山彦の街
牧野信一




 哄笑の声が一勢に挙つたかと思ふと、罵り合ひが始まつてゐる──鳥のやうな声で絶叫する者がある、女の悲鳴が耳をつんざくばかりに聞えたかと思ふと、男の楽し気な合唱が始まつてゐる──殴れ! とか、つまみ出してしまへ! とか、そんな凄まじい声がして、

「あゝ、痛いツ!」

「御免だ……」

「救けて呉れ!」

 そんな悲鳴が挙つたりするので、これは容易ならぬ事件が起つたのか! と思つて誰しもちよいと立止つて様子を窺つたが、同時に軽い苦笑を浮べて行き過ぎてしまふのであつた。

 哄笑する、罵倒する、絶叫する! ──が、いづれも遊興の渦巻なのである。──だから、恰も喧嘩のやうな騒ぎに驚いて、ちよいと立ち止つて見ると、そんな騒ぎを他所に、卓子テーブルから卓子へ愛嬌を振り撒いてゐる踊り子のタンバリンの鈴の音も聞えるし、陰気な街上詩人バードが物思ひに耽りながら弾いてゐるらしいギターの眠む気な音も聞える。

 酔つ払ひ共が、ふざけ散らしてゐる騒ぎなのだ。

 それにしても、不思議な騒がしさを持ち続けてゐる酒場である。朝も昼も真夜中も差別がない。

「おい〳〵、イダーリアの親爺さん、そんなふくれツ面ばかりを売物にしないでたまには俺達と一処になつて下院議員の改善策でも謀らないかね。」

「あの親爺にそんな気の利いた策略なんて──これはどうも失礼、気の利いた策略、大いにあり、吾々のとは大分趣きが違ふといふ奴さ……」

 片々きれ〴〵だから解りもしないが、そんな風に他人を嘲弄してゐる見たいな会話が、厭に面白さうに聞えもした。

「親爺の Day-dream が、いざ実現したあかつきには吾々は斯うした地上の法悦を味ふことが出来なくなるかも知れないね。」

「ともかく、彼奴あいつは、有り難い筈の吾々客人に対して、永遠の呪ひ! を持つてゐるといふんだから凄まぢいものだな。」

「Hurrah! Hurrah! 吾等に呪ひを持つイデーリア親爺に祝福あれ!」

「吾等の Day-dreamer が、吾等に対して、第二の反逆を発表したら──」

「いや、吾々がそれを発見して……」

「そいつを一番逆用して俺達の祝祭上のロマノオルム(行事)に加へて、吾等のまちの栄ゆる日の限り……」

ツ! 叱ツ! イダーリアのドングリ眼が真に憾めしさうに光つたぞ!」

「サタンよ、そこを退け! とでも呟いてゐるらしいぜ。」

 ……「踊れ、踊れ! シツダル、生れ故郷のことなんか思ひ出してぼんやりしてゐると、酒の売れ行きに関はるぞ!」

「シツダルは、フローレンスから来てゐる若い学生と好い仲だといふ噂を俺は聞いたが、ほんとうか知ら!」

「シツダル、白状しないと拷問にかけるぞ。」

「その噂は案外ほんとうかも知れないぜ。あの娘が此頃ランプ祭の恋歌を歌ふ時の眼つきに諸君よ、注意して見給へ!」

「ロールツヒとかといふビユウカナン一派のへつぽこ詩人などが作つた恋歌をシツダルに歌はせるのは勿体ないね。」

「大きく出やがつたな、半円劇場の木戸番奴! もう一辺云つて見ろ、シツダルのためにランプ祭の恋歌を作つたロールツヒが此処にゐるのが解らないのか!」

「わざと云つたのだ。貴様は昨日の晩方、ペトラルカの銅像の下で、ロセツチの(夜の会見)に就いて、仇敵を罵るかのやうな態度で罵倒演説を試みてゐたらう。その癖貴様は、聴衆が去つてしまふのを見定めると、ペトラルカの台石に取り縋つてロセツチの歌の埋没個所を教へて呉れと云つて涙を流したぢやないか。ランプ祭の恋歌は、(夜の会見)の草稿から盗んだ……」

 一人の男が、此処まで云ひかけると、阿修羅のやうな姿で立ちあがつてゐたロールツヒとかと称ばれた男は、電気に打たれたかのやうにキヤツ! といふ悲鳴を挙げると一緒に、酒場を飛び出すと、灰色のチユニツクの裾を翼のやうに翻へしながら雲を霞と街の彼方へ逃亡した。哄笑が起つた。

「あの詩人は何処の産だらう。未だこの市の様子を知らない旅人らしいね。」

「シツダルの気嫌をとるためにフローレンス生れの抒情詩人だと自称してゐるさうだが、実はつい此頃、ピザの郊外から流れ込んで来た無頼漢だといふ話だぜ。」

「黄金の破片さへ与へればプラトンの弾劾論文でも、キニツク派の礼讚演説でも……自由にやつてのけられるといふ滑達な手腕を持つた議員改善会に新しく雇はれた弁士だといふ説もある。」

「イダーリアのおぢさん、あんまり思案に余つたらロールツヒ先生と相談して……」

「ブラボー! ──シツダル、歌つて呉れ、お前が歌へばロールツヒ先生の作歌であらうと、ホーマーの恋歌であらうと、何の見境へもなく、俺達一同は五月の朝風に撫でられる孔雀歯朶のやうにうつとりとしてしまふよ。」

