かの女の朝
岡本かの子



 K雑誌先月号に載ったあなたの小説を見ました。ママの処女作というのですね、これが。ママの意図いととしては、フランス人の性情せいじょうが、利に鋭いと同時に洗練された情感と怜悧れいりさで、敵国の女探偵を可愛かわゆく優美に待遇する微妙な境地を表現したつもりでしょう。フランスおよびフランス人をよく知るぼくには──もちろんフランス人にも日本人として僕が同感しねる性情も多分たぶんにありますが──それが実に明白に理解されます。そしての作はその意味としてなり成功したものでしょう。だが、これは僕自身としてのママへの希望ですが、ママは何故なぜひとのことなんか書いてるのですか。ママにはもっと書くべき世界がある。ママの抒情じょじょう的世界、何故其処そこの女主人公にママはなり切らないのですか。ひとのことどころではないでしょう。ママがママの手を動かして自分の筆を運ぶ以上、もっと、ママに急迫きゅうはくする世界を書かずには居られないはずです。それを他国の国情など書いて居るのは、やっぱりママの小児性しょうにせいが、いくらか見せかけの気持ちに使われて居るからですよ。ママ! ママは自分の抒情的世界の女主人に、いつもいつもなって居なさい。幼稚ようちなアンビシューに支配されないで。でなければ、小説なんか書きなさいますなよ。


 かの女の息子の手紙である。今、仏蘭西フランス巴里パリから着いたものである。朝の散歩に、主人逸作いっさくといつものように出掛でかけようとして居るところへ裏口から受け取った書生しょせいが、かの女の手に渡した。

 逸作はもう、玄関に出て駒下駄こまげた穿いて居たのである。其処へ出合いがしらに来合わせた誰かと、玄関のとびらを開けた処で話し声をぼそぼそ立てて居た。

 かの女は、まことに、息子に小児性と呼ばれたほどあって、小児のごとこらしょうかった。

 主人逸作が待ってそうでもあったが、ひとと話をして居るのをいことにして、息子の手紙の封筒を破った。そして今のような文面にいきなり打突ぶつかった。

 だが、かの女としては、それが息子の手紙でさえあれば、何でも好かった。小言こごとであろうと、ねだりであろうと、(だが、甘えの時は無かった。息子は二十三歳で、十代の時自分を生んだ母の、まして小児性を心得て居て、甘えるどころではなくて、母の甘えにってはしかったり指導したりする役だった。普通生活には少しだらしなかったが、本当は感情的で頭の鋭い正直な男子だった。)そしてやっぱり一人息子にぞっこんな主人逸作への良き見舞品となる息子の手紙は、いつも彼女は自分がきに破るのだった。

 ──あら竹越さんなの。

 逸作と玄関で話して居たのは、かの女のところへ原稿の用で来た「文明社」の記者であった。

 ──はあ、こんなに早くあがって済みませんでしたけれど……。そのかわりめったにお目にかかれない御主人にお目にかかれまして……。

 竹越氏が正直に下げる頭が大げさでもわざとらしくはなかった。逸作は好感から微笑してかの女と竹越との問答もんどうの済むのを待って、ゆっくり玄関口に立って居た。

 竹越氏が帰って行った。二人は門を出て竹越氏の行った表通りとは反対の裏通りの方へ足を向けた。

 ──今の記者何処どこのだい。

 ──あら、知らないの、だって親しそうに話して居なすったじゃないの。

 ──だってむこうから親しそうに話すからさ。

 ──雑誌が大変よくってなんておっしゃって居たじゃないの。

 ──だって、記者への挨拶あいさつならそれよりほか無いだろう。

 ──何処どこの雑誌か知らなくっても?

 ──そうさ、何処の雑誌だっておんなじだもの。

 ──あれだ、パパにゃかないませんよ。

 かの女は自分のこととくらべて考えた。かの女はいつかる劇場の廊下で或る男に挨拶あいさつされた。誰だかわからなかったが、彼女は反射的に頭を下げた。だが、知らない人に頭をさげたことが気になった。そしてやっぱり反射的にその男のあとを追った。広い劇場の廊下の半町程はんちょうほどもその男のあとを追って

 ──あなたは、何誰どなたでしたか。

 と真面目まじめで男の顔を見ていた。男はかつて、かの女のところへは逸作の画業にいての用事で、る雑誌社から使いに来た人だった。男は、かの女がの時の真面目くさって自分の名を訊いた顔を忘れないと方々ほうぼうで話したそうだ。だが、それも、五六年前だった。画業において人気者の逸作と、度々たびたび銀座を歩いて居るとき、逸作が知らない人達に挨拶をされても鷹揚おうように黙々と頭を一つ下げて通過するのを見習って、彼女もいつまで、自分のそんな野暮やぼなまじめを繰り返してもなかったが、今朝けさの逸作が竹越氏に対する適応性を見て、久しぶりで以前の愚直ぐちょくな自分を思い出した。

