赤痢
石川啄木



 凸凹でこぼこ石高路いしだかみち、その往還を右左から挾んだ低い茅葺屋根が、およそ六七十もあらう、の家も、何の家も、古びて、穢くて、壁が落ちて、柱が歪んで、隣々にのめり合つて辛々やうやう支へてる様に見える。家の中には、生木の薪を焚く煙が、物の置所も分明さだかならぬ程にくすぶつて、それが、日一日、破風はふから破風と誘ひ合つては、腐れた屋根に這つてゐる。両側の狭い浅い溝には、襤縷片ぼろきれ葫蘿蔔にんじん切端きれつぱしなどがユラユラした𣵀泥ひどろに沈んで、黝黒どすぐろい水に毒茸の様な濁つた泡が、プクプク浮んで流れた。

 駐在所の髯面の巡査、隣村から応援に来た最一人もひとりの背のヒヨロ高い巡査、三里許りの停車場所在地に開業してゐる古洋服の医師いしや赤焦あかちやけた黒繻子の袋袴を穿いた役場の助役、消毒器具を携へた二人の使丁こづかひ、この人数にんずは、今日も亦家毎に強行診断をつて歩いた。空は、仰げば目も眩む程無際限に澄み切つて、塵一片ひとつ飛ばぬ日和であるが、たま室外そとを歩いてるものは、れも何れも申合せた様に、心配気な、浮ばない顔色をして、跫音あしおとぬすんでる様だ。其家そこにも、にも、怖し気な面構つらがまへをした農夫ひやくしやうや、アイヌ系統によくある、鼻の低い、眼の濁つた、青脹あをぶくれた女などが門口に出て、落着の無い不格好な腰付をして、往還の上下かみしもを眺めてゐるが、一人として長く立つてるものは無い。小供等さへ高い声も立てない。時偶ときたま、胸に錐でも刺された様な赤児あかご悲鳴なきごゑでも聞えると、隣近所では妙に顔を顰める。素知らぬさまをしてるのは、干からびた塩鱒しほびきの頭を引擦つて行く地種ぢだねの痩犬、百年も千年も眠つてゐた様な張合のない顔をして、日向ひなた呟呻あくびをしてゐる真黒な猫、往還の中央まんなかつるんでゐる鶏くらゐなもの。村中湿りかへつて、巡査の沓音と佩剣はいけんの響が、日一日、人々の心に言ひ難き不安を伝へた。

 鼻を刺す石炭酸の臭気にほひが、何処となく底冷そこびえのする空気に混じて、家々の軒下にはおびただしく石灰が撒きかけてある。──赤痢病の襲来をかうむつた山間やまなか荒村あれむらの、重い恐怖と心痛そこびえに充ち満ちた、目もあてられぬ、そして、不愉快な状態ありさまは、一度その境を実見したんで無ければ、とても想像も及ぶまい。平常ひごろから、住民の衣、食、住──その生活全体を根本ねつから改めさせるか、でなくば、初発患者の出た時、時を移さず全村を焼いて了ふかするで無ければ、如何に力を尽したとて予防も糞も有つたものでない。三四年前、この村から十里許り隔つた或村に同じやまひ猖獗しやうけつを極めた時、所轄警察署の当時ときの署長が、大英断を以て全村の交通遮断を行つた事がある。お蔭で他村には伝播しなかつたが、住民の約四分の一が一秋の中に死んだ。尤も、年々の村でも一人や二人、五人六人の患者の無い年はないが、巧に隠蔽して置いて牻牛児げんのしようこの煎薬でも服ませると、何時しか癒つて、格別伝染もしない。それが、万一医師にかゝつて隔離病舎に収容され、巡査が家毎に怒鳴つて歩くとなると、噂のひろがると共に疫が忽ち村中に流行して来る──と、実際村の人は思つてるので、疫其者よりも巡査の方がきらはれる。初発患者が発見みつかつてから、二月足らずのうちに、隔離病舎は狭隘を告げて、更に一軒山蔭の孤家ひとつやを借り上げ、それも満員といふ形勢すがたで、総人口四百内外の中、初発以来の患者百二名、死亡者二十五名、全癒者四十一名、現患者三十六名、それに今日の診断の結果でまた二名増えた。戸数の七割五分はの家も患者を出し、或家では一家を挙げて隔離病舎に入つた。

 秋もう末──十月下旬の短い日が、何時しかトツプリと暮れて了つて、霜も降るべく鋼鉄色はがねいろに冴えた空には白々と天の河がよこたはつた。さらでだに虫の音も絶え果てた冬近い夜のさびしさに、まだ宵ながら家々の戸がピタリとしまつて、通行とほる人もなく、話声さへ洩れぬ。重い重い不安と心痛が、火光あかりを蔽ひ、かどを鎖し、人の喉を締めて、村は宛然さながら幾十年前に人間の住み棄てた、廃郷すたれむらかの様に𨶑乎ひつそりとしてゐる。今日は誰々が顔色が悪かつたと、いづ其麽そんな事のみが住民ひとびとの心に徂徠ゆききしてるのであらう。

 其重苦しい沈黙だんまりの中に、何か怖しい思慮かんがへが不意に閃く様に、北のトツぱづれのめりかかつた家から、時々パツと火花が往還に散る。それは鍛冶屋で、トンカン、トンカンと鉄砧かなしきを撃つかたい響が、地の底まで徹る様に、村の中程まで聞えた。

 其隣がお由と呼ばれた寡婦やもめの家、入口の戸は鎖されたが、店のすすび果てた二枚の障子──その処々に、朱筆しゆふでで直した痕の見える平仮名の清書が横に逆様に貼られた──に、火光あかりが映つてゐる。凡そ、村で人気のあるらしく見えるのは、此家と鍛冶屋と、南端近い役場と、雑貨やら酒石油などをあきなふ村長の家の四軒に過ぎない。

