伊勢之巻
泉鏡花
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昔男と聞く時は、今も床しき道中姿。その物語に題は通えど、これは東の銭なしが、一年思いたつよしして、参宮を志し、霞とともに立出でて、いそじあまりを三河国、そのから衣、ささおりの、安弁当の鰯の名に、紫はありながら、杜若には似もつかぬ、三等の赤切符。さればお紺の婀娜も見ず、弥次郎兵衛が洒落もなき、初詣の思い出草。宿屋の硯を仮寝の床に、路の記の端に書き入れて、一寸御見に入れたりしを、正綴にした今度の新版、さあさあかわりました双六と、だませば小児衆も合点せず。伊勢は七度よいところ、いざ御案内者で客を招けば、おらあ熊野へも三度目じゃと、いわれてお供に早がわり、いそがしかりける世渡りなり。
明治三十八乙巳年十月吉日
「はい、貴客もしお熱いのを、お一つ召上りませぬか、何ぞお食りなされて下さりまし。」
伊勢国古市から内宮へ、ここぞ相の山の此方に、灯の淋しい茶店。名物赤福餅の旗、如月のはじめ三日の夜嵐に、はたはたと軒を揺り、じりじりと油が減って、早や十二時に垂とするのに、客はまだ帰りそうにもしないから、その年紀頃といい、容子といい、今時の品の可い学生風、しかも口数を利かぬ青年なり、とても話対手にはなるまい、またしないであろうと、断念めていた婆々が、堪り兼ねてまず物優しく言葉をかけた。
宵から、灯も人声も、往来の脚も、この前あたりがちょうど切目で、後へ一町、前へ三町、そこにもかしこにも両側の商家軒を並べ、半襟と前垂の美しい、姐さんが袂を連ねて、式のごとく、お茶あがりまし、お休みなさりまし、お飯上りまし、お饂飩もござりますと、媚めかしく呼ぶ中を、頬冠やら、高帽やら、菅笠を被ったのもあり、脚絆がけに借下駄で、革鞄を提げたものもあり、五人づれやら、手を曳いたの、一人で大手を振るもあり、笑い興ずるぞめきに交って、トンカチリと楊弓聞え、諸白を燗する家ごとの煙、両側の廂を籠めて、処柄とて春霞、神風に靉靆く風情、灯の影も深く、浅く、奥に、表に、千鳥がけに、ちらちらちらちら、吸殻も三ツ四ツ、地に溢れて真赤な夜道を、人脚繁き賑かさ。
花の中なる枯木と観じて、独り寂寞として茶を煮る媼、特にこの店に立寄る者は、伊勢平氏の後胤か、北畠殿の落武者か、お杉お玉の親類の筈を、思いもかけぬ上客一人、引手夥多の彼処を抜けて、目の寄る前途へ行き抜けもせず、立寄ってくれたので、国主に見出されたほど、はじめ大喜びであったのが、灯が消え、犬が吠え、こうまた寒い風を、欠伸で吸うようになっても、まだ出掛けそうな様子も見えぬので。
「いかがでございます、お酌をいたしましょうか。」
「いや、構わんでも可い、大層お邪魔をするね。」
ともの優しい、客は年の頃二十八九、眉目秀麗、瀟洒な風采、鼠の背広に、同一色の濃い外套をひしと絡うて、茶の中折を真深う、顔を粛ましげに、脱がずにいた。もしこの冠物が黒かったら、余り頬が白くって、病人らしく見えたであろう。
こっくりした色に配してさえ、寒さのせいか、屈託でもあるか、顔の色が好くないのである。銚子は二本ばかり、早くから並んでいるのに。
赤福の餅の盆、煮染の皿も差置いたが、猪口も数を累ねず、食べるものも、かの神路山の杉箸を割ったばかり。
客は丁字形に二つ並べた、奥の方の縁台に腰をかけて、掌で項を圧えて、俯向いたり、腕を拱いて考えたり、足を投げて横ざまに長くなったり、小さなしかも古びた茶店の、薄暗い隅なる方に、その挙動も朦朧として、身動をするのが、余所目にはまるで寝返をするようであった。
また寝られてなろうか!