 兎も角、世にも不思議な間断なき騒ぎを含んだ街角の一軒の酒場である。

 ──往来に面した大理石の棚に、恰度一抱へほどの大きさのある肥つた壺が六つ七つ二段になつて並んでゐる。その間々には稍小さな同じやうな形ちの壺が配してある。

 そして、それらの壺の幾つかには夫々色の異る薔薇や鬼薊の花束とか、橄欖やシトロンの杖が盛られてゐるところを見ると、一見花屋の店先か知ら? とも思はれるが、近寄て好く好く眼を凝して見ると、の壺にも様々な酒の名前が刻んであるのだ。いづれも酒壺なのである。

「イダーリアの灌奠祭」

「フアテイアの夢」

「エロスの賜物」

「ブランブシウムの花鬘」

「…………」

 だが、壺の脇腹に花文字で誌してある斯んな文字を読んだゞけでは、見知らぬ者にはそれが酒であるか何うかは解らなかつたが花文字の傍らに小さく誌してある文字を注意して見ると、ヴエネト産、シラキウス産、ロンバルデイ産などといふやうな醸造地名が見出されるので、それらがおそらくキヤンテイ、マルサラ、ベルモ酒などの類ひの商標名であるのが解るのだつた。

 その他には、

「野獣の血潮」

「Burning Knight」

「バツカスの王冠」

「ネロの盃」

「キング・オヴ・キングス」

「南方の魔術師」──などゝいふやうな印の壺が並んでゐるが、斯んな風な烈しい名称から想像すると、おそらく火酒系の酒に飾つたニツク・ネームに違ひなからう。

 何処の国の、何時の時代のことか知らないが──古い、夢のやうに壮麗な都市の裏町にあるイダーリアといふ小さな憂鬱気な構えの酒場の店先きである。

 本来は「ブルウカノ・タバン」といふのがこの店の名前だつたが、酒注台さけつぎだいの背後の壁に恭々しく祭つてあるバツカスとイダーリアの肖像画で、イダーリアの容貌が何処とはなしに此処の酒場の親爺に似てゐる! と云ひ出した者があつて、或る物数奇な学生がその肖像画の作者を訪ねて秘かに事情を探つて見ると、次のやうなエピソードを発見したのである。

 ブルウカノ親爺は、毎日毎日不遠慮な酒飲客に応対してゐるのが久しい前から沁々と情けなくなつてゐた。饒舌で、悪戯好きで、皮肉家ぞろひの通人連が寄り集まつて、他人の挙足をとつたり他人を不機嫌にさせたり、冗談らしさに事寄せて他人の弱点を発いたりして、面白がつてゐるかのやうな飲んだくれ連中に反感を持つてゐた。彼等から様々な冗談を云はれる度に彼は、自分に堪らない侮蔑を感じてならなかつた。何か彼等に仕返しがして見たくてならなかつた。

 彼は、正面の壁に掲げられてあるバツカスの肖像画の下にイダーリアの肖像画を懸けることにした。洛陽の酒徒は酒場に足を踏み入れると、先づ第一にバツカスの肖像画(或ひはイダーリア)に向つて脱帽をした後に、酒卓に就くといふのが古来からの不文律なのであつた。──そこで、ブルウカノの親爺は、イダーリアの肖像画を注文する時に、秘かに画家に謀つて、自分に似せて描いて欲しい──と頼んだのである。

「あれは、イダーリアではなくつて俺の肖像画なのだ。」と彼は自ら深く点頭いてゐたのである。そして、傲慢な酒客達がイダーリアのつもりで「自分の──」肖像画に向つて敬意を払ふ様子を見物して、積り積つてゐる溜飲をさげようといふ魂胆だつたのである。

 饒舌な学生が、親爺の斯んな皮肉な意趣返し法を発見して得意になつて酒場の常連に吹聴した時には、親爺は即座に店を畳んで逃亡すべき覚悟を持つたのだつたが、幸か不幸か、このことが返つて町の伊達者達の人気を呼んで、忽ち第一流の流行酒場になつたのだつた。そして、何時の間にか「タバン・イダーリア」といふ名称にさへなつてゐる酒場だつた。

 酒場に入つて来る連中は、先づバツカスの額に向つて敬礼をした後に、イダーリアの肖像画に手を差しのべて、故意に恭々しく様々な祈りごとを捧げたりするのであつた。──その度に親爺は顔をあかくしなければならなかつた。親爺は、毎日〳〵酒壺の番をしながら、今度こそは決して見破られない仕返しを考へてやらうと思案してゐるのであつた。それをまた客達はあのやうに、吾等のデイ・ドリイマア! などゝ称んで、戯れるのであつた。

「おぢさん、今度は一番アピスの半身像か何かをその辺の棚にでも飾つて、あんまり俺達が、お前をからかひ過ぎて煩さくなつたら、蔭の方から、モウ、モウ! といふ具合に鳴る牛の声に似た笛でも鳴らして──皆さん、アピス神がお怒りになつたらしいですぞ、お静かに〳〵! とでもいふ風にしたら何んなもんだい? 笛が見つからなかつたら、お前さんが自分で唸るんだね、尚更利目きゝめは鮮やかだらうよ。」

「牛頭のアピス様に唸られたら、俺達はロールツヒ先生のやうに一目散に逃げ去らずには居られないだらうな。」

「何と云はれても黙々として酒ばかりを売つてゐる親爺の守り本尊は、おそらくアピスに違ひなからうぜ。」

「どうだい、おぢさん! この名案を三杯の灌奠酒で買ひとらないか。」

 親爺が厭な顔をすればするほど意地悪な客達は、口々に盛んな弥次を飛ばした。



 同じく、「タバン・イダーリア」の第二景に移る。

 夢のやうな街である。

 いろいろな名称に伊太利イタリーそのまゝの地名や、吾々の知る歴史で有名な英雄が現れてゐるので、羅馬ローマにでも程近い駅路の海港場のやうにも思はれたが、まるで此世にありさうもない奇風が目の前に現れたり、全く時代を異にした人物達が馬鹿々々しい世間話を交しながら出て来たり、服装や言語に今昔の差別がなかつたりするところを見ると、何かの芝居の舞台裏でゝもあるかのやうだ。