 ガタリ、ガタリと重いくるまの音が石高路いしだかみちに鳴つて、今しも停車場通ひの空荷馬車が一台、北の方から此村に入つた。荷馬車の上には、スツポリと赤毛布を被つた馬子まご胡坐あぐらをかいてゐる。と、お由の家の障子に影法師が映つて、張のない声に高く低く節付けた歌が聞える。

『あしきをはらうて、救けたまへ、天理王のみこと。……この世のぢいと、天とをかたどりて、夫婦をこしらへきたるでな。これはこの世のはじめだし。……一列すまして甘露台。』

 歌にれて障子の影法師が踊る。妙な手付をして、腰を振り、足を動かす。或は大きく朦乎ぼんやりと映り、或は小く分明はつきりと映る。

『チヨツ。』と馬子は舌鼓したうちした。『フム、また狐の真似てらア!』

『オイ、お申婆さるばあでねえか?』と、直ぐまた大きい声を出した。恰度その時、一人の人影が草履の音を忍ばせて、此家に入らうとしたので。『アイサ。』と、人影は暗い軒下に立留つて、四辺あたりを憚る様に答へた。『隣の兄哥あにいか? 早かつたなす。』

『早くけえつて寝るこつた。恁麽こんだ時何処ウ徘徊うろつくだべえ。天理様拝んで赤痢神が取付とツつかねえだら、ハア、何で医者いしやくすりが要るものかよ。』

『何さ、ただ、お由かかあに一寸用があるだで。』と、声を低めて対手あひてなだめる様に言ふ。

『フム。』と言つたきりで荷馬車は行過ぎた。

 お申婆さるばばあは、やがて物静かに戸を開けて、お由の家に姿を隠して了つた。障子の影法師はまだ踊つてゐる。歌もまだ聞えてゐる。

『よろづよの、せかい一れつみはらせど、むねのはかりたものはない。

『そのはずや、といてきかしたものはない。しらぬが無理ではないわいな。

『このたびは、神がおもてへあらはれて、なにか委細をとききかす。』



 横川松太郎は、同じ県下でもずつと南の方の、田の多い、養蚕の盛んな、或村に生れた。生家うちはその村でも五本の指に数へられる田地持で、父作松と母お安の間の一粒種、甘やかされて育つた故か、体も孱弱ひよわく、気も因循ぐづで、学校に入つても、励むでもなく、なまけるでもなく、十五の春になつて高等科を卒へたが、別段自ら進んで上の学校に行かうともしなかつた。それなりに十八の歳になつて、村の役場に見習の格で雇書記に入つたが、恰度その頃、暴風あらしの様な勢で以て、天理教が付近一帯の村々に入込んで来た。

 或晩、気弱者のお安が平生いつになく真剣になつて、天理教の有難い事を父作松に説いたことを、松太郎は今でも記憶してゐる。新しいと名の付くものは何でも嫌ひな旧弊家の、おまけに名高い吝嗇家しみつたれだつた作松は、仲々それに応じなかつたが、一月許り経つと、打つて変つた熱心な信者になつて、朝夕仏壇の前でげた修証義しうしようぎが、「あしきをはらうて救けたまへ。」の御神楽みかぐらうたと代り、大和の国の総本部に参詣して来てからは、自ら思立つてか、唆かされてか、家屋敷所有地もちち全体すつかり売払つて、工事費総額二千九百何十円といふ、巍然ぎぜんたる大会堂を、村の中央まんなかの小高い丘陵おかの上に建てた。神道天理教会○○支部といふのがそれで。

 その為に、松太郎は両親と共に着のみ着の儘になつて、其会堂の中に布教師と共に住む事になつた。(役場の方は四ヶ月許りでめて了つた。)最初はじめ、朝晩の礼拝にみんなと一緒になつて御神楽を踊らねばならなかつたのには、少からず弱つたもので、気羞しくて厭だと言つては甚麽どんなに作松に叱られたか知れない。その父は、半歳程経つて、近所に火事のあつた時、人先に水桶をつて会堂の屋根に上つて、足を辷らして落ちて死んだ。天晴あつぱれな殉教者だと口を極めて布教師は作松の徳を讃へた。母のお安もそれから又半歳程経つて、脳貧血を起して死んだ。

 両親の死んだ時、松太郎は無論涙を流したが、それは然し、悲しいよりも驚いたから泣いたのだ。ひとから鄭重に悼辞くやみを言はれると、奈何どうして俺は左程悲しくないだらうと、それが却つて悲しかつた事もある。其後も矢張その会堂に起臥おきふしして、天理教の教理、祭式作法、伝道の心得などを学んだが、根が臆病者で、これといふ役にも立たない代り、悪い事はカラできないたちなのだから、家を潰させ、父を殺し、母を死なしめた、その支部長が、平常ふだん可愛がつて使つたものだ。またかれは、一体甚麽どんな人を見ても羨むといふことのない。──羨むには羨んでも、自分も然う成らうといふ奮発心はげみの出ないたちで、従つて、食ふに困るではなし、自分が無財産だといふことも左程苦に病まなかつた。時偶ときたま、雑誌の口絵で縹緻きりようの好い芸妓の写真を見たり、地方新聞で富家かねもちの若旦那の艶聞などを読んだりした時だけは、妙にう危険な──実際危険な、例へば、密々こつそりとこの会堂や地面を自分の名儀に書変へて、裁判になつても敗けぬ様にして置いて、突然売飛ばして了はうとか、平常ふだん心から敬つてゐる支部長を殺さうとかいふ、全然まるで理由わけの無い反抗心を抱いたものだが、それも独寝の床に人間並ひとなみの出来心を起した時だけの話、夜が明けると何時しか忘れた。

