鶴がゐた家
牧野信一
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母がゐる町の近くに帰つたが母と同じ家に住む要もなく、何処にゐても自由であり、それなのに、何故自分は今までの都にとゞまらなかつたのか? でなければ、何故、常々憧れてゐる妻を伴つての長い旅路にたゝなかつたのか、それにも何の妨げもなかつたのに──? 何故、初めての眼新しい刺激のある何処かの地に住はうとはしなかつたのか、何か仄かな明るさを感じさせるのはそのことだけだつたが──?
樽野は稍ともすれば熱つぽい吐息と一処にそんな意味の呟きを洩した、そんな意味もあるらしかつた、彼の幾日間もの漫然たる吐息を強ひて綴り合せて見れば──。そして彼は、自ら己れに向つて「何故──?」を用ひることのわざとらしさと、何時にも笑ひのために動いたことのない苦気な表情とをおもつて苛々と首を振りながら夜になると、土堤の草むらが窓さきにふれかゝるほど蔓つてゐる奥の北向きの部屋に籠つたり、丘の下に借りてある舟大工の離れへ行つたりして何かこつこつと飽かずに営んでゐた。
「あそこの離れの明るさは何となく気に入つてゐるよ、親爺が殆ど自分の手ひとつで建てたさうだが──近いうちにもう一棟別に建てるさうだ、此処の家がとりこはされる時になつたらそれを借りやうかしら?」
「借りる位ゐなら──」と細君も新しい土地に移ることをすゝめた。「おぢいさん達にそこを借りてやることにしたら好いでせう。」
おぢいさん達といふのは十何年も前から此処の家の留守居をしてゐた夫婦である。
「だつて俺は何も斯んな家があるから此処に移つたといふわけでもない──来たから、まあ此処に住んでゐるやうなわけで。」樽野は辻妻の合はぬことを云つた。
「ぢや若しこれがなかつたら来なかつた?」
「──家などのことも問題ぢやない。」
「問題ぢやない……か。」細君は軽い嘲笑ひを浮べた。──「住みたくもないところに来るなんてほんとに好興ね。」
それに違ひなかつたが彼は、細君などに易々と決めてかゝられると、いつもムツとする反感が起るのであつた。彼は、景物・人情などに就いても細君が故郷である東京のことばかりに重気を置いて無下に彼の田舎を軽く云ふと気嫌が悪かつた。
「何にも心を惑かれるものはない、描きたい風景さへもない。」などゝ云ひながら──「あゝ、つまらないところだ、俺には故郷などいふものに囚はれる気持は始めからないのだ。」
「そのうちには如何したつて阿母さんの方に一処になることになるに極つてゐるわ、あたしは平気だけれど。」
「断然、そんなことはない。」
彼は、また首を振つた。彼は、環境に応じてどんなに浅猿しくも歪むであらう自分の性情の悲惨なフレキシビリチが怖ろしかつたが、あたつて砕ける程の環境などがある筈はなかつた。何の要もないのに斯んな風に帰つて来た自分の心の隅には、再び、退屈な、憂鬱な沼をのぞかうとでもするやうな因果な野望が潜んでゐたのかしら? そんな疑ひを持つたがそんな心の張りはなかつた。
彼は、兎も角、一つの仕事だけに夢中で突入してゐるらしい自分の坐像を見詰めてゐるだけだつた。言葉の無い熱情があるだけだつた。
「これがとりこはされる時になつたら、如何したつて自然に動くだらうさ……何かに、未練のない名残りを惜んでゐる見たいな……いや──」と彼は更に眉をひそめた。「何処にゐたつて俺は同じ筈だ。」
「若し、どうしても彼方と一処に住はなければならなくなつても──」
「それほど俺だつて生活力がないわけでもなからう。」
「だつて──」
「なくつても彼方には行かない。」
「何にもいらないことにして、さつぱりときまりをつけてしまつたんだから、いよ〳〵これからは勉強に精が出るでせう、さうなることをあなたは望んでゐたんだから。」
「出る──。俺は今迄の自分の若い日を想ふと哀れになる、嘔吐を催す。」
「Gさんがね……」
「Gにとられてしまふのも好いだらう、阿母さんの勝手だ。Gだつて俺が当然やらなければならない仕事の代りをつとめたんだもの。」
「…………」
以上の対話は写実的なものではない。彼等は生活上のことに就いてそんなに改まつた感想を述べ合ふことはなかつた。幾日間かの彼等の生活と呼吸とを一まとめにして対話に変へたのである。──樽野は、主に部屋に閉ぢ籠つてゐた。細君は、彼の案外な自信の強さに力を得て、何かゝら放たれたやうな爽々しさを感じてゐた。たゞ樽野は、仕事のはかどり憎さに伴れて冒頭の如き「何故──」を呟く自分を惨めに思つた。
遠くに夜釣りの舟の灯がチラチラとしてゐる静かな晩だつた。樽野は、表紙に藻しほ草などといふいたづらな文字が誌してある五六年も前の手帳を繰りひろげながら詩などのならんでゐる頁を飛ばして上隅が金具で止めてある個所を脱して見た。
「不気味な妥協! これを恐れなくなる日が来るかしら? ──恐るべきだ。」
「──いつもの主張の持てない気分のうちから抒情感や空想癖さへもが次第に影をひそめて、ただ、悪く、弱々しく、どんなものからも抗し難き圧迫を強ひられる? ──哲学的でなしに、?の符号を胸に抱かせられるのは忍べない。呪はしい掟であり、だが何処の王様が定めた掟でもない、破つたところで牢獄につながれるおそれのない掟が悲しい、そして破り得ぬために悲しむ掟でもないことが呪はしい。」
「理性の鎖につながれて人家に囚へられてゐるのだ。感情は野性のまゝで山野を駆け廻つてゐる──余は斯く呟きながら、さて、理性を験べて見れば、それはまたあまりに白々しい放埒の仮面をかむつてゐるではないか。」
樽野は、和文や英文の感情的な筆致でそんな文句が次々に走り書きされてゐる頁を煙草を喫しながら読んだ。こんな無稽な文字を何うして金具でなどとぢたのかしらなどと思ひながら先を繰つて行くと、処々が鼻血の痕で汚れてゐた。同じ町のうちの夫々の家で、父は父、母は母、悴は悴で、不平の煙りをあげてゐた頃の、そして、鉛の剣をのまされて徒らに苛立つた自分の姿がたよりなく浮びあがつた。
