狂歌師赤猪口兵衛
──博多名物非人探偵
夢野久作
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「オ……オ……和尚様。チョ、チョット和尚様。バ……妖怪が……」
まだ薄暗い方丈の、朝露に濡れた沓脱石まで転けつまろびつ走って来た一人の老婆が、疎らな歯をパクパクと噛み合わせて喘いだ。
「ナ……何で御座る。もう夜が明けておるのに……バ……バ……バケモノとは……」
方丈の明障子をガタガタと押開けて大兵肥満の和尚が顔を突出したが、これも見かけに似合わぬ臆病者らしく、早や顔色を失って、眼の球をキョロキョロさせていた。
「おお、そなたはこの間御授戒なされた茶中の御隠居……」
老婆は縁側へ両手を突いたまま、乾涸びた咽喉を潤おすべくグッと唾液を嚥み込んだ。
「……ア……アノ蔵元屋どんの墓所の中で……シ……島田に結うた、赤い振袖の女が……胴中から……離れ離れに…ナ……なって……」
「ゲッ……島田の振袖が……フフ振袖娘が……」
「ハ……ハイ。足と胴体と、離れ離れになって……寝ておりまする。グウグウとイビキを掻いて……」
「ヒヤッ……イビキを掻いて……それは真実……」
「……コ……この眼で見て参じました。今朝、早よう……孫の墓へ参りました帰り途に、裏通りを近道して、祇園町へ帰ろうと致しましたれば……あ……あの桃の花の上がっておりまする、蔵元屋の……お墓の前で……」
すこし落着きかけた婆さんの歯抜け腭が又もガタガタ言い出した。それに連れて和尚の顔色がバッタリと暗くなった。
よしんば、それが狸狐の悪戯にもせよ、人間の死骸とあれば知らぬふりをしておる訳には行かない。さればとて見るのは怖いし、万一真実の屍体であれば係り合いになるかも知れぬと言う当惑からであった。
しかし、それでもヤット決心をしたらしく、和尚は脱けかけた腰を引っ立てて、婆さんに手を引かれ引かれ、真暗い木立に囲まれた裏手の墓地に来た。一際広い真白な石甃を囲らした立派な墓所の中央に立っている巨大な石塔の前まで来ると、ソオ──ッと頸を伸ばしているうちに和尚は年甲斐もなく腰を脱かした。
「ワワワ……ク……蔵元屋の……お……お……お熊さんが……ワワワワ……これは……」
と尻餅を突いたまま悲鳴を揚げた。
「ドド……胴と……足が……ベベベ別々に……ワワワワァ──ッ……」
時は徳川十一代将軍家斉公の享和二年三月十一日、桃のお節句以来、晴れ続いた朝のことであった。
黒田五十五万石の城下、博多の町の南の外れ。瓦焼場の煙渦巻く瓦町を抜けて太宰府へ通う田圃の中の一本道の東側。欝蒼とした欅、榎、杉、松の巨木に囲まれた万延寺裏手の墓地外れに一際目立つ「蔵元家先祖代々之墓」と彫った巨石が立っているのが、木の間隠れに往来から見える。
その巨石を取巻く大小の墓の前には、それぞれに紅と白の桃の花が美しく挿し並べて在ったが、その墓の間々へ物見高い近隣の町の者や、通りかかりの肥汲みの百姓や柴売り、又は近道伝の太宰府参りらしい町人なんどが真黒く、犇々と押しかけて、中央の白い花崗岩の石甃の上を、折重なるように凝視している。その顔が一つ一つにタマラナイ程引き歪められているのは、死人の腥い臭気に鼻を撲たれているせいばかりではなかった。燃え立つような緋縮緬の襦袢一つにくるまった、透きとおるほど色の白い、水々しい高島田の手足と胴体が、まるで蜻蛉か蝗でも引千切ったかのように腰の番いからフッツリと切離されたまま、冷たい、固い石甃の上に無造作に投出されている……という世にも無残な、おそろしい姿に、顔を背向けようとして反向けられないでいる苦悶の表情に外ならなかった。
その中央によろめき出た万延寺の和尚は、さすがに商売柄、着流しの上に略袈裟を掛けていた。右手に燻りかえる安線香の束を持ち、左手に念珠を掛けながら、膝頭をガクガクさせて「南無南無南無」と言うばかり。今にも気絶しそうな腰構えである。その股倉から覗くように最前の老婆が手を合わせたまま石甃の上にひれ伏していた。
「南無大慈大悲観世音菩薩。種々重罪五逆消滅。自他平等即身成仏……南無南無南無……」
そうした念仏の中に一人の若い衆じみた頬冠りの男が、恐れ気もなく死骸の傍に跼んで、燃え立つような湯もじの裾をまくってみたり、女の髪の元結いの結び目を覗きまわったり、有り合う木切れを拾い上げて、女の口をコジあけて、黒血の一パイに溜まっている奥の方を覗いてみたりしていた。
「アレが目明の良助さんばい」
「ウン。あの人が御座りゃあ下手人は一刻の間にわかる」
「いったい何処の娘かいナ」
「今和尚さんが言い御座ったろうが。福岡一の分限者の娘たい」
「福岡一の分限者?……」
「蔵元屋の一人娘たい」
「ゲッ。あの……蔵元屋の……アノ博多小町……」
そんなヒソヒソ話が急に途切れて皆、一時にバラバラと逃出しそうな身構えになった。
目明の良助が、死骸の顔を上向けて、切れ目の長い瞼に両手をかけながら一パイに引き開いたからであった。
「キャ──ッ……」
「おそろしいッ……」
と言う震え声の中に女どもが二、三人バタバタと遠退いた。
「ええ。静かにせんか……」
目明の良助は罵りながら、死骸の袖口で両手の指先を拭いて立上った。静かに背後の和尚をかえりみた。
「和尚様。済みませんが莚を二つばかり貸いて下さらんか……」
「ヘイヘイ。それはモウ。南無南無……」
「アッ。蔵元屋の御寮さんが見えた。旦那どんも一緒に……」
口々にそう言う人垣を押しわけて四十恰好の婀娜っぽい女房が入って来た。眉の痕の青い櫛巻髪に黒繻子の腹合わせ帯。小紋まがいの裾を引擦った突かけ草履の脛も露わに、和尚と良助を突飛ばすようにして死骸の傍に走り寄ると……ワッ……とばかりに取縋って泣出した。
「まあ、お熊……お前はまあ何と言う……ダダ……誰が斯様なこと、したかいなあ……」
そのアトから人を分けて入って来た半白髪の恰幅のいい老人は、女房の肩ごしに娘の死骸を一眼見るや否や、両手をシッカリと握り合わせたまま石甃の上にドスンと尻餅を突いてしまった。両眼を閉じて唇をワナワナと震わしたが、一言も物を言い得ないまま「ハアア──ッ……」と骨身に泌みるようなタメ息を一つして、涙をハラハラと流した。
その肩に取縋った女房は、息も絶え絶えに泣きじゃくって身を震わした。
「ええッ。このような残酷い事をば誰がした……誰がした……タ……タッタ一人の大切な娘をば……祝言の日を前にして……ええッ。誰がした。誰がした。誰がした事かいなあッ……」
その声は、さながらに腸を絞る悲痛な声に変って、涙と一緒に迸るのであったが、しかし蔵元屋の主人は、やはり眼も口も開かなかった。両手をシッカリと拝み合わせて尻餅を突いたまま肩を戦かしてタメ息をするばかりであった。
死骸から遠退いて腕を組んだまま突立っていた目明の良助は、そうした二人の態度から眼を離さなかった。そこから何かしら事件の秘密を見て取ろうとしているらしく瞬き一つしなかった。
そのうちに蔵元屋の番頭や若い者らしく、身軽に扮装った男が四、五人、息堰き切って駈付けて来た。ソレ莚よ、棺桶よ、荷い棒よと騒ぎ始めた。
「ああ。コレコレ。蔵元屋の若い衆。ちょっと待った。只今、御目付の松倉十内様が御検屍として御出役になる迄は、その死骸に指一本指すことは相成らんぞ。それよりも誰か、この辺の名主を呼んで来て受持たせなさい。それまで古い莚をかけるか何かして確と番をしておんなさい。わしは目明の良助じゃ」
蔵元屋の夫婦と若い衆は、そうした言葉を聞くと今更ビックリしたように死骸の周囲から飛退いた。目明良助の名を知っているらしく、揃ってペコペコとお辞儀をし始めた。
その夫婦の顔をジロリと見まわした良助は、頬冠りのまま和尚の袖を引いて、二人で墓原を分けながら方丈の方へ引返して行った。その途中の群集から遠ざかった古井戸の傍で立止まって、暫く考えていた良助はフト思い出したように跟いて来た和尚に問うた。力を籠めた低い声で……。
「ナア……和尚さん……」
「ヒエッ……」
和尚はビックリして飛上った拍子に、線香を取落したまま立辣んだ。その線香を拾い上げて遣りながら良助はニヤニヤと笑った。
「フフフ。其様にビックリせんでもええ。ほかでもないがなあ和尚さん……」
「ヒエッ。早や……下手人が……お……おわかりになりましたので……」
そう言ううちに和尚はモウ眼を白くして膝頭を戦かせ始めた。その法衣の袖を引っぱりながら良助は歩き出した。
「ハハハ。まあさ。そう狼狽えなさんな。下手人どころか……まだ斬られた女の身の上さえ、わかっちゃおらん」
「ゲエッ。御存じない」
和尚は又、眼を丸くして立止まった。
「イヤサ。蔵元屋の娘に相違ない事だけは、あの両親のソブリだけでもわかっとるが、それにしても腑に落ち兼ねることがアンマリ多過ぎるので、実は思案に余っておりますてや」
「ヘエ。腑に落ちぬにも何も、あの美しい娘御が……コ……こげな恐ろしい事になろうとは……事もあろうに胴切りの真二つなぞと……」
和尚の眼に初めて涙らしいものが湧いて来た。死骸から遠ざかるに連れて、やっと人間らしい気持になって来たのであろう。
「さあ。その胴切りの真二つが、テッペンからわかりませんテヤ。なあ和尚さん。イクラ据物斬りでもあれだけに腕の冴えた町人が、福岡博多におる筈はない……」
良助が独言のように言った言葉を聞咎めた和尚はギックリとして又立止まった。その魘えた眼色を見返した良助も一緒に立止まってニッコリ笑った。
「……ところで和尚さん。元来あの蔵元屋は昔からこの万延寺でも一番上等の檀家で御座いましつろうがなあ和尚さん」
「ヘエヘエ。それはモウ良助さん。御本堂の改築から何から、いつでも一番の施主で御座いましてなあ」
「ウン。そんなら、お尋ねしますが、あの斬られた娘の両親の中でも、あの父親は腹からの町人で御座いまっしょう」
「ヘエヘエ。それは拙僧が一番良う存じております。あの蔵元屋の御主人の伊兵衛どんと申しまするは元来、蔵元屋の子飼いの丁稚上りで、モトは伊之吉と申しました者……」
「ウムウム。それでのうては辻褄が合わぬような気がする。とにかくこれは余程コミ入った容易ならぬ事件じゃ。ところであの母親の方はドウヤラ継母と私は睨みましたが……」
和尚は良助の明察にギョッとしたらしくよろめいた。
「……ど……どうして御存じ……」
「タッタ今、臭いと思いましたがな……」
「ソ……それではあの母様が下手人……」
和尚は一層、青くなって唇を舐めた。
「ハハハ。まさかあの女房が据物斬りの名人では通りますまい」
「な……な……なるほど……」
「ハハハ。ソコにはソコがありまっしょうがなあ。とにかく継母には相違御座いますまい」
「……ま……まったくその通りで。お前様は見透しじゃ」
「その前の母様……今の斬られた娘の実の母親と言うのは……」
「ハハイ。あの娘御の実の母様の名は、たしかお民とか申しましたが、それはそれは賢いお方で、元来あの蔵元屋の家付のお嬢さんで御座いました。つまり今の伊兵衛どのは御養子で御座いますが、何を申すにも黒田様の御封印付のお金預りという大層もない結構な御身分……」
「へえへえ。それは存じておりまするが、それならば今の御寮さんは……今の斬られた娘の継母どんの元の素性は……」
「……ヘイ。あれはソノ……何で……」
「構わずに聞かせて下されませ」
「ヘイ。何でも相生町の芸妓衆とかで、素性もアンマリ良うないと言う世間の噂で御座いましたが……南無南無南無……」
「ふうむ。名前は……」
「たしかオツヤとかオツルとか……イヤイヤ、オツヤさんと申します筈……」
「ふうむ。おツヤどん……年も二十くらい違いますのう……御主人と……」
「さようで……あの斬られたお熊さんと十五違いぐらいで御座いましょうか……いつもお二人で仲よく当寺へお参りになりましたもので、他目には実の親娘としか見えませぬくらい仲が宜しゅう御座いましたが……南無南無南無……」
「ふうむ。不思議不思議……ほかにあの蔵元屋の家付の者はおりまっせんかナア。たとえば番頭ドンとか、御乳母さんとか」
