横綱
太宰治



 二、三年前の、都新聞の正月版に、私は横綱男女みながわいて書いたが、ことしは横綱双葉山に就いて少し書きましょう。

 私は、角力すもうに就いては何も知らぬのであるが、それでも、横綱というものには無関心でない。或る正直な人から聞いた話であるが、双葉山という男は、必要の無いことに対しては返辞をしないそうである。お元気ですか。お寒いですね。おいそがしいでしょう。すべて必要の無い言葉である。双葉山は返辞をしないそうである。

 何とか返辞をしろ、といきり立ち腕力に訴えようとしても、相手は、双葉山である。どうも、いけない。

 或るおでんやの床の間に「忍」という一字を大きく書いた掛軸があった。あまり上手でない字であった。いずれ、へんな名士の書であろうと思い、私は軽蔑して、ふと署名のところを見ると、双葉山である。

 私は酒杯を手にして長大息を発した。この一字にって、双葉山の十年来の私生活さえわかるような気がしたのである。横綱の忍の教えは、可憐である。

底本:「太宰治全集10」ちくま文庫、筑摩書房

   1989(平成元)年627日第1刷発行

   1998(平成10)年615日第4刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集第十巻」筑摩書房

   1977(昭和52)年225日初版第1刷発行

初出:「東京新聞 第四百六十六号」

   1944(昭和19)年113日発行

入力:増山一光

校正:土屋隆

2006年127日作成

2016年712日修正

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