覚が敏感だと自称している)大川の部屋をでるとオツネは本邸の奥さんの部屋へ行った。そのとき奥さんが窓の外の男にゆすりを拒絶していたが、相手の男は誰か分らない。十一時半ごろオツネは退去したが、火事が発見されたのは一時四十七分である。消火後の調査では大川の部屋のドアの鍵が全部かけられていた。大川は窒息後に焼死したらしく他殺をうけたような外傷も毒殺された疑いも発見されていない。
辻はその足で再び現場へ急行してみると、今しもその後の発表が行われたところで、大川のボストンバッグの焼けたのが発見されその中に約百万円ぐらいと推定される千円札束の燃え屑があったそうだ。当局ではそれをもって逆に外来者の兇行の疑いは失われたものと見きわめかけた様子であった。
辻は当局の発表なぞはもう問題にはしていない。直接邸内の人々に対決するのだ。まず女中からというのが記者常識の第一課だから、三人の女中に個別対面してみたが、
「ゆうべのお客さんは大川さんお一人ですよ。たいがい今井という方と一しょに見えるものですから昼のうちにお掃除して──拭き掃除は庭番の爺さんですが、お二人ぶんの寝床の用意しておいたのですが、夜八時ごろお着きになったのは大川さんお一人でした。その後どなたもお見えにはなりません」
三人の女中の答えは同じであった。オツネが立ち去るまで起きていたのは若い女中一人で、奥さんの部屋と女中部屋は大そう距離があるから何の物音もきこえなかったと云う。
「隣室との間のドアの鍵はふだんかけておくのですか」
「いいえ、私たち洋館のドアの鍵はかけない習慣でした」
これは女中たちが断言したので他殺の見透しがでてきたのだ。
そこで奥方に対面をねがった。案外にも面倒なく対面してくれたが、ゆすりのことをきくと激怒してしまった。
「私は誰にゆすられた覚えもありません。ゆうべ人にゆすられたなんて、そんなことはありません。その時刻には誰に会った覚えもありません。ましてそんなことを云った覚えは断じてないのです。おひきとり下さい」
プイと立って出てしまった。大川のカバンの中の百万円については聞くヒマがなかったので慌てて警官のところへ行って問うてみると、株を買ってもらうために依頼した百万円だということが分った。オツネの言葉によっても奥さんがゆすりにお金をやった様子はなく、そのアベコベに拒絶したのだから、おそらくそういう性質の金なのだろう。
あとの家族は息子の浩之介だが、彼は門に接続した門番小屋のようなところを事務所兼用にして寝泊りしているのである。彼の営業は高利貸しであった。熱海の大火の折に母からもらっていた山林を売って高利貸しをはじめ、その当時はかなりの好調であったらしいが、今では成績不振らしくビッコひきひき駈けずり廻っているだけで落ち目になると焦りがでて借り手にしてやられるようなことになりがちでいけなくなる一方であるらしい。使用人も居つかなくなり、中学をでて夜学へ通っている小僧が一人いるだけだった。事務所を訪ねてみると、帳簿のほかには探偵小説ばかりが並んでいる。ビッコのせいかブルジョアの息子のようなオットリしたところもない。
「ずいぶん探偵小説をお持ちですね」
「愛読書です」
「昨夜の十時半ごろですが、ある男が母堂を窓の外からゆすっていたというのですよ。母堂が答えて云われるにはもう一千万円もゆすったあげくまだゆするとはあつかましい。もう名誉もいらないのだからみんなに秘密を云いたてるがよい。ビタ一文もだしませんとね。すると窓の外の男がいまに後悔しますよと云って立ち去ったそうです」
「そんなことを母が云ったんですか」
「いいえ、偶然きいた人がいるのです」
「そうでしょうな。人が邸内で変死した当日にそんなことがあったと自分で云う人間がいたらおかしいです。またそんなことのあった直後に人を殺すのもおかしいでしょう。ましてゆすられてるのを人にきかれているのにね」
「探偵小説の常識というわけですか」
「まアそうです。母も探偵小説はかなり読んでる方ですよ」
「あなたはへんな男が門を通るのを見かけなかったのですか」