「ホイ。それそれ。そのお乳母さんが一人おりますわい。あの娘御の小さい時からのお乳母どんで、たしかお島どんという四十四、五の……」
「ふうむ。そのお島どんと、今の後妻のおつやどんとの仲はドゲナ模様か、御存じありますまいなあ」
「さようさナア。三人一緒にお寺参りさっしゃる事もないでは御座いませぬが、それよりお島どんがタッタ一人で、よく前の奥さんのお墓を拝みに見えました」
「前の奥さんのお墓を拝みに……なるほどなあ。そげな事じゃないかと思うた。イヤ良え事を聞きました。話の筋が通って来ます」
「そうしてなあ良助さん。そのお島どんがなあ……御存じかも知れんが、当寺の本堂の……ホラ……あすこの裏手に住んでおりまする非人の処へイツモ立寄って行きましたそうで……これは寺男の話で御座いまするが……」
「ハハア。あの非人の歌詠みの赤猪口兵衛の処へ……」
「ホオ。良助さん。あの非人を御存じで……」
「知っておるにも何も、私とは極く心安い仲で……ヘヘエ。あの赤猪口爺の処へ、そのお島どんが来おるとは知らなんだ」
「ヘエ。滅多に見えませんがなあ、お島どんは……それでも御座るとアノ非人を相手に長い事話し込んで御座ったという話で……」
「イヤ。重ね重ねよい事を聞きました。ところでその赤猪口爺は今おりますかなあ」
「さあ。今朝は珍しゅう早よう何処かへ出て行きおったと寺男が申しておりましたが……」
「ナニ。今朝早よう……ふうむ……」
本堂に近い柴垣の処で立止まった良助は、又もや腕を組んで、今出て来た墓所の奥の暗がりを振返った。その頬冠りの蔭の物凄い眼付を見ると和尚が又もやガタガタ震え出した。
「……も……もしやあの……非人が下手人では……」
良助は返事をしなかった。暫く考え込んでいたが、やがて思い出したように頭を振った。
「わからんわからん。何が何やらサッパリわからん。……とにかくあの赤猪口爺を探し出いて、口を割らせて見んことには、見当の付けようがない」
博多瓦町はずれ。筑紫野を見晴らす大根畠と墓原の間の小径の行止まりに、万延寺の本堂と背中合わせにして一軒の非人小舎がある。もっとも非人小舎とは言うものの、その小径の左右に、何処かの火事の焼跡から拾って来たらしい大きな焼木杭が二本、洒落た門構えの恰好に立っているのが、その奥のガラクタ小舎とは不釣合いな奇抜なものに見える。しかもその二本の焼木杭の左右の目通りの高さに、錆びた五寸釘を一本ずつ打込んで、これも程近い那珂川縁あたりから拾って来たらしい、鼻緒も何もないノッペラボーの古下駄を二つ掛け並べて、右の方には狂歌師、坂元寓と達筆な二川様、左の方には、定家様くずれの行書面白く取交ぜて、
坂元の家は明智のざまの助
落着く先は瓦町のさき 赤猪口兵衛
と彫って朱が入れて在る。大方、石塔に入れる朱漆の残りを貰ったものであろう。
そうした門構えを入ると、本堂の阿弥陀様と背中合わせの板敷土間に破れ畳の二畳敷、竹瓦葺の板廂、ガタガタ雨戸に破れ障子の三方仕切は、さながらに村芝居の道具立をそのまま。軒先には底抜け燗瓶の中心に「く」の字型の古釘を一本ブラ下げた風鈴一個。短冊代りに結び付けた蒲鉾板の裏表には、これも定家様で彫込んだ狂歌に朱が入れてある。
すたれ釘世をすぢかいになり下る
底抜け徳利のチリンカラカラ
古釘と底抜け徳利の風鈴は
阿弥陀も知らぬ極楽の音
その蒲鉾板の裏表を手に取って引っくり返して見ながらニッコリと笑った良助は、その前の雨戸をガタガタと叩いた。大きな声で呼んだ。
「猪口兵衛どん、猪口兵衛どん。良助じゃ、良助じゃ」
雨戸の内側はシインとして人の気はいもない。
「モシモシ。坂元の孫兵衛どん。孫兵衛どん。御座るか御座らんか。まあだ寝ておんなさるとナ……。オイオイ」
と言うて耳を澄ますうちに、今たたいた雨戸が外側へバッタリと外れかかるのを、良助は慌てて両手で受止めながら小舎の中を覗き込んだ。思わずつぶやいた。
「おらん。このサ中に何処へ行たもんじゃろか……あの朝寝坊が……」
それから毎日のように晴れ続いた福岡博多の狭い町々に、蔵元屋の騒動の噂が隈もなく行き渡ってしまった三日目……三月十三日の正午下り。春も闌の遅桜、早桃が見渡す限りの筑紫野の村々に咲き乱れて、吾れ勝ちに揚る揚雲雀も長閑な博多東中洲の野菜畑の間を縫うて行く異様な二人連れがあった。
先に立って行くのは二十四、五のスラリとした若い男。色の黒い、眉の濃い、眼の鋭い、それでいて何処となくイナセな体構えが、箱崎縞に小倉帯、素足に角雪駄、尻端折に新しい手拭で頬冠りをしている。当時、福岡の種子屋六兵衛老人と並んで、博多随一と呼ばれている捕物上手の目明、良助。
あとから跟いて行くのは乞食体の不快な臭気のする老爺。大酒飲みと見えて顔色が赤ぼったく垂弛んで、両眼の下瞼がベッカンコーをしたように赤く涙ぐんでいる上に、鼻の頭がテラテラと赤熟れになっている処は、何がかなしに人を馬鹿にした面構えである。月代と鬚は近頃剃ったものらしいが、何を使ってどうして剃ったものか、アチコチに切込疵だらけで、ところマンダラに毛が残っているのが、ホコリだらけの町人髪。まだ夏にもならぬのに裾縫の切れた浴衣一枚を荒縄の帯で纏うた、真黒い素跣足。何にするのか腰に赤い、新しい渋団扇を二、三本差したまま、目明の良助の後からヨチヨチと那珂川に架かった水車橋を渡って行くうちに、二人とも揃って前後を見まわした。あたりに人通りの絶えた処を見澄ますと、互いにうなずき合いながら仲よさそうに話し始めた。
「一体全体、猪口兵衛どん。アンタはこの二日二夜、何処に消え失せて御座ったもんかいナ」
「アハハハ。この頃は忙がしゅうてなあ。花の咲く頃は毎年の事じゃ。あっちの花見酒で酔い潰れ、こっちのお祝い酒で奢り潰されてなあ」
「太平楽なにも程がある。わしゃこの二、三日、寿命を縮める思いをしながらアンタの行方を探いておったがなア」
「アハハ。さすがの目明良助どんもこの私の行方ばっかりは、わかり難かったろうなあ。……ところでその用と言うのは何事かいな……」
「……ほかでもないがなあ猪口兵衛どん。あの博多一番の分限者の一人娘で、蔵元屋のお熊さんチュウテなあ。十八か九の別嬪が、一昨日の朝早よう、万延寺の菩提所で、胴中から真二つに斬られとった騒動なあ……最早、聞いておんなさるじゃろう」
「聞いとる処か。私の穴倉からツイ鼻の先の出来事じゃもの。あの朝早よう、イの一番に見て置いたが、残酷い事をしたもんじゃなあ。胴中から右と左の二段にタッタ一討ちの腕の冴えようは、当節の黒田様の御家中でも珍しかろう。そればっかりじゃない。口の中に真黒い血が一と塊泌み出いておる処を見ると、これは尋常事じゃないと気が付いた故、今日がきょうまで世間の噂を探りおったものじゃがなあ」
良助は頬冠りの上から頭に手を遣った。
「ウワア。さすがは猪口兵衛どん。もうアンタに先手を打たれたか」
「先手なら商売柄アンタの方じゃろう。モウ当りが付いたかいな」
「そ……それが、まあだカイモク付いとらんたい」
「付かん筈がないがなあ。あの黒い血は毒殺した証拠じゃろう」
「そこじゃ、そこじゃ。あの口の中の硫黄臭いところは擬いもない岩見銀山の鼠取り……」
「ふん。その岩見銀山の鼠取りなら昔から大抵女の仕事ときまっとらせんかなあ」
「エライ。さすがは猪口兵衛どん……わしもそこを睨んどる」
「つまり殺いたのは女で、斬ったのは男という事になりまっしょう」
「そこじゃ、そこじゃ。そこであの死骸を蔵元屋から担い出いた大風呂敷か何かが、そこいらに棄てて在りはせんかと一所懸命に探しまわったが、怪しい縄一筋、細引一本見当らんじゃった。これは大方手がかりになると思うて何処かへ隠いてしもうた物と睨んどるが、しかし又、万一そうとすればこの一条は、よっぽど深う、巧みに巧んだ仕事で、もちろん尋常の試し斬りや何かじゃない。事によるとこれは福岡中の目明を盲目扱いにした大胆者の所業ではないかと気が付いたわい」
「エライ、エライ。そこまで気が付けば今一足で下手人に手がかかる。さすがは博多一の目明の良助さん」
「おだてなさんな、面目ない。アンタの見込みはドウかいな」
「アンタの事なら隠す事はない。洗い泄い話してみるけに、まあ聞いてみなさい。あの朝は酔い醒めで、暗いうちから眼が醒めておったものじゃが、あの辺は知っての通り森閑と静まり返っておるのに、足音一つ、人声半分聞かんじゃった。それにあの森の奥の方角で、何とも知れぬ気合いの声がタッタ一声「エイッ」と聞こえただけで、アトは又森閑としてしもうたけに、不思議な事と思うてソロソロ起上って、あの墓所まで来てみると、思いもかけぬ無残い姿の仏様じゃ。しかも死に胴を斬った証拠に血が出ておらん。アンタもそこに気が付いて口の中を覗いてみなさったものじゃろうが……感心感心……一度、痕跡も残さずに拭い上げた口の中の黒血の残りが、斬られて投棄てられる拍子に、仏様の咽喉からセグリ上げて来ようなぞとは閻魔様でも気が付かん事じゃろう。悪い事は出来んという天道様のお示しじゃ。そこでドウかいな。アンタ程の人がそこまで睨んでおんなさるなら、今一足で下手人の肩に手が届くと思うがなあ」
「それが、まだ届いとらん」
「ハアテ……なあ……」
「イヤ。これはイクラ猪口兵衛どんでも知らっしゃれん事じゃが、私がこの事件に限って匙を投げかけておるについては、深い仔細があることじゃ。実を言うとなあ。ほかの家の中の出来事なら、その日のうちに洗い上げるくらい何でもない事じゃが、あの蔵元屋に限って歯が立たん……」
「アッ。成る程。これは尤もじゃわい」
「なあ。そうじゃろう。何を言うにもあの蔵元屋と言うのは博多切っての大金持の為替問屋。御封印付のお納戸金を扱うておるほどの店じゃけに、万に一つも家柄に疵が付いてはならぬ。御用姿で踏込んで店の信用を落いてはならぬ。まかり間違うて大公儀の耳にでもそげな事が入ったなら、直ぐさま、黒田五十五万石のお納戸の信用に差響いて来るやら知れぬ話じゃけに、成る限り大切を取って極々の内密に、しかも出来るだけ速よう下手人を探し出せと言う大目付からの御内達で、お係りのお目付、松倉十内様も往生、垂れ冠って御座る。もちろん毒殺とあれば、何か知らん蔵元屋の内輪の紛糾から起った話に間違いないが、その肝腎の蔵元屋の内輪の様子がちっともわからん。指一本指されんと来とる」
「成る程なあ。無理もないわい」
「何を言うにもあの蔵元屋と言うのは、黒田五十五万石の御用金を扱うておる信用第一の店じゃけに、よほど秘密を口禁っとると見えて、イクラ上手に探りを入れても丁稚、飯炊女に到るまで、眼の球を白うするばっかりで、内輪の事と言うたら一口も喋舌り腐らん」
「それはその筈じゃ。喋舌らせようとする方が無理じゃ」
「そこで今度は方角を変えて、近所隣家や出入りの者の噂から探りを入れてみると、あの斬られた娘のお熊と言うのは、実を言うと先妻の子で、今の母親とは継しい間柄じゃげな。ところでその今の母親と言うのは前身は芸妓上りと言う事で、まだ色も香も相当残っとる年増盛りじゃが、そのような女にも似合わず、生さぬ仲のお熊を可愛がる事と言うものは実の母親も及ばぬくらいで、トテモ世間並を外れとる。お熊が五歳か六歳の頃から、奥座敷で二人ぎりの遊び相手になり始めたなら、日の暮れるのも忘れるくらい。何から何まで人手にかけずに育て上げて、ようよう妙齢になって来ると、裁縫だけは別として、茶の湯、生花、双六、歌留多、琴、三味線、手踊りの類を自分の手一つで仕込んだ上に、姿が悪うなると言うて、お粥と豆腐ばっかり喰わせおる。とんと芸妓の仕込みをそのままの躾けよう……」
「フフフ。その通り、その通り。なかなか良う調べが届いとる」
「その骨折りの甲斐があってか、去年の十二月に御城下でも蔵元屋に次ぐ金満家、福岡本町の呉服屋、襟半の若主人で、堅蔵で悧発者という評判の半三郎という男の嫁にという話が纏まって、結納まで立派に済んどる。本人同士もナカナカの乗気で、この三月の末には祝言という処まで進んでおったという話……」
