湯女の魂
泉鏡花



       一


 誠に差出がましく恐入りますが、しばらく御清聴を煩わしまする。

 八宗の中にも真言宗には、秘密の法だの、九字くじを切るだのと申しまして、不思議なことをするのでありますが、もっともこの宗門の出家方は、始めから寒垢離かんごり、断食など種々さまざまな方法で法をしゅするのでございまして、向うに目指す品物を置いて、これに向って呪文じゅもんを唱え、印を結んで、錬磨の功を積むのだそうでありまする。

 修錬の極致に至りますると、隠身避水へきすい火遁かとんの術などはいうまでもございませぬ、如意自在な法を施すことが出来るのだと申すことで。

 ある真言でらの小僧が、夜分墓原を通りますと、樹と樹との間に白いものがかかって、ふらふらと動いていた。暗さは暗し、場所柄は場所柄なり、可恐おそろしさの余り歯の根も合わずふるえ顫え呪文を唱えながらげ帰りましたそうでありますが、翌日見まするとそこに乾かしてございました浴衣が、ずたずたに裂けていたと申しますよ、修行もその位になりましたこの小僧さんなぞのは、向って九字を切ります目当に立てておく、竹切、棒などが折れるといいます。

 しかしいい加減な話だ、今時そんなことがある訳のものではないと、ある人が一人の坊さんに申しますと、その坊さんは黙って微笑ほほえみながら、拇指おやゆびを出して見せました、ちと落語家はなしかの申します蒟蒻こんにゃく問答のようでありますけれども、その拇指を見せたのであります。

 そして坊さんが言うのに、まず見た処この拇指に、どの位な働きがあると思わっしゃる、たとえば店頭みせさきで小僧どもが、がやがや騒いでいる処へ、来たよといって拇指を出して御覧なさい、ぴったりとしずまりましょう、また若い人にちょっと小指を見せたらどうであろう、銀座のとおりで手を挙げれば、鉄道馬車がとまるではなかろうか、も一つその上に笛を添えて、片手をあげて吹鳴らす事になりますと、停車場ステイションを汽車が出ますよ、使い処、用い処に因っては、これが人命にも関われば、喜怒哀楽の情も動かします。これをでかばちに申したら、国家の安危にかかわるような、機会おりがないとも限らぬ、その拇指、その小指、その片手の働きで。

 しかるをいわんや臨兵闘者皆陣列在前りんびょうとうしゃかいじんれつざいぜんといい、令百由旬内無諸哀艱りょうひゃくゆじゅんないむしょあいげんと唱えて、四縦五行の九字を切るにおいては、いかばかり不思議のはたらきをするかも計られまい、と申したということを聞いたのであります。

 いや、余事を申上げまして恐入りますが、唯今ただいま私が不束ふつつかに演じまするお話の中頃に、山中孤家ひとつやの怪しい婦人おんなが、ちちんぷいぷい御代ごよ御宝おんたからと唱えて蝙蝠こうもりの印を結ぶ処がありますから、ちょっと申上げておくのであります。

 さてこれは小宮山こみやま良介という学生が、ある夏北陸道を漫遊しました時、越中の国の小川という温泉から湯女ゆなの魂をことづかって、遥々はるばる東京まで持って参ったというお話。

 越中にとまりと云って、家数千軒ばかり、ちょっと繁昌はんじょうな町があります。伏木ふしきから汽船に乗りますと、富山の岩瀬、四日市、魚津、泊となって、それから糸魚川いといがわせき親不知おやしらず、五智を通って、直江津へ出るのであります。

 小宮山はその日、富山を朝立あさだち、この泊の町に着いたのは、午後三時半頃。繁昌な処と申しながら、街道が一条ひとすじ海に添っておりますばかり、裏町、横町などと、ってもないのであります、その町のなかば頃のと有る茶店へ、草臥くたびれた足を休めました。


       二


 渋茶を喫しながら、四辺あたりを見る。街道の景色、また格別でございまして、今は駅路の鈴の音こそ聞えませぬが、馬、車、処の人々、本願寺もうでの行者の類、これに豆腐屋、魚屋、郵便配達などがまじって往来引きも切らず、「早稲わせの香や別け入る右は有磯海ありそうみ」という芭蕉の句も、このあたりという名代の荒海あらうみ、ここを三十とん乃至ないし五十噸の越後丸、観音丸などと云うのが、入れ違いまする煙の色も荒海を乗越のっこすためか一際濃く、且つ勇ましい。

 茶店ちゃみせの裏手は遠近おちこちの山また山の山続きで、その日の静かなる海面よりも、一層かえって高波をうねらしているようでありました。

 小宮山は、快く草臥くたびれを休めましたが、何か思う処あるらしく、この茶屋の亭主を呼んで、

「御亭主、少し聞きたい事があるんだが。」

「へい、お客様、何でござりますな。

 氷見鯖ひみさばの塩味、放生津鱈ほうじょうづだら善悪よしあし、糸魚川の流れ塩梅あんばい、五智の如来にょらい海豚いるか参詣さんけいを致しまする様子、その鳴声、もそっと遠くは、越後の八百八後家はっぴゃくやごけの因縁でも、信濃川の橋の間数まかずでも、何でも存じておりますから、はははは。」

 と片肌脱、身も軽いが、口も軽い。小宮山も莞爾にっこりして、

「折角だがね、まずそれを聞くのじゃなかったよ。」

「それはお生憎様あいにくさまでござりまするな。」

 何が生憎。

「私の聞きたいのは、ここに小川の温泉と云うのがあるッて、その事なんだがどうだね。」

「ええ、ござりますとも、人足ひとあしも通いませぬ山の中で、雪の降る時白鷺しらさぎが一羽、疵所きずしょを浸しておりましたのを、狩人の見附けましたのが始りで、ついこの八九年前から開けました。一体、この泊のある財産家の持地でござりますので、ほんの小屋掛で近在の者へ施し半分にっておりました処、さあ、盲目めくらが開く、いざりが立つ、子供が産れる、乳が出る、大した効能。いやもう、しんのごとしとござりまして、所々方々から、彼岸詣ひがんもうでのように、ぞろぞろと入湯に参りまする。

 ところで、二階家を四五軒建てましたのを今では譲受けた者がござりまして、座敷も綺麗、おさかなも新らしい、立派な本場の温泉となりまして、私はかような田舎者で存じませぬが、何しろ江戸の日本橋ではお医者様でも有馬の湯でもと云うた処を、芸者が、小川の湯でもと唄うそうでござりますが、その辺は旦那御存じでござりましょうな。いかが様で。」

 反対あべこべに鉄砲を向けられて、小宮山は開いた口がふさがらず。

「土地繁昌のもといで、それはお目出度い。時に、その小川の温泉までは、どのくらいの道だろう。」

「ははあ、これからいらっしゃるのでござりますか。それならば、山道三里半、車夫くるまやなどにお尋ねになりますれば、五里半、六里などと申しますが、それは丁場の代価ねだんで、本当に訳はないのでござりまする。」

「ふむ、三里半だなし。そして何かい柏屋かしわやと云う温泉宿は在るかね。」

「柏屋! ええもう小川で一等の旅籠屋はたごや、畳もこのごろ入換えて、障子もこのごろ張換えて、お湯もどんどん沸いております。」

 と年甲斐もない事を言いながら、亭主は小宮山の顔を見て、いやに声をひそめたのでありますな、けしからん。

「へへへ、婦人おんなりますぜ。」

「何を言っているんだ。」

「へへへ、お湯をさして参りましょうか。」

「お茶もたんと頂いたよ。」

 と小宮山はわきを向いて、飲さしの茶を床几しょうぎの外へざぶり明けて身支度に及びまする。


       三


 小宮山は亭主の前で、女の話を冷然としてね附けましたが、ひそかに思う処がないのではありませぬ。一体この男には、篠田しのだと云う同窓の友がありまして、いつでもその口から、足下そっかもし折があって北陸道を漫遊したら、泊から訳はない、小川の温泉へ行って、柏屋と云うのに泊ってみろ、於雪おゆきと云って、根津や、鶯谷うぐいすだにでは見られない、田舎には珍らしい、い女が居るからと、度々聞かされたのでありますが、ただ、佳い女が居るとばかりではない、それが篠田とは浅からぬ関係があるように思われまする、小宮山はどの道一泊するものを、乾燥無味な旅籠屋に寝るよりは、多少色艶いろつやっぽいその柏屋へとめたので。

 さて、亭主の口と盆の上へ、若干なにがしかお鳥目をはずんで、小宮山は紺飛白こんがすり単衣ひとえ白縮緬しろちりめん兵児帯へこおび麦藁むぎわら帽子、脚絆きゃはん草鞋わらじという扮装いでたち、荷物を振分にして肩に掛け、既に片影が出来ておりますから、蝙蝠傘こうもりがさは畳んでひっさげながら、茶店をつて、従是これより小川温泉道と書いた、傍示ぐい沿いて参りまする。

 くことおよそ二里ばかり、それから爪先上つまさきあがりのだらだら坂になった、それを一里半、とまりを急ぐ旅人の心には、かれこれ三里余も来たらうと思うと、ようやく小川の温泉に着きましてございまする。

