競馬の日
牧野信一




 眠つても眠つても眠り足りないやうな果しもなくぼんやりした頭を醒すために私は、屡々いろいろな手段を講じる。

 頭がぼんやりしてゐると私は、いつも飛んでもない失敗を繰り返す癖に怖れをもつてゐたからである。

「うんうん──と、はつきり点頭いてゐたから約束通り僕は今迄停車場で待つてゐたんですよ。がつかりしちやふな、ほんとうに未だ寝てゐるなんて酷いや!」

 森だ! と私は、吃驚りして寝台から飛び降りた。が、思ひ返すと、とても具合が悪くなつたので、そつとまた寝床にもぐり込んで眠つてゐる振りをしてしまつた。──綺麗な天気らしい。窓掛けが瑠璃色の陽を一杯含んでゐる。

「まあ、そんな約束をしたの! あたし達ちつとも知らなかつたわ。あたし達が知つてゐればそんなことはなかつたでせうにね。」とユキ子が答へてゐた。

「あいつ等に云ふと、一処に行きたがつたり何かして厄介だから、二人で黙つて行つてしまはう──そんな約束だつたんですよ。」

「まあ酷い。ばちだわ!」

「お蔭で僕は、今日一日を台なしにしてしまつた。」

 本の包みでも投げ出したらしい音がした。その音が私の胸を痛く打つた。森は、汽車で東京へ通つてゐる大学生である。私は、前の日に森と一処に野球試合を見物に行かうといふ約束をしたのをすつかり忘れてしまつたのである。

「ぢや、あたしが御馳走するわ、晩まで遊んでいらつしやいよ。」

「つまらないけれど、さうするより他はないさ……」

「あんな酷いことを云つてゐる!」

 ──私は、半身を起して首を振つて見た。相変らず夢のやうにぼんやりしてゐる。斯んな頭で他人に会ふと私は、更に何んな失敗を繰り返すか計られない。

 森だから好かつたものゝ! などゝ呟いで私は胸を撫で降した。──その上私は、はつきりした頭をとり返さないと自分の仕事が出来ないのだ。

「途中で行き違ゐになりはしないかと思つて僕は、びくびくしながら来て見たんだよ。」

 森は、未だそんなことを云つてゐる。森は、此処から三四駅上りに寄つた私の家族なども住んでゐる町に居るのだ。

「行き違ひになつたら、なつたで好いぢやないの。」

 気のせいか幾分声を忍ばせたらしい調子でユキ子が云つた。

 私は、ユキ子と森の表情を想像した。

「…………」

 森の返事はなかつた。

 私は、起きて其方へ現れる勇気がつかなかつた。

「ともかく斯う頭が、ぼんやりしてゐては救からない。」

 と私は呟いだ。

 私は、そつと寝台から降りて着物を着換へると、泥棒のやうに足音を忍ばせて窓を乗り超えた。そして裏庭をまはつて台所口から覗くと、四五日前から来てゐる妻が歌をうたひながらジヤガ芋の皮をむいてゐたので、私は口をおさへて、そつと、そつと! と臆病な眼つきを動かしながら、手振りで、靴を持つて来て呉れ! といふ意味を伝へた。

「ちよつと散歩に行つて来るよ。」と私は、声が潰れた者のやうな喉で囁いた。そして、庭の、森達の方を指差して、何か悪事を相談した芝居の悪者のやうに、手の先で秘密を云ひふくめた。

 私はスリツパを靴と穿き換へると、裏の蜜柑畑を脱けて、大廻りをして、街道に出たのである。

 真実悪事でも働いた者のやうに胸ばかりドキドキと鳴つて頭は恰で無いものゝやうな感じだつた。何といふこともなしに、堪らない、因果な気に打たれた。

 白いバスが通りかゝつた。

 私は、駆けて行つてそれに飛び乗つた。不図気づいて見ると私は、ガマ口を持つてゐなかつた。まごまごして、また飛び降りようかと思つてゐると、

「Mさん、此処があいてゐますよ。お掛けなさいな。お出かけですか? 私も行くんですよ、一処に参りませう、私は今日は道楽気ぢやないんですよ、何うしても今日は勝つて来なければ男がたゝない! といふ素晴しいわけがありましてね、まあまあ此処にお掛けなさいよ、あなたに此処で出遇つたのは幸先が好い、あなたに聞きたいことがあるんですよ。」

