湯女の魂
泉鏡花
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一
誠に差出がましく恐入りますが、しばらく御清聴を煩わしまする。
八宗の中にも真言宗には、秘密の法だの、九字を切るだのと申しまして、不思議なことをするのでありますが、もっともこの宗門の出家方は、始めから寒垢離、断食など種々な方法で法を修するのでございまして、向うに目指す品物を置いて、これに向って呪文を唱え、印を結んで、錬磨の功を積むのだそうでありまする。
修錬の極致に至りますると、隠身避水火遁の術などはいうまでもございませぬ、如意自在な法を施すことが出来るのだと申すことで。
ある真言寺の小僧が、夜分墓原を通りますと、樹と樹との間に白いものがかかって、ふらふらと動いていた。暗さは暗し、場所柄は場所柄なり、可恐さの余り歯の根も合わず顫え顫え呪文を唱えながら遁げ帰りましたそうでありますが、翌日見まするとそこに乾かしてございました浴衣が、ずたずたに裂けていたと申しますよ、修行もその位になりましたこの小僧さんなぞのは、向って九字を切ります目当に立てておく、竹切、棒などが折れるといいます。
しかし可加減な話だ、今時そんなことがある訳のものではないと、ある人が一人の坊さんに申しますと、その坊さんは黙って微笑みながら、拇指を出して見せました、ちと落語家の申します蒟蒻問答のようでありますけれども、その拇指を見せたのであります。
そして坊さんが言うのに、まず見た処この拇指に、どの位な働きがあると思わっしゃる、たとえば店頭で小僧どもが、がやがや騒いでいる処へ、来たよといって拇指を出して御覧なさい、ぴったりと静りましょう、また若い人にちょっと小指を見せたらどうであろう、銀座の通で手を挙げれば、鉄道馬車が停るではなかろうか、も一つその上に笛を添えて、片手をあげて吹鳴らす事になりますと、停車場を汽車が出ますよ、使い処、用い処に因っては、これが人命にも関われば、喜怒哀楽の情も動かします。これをでかばちに申したら、国家の安危に係わるような、機会がないとも限らぬ、その拇指、その小指、その片手の働きで。
しかるをいわんや臨兵闘者皆陣列在前といい、令百由旬内無諸哀艱と唱えて、四縦五行の九字を切るにおいては、いかばかり不思議の働をするかも計られまい、と申したということを聞いたのであります。
いや、余事を申上げまして恐入りますが、唯今私が不束に演じまするお話の中頃に、山中孤家の怪しい婦人が、ちちんぷいぷい御代の御宝と唱えて蝙蝠の印を結ぶ処がありますから、ちょっと申上げておくのであります。
さてこれは小宮山良介という学生が、一夏北陸道を漫遊しました時、越中の国の小川という温泉から湯女の魂を託って、遥々東京まで持って参ったというお話。
越中に泊と云って、家数千軒ばかり、ちょっと繁昌な町があります。伏木から汽船に乗りますと、富山の岩瀬、四日市、魚津、泊となって、それから糸魚川、関、親不知、五智を通って、直江津へ出るのであります。
小宮山はその日、富山を朝立、この泊の町に着いたのは、午後三時半頃。繁昌な処と申しながら、街道が一条海に添っておりますばかり、裏町、横町などと、謂ってもないのであります、その町の半頃のと有る茶店へ、草臥れた足を休めました。
二
渋茶を喫しながら、四辺を見る。街道の景色、また格別でございまして、今は駅路の鈴の音こそ聞えませぬが、馬、車、処の人々、本願寺詣の行者の類、これに豆腐屋、魚屋、郵便配達などが交って往来引きも切らず、「早稲の香や別け入る右は有磯海」という芭蕉の句も、この辺という名代の荒海、ここを三十噸、乃至五十噸の越後丸、観音丸などと云うのが、入れ違いまする煙の色も荒海を乗越すためか一際濃く、且つ勇ましい。
茶店の裏手は遠近の山また山の山続きで、その日の静かなる海面よりも、一層かえって高波を蜿らしているようでありました。
小宮山は、快く草臥を休めましたが、何か思う処あるらしく、この茶屋の亭主を呼んで、
「御亭主、少し聞きたい事があるんだが。」
「へい、お客様、何でござりますな。
氷見鯖の塩味、放生津鱈の善悪、糸魚川の流れ塩梅、五智の如来へ海豚が参詣を致しまする様子、その鳴声、もそっと遠くは、越後の八百八後家の因縁でも、信濃川の橋の間数でも、何でも存じておりますから、はははは。」
と片肌脱、身も軽いが、口も軽い。小宮山も莞爾して、
「折角だがね、まずそれを聞くのじゃなかったよ。」
「それはお生憎様でござりまするな。」
何が生憎。
「私の聞きたいのは、ここに小川の温泉と云うのがあるッて、その事なんだがどうだね。」
「ええ、ござりますとも、人足も通いませぬ山の中で、雪の降る時白鷺が一羽、疵所を浸しておりましたのを、狩人の見附けましたのが始りで、ついこの八九年前から開けました。一体、この泊のある財産家の持地でござりますので、仮の小屋掛で近在の者へ施し半分に遣っておりました処、さあ、盲目が開く、躄が立つ、子供が産れる、乳が出る、大した効能。いやもう、神のごとしとござりまして、所々方々から、彼岸詣のように、ぞろぞろと入湯に参りまする。
ところで、二階家を四五軒建てましたのを今では譲受けた者がござりまして、座敷も綺麗、お肴も新らしい、立派な本場の温泉となりまして、私はかような田舎者で存じませぬが、何しろ江戸の日本橋ではお医者様でも有馬の湯でもと云うた処を、芸者が、小川の湯でもと唄うそうでござりますが、その辺は旦那御存じでござりましょうな。いかが様で。」
反対に鉄砲を向けられて、小宮山は開いた口が塞がらず。
「土地繁昌の基で、それはお目出度い。時に、その小川の温泉までは、どのくらいの道だろう。」
「ははあ、これからいらっしゃるのでござりますか。それならば、山道三里半、車夫などにお尋ねになりますれば、五里半、六里などと申しますが、それは丁場の代価で、本当に訳はないのでござりまする。」
「ふむ、三里半だな可し。そして何かい柏屋と云う温泉宿は在るかね。」
「柏屋! ええもう小川で一等の旅籠屋、畳もこのごろ入換えて、障子もこのごろ張換えて、お湯もどんどん沸いております。」
と年甲斐もない事を言いながら、亭主は小宮山の顔を見て、いやに声を密めたのでありますな、怪からん。
「へへへ、好い婦人が居りますぜ。」
「何を言っているんだ。」
「へへへ、お湯をさして参りましょうか。」
「お茶もたんと頂いたよ。」
と小宮山は傍を向いて、飲さしの茶を床几の外へざぶり明けて身支度に及びまする。
三
小宮山は亭主の前で、女の話を冷然として刎ね附けましたが、密に思う処がないのではありませぬ。一体この男には、篠田と云う同窓の友がありまして、いつでもその口から、足下もし折があって北陸道を漫遊したら、泊から訳はない、小川の温泉へ行って、柏屋と云うのに泊ってみろ、於雪と云って、根津や、鶯谷では見られない、田舎には珍らしい、佳い女が居るからと、度々聞かされたのでありますが、ただ、佳い女が居るとばかりではない、それが篠田とは浅からぬ関係があるように思われまする、小宮山はどの道一泊するものを、乾燥無味な旅籠屋に寝るよりは、多少色艶っぽいその柏屋へと極めたので。
さて、亭主の口と盆の上へ、若干かお鳥目をはずんで、小宮山は紺飛白の単衣、白縮緬の兵児帯、麦藁帽子、脚絆、草鞋という扮装、荷物を振分にして肩に掛け、既に片影が出来ておりますから、蝙蝠傘は畳んで提げながら、茶店を発つて、従是小川温泉道と書いた、傍示杭に沿いて参りまする。
行くことおよそ二里ばかり、それから爪先上りのだらだら坂になった、それを一里半、泊を急ぐ旅人の心には、かれこれ三里余も来たらうと思うと、ようやく小川の温泉に着きましてございまする。
志す旅籠屋は、尋ねると直ぐに知れた、有名なもので、柏屋金蔵。
そのまま、ずっと小宮山は門口に懸りまする。
「いらっしゃいまし。」
「お早いお着。」
「お疲れ様で。」
と下女共が口々に出迎えまする。
帳場に居た亭主が、算盤を押遣って
「これ、お洗足を。それ御案内を。」
とちやほや、貴公子に対する待遇。服装もお聞きの通り、それさえ、汗に染み、埃に塗れた、草鞋穿の旅人には、過ぎた扱いをいたしまする。この温泉場は、泊からわずか四五里の違いで、雪が二三尺も深いのでありまして、冬向は一切浴客はありませんで、野猪、狼、猿の類、鷺の進、雁九郎などと云う珍客に明け渡して、旅籠屋は泊の町へ引上げるくらい。賑いますのは花の時分、盛夏三伏の頃、唯今はもう九月中旬、秋の初で、北国は早く涼風が立ますから、これが逗留の客と云う程の者もなく、二階も下も伽藍堂、たまたまのお客は、難船が山の陰を見附けた心持でありますから。