 兎角する間に今年の春になると、支部長は、同じ会堂で育て上げた、松太郎初め六人の青年を大和の本部に送つた。其処で三ヶ月修行して、「教師」の資格を得て帰ると、今度は、県下に各々区域をめて、それぞれ布教に派遣されたのだ。

 さらでだに元気の無い、色沢いろつやの悪い顔を、土埃ほこりと汗に汚なくして、小い竹行李二箇ふたつ前後まへうしろに肩に掛け、紺絣こんがすり単衣ひとへの裾を高々と端折り、重い物でも曳擦る様な足調あしどりで、松太郎が初めて南の方からこの村に入つたのは、雲一つ無い暑熱あつさ盛りの、恰度八月の十日、赤い赤い日が徐々そろそろ西の山に辷りかけた頃であつた。松太郎は、二十四といふ齢こそ人並に喰つてはゐるが、生来うまれつきの気弱者、経験おぼえのない一人旅に今朝から七里余の知らない路を辿つたので、心のしんまでも疲れ切つてゐた。三日、四日と少しは慣れたものの、腹に一物も無くなつては、「考へて見れば目的めあての無い旅だ!」と言つた様な、朦乎ぼんやりした悲哀かなしみが、粘々ねばねばした唾と共に湧いた。それで、村の入口に入るや否や、吠えかかる痩犬を半分無意識にこはい顔をして睨み乍ら、ふやけた様な頭脳あたまを搾り、有らん限りの智慧と勇気を集中あつめて、「兎も角も、宿を見付けるこつた。」と決心した。そして、口がおのづからポカンと開いたも心付かず、臆病らしい眼を怯々然きよろきよろと両側の家に配つて、到頭、村もはづれ近くなつたあたりで、三国屋さんごくやといふ木賃宿の招牌かんばんを見付けた時は、かれにはう、現世このよに何の希望も無かつた。

 翌朝目を覚ました時は、合宿を頼まれた二人──六十位の、頭の禿げた、鼻の赤い、不安な眼付をした老爺おやぢと其娘だといふ二十四五の、旅疲労たびづかれせゐか張合のない淋しい顔の、其癖何処か小意気に見える女。(何処から来て何処へ行くのか知らないが、路銀の補助たしに売つて歩くといふ安筆を、松太郎も勧められて一本買つた。)──その二人はう発つて了つて、きたなへやの、補布つぎだらけな五六の蚊帳かやすみつこに、脚を一本蚊帳の外に投出して、あふのけに臥てゐた。と、渠は、前夜同じ蚊帳に寝た女の寝息や寝返りの気勢けはいに酷く弱い頭脳を悩まされて、夜更まで寝付かれなかつた事も忘れて、慌てて枕の下の財布を取出して見た。変りが無い。すると又、突然いきなりふんどし一点ひとつで蚊帳の外に跳出とびだしたが、自分の荷物は寝る時のまんまで壁側にある。ホツと安心したが、猶念の為に内部なかを調べて見ると、矢張変りが無い。「フフヽヽ」と笑つて見た。

「さて、奈何どう為ようかな?」かれは、額に八の字を寄せ、夥しく蚊に喰はれた脚や、のみに攻められて一面に紅らんだ横腹よこつぱら自棄やけに掻き乍ら、考へ出した。昨日着いた時から、火傷やけどか何かで左手ひだりの指が皆内側にまがつた宿のかかあ待遇振もてなしぶりが、案外親切だつたもんだから、松太郎は理由わけもなく此村が気に入つて、一つで伝道して見ようかと思つてゐたのだ。「さて、奈何為どうしようかな。」う何回も何回も自分に問うて見て、仲々決心が付かない。「奈何どう為よう。奈何為よう。」と、終ひには少しぢれつたくなつて来て、愈々以て決心が付かなくなつた。と言つて、発たうといふ気は微塵もないのだ。「兎も角も。」この男の考へ事は何時でも此処に落つる。「兎も角も、村の状態を見て来る事に為よう。」と決めて、朝飯が済むと、宿の下駄を借りて戸外に出た。

 前日通行とほつた時は百二三十戸も有らうと思つたのが数へて見ると六十九戸しか無かつた。それが又きたない家許りだ。松太郎は心に喜んだ、何がなしに気強くなつて来た。かれには自信といふものが無い。自信は無くとも伝道は為なければならぬ。それには、可成なるべく狭い土地で、そして可成教育のある人の居ない方が可いのだ。宿に帰つて、早速亭主を呼んで訊いて見ると、案の如く天理教はまだ入込んでゐないと言ふ。そこで松太郎は、出来るだけ勿体もつたいを付けて自分の計画を打ち明けて見た。

 三国屋さんごくやの亭主といふのは、長らく役場の使丁こづかひをした男で、身長せたけが五尺に一寸も足らぬ不具者かたはもの、齢は四十を越してゐるが、髯一本あるでなし、額の小皺を見なければ、まだホンの小若者としか見えない。小鼻が両方から吸込まれて、物云ふ声が際立つて鼻にかかる。それが、『然うだなツす……』と、小苦面こくめいに首を傾げて聞いてゐたが、松太郎の話が終ると、『何しろハア。今年ア作が良くねえだハンテな。奈何だべなア! 神様さア喜捨あげ銭金ぜにかねが有つたら石油あぶらでも買ふべえドラ。』

『それがな。』と、松太郎は臆病な眼付をして、

『何もその銭金のかかこつで無えのだ。わし其麽そんなもので無え。自分で宿料を払つてゐて、一週間なり十日なり、無料ただで近所の人達に聞かして上げるのだツさ、今のその、有難いお話な。』

