親が捨てられる世相
坂口安吾
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戦争中はほかに楽しみもなかったので、私はよく碁会所のお世話になった。
若い人は戦争に行ってるから、常連の多くは年配の人であったが、後日に至って「すてられる親たち」の様相はそのころから私の目につくようになった。彼らの多くは、かなり教養の高い人でも、概ねステバチになっていた。働かざるもの食うべからず、ゴクツブシ、というような思想が──思想よりも強力な制度が、たとえば配給量という当時の最も切実なものの上で「お前はゴクツブシ」だという無言の審判を押しつけてくる。
あのころは、まるでもう配給量が人間の値打を規定していたようなものだ。老人が孫の特配を盗んで野良猫のような罵倒をうける例は近隣でしばしば見かける風景であった。
碁会所の常連に一人の老人があった。半生外地で会社勤めをして、老後を東京で暮す計画をたてて、そしてそれを設計通りに実行した人である。
東京に三四千円の家を造り、子供たちにもそれぞれ高等教育をさずけ、退職して東京へ移住し、隠居生活をはじめた時には二万五千円の貯蓄があった。しかし、主食のヤミ値がつり上がるにつれて彼の動揺は深刻であった。
「四十何年も汗水たらして、歯をくいしばるようにして貯えた二万五千という金が、このさき二年間もつかどうか。老後を考えて一生の計をたて、青春や人並の楽しみすらもギセイにして粒々辛苦のアゲクに、これですよ。実にバカを見たものだ」
これは彼の口癖だった。尤も千万なグチではあるが、どこにもハケ口のない暗いグチだから、きかされる方にも救いがなくて、やりきれなかったものだ。
その彼が気を取り直して、
「イヤ、イヤ。こうグチを言っちゃアいられない。何か私の働く口はありませんかな」
と言う。言葉の方はちょッと人の気をひいてみるという程度に軽いが、眼ツキがギラギラして、食いつくような真剣さがあった。もちろん、安い徴用者でいくらでも間に合う時だから、彼の働く口などはない。
強制疎開で碁会所が閉鎖というとき、何年間かお世話になった盤石を眺めている彼の眼ツキは、私たちの惜別とちがって真剣な執着がこもっていた。「盤石格安売ります」というハリガミが、ガラス窓も、店内の壁にもはりつけられていたのである。
「今ならこの盤石をそっくり買うこともできる。せめて十面買えば、自分も楽しみながら暮しのタシになるかも知れん。農家の一室をかりて荷物だけ疎開のダンドリもできましたのでなア。しかし、我々が再び碁を楽しむような生活が何年さきに訪れることやら……」
彼は決断がつかなかった。とつおいつ、という思案の様はこれを言うのであろうが、私には彼のギラギラした執念の目が怖しいものに見えた。飛行機も、バクダンも、焼跡も、焼けた屍体も、これほどナマグサイものには見えなかった。負け戦のドタン場のこの時になっても、ただ老後を考えるのみの彼の執念に、当時はその同感ももてなかった。
思えば彼は一生の設計を戦争でフイにし、戦後の設計にも一足踏みかけながら、これも逃がしてしまった。彼としてはギリギリに思いつめた人生であったと云えよう。
平凡でマトモで穏健着実だったこのような老人たちの何パーセントかが、戦後に至って生まれてはじめてのヤブレカブレ、手のつけられないジジイになっても憎むわけにはいかない。罪は戦争にあったことは実にハッキリしているのだ。
*
文士だの芸能人というものは、サラリーマンのように着実でマトモな一生の設計を立てているものではない。収入がサラリーマンのようにキチンキチンとしていないし、明日があまりにも不安定で設計の立てようがないものだ。だから、いつどうなっても構わねえや、というような心構えも芸術家の人生設計に於ては背骨の一ツとなるべきものだ。
小田原海岸のカマボコ小屋で何十年孤独の生活をつづけている川崎長太郎君などは、文士のうちでも特にそのような背骨のガッシリした人であろう。
川崎君とはアイサツを交したこともないが、私も小田原に住んでいたので、彼の日課の食堂通いの姿をまれに見かけることがあった。私の見た彼の姿はいつも一人であった。彼の当時の小説によると、三十銭を手に握って、ダルマとかアサヒとかいう大きくて殺風景な食堂へチラシドンブリとかカツライスを食べに通っていたのだそうだ。