「こっちへ。」と婢女が、先に立って導きました。奥座敷上段の広間、京間の十畳で、本床附、畳は滑るほど新らしく、襖天井は輝くばかり、誰の筆とも知らず、薬草を銜えた神農様の画像の一軸、これを床の間の正面に掛けて、花は磯馴、あすこいらは遠州が流行りまする処で、亭主の好きな赤烏帽子、行儀を崩さず生かっている。
小宮山はその前に、悠然と控えました。
さて、お茶、煙草盆、御挨拶は略しまして、やがて持って来た浴衣に着換えて、一風呂浴びて戻る。誠や温泉の美くしさ、肌、骨までも透通り、そよそよと風が身に染みる、小宮山は広袖を借りて手足を伸ばし、打縦いでお茶菓子の越の雪、否、広袖だの、秋風だの、越の雪だのと、お愛想までが薄ら寒い谷川の音ももの寂しい。
湯上りで、眠気は差したり、道中記を記けるも懶し、入る時帳場で声を懸けたのも、座敷へ案内をしたのも、浴衣を持って来たのも、お背中を流しましょうと言ったのも、皆手隙と見えて、一人々々入交ったが、根津、鶯谷はさて置いて柳原にもない顔だ、於雪と云うのはどうしたろう、おや女の名で、また寒くなった、これじゃ晩に熱燗で一杯遣らずばなるまい。
四
鮎の大きいのは越中の自慢でありますが、もはや落鮎になっておりますけれども、放生津の鱈や、氷見の鯖より優でありまするから、魚田に致させまして、吸物は湯山の初茸、後は玉子焼か何かで、一銚子つけさせまして、杯洗の水を切るのが最初。
「姉さん、お前に一つ。」
などと申しまする時分には、小宮山も微酔機嫌、向うについておりますのは、目指すお雪ではなくて、初霜とや謂わむ。薄く塗った感心に襟脚の太くない、二十歳ばかりの、愛嬌たっぷりの女で、二つ三つは行ける口、四方山の話も機む処から、小宮山も興に入り、思わず三四合を傾けまする。
後の花が遠州で、前の花が池の坊に座を構え、小宮山は古流という身で、くの字になり、ちょいと杯を差置きましたが、
「姉さん、新らしく尋ねるまでもないが、ここはたしか柏屋だね。」
「はい、さようでございますよ。」
「柏屋だとするとその何、姉さんが一人ある筈だね。」
「皆で四人。」
「四人? 成程四人かね。」
「お喜代さん、お美津さん、お雪さんに私でございます。」
「何、お雪さんと云うのが居る?」
と小宮山は、金の脈を掘当てましたな、かねての話が事実となったのでありますから、漫に勇んだので乗出しようが尋常事でありませんから、
「おや。」
小宮山はわざとらしく威儀を備え、
「そうだ、お前さんの名は何と云う。」
「そうだは御挨拶でございますこと、私は名も何もございませんよ。」
「いいえさ、何と云うのだ。」
「お雪さんにお聞きなさいまし、貴方は御存じでいらっしゃるんだよ、可憎しゅうございますねえ、でもあのお気の毒さまでございますこと、お雪さんは貴方、久しい間病気で臥っておりますが。」
「何、病気だい、」
「はあ、ぶらぶら病なんでございますが、このごろはまた気候が変りましたので、めっきりお弱んなすったようで、取乱しておりますけれど、貴方御用ならばちょいとお呼び申してみましょうか。」
「いえ、何、それにゃ及ばないよ。」
「あのう、きっと参りましょうよ、外ならぬ貴方様の事でございますもの。」
「どうでしょうか、此方様にも御存じはなしさ、ただ好い女だって途中で聞いて来たもんだから、どうぞ悪しからず。」
「どう致しまして、憚様。」
と言ったばかり、ちょいと言葉が途絶えましたから、小宮山は思い出したように、
「何と云うのだね、お前さんは。」
「手前は柏屋でございます。」
小宮山は苦笑を致しましたが、已む事を得ず、
「それじゃ柏屋の姉さん、一つ申上げることにしよう。」
「まあお酌を致しましょう。私だって可いじゃありませんか、あれさ。」
「いや全く。お雪さんでも、酒はもう可かんのだよ。」
「それじゃ御飯をおつけ申しましょう、ですがお給仕となるとなおの事、誰かにおさせなさりとうございましょうね。」
「何、それにゃ及ばんから、御贔屓分に盛を可く、ね。」
「いえ、道中筋で盛の可いのは、御家来衆に限りますとさ、殿様は軽くたんと換えて召食りまし。はい、御膳。」
「洒落かい、いよ柏屋の姉さん、本当に名を聞かせておくれよ。」
「手前は柏屋でございます。」
「お前の名を問うのだよ。」
「手前は柏屋でございます。」
と上手に御飯を装いながら、ぽたぽた愛嬌を溢しますよ。
五
御膳の時さえ、何かと文句があったほど、この分では寝る時は容易でなかろうと、小宮山は内々恐縮をしておりましたが、女は大人しく床を伸べてしまいました。夜具は申すまでもなく、絹布の上、枕頭の火桶へ湯沸を掛けて、茶盆をそれへ、煙草盆に火を生ける、手当が行届くのでありまする。
あまりの上首尾、小宮山は空可恐しく思っております。女は慇懃に手を突いて、
「それでは、お緩り御寝みなさいまし、まだお早うございますから、私共は皆起きております、御用がございましたら御遠慮なく手をお叩き遊ばして、それからあのお湯でございますが、一晩沸いておりますから、幾度でも御自由に御入り遊ばして、お草臥にも、お体にも大層利きますんでございますよ。」
と大人しやかに真面目な挨拶、殊勝な事と小宮山も更り、
「色々お世話だった。お蔭で心持好く手足を伸すよ、姐さんお前ももう休んでおくれ。」
「はい、難有うございます、それでは。」
と言って行こうとしましたが、ふと坐り直しましたから、小宮山は、はてな、柏屋の姐さん、ここらでその本名を名告るのかと可笑しくもございまする。
すると、女は後先を眗しましたが、じりじりと寄って参り、
「時につかぬ事をお伺い申しまして、恐れ入りますが、貴方は方々御旅行をなさいまして、可恐しい目にお逢い遊ばした事はございませんか。」
小宮山は、妙な事を聞くと思いましたが、早速、
「いや、幸い暴風雨にも逢わず、海上も無事で、汽車に間違もなかった。道中の胡麻の灰などは難有い御代の事、それでなくっても、見込まれるような金子も持たずさ、足も達者で一日に八里や十里の道は、団子を噛って野々宮高砂というのだから、ついぞまあこれが可恐しいという目に逢った事はないんだよ。」
「いえ、そんな事ではないのでございます。狸が化けたり、狐が化けたり、大入道が出ましたなんて、いうような、その事でございます。」
「馬鹿な事を言っちゃ可かん、子供が大人になったり、嫁が姑になったりするより外、今時化けるって奴があるものか。」
と一言の許に笑って退けたが、小宮山はこの女何を言うのかしらと、かえって眉毛に唾を附けたのでありまする、女は極く生真面目で、
「実はお客様、誠に申兼ねましたが、少々お願いがございますんですよ、外の事ではありませんが、さっき貴方のお口からも、ちょいとお話のございました、あのお雪さんの事でございますが、佳い女はなぜあんなに体が弱いのでございましょうねえ。平生からの処へ、今度煩い附きまして、もう二月三月、十日ばかり前から、また大変に悩みますので、医者と申しましても、三里も参らねばなりませぬ。薬も何も貴方何の病気だか、誰にも考えが附きませぬので、ただもう体の補いになりますようなものを食べさしておくばかりでございますが、このごろじゃ段々痩せ細って、お粥も薄いのでなければ戴かないようになりました。気心の好い平生大人しい人でありますから、私共始め御主人も、かれこれ気を揉んでおりますけれども、どこが痛むというではなし、苦しいというではなし、労りようがないのでございますよ。それでね、貴方、その病気と申しますのが、風邪を引いたの、お肚を痛めたのというのではない様子で、まあ、申せば、何か生霊が取着いたとか、狐が見込んだとかいうのでございましょう。何でも悩み方が変なのでございますよ。その証拠には毎晩同じ時刻に魘されましてね。」
小宮山も他人ごとのようには思いませぬ。
六
「その時はどんなに可恐しゅうございましょう、苦しいの、切ないの、一層殺して欲しいの、とお雪さんが呻きまして、ひいひい泣くんでございますもの、そしてね貴方、誰かを掴えて話でもするように、何だい誰だ、などと言うではございませんか、その時はもう内曲の者一同、傍へ参りますどころではございませんよ、何だって貴方、異類異形のものが、病人の寝間にむらむらしておりますようで、遠くにいて皆が耳を塞いで、突伏してしまいますわ。