 気乗りのしなかつた亭主も、一週間分の前金を出されて初めて納得して、それからは多少言葉使ひも改めた。兎も角も今夜から近所の人を集めて呉れるといふ事に相談が纏つた。日の暮れるのが待遠でもあり、心配でもあつた。集つたのは女小供が合せて十二三人、それに大工の弟子の三太といふ若者、鍛冶屋の重兵衛。松太郎は暑いに拘らず木綿の紋付羽織を着て、杉の葉の蚊遣の煙を渋団扇で追ひ乍ら、教祖島村美支子みきこの一代記から、一通ひととほりの教理まで、重々しい力の無い声に出来るだけ抑揚をつけて諄々くどくどと説いたものだ。

『ハハア、そのお人も矢張りお嫁様に行つたのだなツす?』と、乳児ちのみごを抱いて来たかかあが訊いた。

『左様さ。』と松太郎は額の汗を手拭で拭いて、『お美支みき様が恰度十四歳に成られた時にな、庄屋敷村のお生家うちから三昧田村さんまいだむらの中山家へ御入輿おこしいりに成つた。有難いお話でな。その時お持になつた色々の調度、箪笥、長持、総てで以て十四──一荷は一担ひとかつぎで、畢竟つまりひらたく言へば十四担ぎ有つたと申す事ぢや。』『ハハア、有難い事だなツす。』と、意外とんだところに感心して、『ナントお前様、此地方ここらではハア、今の村長様の嬶様かかあさまでせえ、箪笥がたつた三竿みさを──、うんにや全体みんなで三竿でその中の一竿はハア、古い長持だつけがなツす。』

 二日目の晩は嬶共は一人も見えず、前夜話半ばに居眠をして行つた小供連と、鍛冶屋の重兵衛、三太が二三人朋輩を伴れて来た。その若者が何彼なにか冷評ひやかしかけるのを、眇目めつかちの重兵衛が大きい眼玉をいて叱り付けた。そして、自分一人夜更まで残つた。

 三日目は、午頃来ひるごろからの雨、蚊が皆家の中に籠つた点燈頃ひともしごろに、重兵衛一人、麦煎餅を五銭代許り買つて遣つて来た。大体の話はて了つたので、此夜は主に重兵衛の方から、種々の問を発した。それが、人間は死ねば奈何どうなるとか、天理教を信ずるとお寺詣りが出来ないとか、天理王のみことも魚籃観音の様に、仮に人間の形に現れて蒼生ひとを済度する事があるかとか、概して教理に関する問題を、鹿爪らしい顔をして訊くのであつたが、松太郎の煮切らぬ答弁にも多少得る所があつたかして、

『然うするとな、先生、(と、此時から松太郎をう呼ぶ事にした、)俺にも余程よつぽと天理教の有難え事が解つて来た様だな。耶蘇は西洋、仏様は天竺、みんな渡来物わたりものだが、天理様は日本で出来た神様だなツす?』

『左様さ。兎角自国のもんでないと悪いでな。加之それに何なのぢや、それ、国常立尊くにとこたちのみこと国狭槌尊くにのさづちのみこと豊斟渟尊とよくむぬのみこと大苫辺尊おほとまべのみこと面足尊おもだるのみこと惶根尊かしこねのみこと伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冊尊いざなみのみこと、それから大日霊尊おほひるめのみこと月夜見尊つきよみのみこと、この十柱とはしらの神様はな、何れも皆立派な美徳を具へた神様達ぢやが、わが天理王の命と申すは、何と有難い事でな、この十柱の神様の美徳を悉皆しつかい具へて御座る。』

『成程。それで何かな、先生、お前様めえさまは一人でも此村に信者が出来ると、何処へも行かねえて言つたけが、真箇ほんとかな? それ聞かねえと意外とんだブマ見るだ。』

『真箇ともさ。』

『真箇かな?』

『真箇ともさ。』

『愈々真箇かな?』

『ハテ、奈何して嘘なもんかなア。』と言ひは言つたが、松太郎、余りくどく訊かれるので何がなしに二の足を踏みたくなつた。

『先生、そンだらハア、』と、重兵衛は突然いきなり膝を乗出した。『おらが成つてやるだ。今夜から。』

『信者にか?』と、鈍い眼が俄かに輝く。

『然うせえ。外に何になるだア!』

『重兵衛さん、そら真箇かな?』と、松太郎は筒抜けた様な驚喜の声を放つた。三日目に信者が出来る、それは渠の全く予想しなかつた所、否、渠は何時、自分の伝道によつて信者が出来るといふ確信を持つた事があるか?

 この鍛冶屋の重兵衛といふのは、針の様な髯を顔一面にモヂヤモヂヤさした、それはそれは逞しい六尺近の大男で、左の眼が潰れた、『眇目鍛冶めつこかぢ』と小供等が呼ぶ。齢は今年五十二とやら、以前もと十里許り離れた某町に住つてゐたが、鉈、鎌、まさかりなどの荒道具が得意な代り、此人のつた包丁は刃が脆いといふ評判、結局は其土地を喰詰めて、五年前にこの村に移つた。他所者たしよものといふが第一、加之それに頑固いつこくで、片意地で、お世辞一つ言はぬたちなもんだから、兎角村人にしたしみが薄い。重兵衛それが平生ひごろの遺恨で、ちよいとした手紙位は手づから書けるを自慢に、益々頭が高くなつた。規定きまり以外の村の費目いりめの割当などに、最先まつさきに苦情を言出すのは此人に限る。其処へ以て松太郎が来た。聴いて見ると間違つた理屈でもなし、村寺の酒飲和尚さけのみおしやうよりは神々の名も沢山に知つてゐる。天理様の有難味も了解のみこんで了解のみこめぬことが無ささうだ。好矣よしおらが一番先に信者になつて、村の衆の鼻毛を抜いてやらうと、初めて松太郎の話を聴いた晩に寝床の中で度胸を決めて了つたのだ。尤も、重兵衛の遠縁の親戚が二軒、ずつと隔つた処にゐて、とうから天理教に帰依してるといふ事は、かねて手紙で知つてもゐ、一昨年の暮弟の家に不幸のあつた時、その親戚からも人が来て重兵衛も改宗を勧められた事があつた。但し此事は松太郎に対しておくびにも出さなかつた。