「何とまあ不思議な街の、奇妙な酒場だらう。」

 一人の若い水夫が、酒場の店先にたゝずんでぼんやりと酒壺の棚を眺めてゐた。

 和やかな朝だつた。軒先には緑色の日除けが深々と翼を垂れて豊かな瑠璃色の陽をさへぎつてゐる。酒場の裏手の内海で、壊れものなどが捨てゝある細い露路の突きあたりに水が見えた。水夫は、はぢめのうちは此処を羅馬だとばかり思つてゐたので、その海もテヴエレ河のつもりでゐたが、(事実此処の市民も、あの海をテヴエレと称んでゐるし……)同じテヴエレでも羅馬のは河で、此処のは海ではないか。このやうに名前は同じでありながら、何も彼も、彼処と此処では河と海の相違があるのだ。同じく人物でも──。

 酒棚の外側で歩道にあたる日除けの下には石造りのベンチが一脚横たはつてゐる。酒場に入る前に何んな酒があるか一応験べたい者が、これに凭つて何時までゝも吟味し得るために備へられたベンチである。──水夫は、酒の有無を眺めてゐるのではなかつた。彼は、はぢめ羅馬のつもりで、母船を脱け出したのであつたが、案外にも斯んな不思議な市だつたので全く途方に暮れてしまつたのである。

「そんな二本マストの帆船で水夫などをしてゐないで一日も早く羅馬にいらつしやい。私は今パルベリーニ通りのブルウカノ・タバンといふ店で、誰よりも、持てはやされてゐる踊り子になつてゐます。偉い人が大勢来て、私を可愛がつて呉れます。お前のことを兄さんだと云つて、いろいろな事情を訴へると、皆ながお前に感心して、何んな出世の道でも開いてやると云ひます。……」

 恋人のシツダルが斯んな手紙を寄したので彼は、夢中で船を脱けて来たのであつたが、ブルウカノもシツダルも名前だけが同じで、羅馬のそれではないのだ。──彼は、イダーリア親爺に頼んで酒場で働かせて貰はうと思つて、幾度も斯うして出かけて来るのだつたが、何時の時でも客が一杯で、そして親爺は客にからかはれ通しで、そして仏項面ばかりしてゐるので、申し出る余裕がなかつた。

 彼は、思ひきつて斯んな早朝に来て見たのである。ところが相変らず酒場は客で一杯だつた。壺の間から覗いて見ると、恋人と同名のシツダルがバツカスの肖像画の下で朝の祈りに余念のない姿が見えた。

「シツダル、私たちは何うして斯んな不幸なところで会はなければならないのだらう、私たちが見知らぬ者同志であるなんていふ奇蹟を、私は信じることは出来ない──だが私は、この市に居る間に屹度私のシツダルをとり返さずには居ないよ。」

「フローレンスの学生さん、何を祈つてゐるんだい、そんなところで、シツダルと逢引の合図でもしてゐるのかね!」

 水夫の肩を叩いて、斯んなことを云ひながら行き過ぎた楯を持つた騎士があつた。騎士は酒場を出て、急ぎ足で、街を駆け抜けて行つた。

「私がフローレンスの学生ですつて? そしてあのシツダルと……」と水夫が驚いて問ひ返してゐる間には、もう騎士は、たしかに戦車に違ひない(今時、まあ! 何処かにお祭りでもあるのか知らと水夫は思つた。)馬車を駆つて消え去り、今度はモーゼのやうな姿の老偉丈夫が、また肩を叩いて、

「フローレンスの学生!」と称んだ。そして威風に似合はぬ野蛮な口調で親し気に言葉をかけながら矢張り慌たゞしく行き過ぎて行つた。「早く行つて、エロスの二三杯も飲めば目が醒めるといふものだ。シツダルがお前のためにリラの花を用意してゐたぞ。」

「先生!」と水夫は思はず叫んだが、もう声はとゞかなかつた。

「どうしたら私は、この不安から逃げられるでせう?」

 この酒場は裏町の角にあつたが、直ぐの眼の先は大通りの一端に触れてゐた。そして酒場の店先からは、斜めの真正面にあたる大通りの端に巨大な噴水が眺められた。──噴水は、初夏らしい紺青の空に旺んな水煙りを挙げてゐる。高く中天を摩する水煙りである。街上は往来の人々が喫してゐる煙草の煙りが、人が去つてしまつても、うつら〳〵と棚引いてゐるほどの和やかさなのだが、噴水の水煙りが砕けて舞ひ落ちるあたりの高さには微風が吹いてゐると見へて、霧の、光りを含んだ粉々が一勢に酒場の店先きの方に傾いて、歩道は日除けの下だけを白く残して如露の水を撒いたやうに適度に湿つてゐた。

「うまく、まあ、此処の家の前だけ雨が降つたものだ。」

 店のうちからそんな声が洩れた。

「酔払つた顔に、この雨を浴びて帰るのは至極爽々すが〳〵しいことだらう。──亭主、さつき帰つたシリア人は、この店先きには何時も斯んなに具合の好い雨が降るので、それで、朝方までも斯んなに客がたて込んでゐるんだらう……なんて呟いてゐたよ。」

