山を越えて
牧野信一
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彼女等の夫々の父親からの依頼で二人の娘をそちらへおくることになつたから、彼女等を夫々オフイスの一員に加へて貰ひたい、詳しいことは当人達からきいての上で、山の見学を望んでゐる二人の幼い学生達に能ふだけの満足を与へて欲しい──。
滝は、暖炉の傍で、父親からの英字タイプで打つたそんな意味の手紙を読んで軽い迷惑を感じた。
その頃彼の自家で主になつて経営してゐた或る山奥の作業場なのだつたが、滝は、「籠る覚悟」──「孤独と睨み合ひをする決心」で、厳格な抱負に酔つて、初めて接した山の天幕的な生活に慣れそめた時だつた。
……娘達だから迷惑を感じたといふわけではない、戦ふつもりでゐた孤独の寂涼も来なかつた、何の不足も感じなかつた。面白いやうに孤りの己れに爽やかな悦びを感じてゐた、嘗て「愚」と称んで嘆いた鈍い感情が、太く凝り固まつて、反つて静かな「感謝」を覚えさせてゐた、何といふこともなしヒロイツクな夢を抱いて「苦行をするつもり。」そんな言葉を呟きながら山を登つて来たことなどを思ふと可笑しかつた、彼には、何の苦行もなかつた、圧へなければならない何らの慾も感じなかつた。この怖ろしい鈍さが、気儘に、此処では落ついてゐた──それで、種類を問はず相手が現れることに彼は、軽い戦きを覚えたのである。
趣味ではなしにアメリカ風の学生気質に習慣づけられてゐる彼の父は、普段から友達の子息達と彼に自由な交際をさせてゐるので、これが若し自家での彼であつたら彼も礼儀を知る小さな主人になることに何の苦もなかつたのであるが、今の彼は余りに冷い独想家であつた。快く彼は「哲学的」になつて、誰を憚かることなく、明るく悩まし気な顔を保ち続けてゐた時だつた。たつた二冊たづさへて来たシヨウペンハウエルの著書を飽かずに翻読してゐた時だつた。彼は、その書の幾十の個所をもそらんじた。そして彼は、己れの意見を樹立することに没頭した。彼は、何ごとかを口吟みながら石を飛んで流れを溯つた。
彼は、健康だつた。小屋の傍には綺麗な小川があつた。庭の棄石を踏む童のやうに彼は、岩を飛び、影を踏んで、流れを溯つた。寝台のやうな巨巌があつた。椅子のやうな奇石があつた。碑のやうな岩があつた。
野花があり、芝に覆はれた明るい斜面の見晴しがあつた。橇道を登つて行くと深い森があつた。そこでは、樵夫が樅の大木を目醒しく切り倒してゐた。彼等は、大鉈をふるつて、格闘をする者のやうな動作で忽ち大木の枝を払ひ落した。向ひ合ひの把手のついた大鋸で、夫々の木挽が鯨を料理するかのやうに、手つ取り早く胴切りにした。橇引きの連中は、胴切りの大木を荷にして、隊をつくつて、鈴を鳴しながら橇道を滑走して行つた。
炭焼小屋からは昼夜の分ちなく呑気な煙りが立ち昇つてゐた。滝は、彼等の誰とも親しくなつてゐたが、彼等の方言が余りに滑らかで、極限されてゐたので、心を病はされることがなかつた。朗らかに混沌の世界をさ迷つてゐる彼の頭に、時とすると、彼等の意味の解らない言葉が、反つて何となく意味あり気に響いて、彼は、今こそ己れが活躍すべき真に未開の天地に到達したといふやうな素晴しい興奮を覚えさせることもあつた。
山牛蒡の煮たものもうまかつた。塩鮭をたきこんだ熱い握り飯がうまかつた。
夜は、ランプがともると間もなく、性体なく寝込んで、朝は、一番馬(トロツコが通じてゐる山の中腹まで、板にされた製材を運び出す馬の一行)の鈴で目を醒した。
彼は、此処の生活に自信を得て、健康を回復したら、この次は、故郷の町から五六里先きにある祖父の知己が居るところの、多くの厳しい掟を宗としてゐる僧院に入つて、勉強しようと思つてゐた。そして、この分ならば何の力み反る必要もなく、そのやうな生活の方が寧ろ自然に己れの性格に適してゐるやうな安心を覚えて、間もなくその地へ引き移る準備もしてゐた時だつた。
「これは!」
