深夜の電話
小酒井不木
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第一回
一
木の茂れば、風当たりの強くなるのは当然のことですが、風当たりが強くなればそれだけ、木にとっては心配が多くなるわけです。
少年科学探偵塚原俊夫君の名がいよいよ高くなるにつれて、俊夫君を妬んだり、俊夫君を恐れたりする者が増え、近頃では、ほとんど毎日といってよいくらい、脅迫状が舞い込んだり脅迫の電話がかかってきたりします。
たとえば俊夫君がある事件の解決を依頼されると、解決されては困る立場の者から、脅迫状を送って俊夫君に手を引かせようとします。あるいは俊夫君がある事件を解決して多額の報酬を貰うと、それを羨んで、金員を分与せよなどという虫のいい要求を致してきます。
俊夫君は、それらの脅迫状や脅迫電話を少しも気にはしておりませんが、俊夫君の護衛の任に当たる私は気が気ではありません。皆さんは多分、私が「塵埃は語る」という題目の下に記述した事件を記憶していてくださるでしょうが、あの事件があって以来、私はできるだけ注意して、俊夫君と一刻も離れないように警戒しているのであります。
まったく、こんなに心配が増しては、有名になるのも考え問題ですが、それかといってどうにも致し方がありません。ことに、解決を望む人々が事件の解決を見て喜ぶ有様に接するたびごとに、私は、俊夫君がいかなる場合にも成功するよう祈ってやまないのであります。
これから、私が皆さんにお伝えしようとする話も、いわば俊夫君の名声の高いのが基となって起こった奇怪な事件です。世の中にはずいぶん物好きな人間もありますが、この事件に出てくる人物のような人間に出会ったことは初めてです。いや、こんな前置きに時間を費やすよりも、早く事件の本筋に入りましょう。
それは年の暮れも差し迫った十二月下旬のことです。諸官庁や諸会社のボーナスが行き渡って、盗賊たちが市中や郊外を横行しようとする時分のある夜、ふと私は電話のベルに眼をさましました。見ると、隣のベッドで寝ている俊夫君が、すでに起きようとしておりましたので、
「まあ、寝ていたまえ、僕が出るから」
と言いますと、俊夫君は、
「それじゃ、一緒に行こう。こんな時分にかかってくる電話は、どうせ僕に用があるに違いないから」
で、二人は、寝衣の上に外套を羽織って事務室に行きました。かねて私は、こういう場合の準備として、寝室に卓上電話を設けて、寝ていながら話せるようにしてはどうかと、俊夫君に勧めるのでしたが、俊夫君は、
「僕に用事のある人はみな重大な立場にいるのだから、寝ていて話すべきではない」
と言って聞き入れません。私はいささか寒さに身震いしながら、受話器を取りあげました。
「もしもし、あなたが俊夫さんですか」
と言ったのは、たしかに男の声です。
「いいえ、僕は大野というものです。俊夫君の代理です」
「では恐縮ですが、俊夫さんに出てもらってください。重大事件ですから」
ここでちょっと申しあげておきたいのは、私たちのところにある電話は、受話器が二つに別れていて、聞くだけは二人で聞けるように装置してあります。俊夫君は、先方のこの言葉を聞くなり、直ちに私と代わって、
「僕、俊夫です。あなたはどなたです?」
「ああ、俊夫さんですか。たいへんです。今、こちらに人殺しがあったのです」
「何? 人殺しが? 誰が、どこで殺されたのです?」
「殺されたのは東京じゅうの人が誰でも知っている有名な人です」
「誰ですか?」
「誰だかあててごらんなさい」
この言葉を聞くなり、俊夫君は私と顔を見合わせました。重大な殺人事件を報告するに、「当ててごらんなさい」とは、たしかにこちらを侮辱した言い方です。俊夫君はしばらくのあいだ返事することを躊躇しました。と、突然、
「あはははは」
と、先方の男は笑いだして、
「俊夫君、いかに君でも、こればかりは分かるまい」
がらりと変わった言葉の調子に、俊夫君はむっとしました。
「何? 君は僕を侮辱するのか」
「まあまあ、そんなに怒るなよ。君を有名にしてやろうと思って、わざわざこの夜中に電話をかけたのだよ。この事件を解決するなら、君は、日本は愚か、世界一の探偵になれるぜ。しっかりしてくれよ。いいか」
「君は誰だ?」
「俺か、俺は、君たちのいわゆる犯人なんだ。東京じゅうの人が誰でも知っている、その有名な人を殺した犯人だよ。分かったかい。だから、この俺を捕まえれば、君は世界一の名探偵になれるということだ。だが、おそらく、君の腕じゃ俺を捕まえることはむずかしかろう」
「何?」
「まあ、そのように憤慨するなよ。もう四五時間のうちに、君のところへ、その殺人事件の報告が行くよ。そうしたら、この俺を一生懸命に捜しにかかるんだよ。分かったかい、しっかりやれよ。じゃ、さようなら」
こう言って、先方の男は電話を切ってしまいました。
二
俊夫君は、このからかい半分の電話をも、真面目に解釈して、すぐさま、中央局に電話をかけ、今の電話がどこからかかってきたかを尋ねました。するとそれは、「小石川、八八二九」だと分かりましたので、すぐさま、その番号を呼びだしました。
が、どうしても通じませんでした。
そこで、今度は、その番号の持ち主が誰であるかを検べました。すると、それは小石川区春日町二丁目の「近藤つね」という美容術師であることが分かりました。
「とにかく、根気よく呼びだしてみよう」
こう言って俊夫君は、約五分おきに呼びだしました。そうしておよそ二時間を経た午前三時十分頃、やっと、こちらの呼びだしに応じました。電話口へ出たのは女です。
「もしもし近藤さんですか」
と、俊夫君は言いました。
「今から二時間ほど前に、あなたの方から、こちらへ電話がかかりましたが、あなたのところに何か事件がありましたか」
こう言ってさらに俊夫君は、こちらの住所姓名などを詳しく語り、先刻そちらから、男の人がこれこれという電話をかけたが本当であるかどうかを尋ねました。
すると、先方の女の返答は意外でした。その返答の要点はこうなのです。