 翌朝、松太郎は早速○○支部に宛てて手紙を出した。四五日経つて返書が来た。その返書は、松太郎が逸早いちはやく信者を得た事を祝して其伝道の前途を励まし、この村に寄留したいといふ希望を聴許ゆるした上に、今後伝道費として毎月金五円宛送る旨を書き添へてあつた。松太郎はそれを重兵衛に示して喜ばした上で、ういふ相談を持掛けた。

奈何どうだらうな、重兵衛さん。三国屋に居ると何の彼ので日に十五銭宛られるがな。そすると月に積つて四円五十銭で、わしは五十銭しか小遣が残らなくなるでな。すこし困るのぢや。わしは神様に使はれる身分で、何も食物の事など構はんのぢやが、稗飯ひえめしでも構はんによつて、モツト安く泊めるうちがあるまいかな。奈何だらうな、重兵衛さん、わし貴方あんた一人が手頼たよりぢやが……』

『然うだなア!』と、重兵衛は重々しく首をかしげて、薪雑棒まきざつぼうの様な両腕をこまねいだ。月四円五十銭は成程この村にしては高い。それより安くても泊めて呉れさうな家が、那家あそこ那家あそこと二三軒心に無いではない。が、重兵衛は何事にまれ此方から頭を下げて他人ひとに頼む事は嫌ひなのだ。

 翌朝、家が見付かつたと言つて重兵衛が遣つて来た。それは鍛冶屋の隣りのおよし寡婦やもめが家、月三円で、その代り粟八分の飯で忍耐がまんしろと言ふ。口に似合はぬ親切な野爺おやぢだと、松太郎は心に感謝した。

『で、何かな、そのお由といふ寡婦やもめさんは全くの独身住ひとりずみかな?』

『然うせえ。』

『左様か。それで齢はつてるだらうな?』

『ワツハハ。心配しんぺいする事アえ、先生。齢ア四十一だべえが、村一番の醜婦みたくなし巨女おほをなごだア、加之それにハア、酒を飲めば一升も飲むし、甚麽どんな男も手余てやましにするくれい悪酔語堀ごんぼうほりだで。』と、嚇かす様に言つたが、重兵衛は、眼を円くして驚く松太郎の顔を見ると俄かに気を変へて、

『そだどもな、根が正直者だおの、結句気楽なをなごせえなあ。』

 善は急げと、其日すぐお由の家に移転うつつた。重兵衛の後にいて怖々おづおづ入つて来る松太郎を見ると、生柴なましば大炉おほろをりべてフウフウ吹いてゐたお由は、突然いきなり

『おめえが、俺許おらどこさ泊めてろづな?』と、無遠慮に叱る様に言ふ。

『左様さ。わしはな……』と、松太郎は少許すこし狼狽うろたへて、諄々くどくど初対面の挨拶をすると、

何有なあにハア、月々三両せえ出せば、くたばるまででも置いてべえどら。』

 移転祝ひつこしいはひの積りで、重兵衛が酒を五合買つて来た。二人はお由にも天理教に入ることを勧めた。

何有なあにハア、おらみたいな悪党女あくたうをなごにや神様も仏様もくたばる時でえば用ア無えどもな。何だべえせえ、自分のとこでなかつたら具合ぐあえが悪かんべえが? だらハア、おらア酒え飲むのさ邪魔さねえば、何方どつちでもいどら。』

と、お由は、黒漿おはぐろの剥げた穢い歯を露出むきだしにして、ワツハヽヽと男の様に笑つたものだ。鍛冶屋のかどと此の家の門に、『神道天理教会』と書いた、たけ五寸許りの、硝子をめた表札が掲げられた。

 二三日経つてからの事、為様事しやうことなしの松太郎はブラリと宿を出て、其処此処に赤い百合の花の咲いた畑径はたけみちを、唯一人東山へ登つて見た。何の風情もない、饅頭笠まんぢうがさを伏せた様な芝山で、逶迤うねくねしたみちいただきに尽きると、太い杉の樹が矗々すくすくと、八九本立つてゐて、二間四方の荒れ果てた愛宕神社のほこら

 その祠の階段だんに腰を掛けると、此処よりは少許すこし低目の、同じ形の西山に真面まとも対合むかひあつた。間が浅い凹地くぼちになつて、浮世の廃道と謂つた様な、塵白く、石多い、通行とほり少い往還が、其底を一直線ましぐらに貫いてゐる。ふたつ丘陵おかは中腹から耕されて、なだらかな勾配を作つた畑が家々の裏口まで迫つた。村が一目に瞰下みおろされる。

 その往還にも、昔は、電信柱が行儀よく列んで、毎日ひる近くなると、調子面白い喇叭ラツパの音を澄んだ山国さんごくの空気に響かせて、赤く黄く塗つた円太郎馬車が、南から北から、勇しくこの村に躍込んだものだ。その喇叭の音は、二十年来はたと聞こえずなつた。隣村に停車場が出来てから通行とほりが絶えて、電信柱さへ何日しか取除とりのぞかれたので。

 その時代ころは又、村に相応な旅籠屋はたごやも三四軒あり、俥も十輛近くあつた。荷馬車と駄馬は家毎の様に置かれ、畑仕事は女の内職の様に閑却されて、旅人対手あひての渡世だけに収入みいりも多く人気も立つてゐた。夏になれば氷屋の店も張られた。──それもこれも今はわづかに、老人達としよりたち追憶談むかしばなしに残つて、村は年毎に、宛然さながら藁火の消えてゆく様に衰へた。生業なりはひは奪はれ、税金は高くなり、諸式はあがり、増えるのは小供許り。たつた一輛残つてゐた俥の持主は五年前に死んで曳く人なく、かじの折れた其俥は、遂この頃まで其家そこの裏井戸のわきで見懸けられたものだ。旅籠屋であつた大きい二階建の、その二階の格子が、折れたり歪んだり、昼でも鼠が其処に遊んでゐる。今では三国屋といふ木賃が唯一軒。