Nから父の手紙を渡されて一読した時彼は、思はず口ごもつたが、思ひ切つて気分を取り直した。(ちよつとでも迷惑気な顔色を示しては悪い、彼女達が遥々と勇んで来た、こんな山の中で──。何も俺が相手になる必要もないんだ。少し位ゐ相手になつたつて、それが何だ、無邪気な女学生なのではないか。決心を持つてゐる自分だ、利己的といふより他はない小さな臆病心を棄てなければならない……)
「妾達は、歩く用意をして来たのに何んにも歩かないで済んでしまつた。」Nがさういふとツル子が、
「これ!」などと、わらつて、スパイクのついた靴の裏を示したりした。ツル子とNは、馬から降される自分達の荷物を、嬉々として、小屋の中に運んでゐた。
Nは、仰山に小屋の中を見廻しながら、
「これは、妾のパパが設計したんですつて? ほんとうに探検隊の仮り小屋見たい、壁に鉄砲がかゝつてゐたり、オーヴンが炉ばたにあつたり……」
「それは、炊事係りがお午に手間を省いたまでなんだよ。台所は、そつちにあるんだよ。」滝は、酒樽などが見える勝手の口を指差して説明しずには居られなかつた。「Nは、いつか僕の実家に滞在するよりは反つて、キヤンプの方が自分にとつては便利だなどと云つたことがあるが、此処は、これでも靴を脱ぐ必要のない住家なんだからね、君には全く僕の実家へ来る時よりはずつと住み好いだらうよ。」
「そんな意地悪るを云ふのはお止め。──ホヽヽそれも当つてゐるかも知れない。では、ベツド・ルームは何処なの。」
「あそこにしたら好いだらう。」
彼は、床の張つてある次の間(?)の扉をあけて示した。
「ベツドは、ハンモツク? 余分なのある?」
「ある。」と滝は云つた。──「尤も、あそこの戸棚はベツドになつてゐるよ、二段の。」
「ほう……」
Nは、わざと浮々させるおどけた目を視張つて、何といふこともなしに、肩をすぼめた。西洋人であるNを珍らしがつてあちらこちらの小屋から女房や子供が集つてゐた。
ツル子は川のふちに咲いてゐる花を見つけて駆けて行つた。Nも後を追つた。
湯の知らせをうけたので滝は、タオルをマントのやうに羽織つて川のふちへ降りて行つた。川幅は相当に広いのだが水は膝の深さ程もなく、大方乾いてゐる岩石の間を細く一筋流れてゐるだけなので、風呂桶は水の無い川床に据ゑてあつた。風呂の中から橇引きの降つて来る行列などが眺められた。
「其処がお風呂なの?」
釣り橋の上から、Nと並んで欄干にもたれて下を見降してゐたツル子が声をかけた。
滝は、わらひもしないで点頭いた。そして、信号兵のやうに腕をあげて小屋の方を指さした。
Nは、憤つたやうに顔を反向け、ツル子は顔をあかくして、二人は手をとり合つて慌てゝ向ふへ戻つて行つた。──滝は石の上にシヤツとズボンを抜き棄てゝ湯につかると、伸々として青空を仰いだ。孤りの気分は、別段に害はれもしなかつた。彼は、自分の心が何処までも健康らしく、厳しい希望だけに炎えてゐることを一層はつきり自覚するのが愉快だつた。そして、自分が爽々しい大人であることを悦んだ。
あしたは、またこの流れをいつもの処まで溯つてやらう、彼女等も行きたかつたら案内しても関はない、自分が発見した多くの巨岩奇石を、そして自分がそれらに与へてある名称のいはれなどを説明してやつても好い──などと彼は思つた。
幾度も溯りつけた浅い明るい川上の彼方まで、今まではおのづと楽な道が通じてゐた。飛び越し難い石から岩へは彼が渡した板切れの橋がかけてあつた。抱へられる重さの石で、工合よく足場が出来てゐるところもあつた。少しばかりの水の流れの速いところで、飛石の見つからない個所には、二本の丸太を縄でからげた巧妙な丸木橋なども彼の単独の手で造られてあつた。──今では、川上にある、山の子供達が野遊びに行く芝原までは、山径を歩くよりは遥かに近く、そして楽々と、川の中の路が開けてゐた。この山には彼の嫌ひな爬虫類がゐなかつたので、彼は何処へ行つても落ついて、考へたり、またそんな「仕事」に耽ることも出来たのである。上の野原には小さなテントを一つ張り放しにして置いた。
「川とも云へないわね、これぢあ……」
「ほんとうに、でも、綺麗で、日蔭が殆んどないから、何となく海にでも近い河原のやうな気がするわね。」
「こんな橋なら誰にだつて出来さうね。」
ツル子とNは、そんなことを云ひ合ひながらセキレイのやうに軽々と石を飛んで、川の中の、何処から見ても人が屡々往復する痕がはつきり解る路を伝つてゐた。
