娘煙術師
国枝史郎
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京都所司代の番士のお長屋の、茶色の土塀へ墨黒々と、楽書きをしている女があった。
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜にしくものはなしと、歌人によって詠ぜられた、それは弥生の春の夜のことで、京の町々は霞こめて、紗を巻いたように朧であった。
寝よげに見える東山の、円らの姿は薄墨よりも淡く、霞の奥所にまどろんでおれば、知恩院、聖護院、勧修寺あたりの、寺々の僧侶たちも稚子たちも、安らかにまどろんでいることであろう。鴨の流れは水音もなく、河原の小石を洗いながら、南に向かって流れていたが、取り忘れられた晒し布が、二筋三筋河原に残って、白く月光を吸っていた。
祇園の境内では昔ながらの、桜の老木が花を咲かせて、そよろと吹き過ぎる微風につれられ、人に知られず散っていたが、なやましくも艶めかしい眺めであった。
更けまさっても賑やかであると、いいつたえられている春の夜ではあったが、しかし丑満を過ごした今は、大路にも小路にも人影がまばらで、足の音さえもまれまれである。
二条のお城を中心にして、東御奉行所や西御奉行所や、所司代などのいかめしい官衙を、ひとまとめにしているこの一画は、わけても往来の人影がなくて、寂しいまでに静かであった。
と、拍子木の音がしたが、非常を警めているのでもあろう。丸太町あたりと思われる辺から、人をとがめる犬の吠え声が、猛々しくひとしきり聞こえて来たが、拍子木の音の遠のいたころに、これも吠え止めてひっそりとなった。
一軒のお長屋の土塀を越して、白木蓮の花が空に向かって、馨ばしい香いを吐いている。
くもるとも
なにかうらみん
つき今宵
はれを待つべき
みにしあらねば
紅色のかった振り袖を着て、髪を島田に取り上げている、まだ十八、九の年ごろの娘が、一軒一軒お長屋の土塀へ、楽書きをして行く文字といえば、このような一首の和歌なのであった。
京都所司代の役目といえば、禁闕を守衛し、官用を弁理し、京都、奈良、伏見の町奉行を管理し、また訴訟を聴断し、兼ねて寺社の事を総掌する、威権赫々たる役目であって、この時代の所司代は阿部伊予守で、世人に恐れはばかられていた。したがってこれに仕えている、小身者の番士なども、主人の威光を笠に着て、威張り散らしたものであった。
そういう番士のお長屋の土塀へ、若い女の身空をもって、いかに人目がないとはいえ、楽書きを書いて行こうとは、白痴でなければ狂人でなければならない。
しかし娘は白痴でもなければ、また狂人でもなさそうであった。書く手に狂いがないばかりか、書かれた文字にも乱れがない。
こうして同一の一首の和歌を、五軒あまりのお長屋の土塀へ、しだいしだいに書いて行ったが、六軒目のお長屋の土塀の面へ、同じその和歌を書こうとした時に、
「女子よ」と呼ぶ声が背後から聞こえた。
無言で振り返った娘の眼の前に、一人の供侍を従えて、おおらかにたたずんでいる人物があったが、道服の下から括り袴の裾が、濃紫に見えているところから推して、公卿であることがうかがわれた。
「およびになりましたのは妾のことで? 何かご用でござりますかしら?」
りっぱな公卿にとがめられても、娘はたいして驚こうともしないで、平然として訊き返した。
と、呼びかけた公卿のほうでも、あえて突っ込んでとがめようとはせずに、これも平然たる態度と口調で、
「なんと思うてそのような所へ、そのような和歌を楽書きするぞ? 風流にしては邪である。悪戯にしては度が過ぎる。そちの思惑を聞きたいものだ」こういって相手の返辞を待った。
と、娘は月の光の中で、大胆に艶めいた笑い方をしたが、
「決して風流ではござりませぬ。さりとて悪戯でもござりませぬ。ただ書きたくなりましたので、楽書きをいたしましてござります」
