昔の歌留多
牧野信一



 三月もかゝると云はれてゐる病院へ滝は、毎日、日暮時に通つてゐた。──今度こそは彼は、之を堅く決行し通さうと念じてゐた。こんなことをきつかけにしなければ、長い様々な生活上の悪習慣から逃れる術がないことを知つた。様々な悪習慣は、彼が命をかけて目当としてゐる仕事までを相当の深さまで踏みにぢつてゐた。仕事に対する情熱は、形ちなく見えすいてゐる垣の彼方で、徒らに激しくえてゐるばかりだつた。

 彼は、あらゆる摂生に没頭しながら、規則正しい病院通ひを、やがて一ト月近く続けて来た。雨の日などには彼は、裾をからげ、長靴を穿いて怠ることなしに通つてゐた。感興と気分本位の仕事を持つてゐる彼にとつて、それは酷く煩忙な日課であつた。

 飲酒の習慣を退ける努力も彼にとつては、厄介な克己心が必要だつた。だから彼は、日暮時が近づいて酒の誘惑を感じ始めるやいなや、慌てゝ病院へ向ふのであつた。

 彼は、自分の勉強の為もあつて、妻達とも別居してゐた。──斯んなに忠実に病ひの為に意を用ひてゐれば、間もなく全快するに相違ないと医員から賞讚された。

 彼は、波の音を耳にしながら、連夜、夜を徹して机の前に坐つてゐた。たゞ坐つてゐるだけだつた。──彼は、たゞ日増に増長して来る健康者らしい非精神的な欲望のみに面接して飽くまでも戦ひを挑んでゐるだけの自分に気づいて幻滅を感じながら、スパルタ的に坐り続けてゐるだけだつた。彼は、思はず唇を噛んで腕を組むことがあつた。悩まし気に首を振つて、居住ひを正すことがあつた。支那料理の夢を見ることがあつた。──健康が謀らずも己れの眼近かに近附いてゐることを知つて、胸を張つた。

 だが、今度こそは、意を通して見せる──彼は、思はずさう声をあげて呟くこともあつた。病ひの為ばかりでなしに、精神上の為に、此処で斯ういふ忍従に堪へることが自分にとつては様々な意味で必要だ、と彼は思つてゐた。

「さつぱり仕事がはかどらないね、毎晩何をしてゐるの?」時々遊びに来るBが、或晩彼の机の上の白紙を眺めながら云つた。Bより他に彼には此処に友達はなかつた。

「たゞ、斯うしてゐるだけだよ。」と彼は、蛙のやうに凝つと無表情で相手をみつめた。

「偉いね。」

「……」滝は、胸のうちで点頭いた。

「何の余技もないんだね、君は?」

「あゝ。」

「酒を飲まないと君は、話がないんだね。」

「さういふわけでもないが……」

「何だか、気の毒な……置物見たいな。」

「……何か、気晴しになるやうな、遊びを求めてはゐるよ、だけど、こんな気になつたことがないんで、さつぱり見当がつかないんだ。」

「飲酒家の悲しみかね……。当分勉強は休んで、病院通ひだけを専念にした方が……」

「さうだ。」と彼は、窓の外に眼を投げて、何となく恥らふやうに呟いた。

「病院の帰りに毎日俺の処に廻らないか?」

「だつて君は酒を!」

「吾家では此頃麻雀が盛んだぜ。」

「俺、見たこともない。面白いか?」

「彼等の熱中してゐるところを見るとね。」

 次の晩彼は、Bの家に寄つてBの妹のF子から、麻雀の遊び法を、他の者が迷惑さうな顔を示した程耽念に説明されたが、どうしても覚えられなかつた。

「駄目よ、吾家の人は……」と滝の妻は、何に限らずさういふ方面の能力に彼が全く欠けてゐることを軽蔑的な語調で皆なに告げた。

「お前は何時の間にか覚えてしまつたんだね。」と滝は、羨ましさうに妻に呼びかけた。

周子かねこさんは、とても──」とF子が云つた。F子の話に依ると彼の妻は、一回説明を聞いたゞけで、直ぐに呑み込んで、二十日ばかりも前からすつかりこれに熱中して、何時もそんなに負けたことすらないといふことだつた。滝は、不思議な気がした。妻にそのやうな興味も才能もあることを彼は今迄全く知らなかつた。そして彼は、悪い心地はしなかつた。