「一年に一二度は、これで、この川が一杯溢れるほどの洪水があるさうだよ。」
「これが──」Nは、信じられないやうに眼を視張つて滝を振り返つた。
「そんなことを云つては厭よ、何だか怖くなるわ。」ツル子は、身震ひをする真似をして、おそろしさうな気合もなく頬笑んだ。
「僕より先きに歩いた人は無い、これが川の中の通路なんだからね。」などと滝は、変に重々しい口調で呟いた。何か相手に向つて物を云ふ時の彼の口調は、一句一句に変にギゴチない力をいれて、合間に感慨あり気な沈黙をさしはさむのが何時の間にかゝら癖になつてゐた。
「歩いた人はあるでせう。」
「石を直したり、橋をかけたりして兎も角僕が、定つたラインを引いたんだ。こんな橋だつて在れば、誰れだつて渡るからね。」
「妾、渡らないだつて平気で行かれるわ、石づたひだけで──」Nは、さう云つて、わざと石から石を飛び渡つたりした。
「それは、つまらない反抗だ。」などと滝は云つた。──「尤も、危いところは一つもないよ、踏み外したつて爪先きが濡れる位ゐなものだよ。」
「案内なんてされないでも、これぢや大丈夫ね、ほんとうの一本路だわ。」先の方でツル子が叫んだ。「でも、この辺の路は何処だつてこれと同じだけれど、歩き難いことも──でも、遊びででもなかつたら、わざと川の中を歩く人もないでせう、山路の方が石転がないだけずつと楽でせう。」
「こゝを通つて行つた方が近いんだよ、遊びなもんか!」滝は、不平さうに叫んだ。
時折、川上の方で鉄砲の音が響いてゐた。
Nとツル子が交る代る写し手になつて別の二人をカメラに容れた。滝は、写真を撮る技を知らなかつた。
「この丸木橋の上でも一つ写して貰はう。」滝は、さう云ひながら一間位ゐの長さの丸太の中央にたゝずむだ。一度洪水が来ると川のかたちがすつかり変つてしまふといふことを聞いてゐた滝は、出来ることなら今の川のかたちを活動写真にでも撮つて置きたい位ゐな未練を持つてゐた。
「ひとりが好い! ひとりが好い!」Nは、さう云つて滝の傍から離れた。「頼まれた写真師になつて注意深く撮つて上げよう、此方は二人で──」
「どうぞ──」と滝は、悦ばしさうに点頭いた。ちよつとしたNの配慮が彼は、馬鹿に嬉しかつたのである。
彼は、安楽椅子に似た岩に凭つて、腰に手首をあてがひ斜めに空を見あげた。「寝台」に横たはつて、流るゝ水を静かに見降した。腕組みをして「碑」に凭りかゝつた。普段は写真を写されることを妙にテレ臭さがつて、単独で正面を切つて写したことなどは滅多になかつたにも関はらず彼は、何か目に見えぬものに逆せてゐる客気の人でもあるかのやうに、殉教者の如き一本気と、先達のやうな誇りを持つて、羞みを忘れた多くの姿勢をとつた。──独り自分が川を溯つて行く後ろ姿──そんなものまでを頼んで、写して貰つた。
「稀には、もう少し、やはらかな姿勢をとつたら如何なの?」
「少し位の微笑を浮べる位ゐが、自然なんぢやないの。」
「此方が何だか気まりが悪くなつてしまふわ、撮る方が、何となく改たまつた人などを、妾まだ一度もモデルにしたことなんてないわ、厭だわ、何だか! 若しやり損つたら、悪いやうな気がして。」
「山で現像が出来るの?」滝は、不安さうに訊ねた。
「出来るもんですか!」
「……」滝は、一層心神が引きしまる真剣さを覚えた。「軽蔑を感じては困るよ、二人のうちで自信のある一人に頼みたい。」
「えゝ、好いわ。」二人の者が同時に点頭いた。
「ぎごちない格構に見えるだらうが、それは僕一人の勝手なことなので……」
「何も眼中にないといふことなの、此方のことは! 結構よ、それで──」
「……僕にとつては、夫々長く考へた挙句の、夫々の個所で、夫々の想ひがおのづと変つてゐるんだ。僕には尊い記念なんだ……」
「……前にはもつと詩人らしいところのある人だつたと思ふが──」──「何だか、先生見たいね。」Nとツル子が囁き合つた。
川上の野原に着くと、山の子供等が五六人集つて、芝の丘で橇滑りをして遊んでゐた。Nとツル子は彼等の仲間に加はつて丘の項きに駆けのぼつた。今ではNを珍らしがる子供もゐなかつた。傍では別段気づきもしなかつたが少し離れて滝が、ツル子やNを眺めると二人ともスエータの上から柿色の引きしまつた上着を着てゐるせゐか、大辺に小柄で、芝の上を転げ回つてゐる男の子供達と見境ひがつかなかつた。