 ──いたっ。

 かの女は駒下駄こまげたをひっくり返えした。町会で敷いた道路の敷石しきいしが、一つは角を土からにょっきりと立て、一つは反対にのめり込ませ、でこぼこな醜態しゅうたいかわっているのだ。裏町で一番広大で威張いばっている某富豪ふごうの家の普請ふしんに運ぶ土砂どしゃのトラックの蹂躙じゅうりんめに荒された道路だ、──良民りょうみんの為めに──のいきどおりも幾度か覚えた。だが、恩恵もあるのだ。

 ──ねえパパ、のO家の為めに我々は新鮮な空気が吸える、と思えば気もおさまるね。

 ──まあ、そんなものだ。

 二人は歩きながら話す。

 実際O家は此の町の一端何町四方を邸内に採っている。その邸内の何町四方はいっぱいの樹海じゅかいだ。緑の波が澎湃ほうはいとして風にどよめき、太陽に輝やき立っているのである。ベルリンでは市民衛生のめ市中に広大なチーヤガルデン公園を置く。の富豪は我が町に緑樹の海を置いてる。富豪自身は期せずして良民の呼吸の為めにふんだんな酸素を分配して居るのである。──ものの利害はそんなところ相伴あいともな相償あいつぐなっているというものだ──と二人はおなかの中で思い合って歩いて居るのだ。

 二三丁行くと、る重役邸の前門の建て換え場だ。半月も前からである。

 ──変な男女が、毎朝、同じ方向から出かけて来ると思ってるだろうね、人夫にんぷ達が。

 と、かの女。

 ──ふん。

 逸作は手を振って歩いて居る。中古の鼠色ねず縮緬ちりめん兵児帯へこおびが、腰でだらしなくもなく、きりっとでもなく穏健おんけんしまっている。古いセルの単衣ひとえ、少したけが長過ぎる。黒髪が人並よりぐっと黒いので、まれにまじっているわずかな白髪が、銀砂子ぎんすなごのように奇麗きれいに光る。中背ちゅうぜいがたの上にラファエルのマリア像のような線の首筋をたて、首から続くきよらかなあごの線を細いくちびるが締めくくり、その唇が少し前へ突き出している。足のあがたび脂肪あぶらの足跡が見える中古の駒下駄でばたりばたり歩く。

 かの女は断髪だんぱつもウエーヴさえかけない至極しごく簡単なものである。およそ逸作とは違った体格である。何処どこにも延びている線は一つも無い。みんな短かくてくくれている。日輪草にちりんそうの花のような尨大ぼうだいな眼。だが、気弱なほおが月のようにはにかんでいる。無器用ぶきよう小供こどものように卒直に歩く──実は長い洋行後駒下駄こまげたをまだ穿れて居ないのだ。朝の空気を吸う唇にべには付けないと言い切って居るその唇は、四十前後の体を身持みもちよく保って居る健康な女の唇のあかさだ。荒い銘仙絣めいせんがすり単衣ひとえを短かく着て帯の結びばかり少し日本の伝統にっているけれど、あとは異人女が着物を着たようにぼやけた間の抜けた着かたをして居る。

 ──ね、あんたアミダ様、わたしカンノン様。

 と、かの女はやわらかく光る逸作の小さい眼を指差し、自分の丸いひたいを指で突いて一寸ちょっと気取っては見たけれど、でも他人が見たら、およそ、おかしな一対いっついの男と女が、毎朝、何処どこへ、何しに行くと思うだろうとも気がさすのだった。うぬれの強いかの女はまた、莫迦ばか莫迦しくひがみやすくもある。だが結局人夫にんぷは人夫の稼業かぎょうから預けられた土塊つちくれや石柱をかかえ、それが彼等かれらの眼の中にいっぱいつまっているのだ。その眼がたまたまぬすみ視したところが、それは別に意味も無い傍見わきみに過ぎないと、かの女は結論をひとりでつける。そして思いやり深くその労役ろうえきの彼等を、あべこべに此方こちらから見返えすのであった。

 陽気で無邪気なかの女はまた、恐ろしく思索しさく好きだ。思索が遠い天心てんしんか、地軸にかかっている時もあり、優生学ゆうせいがくや、死後の問題でもあり、因果律いんがりつや自己の運命観にもいつかつながる。いものやい着物についてもいつか考え込んでる。だが、ぐ気がかわって眼の前の売地のふだの前に立ちどまって自分のわずかな貯金とくらべて価格を考えても見たりする。