「──その後、そして現在でも時に依ると余は父からの(無言の遺言)と母からの(無言の情け)とを夢に見る。そんな夢に余は毛程も従順ではないが、そして凡そ親に対して子としての価値を思つたことのない余であるが、それは、人がこの世に疑ひもなき真実の子を持つことの何か(恵み)を感ぜしめるものがある。子から子へ永く生きる無言の生命を知らしむるものがある。様々ないさかひも、どんな善、悪も、それらのことは、この自身の遥か足許で自由である──と余は思はなければならない。」
樽野は、古い手帳の好い気な「自由」を想ひながら机に伏してうつら〳〵としてゐた。春らしい霞のかゝつた晩だつた。
「さつきから大ちやんが来て待つてゐるのよ、御飯の仕度も出来てゐるんだけれど。」
窓から彼の机の上に顔を出して細君が云つた。
「直ぐにさう云へば好かつたのに、俺は退屈をしてゐたんだ、珍らしく──」
「あら鼻血が!」彼女は樽野の鼻を指差した。
「陽気が好過ぎるんだ、さつきから俺は居眠りをしてゐたらしい。」
「毒ね。」
「大ちやんは始めないの、好さゝうな空ぢやないか?」
「どうも落着いて仕事が出来ないから当分遊ぶつもりなんだつて、大ちやんもさつきから寝転んでうと〳〵してゐる見たい、何だか酷く元気がないわよ。」
理学士である青野の大ちやんは其処の真上の樽野の丘の中腹にある家に来て、物干台から星の観測を仕事にしてゐた。閉めた窓の下ばかりで空などを見あげることもない樽野は、青野が来てゐると聞くと明日は好い天気だなと思ふのが常だつた。
「大ちやんの望遠鏡が俺の胸に向つてゐるんだ、おい何をふざけるんだよ、止さないか〳〵と俺がまた莫迦に狼狽して逃げ出すんだ。逃げても〳〵振り返つて見るときよとんとして此方を指してゐる、海の砂原だか野原だか解らない何んにもない広々としたところでね、俺の脚はとても軽いんだ、早く家の中へ逃げ込まうと思ひながら俺は、バツタだ〳〵と叫びながら翅を鳴して面白く飛ぶんだよ。さうするとね、以前の停車場の前の古い家が見えたんだ。只今! と、いつか俺は何処からか帰つて来た者になつてさう云ふと、ちやんと机に向つて習字をしてゐる阿母さんが俺を振り返ると急に腹を抱えてゲラゲラと笑ひ出すんだ、ふつと俺は天井を見あげると、空なんだ、家は芝居の背景見たいに外側だけで、入ると、やつぱり其処は野原なんだ。今踊りが始まるから行かうぢやないか? と阿母さんが誘ふ……」
「夢はみんな日頃の何かに関はりがあるものね、誰でも──」
「さうらしい、それで、まざまざと日頃の何かに関はりがある夢を見ると自分に軽蔑を感じるね。──だけど、これは関はりがない、もう少しおきゝよ。」
「だつて大ちやんの望遠鏡だなんて!」
「そいつはちよつと困つたな。」
彼等は、黙ることなしにおしやべりを続けながら懐中電灯で足許を照して小径をのぼつて行つた。石段をのぼるにも玄関をあがつても細君が食膳の上を整える間も樽野はしやべり続けてゐた。
「夢を見ながら居眠りをしてゐたんだつて──」
「フワツ!」と青野は言つた。「もうお止しよ、夢の話は御免だ。」
「さうすると物干台見たいなところで親父が顔を剃つてゐるんだ。阿母は阿母で未だ机の前に坐つてゐるんだ、天井がない襖の蔭なんだね、どつちも斜めに見降せるんだ、恰度土佐絵のやうに。」
樽野は鼻の栓を気にしながら止め度もなく夢の話を続けた。鼻に栓がしてあるので黙ると口をあけてゐなければならないのが具合が悪るかつたからでもある。「ふと俺は、一体自分は今何処に立つてゐるのかと思ふと……」
雨があがると、この辺での凧の期節が近かつた。樽野は、昼夜の差別なく眠気の焦噪の交らないわづかの時間を選むことばかりに骨を折つた。彼は舟大工の離れに夜も妻からランチ・バスケツトを運ばれてゐた。
「こんなものを持つてNさん達とこの先の汐干に行つたことがあるわね。」
「──あ、俺はあの岩の多い磯に今年も行きたいと思つてゐたのだつたが……」
「寝てばかりゐるんだもの。」
上の家は前の年の秋まで父の友達である地震に追はれたアメリカ人のN家族が住んだまゝなのを彼女は器用に役立てゝゐた。古い料理本の For the Sick などといふ項を参考にして彼女は奇抜な食物をすゝめた。運動不足の彼にはそれで適当だつた。
或る午頃彼は、朝の十時頃になつて眠つたのだつたが香りの高いにほひにむされるやうな息苦しさに咽せて目を醒すと青野の冬子が枕元に坐つてゐた。
「周子さんが起しておいでといふんで来て見るとあんまり好く眠つてゐるので、顔を見てゐたのよ。」
「香水のにほひがひどい!」
「撒いてあげたんですもの、いきれくさかつたから──」
冬子は不気嫌な顔をしてゐた。彼女は病ひに近い程の疳性家だつた。外国で官吏を勤めてゐる夫があつたが二年も前から兄の許に帰つてゐた。戻る気がないらしい、困る! と兄が樽野に滾したことがあつた。眼ばたきの少い、それでゐて神経的な冬子の眼を見ると樽野は、うすら寒い圧迫を感じるのが常だつた。
海棠の花が盛りになつたから見物に来るやうにわざ〳〵迎へに来たのだ──といふことを冬子は酷く応柄な調子で彼に告げた。樽野はすゝまなかつたが厭と云へなかつた。
樽野達はB村へ行く途中の街道で、大型の写真機をかついでわき目も触れずに歩いて来る性急な青野に遇つた。彼は、樽野の「観測台」へ赴くところだつた。
「そのつもりだつたんだが──さつきから急に斯んな好い空になつたんだもの、愚図々々してはゐられない、俺は駄目だ……」青野は行き過ぎやうとした。「鶴の畜生のために、またさんざんな目に会された。あの厄介物のために──」
庭に遊んでゐる鶴を夕方になると鳥屋に追ひ込まなければならない仕事を青野は稍ともすれば口癖にして煩さがつてゐた。「餌はどうしたの? あたし此処に買つて来たわよ。」冬子が鋭い調子でさう云ふと、
「あゝ俺はあの家が焼けてしまはないうちはどうすることも出来ない。」青野は、そんな突比な嘆声をあげて、涙ぐんだ。だが到底反向ふことは許されない命令に抑へられてゐる者らしく靴を鳴して引き返した。