彼は、写真のことを想つたり、この先未だ続くであらう彼女等が加つた山の生活を想つても、何も自分の心が病はされさうもない健康な自分の思索的な生活を祝福しながら、夢心地で薄ら冷い晩春の空を仰いだ。
「お爺さん、馬に乗せて頂戴な。」ツル子が、もう親しくなつてゐる山番が空身の馬を引いて来たのを見つけて、Nと一緒に小山を駆け降りて来た。「Nさんに乗せて貰ふから大丈夫よ、もう一人だつて大程平気なんだけれど──」
「おなかゞすいたから早く帰りたい。」とNが云つた。朝露が未だ乾ききつてゐなかつた見えて、Nもツル子も頬にまで土をつけてゐた。二人は、土だらけの手の平を草の葉で拭いたり上着の胸で払つたりして、一頭の馬を借りて帰つて行つた。
「ぢや僕は帰らないから、何か喰べるものを持つて来てお呉れな、また来る時に──」
「また来る?」
「だつて馬を返しに来なければ──」
此方もお午への帰り路なんだから関はないと人の好い山番が好意を示した。……山の人達はどんな若者でも酒を飲まない者はない、あなたは若い癖に何故碌々酒も飲まないのだ。明日はまた山の神様のお祭り日なのだから晩には是非皆なと一処にお酒を飲んで欲しい、そして都の唄を聞かせて貰ひたい──滝は、山番にそんなことを頼まれながら、彼女等の後を降つて来た。……あなたが、伏せた茶呑茶碗を両手に握つて馬の蹄の音になぞらへながらポカツ〳〵と床の敷物を叩いて音頭を取ると、それに合せて一同の者が、或る者は掌を打ち、或る者は悠長に馬を追ふ身振りをしながら声をそろへて歌ひはやす──あれを私も教はりたいなどと滝も云た。
小屋から半里あまりある見晴しの峠までは二人の橇屋とNのコツクに彼等は送られて来た。山番の年寄はU村まで送つて行くと云つた。
「見晴し」から眺めると国境ひの大山脈が紫色の雲のやうに折り重つてゐた。平野は未だ海のやうに煙つてゐたが、一休みしてゐる間に忽ち輝かしい朝陽が溢つて、樹々の姿が藻のやうに浮び、村の家々から立ち昇る煙りがくつきりと判別された。
「これは、今日は好いお天気になりますよ。」
「町へ着いたら、もう夏かも知れない。」
誰かゞそんなことを云つた。
「ぢや、こゝで──」
「行つて来ますよう──」「何だか物語りにでもありさうなお別れのところ見たいね……」峠の松の傍で見降してゐる橇屋とコツクを振り返つて、ツル子や、Nは、ハンカチなどを振つて愉快さうに叫んだ。彼等は、道を急がなければならなかつた。夕暮れまでにS市に着き損ふことを懸念しなければならなかつた。
もう少し早かつたら此処で日の出が拝めたかも知れない──先に立つて駒をすゝめてゐる山番が、そんな意味のことを云つた。
「この次の時には、ぢやもつと早く小屋を出て彼処で日の出を──」ツル子が云つた。
峠まで来て空工合を眺めればその日の晴雨のことは大概解る、普段でも自分は何かの場合には朝のこの時刻に此処まで馬を飛ばして雲行きを眺めに来るのだが思惑の外れるやうなことは滅多にない──山番はそんなことも云つた。滝は、彼の方言を時々Nや、ツル子にも通訳した。
滝は、二三日前までうつかりしてゐたのだが、Nやツル子が山に来て以来もう二週間あまりの日が経つてゐたにも係はらず彼女等は未だ一度も入浴をしてゐなかつたのである。そのことを滝は、Nから遠回しな言葉でなぢられた時初めてそれと気づいたのである。
大して苦になるといふ程でもないが──とNは云つた。「もつと長く此処に居ることに決めたのでS市のホテルに行くついでに、少しばかりの買物もして来たい。」
山には滝が毎日夕暮時に入る囲ひも何もない川ふちの風呂より他になかつた。毎日何かしら労働的な仕事にたづさはつて泥にまみれたり、鋸屑を浴びたり、石ころの道で滑り転んだりする体を彼は、この風呂で休めた。彼ほどのことはなかつたが彼女等も寝る時以外には靴をぬくこともなく、草摘みなどから帰つて来ると炉傍で喧がしい食事を済せて、泥のついた上着だけを脱ぎすてると其儘毛布にくるまつて釣床に眠ることが多かつた。摘んで来る草が、野菜の代りに食卓にのせられるのであつた。そんなことには慣れたが、夜になると提灯をさゝげながら入る風呂だけには、どうしてもN達には真似が出来なかつたのである。碌々朝、顔も洗はないことも平気だつた。髪をくしけづらないことにも慣れた、川の水では石鹸も好くは溶けなかつた。