 志す旅籠屋は、尋ねると直ぐに知れた、有名なもので、柏屋金蔵。

 そのまま、ずっと小宮山は門口かどぐちかかりまする。

「いらっしゃいまし。」

「お早いおつき。」

「お疲れ様で。」

 と下女おんな共が口々に出迎えまする。

 帳場に居た亭主が、算盤そろばんを押遣って

「これ、お洗足すすぎを。それ御案内を。」

 とちやほや、貴公子に対する待遇もてなし服装みなりもお聞きの通り、それさえ、汗に染み、ほこりまみれた、草鞋穿わらじばきの旅人には、過ぎた扱いをいたしまする。この温泉場は、泊からわずか四五里の違いで、雪が二三尺も深いのでありまして、冬向は一切浴客よっかくはありませんで、、狼、猿のたぐいさぎしん雁九郎かりくろうなどと云う珍客に明け渡して、旅籠屋は泊の町へ引上げるくらい。にぎわいますのは花の時分、盛夏三伏さんぷくころおい、唯今はもう九月中旬、秋のはじめで、北国ほっこくは早く涼風すずかぜが立ますから、これが逗留とうりゅうの客と云う程の者もなく、二階も下も伽藍堂がらんどう、たまたまのお客は、難船が山の陰を見附けた心持でありますから。

「こっちへ。」と婢女おんなが、先に立って導きました。奥座敷上段の広間、京間の十畳で、本床ほんどこ附、畳は滑るほど新らしく、ふすま天井は輝くばかり、たれの筆とも知らず、薬草をくわえた神農様の画像の一軸、これを床の間の正面に掛けて、花は磯馴そなれ、あすこいらは遠州が流行りまする処で、亭主の好きな赤烏帽子あかえぼし、行儀を崩さず生かっている。

 小宮山はその前に、悠然と控えました。

 さて、お茶、煙草たばこ盆、御挨拶ごあいさつは略しまして、やがて持って来た浴衣に着換えて、一風呂浴びて戻る。誠や温泉の美くしさ、肌、骨までも透通り、そよそよと風が身に染みる、小宮山は広袖どてらを借りて手足を伸ばし、打縦うちくつろいでお茶菓子のこしの雪、否、広袖だの、秋風だの、越の雪だのと、お愛想までが薄ら寒い谷川の音ももの寂しい。

 湯上りで、眠気は差したり、道中記をけるもものうし、る時帳場で声を懸けたのも、座敷へ案内をしたのも、浴衣を持って来たのも、お背中を流しましょうと言ったのも、皆手隙てすきと見えて、一人々々入交いれかわったが、根津、鶯谷はさて置いて柳原にもない顔だ、於雪と云うのはどうしたろう、おや女の名で、また寒くなった、これじゃ晩に熱燗あつかんで一杯遣らずばなるまい。


       四


 あゆの大きいのは越中の自慢でありますが、もはや落鮎になっておりますけれども、放生津ほうじょうづたらや、氷見ひみさばよりましでありまするから、魚田ぎょでんに致させまして、吸物は湯山ゆさん初茸はつたけ、後は玉子焼か何かで、一銚子ちょうしつけさせまして、杯洗はいせんの水を切るのが最初はじまり

「姉さん、お前に一つ。」

 などと申しまする時分には、小宮山も微酔ほろよい機嫌、向うについておりますのは、目指すお雪ではなくて、初霜とや謂わむ。薄く塗った感心に襟脚の太くない、二十歳はたちばかりの、愛嬌あいきょうたっぷりの女で、二つ三つは行ける口、四方山よもやまの話もはずむ処から、小宮山も興に入り、思わず三四合を傾けまする。

 うしろの花が遠州で、前の花が池の坊に座を構え、小宮山は古流という身で、くの字になり、ちょいと杯を差置きましたが、

「姉さん、新らしく尋ねるまでもないが、ここはたしか柏屋だね。」

「はい、さようでございますよ。」

「柏屋だとするとその何、姉さんが一人あるはずだね。」

みんな四人よったり。」

「四人? 成程四人かね。」

「お喜代さん、お美津さん、お雪さんに私でございます。」

「何、お雪さんと云うのが居る?」

 と小宮山は、金の脈を掘当てましたな、かねての話が事実となったのでありますから、そぞろに勇んだので乗出しようが尋常事ただごとでありませんから、

「おや。」

 小宮山はわざとらしく威儀を備え、

「そうだ、お前さんの名は何と云う。」

「そうだは御挨拶でございますこと、私は名もなんにもございませんよ。」

「いいえさ、何と云うのだ。」

「お雪さんにお聞きなさいまし、貴方あなたは御存じでいらっしゃるんだよ、可憎にくらしゅうございますねえ、でもあのお気の毒さまでございますこと、お雪さんは貴方、久しい間病気でふせっておりますが。」

「何、病気だい、」

「はあ、ぶらぶらやまいなんでございますが、このごろはまた気候が変りましたので、めっきりお弱んなすったようで、取乱しておりますけれど、貴方御用ならばちょいとお呼び申してみましょうか。」

「いえ、何、それにゃ及ばないよ。」

「あのう、きっと参りましょうよ、外ならぬ貴方様の事でございますもの。」

「どうでしょうか、此方様こなたにも御存じはなしさ、ただい女だって途中で聞いて来たもんだから、どうぞしからず。」

「どう致しまして、憚様はばかりさま。」

 と言ったばかり、ちょいと言葉が途絶えましたから、小宮山は思い出したように、

「何と云うのだね、お前さんは。」

「手前は柏屋でございます。」

 小宮山は苦笑にがわらいを致しましたが、む事を得ず、

「それじゃ柏屋の姉さん、一つ申上げることにしよう。」

「まあお酌を致しましょう。私だっていじゃありませんか、あれさ。」

「いや全く。お雪さんでも、酒はもう可かんのだよ。」

「それじゃ御飯をおつけ申しましょう、ですがお給仕となるとなおの事、誰かにおさせなさりとうございましょうね。」

「何、それにゃ及ばんから、御贔屓ごひいき分にもりく、ね。」

「いえ、道中筋で盛の可いのは、御家来衆に限りますとさ、殿様は軽くたんと換えて召食めしあがりまし。はい、御膳ごぜん。」

洒落しゃれかい、いよ柏屋の姉さん、本当に名を聞かせておくれよ。」

「手前は柏屋でございます。」

「お前の名を問うのだよ。」

「手前は柏屋でございます。」

 と上手に御飯をよそいながら、ぽたぽた愛嬌をこぼしますよ。


       五


 御膳の時さえ、何かと文句があったほど、この分では寝る時は容易でなかろうと、小宮山は内々恐縮をしておりましたが、女は大人しく床を伸べてしまいました。夜具は申すまでもなく、絹布けんぷの上、枕頭まくらもと火桶ひおけ湯沸ゆわかしを掛けて、茶盆をそれへ、煙草盆に火を生ける、手当が行届くのでありまする。

 あまりの上首尾、小宮山は空可恐そらおそろしく思っております。女は慇懃いんぎんに手を突いて、

「それでは、おゆっく御寝おやすみなさいまし、まだお早うございますから、私共はみんな起きております、御用がございましたら御遠慮なく手をお叩き遊ばして、それからあのお湯でございますが、一晩沸いておりますから、幾度でも御自由に御入り遊ばして、お草臥くたびれにも、お体にも大層利きますんでございますよ。」

 と大人しやかに真面目まじめな挨拶、殊勝な事と小宮山もあらたまり、

「色々お世話だった。お蔭で心持く手足を伸すよ、ねえさんお前ももう休んでおくれ。」

「はい、難有ありがとうございます、それでは。」

 と言って行こうとしましたが、ふと坐り直しましたから、小宮山は、はてな、柏屋の姐さん、ここらでその本名を名告なのるのかと可笑おかしくもございまする。

 すると、女は後先をみまわしましたが、じりじりと寄って参り、

「時につかぬ事をお伺い申しまして、恐れ入りますが、貴方は方々御旅行をなさいまして、可恐おそろしい目にお逢い遊ばした事はございませんか。」

 小宮山は、妙な事を聞くと思いましたが、早速、

「いや、幸い暴風雨あらしにも逢わず、海上も無事で、汽車に間違もなかった。道中の胡麻ごまの灰などは難有ありがた御代みよの事、それでなくっても、見込まれるような金子かねも持たずさ、足も達者で一日に八里や十里の道は、団子をかじって野々宮高砂たかさごというのだから、ついぞまあこれが可恐おそろしいという目に逢った事はないんだよ。」

「いえ、そんな事ではないのでございます。狸が化けたり、狐が化けたり、大入道が出ましたなんて、いうような、その事でございます。」

「馬鹿な事を言っちゃかん、子供が大人になったり、嫁がしゅうとになったりするより外、今時化けるってやつがあるものか。」

 と一言のもとに笑って退けたが、小宮山はこの女何を言うのかしらと、かえって眉毛につばを附けたのでありまする、女は極く生真面目で、

「実はお客様、誠に申兼ねましたが、少々お願いがございますんですよ、外の事ではありませんが、さっき貴方のお口からも、ちょいとお話のございました、あのお雪さんの事でございますが、い女はなぜあんなに体が弱いのでございましょうねえ。平生ふだんからの処へ、今度煩い附きまして、もう二月三月、十日ばかり前から、また大変に悩みますので、医者と申しましても、三里も参らねばなりませぬ。薬も何も貴方何の病気だか、誰にも考えが附きませぬので、ただもう体の補いになりますようなものを食べさしておくばかりでございますが、このごろじゃ段々せ細って、おかゆも薄いのでなければいただかないようになりました。気心の平生ふだん大人しい人でありますから、私共始め御主人も、かれこれ気をんでおりますけれども、どこが痛むというではなし、苦しいというではなし、いたわりようがないのでございますよ。それでね、貴方、その病気と申しますのが、風邪を引いたの、おなかを痛めたのというのではない様子で、まあ、申せば、何か生霊いきりょう取着とッついたとか、狐が見込んだとかいうのでございましょう。何でも悩み方が変なのでございますよ。その証拠には毎晩同じ時刻にうなされましてね。」