それですから、その苦しみます時傍に附いていて、撫で擦りなどする事は誰も怪我にも出来ません。病人は薬より何より、ただ一晩おちおち心持好く寐て、どうせ助らないものを、せめてそれを思い出にして死にたいと。肩息で貴方ね、口癖のように申すんですよ、どうぞまあそれだけでも協えてやりたいと、皆が心配をしますんですが、加持祈祷と申しましても、どうして貴方ここいらは皆狸の法印、章魚の入道ばっかりで、当になるものはありゃしませぬ。
それに、本人を倚掛らせますのには、しっかりなすって、自分でお雪さんが頼母しがるような方でなくっちゃ可けますまい、それですのにちょいちょいお見えなさいまする、どのお客様も、お止し遊ばせば可いのに、お妖怪と云えば先方で怖がります、田舎の意気地無しばかり、俺は蟒蛇に呑まれて天窓が兀げたから湯治に来たの、狐に蚯蚓を食わされて、それがためお肚を痛めたの、天狗に腕を折られたの、私共が聞いてさえ、馬鹿々々しいような事を言って、それが真面目だろうじゃありませんか。
ですもの、どうして病人の力になんぞ、なってくれる事が出来ましょう。
こう申しちゃ押着けがましゅうございますが、貴方はお見受け申したばかりでも、そんな怪しげな事を爪先へもお取上げ遊ばすような御様子は無い、本当に頼母しくお見上げ申しますんで。
実は病人は貴方の御話を致しました処、そうでなくってさえ東京のお方と聞いて、病人は飛立つばかり、どうぞお慈悲にと申しますのは、私共からもお願い申して上げますのでございますが、誠に申しかねましたが、一晩お傍で寝かしくださいまして、そうして本人の願を協えさしてやって下さいまし、後生でございますから。
それに様子をお見届け下さいますれば、どんなにか難有うございましょう。」
としみじみ、早口の女の声も理に落ちまして、いわゆる誠はその色に顕れたのでありますから、唯今怪しい事などは、身の廻り百由旬の内へ寄せ附けないという、見立てに預りました小宮山も、これを信じない訳には行かなくなったのでありまする。
「そりゃ何しろとんだ事だ、私は武者修行じゃないのだから、妖怪を退治るという腕節はないかわりに、幸い臆病でないだけは、御用に立って、可いとも! 望みなら一晩看病をして上げよう。ともかくも今のその話を聞いても、その病人を傍へ寝かしても、どうか可恐しくないように思われるから。」
と小宮山は友人の情婦ではあり、煩っているのが可哀そうでもあり、殊には血気壮なものの好奇心も手伝って、異議なく承知を致しました。
「しかし姐さん、別々にするのだろうね。」
「何でございます。」
「何その、お床の儀だ。」
「おほほ、お雪さんにお聞きなさいまし。」
「可煩いな、まあ可いや。」
「さようならば、どうぞ。」
「可し可し。そのかわり姐さん、お前の名を言わないのじゃ……、」
「手前は柏屋でございます。」
と急いで出て行く。
これからお雪、良助、寝物語という、物凄い事に相成りまする。
七
「これは旦那様。」
入交って亭主柏屋金蔵、揉手をしながらさきに挨拶に来た時より、打解けまして馴々しく、
「どうも行届きませんで、御粗末様でございます。」
「いや色々、さあずッとこちらへ、何か女中が御病気だそうで、お前さんも、何かと御心配でありましょう。」
「へい、その事に就きまして、唯今はまた飛んだ手前勝手な御難題、早速御聞済下さいまして何とも相済みませぬ。実は私からお願い申しまする筈でござりましたが、かようなものでも、主人と思召し、成りませぬ処をたっても御承知下さいますようでは、恐れ入りまするから、御断の遊ばし可いよう、わざと女共から御話を致させましたのでござりまするが、かように御心安く御承諾下さいましては、かえって失礼になりましてござりまする。
早速当人にも相伝えまして、久しぶりで飛んだ喜ばせてやりました。全く御蔭様でござりまする。何が貴方、かねての心懸が宜しゅうござりますので、私共もはや、特別に目を懸けまして、他人のように思いませぬから、毎晩魘されまするのが、目も当てられませぬ、さればと申して、目を塞いで寝まする訳には参りませずな、いやもう。」
と言懸けて、頷く小宮山の顔を見て、てかてかとした天窓を掻き、
「かような頭を致しまして、あてこともない、化物沙汰を申上げまするばかりか、譫言の薬にもなりませんというは、誠に早やもっての外でござりますが、自慢にも何にもなりません、生得大の臆病で、引窓がぱたりといっても箒が仆れても怖な喫驚。
それに何と、いかに秋風が立って、温泉場が寂れたと申しましても、まあお聞き下さいまし。とんでもない奴等、若い者に爺婆交りで、泊の三衛門が百万遍を、どうでござりましょう、この湯治場へ持込みやがって、今に聞いていらっしゃい隣宿で始めますから、けたいが悪いじゃごわせんか、この節あ毎晩だ、五智で海豚が鳴いたって、あんな不景気な声は出しますまい。
憑物のある病人に百万遍の景物じゃ、いやもう泣きたくなりまする。はははは、泣くより笑とはこの事で、何に就けてもお客様に御迷惑な。」
「なあに、こっちの迷惑より、そういう御様子ではさぞ御当惑をなさるでありましょう、こう遣って、お世話になるのも何かの御縁でしょうから、皆さん遠慮しないが宜しい。」
と二人で差向で話をしておりまする内に、お喜代、お美津でありましょう、二人して夜具をいそいそと持運び、小宮山のと並べて、臥床を設けたのでありますが、客の前と気を着けましたか、使ってるものには立派過ぎた夜具、敷蒲団、畳んだまま裾へふっかりと一つ、それへ乗せました枕は、病人が始終黒髪を取乱しているのでありましょう、夜の具の清らかなるには似ず垢附きまして、思做しか、涙の跡も見えたのでありまする。
お美津、お喜代は、枕の両傍へちょいと屈んで、きゅうッきゅうッと真直に引直し、小宮山に挨拶をして、廊下の外へ。
ここへ例の女の肩に手弱やかな片手を掛け、悩ましい体を、少し倚懸り、下に浴衣、上へ繻子の襟の掛った、縞物の、白粉垢に冷たそうなのを襲ねて、寝衣のままの姿であります、幅狭の巻附帯、髪は櫛巻にしておりますが、さまで結ばれても見えませぬのは、客の前へ出るというので櫛の歯に女の優しい心を籠めたものでありましょう。年紀の頃は十九か二十歳、色は透通る程白く、鼻筋の通りました、窶れても下脹な、見るからに風の障るさえ痛々しい、葛の葉のうらみがちなるその風情。
八
高が気病と聞いたものが、思いの外のお雪の様子、小宮山はまず哀れさが先立って、主と顔を見合せまする。
介添の女はわざと浮いた風で、
「さあ御縁女様。」
と強く手を引いて扶け入れたのでありまする。お雪はそんな中にも、極が悪かったと見え、ぼんやり顔をば赧らめまして、あわれ霜に悩む秋の葉は美しく、蒲団の傍へ坐りました。
「お雪さん、嬉しいでしょう。」
亭主までが嬉しそうに、莞爾々々して、
「よくお礼を申上げな。」
と言うのであります。別けて申上げまするが、これから立女役がすべて女寅が煩ったという、優しい哀れな声で、ものを言うのでありまするが、春葉君だと名代の良い処を五六枚、上手に使い分けまして、誠に好い都合でありますけれども、私の地声では、ちっとも情が写りますまい。その辺は大目に、いえ、お耳にお聞溢しを願いまして、お雪は面映気に、且つ優らしく手を支え、
「難有う存じます、どうぞ、……」
とばかり、取縋るように申しました。小宮山は、亭主といい、女中の深切、お雪の風采、それやこれや胸一杯になりまして、思わずほろりと致しましたが、さりげのう、ただ頷いていたのでありました。
「そらお雪、どうせこうなりゃ御厄介だ。お時儀も御挨拶も既に通り越しているんだからの、御遠慮を申さないで、早く寝かして戴くと可い、寒いと悪かろう。俺でさえぞくぞくする、病人はなおの事ッた、お客様ももう御寝なりまし、お鉄や、それ。」
と急遽して、実は逃構も少々、この臆病者は、病人の名を聞いてさえ、悚然とする様子で、
お鉄(此奴あ念を入れて名告る程の事ではなかった)は袖屏風で、病人を労っていたのでありますが、
「さあさあ早くその中へ、お床は別々でも、お前さん何だよ御婚礼の晩は、女が先へ寝るものだよ、まあさ、御遠慮を申さないで、同じ東京のお方じゃないか、裏の山から見えるなんて、噂ばかりの日本橋のお話でも聞いて、ぐっと気をお引立てなさいなね。水道の水を召食ッていらっしゃれば、お色艶もそれ、お前さんのあの方に、ねえ旦那。」
「まずの。」
と言ったばかりで、金蔵はまじりまじり。大方時刻の移るに従うて、百万遍を気にするのでありましょう。お鉄は元気好く含羞むお雪を柔かに素直に寝かして、袖を叩き、裾を圧え、
