二筋の血
石川啄木



 夢の様な幼少の時の追憶、喜びも悲みも罪のない事許り、それからそれと朧気おぼろげに続いて、今になつては、皆、仄かな哀感の霞を隔てゝうららかな子供芝居でも見る様に懐かしいのであるが、其中で、十五六年後の今日でも猶、鮮やかに私の目に残つてゐる事が二つある。

 何方どつちが先で、何方が後だつたのか、明瞭はつきりとは思出しにくい。が私は六歳で村の小学校に上つて、二年生から三年生に進む大試験に、私の半生に唯一度の落第をした。其落第の時に藤野さんがゐたのだから、一つはたしか二度目の二年生の八歳の年、夏休み中の出来事と憶えてゐる。も一つも、暑い盛りの事であつたから、矢張其頃の事であつたらう。

 今では文部省令が厳しくて、学齢前の子供を入学させる様な事は全く無いのであるが、私の幼かつた頃は、片田舎の事でもあり、左程面倒な手続も要らなかつた様である。でも数へ年で僅か六歳の、然も私の様に尫弱かよわい者の入学はひるのは、余り例のない事であつた。それは詰り、平生私の遊び仲間であつた一歳二歳ひとつふたつ年長の子供等が、五人も七人も一度に学校に上つて了つて、淋しくて〳〵たまらぬ所から、毎日の様に好人物の父に強請ねだつた為なので、初めの間こそお前はまだ余り小いからとめてゐたが、根が悪い事ぢや無し、父も内心には喜んだと見えて、到頭或日学校の高島先生に願つて呉れて、翌日からは私も、二枚折の紙石盤やら硯やら石筆やらを買つて貰つて、諸友みんなと一緒に学校に行く事になつた。されば私の入学は、同じ級の者より一ヶ月も後の事であつた。父は珍らしい学問好で、用のない冬の晩などは、字が見えぬ程煤びきつて、表紙の襤褸ぼろぼろになつた孝経やら十八史略の端本はほんやらを持つて、茶話ながらに高島先生に教はりに行く事などもあつたものだ。

 其頃父は三十五六、田舎には稀な程晩婚であつた所為せゐでもあらうか、私には兄も姉も、妹もなくて唯一粒種、きつい言葉一つ懸けられずに育つた為めか背丈だけは普通であつたけれども、ひよろ〳〵と痩せ細つてゐて、随分近所の子供等と一緒に、裸足はだし戸外そとの遊戯もやるにかゝはらず、どうしたものか顔が蒼白く、駆競かけくらでも相撲でも私に敗ける者は一人も無かつた。随つて、さうして遊んでゐながらも、時としてこつそり一人で家に帰る事もあつたが、学校に上つてからも其性癖が変らず、楽書をしたり、木柵をくぐり抜けたりして先生に叱られる事は人並であつたけれど、兎角卑屈で、寡言むつつりで、黒板に書いた字を読めなどと言はれると、直ぐ赤くなつて、うつむいて、返事もせず石の如く堅くなつたものだ。自分から進んで学校に入れて貰つたに拘らず、私はつい学科に興味を有てなかつた。加之のみならず時には昼休に家へ帰つた儘、人知れず裏の物置に隠れてゐて、午後の課業を休む事さへあつた。病身の母は、何日いつか私の頭を撫でながら、此児も少し他の子供等と喧嘩でもして呉れる様になればいと言つた事がある。私は何とも言はなかつたが、腹の中では、喧嘩すれば俺が敗けるもの、と考へてゐた。

 私の家といふのは、村に唯一軒の桶屋であつたが、桶屋だけでは生計が立たぬので、近江屋といふ近郷一の大地主から、少し許り田を借りて小作をしてゐた。随つて、年中変らぬ稗勝ひえがちの飯に粘気がなく、時偶ときたま夜話に来る人でもあれば、母が取あへず米を一掴み程十能でつて、茶代りに出すといふ有様であつたから、私なども、年中つぎだらけな布の股引を穿いて、腰までしかない洗晒しの筒袖、同じ服装なりの子供等と共に裸足で歩く事は慣れたもので、頭髪かみの延びた時は父が手づから剃つて呉れるのであつた。名は檜沢新太郎といふのだが、村の人は誰でも「桶屋の新太」と呼んだ。