 かの女は今、自分の住宅のためにさしてあたらしい欲望を持って居ないのを逸作はよく知って居る。かの女が仮想かそうに楽しむ──巴里パリに居るひとり息子が帰ったら、あたりへ家を建ててろうか、しくはいっかな帰ろうとしない息子にあんな家、んな家でも建てて置いたら、そんな興味が両親への愛着にもまじり、息子は巴里から帰りはしないか。あちらで相当な位置も得、どう考えてもあちらに向いて居る息子の芸術の性質を考えるとこちらへ帰って来るようには言えない。またかの女の芸術的良心というようなものが、それは息子の芸術へというばかりでないもっと根本の芸術の神様に対する冒涜ぼうとくをさえ感ずる。芸術的良心と、私的本能愛との戦いにかの女はまたつらくて涙が眼ににじむ。息子の居ない一ヶ所からっぽうのような現実の生活と、息子の帰って来た生活のいろいろな張り合いのある仮想生活とがかの女の心にかわがわる位置を占めるのである。かの女は雑草が好きだ。此の空地あきちにはふんだんに雑草が茂っている。なんぼ息子の為に建ててやる画室でも、かの女の好みの雑草は取ってしまうまい。人は何故なぜに雑草と庭樹にわきとを区別する権利があったのだろう。例えば天上の星のように、瑠璃るりを点ずる露草つゆくさや、金銀の色糸いろいと刺繍ししゅうのような藪蔓草やぶつるくさの花をどうして薔薇ばら紫陽花あじさいと誰が区別をつけたろう。優雅な蒲公英たんぽぽ可憐かれんな赤まま草を、罌粟けし撫子なでしこ優劣ゆうれつをつけたろう。沢山たくさんえる、何処どこにもあるからということが価値の標準となるとすれば、きっぽくてあさはかなのは人間それ自身なのではあるまいか。だが、かの女が草をらないことを頑張れば息子も甘酸あまずっぱく怒って、ことによったらかの女をスポーツ式に一つくらいはどやすだろう。そしたらまあ、仕方が無い、取ってもい。どやすと言えば、かの女が或時あるとき息子に言った。「ママも年とったらアイノコの孫を抱くのだね、楽しみだね」と、極々ごくごく座興ざきょう的ではあったけれど或時かの女がそれを息子の前で言ってどやされたことをかの女は思い出した。どやした息子の青年らしいこぶしの弾力が、かの女の背筋に今も懐かしく残っている。その時息子は言った。「子を生むようなフランス女とは結婚しませんよ。」それはフランス女を子を生む実用にしないと言うのか、あるいは子を生むような実用的なフランス女は美的でないと言う若者の普通な美意識から出た言葉か知らなかったが、それも今では懐かしくかの女に思い返されるのであった。六年前連れて行ってかの女と逸作が一昨年える時、息子ばかりが巴里パリに残った。

 かの女が分譲地の標札ひょうさつの前にとまって、息子に対する妄想もうそうたくましくしてる間、逸作は二間ほど離れておとなしく直立して居た。おとなしくと言っても逸作のはただおとなしさではない。宇宙を小馬鹿こばかにしたような、ぬけぬけしいおとなしさだ。だから、太陽の光線とじか取引とりひきである。逸作のような端正たんせいな顔立ちには月光の照りが相応ふさわしそうで、実は逸作にはまだそれより現世に接近したひと皮がある。そのせいか逸作も太陽が好きだ。何処どこといって無駄な線のない顔面の初老に近い眼尻のかすかなしわの奥までたっぷり太陽の光を吸っている。風がすそをあおって行こうと、自転車が、人が、犬がり抜けて通って行こうと、逸作は頓着とんじゃくなしにぬけぬけとたちどまって居る。これを、宇宙を小馬鹿にした形と、かの女は内心で評して居る。