「さあ、お客様。」
と言ったのでありまするが、小宮山も人目のある前で枕を並べるのは、気が差して跋も悪うございますから、
「まあまあお前さん方。」
「さようならば、御免を蒙りまする。伊賀越でおいでなすったお客じゃないから、私が股引穢うても穿いて寝るには及ばんわ、のうお雪。」
「旦那笑談ではございませんよ、失礼な。お客様御免下さいまし。」
と二人は一所に挨拶をして、上段の間を出て行きまする、親仁は両提の莨入をぶら提げながら、克明に禿頭をちゃんと据えて、てくてくと敷居を越えて、廊下へ出逢頭、わッと云う騒動。
「痛え。」とあいたしこをした様子。
さっきから障子の外に、様子を窺っておりましたものと見える、誰か女中の影に怯えたのでありまする。笑うやら、喚くやら、ばたばたという内に、お鉄が障子を閉めました。後の十畳敷は寂然と致し、二筋の燈心は二人の姿と、床の間の花と神農様の像を、朦朧と照しまする。
九
小宮山は所在無さ、やがて横になって衾を肩に掛けましたが、お雪を見れば小さやかにふっかりと臥して、女雛を綿に包んだようでありまする。もとより内気な女の、先方から声を懸けようとは致しませぬ。小宮山は一晩介抱を引受けたのでありまするから、まず医者の気になりますと物もいい好いのでありました。
「姉さん、さぞ心細いだろうね、お察し申す。」
「はい。」
「一体どんな心持なんだい。何でも悪い夢は、明かしてぱッぱと言うものだと諺にも云うのだから、心配事は人に話をする方が、気が霽れて、それが何より保養になるよ。」
としみじみ労って問い慰める、真心は通ったと見えまして、少し枕を寄せるようにして、小宮山の方を向いて、お雪は溜息を吐きましたが、
「貴方は東京のお方でございますってね。」
「うむ、東京だ、これでも江戸ッ児だよ。」
「あの、そう伺いますばかりでも、私は故郷の人に逢いましたようで、お可懐しいのでござりますよ。」
「東京が贔屓かい、それは難有いね、そしてここいらに、贔屓は珍しいが、何か仔細が有りそうだな。」
小宮山は、聞きませんでもその因縁を知っておりましょう、けれども、思うさま心の内を話さして、とにかく慰めてやりたい心。
「東京は大層広いそうでございますから、泊のものを、こちらで存じておりますような訳には参りますまいけれども、あのう、私は篠田様と云う、貴方の御所の方に、少し知己があるのでございまして。」
小宮山は肚の内で、これだな……。
「訳は申上げる事は出来ませんが、そのお方の事が始終気に懸りまして、それがために、いつでも泣いたり笑ったり、自分でも解りませんほど、気を揉んでおりました。それがあの、病の原因なんでございましょう。
昼も夜もどっちで夢を見るのか解りませんような心持で、始終ふらふら致しておりましたが、お薬も戴きましたけれども、復ってからどうという張合がありませんから、弱りますのは体ばかり、日が経ちますと起きてるのが大儀でなりませんので、どこが痛むというでもなく、寝てばかりおりましたのでございますよ。」
さあ驕れ、手も無くそれは恋病だと、ここで言われた訳ではありませんから、小宮山は人の意気事を畏まって聞かされたのでありまする、勿論容体を聞く気でありますから、お雪の方でも、医者だと思って遠慮がない。
「久しくそんなに致しております内、ちょうどこの十日ばかり前の真夜中の事でございます。寐られません目をぱちぱちして、瞶めておりました壁の表へ、絵に描いたように、茫然、可恐しく脊の高い、お神さんの姿が顕れまして、私が夢かと思って、熟と瞶めております中、跫音もせず壁から抜け出して、枕頭へ立ちましたが、面長で険のある、鼻の高い、凄いほど好い年増なんでございますよ。それが貴方、着物も顔も手足も、稲光を浴びたように、蒼然で判然と見えました。」
「可訝しいね。」
「当然なら、あれとか、きゃッとか声を立てますのでございますが、どう致しましたのでございますか、別に怖いとも思いませんと、こう遣って。」
と枕に顔を仰向けて、清しい目を睜って熟と瞳を据えました。小宮山は悚然とする。
「そのお神さんが、不思議ではありませんか、ちゃんと私の名を存じておりまして、
(お雪や、お前、あんまり可哀そうだから、私がその病気を復して上げる、一所においで。)
と立ったまま手を引くように致しましたが、いつの間にやら私の体は、あの壁を抜けて戸外へ出まして、見覚のある裏山の方へ、冷たい草原の上を、貴方、跣足ですたすた参るんでございます。」
十
「零余子などを取りに参ります処で、知っておりますんでございますが、そんな家はある筈はございません、破家が一軒、それも茫然して風が吹けば消えそうな、そこが住居なんでございましょう。お神さんは私を引入れましたが、内に入りますと貴方どうでございましょう、土間の上に台があって、荒筵を敷いてあるんでございますよ、そこらは一面に煤ぼって、土間も黴が生えるように、じくじくして、隅の方に、お神さんと同じ色の真蒼な灯が、ちょろちょろと点れておりました。
(どうだ、お前ここにあるものを知ってるかい。)とお神さんは、その筵の上にあるものを、指をして見せますので、私は恐々覗きますと、何だか厭な匂のする、色々な雑物がございましたの。
(これはの、皆人を磔に上げる時に結えた縄だ、)って扱いて見せるのでございます。私はもう、気味が悪いやら怖いやら、がたがた顫えておりますと、お神さんがね、貴方、ざくりと釘を掴みまして、
(この釘は丑の時参が、猿丸の杉に打込んだので、呪の念が錆附いているだろう、よくお見。これはね大工が家を造る時に、誤って守宮の胴の中へ打込んだものじゃ、それから難破した船の古釘、ここにあるのは女の抜髪、蜥蜴の尾の切れた、ぴちぴち動いてるのを見なくちゃ可けない。)と差附けられました時は、ものも言われません。
(お雪、私がこれを何にする、定めしお前は知っていよう。)どうして私が知っておりましょう。
(うむ、知ってる、知っている筈じゃないか、どうだ。)と責めるように申しますから、私はどうなる事でしょうと、可恐しさのあまり、何にも存じませんと、自分にも聞えませんくらい。
(何存ぜぬことがあるものか、これはな、お雪、お前の体に使うのだ、これでその病気を復してやる。)と屹と睨んで言われましたから、私はもう舌が硬ってしまいましたのでございます。お神さんは落着き払って、何か身繕をしましたが、呪文のようなことを唱えて、その釘だの縄だのを、ばらばらと私の体へ投附けますじゃありませんか。
はッと思いますと、手も足も顫える事が出来なくなったので、どうでございましょう、そのまま真直に立ったのでございますわ。
そう致しますとお神さんは、棚の上からまた一つの赤い色の罎を出して、口を取ってまた呪文を唱えますとね、黒い煙が立登って、むらむらとそれが、あの土間の隅へ寛がります、とその中へ、おどろのような髪を乱して、目の血走った、鼻の尖った、痩ッこけた女が、俯向けなりになって、ぬっくり顕れたのでございますよ。
(お雪や、これは嫉妬で狂死をした怨念だ。これをここへ呼び出したのも外じゃない、お前を復してやるその用に使うのだ。)と申しましてね、お神さんは突然袖を捲って、その怨念の胸の処へ手を当てて、ずうと突込んだ、思いますと、がばと口が開いて、拳が中へ。」
と言懸けました、声に力は籠りましたけれども、体は一層力無げに、幾度も溜息を吐いた、お雪の顔は蒼ざめて参りまする。小宮山は我を忘れて枕を半。
「そのまま真白な肋骨を一筋、ぽきりと折って抜取りましてね。
(どうだ、手前が嫉妬で死んだ時の苦しみは、何とこのくらいのものだったかい。)と怨念に向いまして、お神さんがそう云いますと、あの、その怨霊がね、貴方、上下の歯を食い緊って、(ううむ、ううむ。)と二つばかり、合点々々を致したのでございますよ。
(可し。)とお神さんが申しますと、怨念はまたさっきのような幅の広い煙となって、それが段々罎の口へ入ってしまいました。
それからでございますが。」
とお雪は打戦いて、しばらくは口も利けません様子。
十一
さてその時お雪が話しましたのでは、何でもその孤家の不思議な女が、件の嫉妬で死んだ怨霊の胸を発いて抜取ったという肋骨を持って前申しまする通り、釘だの縄だのに、呪われて、動くこともなりませんで、病み衰えておりますお雪を、手ともいわず、胸、肩、背ともいわず、びしびしと打ちのめして、