 ──忽ち流暢な朗らかな言葉が私を縛つたのである。百合といふ大変可愛らしいお酌がゐるので私が此頃では妻達にかくれて、足繁く通つてゐるロータスといふ花の名前に似た酒場の親爺だつた。

 女車掌が親爺の前で切符を切つてゐた。親爺は、回数券を出して、

「二枚だよ。」などゝ私の分まで切つてしまふと、決して私が言葉をいれる余地が無いほどの饒舌おしやべりを続けるのであつた。

 私は、ぼんやり彼の傍らに腰を降してしまつた。

 親爺は興奮して喋舌り続けるのであつた。酷く酒臭さかつた。

「どえらい穴をあてなければ、引つ込みがつかない! 今朝は、どうも白々あけから眼を醒してしまつて、大変な騒ぎでしたぜ。店の方はすつかり女房任せにしてしまつて、私は店の儲けも、すつかり買つてしまはなければならないといふ仕末で──それは、あんまりだ、そんな馬鹿なことをする位ひなら、あたしは競馬場へなんか店は出さない、好い加減にするが好い! と斯う女房がつむぢを曲げ出した、何を云つてやがるんだい、競馬場で酒を売つた儲けで、質をうけ出すなんていふ了見で、運が開けるものかへ、そんなケチをつける奴はたつた今出て行つてしまへ! とばかりに私は見得を切つたところが、女房も、黙つては引つ込まない……大変な夫婦喧嘩が始まるといふ始末でね!」

 競馬があるのだ。バスの乗客は悉く競馬行の人々ばかりらしい。──私は、競馬があるなどゝいふことは恰で気がつかずに居たのだつた。途中の湯村にある「温泉プール」へ行つて、滅茶滅茶に泳いで来たら、清々とするかも知れない! と私は思つて、これに飛び乗つたのである。

 私は、遂々とう〳〵競馬場へ来てしまつた。



 バスを降りると親爺の姿は、直ぐに何処かへ消えてしまつた。

 私はロータスの出張店へ入つて行つた。

「青野さんが、さつきから探してゐらしたわよ。」と百合が云つた。

 青野といふのは、馬を持つてゐる私の友達である。

 百合がゐたので私は嬉しかつた。

「俺は未だ朝飯を食つてゐなかつた。」と私は、ビールをすゝめに来た百合に云つた。

「すつかり競馬フアンになりきつてしまつたのね。」

 前の晩青野と伴れだつた私がロータスに現れて、酔つて、青野の勇敢な競馬の話に私が夢中になつて、ヒンヒンといなゝきながら駆ける馬の真似をした! などゝいふことを百合が伝へた。

 私は、何もも忘れてゐる。

「おい!」と私の肩をたゝいて、そして私の手を堅く握つた青野が、颯爽とした眼つきをして、

「冬子と君が来るのをさつきから待つてゐたんだぜ、遅かつたね、失敬な? ──冬子、冬子、見つかつたよ。」と呼んだ。

 鞭で、スカートをパタパタとたゝきながら駆け寄つて来た冬子も私の手をとつて、

「寝坊!」と云つた。青野の女子大学を出てぶら〳〵してゐる妹である。「今朝は、あたし達の家まで来る約束だつたんぢやないの! 皆なで、そろつて、トラベラスのために盃を挙げて、出陣しようなんて、自分から先に云つてゐたくせに!」

