お蝶の訪れ
牧野信一




 いま時分に、まだ花のあるところなんてあるのかしら? ──はじめて来た方角には違ひないのだが、案外だ! この様子を見ると何処か途中にでも花見の場所があるのらしいが、どうも妙だ!

 何処の花だつて、もうとうに散つてゐる筈だが──花見と云つても、あの時のは芝居見物のことだつたが、あれに誘はれたのはやがてもう一ト月も前になるぢやないか! あの頃が、それでも田舎よりはいくらか遅い東京のお花見どきだつた筈だ……と思ふんだが、さうでもなかつたのかな! あの時もあの連中と一緒に出かけてついでに此方に廻らうかとも思つたのだが、何といふわけもなしにお花見季といふことに遠慮でもしたい気! 遠慮でもないが、何だか臆劫な……かしら? まあ、お花見季が過ぎてから──といふつもりで、今日にしたのだつた。

 それだのにこの電車の有様といつたらない、往きなのか帰りなのかも知らないが、皆なお花見の連中ばかりだ、何処に今ごろ咲いてゐる花があるのかな?

 今ごろ花があつて! あんなに浮れてゐるお花見の連中! ──何だか飛んでもない国に来てしまつたやうな気がする! ……ゆうべ、さつぱり眠らなかつたせゐか寝不足も酷い! 半日あまりも乗る汽車なのだから、中で少し位うと〳〵出来るだらうと思つてゐたのに、それも駄目だつた……。

 お天気はのどかで、とても好い日なんだが、たゞでさへ眠くでもなりさうなうら〳〵とする日なんだが──いくら慣れないとはいふものゝ、ほんの一寸した知らない所へ行く位が、こんなにも気苦労では、あたしも仕様がないといふものだ!

 煩い〳〵〳〵! まあ何といふ騒々しい電車なんだらう、何といふ大変な浮れ様だらう、あの連中は! よく車掌さんが文句も云はないものだ。

「あゝ、のぼせあがつてしまふ。」

 お蝶は、それでも他人に悟られることを怯れて、そつと呟いた。──「窓をあけようかしら? たあちやん、あく?」

「気分が悪いの?」

 おたへは、うしろ向きになつて硝子戸に顔をおしつけたぎりで、降りる停車場を気をつけてゐたのである、お蝶に云ひつけられたまゝに──。「悪いの?」

「悪いといふほどでもないんだけれど……」

「あたしにあけられるかしら!」

 訪ね先きに悪いと思つて、わざとあたり前の小娘風にお妙をつくつて来たのであるがお蝶は、気にして見る度に、そのために二人の気分までが窮屈になつてならなかつた。斯んな時には、ひよいと知つた人にでも遇ふものだ、遇つたらかなはない……お蝶は、自分の考へてゐることがわけもなく苛々して、心細く、気づくと吾ながら可笑しかつた。

「気分は、別段悪くもないけれどさ、妙ちやん! これぢや、この騒ぎぢあ、聞き損ふかも知れないからさ……」

「大丈夫よ、それは──あたし。」

「いゝえ、いけない──あけておかう。」

 二人がかりで窓をあけようとしてゐると、得体の知れない西洋風のお面を頭の上にのせてゐる酔つた人が、つまらない冗談を云ひながら手伝つて呉れた。

「──済みません。」

「……お嬢さんには……」とばれた。他の言葉はお蝶には聞きとれなかつた。しやうは、とつくに悟られてゐて、かへつて冷かされたのではないかしら(お嬢さん、だつて!)──お蝶はそんな気がした。

 と、称ばれたお妙も、顔をあかくして可哀相にチラリとお蝶の眼をわけありさうに見た。平気に──とお蝶は眼で合図した。そして、努めて慎ましやかにその花見の人に愛想を述べた。

──「ア──といふ停車場は、まだ余程先きでございませうか?」

「ア──? ……君、知つてゐるか?」と、その人は伴れを振り返つた。

「ア──だつて? 知らないな。」

 ……お蝶は、凝つと眼を視張つて、お妙と顔をならべて、窓の外を見守つてゐた。二人は物も云ひ合はなかつた。──汽車路を走る電車なのだが、いやにこせ〳〵と走つたかと思ふと直ぐに停車場だ。止つたかと思ふと直ぐに走り出す。始めて乗る人などは、眼中にもないやうな、そんな気がした。

 麦、畑、まばらな家々、こゝらも都のうちなのかしら! お蝶は、樽野の悴が、何処かその辺を歩いてゞもゐれば好いが──そんなことを割合にほんたうらしく想ひながら、畑中の道を眺めたり、何時でも直ぐに降りられるやうに支度したまゝ、止る毎に窓の外に見得もなく乗り出した。