「あの調馬師には吾家うちの酒の味は解らないでせうからな。」

 珍らしく亭主のらしい陰気な声がした。そんなことを云つたものゝ、別段それが意地張りの厭味といふ調子ではなく、たゞ、止め度もなくつまらなさうな響きだつた。

「俺たちにだつて貴様の家の酒が解つてやつて来るのだ! と思つたら、自惚れだよ。もう少し経つと、あの噴水の傍らにきまつて現はれるウルービノ生れの花売娘を見たいばかりで、俺たちが朝方まで斯うして居残つてゐるのだ! といふことを貴様は知らないと見へるんだね。」……「あの綺麗な噴水の傍らで、リラやカーネイシヨンの花籠を抱へたピピヤスが、ホーレイスの歌か何かを歌ひながら道往く人々に花を売つてゐる有様を、シツダルの肩にでも凭りかゝつて眺めながら、この辺で一杯飲んでゐれば、屋台店の密造酒だつてレイマンの氷で冷した灌奠酒よりも旨く飲めるといふものさ。やがて、あの娘が俺の邸に引きとられるときまつた時にはタバン・イダーリアぢや表の扉に釘を打つより他に仕末がつかなくなるだらうツてことを、今から覚悟してゐた方が好からうぜ。」

「酒場のおぢさん! 何とかその辺で愛嬌の一つも云つたらどうかね。──ぢや俺が一つ親愛なるおぢさんに扮装して、お客様の御機嫌をとつてやらうか。」客のBは親爺の声色でもつて、客のAと科白の受け渡しを初めるのであつた。「大変おそれ入りました。アテナイから御転任になつたエピキユール学校の校長様! 真の幸福を求めるには生活の享楽にもとづくより他に在り得ないことを私は信じる者であります。摂慾の苦行から理想の幸福を夢見るべく私達の生活は余りに忙し過ぎます。私達は全地球が一個の点であり、人生が妄想であり煙りでありとして永遠の神性を信じながら「山上の館」で万物流転の法則を研究するよりも、一杯の「フアテイアの夢」に酔つて、健康な己れを感じる唯物至上派でございます。私は、私の倅をストア大学に入れたくありません。御校の舞踏料へ入学させたく思ひます。」

「冗談じやない。」と親爺は、不満さうに客の言葉を訂正した。「舞踏科なんぞ真平御免だ。寧ろ私は、ピザの塔上から何年来飽くことなしに、球を落して、落下の法則を研究し続けてゐる、あの無口な物理学者の助手として、球拾ひの研究でもさせてやつた方が望ましいわ。」

 Bの客は気づかずに科白を続けてゐた。「さあ、先生、そこで、もう四五杯こいつをおあけ下さいませ。さうすると、今朝は、ここで、フアテイアの壺に白薔薇の花を咲かせて戴けるといふことになり、私は大儲けの悦びを持ち、先生は、忽ち陶然として、お互ひに誠にお目出度い朝になるといふものです。」

 花束がさしてある酒の壺は、中味が売り切れた! といふことの目印だつた。

 客達は親爺の前で斯んな芝居を打つのが余つ程面白い! と見へる。客のAは、腰からはづした金貨の袋を食卓の上に投げ出して空うそぶいた。

「若しもピピヤスの花籠が白薔薇に満ちてゐたら俺は、フアテイアの壺を一気に飲み尽してやる。そして、あの娘の籠から取りあげた白薔薇であの壺をアルプスの雪のやうに埋めてやる。若しも彼女の花籠が赤薔薇であつたら「ネロの盃」は床に流してゞもあの壺に、炎のやうな花束を投げ込まずには居ない。ストーロナの谷間から摘んで来たカーネイシヨンであつたら、店中の踊り子に盃を持たせて「ブランブシウムの花鬘」をからにしてやる。」

 客の斯んな大気焔から察すると、夫々の酒壺に盛るべき花束の種類は自らなる約束があるらしい。

 そのうちに噴水のしぶきの向方から──。

たのしい夢を忘れぬために

朝露をふくんだ花鬘を

そつと私は持つて来ました

夢よりほかに何も知らない私たちが

お祈りの言葉を知るよしもない

星あかりで摘んで来た花なの──

 斯んな「朝の会見」といふロールツヒ先生の作になる前曲を歌ひながら、徐ろに近づいて来る声があつた。

 さつきから店先のベンチに凭つて物思ひに沈んでゐた水夫は、それを聞くと自分の村の「ランプ祭」の歌を思ひ出した。

 悲しい時には、たゞ心のまゝにさめざめと泣くより他に術はない、白い翼に乗せられた夜よ、明けよ、明けよ、ランプ祭りの朝になれ──そんな風な抒情歌を思ひ出しながら、水夫は村のランプ祭の朝の光景を思ひ描いてゐたのである。……晴れやかな祭りの朝である。

 人々は昨夜ゆふべのランプを吹き消して、それを思ひ思ひの花環ガーランドで飾り、恭々しく奉げて祭りの広場に集るのである。広場の中央にある方尖塔オベリスクの下に先を競うて駈けつけるのである。斯うして、この祭りに加はると、それから後は幸福な明るいランプが点り続けるやうになる、といふのが云ひ伝へだつた。大切なランプを抱へてゐるのだから、無茶に走るわけには行かない、祭司の手で入れられた火がともつてゐるランプを捧げて、こわさぬやうに気を配りながら、駈け競べをするのである。近郷から集つた見物に応援されながら、滑稽な興味のある競争がはじまるのである──。

 水夫は、去年の祭り日にこの競争で誉をたてゝ、「幸福の花環」を授けられたのに、今は何故斯んな不幸に出遇つてゐるのだらうなどと不思議に思つてゐると、イダーリアの店内から花々しい声が巻き起つた。