「昨夜は、徹夜で勉強してしまつて……」と私は弁解した。真にそんな気がしたのでもある。「まだ眼が醒めないほどなの──。御免よ、冬ちやん?」

 冬子があきらかに不気嫌な気色を示してゐたので私は、どきまぎして、哀れな声を出したのである。

「何てまあ、あきれた嘘つきでせう。昨夜十二時過ぎまで百合ちやんの店で、馬鹿な騒ぎをしてゐたくせに! ねえ、百合ちやん?」

「とても──」と百合も相槌を打つた。いかにも当にならないことばかりを真面目さうな顔をして、よくもまあ斯う白々しく放言出来るものだ、信用の出来ぬ遊蕩野郎だ! といふ風に、百合は私の顔を眺めた。

 ──私は、自分の生活を改革しなければならない! などゝ不図思つた。百合も冬子も殆んど差別なく、私は、好き過ぎて、困つた。……それなのに、いつも、稍ともすれば、頭がぼんやりしてゐて、何も彼も忘れ果てゝゐるかのやうな心地になつて、変な失策ばかり繰り返してゐる──などゝ思ふと私は、急に情けなくなつて、更に、茫然とした。

 夢見たいである。怖ろしく騒がしい群集の中で、斯うしてゐるのに、妙に頭の中は白く静かで、うつら〳〵としはぢめると綺麗な夢がまざ〳〵と眼の前に現れたりする。

 私は、狩りにお出ましになつた王様である、馬のぽかぽかと鳴るひずめの音がまことに快い! 私は、鞭をあてゝ馬を飛ばした。風のやうに速い!

「万歳、トラベラス!」

 と私は思はず叫んだ。

「……なんて! まあ、今頃になつて、ごまかしてゐるわ。」

 と云つたのは眼の前の冬子だつた。

「あんまり煩く云ふなよ、冬子!」と青野がたしなめて、私と一処に洋盃カツプをとつた。

「ぢや、あたしも──」

 冬子も洋盃をとつて「百合ちやん、あんたもどうぞ──此方はサイダーにしませうよ、兄さん、ちよつと待つて──」

「プロージツト。」

 と私は叫んだ。私の声が調子はづれに大きかつたので、青野はあかくなつて、はにかんでしまつた。

「勝利は汝の頭上に輝くであらう。私達の勇敢なるトラベラスよ。」

 と私は続けた。──私には、未だ、朝霧を衝いて駆けてゐる王様の夢が続いてゐた。

「酔つちや厭よ、斯んなところで──」

「その花は、未だとらないで下さいよ、代りがないんですもの!」

 冬子と百合が次々に私をさへぎつた。私は、テーブルの上にさしてあつたチユーリツプの花をとりあげて、何か云ひながら自分の胸に飾らうとしたところだつた。

 云ひおくれたが、トラベラスといふのは青野の、滅多に勝つたことのない馬の名前である。青野の家には「朝風」と「トラベラス」の二頭の馬がゐて、前者は評判の高い俊足だつたが、私は「トラベラス」が贔気だつた。



「実に残念だ。──ねらひ損つた、あゝツ!──百合、母さんを呼んで呉れ。」

 百合のお父さんが泣きさうな鬼のやうな顔をして入つて来た。

「まあ、お父さん!」

 百合も情けなさうな顔をして、格闘でも演じた者のやうにしどけない姿の父を眺めて、

「もう、お止めになつたら──」

 と忠告してゐた。

「そんなことを云はないで、是非頼む、お母さんを呼んで来て呉れ。」

 百合の親爺は駄々子のやうに喚きながら、私の傍に来ると、

「あはやといふところで、けてしまつた。」と唸りながら卓子に突ツ伏した。私は、詳しいことは何も知らなかつたが、彼は、さんざんに頭をしぼつた上句「山桜」とかといふ馬にあらん限りの投票を尽したところが、向きが定まらないうちにスタートを切られて、遂々終りまで半円周近くも棄てられ続けだつたといふのだつた。あはやといふところで──などゝ彼が云つたので私は、まつたくその馬がゴールの眼近かにでもなつて躓きでもしたのかと思つたのに!