 小宮山も他人ひとごとのようには思いませぬ。


       六


「その時はどんなに可恐おそろしゅうございましょう、苦しいの、切ないの、一層殺して欲しいの、とお雪さんがうめきまして、ひいひい泣くんでございますもの、そしてね貴方、誰かをつかまえて話でもするように、何だい誰だ、などと言うではございませんか、その時はもう内曲うちわの者一同、そばへ参りますどころではございませんよ、何だって貴方、異類異形のものが、病人の寝間にむらむらしておりますようで、遠くにいてみんなが耳をふさいで、突伏つッぷしてしまいますわ。

 それですから、その苦しみます時そばに附いていて、さすりなどする事は誰も怪我けがにも出来ません。病人は薬より何より、ただ一晩おちおち心持好くて、どうせ助らないものを、せめてそれを思い出にして死にたいと。肩息で貴方ね、口癖のように申すんですよ、どうぞまあそれだけでもかなえてやりたいと、みんなが心配をしますんですが、加持祈祷かじきとうと申しましても、どうして貴方ここいらはみんな狸の法印、章魚たこの入道ばっかりで、あてになるものはありゃしませぬ。

 それに、本人を倚掛よっかからせますのには、しっかりなすって、自分でお雪さんが頼母たのもしがるような方でなくっちゃけますまい、それですのにちょいちょいお見えなさいまする、どのお客様も、お止し遊ばせば可いのに、お妖怪ばけと云えば先方さきで怖がります、田舎の意気地いくじ無しばかり、おいら蟒蛇うわばみに呑まれて天窓あたまげたから湯治に来たの、狐に蚯蚓みみずを食わされて、それがためおなかを痛めたの、天狗に腕を折られたの、私共が聞いてさえ、馬鹿々々しいような事を言って、それが真面目だろうじゃありませんか。

 ですもの、どうして病人の力になんぞ、なってくれる事が出来ましょう。

 こう申しちゃ押着けがましゅうございますが、貴方はお見受け申したばかりでも、そんな怪しげな事を爪先へもお取上げ遊ばすような御様子は無い、本当に頼母しくお見上げ申しますんで。

 実は病人は貴方の御話を致しました処、そうでなくってさえ東京のお方と聞いて、病人は飛立つばかり、どうぞお慈悲にと申しますのは、私共からもお願い申して上げますのでございますが、誠に申しかねましたが、一晩おそばで寝かしくださいまして、そうして本人のねがいかなえさしてやって下さいまし、後生でございますから。

 それに様子をお見届け下さいますれば、どんなにか難有ありがとうございましょう。」

 としみじみ、早口の女の声も理に落ちまして、いわゆる誠はその色にあらわれたのでありますから、唯今怪しい事などは、身の廻り百由旬ひゃくゆじゅんの内へ寄せ附けないという、見立てにあずかりました小宮山も、これを信じない訳には行かなくなったのでありまする。

「そりゃ何しろとんだ事だ、私は武者修行じゃないのだから、妖怪を退治るという腕節うでっぷしはないかわりに、幸い臆病おくびょうでないだけは、御用に立って、可いとも! 望みなら一晩看病をして上げよう。ともかくも今のその話を聞いても、その病人をそばへ寝かしても、どうか可恐おそろしくないように思われるから。」

 と小宮山は友人の情婦いろではあり、煩っているのが可哀そうでもあり、殊には血気さかんなものの好奇心も手伝って、異議なく承知を致しました。

「しかしねえさん、別々にするのだろうね。」

「何でございます。」

「何その、お床の儀だ。」

「おほほ、お雪さんにお聞きなさいまし。」

可煩うるさいな、まあ可いや。」

「さようならば、どうぞ。」

し可し。そのかわり姐さん、お前の名を言わないのじゃ……、」

「手前は柏屋でございます。」

 と急いで出て行く。

 これからお雪、良助、寝物語という、物凄ものすごい事に相成りまする。


       七


「これは旦那様。」

 入交って亭主柏屋金蔵、揉手もみでをしながらさきに挨拶に来た時より、打解けまして馴々なれなれしく、

「どうも行届きませんで、御粗末様でございます。」

「いや色々、さあずッとこちらへ、何か女中が御病気だそうで、お前さんも、何かと御心配でありましょう。」

「へい、その事に就きまして、唯今はまた飛んだ手前勝手な御難題、早速御聞済おききずみ下さいまして何とも相済みませぬ。実は私からお願い申しまするはずでござりましたが、かようなものでも、主人あるじ思召おぼしめし、成りませぬ処をたっても御承知下さいますようでは、恐れ入りまするから、御断おことわりの遊ばし可いよう、わざと女共から御話を致させましたのでござりまするが、かように御心安く御承諾下さいましては、かえって失礼になりましてござりまする。

 早速当人にも相伝えまして、久しぶりで飛んだ喜ばせてやりました。全く御蔭様でござりまする。何が貴方、かねての心懸こころがけよろしゅうござりますので、私共もはや、特別に目を懸けまして、他人のように思いませぬから、毎晩うなされまするのが、目も当てられませぬ、さればと申して、目をふさいで寝まする訳には参りませずな、いやもう。」

 と言懸けて、うなずく小宮山の顔を見て、てかてかとした天窓あたまき、

「かようなつむりを致しまして、あてこともない、化物沙汰ざたを申上げまするばかりか、譫言うわごとの薬にもなりませんというは、誠に早やもっての外でござりますが、自慢にも何にもなりません、生得しょうとく大の臆病で、引窓がぱたりといってもほうきたおれてもおっか喫驚びっくり

 それに何と、いかに秋風が立って、温泉場が寂れたと申しましても、まあお聞き下さいまし。とんでもない奴等、若い者に爺婆じじばば交りで、泊の三衛門さんねむが百万遍を、どうでござりましょう、この湯治場へ持込みやがって、今に聞いていらっしゃい隣宿で始めますから、けたいが悪いじゃごわせんか、この節あ毎晩だ、五智で海豚いるかが鳴いたって、あんな不景気な声は出しますまい。

 憑物つきもののある病人に百万遍の景物じゃ、いやもう泣きたくなりまする。はははは、泣くよりわらいとはこの事で、何に就けてもお客様に御迷惑な。」

「なあに、こっちの迷惑より、そういう御様子ではさぞ御当惑をなさるでありましょう、こう遣って、お世話になるのも何かの御縁でしょうから、皆さん遠慮しないが宜しい。」

 と二人で差向さしむかいで話をしておりまする内に、お喜代、お美津でありましょう、二人して夜具をいそいそと持運び、小宮山のと並べて、臥床ふしどを設けたのでありますが、客の前と気を着けましたか、使ってるものには立派過ぎた夜具、敷蒲団しきぶとん、畳んだまますそへふっかりと一つ、それへ乗せました枕は、病人が始終黒髪を取乱しているのでありましょう、夜のものの清らかなるには似ず垢附あかつきまして、思做おもいなしか、涙の跡も見えたのでありまする。

 お美津、お喜代は、枕の両傍りょうばたへちょいとかがんで、きゅうッきゅうッと真直まっすぐに引直し、小宮山に挨拶をして、廊下の外へ。

 ここへ例の女の肩に手弱たおやかな片手を掛け、悩ましい体を、少し倚懸よりかかり、下に浴衣、上へ繻子しゅすの襟のかかった、縞物しまものの、白粉垢おしろいあかに冷たそうなのをかさねて、寝衣ねまきのままの姿であります、幅狭はばせまの巻附帯、髪は櫛巻くしまきにしておりますが、さまで結ばれても見えませぬのは、客の前へ出るというので櫛の歯に女の優しい心をめたものでありましょう。年紀としの頃は十九か二十歳はたち、色は透通る程白く、鼻筋の通りました、やつれても下脹しもぶくれな、見るからに風の障るさえ痛々しい、くずの葉のうらみがちなるその風情。


       八


 高が気病きやみと聞いたものが、思いの外のお雪の様子、小宮山はまず哀れさが先立って、あるじと顔を見合せまする。

 介添の女はわざと浮いた風で、

「さあ御縁女様。」

 と強く手を引いてたすけ入れたのでありまする。お雪はそんなうちにも、きまりが悪かったと見え、ぼんやり顔をばあからめまして、あわれ霜に悩む秋の葉は美しく、蒲団のそばへ坐りました。

「お雪さん、嬉しいでしょう。」

 亭主までが嬉しそうに、莞爾々々にこにこして、

「よくお礼を申上げな。」

 と言うのであります。けて申上げまするが、これから立女役たておやまがすべて女寅めとらが煩ったという、優しい哀れな声で、ものを言うのでありまするが、春葉君だと名代のい処を五六枚、上手に使い分けまして、誠にい都合でありますけれども、私の地声では、ちっとも情が写りますまい。その辺は大目に、いえ、お耳にお聞溢ききこぼしを願いまして、お雪は面映気おもはゆげに、且つしおらしく手をつかえ、

難有ありがとう存じます、どうぞ、……」

 とばかり、取縋とりすがるように申しました。小宮山は、亭主といい、女中の深切、お雪の風采とりなり、それやこれや胸一杯になりまして、思わずほろりと致しましたが、さりげのう、ただうなずいていたのでありました。

「そらお雪、どうせこうなりゃ御厄介だ。お時儀じぎも御挨拶も既に通り越しているんだからの、御遠慮を申さないで、早く寝かして戴くと可い、寒いと悪かろう。おれでさえぞくぞくする、病人はなおのッた、お客様ももう御寝げしなりまし、お鉄や、それ。」

 と急遽そそくさして、実は逃構にげがまえも少々、この臆病者は、病人の名を聞いてさえ、悚然ぞっとする様子で、

 お鉄(此奴こやつあ念を入れて名告なのる程の事ではなかった)は袖屏風そでびょうぶで、病人をいたわっていたのでありますが、

「さあさあ早くその中へ、お床は別々でも、お前さん何だよ御婚礼の晩は、女が先へ寝るものだよ、まあさ、御遠慮を申さないで、同じ東京のお方じゃないか、裏の山から見えるなんて、噂ばかりの日本橋のお話でも聞いて、ぐっと気をお引立てなさいなね。水道の水を召食めしあがッていらっしゃれば、お色艶もそれ、お前さんのあの方に、ねえ旦那。」