「あれ、お客様まだこっちのお銚子もまるでお手が着きませぬ。」
と婆々は片づけにかかる気で、前の銚子を傍へ除けようとして心付く、まだずッしりと手に応えて重い。
「お燗を直しましょうでござりますか。」
顔を覗き込むがごとくに土間に立った、物腰のしとやかな、婆々は、客の胸のあたりへその白髪頭を差出したので、面を背けるようにして、客は外の方を視めると、店頭の釜に突込んで諸白の燗をする、大きな白丁の、中が少くなったが斜めに浮いて見える、上なる天井から、むッくりと垂れて、一つ、くるりと巻いたのは、蛸の脚、夜の色濃かに、寒さに凍てたか、いぼが蒼い。
涼しい瞳を動かしたが、中折の帽の庇の下から透して見た趣で、
「あれをちっとばかりくれないか。」と言ってまた面を背けた。
深切な婆々は、膝のあたりに手を組んで、客の前に屈めていた腰を伸して、指された章魚を見上げ、
「旦那様、召上りますのでござりますか。」
「ああ、そして、もう酒は沢山だから、お飯にしよう。」
「はいはい、……」
身を起して背向になったが、庖丁を取出すでもなく、縁台の彼方の三畳ばかりの住居へ戻って、薄い座蒲団の傍に、散ばったように差置いた、煙草の箱と長煙管。
片手でちょっと衣紋を直して、さて立ちながら一服吸いつけ、
「旦那え。」
「何だ。」
「もう、お無駄でござりまするからお止しなさりまし、第一あれは余り新しゅうないのでござります。それにお見受け申しました処、そうやって御酒もお食りなさりませず、滅多に箸をお着けなさりません。何ぞ御都合がおありなさりまして、私どもにお休み遊ばします。時刻が経ちまするので、ただ居てはと思召して、婆々に御馳走にあなた様、いろいろなものをお取り下さりますように存じます、ほほほほほ。」
笑とともに煙を吹き、
「いいえ、お一人のお客様には難有過ぎましたほど儲かりましてございまする。大抵のお宿銭ぐらい頂戴をいたします勘定でござりますから、私どもにもう一室、別座敷でもござりますなら、お宿を差上げたい位に、はい、もし、存じまするが、旦那様。」
婆々は框に腰を下して、前垂に煙草の箱、煙管を長く膝にしながら、今こう謂われて、急に思い出したように、箸の尖を動かして、赤福の赤きを顧みず、煮染の皿の黒い蒲鉾を挟んだ、客と差向いに、背屈みして、
「旦那様、決してあなた、勿体ない、お急立て申しますわけではないのでござりますが、もし、お宿はお極り遊ばしていらっしゃいますかい。」
客はものいわず。
「一旦どこぞにお宿をお取りの上に、お遊びにお出掛けなさりましたのでござりますか。」
「何、山田の停車場から、直ぐに、右内宮道とある方へ入って来たんだ。」
「それでは、当伊勢はお馴れ遊ばしたもので、この辺には御親類でもおありなさりますという。──」と、婆々は客の言尻について見たが、その実、土地馴れぬことは一目見ても分るのであった。
「どうして、親類どころか、定宿もない、やはり田舎ものの参宮さ。」
「おや!」
と大きく、
「それでもよく乗越しておいでなさりましたよ。この辺までいらっしゃいます前には、あの、まあ、伊勢へおいで遊ばすお方に、山田が玄関なら、それをお通り遊ばして、どうぞこちらへと、お待受けの別嬪が、お袖を取るばかりにして、御案内申します、お客座敷と申しますような、お褥を敷いて、花を活けました、古市があるではござりませぬか。」
客は薄ら寒そうに、これでもと思う状、燗の出来立のを注いで、猪口を唇に齎らしたが、匂を嗅いだばかりでしばらくそのまま、持つ内に冷くなるのを、飲む真似して、重そうにとんと置き、
「そりゃ何だろう、山田からずッと入ると、遠くに二階家を見たり、目の前に茅葺が顕れたり、そうかと思うと、足許に田の水が光ったりする、その田圃も何となく、大な庭の中にわざと拵えた景色のような、なだらかな道を通り越すと、坂があって、急に両側が真赤になる。あすこだろう、店頭の雪洞やら、軒提灯やら、そこは通った。」
「はい、あの軒ごと、家ごと、向三軒両隣と申しました工合に、玉転し、射的だの、あなた、賭的がござりまして、山のように積んだ景物の数ほど、灯が沢山点きまして、いつも花盛りのような、賑な処でござります。」
客は火鉢に手を翳し、
「どの店にも大きな人形を飾ってあるじゃないか、赤い裲襠を着た姐様もあれば、向う顱巻をした道化もあるし、牛若もあれば、弥次郎兵衛もある。屋根へ手をかけそうな大蛸が居るかと思うと、腰蓑で村雨が隣の店に立っているか、下駄屋にまで飾ったな。皆極彩色だね。中にあの三間間口一杯の布袋が小山のような腹を据えて、仕掛けだろう、福相な柔和な目も、人形が大きいからこの皿ぐらいあるのを、ぱくりと遣っちゃ、手に持った団扇をばさりばさり、往来を煽いで招くが、道幅の狭い処へ、道中双六で見覚えの旅の人の姿が小さいから、吹飛ばされそうです。それに、墨の法衣の絵具が破れて、肌の斑兀の様子なんざ、余程凄い。」
「招も善悪でござりまして、姫方や小児衆は恐いとおっしゃって、旅籠屋で魘されるお方もござりますそうでござりまする。それではお気味が悪くって、さっさと通り抜けておしまいなされましたか。」
「詰らないことを。」
客は引緊った口許に微笑した。
「しかし、土地にも因るだろうが、奥州の原か、飛騨の山で見た日には、気絶をしないじゃ済むまいけれど、伊勢というだけに、何しろ、電信柱に附着けた、ペンキ塗の広告まで、土佐絵を見るような心持のする国だから、赤い唐縮緬を着た姐さんでも、京人形ぐらいには美しく見える。こっちへ来るというので道中も余所とは違って、あの、長良川、揖斐川、木曾川の、どんよりと三条並んだ上を、晩方通ったが、水が油のようだから、汽車の音もしないまでに、鵲の橋を辷って銀河を渡ったと思った、それからというものは、夜に入ってこの伊勢路へかかるのが、何か、雲の上の国へでも入るようだったもの、どうして、あの人形に、心持を悪くしてなるものか。」