こういって依然として大胆に、艶めいた笑い方を公卿へ見せた。
しかしどうやら公卿のほうでは、それを諾おうとはしないようであった。
「麿にはそのようには思われぬよ。何らか深い思惑があって、楽書きをしたものと思われるよ。麿に遠慮をすることはない。そちの思惑を話すがよい」こういって娘の顔をのぞいた。
しかし娘は同じように、大胆な艶めいた笑い方を、顔一杯に漂わせるばかりで、答えようとはしなかった。
と、そういう娘のようすが、公卿にはいよいよ審かしくも、疑わしくも思われたらしい、胸と胸とが合わさるばかりに、近々と娘へ近づいたが、
「そも、そちの名は何というぞ?」
「はい、粂と申します」
「で、年は幾歳であるか?」
「はい、十九にござります」
「ここの長屋をいずこと思うぞ?」
「所司代様のご番士方の、組お長屋と存じます」
「それと知っていて楽書きをしたか?」
「はいはい、さようにござります」
「恐ろしいとは思わずにな?」
「なんの恐ろしいことがござりましょう。この妾にとりまして、恐ろしくも尊くも思われますお方は、お一方のほかにはござりませぬ」
「それが聞きたい、申してみやれ?」
「はい、禁裡様にござります」
「…………」
りっぱな公卿はその言葉を聞くと、襟を正して粛然としたが、
「改めてそちに訊くことがある。『くもるとも、なにか怨みん、月今宵、晴れを待つべき、身にしあらねば』──この和歌の意味を存じておるかな?」
「存じておりますでござります」
「和歌の詠者も存じておるか?」
「存じておりますでござります」
「どのような場合に詠ったものか、その点もそちは存じておるかな?」
「存じておりますでござります」
「では改めてもう一度訊くが、そちとこの和歌の詠者とは、有縁のものと思われるが、それに間違いはあるまいな」
「有縁のものにござります」
「さようか」といったがりっぱな公卿は、顔をゆすってうなずいてみせた。「所司代の番士の長屋の土塀へ、楽書きをした心持ちも、これでおおよそわかって来た。反抗的に書いたのであろう?」
「御意の通りにござります」
「うむ」というとりっぱな公卿は、また顔をゆすってうなずいてみせたが、「そち、この麿を存じているかな?」
「徳大寺様と存じまする」
「いかにも」と徳大寺大納言家は、それを聞くとまたもやうなずいてみせたが、「麿とその歌の詠者とは、昔多少の縁があった。自然そちとも有縁といえよう。……麿の別邸は烏丸にある。いつなりと訪ねて参るがよい。そちの力にもなるであろう。麿にも頼みたいことがある」
「お訪ねいたしますでござります」
娘はうやうやしく一礼したが、そのまま顔を上げなかった。感泣をしているのかも知れない。
「くわしいそちの身分なども、まいった時に訊ねるとしよう」
こういいすてると徳大寺大納言は、供侍を見返ったが、「青地、青地、清左衛門!」
「は」と身近く寄り添ったのは、公卿侍の青地清左衛門であって、二十八、九歳の優男であった。「何ご用にてござりまするか?」
「今夜のことは秘密にいたせ」
「かしこまりましてござります」
青地清左衛門を従えて、霞の中へ悠々と、徳大寺大納言家の歩み去った後は、お粂という娘一人だけとなった。
「徳大寺様を手の中へ入れた。金ちゃんに話したら嬉しがるだろう。その金ちゃんが何をしているやら。いまだに姿を見せやしない」
いやこのころ金ちゃんは、千本お屋敷とご用地との露路で、片耳のない大男と、妙な立ち話をやっていた。
「で、お前さんの名はなんというんで?」こう訊いたのは金ちゃんである。醜男で小兵で敏捷らしい。
「へい、私の名は鴫丸というんで」こう答えたのは片耳のない、大兵だが魯鈍らしい男であった。年格好は二人ながら、二十七、八歳と思われる。
「へー、鴫丸? いい名だなあ、が、柄とは釣り合わないよ」
「皆様もそうおっしゃいます。──が、これは芸名なので」
