極夜の記
牧野信一
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静かな、初秋の夜である。
もう、幾日といふことなく、漫然とまつたく同じ夜ばかりを送り迎へてゐるのだが、夜毎に静けさが増して来るやうだ。
要があつて、斯うしてゐるわけではない、昼間ぐつすりと眠るので、夜は眠れないだけのことである、不思議はないのだ。神経衰弱でもなければ、不眠症とかといふ病ひでもない、簡単な昼・夜転換なのである。沁々退屈した。独りで毎晩、余儀なく斯うしてゐるのは自分のやうな俗ツぽい者にとつては随分の苦しみである。如何ほどこれを続けてゐようとも、この頭に空想の花が咲く筈はない──どうかして、この昼夜の転換を治したいものだ。
完全な昼間に、自分はもう何時にも接したことがない。好きな朝の気分などゝいふものは、忘れてしまつた。
夜は、堪らない。
いつものやうに自分は、今机に向つてゐるが、何も考へてゐない。別段、消極的に陥つてゐるわけでもない。一つの物体が、秋の夜の爽やかさの中に置かれて、爽やかさも感じてゐないまでのことだ。……そして、いつもの通りまつたく無感想状態なのである。たゞ、秋になつたので多少しのぎ好くなつた。長い夜ばかりの夏だつた──思ひ出すのも堪らない。
「さて、今夜は──?」
せめてカル子の幻が、もう少し生々と甦つて呉れでもすると好いんだがな? 今日だつてカル子に起されて、夕方まで話をしてゐたんぢやないか。自分は、カル子が嫌ひなどころか、この頃では恋情さへ持つてゐるんだ。
だが、いつも彼女に会ふ時は、寝呆けてゐるので、飛んでもないことばかり喋舌つてしまふ。
たしかに彼女は、美人に相違ない。
今思つて見ると、さつき会つたばかりの彼女が、幻灯程にも浮んで来ないのは、残念である。──あした、こそ、はつきり感じて置かう。で、でもなければ、この心では、あんまり空々しくつて、あの手紙の返事も書けやしない。手紙を書くのは、愉快だらうな! こんな静かな秋の夜に、斯うして、独りで、この旧式なアメリカ製のランプの下で、
「カル子さん!」
駄目々々、これ位ゐほんとうらしく彼女の名前を呟いても何の亢奮も起らない、あれ程自分は彼女に恋してゐるんだがな?
まつたく今、自分の頭は無である。
若し、これで自分が何か書かうとしてゐるなら、呆れた無法者である。
「笑はせるぢやないか! 机の上には、厳然と詩箋がのべてある、麗々と筆がその傍に備へてある──大体、あいつは何のつもりなんだらう。」と、自分は呟いて、吾ながらウロンな気がした。
(あいつは何のつもりなんだらう。)
これは往々自分が、吾家の同人から放たれる言葉の、口真似である。──云はれた当人が、口真似をしてゐれば世話はない。
「今日も、お午過ぎにカルちやんに起されたんです。」
「俺は、あいつが帰つて来てから一度も顔を合せたことがない、一体何時から帰つて来てゐるんだらう?」
カル子にいつもより少し早く起されたので彼女が帰ると自分が眠くなつて、座敷に転がつてゐると襖を隔てた茶の間で父と母が、自分の噂をしてゐた。
「六月の中頃ですよ。」
「何か、肚に不平でもあるんぢやないか?」
「年頃ですからね。」
「夜は、出掛けるかね?」
「この頃は、出掛けないやうですよ。」
「あいつの耳には入れられないが……」
「…………」
「俺は、この間、聞いて驚いちやツた! あいつは、お前、芸者買ひをするんだぜ。」
「えツ!」──「へえゝゝゝゝ!」
「厭になつてしまふなア、ハハヽヽヽ。」
「そりやア、困つた!」
「然も、あいつは余ツ程のぼせてゐるらしいんだ──先は、お前……」
「それア、さうでせうとも……」
「相手ツてえのは俺は、好く知つてゐる子供なんだ、ついこの間までお酌だつたんだがね、──万歳といふ。」
「名前が! それに、彼が──」
「うむ。」
「それやアさうと、お金はどうしてゐるんだろ。」
「大分溜つてゐるらしいよ。」
「それが気になつて、夜もおちおち眠れないんですね。」
「さうに違ひない。」
「仕方がないから俺、今日片づけて来たんだがね、あいつには知らせないように云ひつけて来た。」
「でも、直ぐに悟るでせう。」
「あいつが、ほんとうに惚れてゐるとすると困りものだな。あんな、半狂ひ見たいな奴だから、ハヽヽヽ、無理心中でもしないとも限らないぞ。」
「まさか──」
自分は、猫のやうに静かに、奥の自分の部屋に忍び込んですつかりあたりが暗くなつてから眼を醒ました。そして、何気ない顔をして茶の間へ行つて飯を食つた。父は、居なかつた。母が、不快を圧し秘してゐる様子がはつきり解つた。
図々しいのかしら? あの父と母の対話を思ひ出しても、少しも心が動じない、退屈な芝居でも見て来た後のやうに、なんにも心に残つてゐない。
せめて、月でも出てゐると好いんだが、生憎く闇夜である。微かに波の音が響いてゐるだけである。
静かだ。──同人は、皆な安らかに眠つてしまつた。他愛もない気がする。哀れツぽいやうな気もする。羨しい気もする。何となく可笑しな気もする。……だが、それらの気も直ぐに消えてしまふ。
──あゝ、また、この儘明け方まで斯うしてゐなければならないのか!