「ホンニなあ。まことに申分のない結構な縁談じゃったがなあ……しかし又、ようそこまで探り出さっしゃったなあ」
「アンタに賞められると話す張合いがある。……ところがなあ。吉い事には魔が翳すちゅうてなあ。アンタも知っておんなさるか知らんが、この縁談に一つの大きな故障が入ったらしい」
「ほオ。これは初耳じゃ」
「ふうむ。アンタも初耳かいなあ」
「ハハハ。初耳どころか。この縁談ばっかりは大丈夫、間違いのない鉄の脇差と思うて、結納の済んだ話を聞いて以来、安心し切っておったがなあ。一体その故障と言うのは何かいなあ」
「それは、ほかでもない。この二月の初め頃から日田のお金奉行の下役で野西春行という若侍が、蔵元屋へチョイチョイ出入りするようになった」
「エライッ……」
と赤猪口兵衛が両手を打合わせて立佇まった。口をアングリと開いて良助の顔を見守った。
「さすがは良助どんじゃ。あの若侍に目が付いたか」
「眼が付かいで何としょう。縦から見ても横から見ても土地侍とは見えぬ人体じゃもん」
「うんうん。上方風の細折結に羽二重の紋服、天鵞絨裾の野袴、二方革のブッサキ羽織に、螺鈿鞘、白柄の大小、二枚重ねの麻裏まで五分も隙のない体構え。あれで算盤弾くかと思われる筋骨逞しい立派な若侍じゃ。何処とのう苦味走ったアクの利く眼の配りは大阪役者なら先ずもって嵐珊吾楼どころ……と言うあの侍じゃろう」
「ウン。それそれ。あの侍が蔵元屋へ出入りするようになってから、今まで口八釜しゅう娘の婚礼仕度の指図をしておった継母が、何とのう気の抜けたようになった。晴れ晴れしゅう進んでおった蔵元屋の祝言の支度が、いつからとものうダラダラになって来た。鼈甲屋や、衣裳屋、指物屋なぞの出入りが間遠になって来たのは、どうも怪訝しいと言う近所界隈の取沙汰じゃ……吾々もドウモそこいらが臭いような……事件の起りはその辺ではないかと言いたいような気持がするが、それから奥の深い事情が一つも判然らんけに困っとる。何を言うにも外から聞いた噂ばっかりが便りじゃけになあ……」
「アハハ。大きにもっともな話……」
「……又、大目付様からの御内達で、どのような場合でも蔵元屋の内幕に立入って、蔵元屋の信用に拘わるような事を探り立てしてはならぬ。しかも罪人は一刻も早よう引っ捕えいと言う注文じゃから先ず、これ位、困難しい探偵事件はなかろうわい。のみならず万一、この一件が片付き兼ねる……下手人がわからぬとなると吾々は元よりの事、御主人の松倉様まで、十手捕縄を返上せにゃならぬかも知れぬと言うので、松倉十内様は今のところ青息吐息、青菜に塩の弱りよう……」
「ちょっと良助さん。お話の途中かも知れんが、その日田のお金奉行というものは初めて聞くが一体、何様なお役人かいなあ。又その下役の野西ナニツラと言う若侍が、蔵元屋へ入り込んで来た由来は……」
「そこたい、そこたい。そこが私達の気を揉まする急所たい。実は私も委曲しい事は知らんがなあ。お目付の松倉さんから聞いた話を受売りするとなあ……豊後の日田という処は元来天領で、徳川様の直轄の御領分じゃ。何にせい筑紫次郎という筑後川の水上に在る山奥の町じゃけに、四方の山々から切出いて川へ流す材木というものは夥しいものじゃ。そこでその材木を引当てに大公儀から毎年お金が貸下げられる」
「ハハア。噂に聞いた『日田金』と言うのはその金の事じゃないかいな」
「ソレソレ。その日田金がドウヤラ今度の振袖娘胴切の事件の発端らしいケニ、世の中はどう持ってまわったものかわからん」
「ハアテなあ。私の思惑がチット外れたかナ」
「外れたか外れぬか、わからんがまあ聞いてみなさい。その日田金を日田の材木屋が下請けのようにして、日田の月隈の奉行所に御座る大公儀の御金奉行の監督を受けながら、九州の諸大名の城下城下におる御用金預り……博多で言えば蔵元屋のような主立った商人にソレゾレ貸付ける。その金で七州の諸大名の懐合いの遣繰りが付くという順序になっとる。そうすると日田の御金奉行は、その日田金を手蔓にして諸大名のお納戸金の遣繰りを初めとして、知行高の裏表、兵糧の貯蔵高まで立入ってコト明細に探り出す。謀反の兆でもあれば、何よりも先に日田のお金奉行にわかる。不審な処でもあれば直ぐに江戸へお飛脚が飛ぶ。大公儀から直接のお尋ねが突込んで来ると言う。言わば大公儀から出た諸大名の懐合いの見かじめ役が、日田の御金奉行じゃけに、その威光というものは飛ぶ鳥も落す勢いじゃ」
「ハハア。成る程……われわれ非人風情には寄っても付けぬ初耳の話じゃ。しかしお蔭で話の筋道がダイブわかって来た」
「……それじゃけにその手先の若侍と言うても大した者ばい。現在、蔵元屋に入り込みおる野西とか言う侍でも、黒田五十五万石を物の数とも思わぬ海千山千の隠密育ちに違いない。博多随一の鶴巻屋を定宿にして、蔵元屋の帳面をドダイにした黒田藩の財政を調べに来よるに違いないがなあ」
「フン。そいつが一人娘のお熊の綺倆を見て、俺にくれいとか何とか言うて一睨み睨んだという筋になるかナ」
「うむ。先ずそこいらかも知れんがなあ。当て推量はこの際禁物じゃ。相手が相手じゃけに滅多な事は考えられぬ」
「それはそうじゃ。ハハン」
「何にしても蔵元屋では徒や疎かには出来ぬお客じゃけにのう。そこへ起った今度の騒動じゃけに、そこには何かヨッポド切羽詰まった内輪の事情が在っての事……とまでは察しられるが、その事情を察する手がかりが一つもないので難儀しよるたい。大体大目付の注文が無理と思うが」
「ハハハ。封印したビイドロ瓶の中味をば外から舐って、塩か砂糖か当てよという注文じゃけになあ。臭いさえわからぬものを……」
「そればっかりじゃない。事件の起りが三月の十一日じゃろう。それから十二、十三と三日も経っとるのに下手人がわからんとは余りにも手緩いちゅうて、大目付から矢の催促じゃ」
「ふうん。それは法外じゃ。上役と言うものは下役の苦労を知らんのが通例じゃが……」
「……と言うのが……何でもその日田の御金奉行の野西春行という若侍が、あの騒動の起って以来、毎日、御城内の大目付、川村様のお役宅に押しかけて来て、この騒動がいつまでも片付かねば蔵元屋の信用にかかわる。蔵元屋の信用がグラ付けば、黒田藩の財政の信用がグラ付いて来て、蔵元屋に入れた日田金の価値が下がって来る。黒田五十五万石の勝手元に火の付くような事になろうやら知れぬ。さようなれば吾々も役目柄、その通りに大公儀へ申上げねばならぬが……サア、サア、サアとか何とか難癖をつけて催促をしおるらしい。さすが明智の川村様も弱り切って御座るという話……」
「アハハ。大方それは袖の下の催促じゃろう」
「もちろんじゃ。トテモこの下手人には吾々の手が及ばんと見て取っての無理難題の悪脅喝。やけに腹が立つわい」
「腹が立つのう。今に眼に物を見せてくれようで……」
「その上に、これも松倉どんから聞いた話じゃが、あの蔵元屋の後妻が野西の尻に付いて、場所もあろうに大目付の役宅へシャシャバリ出て『可愛い娘を祝言前に殺されて妾ゃ行く末が暗闇になりました。この下手人がわからねば妾ゃ死んでも浮かばれまっせん。そう思うております故、あれから毎晩、腰から下、血だらけになった娘のお熊が枕上に立ってサメザメと泣きまする』とか何とか言うて高声を立てて泣き崩れたとか言う話じゃが……」
「ふうむ。そこいらの話がダイブ臭いのう。芝居も大概にせんと筋書が割れるが……」
「さればと言うて臭いという証拠は何処にも在りゃせん」
「アハハ。五十五万石の大目付、丸潰れと来たなあ」
「それでももしや、お熊の縁談から起った意趣、遺恨じゃないかと思うて、襟半の方へ探りを入れてみると、花婿の半三郎も、今は隠居しとる父親の半左衛門夫婦も、神信心の律義者という評判に間違いないらしい」
「それは毛頭間違いない。質素とした暮し向きでもわかる」
「のみならず、結納まで済んだ話が、寝返りを打たれそうになっている事なぞはツイこの頃まで気付かずにおったらしく、騒動の起ったその日までコツコツと祝言の準備をしておった様子。よしんば知って知らぬ振りをしておったにしても、屍体を胴切りにするような大胆者が、襟半に出入りする模様なぞはミジンもない。理不尽に引っ括って痛め吟味にでも掛ければ、直ぐにも冤罪を引受けそうな気の弱い連中ばっかりじゃ。それじゃけにお目付の松倉さんはどっちかと言うと襟半をタタキ上げて事を片付けたい口ぶりらしいが、しかし襟半から手を廻わいて蔵元屋の娘を毒殺するというような筋合いは、どう考えてもないと言うて、私が一人で突張っとるがなあ」
「それは当り前の話じゃ。襟半の内輪を知り抜いとる私が証人に立っても宜え。昔から腕前のない、手柄望みの役人は、すぐに弱い正直者を罪に落そうとするものじゃてや」
「とは言うものの、蔵元屋の方も、家内の模様さえまだわかっておらぬけに、松倉どんもバッタリ行詰まって御座るが、さればとてほかには何の手も足もない。この良助を捕まえては、まだかまだかと言う日増しの催促じゃが、今度の事件ばっかりはイカナ俺も手に立たぬ。これ位、理屈のわからぬ不思議な人斬り沙汰は聞いた事もないけになあ」
「そうたいなあ。理屈のわかる時節が来たなら二度ビックリするような話が、底の方に隠れておろうやら知れん」
「そこでトウトウ思案に詰まった揚句がアンタの事じゃ。いつも何かと言うと私の知恵袋にしておったアンタを、直接に松倉様に引合わせて、私とも膝をば突合わせたなら、三人寄れば何とやら、よい知恵が出まいとも限らぬ……と言う私の一生涯の知恵を絞ったドンドコドンのドン詰めの思い付きじゃが、ドウかいな。都合のよい御返事を申上げて貰うたなら一杯奢るが……」
「成る程なあ。それはドウモ……聞込み見込みなら在る処じゃない。今更言うまでもない事じゃが、あのお熊さん胴切の一件についてこの赤猪口兵衛に目を付けなさった処は、さすがに良助さんじゃ」
「チッ。又おだてる……実は私が直接にアンタの話を聞いて、それを私の聞込みにして、お目付に申上げても済む事じゃが、それではイツモの通りお前の手柄を横取りするような恰好になるけに気持が悪い……のみならず今度の一件は、模様によると日田のお金奉行を相手に取るような事になろうやら知れぬ。黒田五十五万石の浮き沈みに拘わる一か八かの勝負に落ちるかも知れぬと思うたけに、特別に念を入れた極く内々の手配りで取りかかりたい私の考えじゃ。そこでこうして御迷惑じゃが、春吉三番町の松倉様のお屋敷まで、同道して貰うた訳じゃが……」
「何の何の。滅相な。アンタのように物堅う話をさっしゃると身体が縮まります。非人同然の私が、お目付様のような大層な御身分の御方にお眼にかかる事が出来れば、それだけでも肩身が広うなりまする。勿体ない話じゃ」
「断るまでもないがその代りに、お取調の模様は言う迄もない、今日お目付へお眼にかかった事までも、事件が片付かぬうちに他所へ洩らいたなら、アンタの首がないけになあ。その積りで承知して置いて貰わんと……」
「それはモウ万事心得の承知の助。アトで一杯飲ませて貰いさえすれば、首の一つや二つ何のソノじゃ……」
「冗談言いなさんな。アンタの首なら構うまいが、私の首となるとチットばかり惜しいわい」
「アハハハ。そこで一首浮かんだがな」
「ホホオ。何と……」
「これは私の心意気じゃ……
この首を熱燗十本で売りませう
損得無しの一升一生……」
「アハハ。馬鹿らしい。イヤ。何かと言ううちに向うに見えるが松倉様のお邸じゃ。あの珍竹垣から夾竹桃の覗いとる門構えじゃ。わしは役目柄ズッと入るけに、アンタはすこし遅れて、いつもの通りの物貰いの風で、人にわからん様、入んなさいや」
「おっとアラマシ承知の助。そのために挿いて来た腰の渋団扇じゃ。アハハハ……」
「何もかも知って御座る限りタネを打割って申上げて下されや」