「そいつは、何うも残念だつたね。」

「──泣くにも泣かれない。」

 と彼は胸を掻き毮つた。そして、

「よしツ、斯うしてはゐられない。」と再び思ひ立つと、幕の蔭になつてゐる料理場へ駆け込んで行つた。

 私は、彼に深い同情を寄せた。

「また、喧嘩が始まらなければ好いが。」

 と百合が案じてゐた。

 幕の蔭からは、

「御生だ!」とか、

「一生の頼みだ。拝む!」とか

「ちつたあ俺の胸だつて察して呉れても好さゝうなものぢやないかね。」などゝ訴へてゐる親爺の切なさうな哀願の声が洩れて来た。

「無理なのよ、父さんが──」

 百合が私に告げた。……「まるで滅茶苦茶で勝つことなんか一度もないんですもの。そのくせ、慾深だと見へて、評判の悪い馬ばかりをわざ〳〵ねらつて、買ふんだもの。」

 百合は、顔色を曇らせてエプロンの端をつまぐつた。青野達は私を其処に待たせて馬小屋の方へ行つてゐた。

 私は、百合のその憂ひの様子が酷くいぢらしく可憐に思はれてならなかつた。一体、百合は憂ひ顔が美しい!

「慾深だなんて、そんな悪いことを云ふものぢやないよ。評判の悪い馬を贔気にするといふのは、綺麗なをとこ気ぢやないか。」

 私は、自分ながら、巧い言葉が出たものだ! と感心した。可憐な娘を言葉巧みに慰めるなどといふ験しは嘗て私には無かつたことだ。ぼんやりしてゐるどころか仲々何うして見上げた伊達者ダンデイだぞ! と私は思つた。

「だつて、あんまりなんですもの。母さんが厭な顔をするのも無理はないとあたしは思つてゐるのよ。」

「そんな……」

 と私は口ごもつた。私は、一気に洋盃カツプを飲み干して、

「そんなことを心配するのはお止めよ、百合ちやん。」

 私は、それでもう言葉が続かなくなつてしまつたが、妙に嬉しく、そして、何となく、ぼんやりと、朗らかな夢心地で、大胆になつて、

「僕の贔気は青野のトラベラスだ。」

 などゝ呟きながら、そつと百合の肩に腕をのせて、百合の伏せた眼蓋を見あげた。そして百合の膝の上の手を執らうとした刹那に私は、

「あなたツ!」

 と、たゞならぬ鋭い剣を含んだ声に打たれて、思はず電気にでも触れたかのやうに振り返つた。

 妻が、今にもつかみかゝりさうな怖ろしい形想で睨んでゐた。──すると、何とまあ不幸なことには、笑つてゞもゐれば返つて無事だつたのだらうに百合は、真ツ赤になつて、幕の向ふに逃げ込んでしまつたのである。

 妻は、ドンと私の肩先きを拳固で突いて、

「嘘つき!」

 と罵つた。「ちよつと散歩に行つて来ると云つて出たので御飯も食べないで待つてゐれば、洒々しやあ〳〵と斯んなところに来てゐるなんて……」

 ユキ子も森も其処にゐた。……私は、昏倒しさうになつた。三人の厳然たる姿が、私の自決を待つ検察官のやうに、私の哀れな眼に映つた。

 ……「今度こそは屹度勝つ!」

「勘弁して呉れ。」

「これに負けたら俺は一生競馬はあきらめるから──」

「よう、頼む〳〵、この通りだ。」

 それは幕の蔭から聞える百合の父さんの、血を吐くやうな哀願だつた。



 やがて百合の父さんが、

「もう、此方のものだ!」

 と叫んだかと思ふと、揚幕から飛び出した堀部安兵衛のやうな格好で、

「トラベラスだ、トラベラスだ!」と私に合図するかのやうに連呼しながら、韋駄天走りに私達の前を駆け抜けて行つた。

「トラベラス!」

 私も、夢中で跳びあがると呼応した。

 吃驚りしてたぢろいた妻達に、間一髪もいれさせず私は、いきなり妻が小脇にはさんでゐた模擬革のハンドバツグを、奪ひとるがいなや、

「トラベラスだ、トラベラスだ、もう此方のものだ。」

 と私も恰で無意識に叫びながら一目散に駆け出した。

 私は、これまで馬券と称するものを買つた経験は皆無なのである。

 何が何だか、勿論自分でも滅茶苦茶な心地だつた。



 何といふ凄まぢい騒ぎであらう!