「やあ、ピピヤスが来たぜ。」

「雲の中に都を建てた鳥──あの愉快な芝居を書いた作者が、アゼンスの女市長から授けられた名誉の花環と同じやうに爽々しい曙色の花が彼女の花籠に充ちてゐるよ。」

「虹色の翼をもつた大鳥 GOD KHONSU がナイル河の上流で探し索めた OSIRIS の花をくはへてオリンピアの街に現れた時のやうに、俺達は愉快だ。」

「花鬘酒の栓を抜け、踊り子達よ、一勢に盃をとつて、あの舞踏酒の歓喜に酔へ! 俺はピピヤスの傍らへ走つてあの花籠を買つて来る、一刻の間も惜しい、あれらの花が凋まぬ間にあの壺をあけて、ストーロナの花を盛らなければならない。飲め〳〵〳〵バツカスの葡萄の冠へ歓喜の酒を噴水のやうに浴せろ。」

「校長先生、どうも御馳走様!」

 それと同時に、巨大なシヤンパンの栓が抜かれるかのやうに凄まぢいパンクの響きが鳴つた。

 すると、号砲に打たれた競技者のやうに、エピキユール学校の校長が矢庭にスタートを切つて一目散に駈け出した。

 すると、また、花売娘の姿を認めた水夫は、突然狂喜の声を挙げて、

「シツダルぢやないか。」と叫んだ。「あれこそ、恋しい真のシツダルだ!」

 彼は、上着を空に投げつけると一処に、夢中で校長の後を追つた。

 水夫と校長の凄まぢい競争がはぢまつた。



 街の両側には、(鳥が空中に建てた都)のやうな空高いビルヂングが無限に延び拡がつてゐた。その無数の窓から無数の顔が現れて、澎湃たる嵐に等しい声援を放つてゐた。

「今日のランプ祭りは、選手がたつた二人しか出ないと見へるね。」

「決つてゐる、今時、ランプ祭に出なければならないやうな悲しみを持つた人間などが、この町にあの二人より他にあるわけがないよ。」

「エピキユール学校のソフイストが、ランプ祭のランナーになるなんて、何とまあ吾々の世界には途方もない皮肉が勃発することよ──だ。ハツハツハ! ランプの代りに金貨の袋を持ち出した処は気が利いてゐるが、それをまあ! あんな風に提灯見たいにブラさげて、息苦しさうに走つてゐる先生の姿ツたらないぢやないか。」

「先生、しツかり! そら、レモンの実を投げますよ。今日ほど先生の姿が真剣な輝きに充ちてゐるのを見た験しがない。プロメトイスのまことの火に憧れるソクラテス派の唯心論者のやうだ。さうだ、あの永遠の信念に満ちたかのやうな憧れにゆる校長の姿は、一切の迷妄と不合理と激情と恐怖と、そして人間的禍悪よりの離脱のために──といふプレトン先生の言葉を叫んでゐるかのやうだ。」

「……「乱雲」の作者アリストフアネースに、是非とも見せてやりたい、実に壮厳な喜劇的現象ぢやないか。」

 ソフイストは、そんな声援を浴び、水夫は、

「迷ひのランプを吹き消して、帆をあげたお前の船は、あと一ト走りでフアテイアに着くだらう。」

「そこでは、ウルービノの牧場でお前と一緒に楽しい羊飼ひの日を送つたシツダルがお前を待ち焦れてゐる! そら、見えるだらう噴水の水煙りの中に!」

「走れ! 走れよ! ランプを落さぬやうに気をつけて──」

「幾日も幾日も思ひ焦れ合つた恋人同志が、彼処で出遇つた時には吾等の町の誇りの噴水よ、どうぞ旺んな水煙りを撒き散らして彼等の姿を吾々の眼界から奪つてお呉れ!」

 などいふやうなことを頒讚歌様の合唱で声援されながら、疾走を続けてゐた。──ほんの眼近かにあつた答の噴水が、競争者の行手から移動風景のやうに遠ざかるらしかつた。

「シツダル、早く私の手をとつて呉れ、やつと、お前の傍に着いた!」

 水夫が斯う叫びながら双腕もろてを差しのべて、駈け抜けると、慌てふためいた校長ソフイストは、

「私が夜をこめて待ち焦れた、可愛い、私のピピアスよ。これを受けとつて、その花籠を此方へ投げてお呉れよ。」

 と悲痛な叫びを挙げたかと思ふと、手に持つてゐた金貨の袋を力一杯娘を目がけて投げたのである。袋は水夫の頭を蝙蝠のやうに飛び越へて、娘のエプロンの上に落ちた。

「シツダル!」と水夫は感極つた涙声で叫んだ。「私の手を早く……」

 ……「フローレンスの学生さん、何をそんな処で考へてゐるの! 中へ入つて一緒に踊らないこと。」

 耳もとでそんな声がしたので、不図水夫は思ひ直して見ると、今の競争の場面だけは、謀らずも描いた白昼の妄想だつた! のに気づいた。踊り子のシツダルが、酒壺の間から顔を出して水夫の耳にさゝやいだのである。

 鳥が建てたかのやうに空中遥かまで延びてゐるビルヂングも夢で、それはしきりに吹き寄せて来る噴水の水煙りを仰いだ水夫の思ひ違ひだつた。

「あなたは私の恋人と同名です。それで、今迄もつい酔つた紛れの時にあなたに向つて親し過ぎた言葉を掛けはしなかつたらうか、と私は案じてゐます。」

「ロールツヒ先生が承知なさつたら妾は、あなたの恋人になつてもかまひませんよツ!」と踊子は、嶮しい眼をして、そんなことを憾みがましく云ひ放つた。水夫は、わけが解らなかつた。