 ──もういのかい。

 逸作の平静な声調せいちょうは木の葉のそよぎと同じである。「死のようしずかだ」とかつて逸作を評したかの女の友人があった。その友人は、かの女を同情するようなうらやむような口調で言った。だが、かの女はそれはまだ逸作に対する表面の批評だと思った。逸作の静寂せいじゃくは死魂の静寂ではない。りに機械にたとえるとの機械は、一個所、非常に精鋭な部分があり、あとは使用を閑却かんきゃくされていると言ってい。無口で鈍重な逸作が、対社会的な画作に傑出けっしゅつして居るのは、その部分が機敏きびんに働く職能しょくのうの現れだからである。逸作のこの部分の働きの原動力、それはあるときは画業に対しある時はかの女に対する愛であるとうよりほかない。そしてある時は画業に対しある時はかの女に対してその逸作の非常に精鋭な部分が機敏に働いているのである。かの女もまたそれを確実に常に受け取ってるのである。だから、かの女は自分の妄想もうそうまでが、領土を広く持っている気がするのである。自分の妄想までをそばで逸作の機敏な部分が、咀嚼そしゃくしていてれる。咀嚼して消化こなれたそれは、逸作の心か体か知らないが、かく逸作の閑却された他の部分の空間にまでみて行く──つまり逸作が、かの女の自由な領土であるということだ。かの女が、逸作の傍で思い切って何でも言え、何でも妄想出来できるということが、逸作がかの女の領土である証拠であり、そういう両者の機能的関係が「円満な夫婦愛」などと、世人が言いふらすかの女の本体なのである。だが、かの女は「夫婦愛」などと言われるのは嫌いなのである。夫婦と言う字や発音は、なまなましい性欲の感じだ。「愛」と言うほのぼのとした言葉や字に相応しない、いやらしさをかの女は「夫婦」という字音に感じる。ただ、今はひとのことでる時、或る場合一寸ちょっとの字が現われて来るのなら彼女は宜いと思う。芝居の仕草しぐさや、浄瑠璃じょうるりのリズムにともない、「天下晴れての夫婦」などと若い水々みずみずしい男女の恋愛の結末の一場面のくぐりをつける時に、たった一つくらい此の言葉を使うのは、世話にくだけたなまめかしさを感じて宜いと彼女は思う。だが、もっと地味に、決定的に、質実に、その本質を指定することも出来ない組み合せになって相当、年月をた男女──少なくとも取り立てて男女などと感じなくなった自分達だけは、子の前などでは尚更なおさら「夫婦」なんてぷんぷんなまの性欲のにおいのする形容詞を着せられるのははずかしい。よく年若としわかな夫が自分の若い妻を「うちのばあさん」などと呼ぶ、あれも何となく気取ってるように思われるが、でも人の前で、こと器量きりょうくない夫婦などが「われわれ夫婦」などと言うのを聞くのをかの女は好まない。新聞や雑誌などで、夫婦という字を散見さんけんしても、ひとのことどうでもいようなものの、好もしいとはかの女は思わない。

 逸作とかの女との散歩の道は進む。

 ──あたし、あなたに見せるものあるのよ。

 ──そうかい。

 ──何だか知ってる?

 ──知らない。

 ──あてなさい、な。

 ──あたらない。

 ──あれだ。太郎から手紙よ。

 ──おい、見せなさいよ。

 ──道のまん中じゃあないの。

 ──好いからさ。

 ──墓地へ行って見せる。

 かの女はそでのなかで、がさがさしてる息子の手紙を帯の間へ移す。くどく無い逸作は、るものに食欲を出しかけたような唇を、一つ強く引き締めることによって、の欲望を制した。かの女のいたずら心が跳ね返ってよろこぶ。

 散歩に伴う生理調節作用としてんないたずらが、かの女には快適なのだった。

 逸作が、他にむかっての欲望の表現はくどくないのだ。しかし、逸作の心に根を保っている逸作の特種とくしゅの欲望がある。逸作はそれを自分の内心に追求するにまない男だ。逸作の特種な欲望とは極々ごくごく限られた二三のものに過ぎないと言える。その一つが、今かの女に刺戟しげきされた。──息子に対する逸作の愛情は親の本能愛を裏付けにして実にこまやかな素晴らしい友情だとかの女はる。不精ぶしょうな逸作は、わずらわしい他人の生活との交渉にらなければ保たれない普通の友人を持たないのである。他の肉親には、逸作もかの女も若い間に、ひどいめに会ってりてる。その悲哀や鬱憤うっぷんまじる濃厚な切実な愛情で、逸作とかの女はたった一人の息子を愛して愛して、愛し抜く。これが二人の共同作業となってしまった。

 逸作とかの女の愛の足ぶみを正直に跡付ける息子の性格、そしてかの女の愛も一緒に其処そこを歩めるのが、息子が逸作にとって一層いっそううってつけの愛の領土であるわけなのだ。かの女と逸作が、愛して愛して、愛し抜くことにって息子の性格にも吹き抜けるところが出来でき、其処から正直な芽や、怜悧れいり芽生めばえがすいすいと芽立って来て、逸作やかの女をよろこばした。逸作やかの女は近頃では息子の鋭敏な芸術的感覚や批判力に服するようにさえなった。だが、息子のそれらの良質や、それに附随ふずいする欠点が、世間へ成算せいさん的に役立つかとあやぶまれるとき、また不憫ふびんさの愛がえる。