 学校では、前にも言つた如く、ちつとも学科に身を入れなかつたから、一年から二年に昇る時は、三十人許りのクラスのうち尻から二番でやつと及第した。悪い事には、私の家の両隣の子供、一人は一級上の男で、一人は同じ級の女の児であつたが、何方も其時半紙何帖かを水引で結んだ御褒賞を貰つたので、私は流石に、子供心にも情ない様な気がして、其授与式の日は、学校から帰ると、いつもの様に戸外に出もせず、日が暮れるまで大きい囲炉裏の隅にうずくまつて、浮かぬ顔をして火箸許りいぢつてゐたので、父は夕飯が済んでから、黒い羊〓(「羔/((美-大)/人)」)を二本買つて来て呉れて、お前は一番ちひさいのだからと言つて慰めて呉れた。

 それも翌日になれば、もう忘れて了つて、私は相変らず時々午後の課業を休み〳〵してゐたが、七歳の年が暮れての正月、第三学期の始めになつて、学校には少し珍らしい事が起つた。それは、佐藤藤野といふ、村ではくらべる者の無い程美しい女の児が、突然一年生に入つて来た事なので。

 百何人の生徒は皆目をそばだてた。実際藤野さんは、今想うても余り類のない程美しい児だつたので、前髪を眉の辺まで下げた顔が円く、黒味勝の眼がパツチリと明るくて、色は飽迄白く、笑ふ毎に笑窪ゑくぼが出来た。男生徒は言はずもの事、女生徒といつても、赤い布片きれか何かで無雑作に髪を束ねた頭を、垢染みた浅黄の手拭に包んで、雪でも降る日には、不格好な雪沓つまごを穿いて、半分に截つた赤毛布を頭からスツポリ被つて来る者の多い中に、大きく菊の花を染めた、派手な唐縮緬たうちりめん衣服きものを着た藤野さんの姿の交つたのは、村端むらはづれの泥田に蓮華の花の咲いたよりも猶鮮やかに、私共の眼に映つたのであつた。

 藤野さんは、其以前、村から十里とも隔たらぬ盛岡の市の学校にゐたといふ事で、近江屋の分家の、呉服屋をしてゐる新家しんけといふ家に、阿母おつかさんといふ人と二人で来てゐた。

 私共の耳にまで入つた村の噂では、藤野さんの阿母さんといふ人は、二三年も前から眼病を患つてゐた新家の御新造の妹なさうで、盛岡でも可也な金物屋だつたのが、どうした破目かで破産して、夫といふ人が首をくくつて死んで了つた為め、新家の家の家政を手伝ひ旁々かたがた、亡夫の忘れ形見の藤野さんを伴れて、世話になりに来たのだといふ事であつた。其阿母さんも亦、小柄な、色の白く美しい、姉なる新家の御新造にも似ず、いたつて快活な愛想の好い人であつた。

 村の学校は、其頃まだ見窄みすぼらしい尋常科の単級で、外に補習科の生徒が六七人、先生も高島先生一人りだつたので、教場も唯一つ。級は違つてゐても、鈴の様な好い声で藤野さんが読本を読む時は、百何人が皆石筆や筆を休ませて、其方許り見たものだ。殊に私は、習字と算術の時間が厭で〳〵たまらぬ所から、よく呆然ぼんやりして藤野さんの方を見てゐたもので、其度先生は竹の鞭で私の頭を軽く叩いたものである。

 藤野さんは、何学科でも成績が可かつた。何日であつたか、二年生の女生徒共が、何か授業中に悪戯いたづらをしたといつて、先生は藤野さんを例に引いて誡められた事もあつた様だ。上級の生徒は、少しそれに不服であつた。然し私は何も怪まなかつた。何故なれば、藤野さんは其頃、学校中で、村中で、否、当時の私にとつての全世界で、一番美しい、善い人であつたのだから。

 其年の三月三十日は、例年の如く証書授与式、近江屋の旦那様を初め、村長様もお医者様も、其他村の人達が五六人学校に来られた。私も、秘蔵の袖の長い衣服きものを着せられ、半幅の白木綿を兵児帯へこおびにして、皆と一緒に行つたが、黒い洋服を着た高島先生は、常よりも一層立派に見えた。教場も立派に飾られてゐて、正面には日の丸の旗が交叉してあつた。其前の、白い覆布おほひをかけた卓には、松の枝と竹を立てた、大きい花瓶が載せてあつた様に憶えてゐる。勅語の捧読やら「君が代」の合唱やらが済んで、十何人かの卒業生が、交る〳〵呼出されて、皆嬉し相にして卒業証書を貰つて来る。其中の優等生は又、村長様の前に呼ばれて御褒賞を貰つた。やがて、三年二年一年といふ順で、新たに進級した者の名が読上げられたが、怎したものか私の名は其中に無かつた。「新太ア落第だ、落第だ。」と言つて周囲の子供等は皆私の顔を見た。私は其時甚麽どんな気持がしたつたか、今になつては思出せない。