 群集は、金を握つた腕を宙に伸して、もみ合ひ、口々に馬の名を叫びながら、窓口に殺倒する。

 私は、百合の父さんを見失つては大変だ! と思つて、片方の腕を伸して、しつかりと彼の帯につかまつた。

「Mさんもトラベラスか?」

 彼は辛うじて振り返ると、突撃の最中に戦友に呼びかけるやうに、

「しつかり、やつて下さい。」などゝ云つた。

 醒めれば辻妻の合はぬ言葉ばかりだ。

「大丈夫だ。──家の連中も応援に来てゐるからトラベラスの勝は俺達のものだ。」

「さうだ。──青野さんにも頼んで下さい。そして私がトラベラスの大贔気だつてことを知らせて下さい。」

「君もさうか! 僕はこの間からトラベラスの夢ばかりを見てゐる。あいつが勝たないなんてことがあるものか!」

「そのつもりでやつて来たんですものね、お互ひに──」

「さうだとも〳〵! この競馬ひとつが俺達の運命の岐れ路だもの!」

 私は、とても悲愴な気がして斯んなことを力を込めて云ひ放つたりした。

「有りがたう、Mさん──」

 涙が出さうに私は亢奮してゐた。──そして、朝来の、執拗にぼんやりしてゐた頭が、何となく白々と醒めて来るかのやうだつた。

 一体、私のその病ひは、種別の何たるを間はず猛烈な肉体運動を試みると次第に醒めて来るのが何時もの例なのである。



 私達はロータスの出店と反対側の芝生に陣どつた。その辺が一番観衆が疎らで、好く見物出来さうに思へたから──。

 百合の父さんは、苛々して酒のラツパ飲みをした。そして私にもすゝめるのである。

 晴れのトラツクに参々伍々馬が出て来て、スタートで狂つてゐるのを眺めてゐるのは熱情家の私達にとつては全く気が気ではない。

 3番のトラベラスは真紅の上着をつけた騎手に操られて、フヰルドに現れると我むしやらに猛りたつてゐた。彼女トラベラスが就中行儀が悪くて、他の馬が辛うじて向きがそろつて、あはやスタートの旗が振られさうになつても、彼女が脇へ反れてしまふので容易に出そろはなかつた。──観衆の間でも彼女が最も不評判だつた。

 私はハラハラとして堪らなかつたので、百合の父さんの膝からとつた望遠鏡で向ひ側の店先を眺めたりした。百合、妻、冬子達は私達の存在には気づいてゐないらしく何か睦まぢ気に語り合つてゐた。私は、百合が仲間はづれになつてゐないのを見てツとした。稍離れた処を見るとユキ子が森の肩に腕をのせて木柵に凭つてゐた。月夜の晩にこの二人が海岸を散歩してゐたとか、別々に出かけたにも関はらず二人が銀座の喫茶店で落合ツて何事かひそ〳〵と相談してゐるところを見た者がある! などゝいふ噂を聞いて私は、嫉妬感をもつて打ち消したことがあるが、眼のあたりの睦まぢ気な彼等の態度には確かに私の胸先きを冷くさせる感じが窺はれた。さう云へば先程私が隣室で聞いてゐた時に彼等が、