「私はフローレンスの学生ぢやありません。ウルービノの生れの貧しい水夫です。永い間探し索めてゐた恋人を、たつた今あの噴水の傍らに見出したところです。」

 水夫が弁明すると踊子は、いきなり「南方の魔術師」の酒壺にささつてゐる黄色い花をつかんで水夫の顔に投げつけながら口を極めて惨々に罵つた。

「それはお気の毒様、あの花売娘のピピアスは間もなくエピキユール先生のお妾になるといふのをお前は知りもしないで──」

 水夫には踊子の云ふことが益々解らなくなるばかりだつた。彼女は続けた。「此間の晩の約束をお前はもう忘れたの? お前は妾をお瞞しになる心意つもりなの?」

「そんな、馬鹿なことが……」

「お前は妾のためにならば、コルソ通りの塔に昇つてサンパウロの像にでもなる、ハドリヤヌス橋の欄干に立つてヘーラクライタスにもならう、ソフオクレスの像になつてボルゲーゼの森に現れても関はない。何んな苦しい銅像になつて──働くことも厭はない、働き抜いて妾に綺麗な着物をどつさり買つてあげると云つたぢやないか?」

 踊子のシツダルは拳固を震はせて水夫に詰め寄つたが、水夫はそんな馬鹿なことを云つた記憶は何うしても思ひ出せなかつた。イダーリアに来ると何時も水夫は、踊子のすゝめで一番値段の安い「南方の魔術師」ばかりを飲んでゐたが、あんな酒に酔つたこと位ひでそんな途方もない約束などを交す筈がない、銅像になつて働くとは一体何のことなのか? おまけに嘗て聞いたこともない銅像が、何とまあこの市には至る処に散在してゐることだらう、ハドリヤヌス橋にヘーラクライタスやエンペトクレーイスの立像があつたり、ボルゲーゼの森にソフオクレスやユーリピデスの銅像があるなんて、夢ではなからうか? こんな調子だと、この先何んな怖ろしい禍が現はれるか計り知れない……。

「怕い〳〵! イダーリアの踊子さん、一体私は何うなるんでせう。」

 水夫は、気でも狂ひさうに情けなくなつて、ベンチに突つ伏した。

「そんな芝居をして、また妾を瞞さうとするの! 昨夜もお前は、あんな英雄達の気楽な仕事はおろか、クレメント噴水の馬にでもイダーリア通りの表口に近々建つことに決つたラオコーンにでもなることを厭はない! と云つたぢやないか。ラオコーンが務まれば毎日金貨が一袋づゝ儲かるわよ。」

 水夫が踊子につかまつて、惨々な目に合されてゐるところに、花売娘の手を携へた、エピキユール学校のソフイストが戻つて来た。

「やあ「南方の魔術師」の愛飲家!」と水夫を呼びかけた。「私は今朝、ピピヤスのために「花鬘の壺」を抜いたところなのさ。踊子達は悦んであの騒ぎだ。君も遠慮なく飛び込んで盛んに飲んで呉れ給へ。」

「お前だつて、ラオコーンにでもなれば毎日毎日好きな自由なお酒の栓が抜けるんだよ、斯んなに可愛好かあいい妾のために──」

 踊子やソフイストの言葉を上の空に聞き流しながら水夫はパトロンのチユニツクの広袖にかくれてゐる娘を覗いた。そして激情を鎮め乍ら、

「シツダル、私だよ。お前を慕つて遥々とやつて来た「二本マストの水夫」だよ。お前を追ひかけるために水夫になつたウルービノの羊飼ひだよ。シツダル、顔を挙げて呉れ、無人島に漂流した男が船の煙りを見出した刹那のやうな歓喜に充ちた私の姿を見てお呉れ!」

 と云つた。

「朝つぱらから、お若いのに似合はず、大変な御機嫌だな、仲々何うして、君は隅に置けない伊達者だわい。巧い〳〵、一体そのシグサは何処の劇場で何んな役者を観て覚えて来たのさ。」

 水夫の切ない動作を酒興の戯れかと思ひ違へた校長は、頤を引いて賞めそやしたが、娘はしつかりと袖の下にかばつて容易に其処には現しさうもなかつた。

「この人はね、先生!」と踊子のシツダルが校長に云つた。「安いお酒ばかりを飲み過したので少々頭を悪くしてゐるんですよ。それとも自分の浮気をごまかすために、わざつと妾の名前を間違へたりしてゐるのかも知れませんわ。ピピヤスをお袖の下から出しては駄目ですよ。とても、この人は、お口の先が巧いんだからピピヤスだつて瞞されてしまひますよ。」

「お前のやうにかね?」

「……ピピヤスに色目なんか使つたら、犬頭のアヌビスのブロンズを背中に縛りつけてやるから好い。」

「やきもち喧嘩は真平御免だ!」自分こそ洛陽の通人気どりである奇態なソフイストは、斯んな言葉を、折から附近の劇場で開演されて市中の人気の的になつてゐる悲劇役者のプローメイシウスの声色をつかつて云ひ放つた。──「扉を開けろ、二組の新婚者が祝祭場に到着した。」



 酒場の客達の間でも、プローメイシウスのギリシヤ悲劇の評判が盛んに持てはやされてゐた。

「プローメイシウスの銅像を建てようといふ輿論が専らだが、たしかにこいつはこの次の議会を通過するに決つてゐる。」

 酒棚に近い卓子で、唐草模様のついた陶器製の洋盃コツプを持つた若者が、そんなことを余り興味なさゝうな口調で云ふと、傍らの伴れらしい男が、

「何しろ娘達の間だけでも素晴しい評判だからな。何処へ行つてもプローメイシウスの噂ばかりで、町全体が好い気になつて涙を滾してゐるわけさ。あんな役者が来ないうちには俺達の森には若い女が一番沢山集つて来たのだつたが──」と鬱陶し気に呟いた。二人はギリシヤ風の短い鎖襦袢を身につけてゐる。