彼は戦争中に徴用されて小笠原島へ渡り土方のようなことをやらされたそうだ。小田原のカマボコ小屋からひきずりだされて孤島で土方をやりながらも、その日々の観照はきわめて当り前で、全てを(戦争をも)素直にうけいれて、いかなる環境の変化にも彼の人生の土台をゆりうごかされるような動揺をうけたことはない。彼が小笠原の徴用生活を書いたものは、この戦争生活の日本人の手記としては頭抜けてマトモで、一行の力んだところもないスガスガしい珍品であったと云えよう。その生活中に彼がよんだ和歌なども衒気がなくて実に素直なものであった。
彼は私の碁仇の碁会所の老人のように、この戦争のために一生の設計を破壊されるようなことがなかった。日々新しく訪れる現実にそのまま順応できる心構えができていたからである。
もっとも、この心構えをそう高く評価するわけにも行くまい。人生には当然もっと積極的な設計があって然るべきで、この両者の価値は比較論争すべきことではないようだ。
しかし、私が面白いと思うのは、この川崎君にしても、老後ということを、ちゃんと考えているということであった。
彼の小説を読むと、彼が非常に中風を怖れ、その予防として毎日長時間の散歩をせッせとやっていることがシバシバでてくる。それは彼の母が中風で倒れて十年もねこみ、糞尿まで人の世話になって家族にイヤがられて生きのびていた哀れな生活を見ているから、そういう風にはなりたくないというのが発心の元のようである。
魚屋の長男に生まれて家業を弟にゆずり、自分は海岸のカマボコ小屋に住んで好きな小説を書いてくらし中風になれば、まア兄のことだからイヤイヤながらも弟夫婦が面倒をみてくれるであろうが、そういうミジメな病床生活をしたくないというような──しかし、どうすればそれを防げるか、それに対処する方法が貯金でもなければ妻帯でもなく、主として毎日の長時間の散歩であるということ。
一般の人々から見れば滑稽かも知れんが、実は私なども煎じつめればその程度の設計や方策しか持ち合わせていないのだ。
しかしながら、碁会所の老人のような人に一生の設計が戦争でフイになった場合には、その混乱やヤケは暗く救いのないものであろうが、川崎君が怖れている中風に本当になった場合には、そう暗くはないだろう。彼は己の最も怖れていることに出会わしても平凡に受けいれて順応できるだけの背骨はできているであろうから。
カマボコ小屋の川崎君に比べれば、徳川夢声老の設計は市井人のマトモな生活に即してはいるが、しかし、半生大酒をのみ、時には催眠薬のガブのみの曲芸もやらかすというような、人生の希望というようなものと相当壮烈に、また、徹底的にイタチゴッコをやらかした人は、その心構えの背骨も余人に比して相当シッカリした仁と目すべきであろう。
しかるにその夢声老にしても、お嬢さんがオヨメに行くと、お嬢さんに棄てられて天涯の夢声孤児になったような大そうなハンモン錯乱も致されるようである。そしてついに近来、養老院志願という悲痛な心境に傾きつつある由である。
川崎君も素直であるが、夢声老はさらに素直なのであろう。人生の希望とか、孤独というものと半生の相当に壮烈な長い争いをつづけた人でも、老後ということになると、対処の心構えに安定を欠かざるを得ないようである。
老後というものは、どうやらそれほど痛切なもののようだ。ところが、それは当人にとってのみの痛切な心境であって、これに対する相手方、つまり若い家族の方は全然その痛切なところに理解がない。これは宿命である。老人の心境にイタワリがあるような若夫婦などというものは、そろそろ老後の方に近づいた私の目から見ても、なんとなくその物分りの良さが薄気味わるくて、つきあいにくいような気がするのである。人間には年齢の生活があり思想がある。基本的人権同様に、これをハッキリと認めてかかる立場がなければいけないだろう。
親が子を育てるのは一般に本能的で自発的な愛情によるものだが、子供が親を養うのはモット義務的で、どうしても親の方が歩がわるい。
子供を育ててやったことは、恩にきせる性質のものではないようだ。どの人間でも、子供の時は親に育てられ、自分が親になるとその子供から至当な愛情の報いをうけないというこれも定めのようなものだ。報われるものは義務でしかない。そういうものだということをハッキリ心得ておく方が何より無難であろう。老いては子に従え、と古い諺が庶民生活の中では長く生きてきたものだ。
「うちの伜も私の代りが立派につとまるようになりましたよ」
というような伜自慢からはじまって、いつのまにやら伜や伜の女房の尻にしかれてしまう。昔から一般にそんなものだ。むしろ昔の老人の方がアキラメがよかったと云えよう。昔の老人の方が「老いては子に従え」という忍従の原理を心得ておったと云えよう。