 松太郎は、其麽そんな事は知らぬ。血の気の薄い、張合の無い、気病きやみの後の様なたるんだ顔にまぶしい午後の日を受けて、物珍らし相にこの村を瞰下みおろしてゐると、不図、生村うまれむら父親おやぢの建てた会堂の丘から、その村を見渡した時の心地が胸に浮んだ。

 取留のない空想が一図に湧いた。愚さの故でもあらう、汗ばんだ、生き甲斐のない顔色かほが少許色ばんで、鈍い眼も輝いて来た。かれは、自己おのれ一人の力でこの村を教化し尽した勝利の暁の今迄遂ぞ夢にだに見なかつた大いなる歓喜よろこびを心に描き出した。

「会堂が那処あそこに建つ!」と、きつと西山のいただきに瞳を据ゑる。

「然うだ、那処に建つ!」う思つただけで、松太郎の目には、その、純白まつしろな、絵に見る城の様な、数知れぬ窓のある、巍然ぎぜんたる大殿堂が鮮かに浮んで来た。その高い、高い天蓋やね尖端とんがり、それに、朝日が最初の光を投げ、夕日が最後の光を懸ける……。

 渠は又、近所の誰彼、見知越みしりごしの少年共を、自分が生村の会堂で育てられた如く、育てて、教へて……と考へて来て、周囲あたりに人無きを幸ひ、其等に対する時のおごそかな態度をして見た。

抑々そもそも天理教といふものはな──』

と、自分の教へられた支部長の声色を使つて、眼前の石塊いしころを睨んだ。

『すべて、私念わたくしといふ陋劣さもしい心があればこそ、人間ひと種々いろいろあし企画たくらみを起すものぢや。罪悪あしきの源は私念わたくし、私念あつての此世の乱れぢや。いかな? その陋劣さもしい心を人間ひとの胸からはらひ浄めて、富めるも賤きも、真に四民平等の楽天地を作る。それが此教の第一の目的ぢや。解つたぞな?』

 恁う言ひ乍ら、渠はその目を移して西山のいただきを見、また、凹地くぼちの底の村を瞰下した。古昔いにしへの尊き使徒が異教人の国を望んだ時の心地だ。圧潰おしつぶした様に二列ふたならびに列んだ茅葺の屋根、其処からは鶏の声が間を置いて聞えて来る。

 そよとの風も無い。最中過さなかすぎの八月の日光ひかげが躍るが如く溢れ渡つた。気が付くと、畑々には人影が見えぬ。恰度、盆の十四日であつた。

 松太郎は、何がなしに生甲斐がある様な気がして、深く深く、杉の樹脂やにの香る空気を吸つた。が、霎時しばらく経つとまぶしい光に眼が疲れてか、気が少し、焦立つて来た。

『今に見ろ! 今に見ろ!』

 這麽こんな事を出任せに口走つて見て、渠はヒヨクリと立上り、杉の根方を彼方此方あちらこちらわざと興奮した様な足調あしどりで歩き出した。と、地面じべたのたくつた太い木根につまづいて、其機会はずみにまだ新しい下駄の鼻緒が、フツリとれた。チヨツと舌鼓したうちして蹲踞しやがんだが、幻想まぼろしあともなし。渠は腰に下げてゐた手拭を裂いて、長い事掛つて漸々やうやうそれをすげた。そしてトボトボと山を下つた。

 穂の出初でそめた粟畑がある。ガサ〳〵と葉が鳴つて、

『先生様ア!』

と、若々しい娘の声が、突然いきなり調戯からかふ様な調子で耳近く聞えた。松太郎ははたと足を留めて、キヨロキヨロ周囲あたりを見巡した。誰も見えない。粟の穂がフイと飛んで来て、胸に当つた。

『誰だい?』

と、渠は少許すこし気味の悪い様に呼んで見た。カサとの音もせぬ。

『誰だい?』

 二度呼んでも返答こたへが無いので、苦笑ひをして歩き出さうとすると、

『ホホヽヽ。』

と澄んだ笑声がして、白手拭を被つた小娘の顔が、二三間へだたつた粟の上に現れた。

『何ぞ、お常ツ子かい!』

『ホホヽヽ。』とまた笑つて、『先生様ア、お前様めえさま狐踊踊るづア、今夜こんにやおらと一緒に踊らねえすか? 今夜こんにやから盆だず。』

『フフヽヽ。』と松太郎は笑つた。そして急しく周囲を見廻した。

『なツす、先生様ア。』とお常は厭迄あくまで曇りのないクリクリした眼で調戯からかつてゐる。十五六の、色の黒い、晴やかな邪気無あどけない小娘で、近所の駄菓子屋の二番目だ。松太郎の通行とほる度、店先にゐさへすれば、屹度この眼で調戯からかふ。落花生なんきんまめの殻を投げることもある。

 渠は不図、別な、全く別な、或る新しい生甲斐のある世界を、お常のクリクリした眼の中に発見した。そして、ツイと自分も粟畑の中に入つた。お常は笑つて立つてゐる。松太郎も、口元に痙攣ひきつつた様な笑ひを浮べて胸に動悸をさせ乍ら近づいた。

 この事あつて以来、松太郎は妙に気がソワついて来て、暇さへあれば、ブラリと懐手ふところでをして畑径はたけみちを歩く様になつた。わが歩いてる径の彼方から白手拭が見える、と、かれうホクホク嬉しくてならぬ。知らんか振りをして行くと、娘共は屹度何か調戯からかつて行き過ぎる。