「オッと待ったり。そのタネの明かし工合は松倉さんに会うてみてから考えましょうわい。何にせいお初のお目見得じゃけに松倉どんがドレ位の御人物やらコッチもさっぱり見当が付かぬ。六分は他人、四分内輪の貧乏神と行きまっしょうかい。向う恵比寿の出た処勝負じゃ。ハハハ。鬼が出るか、蛇が出るか……」
目明の良助に誘われた乞食体の狂歌師、赤猪口兵衛は二、三本の渋団扇を縄の帯に挿したまま、春吉三番町のお目付役、松倉十内国重の玄関脇の切戸から、狭いジメジメした横露地を裏庭の方へ案内された。平たい庭石の上に用意して在った炭俵の上にガサガサと土下座をすると、頬冠を取った目明の良助は、その側から少し離れて、型の如く爪先立ちに跼まった。
この家の主人、黒田藩のお目付役、当時蔵元屋の娘胴切り事件のお係りとなっている松倉十内国重は、縁側に座布団と煙草盆を置いて、小倉袖、着流しのまま威儀を正した。青黒く逞しい四十恰好の堂々たる武士である。
「……良助。御苦労であったぞ……その方が赤猪口兵衛か」
「ヘエ。坂元孫兵衛と申しまするが本名で……ヘエ。以前は博多竪町の荒物屋渡世……当年五十六歳で……ヘエ……」
と淀みなく言ううちに涙ぐんだ赤んべえ面を上げて水洟を一つコスリ上げた。それだけでもチョッと人を舐めているらしく見える。松倉十内国重は、今更のように肩を怒らして銀煙管を膝に取った。
「ウム。これは役柄をもって相尋ねるが、その方は只今も申す通りズット以前は博多の荒物屋渡世。大酒のために一家分散して昨今は博多瓦町の町外れ、万延寺境内に逼塞し、福岡博多の町々を徘徊して物を貰い、又は掃溜を漁りながら行く先々の妙齢の娘の名前、年齢、容色、行状、嗜みなんどを事細やかに探り知り、縁辺の仲介を致し、又は双方の相談相手になるのを仕事のように致しおる……という趣じゃが、それに相違ないか」
「ヘエヘエ。相違ないどころでは御座いません。それが本職で……まだほかに歌も詠みます。その歌を書きました渋団扇を一枚五文で買うても貰います。よんどころない時は非人も致します。掃溜も毎日のように漁りますが、何と申しましても縁談の取持が一番、収入が多う御座います。どのような御大家でも縁辺のお話となりますと、一度はキット私の存じ寄りを聞きに御出でになりまっするで、私が、あれなら大丈夫と請合いますると、それからお話が進みまするような事で……ヘエ……」
と自慢そうにモウ一度、鼻の頭をコスリ上げた。しかも非人同様の姿ながら恐れ気もないその態度と、プンプンする熟柿臭い異臭が、いかにも不快な感じを与えたらしい。松倉十内は一層威儀を正しながら睨み付けた。
「ウム。それならば相尋ねるが、その方は博多蔵元町、蔵元屋の一人娘、お熊というものを存じておるか。この間万延寺境内で斬られたと申す。存じておるであろうな。あの一件を……」
「ヘエ。あの娘の事ならば、実の親が知らぬ事までも存じておりまするが……」
「ウムウム。それは重畳じゃ。実はあの娘の事に就いて少々相尋ねたいために今日、良助に同道致させた次第じゃが……万一、その方の申立てによってあの胴切りの下手人が相わかれば、褒美を取らするぞ」
「ヘエヘエ。それはモウ。申上る段では御座りません。もはや御承知か存じませんが、あのお熊と申しまする娘は取って十八の一人娘、七赤の金星で、お江戸なら一枚絵とかに出る綺倆で御座いましょうな。五体中玉のような娘で御座いましたが、それでも存るべき処にはチャント在るものが……」
松倉十内は失笑しながら片手をあげた。
「これこれ。要らざる事は聞かんでもええ。縁談の前調べではないぞ。しかしさすがは評判の赤猪口兵衛。事細やかに存じておるのう」
「ヘヘ。そこが商売で……ヘヘ。襟半の若亭主、半三郎の嫁にというお話で一杯頂戴して、腕に縒をかけて調べ上げましたので、両親は勿論のこと、本人さえ知らぬ尻の割目の黒子までも存じておりまする」
「はははは。それは何よりの話じゃが」
松倉十内は猪口兵衛の話ぶりに興味を引かれたらしかった。
「しかし、どうしてそのような事まで相わかるのじゃ。湯殿の口ばし覗いてみるか」
「ヘヘヘ。そげな苦労は致しません。これ位の事ならお茶子サイサイで。ヘヘ。物を貰いに参りました序に、あの娘の背中を流す女中衆さんから聞き出したことで……私は、いつも其家此家の女たちの文使いをして遣りまするで、蔵元屋の女中さんも、詳しゅう話いて聞かせました上に、どうぞ御嬢様をば良い処へ世話して下さいと言うていつもオヒネリを十文ぐらいくれます。何処の女中でも、自分の付添うておる者には贔負が勝ちますもので……」
「成る程のう。そちのような下賤の者でなければ出来ぬ芸当じゃのう」
「まったくで御座いますお殿様……人間は上から下を見ると何もわかりませぬもので、その代りに下から上を見上げますると、何でも見透しに見えまする。ヘヘヘ。私はお蔭様で人間の中でも一番下におりまする仕合わせに……」
松倉十内は苦り切って首肯いた。非人同然の人間から遠廻しに役目柄を皮肉ったような事を言われながら、それでも道理には相違ないので文句が言えなかった。猪口兵衛はその仏頂面を見上げながらイヨイヨ得意然となった。
「ヘヘヘ。博多中の妙齢の娘の乳房の黒い、赤いを間違いなく存じておりまする者は、この赤猪口兵衛タッタ一人で。ヘヘヘ……」
松倉十内は何かしら思い直したらしく、仏頂面を和らげてうなずいた。
「ウムウム。さすがは猪口兵衛じゃ。そこで今一つ尋ねるが、あの娘……蔵元屋の娘お熊には別に疵はなかったか」
「ヘエ。疵と申しますると……」
「ウム。たとえば何か他人に怨まれるような悪い癖はなかったかと申すのじゃ」
「ヘエヘエ。成る程。お眼が高う御座いますなあ。その疵なら大在りで御座います。ちょっとそこいらに類のないドエライ疵が……」
「ふうむ。それは耳寄りな……どげな疵じゃ」
「バクチで御座います」
「ナニ……博奕……」
松倉十内は自分の耳を疑うように膝を乗出した。赤猪口兵衛はいよいよ得意然と、すこし反身になって土下座し直した。
「さようで……蔵元屋のお熊は天下御法度の袁彦道の名人で御座いました。花札、骰子、穴一、銭占、豆握り、ヤットコドッコイのお椀冠せまで、何でも御座れの神憑りで……」
「うううむ。これは意外千万な事を聞くものじゃ。あれ程の大家の娘が、あられもない賭博なんどとは……ちと受取り悪いが……」
「ところが間違い御座いませんので……元来あの蔵元屋と申しまするは、蔵元町と申しまして町の名前にもなっておりまする位で、土蔵の数も七戸前。表向きは立派な為替問屋と質屋になっておりまするが、裏向きは筑前切っての大きな博奕宿で御座います。チトお話が荒う御座いますが、何にせい博多中の恵比寿講の帳面を預っておりますので、帳面合わせとか、金勘定とか申しまして、時々奥庭の別土蔵の二階でチャランチャラン遣っているのが、真夜中になると微かに聞こえます。その小判や二分金の音に混って、あのお熊の笑い声や『丁ソラ』『半ソラ』という黄色い掛声などがチラチラと聞こえて参りますので……」
「ふうむ。容易ならぬ話じゃのう」
「ヘエ。まだ御存じなかったので……」
「ウムウム。あの蔵元屋は存じてもおろうが当藩の御用金を扱うておる者じゃけに、何事も大目に見ておったのでな。店の信用に拘わってはならぬとあって、役人体の者なぞは滅多に近寄らせんように取計ろうておったものじゃが……言語道断……」
「ヘエヘエ。御尤も千万なお話で……それならば申上ますが御殿様……これは私一存の考えで御座りまするが、あの蔵元屋は最早、長い身代では御座いませんので……ヘエ……」
「フウム。いよいよ以て言語道断じゃ。どうして相わかる……」
「毎日毎日、同じ掃溜を覗いておりますると大抵その家の身代の成行きが判然って参りまする」
「ふうむ。掃溜を覗いて……ハテ。どのような処に眼を付けるか」
と松倉十内は物珍しげに眼を光らして耳を傾けた。傍に踞まった目明の良助も同様に、炭俵の上の酒脹れになった非人の横顔を凝視めた。赤猪口兵衛は首を縮めて頭を掻いた。
「エヘヘ。そう改まってお尋ねになりますると、実はお答えに詰まりますようで……ヘヘ。まあ私が持って生まれましたカンで御座いましょうナ」
「ふうむ。カンと申すと……」
「たとえば名人のお医者が、小便の色を見て病人の寿命を言い当てるようなもので、私どもは掃溜の色をタッタ一目見ますると、その家の奥の奥の暮し向きまで包み隠しのないところが、ハッキリとわかりまする」
「うむ。なかなかに口広い事を申すのう」
「まったくで御座います。論より証拠、私はあの蔵元屋の台所ならモウ二十年以来の古狃染で御座いますが……毎日お余りを貰いに参りますので……卑しい事を申上るようで御座いますが、蔵元屋の前の御寮さんの時は、それはそれは私どもに親切にして下さいました。祝儀、不祝儀の時の赤の御飯や、蒲鉾や半ペン、お煮付、油揚のようなものを、わざわざ取って置いて下さる。御酒なんぞも、お余りをタンマリと頂戴しましたもので……」
「成る程……」
「ところがそのアトで勝手口の塵埃箱を覗いてみますと、お野菜の切端のような物ばっかりしか御座いません。白い紙の切端、纏まった糸屑、長い元結の端くれさえも見当りませんくらい質素なもので、つまるところ蔵元屋の家内中がキリキリと引締まっておりまする。平生から粗末な物ばかりを喰べる習慣で、割当てようのない奢った副食物は故意と子供にも遣らずに非人の私に下さる。家内中の口を奢らせぬようにする……と言うのが前の御寮さんの心掛けで、さすが大家の御寮さんは違うたもの……これならば蔵元屋の身代は万劫末代、大磐石と中心から感心しておりました」
「いかにもいかにも。尤も千万……」
「ところが又その前の御寮さんが今のお熊さんを難産したアトの長患で死にまして、今度の後妻……お艶さんと申します……相生町の芸妓上りで……それになりますと女中衆の素振りまでが、見る間にガラリと違うて来ましたなあ。私どもが参りましても、飯炊どもが何もない何もないと言うて寄付けません。ホオラこれを遣ろうなどと言うて仕舞桶の汚れ水を引っ冠せたりする事も御座います。そこで後から掃溜を覗いてみますと、玉子焼や重ね蒲鉾の喰い残しのような立派なものが山を築くほど棄てて御座います。そんなにして棄てる位なら、塵埃箱へ入ずに取って置いてくれたなら……と思います位で……それであの蔵元屋の身代がどうなって行きよるか、おわかりなりまっしょう。町人の身代と言うものは脆いもので、聊かでも奢ったなら一たまりも御座いませんもので……ヘエ……」
松倉十内は苦笑いをした。非人風情の賢明ぶりを感心すると同時に、冷笑してみたくなったらしい。
「アハハハハ。成る程、成る程。良う相わかった。その方のような人間でなければ見えぬ事じゃ。しかしそれ程に道理がわかるその方ならば今少々、金持になっておる筈ではないかのう。ハッハッハッ……」
赤猪口兵衛はニッタリと笑い返した。赤い鼻の頭を今一度、念入りにコスリ上げると、炭俵の上からガサガサと一膝進み出た。
「ヘヘ……旦那様……横道へ入って恐れ入りまするが、私は元来、金持が嫌いで御座いまして……」
「フーム。返す返すも珍しい事を申す。世の中に金ほど大切な物はないという事を、その方はよく存じておる筈じゃが……」
「……そ……それがで御座います。旦那方の前では御座いますが、私どもは一口に非人と言われておりまするだけに、普通の人間とはチットばかり了簡が違いまする」
「フウム。ドウ違うかの」
「普通の人間がお金を欲しがるのは楽をしたいためで御座りまする。つまり、恥を掻きとうないため、義理が欠きとうないため、人情を外しとうないためで御座いまする。それが叶いませぬために貧乏神を怨んで、首を釣る者がおりまする位で……」
「うむうむ。その通りじゃ」