 ──おい、小学校の方でなく、こっちから行こうよ。

 ──何故なぜ

 ──だって、子供達が道にいっぱいだ。

 ──早く、墓地へ行って手紙見度みたいから近道行こうってんでしょう。

 ──………………。

 ──え、そうでしょう。

 ──俺は子供きらいだ。

 そうだった。かの女はそれを忘れて居たのだ。逸作が近道を行って早く息子の手紙を見度いのも本当だろうが、逸作はたしかに、ぞろぞろ子供にうのは嫌いだった。子供は世の人々が言いとうとぶように無邪気なものと逸作もかの女も思っては居なかった。子供は無邪気に見えて、実は無遠慮な我利我利がりがりなのだ。子供はうそを言わないのではない。嘘さえ言えぬ未完成な生命なのだ。教養の不足してる小さな粗暴漢そぼうかんだ。そして恥や遠慮を知る大人を無視した横暴おうぼうな存在主張者だ。(逸作もかの女も、自分の息子が子供時代を離れ、一つの人格として認め得た時から息子への愛が確立したのだ。)本能で各々おのおのその親達が愛するのはい。しかし、逸作達が批判的に見る世の子供達は一見可愛かわいらしい形態をした嫌味いやみあくどい、無教養な粗暴な、かもやり切れない存在だ。

 ──でもパパは、童女どうじょ型だの、小児性しょうにせい夫人だのってカチ(逸作はかの女をう呼ぶ)を贔屓ひいきにするではないか。

 ──大人で童心どうしんを持ってるのと、子供が子供のまんまなのとは違うよ。大人で童心を持ってるその童心をむしろ普通の子供はちっとも持ってないんだ。だから子供のうちから本当の童心を持ってる子はやっぱり大人で童心を持ってる人と同じくすくないんだよ。

 うした筋の通らぬような、通ったような結論を或時あるとき二人がかりでこしらえてしまった。

 道の両側は文化住宅地だった。かの女達が伯林ベルリンの新住宅地で見て来たような大小の文化住宅が立ち並んでいる。だが、かの女は、の日本の小技工のたくみな建築が、寧ろ伯林のよりも効果的だと考えられるのである。日本で想像して居たより独逸ドイツ人の技巧は大まかだ。影か、骨か、何かがひとけた足りなくて、あのいたずらに高い北欧の青空の下に何処どこか間の抜けた調子で立ち並んでいるのであった。日本の建築が独逸のそれを模倣もほうしているのは一見明白であるが、実物で無い、独逸建築の写真で見た感覚から、多くの抜け目の無い効果を学びとったのであろう。かの女達が伯林で、現在眼の前の実物を観ながら、その建築物の写真の載った写真帖しゃしんちょうなど見並べると、驚くほどの写真の方が、線の影や深味ふかみが、精巧な怜悧れいり写術しゃじゅつによって附加されている。その写真帖を、そのまま、日本へ持って帰り、日本の人に見せるのは、少し、そらぞらしい嘘をつくようなうしろめたさを覚えた。が、それかと言って、その写真が計画的に修正でもしてあるわけでもなし、それは何処どこまでも、その独逸建築をありのままに写した写真なのだから仕方がない。人間の顔を写してもそうなのだ、平たい陰影の少ない東洋人の顔より、筋骨きんこつ的な線のはっきりした西洋人の顔が多く効果的に写る──ともかく日本の様式建築が、独逸の効果的写真帖の影や深味までを東洋人の感覚で了解し、原型伯林の建築より効果を出している。それが、日本の樹木の優雅なたたずまいや、葉のこまやかさの裏表に似つかわしく添って建っているのだ。

 ──何処の国の都会の住宅地でもそうだけど、五万円や八万円かかった住宅はどっさり建ってるでしょう。それでいて門標もんぴょうを見れば、何処の誰だか分らない人の名ばかりじゃないの。世の中にお金が無いなんて嘘のような気がするのね。

 ──………………。

 ──何故なぜだまって笑ってらっしゃるの。

 ──だって、君にしちゃあ、よくそんなところへ気が付いたもんだ。

 四辺しへんの空気が、冷え冷えとして来て墓地に近づいた。が、寺は無かった。独立した広い墓地だけに遠慮が無く這入はいれた。る墓標のそばには、大株の木蓮もくれんが白い律義りちぎな花を盛り上げていた。青苔あおごけが、青粉あおこを敷いたように広い墓地内の地面を落ち付かせていた。さび静まったの地上にぱっと目立つかんなやしおらしい夏草をそなえた新古の墓石や墓標が入り交って人々の生前と死後との境に、幾ばくかの主張を見せているようだ。すくなくともかの女にはそう感じられ、ささやかな竹垣や、いかめしい石垣、格子こうしのカナメ垣の墓囲いも、人間の小さい、いじらしい生前と死後との境を何か意味するように見える。