 式が済んでから、近江屋様から下さるといふ紅白の餅だけは私も貰つた。皆は打伴れて勇まし相に家に帰つて行つたが、私共落第した者六七人だけは、用があるからと言つて先生に残された。其中には村端の掘立小屋の娘もあつて、潸々さめざめ泣いてゐたが、私は、若しや先生は私にだけ証書を後で呉れるのではないかといふ様な、理由もない事を心待ちに待つてゐた様であつた。

 軈て一人々々教員室に呼ばれて、それ〴〵に誡められたり励まされたりしたが、私は一番後廻しになつた。そして、「お前はまだ年もいかないし、体も弱いから、もう一年二年生で勉強して見ろ。」と言はれて、私は聞えぬ位に「ハイ」と答へて叩頭おじぎをすると、先生は私の頭を撫でて、「お前は余りおとなし過ぎる。」と言つた、そして卓子の上のお盆から、麦煎餅を三枚取つて下すつたが、私は其時程先生のお慈悲を有難いと思つた事はなかつた。其へやには、村長様を初め二三人の老人達がまだ残つてゐた。

 私は紙に包んだ紅白の餅と麦煎餅を、両手で胸に抱いて、悄々しをしをと其処を出て来たが、昇降口まで来ると、唯もう無暗に悲しくなつて、泣きたくなつて了つた。喉まで出懸けた声は辛うじて噛殺したが、先生の有難さ、友達に冷笑ひやかされる羞かしさ、家へ帰つて何と言つたものだらうといふ様な事を、子供心に考へると、小さい胸は一図に迫つて、涙が留度もなく溢れる。すると、怎して残つてゐたものか、二三人の女生徒が小使室の方から出て来た様子がしたので、私は何とも言へぬ羞かしさに急に動悸がして来て、ぴたりと柱に凭懸よりかかつた儘、顔を見せまいと俯いた。

 すた〳〵と軽い草履の音が後ろに近づいたと思ふと、『どうしたの、新太郎さん?』と言つた声は、藤野さんであつた。それまで一度も言葉を交した事のない人から、う言はれたので、私は思はず顔を上げると、藤野さんは、晴乎ぱつちりとした眼に柔かな光を湛へて、凝と私をみつめてゐた。私は直ぐ又うつむいて、下唇を噛締めたが、それでも歔欷すすりなきが洩れる。

 藤野さんは暫く黙つてゐたが、『泣かないんだ、新太郎さん。私だつて今度は、一番下でやつと及第したもの。』と、弟にでも言ふ様に言つて、『明日好い物持つてつて上げるから、泣かないんだ。皆が笑ふから。』と私の顔を覗き込む様にしたが、私は片頬を柱に擦りつけて、覗かれまいとしたので、又すた〳〵と行つて了つた。藤野さんは何学科も成績がかつたのだけれど、三学期になつてから入つたので、一番尻で二年生に進級したのであつた。

 其日の夕暮、父は店先でトン〳〵と桶のたがれてゐたし、母は水汲に出て行つた後で私は悄然と囲炉裏の隅に蹲つて、もう人顔も見えぬ程薄暗くなつた中に、焚火の中へ竹屑を投げ入れては、チロ〳〵と舌を出す様に燃えて了ふのを余念もなく眺めてゐたが、裏口から細い声で、『新太郎さん、新太郎さん。』と、呼ぶ人がある、私はハツと思ふと、突然いきなり土間へ飛び下りて、草履も穿かずに裏口へ駈けて行つた。

 藤野さんは唯一人、戸の蔭に身を擦り寄せて立つてゐたが、私を見ると莞爾につこり笑つて、『まあ、裸足で。』と、心持眉をしかめた。そして急がしく袂の中から、何か紙に包んだ物を出して私の手に渡した。