「然しまあ俺達は日給を貰つて仕事をしてゐるんだから、つまらぬ不平は洩らすまいよ。パトロクラス!」

「そろ〳〵、務めに出かけようぜ、アキレス! 晩に、また寄つてシツダルの歌でも聞くとしよう。」

 この市には至るところに数多い銅像があるので有名なのだが、それらの銅像は悉く生きた人間が政府から雇はれて、彫刻家の手に造られた像の代りに、台石の上に立つてゐたのである。タバン・イダーリアに現れる饒舌な常客の大半は、夫々の銅像として勤勉に働いてゐるプロフエツシヨナルの銅像役だつた。彼等は務めの往復此処に立寄つて、終日沈黙を守つた仕事に疲れた饒舌慾を晴らすのである。──だから、彼等は、たゞ無闇にお喋舌りだつたのである。その代りに何の魂胆もなかつた。無遠慮にふざけ散らし、悪意なしに他人をからかつたりするだけで足りてゐる。だから、その場さへ過ぎればあんな赤恥を掻かされたロールツヒ先生だつて翌日は白々しく出入しても、誰も昨日のことなどを気にしてゐる者もなかつたし、憾みを続けるやうなことは一切なかつた。たゞイダーリアの親爺だけが、長年の客の饒舌に圧倒されて、あんな心地を持つてゐる位ゐのものだつた。あのデイ・ドリイマアは相変らず客に逆ふべき何らかの手段を考へてゐた。

 今、出て行つた二人の鎖襦袢はテイヴオリの凱旋門近くの森にある「パトロクラスの傷を介抱するアキレス」の記念像を務める、騎士級ヒツペウスの家柄に育つた若者である。他の銅像達が左様さうであるやうに彼等も本来の自分の名前を呼び合ふ代りに、銅像の名称で称び合つてゐた。

「娘達がやんやといふのは道理さ。」と云つたのは、今年一杯務めると恩給が貰へるといふので皆なから羨まれてゐる、ハドリヤヌス橋畔で、マセドニアのフイリツプに対する攻撃の大弁舌を揮つてゐる「デモスゼネス」だつた。彼は左程の永年、獅子吼するデモスゼネスの表情を保つて来たので職務時間でない時でも、言葉が途切れたり、物思ひに耽つたりする時には獅子吼の表情になるのが癖だつた。──「私も此間、あの半円劇場で「オイデパス王の銅像除幕式」が出された時に中央銅像局の役員達と一処に観に行つたのだが──」

「ヴエスタ神社の広場にオイデパスの像が建てられるといふ話は決つたのですか?」と質問したのは、ボルゲーゼ池の森に務めてゐるペトラルカだつた。いつかロールツヒ先生の秘密を発いた若いイオニア人である。あの頃この市に来たばかりのロールツヒは銅像がまさか生きた人間であるなどといふことには気づかなかつたのである。ボルゲーゼの森には、ダンテ、ペトラルカを始めとして、ゲーテもゐた、シルレルもゐた、チヨウサアやスペンサーもゐた。

「決つたよ。」デモスゼネスは唸るやうな調子で云つた。「像の数を盛んに殖さないと吾等の市の繁栄に関はるばかりでなく、就職難になやんでゐる若者達の救ひ道が開けないからな。」

「オイデパスよりも先にプローメイシウスを建てるといふわけには行かないでせうからな!」とピンツイオ公園のモーゼが云つた。

「勿論です。──そこで、満場の諸君、五分間の沈黙を、中央銅像局調査局長の名を持つ私のために与へ給へ。」デモスゼネスが掌を上半空に伸して云ひ放つと、拍手が起つて酒場が静まつた。

「斯う無闇に銅像の数ばかりをふやしたところで反つて始末がつかなくなるだらうといふことが、久しい前から私達委員の間に於ける暗黙の不安だつたのです。そこで、今度ヴエスタ広場に建てるオイデパス像に関して、斯う云ふ案が研究されてゐるのですが、如何なものでせう。悲劇「オイデパス王」が何故にの如く満都の人気を呼んでゐるかは今更私が説明するまでもありますまい。王の銅像除幕式の祭りの日の場面を皆さんは御存知でせう、そんな祭りを知らずに遇然、その場に戻つて来たのが永年放浪の旅に出てゐた怖るべき親不孝な王子でした。場面がそのあたりまで進んだ時分の観客の熱狂振りを皆さんは御存知でせう、そして、おゝ、祭りの真最中に王の銅像が転落して、はからずも王子の頭にあたり、王子が悶絶する! あの素晴しい場面に至ると満場の観客が、総立ちになつて熱狂する様は野獣戦の見物人にも見られぬ程の壮観ではありませんか。泣く、泣く、泣く、如何どうして今の市民には彼程までに悲劇なるものがその意に投じてゐるか? 理論では決して解らぬ現象です。アリストフアーネスの像を打ち仰ぐ者は稀ですが、イースキユラスやソフオクレースの下には何時も多くの哀詩歌人エレヂストの手で礼讚された花環が絶えたことのないといふ現象を見ても自明なことではありませんか。」

「ほんとうです。昨日も二三人の女学生が私の下を通りかゝつて、これが、あの「蛙」といふ馬鹿々々しい創作をして、あべこべに笑ひ者になつてしまつたアリストフアーネスとか云ふ喜劇作者なんですつてさ、あたし達の尊敬するユーリピデス先生のことを皮肉つてゐるんですつて、身の程も知らないで──なんて云つたかと思ふと一斉に私を見あげて、ビービー! とばかりに凄い憎々顔を送るぢやありませんか。いくら職業柄とは云へ、綺麗な娘達にそんな真似をされて心地好い筈がありません。私は近々、月給の値上げを申し出るか、でなければ他の人物に代りたく思つてゐる位ひですよ。」