 ──生きてるものに取っては、ここが、死人の行った道の入口のような気がして、お墓はやっぱりあった方がいのね。

 ──そうかな、僕ぁんなもの面倒くさいな。死んだら灰にして海の上へでも飛行機でばらいてもらった方が気持がいな。

 いつか墓地の奥へ二人は来て居た。

 ──どれ見せな。

 ──息子の手紙? 執念深く見度みたがるのね。

 ──お墓の問題よりその方が僕にゃ先きだ。

 其処そこころがっている自然石のはしと端へ二人は腰を下ろした。夏の朝の太陽が、意地悪に底冷そこびえのする石の肌をほんのりとあたたなごめていた。二人は安気あんきにゆっくり腰を下ろしてられた。うむ、うむ、と逸作は、うまいものでもべる時のような味覚のうなずきを声に立てながら息子の手紙を読んで居る。

 ──ねえパパ。

 ──うるさいよ。

 ──何処どこまで読んだ?

 ──待て。

 ──其処そこに、ママの抒情じょじょう的世界を描けってところあるでしょう。

 ──待ちたまえ。

 逸作は一寸ちょっと腕をやくしてかの女を払い退けるようにして読み続けた。

 ──ねえ、ママの抒情的世界を描きなさいって書いて来てあるでしょう。ねえ、私の抒情的世界って、何なのいったい。

 ──考えて見なさい自分で。

 ──だってよくわからない。

 ──息子はあたまが良いよ。

 ──じゃ、巴里パリいてやろうか。

 ──馬鹿ばか言いなさんな、またたしなめられるぞ。

 ──だって判んないもの。

 ──つまりさ、君が、日常よろこんだり、怒ったり、考えたり、悲しんだりすることがあるだろう。その最も君にそくしたことを書けって言うんだ。

 ──私のそんなこと、それ私の抒情的世界って言うの。

 ──そうさ、何も、具体的に男と女がれたりはれたりすることばかりが抒情的じゃないくらい君判んないのかい。息子は頭が良いよ。君の日常の心身のムードに特殊性を認めてそれを抒情的と言ったんだよ、新らしい言い方だよ。

 ──うむ、そうか。

 かの女のぱっちりした眼が生きて、巴里の空を望むようなひとみの作用をした。

 ──判ってよ、ようく判ってよ。

 かの女は腰かけたまま足をぱたぱたさせた。

 かの女の小児型の足が二つまりのようにずんだ。よく見ればそれに大人おとなの筋肉の隆起りゅうきがいくらかあった。それを地上に落ち付けると赭茶あかちゃ駒下駄こまげたまわりだけがくびれて血色を寄せている。そのやわらかい筋肉とは無関係に、角化質かくかしつの堅いつめが短かくさきの丸いおさない指を屈伏くっぷくさせるように確乎かっこと並んでいる。此奴こいつ強情ごうじょう!と、逸作はその爪を眼でおさえながら言った。

 ──それからね。君の強情も。

 ──あたしの強情も抒情じょじょう的のなかに這入はいるの。

 ──そうさ。

 ──そんな事言えば、いくらだってあるわ。私が他所よそからひとりで帰って来る──すると時々パパがうちから出迎えてだまって肩をおさえて眼をつぶって、そしてけた時の眼が泣いている。こんなことも?

 ──うん。

 逸作は一寸ちょっと面倒らしい顔をした。

 ──そう、そう、その事ね。私たった一度山路さんとこで話しちゃった。そしたら山路さんも奥さんも不思議そうな顔して、「何故なぜでしょう」って言うの。「大方おおかた、独りで出つけない私が、よく車にもかれず犬にもまれず帰って来たって不憫ふびんがるのでしょう」って言ったら、物判ものわかりのい夫婦でしょう。すっかり判ったような顔してらしったわ。「私のこと、対世間的なことになると逸作は何でもあぶながります」って私言ったの。こんな事も抒情的なの。

