雪女
岡本綺堂




 O君は語る。


 大正の初年から某商会の満洲支店詰を勤めていた堀部君が足かけ十年振りで内地へ帰って来て、彼が満洲で遭遇した雪女の不思議な話を聞かせてくれた。

 この出来事の舞台は奉天ほうてんに近い芹菜堡子ぎんさいほしとかいう所だそうである。わたしもかつて満洲の土地を踏んだことがあるが、その芹菜堡子とかいうのはどんなところか知らない。しかし、それがいわゆる雲朔うんさくに近い荒涼たる寒村であることは容易に想像される。堀部君は商会の用向きで、遼陽りょうようの支店を出発して、まず撫順ぶじゅんの炭鉱へ行って、それから汽車で蘇家屯へ引っ返して、蘇家屯かち更に渾河こんがの方面にむかった。蘇家屯から奉天までは真っ直ぐに汽車で行かれるのであるが、堀部君は商売用の都合から渾河で汽車にわかれて、供に連れたシナ人と二人で奉天街道をたどって行った。

 一月の末で、おとといはここでもかなりの雪が降った。きょうは朝から陰ってつるぎのように尖った北風がひゅうひゅうと吹く。土地に馴れている堀部君は毛皮の帽子を眉深まぶかにかぶって、あつい外套の襟に顔をうずめて、十分に防寒の支度を整えていたのであるが、それでも総身そうみの血が凍るように冷えて来た。おまけに途中で日が暮れかかって、灰のような細かい雪が突然に吹きおろして来たので、堀部君はいよいより切れなくなった。たずねる先は渾河と奉天との丁度まん中で、その土地でも有名なりゅうという資産家の宅であるが、そこまではまだ十七清里しんりほどあると聞かされて、堀部君はがっかりした。

 日は暮れかかる、雪は降って来る。これから満洲の田舎路を日本の里数で約三里も歩かせられてはまらないと思ったので、堀部君は途中で供のシナ人に相談した。

「これから劉の家までは大変だ。どこかそこらに泊めてもらうことは出来まいか。」

 供のシナ人は堀部君の店に長く奉公して、気心きごころのよく知れている正直な青年であった。彼は李多リートーというのが本名であるが、堀部君の店では日本式に李太郎と呼びならわしていた。

劉家リューツェー、遠いあります。」と、李太郎も白い息をふきながら答えた。「しかし、ここらに客桟コーチェンありません。」

「宿屋は勿論あるまいよ。だが、どこかの家で泊めてくれるだろう。どんたきたない家でも今夜は我慢するよ。この先の村へはいったらいて見てくれ。」

「よろしい、判りました。」

 二人はだんだんに烈しくなって来る粉雪のなかを衝いて、俯向うつむきがちにあえぎながら歩いて行くと、葉のないやなぎに囲まれた小さい村の入口にたどり着いた。大きい木のかげに堀部君を休ませて置いて、李太郎はその村へ駈け込んで行ったが、やがて引っ返して来て、一軒の家を見つけたと手柄顔に報告した。

「泊めてくれるうち、すぐ見付けました。家の人、たいそう親切あります。家は綺麗、不乾浄プーカンジンありません。」

 綺麗でも穢くても大抵のことは我慢する覚悟で、堀部君は彼に誘われて行くと、それは石の井戸を前にした家で、ここらとしてはまず見苦しくない外構えであった。外套の雪を払いながら、堀部君はころげるように門のなかへ駈け込むと、これは満洲地方で見る普通の農家で、門の中にはかなり広い空地がある。その左の方には雇人の住家らしい小さい建物があって、南にむかった正面のやや大きい建物が母屋おもやであるらしく思われた。