「これは、旦那様お世辞の可い、土地を賞められまして何より嬉しゅうござります。で何でござりまするか、一刻も早く御参詣を遊ばそう思召で、ここらまで乗切っていらっしゃいました?」
「そういうわけでもないが、伊勢音頭を見物するつもりもなく、古市より相の山、第一名が好いではないか、あいの山。」
客は何思いけん手を頬にあてて、片手で弱々と胸を抱いたが、
「お婆さん、昔から聞馴染の、お杉お玉というのは今でもあるのか。」
「それはござりますよ。ついこの前途をたらたらと上りました、道で申せばまず峠のような処に観世物の小屋がけになって、やっぱり紅白粉をつけましたのが、三味線でお鳥目を受けるのでござります、それよりは旦那様、前方に行って御覧じゃりまし、川原に立っておりますが、三十人、五十人、橋を通行のお方から、お銭の礫を投げて頂いて、手ン手に長棹の尖へ網を張りましたので、宙で受け留めまするが、秋口蜻蛉の飛びますようでござります。橋の袂には、女房達が、ずらりと大地に並びまして、一文二文に両換をいたします。さあ、この橋が宇治橋と申しまして、内宮様へ入口でござりまする。川は御存じの五十鈴川、山は神路山。その姿の優しいこと、気高いこと、尊いこと、清いこと、この水に向うて立ちますと、人膚が背後から皮を透して透いて見えます位、急にも流れず、淀みもしませず、浪の立つ、瀬というものもござりませぬから、色も、蒼くも見えず、白くも見えず、緑の淵にもなりませず、一様に、真の水色というのでござりましょ。
渡りますと、それから三千年の杉の森、神代から昼も薄暗い中を、ちらちらと流れまする五十鈴川を真中に、神路山が裹みまして、いつも静に、神風がここから吹きます、ここに白木造の尊いお宮がござりまする。」
「内宮でいらっしゃいます。」
婆々は掌を挙げて白髪の額に頂き、
「何事のおわしますかは知らねども、忝さに涙こぼるる、自然に頭が下りまする。お帰りには二見ヶ浦、これは申上げるまでもござりませぬ、五十鈴川の末、向うの岸、こっちの岸、枝の垂れた根上り松に纜いまして、そこへ参る船もござります。船頭たちがなぜ素袍を着て、立烏帽子を被っていないと思うような、尊い川もござりまする、女の曳きます俥もござります、ちょうど明日は旧の元日。初日の出、」
いいかけて急に膝を。
「おお、そういえば旦那様、お宿はどうなさります思召。
成程、おっしゃりました名の通、あなた相の山までいらっしゃいましたが、この前方へおいでなさりましても、佳い宿はござりません。後方の古市でござりませんと、旦那様方がお泊りになりまする旅籠はござりませんが、何にいたしました処で、もし、ここのことでござりまする、必ず必ずお急き立て申しますではないのでござりまするけれども、お早く遊ばしませぬと、お泊が難しゅうござりますので。
はい、いつもまあこうやって、大神宮様のお庇で、繁昌をいたしまするが、旧の大晦日と申しますと、諸国の講中、道者、行者の衆、京、大阪は申すに及びませぬ、夜一夜、古市でお籠をいたしまして、元朝、宇治橋を渡りまして、貴客、五十鈴川で嗽手水、神路山を右に見て、杉の樹立の中を出て、御廟の前でほのぼのと白みますという、それから二見ヶ浦へ初日の出を拝みに廻られまする、大層な人数。
旦那様お通りの時分には、玉ころがしの店、女郎屋の門などは軒並戸が開いておりましてございましょうけれども、旅籠屋は大抵戸を閉めておりましたことと存じまする。
どの家も一杯で、客が受け切れませんのでござります。」
婆々はひしひし、大手の木戸に責め寄せたが、
「しかし貴客、三人、五人こぼれますのは、旅籠でも承知のこと、相宿でも間に合いませぬから、廊下のはずれの囲だの、数寄な四阿だの、主人の住居などで受けるでござりますよ。」
と搦手を明けて落ちよというなり。
けれども何の張合もなかった、客は別に騒ぎもせず、さればって聞棄てにもせず、何の機会もないのに、小形の銀の懐中時計をぱちりと開けて見て、無雑作に突込んで、
「お婆さん、勘定だ。」
「はい、あなた、もし御飯はいかがでござります。」
客は仰向いて、新に婆々の顔を見て莞爾とした。
「いや、実は余り欲しくない。」
「まあ、ソレ御覧じまし、それだのに、いかなこッても、酢蛸を食りたいなぞとおっしゃって、夜遊びをなすって、とんだ若様でござります。どうして婆々が家の一膳飯がお口に合いますものでござります。ほほほほ。」
「時に、三由屋という旅籠はあるね。」
「ええ、古市一番の旧家で、第一等の宿屋でござります。それでも、今夜あたりは大層なお客でござりましょ。あれこれとおっしゃっても、まず古市では三由屋で、その上に講元のことでござりまするから、お客は上中下とも一杯でござります。」
「それは構わん。」といって客は細く組違えていた膝を割って、二ツばかり靴の爪尖を踏んで居直った。
「まあ、何ということでござります、それでは気を揉むではなかったに、先へ誰方ぞお美しいのがいらしって、三由屋でお待受けなのでござりますね。わざと迷児になんぞおなり遊ばして、可うござります、翌日は暗い内から婆々が店頭に張番をして、芸妓さんとでも腕車で通って御覧じゃい、お望の蛸の足を放りつけて上げますに。」と煙草を下へ、手で掬って、土間から戸外へ、……や……ちょっと投げた。トタンに相の山から戻腕車、店さきを通りかかって、軒にはたはたと鳴る旗に、フト楫を持ったまま仰いで留る。
「車夫。」
「はい。」と媚しい声、婦人が、看板をつけたのであった、古市組合。
「はッ。」
古市に名代の旅店、三由屋の老番頭、次の室の敷居際にぴたりと手をつき、
「はッ申上げまするでございまする。」