『フフヽヽ。』

うマア、自分の威厳を傷けぬ程度で笑つたものだ。そして、家に帰るといつになく食慾が進む。

 近所の人々とも親みがついた。渠の仕事は、その人々に手紙の代筆をして呉れる事である。日が暮れると鍛冶屋の店へ遊びに行く。でなければ、お常と約束の場所で逢ふ。お由が何家どこかへ振舞酒にでもばれると、密乎こつそりと娘を連れ込む事もある。娘の帰つた後、一人ニヤニヤと可厭いやな笑方をして、炉端に胡坐あぐらをかいてると、屹度、お由がグデングデンに酔払つて、対手なしに悪言あくたいき乍ら帰つて来る。

『何だ此畜生こんちきしやううぬ何故なんしやに居る? ウン此狐奴きつねめ、何だ? 寝ろ? カラ小癪な! 黙れ、この野郎。黙れ黙れ、黙らねえか? 此畜生奴、乞食ほいど癩病どす、天理坊主! 早速しらからと出て行け、此畜生奴!』

 突然いきなり這麽こんな事を口汚く罵つて、お由はドタリと上框あがりかまちの板敷に倒れる。

『マア、マア。』

と言つた調子で、松太郎は、継母ままははでもあしらふ様に、寝床の中に引擦り込んで、布団をかけてやる。渠は何日いつしか此女を扱ふ呼吸こつを知つた。悪口あくたい幾何いくらいても、別に抗争てむかふ事はしないのだ。お由は寝床に入つてからも、五分か十分、勝手放題に怒鳴り散らして、それがむと、太平たいへいいびきをかく。翌朝になれば平然けろりとしたもの。前夜の詫を言ふ事もあれば言はぬ事もある。

 此家の門と鍛冶屋の門の外には、『神道天理教会』の表札が掲げられなかつた。松太郎は別段それを苦に病むでもない。時偶ときたま近所へ夜話に招ばれる事があれば、役目の説教はなしもする。それが又、奈何どうでも可いと言つた調子だ。或時、痩馬喰やせばくらうかかあが、小供が腹を病んでるからと言つて、御供水おそなへみづを貰ひに来た。三四日経つと、麦煎餅を買つて御礼に来た。後で聞けばそれは赤痢だつたといふ。

 二百十日が来ると、馬のある家では、泊懸とまりがけ馬糧ばれうの萩を刈りに山へ行く。その若者が一人、山で病付やみついて来て医師いしやにかかると、赤痢だと言ふので、隔離病舎に収容された。さらでだに、岩手県の山中に数ある痩村の中でも、珍しい程の貧乏村、今年は作が思はしくないと弱つてゐた所へ、この出来事は村中の顔を曇らせた。又一人、又一人、遂にいまはしきやまひが全村に蔓延した。恐しい不安は、常でさへ巫女いたこを信じ狐を信ずる住民ひとびとの迷信をあふり立てた。御供水おそなへみづは酒屋の酒の様に需要が多くなつた。一月余のうちに、新しい信者が十一軒も増えた。松太郎は世の中が面白くなつて来た。

 が、漸々だんだん病勢が猖獗さかんになるにれて、渠自身も余り丈夫な体ではなし、流石に不安を感ぜぬ訳に行かなくなつた。其時思出したのは、五六年前──或は渠が生村うまれむらの役場に出てゐた頃かも知れぬ──或新聞で香竄葡萄酒かうざんぶどうしゆの広告の中に、伝染病予防の効能があると書いてあつたのを読んだ事だ。渠は恁ういふ事を云出した。『天理様は葡萄酒がお好きぢや。お好きな物を上げてお頼みするに病気なんかするものぢやないがな。』

 流石に巡査の目をはばかつて、日が暮れるのを待つて御供水おそなへみづを貰ひに来る嬶共かかあどもは、有乎無乎なけなしの小袋を引敝ひつぱたいて葡萄酒を買つて来る様になつた。松太郎はそれを犠卓にへづくゑに供へて、祈祷をし、御神楽を踊つて、その幾滴を勿体らしく御供水に割つて、持たして帰す。残つたのは自分が飲むのだ。お由の家の台所の棚には、葡萄酒の空瓶が十八九本も並んだ。



 奈何どうしたのか、鍛冶屋の音響ひびきも今夜はいつになく早く止んだ。高く流るる天の河の下に、村は死骸の様に黙してゐる。今し方、提灯が一つ、フラフラと人魂の様に、役場と覚しき門から迷ひ出て、半町許りで見えなくなつた。

 お由の家の大炉には、チロリチロリと焚火が燃えて、居並ぶ種々の顔を赤く黒く隈取つた。近所の嬶共が三四人、中には一番遅れて来たお申婆さるばばあも居た。

 祈祷も御神楽も済んだ。松太郎はトロリと酔つて了つて、だらしなく横座よこざ胡坐あぐらをかいてゐる。髪の毛の延びた頭がグラリと前に垂れた。葡萄酒の瓶がその後に倒れ、漬物の皿、破茶碗かけぢやわんなどが四辺あたり散乱ちらばつてゐる。『其麽そんなに痛えがす? 由殿よしどな、寝だらがべす。』

と、一人の顔のしやくんだ嬶が言つた。

何有なあに!』

 う言つて、お由は腰につた右手を延べて、燃え去つた炉の柴をべる。髪のおどろに乱れかかつた、その赤黒い大きい顔には、痛みをこらへる苦痛くるしみが刻まれてゐる。四十一までに持つた四人の夫、それを皆追出おんだして遣つた悪党女ながら、養子の金作が肺病で死んで以来、口は減らないが、何処となく衰へが見える。乱れた髪には白いのさへ幾筋か交つた。

真箇ほんとだぞえ。寝れば癒るだあに。』とお申婆も口を添へる。

何有なあに!』とお由は又言つた。そして、先刻さつきから三度目の同じ弁疏いひわけを、同じ様な詰らな相な口調で付加へた、『晩方に庭の台木どぎ打倒ぶんのめつてつたつけア、腰ア痛くてせえ。』