「ところが貧乏神でも神様は神様……怨んだり、軽蔑したり、粗略にしたり致しますると貧乏罰というものが当りまする。その証拠に今申しましたような訳で、貧乏神様を糞味噌のように言うて、ヤットの思いで逐い出いた人間がサテ、いくらかお金を溜めるようになりますると直ぐに、昔、粗略にした渋団扇の神様に取憑かれて、自分自身が家内中の貧乏神、不景気の親方になりまする。可愛い妻子に美味いものも喰わせず、楽しみもさせずに、恥は掻き放し、義理も欠き捨て、人情も踏付け通しで、そのたんびに首を縮めて盗賊と、詐欺と、非人の気持を繰返し繰返し、アチラで一文コッチで三文とクスネ込み溜め込むようになります。そこで世間の金持は一生涯、気の済まぬ事ばっかり。大きな顔をしてヌケヌケと人通りを行きながら、腹の中は言うに言われぬ地獄のようなタネ仕掛とカラクリばっかり。もしや他人に看破られはせぬか、知っている者に会いはせぬかとビックリ、シャックリ息を詰めて行きよります。ちょうどアノ日の目を恐れて流し先を潜りまわる溝鼠のような息苦しい一生を送る憐れさ。何のために金を溜めるやらわからぬお話で……つまり貧乏神を怨み憎んで、粗末にしてタタキ出いた罰で御座いますなあ。前に貧乏神を悪く言うた奴ほどこの罰が非道う当りまするようで……」
「ハハハ。ナカナカの理屈じゃ」
「それに引換えまして私共の一生は、まことに貧乏神様々で御座います。貧乏神様の御蔭なりゃあこそこげに気楽な一生が送れますので、福の神様が舞込んで来かかりますと、どうぞ他所様へ他所様へとお断り申上げますような事で、貧乏神から兄貴とも親分とも頼まれる心安さ。大切なものは貧乏徳利と渋団扇一枚。気にかかるものは一つも御座いません。仕事と言うては元手要らずの掃溜漁り。他所様のお余りで明日の生命に事を欠かぬ気楽さ。出放題の和歌を詠んでは人を笑わせ、縁を取持っては人間の種をアチコチに蒔いてまわるのが何よりの道楽で……棄てた水仙、粋ゆえ身故、水に濡れ濡れ花が咲く……とか申しますなあ。天道様の広大な御恵みの下で伸び伸びと暮いておりまする。千両箱の山を積んでもこの楽しみばっかりは、お譲りする訳に参りませんので……ヘエ……」
松倉十内は又しても余計な事を言ったために、非人風情に吹き巻くられた形になったので、スッカリ苦り切ってしまった。不承不承にうなずきながら話を変えた。
「ウムウム。相わかった、相わかった……しかし話はモトへ戻るが、その蔵元屋の別土蔵の二階の金勘定が真実の金勘定でない、賭博に相違ないという事は何処で見分けたか」
「やっぱり塵箱が物を申しますので……」
「ふうむ。掃溜が物を言う……」
「ヘイ。何処のお邸でも掃溜掃溜と軽蔑して、気安う物を棄てさっしゃりまするが、掃溜ぐらい家の中の秘密を喋舌るものは御座いません。蔵元屋の家でもそげな理由で、前の晩の暮方に覗いた塵箱を翌る朝、今一度覗いてみますると、晦日の晩なぞに蟹の塩茹の喰残しが真白う山盛りになっておる事が間々御座いまする。それが賭博を打った証拠で……」
「フーム。賭博を打つと蟹の塩茹を喰するのが習慣にでもなっておるのか……」
「エヘヘヘヘ。そのような訳では御座いませんが考えても御覧じませ。何にせよ恵比寿講の帳合いと言うたなら、一文二文の間違いにも青筋を立てて算盤を弾き合うような吝垂れた金持連中の寄合の事で御座いますけに仮令、仕事が夜通しがかりになったにしても、出て来るものは漬物にお茶か、せいぜい握飯ぐらいで、それでもペコペコと頭を下げてお礼を言うて帰るのが普通で御座います。それに引きかえて値段の高い晦日蟹の塩茹となりゃあ、どうしても三杯酢で一パイと言う処で、誰が聞いても恵比寿講の何厘何毛という利前勘定とは思われませぬ奢りの沙汰で御座います。それやこれやを考え合わせますると真実の処、蔵元屋は、今申しましたような身代の左前を取戻すために、賭博の胴親をしているものと存じますので……ヘイ……」
「フウ──ム。成る程のう」
さすがの松倉十内も非人の明察振りに舌を巻いたらしい。吾にもあらず腕を組んで、太い溜息を一つした。
「しかしその娘のお熊が博奕を打つという事は、どのような筋合いから相わかったか」
「ヘエ。これは筋合いとか何とか申上げる程の事でも御座いません。ちょっと旦那方にはお気が付き難いかと存じますが、あの斬られましたお熊の髪の毛を御覧になれば、一目でおわかりになります事で……」
「ナニ……何と申す。博奕を打つ者は髪形が違うと申すか」
「エヘヘヘ。博奕を打つ髪形と言うものがあっては大変で。恐れ入りまするがあの娘の死骸は御覧になりましつろうなあ」
「うむ。見た事はたしかに見たが、在来の高島田ではなかったかのう。崩れてはおったが……」
「ところがあれが普通の島田では御座いませなんだので……私はズット以前からあの娘の外出姿に気を付けておりましたが、あの娘は普通よりもズット髪毛が長くて多い方で、どのようにでも大きく結われるものを、惜し気もなくグイグイと引詰めて結うておったもので御座います。そこで出入りの女髪結の口を毮って見ますると、これは継母とお熊さん自身の注文で、見かけの通り出来るだけ引詰めて在る上に、元結いも二本掛の処は四本掛、五本掛の処は麻紐で引締めておりますので、まことに結いにくいそうで御座いますが、何でも自宅で踊の稽古をするので崩れんようにと言う注文で御座いましたそうで……」
「ううむ。それが又、何として博奕を打った証拠に相成るのじゃ」
「ヘエ。それが、そればかりなら宜しゅう御座いますが、その外出頭の鬢から髱のあたりに気を付けてみますると、一度、毛がピッシャリと地肌に押付けられたものを、又掻き起いて恰好を付けた痕跡が、そのまま髪毛の癖になって、両鬢から髱を一まわり致しておりまする。これは疑いもない向う鉢巻を致しました証跡で……つまり丁半や花札を引きまする場合には、男でも鬢の乱れを止めるために幅広う鉢巻を致しまする者が多いので、博奕打の朝髪と申しまするのはこげな髪の乱れを隠すために、綺麗に手を入れるからで御座りまする。ましてあの娘は重たい島田を振立てて壺を振りまする以上、鉢巻を致しておりませぬ事には、第一、盆茣蓙の景気が立ちませぬ」
「何と……あの娘が壺を振ったと申すか」
「振りますとも、振りますとも。これは或る居酒屋で、わたくしの心安い本職の博奕打から聞いた話で御座いますが、あの別土蔵の二階で毎晩のように壺を振りまするのが、美しい振袖に緋縮緬の襷をかけた博多小町のお熊さんと言うので、博奕打仲間では知らぬ者もないという評判……」
「驚き入った話じゃのう」
「……ヘヘ……まだまだビックリなさるお話が御座りまする。その振袖娘の振る骰子が、内部に錘玉の付いたマヤカシ骰子と言う事実を存じておりまするのは今の処、広い博多に私一人かと存じますので……」
「コレコレ。言語道断。話にも程がある。御法度も御法度の逆磔刑ではないか。どうしてそげな事が……」
「ヘヘヘ。やっぱり掃溜から出たお話で……」
「……やはり掃溜から……イカナ事……」
松倉十内は唖然となった。傍の目明良助も感嘆の余り溜息を吐いた。
赤猪口兵衛はソレ見たことかという風に、汚れた膝小僧を二つ並べて乗出した。
「何でもない事で……ヘエ。そげな理由でお熊さんがアラレもない賭博を打つ……壺を振るらしいと言う見当がアラカタ付きますると、私も実のところ胆を潰しました。これは本職の嫁取婿取の仲立商売から申しましても容易ならぬ聞込みと存じましたので、なおも念を入れて蔵元屋の塵埃箱を掻き廻いておりますと、去年のちようど今頃の事で御座いましたか、或る日思いがけなく人間の歯の痕跡の付いた象牙の骰子の半分割れが出て参りました」
「歯型の付いた骰子の片割れ……ふうむ」
「さようで……それを見ますと私は他所事ながらドキドキ致しました。これは然るべき本職の博奕打が、お熊さんの振る骰子に疑いをかけて、あとでコッソリ噛み割ってみたものに相違ない。これは捨てて置かれぬ。お熊さんの生命は元よりのこと、蔵元屋の身代がガラ潰れのキッカケになろうやら知れぬ……と心付きましたけに、前にも申しましたお熊さんの乳母でモウ四十を越いたお島と言う中婆さんで御座いますが、それを露地の奥の暗がりへ呼出しまして突込んでみますると、気絶する程の魂消げようでガタガタ震い出しまして、どうぞこればっかりは……と手を合わせての頼みで御座います。お嬢様の生命に拘わっても言われぬと言う固い口ぶりで……ヘイ」
「ふうむ。してみるとやはり今の話は実正と見えるのう」
「さようで……その時は私も仕方なしに万延寺裏の住居へ引上げましたが……ところがそのお島と申しまする中婆さんが、翌る朝早く、急に里帰りの暇を貰うて来たと申しまして、万延寺裏の私の宅へ参りまして……猪口兵衛さんにあのような深い処まで探り出されておっては隠し立てをしても役に立つまい。どうぞこの事ばっかりは秘密にして、一刻も早よう御嬢様を蔵元屋の外へ出いて下さい。とても恐ろしゅうて恐ろしゅうて、気が揉めて気が揉めて……という涙ながらの物語で、蔵元屋の内幕を洗い泄い喋舌って帰りましたが、イヤモウ肝の潰れるお話ばっかりで……」
松倉十内はここが大事と思ったらしく、眼を丸くしたまま点頭いた。目明良助は反対に眼を閉じて耳を傾けた。
「ほほオ。どのような」
赤猪口兵衛は舌なめずりをして二人の顔を等分に見比べた。
「さあ。どのように申上げたら宜しゅう御座いましょうか旦那様……これと申すも全くお熊の両親どもの不心得から起りました事で……」
「それはその筈じゃ」
「元来あの蔵元屋の主人、伊兵衛と申しまするは養子で御座いましたが、御存じの通り家付の先妻が亡くなりますると、相券芸妓の照代こと、ゲレンのお艶と言うシタタカ女に迷い込みまして、かなりの金を注ぎ込んだあげく後妻に迎えました。処がこのお艶と申します後妻は、先年大浜で斬首になりました詐欺賭博の名人、カラクリ嘉平の娘だけありまして、仕掛博奕の手練者で、諸国の商人を手玉に取って絞り上げておったと言う話で御座いますが、それにしても同じ危い橋を渡るならば、いっその事、御封印のお金を扱うておる蔵元屋に乗込んで、一か八かの大仕掛の盆茣蓙に坐って一生涯の運命を張ってみたいというのが、骨の髄から賭事好きのお艶の本心であったらしく、あらん限りの手管で伊兵衛を綾なして首尾よく蔵元屋の後妻に坐ると間もなく、当時まだ六つか七歳で御座いました継子のお熊を手に入れて揉むほど可愛がり始めた処は、まことに見上げたものと言う評判で御座いました」
「成る程のう」
「……ところが今から考えますると、これが毒蛇よりも恐ろしい継母お艶の手練手管で、実情を申しますと何の可愛がる処か、自分の手に付けて遊ばせる振りをしては花札の手配りや、賽の目の数え方を仕込んだのがソモソモで、さような事には何の気もない、あどけないお熊が、物心付く頃には、もはや立派なカラクリ博奕の名人、壺振りの見透しと言う恐ろしい腕前に仕上げたもので御座います。そこで継母のお艶は何喰わぬ顔で亭主にすすめて、恵比寿講の名前で別土蔵の二階へ賭場を開きましたが、そこへ姿がよくなるように豆腐とお粥ばっかり喰べさせられている花恥かしい娘に京都下りの友禅の振袖を着せて壺を振らせますので、誰も疑う者はおりませぬばかりか、それはそれは大した繁昌で、宗像、早良の大地主、箱崎、姪の浜の網元なんどを初め福岡博多の大旦那衆、上方下りの荷主なんども、一度はお熊の壺振りを見に来るという勢いで御座いましたそうで、何を申すにも御封印のお金の御威光が光っております故、心配な事は御座いません。そこへ又そのお熊どんの愛嬌と腕前が両親も驚く自由自在で、本職の者に両手を押えられても瞬き一つせぬ手練の早業。息も吐かぬ間に骰子を掏り換えて、何の事もない愛嬌笑いにして見せると言う……おかげで蔵元屋の毎晩の上り高は大したものであろうが……これと申すもモトを質せばお熊さんの両親の不心得から起ったことで、お熊さんには何の罪も科もないこと。ことに最早、年頃のことじゃけに、早よう何処かへ嫁に遣って一刻も早くお嬢様の足を洗わせねば、わたしゃ心配で心配で夜の目も寝られませぬという、乳母のお島どんの涙ながらの物語……」
「う──むむ」
松倉十内は腕を組んで今一度太い、深い溜息を吐いた。顔色がいつの間にか青ざめて両眼をシッカリと閉じていた。