「ぼくは九時ごろからパチンコやって、その時刻ごろにはウドン屋でウドンを食べていましたね。この小僧君が小田原の夜学から戻った十一時ごろ偶然道で一しょになって帰ってきたのです。あなたはぼくがそのゆすりだと仰有りたいのかも知れないが、あの母から一千万円もゆすれる腕があれば高利貸しで失敗なぞするはずありませんよ」
「すると母堂からゆするには高利貸し以上の腕が必要だと仰有るわけですね」
「まアそうです。どんな秘密か知りませんが、その秘密をつきとめる以外には手がないと思いますよ。もっともその秘密が軽々しく判明するぐらいならゆすりも成立しないわけですね。特に母の口からはきくことができますまい」
辻はそのとき本邸の応接間にいくつかの能面が飾られていたのを見たことを思いだした。その中には鬼女の面もあったように思った。鬼女の面とはどういう形のものか実は彼はよく知らないのである。
「お宅には鬼女の能面がいくつもあるのですか」
「そうですね。能面はたくさんありますよ。ウチでは父も母も仕舞い狂ですから能面は実用品です。日本で最優秀というべき面もいくつかあるはずです。鬼女の面も三ツや四ツはあるでしょうね」
「焼死体のあった部屋にも鬼女の面があったそうですね」
「あの別館には高価なものはおかないはずですが、何かそのような物があったかも知れません」
そこへ来客があったので辻は辞去したが、反対側の長屋に住んでいる爺やのところへ立ちよってアリバイをただしてみると、
「私は九時から十二時まで八百屋で将棋をさしていましたよ。ゆうべのことだから八百常にきいてごらんなさい」
八百常にただしてみるとこのアリバイはハッキリしている。八百常の家族も口をそろえて云うのだからまちがいなかった。辻は支社へ戻ると東京へ電話して今井という人物について調査を依頼し、次のような意味の原稿を送った。
はじめこの事件は過失死か自殺と見られたが、オツネの証言によって乃田夫人がすでに何者かに一千万円ゆすられ、また当夜十時半にも窓を叩いて訪れたゆすりを拒絶している事実が分った。この窓を叩いた何者かが殺人した疑いが濃厚となった。大川は女アンマに肩をもませるにも鬼女の能面をかぶらせるぐらい小心で用心深い男だから、オツネが夫人の部屋にいることを知りながら起きだしてゆすりに行くのはおかしいし、彼がタヌキ寝入りでなかったことはオツネがアンマの感覚と経験によってまちがいないと証言している。オツネは大川の熟睡を見とどけ能面を卓上におき鍵をかけずに立ち去っている。しかるに二ツのドアの鍵が一ツは外側一ツは内側からかけられているのは何者かが犯行ののちまず廊下にでるドアを内から鍵をかけて隣室へでてこのドアを外側から鍵をかけて逃げ去ったことを意味している。洋室のドアは女中たちが平素かけない習慣になっているので他の何者かがかけたことは明かだ。しかも隣室との間のドアは隣室の方からかけられているので死者の仕業でないことが証明できるのである。乃田夫人をゆすっていた男については明確にアリバイのあるのは庭番の爺やだけで、浩之介にはない。また常に大川と同行して泊っていた今井という人物は隣室のフトンにねることを予定して女中たちが用意しておいたものでこの人物のアリバイについても疑惑をもたれている。複雑な怪事件に発展する見透しが強くなった。ただカバンの百万円が奪われていない点について一応の疑惑はあるが、それは盗むヒマがないような突発事が起ったことを想像するより仕方がない。
こういう意味の記事を全国版地方版ともに写真入りで書きたてた。警察も他社も過失死と見てオツネに一応きいてみることも忘れていたから、この記事におどろいて本格的な調査がはじまったのである。
*
翌日任意出頭の形で熱海署に現れた今井は一昨夜は九時から十一時まで新宿で酒をのんで十二時前に帰宅していると述べた。