樽野の細君はこの珍らしい情景に出遇つて唖然とした。どんなにそれが主人に限られた勤めであるにしても鶴に餌をやる位ゐのことを稀には妹が代つても好さゝうなものに──といふ風に。青野はヰンネツケ彗星が吾々に百五十万里の近さになりつゝあるといふので、準備のために星空の夜こそは秒時も惜んでゐる場合だといふのに──。
暮れかゝつた夕靄の中を先に立つてすゝんで行く声だけの青野は、
「あゝツ! あゝツ!」と切端詰つたやうな叫びをあげた。「何アんだ、馬鹿々々しい、勝手にしやあがれ!」
「何アんだ!」と冬子も応へた。そして彼女はもう一刻前の平静に返つて、樽野の細君と夏になつたら何んな遊びをしようなどゝいふことを続けてゐた。橋の上で青野の下男が写真機をかついで来るのに遇つた。
青野の家には不思議な孤独な家風がいくつも残つてゐた。──「俺はどんな裏長屋に住んで、どんな勤めでも厭はない、自分達だけの生活の為なら──あんな馬鹿々々しい家を保つて行くために、たゞそれだけの目的で生きて行く馬鹿らしさに比べれば──。それア君、大変だぜ、どんなに消極的な態度であつても、たゞあの家に住むといふこと、それだけで、それは充分な男一人の仕事だよ、本一つ読む間もなからう。あゝ、俺はどんな学校の理科の先生になつても関はないから、あの家を棄てゝしまひたい。」彼は常々樽野にそんな悩みを洩してゐた。そして年毎に思ひきり好く家の経営を縮めて行くことを努めてゐた。小作人との手がきれた、蜜柑山との交換で負債がこれだけ少くなつた。競馬用の馬の始末もついた──そんな度毎に青野は悦びの眼を輝かせて樽野に告げた。「俺は奉天に行つて住みたいことが今の願ひだけれど、これで、いざ行かうとするとそれ位ゐの旅費の工面もつかないんだよ、たゞあゝしてあの家にゐれば何となくそれで済んでしまふんだが、そいつは君、考へると実に恐ろしいことだぜ。この頃俺は金といふものを触つたこともないよ、話だけは酷く大きくてね、それが君たゞ帳面の上で消えたり、他人のものになつたりしてゐるだけのことで──俺は小使ひの金にも困つてゐるよ。」
去年までは一番ひゐた丹頂が今は雄だけが一羽残つてゐた。詳しい家風のことに就いては青野は酷く恥しがつてゐて他人に告げることはなかつたが、鶴を飼育するといふことにも何か特別な因襲があるらしかつた。樽野が子供の時分に母につれられて行つた記憶にも庭先きに鶴がゐて、夕方になると大ちやんの祖父が長い柄のついた団扇のやうなものを持つて、如何にも長閑な姿で鳥を追ひ込んでゐたのが残つてゐる。居睡りをしながら薙刀を振つてゐる見たいな格構で、極くゆるやかに鳥の脚を払ふ、それると翼を叩く、風をおくつて鳥の向きをかへる、──そんな動作を追手は鳥からずつと隔りを置いて耽念に繰り返しながら、だんだんと鳥屋に近づかしめるのであつた。森に囲まれた昼でも空を仰ぎ憎い屋敷のうちであつたから、あたりはもうとつぷりと暮れてわずかに鳥の姿が水に浮いてゐるものゝやうに白く宙を走るのと、追手のいきづかひが感じられるだけだつた。闇の中で鶴は、壮厳な羽ばたきをたて、鋭い叫声をあげた。
樽野は、雨さへ降らなければ毎日使用するであらう「柄の長い団扇のやうなもの」どんな絵でも、何処の動物園でも使つてはゐまい、青野の家の誰かゞ発明したものに違ひない、その度毎に「一寸あれを持つておいで」「鶴を追ひ込むものを──」と云つてゐるわけではあるまい、何とか特別な名前がついてゐるに違ひない、それを訊きたいと思ふことがあつたが、大ちやんはさう云ふ種類の質問に対して如何いふわけか酷く羞むのであつた。
「如何して雌を買はないの?」と樽野が何時か訊ねると大ちやんは言下に、
「冗談ぢやない、一羽になつて俺はどんなに救かつてゐるんだか知れない。買へもしないがね。──あいつ一羽だつて俺は毎日どんなに持ち扱つてゐることか!」
青野は身震ひをして云つた。
「やつぱり兄さんは放つて来たんだ。気がとがめるものであんなにして帰つたんだ。」
樽野達が青野の門をくゞつた時に冬子は舌打をしながら呟いた。「気の毒だとは思つてゐるんだけれどあたしだつて如何することも出来ないわ。」
座敷に通ると冬子は、それも昔からのしきたりである海棠の樹の合間々々に燭す雪洞の用意をするために樽野夫妻を残して出て行つた。
「お前も手伝つて来たら如何?」樽野がうつかりと気軽に細君を振りかへつて、さう云ふと、
「…………」
冬子はハツと当惑したらしく立止まつた。そして珍らしい微笑を浮べた。樽野は反射的に冬子の表情に辞退の意味を読んで顔をあかくした。──だが冬子の微笑は彼の顔をあかくさせるに止るだけの屡々口不調法な者が経験する言葉のいきさつでのことではなしに、何か樽野に水のやうな悲しみをつたへるものがあつた。云ひ知れない仄かに沈んだ雰囲気があつた。
冬子は大ちやんのやうに吾家での自分の仕事を他人に対してはにかむやうな質はなかつた。彼女は、自分達の伝来の様々な仕事が世の中で珍らしいものであるといふことにも気づいてゐない風だつた。
樽野の細君は寺にでも行つた時のやうに慎ましくなつてゐた。
「周子さんの髪にコテをあてゝあげる筈だつたわね。」冬子は、つまらない静けさを破るつもりらしく、突然そんなことを云つた。そして周子と伴れ立つて立去つた。二人とも短い髪だつた。
樽野は退屈だつたので、そつちを見るのは恥かしがりやの大ちやんのために気の毒だとは思つたものゝ大ちやんと鶴がまざ〳〵と見えるわけでもなかつたので簾越しに庭を眺めてゐた。まだ座敷に灯火がついてゐなかつたので外の方が明るかつた。
庭には海棠の花が真盛りに満ちてゐた。雪洞がついたらさぞ美しいだらう、大ちやんはもう済んだのかな! などと思ひながら彼は何時になくゆるやかな心地になつて眼をかすめてゐると、ふと大ちやんが花の中から現れて来るのを見た。鶴もゐた。鶴と大ちやんは花の下で先程から活躍を続けてゐたのであつたが、あまり海棠の花が酣なので樽野は彼等の姿を見失つてゐたのである。