『これ上げるから、一生懸命勉強するツこ。私もするから。』と言ふなり、私は一言も言はずに茫然ぼんやり立つてゐたので、すた〳〵と夕暗の中を走つて行つたが、五六間行くと後ろを振返つて、手を顔の前で左右に動かした。誰にも言ふなといふ事だと気が附いたので、私はうなづいて見せると、其儘またすた〳〵と梨の樹の下を。

 紙包の中には、洋紙の帳面が一冊に半分程になつた古鉛筆、淡紅色ときいろメリンスの布片に捲いたのは、鉛で拵へた玩具の懐中時計であつた。

 其夜私は、薄暗い手ランプの影で、鉛筆の心をめながら、贈物の帳面に、読本を第一課から四五枚許り、丁寧に謄写した。私が初めて文字を学ぶ喜びを知つたのは、実に其時であつた。


 人の心といふものは奇妙なものである。二度目の二年生の授業が始まると、私は何といふ事もなく学校に行くのがたのしくなつて、今迄は飽きて〳〵仕方のなかつた五十分づつの授業が、他愛もなく過ぎて了ふ様になつた。竹の鞭で頭を叩かれる事もなくなつた。

 広い教場の、南と北の壁に黒板が二枚宛、高島先生は急がしさうに其四枚の黒板を廻つて歩いて教へるのであつたが、二年生は、北の壁の西寄りの黒板に向つて、粗末な机と腰掛を二列に並べてゐた。前の方の机に一団になつてゐる女生徒には、無論藤野さんがゐた。

 新学年が始まつて三日目かに、私は初めて先生に賞められた。黙つて聞いてさへ居れば、先生の教へる事は屹度きつと解る。記憶力の強い子供の頭は、一度理解したことは仲々忘れるものでない。知つた者は手を挙げろと言はれて、私は手を挙げぬ事は殆んど無かつた。

 何の学科として嫌ひなものはなかつたが、殊に私は習字の時間が好であつた。先生は大抵私に水注みづつぎの役を吩咐いひつけられる。私は、葉鉄ぶりきで拵へた水差を持つて、机から机と廻つて歩く。机の両端には一つ〳〵硯が出てゐるのであつたが、大抵は虎斑とらふか黒の石なのに、藤野さんだけは、何石なのか紫色であつた。そして、私が水を注いでやつた時、ちよつ叩頭おじぎをするのは藤野さん一人であつた。

 気の揉めるのは算術の時間であつた。私も藤野さんも其年八歳であつたのに、豊吉といふ児が同じ級にあつて、それが私等よりも二歳か年長であつた。体も大きく、頭脳も発達してゐて、私が知つてゐる事は大抵藤野さんも知つてゐたが、又、二人が手を挙げる時は大抵豊吉も手を挙げた。何しろ子供の時の二歳ふたつ違ひは、頭脳の活動の精不精に大した懸隔があるもので、それの最も顕著に現はれるのは算術である。豊吉は算術が得意であつた。

 問題を出して置いて、先生は別の黒板の方へ廻つて行かれる。そして又帰つて来て、『出来た人は手を挙げて。』と竹の鞭を高く挙げられる。それが、少し難かしい問題であると、藤野さんは手を挙げながら、若くは手を挙げずに、屹度後ろを向いて私の方を見る。私は、其眼に満干さしひきする微かな波をも見遁す事はなかつた。二人共手を挙げた時、殊に豊吉の出来なかつた時は、藤野さんの眼は喜びに輝いた。豊吉も藤野さんも出来なくて、私だけ手を挙げた時は、邪気あどけない羨望の波が寄つた。若しかして、豊吉も藤野さんも手を挙げて、私だけ出来ない事があると、気の毒相な眼眸まなざしをする。そして、二人共出来ずに、豊吉だけ誇りかに手を挙げた時は、美しい藤野さんの顔が瞬く間暗い翳におほはれるのであつた。

 藤野さんの本を読む声は、隣席の人にすら聞えぬ程に読む他の女生徒と違つて、凛として爽やかであつた。そして其読方には、村の児等にはない、一種の抑揚ふしがあつた。私は、一月二月と経つうちに、何日いつともなく、自分でも心附かずに其抑揚を真似る様になつた。友達はそれと気が附いて笑つた。笑はれて、私は改めようとするけれども、いざとなつて声立てゝ読む時は、屹度其の抑揚ふしが出る。或時、小使室の前の井戸端で、六七人も集つて色々な事を言ひ合つてゐた時に、豊吉は不図其事を言ひ出して、散々に笑つた末、『新太と藤野さんと夫婦になつたらがんべえな。』と言つた。