 ──だろうな。

 逸作は自分に関することを、じかに言われるとじきにてれる男だ。

 ──ついでに私、山路さんとこでみんな言っちまった。世間で、私のことを「まあ御気丈おきじょうな、お独り子を修行しゅぎょうためとは言え、よくあんな遠方えんぽうへ置いてらしった。流石さすがにあなた方はお違いですね。判ってらっしゃる」って、世間は単純にそんなめ方ばかりしてます。雑誌などでも私を如何いかにも物の判った模範的な母親として有名にしちまいましたが、だが一応はそういうことも本当ですが、その奥にまだまだそれとはまるで違った本当のところがあるのですよ。そんな立ちまさった量見りょうけんからばかりで、あの子を巴里パリへ置いときませんって、──巴里は私達親子三人の恋人です。三人が三人、巴里パリるわけに行きませんから、せめて息子だけ、巴里って恋人に添わせて置くのを心遣こころやりに、私達は日本って母国へ帰って来ましたの。何も息子をえらくしようとか、世間へ出そうとか、そんな欲でやっとくんでもありません。言わば息子をあすこに置いとくことは、息子に離れてるつらい気持ちとやりとりの私達の命がけの贅沢ぜいたくなんですよ。…………てね。

 かの女は自分がそう言って居るうちに、それを自分に言ってきかせて居るような気持きもちになってしまった。

 ──ねえパパ、こんなところへ朝っから来て、こんなこと言ったりしてることも私の抒情じょじょう的世界ってことになるんでしょうね。

 ──ああ、当分、君の抒情的世界の探索たんさくにぎやかなことだろうよ。

 逸作は、息子の手紙をたたんだりほぐしたりしながら比較的実際的な眼付きを足下あしもと一処ひとところへ寄せて居た。逸作は息子に次に送るなりの費用の胸算用むなざんようをして居るのであろう。逸作の手のはしではじけている息子の手紙のドームという仏蘭西フランス文字のってあるレターペーパーをかの女はちらと眼にすると、それがモンパルナッスの大きなキャフェで、其処そこに息子と仲好なかよしの女達も沢山たくさん居て、かの女もその女達が可愛かわいくてひまさえあれば出掛でかけて行って紙つぶてを投げ合って遊んだことを懐しく想い出した。

 逸作がしばらく取り合わないので、かの女も自然自分自身の思考に這入はいって行った。

 暫くしてかの女が、空に浮く白雲しらくもの一群に眼をあげた時に、かの女は涙ぐんでた。かの女は逸作と息子との領土を持ちながらやっぱりまだ不平があった。世の中にもかの女自身にも。かの女はかの女の強情ごうじょうをも、傲慢ごうまんをも、潔癖けっぺきをも持てあまして居た。そのくせ、かの女は、かの女の強情やそれらを助長じょちょうさすのは、世の中なのだとさえ思って居る。

 人懐ひとなつかしがりのかの女を無条件によろこばせ、その尊厳そんげんか、怜悧れいりか、豪華か、素朴か、誠実か、何でもい素晴らしくそしてしみじみと本質的なものに屈伏くっぷくさせられるような領土をかの女は世の中の方にもまだ欲しい。かの女はそういうものがまれにはかの女の遠方えんぽうるのを感じる。しかし遠いものは遠いものとしてはるかに尊敬の念を送って居たい。わざわざ出かけて行って其処そこにふみ入ったり、きまつわったりするのはあくどくて嫌だ。かの女はそんな空想や逡巡しゅんじゅんの中に閉じこもって居るために、かの女に近い外界からだんだんだん遠ざかってしまった。かの女は閑寂かんじゃくな山中のような生活を都会のなかに送って居るのだ。それが、今のところかの女に適していると承知しょうちして居る。だが、かの女はそれがまた寂しいのだ。自分の意地や好みを立てて、その上、寂しがるのは贅沢ぜいたくと知りつつ時々涙が出るのだった。

 まだその日の疲れのにじまない朝の鳥が、二つ三つ眼界を横切った。つばさをきりりと立てた新鮮な飛鳥ひちょうの姿に、今までのかの女の思念しねんたれた。かの女は飛び去る鳥に眼を移した。鳥はまたたく間に、かの女の視線をって近くの小森に隠れて行った。残されたかの女の視線は、墓地に隣接するS病院の焼跡やけあとに落ちた。十年も前の焼跡だ。焼木杭やけぼっくいや焼灰等はちり程も残っていない。赤土あかつちの乾きが眼にも止まらぬ無数の小さな球となって放心ほうしんしたような広い地盤じばん上の層をなしている。一隅いちぐうに夏草の葉が光ってたくましく生えている。そのくさむらを根にして洞窟どうくつ残片ざんぺんのようにのこっている焼け落ちた建物の一角がある。それは空中を鍵形かぎがたに区切り、やいば型に刺し、その区切りの中間から見透みとおす空の色を一種の魔性ましょうに見せながら、その性全体においては茫漠ぼうばくとした虚無を示して十年の変遷へんせんのうちに根気こんきよく立っている。かの女は伊太利イタリアの旅で見た羅馬ローマの丘上のネロ皇帝宮殿の廃墟はいきょを思い出した。恐らく日本の廃園はいえんうまで彼処あそこに似たところは他には無かろう。

廃墟は廃墟としての命もちつゝ羅馬市の空にそびえてとこしへなるべし。

 かの女は自分が彼処あそこをうたった歌を思い出してた。

 と、何処どこか見当の付かぬ処で、大きなおならの音がした。かの女の引締ひきしまって居た気持を、急に飄々ひょうひょうとさせるような空漠くうばくとした音であった。

 ──パパ、聞こえた?