「う──む。返す返すも驚き入った話じゃのう。とても真実とは思われぬわい」
「旦那様……」
「何じゃ……」
松倉十内は白々と眼を見開いた。赤猪口兵衛は勢い込んで言った。
「このお話が真実で御座いませねば、その娘のお熊が斬られた話も真実では御座いますまい」
「ううむ。しかし娘の死骸は身共がこの眼で見て来たのじゃから間違いはないが。ううむ」
今度は赤猪口兵衛が唖然となった。あまりの自烈度さに顔色を青くして唇を震わした。
「旦那様……」
「何じゃ……」
「早ようお手当なさりませぬと、蔵元屋は夜逃げ致し兼ねますまいて……肝腎要の金の蔓の娘が殺されたので御座いますから……」
「うう────むむ……」
松倉十内は恨めしそうな白い眼で赤猪口兵衛を白眼み付けた。下役の良助がおる手前、非人風情の差出口に追い詰められた見っともなさにジリジリして来たらしい。
「うう──む。さような事はその方どもの存じた事ではないわい。蔵元屋に手を入れるとなると容易な事ではないのじゃ。御家老様、大目付殿、お納戸頭などと十分に御打合わせを願うた上で、お指図を受けねばならぬが……しかし……」
と十内は無念そうに唾液を嚥み込んで、眼をギョロリと光らした。
「……しかしその方は何か……その下手人について心当りでもあるかの……」
「ヘエ。それは在るどころでは御座いませんが」
「申して見い……」
「それが私の口からは申上げ兼ねまする名前で御座いまして……」
「余が役目柄を以て相尋ねる事じゃ。遠慮する事はない。申してみい」
「そ……それにつきましては只今、商売の歌を一つ詠みました。何卒お硯を拝借お許し下されませい」
「何、歌を詠んだ……」
松倉十内は不審の面もちで背後の矢立を取って与えた。
「これは……お手ずから恐れ入りまする」
赤猪口兵衛は腰に挿した渋団扇を一枚取ってサラサラと筆を揮って差出した。
「歌にはなっておりませんが、お心当りにはなりましょうと存じまして……」
受取った松倉十内は音読した。
「ふうむ。……まま母のままにしたさに粥殺し……とうふて近きは男女なりける……ふうむ。これは何の歌じゃ」
「この騒動の原因はと申しますると、意外な男と女との関係ごとから起ったに違いないと思いました私の見込みを申しましたので……」
「わからんのう。今些と平とう言うてみい」
「その歌の中の謎が二字ばかり足りません。それがお気付きになれば下手人はわかります。それ以上平たくは申上げ兼ねますので……」
「ううむ。いよいよわからぬ」
「それならば今一つ詠みました。今度はおわかりになりましょう。一枚五文なら安いもので……ヘヘヘ」
赤猪口兵衛はモウ一まい渋団扇に筆を走らせて差出した。
「ふうむ。……蔵元の娘胴切りそれかぎり熊なき詮議お先まっくら……赤猪口兵衛……」
「ヘヘヘ。一枚五文なら安いもので……」
松倉十内の顔色が颯と変った。傍の脇差取るより早く、縁側を飛降りかけて来たのを、目明の良助が大手を拡げて遮り止めた。その間に赤猪口兵衛は四ツン匐いに匐いながらコソコソと木戸口から逃げ出して行った。
縁側に戻った松倉十内は青筋を立てて良助を睨み付けた。
「……ナ……何で止めた。たわけ奴がっ……お上を恐れぬ不埒な非人風情。蔵元屋の秘密が洩れてはならぬと存じて斬り棄ててくれようと存じたに……」
良助はその足下の庭石に両手を突いてヒレ伏した。
「何も申しませぬ。今日の処は何卒……」
「ならぬ。非人風情に大それた奴じゃ。ことにお先まっくらなぞと嘲弄されては役目柄が相立たぬわ。今一度引立ててまいれッ」
「……ど……どうぞ御容赦を……良助めが今日までの御奉公に代えましてあの猪口兵衛の生命を手前共にお預け下されますれば有難き仕合わせ……あの猪口兵衛めは、まだ使い道が御座いますれば……このたびの蔵元屋騒動の下手人もどうやら存じておるらしく存じますれば、只今お斬り棄てになりましては如何かと存じまする。その代りにこの両三日のうちにはキット下手人を探り出いてお眼にかけまする私の所存……何卒……何卒御容赦を……」
松倉十内は、何か思い直したように切柄をかけた白鞘の脇差から手を離した。
「……か……勝手にせい」
と言い棄てると額に青筋を立てたまま座敷に入って障子をハタを閉めた。
表の往来で耳を澄ましていた赤猪口兵衛が、赤い舌をペロリと出した。懐中から浅黄地に白の唐草模様の大きな風呂敷を一枚引っぱり出して、両手で高々と吊し拡げた。それは処々に灰色の薄汚れの付いた、夜具か何かを包む風呂敷らしかったが、その中央の折目に近い処に付いている真黒い血の塊の痕跡と、一目でわかる片隅の刃の血糊を拭いた痕跡と、処々に粘り付いている長い髪毛を見まわすと、今一度赤い唇をペロリと出して、大切そうに折り畳んで、懐中の奥に仕舞い込んだ。中風付きみたような足取りでヨチヨチと元来た道へ歩き出しながらブツブツと口の中でつぶやいた。
「ヘヘン。人を盲目と思うとる。最初から試し斬りの切柄かけた白鞘の新身の脇差を引付けて、物を訊く法があるものか。聞くだけ聞いてからアトは斬り棄てる了簡と悟ったけに、わざっとカンジンカナメの下手人の名は言わずに置いた。ヘヘン。非人風情でも生命は惜しいわい。下手人は喋舌ったわ、代りに首は斬られるわ……なら、喋舌らん方がええ位の事は知っとるわい。イクラ不浄役人でもチットは和歌の稽古でもして置け。あの狂歌の謎がわからんと来たナ。ハハン」
赤猪口兵衛はここで立佇まってチンと手涕をかんだ。そうして又ヨチヨチと歩き出した。
「ヘヘン。お役目柄がよう出来た。聞込み、見込はコッチのもの。捕まえる腕前はソッチのもの。一緒にされてたまるかえ。自分の商売ダネを聞いた上に斬ろうなぞとは押しが太過ぎる。人間外れたお役目柄が天道様の下で通用するかえ。良助どんには気の毒ながら、黒田五十五万石の絶体絶命を非人の俺が知った事かえ。あんまり威張り腐るけにこの風呂敷は故意と渡さずに置いた。この大風呂敷が何を包んだものか、何処の穴から出て来たものかがわからぬうちは、お気の毒ながらお役目柄がお先まっくらじゃろう。今に俺の処へ頭を下げて来にゃなるまいて……アッハッハッハッハッハッ……」
と来かかった三番町の四辻の中央に立佇まって高笑いした。
通りがかりの者がビックリして避けて通った。
博多の町の南の出外れ、万延寺の本堂と背中合わせの竹瓦に板庇、板敷土間に破れ畳二枚、ガタガタ雨戸の嵌め外しがやはり二枚という、乞食小舎の豪華版から、墓原越しに見晴らす筑紫野は、これも晩春の豪華版であろう。菜種と蓮華草のモザイクに数限りない雲雀の声と蝶の羽根が浮き上っている。鼻の先の境内の青葉嫩葉は、ツイ二、三日前の恐ろしい殺人事件を夢にしたかのように、花よりも美しい若緑を盛り上げて、冷やかな朝東風を薫らせて来る。名物男の狂歌師、赤猪口兵衛の独住居はすべて二、三日前の通りに閑寂である。
但、軒先の底抜燗瓶と古釘の風鈴にブラ下った蒲鉾板が、新しいのと取換えられて違った狂歌が墨黒々と書いて在る。
わが酒の相手は軒の梅桜
風に浮かれてチリテツトシャン
世の中は三分五厘風鈴の
ふところ合ひがチリンカラカラ
その風鈴に近い破れ畳の上に、調子悪そうにキチンと坐っているのは相当の商家の若旦那様と見える、二十歳前後のオットリした優男。水鬢の細髷つつましやかに女のように白い襟足のういういしさ。上下揃いの黒っぽい木綿縞は仕立卸しであろう。前に差し置いた大鉢には血の滴る大鯛が一匹反りかえって、側に御酒代、襟屋半三郎と書いた紙包一封。その前に白い両手の指を律義に並べて半三郎は、さしうつむいている様子……。
その正面に、これも慣れぬ腰付で正坐しているのはベカンコー面の赤猪口兵衛。切込みだらけの鬚と月代を撫でまわしながら相手と同じくらいに痛み入っている様子……。
「イヤハヤもう。今度の御縁談ばっかりは、この赤猪口兵衛が一生涯の遣り損いで御座いました。面目次第も御座いません。肝腎要の御嫁御さんがあのように非業の最後をなさる間もなく、その御両親の蔵元屋の御一家が賭博宿の御疑いで、昨夜のうちに一人残らずお召捕になって、表口と勝手口に青竹の十文字が打付けられようなぞ言う事を、御結納前に見透し得なかったのは一生の大シクジリで御座いました」
「どう仕りまして。決してそのような……」
と口籠りながら半三郎は一層深く頭を下げた。赤猪口兵衛は手を振った。
「イヤイヤ。たしかに私の見込違いで御座いました。黒田藩には、これほどに思い切った荒療治をなさる知恵者がお出でにならぬものと見限っておりましたのが私の不覚……お蔭で襟半と蔵元屋の御両家、千秋万楽と祈り上げておりました私の楽しみも、茶々苦茶羅になってしまいました。御両親の半左エ門様が、お驚きになりますのも御尤も千万。又、貴方様が途方に暮れて、私のような賤しい者に御相談に御出でになりまするのも勿体ない事ながら御道理至極。この御縁談ばっかりは大丈夫、鉄の脇差と御請合い申しました私も、胸に釘を打たるる思いが致しまする。何はともあれトックにも御見舞い伺わねばならぬ処へ、こげな御念の入りました御挨拶を受けましては、床の下へ這い込みたいくらいで……生憎、床の下が御座いませんが……」
半三郎は静かに顔を上げた。思い込んだ涼しい瞳で赤猪口兵衛の恐縮顔を見上げると、又も破れ畳にピッタリと額をスリ付けた。
「いえいえ決してそのような……両親が申しまするには一旦、蔵元屋とお約束が出来て、結納までも取交いた上は、斬られたお熊さんは我家の娘も同様。それにつれて蔵元屋の御両親は、お前の義理の親様に当る道理。御縁の綱が切れても何とのう心残りがする。お熊さんの下手人を探し出いて貰わねばこっちも気が休まらぬと申しまして、様子を聞きに見えた目明の良助さんにもくれぐれも頼んでおりましたが、掻い暮れ手掛りが御座いません様子。そこへ又、昨晩の蔵元屋のお召捕騒動で、様子は丸きりわからず、気も顛倒しております処へ、今朝ほど良助さんがヒョッコリ見えましたので、蔵元屋の内幕を残らず承りました。その話によりますと昨日のこと、御城内で御家老様はじめお歴々がお寄合いになりまして、お目付の松倉様のお話をお聴取の上、大公儀からのお咎めのかからぬうちにと言うて至急に蔵元屋をお取潰しの御評議が決定りましたとの事で、最早どうにもならぬと言う良助さんのお話……」
「ソレ見た事か。言わぬ事じゃない。お先まっくらの奴……ヒトの手柄を横取りし腐って……」
「……エ。何と仰言います」
「イエ、ナニ。こっちの事で……いや誠に結構な御評定で御座います。それが当然の道筋で、まだまだ手遅れでは御座いますまい。しかしビックリなされましたろうなあ」
「イヤモウ……只今貴方様から承りましたお話とは寸分違わぬ蔵元屋の内幕で、驚きに驚きを重ねますばっかり……その上に又一つの驚きと申しまするのは、御城内から私の父の半左エ門へ御差紙が参りました。相尋ねたいことがある故、至急出頭せいとの……」
「エッ御差紙が……至急出頭せい……貴方のお父様へ……そ……それは実正……」
赤猪口兵衛は余りに唐突な話に肝を潰したらしい。赤い鼻の頭が白くなる程、顔色を変えた。膝小僧を剥き出しにして破れ畳の上を乗出した。それに釣込まれるように半三郎も、両手を突いたまま真青になった。
「……実正……実正どころでは御座いません。今朝ほど、今すこし前のまだ暗いうちに、御城内から大至急の赤札付きの御差紙が参りまして、年老っておりまする父、半左エ門へ即刻、出頭せいとの御沙汰で御座います。てっきり蔵元屋騒動のかかり合いと察しました私ども一家の驚きと悲歎のほど御察し下さいませ。取付く島もないままに来合わせました良助さんの分別を問うてみますと、イヤイヤ。これはお咎めの筋ではあるまい。別段、心配する程のことではあるまいが、これはとも角、一応、赤猪口兵衛様の御知恵を借りてその通りに分別する方が、間違いがのうて宜しかろうとの事で……」
「ヘエ。良助さんがさよう申しましたか。私のことを……」
「さようで……只今お縋り申すのは貴方様ばっかり。もしや父は下手人の疑いで引かれたのではないかと……」