「まずの。」

 と言ったばかりで、金蔵はまじりまじり。大方時刻の移るに従うて、百万遍を気にするのでありましょう。お鉄は元気好く含羞はにかむお雪をやわらかに素直に寝かして、袖を叩き、裾をおさえ、

「さあ、お客様。」

 と言ったのでありまするが、小宮山も人目のある前で枕を並べるのは、気が差してばつも悪うございますから、

「まあまあお前さん方。」

「さようならば、御免をこうむりまする。伊賀ごえでおいでなすったお客じゃないから、わし股引ももひきむそうても穿いて寝るには及ばんわ、のうお雪。」

「旦那笑談じょうだんではございませんよ、失礼な。お客様御免下さいまし。」

 と二人は一所に挨拶をして、上段の間を出てきまする、親仁おやじ両提りょうさげ莨入たばこいれをぶら提げながら、克明に禿頭はげあたまをちゃんと据えて、てくてくと敷居を越えて、廊下へ出逢頭であいがしら、わッと云う騒動さわぎ

「痛え。」とあいたしこをした様子。

 さっきから障子の外に、様子をうかがっておりましたものと見える、誰か女中の影におびえたのでありまする。笑うやら、わめくやら、ばたばたという内に、お鉄が障子を閉めました。後の十畳敷は寂然ひっそりと致し、二筋の燈心とうすみは二人の姿と、床の間の花と神農様の像を、朦朧もうろうてらしまする。


       九


 小宮山は所在無さ、やがて横になってふすまを肩に掛けましたが、お雪を見れば小さやかにふっかりとして、女雛めびなを綿に包んだようでありまする。もとより内気な女の、先方さきから声を懸けようとは致しませぬ。小宮山は一晩介抱を引受けたのでありまするから、まず医者の気になりますと物もいいいのでありました。

「姉さん、さぞ心細いだろうね、お察し申す。」

「はい。」

「一体どんな心持なんだい。何でも悪い夢は、明かしてぱッぱと言うものだとことわざにも云うのだから、心配事は人に話をする方が、気がれて、それが何より保養になるよ。」

 としみじみいたわって問い慰める、真心は通ったと見えまして、少し枕を寄せるようにして、小宮山の方を向いて、お雪は溜息ためいききましたが、

「貴方は東京のお方でございますってね。」

「うむ、東京だ、これでも江戸ッだよ。」

「あの、そう伺いますばかりでも、私は故郷の人に逢いましたようで、お可懐なつかしいのでござりますよ。」

「東京が贔屓ひいきかい、それは難有ありがたいね、そしてここいらに、贔屓は珍しいが、何か仔細しさいが有りそうだな。」

 小宮山は、聞きませんでもその因縁いわれを知っておりましょう、けれども、思うさま心の内を話さして、とにかく慰めてやりたい心。

「東京は大層広いそうでございますから、泊のものを、こちらで存じておりますような訳には参りますまいけれども、あのう、私は篠田さんと云う、貴方の御所おところの方に、少し知己しりあいがあるのでございまして。」

 小宮山ははらの内で、これだな……。

「訳は申上げる事は出来ませんが、そのお方の事が始終気にかかりまして、それがために、いつでも泣いたり笑ったり、自分でも解りませんほど、気をんでおりました。それがあの、病の原因もとなんでございましょう。

 昼も夜もどっちで夢を見るのか解りませんような心持で、始終ふらふら致しておりましたが、お薬も戴きましたけれども、なおってからどうという張合がありませんから、弱りますのは体ばかり、日がちますと起きてるのが大儀でなりませんので、どこが痛むというでもなく、寝てばかりおりましたのでございますよ。」

 さあおごれ、手も無くそれは恋病こいわずらいだと、ここで言われた訳ではありませんから、小宮山は人の意気事をかしこまって聞かされたのでありまする、勿論容体を聞く気でありますから、お雪の方でも、医者だと思って遠慮がない。

「久しくそんなに致しております内、ちょうどこの十日ばかり前の真夜中の事でございます。られません目をぱちぱちして、みつめておりました壁の表へ、絵にいたように、茫然ぼんやり可恐おそろしく脊の高い、お神さんの姿があらわれまして、私が夢かと思って、じっと瞶めておりますうち跫音あしおともせず壁から抜け出して、枕頭まくらもとへ立ちましたが、面長で険のある、鼻の高い、すごいほど年増としまなんでございますよ。それが貴方、着物も顔も手足も、稲光いなびかりを浴びたように、蒼然まっさお判然はっきりと見えました。」

可訝おかしいね。」

当然あたりまえなら、あれとか、きゃッとか声を立てますのでございますが、どう致しましたのでございますか、別に怖いとも思いませんと、こう遣って。」

 と枕に顔を仰向あおむけて、すずしい目をみはって熟と瞳を据えました。小宮山は悚然ぞっとする。

「そのお神さんが、不思議ではありませんか、ちゃんと私の名を存じておりまして、

(お雪や、お前、あんまり可哀そうだから、私がその病気をなおして上げる、一所においで。)

と立ったまま手を引くように致しましたが、いつの間にやら私の体は、あの壁を抜けて戸外おもてへ出まして、見覚みおぼえのある裏山の方へ、冷たい草原の上を、貴方、跣足はだしですたすた参るんでございます。」


       十


零余子むかごなどを取りに参ります処で、知っておりますんでございますが、そんなうちはあるはずはございません、破家あばらやが一軒、それも茫然ぼんやりして風が吹けば消えそうな、そこが住居すまいなんでございましょう。お神さんは私を引入れましたが、内に入りますと貴方どうでございましょう、土間の上に台があって、荒筵あらむしろを敷いてあるんでございますよ、そこらは一面にすすぼって、土間もかびが生えるように、じくじくして、隅の方に、お神さんと同じ色の真蒼まっさおあかりが、ちょろちょろとともれておりました。

(どうだ、お前ここにあるものを知ってるかい。)とお神さんは、その筵の上にあるものを、ゆびさしをして見せますので、私は恐々こわごわのぞきますと、何だかいやな匂のする、色々な雑物ぞうもつがございましたの。

(これはの、皆人をはりつけに上げる時に結えた縄だ、)ってしごいて見せるのでございます。私はもう、気味が悪いやら怖いやら、がたがたふるえておりますと、お神さんがね、貴方、ざくりと釘をつかみまして、

(この釘はうし時参ときまいりが、猿丸の杉に打込んだので、のろいの念が錆附さびついているだろう、よくお見。これはね大工が家を造る時に、誤って守宮やもりの胴の中へ打込んだものじゃ、それから難破した船の古釘、ここにあるのは女の抜髪、蜥蜴とかげの尾の切れた、ぴちぴち動いてるのを見なくちゃけない。)と差附けられました時は、ものも言われません。

(お雪、私がこれを何にする、定めしお前は知っていよう。)どうして私が知っておりましょう。

(うむ、知ってる、知っている筈じゃないか、どうだ。)と責めるように申しますから、私はどうなる事でしょうと、可恐おそろしさのあまり、何にも存じませんと、自分にも聞えませんくらい。

(何存ぜぬことがあるものか、これはな、お雪、お前の体に使うのだ、これでその病気をなおしてやる。)ときっにらんで言われましたから、私はもう舌がこわばってしまいましたのでございます。お神さんは落着き払って、何か身繕みづくろいをしましたが、呪文のようなことを唱えて、その釘だの縄だのを、ばらばらと私の体へ投附けますじゃありませんか。

 はッと思いますと、手も足も顫える事が出来なくなったので、どうでございましょう、そのまま真直まっすぐに立ったのでございますわ。

 そう致しますとお神さんは、棚の上からまた一つの赤い色のびんを出して、口を取ってまた呪文を唱えますとね、黒い煙が立登って、むらむらとそれが、あの土間の隅へひろがります、とその中へ、おどろのような髪を乱して、目の血走った、鼻のとんがった、やせッこけた女が、俯向うつむけなりになって、ぬっくりあらわれたのでございますよ。

(お雪や、これは嫉妬しっと狂死くるいじにをした怨念おんねんだ。これをここへ呼び出したのも外じゃない、お前を復してやるその用に使うのだ。)と申しましてね、お神さんは突然いきなり袖をまくって、その怨念の胸の処へ手を当てて、ずうと突込つッこんだ、思いますと、がばと口がいて、こぶしが中へ。」

 と言懸けました、声に力はこもりましたけれども、体は一層力無げに、幾度も溜息をいた、お雪の顔は蒼ざめて参りまする。小宮山は我を忘れて枕をなかば

「そのまま真白まっしろ肋骨あばらぼねを一筋、ぽきりと折って抜取りましてね。

(どうだ、手前てめえが嫉妬で死んだ時の苦しみは、何とこのくらいのものだったかい。)と怨念に向いまして、お神さんがそう云いますと、あの、その怨霊おんりょうがね、貴方、上下うえしたの歯を食いしばって、(ううむ、ううむ。)と二つばかり、合点々々を致したのでございますよ。

し。)とお神さんが申しますと、怨念はまたさっきのような幅の広い煙となって、それが段々罎の口へ入ってしまいました。

 それからでございますが。」

 とお雪は打戦うちわなないて、しばらくは口も利けません様子。


       十一


 さてその時お雪が話しましたのでは、何でもその孤家ひとつやの不思議な女が、くだんの嫉妬で死んだ怨霊の胸をあばいて抜取ったという肋骨あばらぼねを持ってぜん申しまする通り、釘だの縄だのに、のろわれて、動くこともなりませんで、病み衰えておりますお雪を、手ともいわず、胸、肩、背ともいわず、びしびしと打ちのめして、