上段の十畳、一点の汚もない、月夜のような青畳、紫縮緬ふッくりとある蒲団に、あたかもその雲に乗ったるがごとく、菫の中から抜けたような、装を凝した貴夫人一人。さも旅疲の状見えて、鼠地の縮緬に、麻の葉鹿の子の下着の端、媚かしきまで膝を斜に、三枚襲で着痩せのした、撫肩の右を落して、前なる桐火桶の縁に、引つけた火箸に手をかけ、片手を細りと懐にした姿。衣紋の正しく、顔の気高きに似ず、見好げに過ぎて婀娜めくばかり。眉の鮮かさ、色の白さに、美しき血あり、清き肌ある女性とこそ見ゆれ、もしその黒髪の柳濃く、生際の颯と霞んだばかりであったら、画ける幻と誤るであろう。袖口、八口、裳を溢れて、ちらちらと燃ゆる友染の花の紅にも、絶えず、一叢の薄雲がかかって、淑ましげに、その美を擁護するかのごとくである。
岐阜県××町、──里見稲子、二十七、と宿帳に控えたが、あえて誌すまでもない、岐阜の病院の里見といえば、家族雇人一同神のごとくに崇拝する、かつて当家の主人が、難病を治した名医、且つ近頃三由屋が、株式で伊勢の津に設立した、銀行の株主であるから。
晩景、留守を預るこの老番頭にあてて、津に出張中の主人から、里見氏の令夫人参宮あり、丁寧に宿を参らすべき由、電信があったので、いかに多数の客があっても、必ず、一室を明けておく、内証の珍客のために控えの席へ迎え入れて、滞りなく既に夕餉を進めた。
されば夫人が座の傍、肩掛、頭巾などを引掛けた、衣桁の際には、萌黄の緞子の夏衾、高く、柔かに敷設けて、総附の塗枕、枕頭には蒔絵ものの煙草盆、鼻紙台も差置いた、上に香炉を飾って、呼鈴まで行届き、次の間の片隅には棚を飾って、略式ながら、薄茶の道具一通。火鉢には釜の声、遥に神路山の松に通い、五十鈴川の流に応じて、初夜も早や過ぎたる折から、ここの行燈とかしこのランプと、ただもう取交えるばかりの処。
「ええ、奥方様、あなた様にお客にござりまして。」
優しい声で、
「私に、」と品よく応じた。
「はッ、あなた様にお客来にござりまする。」
夫人はしとやかに、
「誰方だね、お名札は。」
「その儀にござりまする。お名札をと申しますと、生憎所持せぬ、とかようにおっしゃいまする、もっともな、あなた様お着が晩うござりましたで、かれこれ十二時。もう遅うござりますに因って、御一人旅の事ではありまするし、さようなお方は手前どもにおいでがないと申して断りましょうかとも存じましたなれども、たいせつなお客様、またどのような手落になりましても相成らぬ儀と、お伺いに罷出ましてござりまする。」
番頭は一大事のごとく、固くなって、御意を得ると、夫人は何事もない風情、
「まあ、何とおっしゃる方。」
「はッ立花様。」
「立花。」
「ええ、お少いお人柄な綺麗な方でおあんなさいまする。」
「そう。」と軽くいって、莞爾して、ちょっと膝を動かして、少し火桶を前へ押して、
「ずんずんいらっしゃれば可いのに、あの、お前さん、どうぞお通し下さい。」
「へい、宜しゅうござりますか。」
頤の長い顔をぼんやりと上げた、余り夫人の無雑作なのに、ちと気抜けの体で、立揚る膝が、がッくり、ひょろりと手をつき、苦笑をして、再び、
「はッ。」
やがて入交って女中が一人、今夜の忙しさに親類の娘が臨時手伝という、娘柄の好い、爪はずれの尋常なのが、
「御免遊ばしまし、あの、御支度はいかがでございます。」
夫人この時は、後毛のはらはらとかかった、江戸紫の襟に映る、雪のような項を此方に、背向に火桶に凭掛っていたが、軽く振向き、
「ああ、もう出来てるよ。」
「へい。」と、その意を得ない様子で、三指のまま頭を上げた。
事もなげに、
「床なんだろう。」
「いいえ、お支度でございますが。」
「御飯かい。」
「はい。」
「そりゃお前疾に済んだよ。」と此方も案外な風情、余の取込にもの忘れした、旅籠屋の混雑が、おかしそうに、莞爾する。
女中はまた遊ばれると思ったか、同じく笑い、
「奥様、あの唯今のお客様のでございます。」
「お客だい、誰も来やしないよ、お前。」と斜めに肩ごしに見遣たまま打棄ったようにもののすッきり。かえす言もなく、
「おや、おや。」と口の中、女中は極の悪そうに顔を赤らめながら、変な顔をして座中を眗すと、誰も居ないで寂として、釜の湯がチンチン、途切れてはチンという。
手持不沙汰に、後退にヒョイと立って、ぼんやりとして襖がくれ、
「御免なさいまし。」と女中、立消えの体になる。
見送りもせず、夫人はちょいと根の高い円髷の鬢に手を障って、金蒔絵の鼈甲の櫛を抜くと、指環の宝玉きらりと動いて、後毛を掻撫でた。
廊下をばたばた、しとしとと畳ざわり。襖に半身を隠して老番頭、呆れ顔の長いのを、擡げるがごとく差出したが、急込んだ調子で、
「はッ。」
夫人は蒲団に居直り、薄い膝に両手をちゃんと、媚しいが威儀正しく、
「寝ますから、もうお構いでない、お取込の処を御厄介ねえ。」
「はッはッ。」
遠くから長廊下を駈けて来た呼吸づかい、番頭は口に手を当てて打咳き、
「ええ、混雑いたしまして、どうも、その実に行届きません、平に御勘弁下さいまして。」
「いいえ。」
「もし、あなた様、希有でござります。確かたった今、私が、こちらへお客人をお取次申しましてござりましてござりまするな。」
「そう、立花さんという方が見えたってお謂いだったよ。どうかしたの。」
「へい、そこで女どもをもちまして、お支度の儀を伺わせました処、誰方もお見えなさりませんそうでござりまして。」
「ああ、そう、誰もいらっしゃりやしませんよ。」
「はてな、もし。」
「何なの、お支度ッて、それじゃ、今着いた人なんですか、内に泊ってでもいて、宿帳で、私のいることを知ったというような訳ではなくッて?」
「何、もう御覧の通、こちらは中庭を一ツ、橋懸で隔てました、一室別段のお座敷でござりますから、さのみ騒々しゅうもございませんが、二百余りの客でござりますで、宵の内はまるで戦争、帳場の傍にも囲炉裡の際にも我勝で、なかなか足腰も伸びません位、野陣見るようでござりまする。とてもどうもこの上お客の出来る次第ではござりませんので、早く大戸を閉めました。帳場はどうせ徹夜でござりますが、十二時という時、腕車が留まって、門をお叩きなさいまする。」