電話口へ出た女は近藤つねその人であるが、今晩一時少し前に、覆面の盗賊が裏口の戸をこじあけて入ってきたので、女弟子とともに悲鳴をあげて逃げだそうとすると、盗賊のために、二人とも苦もなく捩じふせられて、麻酔剤を嗅がされ、そのまま人事不省に陥ったが、やっと今、電話のベルで眼がさめたところだというのでした。
「もし、こちらから、あなたの方へ電話をかけた男があるとすると、その盗賊でなかったかと思います。こちらには、人殺しも何もございません。女弟子は、まだ、麻酔剤のために、すうすう眠っております」
言う声が多少苦しそうだったので、俊夫君は、もし何か紛失したものがあれば、警察へ届け出るよう注意して、電話を切りました。
「兄さん、もう寝ようよ」
とつぜん、俊夫君がこう叫びました。
「こういう時は、考えていたとて無駄だ。それよりも事件の発展するのを待とうよ」
「では、君は事件が発展すると思うのか。あるいは単なる悪戯ではないだろうか」
「人殺し云々は嘘かもしれぬが、近藤という家へ覆面の盗賊の入ったのは事実らしい。それを取り調べるだけでも面白いのだ」
こう言って、俊夫君はさっさとベッドの中へもぐり込みました。そうしてすぐ寝入りました。しかし私は、なかなか寝つかれませんでした。
果たして東京中の人が誰でも知っている有名な人が殺されたのであろうか。もしそうとすると、それは誰であろうか。また、何のために犯人は電話をかけてよこしたのであろうか。などと色々のことを先から先へ考えてゆくと、眼は冴えるばかりでした。
そのうち、うとうととしたかと思うと、来訪者を告げるベルの音に、はッとして私は飛び起きました。俊夫君も同じく飛び起きました。もう夜はすっかりあけておりました。
来訪者というのは、俊夫君が、「Pのおじさん」と呼ぶ、警視庁の小田刑事でした。私たちは思わず顔を見合わせました。
「Pのおじさん!」
と俊夫君は、小田刑事が席に着くなり言いました。
「小石川区春日町の殺人事件で来てくださったでしょう?」
「え? どうして君は知っている? では、君の方へも通知があったか?」
と、小田刑事は驚いて言いました。
「別に通知というほどのことではないのですが、ちょっと、変なことがありました。それはあとでお話ししますから、まず、用件を聞かせてください」
小田刑事は語りました。
「ゆうべ、僕は宿直だったが、二時頃に電話がかかって、春日町一丁目の空家に人が殺されているから、すぐ出張してくれというのだよ。そのまま先方は電話を切ってしまったので、たとい悪戯であるとしても、捨ててはおけぬので、二人の部下をつれて、行ってみると果たして空家があり、中へ入ると、やっぱり本当だったよ」
「殺されたのは誰です?」
「殺されたのは、T劇場の女優川上糸子さ」
「ええッ、川上糸子が?」
俊夫君の驚いたのも無理はありません。川上糸子はかつて高価な首飾りを盗まれて、俊夫君に捜索を依頼し、俊夫君は犯人を明るみへ出すことなしに、首飾りだけを取りかえしてやったからであります。川上糸子の名は東京じゅうの人は誰でも知っております。だから、電話をかけた男が、そう言ったのは当然のことです。
小田さんは頷きながら続けました。
「ざっと調べたところによると、川上糸子はどうやら毒殺されたものらしい。そうして多分、他所で殺されて、空家の中へ運ばれたものらしい。が、それよりも、奇怪なことは、仰向けに横たわった胸の上に一枚の名刺が置いてあったことだよ。
その名刺に印刷された名を僕は知らぬが、ただその名刺の上の右の隅に『進呈』という文字が書かれた左の上の隅に何と君、『塚原俊夫君』と書かれてあるではないか」
私たちはまたもや顔を見合わせました。
「つまり、川上糸子の死骸を君に進呈するという意味なのだ。そこで僕は、少なくとも、この事件は君に多少の関係を持っているだろうと考えて、電話で総監の許可を得て一切の捜査を君に依頼することにした。君もそれには異議はないだろう」
俊夫君は嬉しそうに頷きました。
「どうも有り難うございました。全力をつくしてやります。で、その名刺をお持ちでしたら見せてください」
こう言って俊夫君はふるえる手を差しだしました。
第二回
一
小田刑事はポケットの中に手をさしこんで一枚の紙片を取りだし、俊夫君に向かって言いました。
「これが、女優川上糸子の死骸の上に、俊夫君に進呈と書いてあった名刺だよ」
こう言って、小田刑事はその紙片を裏がえして見ましたが、たちまち、
「おやッ!」
と叫びました。それもそのはずです。名刺の裏も表も真っ白で、何にも書いてはなかったからです。
「おかしいぞ!」
言いながら、小田刑事は、さらにポケットの中に手を入れてしきりに捜しましたが、求めるものはありませんでした。
「Pのおじさん」
と、俊夫君は叫びました。
「やっぱり、それが死骸の上にあった名刺だったのでしょう。ちょっと見せてください」
こう言って、俊夫君は、その名刺様の白紙を受け取りました。
「これは隠顕インキで書いたものに違いありません。あなたがご覧になった時は、たしかに文字が書かれていて、それが一定の時間を経て消えたのです。ちょっと待っていてください」
呆気にとられた小田刑事を残して、俊夫君は、その紙片をもって次の部屋へ行き、何やらしきりにやっておりましたが、やがて出てきて、小田刑事に渡した紙片の上には、「頭蓋骨」の絵が、赤い色の線で書かれてありました。
「今、ある薬品をかけてあぶりだしたら、こんな絵があらわれたのです。これについて何か心当たりがありませんか」
俊夫君が、こう言い終わらないうちに、小田刑事の顔色は変わりました。
「やっぱり、あいつらの仕業か」
と、小田刑事は吐きだすように言いました。
「え?」
と、俊夫君は、小田刑事の顔を、つよく見つめました。
「実はねえ、俊夫君」
と、小田刑事はいくぶん声をひくめました。
「まだ世間にはむろん知られていないが、この十日ばかり前に、上海に根城をもっているある誘拐団が東京へ入りこんだ形跡があるから、注意しろという内報が、警視庁へきたのだよ。その団体のマークがこの赤い線で書いた頭蓋骨で、彼らは内地の女を誘拐しては、不思議な方法で上海へ連れてゆくのだ。