「今朝新聞でよんで知ったのですが、大川さんはゆすりではありませんね。むしろ金を貸していたのです。六七百万は奥さんに貸していたでしょう。奥さんは株に手をだして近ごろでは大損の連続で、もう売る物もつきかけていたようですよ。ちょッとした鉱物のでる山が残っていまして、これが貧鉱なんですが、それをぼくに売ってくれとの頼みで、なかなか買い手がウンと云わなかったのですが矢の催促です。これをどうやら千八百万で契約ができて半金だけ現金払いあとは三月後の手形ということで一週間ほど前にそこの社員とぼくが当家へきてとりあえず九百万の現金を渡して正式に契約書を取り交しました。そのとき奥さんにもう株をやってはいけませんとくれぐれも念を押して、また大川さんからの借金も払ってあげて下さいとおたのみしておいたのです。大川さんが一人で熱海へ見えられたのはそれを受けとるためで、私が保証人になっていた借用証も持って行かれました。そのタンポはこの豪華な屋敷ですから、これを元利六七百万で人手に渡すバカな話はないのです。ぼくはその前からちょッと怒っていましてね。それというのが奥さんがぼくに半年以上も交渉させて何度か現地まで人を案内しているのにその実費以外にお礼にくれたのがなんと五万円ですよ。思ったよりも売値がわるかったので怒った気持は分らぬこともありませんがこのデフレ時代でしょう。そういうわけで腹をたてていましたからぼくは大川さんと同行はしませんでした。人が借金を返してもらうのに同行してもはじまりませんからね。そういうわけで、あの奥さんの流儀で借金とりもゆすりというなら、これもゆすりかも知れませんが、大川さんは人をゆするような人ではないのです」
彼の証言は意外なものであった。
「他に誰かゆすっていたような様子はありませんでしたか」
「そうですね。株ですった金だけでも何億でしょうから一千万ぐらいは右から左へどうにかなってもハタから分りゃしませんね。ゆすられるような秘密は他人には知ることができないからゆすりの種にもなるわけで、そういう私生活の方面のことは見当がつきませんね」
「息子の浩之介という人はどれぐらいの資金をもらったのですか」
「ちょッとした山林ですよ。時期がよかったからすぐ二三千万の金になったようですが、高利貸しをはじめてからはたちまちダメになる一方でしたね」
「乃田家の財産は現在どのぐらいあるのですか」
「今ではスッカラカンですよ。今度売れた千八百万のほかにはその半分も値のなさそうなのが一ツ二ツで、あとはあの家屋敷だけです。むしろ骨董品にいくらかあるかも知れませんが、実はめぼしい物はもう大方売ってしまったようです。その方にはぼくらはタッチしませんから知りません」
今井の言葉はまるで犯人が乃田家の者だときめてるような口ぶりであった。あげくには、
「大川さんの奥さんがいま熱海におられるというお話でしたから、大川さんの熱海旅行の目的等についてきいてごらんなさい」
そこで大川夫人にききただしてみると、この旅行は株券を買うためではなくて借金を返してもらう目的であったということがハッキリした。
「家屋敷の抵当があることですから借金返済を催促したようなこともなかったのですが、また、むしろそんなわけですから百万円だけうけとるわけがないように思えましてね。奇妙なことだと思っておりましたのです」
「御主人は今井さんとずッと懇意にしておられたのですか」
「今ではお勤め先もちがっておりますし年齢のひらきもありますので、乃田さま以外のことではあまり交渉もなかったようです」
ところが東京からの報告によると今井の申し立てたアリバイはきわめてアイマイだ。新宿の飲み屋でもそういう常連はなく心当りがないような話で、彼の申立てを証明したのは女房だけだ。夜中の十二時ごろ戻ってきてそのまま正体なく翌朝おそくまで寝こんでいたというだけだ。
翌る朝刊の辻の記事では浩之介も今井もそれぞれアリバイが不明確でその裏附け捜査が行われている、ということが伝えられていたが、また浩之介と奥さんの共犯の線もでていると書かれていた。たのみになるのがメクラ一人の証言だから特ダネを握って颯爽と出発した辻も早くも捜査難航、キメ手がないと訴えている有様であった。
*
奥さんがゆすりのこととなると相変らず断然ゆすられた覚えがない、それはメクラの空耳だと言いはるものだから、オツネはやるせない思いで暮さなければならなかった。
「これもみんな辻さんの罪ですよ」
と恨むものだから、辻もせつない。