「フーッ、芸名? これは呆れた。ではお前さんは芸人なので?」
「芸人衆様でございますよ」
「ふざけちゃアいけない、何が『様』だ。がまあまあそれはどうでもいい。何を商っているんだい?」
「え? 商い? これはどうも、私は芸人衆様でございますよ」
「だからよ、訊いているじゃアないか。どんな芸を商っているのかってね」
「あッ、なるほど、そういう意味なので。……へいへい軽業を商っております」
「ハーン、そうか、軽業か」
「それから手品も商っております」
「おや、二色もやるのかい」
「それからお芝居もいたします」
「凄い芸人があったものだ」
「ええと、それから女相撲なども」
「フーッ、とほうもない芸人衆様だ」
「ええとそれから猿芝居なども」
「おい、いい加減で許してくれ」
「長崎渡りの奇術なども、幕間幕間に演じます」
「で、お前さんは何役なので?」
「口上いいでございますよ」
「そんなものだろうと思っていた。舞台へ上がる柄じゃアない」
「ところがこれが大切な役で」
「面妖だね。なぜだろうね」
「へい、お客様を笑わせます」
「悪ふざけをしてくすぐるんだろう」
「軽い口上を申し上げまして、お上品に笑わせるのでござりますよ」
「お妻さんというのはどういうお方で?」
「女太夫さんでございますよ」
「ははあお前さんの一座にいなさる?」
「へいへいさようでございますよ」
「で、どうしてお前さんには、『お妻さんお妻さん』と泣き声を上げて、うろつきまわっていなすったので?」
「へい、お客さんに連れられまして、京へ来たからでございますよ」
「ははあ逃げたと、こう思って、それで探しに来なすったので?」
「へいへいさようでございますよ」
「が、大丈夫帰りましょうよ。女太夫がお客さんと一緒に、どこかへしけ込むというようなことは、ざらにあることでござりますからな。いずれは戻るでござりましょうよ。そいつをいちいち追っかけていたでは、女太夫はやりきれますまい」
「それがそうではございませんので」
「へー、なぜだね、そうでないとは?」
「お妻太夫さんは情女なので」
「情女? へー、誰の情女なので?」
「この鴫丸めの情女なので」
とうとう金兵衛は吹き出してしまった、「ひどい目に逢えば逢うものだ。こんなことなら親切気を出して、声など決して掛けるのじゃアなかった」
仲間のお粂に逢おうという、そういう約束があったがために、車屋町の隠れ家を出て、烏丸、室町、新町、釜座、西洞院の町々を通って、千本お屋敷とご用地との間の、露路まで急いで歩いて来たところが、そういう道々を相前後して、片耳の大きな図体の男が、泣くような声を響かせて、「お妻さんお妻さん」と呼んでいるので、なんだか不思議な気持ちもしたし、またいじらしくも思われたところから、ついつい声をかけたところ、惚気を聞かされてしまったのであった。
「が、それにしてもよくしたものだ、こんな片耳の醜男にも、情女があるというのだからな」──忙しいのも打ち忘れて、金兵衛は心をノンビリとさせた。「よしよし根掘って訊いてやろう」──で金兵衛は真面目顔をして訊いた。
「いずれお妻さんという女太夫さんは、美しいお方でございましょうね」
こう加工的の真面目顔をもって、金兵衛に訊かれて鴫丸という男は、相好を崩してニタニタ笑いをしたが、
「素晴らしい美人でございますよ。たとえば吉祥天女様のようで」
「いやいやそうではありますまい」
いよいよ金兵衛は面白くなった。で、揶揄的になろうとする、そういう心持ちを苦心しておさえて、ますます加工的に真面目顔をしたが、
「吉祥天女様というような、仏くさいお方ではありますまい。松浦佐用姫様というような、仇っぽい色っぽいお方のはずで」
「はいはいそうでございますとも、佐用姫様のように仇っぽい女で」
油をかけられていることも知らずに、鴫丸という男は嬉しそうに、それこそ真面目に答えるのであった。