(さあどうだ、お前、男を思い切るか、それを思い切りさえすればなおる病気じゃないか、どうだ、さあこれでも言う事を聞かないか、薬は利かないか。)

 と責めますのだそうでありまする、その苦しさが耐えられませぬ処から、

(御免なさいまし、御免なさいまし、思い切ります。)

 と息の下で詫びまする。それでは帰してやると言う、お雪はいつの間にかもとねやに帰っております。翌晩あくるばんになるとまた昨夜ゆうべのように、同じ女が来て手を取って引出して、かの孤家へ連れてまいり、釘だ、縄だ、抜髪だ、蜥蜴とかげの尾だわ、肋骨あばらぼねだわ、同じ事を繰返して、骨身にこたえよと打擲ちょうちゃくする。

(お前、可い加減な事を言って、ちっとも思い切る様子はないではないか。さあ、思い切れ、思い切ると判然はっきり言え、これでも薬はまだ利かぬか。)

 と言うのだそうでありますな。

 申すまでもありません、お雪はとても辛抱の出来る事ではないのですから、きっと思い切ると言う。

 それではと云って帰しまする。

 翌晩あくるばんも、また翌晩も、連夜まいよの事できっと時刻をたがえず、その緑青で鋳出いだしたような、蒼い女が遣って参り、例の孤家へ連れ出すのだそうでありますが、口頭くちさきばかりで思い切らない、不埒ふらちな奴、引摺ひきずりな阿魔めと、はていかりを発して打ち打擲を続けるのだそうでございまして。

 お雪はこれを口にするさえ耐えられない風情に見えました。

「貴方、どうして思い切れませんのでございましょう。私は余り折檻せっかんが辛うございますから、たしかに思い切りますと言うんですけれども、またその翌晩あくるばん同じ事を言って苦しめられます時、自分でも、成程と心付きますが、本当は思い切れないのでございますよ。

 どうしてこれが思い切れましょう、因縁とでも申しますのか、どう考え直しましても、叱ってみてもなだめてみても、自分が自由にならないのでございますから、大方今に責め殺されてしまいましょう。」

 と云う、顔のやつれ、手足の細り、たゆげな息使い、小宮山の目にも、秋の蝶の日に当ったら消えそうに見えまして、

「死ぬのはちっともいといませぬけれども、晩にまたひどい目に逢うのかと、毎日々々それを待っているのが辛くってなりません。貴方お察し遊ばして。

 本当によくも未来も忘れましてどうぞまあ一晩安々て、そうして死にますれば、思い置く事はないと存じながら、それさえになりません、余りといえば悔しゅうございましたのに、こうやっておそばに置いて下さいましたから、いつにのう胸の動悸どうきも鎮りまして、こんな嬉しい事はございませぬ。まあさぞお草臥くたびれなさいまして、お眠うもございましょうし、お可煩うるそうございましょうのに、つい御言葉に甘えまして、飛んだ失礼を致しました。」

 人にも言わぬ積り積った苦労を、どんなに胸にたくわえておりましたか、その容体ではなかなか一通りではなかろうと思う一部始終を、くわしく申したのでありまする。

 さっきから黙然もくねんとして、ただ打頷うちうなずいておりました小宮山は、何と思いましたか力強く、あたかも虎をてうちにするがごとき意気込で、蒲団の端を景気よくとんと打って、むくむくと身を起し、さも勇ましい顔で、莞爾にっこりと笑いまして、

「訳はない。姉さん、何のこったな。」


       十二


みんなそりゃ熱のせいだ、熱だよ。姉さんも知ってるだろうが、熱じゃ色々な事を見るものさ。えやみの神だの疱瘡ほうそうの神だのと、よく言うじゃないか、みんなこれは病人がその熱の形を見るんだっさ。

 なかにも、これはちいッと私が知己ちかづきの者の維新前後の話だけれども、一人、踊で奉公をして、下谷したや辺のあるお大名の奥で、お小姓を勤めたのがね、ある晩お相手から下って、部屋へ、平生ふだんよりは夜が更けていたんだから、早速おつとめ衣裳いしょうを脱いでちゃんとして、こりゃ女のたしなみだ、姉さんなんぞも遣るだろうじゃないか。」

「はい。」

「まあお聞きそれからしまのお召縮緬めしちりめん、裏に紫縮緬の附いた寝衣ねまきだったそうだ、そいつを着て、紅梅の扱帯しごきをしめて、蒲団の上で片膝を立てると、お前、後毛おくれげ掻上かきあげて、懐紙で白粉おしろいをあっちこっち、いて取る内に、唇にさわるとちょいとべにが附いたろう。お小姓がね、しわを伸してその白粉の着いた懐紙を見ていたが、何と思ったか、高島田に挿している銀の平打のかんざし、(い)まるにいのじが附いている、これは助高屋すけたかやとなった、沢村訥升とつしょうの紋なんで、それをこのお小姓が、大層贔屓ひいきにしたんだっさ。簪をぐいと抜いてちょいと見るとね、莞爾にっこり笑いながら、そら今口紅の附いた懐紙にぐるぐると巻いて、といただいたとまあお思い。

 可いかい、それを文庫へしまって、さあ寝支度も出来た、行燈あんどう雪洞ぼんぼりに移して、こいつを持つとすッと立って、絹の鼻緒のすがったかさね草履をばたばた、引摺って、派手な女だから、まあ長襦袢ながじゅばんなんかちらちちとしたろうよ。

 長廊下を伝って便所へくものだ。矢だの、鉄砲だの、それ大袈裟おおげさな帯が入るのだから、便所は大きい、広い事、畳で二畳位は敷けるのだと云うよ。それへ入ろうとするとね、えへん! ともいわず歌もまないが、中に人のいるような気勢けはいがするから、ふと立停たちどまった、しばらく待ってても、一向に出て来ない、気を鎮めてよく考えると、なあに、何も入っていはしないようだったっさ。

 ええ、ねえさん変じゃないか、気が差すだろう。それからそのお小姓は、雪洞を置いて、ばたりと戸を開けたんだ、途端に、大変なものが、お前心持を悪くしてはけない、これがみんな病のせいだ。

 戸を開けると一所に、中に真俯向まうつむけになっていた、きたなばばあが、何とも云いようのない顔を上げて、じろりと見た、その白髪しらがというものが一通りではない、銀の針金のようなのが、すすきを一束刈ったように、ざらざらと逆様に立った。お小姓はそれッきり。

 さあ、お奥では大騒動、可恐おそろしい大熱だから伝染うつッても悪し、本人も心許こころもとないと云うので、親許へ下げたのだ。医者はね、お前、手を放してしまったけれども、これは日ならずなおったよ。

 我にかえるようになってから、その娘の言うのには、うつつの中ながらどうかして病が復したいと、かねて信心をする湯島の天神様へ日参をした、その最初の日から、自分が上がろうという、あの男坂の中程にかわやで見た穢ない婆が、つかみ附きそうにして控えているので、悄然しょんぼりと引返す。翌日あくるひ行くとまた居やがる。行っちゃ帰り、行っちゃ帰り、ちょうど二十日はつかの間、三七二十一日目の朝、おもいが届いてお宮の鰐口わにぐちすがりさえすれば、命の綱はつなげるんだけれども、婆に邪魔をされてこの坂が登れないでは、所詮こりゃたすからない、ええ悔しいな、たとえ中途で取殺されるまでも、おまいりをせずにくものかと、切歯はがみをして、下じめをしっかりとしめ直し、雪駄せったを脱いですたすたと登り掛けた。

 遮っていた婆は、今娘の登って来るのを、可恐おそろしい顔でにらめ附けたが、ひょろひょろとつかまって、冷い手でのどをしめた、あれと、言ったけれども、もう手足は利かず、講談でもよく言うがね、既にあやうきそこへ。」


       十三


かみの鳥居の際へ一人出て来たのが、これを見るとつかつかと下りた、黒縮緬三ツ紋の羽織、仙台平せんだいひらはかま、黒羽二重はぶたえの紋附を着て宗十郎頭巾ずきんかぶり、金銀をちりばめた大小、雪駄穿ばき、白足袋で、色の白いい男の、年若な武士で、大小などはにきらきらして、その立派さといったらなかったそうだよ。石段の上の方から、ずって寄って、

(推参な、婆あ見苦しい。)と言いさま、お前、疫病神の襟首を取って、坂の下へずでんどうと逆様に投げ飛ばした、可い心持じゃないか。お小姓の難有ありがたさ、神とも仏ともただもう手を合せて、その武士を伏拝んだと思うと、我に返ったという。

 それから熱がめて、あの濡紙をぐように、全快をしたんだがね、病気の品に依っては随分そういう事が有勝ありがちのもの。

 お前の女に責められるのも、今の話と同じそれは神経というものなんだから、しっかりして気をたしかに持って御覧、大丈夫だ、きっとそんなものが連れ出しに来るなんて事はありゃしない。何も私が学者ぶって、お前さんがそれまでに判然した事を言うんだもの、嘘だの、馬鹿々々しいなどとは決して思うんじゃないよ。可いかい、姐さん、どうだ、解ったかね。」