青野は、矢張り昔祖父が使つてゐた柄の長い団扇のやうなものを持つて鶴を追つてゐるのであつた。樽野は今更のやうに大ちやんの容貌が祖父似であることを知つた。そして大ちやんも年をとつたな──などと思つた。
天文のこと以外では極端に気短かな大ちやんだから、そして常々吾家のしきたりに歯がみをしてゐるのだから鶴を追ふにしてもまさか祖父のしたやうな真似をしてゐるわけではあるまいと樽野は思つてゐたのだつたが、見ると彼は全く祖父の型通りであつた、それより他にはどんな方法も知らないやうに。だが一羽の雄鶴は大ちやんの柄の長い団扇のやうなものから身を翻して彼方此方に狂奔するので追手は何時もゆるやかにそれを振つてゐるわけにも行かず、蛍を追ふ童のやうに飛びあがつたり、鍬をふるふ農夫のやうに力一杯地面を叩いたりしてしまふのであつた。祖父の如く仙人が雲を呼んでゐるかのやうに悠長な振舞ひをしてゐれば、隙ばかりが出来るのか鶴は追手の眼の先で舌でも出すかの如く首をうねらし軽蔑的な見得を切つて、空を仰いで嘴を開けたりした。あゝ好い心持だ、もつと煽いでおくれよ──とでも云つてゐるかのやうに、果は翼の下に首をかくし脚を一本にして立札の如く動かぬものになつたりした。──大ちやんは焦れつたい声をあげずには居られなかつた。そして「馬鹿!」「畜生!」などと叫んだ。鶴は怯えて花の中に姿をかくして訴へるが如き悲鳴をあげたり、蹲つてパタ〳〵と地面に翼を鳴したりした。もう散つてゐる花があると見えて地をはたいた翼と一処に粉雪のやうな花片が舞ひ立つた。
やがて冬子の手で雪洞の灯がいれ終つても大ちやんと鶴の立廻りは益々苛立つばかりであつた。
「さあ、ゆつくりお花見をしませう。」にわかに明るい微笑を湛えて戻つて来た冬子は樽野が当惑したのも気づかずに手早く簾を巻きあげると悉くの障子を一勢にあけ放した。庭も座敷も万遍のない灯火が溢れ大ちやんの姿は手にとるやうに眺められるのであつた。樽野は大ちやんを感じるのが気の毒でならなかつたから庭から眼を避けると、冬子はそんな兄にはみぢんの懸念もないらしく、指さしをして花を愛でた。樽野も愛想よく浩然として花を賞美しなければならなかつたのだが、此方に見られてゐることを知つた大ちやんが厭々伴れ出された素人の役者のやうに逆上してゐるのを見ると何うしても冬子に従ふわけには行かなかつた。
樽野は改まつてすゝめられるがまゝに盃をもらひながら冬子に眼を注いでゐた。
「雪洞の催しも今年かぎりにしやうと兄さんは云つてゐるのよ、それも好いわ。」
「綺麗だわね。」
「幼い時分だとあたしがその辺で舞ひをやらされたのよ、祖父さんの謡で。あとで鬼ごつこをしませうか、みんなで。」
「えゝ……」樽野の細君も、大ちやんでテレてゐるらしかつた。冬子は洋服をぬいで昔風の派手な装ひに変つてゐた。断髪の頭が別段不調和にも思はれないのは幼い時の記憶があるからか知ら、などと樽野は思つたが、さうでもなく別の面白さだつた。樽野の頭は、雪洞の明るさみたいに鈍くぼんやりとしてゐた。
あせつたら駄目だ、他のことを考へてゐる人にはおしおきをされるよりも苦しいだらう、一日のつとめを終つた主が心静かに司るべき運動を、これからつとめに行かうとする人が厭々やつてゐるんだから惨めなものだ……。
「それにしてもあれは誰が手伝ふといふわけにも行かないのよ、お父さんが歿くなつてからもう十年あまりも兄さんはあれを続けてゐるんだけれど未だあの始末なんですもの!」
冬子は大ちやんのことを始めてそんな風に樽野の細君に説明したりした。いつの間にか彼女達は縁側にすゝみ出て催しものでも見てゐるかのやうに大ちやんの活躍を眺めてゐた。鶴が築山の隅の雪洞につまづいたりしたが冬子は直しにも行かなかつた。──樽野は此処の家では独りで後架へたつのが厭だつた。
細君が実家の母の病気で見舞ひに行かなければならなくなつた時に樽野は、
「俺のことは気にしないで幾日でもゆつくり行つてお出でよ、面倒だから俺はその間入院してゐる──」と云つた。彼は桜の花の頃から町の病院へ根気よく通つてゐた。春のはじめから気持の上だけでとりかゝつてゐた創作は休息して、そんな間に翌月号の雑誌に出すべき短篇を書いた。青野は夕暮時になると一散にB村の家へ自転車で往復する他は樽野の家で彗星の撮影方法に心を砕いてゐた。
「奉天へ行きたい、でなければ北海道でも好いんだが……」青野は切りにそんな歎息を洩した。彼は稀に誰と顔を合しても、相手が生物であることを忘れてゐるかのやうに言葉もかけなかつた。
「平気?」
「……敬ちやんが質屋を知つてゐるさうだ、敬ちやんに頼まう。」
敬ちやんといふのは東京にゐる樽野の友達だつたが東京の郊外にゐた樽野のところで前の年の大半を過したことがあつたので細君とも友達になつてゐた。
「来て貰ふの?」
「此頃務めてゐるんだから務先へ電話をかけておけば品川まで迎へに来て呉れるよ。」
彼女は首をかしげた後に「敬ちやんに頼まないでも好いわ、あたしの家の人が屹度知つてゐるわよ。」と云つた。
「変だらう?」
ピンポン台の代りなどにNの人達が使つた食卓で或る朝、青野が飯を済すがいなや寝てしまつた後で樽野達はそんな話をとり交した。年寄が栽培した苺が喰べ頃だつた。
「ぢやあたし遊んで来られるわね。」
「あゝ、だけど遊ぶために遊ばれちや困るぜ、亀屋での買物を間違へないでおくれ。」
「書いておいたから大丈夫。──あたし和服はみんないらないわ。」
「俺は洋服がいらない、どれも……」
「売つた方が好いかも知れないわね。」
「それは方法が六ヶしいだらうよ……?」
樽野は青野が手をつけるのを忘れた苺までを喰べてしまつた。──荷物だけ先へやつて、散歩ながら停車場まで送つてやらうなどと、彼は云つた。脚のあたりまで射し込んでゐる光りが稀に朝起きをしたせゐか彼は物珍らしく爽々しかつた。質のものをいれた二つのスーツケースと細君の手鞄が先へ行つてしまつてから彼は、