*
悪い癖がついてしまつた。別段、うまくもないんだが、あいつ(ウヰスキー)を飲むと、何となく心がニギヤかになつて来るので、止めようと思ひながら、つい真夜中になると誘惑を感じて盗みに行く。
そして、斯うしてチビチビと飲み始めるのだ。──だが、もうこれは止さう。親父のやうな酒飲みになつてしまつては堪らないからな。親父も、酒飲みでないと話せるんだがな……やア、素晴しい鼾声だな、こゝまで聞える、親父の鼾声が! さぞ、好い心地で眠つてゐることだらうな。
「ほら……ゴロゴロと喉が鳴つてゐる──馬鹿にしたくなる音響だな!」
いや、自分も大分酔つて来たぞ。
──えゝツ! 斯んなものは破つてしまへ! 気障な! ペンも、そつちの方へ投げてしまはうか。
「おやツ!」
──「それぢや駄目だよ、そんな法ツてあるもんか、下手だなア、酷え目に遇つちやつた、山の方はどうなるんだい、松の木だアぞう……」
(なアんだ、またいつもの親父の寝言か、吾家の者は皆な寝言を云ふ癖があるんだが、あれは頭の悪い証なんださうだ。それにしても親父の寝言は、莫迦にはつきりしてゐるな!)
自分にも寝言の癖があるさうだ。そのうち一つ寝言と云ふ題で詩を書いて見ようかな? 「寝言」なら書けるかも知れないぞ、自分にも。
──「さうかねえ、松の木は確かなんだ! ……」
まだ、親父は続けてゐる、何んな夢を見てゐるんだか知らないが、親父の寝言だけは詩にならない。
今宵は、月が美しい。この熱い顔を、斯うして窓の外へ突き出してゐると、魚のやうに呑気だ。
……「よしツ、あの山は俺が引きうけた、車は直ぐに回せるのか。」
チヨツ! 耳ざはりだな、──好い加減に止めないかな、阿父さん! 僕は、今折角気分が、月に走り始めたところなんだからさ、少しの間、静かにしてゐて下さいよ。
*
「まア、煙草の煙りで一杯だね。」と云ひながらカル子が自分の部屋に入つて来た。これから起き出てみようと思つてゐたところである。電灯が明るく点つてゐた。
「夜だぜ。」
「好いんだよ、今晩は。遊びに来たの。」
「迷惑だな、これから勉強に取りかゝらうとしてゐるんだのに。」
「悦んでゐるくせに──」
「…………」
自分は、壁へ眼をそらした。ほんとうに迷惑な気がしたのである。
カル子は、自分の机の前に来て静かにしてゐた。自分は、其方を向かなかつた。
「まア、偉さうなことを書いてゐる。これが勉強なの。」
カル子がくす〳〵と笑つた。書き散しの紙が其処に置いてあつた。
別段、自分は、慌てもしなかつた。前の晩に、何か詩を書かうと企てたのだが、勿論何の言葉も浮ばないので、徒らに丸や四角や三角を書き散して置いたのだ。
「偉いだらう。」と、自分は落ちついて云つた。
「中学生の試験のおさらひのやうだわ。」
「どれ〳〵。」
カル子の無遠慮さに自分は、内心肚を立てゝゐたが、遠慮してゐたのである。
立方体や円錐体などが無茶苦茶に書いてあつた。
──規矩準縄
△規──円くするブンマハシ
△矩──四角にする定木
△準──平坦にする定木
△縄──直くする器
そんなことが書いてあつた。
「何でもないぢやないか、何が偉さうさ、こんなもの。」
自分は、そツ気なく云つた。
「精神の修養?」
カル子は、負けずに皮肉に云ひ返した。自分を、厭がらせるつもりらしい。
「たゞ──」と、自分は煩はしさうに力を込めて云つた。「たゞ──書いたゞけなんだよ、意味はないんだよ。」
「ぢや、お得意の詩でも書けば好いのに。」
「煩さいなア!」と、自分は怒鳴つた。自分は、今更のやうに己れの愚を見せつけられた肚立しさを覚えたのである。
カル子は、ムツとして出て行つた。
自分は、そこに落ちてゐる紙片を拾つて、仰向けの儘読んだ。同じく昨夜自分が、あまりの手持ぶさたで、徒らに書いた紙片である。
──蓮月尼は、和歌を以て有名なれども俳諧にも亦堪能にして
納涼み過ぎて恥かしく成る糺川
戸口にて傘の雨きる寒さ哉
