照葉狂言
泉鏡花
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鞠唄 仙冠者 野衾 狂言 夜の辻 仮小屋 井筒 重井筒 峰の堂 |
二坪に足らぬ市中の日蔭の庭に、よくもこう生い立ちしな、一本の青楓、塀の内に年経たり。さるも老木の春寒しとや、枝も幹もただ日南に向いて、戸の外にばかり茂りたれば、広からざる小路の中を横ぎりて、枝さきは伸びて、やがて対向なる、二階家の窓に達かんとす。その窓に時々姿を見せて、われに笑顔向けたまうは、うつくしき姉上なり。
朝な夕な、琴弾きたまうが、われ物心覚えてより一日も断ゆることなかりしに、わが母みまかりたまいし日よりふと止みぬ。遊びに行きし時、その理由問いたるに、何ゆえというにはあらず、飽きたればなりとのたまう。されど彼家なる下婢の、密にその実を語りし時は、稚心にもわれ嬉しく思い染みぬ。
「それはね、坊ちゃん、あの何ですッて。あなたのね、母様がおなくなり遊ばしたのを、御近所に居ながら鳴物もいかがな訳だって、お嬢様が御遠慮を遊ばすんでございますよ。」
その隣家に三十ばかりの女房一人住みたり。両隣は皆二階家なるに、其家ばかり平家にて、屋根低く、軒もまた小かなりければ、大なる凹の字ぞ中空に描かれたる。この住居は狭かりけれど、奥と店との間に一の池ありて、金魚、緋鯉など夥多養いぬ。誰が飼いはじめしともなく古くより持ち伝えたるなり。近隣の人は皆年久しく住みたれど、そこのみはしばしば家主かわりぬ。さればわれその女房とはまだ新らしき馴染なれど、池なる小魚とは久しき交情なりき。
「小母さん小母さん」
この時髪や洗いけん。障子の透間より差覗けば、膚白く肩に手拭を懸けたるが、奥の柱に凭りかかれり。
「金魚は、あの内に居るかい。」
「居ますとも、なぜ今朝ッからいらっしゃらないッて、待ってるわ、貢さん。」
「そう。」
「あら、そう、じゃアありません、お入りなさいよ、ちょいと。」
「だって開かないもの、この戸は重いねえ。」
手を空ざまに、我が丈より高き戸の引手を押せば、がたがたと音したるが、急にずらりと開く。婦人は上框に立ちたるまま、腕を延べたる半身、斜に狭き沓脱の上に蔽われかかれる。その袖の下を掻潜りて、衝と摺抜けつつ、池ある方に走り行くをはたはたと追いかけて、後より抱き留め、
「なぜそうですよ。金魚ばかりせッついて、この児は。私ともお遊びッてば、厭かい。」
と微笑みたり。
「うむ。」
「うむ、じゃアありません。そんなことをお言いだと私ゃ金魚を怨みますよ。そして貢さんのお見えなさらない時に、焼火箸を押着けて、ひどい目に逢わせてやるよ。」
「厭だ。」
「それじゃ、まあお坐んなさい。そしてまた手鞠歌を唄ってお聞かせな。あの後が覚えたいからさ。何というんだっけね。……二両で帯を買うて、三両で絎けて、二両で帯を買うて、それから、三両で絎けて、そうしてどうするの、三両で絎けて……」
「今年はじめて花見に出たら、寺の和尚に抱き留められて。」
とわれは節つけて唄い出しぬ。
婦人は耳を澄して聞く。
「寺の和尚に抱き留められて、止しゃれ、放しゃれ、帯切らしゃるな。」
「おや、お上手だ。」と障子の外より誰やらむ呼ぶ者ありけり。
「誰?」と言いかけて走り出で、障子の隙間より戸外を見しが、彼は早や町の彼方に行く、その後姿は、隣なる広岡の家の下婢なりき。
「貢さんが、お上手だもんだから。立って聞いてたの。それはね、唄も節もまるで私たちの知ッてるのと違うんだもの。もっと聞かして下さい、後でまた昨日の続きのお話をして上げますから。」
この婦人、昔話の上手にて、稚きものにもよく分るよう、可哀なる、おかしき物語して聞かす。いつもおもしろき節にて止めては、明くる日その続きをと思うに、まずわれに鞠歌を唄わしむるなり。
「高い縁から突き落されて、笄落し、小枕落し……」
と唄い続けつ。頭を垂れて聞き果てたり。
「何だか可哀っぽいのね。鬱いで来るようだけれど、飛んだおもしろいよ。私たちの覚えたのは、内方袖方、御手に蝶や花、どうやどうんど、どうやどうんど、一丁、二丁、三丁、四丁ッてもう陽気なことばかりで、訳が解らないけれど、貢さんのはまた格別だねえ。難有うござんした。それではちょうど隙だし、昨日のあの、阿銀小銀のあとを話してあげましょう。」
とて語り出づる、大方の筋は継母のその継しき児に酷きなりけり。
「昨日はどこまで話しましたッけね、そうそう、そうするとね、貢さん、妹の小銀と云う子が感心じゃありませんか。今の母様の子で、姉様の阿銀とはお肚が違っているのだけれど、それはそれは姉おもいの優しい子で、姉様が継母の悪だくみで山へ棄てられるというのを聞いて、どんなにか泣いたろう。何てッて頼んでも、母様は肯入れないし、父様は旅の空。家来や小者はもうみんなが母様におべっかッてるんだから、誰一人執成してくれようと云うものはなし、しかたがないので、そっとね、姉様が冤の罪を被せられて──昨夕話したッけ──冤というのは何にも知らない罪を塗りつけられたの。納屋の中に縛られている処へ忍んで逢いに行ってね、言うようには、姉さん、私がどんなにか母様に頼んだけれど、どうしても堪忍しませんから、一旦連れられておいでなさいまし。後でまたどうにでもしてお助け申しましょう。そうして、いらッしゃる処が解らないでは、お迎いに行くことが出来ませんから、これを……ッて、そう云って、胡麻を一掴、姉様の袂へ入れてあげたの。行く道々、中の絶えないように、そこいらに撒いておいでなさい。それをたよりにして逢いに行くッて、まあ、賢こいじゃアありませんか、小銀はようよう九つ。
その晩は手を取りあッて、二人が泣いて別れて、明日になると、母様の眼を忍んで小銀が裏庭へ出て見ると、枝折戸の処から、点々ずつ、あの昨夜の胡麻が溢れ出して、細い、暗い、背戸山の坂道へかかっているのを、拾い拾い、ずッとずッと、遠い遠い、路を歩いて、淋しい山ン中へ入ッて行ッたの。そうするとね、新らしく土を掘りかえした処があッて、掻寄せたあとが小高くなッてて、その上へ大きな石が乗ッけてあって、そこまで小銀が辿って行くと、一条細うく絶々に続いていた胡麻のあとが無くなっていたでしょう。
もう疑うことはない。姉様はこの中に埋れられたな、と思いながら、姉さん、姉さん、と地に口をつけて呼んでみても返事がないから、はッと思って、泣伏して、耳をこう。」
言いかけて婦人は頭を傾け、顔を斜に眼を瞑りて手をその耳にあてたるが、「ね。」とばかり笑顔寂しく、うっとり眼を開きてわが顔をば見し。戸外には風の音、さらさらと、我家なるかの楓の葉を鳴して、町のはずれに吹き通る、四角あたり夕戸出の油売る声遥なり。
一しきり窓あかるく、白き埃見えたるが、早ものに紛れてくらくなりぬ。寂しくなりたれば、近寄りて婦人の膝に片手突きぬ。彼方も寒くなりけむ、肌を入れつ。片袖を掛けてわが背を抱きて蔽いながら、顔さし覗く状して、なお粛かにぞ語れる。
「そうすると、深い深い、下の方で、幽に、姉の阿銀がね、貢さん、(ああい。)てッて返事をしましたとさ。
それからまた精一杯な声で、姉さん姉さんッて呼んだの。そうすると、ああ、もう水が出て、足の裏が冷たくッて冷たくッて、と姉さんがお言いだとね。土を掘ったのだもの、水が出ますわ。
どうぞして、上の石を退けて出してあげようとおしだけれど、大きな男が幾人もかかって据えたものを、どうして小銀の手に合うものかね。そちこちするうち日が暮れそうだから、泣き泣きその日は帰ってしまって、翌日また尋ねて行って、小銀が(小銀が来ましたよ、小銀が来ましたよ。姉さん、姉さん、どこまで水がつきました。)ッて、問うたればね、膝まで水がつきましたッて、そうお言いだとさ。そのあくる日は、もう股の処へついたッて。またその翌日行った時は、お腹の上まで来たんですとね。そうしてもうそうなると、水足が早くなって、小銀が、姉さん、姉さんッて聞く内に、乳の下まで着いたんだよ。山の中は寂りして、鳥の声も聞えない。人ッ子一人通ろうではなし、助けてもらうわけにはゆかず、といって石は退けられないし、ただもうせめてのことに、お見舞をいうばかり、小銀が悲しい声を絞って。」
この時婦人は一息つきたり。可哀なるこの物語は、土地の人口碑に伝えて、孫子に語り聞かす、一種のお伽譚なりけるが、ここをば語るには、誰もかくすなりとぞ。婦人もいま悲しげなる小銀の声を真似むとて、声繕いをしたりしなり。
「(姉さんや、姉さんや、どこまで水がつきました。どこまで水がつきました。もう一度顔が見たいねえ! 小銀が来ましたよう。)ッて、呼んでも呼んでも返事がないの。もう下で口が利けなくなったんでしょう。小銀の悲しさは、まあどんなだったろうねえ。叶わないとは思っても、ひょッと聞えようかと、(姉さんや、姉さんや、どこまで水がつきました。)阿銀さん、姉さんッて、はッと泣き倒れて、姉さん、姉さん。」
と悲しき声す。先刻より我知らず悲しくなりしを押耐えていたりしが、もはや忍ばずなりて、わッと泣きぬ。驚きて口をつぐみし婦人は、ひたと呆れし状にて、手も着けでぞ瞻りける。
門の戸引開けて、衝と入りざま、沓脱に立ちて我が名を慌しく呼びたるは、隣家なる広岡の琴弾くかの美しき君なり。
「あれ。」とばかりに後にすさりて、後ざまにまたその手を格子戸の引手にかけし、遁も出ださむ身のふりして、面をば赧らめたまえる、可懐しと思う人なれば、涙ながら見て、われは莞爾と笑いぬ。
「まあ私はどうしたというのでしょう。」
かく言いかけて俯向きたまえり。
「どうぞ、さあどうぞお入りなさいまし。お嬢様まことに散らかしておりますが。」
此方も周章てていう。
「はい、まだしみじみ御挨拶にも上りませぬのに、失礼な、つい、あの、まあ、どうしたら可うございましょう。」
詮方なげに微笑みたまいつ。果は笑いとこそなりたれ、わがその時の泣声の殺されやすると思うまで烈しき悲鳴なりしかば、折しも戸に倚りて夕暮の空を見たまいしが、われにもあらで走入りたまいしなりとぞ。されば、わが泣きたるも、一つはこの姉上の母の、継母ぞということをば、かねて人に聞きて知れればなりき。
うつくしき君の住いたるは、わが町家の軒ならびに、比びなき建物にて、白壁いかめしき土蔵も有りたり。内証は太く富めりしなりとぞ。人数は少なくて、姉上と、その父と、母と、下婢とのみ、もの静なる仕舞家なりき。
財産持てりというには似で、継母なる人の扮装の粗末さよ。前垂も下婢と同じくしたり。髪は鵲の尾のごときものの刎ね出でたる都髷というに結びて、歯を染めしが、ものいう時、上下の歯ぐき白く見ゆる。
年紀は四十に余れり。われをば睨みしことあらざれど、遊びに行けば余り嬉しき顔せず。かつて夜に入りて、姉上と部屋にて人形並べて遊びしに、油こそ惜しけれ、しかることは日中にするものぞと叫びぬ。
われを憎むとは覚えず、内に行くことをこそ好まざれ、外にて遊ぶ時は、折々ものくれたり。されどかの継母の与えしものに、わが好ましきはあらざりき。
節句の粽貰いしが、五把の中に篠ばかりなるが二ツありき。杏、青梅、李など、幼き時は欲しきものよ。広岡の庭には実のなる樹ども夥多ありし、中にも何とかいう一種李の実の、またなく甘かりしを今も忘れず。継母の目のなきひまに、姉上の潜に取りて、両手に堆く盛りてわが袂に入れたまいしが、袖の振あきたれば、喜び勇みて走り帰る道すがら大方は振り落して、食べむと思うに二ツ三ツよりぞ多からざりける。
継母はわずかに柿の実二ツくれたり。その一顆は渋かりき。他の一顆を味わむとせしに、真紅の色の黒ずみたる、台なきは、虫のつけるなり。熟せしものにはあらず、毒なればとて、亡き母棄てさせたまいぬ。
いつなりけむ、母上の給いたる梨の、核ばかりになりしを地に棄てしを見て、彼処の継母眉を顰め、その重宝なるもの投ぐることかは、磨りおろして汁をこそ飲むべけれと、老実だちてわれに言えりしことあり。
さる継母に養わるる姉上の身の思わるるに、いい知らず悲しくなりて、かくはわれ小銀の譚に泣きしなる。その理由を語るべき我が舌は余り稚かりき。
「まあ、こうなんですよ。お嬢様、ちょいと御覧なさいまし、子供ですねえ。」
女房は笑みつつ言う。そのままにも出でかねてや、姉上は内に入りたまい、
「まことに失礼いたしました。私もそそっかしい、考えたって解りますのにねえ。小母さん、悪く思召さないで下さいまし、ほんとにどうしよう私は。」と、ひたすらに詫びたまいぬ。
此方はただ可笑しがりて、
「いいえ、しかし何ですわ。うっかりした話はいたされませんね。私も吃驚しました、だって泣きようが太いのですもの。厭な人ねえ。貢さん、私ゃ懲々したよ。もうもうこんなことは聞かせません。」と半ばは怨顔なるぞ詮方なき。
「でも賢いのね。貢さん、よくお解りだった。」
と優しく頭撫でつつ、姉上の愛でたまうに、やや面を起せり。
「お嬢様。」とものありげに戸外より下婢の声懸けたれば、かの君はいそがわしく辞し去りたまいぬ。あと追うて出でむとせしを、女房の遮りて、笑いながら、
「あらそのまんまで遁げちゃずるいよ。もうひとつ手鞠唄をお聞かせでなくッちゃあ……」
再び唄いたり。辞みて唄わざらむには、うつくしき金魚もあわれまた継母の手に掛りやせむ。
我が居たる町は、一筋細長く東より西に爪先上りの小路なり。
両側に見好げなる仕舞家のみぞ並びける。市中の中央の極めて好き土地なりしかど、この町は一端のみ大通りに連りて、一方の口は行留りとなりたれば、往来少なかりき。
朝より夕に至るまで、腕車、地車など一輌も過ぎるはあらず。美しき妾、富みたる寡婦、おとなしき女の童など、夢おだやかに日を送りぬ。
日は春日山の巓よりのぼりて粟ヶ崎の沖に入る。海は西の方に路程一里半隔りたり。山は近く、二階なる東の窓に、かの木戸の際なる青楓の繁りたるに蔽われて、峰の松のみ見えたり。欄に倚りて伸上れば半腹なる尼の庵も見ゆ。卯辰山、霞が峰、日暮の丘、一帯波のごとく連りたり。空蒼く晴れて地の上に雨の余波ある時は、路なる砂利うつくしく、いろいろの礫あまた洗い出さるるが中に、金色なる、また銀色なる、緑なる、樺色なる、鳶色なる、細螺おびただし。轍の跡というもの無ければ、馬も通らず、おさなきものは懸念なく踞居てこれを拾いたり。
あそびなかまの暮ごとに集いしは、筋むかいなる県社乙剣の宮の境内なる御影石の鳥居のなかなり。いと広くて地をば綺麗に掃いたり。榊五六本、秋は木犀の薫みてり。百日紅あり、花桐あり、また常磐木あり。梅、桜、花咲くはここならで、御手洗と後合せなるかの君の庭なりき。
この境内とその庭とを、広岡の継母は一重の木槿垣をもて隔てたり。朝霧淡くひとつひとつに露もちて、薄紫に蘂青く、純白の、蘂赤く、あわれに咲重なる木槿の花をば、継母は粥に交ぜて食するなり。こは長寿する薬ぞとよ。