「どうもあれだけぢや足りないやうな気がする。」と思慮深気に云つた。どうせチツキに出すのだから風呂敷包みでも好いだらうになどと彼は思つてゐるうちにトランクの隅に埋つてゐる登山袋を眼にした。細君はたぢろいだが彼は、俺が停埠場まで持つて行くから好い、そして鉄道便に出さう、と云ひ張つて、ケースに入りきらなかつた菊の模様のついた細君の振り袖や自分のモーニング・コートなどを詰めさせた。そして彼は質物になりさうもないのではねのけたバンドつきの冬の古服を手早く身にまとひ、甲斐々々しくリユク・サツクを背中につけた。そして彼が荷物について年寄に何か説明しようか知らなどとためらつてゐると、
「時間がない〳〵、歩いて行くんでは──」と細君がせきたてた。
この頃青野のためにも必要になつてゐるランチ・バスケツトを彼女は、しほりをはさみ鉛筆で印しをつけた For the Sick を添えて途中の村はづれのカフエに托した。
「随分好いお天気だわね、あなたが病気でないとこの儘山登りにでも行きたい。」
「俺も今そんなことを考へてゐたんだ、あそこのカフエで袋のものを詰め換えて──。山へでも行つて来たら忽ち何か書けさうな気がするけれど──」
「あたしがゐないのを幸ひにして変なところへなんて行くと帰つて来て酷い目に合すよ。どうしたつてかくすことは出来ないから、この頃では!」彼女は樽野に拳を示した。
「つい此間までは紫色だつたが、御覧よ、今日はすつかり緑だ……俺は──」と彼は北の方の一つの山を指さし「いつもこんもりとしてゐるあんなに黒い山は入つて見るとさうでもないんだが遠くで見てゐると到底登る気が起らないよ、こつちの──」とまた指先きをもとの西の方へ向けて「あんな風に地肌の露はな一日のうちでさへ光線の具合でいく通りにも色を変へる、あの方でないと──」などと云つた。
「山登りの気分にはならないでせうね、あそこでは! ピクニツクね。天狗の運動場といふのは何処?」
「こゝからは見えない、蕨の産地だが。」
彼女はパラソルを忘れて来て失敗つた! などと眼ぶしさうにして彼の指先きの彼方を眺めた。極く安価なのを一本買つたら好からうと樽野は告げた。
「あたし眼を治して来やうかしら?」彼女は思ひ出したやうにそんなことを云つた。彼女の眼瞼は片方が二重で片方が一重であつた。それも一重の方は完全の一重といふわけでもなく、酷く憤つたり笑ひ過ぎたりすると妙なハズミで二重に変るのであつた。また、故意の眼ばたきに依つてあちこちに変へることが出来るのださうだつた。彼女はそれを完全な二重に治したいと云ふのであつた。
「両方とも一重ならばそれで好いんだけれどね、でもちやんとした一重でも治せるんだつて! だからあたしのなんか、ほんの少しの手術で治るだらうと思ふ。」彼女は丸ビルの中にさういふところがあるといふことまでも知つてゐた。
「どれ?」樽野は立どまつて彼女の眼瞼を改めて仔細に験べた。「……気にするほどのことはないぜ。俺でさへ今迄気がつかない位ゐなんだもの。──厭ぢやないか、そんな手術をうけに入つて行くのは。」
「うちの金ちやんが云つたけれどね、何でも二十五円とかですつて、だから片ツ方なら十二三円だらうつて?」
「高いね。」樽野は明らかに反対の面持を露はにした。
「ちよつともう少し見て御覧な。」彼女は、傍を向いて橋の欄干から山を眺めてゐる樽野を呼び返して「いゝ好く見てゐて御覧なさい!」さう云つて煤煙の入つた眼を拭つて貰ふ時のやうに一つの眼をさし出した。午に近い時刻なのに橋の上には殆ど人通りが絶えてゐたが彼は気まり悪気に苦笑した。河原の多い川で、水のところも砂利のところも一面に深い陽をうけて濛つとしてゐた。川尻のあたりに浮き出てゐる小さな三角洲に鴎が群れてゐるのがはつきり見えた。樽野は、煙草を喫つてしまふまでお待ち! と云ひながら鴎の数をかぞへたりした。
「これ、貸してあげませうか?」細君は、模擬革のハンドバツグから豆のオペラ・グラスを取り出した。
「芝居なども見る気なの!」樽野は悲しさうにうなつた。
「だつて鈴木さんに切符が貰つてあるんですもの──阿母さんは先月もわざ〳〵出かけたさうだけれど一処に行かせなかつたぢやないの、あなたは!」
細君は歌舞伎芝居が好きだつた。
「眼のことよ、見て!」また彼女は思ひ返して迫つた。
樽野は突きつけられた彼女の眼瞼を眺めた。彼女は片方の眼を片手でおさへて彼に示してゐる方の眼に、シヤツタアを切るやうな仰山な眼ばたきを加へた。するとその眼瞼は稍はれぼつた気に二重に変つた。
「なるほど、二重だ。──それで好いぢやないか。」樽野は感心するやうに云つた。
「だけど、斯うすると直ぐ──」彼女は情けなさうな声で「直ぐ駄目!」と云ひながらそつと保つてゐた眼を軽く眼ばたくと、忽ちもとの一重にもどつた。
「変だね、もう一辺やつて御覧!」
彼女はあやまちなく繰りかへした。
「ほんたうだ!」
「このことを思ふとあたし他人と話をする時になんか随分これが気になるわ。」
「それでお前は笑ふ時などに何気ないやうな手つきで眼のあたりに手をやるんだね?」
「そんなこともないけれど……」細君はあかくなつて吾知らず手の甲を顔にあてた。
「俺、お前のその癖は嫌ひぢやないよ。」
そんなことを話してゐるところに俥屋が戻つて来て切符などを渡しながら、余程大いそぎで行かなければ四十分には間に合ふまいと伝へた。
「母の方へ行つてゐるのかとばかり思つてゐたらこんなところにゐたんだつてね!」
もう殆ど健康を回復して二三日のうちに退院しやうかと思つてゐた樽野の部屋に、腕まくりのシヤツ一つで上着もつけてゐない青野が入つて来た。
「行つたの! 阿母の方に。」
「行つたんだけれど何うしても入りぐちが解らなくつてね……」
「お寺があつたらう?」
「あつたかしら?」
「たゞの家みたいなお寺だ。そのお寺の横を入つて行くと、時計屋があつて、鍛冶屋があつて、それから無花果の樹の傍に小さな水たまりがあつて……」樽野は説明しやうとしたが地震後の町営長屋が立てこんでゐる露路奥の母の家を何う道を教へて好いか解らなくなつてしまつた。事があれば自分も其方へ行かなければなるまい(彼は今居る村の家を引き上げてから後の行先きとは別に、近頃切りにそんなことが思ひやられた。)が、略図も書けさうもないごみ〳〵したところだ! と思つた。