その団体は主として内地の人間から成りたっているらしいが、支那人などをも手先に使い、のみならず、思いもよらぬところに連絡をつけて、実にたくみに犯罪を行っているらしい。この名刺が、川上糸子の死骸の上に置いてあったのを見ると、彼女はおそらく誘拐されるのを拒んで、そのために殺されたのかもしれん。いや、何にしても、えらい事件が起こったものだ」
俊夫君はじっと、その話を聞いておりましたが、何思ったかとつぜん尋ねました。
「川上糸子の死骸は今どこにありますか」
「君に現場を見せるつもりで、春日町一丁目の空家にそのまま置いてあるよ」
「誰か番をしておりますか」
「部下の刑事が二人番をしている」
「あなたが役所に引きあげられたのは何時頃でしたか」
「四時頃だったと思う」
「それから今まで、ずっと刑事さんたちが番をしているのですね?」
「そうだ」
「そりゃ、愚図愚図しておれません」
「なぜ?」
それには答えないで俊夫君は私に向かって言いました。
「兄さん、すぐ自動車を呼んでくれ。そうして出かける準備をしてくれ」
私は電話をかけてタクシーを呼びました。それから私たちは、例のごとく出発の用意をしました。
ほどなく自動車がきましたので、三人はそれに乗って、早朝の街を走り過ぎました。寒い風が街頭の木々を揺すっておりましたけれど、私は緊張のために、むしろ身体の熱するのを覚えました。
誘拐団は何のために帝都一流の女優を殺したのであろうか。何のためにわざわざ警視庁へ電話をかけて知らせ、なお俊夫君にあのようなからかいの電話をかけたのであろうか。
これらの疑問を解こうと考えにかかると、頭の中もすこぶる熱してきました。が到底それは、私にはもちろん、俊夫君にとってもまだ解けない謎に違いありません。
俊夫君は小田さんに尋ねました。
「さっき、川上糸子は毒殺されたものらしいとおっしゃいましたが、たしかに毒殺の形跡がありましたか」
「ざっと調べたばかりだから分からぬが、別に血は流れていないし、また絞殺された様子もないから、毒殺だろうと思ったのさ」
「あの名刺には、僕の名と進呈という文字の他に、名刺の持ち主の名が書いてあったようにおっしゃいましたが、それを覚えておいでになりますか」
「さあ、それがさっきから、どうも思い出せないのだ。たしかに今まで聞いたことのない名で、はじめの一字は『山』だったと思う」
「山本信義というのではありませんか」
「あッ、そうだ。きっとそうだった。君はその男を知っているのか」
「知っているどころか、実は先達て川上糸子が首飾りを盗まれたとき、僕は探偵を依頼されて、山本が持っていることを知り、山本の手から首飾りを取りかえしたのですよ。事はいわば内済になりましたが、そのために山本は職を失いました」
「すると、そのことをうらみに思って、その山本というのが、川上糸子を殺し、死骸を君に進呈すると書いたのだろうか」
「さあ、それはどうだかまだ分かりません」
「さっき君は、僕の尋ねる前に、すでに春日町で人殺しのあったことを知っていたようだが、それはどうして分かったのか」
「ああ、そうでしたねえ。それを話す約束でしたねえ」
そこで俊夫君は、深夜に男の声でからかいの電話のかかったこと、その電話は春日町二丁目の「近藤つね」という美容術師の家からであったこと、美容術師は、一人の女弟子とともに住んでいるが、覆面の盗賊に入られて麻酔剤を嗅がされ、人事不省に陥ったから、たぶん盗賊が電話をかけたのであろうということなどを順序正しく述べました。
「その電話をかけた男の声が、いま君の話した山本ではなかったかね?」
「さあ、山本の声をよく覚えていないし、それに電話の声は普通の声と変わるものだからはっきりしたことは分かりません」
こう言って俊夫君は考えこみました。
二
間もなく自動車は、目的地たる春日町一丁目の空家の前に止まりました。それは街から少し引き込んだところで、建ててからまだ一年はたつまいと思われる平家でありました。
小田刑事が先に立ち、私たちはそれに続いて屋内に入りました。雨戸がたった一枚あけてあるだけでしたから、中は薄暗かったけれど、でも何が起こっているかは、じゅうぶん分かりました。
そこにはまったく意外な光景があらわれていたのであります。
小田刑事が、死骸の番に残しておいた二人の刑事が、ともに猿轡をはめられ、柱にしばりつけられていたのでして、私たちの予期した川上糸子の死骸は、そのあたりに見えなかったのであります。
小田刑事は、思わず「あッ」と叫んで、二人のそばにかけより、二人の縄を解き、猿轡をはずしました。
「僕が想像したとおりだ。兄さん、川上糸子が果たして殺されたかどうかも疑わしいよ」
俊夫君は、私をふりかえってこう言いました。
自由になった二人の刑事は、申し訳がないというような顔つきをして立ちあがりました。
「どうしたというんだ。君たちは。いったい死骸はどうなった?」
と、小田刑事は尋ねました。
二人の刑事が代わる代わる語るところによると、小田刑事が二人を残して、空家を出てからおよそ十分ほど過ぎると、いきなり覆面の二人の男があらわれて、背後からそれぞれ刑事たちを襲い、何か異様なにおいを嗅がされたかと思うと、そのまま気を失い、正気がついて見ると、二人とも柱にしばられ、猿轡をはめられていたばかりでなく、女優の死骸がどこかへ運び去られたというのであります。
「どんな風采の人間だったか分からぬかね?」
と、小田刑事は、怒っても仕様がないと思ったのか、比較的やさしい声で、そのうちの一人に尋ねました。
「顔を包んで、黒い装束をしておりましたから、さっぱり分かりませんでした」
俊夫君は、畳のあげられてある板の上を熱心に捜索しはじめましたが、別に手掛かりになるものは落ちておりませんでした。
「Pのおじさん。川上糸子はどんな服装をしておりましたか」
「洋装で、毛皮の外套を着ていたよ」
「川上糸子だというたしかな証拠がありましたか」
「そりゃ、もう一目ですぐ分かった」
他の二人の刑事も、彼らの前に横たわっていたのは、たしかに川上糸子に違いないと言葉を添えた。