梨の核を絞りし汁も、木槿の花を煮こみし粥も、汝が口ならば旨かるべし。姉上にはいかならむ。その姉上と、大方はわれここに来て、この垣をへだてて見えぬ。表より行かむは、継母のよき顔せざればなり。
時は日ごとに定まらねど、垣根に彳めば姉上の直ちに見えたまう。垂籠めていたまうその居間とは、樹々の梢ありて遮れど、それと心着きてや必ず庭に来たまうは、虫の知らするなるべし。一時は先立ちて園生をそぞろあるきしたまうことあり。さる折には、われ家を出づる時、心の急がざることあらざりき。
行きて差覗けば、悄れて樹の間に立ちて、首をさげ、肩を垂れ、襟深く頤を埋めて力なげに彳みたまう。病気にやと胸まず轟くに、やがて目をあげて此方を見たまう時、莞爾として微笑みたまえば、病にはあらじと見ゆ。かかることしばしばあり。
独居たまう時はいつもしかなりけむ。われには笑顔見せたまわざること絶えてなかりしが、わがために慰めらるるや、さらば勉て慰めむとて行く。もどかしき垣を中なる逢瀬のそれさえも随意ならで、ともすれば意地悪き人の妨ぐる。
国麿という、旧の我が藩の有司の児の、われより三ツばかり年紀たけたるが、鳥居の突あたりなる黒の冠木門のいと厳しきなかにぞ住いける。
肩幅広く、胸張りて、頬に肥肉つき、顔丸く、色の黒き少年なりき。腕力もあり、年紀も長けたり、門閥も貴ければ、近隣の少年等みな国麿に従いぬ。
厚紙もて烏帽子を作りて被り、払を腰に挿したるもの、顱巻をしたるもの、十手を携えたるもの、物干棹を荷えるものなど、五三人左右に引着けて、渠は常に宮の階の正面に身構えつ、稲葉太郎荒象園の鬼門なりと名告りたり。さて常にわが広岡の姉上に逢わむとて行くを、などさは女々しき振舞する。ともに遊べ、なかまにならば、仙冠者牛若三郎という美少年の豪傑になさむと言いき。仙冠者は稲葉なにがしの弟にて、魔術をよくし、空中を飛行せしとや。仙冠者をわれ嫌うにあらねど、誰か甘んじて国麿の弟たらむ。
言うこと肯かざるを太く憎み、きびしくその手下に命じて、われと遊ぶことなからしめたり。さらぬも近隣の少年は、わが袖長き衣を着て、好き帯したるを疎じて、宵々には組を造りて町中を横行しつつ、我が門に集いては、軒に懸けたる提灯に礫を投じて口々に罵りぬ。母上の名、仮名もてその神燈に記されたり。亡き人に礫打たしては、仏を辱かしめむとて、当時わが家をば預りたまえる、伯母の君他のに取りかえたまいぬ。
かかりし少年の腕力あり門閥ある頭領を得たるなれば、何とて我威を振わざるべき。姉上に逢わむとて木槿垣に行く途、まず一人物干棹をもて一文字に遮り留む。十手持ちたるが引添いて眼を配り、顱巻したるが肩をあげて睨め着くる。その中にやさしき顔のかの烏帽子被れる児の払をば、国麿の引取りて、背後の方に居て、片手を尻下りに結びたる帯にはさみて、鷹揚に指揮するなり。
わびたりとて肯くべきにあらず、しおしおと引返す本意なき日数こそ積りたれ。忘れぬは我ために、この時嬉しかりし楓にこそ。
その枝のさき近々と窓の前にさしいでたれば、広岡のかの君は二階にのぼりて、此方の欄に掴まりたるわが顔を見て微笑みたまいつつ、腕さしのべて、葉さきをつまみ、撓いたる枝を引寄せて、折鶴、木𫟏、雛の形に切りたるなど、色ある紙あまた引結いてはソト放したまう。小枝は葉摺れしてさらさらと此方に撓いて来つ。風少しある時殊に美しきは、金紙、銀紙を細く刻みて、蝶の形にしたるなりき。
雨の日はいかにしけむ、今われ覚えておらず。麗かなる空をば一群の鳩輪をつくりて舞うが、姉上とわれと対いあえるに馴れて、恐気なく、此方の軒、彼方の屋根に颯と下しては翼を休めて、廂にも居たり。物干場の棹にも居たり。棟にも居たり。みな表町なる大通の富有の家に飼われしなりき。夕越くれば一斉に塒に帰る。やや人足繁く、戸外を往来うが皆あおぎて見つ。楓にはいろいろのもの結ばれたり。
そのまま置きて一夜を過すに、あくる日はまた姉上の新たに結びたまわでは、昨日なるは大方失せて見えずなりぬ。
手届きて人の奪うべくもあらねば、町の外れなる酒屋の庫と観世物小屋の間に住めりと人々の言いあえる、恐しき野衾の来て攫えて行くと、われはおさなき心に思いき。
その翼広げたる大きさは鳶に較うべし。野衾と云うは蝙蝠の百歳を経たるなり。年紀六十に余れる隣の扇折の翁が少き時は、夜ごとにその姿見たりし由、近き年は一年に三たび、三月に一度など、たまたまならでは人の眼に触れずという。一尾ならず、二ツ三ツばかりある。普通の小さきものとは違いて、夏の宵、夕月夜、灯す時、黄昏には出来らず。初夜すぎてのちともすればその翼もて人の面を蔽うことあり。柔かに冷き風呂敷のごときもの口に蓋するよと見れば、胸の血を吸わるるとか。幻のごとく軒に閃きて、宮なる鳥居を掠め、そのまま隠れ去る。かの酒屋の庫と、観世物小屋の間まで、わが家より半町ばかり隔りし。真中に古井戸一ツありて、雑草の生い茂りたる旧空地なりしに、その小屋出来たるは、もの心覚えし後なり。
興行あるごとに打囃す鳴物の音頼母しく、野衾の恐れも薄らぐに、行きて見れば、木戸の賑いさえあるを、内はいかにおもしろからむ。母上いませし折は、わが見たしと云うを許したまわず、野衾の居て恐しき処なるに、いかでこの可愛きもの近寄らしむべきとて留めたまいぬ。
亡き人となりたまいて後は、わが寂しがるを慰めむとや、伯母上は快よく日ごとに出だしたまう。場内の光景は見馴れて明に覚えたり。
土間、引船、桟敷などいうべきを、鶉、出鶉、坪、追込など称えたり。舞台も、花道も芝居のごとくに出来たり。人数一千は入るるを得たらむ。
木戸には桜の造花を廂にさして、枝々に、赤きと、白きと、数あまた小提灯に、「て。」「り。」「は。」と一つひとつ染め抜きたるを、夥しく釣して懸け、夕暮には皆灯すなりけり。その下あたり、札をかかげて、一人々々役者の名を筆太にこそ記したれ。小親というあり、重子というあり、小松というあり、秋子というあり、細字もてしのぶというあり。小光、小稲と書きつらねて、別に傍に小六と書いたり。
印半纏被たる壮佼の、軒に梯子さして昇りながら、一つずつ提灯に灯ともすが、右の方より始めたれば、小親という名、ぱっと墨色濃く、鮮かに最初の火に照されつ。蝋燭の煮え込まざれば、その他はみな朧気なりき。
ありたけの提灯あかくなりたる後に、一昨日も、その前の日も、昨日も来つ。この夕は時やや早かりければ、しばしわれ木戸の前に歩行くともなく彳みつつ、幾度か小親の名を仰ぎ見たり。名を見るさえ他のものとは違いて、そぞろに興ある感起りぬ。かねてその牛若に扮せし姿、太くわが心にかないたり。
見物は未だ来り集わず。木戸番の燈大通より吹きつくる風に揺れて、肌寒う覚ゆる折しも、三台ばかり俥をならべて、東より颯と乗着けしが、一斉に轅をおろしつ、と見る時、女一人おり立ちたり。続いて一人片足を下せるを、後なる俥より出でたる女、つと来て肩を貸すに手を掛けてひらりと下りたり。先なるは紫の包を持ちて手に捧げつ。左右に二人引添いたる、真中に丈たかきは、あれ誰やらむ、と見やりしわれを、左なる女木戸を入りざま、偶と目を注ぎて、
「おや、お師匠様。」
また一人、
「あの、このお子ですよ。」と低声に言いたり。聞棄てながら一歩を移せし舞の師匠は振返りつ。冴かなる眼にキトわれを見しが、互に肩を擦合せて小走りに入るよとせしに、つかつかと引返して、冷たき衣の袖もてわが頸を抱くや否や、アと叫ぶ頬をしたたかに吸いぬ。
ややありてわれ眼を睜りたり。三人は早や木戸を入りて見えざりき。あまり不意なれば、茫然として立ったるに、ふと思い出でしは野衾の事なりき。俄に恐しくなりて踵を返す。通の角に、われを見て笑いながら彳みたるは、その頃わが家に抱えられたる染という女なり。
走り行きて胸に縋りぬ。
「恐かったよ、染ちゃん恐かったよ。」
「そう、恐かったの、貢さんはあれが恐いのかい。」
「見ていたの。」
「ああ見ていたとも、私が禁厭をしてあげたから何とも無かったんですわ。危ないことね。」
「恐かったよ。染ちゃん、顔をね、包んでしまったから呼吸が出なかったの。そうして酷いの、あの頬ぺたを吸ったんだ。チュッてそう云ったよ、痛いよ、染ちゃん。」
染は眉を顰めて仔細らしく、
「どれ、ちょいとお見せ。」
と言いつつ、「て」「り」「は」の提灯のあかりに向けて透し見るより、
「おや、おや、おや、大変。まあ。」とけたたましく言うに、わが胸轟きたり。おどおどすれば真顔になりて、
「乱暴だ、酷いことをするわ、野衾が吸ったんだね、貢さん、血が出てるわ。……おや。」
驚きて、
「あら、泣くんじゃアありません。何ともないよ、直ぐ治るから往来で何のこッたね、あら、泣かないでさ。」
と小腰を屈めて、湯に行きし帰途なれば、手拭の濡れたるにて、その血の痕というもの拭いたり。
「さあ、治りました。もう何ともないよ。」
と賺す、血の出たるが、こう早く癒ゆべしとは、われ信ぜず。
「嫌だ、嫌だ、痛いや、治りやしないや。」
「困るね。」
いう折しもまたここに来かかりしは、むかいなるかの女房なりき。われはまた彼方に縋りぬ。
「小母さん、恐かったよ。あのね、野衾が血を吸ったの。恐かったよ。」
「え、どうしたって云うの、大変だ、あの野衾がね。」
傍より、
「姉さんほんとうですよ、あのね。」
と言いつつ、ひたと身を寄せ、染は耳朶に囁きて、
「ね、ほんとうでしょう……ですからさ。」とまた笑えり。
女房は微笑みながら、
「不可いよ。貢さんは何でもほんとにするから欺されるんだよ。この賑かなのに、何だってまた野衾なんかが出るものかね。嘘だよ、綺麗な野衾だから結構さ。」
「あら姉さん。」
「お止しよ。そんなこと謂って威すのは虫の毒さ、私も懲りたことが有るんだからね、欺しッこなし。貢さん、なに血なもんかね、御覧よ。」
中指のさきを口に含みて、やがて見せたる、血の色つきたり。
「紅さ。野衾でも何でも可いやね。貢さんを可愛がるんだもの、恐くはないから行って御覧、折角、気晴に行くのものを、ねえ。此奴が、」
「あれ。」
「あばよ。」とばかり別れたる、囃子の音おもしろきに、恐しき念も失せて、忙しくまた木戸に行きぬ。
能は始まりたり。早くと思うに、木戸番の男、鼻低う唇厚きが、わが顔を見てニタニタと笑いいたれば、何をか思うと、その心はかり兼ねて猶予いぬ。
「坊ちゃん、お入んなさい、始りましたよ。」
わが猶予いたるを見て、木戸番は声を懸けぬ。日ごとに行きたれば顔を見識れるなりき。
「どうなすったんだ。さあ、お入んなさい、え、どうしたんだね。もう始りましたぜ。何でさ、木戸銭なんか要りやしません。お入んなさい、無銭で可うごす。木戸銭は要りませんから、菓子でも買っておあがんなさい。」
大胡坐掻きたるが笑いながら言示せり。さらぬだに、われを流眄にかけたるが気に懸りて、そのまま帰らむかと思えるならば、堪えず腹立たしきに、伯母上がたまいし銀貨入りたる緑色の巾着、手に持ちたるままハタと擲ちたり。銀貨入を誰が惜む。投ぐると斉しく駈け出しぬ。疾く帰りて胸なる不平を伯母上に語らばやと、見も返らざりし背後より、跫音忙しく追迫りて、手を捉えて引留めしは年若き先の女なり。
「坊ちゃん、まあ、あなた、まあどう遊ばしたんですよ。どこへいらっしゃるのさ。え、何かお気に入らない事があったんですか。お怒りなすって、まあ、飛んだ御機嫌が悪いのねえ。堪忍して頂戴な。よう、いらっしゃいよ。さあ、私と一所においでなさいましなね。何です、そんな顔をなさるもんじゃありません。」
「嫌だ。」
「あれ、そんなこと有仰らないでさ。あのね、あのね、小親さんがお獅子を舞いますッて、ね、可いでしょう、さあ、いらっしゃい。」
と手を取るに、さりとも拒み得で伴われし。木戸に懸る時、木戸番の爺われを見つつ、北叟笑むようなれば、面を背けて走り入りぬ。
人大方は来揃いたり。桟敷の二ツ三ツ、土間少し空きたる、舞台に近き桟敷の一間に、女はわれを導きぬ。
「坊ちゃん、じゃあね、ここで御覧なさいまし。」
意外なる待遇かな、かかりし事われは有らず。平時はただ人の前、背後、傍などにて、妨とならざる限り、処定めず観たりしなるを。大なる桟敷の真中に四辺を眗して、小き体一個まず突立てり。
とばかりありて、仮花道に乱れ敷き、支え懸けたる、見物の男女が袖肱の込合うたる中をば、飛び、飛び、小走に女の童一人、しのぶと言うなり。緋鹿子を合せて両面着けて、黒き天鵞絨の縁取りたる綿厚き座蒲団の、胸に当てて膝を蔽うまでなるを、両袖に抱えて来つ。
見返る女に顔を見合せて、
「あのね、姉さんが。」と小声に含めて渡す。
受取りて女は桟敷に直しぬ。
「さあ、お敷き遊ばせよ。」
われはまた蒲団に乗りて、坐りもやらで立ったりき。女は手もて足を押えて顔を見て打笑みたり。
「さあ、おゆっくり。」
われは据えられぬ。
「しのぶさん、お火鉢。」
「あい。」と云いしが眗して、土間より立ったる半纏着の壮佼を麾き、
「ちょいと、火鉢をね。」
「おい。」とこちら向く。その土間なる客の中に、国麿の交りしをわれ見たり。顔を見合せ、そ知らぬ顔して、仙冠者は舞台の方に眼を転じぬ。牛若に扮したるは小親にこそ。
髪のいと黒くて艶かなるを、元結かけて背に長く結びて懸けつ。大口の腰に垂れて、舞う時靡いて見ゆる、また無き風情なり。狩衣の袖もゆらめいたり。長範をば討って棄て、血刀提げて吻と呼吸つく状する、額には振分たる後毛の先端少し懸れり。眉凜々しく眼の鮮なる、水の流るるごときを、まじろぎもせで、正面に向いたる、天晴快き見得なるかな。
囃子の音止み寂然となりぬ。粛然として身を返して、三の松を過ぎると見えし、くるりと捲いたる揚幕に吸わるるごとく舞込みたり、
「お茶はよろし、お菓子はよしかな、お茶はよろし。」
と幕間を売歩行く、売子の数の多き中に、物語の銀六とて痴けたる親仁交りたり。茶の運びもし、火鉢も持て来、下足の手伝もする事あり。おりおり、小幾、しのぶ、小稲が演ずる、狂言の中に立交りて、ともすれば屹となりて居直りて足を構え、手拍子打ち、扇を揚げて、演劇の物語の真似するがいと巧なれば、皆おかしがりて、さは渾名して囃せるなり。
真似の上手なるも道理よ、銀六は旧俳優なりき。
かつて大槻内蔵之助の演劇ありし時、渠浅尾を勤めつ。三年あまり前なりけむ、その頃母上居たまいたれば、われ伴われて見に行きぬ。
蛇責こそ恐しかりけり。大釜一個まず舞台に据えたり。背後に六角の太き柱立てて、釜に入れたる浅尾の咽喉を鎖もて縛めて、真白なる衣着せたり。顔の色は蒼ざめて、乱髮振りかかれるなかに輝きたる眼の光の凄まじさ、瞻り得べきにあらず。夥兵立懸り、押取巻く、上手に床几を据えて侍控えいて、何やらむいい罵りしが、薪をば投入れぬ。