「何時君の母がそつちへ移つたのかも俺は知らなかつたよ、いやもう三四年もたつたんだね、俺は幾度か行つてゐる筈なんだがあんまりあたりの様子が違つてゐるので? かしら!」
「誰に聞いて来たの、俺のことを?」
「今日はぢめておぢいさんに。」
「とても盛んな仕事振りだね、君の仕事振りがはつきり想像出来る。俺はもう此処に来て二週間あまりたつぜ。一体君は日常のことには酷く無関心だけれど!」
「忘れつぽいんだよ。」
「冬ちやんにきいたんぢやなかつたのか。冬ちやんにきけば阿母の方も解つたらうに。」
「あいつとは何時にも口もきいたこともないんだ、あいつ見たいに他人の仕事に無関心な奴はない、俺のこの頃の忙しさつたらないのに!」
青野がこの頃鶴を粗末にすることが益々嵩じて妹にまで当り散らすのであるが、争ひになると何うしても彼は妹に敵はないで……「それあ可笑しかつたのよ、腹をきつて死んでしまふなんて云つて芝居のやうなことをしたりして!」
樽野は冬子からそんな風にきいたのであるが、それは大ちやんにとつてはよくよくのことだ! と思つた。青野は妹に優しい兄で我儘者ではなく、冗談も云へぬ男である。冬子は芝居だ! などゝ云つてゐたが樽野は胸を冷した。そして何んな狂乱を演じたのか? と思つたが、問ひつゞけるだけの力も持てなかつたのであつた。
「自分だけの仕事にだけたづさはつてゐられる君が沁々羨しい。」
青野は腕時計を見ながら嘆息した。
「仕事さへ出来れば好いんだが──」
「出来てゐるぢやないか、そこにも!」青野は樽野がそんなことばかりを云ひながら病院などでも書いてゐるのを不思議さうに云つた。そして樽野の枕元へまとめてある紙片をとりあげた。
「やあ、これは大分長いぞ、直ぐに出すの?」
「直ぐに出すために書いたんだ、来月の雑誌だよ。未だ締切り日までには二三日間があるんだけれど昨夜無理に書いてしまつたんだ。」
「苦しかつたらう、寝ながらでは!」
「反抗的になつておし通したまでだ、酷く恥しいものだが仕方がない。更にもう一つ書かうと思つてゐる、否応なく──」樽野は上向けのまゝ深呼吸でも試みてゐる見たいに凝つとしてそんなことを云つた。「さういふ生活の余儀ない連続を想像しても、そのためには憂鬱を感じないのだがね。」
「……」青野は樽野の言葉に注意を払はなかつた。「気持の上で休んだり続けたりしてゐる創作は何うなつたの?」
「あれか、あの……?」
「おい妙なことを云ふなよ、夢ぢやないよ、俺達がいつもきかされてゐるあれだよ。──入院中は休憩か?」
「うむ。……永遠の入院と云つたやうな感じだね。それはそれで、あれはあれでなどゝいふ風に何か勿体をつけて斧を入れまいとする、そしてそんなものに凭りかゝりながらその日暮しの断片的な吐息に吹かれてゐるんだが、後で吃驚りするだらう、空つぽの樽を転がしてゐる自分に気づいて……」
「気障なことを云つてら、病人がつて! だが君、あれは夢でもなく空つぽの樽でもないぢやないか、君が饒舌つたゞけを俺が書いたつて話になる! あの先をきかう、あの気持の上で休んだり……」青野は云ひかけて樽野と話をする場合には屹度そんな言葉が回りくどく使はれるのに不図テレ臭さを感じて苦笑した。「気持の上で休んだり続けたりしてゐる小説」! 何といふ面倒な表題の「小説」だらうと樽野は思つた。
「そいつに一つ命題をつけて置かう、斯う屡々話柄にのぼる度にいちいち厄介な表題を口にするのは不便だから、と云つて例のとかあのとかといふのも妙なものだからね、恰度──」と云ひかけて樽野は思はずあかくなつて被着の中に顔をかくした。恰度君のうちの「柄の長い団扇のやうなもの」の名前を俺が知らないで不便を感じてゐる見たいな! ──そんな無稽な比喩を突嗟に口にしようとした愚かさが吾ながら気恥しかつたのである。
「さうだ、何とか題をつけておくといゝね。」樽野の顔も知らないで青野は云つた。樽野には何うしても青野にあの柄の長い団扇のやうなものゝ名前をきくことが出来なかつた。青野がさうした吾家のことに就いてはにかみやであるといふことばかりでなしに、青野があんなものを振り回してゐる自身の姿に此方の方には決して無いのだが惨めな滑稽感を抱き兼ねない怖れが想像されて──。樽野にあの名前が解れば自分の創作集の命題にしてもふさはしいと思つてゐた。それとなく冬子にも訊ねたのであるが何ういふわけか冬子でさへもそれに就いては答へたくないらしく言葉を反らしたのであつた、一夕には説明しきれない位ゐに面倒な曰くがあるのだつたかも知れないが。
樽野が目を瞑つて被着の闇に隠れてゐると青野は独言を呟いてゐた。「何んな苦しみが伴はうとも君は自分だけの仕事に没頭してゐられるんだから好いよ。おや、疲れたと見えて眠つてしまつた。──あゝ、俺はあいつが煩ひ、あいつのお蔭で何も彼も惨々だ、あいつの姿を想ふと俺はこの世に軽蔑されるがために生れて来たやうな気がする、あいつの羽ばたきに出遇ふと俺の体はバラバラに飛び散つてしまひさうだ、あいつの叫び声を……」
「煩いツ!」樽野は暗闇の中で突然ラツパのやうに怒鳴つた。「贅沢な愚痴を滾すな、馬鹿野郎! 理学士! 貴様ばかりが星の仕事をしてゐるんぢやないぞ!」
「でも君は、気持の上で続けたり……」
「煩いツ、黙れツ!」
「ぢや例のは君の星のわけだな!」
「どうとでも勝手にしろ。」
「この頃の君の仕事は俺の鶴の仕事ほど君にとつては煩雑なわけなの? え、樽野?」
「貴様と同じやうに俺は現実のことには面白味が持ないんだ、あゝツ!」
「落ついて呉れ、樽野、一途に興奮しないでくれ、俺は何だか悲しくなつて来たよ、わけが解らない! 君が非常識であることも知つてゐる、忘れつぽい男であることも……」
「常識はあるよ、貴様位ゐになら──そんなものが何も彼も面白くなくて面倒で……」
「それは俺だつて、だから俺は……」
「馬鹿気て煩雑なこと、卑俗な生活、興味のないこと、それだつて頭が悪いから細かには覚えてはゐない……そいつを空想を交へずに何とか思ひ出しては書き綴つてゐる。……望みのあるところには手が出ない……」