「いまに真相をつかんで君の顔をたててやるからな」
と云ってはいるが心はうかない。本社からはこの特種を生かすために応援の記者を送ってよこしたが、こうなると支社と本社の記者同士で功名を争う気持になるから、面子にかけてもという気魄だけが悲愴になりすぎて毎日酒をのまずにいられない気持だ。
今井については本社で東京を洗っていて依然アリバイは不明確だが、熱海でその時刻前後に彼を見たという積極的なものがでてこないからどうすることもできないのだ。焼跡からは彼の遺留品もでてこなかったが、とにかく当夜大川が大金をうけとっていることを知っていたのは今井だ。ところが乃田家の金庫を調べてみると現金が、二百五十万ほどと、鉱山を売買した翌日の預金が五百万、焼けたのを合わせて八百五十万ほどだ。九百万のうちこれだけ残っているのだから、今井の犯行にしては奇妙である。むしろ大川の借金取り立てが不成立に終ったと見なければならぬ。
すると窓の外から戸をたたいてゆすっていたのは大川当人であったかも知れない。その場合に犯人は奥さんであり、あるいは浩之介共犯説も考えられるわけだ。
するとある日、浩之介に使われていた夜学生の小僧が辻を訪ねてきて、
「辻さん。ぼくは薄気味わるくってあのウチを逃げだしたんですがね。ぼくの話が役に立ったら就職世話してくれますか」
「新聞社というわけにはいかないかも知れないが、役に立つ話なら今の何倍もいい会社なり商店へ世話するぜ。どんな話だ」
「ゆうべのことなんですよ。夜中の十二時なんです。庭番の爺さんがそっと庭の方へでて行く姿を見たから、怖い物見たさでぼくそッとつけたんですよ。するとね、ぐるッと庭をまわって奥さんの部屋の窓をたたくんです。そしてね、奥さんから何かを受けとって何かをやったんです」
「それで」
「そのとき爺さんは低いつぶれ声で外国語の咒文のようなことを云ったんです。ラウオームオー。そうきこえたんです」
「ラウオームオー」
「そうなんです。長くひっぱる発音でそう云ったんです。たしか、そうきこえましたぜ」
「奥さんは?」
「何も答えません。品物を改めて窓をとじてしまったのです」
「品物の形は?」
「それは分りませんが本か雑誌のようなものでしたね。爺さんの受けとったのもやはりそんなものでしたが、あとで分ったことでしたが、これは札束でした。二百万円です。この日三百万円の火災保険がはいったものですからその一部分です」
「どうしてそれが分った?」
「今朝になって婆さんが堂々と云うんですよ。奥さまから退職手当に二百万円いただいたから郷里へ帰って小さな店をひらこうなんてね。それをきくと浩之介旦那が血相かえて奥さんの部屋へビッコをひきずっていきましたがね。ボンヤリと戻ってきました。奥さんからもたしかに退職手当に与えたものだと云われたのでしょう。ゆすっていたのはアイツか、信じられない、と呻くようにつぶやいて、どこかへ出かけましたのです。でね、ぼくは荷物をまとめて逃げだしてきたんですよ」
「意外きわまる話だね」
「あのウチにはまた何か起りますよ。とても怖しくて居たたまらなくなったんです」
完全に信じうるものをも疑えというのが、これも探偵小説の第一課だ。爺さんのアリバイは完全だった。疑う余地がなかった。しかし人為的に完全なアリバイをつくることも不可能ではないはずだ。
辻は乃田家へ急いだ。爺さんはよいゴキゲンで引越しの荷造りをしているところだ。辻の顔を見ると爺さんが先に声をかけた。
「やア、新聞屋さん。あの小僧の注進がありましたかい」
「まさにその物ズバリだね。二百万円の退職手当だってね」
「そうなんです。なんしろこちらへ御奉公してかれこれ三十七八年ですからね。よそはそれ以上の退職金をだしますよ」
「そんなことを人の耳に入れなくたっていいじゃないか」
「自慢話ですよ。正式にいただいたものを隠すことはないですよ」
「真夜中に窓の戸をたたいて秘密にいただき物をしてもかい」
「下郎は庭から廻るものと相場がきまったものですよ」