どろどろと鳴物聞えて、四辺暗くなりし、青白きものあり、一条左の方より閃きのぼりて、浅尾の頬を掠めて頭上に鎌首を擡げたるは蛇なり。啊呀と見る時、別なるがまた頸を絡いて左なるとからみ合いぬ。恐しき声をあげて浅尾の呻きしが、輪になり、棹になりて、同じほどの蛇幾条ともなく釜の中より蜿り出でつ。細く白き手を掙きて、その一条を掻掴み、アと云いさま投げ棄てつ。交る交る取って投げしが、はずみて、矢のごとくそれたる一条、土間に居たまいたる母上の、袖もてわれを抱きてうつ向きたまいし目の前にハタと落ちたるに、フト立ちて帰りたまいき。
この時その役勤し後、渠はまた再び場に上らざるよし。蛇責の釜に入りしより心地悪くなりて、はじめはただ引籠りしが、俳優厭になりぬとて罷めたるなり。やや物狂わしくなりしよしなど、伯母上のうわさしたまう。
何地行きけむ。久しくその名聞えざりしが、この一座に交りて、再び市人の眼に留りつ。かの時の俤は、露ばかりも残りおらで、色も蒼からず、天窓兀げたり。大声に笑い調子高にものいい、身軽く小屋の中を馳せ廻りて独快げなる、わが眼にもこのおじが、かの恐しき事したりとは見えず。赤き顱巻向うざまにしめて、裾を括げ、片肌脱ぎて、手にせる菓子の箱高く捧げたるがその銀六よ。
「人気だい、人気だい。や、すてきな人気じゃ。お菓子、おこし、小六さん、小親さん、小六さんの人気おこし、おこしはよしか。お菓子はよしか。」
いまの能の品評やする、ごうごうと鳴る客の中を、勢いよく売ありきて、やがてわが居たる桟敷に来りて、
「はい、これを。」
と大きく言いて、紙包にしたる菓子をわが手に渡しつ。
「楽屋から差上げます。や、も、皆大喜び、数ならぬ私まで、はははは。何てッてこれ坊ちゃんのようなお小いのが毎晩見て下さる。当興行大当、滅茶々々に面白い。すてきに面白い。おもしろ狸のきぬた巻でも、あんころ餅でも、鹿子餅でも、何でもございじゃ、はい、何でもござい、人気おこし、お菓子はよしか。小六さん、小親さん、小六さんの人気おこし、おこしはよしか。」と呼びかけて前の桟敷を跨ぎ越ゆる。
ここに居て見物したるは、西洋手品の一群なりし。顔あかく、眼つぶらにて、頤を髯に埋めたる男、銀六の衣の裾むずと取りて、
「何を!」と言いさま、三ツ紋つきたる羽織の片袖まくし揚げつつ、
「何だ、小六さん、小六さんの人気おこしたあ何だ。」
「へい。」
「へいじゃあない、小六さんたあ何だ。客の前を何と心得てるんだ。獣め、乞食芸人の癖に様づけに呼ぶ奴があるもんか。汝あ何だい、馬鹿め!」
と言うより早く拳をあげて、その胸のあたりをハタと撲ちぬ。背後に蹌踉けて渋面せしが、たちまち笑顔になりて、
「許させられい、許させられい。」
と身を返して遁げ行きぬ。
この時、人声静まりて、橋がかりを摺足して、膏薬練ぞ出で来れる。その顔は前にわれを引留めて、ここに伴いたるかの女に肖たるに、ふと背後を見れば、別なるうつくしき女、いつか来て坐りたり。黒髪を束ねて肩に懸けたるのみ、それかと見れば、俤は舞台なりし牛若の凜々しげなるには肖で、いと優しきが、涼しき目もて、振向きたるわが顔をば見し。打微笑みしまま未だものいわざるにソト頬摺す。われは舞台に見向きぬ。
背後見らるる心地もしつ。
ややありて吸競べたる膏薬練の、西なる方吸寄せられて、ぶざまに転けかかりたる状いと可笑きに、われ思わず笑いぬ。
「おもしろうござんすか。」
と肩に手をかけて潜めき問いぬ。
「よく来て下さいますね。ちょいと、あの、これを。」
渠は先にわが投げ棄てし銀貨入を手にしつつ、
「私これ頂いときますよ。ね、頂戴。可うござんすか。」
「ああ。」
また頷けば軽く頂き、帯の間に挟みしが、
「木戸のがね、お気に入りませんだったら叱ッてもらってあげますから、腹を立てないで毎晩、毎晩、いらっしゃいましな、ね。ちゃんとここを取って、私のこのお蒲団敷いてあげますわ。そうしてお前さんの好きなことをして見せましょう。何が可いの、狂言がおもしろいの。」
「いいえ。」
「じゃあ、お能の方なの。」
「牛若が可いんだ、刀持って立派で可いんだ。」
「そう。」と言いかけて莞爾とせしが、見物は皆舞台を向いたり。人知れずこそ、また一ツ、ここにも野衾居たりしよ。
見物みな立ちたればわれも立ちぬ。小親が与えし緋鹿子の蒲団の上に、広き桟敷の中に、小さき体一ツまたこそこの時突立ちたれ。さていかにせむ。前なるも、後なるも、左も右も、人波打ちつつどやどやと動揺み出づる、土間桟敷に五三人、ここかしこに出後れしが、頭巾被るあり、毛布纏うあり、下駄の包提げたるあり、仕切の板飛び飛びに越えて行く。木戸の方は一団になりて、数百の人声推合えり。われはただ茫然としてせむ術を知らざりき。
「おい、帰らないか。」
と声を掛け、仕切の板に手を支きて、われを呼びたるは国麿なり。釦三ツばかり見ゆるまで、胸を広く掻広げて、袖をも肱まで捲し上げたる、燃立つごとき紅の襯衣着たり。尻さがりに結べる帯、その色この時は紫にて、
「どうした、一所に帰ろうな。」
「後から。」と低く答えぬ。
国麿は不満の色して、
「だって皆帰るじゃあないか。一人ぼッちで何しに残るんだ。」
「だって、まだ、何だもの。」
となお猶予いぬ。女来て帰れと言わず、座蒲団このままにして、いかで、われ行かるべき。
国麿はものあり顔に、
「可いじゃあないか、一所に帰ったって可いじゃあないか。」
「だって何だから……どうしたんだなあ。」
ひたすら楽屋の方打見やる。国麿は冷かなる笑を含み、
「用があるんか。誰か待ってるか、おい。」
「誰も待ってやしないんだ。」
「嘘を吐け。いまに誰か来るんだろう。云ったって可いじゃないか。」
「誰も来るんじゃあないや。そうだけれど……困るなあ。」
「何を困るんだ。え、どうしたんだ。」
「どうもしないさ。」
「じゃあ困る事はないじゃあないか。な、一所に帰ろうと云うに。」
顔の色変りたれば恐しくなりぬ。ともかくも成らば成れ、ともに帰らむか。鳥居前のあたりにて、いかなる事せむも計られずと思いて逡巡するに、国麿は早や肩を揚げぬ。
「疾くしないかい、おい。」
「だって何だから。」
「何が何だ、おかしいじゃあないか。」
「この座蒲団が……」
国麿はいま見着けし顔にて、
「や、すばらしい蒲団だなあ。すばらしいものだな、どうしたんだ。この蒲団はどうしたんだ。」
「敷いてくれたの。」
「誰が、と聞くんだ、敷いてくれたのは分ってらい。」
「お能のね、お能の女。」
「ふむ、あんな奴の敷いたものに乗っかる奴が有るもんか。彼奴等、おい、皆乞食だぜ。踊ってな、謡唄ってな、人に銭よウ貰ってる乞食なんだ。内の父様なんかな、能も演るぜ。む、謡も唄わあ。そうして上手なんだ。そうしてそういってるんだ。ほんとのな、お能というのは男がするもんだ。男の能はほんとうの能だけれど、女のは乞食だ。そんなものが敷いて寄越した蒲団に乗るとな、汚れるぜ。身が汚れらあ。しちりけっぱいだ、退け!」
踏みこたえて、
「何をする。」
「何でえ、おりゃ士族だぜ。退け!」
国麿は擬勢を示して、
「汝平民じゃあないか、平民の癖に、何だ。」
「平民だって可いや。」
「ふむ、豪勢なことを言わあ。平民も平民、汝の内ゃ芸妓屋じゃあないか。芸妓も乞食も同一だい。だから乞食の蒲団になんか坐るんだ。」
われは恥かしからざりき。娼家の児よと言わるるごとに、不断は面を背けたれど、こういわれしこの時のみ、われは恥しと思わざりき。見よ、見よ、一たび舞台に立たむか。小親が軽き身の働、躍れば地に褄を着けず、舞の袖の飜るは、宙に羽衣懸ると見ゆ。長刀かつぎてゆらりと出づれば、手に抗つ敵の有りとも見えず。足拍子踏んで大手を拡げ、颯と退いて、衝と進む、疾きこと電のごとき時あり、見物は喝采しき。軽きこと鵞毛のごとき時あり、見物は喝采しき。重きこと山のごとき時あり、見物は襟を正しき。うつくしきこと神のごとき時あり、見物は恍惚たりき。かくても見てなお乞食と罵る、さは乞食の蒲団に坐して、何等疚しきことあらむ。われは傲然として答えたり。
「可いよ乞食、乞食だから乞食の蒲団に坐るんだ。」
「何でえ。」
国麿は眼を円にしつ。
「何でえ、乞食だな、汝乞食だな、む、乞食がそんな、そんな縮緬の蒲団に坐るもんか。」
「可いよ、可いよ、私、私はね、こんなうつくしい蒲団に坐る乞食なの。国ちゃん、お菰敷いてるんじゃないや。うつくしい蒲団に坐る乞食だからね。」
国麿は赤くなりて、
「何よウ言ってんだい。おい貢、汝そんなこと言って可いのかな、帰途があるぜ。」
威されてわれはその顔を見たり。舞台は暗くなりぬ。人大方は立出ぬ。寒き風場に満ちて、釣洋燈三ツ四ツ薄暗き明映すに心細くこそなりけれ。
「帰途があるって、帰途がどうしたの、国ちゃん。」
国麿は嘲笑えり。
「知ってるだろう。鳥居前の俺が関を知ってるだろう。」
手下四五人、稲葉太郎荒象園の鬼門彼処に有りて威を恣にす。われは黙して俯向きぬ。国麿はじりりと寄りて、
「皆知ってるぜ、おい、皆見ていたぜ。汝婦人とばかり仲好くして、先刻もおれを見て知らない顔して談話してたじゃあないか。そうするが可いや、うむ、たんとそうするさ。」
「国ちゃん、堪忍おし。」
「へ、あやまるかい。うむ、あやまるなら可いや。じゃあ可いから、な、その座蒲団にちょっと己をのッけてくれないか、そこを退いて。さあ、」
国麿はヌト立ちつつ、褄取りからげて、足を、小親がわれに座を設けし緋鹿子に乗せんとす。止むなく、少しく身を退きしが、と見れば足袋を穿きもせで、そこら跣足にてあるく男の、足の裏太く汚れて見ゆ。ここに乗せなばあとつけなむ、土足にこの優しきもの踏ますべきや。
「いけないよ。」
「何だ……」
覚悟したれば身を交して、案のごとく踵をあげたる、彼が足蹴をば外してやりたり。蒲団持ちながら座を立ちたれば、拳の楯に差翳して。
「あら。」
国麿の手は弛みぬ。われは摺抜けて傍に寄りぬ。
「いやです、いやです、あなたはいやです。」
緋鹿子の片隅に手を添えて、小親われを庇うて立ちぬ。国麿は目を怒らしたり。その帯は紫なり、その襯衣は紅なり。緋鹿子の座蒲団は、われと小親片手ずつ掛けて、右左に立護りぬ。小親この時は楽屋着の裾長く緋縮緬の下着踏みしだきて、胸高に水色の扱帯まといたり。髪をばいま引束ねつ。優しき目の裡凜として、
「もし、旦那様、あの、乞食の蒲団は、いやです、私が貴方にゃ敷かせないの。私の蒲団です。渡すことはなりません。」
と声いとすずしくいい放てり。
「よく敷かせないで下さいました。お前さん、どこも何ともないかい。酷いよ、乱暴ッちゃあない。よくねえ、よく庇って下すッたのね。楽屋で皆がせりあって、ようよう私が、あの私のを上げたんですもの。他人に敷かれて堪るものかね、お帰りよ、お帰り遊ばせよ。あなた!」
「何でえ、乞食の癖に、失敬な、失敬じゃあないか。お客に向ッて帰れたあ何だい。」
「おからだの汚になります。ねえ。」
とわが顔に頬をあてて、瞳は流れるるごとく国麿を流眄に掛く。国麿は眉を動かし、
「馬鹿、年増の癖に、ふむ、赤ン坊に惚れやがったい。」
「え、」
と顔を赧らめしが、
「何ですねえ、存じません。何の、贔屓になすって下さるお客様を大事にしたって、何が、何が、おかしゅうござんすえ。」
「おかしいや、そんな小ッぽけなお客様があるもんか。」
「あら、私ばッかりじゃありません。姉さんだッて、そういいました。そりゃ御贔屓になすッて下さるお客も多いけれど、何の気なしにただおもしろがって見て下さるのはこのお児ばかり。あなた御存じないんでしょう。当座ではじめてから毎晩、毎晩来て下すって、あの可愛らしい顔をして傍見もしないで見ていて下さるじゃありませんか。このお年紀で、お一人で、行儀よく終番まで御覧なすって、欠伸一ツ遊ばさない。
手品じゃアありません、独楽廻しじゃ有りません。球乗でも、猿芝居でも、山雀の芸でもないの。狂言なの、お能なの、謡をうたうの、母様に連れられて、お乳をあがっていらっしゃる方よりほか、こんな罪のない小児衆のお客様がもウ一人ござんすか。
目につきました、目立ちました。他のお客様にはどうであろうと、この坊ちゃんだけにゃ飽かしたくない。退屈をさしたくない、三十日なり、四十日なり、打ち通すあいだ来ていただきたい、おもしろう見せてあげたいと、そう思ったがどうしました。……
ほんとうに芸人冥利、こういう御贔屓を大事にするは当前でござんせんか。しのぶも、小稲も、小幾も、重子も、みんな弟子分だから控えさして、姉さんのをと思ったけれど、私の方が少いからお対手に似合うというので、私の座蒲団をあげたんですわ。何も年増だの、何のって、貴方に、そ、そんなことを言われる覚えはない!」
と太く気色ばみ言い開きし。声高なりしを怪みけむ。小稲、小幾、重子など、狂言囃子の女ども、楽屋口より出で来りて、はらりと舞台に立ちならべる、大方あかり消したれば、手に手に白と赤との小提灯、「て」「り」「は」と書けるを提げたり。
舞台なりし装束を脱替えたるあり、まだなるあり、烏帽子直垂着けたるもの、太郎冠者あり、大名あり、長上下を着たるもの、髪結いたるあり、垂れたるあり、十八九を頭にて七歳ばかりのしのぶまで、七八人ぞ立ならべる。
「どうしたの、どうしたの。」
と赤き小提灯さしかざし、浮足してソト近寄りたる。国麿の傍に、しのぶの何心なく来かかりしが、
「あれ。」
恐しき顔して睨めつけながら、鼻の前にフフと笑いて、
「何か言ってらい、おたふくめ。」
と言棄てに身を返すとて、国麿は太き声して、
「貢!」
「牛若だねえ。」
とて小親、両袖をもてわが背蔽いぬ。
「覚えておれ、鳥居前は安宅の関だ。」
と肩を揺りて嘲笑える、渠は少しく背屈みながら、紅の襯衣の袖二ツ、むらさきの帯に突挿しつつ、腰を振りてのさりと去りぬ。
「済まなかったね、みつぎさん、お前さん、貢さんて言うの?」
「ああ。」
「楽屋に少し取込みが有ったものだから、一人にしておいて飛んだめに逢わせたこと。気が着いて、悪いことをしたと思って、急いで来て見るとああだもの。よくねえ、そして、あの方はお友達?」
「友達になれッていうのよ。」
「おや、そう。しない方が可いよ。可厭な人っちゃあない。それでもよく蒲団を敷かせないで下すッた。それは私ゃ嬉しいけれど、もしお前さん疵でも着けられちゃ大変だのに、どうして、なぜ敷かせてやらなかったの。」
「だッて、あんな汚い足をつけられると、この蒲団が可哀そうだもの。きれいだね、きれいな座蒲団、可愛んだねえ。」
真中を絞りて、胸に抱き、斜に頬を押当つるを、小親見て、慌しく、
「あら、そんな事をなすッちゃ、お前さんの顔に。まあ、勿体ない。」
とて白き掌もて拭う真似せり。
「あのほんとに、毎晩いらっしゃいよ。私もついあんな事を云ったんだから、あの人につけても、お前さんが毎晩来てくれなくッちゃ極が悪いわ。後生ですよ。その代り、この蒲団は、誰の手も触らせないでこうやって、」
二隅を折りて襟をば掻あけ、胸のあたりいと白きにその紅を推入れながら、