Nが知つてゐるS市の海岸にあるホテルへ行つて、充分な湯浴みをしなければ、満足出来ないとNが云ひ出したのであつた。さう云はれて見ると滝は、今更のやうに彼女等の黒さに気づいた。──仕事が急に忙しくなつた時で滝より他に彼女等の伴れになつて山を降る暇を得られる者がなかつた。炊事場の手までが足りなくなつてNのコツクは、もう大分前から凡ての炊事長になつて、食料品の納入係に忙しかつた。Nやツル子は、時々自分達でキヤンプ料理を作つたりしたが大概皆なと一処になつて反つて満足してゐた。
U村の倉田屋(山に運ぶ日用品の取りつぎをしてゐる雑貨商で、山の往復には此の家に物を預けたり、町に出る時には此処で着物を換へたりする習はしだつた。滝達は倉田屋と、そして馬車の終点であるK町の西田といふ小さな旅舎に、山で不必要な荷物を預けて置いた。買物がある場合にはK町まで来なければならなかつた。K町は小都会? であつた。滝は、ツル子達を伴れて一度K町の見物に出かけて画報や雑誌を買つたり、散髪をしたり、すしを食つたりしたことがあつた。)──九時までに倉田屋へ着かなければなるまい──などと滝は思つた。
この間の山の神様の晩には山の連中は真夜中近くになつてU村へおしかけて到頭倉田屋(酒を売つてゐる。)で飲み明してしまつた、今日行つたら親爺にあやまらなければならない──などと山番は笑つた。
「こんな山の中を?」滝は、空を仰ぐことは六ヶ敷い大木の梢を見あげた。彼等は、一列になつて山径をたどつてゐた。Nとツル子は、反響を面白がつて頓狂な叫び声を挙げたりした。
U村から馬車道へ出るまでの間は平地ではあつたが、殆ど名の知れてゐない小さな湖水の畔を半週して向ひ側に出なければならなかつた。停留場ではない藪蔭の角で馬車を呼びとめるのであつた。彼等は、乗つて来た馬は倉田屋に止めて山へ行く二番の馬の一行に伴れ帰つて貰ふことにした。此処で帰る筈だつた山番は、滝達の軽い登山袋を馬につけて、湖水の向ひ側まで送ると云つた。ツル子とNは、其処まで首に巻いて来た毛糸の襟巻とか耳根まで覆つてゐた頭布とか外套代りの上着とか、といふやうな、早朝だつたので余計に着込んで来た防寒のものを脱いで、軽装をした。乗馬袴を、毛布のやうに厚ばつたい白と黒の荒い格子の袴にはきかへた、Nは同じやうな地質の地味な鳶色の袴をつけて上から幅の広い皮のバンドをしめた、そして葡萄酒色のネクタイを結んだ。各自にステツキをたづさへて出発した。
湖水のふちであるためか何となく弓なりに感じられる葦などの茂つた小径を、矢張り一列で彼等は進んだ。
「これ位ゐに歩いても汗が出る!」
「さうさ、とても速いもの──」
「気候がぽか〳〵とし過ぎるのよ。」
「あら〳〵、手が斯んなに黒くなる! 妾の顔、まつ黒ぢやない?」ツル子はNに手の平を示した。「どうせ、人になんて遇はないんだから関はないけれど……」
「来る時は、馬車のところまで誰かゞ迎ひに行つたんだつたね?」
「さう──。あの時は妾はとても怖かつたわ、先に手綱を引いてゐる人がゐてさへ……。Nさんは慣れてゐて、妾のことを笑つたりしたわ、ねNさん……」
「風がなんにもない。」とNは湖の上を眺めて呟いた。滝は、これは湖水と云ふべきかしら、寧ろ沼なのではないかしら。などといふことを、いつも其処を通る度に思ふ通りに考へたりした。
一人宛交り代りに乗つたら如何か? と馬をひいてゐる山番がツル子とNにすゝめたが彼女等は歩く方が好いと云つた。藪蔭の草の上に腰を降して馬車を待つた。青い野菜畑を此辺に来て始めて眼にした。
滝は、重い方の袋を背中につけて、
「間がありさうだからH村まで行かうか、彼処なら馬車のちやんとした停車場で二十分位ゐは停つてゐるんだから。」と云つた。
H村までは五六町しかなかつた。そして彼等は、山番と帰る日の大体の時間を更に約束し合つて別れた。