「それではこのお二人に、川上糸子の昨夜からの行動を探ってもらってくださいませんか」
小田刑事は、二人の刑事に意を含めて立ちさらせました。
「俊夫君、一体この事件をどう思う?」
やがて私たち三人になると、小田刑事は、こう尋ねました。
「どう思うって、まだ何とも分かりませんよ。事によると、川上糸子は、本当に死んだのではなく、仮死に陥っただけかもしれません。しかし、それは僕の想像にすぎません」
「これから君は、どういう風に捜索の歩をすすめてゆくのか」
「まず、美容術師の近藤つね方を訪ねようと思います」
「その間に、犯人たちは高飛びしやしないだろうか」
「大丈夫です。もし川上糸子が本当に死んでいたならば、死骸を捨てて逃げないとも限りませんが、仮死に陥ったものとすると、正気に復するのを待って連れて逃げるでしょうし、逃げるにはなるべく目立たぬ工夫をするでしょうから、けっしてその方の手配りを急ぐ必要はありません。それよりも美容術師を訪ねた方がきっと効果があると思います」
こう言って俊夫君は、私たち二人を促し、春日町二丁目に向かって進みました。
第三回
一
春日町一丁目の空家を出た三人──小田刑事と俊夫君と私──は、間もなく、二丁目の美容術師近藤つね方を訪ねました。
「近藤美容院」とガラスに金文字を浮かせたドアを開けて私たちを出迎えたのは、主人の近藤つね女史でありました。さすがに美容術師であるだけに、非常に美しい容貌で、まだ三十歳になるかならぬのように見えました。ただ、その頬に血の気の失せているのは昨夜の事件のためであると想像されました。
俊夫君が簡単に来意をつげると、女史はすぐ私たちを、綺麗な待合室へ案内してくれました。
それから、私たちは、あついお茶の御馳走になりました。俊夫君が午前三時十分頃に電話をかけたときに、まだ麻酔剤のために人事不省だった女弟子も、もうこの時には普通の人になって、お菓子などを運んで出ました。けれども私たちは、もとよりゆっくり腰を落ちつけているわけにはゆきません。で、俊夫君はすぐさま用件にかかって、ゆうべ盗賊の入った顛末を尋ねました。
近藤女史と女弟子とが交々語ったところは、電話で俊夫君が聞いたこと以上にこれという注意すべき点もありませんでした。何しろ恐ろしさが先に立って、しかもすぐ麻酔剤を嗅がされたために、盗賊が一人だったか二人だったかさえ記憶しないということでした。いわんや盗賊は覆面していたので、その人相などはさっぱり分からなかったのです。
「何か盗まれはしませんでしたか」
と、俊夫君は尋ねました。
「いいえ、別に何も盗まれはしなかったようでございます。あなたからお電話をいただいたので、方々を検べましたが、何も失っておりません。それどころか、盗賊は小さなガラス罎を落としてゆきました」
「え? ガラス罎?」
と、俊夫君は熱心に聞きかえしました。
近藤女史は女弟子に告げて、それを取りにやりました。やがて女弟子は一個の小さな緑色ガラスの罎をもってきて、俊夫君に渡しました。
俊夫君は、その罎をすかして見ました。中には一滴か二滴の液体が残っているだけでした。それから俊夫君は罎の表面に貼ってあるレッテルの文字を見ました。それは印刷したレッテルではなくて、西洋紙片に黒インキで、
と書かれてありました。すると、それを見た俊夫君の顔には、例の満足の微笑がただよいました。
「これは、たしかに盗賊が落としていったものですか」
「はあ、うちでは色々の化粧水や薬品を使いますから、はじめは、うちの罎かと思いましたが、よく検べてみると違っております。多分、私たちのどちらかが抵抗したとき、覆面の曲者が落としたものと見えます。ちょうど、私たちの枕もとに転がっておりました」
この時、小田刑事は待ちかねたように、俊夫君に向かって尋ねました。
「その横文字は何という意味かね?」
「これですか、これはゲルセミウムという毒物です。ゲルセミウムという植物の根にある一種のアルカロイドで、アルコールによく溶けます。ストリヒニンと同じく、非常に苦い味を持っていまして、薬剤としては神経痛などに用いられますが、それよりもこの毒は一種の不思議な作用を持っているのです」
「不思議な作用とは?」
「僕は自分で経験したことはないですが、アメリカに、有名なワルトン・ドワイト事件というのがあって、その事件の中心となったのがこのゲルセミウムです。
ドワイトという男が、自分の生命保険金を詐取する目的で、この毒をのみ、死んだように見せかけて、医師をあざむき、死亡診断書をとって保険金を貰い、自分は後に生きかえって、その金で栄華な暮らしをしたということです。それはアメリカの南北戦争がすんで間もない時のことですが、犯罪史上ではかなりに有名な事件です」
「すると、そのゲルセミウムは人間を仮死の状態に陥らしめるのだね?」
「そうです。知覚神経にも運動神経にも強く作用しますから、これを飲みすぎれば死んでしまいますが、適当の分量をのめば、一見死んだように思われて、その実、後に生きかえることができるのです」
「ふむ」
と小田刑事は考えこみました。
「そうすると、あの川上糸子の死体も、殺されたように見せかけただけだろうか」
「さあ、僕は実際に見なかったから何とも言えないのですが、斬られたのでもなければ、絞殺されたのでもなく、しかも死体が紛失したのですから、先刻も、川上糸子が仮死に陥ったのではないかしらと申しあげたのです。ところがこのゲルセミウムの罎を見て、どうやら、僕の推定が確実になったような気がします」
二
先刻から二人の会話を熱心に聞いていた近藤女史は、このとき急に眼を輝かせて尋ねました。
「お話し中を失礼ですけれど、川上糸子さんがどうかなさいましたのですか」
小田刑事は答えました。
「実は、川上糸子がこの先の二丁目の空家で殺されていたのです」
「ええっ!」
と、女史は、思わず大声を出しました。
「川上糸子とおっしゃるのは、あの女優の川上さんのことでしょう?」
「そうです」
「それは何かの間違いではありませんか」
「今このゲルセミウムの罎が発見されたので、あるいは殺されたのでないかもしれません」