「折角、S──ちやんが。」とBは、滝を称んだ。「折角来たんだから、ぢや今日は麻雀は止さないか。何か……?」

 滝は、堅くなつて煙草をふかしてゐた。彼は、口のうちで、いやかまはないよ、君等はそれをやり給へな──といふやうなことを呟いてゐた。彼は、変に心細かつた。隣村のあの部屋に独りで坐つてゐるのと、何方が増しか知ら? などゝ思つた。思へば、何方も堪へ難い気がした。まつたく彼は、当分の間は何かの遊びごとにでも屈托しなければ、これから二タ月あまりも続けなければならない初夏へかけての期間が、重く思はれた。彼は、何事にでも興味さへ感ずれば或る程度まで凡てを忘れて熱中し得られる性質を持つてゐることを知つてゐた。

「何んなことが好き?」F子が訊ねた。

 F子は周子と幾つ齢が違つたか知ら、二つ位ひ下だつたか知ら? 彼は、眼近くF子の顔を見ながら、そんなことを思つた。

「それが解つてゐる位ひなら滝は安らかなものさ。」Bは、彼の方を向いて「ね、さうだらう。」などゝ云つた。滝は、話したこともないのにBが好くそんな気遣ひが出来たものだ──さう思ふと、ひとりで顔が赤くなつた。

「……うむ。」

「普段でも飲まない時は、それあ愚図よ、気の毒なほど──。」周子は、遊び道具の牌を手の平に転がしてゐた。

「何か喰べる?」手持ぶさたにF子が訊ねたりした。

「何も──」と滝は、首を振つた。

 しばらく間をおいてF子は、何となく眼を視張つて微笑した。「小説以外のことには何ンにも興味がないの?」

「……」滝は、息詰つた。

「結構だわね。」

「どうだか!」と周子がつまらなさうに嘲つた。

「F子──」とBがたしなめた。「変なことを、あんまり喋舌るなよ。」

「だつて……」

 さう云つてF子は、突然笑ひ出した。滝にはわけが解らなかつた。滝は、美しい妹を持つてゐるBを今更のやうに羨ましく思つたりした。

「だつて……あたし、何だか急に可笑しくなつて来たわ。」F子は、自分だけに湧きあがつた笑ひを、どうすることも出来なくなつて、肚を抱へながら廊下へ逃げて行つた。

「変な奴だなア。」Bは、廊下に向つて仏頂面をした。

「どうしたの? F子さん!」

「あれはね。」Bの酒の爛をしてゐたB達の母が、仕方のない微笑を浮べながら説明した。「あれはね、どうかして不意に笑ひ出すと、独りでさんざ笑つてしまはないと収まらない妙な癖があるのよ。傍の者は恰で狐につまゝれたやうにボンヤリしてしまふ。」

 F子は、障子の蔭で独りでゲラ〳〵と笑つてゐた。

「毎日相当の道程みちのりを歩くんで仲々足労くたびれる、何だか眠くなつて来たやうだ。」何も自分がF子の笑ひの的となつてゐるわけでもあるまいが滝は、皆ながF子の笑ひの止まるのを待つてゐるやうに顔を見合せてゐる見たいなのが、変で、此方だけの話題を提供するやうなつもりで、事更にはつきりと呟いた。そして、横になつて肘を枕にした。

「歩くのは悪くはないの?」周子は、低く彼に訊ねた。

「駆けたり何かしなければ、悪いこともないだらう。」

「急に、あなたは摂生家になつたのね、でも結構だわよ。」

「関はないから、それをお始めよ、俺、今日は先に帰らないで此処で見てゐるから。」

「帰つたつて関はないわよ、どうせ道が違ふんぢやないの。始めれば、とても遅くなるわよ。」

「トランプなら出来るんでせう。」Bの母が気の毒さうに滝に訊ねた。

「トランプなんて、あたし厭よ。」

 そのうちに漸く笑ひが収まつたF子が座に戻つた。F子は、なるべく滝の方を見ないやうに努めてゐるらしかつた。滝は、F子の笑ひは俺に関聯してゐたのか知ら、などゝ軽い不安を感じた。──間もなく彼女等は、車座になつて、熱心な勝負を争ひ始めた。滝は、彼等が慣れた口調でしきりに合言葉めいた術語を放つてゐるのに物珍らしく耳を傾けてゐた。殊に周子が、眼を輝かせて白々しく珍らしい合言葉を口にしてゐるのを傍見してゐると、何だか自分の妻ではないやうな、そして彼女に、妙に新鮮な感じを持つた。彼女は、傍眼も触らずに牌を動かしてゐた。彼は、周子の挙動を凝つと眺めてゐた。それは自分に何の関はりもない何処かの娘のやうに映つた。さうかと思ふと彼は、自分ながらその刹那に一寸と自分の頭に驚いた、彼は彼女の忘我的な姿が憾めしいやうな、不気味な思ひに打たれたりした。──夜になつたら毎晩此処に来ようか知ら、斯んなに賑かなのなら──彼は、さう思ふと眼先きが明るくなつたやうな気がした。