「あたし返つて、その方が嬉しいわ。」

「……慌てゝ来たんだ!」

 そんな言葉を交し、不気味な沈黙が保たれてゐたのが、意味あり気に私に思ひ出されたりした。──ユキ子は、私の身のまはりの世話をしながら油画を習つてゐる娘なのだが、私が理不尽に優し過ぎるので(私には気づかなかつたが)、私から享楽派の悪影響を享けて半年前とは全く見違へる程の野蛮なモダーンガールになつてしまつたといふ専らの噂だつた。私は彼女の画を見たことはない。訊ねると、画を習ふなんて云つたのは皆な口実で、斯んな温泉町で遊んでゐたいから皆なを欺して来てしまつたのだ──などゝ答へてゐた。そして、岬の中腹にあるホテルのダンスホールなどに足繁く通つてゐた。

 私がユキ子に関して、不図、不安を感じはぢめた矢先に、ワーツといふ凄まぢしい叫声が巻き興つた。

 百合の父さんが弾かれたやうに飛びあがつた。──先頭をきつてゐるのがトラベラスである。容易に静まらないトラベラスが漸く正面を向いたときが、他の馬よりずつと先の方へ出てゐたので、そのまゝスタートの旗が振られたのである。

 だが、いつの間にか私の亢奮はすつかり醒めてゐた。

 ──「勝つた!」

 ロータスが叫んで、再び夢中で駈け出し、そして私も続いたのであるが、さつきの自分の狂態がとてもテレ臭く顧みられて妻達のゐる百合の店へ戻るのが、気恥しくてならなかつた。



「勝つたぢやないの!」

 一番先きに私の傍へ駈け寄つて来て、しつかりと私の手をとつたのは冬子である。

 それに続いて来た妻は、

「さつきは御免なさいね。あなたがこの頃競馬に熱中してゐるといふことを少しも知らなかつたので、ついあんな顔をしてしまつて! 百合ちやんに聞いてすつかり解つたわ。」

 左う云つて笑つた。妻は、私が、ものに熱中すると半狂乱になるといふ性質を、好もしいこととして信じてゐた。

 百合が何んなことを云つたのだらう? と私は思つたが、すかさず、その場を取り紛らせたつもりで、

「此間うちから俺はトラベラスの夢ばかり見てゐたんだよ。何うだい、偉いだらう。」などゝ妻に向つて哄然としたり、

「やあ、森君、さつきは失敬! 何うだい、凄いもんだらう。」

 とまた慌てゝ横を向いて、

「百合ちやん〳〵! さつきのお祈りが首尾よく当つたんだね。」と百合に向つて眼を輝かしたり、

「これから皆なで青野の家へ引きあげようぜ、冬ちやん。そしてトラベラスの……」

「青野! ロータスと俺が応援したので彼奴あいつは勝つたんだよ。」

 などゝ私は矢つぎ早やに喋舌りながら、次々の者と握手した。

 さぞかしロータスが熱狂して戻つて来るだらう、そしたら自分も一処になつて騒いでやらう、そして烏頂天になつたら、何かしら、誰かを欺したかのやうな変な自責の念が消えるだらう──と思ひながら私は百合の父さんを待ち構えてゐると、間もなく彼は、ムツとした顔をして帰つて来た。

「何うしたの?」

 と私が訊ねたにも関はらず彼は、返事もしないで幕の蔭へつかつかと踏み込んで行つた。

 それと一処に、

「馬鹿ツ!」

「しみツたれ!」

「折角勝つても何もならないや!」

 などゝ怒号する彼の声が洩れた。

 事情を聞いて見ると、さつきロータスの細君が彼に渡した金は、たつた一円だつたといふのである。逆上してゐた主人はそれを十円札のつもりで、たつた今迄一枚の切符を握つてゐたといふのである。──それで、私も自分の切符を始めて検べて見ると、私は二枚握つてゐた。此処では一枚が一円である。妻のハンドバツグには二円しか入つてゐなかつたわけである。──何にしても、主人も私も夫々酷く逆上してゐたものと見へる。