(さあどうだ、お前、男を思い切るか、それを思い切りさえすれば復る病気じゃないか、どうだ、さあこれでも言う事を聞かないか、薬は利かないか。)
と責めますのだそうでありまする、その苦しさが耐えられませぬ処から、
(御免なさいまし、御免なさいまし、思い切ります。)
と息の下で詫びまする。それでは帰してやると言う、お雪はいつの間にか旧の閨に帰っております。翌晩になるとまた昨夜のように、同じ女が来て手を取って引出して、かの孤家へ連れてまいり、釘だ、縄だ、抜髪だ、蜥蜴の尾だわ、肋骨だわ、同じ事を繰返して、骨身に応えよと打擲する。
(お前、可い加減な事を言って、ちっとも思い切る様子はないではないか。さあ、思い切れ、思い切ると判然言え、これでも薬はまだ利かぬか。)
と言うのだそうでありますな。
申すまでもありません、お雪はとても辛抱の出来る事ではないのですから、きっと思い切ると言う。
それではと云って帰しまする。
翌晩も、また翌晩も、連夜の事できっと時刻を違えず、その緑青で鋳出したような、蒼い女が遣って参り、例の孤家へ連れ出すのだそうでありますが、口頭ばかりで思い切らない、不埒な奴、引摺りな阿魔めと、果は憤りを発して打ち打擲を続けるのだそうでございまして。
お雪はこれを口にするさえ耐えられない風情に見えました。
「貴方、どうして思い切れませんのでございましょう。私は余り折檻が辛うございますから、確に思い切りますと言うんですけれども、またその翌晩同じ事を言って苦しめられます時、自分でも、成程と心付きますが、本当は思い切れないのでございますよ。
どうしてこれが思い切れましょう、因縁とでも申しますのか、どう考え直しましても、叱ってみても宥めてみても、自分が自由にならないのでございますから、大方今に責め殺されてしまいましょう。」
と云う、顔の窶れ、手足の細り、たゆげな息使い、小宮山の目にも、秋の蝶の日に当ったら消えそうに見えまして、
「死ぬのはちっとも厭いませぬけれども、晩にまた酷い目に逢うのかと、毎日々々それを待っているのが辛くってなりません。貴方お察し遊ばして。
本当に慾も未来も忘れましてどうぞまあ一晩安々寐て、そうして死にますれば、思い置く事はないと存じながら、それさえ自由になりません、余りといえば悔しゅうございましたのに、こうやってお傍に置いて下さいましたから、いつにのう胸の動悸も鎮りまして、こんな嬉しい事はございませぬ。まあさぞお草臥なさいまして、お眠うもございましょうし、お可煩うございましょうのに、つい御言葉に甘えまして、飛んだ失礼を致しました。」
人にも言わぬ積り積った苦労を、どんなに胸に蓄えておりましたか、その容体ではなかなか一通りではなかろうと思う一部始終を、悉しく申したのでありまする。
さっきから黙然として、ただ打頷いておりました小宮山は、何と思いましたか力強く、あたかも虎を搏にするがごとき意気込で、蒲団の端を景気よくとんと打って、むくむくと身を起し、さも勇ましい顔で、莞爾と笑いまして、
「訳はない。姉さん、何の事たな。」
十二
「皆そりゃ熱のせいだ、熱だよ。姉さんも知ってるだろうが、熱じゃ色々な事を見るものさ。疫の神だの疱瘡の神だのと、よく言うじゃないか、みんなこれは病人がその熱の形を見るんだっさ。
なかにも、これはちいッと私が知己の者の維新前後の話だけれども、一人、踊で奉公をして、下谷辺のあるお大名の奥で、お小姓を勤めたのがね、ある晩お相手から下って、部屋へ、平生よりは夜が更けていたんだから、早速お勤の衣裳を脱いでちゃんと伸して、こりゃ女の嗜だ、姉さんなんぞも遣るだろうじゃないか。」
「はい。」
「まあお聞きそれから縞のお召縮緬、裏に紫縮緬の附いた寝衣だったそうだ、そいつを着て、紅梅の扱帯をしめて、蒲団の上で片膝を立てると、お前、後毛を掻上げて、懐紙で白粉をあっちこっち、拭いて取る内に、唇に障るとちょいと紅が附いたろう。お小姓がね、皺を伸してその白粉の着いた懐紙を見ていたが、何と思ったか、高島田に挿している銀の平打の簪、(い)が附いている、これは助高屋となった、沢村訥升の紋なんで、それをこのお小姓が、大層贔屓にしたんだっさ。簪をぐいと抜いてちょいと見るとね、莞爾笑いながら、そら今口紅の附いた懐紙にぐるぐると巻いて、と戴いたとまあお思い。
可いかい、それを文庫へ了って、さあ寝支度も出来た、行燈の灯を雪洞に移して、こいつを持つとすッと立って、絹の鼻緒の嵌った層ね草履をばたばた、引摺って、派手な女だから、まあ長襦袢なんかちらちちとしたろうよ。
長廊下を伝って便所へ行くものだ。矢だの、鉄砲だの、それ大袈裟な帯が入るのだから、便所は大きい、広い事、畳で二畳位は敷けるのだと云うよ。それへ入ろうとするとね、えへん! ともいわず歌も詠まないが、中に人のいるような気勢がするから、ふと立停った、しばらく待ってても、一向に出て来ない、気を鎮めてよく考えると、なあに、何も入っていはしないようだったっさ。
ええ、姐さん変じゃないか、気が差すだろう。それからそのお小姓は、雪洞を置いて、ばたりと戸を開けたんだ、途端に、大変なものが、お前心持を悪くしては可けない、これがみんな病のせいだ。
戸を開けると一所に、中に真俯向けになっていた、穢い婆が、何とも云いようのない顔を上げて、じろりと見た、その白髪というものが一通りではない、銀の針金のようなのが、薄を一束刈ったように、ざらざらと逆様に立った。お小姓はそれッきり。
さあ、お奥では大騒動、可恐しい大熱だから伝染ても悪し、本人も心許ないと云うので、親許へ下げたのだ。医者はね、お前、手を放してしまったけれども、これは日ならず復ったよ。
我に反るようになってから、その娘の言うのには、現の中ながらどうかして病が復したいと、かねて信心をする湯島の天神様へ日参をした、その最初の日から、自分が上がろうという、あの男坂の中程に廁で見た穢ない婆が、掴み附きそうにして控えているので、悄然と引返す。翌日行くとまた居やがる。行っちゃ帰り、行っちゃ帰り、ちょうど二十日の間、三七二十一日目の朝、念が届いてお宮の鰐口に縋りさえすれば、命の綱は繋げるんだけれども、婆に邪魔をされてこの坂が登れないでは、所詮こりゃ扶からない、ええ悔しいな、たとえ中途で取殺されるまでも、お参をせずに措くものかと、切歯をして、下じめをしっかりとしめ直し、雪駄を脱いですたすたと登り掛けた。
遮っていた婆は、今娘の登って来るのを、可恐しい顔で睨め附けたが、ひょろひょろと掴って、冷い手で咽をしめた、あれと、言ったけれども、もう手足は利かず、講談でもよく言うがね、既に危きそこへ。」
十三
「上の鳥居の際へ一人出て来たのが、これを見るとつかつかと下りた、黒縮緬三ツ紋の羽織、仙台平の袴、黒羽二重の紋附を着て宗十郎頭巾を冠り、金銀を鏤めた大小、雪駄穿、白足袋で、色の白い好い男の、年若な武士で、大小などは旭にきらきらして、その立派さといったらなかったそうだよ。石段の上の方から、ずって寄って、
(推参な、婆あ見苦しい。)と言いさま、お前、疫病神の襟首を取って、坂の下へずでんどうと逆様に投げ飛ばした、可い心持じゃないか。お小姓の難有さ、神とも仏ともただもう手を合せて、その武士を伏拝んだと思うと、我に返ったという。
それから熱が醒めて、あの濡紙を剥ぐように、全快をしたんだがね、病気の品に依っては随分そういう事が有勝のもの。
お前の女に責められるのも、今の話と同じそれは神経というものなんだから、しっかりして気を確に持って御覧、大丈夫だ、きっとそんなものが連れ出しに来るなんて事はありゃしない。何も私が学者ぶって、お前さんがそれまでに判然した事を言うんだもの、嘘だの、馬鹿々々しいなどとは決して思うんじゃないよ。可いかい、姐さん、どうだ、解ったかね。」
と小宮山は且つ慰め、且つ諭したのでありまする、そう致しますと、その物語の調子も良く、取った譬も腑に落ちましたものと、見えて、
「さようでございますかね。」
と申した事は纔ながら、よく心も鎮って、体も落着いたようでありまする。
「そうとも、全くだ。大丈夫だよ、なあにそんなに気に懸ける事はない、ほんのちょいと気を取直すばかりで、そんな可怪しいものは西の海へさらりださ。」
「はい、難有う存じます、あのう、お蔭様で安心を致しましたせいか、少々眠くなって参ったようでざいますわ。」
と言い難そうに申しました。
「さあさあ、寐るが可い、寐るが可い。何でも気を休めるが一番だよ、今夜は附いているから安心をおし。」
「はい。」