 藤野さんは五六歩離れた所に立つてゐたつたが、此時、『成るとも。成るとも。』と言つて皆を驚かした。私は顔を真赤にして矢庭に駈出して了つた。

 いくら子供でも、男と女は矢張男と女、学校で一緒に遊ぶ事などは殆んど無かつたが、夕方になると、家々の軒や破風に夕餉ゆふげの煙のたなびく街道に出て、よく私共は宝奪ひや鬼ごツこをやつた。時とすると、それが男組と女組と一緒になる事があつて、其麽時は誰しも周囲あたりが暗くなつて了ふまで夢中になつて遊ぶのであるが、藤野さんが鬼になると、屹度私を目懸けて追つて来る。私はそれが嬉しかつた。奈何どんな尫弱かよわい体質でも、私は流石に男の児、藤野さんはキツと口を結んで敏く追つて来るけれど、容易に捉らない。終ひには息を切らして喘々ぜいぜいするのであるが、私はわざと捉まつてやつて可いのであるけれど、其処は子供心で、飽迄も〳〵身を翻して意地悪く遁げ廻る。それなのに、藤野さんは鬼ごツこの度、矢張私許り目懸けるのであつた。

 新家の家には、藤野さんと従兄弟同志の男の児が三人あつた。上の二人は四年と三年、末児はまだ学校に上らなかつたが、何れも余り成績がくなく、同年輩の近江屋の児等と極く仲が悪かつたが、私の朧気おぼろげに憶えてゐる所では、藤野さんもよく二人の上の児に苛責いぢめられてゐた様であつた。何日か何処かで叩かれてゐるのを見た事もある様だが、それは明瞭はつきりしない。唯一度私が小さい桶を担いで、新家の裏の井戸に水汲に行くと、恰度其処の裏門の柱に藤野さんが倚懸よりかかつてゐて、一人潸々さめざめ泣いてゐた。怎したのだと私は言葉をかけたが、返事はしないで長い袂の端を前歯で噛んでゐた。さうなると、私は性質としてもう何も言へなくなるので、自分まで妙に涙ぐまれる様な気がして来て、黙つて大柄杓で水を汲んだが、桶を担いで歩き出すと、『新太郎さん。』と呼止められた。

『何す?』

『好い物見せるから。』

『何だす?』

『これ。』と言つて、袂の中から丁寧に、美しい花簪はなかんざしを出して見せた。

『綺麗だなす。』

『……………。』

『買つたのすか?』

 藤野さんは頭を振る。

『貰つたのすか?』

阿母おつかさんから。』と低く言つて、二度許り歔欷すすりあげた。

『富太郎さん(新家の長男)に苛責いぢめられたのすか?』

『二人に。』

 私は何とか言つて慰めたかつたが、何とも言ひ様がなくて、黙つて顔をみつめてゐると、『これ上げようかな?』と言つて、花簪を弄つたが、『お前は男だから。』と後に隠す振をするなり、涙に濡れた顔に美しく笑つて、バタ〳〵と門の中へ駈けて行つて了つた。私は稚い心で、藤野さんが二人の従兄弟に苛責いぢめられて泣いたので、阿母さんが簪を呉れてすかしたのであらうと想像して、何といふ事もなく富太郎のノツペリした面相つらつきが憎らしく、妙な心地で家に帰つた事があつた。

 何日いつしか四箇月が過ぎて、七月の末は一学期末の試験。一番は豊吉、二番は私、藤野さんが三番といふ成績を知らせられて、夏休みが来た。藤野さんは、豊吉に敗けたのが口惜しいと言つて泣いたと、富太郎が言囃いひはやして歩いた事を憶えてゐる。


 休暇となれば、友達は皆、本や石盤の置所も忘れて、毎日々々山蔭の用水池に水泳に行くものであつた。私も一寸々々ちよいちよい一緒に行かぬではなかつたが、怎してか大抵一人先に帰つて来るので、父の仕事場にしてある店先の板間に、竹屑やら鉋屑かんなくづの中に腹匍はらばひになつては、汗を流しながら読本を復習さらつたり、手習をしたりしたものだ。そして又、目的もなく軒下の日陰に立つて、時々藤野さんの姿の見えるのを待つてゐたものだ。