 私は、夫婦喧嘩の仲裁をして主人を店先に伴れ出して、

「青野のために──」などゝ云つて、盛んに乾盃した。

「何方が、シミツタレだ、慾深爺! 好い気味だ!」

 横面を張られた口惜し紛れにロータスの細君が、蔭で怒鳴つた。

 主人はもう逆ふ元気もなく、寂しさうな苦笑を浮べながらしきりに酒を飲んでゐた。

「夢中になると、うちの人は、その一つのことだけで他のことは何も彼も忘れてしまふのよ。」

 誰かに何か訊かれて私の妻はそんな返答をしてゐた。

「うつかり約束は出来ないわけだな!」と森がユキ子の顔を見ながら云つた。

 私もユキ子の顔を見た。

「有りがたう。」とユキ子は私に向つて徒ら気な笑ひを浮べた。──「あなた達に今日東京へ行かれてしまふより、この方が余ツ程面白かつたわ。」

 ユキ子は、更に私の妻に向つて、

「二人で、あたし達に内緒で、野球を見て、帰りにムサシノ館に廻るつもりだつたんですつてさ。あいつ達に云ふと煩いから競馬へ行くと云つて出掛けて、停車場で待合さう! なんて、そんな図々しい約束がしてあつたんですつてさ。」と云つた。

 私は、ドキツとして妻の顔を見た。

「お部屋を覗いて御覧なさい。馬の写真が一杯貼つてあるわよ。──あれが貼つてある間は、他の約束なんてしない方が好いわよ。」

 妻は至極おだやかな調子でそんなことを云つた。「だが、もう、これ位ひで競馬騒ぎも打ち止めて呉れないと困るけれど……」

 ──私は、更に苦しい重味を覚えた。妻に説明の仕様のない後ろ暗さを感じた。馬の写真の傍らには、何れも冬子の姿が並んでゐる。冬子の乗馬姿に見惚れて私がそれらを貼り並べたのであることに妻が一向気づいてゐないらしいのが重荷であつた。

 妻の云ふ通りだとすると、一体俺は此頃何に夢中になつてゐるのだらう? と私は考へたりした。

 皆無だ! たゞ、涯しもなくぼんやりしてゐる頭を目醒すために……。

 それが、何時もの失策続きと異つて、何も彼も斯んなに円満に解決したかのやうな状態は、何とまあ珍らしい現象だらう!

 見よ、あのおだやかな妻の姿! 森とユキ子の楽し気な様子! 冬子の眼の輝き! ──私は、順々に彼等の生々とした姿を眺めてゐるだけだつた。

 そのうちに私の頭も青空のやうに隈なく晴れ渡つた。

「トラベラスを囲んで皆なで写真を撮らうぢやないか!」

 厩舎の方へ行つてゐた青野が皆なを誘ひに来た。──皆なは即座に賛成して立ちあがつた。

「百合ちやん、お父さんを起しておくれよ。トラベラスの輝かしいパトロンがこの写真に入らないといふ法はない。」

 テレ臭さうに眠つた振りをしてしまつた主人のことを私は百合に頼んだ。

 真紅の騎手がトラベラスにまたがつた。青野と冬子が、左右から轡をとつた。妻は、ハンドバツグを抱へて冬子に寄り添ふた。森とユキ子は、その後ろから顔だけをのぞかせてゐた。

 私が夫々の配置を指図するのであつた。

 百合の父さんは、すつかりフラフラになつて足許が怪しいので、正面に胡坐をさせた。百合には、卓子テーブルの、もう不用になつたチユーリツプを私が持たせてパパと並ばせた。

 クロウバが生ひ繁つてゐる初夏の丘の芝生である。

 私は、主人と百合の間、つまり写真の中央に、胡坐して肩をそびやかし、柔道の選手か何かのやうに腕を組んで、

「これでよし──」と合図した。

 私は、この写真を当分の間書斎の壁に掛けて置かうと思つた。

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房

   2002(平成14)年520日初版第1刷発行

底本の親本:「西部劇通信」春陽堂

   1930(昭和5)年1122日発行

初出:「祖国 第二巻第十二号」學苑社

   1929(昭和4)年121日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年718日作成

2011年430日修正

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