「いいえ、それを言うのではありません。殺されたにしろ、殺されたのでないにしろ、その女は、川上糸子さんではなく、もしや人違いではありませんか」
「それはたしかに川上糸子でした」
「でも、川上さんは、いま、伊豆山の温泉にみえるはずです」
これを聞いた俊夫君は、とつぜん口を出しました。
「え? それは本当ですか」
「もとより確かなことは言えないですけれど、実は昨日、川上さんから絵ハガキが来たのでございます。それに、年内は帰京しないと書いてありました」
こう言いながら、近藤女史は立ちあがって奥へ行き、間もなく一枚の絵はがきを手にして入ってきました。俊夫君は、それを受け取って検べました。
「なるほど、一昨日出した手紙ですねえ。それにこれはたしかに川上糸子の筆跡です。川上糸子とあなたとはお近づきなのですか」
「はあ、川上さんは一週間に一度か二度は必ず美容術を受けに見えます。近頃は銀座あたりに二三美容院ができましたけれど、あちらは知った人によく会うので、うるさいと言って、こちらへお見えになりました」
「最後に川上糸子がこちらを訪ねたのはいつでしたか」
「伊豆山へ行かれる前日でしたから、今から十日ほど前です」
「伊豆山からハガキが度々きましたか」
「いいえ、それ一本きりです」
俊夫君はしばらくじっと考えてから言葉を続けました。
「この頃中、誰か川上糸子のことを聞きにきた者はありませんか」
すると、近藤女史は大きく頷きました。
「そうおっしゃれば、四五日前に、川上さんと同じ年輩ぐらいの人が、美容術を受けに来て、川上さんのことを色々尋ねておりました。でも一体に女の人は他人のことを聞きたがりますから、その時は、別に怪しいとも何とも思っておりませんでした」
「どんなことを尋ねましたか」
「どんなことといって、はっきり思い出せませんが、根掘り葉掘り色々のことを聞きました」
「その女はどんな風をしていましたか」
「わたしはやっぱり女優か何かでないかと思いました」
俊夫君は立ちあがりました。
「Pのおじさん、こうなっては、何より先に、川上糸子が、伊豆山にいるかいないかを確かめなければなりません」
こう言って絵ハガキを見て、
「伊豆山の相州屋ですね。これから僕たちは警視庁へお供しますから、相州屋へ長距離電話をかけてください」
三
近藤美容院の電話を借りて、私がタクシーを招くと、ほどなくやってきましたので、私たちは近藤女史とその女弟子に別れを告げて、警視庁に急ぎました。
目的地に着くと、私たちは、先刻春日町の空家で柱に縛りつけられていた刑事の一人に出迎えられました。
「どうだった、川上糸子の家を訪ねたかね?」
と、小田さんは尋ねました。
「はあ、訪ねました。ところが、川上糸子は十日ほど前から伊豆山へ行って留守だと留守番の婆やが申しました」
私たちは思わず顔を見合わせました。
「それでは、あとで話をゆっくり聞くとして、これからすぐ伊豆山の相州屋へ電話をかけて、川上糸子がいるかどうか、もし出立したとすると、いつ相州屋を出たか聞いてくれたまえ」
刑事が奥の方へ去ると、私たちは小田さんの部屋に案内されました。私たちは、椅子に腰かけて、はじめてゆったりした気持ちになりました。警視庁は、普通の人にとっては、気の落ちつかぬところかもしれませんが、私たちは度々ここへ来て、まるで自分の家のような気がしているので、早朝からの気づかれを休めることができました。
電話の知らせを待つ間、俊夫君はPのおじさんと、今後の捜索の方針などについて語りあっていましたが、私は眼を閉じて、今回の事件について考えてみました。
が、考えれば考えるほど分からなくなりました。川上糸子の死体が奪われるし、その死体は本当の死体ではなく仮死の状態にすぎなかっただろうというのだし、しかも当の川上糸子は伊豆山へ行っているはずだし、何のことやら、いっこう分からなくなりました。
無論、川上糸子は伊豆山から帰ったのであろうが、そもそもこの事件の中心なるものが、どこにあるのかさっぱり見当がつきませんでした。
ところが、事件はさらにいっそう分からなくなったのであります。というのは、伊豆山へ電話をかけにいった刑事が、およそ二十分ほど過ぎて帰ってきて、小田さんに次のように語ったからです。
「川上糸子はまだ相州屋に滞在していて、しかも一昨日から気分が悪いといって床に就いているそうです」
第四回
一
女優川上糸子が、伊豆山の相州屋に滞在中であると聞いた時、俊夫君と小田刑事とは、互いに顔を見合わせて、さすがにしばらく呆然たる有様でした。まことに無理もありません。川上糸子はゆうべたしかに春日町の空家に、たとえそれが仮死であるとしても、死骸として発見されたのであるのに、伊豆山の相州屋では、一昨日の晩から気分が悪いと言って、床に就いているというのであるから、もし伊豆山に果たして糸子が臥床中であるとすると、その糸子がにせ物であるか、あるいは春日町の空家で発見された糸子がにせ物でなくてはなりません。
「どっちがにせ物だろうか」
と、小田刑事は俊夫君に向かって尋ねました。
「むろん、いま相州屋に寝ているのがにせ物です」
と、俊夫君はきっぱり答えました。
「え? どうして分かる?」
「死に顔や寝顔まで、にせ物はまねことができぬはずです。Pのおじさんは、春日町の空家にいた女の死に顔を見て、たしかに川上糸子だと判断なさったでしょう。だから、それが本当の川上糸子だったのです。
それに、悪漢たちは、川上糸子が死んだということを、警察の人に見せたかったのです。そうして、さらにその死骸を隠して、わざと事件を紛糾させたかったのです」
「何のために?」
「さあ、それはよく分かりませんが、あるいは単に、彼ら誘拐団の威力を示して、警察をからかうつもりだったかもしれません」
「君のところへ電話をかけたり、糸子の死骸の上に君宛ての名刺を置いたりしたのも、やはり君をからかうためだったろうか」
「無論そうでしょうが、僕はその点がまだはっきり理解できません。僕をからかうのが不利益であることぐらい、彼らも知っているはずです。だから、僕のところへ電話かけたり、僕宛ての名刺を置いたりしたのは、果たして彼ら誘拐団の本意であるかどうか疑わしいと思います。