Nとツル子は袋をステツキにとほして後先きをぶら〳〵と荷なつて行つた。
「線路を伝つて行くんだから大丈夫ね。」
「何処でだつて停めて呉れるんだよ、此処の馬車は──」
H村の立場からG峠までは、山頂の大きな盆地なのだが昇りの勾配なので、馬車はこの立場で馬を取り換へるのであつた。
彼女等は停車場の前の涌水で顔を洗つた。彼女等があまり手間取るので滝も、袋を降して口を嗽いだり汗を拭つたりした。彼女等は丹念に──彼女等の顔は洗ふところなどを見たこともない彼は、それらの彼女等のものごしが妙に物珍らしい気がした。K町まで行かなければ化粧道具がなくて困つたなどと云つた。滝には、彼女等が化粧のことを口にしたのが酷く唐突に響いた。
彼は、厄介なことになつたといふ思ひがだん〳〵はつきりと感じられて来た。彼女等は、山の生活が気に入つてゐて夏中を彼処で送りたいと云つてゐたが、その間には、この大懸りな風呂通ひが何辺か繰り返されるのであらうと思ふと彼は、非感情的な迷惑が想像された。……さうかと思ふと、ふと、今迄気づきもしなかつた妙に薄ら甘いやうな懶さが、何となく花やかな翼に胸先きで撫でられでもするやうな悩ましさともつれて、軽い恍惚を覚えた。
これは! と彼は、人知れず愕然として首を振つた。慌てゝ彼は、そこから眼下に眺められる湖の上に眼を反らせた。湖は一面に白く光つてゐて、まぶしかつた。
馬車は三人が辛うじて腰かけられる席しかなかつた。彼は、両手で箱の天井を支へて立つてゐたが、Nが掛けられると云つて促がしたのでその隣りに割り込んだが体を斜めにしてゐなければならなかつた。
「早くK町へ着くと好い……」
「妾、これでも暑いわ。」
「着物は間違ひなくK町へ届いてゐるでせうね。」
「勿論──町の中を遠足姿で通るのは妾何だかきまりが悪くつて!」
「……暑くなるだらうことを妾は心配してゐるの。」とNはわらつた。Nとツル子は窓から外へ顔を出して小声でそんなことを囁き合つた。──言葉つきまでが山で親んだ彼女達とは何となく違ふやうな気がする。馬車の中だからか知ら……滝は、そんな妄想に囚はれてゐた。余程窮屈だつたと見えてNは時々身悶えをしながら、薄ら笑ひを浮べると、杖を頬にして首垂れてゐる滝を振り返つた。厭に白いNの顔を、彼は鼻先きに感じた。彼は、乾草の香りに胸をつかれて咽ぶ見たいな息苦しさを感じた。二三度経験したことのある酒での二日酔の朝感じるやうな、焦々とした後悔、奥行のない厭はしさ、怯れ、罪悪感、不健全な鼓動の音──などと彼は、そんな風に自分の心持に名称を与へて見たりした。そして彼は、彼女等に刻々と深まつて行く見たいな隔りを感じた──その癖孤独の己れが馬鹿に悄然と見えたりした。
御者は鞭を鳴した。馬の蹄の音が、狂ほし気に喘ぎながら樽を叩く音のやうに乱雑に鳴つた。それを彼は、直接頭に感じて、カーツとした。
「降りよう、歩いてゐる方が速いかも知れない。」滝は、それだけの言葉を辛うじて当り前に云ひ放つと、慌てゝ箱から飛び降りた。
その方が速くもなかつたが、大差もない──彼は、馬車の傍を杖を曳きながら歩いた。ずつと、爽々しかつた。車に酔つたんだ──と彼は思つた。湖は、もう見えなかつた。見渡す限り樹木の一本もない広漠たる草原だつた。波のやうにうねつてゐる丘にはさまれた小径を、馬車は物憂い音をたてゝ辛うじて逼つて行つた。窓から腕を延して土堤に咲いてゐる草花を摘んだりする人があつた。
Nとツル子も箱から降りて来ると彼と横隊になつて歩いた。彼は酷く道学家めいた口吻で、目の先の馬に就いて話した。
「でも、三人降りても別段馬車は速くもならないわね。」とツル子が云ふと彼は酷く苦々し気に口を歪めて、
「気分の上で此方が楽ぢやないか、いくらか──」などゝ呟いた。
Nは、参謀本部製の地図をひろげて、滝やツル子に謀りながら、赤鉛筆で印をつけたりした。
G峠に着くと馬車は長い休憩をした。休み茶屋の前には長い竿の上に赤い旗が翻つてゐた。遥か眼下にK町らしい端が、眼を凝して見ると辛うじて窺はれた。此処からK町までは、大きな山の滑らかに急な二里あまりある赤土色の斜面であつた。螺線になつた馬車道が、山腹を一筋はつきりと流れてゐた。