 李太郎が先に立って案内すると、母屋からは五十五、六にもなろうかと思われる老人が出て来て、こころよく二人を迎えた。なるほど親切な人物らしいと、堀部君もまず喜んで内へ誘い入れられた。家のうちは土竈どべっついを据えたひと間をまん中にして、右と左とにひと間ずつの部屋が仕切られてあるらしく、堀部君らはその左の方の部屋に通された。そこはむろん土間で、南側と北側とには日本の床よりも少し高い寝床ねどこが設けられて、その上には古びたむしろが敷いてあった。土間には四角なテーブルのようなものが据えられて、木の腰掛けが三脚ならんでいた。

 老人は自分がこの家の主人であると言った。この頃はここらに悪い感冒がはやって、自分の妻も二人の雇人もみな病床に倒れているので碌々ろくろくにお構い申すことも出来ないと、気の毒そうに言訳をしていた。

「それにしても何か食わしてもらいたい。李太郎、お前も手伝ってなにか温かいものをこしらえてくれないか。」と、堀部君は寒気と疲労と空腹とにがっかりしながら言った。

「よろしい、よろしい。」

 李太郎も老人に頼んで、高粱コーリャンかゆを炊いてもらうことになった。彼は手伝って土竈の下を焚き始めた。その煙りがこちらの部屋まで流れ込んで来るので、堀部君は慌てて入口の戸を閉めたが、何分にも寒くて仕様がないので、再びその戸をあけて出て、自分もへっついの前にかがんでしまった。

 老人が堀部君を歓待したのは子細しさいのあることで、彼は男女三人の子供をもっているが、長男は営口の方へ出稼ぎに行って、それから更に上海へ移って外国人の店に雇われている。次男は奉天へ行って日本人のホテルに働いている。そういう事情から、彼は外国人に対しても自然に好意をもっている。殊に奉天のホテルでは次男を可愛がってくれるというので、日本人に対しては特別の親しみをもっているのであった。その話をきいて、堀部君はいい家へ泊り合せたと思った。粥は高粱の中へ豚の肉を入れたもので、その煮えるのを待ちかねて四、五椀すすり込むと、堀部君のひたいには汗がにじみ出して来た。

「やれ、ありがたい。これで生き返った。」

 ほっと息をついて元の部屋へ戻ると、李太郎は竈の下の燃えさしを持って来て、寝床の煖炉だんろに入れてくれた。老人も枯れた高粱の枝をかかえて来て、惜し気もなしに炉の中へたくさん押込んだ。

多謝トーシェー、多謝。」

 堀部君はしきりに礼を言いながら、炉のあたたまる間、テーブルの前に腰をおろすと、老人も来ていろいろの話をはじめた。ここの家は主人夫婦と、ことし十三になる娘と、別棟に住んでいる雇人二人と、現在のところでは一家内あわせて五人暮らしであるのに、その三人が枕に就いているので、働くものは老人と小娘に過ぎない。仕事のない冬の季節であるからいいようなものの、ほかの季節であったらどうすることも出来ないと、老人は顔を陰らせながら話した。それを気の毒そうに聞いているうちに、外の吹雪はいよいよ暴れて来たらしく、窓の戸をゆする風の音がすさまじく聞えた。

 ここらの農家では夜も灯をともさないのが習いで、ふだんならば火縄を吊るしておくに過ぎないのであるが、今夜は客への歓待かんたいぶりに一挺の蝋燭ろうそくがテーブルの上にともされている。その弱いひかりで堀部君は懐中時計を透かしてみると、午後六時を少し過ぎた頃であった。ここらの人たちはみな早寝であるが、堀部君にとってはまだ宵の口である。いくら疲れていても、今からすぐに寝るわけにもいかないので、幾分か迷惑そうな顔をしている老人を相手に、堀部君はまたいろいろの話をしているうちに、右の方の部屋で何かがたりという音がしたかと思うと、老人はにわかに顔色を変えて、あわただしく腰掛けをって、その部屋へ駈け込んで行った。