 BとF子も外へ出ると云つたが滝は、もう遅いからと切りに断つて、周子と伴れ立つてBの家を出た。月夜だつた。

「少し散歩しようか。」と彼は、何となく怖る怖る妻に云ひ寄つた。

「厭アよう、斯んなに遅く──」

「春らしい好い晩ぢやないか、お堀端の桜は満開だよ。」

「あたし、またF子さんの処へ引き返すのよ、ほんのその辺までよ、でないと一人で帰るのが怖くなるわ。」

「僕が、またBの門口まで送つてやるよ。」

「何云つてんのさ、馬鹿〳〵しい。──あんたが、怖いのよ。」

「僕は、散歩は好きなんだよ、お前は知らないのかしら?」

「さつさつとお帰んなさいよ、病人の癖に。」

 彼女は、彼の肩先を指で突いた。

「うむ。──」

「ぢや、さよなら。」

「さよなら。」と滝も云つた。そして彼は、ムンズと彼女の手を握らうとした。

「変な人ね、止しなさいよツ。」

 周子は、振り切つて、笑ひながら馳けて行つた。滝の胸は、異様に激しくときめいてゐた。彼は、パタパタとなる草履の音がBの家の玄関に消ゆるまで耳をそばだてゝゐた。

 滝は、翌日病院の帰りにBの家に立ち寄つた。一日の仕事を終へたBは、これから晩飯に取りかゝらうとしてゐる処なんだが、家中の者が悉く留守で張合抜けがしてゐるところなんだと云つた。

「留守!」

「連中は──」とBは、何となく大げさに云つた。「今日は君の家で麻雀会だよ、どうもあゝ熱中されても困るな、若者達!」

「行つて見ようか。」

「君は、また退屈するだらう。」

 滝は、自分も何かさうした余技が欲しい、皆と一処に打ち興ぜられる何か無いかしら、もう凝つと独りで夜を更すことは堪へられなくなつた、仕事の構想に耽ることも出来ない──。

「B──考へて呉れ。」と、悲しさうに性急せつかちに述べた。

「はやく健康になつて酒が飲めるようになるより他になさゝうだね。」

「健康なんて──」と滝は、投げやりな口調でほき出した。

「もう君は懲りたらう、いつだつたかね、周子さんが酷い病気になつたのは?」

「二三年前だらう、もう!」

「結婚してもう何年もたつんだらうが、君は家庭で一度も今度のやうな機会に出遇つたことはないのか? 君が酒を飲まないで、何か皆なで一処になつて遊びをするといふやうな!」

「別々に住んだのはこれが初めてか知ら?」

 Bの問には答へないで滝は、そんな一人言を沁々と呟いた。世俗に云はれてゐる、結婚者が或る期間の後に大概倦怠を感じるといふことだが、自分はそれを感じたことがないやうだ、と云つてその反対のものを持ち続けたといふのでもない……そして彼は、人と人は時間に伴つてのみ、たゞそれが様々なかたちで現れるが故に目先きでは屡々思ひ誤るが、親情を増して来るものらしい……そんなとりとめもないことを想つたりした。何もも過去のことが美しく眼先に光つた。「この頃は、何か用があると、家の周子は、来ないで、手紙だよ。」

「不思議はないよ。──ぢや、出かけようか。」

「止さうかしら……」滝の口調は、恋をしてゐる若者のやうにねち〳〵としてゐた。

 Bは、盃を音をたてゝ卓子テーブルに置くと、わざとらしくがつくりした。「嫌ひだよ、ムツツリは! 何云つてやがるんだい。」

「俺も酔ふと、そんな風か知ら、何だか厭な気がする。」

「何云つてやがるんだい。──病院は一体何時までかゝるんだい!」

「……通ひは、とても大変だ。近いうちに入院でも仕様かと思つてゐる。」その方が好い……と滝は、四五日前から思つてゐたのであつた。

「気取つてやがら!」などゝBは叫んだ。

 出掛けて行つて見ると「連中」は手合せの真ツ最中だつた。Bと滝が入つて行つても見向かうとする者もなかつた。滝の母がひとりで隣りの部屋で茶の仕度をしてゐた。Bは「連中」に加はるんだと云つてゐながら、暫く其処で手酌で飲んでゐるうちに、横になつて眠つてしまつた。