それがどうにも金兵衛にとっては、面白くもあればおかしくもある。で、いよいよ図に乗った口調で、
「やつがれの思うところによれば、そのお妻さんという女太夫さんは、佐用姫様のように色っぽいと一緒に、佐用姫様のように操が正しいはずで」
すると片耳の鴫丸という男は、うなだれて足もとを睨みつけた。なんとなく悄気たようすである。
「おや」と金兵衛は意外に思ったが、揶揄を止めようとはしなかった。「で、やつがれの思惑によれば、お前さん一人だけを大切に守って、決してほかへは仇し男などは、お妻太夫さんはこしらえないはずで」
しかし片耳の鴫丸という男は、依然として足もとを睨みつけているばかりで、返辞をしようとはしなかった。図抜けて大柄な男だけに、悄気返っているそういう姿が、おかしみと憐れさを二倍にして見せる。
「ところで」と金兵衛は吹き出しそうになる心を、大変な努力で制しながら、「お妻太夫さんとお前さんとは、いつごろから深い仲になりましたので?」こう訊いてしばらく間を置いて、相手の男の返辞を待った。
と、鴫丸という片耳の男は、ようやく臆病そうな顔を上げたが、「私のほうだけで想っているばかりで、お妻太夫さんのほうでは想っていないので」
「え?」と、それを聞くと金兵衛は、わざと大仰に驚いて見せたが、
「なんですかい、それでは、片恋なので」──しかしもちろん心の中では、「そんなことだろうと思っていたよ」とこんなように思っているのであった。と、鴫丸は意外に順直に、
「へー、さようで、そんな塩梅なので」
それからまたも首を垂れて、じっと足もとを睨みつけた。
揶揄しようという心持ちが、そういう鴫丸のようすを見たために、にわかに金兵衛の心から消えた。「もうひやかすのは止めにしよう。正直な順直な好人物らしい。そうしてとうてい及ばない恋に、夢中になっているらしい。こういう男が思い詰めると、どんな事をやり出すかわからない」つまりこんなように思ったからであった。で、ひょいと話を変えた。
「で、只今はお前さんの一座は、どこで興行をしておりますので」
「大津の宿でございますよ」
「それじゃア大津からこの京都へまで、お妻太夫さんを探しに来たので?」
「どこへでも探しにまいりますよ」
「大変な執心でございますなあ」
「死ぬまで私は思い詰めます。そうして私の死ぬ時には、お妻太夫さんも殺します」
金兵衛は急に寒気がした。「白痴の一念というのでもあろう。思い込まれたお妻という太夫にも、俺は大いに同情するよ」──もう金兵衛は別れようと思った。
「では鴫丸さんご免なすって、これでお別れをいたしましょう」
「これでお別れをいたしましょう。いろいろ有難うございました」
朧の月光と紗のような霞とで、練り合わされているがために、千本お屋敷とご用地との露路は、煙りの底のように眺められたが、その中をトボトボと鴫丸の姿が、人間の殻のように歩いて行く。と、曲がって見えなくなった。小堀屋敷のほうへ行ったようである。
「とんだ道草を食ってしまった。どれ急いで走って行こう。お粂姐ごが待っているだろうに」
金兵衛は小刻みに走り出したが、下立売から丸太町を抜けて、所司代の番士のお長屋の、塀の側まで間もなく来た。と、お粂が立っていた。
「金ちゃん、どうしたんだよ、遅かったじゃないか」
息せき切って走って来た、金兵衛の姿を迎え取るようにして、このように声をかけたのは、徳大寺卿を送ってから、半刻あまりもたたずんで、じれ切っていたお粂であった。
と、金兵衛はお粂の前へ、ピョコリと一つお辞儀をしたが、「姐ご済みません、あやまります。実は道草を食いましてね」
「道草?」と聞き返したがお粂の声は、不安なものを持っていた。
「それではなにかい、てきらの一人と?」
「なんのなんの」とそれを聞くと、金兵衛は手を振って払うようにしたが、「そんなたいした道草の種なら、済みませんなんて謝罪りはしません。ただ道化者に逢っただけで」