「直ぐに解つて?」

 昨日でも会つた人のやうな調子で樽野の女房は、親し気にわらつた。お蝶は、ツとする共に急に胸が一杯になつて直ぐには口が利けなかつた。

「え、直ぐに──」と云つた。

 直ぐに解つたどころではなかつた──終ひには俥屋までが舌を鳴した。──「この先きはもう畑ばかりで家なんてありませんぜ。」

「あの、西洋館みたいな家ぢやないかしら。」

「あれは何某なにがしさんといふお宅ですよ。」

 この横町の前なら、とうに通つたのであつた。停車場から割合に近いところだつた。引き返した道々、ふつとこの長屋の角の家を見ると、名刺の裏か何かに「タルノ」と片仮名で書いた紙片かみぎれが貼つてあつたのを、お妙が見出したのであつた。

 袷では汗が滲むほどの陽気だつた。花季が過ぎたばかりだといふのに、この陽気はまつたくどうかしてゐる、この二三日来の馬鹿陽気はまるで夏だつた。

 いくら頼む〳〵と訪れても何の返事もないので、お蝶が縁側の方へ廻つて見ると、開け拡げた座敷に男が二人グウ〳〵と眠つてゐるところだつた。

「まあ、無用心なこと、誰もゐないのに。」

「やつぱしさうだつた。こゝだつた。あれ、たしかにさうね、こつち──」

「……さう、たしかに──まあ、よかつた。」

「あれ、お客様かしら?」とお妙は、のぞいて見て「あら、ツーさんよ、ほら、いつかヲダハラの家にいらしつたことのある!」と叫んだ。

「どれ……うむ、さう〳〵──ケーオーの書生さんだつた!」

 はじめは座蒲団を枕にしてゐたんだらうが、二人とも枕とは飛んでもないところに頭を転がして、殺されたやうに眠つてゐる……。

「ツーさん」は、さかさまに梯子段からでも落つこちたまゝのやうなかたちで、一本の脚は高く籐椅子の上に載せ、片方の脚は頭の近くまで飛ばせて、ワツと叫んだ者のやうに両腕を拡げてゐた。──樽野の悴は、着物などはまるで体から離れて腰にはさんだタオルのやうに傍の方にまるまつて、シヤツと股引もゝひきひとつになつてしまひ、腹匐はらばひで、頬つぺたをぢかに畳におしつけ、涎を垂してゐた。鼻は畳におされて横に曲り、一つの鼻孔しかあいてゐない。口は三角にしつぶされてゐるし、下の眼は「猫の眼」なつてゐる。泣き顔みたいにも見えるし、怖しい苦悶を表してゐるやうにも見える。──お蝶もお妙も、これが樽野の悴だといふ見極めがつくまでは多少の時を要されたのであつた。脚は、交互の脚踏みをしてゐるやうに片方だけを曲げてゐる。腕は、うしろ手に縛られたかたちで背中に載つてゐる。──二人とも身動きもしない。蒸あつい西日が、開け放しの部屋に一杯あたつてゐた。その閑寂の中に二人の鼾だけがゴーゴーと鳴つてゐた。

「相変らずね……まあ!」とお蝶は、心もち顔を顰めてお妙を顧たのであつた。──彼女は、一途にがつかりした。

「お起しゝようか?」

「好いよ、来てしまへば──もう好いよ。お目醒めになるまで、斯うして待たう。」

 お蝶は、寧ろ自分のために、暫らくさうして待つてゐたかつた。

「小さい奥さまは、お留守……」お妙が云つた。「お坊ちやんも……随分大きくおなりになつたらうね。」──「あら、やつぱし小さい奥さまつて称んで好いかしら?」

「それは──好いさ。」

「ぢあ、若旦那は?」

「…………」

「何だか、あたし、やつぱしさうより他に云へないやうな気がするわ。」

「…………」

「ねえ、かまはないかしら?」

「……あたし達だけは関はないだらう、ひとりでなほるまでは──。変な心持で、急に他の称び方をすることもないだらうさ。」

 さう云つてお蝶は、忘れてゐた煙草に火をつけた。──この悴の、四年前に死んだ父をダンナ、ダンナ! と称んでゐたお蝶達だつたが、お蝶は、今ではこの悴は真面目な務めに通つてゐるとばかり聞いて訪れて来たのであるが、一目この様子を見たゞけで、あの頃の彼と少しも変つてゐないことに気づいてゐた。そればかりでなくお蝶の気分は、ぼんやり、あの頃の彼等に戻つたやうに、夢に走つてゐた──お蝶の頭は酷く疲れてゐた。

「随分好くおよつていらつしやることね、お二人とも……」

 お妙は、折角来ても──といふ顔色を露はに示した。──「小さい奥様は何処へいらつしつたんだらうね。」と、悴の女房のことを案じた。

 お蝶は、ふと、この家の生活くらしのことなどを考へると、惨めに、夢から醒めた。──滞在するつもりで来いとか、方々の芝居を案内するとか、いろ〳〵景気の好さゝうなことを云つてゐたが、あれは皆な可哀相なお世辞だつたのか──部屋の中を見渡したゞけでもお蝶は、さう思はずには居られなかつた。だが彼女は、別段来なければ好かつたといふやうな気も起らなかつた。