 逸作とかの女は不意に笑った顔を見合わせて居たのだ。

 ──墓地のなかね。

 ──うん。

 逸作はあたりまえだと言う顔に戻って居る。

 ──墓地のなかでおならする人、どう思うの。

 かの女は逸作をのぞくようにして言った。

 ──どうって、…………君はどう思う。

 ──私?

 かの女は眼をつむってしかつらして笑い直した。そして眼を開いて真面目に返ると言った。

 ──っぽど現実世界でいじめられてる人じゃないかしら。普通ならお墓へ来れば気が引締まるのに。お墓へ来て気がゆるんでおならをする人なんて。

 かの女達が腰を上げて墓地を出ようとすると、其処そこへ突然のようにプロレタリア作家甲野氏が現われた。

 朝は不思議にどんなみすぼらしい人の姿をもきたなくは見せない。その上、今日の甲野氏はいつもよりずっと身なりもさっぱりして居る。

 ──やあ。

 ──やあ。

 男同志の挨拶あいさつ──。

 かの女は咄嗟とっさの間に、おなら嫌疑けんぎを甲野氏にかけてしまった。そしてそのめに突き上げて来た笑いが、甲野氏への法外ほうがい愛嬌あいきょうになった。そのせいか一寸ちょっとひがやすい甲野氏が、むしろ彼から愛想よく出て来た。

 ──奥さんには久し振りですな。

 ──散歩?

 ──昨夜晩くまでかかって××社の仕事が済んだので、今朝けさ早く持ってって来ました。

 ──奥さんがおなくなりになってからお食事なんか如何どうなさいますの。

 ──外で安飯やすめしべてますよ。

 ──大変ね。

 ──ひとり者の気楽さってところもありますよ。

 墓地を出て両側のくぼみにきのこえていそうな日蔭ひかげの坂道にかかると、坂下から一幅いっぷくの冷たい風が吹き上げて来た。

 ──どうです、僕の汚い部屋へ一寸ちょっとお寄りになりませんか。

 ──有難ありがとう。

 逸作もかの女も甲野氏の部屋へ寄るとも寄らぬともめないでぶらぶら歩いた。道が、表街近くなった明るい三つ角に来た時、甲野氏は、自分の部屋に寄りそうもない二人と別れて自分の家の方へ行こうとしたが、また一寸引きかえして来て、ことにかの女に向いて言った。

 ──僕、昨日の朝、散歩のついでに戸崎夫人のところへ寄って見ましたよ。

 ──そう、此頃このごろあの方どうしてらっしゃる?

 ──相変あいかわらず真赤な洋服かなんか着てね、「甲野さんのようなプロレタリア文学家と私のような小説家と、どっちが世の中のめになるかってこと考えて御覧ごらんなさい。世の中には食えない人より食える人の方がずっと多いのだから、私の小説は、その食える人の方の読者の為めに書いてるんだ。」と、うですよ。は、は、は、は。

 かの女は、華美でも洗練されてるし、我儘わがままでも卒直そっちょくな戸崎夫人のうわさは不愉快ふゆかいでなかった。そういう甲野氏もひがやすいに似ず、ずかずか言われる戸崎夫人をちょいちょいたずねるらしかった。

 ──あなたのうわさも出ましたよ。あなたをたんとめて居たが、おしまいがいや、──だけどあの方あんなに息子の事ばかり思ってんのが気が知れないって。

 かの女はぷっと吹き出してしまった。かの女は子を持たない戸崎夫人が、猫、犬、小鳥、豆猿と、おおよそ小面倒な飼い者を体の周りにまつわり付けて暮らして居る姿を思い出したからである。

底本:「愛よ、愛」パサージュ叢書、メタローグ

   1999(平成11)年58日第1刷発行

底本の親本:「岡本かの子全集 第五卷」冬樹社

   1974(昭和49)年1210日初版第1刷発行

※表題は底本では、「かのじょの朝」となっています。

※「二三丁」「量見りょうけん」「鍵形かぎがた」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。

入力:門田裕志

校正:土屋隆

2004年217日作成

2013年105日修正

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