終戦後の特異な社会現象として「親を捨てる子」が多いというが、昔から子は親を捨てがちであったが、親の方が忍従した。こういう関係の場合は、弱い方が忍従する方が難をさける自然の良策である。終戦後は、子供の親扱いも荒ッぽくなったかも知れんが、親が忍従を忘れ、民主主義的になりすぎたオモムキの方が強いのではないかと私は思う。
夢声老の如く日本一の流行児にしてお嬢さんがオヨメに行くと天涯の孤児感に襲われて錯乱あそばし養老院志願を一念発起するに至られるという、これがマトモで素直で健全な老人のアキラメの心境と称すべきであるかも知れない。
しかし、夢声老とちがって、無職で無収入で毎日の生活をそッくり子供にオンブせざるを得ない親にはモッと複雑なヒガミがある。彼らの一生の生活史というものがヒガンだ鏡にうつされて再生しその部分だけ強められて、現実の生活感情を規定する。
親子の関係ぐらい深刻なものは有りやしない。他人同志の関係には儀礼的な距てがあるが、親子肉親の関係は全然ムキダシのハダカのツキアイだから、いったんもつれてしまうとこれぐらい深刻な関係はない。親子の愛情にしろ憎悪にしろ一生のそして生まれながらの生活史の奥底の根ッ子にからんでいるのだから憎しみの一々に尤も千万な深い根が当然あるべきものだ。親が子を殺したり、子が親を殺すのは、他人同志で殺し合うよりも、もっと当り前で平凡な、そして悲痛な理窟が揃っている性質のものである。親子の関係ぐらい「我慢に我慢を重ねている関係」はないであろう。
本質的には非常に暗い関係であるが、親子の愛情や、義務感や、半ば本能的な忍従などが、その暗さを救いもするし、積極的に楽しいものとする支えともなっている。その支えがくずれてしまえば、そのハタンはどうにも救いようがないのは昔からのことで、今にはじまったことではない。他人同志の関係は元々儀礼という加工された上のものだからヒビがわれても妥協の余地があるが、肉親の関係はもっと骨をさすほど決定的に痛烈なものだ。
この戦争も、子を育てる親の愛情を破壊しはしなかった。子供は空腹であっても、親の愛情に特に飢えたりヒガまなければならないほどの片手落ちを痛感する理由は少なかったであろう。徹底的にヒガミを植えつけられざるを得なかったのは、子の親のまた親たる老人であった。
彼らは配給量という肉体的で絶対的な階級制度に首の根ッ子に縄をつけて引きずりまわされて、甘やかしようのない深傷をうけた。老いては子に従えというアキラメと忍従の心境は、子供自慢の心境などから発して自発的に生まれ深まるところにそれに耐える力もあるのだが、配給量という甘やかしようのない規定で「お前はゴクツブシである」という抜きさしならぬ審判を押しつけられては、ヒガマざるを得ない。自発的な忍従やアキラメの代りに、親の恩を売り物にし、不信をのろうイヤガラセの心境の黒雲の如くに生じたのはフシギではなかろう。
戦後特に子にすてられる親の問題が多くなったのは民主主義が子に味方して親を棄てやすくしたというよりも、親の方に忍従の心境がうすれてヒガミが多くなり、親子のマサツが多くなったせいだろうと私は思う。
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遺産相続法が変って全ての子供に平等になったので、長子が親の養育の責任をもつ風がうすれ、全部の子で親をタライ回しに養育する風が生まれたそうであるが、そういうタライまわしは戦前にもあった。私の身辺にだって、そういうタライ回しは戦前にも普通見かけることであった。
日本の親の多くは元々子供に相続させるような遺産という程の物を持たないのが主であったといえよう。
親のタライ回し、結構ではないか。あまりに義務的だ、というのは当らない。親を養う子の心境は義務的なものと定めて、高く多く望まない方が平穏無難と言うべきだ。高く多く望むためにむしろハタンがくるのである。
こう言うといかにも親にワリがわるいようだが、どの子供もいずれは親になってワリがわるくなるだけの話で、人間はそういうものだと考える方が穏当である。
夢声老のように生活力旺盛な人が養老院志願を一念発起するというのは、いかにもヒガンで世をすねるものの如くで、また御当人も多分にその自虐味を玩弄していられる心境かも知れないが、実はその方が老人にとって素直で必至の心境ではないでしょうか。捨てられる、という心境は、金銭によるものでもないし養われたり捨てられたりする事実によるわけでもない。
人間の老後というものは、「捨てられる」ような孤独感がその絶対の性格と申すものではあるまいか。
川崎君のように一生を孤独で通した人にも、老後という特別な孤独を避けるわけにいかないものだ。