 その慌て加減があまりに烈しいので、堀部君も少しあっけに取られていると、老人はなにか低い声で口早にいっているらしかったが、それぎり暫くは出て来なかった。

「どうしたんだろう。病人でも悪くなったのか。」と、堀部君は李太郎に言った。「お前そっとのぞいてみろ。」

 ひとの内房を窺うというのは甚だよろしくないことであるので、李太郎は少し躊躇ちゅうちょしているらしかったが、これも一種の不安を感じたらしく、とうとう抜き足をして真ん中の土間へ忍び出て、右の方の部屋をそっと窺いに行ったが、やがて老人と一緒にこの部屋へ戻って来た。老人の顔の色はまだ蒼ざめていた。

「病人、悪くなったのではありません。」と、李太郎は説明した。

 しかし彼の顔色も少し穏かでないのが、堀部君の注意をひいた。

「じゃ、どうしたんだ。」

「雪の姑娘クーニャン、来るかも知れません。」

「なんだ、雪の姑娘というのは……。」

 雪の姑娘──日本でいえば、雪女とか雪女郎とかいう意味であるらしい。堀部君は不思議そうに相手の顔を見つめていると、李太郎は小声で答えた。

「雪の娘──鬼子コイツであります。」

「幽霊か。」と、堀部君もいよいよまゆしわめた。「そんか化け物が出るのか。」

「化け物、出ることあります。」と、李太郎は又ささやいた。「ここの家、三年前にも娘を取られました。」

「娘を取る……。その化け物が……。おかしいな。ほんとうかい。」

「嘘ありません。」

 なるほど嘘でもないらしい。死んだ者のように黙っている老人の蒼い顔には、強い強い恐怖の色が浮かんでいた。堀部君もしばらく黙って考えていた。



 雪の娘──幾年か満洲に住んでいる堀部君も、かつてそんな話を聞いたことはなかったが、今夜はじめてその説明を李太郎の口から聞かされた。

 今から三百年ほどの昔であろう。しんの太祖が遼東一帯の地を斬り従えて、瀋陽しんよう──今の奉天──に都を建てた当時のことである。かずある侍妾じしょうのうちに姜氏きょうしといううるわしい女があって、特に太祖の恩寵を蒙っていたので、それをねたむものが彼女に不貞のおこないがあると言い触らした。その相手は太祖の近臣で楊という美少年であった。それが太祖の耳に入って、姜氏と楊とは残酷な拷問をうけた。妬む者の讒言ざんげんか、それとも本当に覚えのあることか、そのうわさはまちまちでいずれとも決定しなかったが、ともかくも二人は有罪と決められて、楊は死罪に行なわれた。姜氏は大雪のふる夕、赤裸にして手足を縛られて、生きながらに渾河こんがの流れへ投げ込まれた。

 この悲惨な出来事があって以来、大雪のふる夜には、妖麗な白い女の姿が吹雪の中へまぼろしのように現われて、それに出逢うものは命をうしなうのである。そればかりでなく、その白い影は折りおりに人家へも忍び込んで来て、若い娘を招き去るのである。招かれた娘のゆくえは判らない。彼女は姜氏の幽魂に導かれて、おなじ渾河の水底へ押し沈められてしまうのであると、土地の者は恐れおののいている。その伝説は長く消えないで、渾河地方の雪の夜には妖麗幽怪な姑娘の物語が今もやはり繰返されているのである。現にここの家でも三年前、ちょうど今夜のような吹雪の夜に、十三になる姉娘を誘い出された怖ろしい経験をもっているので、おとといの晩もゆうべも、一家内は安き心もなかった。幸いにきょうは雪もやんだので、まずほっとしていると、夕方からまたもやこんな烈しい吹雪となったので、風にゆられる戸の音にも、天井を走る鼠の音にも、父の老人は弱い魂をおびやかされているのであった。