 デモスゼネスの弁舌を聞きながら思はず不平を洩したのは、アポロの神楽殿の入口で、この喜劇の先祖の像を務めてゐる憂鬱な若者だつた。

「御覧なさい、この悲劇流行の有様を──」

 とデモスゼネスは続けた。そして彼は、

「そこに於て──」

 と、調子を変へて卓子を打つた。

「私達はヴエスタの広場に、オイデパスとその王子との二つの銅像を上下に建てやうとするのです。そして神社の祭り日には、王の銅像が倒れて、王子の頭にあたり二つの像が台石から転げ落ちるところを目のあたりに見せようといふ趣考なのです。」

「名案だ。話を聞いたゞけでも悲しさで胸が一杯になつて来る。絶大の人気を拍することは火を見るよりも明かだ。」

 斯う切なさうな吐息と一処に同感の意を現はしたのは、カピトリノ丘で馬上に胯つてゐるマルクス・オウレリアウス皇帝の扮装者であつた。

「ところで、この二体の像を務める勇敢な人を如何して求めたらばよからうか? といふところに話が進んだ時に、思はずこの計画に一頓挫を来してしまつたのです。」

 デモスゼネスが悲痛な声を挙げて、斯う唸ると、アリストフアーネスもアウレリアウスもユーリピデスもその他の物々しい豪傑連も一勢に口を喊して誰も彼も横を向いて顔を見合せてゐるばかりだつた。

「そろ〳〵出勤時間が迫たぜ。」

「親爺、今夜は屹度「ネロの盃」を空にしてやるから、そのつもりでお前は耳に栓でもかつて置いた方が好からうぜ。」

「さあ、出かけようではないか。」

「とう〳〵、昨夜も此処で夜をあかしてしまつたといふわけか──上天気過ぎると少々仕事が辛いだらう。」

 デモスゼネスの悩みを紛らして、一同は口々に呟きながら一人減り二人減りして忽ち四方へ散つて行つた。

 酒場には、仕事を持たないロールツヒや、これは真にフローレンスから来てゐる学生達や、シヽリイ生れの怠け者、街頭の詩人、七ツ道具の音楽家、そして踊子達と例の校長と水夫と花売と……と思ひ思ひの場所に自由なかたちで、ソクラテス学校の学生のやうにくつろいでゐた。

 水夫は、酒壺の聞から外の噴水を眺めてゐた。

 斯うしてゐる間に、様々な疑問を解いてしまはなければならない! と彼は思つた。

 噴水の周囲を大輪に抱いてゐる水溜りの幾つかの角々は青銅の獅子の頭になつてゐて、それらの街に向つて吠えてゐる口腔からは銀色の水が切りに滾れてゐる。これらの幾条かの獅子頭の滝は豊かな水勢に満ちて返つて音もなく、落着き払つて、ひかりに映えながら悠々と、玉座に躍り続けてゐる噴泉を守つてゐた。

 或る長老の言葉に依ると、斯んな伝説いはれがある由だつた。

 この噴泉は昔、オリンピアの選手のための水呑み場として建設されたのであるといふことだつた。

 ──昔オリンピアの選手達が、この市を通過する時には市中まちぢうの人々は悉くこの噴水の傍らに集つたといふことだつた。

 そして、応接の乙女達は、手に手に携へて来た橄欖の枝をこの噴泉の水に濡らして、想ひを寄せる勇士の頭上にふりかけながら彼等のいさほしを乞ひ希ふ「首途かどでの泉」として、また、凱歌を挙げて引きあげて来た戦士が、「市の歓迎のことば」を享ける表象として、獅子の口から洩れる聖らかな水に口吻くちづけする「凱旋の泉」として崇められたものである、とのことだつた。

 今時、こゝの酒場などでこ〝Burning Knight〟酒の壺には橄欖の枝を用ひてゐるところなどは、斯んなところに起因してゐるのではなからうか。

「私は、この頃の街の状態を真に嘆かはしく思つてゐる唯一人の者だ。」

 老人は左う云つて眼を伏せた。

 名前を聞かなかつたし、あれ以来一度も見かけないので水夫はその老人が何処の人かは知らなかつたが、あの老人の声の麗はしさが忘れられなかつた。

 老人は云つた。

「私の心は、恰度あの噴水の周囲にある獅子のやうだ。街に向つて、吠えてゐる獅子だ。吠えてはゐるものゝ、声を出すのではない。美しい清水を吐いてゐる。私も胸に嘆を持つてはゐるが、今、彼等に云ふべき言葉は見つからない。お前が、この市に住んだら思案にあまる不思議が次々に起るだらう。その不思議を解くには、いつまでも黙つて、あの獅子の口から滾れ出る水を眺めてゐるより他に術はない。」

 水夫は、いつまでも凝つと獅子の口を視詰めてゐた。

 然し一向に疑問は解決されさうもなかつた。

 口々に勝手なことを喋舌り合ひながら酒場を出て来る陽気な酔つ払ひ達が、申し合せたかのやうに獅子の口から、さもさも旨さうに水を飲んでは千鳥足で噴水の蔭に消えて行くのが、わけもなく水夫には面白く思へた。

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房

   2002(平成14)年520日初版第1刷発行

底本の親本:「西部劇通信」春陽堂

   1930(昭和5)年1122日発行

初出:「文藝春秋 第七巻第六号」文藝春秋社

   1929(昭和4)年61日発行

入力:宮元淳一

校正:門田裕志

2010年718日作成

2011年56日修正

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