 と小宮山は且つ慰め、且つ諭したのでありまする、そう致しますと、その物語の調子も良く、取ったたとえに落ちましたものと、見えて、

「さようでございますかね。」

 と申した事はわずかながら、よく心も鎮って、体も落着いたようでありまする。

「そうとも、全くだ。大丈夫だよ、なあにそんなに気に懸ける事はない、ほんのちょいと気を取直すばかりで、そんな可怪あやしいものは西の海へさらりださ。」

「はい、難有ありがとう存じます、あのう、お蔭様で安心を致しましたせいか、少々眠くなって参ったようでざいますわ。」

 と言いにくそうに申しました。

「さあさあ、るが可い、寐るが可い。何でも気を休めるが一番だよ、今夜は附いているから安心をおし。」

「はい。」

 と言ってお雪は深くうなずきましたが、しずかに枕をむこうへ返して、しばらくはものも言わないでおりましたが、またそっと小宮山の方へ向き直り、

「あのう、壁の方を向いておりますと、やはりあすこから抜け出して来ますようで、怖くってなりませんから、どうぞお顔の方に向かしておいて下さいましな。」

「うむ、可いとも。」

「でございますけれども……。」

「どうした。」

「あのう、きまりが悪うございますよ。」

 とほんのりまぶたを染めながら、目をふさいでしかも頼母たのもしそう、力としまするよう、小宮山の胸で顔を隠すように横顔を見せ、床を隔てながら櫛巻のつむりを下げ、口の上あたりまでふすまの襟を引寄せましたが、やがてすやすやと寐入ったのでありまする。

 その時の様子は、どんなにか嬉しそうであった──と、今でも小宮山が申しまする。さて小宮山は、勿論寐られる訳ではありませぬから、しばらくお雪の様子を見ていたのでありまする。やや初夜すぎとなりました。

 山中の湯泉宿ゆやどは、寂然しんとしてしずまり返り、遠くの方でざらりざらりと、湯女ゆなが湯殿を洗いながら、歌を唄うのが聞えまする。

 この界隈かいわい近国の芸妓げいしゃなどに、ただこの湯女歌ばかりで呼びものになっているのがありますくらい。怠けたような、淋しいような、そうかというと冴えた調子で、あいを長く引張ひっぱって唄いまするが、これを聞くと何となく睡眠剤をまされるような心持で、

桂清水かつらしみず手拭てぬぐい拾た、   これも小川の温泉の流れ。

 などという、いわんやいわに滴るのか、湯槽ゆぶねへ落つるのか、湯気の凝ったのか、湯女歌の相間あいま々々に、ぱちゃんぱちゃんと響きまするにおいてをや。


       十四


 これへ何と、前触まえぶれのあった百万遍を持込みましたろうではありませんか、座中の紳士貴婦人方、都育ちのお方にはお覚えはないのでありまするが、三太やあい、まいの迷イ児の三太やあいと、かねを叩いて山の裾を廻る声だの、百万遍の念仏などは余り結構なものではありませんな。南無阿弥陀仏なむあみだぶつ……南無阿弥陀……南無阿弥陀。

 亭主はさぞ勝手で天窓あたまから夜具をすっぽりであろうと、心に可笑おかしく思いまする、小宮山は山気はだに染み渡り、小用こようしたくなりました。

 折角可い心地でているものを起しては気の毒だ。勇士はくつわの音に目を覚ますとか、美人がふすまの音に起きませぬよう、そッと抜出して用達しをしてまいり、往復ゆきかえり何事もなかったのでありまするが、廊下の一方、今小宮山が行った反対の隅の方で、柱が三つばかり見えて、それに一つ一つ掛けてあります薄暗い洋燈ランプの間を縫って、ひらひらと目に遮った、不思議な影がありました。それが天井の一尺ばかり下を見え隠れに飛びますから、小宮山は驚いて、り掛けた座敷の障子を開けもやらず、はてな、人魂ひとだまにしては色が黒いと、思いまする間も置かせず、飛ぶものは風をあおって、小宮山が座敷の障子へ、ばたりととまった。これは、これは、全くおいでなすったか知らんと、きっと見まする、黒い人魂に羽が生えて、耳が出来た、あきらかに認めましたのは、ちょいととびくらいはあろうという、大きな蝙蝠こうもりであります。

 そいつが羽撃はばたきをして、ぐるりぐるりと障子に打附ぶッつかってい廻る様子、その動くに従うて、部屋の中の燈火ともしびが、あかるくなり暗くなるのも、思いなし心持のせいでありましょうか。

 さては随筆に飛騨ひだ、信州などの山近な片田舎に、宿を借る旅人が、病もなく一晩の内に息の根がとまる事がしばしば有る、それは方言飛縁魔ひのえんまとなえ、蝙蝠に似たくちばしとんがった異形なものが、長襦袢を着て扱帯しごきまとい、旅人の目には妖艶あでやかな女と見えて、寝ているものの懐へり、嘴を開けると、上下うえしたで、口、鼻をおおい、寐息を吸って吸殺すがためだとございまする。あらぬか、それか、何にしても妙ではない、かようなものを間の内へ入れてはならずと、小宮山は思案をしながら、片隅を五寸か一尺、開けるが早いか飛込んで、くるりと廻って、ぴしゃりと閉め、合せ目を押え附けて、どっこいと踏張ふんばったのでありまする。しばらく、しっかりと押え附けて、様子をうかがっておりましたが、それきり物音もしませぬので、まずかったと息をき、これからしずかしとねの方を向きますると、あにはからんやその蝙蝠は座敷の中をふわりふわり。

 南無三宝なむさんぽう呆気あっけに取られて、目をみはった鼻っ先を、くだんの蝙蝠は横撫よこなでに一つ、ばさりと当ててむこうへ飛んだ。

 何様猫が冷たい処をこすられた時は、小宮山がその時の心持でありましょう。

 くしゃみもならず、苦り切って衝立つッたっておりますると、蝙蝠は翼を返して、ななめに低う夜着の綴糸とじいとも震うばかり、何も知らないですやすやと寐ている、お雪の寝姿の周囲ぐるりをば、ぐるり、ぐるり、ぐるりと三度。縫って廻られるたびに、ううむ、ううむ、うむとかすかうめいたと、見るが否や、しおれ伏したる女郎花おみなえしが、無慙むざんや風に吹き乱されて、お雪はむッくと起上りましたのでありまする。小宮山は論が無い、我を忘れてしりえどうと坐りました。

 蝙蝠はひるがえって、向側の障子の隙間から、ひらひらと出たと思うと、お雪が後にいてずっと。

 蚊帳をでてまだ障子あり夏の月、雨戸を開けるでもなく、ただ風の入るばかりの隙間から、体がすっと細くなり、水につる柳の蔭の隠れたように、ふと外へ出て見えなくなりましたと申しますな。勿論、蝙蝠に引出されたんで。


       十五


 小宮山は切歯はがみをなして、我赤樫あかがしを割って八角に削りなし、鉄の輪十六をめたる棒を携え、彦四郎定宗ひこしろうさだむねの刀を帯びず、三池の伝太光世みつよ差添さしぞえ前半まえはん手挟たばさまずといえども、男子だ、しかも江戸ッ児だ、一旦請合った女をむざむざ魔に取られてなるものかと、追駈おっかけざまに足踏をしたのでありまする。あいにく神通がないので、これは当然あたりまえに障子を開け、また雨戸を開けて、縁側から庭へ寝衣ねまき姿、跣足はだしのままで飛下りる。

 戸外おもては真昼のような良い月夜、虫の飛び交うさえ見えるくらい、生茂おいしげった草が一筋になびいて、白玉の露の散る中を、一文字に駈けて行くお雪の姿、早や小さくなって見えまする。

 小宮山は蝙蝠のごとく手を拡げて、遠くから組んでも留めんずいきおい

「おうい、おうい、お雪さん、お雪さん、お雪さん。」

 と声を限り、これや串戯じょうだんをしてはけないぜと、思わず独言ひとりごとを言いながら、露草をふみしだき、すすき掻分かきわけ、刈萱かるかやを押遣って、章駄天いだてんのように追駈けまする、姿は草の中に見え隠れて、あたかもこれ月夜に兎の踊るよう。

「お雪さん、おうい、お雪さん。」

 あわいもやや近くなり、声も届きましたか、お雪はふとあゆみとどめて、後を振返ると両の手を合せました。助けてくれと云うのであろう、哀れさも、不便ふびんさもかばかりなるは、と駈け着けるうちあやつりの糸に掛けられたよう、お雪は、左へ右へ蹌踉よろよろして、しなやかな姿をみ、しばらく争っているようでありました。けれども、また、さっと駈け出して、あわやといううちに影も形も見失ったのでありまする。

 処へ、かの魚津の沖の名物としてありまする、蜃気楼しんきろうの中の小屋のようなのが一軒、月夜にともしも見えず、前途に朦朧もうろうとしてあらわれました。

 小宮山は三蔵法師をさらわれた悟空という格で、きょろきょろと四辺あたりみまわしておりましたが、頂は遠く、四辺あたり曠野こうや、たとえ蝙蝠の翼に乗っても、虚空へ飛び上る法ではあるまい、またたき一つしきらぬうち、お雪の姿を隠したは、この家の内に相違ないぞ、這奴こやつ 小川山しょうせんざんの妖怪ござんなれと、右から左へ、左から右へ取って返して、小宮山はこの家の周囲まわりをぐるぐると廻ってうかがいましたが、あえて要害を見るには当らぬ。何の蝸牛ででむしみたような住居すまいだ、この中に踏み込んで、まかり違えば、殻を背負しょっても逃げられると、高をくくって度胸が坐ったのでありますから、威勢よく突立つッたって凜々りんりんとした大音声。

「お頼み申す、お頼み申す! お頼み申す

 と続けざまに声を懸けたが、内はしんとしてこたえがない、耳を澄ますと物音もしないで、かえって遠くの方で、化けたかわずが固まって鳴くように、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。と百万遍。眉をひそめた小宮山は、しゃくに障るから苛立いらだってわめいたり。