「ははあ……良助どんはそのお差紙を見ましたか」
「いいえ。誰にも見せませぬ。正直者の父は一目見るなり、ただもう震え上ってしまいまして……」
半三郎は無類の親思いらしく、父親と同じ程度に震え上がっているらしかった。空しく唇をわななかせながら赤猪口兵衛の当惑顔を見上げるばかりであった。
赤猪口兵衛も思案に余ったらしく腕を組んだ。
「ふうむ。わからぬなあ。いくら大目付様がウロタエさっしゃっても、手がかりも足がかりもない立派な人間に疑いをかけさっしゃる筈はないが……扨は松倉十内がうろたえたかな……」
「ええッ。何と仰せられます」
「まあさようせき込まずとユックリお話を聞きましょう。とりあえず御差紙は大目付様からの御状箱に入っておりましたか……」
「さあ。大目付様にも何にも生まれて初めて見る御状箱で御座いましたけに、よくわかりませなんだが、お先方様のお名前は渋川様と御座いましたが……渋川ナニ吾様とか……」
「エッ。渋川ナニ吾……それは御納戸頭の渋川円吾様では御座りませぬか」
「おお。ソレソレ。その円吾様より私の父へ下されました御差紙……」
「アッハッハッハッ。何の事じゃい。貴方の方がうろたえて御座る。アッハッハッハッ。芽出度めでたの若松様アアよオ……」
赤猪口兵衛が不意に大声を揚げて燥ぎ出したので、半三郎は面喰らったらしい。両手を膝の上に置いたまま赤くなり、又青くなった。
「ああ。目出た目出たの櫛田の銀杏、枝も栄ゆれあ葉も茂る……と……。ああ。これで何もかも取戻いた。ああ清々した」
中腰になって浮かれ立つ赤猪口兵衛の顔を茫然と見上げている半三郎の顔を、あべこべに見下しながらヤット腰を卸した赤猪口兵衛は、汚ない膝小僧を一層大きく剥き出しながら詰寄った。
「半三郎様……」
「ハイ……」
「しっかりなされませ」
青くなったまま両手を突いて聞いていた半三郎は、そう言ううちにポタリと一雫、涙を両手の間に落した。猪口兵衛はちょっと張合いの抜けた顔になったが、すぐに額を撫でて高笑いをした。
「アハハハハ。お熊さんに気の毒と仰言りまするか。アハハハハ。御尤も御尤も」
頭を下げたままの半三郎の眼から又も涙がハラハラと落ちた。猪口兵衛はいよいよ高笑いをした。
「アハハハ。これは又お義理の固いこと……有体な事を申しますると、この御心配ばかりは御無用になさいませ。義理も張りも相手によりまする。蔵元屋に限って御尽しになる義理張りは盗人に追銭も同様……」
「何と仰せられまする。蔵元屋が盗人とは……」
「さようさよう。盗人に相違御座いません。最早お察しかも知れませんが蔵元屋は自分の運の尽くる処とは知らず、一人娘を貴方様に差上げて、それを因縁にお宅の金を引出いて、自分の家の不始末を拭おうと巧謀んだもの……」
「えっ。そ……それではお熊さんも同じ腹……」
半三郎の驚きはイヨイヨ倍加した。両手を膝に上げたまま夢に夢見る呆れ顔になった。
赤猪口兵衛は赤い鼻の先で手を振った。
「そこじゃ、そこじゃ。そこが今度の蔵元屋騒動の大切なカン処じゃ……お熊さんばっかりは、タッタ一目で貴方様のお気に入りました通り、清浄無垢の身体と心……」
「ええッ。それでは貴方のお話の、盆茣蓙の壺とやらを、お熊さんが振らっしゃったのは……」
「……親孝行の一心からで御座いまする」
「ヘエッ……そのような親孝行が……」
「……御座いますから世間は広い。お前の壺の振りよう一つで蔵元屋の身代が立直るか、直らぬかの境い目と、両親に言い聞かせられたお熊さんの、一心から身を斬らるるような思いをしながら毎夜毎夜のカラクリ丁半……早よう死にたい死にたいと花の盛りのお熊さんが、神仏を祈って御座ったいじらしさ。さればお付の乳母のお島どんも、一刻も早ようお嬢さまを、何処かにお嫁に遣って下さい。その日暮しの日傭稼ぎ、土方人足、駕籠舁きの女房でも不足はない……というて、私に泣きながらの頼みで御座いましたが……」
赤猪口兵衛はそう言ううちに声を呑んだ。自分の話につまされたらしく、ベカンコー面の涙を継剥ぎだらけの袖口で拭いまわした。
破れ畳に両手を突いた半三郎も、男泣きにシャクリ上げ上げしているようす。
「ごもっとも……御尤もで御座いまする。まことにお痛わしいはお熊さん。親御様次第では蝶よ花よと、お乳母日傘の蔭になって、世間を知らぬ筈の御大家のお嬢さんが、浮川竹や地獄の苛責にも勝る毎夜毎夜の憂き苦労……世の中に、これほど親孝行の娘御が又と二人あろうかと思い込みました私が、何も言わずに貴方様の親御様へ、上々吉の花嫁御と、太鼓判を捺いておすすめ致したにつきましては私にも深い覚悟が御座いました。一旦、お輿入が済みました暁には、私から何もかも貴方の御両親に打明けまして、蔵元屋の蹄係にかからぬよう、襟半様の暖簾に傷の付かぬよう、又は黒田五十五万石の御納戸に障らぬよう、忠告を申上る覚悟でおりました。……また……これ程の親孝行な娘御の行末がお幸福にならねば、この猪口兵衛が天道様に対して相済まぬ。お宅様のようなお固い処へ縁付いて万事、円満く行かぬ筈はない……と見込みを付けましたのが猪口兵衛の一生の出来損い。親の因果が子に報いるとはこの事。因果の力ばっかりは、何処からどうめぐって参りますやら……」
「……そ……それならば、お熊さんが斬られたのも御両親のため……」
「斬られたのでは御座いません。継母のために毒殺されなさったので御座りまする」
「……………」
半三郎は無言のまま顔を上げた。キッパリと言い切った赤猪口兵衛の顔を凝視めて屹となった。どうやら不審が晴れかかったらしい。涙も何も乾いてしまって、男らしい、若々しい理知を眼の内に輝かしながら唇を噛んだ。
「お熊さんの振るカラクリ骰子が、どうやら本職の博奕打の眼に掛かって来たと思うと、一身一家の破滅を恐れた継母が惜し気もなく毒薬を粥に交ぜて殺いたもので、大事な御縁談、金の蔓の一人娘も、背に腹は代えられぬとは申せ、最初からその覚悟でお熊さんを育てたもので御座いましょうか。あのお熊さんの屍骸の口の中に在った黒い血の塊の中に、青紫色のお粥の粒が混じっておりましたのが何よりの証拠……」
半三郎は腹の底から長い長いため息を吐いた。
「それならば、その死骸を、あの墓原に持ち出いて斬りましたのは……」
「日田のお金奉行の手先、野西春行と申しまする美男の若侍。最初、蔵元屋の帳面調べに参りまするうちに、お熊さんの容色に眼を付けて嫁にくれいと申し出たものらしゅう存じますが、そのうちに横着者の継母のお艶が、欲と色との二筋道から、この人間を手に入れて置けば帳面のボロを睨まれる気づかいなしという考えで、腕に縒をかけて自分の方へ丸め込み、娘のお熊を邪魔にしたものと思われまする。一生を一か八かで張って行く、お艶婆の本性が、そこいらにも見え透いておりますようで……そこで姥桜の、古狸のお艶のスゴ腕に丸め込まれた野西は、お熊さんの変死を隠すため、又はお上の眼を晦まそうという考えから、蔵元屋の夜具を包んだ風呂敷にお熊さんの屍骸を包んで、この墓原へ持って来て、一刀両断に斬り棄てました。御覧なされませ。この風呂敷で御座います。あとでこの風呂敷の捨て処に困りました野西は、自分の定宿の博多大横町、鶴巻屋へ持って帰って、炊き付けるばかりにしておる風呂場の釜の奥の方へコッソリと押込んで、モトの通りに鉋屑を詰めて置きましたものと思われまする……ところが悪いことは出来ませぬもので、翌る朝、暗いうちに風呂番の若い衆が鉋屑に火を付けますと、どうしても燃えが通りませんので、掻き出いてみまするとこの風呂敷。御覧なされませ。こうして拡げてみますると処々に煤の汚れが付いております上に燃えさしの鉋屑の臭気が一パイで、奥の方まで火が通らぬ釜の仕掛けに気づかなんだのが運の尽きの野西の無調法……このままソックリ風呂敷を横露地の掃溜箱に投込んで置いたのを、野西の様子を探りに行きました私が見付け出いて、その風呂番から残らず話を聞いてしまいました。その若い衆が炊付けを釜へ詰めたのがあの晩の九ツ半、風呂敷をゴミ箱に捨てた時に、御本丸の明け六つの太鼓が聞こえたと申しますから話がピッタリと似合います。……その野西という美男の若侍は、今日までも蔵元屋の騒動を他目に見た白々しい顔で、鶴巻屋に泊っておりまする筈。多分、蔵元屋の行末に見限りを付けたお艶婆と申合わせて、お金奉行の御威光で、蔵元屋の残り金を欲しいだけ奪り上げて、役目柄案内知った長崎あたりから、日本国の外へでも出る了簡で御座いましっろうか。それとも江戸、大阪へ紛れ込む積りで御座いましっろうか……その当てがガラリと外れた昨晩の蔵元屋のお召捕騒動。黒田藩の大目付様に先手を打たれて、今頃はボンヤリしておる事と存じまするが……この後始末はいずれ貴方様へかかって来る事と存じまするが……」
半三郎はもう腰が抜けたように呆然となっていた。自分のかかり合った縁談の底に渦巻いていた極悪地獄のドンデン返しが、余りにも無残な恐ろしいものであった事が、初めて身に泌みてわかったらしく、眼を白くして唇をわななかしているばかりであったが、やがて、やっと心付いたように一心こめて両手をシッカリと拝み合わせた。涙をハラハラと流しながら猪口兵衛の前にニジリ出した。
「それならば……私は……どう致したら、よろしいので……」
赤猪口兵衛はコックリと一つうなずいた。
「その事で御座います。これから先、大目付様が、日田のお金奉行の手先とは言え歴とした公方様の御家来の野西春行を、どのような風に処置さっしゃるか、お納戸頭が、蔵元屋の帳面の大穴をどう誤魔化さっしゃるかが、日本一の面白い見物で御座いましょうが、それは取りあえず貴方様の御決心には拘わりのないこと……悪い事は申しません。今までの事は今までの事として、綺麗サッパリと忘れておしまいなされませ。この御縁談のない昔と諦めて、どこまでも知らぬ顔をなされば何もかも無事に済みます。それが亡くなられたお熊さんの菩提のため……」
「お熊さんの菩提のため……それが……」
「さようさよう。まあお聞きなされませ。そうして万事落着しますれば、私が今度の遣り損いのお詫びの印に、今一人そのような曰くのミジンも付かぬ清浄潔白。日本一のお嫁御さんをお世話致します」
「ヘエ。あの私に……」
「ヘヘヘ。今から申上げて置いてもよろしい。お向家の焼芋屋の娘、お福さんで……」
「ゲッ。あのお福さん……あの焼芋屋の……」
「ヘヘヘ。御存じで御座いましょうが。あのように煤け返って見る影もない娘さんでは御座いますが、御大家の井戸の水で磨きをかけて御覧じませ。江戸土産の錦絵にも負けぬ位の眼鼻立ち……しかもその眼鼻立ちをよう御覧じませ。今までの貴方様のお許嫁、蔵元屋のお熊さんと生写しで御座いましょうが」
半三郎の真青な顔が、見る見る火のように赤くなった。
「……ど……どうして御存じ……」
「ハハハ。とっくからさよう思うて御覧じておりましつろう」
「ハイ……まことに不思議な事と存じてはおりましたが……どうして又そのような事まで……」
「ハハハ。知らいでありましょうかい。不思議な筈で御座います。あの娘は年齢から眼鼻立ち、背丈恰好、物腰、声音まで、死んだお熊さんに瓜二つ……と申す仔細は、ほかでも御座んせん。あれは蔵元屋の前の御寮さんが、辰の年に生んだ双生児の片割れ……」
「ヘエッ。そんならお熊さんと……」
「血を分けた姉妹と申上げたいが、おんなし人間……辰の年の双生児は一緒に育てるものでない。出世を競り合うて呪咀い合うものと聞いた、蔵元屋の前の御寮さんが、コッソリ里子に遣ったままにして置いた芋屋の娘……正しく蔵元屋の血統を引いた、お熊さん同様の一点の疵もない卵の剥き身、生さぬ仲の芋屋の老人夫婦を真実の親と思い込んでの孝行振りまで、お熊さんと瓜二つの生き写し。嫁は流しの先から貰えという諺も御座います。元を洗えば御両親も、お家柄に御不足は御座いますまい。この猪口兵衛が請合いまする」