「こうやって、お守にしておくの。そうしちゃ暖めておいて、いらっしゃる時敷かせますからね、きっとよ。」
「ああ。」
「ほんとうかい。」
「きっと!」
「嬉しいねえ。」と莞爾として、
「じゃあね、晩くなりましたから今夜はお帰んなさいな。母様がお案じだろうから。」
母はあらず。
「母様じゃあないの。伯母さんなの。」
「おや、母様ないの。」
「亡くなったの、またいらっしゃるんだッて、皆そう云うけれど、嘘なの。もうお帰りじゃない、亡くなってしまったんだ。」
「まあ。」と言いかけてまた瞻りしが、頷く状にて、
「じゃあその伯母さんがお案じだろうから、私が送って行ってあげましょう、ね。鳥居前ッて言うのはどこ? 待伏をしてると不可いから。」
「直、そこだよ。」
「わけ無しだね。ちょいと衣物を着替えて来るから待っていらっしゃいよ。小稲さん、遊ばしてあげておくれ。」
「はい。」
ばらばらと女ども五六人、二人を中に取巻きたり。小稲と云うがまず笑いて、
「若お師匠様、おめでとう存じます、おほほほほほ。」
小親は素知らぬ顔したり。重子というが寄添いつつ、
「ちょいと、何がおめでたいのさ。」
「おや、迂濶だねえ。知らないのかい。」
「はあ、何ですか。」
「何ですか存じませんが、小稲さんのいいますとおり、若お師匠様、おめでとうございます。」
傍より小幾がいう。小松がまた引取りて、
「私もお祝い申しますわ。」
「それでは私も。あの、若お師匠様おめでとう存じます。」
小親は取巻れてうろうろしながら、
「お前達は何をいうのだ。」
「何でも、おめでたいに違いませんもの。」
「姉さん、何なの、どうしたの。」
と差出でて、しのぶの問いければ、小稲は静に頷きて、
「お前は嬰児だから解るまいね、知らない道理だから言って聞かせよう、あのね、若お師匠様にね、御亭主が出来たの。」
大勢、
「おやおやおやおや。」
小親は顔を赧らめたり。
「知らないよ!」
小稲また立懸り、
「お秘し遊ばしても不可ません。そうして若お師匠様、あなたもうお児様が出来ましたではございませんか。」
「へい。」
「何を言うのだね。」
「争われませんものね。もうおなかが大きくおなり遊ばしたよ。」
「む、これかえ。」と俯向きて、胸を見て、小親は艶麗に微笑を含みぬ。
一同目を着け、
「ほんにね。おやおや!」
「だから、お芽出たかろうではないの。」
「そして旦那様はどなたでございます。」
「馬鹿だねえ、嘘だよ。」
「それでは何でございます、どうしてそんなにおなり遊ばしたの。」
「何でもないのさ、知らないッて言うのに。」
「いえ、御存じないでは済みません。あなた私たちにお隠し遊ばしては水臭いじゃアありませんか。是非どうぞ、どなたでございますか聞かして下さいましな。」
「若お師匠様、どうぞ私にも。」
「私にも。」
「うるさいね、いまちょいと出懸けるんだから。」
「いえ、お身持で夜あるきを遊ばすのはお毒でございます。それはお出し申されません。ねえ?」
「お身体に障りましては大変ですとも。どうして、どうして、お出し申すことではございませんよ。」
「うるさいよ。詰らない。」
「じゃあお見せ遊ばせ、ちょいとそのお腹ン処を、お見せ遊ばせ。」
「そうはゆかない、ほほほほほ。」
「擽りますよ!」
「そうはゆかない、あれ!」
と言うより身震せしが、俯伏にゆらめく挿頭、真白き頸、手と手の間を抜けつ、潜りつ、前髪ばらりとこぼれたるが仰けざまに倒れかかれる、裳蹴返し踵を空に、下着の紅宙を飛びて、技利のことなれば、二間ばかり隔りたる舞台にひらりと飛び上りつ。すらりと立って向直り、胸少し掻あけて、緋鹿子の座蒲団の片端見せて指さしたり。
「稲ちゃん、このことかい。」
「は。」と小稲は前に出でて、
「もうお幾月ぐらい?」
「さようさ、九ツ十……」とばかり、小親われを見てまた微笑みぬ。
「さあ、こん度は坊ちゃんの番だよ。」
とて、小稲つッと差寄りつつ、
「坊ちゃん、お相手をいたしましょうね。何をして遊びましょう。」
われは黙して言わざりき。
「おや、私ではお気に入らないそうだよ。重子さん、ちょいとお前伺って御覧。」
「はい。」と進み、「さあお相手。」と言う。
「そんな藪から棒な挨拶がありますか!」
「おや! おや!」と退いたるあと、小松なるべし立替れり。
「私では不可ませんか。」
「遊ばなくッてもいい。」
「まあ、素気なくッていらっしゃる。」
小稲は笑いぬ。
「坊ちゃん、私にね、そっと内証でおっしゃいな、小親さんが、あの、坊ちゃんに何かいったでしょう。」
「言わない。」
「うまくおっしゃるのよ、可愛い坊ちゃんだッて、そういったでしょう。」
「ああ、言った。」
皆どっと笑いたり。
「驚きましたね、そして何でしょう。あの、外の女と遊ぶ事はなりませんて、そう言やあしませんか。」
さることは聞かざりき。
「そんなこと、言やあしないや。」
「あら、お隠し遊ばすと擽りますよ。」
「ほんとう、そんなこと聞きやしない。」
「それじゃ堪忍してあげますから、今度は秘さないで有仰いよ。あのね、坊ちゃんは毎晩いらっしゃいますが、何が第一お気に入ったの。」
「牛若が可いんだ。そしてお獅子も可いんだ。」
「じゃあ小親さんが可いんですね。うつくしいからお気に入ったんでしょう。え、坊ちゃん。」
「立派で可いんだ。刀さげて、立派で可いんだ。」
「うそをおっしゃい。綺麗だから可いんですわ。」
「いいえ。」
「だって、それではお能の装束しないでいる時はお気にゃ入りませんか。今なんざ、あんな、しだらない装をしていたじゃありませんか。」
われは考えぬ。いかに答えて可からむ。言い損わば笑わるべし。
「やっぱり可いんでしょう。ね、それ御覧なさい。美女だからだよ。坊ちゃんは小親さんに惚れたのね。」
皆哄と笑う。
「惚れやしない、惚れるもんか。」
「だってお気に入ったんでしょう。佳い人だと思うんでしょう。」
「ああ。」
また声をあげて笑いしが、
「じゃあ惚れたもおんなじだわ。」
「あらあら、惚れたの、おかしいなあ。」
しのぶ手を拍きて遁げながら言う。
哄と笑いて、左右より立懸り、小稲と重子と手と手を組みつつ、下より掬いて、足をからみて、われをば宙に舁いて乗せつ。手の空いたるが後前に、「て」「り」「は」の提灯ふりかざし、仮花道より練出して、
(お手々の手車に誰様乗せた。)
(若いお師匠様の婿様乗せた。)
(二階桟敷の坊ちゃん乗せた。)
と口々に唄いつれて舞台を横ぎり、花道にさしかかる。ものうければ下せとて、上にてあせるを許さばこそ。小稲はわが顔を仰向き見て、
「坊ちゃんも何ぞお唄いなさい。そうすると下してあげます。」
止むなく声あげてうたいたり。
(一夜源の助がまけたに借りた、)
(負けたかりたはいくらほど借りた。)
(金子が三両に小袖が七ツ、)
(七ツ七ツは十四じゃあないか。……)
しのぶは声を合せてうたいぬ。
(下谷一番伊達者でござる。)
(五両で帯を買うて三両で絎けて、)
(絎目々々に七房さげて。)
木戸の外には小親ハヤわれを待ちて、月を仰ぎて彳みたり。
頭巾着て肩掛引絡える小親が立姿、月下に斜なり。横向きて目迎えたれば衝と寄りぬ。立並べば手を取りて、
「寒いこと、ここへ。」
とて、左の袖下掻開きて、右手を添えて引入れし、肩掛のひだしとしとと重たくわが肩に懸りたり。冷たき帯よ。その肩のあたりに熱したる頬を撫でて、時計の鎖輝きぬ。
「向うなの、貢さんの家は。」
衣ずれの音立てて、手をあげてぞ指さし問いたる。霞ヶ峰の半腹に薄き煙めぐりたり。頂の松一本、濃く黒き影あざやかに、左に傾きて枝垂れたり。頂の兀げたるあたり、土の色も白く見ゆ。雑木ある処だんだらに隈をなして、山の腰遠く瓦屋根の上にて隠れ、二町越えて、流の音もす。
東より西の此方に、二ならび両側の家軒暗く、小さき月に霜凍てて、冷たき銀敷き詰めたらむ、踏心地堅く、細く長きこの小路の中を横截りて、廂より軒にわたりたる、わが青楓眼前にあり。
「あそこ、あの樹のある内。」
「近いのね。」
と歩を移す、駒下駄の音まず高く堅き音して、石に響きて辻に鳴りぬ。
「大分晩くなったね、伯母さんがさぞお案じだろうに、悪いことをしたよ。貢さん、直送ってあげれば可かったのに、早いと人だかりがして煩いので、つい。」
「いいえ、案じてやしないよ。遊びに出ていると伯母さんは喜ぶよ。」
「どうして? まあ。」
小親は身を屈めてわが耳を覗いて聞く。
「皆で、余所の叔父さんと、兄さんと、染ちゃんと、皆でね、お酒を飲んでそうして遊んでいるの、賑かだよ。私ばかり寂しいの、一所に遊びたいんだけれど、お寝、お寝って言うもの。」
小親はまた歩行きかけつつ、
「それはね、貢さんが睡がるせいでしょう。」
「そうじゃあなくッて、私床ン中に入ってからね、母様が居なくッて寂しくッて寝られないんだ。伯母さんも、染ちゃんも、余所の人も皆おもしろそうだよ。賑かなの。私一人寂しいんだ。」
「そうかい。」
「鼠が出て騒ぐよ。がたがたッて、……恐いよ。」
「まあ。」
「恐かったよ、それでね、私、貰っといたお菓子だの、お煎餅だの、ソッと袂ン中へしまッとくの、そしてね、紙の上へ乗せて枕頭へ置いとくの。そして鼠にね、お前、私を苛めるんじゃアありません。お菓子を遣るからね、おとなしくして食べるんだッて、そう云ったよ。」
「利口だねえ。」
「そうするとね、床ン中で聞いて、ソッと考えているとね、コトコトッてっちゃ喰べるよ。そうしてちっとも恐くなくなったの。毎晩やるんだ。いつでも来ちゃあ食べて行くよ。もう恐くはなくッて、可愛らしいよ。寝るとね、鼠が来ないか来ないかと思って目を塞いじゃあ待ってるの。そうすると寝てしまうの。目を覚すとね、皆食べて行ってあったよ。」
われは小親の名呼ばむとせしが猶予いぬ。何とか言うべき。
「ねえ。」
「あいよ。」
「ねえ、鼠は可愛いんだねえ。」
「じゃあ貢さん家に猫は居ないのかい。」
「居るよ、三毛猫なの。この間ね、四ツ児を産んだよ、伯母さんが可愛がるよ。」
「貢さんも可愛がっておくれかい。」
われは肩掛の中に口籠りぬ。袖面を蔽いたれば、掻分けて顔をば出しつ。冷たき夜なりき。
小親の下駄の音ふと止みて、取り合いたる掌に力籠りしが、後ざまに退りたり。鳥居の影の横うあたり、人一人立ったるが、動き出づるを、それ、と胸轟く。果せるかな。螽の飛ぶよ、と光を放ちて、小路の月に閃めきたる槍の穂先霜を浴びて、柄長く一文字に横えつつ、
「来い!」とばかりに呼わりたる、国麿は、危きもの手にしたり。
「何だ、それは何だい。」
われは此方に居て声かけぬ。国麿は路の中央に突立ちながら、
「宝蔵院の管槍よ!」
小親は前に出でむとせず、固く立ちて瞻りぬ。
「出て来い、出て来い! 出て来い!」
といと誇顔にほざいたり。小親わが手を放たむとせず。
「出て来い。男なら出て来い。意気地なし、女郎の懐に挟ってら。」
われは振放たんとす。小親は声低く力を籠めて、
「いけない、危いから。」
「可いんだ。」
「可いじゃアありません。お止し、危ないわね。あんながむしゃらの向うさき見ずは、どんな事をしようも知れない。怪我をさしちゃあ、大変だから……あれさ!」
「構うもんか、厭だ! 厭だ。」
「厭だって、危いもの。返りましょう。あとへ返りましょう。大人でないから恐いよ。」
国麿は快げに、
「ざまあ見ろ、女の懐を出られやしまい、牛若も何もあるもんか。」
「厭だ、厭だ、女と一所にゃ厭だ。放して、放してい。」
「堪忍おし、堪忍おし、堪忍して頂戴、私が悪いんだから堪忍おしよ。」
ひしと抱きて引留むる。国麿は背ゆるぎさして、
「勝ったぞ、ふむ、己が勝った。貢、汝が負けた。可いか、能のな、能の女は己がのだぜ。」
言棄てて槍を繰り込み、流眄に掛けながら行かむとす。
「負けない、負けやしないや。」
国麿は振返り、
「それじゃあ来るか。」
「恐かあないや。」
「む、来るなら来い! 女郎の懐から出て来て見ろ。」
小親啊呀と叫びしを聞き棄てに、振放ちて、つかつかとぞ立出でたる。背後の女はいかにすらむ、前には槍を扱いたり。
「さあ、来い。」
と目の前に穂尖危なし。顔を背け、身を反し、袖を翳して、
「牛若だ、牛若だ、牛若だ。」
「安宅の関だい。」
「何するもんか、突かれるもんか。」
「突くよ、突くよ。芸妓屋の乞食なんか突ついて刎ね飛ばさあ。」
し兼ねまじき気勢なれば、気はあせれども逡巡いぬ。小親背後に見てあらむと、われは心に恥じたりき。
「ざまあ見ろ、汝先刻は威張ったけれど、ふ、大きな口よウたたくなあ、蒲団に坐ってる時ばかりだ。うつくしい蒲団に坐ってる乞食ゃそんなものか。詰らないもんだなあ。乞食、弱虫、背後に立ってるなあどいつだ。やっぱり乞食か、ええ、意気地が無いな。」
するりと槍を取直し、肩に立懸け杖つきつつ、前に屈みて、突出せる胸の紅の襯衣花やかに、右手に押広げて拍いたり。
「口惜くばドンと来い!」
驚破、この時、われは目を瞑りて、まっしぐらにその手元に衝入りしが、膝を敷いて茫然たりき。
「あれ!」
「危い。」
と国麿の叫びつつ、しばし呆れたる状して彳みしが、見上ぐるわれと面を合し、じっと互に打まもりぬ。
「恐しい奴だなあ。」
国麿は太い呼吸を吻とつきて、
「汝の方が乱暴だい。よっぽど乱暴だ、無鉄砲極まらあ、ああ。」
とまた息吐きつつ、落胆したる顔色して、ゆるやかに踞いたり。
「え、おい、胸でも突かれたら、おい貢、どうするつもりだ。気が短いや、うったぜ。乱暴な。どこだ、どこだ、むむ。」
「痛かあない、痛かあない。」
「む、泣くな、泣いちゃあ不可んぜ。ああ、何、袂ッ草を着けときゃあわけなしだ。」
と槍を落して、八口より袂の底を探らむとす。暖かき袖口もて頬の掠疵押えたりし小親声を掛けて、
「厭ですよ、そんな袂ッ草なんて汚いもの、不可ません。酷いことね。もう、灸のあとさえない児に、酷いっちゃあない。御覧なさい、こんなになったじゃありませんか。あら、あら、血が出て、どうしよう。」
国麿は仰ぎ見て、
「疵は深いかな。酷いかな。」
その太き眉を顰めたり。小親は月の影に透しながら、
「そんなじゃあないんだけれど、掠ったんでしょうけれど。」
「じゃあ、何、袂ッ草で治ッちまあ。」
再びその袂の中探らむとす。
「厭、そんな、そんなものを、この顔に附着けて可いもんですか。」
国麿は苦笑して、
「それじゃあそちらで可いようにするさ。ああ、驚いた。」
力なげに槍を拾うて立ちしが、
「貢、もう己あ邪魔あしない。堪忍してやらあ、案じるな。」
と、くるりと此方に背向けつつ、行懸けしが立ち返りて、円なる目に懸念の色あり。またむこう向に身を返して、
「袂ッ草が血留になるんだ。袂ッ草が血留にならあ。」
聞かすともなく呟きつつ、鳥居の傍なる人の家の、雪垣に隠れしが、二の鳥居の有るあたり、広き境内の月の中に、その姿露れて、長く、長く影を引き、槍重たげに荷いたる、平たき肩を窄めながら向う屈みに背を円くし、いと寒げなる状見えつつ、黒き影法師小さくなりて、突あたり遥なる、門高き構の内に薄霧籠めて見えずなりぬ。われはうかうかと見送りしが、この時その人憎からざりき。