此処からK町までは、昇る時には四時間近く馬に揺られなければならないが(歩けば二時間あまりだと云はれてゐる。)降りには、正しく一瀉千里の勢ひで、三十分で達してしまふのである。馬車は、それ自体の重みだけでウオーター・シユウトの通りに速かに滑つて行くのである。滑り過ぎるために、馬は車体の背後につなぎ直されて、ブレイキの役目になるのであつた。
御者は鞭を座席の下に投げ込んで、ラツパばかりを鳴らし続けた。滝は、こゝでも、括られた綱に無理矢理に引きずられて、駈るだけは、競馬の馬のやうに走らせられる背後の馬のことを思ふと堪らなかつたが、今度は降りるわけには行かなかつた。馬車道の半分の近さであつても、若し降りて、この馬車に後れぬやうに馳け降りるとしたら、その人は何れ位ゐの速さで駆け続けなけれはならないだらうか──彼は、そんなことを思つた。
彼女達は、この馬車の無技巧的に素晴しい速力に恍惚として、胸をさすつた。手に汗を握つて子鳥のやうに縮まつたり、笑つたりした。靴の先きをバタ〳〵と騒がせて同席の人々に迷惑をかけたりした。馬車は、螺線の針金道を転げて行く玩具の玉転がしの玉に等しかつた。
見る間に窓先きの地平線が幕のやうに眼界の上に消えると、小さな森に達した、社が見えた、麦畑や農家が直ぐ眼の前に現れて、馬車の歩みが平調に戻つて来た、もうK町へ近かつた。また馬が前につなぎ直されると、もう、すつかり平坦な道を馬車は決勝点を越えた後の勇士のやうに、悠々として闊歩してゐた。橋を渡り、堤に添つて進んだ。
K町の町はづれの終点で馬車を降りると彼等は乗合自動車に乗つて、ステーシヨン前の西田へ運ばれた。滝が、時計を見ると四時過ぎだつた。
「予定通りに間に合つてよかつた。これなら四時半の汽車には乗れるね。」
二階の座敷へ通つてから滝が、さう云ふとNとツル子は、顔を見合せてゐるばかりで返事をしなかつた。
「四十分とかのでは遅い?」
「いゝえ。」とツル子が、眼を視張つて否定した。落着いて彼が訊ねて見ると、四十分や一時間では到底仕度が出来ない、ホテルには此処から電話をかけて置いて貰ふから夜になつても関はない──と云ふのであつた。
そして彼女等は、別の部屋へ着物を換へに立つて行つた。滝も預けてあるトランクを取り寄せて、其処で独りで着換へた。宿の者に訊ねて見ると、もうセルか袷せの着物で好いだらうといふことだつた。彼のそんな着物は届いてゐなかつた。時々この町へ来る時の着換へにしてゐた冬の紺絣の着物より他はなかつた。ちよつと彼は困つたが、仕方がなかつたので、薄いシヤツを一枚女中に買つてもらひ、下着や胴着を脱して、それを着た。
彼は、待ち遠しかつたので座蒲団を枕にして寝転んでゐると、うと〳〵と眠くなつた。
滝は、ゆり起されて、ハツと眼を醒した時に、もう少しで、思はず頓狂な声をあげるところだつた。眼の前に現れてゐるツル子とNの姿が、真実夢のやうに燦然と輝いた。
「…………」
ツル子の丈は、急に伸びたのではないか? と疑はれた。コテをあてた髪、念入りに化粧された顔、派手な模様の着物、そして彼は、ツル子が嘗てそんな格構の帯をしめた姿は見たこともない──。Nは、縁側の籐椅子に凭つて、凝つと婦人らしい微笑を浮べてゐた。真ツ白な、露はな胸に冷しさうな首飾りを滝は、見た。ブラシをあてたNの睫毛が、濡れてゐるやうな艶をふくんで見えた。
「未だ時間はあるわね。」Nの傍に立つてゐるツル子は手袋をつけた手で、帯の間の時計を見た。
──夢の気分が醒めた後でも滝は、どうしてもこれが山で親んだ(いや彼が山へ行く前に知つてゐる彼女等とも)思へなくなつた。平気で手をとつたり、髪の毛をひつぱつたりしたつい昨日までのことが、不思議な気がした。
「学校の休みにしては何だか変な気がしたが、さう云へば君達はもう去年学校は卒業してゐたんだつたね。」漸く平静になつたが彼は、今更のやうにそんなことを云つた。
「何云つてんのさ、突然! あんた見たいな落第家とは違ふわよ。」ツル子は、手の甲で唇のあたりを圧へるやうなシナをつくつてホヽヽヽヽと笑つた。
「親父の手紙に Student と書いてあつたので、僕は──」