……が、それはとにかく、これからすぐ熱海警察署へ電話をかけ、相州屋の川上糸子を監視して逃がさぬよう告げてください。僕はこれから、兄さんと二人で伊豆山へ行き、その糸子のにせ物に会ってこようと思います」
この意外な言葉に、私はもちろん、小田さんもいささかびっくりしました。
「俊夫君、本当に伊豆山へ行くつもりか」
と、私は尋ねかえしました。
「そうよ、兄さん。僕は久しぶりに旅行がしたくなった。これからすぐ東京駅へ行こう。今夜は帰れないかもしれないから、うちへ電話をかけておいてくれ」
「こちらは、どういう手配をしたらいいだろうか」
と、小田さんは尋ねました。
「糸子のにせ物が相州屋にいる間は、誘拐団は逃げはしますまい」
「君、本当に、それは糸子のにせ物だろうか」
「にせ物でなくて、本物だったら何も心配するには及びません。先刻、近藤方での話によると、四五日前に川上糸子と同じ年輩の女優らしい女が、美容術を受けに来て、色々糸子のことを尋ねたということですから、伊豆山にいるのは、多分その女だろうと思います」
俊夫君は、皆さんもご承知のとおり、いったん言いだしたらけっしてあとへは引きません。また、俊夫君が伊豆山までわざわざ出かけるについては、何か目的があるに違いありません。で、私たちは、小田さんに別れをつげて東京駅に向かいました。
小田さんに別れるとき、俊夫君は、
「僕が伊豆山へ行くということを、熱海の警察へ話しておいてください」
と言いました。
二
冬とはいえ、風がなく、空は麗らかに晴れ渡って、まるで春のような暖かい日でありました。けれども、汽車の窓から見る山野の色は、さすがに荒涼たるもので、ところどころに小家のように積んである新藁の姿は、遠山の雪とともにさびしい景色の一つであります。
久しぶりの旅行なので、俊夫君は窓の方を向いて、移りゆく風景を、珍しそうに眺めておりました。
大船駅を過ぎて、相模の海が見えるあたりは、東海道線のうちでも絶勝の一つに数えられます。源実朝は、
箱根路をわが越え来れば伊豆の海や
沖の小島に浪の寄る見ゆ
という名吟を残しましたが、伊豆をとりかこむ海の風光は、相模の海にしろ駿河の海にしろ、常にえもいわれぬ美しさを呈しております。皆さんは、『太平記』の中の俊基朝臣の「東下り」の条をお読みになったことがありましょう。
「竹の下道行きなやむ足柄山の峠より、大磯小磯見下ろせば、袖にも浪はこゆるぎの、急ぐともはなけれども……」とある。大磯あたりの海岸は、紫の浪が間断なく打ちよせて、都の塵にまみれた頭脳を洗濯するに役立ちます。
かれこれするうち私たちは国府津駅に着きました。富士山が白い衣をかついではるか彼方につっ立っております。私たちはその英姿をほめたたえながら、以前はここから小田原行の電車に乗り、小田原に着くとすぐ熱海行軽便鉄道に乗ったので、軽便鉄道はその形が至って古めかしく、まるでステファンソンがはじめて作った機関車のようだったが、今は立派な電気機関車が走っています。
その頃は時々断崖の上で、もしや転覆しはしないかとひやひやしたものです。とうとう私たちは目的地の伊豆山にまいりました。伊豆山の元の停留場に立つと、前には眼下はるかに海があり、後ろには鬱蒼たる樹木に覆われた山があります。相州屋へ行くには、ここから長い石段のある道を降りねばなりません。俊夫君は、前面のはや暮れ初めた海中に横たわる島を指して、
「あれは初島だよ」
と言いました。
海岸の白砂のないのは物足らぬけれど、このあたりから清澄な温泉が出ると思えば、それくらいのことは我慢しなければなりません。その温泉宿のうちでも、東洋一の浴槽をもっているという点で名高いのが、これから行こうとする相州屋であります。私はいつの間にか、事件のことを忘れてしまって、あたりの風光や温泉のことなどに心を奪われておりました。
突然、一人の警官が私たちの方へ歩いてきたので、はッとして私は立ちどまりました。
「塚原俊夫君はあなたではありませんか」
と、警官は俊夫君に言いました。
「僕です」
と、俊夫君は答えました。よく見れば左手に相州屋の玄関があります。
「川上糸子は今朝ほどまではいたそうですが、いつの間にかいなくなりました」
これを聞いた俊夫君は、案外にもそれほど驚きはしませんでした。
「そうでしょう。たぶん僕はもういないと思いました。それにもかかわらず僕がここへ来たのは、川上糸子のいた部屋を調べたいと思ったからです」
こう言って俊夫君は警官に案内されて、相州屋の中へ入りました。
女中や番頭たちの話を総合すると、川上糸子は一昨々日の夕方、熱海まで散歩してくると言って出かけ、その夜遅く帰ってその翌日すなわち一昨日から、気分が悪いと言って床に就いたという話であります。今朝、東京から電話のかかった時は、たしかにいたはずだが、その後いつの間にかいなくなった、というのです。
「一昨々日の夕方までいたのが本物の川上糸子で、その夜遅く帰ったのが、にせ物だったんだ」
と、俊夫君は私に向かって言いました。
「今日東京から電話がかかったと聞いて、さては警察の手がまわったかもしれぬと思って逃げたのだろう。荷物を持って出ては怪しまれるから、きっと手ぶらで抜けだしたに違いない。
僕はつまり、そこをねらったんだ。その荷物のうちからか、あるいは部屋の一隅から、誘拐団のありかを知るべき手掛かりを得ようと思ったんだ」
三
それから私たちは、川上糸子の滞在していた部屋に案内されました。部屋の中には荷物がそのまま置かれてありましたが、俊夫君が電灯の光でそれを検べると、大部分は本物の川上糸子の所有品でした。
俊夫君はスーツケースや、机などを熱心に検べましたが、ふと、鏡台の小さな引き出しから一枚の紙片を取りだしました。それは幅一寸長さ三寸ばかりの西洋紙で、その表面には記号のようなものが書かれてありました。
俊夫君の顔には、急に明るい表情がうかびました。そうして、無言で私にそれを示しました。その表面には、次の文字が書かれてありました。
So Bo Fa Pa, Ha Ka Aa Ci Ne Hu, Ha Fe V Bu Nu.