「お気の毒ながらと申して、お宿を断らせました処、連が来て泊っている。ともかくも明けい、とおっしゃりますについて、あの、入口の、たいてい原ほどはござります、板の間が、あなた様、道者衆で充満で、足踏も出来ません処から、框へかけさせ申して、帳場の火鉢を差上げましたような次第で、それから貴女様がお泊りの筈、立花が来たと伝えくれい、という事でござりまして。
早速お通し申しましょうかと存じましたなれども、こちら様はお一方、御婦人でいらっしゃいます事ゆえ念のために、私お伺いに出ました儀で、直ぐにという御意にござりましたで、引返して、御案内。ええ、唯今の女が、廊下をお連れ申したでござります。
女が、貴女様このお部屋へ、その立花様というのがお入り遊ばしたのを見て、取って返しましたで、折返して、お支度の程を伺わせに唯今差出しました処、何か、さような者は一向お見えがないと、こうおっしゃいます。またお座敷には、奥方様の他に誰方もおいでがないと、目を丸くして申しますので、何を寝惚けおるぞ、汝が薄眠い顔をしておるで、お遊びなされたであろ、なぞと叱言を申しましたが、女いいまするには、なかなか、洒落を遊ばす御様子ではないと、真顔でござりますについて、ええ、何より証拠、土間を見ましてございます。」
いいかけて番頭、片手敷居越に乗出して、
「トその時、お上りになったばかりのお穿物が見えませぬ、洋服でおあんなさいましたで、靴にござりますな。
さあ、居合せましたもの総立になって、床下まで覗きましたが、どれも札をつけて預りました穿物ばかり、それらしいのもござりませぬで、希有じゃと申出しますと、いや案内に立った唯今の女は、見す見す廊下をさきへ立って参ったというて、蒼くなって震えまするわ。
太う恐がりましてこちらへよう伺えぬと申しますので、手前駈出して参じましたが、いえ、もし全くこちら様へは誰方もおいでなさりませぬか。」と、穏ならぬ気色である。
夫人、するりと膝をずらして、後へ身を引き、座蒲団の外へ手の指を反して支くと、膝を辷った桃色の絹のはんけちが、褄の折端へはらりと溢れた。
「厭だよ、串戯ではないよ、穿物がないんだって。」
「御意にござりまする。」
「おかしいねえ。」と眉をひそめた。夫人の顔は、コオトをかけた衣裄の中に眉暗く、洋燈の光の隈あるあたりへ、魔のかげがさしたよう、円髷の高いのも艶々として、そこに人が居そうな気勢である。
畳から、手をもぎ放すがごとくにして、身を開いて番頭、固くなって一呼吸つき、
「で、ござりまするなあ。」
「お前、そういえば先刻、ああいって来たもんだから、今にその人が見えるだろうと、火鉢の火なんぞ、突ついていると、何なの、しばらくすると、今の姐さんが、ばたばた来たの。次の室のそこへちらりと姿を見せたっけ、私はお客が来たと思って、言をかけようとする内に、直ぐ忙しそうに出て行って、今度来た時には、突然、お支度はって、お聞きだから、変だと思って、誰も来やしないものを。」とさも訝しげに、番頭の顔を熟と見ていう。
いよいよ、きょとつき、
「はてさて、いやどうも何でござりまして、ええ、廊下を急足にすたすたお通んなすったと申して、成程、跫音がしなかったなぞと、女は申しますが、それは早や、気のせいでござりましょう。なにしろ早足で廊下を通りなすったには相違ござりませぬ、さきへ立って参りました女が、せいせい呼吸を切って駈けまして、それでどうかすると、背後から、そのお客の身体が、ぴったり附着きそうになりまする。」
番頭は気がさしたか、密と振返って背後を見た、釜の湯は沸っているが、塵一つ見当らず、こういう折には、余りに広く、且つ余りに綺麗であった。
「それがために二三度、足が留まりましたそうにござりまして。」
「中にはその立花様とおっしゃるのが、剽軽な方で、一番三由屋をお担ぎなさるのではないかと、申すものもござりまするが、この寒いに、戸外からお入りなさったきり、洒落にかくれんぼを遊ばす陽気ではござりません。殊に靴までお隠しなさりますなぞは、ちと手重過ぎまするで、どうも変でござりまするが、お年紀頃、御容子は、先刻申上げましたので、その方に相違ござりませぬか、お綺麗な、品の可い、面長な。」
「全く、そう。」
「では、その方は、さような御串戯をなさる御人体でござりますか、立花様とおっしゃるのは。」
「いいえ、大人い、沢山口もきかない人、そして病人なの。」
そりゃこそと番頭。
「ええ。」
「もう、大したことはないんだけれど、一時は大病でね、内の病院に入っていたんです。東京で私が姉妹のようにした、さるお嬢さんの従兄子でね、あの美術、何、彫刻師なの。国々を修行に歩行いている内、養老の滝を見た帰りがけに煩って、宅で養生をしたんです。二月ばかり前から、大層、よくなったには、よくなったんだけれど、まだ十分でないッていうのに、肯かないでまた旅へ出掛けたの。
私が今日こちらへ泊って、翌朝お参をするッてことは、かねがね話をしていたから、大方旅行先から落合って来たことと思ったのに、まあ、お前、どうしたというのだろうね。」
「はッ。」
というと肩をすぼめて首を垂れ、
「これは、もし、旅で御病気かも知れませぬ。いえ、別に、貴女様お身体に仔細はござりませぬが、よくそうしたことがあるものにござります。はい、何、もうお見上げ申しましたばかりでも、奥方様、お身のまわりへは、寒い風だとて寄ることではござりませぬが、御帰宅の後はおこころにかけられて、さきざきお尋ね遊ばしてお上げなされまし、これはその立花様とおっしゃる方が、親御、御兄弟より貴女様を便りに遊ばしていらっしゃるに相違ござりませぬ。」
夫人はこれを聞くうちに、差俯向いて、両方引合せた袖口の、襦袢の花に見惚れるがごとく、打傾いて伏目でいた。しばらくして、さも身に染みたように、肩を震わすと、後毛がまたはらはら。
「寒くなった、私、もう寝るわ。」