「ちょいと、痛むかい。痛むだろうね、可哀相に。」
「何ともない。痛かあない。」
「大した事もないけれど、私ゃもうハッと思った。あの児をつかまえて喧嘩もならず、お前さんがまた肯かないんだもの、はらはらと思ってる内、もう、どうしたら可いだろう。折角送って来ながら申訳がないね。」
「可いよ、痛かあないもの。」
「だって疵がつきました。かすり疵でも、あら、こんなに血が出るもの。」
と押拭い、またおしぬぐう。
「もう可い。」
「可かアありませんよ、このまんまにして、帰しちゃあ、私が貢さんのお内へ済まないもの。」
伯母上何をか曰わむ。
「じゃあこうしようね、一所に私の家へ来て今夜お泊りでないか。そうして、翌日になったら一所に行って言訳をしましょうよ。私でも、それでなきゃ誰か若い衆でも着けてあげてね、そして伯母さんにお詫をしたら可いでしょう。」
「可いよ、そんなにしなくッても、一人で帰るよ。」
「だって……困ること。」
「何ともないじゃあないか。」
前になりて駈出せば、後より忙しく追縋りて、
「そんなら、まあ可いとして門まで送りましょう。だがねえ、可かったらそうおしな。お嫌!」
「嫌じゃあないけれど、だって、あの、待ってるから。」
「そう、伯母さんがさぞ、どんなにかね。」
「いいえ、伯母さんじゃあない、姉さんなの。」
「おや、貢さん、姉さんがいらっしゃるのかい。」
「宅にじゃあないの。むかいのね、広岡の姉さんなの。」
「広岡ッて?」
「継母の内なの。継母が居てね、姉さんが可哀相だよ、」
こう言いたる時、われは思わず小親の顔見られにき。
「あのウ、」
「何。」
「何てそういおうなあ、何て言うの。あの、お能の姉さん?」
「嫌ですね、お能の姉さんッて、おかしいね、嫌だよ。」
「じゃあ何ていうの。え、どういうの。」
頭巾の裡に笑を籠めて、
「私はね、……親。」
「親ちゃん!」
「あい。おほほ。」
「親ちゃん、継母じゃあないの。え、継母は居ないのかい。」
憂慮しければぞ問いたる。小親は事も無げに、
「私には何にもないよ。ただね、親方が有るの。」
「そう、じゃあ可いや、継母だと不可いよ。酷いよ。広岡の姉さんは泣いている……」
先よりさまで心にも止めざるようなりし小親は、この時身に沁みて聞きたる状なり。
「それは気の毒だね。皆そうだよ、継母は情ないもんだとね。貢さんなんざ、まだまあ、伯母さんだから結構だよ。何でも言うことを肯いて可愛がられるようになさいよ。おお、そういやあほんとうに晩くなって叱られやしないかね。」
「もう来たんだ。ちょいと。」
手を放すより、二三間駈出して、われはまず青楓の扇の地紙開きたるよう、月を蔽いて広がりたる枝の下に彳みつ。仰げば白きもの仄見ゆる、前の日雨ふりし前なりけむ、姉上の結びたまいし折鶴のなごりなり。
打見るさえいと懐しく、退りて二階なる窓の戸に向いて、
「姉さん、唯今帰りました。」
と高く呼びぬ。毎夜狂言見に行きたる帰には、ここに来てかくは云うなりけり。案じてそれまでは寝ねたまわず。
しばし音なければ、彼方に立てる小親の方を視返りたり。
頭巾深々と被れるが、駒下駄のさきもて、地の上叩いて、せわしく低き音刻みながら、手をあげて打ち招く。来よ、もの言わむとする状なり。心に懸りて行かむとする時、静に雨戸の戸一枚ソトその半ばを引きたまいつ。
楓の上に明さして、小灯の影ここまでは届かず月の光に消えたり。と見る時、立姿あらわしたまいしが、寝みだれていたまいき。
横顔のいと白きに、髪のかかりたるが、冷き風に揺ぐ、欄干に胸少しのりかけたまいぬ。
「お帰ですか。」
「唯今。」
「遅かったから姉さんは先へ寝ていたがね。」
言いかけて四辺を見まわしたまいし。小親の姿ちらりと動きて、ものの蔭にぞなりたる。ふッと灯を吹消したまい、
「お待ちなさいよ。」
小親わが方に歩み寄りしが、また戻りぬ。内より枢外す音して、門の戸の開いたるは、跫音もせざりしが、姉上の早や二階を下りて来たまいたるなり。
「……寒いこと。」
羽織の両袖打合せて、静に敷居を越えたまいぬ。
「晩かったのね。」
「あのね、面白かったんだよ。」と言いたるが、小さき胸のうち安からず。目には小親の姿見ゆ。
「それは、好うございましたけれど、風邪をひくと不可ません。あんまり晩くならないうちに、今度からお帰りなさいよ。」
「はい。」
姉上はなお気遣わしげに、
「そして、まだ内へはお入りでないのでしょうね。」
「まだ。」
しばらく考えたまいしが、
「それではね、私がここに見ていますからね、貢さん、潜と行って、あの、格子まで行って、見て来て御覧。」
深き思いに沈みつつのたまうよう見えたれば、いぶかしさに堪えざりし。
「どうしたの、私の内はどうしたの。」
「いえどうもしませんけれど、少し何んですから、まあ、潜と行って見ていらっしゃい。」
果は怖気立ちて、
「嫌だ、恐いもの。」
「ちっとも恐いことはない。私がここに見ていますよ。」
われは立放れて抜足しつつ、小路の中を横ぎりたり。見返れば姉上の立ちたまう。また見れば、小親居処を替えしがなお立てり。
密にわが家の門の戸に立寄りぬ。何事もあらず、内はいと静なり。かかる時ぞ。いつもわが独寝の臥床寂しく、愛らしき、小さき獣に甘きもの与えて、寝ながらその食うを待つに、一室の内より、「丹よ、」「すがわらよ。」など伯母上、余所の客など声々に云うが襖漏れて聞ゆる時なり。今宵もまたしかならむ、と戸に耳を附けて聞くに、ただ寂然としたれば、可し、また抜足して二足三足ぞ退きたる。
ど、ど、どッという響、奥の方騒がしく、あれと言う声、叫ぶ声、魂消る声のたちまち起りて、俄にフッと止みたるが、一文字に門口より鞠のごとく躍り出で、白きもの空を駈けて、むかいなる屋根に上るとて、凄じき音させしは、家に飼いたる猫なりき。
とばかりありて、身を横さまに、格子戸にハタとあたりて、呻きつつ、片足踏出でて掙れる染をば、追い来し者ありて引捉え、恐しき声にて叱りたるが、引摺りて内に入りぬ。咄嗟の間に、われ警官の姿を見たり。慌てて引返す、小路のなかばに、小親走り来て手を取りつ。手を取られしままに、姉上の立ちたまえる広岡の戸口に行きぬ。
三人かくは立ならびしが、未だものいわむとする心も出でず。呆れて茫然と其方を見たる、楓の枝ゆらゆらと動きて、大男の姿あり。やがてはたと地に落ちて、土蜘蛛の縮むごとく、円くなりて踞りしが、またたく間に立つよとせし、矢のごとく駈け出して、曲り角にて見えずなりぬ。
頭巾をば掻取りたる、小親の目のふち紅かりき。
「貴女。」
声かくるに、心着きたまいけむ。はじめて顔を見合せたまいしが、姉上は、いともの静に、
「はい。」
とばかり答えたまう、この時格子の戸颯と開きぬ。すかし見る框の上に、片肌脱ぎて立ちたるは、よりより今はわが伯母上とも行交いたる、金魚養う女房なり。渠は片肌脱ぎたるまま、縄もて後手に縛められつ。門に出でし時、いま一人の警官後より出でて、毛布もてその肌蔽いたり。続きて染の顔見ゆ。あとなるは伯母上なりき。
楽屋なる居室の小窓と、垣一重隔てたる、広岡の庭の隅、塵塚の傍に横わりて、丈三尺余、周囲およそ二尺は有らむ、朽目赤く欠け欠けて、黒ずめる材木の、その本末には、小さき白き苔、幾百ともなく群り生いたり。
指して、それを、旧のわが家なる木戸の際に、路を蔽いて繁りたりしかの青楓の果なりと、継母の語りし時、われは思わず涙ぐみぬ。
「この変りました事と云ったら、まるで夢のようで、私でさえ門へ出ては、時々ぼんやりして見る事がございますよ。ほんに貢さんなんぞ、久しぶりでお帰んなすったが、ちっとも故郷らしい処はありますまい。」と継母は庭に立ちてぞ語れる。
しかり、町の中にても、隣より高かりし、わが二階家の、今は平家に建直りて、煙草屋の店開かれたり。扇折の住みし家は空しくなり、角より押廻せる富家の持地となりて、黒き板塀建て廻されぬ。
そのあたりの家はみな新木造となりたり。小路は家を切開きて、山の手の通りに通ずるようなしたれば、人通いと繁く、車馬の往来頻なり。
ここに居て遊ぶ小児等、わが知りたるは絶えてあらず。風俗もまた異りて見ゆ。わが遊びし頃は、うつくしく天窓そりたるか、さらぬは切禿にして皆梳いたるに、今は尽く皆毬栗に短く剪みたり。しらくも頭の児一人目に着きぬ。
すべてうつくしき女あらずなりて、むくつけなる男ぞ多き。三尺帯前に〆めて、印半纏着たるものなんど、おさなき時には見もせざりし。
町もこうは狭からざりしが、今はただ一跨ぎ二足三足ばかりにて、向の雨落より、此方の溝まで亙るを得るなり。
筋向いなりとわれは覚ゆ。かの石の鳥居まで、わが家より赴くには、路のほどいと遥なりと思いしに、何事ぞ、ただ鼻の先なる。宮の境内も実に広からず、引抱えて押動かせし百日紅も、肩より少し上ぞ梢なる。仰いで高し厳しと見し国麿が門の冠木門も、足爪立つれば脊届くなり。
さてその国麿はと想う、渠はいま東京に軍人にならむとて学問するとか。烏帽子被りて、払掉りしかの愛らしき児は、煎餅をば焼きつつありとぞ。物干棹持てりしは、県庁に給仕勤むるよし。いま一人、また一人、他の一人にはわれ偶と通にて出合いたり。その時渠は道具屋の店に立ちて、皿茶碗など買うたりき。
皆幸なるべし。
伯母上はいかにしたまいけむ、もの賭けて花がるたしたまいたりとて、警察に捕えられたまいし後、一年わが県に洪水ありて、この町流れ、家の失せし時にも何の音信も無かりしとか。惟うに、身を恥じていずくにか立去りたまいしならむ。かの時の、その夜より、直に小親に養われて、かく健に丈のびたる、われは、狂言、舞、謡など教えられつ。さればこの一座のためには益なきにもあらぬ身なり。ここに洪水のありし事は、一昨年なりけむ、はたその前のなお前の年なりけむ、われ小親とともに、伊予の国なる松山にて興行せし時聞及びつ。かかるべしとは思わでありし、今年またこの地にて興行せむとて、一座とともに来りたる八年前のふるさとの目に見ゆるもの皆かわりぬ。
たそがれに戸に出ずる二代目のおさなき児等、もはや野衾の恐なかるべし。旧のかの酒屋の土蔵の隣なりし観世物小屋は、あとも留めずなりて、東警察とか云うもの出来たり。
一座が掛りたる仮小屋は、前に金魚養いし女房の住みたる家のあとを、その隣、西の方、二軒ばかり空地となりしに建てられつ。小さき池は、舞台の真下になりたれば、あたかも可しとて、興行はじむる時、大瓶一個、俯向けて埋めたり。こは鼓の音冴えさせむとてしたるなりき。
揚幕より推出されて、多勢の見物の見る目恥かしく、しのぶ、小稲とともに狂言のなかに立交りて、舞台に鞠唄うたいし声の、あやしく震いたるも多日がほどぞ。
振のむずかしき、舞の難き、祭礼に異様なる扮装して大路を練りありくそれとは同じからず。芸に忠にして、技に実なる、小親が世における実の品位は神ありて知りたまわむ、うつくしき蒲団に坐る乞食よと、人の口さがなく謂わば言え。
何か苦しかるべき。この姿して、この舞台に立ちて、われは故郷の知人に対していささかも恥ずる心なかりしなり。
されども知りたるは多からず。小路を行交う市人もすべてわが知れりしよりは著しく足早になりぬ。活計にせわしきにや、夜ごとに集う客の数も思い較ぶればいと少し。
物語の銀六は、大和巡する頃病みてまかりぬ。小六はおいたり。しのぶも髪結いたり。小稲はよきほどの女房とはなりぬ。
その間、年に風雨あり。朝に霜あり。夕に雪あり。世の中とかく騒がしかりければ、興行の収入思うままならで、今年この地に来りしにも、小親は大方ならず人に金借りたるなり。
楽しき境遇にはあらざれど、小親はいつも楽しげなりき。こなたも姉と思う女なり、姉とも思う人なり。
さりながら、ここにまた姉上と思いまいらせし女こそあれ。
ふる里の空のなつかしきは、峰の松の左に傾きて枝を垂れたる姿なり。石の鳥居なり。百日紅なり。砂のなかなる金色の細蠃なり。軒に見馴れしと思う蜘蛛の巣のおかしかりし状さえ懐しけれど、最も慕わしく、懐しき心に堪えざりしは、雪とて継母の女なる、かの広岡の姉上なりき。
伯母上にそのあしきことありし時、姉上は広岡の家に来よとのたまいぬ。小親は狂言の楽屋に来れと言いぬ。二人の顔を見かわして、わが心動きしはいずれなりけむ。継母の声したれば、ふと小親のあたたかき肩掛の下に、小さきわが身体ひそみにき。
寂しかりしよ、わかれの時、凍てたる月に横顔白く、もの憂きことに窶れたまいし、日頃さえ、弱々しく、風にも堪えじと見えたまうが、寝着姿の肌薄きに、折から身を刺す凩なりし。悵然として戸に倚りて遥に此方を見送りたまいし。あわれの俤眼前を去らず、八年永き月日の間、誰がこの思はさせたるぞ。
広岡の継母に、かくて垣越に出会いしは、ふるさとに帰りし日の、二十日過ぎたる夕暮なりけむ。
舞台には隣間近なり。ここに居ても、この声の聞えやせむかと、夜ごとに枕を欹てなどしつ。おもて立ちて訪ずれむは、さすがに憚りありたれば、強いて控えたり。余所ながら姉上の姿見ばやと思いて、木槿垣の有りしあとと思うあたりを、そぞろ歩行して、立ちて、伺いしその暮方なりき。
ふとこの継母とわれは出逢いつ。
幼顔は覚え染みて忘れざりけむ、一目見るよりわれをば認めつ。呼懸けられたれば隠れも得せで、進寄りて、二ツ三ツものいううち、青楓の枯れたるをはじめとして、継母はいたずらに数々のその昔をぞ数えたる。
「あんたに面と向うては言悪い事じゃがの。この楓の樹な、はや見るたびに腹が立つ。憎いやつで、水の出た時にの、聞いてくんなされ。
あんたの家も、私家も、同一に水びたり。根太の弛んだはお互様じゃが、私が家など、随分と基礎も固し、屋根もどっしりなり、ちょいとや、そっとじゃ、流れるのじゃなかったに、その時さの、もう洪水が引き際というに、洪とそれ一瀬になって打着ると、あんたの内のこの楓の樹が根こぎになって、どんぶりこと浮き出いてからに、宅の、大黒柱に突き当ったので、それがために動き出いて、とうとう流れたというもんじゃ。ハヤ実に……誠に、何も何も、それを怨むのじゃありやせぬけれど、いつまで経ってもこいつの憎いは忘れられませぬ。因って、お宮様の段にしがらんで、流れずに残っていたのを、細い処は焼いてしもうたが、これだけは残しておいて、腹の立つ時は見ています。」
それを楓の知ることか。われは聞くに堪えざれば、冷かに去らむとせしが、この継母に、その女のこと、なつかしきわが姉上のこと問わむと思いたれば堪えて彳む。
「そして何か、今あんたは隣に勤めていなさるのかな。」
軽んじ賤むる色はその面に出でたれど、われは逆らわで頷きぬ。かの人の継母なれば、心からわれも渠に対しては威なきものとなれるなるべし。