爺さんの言葉や顔にはおどろいた様子がない。小僧に見られたことに気がついていたのだ。奥さんにはとうとう対面できなかったが、女中さんに伝言して返答をきいてもらうと、たしかに退職手当二百万円やりました。永年の勤続ですから、と爺さんと同じような返事であった。深夜に窓を叩いて金を渡しても退職手当ですかときいてもらうと、たしかに退職手当ですと返事があって、それ以上はノーコメントであった。
辻はアンマ宿へ自動車を走らせてオツネサンをさらうように押しこんで爺さんの家へ運んできた。
「オツネサン、この声に聞き覚えがないかい。爺さんと話をしてよく聞きわけておくれ」
「アハハ。私はね、あの晩は九時から十二時まで八百常で将棋をさしてましたよ。オツネサンの聞き覚えのはずがないよ」
オツネはせつなげにションボリ頭をふって、
「低くってただ一言のききとれないような声だからね。もう無理ですよ」
「そう、そう。まさに、その通り、オツネサンのきいた男は何と云ったね」
「いまに後悔しますよ、と云うんだけど」
「では私がそれをやってお目にかけよう。低い声で、いまに後悔しますよ、とね」
オツネサンは頭をふってみせた。無理だ、わからないという意味だ。辻はジダンダふんだが及ばなかった。
*
辻はしかしこれぞ特ダネの気持で長文の記事を送った。しかしそれは地方版の隅っこに二段の小さい記事でのせられただけだった。この事件もそろそろ忘れられようとしていた。三十六七年も夫婦二人で勤めた者が退職金二百万円はさのみ騒ぎたてることもないがというように訂正され、深夜に窓の戸を叩いての授受は故意に怪しまれることをしているだけにこれが別れの思い出の茶番のようなことも考えられ、ゆすりにしてはもっとさりげない方法があるはずだ、という批判がつけ加えられていた。
この記事にくさっていると、支社へ姿を現したのは伊勢崎九太夫である。彼は熱海の旅館の主人だが、昔は名高い奇術師で、非常に探偵眼のすぐれた人物で難事件を一人で解決したこともあるから、辻はこの事件が起ってからすでに三度も九太夫の意見をききに行っていた。そのたび九太夫は自分の聞きたいことを根掘り葉掘りきくだけで返事をしたことがなかったのである。
「どうも、あの記事は残念でしたね。新聞記者は書きたがる悪癖があっていけませんよ。ああいうことは伏せておいて様子を見るのが賢明です」
「しかしそれを教えにきて下さったのは曰くがあるからでしょう。あれを退職金授受の思い出の茶番にされて泣くにも泣けない気持ですよ」
「それはあなたの名文の罪もあるね。外国語の咒文のようなはひどすぎますよ」
「じゃア何ですか」
九太夫はもう辻の問いには答えを忘れ、根掘り葉掘りききはじめた。幸い小僧を泊らせておいたので、これもよびだして九太夫の質問に応じさせた。
「君が後をつけたことが爺さんに知れたらしいが、それを気づかなかったかね」
「いま考えると婆さんが見ていたのだと思うんです。家の前を通りますから」
「茶番のような受け渡しをやってる時は気づかれていない確信があるのだね」
「そうです。その時は絶対に気附かれていません」
「窓の戸を叩いた音はどれぐらい。かなりの音かね」
「かなりの音です。聞き耳をたててると二三十間さきでも聞きとれる音ですね」
「跫音は?」
「これも忍び足ですが音はわかりました」
「それでは窓をあける音は?」
「これはかなりの音ですよ」
「窓をあけた幅は?」
「四五寸ですね」
「部屋にあかりはついていたね」
「そう明るくはありません。小さな豆電球のスタンドかと思いました」
「奥さんはずッと無言だね」
「そうです」
「ヤ、いろいろ分りました。それから浩之介さんのことですが、事件の晩十一時ごろ道で会って一しょに帰ってきたのは本当ですか」
「それはまちがいありません。熱海銀座と駅から山を降りてくる道のぶつかるところがあるでしょう。ちょうどあのへんを山手の方へ歩きかけていたのです。あのへんから乃田さんの邸まではまだかなりの道です。それで登り坂ですから、ビッコのあの人の足では相当の時間がかかるんですよ」
「火事の時はねていたのかね」
「ええ、消防車がきて叩き起されるまで知らずにいました」
「それでいろいろ分りかけてきたが、そんなことをした理由はなぜだろうね」
「ぼくがですか」