と言ってお雪は深く頷きましたが、静に枕を向へ返して、しばらくはものも言わないでおりましたが、また密と小宮山の方へ向き直り、
「あのう、壁の方を向いておりますと、やはりあすこから抜け出して来ますようで、怖くってなりませんから、どうぞお顔の方に向かしておいて下さいましな。」
「うむ、可いとも。」
「でございますけれども……。」
「どうした。」
「あのう、極が悪うございますよ。」
とほんのり瞼を染めながら、目を塞いでしかも頼母しそう、力としまするよう、小宮山の胸で顔を隠すように横顔を見せ、床を隔てながら櫛巻の頭を下げ、口の上辺まで衾の襟を引寄せましたが、やがてすやすやと寐入ったのでありまする。
その時の様子は、どんなにか嬉しそうであった──と、今でも小宮山が申しまする。さて小宮山は、勿論寐られる訳ではありませぬから、しばらくお雪の様子を見ていたのでありまする。やや初夜過となりました。
山中の湯泉宿は、寂然として静り返り、遠くの方でざらりざらりと、湯女が湯殿を洗いながら、歌を唄うのが聞えまする。
この界隈近国の芸妓などに、ただこの湯女歌ばかりで呼びものになっているのがありますくらい。怠けたような、淋しいような、そうかというと冴えた調子で、間を長く引張って唄いまするが、これを聞くと何となく睡眠剤を服まされるような心持で、
桂清水で手拭拾た、 これも小川の温泉の流れ。
などという、いわんや巌に滴るのか、湯槽へ落つるのか、湯気の凝ったのか、湯女歌の相間々々に、ぱちゃんぱちゃんと響きまするにおいてをや。
十四
これへ何と、前触のあった百万遍を持込みましたろうではありませんか、座中の紳士貴婦人方、都育ちのお方にはお覚えはないのでありまするが、三太やあい、迷イ児の迷イ児の三太やあいと、鉦を叩いて山の裾を廻る声だの、百万遍の念仏などは余り結構なものではありませんな。南無阿弥陀仏……南無阿弥陀……南無阿弥陀。
亭主はさぞ勝手で天窓から夜具をすっぽりであろうと、心に可笑しく思いまする、小宮山は山気膚に染み渡り、小用が達したくなりました。
折角可い心地で寐ているものを起しては気の毒だ。勇士は轡の音に目を覚ますとか、美人が衾の音に起きませぬよう、そッと抜出して用達しをしてまいり、往復何事もなかったのでありまするが、廊下の一方、今小宮山が行った反対の隅の方で、柱が三つばかり見えて、それに一つ一つ掛けてあります薄暗い洋燈の間を縫って、ひらひらと目に遮った、不思議な影がありました。それが天井の一尺ばかり下を見え隠れに飛びますから、小宮山は驚いて、入り掛けた座敷の障子を開けもやらず、はてな、人魂にしては色が黒いと、思いまする間も置かせず、飛ぶものは風を煽って、小宮山が座敷の障子へ、ばたりと留った。これは、これは、全くおいでなすったか知らんと、屹と見まする、黒い人魂に羽が生えて、耳が出来た、明かに認めましたのは、ちょいと鳶くらいはあろうという、大きな蝙蝠であります。
そいつが羽撃をして、ぐるりぐるりと障子に打附かって這い廻る様子、その動くに従うて、部屋の中の燈火が、明くなり暗くなるのも、思いなし心持のせいでありましょうか。
さては随筆に飛騨、信州などの山近な片田舎に、宿を借る旅人が、病もなく一晩の内に息の根が止る事がしばしば有る、それは方言飛縁魔と称え、蝙蝠に似た嘴の尖った異形なものが、長襦袢を着て扱帯を纏い、旅人の目には妖艶な女と見えて、寝ているものの懐へ入り、嘴を開けると、上下で、口、鼻を蔽い、寐息を吸って吸殺すがためだとございまする。あらぬか、それか、何にしても妙ではない、かようなものを間の内へ入れてはならずと、小宮山は思案をしながら、片隅を五寸か一尺、開けるが早いか飛込んで、くるりと廻って、ぴしゃりと閉め、合せ目を押え附けて、どっこいと踏張ったのでありまする。しばらく、しっかりと押え附けて、様子を窺っておりましたが、それきり物音もしませぬので、まず可かったと息を吐き、これから静に衾の方を向きますると、あにはからんやその蝙蝠は座敷の中をふわりふわり。
南無三宝と呆気に取られて、目を睜った鼻っ先を、件の蝙蝠は横撫に一つ、ばさりと当てて向へ飛んだ。
何様猫が冷たい処をこすられた時は、小宮山がその時の心持でありましょう。
嚔もならず、苦り切って衝立っておりますると、蝙蝠は翼を返して、斜に低う夜着の綴糸も震うばかり、何も知らないですやすやと寐ている、お雪の寝姿の周囲をば、ぐるり、ぐるり、ぐるりと三度。縫って廻られるたびに、ううむ、ううむ、うむと幽に呻いたと、見るが否や、萎れ伏したる女郎花が、無慙や風に吹き乱されて、お雪はむッくと起上りましたのでありまする。小宮山は論が無い、我を忘れて後に摚と坐りました。
蝙蝠は飜って、向側の障子の隙間から、ひらひらと出たと思うと、お雪が後に跟いてずっと。
蚊帳を出でてまだ障子あり夏の月、雨戸を開けるでもなく、ただ風の入るばかりの隙間から、体がすっと細くなり、水に映つる柳の蔭の隠れたように、ふと外へ出て見えなくなりましたと申しますな。勿論、蝙蝠に引出されたんで。
十五
小宮山は切歯をなして、我赤樫を割って八角に削りなし、鉄の輪十六を嵌めたる棒を携え、彦四郎定宗の刀を帯びず、三池の伝太光世が差添を前半に手挟まずといえども、男子だ、しかも江戸ッ児だ、一旦請合った女をむざむざ魔に取られてなるものかと、追駈けざまに足踏をしたのでありまする。あいにく神通がないので、これは当然に障子を開け、また雨戸を開けて、縁側から庭へ寝衣姿、跣足のままで飛下りる。
戸外は真昼のような良い月夜、虫の飛び交うさえ見えるくらい、生茂った草が一筋に靡いて、白玉の露の散る中を、一文字に駈けて行くお雪の姿、早や小さくなって見えまする。
小宮山は蝙蝠のごとく手を拡げて、遠くから組んでも留めんず勢。
「おうい、おうい、お雪さん、お雪さん、お雪さん。」
と声を限り、これや串戯をしては可けないぜと、思わず独言を言いながら、露草を踏しだき、薄を掻分け、刈萱を押遣って、章駄天のように追駈けまする、姿は草の中に見え隠れて、あたかもこれ月夜に兎の踊るよう。
「お雪さん、おうい、お雪さん。」
間もやや近くなり、声も届きましたか、お雪はふと歩を停めて、後を振返ると両の手を合せました。助けてくれと云うのであろう、哀れさも、不便さもかばかりなるは、と駈け着ける中、操の糸に掛けられたよう、お雪は、左へ右へ蹌踉して、しなやかな姿を揉み、しばらく争っているようでありました。けれども、また、颯と駈け出して、あわやという中に影も形も見失ったのでありまする。
処へ、かの魚津の沖の名物としてありまする、蜃気楼の中の小屋のようなのが一軒、月夜に灯も見えず、前途に朦朧として顕れました。
小宮山は三蔵法師を攫われた悟空という格で、きょろきょろと四辺を眗しておりましたが、頂は遠く、四辺は曠野、たとえ蝙蝠の翼に乗っても、虚空へ飛び上る法ではあるまい、瞬一つしきらぬ中、お雪の姿を隠したは、この家の内に相違ないぞ、這奴! 小川山の妖怪ござんなれと、右から左へ、左から右へ取って返して、小宮山はこの家の周囲をぐるぐると廻って窺いましたが、あえて要害を見るには当らぬ。何の蝸牛みたような住居だ、この中に踏み込んで、罷り違えば、殻を背負っても逃げられると、高を括って度胸が坐ったのでありますから、威勢よく突立って凜々とした大音声。
「お頼み申す、お頼み申す! お頼み申す‼」
と続けざまに声を懸けたが、内は森として応がない、耳を澄ますと物音もしないで、かえって遠くの方で、化けた蛙が固まって鳴くように、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。と百万遍。眉を顰めた小宮山は、癪に障るから苛立って喚いたり。
「お頼み申す。」
すると、どうでございましょう、鼻ッ先の板戸が音もしないで、すらりと開く。
「騒々しいじゃないかね。」
顔を出したのが、鼻の尖った、目の鋭い、可恐しく丈の高い、蒼い色の衣服を着た。凄い年増。一目見ても見紛う処はない、お雪が話したそれなんで。
小宮山は思わず退った、女はその我にもあらぬ小宮山の天窓から足の爪先まで、じろりと見て、片頬笑をしたから可恐しいや。
「おや、おいでなさい、柏屋のお客だね。」
言語道断、先を越されて小宮山はとぼんと致し、
「へい。」と言って、目をぱちくりするばかりでありまする。
「まあ、御苦労様だったね。さっきから来るだろうと思って、どんなに待っていたか知れないよ。さあまあこっちへお上りなさい、少し用があるから。」