「ふうむ、どうも不思議だね。」と、堀部君はその奇怪な説明に耳をかたむけた。「じゃあ、ここの家ではかつて娘を取られたことがあるんだね。」

「そうです。」と、李太郎が怖ろしそうに言った。「姉も十三で取られました。妹もことし十三になります。また取られるかも知れません。」

「だって、その雪女はここの家ばかり狙うわけじゃあるまい。近所にも若い娘はたくさんいるだろう。」

「しかし美しい娘、たくさんありません。ここの家の娘、たいそう美しい。わたくし今、見て来ました。」

「そうすると、美しい娘ばかり狙うのか。」

「美しい娘、雪の姑娘に妬まれます。」

「けしからんね。」と、堀部君は蝋燭の火を見つめながら言った。「美しい娘ばかり狙うというのは、まるで我れわれのような幽霊だ。」

 李太郎はにっこりともしなかった。彼もこの奇怪な伝説に対して、すこぶる根強い迷信をもっているらしいので、堀部君はおかしくなって来た。

「で、昔からその白い女の正体をたしかに見届けた者はないんだね。」

「いいえ、見た者たくさんあります。あの雪の中に……。」と、李太郎は見えない表を指さした。「白い影のようなものが迷っています。そばへ近寄ったものはみな死にます。」

「それ以上のことは判らないんだね。で、その影のようなものは、戸が閉めてあっても、すうとはいって来るのか。」

「はいって来るときには、怖ろしい音がして戸がこわれます。戸を閉めて防ぐこと出来ません。」

「そうか。」と、堀部君は思わず声を立てて笑い出した。

 日本語の判らない老人は、びっくりしたように客の笑い顔をみあげた。李太郎も眼をみはって堀部君の顔を見つめていた。

「ここらにも馬賊はいるだろう。」と、堀部君は訊いた。

馬賊マーツェ、おります。」と、李太郎はうなずいた。

「それだよ。きっとそれだよ。」と、堀部君はやはり笑いながら言った。「馬賊にも限るまいが、とにかくに泥坊の仕業だよ。むかしからそんな伝説のあるのを利用して、白い女に化けて来るんだよ。つまり幽霊の真似をして方々の若い娘をさらって行くのさ。その行くえの判らないというのは、どこか遠いところへ連れて行って、淫売婦か何かに売り飛ばしてしまうからだろう。美しい娘にかぎってさらわれるというのが論より証拠だ。ねえ、そうじゃないか。」

「そうでありましょうか。」と、李太郎はまだ不得心らしい眼色を見せていた。

「お前からここの主人によく話してやれよ。それは渾河に投げ込まれた女の幽霊でもなんでもない。たしかに人間の仕業に相違ない。たしかに泥坊の仕業で、幽霊のふりをして若い娘をさらって行くのだと……。いや、まったくそれに相違ないよ。昔は本当に幽霊が出たかも知れないが、中華民国の今日にそんなものが出るはずがない。幽霊がはいって来るときに、戸がこわれるというのも一つの証拠だ。何かの道具で叩きこわしてはいって来るのさ、ねえ、そうじゃあないか。ほんとうの幽霊ならば何処かの隙間すきまからでも自由にすっとはいって来られそうなものだのに、怖ろしい音をさせてはいって来るなどはどうも怪しいよ。それらを考えたら、幽霊の正体も大抵は判りそうなものだが……。」

 あっぱれ相手のもうをひらいたつもりで、堀部君はここまでひと息にしゃべり続けたが、それは一向に手ごたえがなかった。李太郎は木偶でくの坊のようにただきょろりとして、こっちの口と眼の動くのを眺めているばかりで、なんともはっきりした返事をしないので、堀部君は少しれったくなって来た。今どきこんな迷信にとらわれて、あくまでも雪女の怪を信じているのかと思うと、情けなくもあり、ばかばかしくも感じられてならなかった。堀部君は叱るように彼を催促した。