「失敬失敬。むろん君ではない。ある人がだよ。むずかしいことをしているわけがね」
「それは誰のことですか」
と辻が声をはずませてきいたが、九太夫はそれに答えずに、
「とにかく今晩、夜が更けてから実験してみましょう。十二時ごろ拙宅へお越し下さい。小さな実験です。これが思うようにいっても、まだのみこめないことが山ほどあるんですよ。事件解決は一歩また一歩ですよ」
九太夫はこう約束して帰った。その晩の十二時ごろに辻は九太夫を訪問した。九太夫は彼を待っていたが、
「ここは海沿いで海の音が耳につくから山手の静かな宿をとっておきました。もう仕度もできております」
「海沿いではいけないのですか」
「そうなんです。音に関する実験ですから」
山手の閑静な旅館で車を降りると、九太夫は階下の静かな部屋へ辻を案内し、
「この部屋をさがすのに苦労しましたが、だいたいに条件はよろしいようです。あなたはそのへんで黙って見ていて下さい。声をだしても身動きしてもいけませんよ。実験中はあらゆる音をつつしんで下さい。私はまずこの廊下のイスに腰かけ隣室の廊下へ通じる潜り戸をあけておきます。さて、ここへオツネサンをよびますが、あの女は自分ではカンのよいメクラだと思いこんでいますが、メクラは目が見えなくて他との比較を知らないのですよ。オツネサンは自分はカンがよいから一人で歩けると口癖に云いたがりますが、カンは大いによくないね。廊下の壁に沿うてノロノロノロノロ歩いてくるのですよ。便所なぞへ行くと何かに突き当ったり四苦八苦ですよ。先日私が一人言を云ったとき、オヤどなたかいらッしゃるんですかと聞くんです。ではいま呼びますからこれから暫時物音を封じて待っていて下さい」
まもなくオツネは壁にそうてノロノロ歩いてきたらしく戸をあける時まで跫音もしなかったが、戸をあけて、
「こんばんは」
「ちょッとその部屋で待っといで。いますぐ話が終るから」
「ハイ」
「どうも君はいけませんね。今夜はこの静かな部屋でアンマをとって休息したいと思っていたのに、案内もこわず隣室から潜り戸をあけてくるとは。すぐ帰っていただきたいと思いますね」
「それはとんだ失礼をいたしました。そういうこととは知りませんでとんだ失礼を。では、おやすみ」
「おやすみなさい」
九太夫の一人二役だ。声とアクセントをちょッとちがえただけで、さのみ変化のある一人二役ではなかった。九太夫はイスを立って、歩かずに後方へ手をのばしてガラガラと潜り戸をしめた。
「さア、さア、これで無礼な客が退散しました。オツネサン、おはいり」
「ハイ」
とオツネが部屋へはいった。
「オツネさん、いまのお客を知っているかね」
「さア、声だけでは分りませんが、私の知ってる人ですか。この旅館へくる人でね。それじゃア小田原の河上さんでしょう。ナマリで分りますよ」
「あの人は跫音のない人だね。出て行く跫音がきこえたかい」
「戸がしまったから分りましたが、恐縮して忍び足で逃げたんですね。あの人らしくもない」九太夫はクツクツ笑いだした。そして辻に呼びかけて、
「ね、辻さん。私もこんなことだと思いましたよ。せんだって私の一人言を他人の声とカンちがいしたのを見た時からこの実験の結果だけは分っていたんです」
「あら辻さんですか。部屋を出なかったのね。道理で跫音がきこえないはずだ」
「なるほど面白い実験でしたね。しかし益〻わけが分らなくなりました」
「それなんですよ。あの奥さんは能もやれば長唄もやる。声の変化は楽にだせる人です。男の作り声ぐらいは楽なんですね」
オツネは辻以上にびっくりして、しょげてしまった。「それじゃアあのとき私がきいたのは奥さんの作り声ですか」
「そうだと思うね。だからお前さんは戸のしまる音はきいても、戸のあく音はきかなかったと思うね。おんなにノロノロと壁づたいに長の廊下を道中してくれば戸のあく音はきこえるはずだが、つまり戸はたぶんお前さんが別館をでる前からあいてたのだ。そしてお前さんを待っていたのだろう。戸がしまれば立ち去る音はきこえなくともどうでもいいように、これを蛇頭にして蛇尾と云うのかも知れないがオツネサンにとっては龍の胴だけあれば思考が満足してるんだね。そこがお前さんのヒガミの少い気立てのよいところだがね」