「うう、何、それでも結構じゃ。口すぎさえ出来れば、なあ、あんた。」
ただ微笑みて見せぬ。姉上のこと疾く語らずや、と思うのみ。
「ええ、ところで、おおそれさ、あんたの一座の中じゃそうなの。ええ、何とかいう、別嬪が一人居なさるそうじゃな。何とか言うたよ。あんた、知ってじゃろう。」
と言いかけて少し歩み寄りたり。その不快なる顔、垣の上にヌト出でて、あたかも梟首せられたるもののごとくに見ゆ。
「小稲ですか。」
「小……稲、いや、違うた。稲じゃない、稲じゃない、はて、何とか言う。」
眉を顰めながら顔を斜にす。太く考うる状なれば、あえてその意を迎えむとにはあらねど、かりにもかの女の母なれば、われは遂にわが惜しき小親の名語りたり。
「違いますか、小親。」
「うむ、それそれ、それそれその小親と言うのじゃ。小親じゃ。ははははは。」
蓮葉なる笑声、小親にゃ聞えむかと、思わず楽屋なる居室の方見られたり。
継母は憚る状なく、
「その小親、と言うのは、あんた、中が好いのかな。」
「何ですね、小母さん。」
「はッはッはッ、可愛がられておいでじゃろ。私は早あんたが掌へ乗っかるような時の事から知っとるで、そこは豪いもの。顔を見るとちゃんと分ります。可愛がられると書いてある。」
快よからずニタニタ笑いて、
「そしてその小親と云うのは幾歳におなりだ。はははは、別嬪盛じゃと言えば、十七かな、八ぐらい?」
「いいえ、二十二。」
「む、二十二はちょうどいい。二十二は好い年じゃ。ちょうどその位な時が好いものじゃ。何でもその時分が盛じゃ。あんたも佳い別嬪に可愛がられて羨ましいの。いんえ、隠しなさるな、書いてある、書いてある。」
「小母さん、何ですね。」
「何でもないが少しその談話があるで、何じゃよ。お前さんはほんとに小児の時から可愛らしかった。色が白くての、ぼちゃぼちゃと肥って、頬ッぺたへ噛りつきたいような、抱いてみたいような、いやもうちょっと見ると目がなくなるくらいじゃった。それもそうかい、あんたの母様はな、何でもこのあたりに評判の美い女で、それで優しくって、穏当で、人柄で、まことに愛くるしい、人好のする、私なんか女じゃが、とろとろとするほど惚れていました。その腹の貢さんじゃ。これがまた女の中で育ったというもので申分の無いお稚児様に出来ているもの。誰でも可愛がるよ、可愛がりますともさ。はははは、内のお雪なんかの、あんな内気な、引込思案な女じゃったけれど、もう、それは、あんたの事と言うたら、まるで狂気。起きると貢さん、寝ると貢さん、御飯を頂く時も貢さん、何でも貢さんで持切ってな、あんたがこっちに居なくなっても、今頃はどうしておいでなさるじゃろ。船の談が出りゃ、お危い。雨が降りゃ、寂しかろ。人なつッこいお児じゃったから、どんなに故郷へ帰りたかろ。風が吹けば、風が吹く、お風邪でも召すまいかと、それはそれは言続け。嘘ではない、神信心もしていたようじゃが、しかし大きくおなりで、お達者なように見える。まあ、何より結構。
今では能役者と言うものじゃな。はははは、役者々々。はて、うつくしい、能役者はまた上品で、古風で可いもんじゃよ。私も昔馴染じゃから、これ深切で言いますが、気を着けなされ。む、気を着けなさい、女では失策るよ。若い時の大毒は、女と酒じゃ。お酒はあがりそうにも見えぬけれど、女には、それ、可愛がられそうな顔色じゃ。
いんえ、串戯ではない、嘘ではない。余所に面白いことが十分あると見えて、それ、たまたまで、顔を見せても、雪の雪の字も言いなさらぬ。な、あの児も、あんたには大きに苦労をしたもんじゃが。
早や懺悔だと思いなさい。私もあの時分は、意地が張って、根性が悪うて、小児が、その嫌いじゃったでの、憎むまいものを憎みました。が、もう年紀も取る。ふッつりと心を入れかえました。優しい女での、今もそれ言う通り、あんまりあんたを可愛がるもんじゃから、私は羨しいので、つい、それ嫉妬を焼いて、ほんに、貢さんの半分だけなと、私を可愛がッてくれたらなと、の、嫉妬の故に、はははは、あんたにも可い顔見せず、あの女にも辛かったが、みんな貢さん、あんたのせいじゃ。
ほんに、そのくらいまでに、あんたを思うているものを、何と、貢さん、私の顔を見ながら、お雪はどうした、姉さんは達者かと、一言ぐらいは、何より先に云ってくんなされても可さそうなものを、小親に可愛がられるので、まるで忘れるとは、あんまりな、薄情だ。芸人になればそんなものか、怨じゃよ。」
俄に粛やかなる言語ぶりなり。
その時の我顔を、継母はじっと見しが、俄に笑い出しぬ。
「あの真面目な顔が、ははは、串戯じゃ、串戯じゃ。
何の、そんな水臭い人でない事は、私がちゃんと知っている。むむ、知っとるとも。
杏や、桃を欲しがった時分とは違うて、あんた色気が着いた。それでな、旧のように、小母さん、姉さんは、と言悪い。ところで、つい、言いそそくれておしまいのであろ。何、むかし馴染じゃあるけれど、今では女というものが分ったで、女と男、男と女、女と男ということが胸にあるに因って、私に遠慮をして、雪のことをちょっと口へ出し悪い、とまあいうたわけじゃの、違うまい。むむ。」
面を背けてわれは笑いぬ。継母は打頷き、
「それ見なされ。そこは何と言うても小母さんじゃ。胸の中は、ちゃんと見通の法印様。
それで私も落着いた。いや、そういう心なら、モちっとも怨みには思いませぬ。どうして、あんたのような優しい児が、いかに余所に良いことが出来たとて、さっぱりふいと、こっちを忘れなさるとは思やせなんだが、そこは人情。またどうであろと思うたで、ちょいと気を引いてみたばかり。
悪く取られては困ります。こんな婆々が、こんな顔で、こんな怨みっぽい事を言うたとて、何んとも思いはしなさるまいが、何じゃよ、雪が逢うてもこう言います。いま私の言うたような事を言いますわいの。それはの、言うわけがあるからで。
けれども、あの女は、じたい、無口で、しんみりで、控目で、内気で、どうして思う事を、さらけ出いて口で云えるような性ではない。因って、それ、私がの、その心を察して、あの女の代りに言いました。
雪じゃと思うて聞きなさい。そこは、私がちゃんとあんたの胸の裡を見透したように、あの女のお腹んなかも破ったように知っとるで、つい、嫌味なことを言うたもの。
あんたがそうした心なら、あの女が何、どうしていようと、風が吹くとも思やせぬ。……泣いていようと、煩っていようと、物も食べられないで、骨と皮ばかりになっていようと、髪の毛を毮られていようが、生爪をはがれて焼火箸で突かれていようが、乳の下を蹴つけられて、呼吸の絶えるような事が一日に二度ぐらいずつはきっと有ろうと、暗い処に日の目も見ないで、色が真蒼になっていようと、踏にじられてひいひい呻いていようと……そっちの事じゃ、私は構わぬ。ふむ、世の中にはそんな事もあるものですか、妙だね、ふふふで聞き流いて、お能の姉さんと面白そうに、お取膳で何か召あがっておいで遊ばすような事もあるまいと思われる。な、あんた。」
顔の色も変りたるべし。冷たき汗にわが背のうるおいしぞ。黙して聞かるることかは。堪えかねたれば遮りたり。
「姉さんは御機嫌ですか。」
継母は太き声にて、
「はい、生きてはいます。死にはせいで、ああ、息のある内に、も一度貢さんの顔が見たいと云うての。」
「え!」
「それが、そういう事口へ出しては謂われぬ女じゃで、言いはせぬ。けれど、そこは小母さんちゃんと見通し。ま、この大きくおなりの処を見たら、どんなにか喜ぶであろ。それこそ死なずにいた効があると、喜びますじゃろ。ああ、ほんとうに。」
「小母さん、逢いたい。」
「む、逢いたい、いや、それは小母さんちゃんと見通し。」
「お目にかかりたい、小母さん。」
「道理じゃ。」
「逢わして下さいな。」
と垣に伸上りぬ。継母は少し退りて、四辺を見まわし、声を潜め、
「養子がの、婿がの、その大変な男で、あんたを逢わしたりなんかしようもんなら……それこそ。」
「貢さん、何をそんなにお鬱ぎだ。この間から始終くよくよしておいでじゃないか。言ってお聞かせ、どうしたの。何も私に秘す事は無いわ。」
二三日来、小親われを見ては憂慮いて、かくは問うたりき。心なく言うべきことにあらねば語らでありしが、この夜は渠とわれとのみ、傍に人なき機なり。
「私の事じゃないよ。」
「おや他人のことで苦労してるの、お前さんは生意気だね。」
と打微笑む。浮きたる事にはあらじ、われは真顔になりぬ。
「だって何も心配をするのは、我身の事ばかりなものではない。他人のだッて、しなきゃならない心配ならしようじゃないか。お前さんだって、私のことを心配おしだから、それで聞くんじゃないか、どうしたッて?」
「はい、はい。沢山心配をしておあげなさいまし。御道理なことだねえ、ほほほ。」
「また、そんな、もう言うまいよ、詰らない。」
「ま、承りましょう。可いからお話しなさい。大方、また広岡のお雪さんのこッたろう。」
「え、知ってるの。」
「紅花染だね。お前さんの心配はというと、いつでもお極りだよ。またどうかしたのかい。」
「ああ、養子が大変だと、酷いんだとさ。あの、恐しい継母が、姉さん、涙を流して、密と話した位だもの。大抵ではないと、そうお思い。お雪さんが可哀相っちゃない。ようよう命が有るばかりだと言うんだもの。姉さん、真面目になって聞いておくれ。いやに笑うねえ。」
「ちっと妬けますもの。」
「詰らない、じゃあ言うまい。」
「いいえ承りましょう。酷いかね、養子にゃ可いのはないものだと云うけれど、そっちが酷くッて、こっちが苛められるのは珍しいね。そして、あの継母が着いてるじゃあないか。貢さんに聞いたようでは。養子に我儘なんかさせそうにも思われないがね。」
われも初めは現在小親の疑うごとく疑いたるなり。
「それがね、姉さん、皆金子のせいですとさ。洪水が出て、家が流れた時、旧あった財産も家も皆なくなってしまってね、仕方が無い時にその養子を貰ったんだッて。」
「持参金かね。」
「ええ、大分の高だというよ。初ッからお雪さんは嫌っていた男だってね。私も知ってる奴だよ。万吉てッて、通の金持の息子なの。ねえ、姉さん、どういうものか万の字の着いたのに利口なものは居ないよ。馬鹿万と云うのがあるしね、刎万だの、それから鼻万だのッて、皆嫌な奴さ。ありゃ名でもって同じような申分のあるのが出来るのは、土地に因るんだとね。かえって利口なのも有るんだって。」
「また、詰らないことを言出したよ。幾歳だねえ、お前さんは。そんなこと云っていて、人の心配も何も出来るものじゃない。」
「だって、それに違いないのだ。あのお雪さんの養子になってるのは、やっぱり万という名だからさ。私がね、小さい時、万はもう大きな身をして、良い処の息子の癖に、万金丹売のね、能書を絵びらに刷ったのが貰いたいって、革鞄を持って、お供をして、嬉しがって、威張って歩行いた児だものを。誰が、そんな。
だからお雪さんも嫌っていたんだそうだけれど、どっさりお金子を持って来ると言うので、あの継母がね、是非婿にしよう、しなけりゃあなりませんと、そう云ったんだ、と。お雪さんが嫌だと云ったけれど……あの、姉さんも知ってるはずだよ。……私の内に楓の樹があって、往来へ枝がさして茂ってたのが、あすこの窓へ届いたので、内が暗くって、仕様がない。貢の内へ掛合って、伐らしてしまうと言った時分に、私は何も知らないけれど、お雪さんが、あれだけは、そんなかわいそうな事をしないで下さい。後生ですって、止めたんだ。……それがあの洪水の時に流れ出して、大丈夫だった広岡の家へ衝突ったので流れただろう、誰のおかげだ……」
「……皆お前のせいじゃないか。あの時伐らしてさえおけば、こんなに路頭に立つようになるまで、家を流されるんじゃなかったッて、難題を言って、それで、お雪さんも仕方なしに、その養子をしたんだって。……それが酷いんだ。
小児の内は間抜けのようだったけれど、すっかり人が異って、癇癪持の乱暴な奴になったと見えるんだよ。……姉さん、年紀がゆくと変るものかしら。」
小親は火箸もて炭を挟みたる手を留めて、
「そりゃ、変るね。貢さんだって考えて御覧なさい、大そう異ったじゃあないか。」
「私は何、大きくなったばかりだね。」
「いいえ、ちっと憎らしくもおなりだよ。」
「そうかね。」
「その口だよ、憎らしい。」
「じゃ沢山憎んでおくれ。可いよ、どうせ憎まれッ児だ、構やあしない。」
小親は清しき目を睜りぬ。
「いいえ、可愛がるよ。」
「そんな事いうからだ。今でも皆でなぶって不可い。いろんな事をいうもんだから、人の前でうっかりした口も利けまいじゃないか。一所に居て、そうして、何も私は姉さんにものを云うのに、遠慮をすることは要らないわけだと思うけれど、皆がなぶるから、つい、何でも考えてしたり、考えてものを云ったりしなけりゃならないよ。窮屈で弱ってしまう。皆がどうしてああだろう。」
莞爾して、
「さようでございますね。」
「ほんとうにお聞き、真面目でさ。」
「畏まりました。」
「そら、そうだから不可いよ。姉さん、姉さんというものはね、年のいかない弟に、そんなことをするもんじゃあないよ。ちゃんと姉顔をして澄していなくっちゃあ。妙にお客あしらいで、私をばお大事のもののようにして、その癖ふざけるから、皆が種々なこと云うんじゃアあるまいかね。立派に姉さんの顔をして、貢、はい、というようにして御覧。おかしなことは無くなるに違いないから。そうしてなかよくして、ね、可愛がっておくれ。私も心細いんだもの。」
いいかけて顔を見合せぬ。小親は炭を継ぎて火箸もて、火をならしながら、ややありて後しめやかに頷きたり。秋の末なれば月の影冷かなりし。小親は後むきて其方を見たる、窓少し開きたりしが、見たるまま閉めむともせで、また此方に向きぬ。
「そして、お雪さんはどうしたの。」
「それがね、酷いんだ。他人の口から言ったのなら何だけれど、あの、継母が我身で我身の邪慳だったことを私に話したんだよ。
そんな風にして、無理に推着けて婿を取らしたが、実は何、路頭に立つなんて、それほど窮りもしなんだのを、慾張りで、お金子が欲しさに無理に貰ったが悪いことをしたッて、言うんだ。
それがというと、養子の奴が、飛んだ癇癪持で、別に、他に浮気なんぞするでもなしに、朝から晩まで、お雪さんを苛めるんだってね。今まで苛めていた継母さえ見るに見兼ねると云うんだから酷いではないか。ねえ、姉さん。
それに、はじめお雪さんを無理強いにした言草が、私の内の楓の樹で、それをお雪さんが太く庇って伐らさなかったからこんなことが起ったんだってね、……そしてなぜ楓の樹を伐らさなかったろう。それは一ツ貢さん、あなたが考えて見ておくれッて継母が言いましたさ。」
煙管をば取りあげつ。小親は煙草の箱弾きながら、
「そして。」
「私、考えた。」