「御寝なります、へい、唯今女中を寄越しまして、お枕頭もまた、」
「いいえ、煙草は飲まない、お火なんか沢山。」
「でも、その、」
「あの、しかしね、間違えて外の座敷へでも行っていらっしゃりはしないか、気をつけておくれ。」
「それはもう、きっと、まだ、方々見させてさえござりまする。」
「そうかい、此家は広いから、また迷児にでもなってると悪い、可愛い坊ちゃんなんだから。」とぴたりと帯に手を当てると、帯しめの金金具が、指の中でパチリと鳴る。
先刻から、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを見て、この分なら、お次へ四天王にも及ぶまいと、
「ええ、さようならばお静に。」
「ああ、御苦労でした。」と、いってすッと立つ、汽車の中からそのままの下じめがゆるんだか、絹足袋の先へ長襦袢、右の褄がぞろりと落ちた。
「お手水。」
「いいえ、寝るの。」
「はッ。」と、いうと、腰を上げざまに襖を一枚、直ぐに縁側へ辷って出ると、呼吸を凝して二人ばかり居た、恐いもの見たさの徒、ばたり、ソッと退く気勢。
「や。」という番頭の声に連れて、足も裾も巴に入乱るるかのごとく、廊下を彼方へ、隔ってまた跫音、次第に跫音。この汐に、そこら中の人声を浚えて退いて、果は遥な戸外二階の突外れの角あたりと覚しかった、三味線の音がハタと留んだ。
聞澄して、里見夫人、裳を前へ捌こうとすると、うっかりした褄がかかって、引留められたようによろめいたが、衣裄に手をかけ、四辺を眗し、向うの押入をじっと見る、瞼に颯と薄紅梅。
煙草盆、枕、火鉢、座蒲団も五六枚。
(これは物置だ。)と立花は心付いた。
はじめは押入と、しかしそれにしては居周囲が広く、破れてはいるが、筵か、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしない囲なぞの荒れたのを、そのまま押入に遣っているのであろう、身を忍ぶのは誂えたようであるが。
(待て。)
案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが疾いか、ものをいうよりはまず唇の戦くまで、不義ではあるが思う同士。目を見交したばかりで、かねて算した通り、一先ず姿を隠したが、心の闇より暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が馴れたせいであろう。
立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦んでいるのであった。
(まず、可し。)
と襖に密と身を寄せたが、うかつに出らるる数でなし、言をかけらるる分でないから、そのまま呼吸を殺して彳むと、ややあって、はらはらと衣の音信。
目前へ路がついたように、座敷をよぎる留南奇の薫、ほの床しく身に染むと、彼方も思う男の人香に寄る蝶、処を違えず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、
「立花さん。」
「…………」
「立花さん。」
襖の裏へ口をつけるばかりにして、
「可いんですか。」
「まだよ、まだ女中が来るッていうから少々、あなた、靴まで隠して来たんですか。」
表に夫人の打微笑む、目も眉も鮮麗に、人丈に暗の中に描かれて、黒髪の輪郭が、細く円髷を劃って明い。
立花も莞爾して、
「どうせ、騙すくらいならと思って、外套の下へ隠して来ました。」
「旨く行ったのね。」
「旨く行きましたね。」
「後で私を殺しても可いから、もうちと辛抱なさいよ。」
「お稲さん。」
「ええ。」となつかしい低声である。
「僕は大空腹。」
「どこかで食べて来た筈じゃないの。」
「どうして貴方に逢うまで、お飯が咽喉へ入るもんですか。」
「まあ……」
黙ってしばらくして、
「さあ。」
手を中へ差入れた、紙包を密と取って、その指が搦む、手と手を二人。
隔の襖は裏表、両方の肩で圧されて、すらすらと三寸ばかり、暗き柳と、曇れる花、淋しく顔を見合せた、トタンに跫音、続いて跫音、夫人は衝と退いて小さな咳。
さそくに後を犇と閉め、立花は掌に据えて、瞳を寄せると、軽く捻った懐紙、二隅へはたりと解けて、三ツ美く包んだのは、菓子である。
と見ると、白と紅なり。
「はてな。」
立花は思わず、膝をついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かならず、低いか、高いか、定でないが、何となく暗夜の天まで、布一重隔つるものがないように思われたので、やや急心になって引寄せて、袖を見ると、着たままで隠れている、外套の色が仄に鼠。
菓子の色、紙の白きさえ、ソレかと見ゆるに、仰げば節穴かと思う明もなく、その上、座敷から、射し入るような、透間は些しもないのであるから、驚いて、ハタと夫人の賜物を落して、その手でじっと眼を蔽うた。
立花は目よりもまず気を判然と持とうと、両手で顔を蔽う内、まさに人道を破壊しようとする身であると心付いて、やにわに手を放して、その手で、胸を打って、がばと眼を開いた。
なぜなら、今そうやって跪いた体は、神に対し、仏に対して、ものを打念ずる時の姿勢であると思ったから。
あわれ、覚悟の前ながら、最早や神仏を礼拝し得べき立花ではないのである。
さて心がら鬼のごとき目を睜くと、余り強く面を圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、遥に且つ幽に、しかも細く、耳の端について、震えるよう。
それも心細く、その言う処を確めよう、先刻に老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の居処を安堵せんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試た。