「私ゃはずかしくなりましたよ」
「まアさ。そこがオツネサンの値打だね。人にだます気持があれば必ずだまされるお人好しなんだから」九太夫はこうオツネを慰めたが、さて辻に向って、
「さて今晩はこの静かな旅館で考えてみようじゃありませんか。こういうことがなぜ行われたか。あなたのお部屋は小田原の河上さんの部屋に用意ができておりますよ」
*
新聞記者だから辻は結論をせっかちにだす。目がさめると大体見当がついている。
最も時間のかかったのが外国語の咒文の件であるが、オツネの錯覚と同じようにこれも小僧に錯覚ありと見るべきだ。結論がでるとせっかちだ。すぐにも報道にかからずにいられないのが持ち前の性分で、九太夫の起きだすのを待ちかまえ、さっそくその前に大アグラで坐りこんで、「この事件は爺さんが奥さんの依頼でやった殺人ですね」
「なるほど」
「奥さんは後日に至って爺さんにゆすられることを察していたから天性のお喋りで秘密の保てないオツネにわざとそれを聞かしておいたんだと思いますよ。爺さんのアリバイは十二時までですから奥さんの作り声の件が解決すればアリバイはないわけです。火事は一時四十何分かに発見されているんですからね。つまり奥さんの作り声は容疑者のアリバイをみだす役目も果していたのです」
「その着眼は面白いですね」
「そこで爺さんは大役を果してしかもカバンの百万円には手をつけないような殊勝なことも果しました。その百万円をトリック代として二百万円は当然でしょう。ところが奴め稚気があるから、わざと窓の外から戸をたたいてラウオームオー、つまりカラ証文とイヤガラセを云ったんじゃないですか」
「カラ証文。いいところを見てますね」
「カラ証文の受取りとひきかえに苦りきった奥さんが二百万円渡した。これはたしかに渡さなければならぬ金です。どんなにからかわれてもこの金をやって追いだす以外に手がなかった」
「そうですか。それではもう一度、あなたの支社へ参上してあの小僧に一言きいてみることに致しましょう」
「まさか小僧が犯人ではありますまいね」
「むろんそうですが、小僧にきいてみることが一ツあるのです」二人は辻の支社へついた。さっそく小僧をよんで九太夫がきいた。それは実に思いがけない質問であった。
「あの邸内で新聞を早く読むのは誰だね」
小僧もびっくりして即答できなかったほどである。
「そうですねえ。ぼくは夜学で夜ふかしして朝が早い方ではありませんし、奥の人たちもみなおそいんです。結局新聞の投げこまれるのが爺さんの窓口からですし、あの夫婦は早起きだからぼくらが起きる前に面白そうな記事は全部暗記しているほどですよ」
「あの邸に辻さんの新聞もはいっていたろうね」
「むろんです。奥さんは株をやってますからたいがいの新聞は目を通していました」
九太夫は我意を得たりとうなずいて、
「これですよ。解決の緒口は。爺さんは事件の翌々日も誰より先に新聞を読んだに相違ないのは毎日の習慣ですから当然考えることができます。あなたがあの朝の記事で報道するまでは警察も他の新聞もオツネのことを忘れていました。過失死か自殺と考え、アンマの話なぞ聞く必要もないと思っていたわけです。だから辻さんだけがその前の日に取材にきても警察がほぼ過失と定めていることだし、犯人もさほど気にしてはいなかったでしょう。特に犯人は一ツのことを知らなかった。死体の部屋にあった能面のことを知りませんでした。あなたもその能面についてきいたでしょうが、興味本位のきき方で、事件と深く関係を結ばせて取材しなかったんじゃないですかね」
「そうですね。そういう訊き方はしなかったようです。被害者が鬼女の面をアンマにかぶせて、もませていたという傍系的な興味を一ツつけ加えるのが楽しみのための取材でしたね」