「何だか分りませんッて、継母には言ったけれど、考えて見ると、何だかねえ、遠い処に、幽に小さい、楓の樹のこんもり葉の繁ったのが見えて、その緑色が濡れているのに、太陽がさして、空が蒼く晴れた処に、キラキラとうつくしいものが振下って……それにね、白い手で、高い処の枝に結いつけておいでのお雪さんが、夢のように思い出されるんだよ。だもんだから、何だか私のために、お雪さんが、そんな養子を推着けられて、酷いめにあわされているようにね、何ということなしに、我身で極めてしまったんだもの。可哀相で堪らないんでね、つい、鬱ぐの。」
言うほどにまた幻見ゆ。空蒼く日の影花やかに、緑の色濃き楓の葉に、金紙、銀紙の蝶の形ひらひらと風にゆれて、差のばしたまう白く細き手の、その姉上の姿ながら、室の片隅の暗きあたり鮮麗にフト在るを、見返せば、月の影窓より漏れて、青き一条の光、畳の上に映したるなり。うっとりせしが心着きぬ。此方には灯影あかく、うつくしき小親の顔むかいあいて、額近きわが目の前に、太く物おもう色なりき。
われは堪えず俯向きぬ。
「そしてまあ、その継母はまた何だって遠まわしに、貢さんのせいのように推つけて聞かしたんだろうね。お前さんにどうかしてくれろというのかね。貢さん、お前さんが心配をすればどうにかなるとでもいうような事を、継母が知ってて言うようにも承れるがねえ。一体どうしたというんだろうね。」
小親は身に沁みて聞きたりけむ、言う声も落着きたり。
「でね、継母がそういったよ。貢さん、あんたは小親という人に可愛がられているんだろうッて。」
「お前さんは、何と言ったの。」
「黙っていました。」
「そうかい。」
とばかり寂しく笑いぬ。煙管は火鉢に横うたり。
「どうしたの、姉さん。」
「何、可いよ。」
「だっておかしいもの、ね、そりゃ私を可愛がっておくれだけれど……何だか、おかしいなあ。」
「何が、え? 何がおかしいの。」と口早にいう、血の色薄く瞼を染めぬ。
「何も気をまわすことはないよ、真面目じゃあ困るわね。私あ何とも思やしない、串戯さ。なぜね、そういうことを聞いたら、そりゃ可愛がってくれますとも、とこうお言いじゃないッて云うのさ。串戯だよ、串戯だけれどもねえ、その位にさばけておくれだと、それこそお前さんの言草じゃあないが、誰も冷かしたり、なぶったりなんぞしないようになっちまうわね。え、貢さん、そうじゃないか。しかし不可いかい。」
「だって極が悪いもの。」
「なぜさ。」
「なぜッて、そう云うとね、他人は何だもの、姉弟だと思わないで、おかしく聞くんだからね。」
「何と聞えるんだね。」
「何だか、おかしい。」
「まあさ、何と聞えるんだねえ、貢さん。」
「それはね、あの……」
「何だね。」
「お能の姉さん。」
「厭だよ!」
「しかし御察しの可いことね、継母もどうして洒落てるよ。そう云ってくれたのなら、私ゃその人に礼を言おうや。貢さん、逢ったら宜しくと申しておくれ。」
「むこうでもそう云ったよ。小親によろしくッて。」
「何のこッたね。」
「それが、何だって、その養子がね、大層姉さんのことを、美い女だってね、云ってるそうだ。」
煙管を落して、火鉢の縁をおさえつつ、小親は新しくわが顔を瞻りぬ。
「いつか見物をしたんだろうね。」
小親はこれを聞きて笑を含み、
「貢さん、もう大抵分ったよ。道理でお前さんは妙な顔をしちゃあ、こないだッから私を見ていたんだわ。ああ、そしてお前さんはどう思います。」
「何をさ。」
「何をって、継母はお前さんに私となかが好いかッて聞いたろう。」
「そりゃ聞いたよ。今も話したように。」
「道理で。」
とまた独り頷きつつ、
「貢さん、そして何だろう、お前さんの口から、ものを私に頼んでくれと言やあしないかい。」
「ええ。」
「云ったろうね、ほほほ、解ってるよ、解ってるよ。」
とまた笑えり。
「独で承知をしてるのね、姉さん。」
「うっかりじゃあないわね、可いよ、まんざら知らない方じゃあなし、私も一度お目に懸って、優しそうな可い方だと思ってるもの。お雪さんがそんな酷いめに逢っていなさるんなら、可いよ、貢さん、お前さんにつけて、その位なことならばしてあげようや。」
と静にいう、思いの外なれば訝りもし、はた危みもしつ。
「解ってるの。姉さんがどうにかしておくれなら、それを言ぐさにして、不品行だからって、その養子を出してやろう。そんな奴だけれど、ただ、疎匇があるの、不遇をするのッて、お雪さんを苛めるばかり。何も良人の権だから、それをとやこう言うわけのものではない。他に落度は無いものを、立派な親類が沢山控えているにつけて、こっちから手の出しようがない。そんならって、浮気などするんじゃなし、生真面目だから手も着けられないでいたのに、ついぞ無い、姉さんを見て、まるで夢中だから、きっとその何なんだって。そして、どうかしておくれなら、もう一廉のものいいがつく。きっと叩き出してお雪さんを助けると継母が云うんだがね。──承知だ、宜しいッて、姉さん、どうして分ったんだね。どうして知っておいでなんだい。」
小親は俯向きたる顔をあげて、
「貢さん、お前さんは何とも思っちゃあいまいけれど、私は何だよ、お前さんの事はというと、みんな夢に見て知ッてるよ。この間だっけ、今だから云うんだがね、真闇な処でね、あッと云う声が聞えるから、吃驚して見ると、何だったの。獣のね、恐ろしいものに追懸けられて、お前さんと、お雪さんと抱き合って、お隣の井戸の中へ落こちたのを見て、はッと思って目が覚めたもんだから。……」
われは悚然として四辺を見たり。小親は急に座を起ちしが、衣の裳踵にからみたるに、よろめきてハタと膝折りたる、そのまま手を伸べて小窓の戸閉したり。月の明り畳に失せて、透間洩りし木の葉の影、浮いてあがるようにフト消えて見えずなりぬ。一室の内燈の隈なくはなりたれど、夜の色籠りたれば暗かりき。さやさやと音さして、小親は半纏の襟引合せ、胸少し火鉢の上に蔽うよう、両手をば上げて炭火にかざしつ。
「もっとお寄りではないか。貢さん、夜が更けたよ。」
袷の上より、ソトわが胸を撫でて見つ。
「薄着のせいかね、動悸がしてるよ。お前さん、そんなに思い詰めるものではないわ。そりゃお雪さんのことを忘れないで、心配をしておあげなのは、お前さんが薄情でないからで、私だって嬉しいよ。ねえ、貢さん、実のある弟を持ったと思って、人のことに心配をおしのでも、私は悪い気はしませんよ。けれども、そんなに思い詰めちゃあ、ほんとうに大事な身体をどうおしだえ。気味の悪い夢だったから、心配でならないので、稲ちゃんにもそういって、しょっちゅう気を着けていたんだもの。人にかくれちゃ、継母とちょいちょいおはなしのことも知ってるんだよ。こっちから言い出す分ではなかったから、知らない顔で見ていたけれど、堪らないほどお鬱ぎだもの。可いよ、もうどうにかしてあげようや、貢さん。」
吐息もつかれ、
「じゃあ、姉さん、あの養子を、だましてくれるの。」
「ま、しようがないわね。」
「だって、酷い奴だというよ。」
「たかが田舎者さ。」
「そして、どうして? 姉さん。」
「狸を御覧よ、ほほ、ほほほ。」
「ああ、一人助かった。」
小親が顔の色沈みたり。
「しかし、貢さん善いことだとは思うまいね。」
胸痛かりし。われは答にためらいたり。
「善いことだとは思うまいね、貢さん。」
その心にわかに料りかねたる、胸はまた轟きぬ。
「私ゃ、芸人でありながら、お前さんに逢ってから、随分大事に身を持ったよ。よ、貢さん、人に後指さされちゃあ、お前さんの肩身が狭いだろうと思ったし、その上また点を打たれる身になるとね。」
小親引寄せて、わが手を取りたり。
「お前さんは何にも知るまいけれど、どうせ、どうせ、姉の役ッきゃあ勤まらない私だけれど、姉だッて、よ、姉だッて、人に後指さされたり、ちっとでも、お前さんとこうやっていることの、邪魔になるような人が私に有っては厭だから、そりゃ随分出来にくい苦労もしたもの。何にも恩に被せるんじゃあない。怨をいうんじゃあない。不足を云うんじゃないけれど……貢さん、広岡のお嬢さんの顔が見られるようになりさえすりゃ、私ゃ、私ゃ、どうなっても可いのかい。よ、よ、私ゃどうなっても、可いのかよう。」
烈しく手の震いたればか、何のはずみなりけむ、火箸横に寝て、その半ば埋れしが、見る間に音もなく、ものの動くともなく、灰の中にとぼとぼと深く沈みたり。
「あら、起しますよ。」
「可いよ。」
わが指のさき少しく灰にまみれたれば、小親手首を持添えて、掌をかえしてじっと見つ。下着の袖口引出して払い去るとて、はらはらと涙をぞ落したる。
わが身体の筋皆動きぬ。
「御免なさい。」
小親は涙ぐみたるまま目を睜りぬ。
「御免なさい。私が悪かった。」
さしうつむきて声を呑みたり。
「悪かった、姉さん、さげすんでおくれでない。広岡の姉さんも私にゃあどんなにか優しかったろう。母さんのなくなった時から、好な琴弾かなくなっておしまいだもの。このくらいな思を私がするのは、一度は当前だったと思って、堪忍しておくれ。悪かった、ほんとうにさもしいことだった、姉さん、姉さん。」
こたえなければ繰返しぬ。
「姉さん!」
ひたと寄り添い、肩を抱きて、屹と顔を見合せぬ。
「あれ!」
と叫う声、広岡の家より聞えつ。
井戸一ツ地境に挟まりて、わが仮小屋にてその半を、広岡にてその半ばを使いたりし、蓋は二ツに折るるよう、蝶番もて拵えたり。井戸の蓋と隔ての戸とをこれにて兼ね、一方を当てて夜ごとには彼方と此方を垣したる、透間少し有りたる中より、奮発みたる鞠のごとく、衝と潜り出でて、戸障子に打衝る音凄じく、室の内に躍り込むよと見えし、くるくると舞いて四隅の壁に突当る、出処なければ引返さむとする時、慌しく立ちたるわれに、また道を妨げられて、座中に踞りたるは汚き猫なりき。
背をすくめて四足を立て、眼を瞋らして呻りたる、口には哀れなる鳩一羽くわえたり。餌にとて盗みしな。鳩はなかば屠られて、羽の色の純白なるが斑に血の痕をぞ印したる。二ツ三ツ片羽羽たたきたれど、早や弱り果てたる状なり。
「畜生!」
と鋭く叫び、小親片膝立てて身構えながら、落ちたる煙管の羅宇長きを、力籠めて掉かざせし、吸残りけむ煙草の煙、小さく渦巻きて消え失せたり。
「あ痛、あ、あ、痛。」
うつくしき眉を顰めつつ、はたと得物を取落しぬ。
驚きてわが走り寄る時、遁路あきたれば潜り抜けて、猫は飛び出で、遠く走る音して寂然となりたり。
「どうしたんだね、姉さん、どうしたんだね。」
小親は玉の腕投げ出して、右手もて擦りながら肱を曲げ、手の甲を頬にあてて、口もてその脈の処を強く吸いぬ。
「僂麻質かい、姉さん。」
と危ぶみ問いたる、わが声は思わず震いぬ。
「あら、顔の色を変えて、真蒼だね。そんなに吃驚したのかね、気の弱い。」
かえってわれを激ましぬ。
「いいえ、猫にも驚いたけれど、りゅうまちじゃあないかい、え、僂麻質じゃあないかい。」
「ちょいとだよ。何でもないんだよ、何をそんなに。たかがりゅうまちだもの、生命を取られるほどのことは無いから。」
「でも、私はもう、僂麻質と聞いても悚然するよ。何より恐いんだ。なぜッてまた小六さんのように。」
「磔!」
言いたる小親も色をかえぬ。太き溜息吻とつきて、
「鶴亀、々々。ああ、そういったばかりでも、私ゃ胸が痛いよ、貢さん、ほんとに小六さんもどうおしだろうね。」
物語の銀六は、蛇責の釜に入りたる身の経験ありたれば、一たびその事を耳にするより、蒼くなりて、何とて生命の続くべきと、老の目に涙泛べしなり。されど気丈なる女なれば、今なお恙なかるべし。
小親いまだその頃は、牛若の役勤めていつ。銀六も健かに演劇の真似して、われは哀なる鞠唄うたいつつ、しのぶと踊などしたりし折なり。
あたかもいま小親が猫を追わむとて、煙管翳したるその状なりしよ。越前府中の舞台にて、道成寺の舞の半ばに、小六その撞木を振上げたるトタンに左手動かずなり、右手も筋つるとて、立すくみになりて、楽屋に舁かれて来ぬ。
しからざりし以前より、渠はこの僂麻質の持病に悩みて、仮初なる俥の上下にも、小幾、重子など、肩貸し、腰を抱きなどせしなり。
月日に痛み重るを、苦忍して、強いて装束着けたりしが、その時よりまた起たずなりき。
楽屋にては小親の緋鹿子のそれとは違い、黒き天鵞絨の座蒲団に、蓮葉に片膝立てながら、繻子の襟着いたる粗き竪縞の布子羽織りて被つ。帯も〆めで、懐中より片手出して火鉢に翳し、烈々たる炭火堆きに酒の燗して、片手に鼓の皮乾かしなどしたる、今も目に見ゆる。
手の利かねば、割膝にわが小さき体引挟みて、渋面つくるが可笑とて、しばしば血を吸いて、小親来て、わびて、引放つまでは執念く放たざりし寛闊なる笑声の、はじめは恐しかりしが、果は懐しくなりて、そと後より小さき手に目隠して戯れたりし、日数もなく、小六は重き枕に就きつ。
湯を呑むにさえ、人の手かりたりしを、情なき一座の親方の、身の代取りて、その半不随の身を売りぬ。
買いたるは手品師にて、観世物の磔にするなりき。身体は利かでも可し、槍にて突く時、手と足掙きて、苦と苦痛の声絞らするまでなれば。これにぞ銀六の泣きしなる。
「ほんとにねえ、貢さん。」
小親行きて、泣く泣く小六の枕頭にその恐しきこと語りし時、渠の剛愎なる、ただ冷かに笑いしが、われわれはいかに悲しかりしぞ。
その時の小親、今の年紀ならましかば、断ちても何とか計らいたらむ。あどけなき人のただ優しくて、親方に縋りたれど、内に居ては水一つ汲まぬ者なり。手足の動かぬを何にかせむ、歌妓にも売れざるを、塵塚に棄つべきが、目ざましき大金になるぞとて、北叟笑したりしのみ。
そもそも何の見処ありて、小六にさる価擲ちけむ、世には賤しき業も多けれど、誰か十字架に懸らむとする。
向うづけに屋根裏高き磔柱に縛められて、乳の下発きて衆の前に、槍をもて貫かるるを。これに甘んずる者ありとせむか、その婦人いかなるべき。
小六の膚は白かりき。色の黒き婦人にては、木戸に入るが稀なりとて、さる価をぞ払いしなる。手品師は詮ずるに半ば死したる小六の身のそのうつくしく艶かなりし鳩尾一斤の肉を買いしなり。諸人の、諸人の眼の犠牲に供えむとて。
売られし小六はおさなきより、刻苦して舞を修めし女ぞ。かくて十年二十年、一座の座頭となりて後も、舞台に烈しき働しては、楽屋に倒れて、その弟子と、その妹と、その養う児と、取縋り立蔽いて回生剤を呑ませ呼び活けたる、技芸の鍛錬積りたれば、これをかの江戸なる家元の達人と較べて何か劣るべき。
あわれ手品師と約成りて、一座と別れんとしたりし時、扇子もて来よ、小親。一さし舞うて見せむとて、留むるを強いて、立たぬ足膝行り出でつ。小稲が肩貸して立たせたれば、手酌して酒飲むとは人かわりて、おとなしく身繕いして、粛然と向直る。
小親は膝に手を置きぬ。
揚幕には、しのぶと重子、涙ながら、踞居て待ちたり。
一息つき、きっと見て、凜として、
(幕を!)