 すると大変な事が起つた。

 八月一杯の休暇、其中旬頃とも下旬頃とも解らぬが、それは〳〵暑い日で、空には雲一片なく、脳天をあぶりつける太陽が宛然まるで火の様で、そよとの風も吹かぬから、木といふ木は皆死にかかつた様に其葉を垂れてゐた。家々の前の狭い溝には、流れるでもない汚水の上に、薄曇つた泡が数限りなく腐つた泥から湧いてゐて、日に晒された幅広い道路のこいしは足を焼く程暖く、蒸された土の温気が目もくらむ許り胸を催嘔むかつかせた。

 村の後ろは広い草原になつてゐて、草原が尽きれば何十町歩の青田、それは皆近江屋の所有地であつたが、其青田に灌漑する、三間許りの野川が、草原の中を貫いて流れてゐた。野川の岸には、近江屋が年中米を搗かせてゐる水車小屋が立つてゐた。

 春は壺菫に秋は桔梗ききやう女郎花をみなへし、其草原は四季の花に富んでゐるので、私共はよく遊びに行つたものだが、其頃は、一面に萱草の花の盛り、殊にも水車小屋の四周まはりには沢山咲いてゐた。小屋の中には、直径二間もありさうな大きい水車が、朝から晩までギウ〳〵と鈍い音を立てて廻つてゐて、十二本の大杵が断間もなく米を搗いてゐた。

 私は其日、晒布さらしの袖無を着て帯も締めず、黒股引に草履を穿いて、額の汗を腕で拭き〳〵、新家の門と筋向になつた或駄菓子屋の店先に立つてゐた。

 と、一町程先の、水車小屋へ曲る路の角から、金次といふ近江屋の若者が、血相変へて駈けて来た。

『何したゞ?』と誰やら声をかけると、

『藤野さんア水車の心棒に捲かれて、杵に搗かれただ。』と大声に喚いた。私はうそともまこととも解らず、唯強い電気にでも打たれた様に、思はず声を立てて『やあ』と叫んだ。

 と、其若者の二十間許り後から、身体中真白に米の粉を浴びた、髭面の骨格の逞ましい、六尺許りの米搗男が、何やら小脇に抱へ込んで、これも疾風はやての如くに駈けて来た。見るとそれは藤野さんではないか!

 其男が新家の門の前まで来て、中に入らうとすると、先に知らせに来た若者と、肌脱ぎした儘の新家の旦那とが飛んで出て来て、『医者へ、医者へ。』と叫んだ。男はちよつ足淀あしよどみして、直ぐまた私の立つてゐる前を医者の方へ駈け出した。其何秒時の間に、藤野さんの変つた態が、よく私の目に映つた。男は、宛然まるで鷲が黄鳥うぐひすでもつかまへた様に、小さい藤野さんを小脇に抱へ込んでゐたが、美しい顔がグタリと前に垂れて、後には膝から下、雪の様に白い脚が二本、力もなくブラ〳〵してゐた。其左の脚の、膝頭から斜めに踵へかけて、生々しい紅の血が、三分程の幅に唯一筋!

 其直ぐ後を、以前の若者と新家の旦那が駈け出した。旦那の又直ぐ後を、白地の浴衣を着た藤野さんの阿母おつかさん、何かしら手に持つた儘、火の様に熱した礫の道路を裸足で……

 其キツと堅く結んだ口を、私は、鬼ごツこに私を追駈けた藤野さんに似たと思つた。無論それは一秒時の何百分の一の短かい間。

 これは、百度に近い炎天の、風さへ動かぬ真昼時に起つた光景だ。

 私は、鮮かな一筋の血を見ると、忽ち胸が嘔気を催す様にムツとして、目が眩んだのだから、阿母さんの顔の見えたも不思議な位。夢中になつて其後から駈け出したが、医者の門より二三軒手前の私の家へ飛び込むと、突然いきなり仕事してゐた父の膝に突伏した儘、気を失つて了つたのださうな。


 藤野さんは、うして死んだのである。

 も一つの追憶も、其頃の事、何方が先であつたか忘れたが、矢張夏の日の赫灼かくしやくたる午後の出来事と憶えてゐる。

 村から一里許りのK停車場に通ふ荷馬車が、日に二度も三度も、村端むらはづれから真直に北に開いた国道を塵塗ちりまみれの黒馬の蹄に埃を立てて往返りしてゐた。其日私共が五六人、其空荷馬車に乗せて貰つて、村端から三四町の、水車へ行く野川の土橋まで行つた。一行は皆腕白盛りの百姓子、中に脳天を照りつける日を怖れて大きい蕗の葉を帽子代りに頭に載せたのもあつた。