人の妻と、かかる術して忍び合うには、疾く我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命のないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命よりは便にしたのであるが。
こはいかに掌は、徒に空を撫でた。
慌しく丁と目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に暗を掻探ったが、遮るものは何にもない。
さては、暗の中に暗をかさねて目を塞いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝と今度は腕を差出すようにしたが、それも手ばかり。
はッと俯向き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。
かっと逆上せて、堪らずぬっくり突立ったが、南無三物音が、とぎょッとした。
あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫として、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事不省ならんとする、瞬間に異ならず。
同時に真直に立った足許に、なめし皮の樺色の靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然とした。
靴が左から……ト一ツ留って、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。
たとえば歩行の折から、爪尖を見た時と同じ状で、前途へ進行をはじめたので、啊呀と見る見る、二間三間。
十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方に隔るのが、どうして目に映るのかと、怪む、とあらず、歩を移すのは渠自身、すなわち立花であった。
茫然。
世に茫然という色があるなら、四辺の光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、路もない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷からず、朧夜かと思えば暗く、東雲かと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓の形など左右、二列びに、不揃いに、沢庵の樽もあり、石臼もあり、俎板あり、灯のない行燈も三ツ四ツ、あたかも人のない道具市。
しかもその火鉢といわず、臼といわず、枕といわず、行燈といわず、一斉に絶えず微に揺いで、国が洪水に滅ぶる時、呼吸のあるは悉く死して、かかる者のみ漾う風情、ただソヨとの風もないのである。
その中に最も人間に近く、頼母しく、且つ奇異に感じられたのは、唐櫃の上に、一個八角時計の、仰向けに乗っていた事であった。立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴を近けて差覗いたが、ものの影を見るごとき、四辺は、針の長短と位地を分ち得るまでではないのに、判然と時間が分った。しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、鮮明にその数字さえ算えられたのは、一点、蛍火の薄く、そして瞬をせぬのがあって、胸のあたりから、斜に影を宿したためで。
手を当てると冷かった、光が隠れて、掌に包まれたのは襟飾の小さな宝石、時に別に手首を伝い、雪のカウスに、ちらちらと樹の間から射す月の影、露の溢れたかと輝いたのは、蓋し手釦の玉である。不思議と左を見詰めると、この飾もまた、光を放って、腕を開くと胸がまた晃きはじめた。
この光、ただに身に添うばかりでなく、土に砕け、宙に飛んで、翠の蝶の舞うばかり、目に遮るものは、臼も、桶も、皆これ青貝摺の器に斉い。
一足進むと、歩くに連れ、身の動くに従うて、颯と揺れ、溌と散って、星一ツ一ツ鳴るかとばかり、白銀黄金、水晶、珊瑚珠、透間もなく鎧うたるが、月に照添うに露違わず、されば冥土の色ならず、真珠の流を渡ると覚えて、立花は目が覚めたようになって、姿を、判然と自分を視めた。
我ながら死して栄ある身の、こは玉となって砕けたか。待て、人の妻と逢曳を、と心付いて、首を低れると、再び真暗になった時、更に、しかし、身はまだ清らかであると、気を取直して改めて、青く燃ゆる服の飾を嬉しそうに見た。そして立花は伊勢は横幅の渾沌として広い国だと思った。宵の内通った山田から相の山、茶店で聞いた五十鈴川、宇治橋も、神路山も、縦に長く、しかも心に透通るように覚えていたので。
その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が徒に、黒白も分かず焦り悶えた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう、一間ばかり前途の路に、袂を曳いて、厚い袘を踵にかさねた、二人、同一扮装の女の童。
竪矢の字の帯の色の、沈んで紅きさえ認められたが、一度胸を蔽い、手を拱けば、たちどころに消えて見えなくなるであろうと、立花は心に信じたので、騒ぐ状なくじっと見据えた。
「はい。」
「お迎に参りました。」
駭然として、
「私を。」
「内方でおっしゃいます。」
「お召ものの飾から、光の射すお方を見たら、お連れ申して参りますように、お使でございます。」と交る交るいって、向合って、いたいたけに袖をひたりと立つと、真中に両方から舁き据えたのは、その面銀のごとく、四方あたかも漆のごとき、一面の将棋盤。