「この頃でも矢ツ張り夜と昼とあべこべ?」

「えゝ。」滝は、その話頭を転じて、

阿母おかあさんはやらないの?」と、隣りの部屋を指して訊ねた。

「あたしには、どうも──それに若い者の中に混るのは……」と母は、薄ら笑ひながら否定した。「お前は?」

「私も──」と滝は、寂しさうに点頭いた。

「あたしには歌留多より他に出来ない。」

「それも、昔の──でせう。」

「さう。」

「あれなら私も少しは取れた。私も、歌留多と云つてもあれより他は知らない。」

「子供の時分だつたね。さうかね、大きくなつてからはやつたことはなかつたかね。」

「この頃は、それに、あんな歌留多会なんてありはしないでせう。」

「さうかしら?」と母は、驚いてゐた。そんな歌留多会があるか無いか? 滝だつて知りはしなかつた。

「連中」が一休みした時に彼は、F子と周子にそんな歌留多会のことを訊ねた。誰も知らないと云つた。

「あの方が麻雀よりも好いな。」滝は、負け惜しみらしく呟いだ。若し賛成する者があつたら彼は、今の季節でも関はず直ぐにも歌留多の製作に取りかゝつても好いと思つてゐた程だつた。

「歌留多と麻雀と比べたつて仕方がない。」

「今、歌留多は出来ないよ。」と母も口添えしたが、滝の思ひなしか何となく母の語調は生々と響いた。

「いゝえ、たゞ話だけなんだけれど……」

「百人首ならあたし好きよ、買つてくればやつても好いわ。」F子だか周子だかゞ、滝を思ひ遣るやうに云つた。

 だが、彼や母の歌留多は買つた札ではなかつた。悉く自家製のものだつた。秋の初め頃から閑な夜を選んで、何処の家でも、虫の声を聴きながら歌留多つくりに夜を更した。これが正月の最初の用意だつた。板目紙をふだの形にたつて、茶色の薬袋紙で裏打ちをした。それを二三枚づゝ、耽念に塩煎餠をあぶるやうに遠火で乾した。それに、若い女が凝つた筆法で筆を揮ふのが常習ならはしだつた。三枚五枚宛夜毎に札の増えて行くのを滝は、そろへた記憶がある。「読み」と「取り」が夫々二組出来あがるまでには冬になるのであつた。

 正月になると所々に連夜の歌留多会が開かれた。夫々の家の札が、筆法が悉くまち〳〵なので(それが巧みに、解り憎く、崩してあればある程感嘆された。)、当分の間は、歌留多会とは云ふものゝ文字の観賞会に等しいものであつた。

「まア、しづこゝろなく──は、それだつたんですか、これぢや一寸と解りませんね、斯う崩されたんでは──」

 持札を抜かれた人は改めてその札を手にとると沁々と首を傾げて自分が負けたことも打ち忘れて、筆蹟ばかりをそんな風に感嘆するのである。「何とまア見事な!」

「なるほどね!」別の者もそれを覗いた。そしてその家の主人公に得意を覚えさせるのが一応の礼だつたらしい。だからそれを書く場合の若い女の懸命さと云つたらなかつた。

 一つ一つ札を取りあげてそんな風に吟味してゐるのだから二回位ひの接戦で夜が更けてしまふ。そして必ず主人側が勝を得るのに決つてゐた。「歌の会」のやうに静かだつた。

 さうした会合が順次の家々で七草の日まで続く。──だが、七草が過ぎて各家の札の筆法を悉くの選手達が呑み込んでからの決戦は凄じかつた。全く、前日迄のとは反対の会合が順次の家々を繰り返して行くのである。

 たゞ指で差したゞけでは取つたことにはならない、他人が先に圧えた札でも後の者が力づくで奪ひ取れば、その人の勝になる、選手達はキヤツ〳〵と野蛮な悲鳴をあげて、一枚の札のフンだくり合ひをするのであつた。アハヤ己れの手に帰さうとした札を後の者がねぢくりとつた。素早く札を握つて埒外に飛びのかなければ完全に己れの札とはならないのである。「キヤツ! 酷い爪だ!」「口惜しい〳〵、それア妾んですわよう!」「痛ツ、鼻をやられた、見かけに寄らず怖ろしい力のこもつた拳固だつたぞ、あれア誰だ!」「アラア! 髪の毛が! 誰さ羽織なんて着てゐるのは!」

「それア狡いわよ、馬鹿ア!」

 格闘に等しい騒ぎで夜を更かした。滝は、他所へは伴れて行かれたことはなかつたが、そして年寄や子供は吾家の場合でも仲間には入れなかつたが、とても騒々しくて眠れるわけがない──だから、その光景は今でもまざ〳〵と覚えてゐる。