と高く声かけぬ。開けと云うなり。この声かかる時は、弟子達みな思わずひれ伏す。威なるべし。
さて声に応じて、「あ」と答え、棒をもて緞子の揚幕キリリと捲いて揚げたれば、舞台見ゆ。広き土間桟敷風寂びて人の気勢もなく、橋がかり艶かに、板敷白き光を帯びて、天井の煤影黒く映りたるを、小六はじッと見て立ったりしが、はじめてうるめる声して、
(親ちゃん、)
とばかりはたと扇子落して見返りし、凄艶なる目の中に、一滴の涙宿したり。皆泣伏しぬ。迎の俥来たれば乗りて出でき。
可愛き児の、何とて小親にのみは懐き寄る、はじめて汝が頬に口つけしはわれなるを、効なく渠に奪らるるものかは。小親の牛若さこそとならば、いまに見よ、われ癒えなば、牡丹の作物蔽い囲む石橋の上に立ちて、丈六尺なるぞ、得意の赤頭ふって見せむ。さらば牛若を思いすてて、わが良き児とやならむずらむ。
と病の床に小親とわれと引きつけては、二人の手を取り戯れて、小親に顔赤うさせし愉快の女は、かくて手品師が人の眼を眩惑せしむる、一種の魔薬となり果てたり。
過去りしことありのままに繰返せば、いままのあたり見るに似たり。
小親と顔を見合せぬ。
「よく覚えておいでだね。」
いかでわれ忘るべき。
いかで忘らるべき。時々起る小親が同一病の都度、大方ならずわれは胸いためぬ。
殊に今は隣家にて、啊呀と一声叫びたまいし姉上の声の、覚えあるのみならず、猫の不意にも驚かされし、血の動きのなお止まぬに、小親また腕を痛めたれば、さこそわが顔の色も変りつらむ。
「姉さん、ほんとうに気を付けておくれ、またこの上お前が病気にでもなったらどうしよう。」
「案じずとも可いよ、ちょいとだわ。しかし小六さんもどうしているんだろう。始終気に懸けちゃあいるけれど、まだどうにもしようがないが、もうこの節じゃあ、どこに居なさるんだかそれさえ知れない位だもの、ねえ、貢さん。」
いい掛けつつ打湿りて、
「ああなぜまあ私達はこうだろう。かわいそうに、いろんなことに苦労をおしだねえ。」
「仕方がないんだ。」とわれは俯向きぬ。
「どうしてまた、お前さんを可愛がってあげたいものは、こんなにふしあわせなんだろうね。小六さんだって、あんな気の強い人だったけれど、どんなにかお前さんを可愛い、可愛いッて、いつも言ったろう。それがああだし。
いままたお雪さんだって、そうじゃあないか。お前さんも恋しがってるし、むこうでもそんなに思っているものが、飛んだ、お婿さんを娶ってまたそうだし……」
小親が口籠りて吐くいきに、引入れらるるよう心細く、
「姉さんは何ともありゃあしないだろうね。」
「え。」
「姉さんは何ともなかろうね。」
「誰? え、お雪さんかえ。」
「いいえ。」
「私?」
われ頷きぬ。小親は襟に首垂れつつ、
「私、私なんざあ、どうせやっぱり磔にでもなるんだろうさ。親方持ちだもの、そりゃこうして動いてる内ゃ可いけれど、病気にでもなった上、永く煩いでもしようもんなら、大概さきが分ってるわね。」
「詰らない、そんなことが。」
と勢よく言いたれど、力なき声なりしよ。
「いいえ、算っても御覧、小六さんなんざ、いままでのお礼心で、据えておいたって可いんじゃあないか。私も世話になってるし、内のは大抵皆小六さんに仕込まれた女だもの、座をこれまでにしたのは皆あの女の丹精じゃあないか。寝さしておいて、謡を教えさしたッて一廉の役には立つのに、お金子だといや直ぐあれなんだもの。考えてみりゃ心細いよ。」
思わず涙さしぐみぬ。十年の末はよも待たじ、いま早や渠は病あり。肩寒げに悄れたる、その状ぞ瞻らるる。
「姉さん、私は、私はどうなるんだろうね。」
小親はハッとせし風情にて、顔をあげしがまたうつむきぬ。
「堪忍しておくれ、もう私ゃそういわれると、申訳のしようがないよ。つい、手前勝手で、お前さんを私が処へ引張っておいて、こんなに甲斐性がないんだものね。あの時お雪さんの方へ行っておいでなら、またこんなことにならなかったかも知れないものを。つい何だか、お前さんをば人ン処へやりたくなかったので、……それも分別がある人なら、そりゃ、私とお前さんと両方で半分ずつ悪いんだから可いけれど、東西もお分りでなかったものを、こんなにしてしまってさ。そして心配をさせるんだから、皆私が悪いんだね、本当に、もうどうしたら可かろうね。」
太く激したるようなりき。さりとは思い懸けざりし。心も急きて、
「何だね、何も、そんな気で言ったんじゃあないんだのに。」
「いいえ、お前さんはきっと腹を立っておいでだよ。堪忍して下さい、よう後生だから。毎日々々果敢いことが有るけれど、お前さんの顔を見たり、ものをいうのさえ聞いてれば、何にも思わないで、私ゃ気がはずむんでね、ちっとも苦労はしないけれど、そりゃ私の、身勝手だった。御免なさいな。」
と身を顫わして涙を呑む。われはその膝おさえたり。
「姉さん、何が気に障りました。何だって、私がそんなこと思います。宿なしの、我ままものを、暑さ、寒さの思いもさせないで、風邪ひとつおひかせでない。お母さんに別れてから、内に居ちゃあ知らなんだ楽しいことも覚えさして下すった。伯母さんと居た時は、外へばかり出たかったに、姉さんとこう一所になってから、ちっとも楽屋の外のことは知らなくって済むようにして、こんなに育てておくれだもの、何が私に不足があるえ。そりゃお雪さんのことは……何だったから、だから、謝罪ったじゃあないか。先刻云ったのはちっともそんな気じゃアありません。何だか心細い事おいいだから、嘘にもそんなこと云って私を弱らして下さるなって、そういうつもりだったのに、悪く取ったのかね、まだ胸にゃあ済まないかい。」
縋りつきて、
「ひがむんだね、ああ、つい、ああもしてあげよう、こうもしてあげて、お前さんの喜ぶ顔が見たいと思うことが山ほどにあるけれど、一ツも思うようにならないので、それでつい僻むのだよ。分りました。さ、分ったら、ね、貢さん、可いかい、可いかい。」
「だってあんまりだから。」
「ほんとはお前さんが何てったって、朝夕顔が見ていたいの。そうすりゃもう私ゃ死んだって怨はないよ。」
「まあ!」
「いいえ、何の、死んだって、売られたって、観世物になったって、どうしたって構うものかね。私ゃ、一晩でもお前さんとこうしていられさえすりゃ。」
「そんなこと云っちゃあ厭だ。」
分れて坐したり。
「じゃあ、もう詰らない事はいいッこなし、気をしっかりして、私がきっとお前さんに心配はさせないよ。そのかわり私が煩って、悲しいめにあうことが──あったらばね。」
またその声を曇らせしが、
「甘えさしておくれ。可いかい。ちょいとでもお前さんに甘えさしてもらいさえすりゃ、あとはどうなったって、構うものか。したいようにするが可いや。もうもう、取越苦労なんざしないでおこうね。」
「ああ。」
「極めた!」
急に坐り直して、
「あら、もう火が消えたよ。」
小親はいそいそ灰のなか掻探して、煙管取って上げたるが、ふと瞳を定めて、室の隅、二ところ見廻したり。
「おや! 鳩はどうしたろう。」
われもまた心着きぬ。さきに一たび姉上のことを思い断たむとしたりし折、広岡の家に悲しき叫び聞えしは、確に忘れず、その人なりし。われわれとおなじにかの猫の鳩くわえしを見たまいしならむとのみ、仮りに思い棄てたれど、あるいはさもなくて、何等かの憂目に合わせたまうならずや。酷き養子のありといえば。また更に胸の安からず。
小親はなお頻りにあたりを見廻して、
「変だよ、ちょいとお前さんも見たろうね、何だか私ゃ茫然してたが、たしかあの猫が鳩をくわえて飛込んだっけね。変な気がするよ、つい今しがたの事だった。」
「ああ、私はまた、またいうと何だろうけれど、お雪さんの(あれッ)てった声が聞えたようでね。」
「気のせいだよ、そりゃ気のせいだろうけれど、はてな、一体どこから飛込んだろうね。」
「井戸の処さ。」
「井戸だえ……」
わが顔の色見て取りたり。小親は寂しき笑を含みて、
「可いよ、どうせ心配をさせないと言ったこッた。貢さん、ついでにその心配もさせないから、もう案じないが可いよ。」
「何の心配さ。」
「お雪さんのことさ。」
「その事なら、もう。」
「いいえ、そうじゃあないよ、一旦は何、私だって、先刻のように云ったけれど、お前さんの心配をすることだもの、それに、どうせ、こんなからだだから、お前さんさえ愛想をお尽しでないことなら、もうどんなにでも私ゃなろうわね。構うものかね、なに構やあしない。」
かかる女に何とてさることをさせらるべき。わが心はほぼ定まりたり。
「そんなに云っておくれだと、なお私は立つ瀬がない。お雪さんも何だけれど、姊さんが何だもの。」
「何だえ、貢さん。」
「何でもいいよ。」
「可かアありません。」
「可かアありませんたって、何もわるいこっちゃあない。」
「じゃあまあそうさ。しかしどうにかするよ、私ゃ、そのまんまにしちゃあおかないから。」
「あすのこと……そして姉さん冷えちゃあまた悪いだろう。」
われは独り自由にものおもわむと欲せしなり。
小親は軽く頷きつつ、
「また心配をさしちゃあ悪いね。」
「だからさ。」
「あい、じゃあ、お前さんもおやすみだと可い。」
褄引合せて立上れり。
「しのぶや、……む、もう寝たそうな。」
戸口にて見返りながら、
「貢さん、床は私が取ってあげよう。」
「なに、構わないよ。あとで敷かせるから。」
打うなずきさま微笑みたり。
「邪魔だったら、あっちへおいで、稲ちゃんと一所に寝ましょう。」
「のちほど。」
「それじゃあ……」
とて立出でたる、後姿隣の室の暗きなかに隠れしが、裾花やかに足白く、するすると取って返して、
「貢さん!」
顔をあげてぞ見たる、何をか思える、小親の、憂慮わしげなる面色なりしよ。
「また、鼠とでも話すのかね。」
「考えてるの。」
「そんなこと云わないで、鼠とたんとお楽しみ。ほほほ、私は夢でも見ましょうや。」
と横顔見せて身をななめに、此方を見てなお立ちたりしが、ふと心着き耳傾け、
「あら! 狐が鳴いてるよ。」
と、あだなる声にていいすてつつ、すらすらと歩み去りぬ。
あれという声、啊呀と姉上の叫びたまいしと、わが覚ゆる声の、猫をば見たまいて驚きたまいしならば可し。さなくて残忍なる養子のために憂目見たまいしならばいかにせむ。それか、あらぬかとのみ思い悩みつつ、われは夜半の道を行くなりき。
小親と同一楽屋に居て、その顔見つつありては、われ余りに偏して、ただものに驚かせたまいしよと思い棄つるようになりがちなればぞ。
窓を透して、独居の時、かの可哀に苔生いたる青楓の材を見れば、また姉上の憂目を訴えたまいしがごとく思われつつ、心太く惑いて脳の苦しきが、いずれか是なる、いずれか非なる。わが小親を売りて養子の手より姉上を救い参らせむか、はた姉上をさし置きて、小親とともに世を楽しく送らむか、いずれか是なる、いずれか非なる。あわれわれこの間に処していかにせむと、手を拱きて歩行くなりき。
しずかに考え決むとて、ふらふらと仮小屋を。小親が知らぬ間に出でて、ここまで来つ。山の手の大通りは寂として露冷かなり。
路すがらいかなるものにか逢いけむ、われは心着かざりし。四辺には人の往来絶えて、大路の片隅に果物売の媼一人露店出して残りたり。三角形の行燈にかんてらの煤煙黒く、水菓子と朱の筆もて書いたる下に、栗を堆く、蜜柑、柿の実など三ツ五ツずつ並べたり。空には月の影いと明きに、行燈の燈幽なれば、その果物はみな此方より小く丸く黒きものに見ゆ。電信の柱長く、斜に太き影の横うたるに、ふと立停りて、やがて跨ぎ越えたれば、鳥の羽音して、高く舞い上れり。星は降るごとし。あなやと見れば、対岸なる山の腰に一ツ消えて、峰の松の姿見えつ。われは流に沿うたりき。
岸には推ならべて柳の樹植えられたり。若樹の梢より、老樹の樹の間に、居所かわるがわる、月の形かからむとして、動くにや、風の凪ぎたる柳の枝、下垂れて流れの上に揺めきぬ。
来かかる人あり、すれ違いて振向きたれば、立停りて見送るに、われ足疾に通り過ぎつ。
柳は早うしろの方遥になりて、うすき霧のなかに灰色になりたる、ほのかに見ゆ。松の姿の丈高きが、一抱の幹に月を隠して、途上六尺、隈暗く、枝しげき間より、長き橋の欄干低く眺めらる。板の色白く、てらてらと対なる岸に懸りたり。
その橋の上に乗りたるよう、上流の流れ疾く白銀の光を浴び、蜿りに蒼みを帯びて、両側より枝蔽える木の葉の中より走り出でて、颯と橋杭を潜り抜け、来し方の市のあたり、ごうごうと夜深き瀬の音ぞ聞えたる。
わが心は決らで、とこうしてその橋の袂まで来りたり。ついでなればと思いて渡りぬ。
木津は柿の実の名所とかや。これをひさぐもの、皆女にて、市よりおよそ六七里隔たりたる山中の村よりこの橋の上に出で来るなり。夜更けては帰るに路のほど覚束なしとて、商して露店しまえば、そのまま寝て、夜明けてのち里に帰るとか。紫の紐結びつつ、一様に真白き脚絆穿きたるが、足を縮め、筵もて胸を蔽い、欄干に枕して、縦横に寝まりたる乙女等五七人、それなるべし。尽く顔に蓋して、露を厭える笠のなかより、紅の笠の紐、二条しなやかに、肩より橋の上にまがりて垂れたり。
小親も寝たらむ、とここにて思いき。
われは一足立戻りぬ。あれという声、啊呀と叫びたまいし声、いかでそのままに差置きて、小親と楽しく眠らるべき。
いま少し、いま少し、仮小屋と広岡の家と楓の樹と、三ツともにある処に、いま少し、少しにても遠く隔りたらば、心の悩ましさ忘られむ。
渡り越せば、仮小屋とハヤ川一ツ隔たりたり。麓路は堤防とならびて、小家四五軒、蒼白きこの夜の色に、氷のなかに凍てたるが、透せば見ゆるにさも似たり。月は峰の松の後になりぬ。
坂道にのぼりかけつ。頂にいたりて超然として一眸のもとに瞰下さば、わが心高きに居て、ものよく決むるを得べしと思いて、峰にのぼらむとしたるなり。
歩を攀ずる足のそれよりも重かりしよ。掻い撫ずる掌を、吸い取るばかり、袖、袂、太く夜露に濡れたり。
さて暗き樹の下を潜り、白き草の上を辿り行く。峰は近くなりぬ。
路の曲りたる角に石碑あり。蓮の花片の形したる、石の面に、艶子之墓と彫りたるなり。
貴き家に生れし姫の、継母に疎んじられて、家をば追われつ。このあたりに隠れすみて里の子に手習教えていたまいしが、うらわかくてみまかりたまいしとか、老いたる人の常に語る。苔深き墳墓の前に、桔梗やらむ、萩やらむ、月影薄き草の花のむら生いたるのみ。手向けたる人のあとも見えざるに、われは思わず歩を留めぬ。
あわれ広岡の、姉上は、われにいかなる女ぞ。小親をだに棄つれば救わるべきをと、いと強く胸を拍って叫ぶものあり。
草に坐して、耳を傾けぬ。さまざまのこと聞えて、ものの音響き渡る。脳苦しければ、目を眠りて静に居つ。
やや落着く時、耳のなかにものの聞ゆるが、しばし止みたるに、頭上なる峰の方にて清き謡の声聞えたり。
松風なりき。
あまり妙なるに、いぶかしさは忘れたるが、また思い惑いぬ。ひそかに見ばや、小親を置きて世に誰かまたこの音の調をなし得るものぞ。
身を起して、坂また少しく攀じ、石段三十五階にして、かの峰の松のある処、日暮の丘の上にぞ到れる。
松には注連縄張りたり。香を焚く箱置きて、地の上に円き筵敷きつ。傍に堂のふりたるあり。廻廊の右左稲かけて低く垣結いたる、月は今その裏になりぬ。
謡は風そよぐ松の梢に聞ゆ、とすれど、人の在るべき処にあらず。また谷一ツ彼方に謡うが、この山の端に反響する、それかとも思われつ。試みにソト堂の前に行きて──われうかがいたり。
伸びあがりて密にすかしたれば、本堂の傍に畳少し敷いたるあり。おなじ麻の上下着けて、扇子控えたるが四五人居ならびつ。ここにて謡えるなりき。釜かけたる湯の煙むらむらとたなびく前に、尼君一人薄茶の手前したまいぬ。謡の道修するには、かかることもするものなり。覚えあれば、跫音立ててこの静さ損なわじと、忍びて退きぬ。
山の端に歩み出でつ。
と見れば明星、松の枝長くさす、北の天にきらめきて、またたき、またたき、またたきたる後、拭うて取るよう白くなりて、しらじらと立つ霧のなかより、麓の川見え、森の影見え、やがてわが小路ぞ見えたる。襟を正して曰く、聞け、彼処にある者。わが心さだまりたり。いでさらば山を越えてわれ行かむ。慈み深かりし姉上、われはわが小親と別るるこの悲しさのそれをもて、救うことをなし得ざる姉上、姉上が楓のために陥りたまいしと聞く、その境遇に報い参らす。
底本:「泉鏡花集成3」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年1月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二卷」岩波書店
1942(昭和17)年9月30日発行
※誤植の確認には、底本の親本を参照しました。
入力:門田裕志
校正:酔いどれ狸
2013年5月16日作成
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