「道化者? ふうん、どんな道化にさ?」やはりお粂は不安らしい。
「へい、こういう道化者なので」思い出してもおかしいというように、金兵衛は一件を話し出した。
「お妻さんという綺麗な女太夫さんに、片耳で大男で縹緻の悪い、鴫丸さんという口上いいが、片恋なるものをしていましてね、深夜の京都の町々を『お妻さんお妻さん』と呼び歩きますので、惻隠の情を起こしましてね、私が事情をたずねましたところ……」
「およしよ」とお粂は止めてしまった。「相変わらず暢気な金ちゃんじゃアないか。お前さんそんなものにかかりあっていたのかい」
「ざっとそういった塩梅で。もしなんならもっと詳しいところを……」
「よしておくれよ、聞きゃアしないよ」
お粂はなんとなく不快そうであった。と、そういう不快そうなお粂の、浮かない気分が感ぜられたらしい、金兵衛もいくらかてれたように、しばらくの間無言でいたが、
「それはそうと姐ごどうしたんで、今夜ここへ来るようにと、私に伝言をなすったので、そこでやっては来たんですが、どういうご用がおありなさるので?」
「ああそう、そう、話してあげよう」
ようやく機嫌をなおしたらしい、お粂は気軽そうにこういったが、かたわらに立っていた長屋の土塀へ、ヒョイとばかりに指をさした。
「ね、ご覧よ、楽書きがあるから」
──で、金兵衛は土塀を見た。
「おッ、これは例の和歌だ」
「そうともそうとも例の和歌だよ」
「で誰が楽書きをしたんですい?」
「ついお前さんの鼻の先の人さ」
「あッ、それじゃお前さんだ」
「あいよあいよ妾が書いたのさ」
「なんで?」と金兵衛は怪訝そうにした。
「ああさ、大物を手に入れるためにさ」
「大物? へーい。どなたのことで?」
「徳大寺大納言公城様さ」
「え?」
「そうなのさ!」
「そいつア本当で?」
「どうだい細工は?」
「りゅうりゅうですなあ」で、二人は寄り添ったが、互いにひそひそとささやき合った。とお粂が声を上げた。
「……といったようなやり口で、徳大寺様のご注意を引いて、わざとお声をかけさせて、そうしてお心を引き付けて、妾というものを植えつけたのさ」
「そうした結果というものが……」
「出入りを許す、訪ねて参れ! というところへまで漕ぎつけたのさ」
「姐ご、明日にもお訪ねしましょう」ここで金兵衛は嘆息を洩らした。「いろいろの芸当を持っているので、姐ごは全く幸せだよ」
「さあ帰ろうよ」
「お供しましょう」
依然として四辺は月の光と、紗のような霞の世界とであったが、そういう世界を分けるようにして、お粂と金兵衛とが立ち去った時に、木蓮の花の咲いている、一軒のお長屋の窓の扉が、──その時まで細目に開いていたが、この時一杯に押しあけられて、主人の矢柄源兵衛の顔が、戸外へ黒く突き出された。
「すっかり見もし聞きもしたよ。組頭へさっそく言上しよう」
──で、お粂と金兵衛との二人が、立ち去ったほうを見送ったが、以上を物語の発端として、次回から序曲にはいることにしよう。
三回ばかり足を早めて書こう。
ここは京都の烏丸通りの、徳大寺別邸の裏庭である。植え込みがしげく繁っていて、一宇の亭が立っている。時刻は夜で星がある。
亭で話している二人がある。一人は主人の徳大寺卿で、一人は公卿武士の清左衛門であった。
「これこそ大切の巻き奉書だ、留書き奉書といってもよい。大先生へお渡しするよう」
「かしこまりましてござります」
「で、すぐにも出立するよう」
「かしこまりましてござります」で、清左衛門は植え込みをくぐって、どことも知れず立ち去ってしまった。
と、その時一所で、物のうごめく気配がしたが、夜鳥か? それとも風の音であろうか? いやいや人間がいたのである。
番士の矢柄源兵衛であった。