「おい。そのことをここの主人に話して、早く安心させてやれよ。可哀そうに顔の色を変えて心配しているじゃないか。」

 叱られて、李太郎はさからわなかった。彼は主人の老人にむかって小声で話しかけた。堀部君もひと通りのシナ語には通じていたので、彼が正直に自分の意見を取次いでいるらしいのに満足して、黙って聞く人の顔色を窺っていると、老人は苦笑いをしてしずかにそのかしらをふった。

「まだ判らないのか。馬鹿だな。」

 堀部君は舌打ちした。今度は直接に自分から懇々と言い聞かせたが、老人は暗い顔をしてただ薄笑いをしているばかりで、どうしても、その意見を素直には受け入れないらしいので、堀部君もいよいよ癇癪かんしゃくを起した。

「もう勝手にするがいい。いくら言って聞かせても判らないんだから仕方がない。こんな人間だから大事の娘がさらって行かれるんだ。ばかばかしい。」

 こっちの機嫌が悪いらしいので、老人は気の毒そうに黙ってしまった。李太郎も手持ち不沙汰のような形でうつむいていた。

「李太郎。もう寝ようよ。雪女でも出て来るといけないから。」と、堀部君は言いだした。

「寝る、よろしい。」

 李太郎もすぐに賛成した。老人は挨拶して、自分の部屋の方へ帰った。寝床のむしろを探ってみると、煖炉は丁度いい加減に暖まっているので、堀部君は靴をぬいで寝床へ上がって毛織りの膝掛けを着てごろ寝をしてしまった。李太郎はもう半分以上も燃えてしまった蝋燭の火を細い火縄に移して、それからその蝋燭を吹き消した。火縄はよもぎの葉を細く縒合よりあわせたもので、天井から長く吊り下げてあった。

 疲れている堀部君は暖かい寝床の上でいい心持に寝てしまったが、自分の頭の上にある窓の戸を強くゆするような音におどろかされて眼を醒ました。部屋のうちは真っ暗で、細い火縄の火が秋の蛍のように微かに消え残っているばかりである。むこう側の寝床の上には、李太郎がいびきを立てて寝入っているらしかった。耳をすまして窺うと、家のうちはしィんとして鼠の走る音も聞えなかったが、表の吹雪はいよいよ吹き暴れて来たらしく、浪のような音を立ててごうごうと吹き寄せていた。窓の戸の揺れたのはこの雪風であることを堀部君はすぐにさとった。満洲の雪の夜、その寒さと寂しさとには馴れていながらも、堀部君はなんだか眼がさえて再び寝つかれなくなった。

 床の上に起き直って、堀部君はマッチをすって、懐中時計を照らしてみると、今夜はもう十二時に近かった。ついでに巻煙草をすいつけて、その一本をすい終った頃に、烈しい吹雪はまたどっと吹き寄せて来て、窓の戸を吹き破られるかと思うように、がたがたとあおられた。宵の話を思い出して、かの雪女が闖入ちんにゅうして来る時には、こんな物音がするかも知れないなどと堀部君は考えた。そうして、またもや横になったが、一旦さえた眼はどうしても合わなかった。

「なぜだろう。」

 自分は有名の寝坊で、いつも朋輩ほうばいたちに笑われているくらいである。なんどきどんな所でも、枕につけばきっと朝までは正体もなく寝てしまうのが例であるのに、今夜にかぎって眠られないのは不思議である。やはりかの雪女の一件が、頭のなかで何かの邪魔をしているのではあるまいか。俺もだんだんシナ人にかぶれて来たかと、堀部君は自分で自分の臆病をあざけったが、また考えてみると、幽霊よりも馬賊の方が恐ろしい。幽霊などは初めから問題にならないが、馬賊は何をするか判らない。日本人が今夜ここに泊り込んだのを知って、夜なかに襲って来ないとも限らない。堀部君は提げかばんからピストルを探り出して、枕もとにおいた。こうなるといよいよ眠られない。いや、眠られない方が本当であるかも知れないと思い直して、堀部君は寝床の上に起き直ってしまった。