「お頼み申す。」

 すると、どうでございましょう、鼻ッ先の板戸が音もしないで、すらりと開く。

「騒々しいじゃないかね。」

 顔を出したのが、鼻のとがった、目の鋭い、可恐おそろしくの高い、蒼い色の衣服きものを着た。すご年増としま。一目見ても見紛う処はない、お雪が話したそれなんで。

 小宮山は思わず退すさった、女はその我にもあらぬ小宮山の天窓あたまから足の爪先つまさきまで、じろりと見て、片頬笑かたほわらいをしたから可恐おそろしいや。

「おや、おいでなさい、柏屋のお客だね。」

 言語道断、せんを越されて小宮山はとぼんと致し、

「へい。」と言って、目をぱちくりするばかりでありまする。

「まあ、御苦労様だったね。さっきから来るだろうと思って、どんなに待っていたか知れないよ。さあまあこっちへお上りなさい、少し用があるから。」

 と言った、文句が気に入らないね、用があるなんざ容易でなさそう。


       十六


 相手は女だ、城は蝸牛ででむし、何程の事やある、どうとも勝手にしやがれと、小宮山は唐突だしぬかれて、度胆どぎもつかまれたのでありますから、少々捨鉢の気味これあり、おくせず後に続くと、割合に広々とした一間へ通す。燈火ともしびはありませんが暗いような明るいような、畳の数もよく見える、一体そのあかりがというと、女が身にまとっている、その真蒼まっさおな色の着物からはだえを通して、四辺あたり射拡さしひろがるように思われるのでありまする。

「ちょいとことづける事があるのだから、折角見えたものをすげなく追帰すのも、お気の毒だと思って、通して上げましたがね、じっとして待っていなさい。私の方に支度があるのだから、お前さんまた大きな声を出したり、威張ったり、お騒ぎだとためになりませんよ。」

 と頭から呑んでかかって、そのままどこかへ、ずい。

 呑まれた小宮山は、怪しい女の胃袋の中で消化こなれたように、つくばってそれへ。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、風が引いたり寄せたりして聞えまする、百万遍。

 忌々いまいましいなあ、道中じゃ弥次郎兵衛やじろべえもこれに弱ったっけ、たまったものではないと、そっ四辺あたりみまわしますると、ちり一ッも目を遮らぬこの間の内に床が一つ、草をくわえた神農様の像が一軸かかっておりまするので、小宮山は訳が解らず、何でもこれは気を落着けるにしく事なしだと、下ッ腹へ力を入れて控えておりまする。またしても百万遍。小宮山はそれを聞くと悪寒がするくらい、聞くまい、聞くまいとする耳へ、ひいひい女の泣声が入りました。きっとなって、さあ始めやがった、あン畜生、またあばらの骨で遣ってるな、このままじゃ居られないと、突立つッたちました小宮山は、早く既にお雪が話の内の一員に、化しおおしたのでありまする。

 その場へ踏み込みたすけてくりょうと、いきなりへだてふすまを開けて、次の間へ飛込むと、広さも、様子も同じような部屋、また同じような襖がある。引開けると何もなく、やっぱり六畳ばかりの、広さも、様子も、また襖がある。がたりと開ける、何もなくて少しも違わない部屋でありまする。

 阿房宮より可恐おそろしく広いやと小宮山は顛倒てんとうして、手当り次第に開けた開けた。幾度遣ってもたかんなの皮をくに異ならずでありまするから、呆れ果ててどうと尻餅、茫然ぼんやり四辺あたりみまわしますると、神農様の画像を掛けた、さっき女が通したのと同じ部屋へ、おやおやおや。また南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と耳に入ると、今度は小宮山も釣込まれて、思わず南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

 その時すらりと襖を開け、

誰方どなただい、今お騒ぎなすったのは。」

「へい。」といった、後はもうお念仏になりそうな、小宮山は恐る恐る、女の微笑ほほえんでおります顔を見て、どうかこうか、まあ殺されずに済みそうだと、思うばかりでございまする。

「一体物好ものずきでこんな所へ入って来たお前さんは、怖いものが見たいのだろう。少々ばかりね。」

「いえ、何。」と口の内。

「まあ、おいでなさい。」

 わらわいてこっちへと、宣示のりしめすがごとく大様に申して、粛然と立って導きますから、詮方せんかたなしにいて行く。土間が冷くくびすに障ったと申しますると、早や小宮山の顔色蒼然そうぜん

 話に聴いた、青色のその燈火ともしび、その台、その荒筵あらむしろ、その四辺あたりの物の気勢けはい

 お雪は台のむこうへしどけなく、崩折くずおれてたおれていたのでありまする。女は台の一方へ、このかたなしの江戸ッ児を差置いて、一方へお雪を仆した真中まんなかへぬッくと立ち、袖短そでみじかな着物の真白まっしろな腕を、筵の上へ長く差しのばして、ざくりと釘を一トつかみ

「どうだね、お客様。」

「どう致しまして。」

 小宮山は慇懃いんぎんに辞退をいたしまする。


       十七


「これを知っていなさるかえ。」

 と二の腕を曲げて、くだんの釘を乳の辺へもたらして、てのひらを拡げて据えた。

「どう致しまして。」

「知らない?」

「いえ、何、存じております。」

「それじゃこれは。」

「へい。」

「女の脱髪ぬけがみ。」

 小宮山はあわただしく、

「どう致しまして。」

「それじゃ御覧。」

 とつまんで宙で下げたから、そそげた黒髪がさらさらと動きました。

「いえ、何、存じております。」

「これは。」

「存じております。」

「それから。」

「存じております。」

「それでは、何の用に立つんだか、使い方を知っているのかえ。」

 迂濶うっかり知らないなぞと言おうものなら、使い方を見せようと、この可恐おそろしい魔法の道具を振廻されては大変と、小宮山は逸早すばやく、

「ええ、もう存じておりますとも。」

 と一際念入りに答えたのでありまする。言葉尻も終らぬうち、縄も釘もはらはらと振りかかった、小宮山はあッとばかり。

 ちょいと皆様に申上げまするが、ここでどうぞ貴方がたがあッと仰有おっしゃった時の、手附、顔色かおつきに体の工合ぐあいをお考えなすって下さいまし。小宮山は結局つまり、あッと言った手、足、顔、そのままで、指のさきも動かなくなったのでありまする。

「よく御存じでございましたね。」

 と嘲弄ちょうろうするごとく、わざと丁寧に申しながら、尻目に懸けてにたりとして、むこうへ廻り、お雪の肩へその白い手を掛けました。

 畜生! 飛附いてたすけようと思ったが、動けるどころの沙汰ではないので、人はかような苦しい場合にも自ら馬鹿々々しい滑稽の趣味を解するのでありまする、小宮山はあまりの事に噴出ふきだして、我と我身を打笑い、

「小宮山何というざまだ、まるでこりゃ木戸銭は見てのお戻りという風だ、東西、」

 とはらの内。

 女はお雪の肩を揺動ゆりうごかしましたが、何とも不思議なすごい声で、

「雪や、苦しいか。」

 お雪はいとど俯向うつむいていた顔を、がっくりと俯向けました。

「うむ、もう可い、今夜はひどい目に逢わしやしないから、心配をする事はないんだよ。これまで手を変え、品を変え、色々にしてみたが、どうしてもお前は思い切らない、何思い切れないのだな、それならそれで可いようにして上げようから。」

 と言聞かしながら、小宮山の方を振向いたのでありまする。

「お客様、お前は性悪しょうわるだよ、この子がそれがためにこの通りの苦労をしている、篠田と云う人と懇意なのじゃないか、それだのにさ、道中荷が重くなると思って、ことづけも聞こうとはせず、知らん顔をして聞いていたろう。」

 と鋭い目でじっと見られた時は、天窓あたまから、悚然ぞっとして、安本亀八かめはち作、小宮山良助あッと云うていにござりまする活人形いきにんぎょうへ、氷をあびせたようになりました。

「そのかわり少しばかり、重い荷を背負しょわして上げるから、大事にして東京まで持って行きなさい。ことづけというのはそれなんだがね、お雪はとてもたすからないのだから、私も今まで乗懸のりかかった舟で、この娘の魂をお前さんにおんぶをさして上げるからね、そっと篠田の処まで持って行くのだよ。さぞまあお邪魔でございましょうねえ。」


       十八


 小宮山がその形で突立つッたったまま、口も利けないのに、女はすきな事をほざいたのでありまする。

 それから女は身にまとった、その一重ひとえきものを脱ぎ捨てまして、一糸も掛けざる裸体になりました。小宮山は負惜まけおしみ此奴こいつ温泉場の化物だけに裸体だなと思っておりまする。女はまた一つの青い色のびんを取出しましたから、これから怨念があらわれるのだとおそれいだくと、かねて聞いたとは様子が違い、これはてのひら三滴みたらしばかり仙女香せんじょこうを使う塩梅あんばいに、両のてのひらでぴたぴたとんで、肩から腕へ塗り附け、胸から腹へ塗り下げ、襟耳の裏、やがては太股ふともも脹脛ふくらはぎ、足の爪先まで、くまなく塗り廻しますると、真直まっすぐに立上りましたのでありまする。

 小宮山ははらの内で、

「東西。」

 女はそう致して、的面まともに台に向いまして、ちちんぷいぷい、御代ごよ御宝おんたからと言ったのだか何だか解りませぬが、口に怪しい呪文を唱えて、ばさりばさりとふたつかいなを、左右へ真直まっすぐしたのを上下うえしたに動かしました。体がぶるぶるッとふるえたと見るが早いか、掻消かきけすごとく裸身はだかみの女は消えて、一羽の大蝙蝠となりましてございまする。

 例のごとくふわふわと両三度土間の隅々を縫いましたが、いきなりうつむけになっているお雪の顔へ、顔を押当て、翼でその細いうなじを抱いて、仰向あおむけにくちばしでお雪の口をおさえまして、すう、すうと息を吸うのでありまする。