「青公卿どもが懲りようとはせずに、またも陰謀を企てているそうな。ご城代様にはお心にかけられ、この俺を隠密に仕立て上げて、ここの邸へ入り込ませたが、大変な話を聞いてしまった。……よしよしこれから追っかけて行って、叩っ切って奉書を奪い取ってやろう」
で、庭から忍び出た。
徳大寺卿は知る由もない。亭に腰をかけて黙念としている。
と、二つの人影が、植え込みをくぐって現われて来た。
一人は美しい娘であって、一人は変面の小男であった。
「ああ参ったか、ご苦労ご苦労、用というのはほかでもない、今大切の巻き奉書を、青地清左衛門へつかわして、大先生へもたらせたが、道中のほどが心もとない。で、そのほうたち二人へ命ずる、それとなく清左衛門を警護するよう。なお江戸の地へ着いたならば、大先生の指揮の下に、何かと事を運ぶよう。これだけの用事だ、さあさあ行け」で、娘と小男とは、一礼をして立ち去ったが、後は徳大寺卿一人となった。「万端うまく行けばよいが」心にかかるようすである。
卯木の花が咲いている。石榴の花が咲いている。泉水に水禽でもいるのであろう、ハタ、ハタ、ハタと羽音がする。
「皇室の衰微もはなはだしい。王覇の差別もなくなってしまった。どうともして本道へ返さなければならない」徳大寺卿は微吟をした。
忠怠於宦成、病加於小愈。禍生於懈惰、孝衰於妻子。
細い美しいその声が、花木で匂う夜気の中を、絹糸のように漂って行く。
さてその日から数日たった。
ここは箱根の山中である。
一人の武士が急いで行く。と、背後から一人の武士が、小走って来てすれ違ったが、抜き討ちに一刀に叩ッ切った。
悲鳴、血汐、それっきりであった。叩っ切った武士は手をのばすと、死骸の懐中から巻き奉書を出した。
「うむ、これでいい。……お届けしよう」で、その武士の走り去った後は、死骸ばかりが残っていた。
日がテラテラと照っている。木々の新葉が光っている。老鶯の声が聞こえている。が、一人の人通りもない。血溜りの中で幾匹かの蟻が、もがき苦しんで這いまわっている。
と、二つの人影が、峠の道へ現われた。
「しまった、姐ご、殺されている。清左衛門様が殺されている」それは変面の小男であった。
「しらべてご覧よ、巻き奉書を」こう叫んだのは娘であった。二人で死骸をしらべたが、巻き奉書のあるはずがない。
「切られたはほんの今し方らしい。切った野郎を追っかけて行こう」
「合点! 姐ご、追っかけやしょう」で、二人ははせ下ったが、追いつくことができるだろうか?
江戸の本郷の一画にりっぱな邸が立っていた。潜り戸をトントンと打つ者がある。
「どなたでござるな、かかる深夜に……」
「京都所司代よりまいりましたるもの、大切の文書をたずさえてござる。至急ご主人にお目にかかりたく、この段お取次ぎくださいますよう」門番のとがめた声に答えて、表の声がこう答えた。
「で、ご姓名はなんといわれる」
「番士の矢柄源兵衛と申す」
「よろしゅうござる。おはいりなされ」で、潜り戸がギーとあいて、源兵衛の姿の吸い込まれた後は、ひっそりとして寂しかった。拍子木の鳴る音がする。遠くで犬の吠え声がする。
で、要するにそれだけであった。
こういう事件のあってから、数日たったある日の夜、大川の流れを屋形船が、二隻音もなくすべっていた。
その一隻の屋形船には、不思議にも燈火がついていない。で、真っ暗な船である。漕いでいる船頭の姿さえ、陰影のように真っ黒だ。
が、お客が一人あった。どうやらみすぼらしい浪人らしい。屋形の中に端坐して、物音を聞いているらしい。
船は下流へすべって行く。
が、もう一隻の屋形船には、行燈が細々とともっている。三人の客の影法師が、屋形の障子へうつっている。
その面ざしがよく似ている。どうやら三人は兄弟らしい。その中の二人は武士であったが、一人は前髪を立てたままの、十七、八歳の少年であった。
「私には兄上のご行動が、奔放に過ぎるように存ぜられます。不安で不安でなりませぬ。少しご注意くださいますよう。少なくも石置き場の空屋敷などへは、あまりお行きになりませぬよう、願わしいものに存じます」