「だつて君はさつきさういふ余儀ない生活の連続を想像しても、それでは憂鬱にならないと云つてゐたぢやないか──」
「あげあしをとるな、科学者奴が! 貴様は何んだ、あんな鶴の世話位ゐのことで疳癪を起して死ぬの生きるのと云つて騒いだらう、そして妹に頭をブンなぐられてグウの音も出なかつたらう。それでも貴様なんかたゞ愚痴を滾しながらあいつを追ひ払ひさへすればそれでその仕事は片づいて、後は天ばかり眺めてゐられるんぢやないか!」
「いくらか解つた、君のあの樽──さうだ樽としておかう、例の長い題を云ふ代りに──が、つまり俺の星で、それだけにたづさはつてゐたいんだけれど俺が鶴のやつに邪魔をされてゐると同じやうに生活のために病はされることが多いと云ふんだね?」
「煩いよ、算術みたいなことを云ふな。何と云つたつて病はされ方が貴様とは違ふ。加けに俺は貴様のやうな、あんな、柄の長い団……」
「馬鹿ツ、黙れツ! どつちが贅沢な愚痴だ、文士!」と青野は叫んだ。「驢馬の耳! 貴様ばかりが創作の仕事をしてゐるんぢやないぞ。」
「だからさ、君にはあんな柄の長い……」
「煩いツ、黙れ、幼稚な妄想も好い加減にしろ、貴様こそ愚痴を滾しながら好い加減に仕事を片づけて、後は、チヨツ面倒だな、気持の上で休んだり続けたりする小説の空を眺めてゐられる癖に! 馬鹿野郎!」
「でも、それが君、──落ついて呉れ、大ちやん一途に興奮しないで呉れ、俺は何だか……」
「ぬすツと! 貴様はこの間阿母の家に盗棒に入つたらう。」
「叱ツ、大きな声をしないで呉れ、それには!」と樽野は悲しい役に扮した役者が切ない弁明にたぢろぐやうに白黒した。
「それには苦しいわけがあるんだ。あたり前の盗棒なら首尾よく仕事をしてしまへば、それでもうさつぱりだらうが俺はまた更にそれを思ひ返して苦しい仕事にせずにはゐられないんだ、そしてそれを追ひ払はないうちは例の………」
「何云つてやがんだい。貴様の阿母はな、貴様が近くに現れたんで世間態を恥ぢて外にも滅多に出ないんだぞ、夜もおちおち………」
「あゝ、大ちやん、その先はもう云つて呉れるな……昨夜書いたところと重複する、三重の苦しみは救からない。」
「使へるものと間違えて通用もしない昔の金貨を盗んだらう。」
「星の話をしよう、大ちやん!」
「そんな夢を見たなどゝ云つて親父の肖像画に鬚をつけて台なしにしてしまつたらう。」
「星の話をしよう、大ちやん。」と樽野は汗を拭きながら女のやうな声を出した。「昨夜で俺は一応それらの煩ひことは区ぎりがついたんだから今日こそは一図に星の話をしよう、でなければ俺の、別の気持の上での……あの続きを話さう、今度こそあれに一散にとりかゝれさうだよ、恰度君が鶴の仕事を終へてから、天文台へ駈けつける時と同じやうな姿で──悦んで呉れ給へ。そして、再び思ひ返して書かずには居られない俺の、浅猿しく煩瑣な姿が次の日に現れないことを祈つて呉れ給へ。」
「でも俺はもう行かなければならない時間だよ、鶴のために。あゝツ!」
「今朝から雨なんぢやないか、梅雨時なんだからもつと降つて呉れなくては困るんだ。」
「雨を忘れてゐた。俺は今日は何も彼も休憩だつたんだ。疲れてゐる。寝る。──煩い奴から救はれる日は自分の仕事も出来ないんだし何と云つても君の方が好い、ゆつくりあの続きに耽り給へ、今日こそは……」
医員が扉を叩いて樽野の熱をはかつた。
大ちやんは神経衰弱ぢやないのかしら、あんなつまらないことにあんなに興奮して! あいつ自分の仕事に余ツ程祟られてゐると見える──樽野はそんなことを呟きながら黄昏時の運動のために廊下へ出た。別にそこらの何んな静物も歪んで見えもしなかつた。
夏のことは省かう。樽野が昨日までの生活の稍々目立つた出来事は悉く思ひ返しながら愚劣な自身を主人にした夥しい数の短篇を発表してゐるから──「天気知らず」「夫婦喧嘩」「酔へる盗人」「競売」「或る母と子の涙」「苦虫」「肖像画事件」等の──。
午近くに眼を醒して晴天だと彼は半夢中で跳ね起きて(そんな姿で往来に駆け出しても誰も異様とも思はない夏の小さな村ではあつたが)タオルを被つた黒褌ひとつで石段を駆け降り街道を横切つて海へ飛んで行つた。波の荒い辺卑な海辺であつたから遥々と避暑に来てゐるやうな花やかな群などは一切見あたらなかつた。敬ちやんや細君の級友であつた美しいT子さんなどが来てゐて彼等は何時も午前から海辺へ行つて樽野が駆けて来る時分にはパラソルの下で雑談に耽つてゐた。樽野はハーモニカなどが鳴つてゐるパラソルの傍を飛鳥の如く駈け抜けて屹度波打ちぎわで鮮やかなトンボ返りを打つてから波の底にもぐるのが習慣だつた。「苦虫」などゝいふ小説を書くために何んな景色も何んな天気も忘れて猛烈な夜更しを続けてゐたからそれ位ゐにしないと眼が醒めなかつた。
「おーい!」彼が波の向ふから頭をあげて呼はるので始めて傘の下の連中は彼が現れたことに気づくこともあつた。
「そこの立皺の痕がちやんと三本白く残つてゐる!」
「酷いものだね、ほんとうか! そんなにまぶしさうな顔ばかりしてゐるのかしら俺は、海に来ると!」
「普段でも君は妙に仰山に其処に皺を寄せる癖があるよ。」敬ちやんが樽野の眉の間を指さして笑ひながら、
「罰! 罰!」などゝ囃したてると他の者も笑つた。樽野は何が可笑しいのか、また敬ちやんの意味も解らない囃しを気にしたわけでもなかつたが、彼等の笑ふのが解らなかつた。
失敗だつたさうだが仕事に一区ぎりつけた青野は夏のうちは殆ど姿を見せなかつた。大方見知らない客が来続けてゐるので遠慮してゐるのだらう位ゐに樽野は思つた。
裏の小山あたりから三々伍々歌ひながら戻つて来る童達の手にすゝきの穂が翻つてゐるのを樽野は見た。すれ違ふと青蜜柑の皮をむいたと見えて、秋の夕べらしい酸つぱい香りが鼻をついた。樽野はおや今夜は、お月見なのかと思つた。
彼はその晩庭先に椅子を持ち出して細君を相手に月見をした。見降せる道の向ひ側の万屋の二階にも船大工の居間にも、障子の蔭からすゝきの穂が見え供物の影が障子に映つてゐた。