「Student には違ひないわよ。」ツル子は、妙に蓮葉な調子で歯切れ好く叫んだ。そして滝の悪い凝視を感じたかのやうに、
「知らないわよ、ねNさん。」と云ひ放つと、あたりには頓着なく専念に手鏡を眺めてゐるNの椅子の背後にもたれかゝつてツル子もそれを覗き込んだ。
「Sに着くと、あの町はづれの海岸のホテルまで歩くんだね。あの町は、すつかり都合風だね。そんな格構ならあの町を歩くのも好いだらうよ。」滝は、少しばかりの皮肉を込めてさう云つた。するとNは、歩く! と聞いてギヨツとしたかのやうに振り返つて、
「俥か自動車があるんでせう。」と云つた。あると云ひ切るべきところを彼女は、慌てゝ云ひ間違へたのであつた。そして、足許のボール箱の蓋をあけて、新しい緑色の塗り靴を示した。
玄関に出るとツル子も、東京の百貨店から送られて来たパラソルを手にして新しいフエルト草履をはいた。
汽車に乗つてからも滝だけが黙り勝ちだつた。彼は、己れの心の何処にも山にゐる時のやうな清新な力を感じることが出来なかつた。「籠る覚悟」だとか、「孤独と睨み合ひをする決心」だとかなどと武張つて、哲学家にでもなつたかのやうにヒロイツクな憧れを持つたのも、源を洗つて見れば愚かな青年が不図したハズミで衒学家に変つたり、厭世思想を抱いたりする浅薄な、至極ありふれた〝Girl-shy〟の一種の反動に過ぎなかつた──彼は、それだけの説明で一言の許に片附けられるらしいあの自分を思ふと、どんなに傍から、「まさか──」「それ程馬鹿ではないつもりだ。」などと声援しても、堪らない冷汗ばかりに沾はされるだけだつた。と云つて彼は、自分の心の収めどころが何処にもなかつた。
さうだつた! と決めてしまふことは、たゞあの自分の姿がテレ臭いだけで、大した悲しみも伴はないのであるが、直ぐに迫つて来る心の空虚が怖ろしかつた。
この先の、山での彼女達を交へた自分の生活を、彼は想像することも出来なかつた。「孤独」は、もう想つても厭だつた。──彼女等が山を引き上げる日に、同時に自分も其処を引き上げずには居られまい、と思つた。彼は、Nとツル子のどちらが好きかと訊ねられたとしても返答の仕様もない、そんな烏耶無耶な自分が悲しかつた。終ひには彼は、若し何んな種類の女でも自分に少しばかりの特別な好意さへ示して呉れたならば、自分は屹度その女と熱烈な恋をするに違ひない──そんな途方もない出たら目の夢を、切実に描いてゐた。
「夜になつても大丈夫?」
「おゝ、夜中だつて──妾知つてゐる!」
小声で湯のことを話し合つてゐる彼女等の言葉が、厭にはつきりと滝の胸を打つた。
S市に着いて、俥に(滝が自動車は厭だと云つたので──)乗らうとした時にNが、
「まア!」と叫んで彼の背中を叩いた。「御免なさい。山のヒロソフアのヒルムを忘れて来てしまつた。」
「あら、妾も気がつかなかつた。」
「失敬な!」と滝は云つた。聞いた刹那に彼は、吻ツとしたのである……ヒロソフアとNが云つたのに無性な羞恥と反感を覚えて顔を赤くしたのであつた。「チエツ! いや驚かないでも好いあんなものは、見るのも厭だよ。」
「どうして?」
「…………」
「まア、帽子は?」ツル子が彼の頭を指差した。汽車に忘れてしまつたと彼はドキリとして気がついたが、うつかり何か云ふと飛んでもない妙な言葉を発してしまひさうな懸念を感じて、しつかりと落着いたつもりで、
「だつてあんな冬帽子をかむつて歩けやしないでせう、此処に来て麦藁帽子を買ふつもりで、わざと忘れて来たんだよ。ちよつと待つてゐてお呉れな、今直ぐ買つて来るから。」と性急に云ひ終るやいなや彼は、大股で広場を横切つて行つた。
底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新進傑作小説集12 瀧井孝作集 牧野信一集」平凡社
1929(昭和4)年12月15日
初出:「太陽 第三十三巻第四号」博文館
1927(昭和2)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2011年5月6日修正
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