白き牡丹の大輪なるに、二ツ胡蝶の狂うよう、ちらちらと捧げて行く。
今はたとい足許が水になって、神路山の松ながら人肌を通す流に変じて、胸の中に舟を纜う、烏帽子直垂をつけた船頭なりとも、乗れとなら乗る気になった。立花は怯めず、臆せず、驚破といわば、手釦、襟飾を隠して、あらゆるものを見ないでおこうと、胸を据えて、静に女童に従うと、空はらはらと星になったは、雲の切れたのではない。霧の晴れたのではない、渠が飾れる宝玉の一叢の樹立の中へ、倒に同一光を敷くのであった。
ここに枝折戸。
戸は内へ、左右から、あらかじめ待設けた二人の腰元の手に開かれた、垣は低く、女どもの高髷は、一対に、地ずれの松の枝より高い。
「どうぞこれへ。」
椅子を差置かれた池の汀の四阿は、瑪瑙の柱、水晶の廂であろう、ひたと席に着く、四辺は昼よりも明かった。
その時打向うた卓子の上へ、女の童は、密と件の将棋盤を据えて、そのまま、陽炎の縺るるよりも、身軽に前後して樹の蔭にかくれたが、枝折戸を開いた侍女は、二人とも立花の背後に、しとやかに手を膝に垂れて差控えた。
立花は言葉をかけようと思ったけれども、我を敬うことかくのごときは、打ちつけにものをいうべき次第であるまい。
そこで、卓子に肱をつくと、青く鮮麗に燦然として、異彩を放つ手釦の宝石を便に、ともかくも駒を並べて見た。
王将、金銀、桂、香、飛車、角、九ツの歩、数はかかる境にも異はなかった。
やがて、自分のを並べ果てて、対手の陣も敷き終る折から、異香ほのぼのとして天上の梅一輪、遠くここに薫るかと、遥に樹の間を洩れ来る気勢。
円形の池を大廻りに、翠の水面に小波立って、二房三房、ゆらゆらと藤の浪、倒に汀に映ると見たのが、次第に近くと三人の婦人であった。
やがて四阿の向うに来ると、二人さっと両方に分れて、同一さまに深く、お太鼓の帯の腰を扱帯も広く屈むる中を、静に衝と抜けて、早や、しとやかに前なる椅子に衣摺のしっとりする音。
と見ると、藤紫に白茶の帯して、白綾の衣紋を襲ねた、黒髪の艶かなるに、鼈甲の中指ばかり、ずぶりと通した気高き簾中。立花は品位に打たれて思わず頭が下ったのである。
ものの情深く優しき声して、
「待遠かったでしょうね。」
一言あたかも百雷耳に轟く心地。
「おお、もう駒を並べましたね、あいかわらず性急ね、さあ、貴下から。」
立花はあたかも死せるがごとし。
「私からはじめますか、立花さん……立花さん……」
正にこの声、確にその人、我が年紀十四の時から今に到るまで一日も忘れたことのない年紀上の女に初恋の、その人やがて都の華族に嫁して以来、十数年間一度もその顔を見なかった、絶代の佳人である。立花は涙も出ず、声も出ず、いうまでもないが、幾年月、寝ても覚ても、夢に、現に、くりかえしくりかえしいかに考えても、また逢う時にいい出づべき言を未だ知らずにいたから。
さりながら、さりながら、
「立花さん、これが貴下の望じゃないの、天下晴れて私とこの四阿で、あの時分九時半から毎晩のように遊びましたね。その通りにこうやって将棊を一度さそうというのが。
そうじゃないんですか、あら、あれお聞きなさい。あの大勢の人声は、皆、貴下の名誉を慕うて、この四阿へ見に来るのです。御覧なさい、あなたがお仕事が上手になると、望もかなうし、そうやってお身体も輝くのに、何が待遠くって、道ならぬ心を出すんです。
こうして私と将棊をさすより、余所の奥さんと不義をするのが望なの?」
衝と手を伸して、立花が握りしめた左の拳を解くがごとくに手を添えつつ、
「もしもの事がありますと、あの方もお可哀そうに、もう活きてはおられません。あなたを慕って下さるなら、私も御恩がある。そういうあなたが御料簡なら、私が身を棄ててあげましょう。一所になってあげましょうから、他の方に心得違をしてはなりません。」と強くいうのが優しくなって、果は涙になるばかり、念被観音力観音の柳の露より身にしみじみと、里見は取られた手が震えた。
後にも前にも左右にもすくすくと人の影。
「あッ。」とばかり戦いて、取去ろうとすると、自若として、
「今では誰が見ても可いんです、お心が直りましたら、さあ、将棊をはじめましょう。」
静に放すと、取られていた手がげっそり痩せて、着た服が広くなって、胸もぶわぶわと皺が見えるに、屹と目を睜る肩に垂れて、渦いて、不思議や、己が身は白髪になった、時に燦然として身の内の宝玉は、四辺を照して、星のごとく輝いたのである。
驚いて白髪を握ると、耳が暖く、襖が明いて、里見夫人、莞爾して覗込んで、
「もう可いんですよ。立花さん。」
操は二人とも守り得た。彫刻師はその夜の中に、人知れず、暗ながら、心の光に縁側を忍んで、裏の垣根を越して、庭を出るその後姿を、立花がやがて物語った現の境の幻の道を行くがごとくに感じて、夫人は粛然として見送りながら、遥に美術家の前程を祝した、誰も知らない。
ただ夫人は一夜の内に、太く面やつれがしたけれども、翌日、伊勢を去る時、揉合う旅籠屋の客にも、陸続たる道中にも、汽車にも、かばかりの美女はなかったのである。
底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房
1995(平成7)年10月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第七卷」岩波書店
1942(昭和17)年7月22日発行
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
※底本編者による語注は省略しました。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2006年1月30日作成
2020年1月15日修正
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