「そうですよ。ところがあの日の記事を読むとそうではない。一ツ見落してはならぬことが書いてあります。あの日もオツネは鬼女の面をつけてもんだ。もみ終えて面を卓上へおいてドアの鍵をかけずに退出したと書かれている。もしこの能面が邸内のどこかに焼けもせずに在ったとすれば、その所持する人や所持しうる人が犯人であることは明かではありませんか。朝起きは三文の得とはこれですな。庭番の爺さんは誰よりも先にこれを読んだ。そして毎日邸内や庭園内を掃除にまわっていますから、室内や園内のどこに何があるかは誰よりもよく承知です。どこかでそれを見ていたとすれば、そしてそれをまだ人々が新聞をよまぬさきに手に入れたとすれば、これはゆすりの材料になりますよ。二百万円は安いぐらいだ。つまりあの爺さんのゆすりはあなたの記事ができた日にはじまった新商売にすぎなかったわけだ。ほとぼりのさめかけたころ本格的にゆすりはじめて退散したわけですが、彼が奥さんに二百万円とひきかえた品はラウオーモンやカラ証文ともちょッとちがって、羅生門、たぶん羅生門の鬼女の面ではないのですかね」
辻が二の句のつげないうちに小僧がさけんだ。「そうですよ、それですよ。ちょうど面ぐらいの品物でした」
辻はやや納得できぬ顔で、
「それで多くのことが明かとなりましたが、奥さんが作り声をしたことや能面を持ち帰ったわけは?」
「それにはいろいろな説明がありうると思いますが、探偵小説などを読みますと、特に西洋におきましては、女が悪者にゆすられている場合、絶対にノーコメントで押し通すことができて、またその秘密を知って女を護衛する立派な男なぞが逆にそこをつかれて女と一しょにいたためにアリバイを立証できなくなる例が多いのですね。そこを逆用してノーコメントの手をあみだすつもりだったかも知れませんよ。ちょッとした手だと思いますよ」
「なるほどねえ。新聞もゆすりの件で彼女のノーコメントに一目おいてる傾向がありましたね」
「それなんですよ。次に面の件ですが奥さんは鬼女の面をかぶり顔を隠してやったんじゃないですかね。そしてドアの鍵をかけたり、火をつけたり、またドアの鍵をかけたりして夢中に逃げて、鬼女の面を自分の部屋までつけたまま持ち帰ったのかも知れません。だから爺さんが何かとひきかえに二百万せしめたあの記事が新聞紙上にでなければ、ひょッとするとその能面に再会できたかも知れませんが、もうその見込みはないでしょう。要するにあらゆる物的証拠が失われているわけです」
辻はここまで聞いて益〻ガッカリしてしまった。これを記事にしても物的証拠がなければ金的を射とめることができない。すべてが九太夫の単なる推理にすぎないのである。実にどうも残念だ。彼は腕をこまねいて考えに沈んでいたが、
「しかし、これを記事にしないわけにはいきませんよ。爺さんに白状させても記事にしてみせますよ」九太夫は静かに制した。
「天下の大新聞がカラ振りはつつしんだ方がいいようですよ。あの爺さんは白状することがありますまい。しかしいまに天罰が自然に犯人の頭上に訪れると思いますよ。なぜならですね。奥さんにはもう残った金がありません。これからも益〻株に手をだすことでしょうが、二人の味方の一人は自分が殺し、一人は背いて去りました。あの人の金は砂にまくようなものです。自然に破滅が訪れますよ。老醜の極に達して恥を天下にさらすのです。乞食になって野たれ死ぬかも知れませんよ」
この予言は実に近いうちに実現したのである。浩之介が有金さらって逃げたのである。これを警察へ訴えでれば大川殺しの真相をあばいてやるという置き手紙があった。浩之介は家の内情について明るいし、探偵小説にもくわしいから、九太夫と同じ推理に達することができた。二百万円に代えられたものが能面であることも悟ったのである。
奥さんはヤケを起して残りの全財産を短日月で株に使い果してしまい、クビをくくって死んでしまった。
底本:「坂口安吾選集 第八巻小説8」講談社
1982(昭和57)年11月12日第1刷発行
初出:「小説新潮 第九巻第三号」新潮社
1955(昭和30)年2月1日号
入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース
校正:小林繁雄
2006年9月16日作成
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