と言った、文句が気に入らないね、用があるなんざ容易でなさそう。
十六
相手は女だ、城は蝸牛、何程の事やある、どうとも勝手にしやがれと、小宮山は唐突かれて、度胆を掴まれたのでありますから、少々捨鉢の気味これあり、臆せず後に続くと、割合に広々とした一間へ通す。燈火はありませんが暗いような明るいような、畳の数もよく見える、一体その明がというと、女が身に纏っている、その真蒼な色の着物から膚を通して、四辺に射拡がるように思われるのでありまする。
「ちょいと託ける事があるのだから、折角見えたものを情なく追帰すのも、お気の毒だと思って、通して上げましたがね、熟として待っていなさい。私の方に支度があるのだから、お前さんまた大きな声を出したり、威張ったり、お騒ぎだと為になりませんよ。」
と頭から呑んでかかって、そのままどこかへ、ずい。
呑まれた小宮山は、怪しい女の胃袋の中で消化れたように、蹲ってそれへ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、風が引いたり寄せたりして聞えまする、百万遍。
忌々しいなあ、道中じゃ弥次郎兵衛もこれに弱ったっけ、耐ったものではないと、密と四辺を眗しますると、塵一ッ葉も目を遮らぬこの間の内に床が一つ、草を銜えた神農様の像が一軸懸っておりまするので、小宮山は訳が解らず、何でもこれは気を落着けるにしく事なしだと、下ッ腹へ力を入れて控えておりまする。またしても百万遍。小宮山はそれを聞くと悪寒がするくらい、聞くまい、聞くまいとする耳へ、ひいひい女の泣声が入りました。屹となって、さあ始めやがった、あン畜生、また肋の骨で遣ってるな、このままじゃ居られないと、突立ちました小宮山は、早く既にお雪が話の内の一員に、化しおおしたのでありまする。
その場へ踏み込み扶けてくりょうと、いきなり隔の襖を開けて、次の間へ飛込むと、広さも、様子も同じような部屋、また同じような襖がある。引開けると何もなく、やっぱり六畳ばかりの、広さも、様子も、また襖がある。がたりと開ける、何もなくて少しも違わない部屋でありまする。
阿房宮より可恐しく広いやと小宮山は顛倒して、手当り次第に開けた開けた。幾度遣っても笥の皮を剥くに異ならずでありまするから、呆れ果てて摚と尻餅、茫然四辺を眗しますると、神農様の画像を掛けた、さっき女が通したのと同じ部屋へ、おやおやおや。また南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と耳に入ると、今度は小宮山も釣込まれて、思わず南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
その時すらりと襖を開け、
「誰方だい、今お騒ぎなすったのは。」
「へい。」といった、後はもうお念仏になりそうな、小宮山は恐る恐る、女の微笑んでおります顔を見て、どうかこうか、まあ殺されずに済みそうだと、思うばかりでございまする。
「一体物好でこんな所へ入って来たお前さんは、怖いものが見たいのだろう。少々ばかりね。」
「いえ、何。」と口の内。
「まあ、おいでなさい。」
妾に跟いてこっちへと、宣示すがごとく大様に申して、粛然と立って導きますから、詮方なしに跟いて行く。土間が冷く踵に障ったと申しますると、早や小宮山の顔色蒼然!
話に聴いた、青色のその燈火、その台、その荒筵、その四辺の物の気勢。
お雪は台の向へしどけなく、崩折れて仆れていたのでありまする。女は台の一方へ、この形なしの江戸ッ児を差置いて、一方へお雪を仆した真中へぬッくと立ち、袖短な着物の真白な腕を、筵の上へ長く差し伸して、ざくりと釘を一ト掴。
「どうだね、お客様。」
「どう致しまして。」
小宮山は慇懃に辞退をいたしまする。
十七
「これを知っていなさるかえ。」
と二の腕を曲げて、件の釘を乳の辺へ齎して、掌を拡げて据えた。
「どう致しまして。」
「知らない?」
「いえ、何、存じております。」
「それじゃこれは。」
「へい。」
「女の脱髪。」
小宮山は慌しく、
「どう致しまして。」
「それじゃ御覧。」
と撮んで宙で下げたから、そそげた黒髪がさらさらと動きました。
「いえ、何、存じております。」
「これは。」
「存じております。」
「それから。」
「存じております。」
「それでは、何の用に立つんだか、使い方を知っているのかえ。」
迂濶知らないなぞと言おうものなら、使い方を見せようと、この可恐しい魔法の道具を振廻されては大変と、小宮山は逸早く、
「ええ、もう存じておりますとも。」
と一際念入りに答えたのでありまする。言葉尻も終らぬ中、縄も釘もはらはらと振りかかった、小宮山はあッとばかり。
ちょいと皆様に申上げまするが、ここでどうぞ貴方がたがあッと仰有った時の、手附、顔色に体の工合をお考えなすって下さいまし。小宮山は結局、あッと言った手、足、顔、そのままで、指の尖も動かなくなったのでありまする。
「よく御存じでございましたね。」
と嘲弄するごとく、わざと丁寧に申しながら、尻目に懸けてにたりとして、向へ廻り、お雪の肩へその白い手を掛けました。
畜生! 飛附いて扶けようと思ったが、動けるどころの沙汰ではないので、人はかような苦しい場合にも自ら馬鹿々々しい滑稽の趣味を解するのでありまする、小宮山はあまりの事に噴出して、我と我身を打笑い、
「小宮山何というざまだ、まるでこりゃ木戸銭は見てのお戻りという風だ、東西、」
と肚の内。
女はお雪の肩を揺動かしましたが、何とも不思議な凄い声で、
「雪や、苦しいか。」
お雪はいとど俯向いていた顔を、がっくりと俯向けました。
「うむ、もう可い、今夜は酷い目に逢わしやしないから、心配をする事はないんだよ。これまで手を変え、品を変え、色々にしてみたが、どうしてもお前は思い切らない、何思い切れないのだな、それならそれで可いようにして上げようから。」
と言聞かしながら、小宮山の方を振向いたのでありまする。
「お客様、お前は性悪だよ、この子がそれがためにこの通りの苦労をしている、篠田と云う人と懇意なのじゃないか、それだのにさ、道中荷が重くなると思って、託も聞こうとはせず、知らん顔をして聞いていたろう。」
と鋭い目で熟と見られた時は、天窓から、悚然として、安本亀八作、小宮山良助あッと云う体にござりまする活人形へ、氷を浴せたようになりました。
「その換り少しばかり、重い荷を背負わして上げるから、大事にして東京まで持って行きなさい。託というのはそれなんだがね、お雪はとても扶らないのだから、私も今まで乗懸った舟で、この娘の魂をお前さんにおんぶをさして上げるからね、密と篠田の処まで持って行くのだよ。さぞまあお邪魔でございましょうねえ。」
十八
小宮山がその形で突立ったまま、口も利けないのに、女は好な事をほざいたのでありまする。
それから女は身に纏った、その一重の衣を脱ぎ捨てまして、一糸も掛けざる裸体になりました。小宮山は負惜、此奴温泉場の化物だけに裸体だなと思っておりまする。女はまた一つの青い色の罎を取出しましたから、これから怨念が顕れるのだと恐を懐くと、かねて聞いたとは様子が違い、これは掌へ三滴ばかり仙女香を使う塩梅に、両の掌でぴたぴたと揉んで、肩から腕へ塗り附け、胸から腹へ塗り下げ、襟耳の裏、やがては太股、脹脛、足の爪先まで、隈なく塗り廻しますると、真直に立上りましたのでありまする。
小宮山は肚の内で、
「東西。」
女はそう致して、的面に台に向いまして、ちちんぷいぷい、御代の御宝と言ったのだか何だか解りませぬが、口に怪しい呪文を唱えて、ばさりばさりと双の腕を、左右へ真直に伸したのを上下に動かしました。体がぶるぶるッと顫えたと見るが早いか、掻消すごとく裸身の女は消えて、一羽の大蝙蝠となりましてございまする。
例のごとくふわふわと両三度土間の隅々を縫いましたが、いきなり俯けになっているお雪の顔へ、顔を押当て、翼でその細い項を抱いて、仰向けに嘴でお雪の口を圧えまして、すう、すうと息を吸うのでありまする。
これを見せられた小宮山は、はッと思って息を引いたが、いかんともする事叶わず、依然としてそのあッと云う体。
二度三度、五度六度、やや有って息を吸取ったと見えましたが、お雪の体は死んだもののようになってはたと横様に仆れてしまいました。
喫驚仰天はこれのみならず、蝙蝠がすッと来て小宮山の懐へ、ふわりと入りましたので、再びあッと云って飛び上ると同時に、心付きましたのは、旧の柏屋の座敷に寝ていたのでありまする。