私はこれをローマ字式に読んでみましたが、さっぱり意味が分かりませんでした。ついてきた警官も、物珍しそうに顔を近づけてそれを見ましたが、もとより分かろうはずがありません。
「俊夫君、君にはもうこの暗号が読めたか」
と、私は尋ねました。
「いや、まだ分からん。しかし、多分、これを解けば、きっと重要な手掛かりが得られるだろう。さあ兄さん、これから温泉へつかって湯滝を浴びようじゃないか」
「え? 温泉につかる?」
と、私は驚いて聞きかえしました。
「にせ物の川上糸子が逃げた以上は、誘拐団も逃げてしまうじゃないか」
「だって誘拐団のいどころが分からなくっちゃ、捕まえようがないではないか。温泉につかるのは、この暗号を考えるためだよ。湯滝にでも打たれたら、きっと、いい考えが浮かぶと思うんだよ」
それから私たちは、東洋一の浴槽すなわち千人風呂に入りました。それから湯滝に身体を打たれました。俊夫君はうれしそうにはしゃいで、いっこう暗号を考えていそうもありませんでしたが、よく見ると、やはりその眼は血ばしって、心の奥で一生懸命に考えていることが分かりました。
やがて、俊夫君は一人で湯滝の壺に降りてゆき、その肩を打たせておりましたが、とつぜん大声で、
「兄さん、兄さん」
と呼びました。
「何だ?」
と私はかけよってのぞきこみました。
「解けたよ。解けたよ。暗号が分かったよ」
と言いながら俊夫君は雀躍するのでありました。
第五回
一
俊夫君は湯滝の壺から走りあがってきて、急いで身体を拭い、またたく間に洋服を着ました。そうして、ポケットから、さっき、川上糸子のいた部屋で発見した暗号の紙片を取りだして私に示しました。その時、私も、すでに俊夫君と同じく洋服を着ておりました。
So Bo Fa Pa, Ha Ka Aa Ci Ne Hu, Ha Fe V Bu Nu.
という訳のわからぬ文字が、その紙片に書かれております。
俊夫君はいくぶん興奮して言いました。
「兄さん、この暗号をちょっと見ると、ローマ字でないかと思うだろう。けれどもローマ字読みにしても、何のことか意味が分からない。しかし、これがやはりローマ字と同じようなもので、この大小二つずつの文字の組みあわせは、日本の仮名に匹敵すべきものだとは容易に察しがつくだろう。
してみると、この大きな文字すなわち、S、B、F、P、H、K、A、C、N、V等、ア行か、カ行か、つまり、アカサタナハマヤラワンのどれかの行の子音を示し、小さい文字は普通のaiueoの母音を示すに違いないと思われる。aiueoの他にもうないところを見ると、それに決まっている。すると、今度は大きな文字がいかなる行の子音をあらわすかを定めなければならない。これがこの暗号を解く、最も難しい点なのだ。
一目見ただけではとうてい考えられない。そこで僕は湯滝に打たれようと考えたんだ。よく物を考えるときに、頭を拳でたたく人がある。あれはたしかによい方法だ。で、僕も、湯滝に脳天を打たせたのだよ。
すると、兄さん、僕はふと湯滝が水でできていることを考え、水はこれを化学の分子式で書くと、H2O だ。と思った時、はッとしたよ。そうして、この大きい字を頭の中で繰りかえしてみたところ、SもBもFもその他の大文字はみな化学の原素の記号ではないか。すなわちSは硫黄、Bは硼素、Fは弗素、Pは燐、Hは水素、Kは加里、Aはアルゴン、Cは炭素、Nは窒素、Vはバナジウムだ。
兄さん! もうこれでしめたものだ。ちょっと鉛筆を出してくれ。原素の記号のうち、花文字一個でできているのは、A、B、C、F、H、I、N、O、P、K、S、W、U、Vだ。
そこで、次にどれがア行に属し、どれがカ行に属するかという問題が起こるが、これはもう訳のないことだ。きっと、原子量のいちばん少ないものから順に取ってあるに違いない。すると、その順序は、そうだね、ちょっと書いてみねば分からない」
こう言いながら、俊夫君はこれらの原素の原子量を書きました。どうも実に俊夫君の記憶のよいにはいまさら驚かされます。
「これで、小さいものから順にならべると、H、B、C、N、O、F、P、S、K、A、V、I、W、Uだ、で、
H…………ア行 B…………カ行 C…………サ行 N…………タ行 O…………ナ行 F…………ハ行 P…………マ行 S…………ヤ行 K…………ラ行 A…………ワ行 V…………ン。
であるに違いない。してみると、
Haはア、Hiはイ、Huはウ、Heはエ、Hoはオ。Baはカ、Biはキ、Buはク、Beはケ、Boはコ。
となるわけだ、いいかね。そこでこの暗号を検査すると、
Soはヨ、 Boはコ、 Faはハ、 Paはマ、 Haはア、 Kaはラ、 Aaはワ、 Ciはシ、 Neはテ、 Huはウ、 Haはア、 Feはヘ、 Vはン、 Buはク、 Nuはツ。
となる。すなわち、これを書きなおすと、『ヨコハマ、アラワシテウ、アヘンクツ』だ。『横浜、荒鷲町、阿片窟』だ……」
言い終わって俊夫君は勝ち誇った笑いを浮かべました。私はすっかり度胆を抜かれて、しばらく物が言えませんでしたが、やがて、
「おお、それでは、誘拐団は、横浜の荒鷲町の阿片窟を根城としているのだね?」
と、尋ねました。
「そうだよ。これで僕の見込みどおりになったわけだ。伊豆山へ来たおかげで、悪漢たちの本城をつきとめることができたのだ。
この上はもう彼らを逮捕すればよい。兄さん、これからすぐ警視庁へ電話をかけて、Pのおじさんを呼びだしてくれないか」
二