老後という一つの「不安」といってもよかろう。老後という年齢の必然的な不安であり、衰弱であり、思想でもあろう。
しかし、昔から、老後というものは、そういたわられたものではない。停年制というような退職規定も老人の側から云えばアンタンとして残酷きわまる規定で、底をわれば配給量と同じように切なく厳しいものである。
しかし「功なり名とげて」停年の境界線を目標に人生の設計をたてる。設計という建設作業の目標線となっているから、老人の心境は甘やかされることができる。ただ甘やかされることができる、というだけの相違で、昔から人生は常に若い人間の物であり、老人の物ではなかったのである。甘やかされることができるから自発的に子に従う忍従もアキラメも穏やかに育ちうるのであろう。
所詮いつの世も老人にとってはワリのわるいのが当然の人生であるが、それ故老後に備える設計が考えられ用意されるのは当然であろう。この戦争は多くの人々の設計を根本的にくつがえしてしまった。若い人は取り返せるが、取り返しようのない老人たちが最も深刻なデカダンスに陥る可能性があった。帝銀事件などはそのデカダンスによる悲劇の一ツとも云えよう。罪の元兇が戦争であったことは、ここでもハッキリ指摘できよう。
何十年がかりの粒々辛苦の設計をくつがえされれば、老人がヤケクソになるのも自然であろう。要するに市井人の必死でつつましやかな設計をくつがえすような戦争ほど呪うべきではないかと云うべきであろう。
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しかし、何から何まで安直に戦争に罪をきせるのは、これまた当らない。
戦争というちょうど手ごろな境界線のような手がかりがあるから、何もかもアプレゲールで片づけるのは、安直に好都合かも知れんが理に合ったことではない。
老人というものは、戦争がなくたって、いつの世でも「現代」というものに捨てられるものなのだ。云うまでもなく若者たちの物である。
老人たちは「昔はよかった、何もかも」と云う。昔の芸人は立派なのがいた。今の芸人の歯のうくような芸なんて、見てもきいてもいられやしない、という。しかし、昔の芸人の芸が今よりもしッかりしていたわけではないのである。昔は彼も「現代」に生きていた。彼自身の現代に生きていたのだ。現代とは、その時代のあらゆるものと共に生き、共に泣き、共に笑っているということだ。相共に本当に血の通った生活をしているということである。
今の芸人がダラシなくなり、歯のうくような芸になったわけではなくて、彼の現代がすでに終って、今の現代に彼が共に生きていなくなってしまったのである。
老人にとって現代風俗が怪しくてバカゲて見えるのは当然だ。現代は常に変りつつある物であるし共に生き、共に泣き、共に笑っている人の物でしかない。
アプレゲールという安直な定義にたよったのは、日本人の人生に対処する目が浅かったせいであろう。その安直な定義は、ひいては今日のアサハカな逆コースを生むキッカケにすらなったようなものである。
親を捨てる子、の現象も決してアプレゲールと限ったものではない。いつの世にも親は子に捨てられる危険性を多分にはらんでいたものだ。
しかし、戦後特に子に捨てられる親が多くなった一因として、親の方にヒガミやヤケが生まれ、忍従やアキラメを失った事実を指摘しうるという点に於て、これこそは戦争の生んだ特異現象の一ツであり、あるいは確かにアプレゲールと称してよろしいものではないかとも思う。
そしてその責は老人の側にはなくて、どう考えたって戦争にある。むろん遺産相続法の責任でもなく、子供たちの責任でもない。老人たちのつつましくて必死な設計をくつがえした戦争にだけ罪があるのだ。もっとも、その他の理由による親子のイガミアイならば、それは昔からのもので、戦争のせいではなく、また、いつの世にも絶える見込みのなさそうなことでもある。
底本:「坂口安吾選集 第十一巻エッセイ2」講談社
1982(昭和57)年9月12日第1刷発行
底本の親本:「週刊朝日 春季増刊号」
1952(昭和27)年3月24日発行
初出:「週刊朝日 春季増刊号」
1952(昭和27)年3月24日発行
入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース
校正:富田晶子
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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