大息を吐いて、蒲団の上へ起上った、小宮山は、自分の体か、人のものか、よくは解らず、何となく後見らるるような気がするので、振返って見ますると、障子が一枚、その外に雨戸が一枚、明らさまに開いて月が射し、露なり、草なり、野も、山も、渺々として、鶏、犬の声も聞えませぬ。何よりもまず気遣わしい、お雪はと思う傍に、今息を吸取られて仆れたと同じ形になって、生死は知らず、姿ばかりはありました。
小宮山は冷たい汗が流れるばかり、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏、と隣で操り進む百万遍の声。
「姐さん、姐さん、」
小声で呼んでみたが返事がないので、もしやともう耐らず、夜具の上から揺振りました。
「お雪さん。」
三声ばかり呼ぶと、細く目を開いて小宮山の顔を見るが否や、さもさも物に恐れた様子で、飛着くように、小宮山の帯に縋り、身を引緊めるようにして、坐った膝に突伏しまする。戦く背中を小宮山はしっかと抱いた、様子は見届けたのでありまするから、哀れさもまた百倍。
怖さは小宮山も同じ事、お雪の背中へ額を着けて、夜の明くるのをただ、一刻千秋の思で待構えまする内に疲れたせいか、我にもあらずそろそろと睡みましたと見えて、目が覚めると、月の夜は変り、山の端に晴々しい旭、草木の露は金色を鏤めておりました。
密と膝から下すと、お雪はやはりそのままに、すやすやと寐入っている。
「お早うございます。」
と声を懸けて、機嫌聞きに亭主が真先、百万遍さえ止みますれば、この親仁大元気で、やがてお鉄も参り、
「お客様お早うございます。」
十九
小宮山は早速嗽手水を致して心持もさっぱりしましたが、右左から亭主、女共が問い懸けまする昨晩の様子は、いや、ただお雪がちょいと魘されたばかりだと言って、仔細は明しませんでございました、これは後の事を慮って、皆が恐れげなくお雪の介抱をしてやる事が出来るようにと、気を着けたのでありまする。
お雪の病気を復すにも怪しいものを退治るにも、耆婆扁鵲に及ばず、宮本武蔵、岩見重太郎にも及ばず、ただ篠田の心一つであると悟りましたので、まだ、二日三日も居て介抱もしてやりたかったのではありますけれども、小宮山は自分の力では及ばない事を知り、何よりもまず篠田に逢ってと、こう存じましたので、急がぬ旅ながら早速出立を致しました。
その柏屋を立ちまする時も、お雪はまだ昨夜のまま寝ていたのでありまする。失礼な起しましょうと口々に騒ぐを制して、朝餉も別間において認め、お前さん方が何も恐がる程の事はないのだから、大勢側に附いて看病をしておやんなさいと、暮々も申し残して後髪を引かれながら。
その日、糸魚川から汽船に乗って、直江津に着きました晩、小宮山は夷屋と云う本町の旅籠屋に泊りました、宵の口は何事も無かったのでありまするが、真夜中にふと同じ衾にお雪の寝ているのを、歴々と見ましたので、喫驚する途端に、寝姿が向むきになったその櫛巻が溢れて、畳の上へざらりという音。
枕に着かるるどころではありませぬ、ああ越中と越後と国は変っても、女の念は離れぬかとまさかに魂を託ったとまでは、信じなかったのでありまするけれども、つくづく溜息をしたのであります。
夜が明けると、一番の上り汽車、これが碓氷の隧道を越えます時、その幾つ目であったそうで。
小宮山は何心なく顔を出して、真暗な道の様子を透していると、山清水の滴る隧道の腹へ、汽車の室内の灯で、その顔が映ったのでありまする、と並んで女の顔が映りました。確にそれがお雪の面影。
それぎり何事もなく、汽車は川中島を越え、浅間の煙を望み、次第に武蔵の平原に近づきまする。
上野に着いたのは午後の九時半、都に秋風の立つはじめ、熊谷土手から降りましたのがその時は篠を乱すような大雨でございまして、俥の便も得られぬ処から、小宮山は旅馴れてはいる事なり、蝙蝠傘を差したままで、湯島新花町の下宿へ帰ろうというので、あの切通へ懸りました時分には、ぴったり人通りがございません。後から、
「姐さん、参りましょうか、姐さん。」
と声を懸けたものがある。
振返って見ると誰も居ませんで、ただざあざッという雨に紛れて、轍の音は聞えませぬが、一名の車夫が跟いて来たのでありました。
小宮山は慄然として、雨の中にそのまま立停って、待てよ、あるいはこりゃ託って来たのかも知れぬと、悚然としましたが、何しろ、自宅へ背負い込んでは妙ならずと、直ぐに歩を転じて、本郷元町へ参りました。
ここは篠田が下宿している処でありまする、行馴れている門口、猶予わず立向うと、まだ早いのに、この雨のせいか、もう閉っておりましたが、小宮山は馴れている、この門と並んで、看護婦会がありまする、雨滴を払いながらその間の路地を入ると、突当の二階が篠田の座敷、灯も点いて、寝ない様子。するとまだ声を懸けない先に、二階ではその灯を持って、どこへか出たと見えて、障子が暗くなりました。しばらく待っていても帰りませぬ。
下へ下りたのであろうも知れぬ、それならばかえって門口で呼ぶ方が早手廻しだと、小宮山はまた引返して参りますと、つい今錠の下りていた下宿屋の戸が、手を掛けると訳もなく開きましたと申します。
何事も思わず開けて入り、上框に立ちましたが、帳場に寝込んでおりますから、むざとは入らないで、
「篠田、篠田。」
と高らかに呼わりますると、三声とは懸けさせず、篠田は早速に下りて来て、
「ああ、今帰ったのかえ、さあさあまあ上りたまえ。」
と急遽先に立ちます。小宮山は後に跟いて二階に上り、座敷に通ると、篠田が洋燈を持ったまま、入口に立停って、内を透し、
「おや、」と言って、きょろきょろ四辺を眗しておりまするが、何か気抜のしたらしい。小宮山はずっと寄って、その背を叩かぬばかり、
「どうした。」
「もう何も彼も御存じの事だから、ちっとも隠す事はない、ただ感謝するんだがね、君が連れて来て一足先へ入ったお雪が、今までここに居たのに、どこへ行ったろう。」
と真顔になって申しまする。
小宮山はまた悚然とした。
「ええ、お雪さんが、どんな様子で。」
「実は今夜本を見て起きていると、たった今だ、しきりにお頼み申しますと言う女の声、誰に用があって来たのか知らぬが、この雨の中をさぞ困るだろうと、僕が下りて行って開けてやったが、見るとお雪じゃないか。小宮山さんと一所だと言う、体は雨に濡れてびっしょり絞るよう、話は後からと早速ここへ連れて来たが、あの姿で坐っていた、畳もまだ湿っているだろうよ。」
と篠田はうろうろしてばたばた畳の上を撫でてみまする。この様子に小宮山は、しばらく腕組をして、黙って考えていましたが、開き直ったという形で、
「篠田、色々話はあるが、何も彼も明日出直して来よう、それまでまあ君心を鎮めて待ってくれ。それじゃ託り物を渡したぜ。」
「ええ。」
「いえ、託り物は渡したんだぜ。」
「託り物って何だ。」
「今受取ったそれさ。」
「何を、」と篠田は目も据らないで慌てております。
「まあ、受取ったと言ってくれ。ともかくも言ってくれ、後で解る事だから頼む、後生だから。」
魂の請状を取ろうとするのでありますから、その掛引は難かしい、無暗と強いられて篠田は夢現とも弁えず、それじゃそうよ、請取ったと、挨拶があるや否や、小宮山は篠田の許を辞して、一生懸命に駈出した、さあ荷物は渡した、東京へ着いたわ、雨も小止みかこいつは妙と、急いで我家へ。
翌日取も置かず篠田を尋ねて、一部始終悉しい話を致しますると、省みて居所も知らさないでいた篠田は、蒼くなって顫え上ったと申しますよ。
これから二人連名で、小川の温泉へ手紙を出した。一週間ばかり経って、小宮山が見覚のあるかの肌に着けた浴衣と、その時着ておりました、白粉垢の着いた袷とを、小包で送って来て、あわれお雪は亡なりましたという添状。篠田は今でも独身で居りまする。二人ともその命日は長く忘れませんと申すのでありまする。
飛んだ長くなりまして、御退屈様、済みませんでございました、失礼。
底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第五卷」岩波書店
1940(昭和15)年3月30日発行
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2007年2月18日作成
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