 札が、もうヨレ〳〵になり、文字も微かにすり切れてしまふ頃の歌留多会が最も若い選手達の胸を踊らせたらしい。正月の終りの時分になると、大抵の札はつぎ目がついて、布のやうな手触りになる、つかむと綿のやうに手の平にかくれてしまふ、業々しく手の甲に繃帯を巻いた娘や、鼻側に絆創膏を貼つた男などが大手を振つて繰り込んで来た。

「さうかね、此頃はやらないのかね。」

「阿母さんは年寄だから、あつても仲間には入りませんね。」などゝ滝は云つた。

「あたしはまた若い人は今でも、あるんだと思つてゐたわ。」

「あれは、面白さうだな!」滝は、うつとりと眼を挙げて呟いた。子供の時に傍観して以来、彼は今までそんな歌留多会のことは忘れてゐた。学生時分は、どんな遊びをしたかしらなどゝ思つた。──彼は、今、此処に集つてゐる女達に混つて、あゝいふ歌留多会を演じたら、今の自分の場合、さぞ胸がすくことだらう、面白いだらうな! などゝ思つた。

 F子も周子も、そしてF子の友達も、それには何の興味も覚へないらしかつた。滝は、自分の説明の仕方がまづいからかしら、などゝも思つた。

「誰かに手伝つて貰つて、これから毎晩俺は、あれを拵えようかしら。」そんなことを呟いで見たが彼は、とてもそんな余裕はない、そして彼の言葉ばかりが酷く荒唐無稽な感じで、傍の者に響いてゐるばかりだつた、彼の眼の先には、あの昔の男女達が入り乱れて札の奪ひ合してゐる光景が、望遠鏡の視度を合してゐる時のやうに遠のいたり近寄り過ぎたりしながら、切なく、甘く、チラチラとしてゐた。「F子さんか誰かに書いて貰はうぢやないか。」

「だから昔の人達は誰れでもあんな風な字が巧いのね、あたし達読めもしないわ。」

「俺だつて好くは読めないが──」

「ぢや駄目ぢやないの。それにしても大変な歌留多会だわね、厭アね……昔のこの辺の野武士とかの名残りか知ら。」

 母は、一寸と苦い顔をした。

 一休み済むと「連中」は、再び麻雀にとりかゝつた。滝の母は先にやすんだ。

 夜が更けて行つた。滝は、Bの傍に寝転んでゐたが、悪く頭が冴えてならなかつた。

 牌の触れ合ふ、それは撞球たまの音にも似てゐるが、(滝には名状し難い!)もつと微々たる、囁きのやうな音が、苛々しくもあり、羽毛の先で擽られるやうでもあり、薄ら甘く頭にひゞいた。静かに頭をあげて見ると、彼等は青白く眼を視張つて、病人のやうに殺気だつてゐた。そのくせ、静寂な春の夜の雰囲気が灯火ともしびの下だけにどんよりと漂つてゐる。彼等が呟く合言葉も宵のうちとは響きが違つて、牌の囁きにもつれるやうに、それで変に鋭く金属的にひゞく。男の声と女の声がはつきりと判別される。──凄惨な気が漂つてゐる。如何にも悪事に没頭してゐるかのやうだ。秘かである。

 滝の胸にも、彼等の呼吸が、不気味で、凝つと、廃たい的な快感になつて通つて来た。彼は、何となく息を殺さずには居られなかつた。嫉妬の眼で女の姿を眺めもした。……あんな昔の歌留多会の話などが彼等にとつては一笑にも価しないであらう……といふやうなことが漸く滝にも無言のうちに解つて来た。そして彼も、陶酔を感じた。

 夜が明けてしまつた。「連中」の顔色は悉く青ざめてゐた。口をきくのも懶さうだつた。

 滝も、自身が競技者であつたかのやうな酷い疲労を感じた。彼は、隅の方で今迄眼を視張つてゐたといふことを彼女等に知られるのが恥らはれて、眠つてゐる振りをしてゐたが、不健全な飽満が陰々と余韻をひいてゐて悩ましかつた。──「連中」は、この次の会合をひそ〳〵と約してゐた。

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房

   2002(平成14)年520日初版第1刷発行

底本の親本:「婦人公論 第十二巻第六号」中央公論社

   1927(昭和2)年61日発行

初出:「婦人公論 第十二巻第六号」中央公論社

   1927(昭和2)年61日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年718日作成

2011年55日修正

青空文庫作成ファイル:

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