誠実を面に現わして、諌めるようにそういったのは、その前髪の少年武士であった。
が、兄上と呼ばれた武士は、物にかかわらない性質と見えて、聞き入れるようすも見えなかった。
「一つの仕事を仕とげようとするには、相当の危険を冒さなければならない。あの石置き場の空屋敷などは、たいして危険な場所ではないよ。集まってくる連中のなかには、なかなか面白い手合いがある。ああいう手合いと交際るのも、必要があろうというものだよ。それより俺はお前へいいたい、お前こそもう少し元気を出して、ことを大胆に振る舞うがよい。お前の姉の鈴江などは、女ながらも心得たものだ、俺と行動を一にして、いつも俺を助けてくれる。空屋敷などへも一緒に行く。お前にもそのようになってほしい」
兄上と呼ばれた青年の武士は、このようにいくらかたしなめるようにいったが、憎く思っていったのではなくて、弟に覇気を持たせようとして、むしろ慈愛的にいったようであった。
が、弟の少年武士には、かえってそれが不安そうであった。「その姉上のご行動も、私には心配でなりませぬ。やはり女子は女子らしく、おとなしくご行動なさいますほうが、およろしいように存ぜられます」こういってかたわらを振り返った。
そこに娘がすわっていた。二十歳ぐらいの年格好である。快活で無邪気で大胆らしい。
顔の表情や態度でわかる。さっきから黙って微笑をして、二人の話を耳にしていたが、行燈の前へ左手を差し出し、掌に載っている数十本の針の、数を右の指でかぞえ出した。「これが雄針、これが雌針、これが雄針、これが雌針……五十本の針さえ持っていたら、妾にはなんだって怖くはない。……鷲津七兵衛、泥子土之助、根岸兎角、逸見無車、妾は吹き針の業にかけたら、この人たちにだって負けない気だよ」
で、弟を振り返ったが、
「小次郎や、お前さんは優し過ぎるよ。もっとやんちゃになるがいいよ。この妾のようにお転婆におなり」またもや針を数え出した。この船も下流へすべって行く。
一間あまりの距離をおいて、二隻の屋形船がすべって行く。
と、小次郎が気がかりそうに訊ねた。「兄上、どちらへ参られますので?」
「石置き場の空屋敷へ行くのだよ」二隻の船は船首を揃えた。
「石置き場の空屋敷へ行くのだよ」と、兄なる武士に明かされて、小次郎は仰天したらしかった。
で、何かいおうとした。
と、それをおさえるように、兄なる武士はいいつづけた。「鈴江と相談をしたのだよ。小次郎へ勇気をつけてやろう、小次郎へ歓楽を味わせてやろう。それには二人でおびき出して、石置き場の空屋敷へ連れて行くのが、一番手早くてよろしかろうとな。……何もいわずについておいで、そこにはいいものがあるのだから。……そうしてお前は聞くがよい。俺が巷へ呼びかけた声が、どんなに大勢の口々によって、叫ばれているかということを」
しかしどうにも小次郎にとっては、空屋敷へ行くということが、恐ろしくも不快にも思われるらしい。
「いやでござります、いやでござります」身もだえをしていうのであった。
それが鈴江にはおかしかったらしい。明るいあけっぱなしの笑い方をしたが、
「まあまあ一度は行ってごらんよ。悪い所ではないのだから。一度あそこの味を知ったら、私たち二人が誘わないでも、たいがい一人でお前さんから進んで、しげしげ通うようになるだろうよ。……白粉の匂い、口紅の色、カランカランという賽コロの音、お酒、ご馳走、いい争い、悪口、組打ち、笑い声……それでいてみんなが仲がよくて、そのくせみんなが仲が悪くて、しかも元気で活気があって、そうして全体が平和なのだよ」
「そうだよ」
といったのは兄にあたる武士で、莞爾という言葉にうってつけの笑いを、その口端に漂わせたが、鈴江の話の後をつづけた。