『少し揉んで遣べえが』とおさる

何有なあに!』

『ワツハハ。』けだるい笑方をして、松太郎は顔を上げた。

『ハツハハ。酔へエばアア寝たくなアるウ、(と唄ひさして、)寝れば、それから何だつけ? うん、何だつけ? ハツハハ。あしきをはらうて救けたまへだ。ハツハハ。』と、またグラリとする。

『先生様ア酔つたなツす。』と、……皺くちやの一人が隣へ囁いた。

真箇ほんとにせえ。けえるべえが?』と、その又隣りのお申婆おさるばあへ。

『まだがべえどら。』と、お由が呟く様に口を入れた。

『こら、うちの嬶、お前は何故、今夜は酒を飲まないのだ。』と松太郎はまた顔を上げた。舌もよくは廻らぬ。

『フム。』

『ハツハハ。さ、わしが踊ろか。いいや、酔つた、すつかり酔つた。ハハ。神がこの世へ現はれて、か。ハツハハ。』と、坐つた儘で妙な手付。

 ドヤドヤと四五人の跫音が戸外そとに近いて来る。顔のしやくつたのが逸早く聞耳を立てた。

『また隔離所さ誰か遣られるな。』

『誰だべえ?』

『お常ツ子だべえな。』と、お申婆が声を潜めた。『先刻さきた、俺ア来るどき、巡査ア彼家あすこへ行つたけどら。今日検査の時ア裏の小屋さ隠れたつけア、誰か知らせたべえな。昨日きのなから顔色つらいろア悪くてらけもの。』

『そんでヤハアお常ツ子もかかつたアな。』と囁いて、一同みんなそつと松太郎を見た。お由の眼玉はギロリと光つた。

 松太郎は、首を垂れて、よだれを流して、何か『ウウ』と唸つてゐる。

 跫音は遠く消えた。

けえるべえどら。』と、顔のしやくつたのが先づ立つた。松太郎は、ゴロリ、崩れる如く横になつて了つた。

 それから一時間許り経つた。

 松太郎はポカリと眼を覚ました。寒い。炉の火が消えかかつてゐる。ブルツと身顫みぶるひして体を半分もたげかけると、目の前にお由の大きな体が横たはつてゐる。眠つたのか、小動こゆるぎもせぬ。右の頬片ほつぺたを板敷にベタリと付けて、其顔を炉に向けた。かすかな火光あかりが怖しくもチラチラとそれを照らした。

 別の寒さが松太郎の体中に伝はつた。見よ、お由の顔! 歯を喰絞つて、眼を堅く閉ぢて、ピリピリと眼尻の筋肉にく痙攣ひきつけてゐる。髪は乱れたまま、衣服きものはだかつたまま……。

 氷の様な恐怖が、松太郎の胸に斧の如く打込んだ。渠は今、生れて初めて、何の虚飾なき人生の醜悪みにくさに面相接した。酒に荒んだ、生殖作用を失つた、四十女の浅猿あさましさ!

 松太郎はお由の病苦を知らぬ。

『ウ、ウ、ウ。』

とお由は唸つた。眼が開き相だ。松太郎は何と思つたか、またゴロリと横になつて、眼をつぶつて、呼吸いきを殺した。

 お由は二三度唸つて、立上つた気勢けはひ。下腹がしびれて、便気の塞逼そくはくに堪へぬのだ。じつと松太郎の寝姿を見乍ら、大儀相に枕頭まくらを廻つて、下駄を穿いたが、その寝姿の哀れに小さく見すぼらしいのがお由の心に憐愍あはれみこころを起させた。俺が居なくなつたら奈何どうして飯を食ふだらう? と思ふと、何がなしに理由のない憤怒いかりが心を突く。

『ええ此嘘吐者うそつき、天理も糞も……』

 これだけを、お由は苦し気に怒鳴つた。そして裏口から出て行つた。

 渠は、ガバと跳び起きた。そして後をも見ずに次の間に駆け込んで、布団を引出すより早く、其中にもぐり込んだ。

 間もなくお由は帰つて来た。眠つてゐた筈の松太郎が其処に見えない。両手を腹につて、顔を強くしかめて、お由は棒の様に突立つたが、出掛でがけに言つた事を松太郎に聞かれたと思ふと、言ふ許りなき怒気が肉体の苦痛くるしみと共に発した。

『畜生奴!』と先づ胴間声が突走つた。『畜生奴! 狐! 嘘吐者うそつき 天理坊主! よく聴け、コレア、俺ア赤痢に取付かれたぞ。畜生奴! 嘘吐者! 畜生奴! ウン……』

 ドタリとお由がのめつた音。

 寝床の中の松太郎は、手足を動かすことを忘れでもした様に、ビクとも動かぬ。あらゆる手頼たよりの綱が一度に切れて了つた様で、暗い暗い、深い深い、底の知れぬ穴の中へ、独ぼつちの魂が石塊いしころの如く落ちてゆく、落ちてゆく。そして、堅くつぶつた両眼からは、涙が滝の如く溢れた。滝の如くとは這麽こんな時に形容する言葉だらう。抑へても溢れる。抑へようともせぬ。噛りついた布団の裏も、枕も、濡れる、濡れる、濡れる。…………

(明治四十一年十二月四日脱稿)

〔生前未発表・明治四十一年十一月~十二月稿〕

底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房

   1978(昭和53)年1025日初版第1刷発行

   1993(平成5年)年520日初版第7刷発行

底本の親本:「スバル 創刊号」

   1909(明治42)年11日発行

初出:「スバル 創刊号」

   1909(明治42)年11日発行

入力:Nana ohbe

校正:川山隆

2008年1018日作成

2012年917日修正

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