 土橋を渡ると、両側は若松の並木、其路傍の松蔭の夏草の中に、汚い服装なりをした一人の女乞食が俯臥うつぶせに寝てゐて、傍には、生れて満一年と経たぬ赤児が、嗄れた声を絞つて泣きながら、草の中を這廻つてゐた。

 それを見ると、馬車曳の定老爺が馬を止めて、『怎しただ?』と声をかけた。私共は皆馬車から跳下りた。

 女乞食は、大儀相に草の中から頭をもたげたが、垢やら埃やらが流るる汗にちて、鼻のひしやげた醜い面に、謂ふべからざる疲労と苦痛の色。左の眉の上に生々しいきずがあつて、一筋の血が頬から耳の下に伝つて、胸の中へ流れてゐる。

『馬に蹴られて、歩けねえだもん。』と、絶え入りさうに言つて、又俯臥した。

 定老爺は、暫くじつと此女乞食を見てゐたが、『村まで行つたら可がべえ。医者様もあるし巡査も居るだア。』と言捨てゝ、ガタ〳〵荷馬車を追つて行つて了つた。

 私共は、ズラリと女の前に立披たちはだかつて見てゐた。稍あつてから、豊吉が傍に立つてゐる万太郎といふのの肩を叩いて、『汚ねえ乞食ほいどだでアなあ。首玉ア真黒だ。』

 草の中の赤児が、怪訝相けげんさうな顔をして、四這よつばひになつた儘私共を見た。女はビクとも動かぬ。

 それを見た豊吉は、にはかに元気の好い声を出して、『死んだどウ、此乞食ア。』と言ひながら、一掴ひとつかみの草を採つて女の上に投げた。『草かけて埋めてやるべえ。』

 すると、皆も口々に言罵つて、豊吉のした通りに草を投げ初めた。私は一人遠くに離れてゐる様な心地でそれを見てゐた。

 と、赤児が稍大きい声で泣き出した。女は草の中から顔を擡げた。

『やあ、生きた〳〵。また生きたでア。』とめきながら、皆は豊吉を先立てゝ村の方に遁げ出した。私は怎したものか足が動かなかつた。

 醜い乞食の女は、流れた血を拭かうともせず、どんよりとした疲労の眼を怨し気にみはつて、唯一人残つた私の顔をじつと瞶めた。私も瞶めた。其、埃と汗に塗れた顔を、傾きかけた夏の日が、強烈な光を投げて憚りもなく照らした。頬に流れて頸から胸に落ちた一筋の血が、いと生々しく目を射た。

 私は、目がくるめいて四辺あたりが暗くなる様な気がすると、忽ち、いふべからざる寒さが体中ををののかせた。皆から三十間も遅れて、私も村の方に駈け出した。

 然し私は、怎したものか先に駈けて行く子供等に追つかうとしなかつた。そして、二十間も駈けると、立止つて後を振返つた。乞食の女は、二尺の夏草に隠れて見えぬ。更に豊吉等の方を見ると、もう乞食の事は忘れたのか、声高に「吾は官軍」を歌つて駈けてゐた。

 私は其時、妙な心地を抱いてトボ〳〵と歩き出した。小い胸の中では、心にちらつく血の顔の幻を追ひながら、「先生は不具者かたはや乞食に悪口を利いては不可ないと言つたのに、豊吉は那麽あんな事をしたのだから、たとひ豊吉が一番で私が二番でも、私より豊吉の方が悪い人だ。」といふ様な事を考へてゐたのであつた。


 あはれ、其後の十幾年、私は村の小学校を最優等でへると、高島先生の厚い情によつて、盛岡の市の高等小学校に学んだ。其処も首尾よく卒業して、県立の師範学校に入つたが、其夏父は肺を病んで死んだ。間もなく、母は隣村の実家に帰つた。半年許りして、或事情の下に北海道に行つたとまで知つてゐるが、生きてゐるとも死んだとも、消息を受けた人もなければ、尋ねるあてもない。

 私は二十歳の年に高等師範に進んで、六箇月前にそれも卒へた。卒業試験の少し前から出初めた悪性の咳が、日ましに募つて来て、此鎌倉の病院生活を始めてからも、既に四箇月余りを過ぎた。