「いつもだと青野に招ばれるんだが今年は大ちやんのことで昔風の月見の宴を打ちきつたと見えるな。」
樽野は細君に青野の平安朝風を加味したやうな月見の催しの話などをした。
「昼間みたい!」細君は海や森や村の家々が凝つと月光を浴びてゐる風景に見惚れてゐた。「とても静かね。それで何処にも気味の悪さが何んにも感じられないのが不思議のやうだわ。裏へ行つたら栗が拾へるかも知れない!」
「向ふの道を歩いてゐる人の足音が聞えないのが何だか妙だね──この道ならお前にだつて冬ちやんのところまで位ひ独りでだつて行かれるだらう。」
「あたし闇夜だつて行かうと思へば平気よ。」
「いや!」と樽野はにわかに頤をひいて顔を顰めた。「そんな答へをきくために訊いたんぢやないよ。たゞ月の美しさを種々と賞めてゐるだけなんだよ、和歌のやうな気分で! どうしてお前はさう馬鹿なんだらう。」
「……」細君は悲しさうにうつむいた。樽野は折角快く無心になつてゐたのを醒されたかのやうに苛々しく自分こそ馬鹿な呟きを続けた。「(酔へる盗人)の時に斯ういふ月夜を背景にすれば好かつたな。……それは斯んな月の美しい晩に起つた出来事でありました! といふ風に──。さうすれば、あの切端詰つた主人公の姿があんなに息苦しく作者自身の反映にならずに済んだのに違ひなかつた、闇を月夜にかへる位ゐの頭の働きもなかつたのかな、あゝ、とんでもない失敗をしてしまつたといふものだ!」
「何を独りで云つてゐらつしやるの?」
「行かれるんなら行つて御覧、冬ちやんところまで、月夜だ。」
「うつかり返事も出来やしない──」
「二人で行つて見ようか、少し遠いけれど俺は急に青野へ行つて見たくなつた。あそこで見る月は一寸と凄いよ、空が見えない庭先きでね、梢の間を光がキラキラと洩れて来る。」
「もう、遅い!」
──────────
或る秋晴れの日に不図訪れて来た樽野に、床の間に剥製の鶴が飾つてある座敷で青野が話したことの断片──。
──雌を呼ぶ苛立ちも交つてゐたのだらう、兎も角夏以来のあれの苛立ちは酷かつたよ、俺はもう仕方がなくなつて夜になつてあれの眼が見えなくなるのを待つて、抱いて鳥屋の中へ伴れこんでゐたのさ。
──その日は俺は朝から気分が悪くて寝てゐたんだが、餌をやらなければならないと思ひながら。
──その晩がお月見だつたといふことは俺は事件が起つた後に気がついたよ。妹は傍にゐながら足音にも気がつかなかつたんだつて、日の暮れないうちに君達を招びに行かうと思つてゐたんだが──。鶴が椽側から転げ落ちる音で始めて妹は気がついたんだ、俺達は夢中であれが鵜呑みにしたお月様の団子を吐き出させたんだが、もう駄目だつた! 君も知つてゐるかも知れないが吾家の団子は斯んなにも大きいんだからね、何ういふわけだか昔からのしきたりで。
──何うしてまた妹は気がつかなかつたのか? あいつは後で冗談のやうにあんまり俺があれを煩さがるので私がわざとさうしてやつたんだなどゝ空怖ろしいことを云つて俺をからかつたりする。が鶴が一体何んな格構で椽側にあがり、何んな風にして団子をくわへたか? そんなつまらないことを俺は今でも切りに想像してゐる。
──何も食べ物のつもりでくわへたのだとは俺には思へないよ、不図したハズミで……動物にそんな想像をするのは馬鹿気てゐるが、不図いたづらに突ツついたんだらうと思ふんだ、夕暮近くになつても珍らしくあたりが森閑としてゐるもので。……すると嘴の中へ転げ込んだので、慌てゝ上をむいたに違ひない、さうすると次第に嘴は開くより他に術のないつぼまらないコンパスになつてしまつたんだよ。
──君、いつか吾家の鶴のことを小説のうちに書いて呉れないか、鶴を主人公にと云ふんぢやないよ、何か物語の叙景のやうな一個所に、たゞ庭に独りで遊歩してゐる鶴の姿を、写真の代り見たいにさ、これは別段無理な話ぢやなからう、お伽噺の中でも好いんだから、ただ俺一人にあれだなと思へれば好いんだよ、いづれあの鶴の癖を話しても好い、君が承知して置いて呉れゝば。然し、そんな筈もなからうが鶴の話なんか特別に書かないで呉れ給へよ、尤もあんな空々しい最後が小説になる気遣ひはなからうが。ありの儘のことは別にして──ついでに吾家の鶴がそんな最後を遂げたといふことは成る可く誰にも内緒にしておいてくれ。
「君はおそらく矛盾を感じるだらうが。」と青野は眼瞼を伏せて云つた。「何故だか俺はあれがなくなつてから妙に寂しいんだよ、感傷や愛着などがある筈もないのだが何をするのも当分厭になつてあれからといふもの吾家に引き籠つたきりさ、そして、それが奇体に爽やかな憂鬱でね。──冬子も此頃では外国にゐる亭主の処へ帰つても好いらしい気持もあるやうだし、俺も春までには一思ひに此処の家を畳んで自分だけの生活を始めようといふ花々しい決心がついてゐるんだよ、決して不吉な意味でなしに何か斯う余りに突然あれに機先を制されたみたいな、一寸と大きく云ふと鞭うたれたやうな……そして何もあれに限つたことでもなく、何となくもう暫くぼんやりと此処に包まれてゐたいやうな……やはツ! また喧嘩になるといけないから止さう。」青野は軽く笑つて、樽野の前に握手を求めるための手を出した。
「矛盾なんか感じない。──その当時の鶴や君達の話をもつと詳しく聞かせて呉れよ。」
樽野は低い声で呟いで静かに青野の手を執りながら、剥製の鶴の後ろに、床の間の隅に立てかけてある柄の長い団扇のやうなものを酷く愚かしげな眼差しで意味あり気に眺めてゐた。
底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「西部劇通信」春陽堂
1930(昭和5)年11月22日発行
初出:「太陽 第三十四巻第一号」博文館
1928(昭和3)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2011年5月6日修正
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