などあり、また尼は、修業の傍ら陶工に耽り、その句に
百ばかり急須造りて年の暮
ともあるが如く、今も蓮月焼と称する一種の古朴なる陶型は存せり。
尼は、常に壬生寺の地蔵尊を信じ、真言の日課をなせど、その本尊は伏見人形にして、夫も屡々代り、或は柴を戴く大原女、また或時は富士見などあり、然もかゝる本尊は、時を経れば小児等に与へられしとなん。或る人之を見て、相好円満の地蔵尊を与へしに尼は、却て之を喜ばず、仏尊は執心掛かりて、修業の妨げとなれば、他の物数奇の人に与へ給へとて、享けざりしといふ。
──などゝ読んで来ると、にはかに自分の五体はカーツと熱くなつた。自分は、怖ろしいものに殴られでもしたやうにガバと夜具を頭からかむつてしまつた。
この発作が稍収まつた時に自分は、真ツ暗な夜着の中で呟いた。……(あゝ……、これで自分は文科大学生だつたのか! 止めるんなら、今のうちだ。──まだ家人には話してないが今年の修業試験で自分は、まんまと落第してゐるのだ……反つて、それが幸ひだ、止めよう〳〵。そして、親父が経営してゐる山の材木工場へ行かう。)
*
あれから、もう十年に近い月日が経ち、自分は三十歳の男になつてゐる。
静かな、初秋の夜である。──この頃自分は、飲酒家になつて、いつにも斯んな静かな夜に出会つたことがない。
自分は、今机に向つてゐる。まつたくの無感想状態である。若し、これで自分が何か書かうとしてゐるなら、呆れた無法者である。
「笑はせるぢやないか! 机の上には、厳然と詩箋がのべてある、麗々と筆がその傍らに備へてある──大体、あいつは何のつもりなんだらう。」
何ンにも聞えて来ない。こゝは、東京郊外の寓居で、あの波の音も聞えない。
この頃、自分は盛んに寝言を云ふさうだ。親父のやうに頭が鈍いのに違ひない。──親父の寝言も聞えない。彼は、をとゝしの春永遠に眠つた。
今夜自分は、何か書くつもりで酒をやめて机に坐つたのである。(この頃は、机に向ふ時は、昼間ばかりなのだ。)──ただ、斯うして坐つてゐるだけなら、清々と好い。
せめて、月でも出てゐると好いんだが、生憎闇夜である。波の音は、無い。
静かだ。──少数の同人は、皆な安らかに眠つてゐる、鼾をたてる者も無い。
この次の満月が、十五夜なのかしら。十五夜には、友達を招いて月見の宴を張らうかしら!
雞が、切りに鳴きはじめた。もう、間もなく夜が明けるのかな?
自分が持つてゐるペンは、さつきから無暗に、あの三角や四角や立方体を書いてゐるうちに、わけもなく、規・矩・準・縄などゝ書いてゐた。円くするブンマハシ、四角にする定木、平坦にする定木、直くする器!
自分は、気づいて、赧くなつた。
そして、もう外が薄ら明るくなり、勤勉な牛乳配達の車の音を耳にしながら、机に伏して呟いた。──(……何と思つても、もう俺には行き処もなくなつたか! 山の材木工場? も無い。)
何となく、十五夜が待たれる。
さうだ、その時は、母の家へ帰つて、月見をしよう。そして、昔のやうな、父が外国へ行つて留守であつた当時の自分達が、月見をした通りな、一夜を過さう。
*
近頃、夜を極めたのは珍らしい。若しかすると、これが源で昼と夜が転じてしまふかも知れない──いや、大丈夫だ、この頃は酒を飲むから。そして、昼寝をした日であつても、夜は、鼾を挙げ、寝言を発し、正体なく好く眠るといふ話だ。
底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「日本小説集 第二集」文藝家協会編、新潮社
1926(大正15)年7月16日発行
初出:「文藝春秋 第三巻第十号」文藝春秋社
1925(大正14)年10月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
2011年4月23日修正
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