 学窓の夕、病室の夜、言葉に文に友の情は沁み〴〵と身に覚えた。然し私は、何故か多くの友の如く恋といふものを親しく味つた事がない。或友は、君は余りに内気で、常に警戒をし過ぎるからだと評した。或はうかも知れぬ。或友は、朝から晩まで黄巻堆裡に没頭して、全然社会に接せぬから機会がなかつたのだと言つた。或は然うかも知れぬ。又或友は、知識の奴隸になつて了つて、氷の如く冷酷な心になつたからだと冷笑した。或は実に然うなのかも知れぬ。

 幾人の人を癒やし、幾人の人を殺した此寝台の上、親み慣れた薬の香を吸うて、濤音なみおと遠き枕に、夢むともなく夢むるのは十幾年の昔である。ああ、藤野さん! 僅か八歳の年の半年余の短い夢、無論恋とは言はぬ。言つたら人も笑はうし、自分でも悲しい。唯、木蔭地こさぢ湿気しめりけにも似て、日の目も知らぬ淋しき半生に、不図天上の枝から落ちた一点の紅は其人である。紅と言へば、あゝ、かの八月の炎天の下、真白きはぎに流れた一筋の血! まざまざとそれを思出す毎に、何故といふ訳もなく私は又、かの夏草の中に倒れた女乞食を思出すのである。と、直ぐ又私は、行方知れぬ母の上に怖しい想像を移す。喀血の後、昏睡の前、言ふべからざる疲労の夜の夢を、幾度となく繰返しては、今私の思出に上るうみの母の顔が、もう真の面影ではなくて、かの夏草の中から怨めし気に私を見た、何処から来て何処へ行つたとも知れぬ、女乞食の顔と同じに見える様になつたのである。病める冷き胸を抱いて、人生の淋しさ、孤独の悲しさに遣瀬もない夕べ、切に恋しきは、文字を学ぶ悦びを知らなかつた以前である。今迄に学び得た知識それは無論、極く零砕なものではあるけれ共、私は其為に半生の心血を注ぎ尽した。其為に此病をも得た。而して遂に、私は果して何を教へられたであらう? 何を学んだであらう? 学んだとすれば、人は何事をも真に知り得ざるものだといふ、漠然たる恐怖唯一つ。

 ああ、八歳の年の三月三十日の夕! 其以後、先づ藤野さんが死んだ。路傍の草に倒れた女乞食を見た。父も死んだ。母は行方知れずになつた。高島先生も死んだ。幾人の友も死んだ。やがては私も死ぬ。人は皆散り〴〵である。離れ〴〵である。所詮は皆一様に死ぬけれども、死んだとて同じ墓に眠れるでもない。大地の上の処々、僅か六尺に足らぬ穴に葬られて、それで言語も通はねば、顔も見ぬ。上には青草が生える許り。

 男と女が不用意の歓楽に耽つてゐる時、其不用意の間から子が出来る。人は偶然に生れるのだと思ふと、人程痛ましいものはなく、人程悲しいものはない。其偶然が、或る永劫に亘る必然の一連鎖だと考へれば、猶痛ましく、猶悲しい。生れなければならぬものなら、生れても仕方がない。一番早く死ぬ人が、一番幸福な人ではなからうか!


 去年の夏、久し振りで故郷を省した時、栗の古樹の下の父が墓は、幾年の落葉に埋れてゐた。清光童女と記した藤野さんの小さい墓碑は、字が見えぬ程雨風に侵蝕されて、萱草の中に隠れてゐた。

 立派な新築の小学校が、昔草原であつた、村の背後の野川の岸に立つてゐた。

 変らぬものは水車の杵の数許り。

 十七の歳、お蒼前様の祭礼に馬から落ちて、右の脚を折り左の眼を潰した豊吉は、村役場の小使になつてゐて、私が訪ねて行つた時は、第一期地租附加税の未納督促状を、額の汗を拭き〳〵謄写版で刷つてゐた。

〔生前未発表・明治四十一年六月稿〕

底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房

   1978(昭和53)年1025日初版第1刷発行

   1993(平成5年)年520日初版第7刷発行

底本の親本:「啄木全集 第一巻 小説」新潮社

   1919(大正8)年421日発行

初出:「啄木全集 第一巻 小説」新潮社

   1919(大正8)年421日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:Nana ohbe

校正:川山隆

2008年67日作成

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