風ばか
豊島与志雄
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一
──皆さんは、人間の身体は右と左とまったく同じだと、思っていますでしょう。右と左とにそれぞれ、眼が一つ、耳が一つ、鼻が半分、口が半分、手が一つ、足が一つ……。まんなかから切ってみると、右と左とは、まったく同じように見えます。ところが、よくしらべてみると、ずいぶんちがっています。いくら神様でも、生きた人間の身体を、右と左とまったく同じにこさえることは、おできにならなかったのでしょう。自分の顔やひとの顔を、よく見てごらんなさい。眼でも耳でも、右と左では、その大きさや形がみなちがっています。右と左と同じなものは、けっしてありません。手なんか、大きさも長さもちがうし、力もちがいます。ことに、胸の中や腹の中になると、右と左とはひどくちがってるものです。それですから、たとえば、目かくしをして、広いところを、歩いてみてごらんなさい。けっしてまっすぐに歩けるものではありません。自然に、右か左かにまがってしまいます。人間は、どんなりっぱな身体のひとでも、右と左とはかたわです……。
そういう話を、先生がなさいました。
なるほど、よく見ると、眼でも耳でも、右と左とは同じ形ではありません。
おかしいな、と子供たちは思いました。
が、なおおかしいのは、目かくしをしてまっすぐに歩けないことでした。自分ではまっすぐに歩いてるつもりでも、いつのまにか少しずつ、右か左かへまがってしまいます。
「みんなかたわだ」
「なに、かたわなもんか」
「じゃあ、野原にいってやってみよう」
「ようし。みんなこいよ」
二
広いたいらな野原でした。春さきのことで、日がうららかにてっています。芝草が青々とのびだしています。蝶がとんでいます。空には高く、雲雀がないています。
みんなでじゃんけんをして、勝ったものが一番先に、ハンケチで目かくしをして、まっすぐに歩きだしました。ほかの者は立って見ています。
目かくしをした者は、まっすぐに歩いてるつもりですが、やがて、右か左かに少しずつまがっていきます。それを見ると、みんなはわっとはやしたてました。けれど、笑った者もみな、自分の番になると、やはりまっすぐには歩けませんでした。
「こんどは僕だ、見ておれよ」
元気よくそういって、マサちゃんという子供が、目かくしをして、歩きだしました。
広い野原の中です。オイチニ、オイチニ……と調子をとってまっすぐに歩いていきます。
遠くなるにつれてだんだん小さく、帽子の下に白いハンケチの目かくしをしたその後姿が、まるで人形のようで……そしてふしぎにも、まっすぐに歩いていきます。
だいぶ行ってから、くるりと向きなおって、目かくしを取って、
「どうだい」
見ていた子供たちは、はじめびっくりして、ぼんやりして、それから急に手をたたいてほめました。
マサちゃんはもどってきました。
「君たちは、ただまっすぐに歩こうとばかりしてるからだめだ。自分のくせを知って、練習しなくちゃいけないよ」
そこでみんなは、マサちゃんに教わって、まっすぐに歩く練習をしました。まず、自分は右か左かに、どのくらいまがるくせがあるか、それをたしかめて、それから目かくしをした時は、それだけ逆にまがる気持で歩く……。ところが、それがじっさいはひどくむずかしくて、なかなかうまくいきませんでした。
三
日が西にかたむいて、森のかげがうすぐらくなりはじめました。風がでてきました。
「今日はこれだけにしておこう。僕がも一度歩いてみせるから、よく見ておけよ」
マサちゃんは目かくしをして、さいごにも一度見せてやるというようすで、歩きだしました。
それが、どうしたのか、少しいってまがりだしました。
一かたまりになって見ていた者たちは、すぐに声をたてました。
「まがった、まがった……」
マサちゃんは目かくしを取りました。
「ほんとにまがったのかい」
「まがったとも。いばってたくせに、なーんだい」
マサちゃんはくやしがりました。そしてまたやりなおしましたが、やはりうまくいきません。
「ああわかった。風が吹いてるからいけないんだ。よし、こんどはうまくやってみせる」
だんだんひどくなって、横から吹きつけてくる風を、マサちゃんは不平そうにながめて、それから決心して、目かくしをして歩きだしました。
自分の足のくせと、横から吹いてくる風の力とを、マサちゃんは頭において、けんめいにまっすぐに歩こうとしました。風は時をおいてさーっと吹きつけてきました。
──風にまけてなるものか。
マサちゃんは歯をくいしばって、進んでいきました。
「ばかー……」
おや、と思ったが、気のせいのようでした。けれど、またさーっと吹いてくる風が、顔をなでて、目かくしのハンケチの下の耳もとで、
「ばかー、ばかー……」
マサちゃんはがまんしました。
それでも風は、また吹きつけてきて、耳もとで声をたてました。
もうしんぼうができませんでした。いきなりどなり返してやりました。
「ばか、ばかー」
風もどなりました。
「ばかー、ばかー」
マサちゃんも声をはりあげてどなりました。
「ばか、ばかー」
見ていた子供たちはびっくりしました。かけていって、マサちゃんをひきとめました。が、マサちゃんは、目かくしを取られても、風が吹いてくると、その方へ向いてどなりました。
「ばかー、ばかー」
みんな心配しました。マサちゃんが気狂になったのだと思いました。そしてむりに、家へ連れかえりました。途中でも、マサちゃんは風に向って、「ばか、ばかー」とどなっていました。
四
家にかえって、しずかな室の中におちつくと、マサちゃんはもうどなりもせず、夢からさめたように、きょとんとしていました。
お父さんとお母さんとが、心配そうにマサちゃんの様子をながめました。
「どうしたんですか」とお母さんがたずねました。
マサちゃんは、目かくしをしてまっすぐに、歩きっこをしたことを、話しました。それから風のこと──。
「風が、ばかー、ばかー──とわるくちをいうから、僕も、ばかー……といい返してやったんです」
お父さんは笑いました。
「それは、お前の方がばかだよ。風にさからってもつまらない。風というものは、強くなったり弱くなったり、息をついて吹くから、その中をまっすぐに歩くのはむずかしいよ。木の葉だって、まっすぐに落ちたり、ななめに吹きとばされたりしてるじゃないか」
硝子戸の外には、まだ風が吹いていました。庭のすみにある椎の木の古葉が、一つ二つ散っていました。風に吹かれて横にとんでるかと思うと、風がちょっと息をする間、まっすぐに落ちます。かと思うと、またさーっと風がきて、葉はひらひらと吹きとばされます……。
「風って、息をするんですか」とマサちゃんはいいました。
「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」
「なんの息?」
「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」
「ただ、息だけ?」
「息だけだよ」
「ばかな奴だな」
お父さんは声たかく笑いました。マサちゃんもお母さんもいっしょに笑いました。
硝子戸の外には、椎の葉がときどき散っています。小鳥が鳴いています。夕方の赤い日が空にさしています。そして風は、息をついてはさーッさーッと吹いています……。
「ばかな風だな」
マサちゃんははればれと笑いました。
底本:「天狗笑い」晶文社
1978(昭和53)年4月15日発行
入力:田中敬三
校正:川山隆
2006年12月31日作成
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