 これを見せられた小宮山は、はッと思って息を引いたが、いかんともする事かなわず、依然としてそのあッと云うてい

 二度三度、五度六度、やや有って息を吸取ったと見えましたが、お雪の体は死んだもののようになってはたと横様にたおれてしまいました。

 喫驚びっくり仰天はこれのみならず、蝙蝠がすッと来て小宮山の懐へ、ふわりとりましたので、再びあッと云って飛び上ると同時に、心付きましたのは、もとの柏屋の座敷に寝ていたのでありまする。

 大息といきいて、蒲団の上へ起上った、小宮山は、自分の体か、人のものか、よくは解らず、何となくうしろ見らるるような気がするので、振返って見ますると、障子が一枚、その外に雨戸が一枚、明らさまにいて月がし、露なり、草なり、野も、山も、渺々びょうびょうとして、とり、犬の声も聞えませぬ。何よりもまず気遣わしい、お雪はと思うそばに、今息を吸取られてたおれたと同じ形になって、生死しょうじは知らず、姿ばかりはありました。

 小宮山は冷たい汗が流れるばかり、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、と隣で操り進む百万遍の声。

ねえさん、姐さん、」

 小声で呼んでみたが返事がないので、もしやともうたまらず、夜具の上から揺振ゆすぶりました。

「お雪さん。」

 三声ばかり呼ぶと、細く目を開いて小宮山の顔を見るが否や、さもさも物に恐れた様子で、飛着くように、小宮山の帯にすがり、身を引緊ひきしめるようにして、坐った膝に突伏つッぷしまする。おののく背中を小宮山はしっかといだいた、様子は見届けたのでありまするから、哀れさもまた百倍。

 怖さは小宮山も同じ事、お雪の背中へ額を着けて、夜の明くるのをただ、一刻千秋のおもいで待構えまする内に疲れたせいか、我にもあらずそろそろとまどろみましたと見えて、目が覚めると、月のは変り、山のに晴々しいあさひ、草木の露は金色こんじきちりばめておりました。

 そっと膝から下すと、お雪はやはりそのままに、すやすやと寐入ねいっている。

「お早うございます。」

 と声を懸けて、機嫌聞きに亭主が真先まっさき、百万遍さえみますれば、この親仁おやじ大元気で、やがてお鉄も参り、

「お客様お早うございます。」


       十九


 小宮山は早速うがい手水ちょうずを致して心持もさっぱりしましたが、右左から亭主、女共が問い懸けまする昨晩の様子は、いや、ただお雪がちょいとうなされたばかりだと言って、仔細しさいは明しませんでございました、これはのちの事をきづかって、皆が恐れげなくお雪の介抱をしてやる事が出来るようにと、気を着けたのでありまする。

 お雪の病気をなおすにも怪しいものを退治るにも、耆婆扁鵲きばへんじゃくに及ばず、宮本武蔵、岩見重太郎にも及ばず、ただ篠田の心一つであると悟りましたので、まだ、二日三日も居て介抱もしてやりたかったのではありますけれども、小宮山は自分の力では及ばない事を知り、何よりもまず篠田に逢ってと、こう存じましたので、急がぬ旅ながら早速出立を致しました。

 その柏屋を立ちまする時も、お雪はまだ昨夜ゆうべのまま寝ていたのでありまする。失礼な起しましょうと口々に騒ぐを制して、朝餉あさげも別間においてしたため、お前さん方が何もこわがる程の事はないのだから、大勢側に附いて看病をしておやんなさいと、暮々も申し残して後髪を引かれながら。

 その日、糸魚川から汽船に乗って、直江津に着きました晩、小宮山は夷屋えびすやと云う本町の旅籠屋に泊りました、宵の口は何事も無かったのでありまするが、真夜中にふと同じしとねにお雪の寝ているのを、歴々ありありと見ましたので、喫驚びっくりする途端に、寝姿がむこうむきになったその櫛巻がこぼれて、畳の上へざらりという音。

 枕に着かるるどころではありませぬ、ああ越中と越後と国は変っても、女のおもいは離れぬかとまさかに魂をことづかったとまでは、信じなかったのでありまするけれども、つくづく溜息をしたのであります。

 夜が明けると、一番の上り汽車、これが碓氷うすい隧道トンネルを越えます時、その幾つ目であったそうで。

 小宮山は何心なく顔を出して、真暗まっくらな道の様子をすかしていると、山清水の滴る隧道の腹へ、汽車の室内のともしびで、その顔が映ったのでありまする、と並んで女の顔が映りました。たしかにそれがお雪の面影。

 それぎり何事もなく、汽車は川中島を越え、浅間の煙を望み、次第に武蔵むさしの平原に近づきまする。

 上野に着いたのは午後の九時半、都に秋風の立つはじめ、熊谷くまがい土手から降りましたのがその時はしのを乱すような大雨でございまして、くるま便たよりも得られぬ処から、小宮山は旅馴れてはいる事なり、蝙蝠傘を差したままで、湯島新花町の下宿へ帰ろうというので、あの切通きりどおしかかりました時分には、ぴったり人通りがございません。うしろから、

「姐さん、参りましょうか、姐さん。」

 と声を懸けたものがある。

 振返って見ると誰も居ませんで、ただざあざッという雨に紛れて、わだちの音は聞えませぬが、一名の車夫がいて来たのでありました。

 小宮山は慄然ぎょっとして、雨の中にそのまま立停たちどまって、待てよ、あるいはこりゃことづかって来たのかも知れぬと、悚然ぞっとしましたが、何しろ、自宅へ背負しょい込んでは妙ならずと、直ぐにあゆみを転じて、本郷元町へ参りました。

 ここは篠田が下宿している処でありまする、行馴れている門口かどぐち猶予ためらわず立向うと、まだ早いのに、この雨のせいか、もう閉っておりましたが、小宮山は馴れている、この門と並んで、看護婦会がありまする、雨滴あまだれを払いながらその間の路地を入ると、突当つきあたりの二階が篠田の座敷、灯もいて、寝ない様子。するとまだ声を懸けない先に、二階ではその灯を持って、どこへか出たと見えて、障子が暗くなりました。しばらく待っていても帰りませぬ。

 下へ下りたのであろうも知れぬ、それならばかえって門口で呼ぶ方が早手廻しだと、小宮山はまた引返して参りますと、つい今錠の下りていた下宿屋の戸が、手を掛けると訳もなくきましたと申します。

 何事も思わず開けて入り、上框あがりがまちに立ちましたが、帳場に寝込んでおりますから、むざとは入らないで、

「篠田、篠田。」

 と高らかによばわりますると、三声とは懸けさせず、篠田は早速に下りて来て、

「ああ、今帰ったのかえ、さあさあまあ上りたまえ。」

 と急遽いそいそ先に立ちます。小宮山は後にいて二階に上り、座敷に通ると、篠田が洋燈ランプを持ったまま、入口に立停たちどまって、内をすかし、

「おや、」と言って、きょろきょろ四辺あたりみまわしておりまするが、何か気抜のしたらしい。小宮山はずっと寄って、そのせなを叩かぬばかり、

「どうした。」

「もう何もも御存じの事だから、ちっとも隠す事はない、ただ感謝するんだがね、君が連れて来て一足先へ入ったお雪が、今までここに居たのに、どこへ行ったろう。」

 と真顔になって申しまする。

 小宮山はまた悚然ぞっとした。

「ええ、お雪さんが、どんな様子で。」

「実は今夜本を見て起きていると、たった今だ、しきりにお頼み申しますと言う女の声、誰に用があって来たのか知らぬが、この雨の中をさぞ困るだろうと、僕が下りて行って開けてやったが、見るとお雪じゃないか。小宮山さんと一所だと言う、体は雨に濡れてびっしょり絞るよう、話は後からと早速ここへ連れて来たが、あの姿で坐っていた、畳もまだ湿っているだろうよ。」

 と篠田はうろうろしてばたばた畳の上を撫でてみまする。この様子に小宮山は、しばらく腕組をして、黙って考えていましたが、開き直ったという形で、

「篠田、色々話はあるが、何も彼も明日あした出直して来よう、それまでまあ君心を鎮めて待ってくれ。それじゃことづかり物を渡したぜ。」

「ええ。」

「いえ、あずかり物は渡したんだぜ。」

「託り物って何だ。」

「今受取ったそれさ。」

「何を、」と篠田は目もすわらないで慌てております。

「まあ、受取ったと言ってくれ。ともかくも言ってくれ、後で解る事だから頼む、後生だから。」

 魂の請状うけじょうを取ろうとするのでありますから、その掛引は難かしい、無暗むやみと強いられて篠田は夢うつつともわきまえず、それじゃそうよ、請取ったと、挨拶があるや否や、小宮山は篠田のもとを辞して、一生懸命に駈出した、さあ荷物は渡した、東京へ着いたわ、雨も小止こやみかこいつは妙と、急いで我家へ。

 翌日とりも置かず篠田を尋ねて、一部始終くわしい話を致しますると、省みて居所も知らさないでいた篠田は、蒼くなってふるえ上ったと申しますよ。

 これから二人連名で、小川の温泉へ手紙を出した。一週間ばかりって、小宮山が見覚みおぼえのあるかの肌に着けた浴衣と、その時着ておりました、白粉垢おしろいあかの着いたあわせとを、小包で送って来て、あわれお雪はなくなりましたという添状。篠田は今でも独身ひとりりまする。二人ともその命日は長く忘れませんと申すのでありまする。

 飛んだ長くなりまして、御退屈様、済みませんでございました、失礼。

明治三十三(一九〇〇)年五月

底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房

   1996(平成8)年424日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第五卷」岩波書店

   1940(昭和15)年330日発行

入力:門田裕志

校正:土屋隆

2007年218日作成

青空文庫作成ファイル:

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