「はい。私どもの両親は失礼ながら貴方様を、どこどこまでも御信用申上げておりまする。申し忘れておりましたが、きょうもお団扇を一本土産に頂戴して参れとの事で……」
「アハアハ。いやもう有難いことで……それでは……
どなた様も六分は他人四分うちは
猪口兵衛猪口兵衛ごひゐきになる
この団扇を一本差上げましょう。あとで今一本あなた様の御運開きの歌を詠んで上げとう存じまするが、まだ上の句が整いません。しかし、いずれにせいこのお福さんのお話は大至急にお進めなされませ。早いほど宜しゅう御座います。そうしてお固めが済みましたならば、お福さんに何もかも打ち明けて、一緒にお熊さんのお墓参りをなさいませ。蔵元屋の菩提所は祭り人がのうなろうやら知れませぬ折柄ゆえ、それが何よりの御功徳様かと存じまするが……」
「ハイ。ハイ。ありがとう存じます。……おかげ様で私も、やっと人心地が付きました。それならば両親によっく相談致しまして……」
「お引合いにならば及ばずながら私が、お召し次第に伺いまする」
「どうぞいつでもお構いなくお出で下さいませ。お茶なりと一つ……」
「アハハハ。存じかけもない。お宅様へ上り込んでお茶を頂戴するような人間では御座いません。お台所口からこの方が……ヘヘヘ」
猪口兵衛はソワソワと立上る半三郎を見送りながら左手で飲む真似をして見せた。
半三郎は赤面しいしい一礼して、急ぎ足に大根畠を踏み分けて行った。あと見送った猪口兵衛は何思うたか片膝をポンと打ちながら口吟んだ。
仲人は御縁の下の力持ち
腰を押いたり尻を押いたり
それから四、五日経って後のこと、目明の良助が、例の通りの尻端折に頬冠り姿でノッソリと猪口兵衛の縁端に腰をかけた。猪口兵衛は古い丸瓦の中へ泥墨を磨り流して、忙しそうに渋団扇へ揮毫しながら、三畳一パイに並べていた。
「この渋団扇は何かいな」
良助は並んでいる渋団扇の一枚を取上げた。
「ふうむ。どうやら俺にも読める。
はしけやししのぶもじずりかかるとき
るすのかみがみいともかしこし
ほう。どの団扇もどの団扇もみんな同じ文句ばっかり……何の事かいな。これは……」
「ふうん。この四、五日福岡博多で大流行のこの歌を知んなさらんか」
「……知らん。こげな歌……」
「知らんかなあ。知らんなら言うて聞かそう。この歌の心ばっかりは山上憶良様でもわかるまい。御禁制の袁許御祈祷のインチキ歌じゃ」
「困るなあ。そげな仕事の下請けしよんなさるとアンタの首へ私が縄かけにゃならん」
「インチキにかかる相手が疫病神なら仔細なかろうモン」
「ナニ。疫病神……?……」
「カンの悪い人じゃなあ。それで御用聞きがよう勤まる」
「又、悪口が始まった。何かいなあ。その疫病神と言うのは……」
「これはなあ。近頃痳疹が流行りよるけに何かよい禁厭はないかちゅう話から、わしが気休めに書いて遣った、意味も何もない出放題じゃ。句切れ句切れの頭の字を拾い集めると『はしかかるい』となっておるだけの袁許禁厭じゃ。ところが不思議なものでなあ。この歌を書いた渋団扇で痳疹の子供を煽いで遣るとなあ。如何な重い痳疹でも内攻も何もせずに、スウウと熱が除れるちゅうて一枚五文で飛ぶような売れ行きじゃ。昨日頼まれただけも百軒ばかり在る。世の中は何が当るやらわからん。痳疹の神様様じゃ」
「ワハハハハ。成る程なあ。痳疹の神様とかけて大目付と解く。心は、インチキがお嫌い……と言う訳かな」
「ワハハハ。謎々の名人が出て来た。昨日の儲けは帰りがけに皆飲んでしもうたが、明日は又これで飲めようぞ……ところで良助さん。この四、五日何処へ行て御座ったな」
「ほう。わしの遠方行きをどうして知って御座るかいな。誰にもわからんように行て来たつもりじゃが」
「何でもない事。タッタ今わかった」
「どうしてかいな」
「どうしてと言うて知れた事……この四、五日が間、福岡博多の何処の家にも下がっとるこの渋団扇の由来を知らんと言うからには、遠方行きにきまっとる」
「成る程なあ」
「ところで今日の用向きは何かいな。又、松倉さんの処へ来いじゃなかろうな」
と口では言いながら猪口兵衛は、見向きもせずに揮毫し続けた。
「アハハハ。よっぽど恐ろしかったばいなあ。もう彼様な目にゃ会わせん。きょうはちょっと礼言いに来た」
「何の礼に……生命助けて貰うたお礼ならこっちから言う処じゃが……」
「それ処じゃない。アンタのお蔭で俺ゃ、野西春行を落いて来た」
「ふふん。あの松倉さんに遣った歌の句切れ句切れの一字一字拾い集めるとのにしはるとなっとる。誰が読めたばいな」
「ほう。それは初めて聞いたが、それよりも五、六日前のこと。襟半の半三郎にアンタが話しよった経緯なあ」
「あっ。立聞きしておんなさったか。そんなら詳しゅう喋舌らん処じゃったが……」
「人の悪い猪口兵衛さん」
「イヤサ……お目付の松倉さんが、どうぞと言うて私の門の口に立って、頭を下げて御座るまでは金輪際口を割らん積りじゃったが」
「……人の悪い……そげな事じゃろうと思うたけに、襟半の若主人に入れ知恵してアンタの処へ遣って、アトから跟けて来て何もかも立聞きしてしもうた。そのアトでアンタが酒買いに行きなさった留守に、動かぬ証拠の風呂敷も貰うて置いた」
「負けた負けた。一杯計られた。犬が啣えて行ったか、惜しい事したと思うておったが、アンタの方がよっぽど人が悪い……それからどうしなさった……」
「アハハ。それから先がちょっとお話されんたい。野西を落すことは、たしかに落いたが……」
「聞かんでもアラカタわかっとる。野西を跟けて国境いまで送んなさったろう」
「図星図星。そこまで察していんなさるなら言おう。実は直ぐにも野西の宿の鶴巻屋に踏ん込もうかと思うたが、身分は軽うても野西は大公儀の役人。筑前領で手をかけては面倒になるし、又、油断もしおるまいと思うたけに、思い切って豊後と筑前境いの夜明の峠道で待ち受けたわい」
「成る程なあ。あそこは追剥強盗が名物じゃけに仕事には持って来いじゃろう。しかし都合よう遣って来たかな野西が……」
「ちょうど真昼のような月夜じゃったけに、こっちは処の猟師の姿に化けて錆びた火縄砲を一梃荷いでおったが、向うから覆面の野西がタッタ一人でスタスタと小急ぎに近付いて来たけに、こっちも身構えをして行くと『コレコレ、百姓百姓』と用あり気に向うから呼び止めながら近寄って来るなり、スレ違いざまに抜討ちに斬り付けおった」
「ホオ。斬り付けた」
「冴えた腕じゃったなあ。身構えをしておらにゃ今頃は蔵元屋のお熊さんに追付いとるかも知れん」
「ハハア。あんたと言う事を感付いとったな」
「うん。さようと見える。あれでも相当の悪党じゃったかも知れん。蔵元屋の騒動の筋書を書いた奴はコヤツじゃないかとその時に思うたなあ」
「怪我はなかったかいな」
「うん。右胴へ来た奴をチャリンと鉄砲の砲口で弾いたが、その切尖の欠けた刀を持ち直さぬうちに、十手を鍔元に引っかけて巻き落いた。真正面から組み伏せて、この頭で胸先を一当て当てながらようよう縄をかけた」
「ほおお。それはお手柄じゃった。そこで何処の牢屋へ入れなさったか」
「馬鹿な。牢へ入れたら事の破れじゃ。早縄をかけたまま横の山道へ担ぎ込んで、懐中物を取上げてみると案の定、蔵元屋の身上調べと、黒田藩のお納戸の乱脈を細かに調べ書きにしたものが、貸付証文と一緒に在ったわい」
「あっ。なる程なあ。そこまでは気付かなんだ」
「それさえ手に入れば、ほかに用事は一つもない。日田奉行をヒケラかして、俺達の前で勝手な事をし腐ったのが癪に障るばっかりじゃ。そこで彼奴から巻き落いた刀を彼奴の鼻の先に突付けたるや、大公儀の役人を何とすると、縄付まま威丈高になりおったけに、その顎骨を蹴散らかいてくれた。大公儀の役人というものは間男をして、盗人をして、カラクリ賭博を打って、罪もない娘を斬り棄てるのが役目かと、詰めてくれた」
「ハハハ。聞いただけでも清々する。見たかったなあ。彼奴の顔が……」
「月の光で見ると彼の生優しい顔が、鬼の様、釣り上ったがなあ。おのれ証拠が何処に在ると吐かしおったけに、何処にもない。ここに在る。この風呂敷の汚れを見い。この黒い血の痕跡と、女の髪の毛と、刀を拭いた汚れの痕跡と、風呂場の煤の跡が物を言う」
「アハハハ。よう出来た、よう出来た……」
「それでも得心せねばこの刀身の油曇に聞いて見いと言うたれば、眼の玉をデングリ返して言い詰りおった処を、真正面から唐竹割りにタッタ一討ち……」
「やや。斬んなさったか」
「斬らいで何としょう。生かいて置いては何処まで面倒になる奴かわからぬ。そこでガックリとなった奴を蹴返やいて、縄の端を解いてそこいらに在った道標の角石を結び付けた。それから懐中と言わず、袂と言わず小石を一パイに詰め込んで、刀と一緒に筑後川の深たまりへ蹴込んでくれた。アトの血溜りは枯草を積んで燃やいて置いたが……」
「浮き上りはせんかな」
「その心配は無用無用。それと言うのはかの野西がなかなか奢いた奴でなあ。羽二重の襦袢に博多織を締めとったけに、その中へ石を詰めとけば心配はない。羽二重や博多織は墓の中でも一番しまいまで腐り残るけになあ。今頃は鯉か鯰の餌食になりよろう。これで胸がスウッとしたわい」
赤猪口兵衛は眉一つ動かさずに揮毫を続けていた。
「アハハ。役柄にも意地があるばいのう」
「イーヤ。意地ではない。これが目明根性と言うものか、話の筋がつづまらぬと、腹の虫が承知せんわい」
「うむうむ。そこがアンタの他人と違う処ばい。お役目仕事じゃない証拠じゃ」
「何でもよい。そこでその野西から取上げた調書と、証拠の風呂敷を松倉様の手から差出いたら、大目付では大層なお喜びで、松倉さんは直ぐに御加増の沙汰と聞いた」
「ヘエ。そうしてアンタは……」
「まだわからん。松倉さんが黙りコクッて御座る処を見ると、一文にもならぬかも知れぬ」
「呆れたなあ。犬骨折って鷹に取らるるか……腕も知恵もないザマで立身出世ばっかりしたがる上役の下に付いとっちゃあ堪らんのう。人間外れたシコ溜め屋の奉公人とおなじ事じゃ」
「しかし、ほかに気の向く仕事もないけにのう」
「あんたはホンニ目明に生まれ付いた人じゃろう。欲も得もない」
「それでも清々したわい。五十五万石に疵付ける虫を一匹タタキ潰いたで……お熊さんも成仏しつろう」
「それはお互いじゃ」
「これもアンタのお蔭と思うて今日は礼言いに来た。ちょっと一杯と言う処じゃが、今の懐合いではどうにもならぬけに、いずれ又……なあ……」
「チョチョチョチョチョッと待ちない。その一杯で思い出いた。この一杯の上等のタネがここに一つ在るてや。済まんが襟半の半三郎さんの処へ、この団扇を一枚持って行て遣んなさらんか。そうすれば、きっと幾何か包まっしゃるけに……非人の分際で、お役人を追い使うて済まんばってん……」
「何の何の。済むも済まぬもあるものか。一杯になる話なら……ハハハ……」
「序の事に帰りに酒を買われるだけ買うてなあ。蒲鉾と醤油はお寺の井戸に釣って在るけに、ヒネ生姜と鰑を一枚忘れんようにな。アンタと差しで祝い酒を飲もうてや」
「そりゃあ済まん。逆様の話じゃが……ははあ。ソンナラこれを持って行くのかえ。ふうん。
色も香も何と芋屋のお福さん
抱いて寝たならホッコリホッコリ
ふうむ。これをば襟半に届けたなら何の禁厭になるかいな」
「あははははは。それが解らんかいな。ツイこの間の話じゃが……」
「アッハ。そうかそうか。成る程これなら一杯がものある。万事心得たり。ホッコリホッコリ」
「あははははははは」
「わははははははは」
底本:「夢野久作全集6」三一書房
1969(昭和44)年12月31日第1版第1刷発行
1993(平成5)年4月30日第1版第12刷発行
※未発表原稿。昭和十一年の黒白書房版全集に編入の予定であったが、刊行中絶のためそのまま陽の目を見なかった。収録に際して原稿の欠落した部分はその旨断ってある。
入力:川山隆
校正:米田
2011年12月4日作成
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