さて、読者諸君、これから当然、悪漢たちの逮捕の場面を述べなければならぬのですが、残念ながら、私自身その場に居合わせなかったので、その詳しい顛末を紹介することができません。で、私は、逮捕に行かれた小田さんが、俊夫君に物語られた話を、お取り次ぎするにとどめます。
「……伊豆山から君の電話がかかるなり、すぐ数人の腕利きの刑事をつれて逮捕に向かったよ。まず横浜の警察署へ行って事情を話すと、幾人でも応援隊を出すとのこと。それに大いに力を得て、闇夜に乗じて阿片窟包囲に出かけたんだ。
この荒鷲町というのは、支那人街の一部でずいぶん殺伐なところなんだ。かねて警察でも目をつけていたんだが、命知らずの連中の寄り合い場所だから、かの蜂の巣をつついて怪我をするようなことになってもよくないからと、いわば見て見ぬふりをしていたんだ。
けれども今度という今度は事情が事情だから猶予することができない。そこで横浜警察署でも、いわば乾坤一擲の大勝負をするつもりで取りかかったんだ。
荒鷲町へ行くなり、先方もさるもの、すわ警察の手入れだと、阿片窟の連中は、抜け穴から逃れようとしたのだが、そこはかねて警察の方でじゅうぶん研究してあったので、抜け穴の出口で一人一人いわば網に引っかけてしまったのさ。
むろん例の誘拐団の連中もその中にいたのだが、さて沢山の支那人や日本人の男女のうちどれが誘拐団の連中だやら分からず、警察へ引きあげてから、その取り調べに困ったが、幸いにも、君に遺恨を持っているあの山本信義がいることを警官の一人が発見したので、信義をせめることによって、とうとう、誘拐団の連中を明らかにすることができたのだ。
今回彼らが逮捕されるようなことになったのも、まったく、山本信義のためだったので、誘拐団の連中は大いに彼を恨んでいたよ。
どういう訳かというと、そもそも、頭蓋骨をマークとする上海の誘拐団が、今度東京へ来たのは、女優の川上糸子を上海へ誘拐していって彼女を映画のスターとして、一本のフイルムを製作するつもりだったのだ。そのフイルムというのは非常な高価で売れるものなのだ。
正式に川上糸子に交渉したとて承諾するわけがないので、無理な手段をもって連れ去ろうとしたのだ。もちろん、用事さえ済めば糸子を返してよこすつもりだったのだ。
ところで、誘拐団の連中は、ひそかに東京へ来てから、糸子をどうして連れだそうかと色々事情をさぐると、山本信義が糸子の首飾りを盗んで君に発見され、それがために職を失い、爾来、糸子にも、うらみをいだいていることが分かったのだ。
この山本という男は名前は信義だが、いたって不思議な男であるばかりか、よく検べると窃盗犯の前科のあるものなのだ。山本信義というのも実は偽名なのだ。で、誘拐団の連中は山本を仲間にすれば、糸子を誘拐するに非常に好都合だと思い、山本のありかを発見して、そのことを話すと、山本は一も二もなく悪人たちの仲間入りをしたのだ。
さて、それから、糸子を誘拐する方法を色々研究していると、糸子が伊豆山温泉へ出かけたので、この機を逸すべからずと、誘拐の計画を定めたのだ。
その計画はどういうのかというに、まず糸子を誘拐するためには糸子の替え玉をつくらねばならない。幸いに一味のものの中には女もいるから、それを替え玉にしようとして、糸子のよく行く春日町の美容院へ研究に行かせたのだ。そのとき山本はその女の案内をしたのだが、むろん中へは入らず、あたりをうろついて、待っていたのだ。
さて、その女が、糸子の風姿やその他のことを近藤方で研究してくると、いよいよ、糸子に仕立てて伊豆の国に行かせ、糸子が熱海へ散歩に出たときを選んで、海岸で捕らえて、すぐさま船の中へうつし、その船の中で、無理にゲルセミウムを注射して仮死に陥れたのだ。そうして、糸子の替え玉が相州屋へ帰り、その翌日から気分が悪いといって、そのまま床についたのだ。つまり替え玉を発見されない手段だったのだ。
さて、一方、仮死に陥った糸子を悪漢たちはそのまま連れ帰ればよかったのであるが、彼らには妙な迷信があって、一旦その仮死の身体を警察の目に触れさせれば、途中で逮捕されることなく目的を達することができると信じているので、仮死体を春日町の空家へ持ってきて、僕たちに見せる計画をしたのだ。
そのため、君が事件に加わってきて、とうとう彼らの計画は微塵に砕かれてしまったのだ。
誘拐団は糸子の替え玉が帰りしだい出発しようとしたのだが、ちょうど、いざ出かけようとするとき警察の手が入ったのだ。
川上糸子は、あのままずっと仮死の状態になっていたよ。彼らは、彼女の身体を手頃なトランクの中へ入れて、東京まで運んだりまた持ちかえったりしたのだが、化学の記号を暗号に使ったり、ゲルセミウムを使用したりするくせに迷信的なことをやるというのは、実に犯罪者というものの特徴を示していると思うよ。
それはとにかく、君のおかげで、川上糸子が無事に帰り、誘拐団が逮捕せられたことは、実に喜ばしいことと思う……」
皆さん、これで、この事件は解決されました。このことは、新聞にも出ないですみましたから、川上糸子がそういう恐ろしい目にあったことを、世間一般の人はちょっとも知らないのであります。ただこの事件で、俊夫君にもはっきり分からなかったのは、なぜ、彼らが糸子の仮死体を警察に見せにきたか、
「まさか迷信のためとは気がつかなかった」
と俊夫君も笑って申しました。
底本:「小酒井不木探偵小説選 〔論創ミステリ叢書8〕」論創社
2004(平成16)年7月25日初版第1刷発行
初出:「子供の科学 六巻一~五号」
1928(昭和3)年1~5月号
入力:川山隆
校正:小林繁雄
2005年11月23日作成
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