「あれ、小さい奥さまぢやない?」

 お妙が突然甲高い声を挙げたので、向うの繁みの方をお蝶が見ると、子供を伴れた、たしかに樽野の悴の女房が、ぶらり〳〵歩いて来る。女房は、短い海老茶袴のやうなものゝ上に、男のものでもありさうな毛糸のジヤケトを着て、ぷか〳〵と煙草をふかしてゐる。

「さうよ、さうだわ。」とお蝶も頓興な声をあげた。

 ………………

「直ぐに解つた? こゝの家──」女房は云つた。

「えゝ──」とお蝶は点頭うなづいたのである。



 お妙は、五つになる樽野の悴を伴れて附近の野原へ花摘みに出かけて行つた。樽野の悴の女房とお蝶は、次の一間しかない四畳半の茶の間で、時々何といふこともないわらひ声をあげては親し気に、飽かずに何かを語り合つてゐる。

(昼寝の者が眼を醒すまでの間に、二人がとり交した談話の、以下、わずかな断片)


          *


「さう〳〵、お蝶さんは、ツーちやんを知つてゐる筈ね……」

「学生さんの時分に夏、好くいらつしやいましたわね。」

「あら、今だつてまあだ、あの人……まあ学生──かしら。二三ヶ月前に、とう〳〵自家うちを追ひ出されてしまつて……」

「まあ!」

うちと一緒にアメリカへ行く相談をしてゐるのよ……」

「アメリカですつて!」

「それもうちが先きに立つて、煽てるやうなことまで云ふのよ、あの寂しがりやさん!」

「どうして、また、若旦那は……!」

「毎晩、毎晩、毎晩! そんな話!」

「ですからさあ、どうして!」

「…………」

「で、小さい奥さまは!」

「あたしもよ、一緒に行くつもりなのよ、お母さんは好いつて云つてゐるらしい、ヲダハラの……」

「何時……」

「それがさあ、お蝶さん──うちの云ふことはさつぱり解らないのよ。今日の云ふことゝ明日の云ふことゝ恰で違ふんですもの……馬鹿見たい。」

「……」お蝶は点頭いた。

「ふざけてゐるのかと思ふと、案外の真面目で──涙もろかつたり──」

「やつぱり、その御勉強にでせうか……」

「ツーちやんは、料理の名人なんだつて、自称。アメリカへ行つてコツクを覚えるんだつてさ。」

「まあ。──それで──」

うちは……」

 母から先きに支度するだけの分を貰つた旅費が、支度は何一つ取りかゝらぬうちにもうなくなりかけてゐるので、何かの口実を考へてゐるらしい──などと附け加へた。──「お調子に乗つてあの人は、ツーちやんのことまで引きうけてしまつて、内心大分弱つてゐるらしい……だけど、あの人、ツーちやんには、妙に同情してゐるらしいのよ、珍らしいことだが──」


          *


「お蝶さん、これ飲まない……」

「西洋のものなんて、とても戴けさうもありませんわ、──それこそ大変!」

「ぢやビールにしようか。あたしこの頃とてもお酒が強くなつたわよ。──カレラと一緒に毎晩飲むわよ。ところがカレラの方が弱いのさ、昼間は始終しよつちうあの通りなんぢやないの。」

「まあ、小さい奥さん……」

「費つたつて云つたつて、馬鹿〳〵しい──カグラザカとかへ通つて……」

「御苦労ですわね──まあ、お静かに。もうお眼醒めになるんぢやないでせうか?」

「それが可笑しいのよ、お蝶さん──。夜になると苦し紛れにうちの人は大きな法螺を吹くもので、そして毎晩違ふことばかし云つてゐるもので、昼間は、工合が悪くつて──眠れないと薬をのんでまで、あゝして……」

「大変なこと……」

「もつと妙なことには、この頃ではうちの人は、わざとお酒に酔つた振なんかして──狸寝入りなんてすることもあるらしいのよ。」


          *


「どこか、この先の方にお花見の場所でもあるんですか、小さい奥さん……」

「随分乗つてゐるでせう、仮装の人達なんて!」

「御存じない?」

「あたしも誰かに聞いて見ようと思つてゐたところなの。」

「でも、もう大概桜は散つた頃ぢやないでせうか。」

「八重桜はまだあるんぢやないの?」

「さうですかね。」

「ともかく毎日〳〵、大変な人出よ。」

底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房

   2002(平成14)年324日初版第1

底本の親本:「新小説 第三十一巻第七号」春陽堂

   1926(大正15)年71日発行

初出:「新小説 第三十一巻第七号」春陽堂

   1926(大正15)年71日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年523日作成

2011年117日修正

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