 寝しずまった村の上に吹雪は小やみもなしに暴れ狂っていた。夜がふけて煖炉の火もだんだん衰えたらしく、堀部君は何だかぞくぞくして来たので、探りながら寝床をい降りて、まん中の土間へ焚き物の高粱コーリャンを取りに行った。土間の隅にはかの土竈どべっついがあって、そのそばには幾束の高粱が積み重ねてあることを知っているので、堀部君は探り足でその方角へ進んで行くと、切株の腰掛けにつまずいて危うく転びそうになったので、あわててマッチをすると、その火は物につかまれたようにふっと消えてしまった。

 その一刹那せつなである。入口の戸にさらさらと物の触れるような音がきこえた。



 暗いなかで耳を澄ますと、それは細かい雪の触れる音らしいので、堀部君は自分の神経過敏を笑った。しかもその音は続けてきこえるので、堀部君はなんだか気になってならなかった。さっきから吹きつけている雪の音は、こんなに静かな柔かいものではない。気のせいか、何者かが戸の外へ忍んで来て内を窺っているらしくも思われるので、堀部君はぬき足をして入口の戸のそばへ忍んで行った。戸に耳を押し付けてじっと聞き澄ますと、それは雪の音ではない。どうも何者かがそこにたたずんでいるらしいので、堀部君はそっと自分の部屋へ引っ返して、枕もとのピストルを掴んだ。それから小声で李太郎を呼び起した。

「おい、起きろ、起きろ。李太郎。」

「あい、あい。」と、李太郎は寝ぼけ声で答えたが、やはりすぐには起き上がりそうもなかった。

「李太郎、早く起きろよ。」と、堀部君はじれて揺り起した。「雪女が来た。」

「あなた、嘘あります。」

「嘘じゃない、早く起きてくれ。」

「ほんとうありますか。」ど、李太郎はあわてて飛び起きた。

「どうも戸の外に何かいるらしい。僕も一緒に行くから、戸をあけてみろ。」

「いけません、いけません。」と、李太郎は制した。「あなた、見ることよろしくない。隠れている、よろしい。」

 暗がりで顔は見えないが、その声がひどくふるえているので、かれが異常の恐怖におそわれているらしいのが知られた。堀部君はその肩のあたりを引っ掴んで、寝床から引きずりおろした。

「弱虫め。僕が一緒に行くから大丈夫だ。早くしろ。」

 李太郎は探りながら靴をはいて、堀部君に引っ張られて出た。入口の戸は左右へ開くようになっていて、まん中には鍵がかけてあった。そこへ来て、また躊躇ちゅうちょしているらしい彼を小声で叱り励まして、堀部君はその扉をあけさせた。李太郎はふるえながら鍵をはずして、一方の扉をそっと細目にあけると、その隙間から灰のような細かい雪が眼つぶしのようにさっと吹き込んで来た。片手にはピストル、片手はハンカチーフで眼をぬぐいながら、堀部君は扉のあいだから表を覗くと、外は一面に白かった。

 どちらから吹いて来る風か知らないが、空も土もただ真っ白な中で、そこにもここにも白い渦が大きい浪のように巻き上がって狂っている。そのほかにはなんの影も見えないので、堀部君は案に相違した。なんにも居ないらしいのに安心して、李太郎は思い切ってその扉を大きく明けると、氷のように寒い風が吹雪と共に狭い土間へ流れ込んで来たので、ふたりは思わず身をすくめる途端に、李太郎は小声であっと言った。そうして、力いっぱいに堀部君の腕をつかんだ。

「あ、あれ、ごらんなさい。」

 彼が指さす方角には、白馬がおどり狂っているような吹雪の渦が見えた。その渦の中心かと思うところに更に、いつそう白い影がぼんやりと浮いていて、それは女の影であるらしく見えたので、堀部君もぎょっとした。ピストルを固く握りしめながら、息を殺して窺っていると、女のような白い影は吹雪に揉まれて右へ左へただよいながら、門内の空地あきちをさまよっているのであった。雪煙りかと思って堀部君は眼を据えてきっと見つめていたが、それが煙りかまぼろしか、その正体をたしかめることが出来なかった。しかし、それが人間でないことだけは確かであるので、馬賊の懸念はまず消え失せて、堀部君もピストルを握ったこぶしがすこしゆるむと、家のなかから又もや影のように迷い出たものがあった。

 その影は二人のあいだをするりと摺りぬけて、李太郎のあけた扉の隙間から表へふらふらと出ていった。

「あ、姑娘クーニャン。」と、李太郎が小声でまた叫んだ。

「ここのうちの娘か。」

 あまりの怖ろしさに李太郎はもう口がきけないらしかった。しかしそれが家の娘であるらしいことは容易に想像されたので、堀部君はピストルを持ったままで雪のなかへ追って出ると、娘の白い影は吹雪の渦に呑まれてたちまち見えなくなった。

「早く主人に知らせろ。」

 李太郎に言い捨てて、堀部君は強情に雪のなかを追って行くと、門のあたりで娘の白い影がまたあらわれた。と思うと、それは浪にさらわれた人のように、雪けむりに巻き込まれて門の外へ投げやられたらしく見えた。門は幸いに低いので、堀部君は半分夢中でそれを乗り越えて、表の往来まで追って出ると、娘の影は大きいやなぎの下にまた浮き出した。

「姑娘、姑娘。」と、堀部君は大きい声で呼んだ。「上那児去シャンナールチユイ。」

 どこへ行く、などと呼びかけても、娘の影は見返りもしなかった。それは風に吹きやられる木の葉のように、何処どこともなしに迷って行くらしかった。

 それでも姑娘を呼びつづけて七、八けんほども追って行くと、又ひとしきり烈しい吹雪がどっと吹きまいて来て、堀部君はあやうく倒されそうになったので、そこらにある楊に取り付いてほっとひと息ついた時に、堀部君はさらに怪しいものを見せられた。それはさっき門内の空地にさまよっていた女のような白い影で、娘よりも二、三歩さきに雪のなかを浮いて行くと、娘の影はそれにおくれまいとするように追って行くのであった。うず巻く雪けむりの中にその二つの白い影が消えてあらわれて、よれてもつれて、浮くかと思えば沈み、たゆとうかと思えばまた走って、やがて堀部君の眼のとどかない所へ隠れてしまった。

 もう諦めて引っ返して来ると、内には李太郎が蝋燭をとぼして、恐怖に満ちた眼色をしてぼんやりと突っ立っていた。

「姑娘はどうした。」と、堀部君はからだの雪を払いながら訊いた。

「姑娘、おりません。」

 堀部君はさらに右の方の部屋をたずねると、主人の老人は寝床から這い落ちたらしい妻を抱えて、土間の上に泣き倒れていた。娘らしい者の姿は見えなかった。


 話はこれぎりである。堀部君はあくる朝そこを発って、雪の晴れたのを幸いに、三里ほどの路をたどって劉の家をたずねると、その一家でもゆうべの話をきいて、みな顔色を変えていたそうである。ここらの者はすべて雪女の伝説を信じているらしいということであった。もし堀部君に探偵趣味があり、時間の余裕があったらば、進んでその秘密を探り究めることが出来たかも知れなかったが、不幸にして彼はそれだけの事実をわたしに報告してくれたに過ぎなかった。

底本:「鷲」光文社文庫、光文社

   1990(平成2)年820日初版1刷発行

初出:「子供役者の死」隆文館

   1921(大正10)年3

入力:門田裕志、小林繁雄

校正:松永正敏

2006年1031日作成

2011年104日修正

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