「そこへ集まって来る人間こそは、人間の中の人間なのだよ。虚飾だの見得だの外聞だの、ないしは儀礼だのというようなものを、セセラ笑っている人間なのさ。が、他面からいう時には、浮世の下積みになっている、憐れな人間だということができる。で、彼らは怒っているのだ。浮世と浮世の人間とをな。……そうしてそういう人間こそ、本当の人間だということができる。本当の人間とは交際ったほうがいい。いざという場合に役に立つ」
しかしやっぱり小次郎としては、石置き場の空屋敷へ行くということが、どうにも心に染まないらしい。で、頑固にいうのであった。
「いやでござります、いやでござります」しかし小次郎の思惑などに、船はかかわろうとはしなかった。
下流へ下流へとすべって行く。
大川の流れはかなりゆるやかで、そうして水上は暗かった。
しかし対岸の西両国には、華やかな光がともっていた。船宿だの料理屋だの水茶屋だのが、岸に並んでいるからである。水へ向いた室々の窓や障子に、燈火の光が橙色にさして、それが水面に映ってもいた。
三味線の音などもまれまれに聞こえる。
二隻の屋形船はすべって行く。
石置き場のほうへ行くのである。
大川を右へそれたならば、一ツ目橋となるであろう。一ツ目橋の袂から、水戸様石置き場へ上がることができる。
こうして三人を乗せたところの、燈影の暗い屋形船が、一ツ目橋のほうへそれようとした時に、一つの意外な珍事が起こった。
浪人者の乗っている、燈火のついていない屋形船から、一本の小柄が投げ出されて、三人の兄弟の乗っている、屋形船の障子をつらぬいて、薄縁の上へ落ちたことである。
その柄に紙片が巻きつけてある。
「私情から申しても怨みがござる。公情から申せば主義の敵でござる。貴殿に闘いを宣するしだい、ご用心あってしかるべく候。──桃ノ井久馬の息兵馬より山県紋也殿へ」
紙片に書かれた文字である。兄上と呼ばれた青年の武士は、さすがにその眼を険しくはしたが、躊躇しようとはしなかった。同じ小柄へ紙片を巻きつけ、相手の屋形船へ投げ返したが、紙片には文字をこう書いた。「心得て候。山県紋也より」と。
以上の三回を序曲として、いよいよ本筋へはいることにする。
その翌日のことであったが、ニヤリニヤリと笑いながら、西両国の広小路を、人をつけて行く人物があった。
ニヤリニヤリと笑いながら、人をつけて行く人物があった。藍微塵の袷に、一本独鈷の帯、素足に雪駄を突っかけている。髷の形が侠であって、職人とも見えない。真面目に睨んだら鋭かろう。だが、現在はニヤリニヤリと、笑をたたえているがために優しく見える大形眼の、鼻は高いが節があるので、十分りっぱということはできない。特徴のあるのは薄手の口で、これまた真面目に引きしめたならばさぞ酷薄に見えるだろう。ところが今は笑っているので、愛嬌あふれるばかりである。年の格好は四十一、二で、精悍らしく小兵である。
「あ、やりおった、またやりおった。ずいぶん上手にはたくなあ」
口の中でつぶやいてつけて行く。
この人物は何者であろう? 誰かが懐中をのぞいたならば、すこしふくらんだふところの中に鼠色をした捕縄と白磨き朱総の十手とが、ちゃんと隠されてあることに、きっと感づいたに相違ない。そうしてその人はいうだろう「ははそうか、目明しなのか」と。
この人物こそ目明しなのであった。住居は神田代官町で、そうしてその名を松吉といった。そこで綽名して代官松──などと人は呼んだりした。乾児も七、八人持っていて、目明し仲間での腕っこきであった。
「あ、やりおった、またやりおった、ずいぶんりっぱにはたくなあ」
またも口の中でつぶやいたが、依然としてニヤリニヤリと笑い、悠々としてつけて行く。
つけられているのは二人の掏摸で、これがまた変わった風采であった。すなわち一人は女であり、町娘ふうにやつしている。水色かった振り袖を着、鹿子をかけた島田髷へ、ピラピラの簪をさしている。色が白くて血色がよくて、眼醒めるばかりに縹緻がよい。古い形容だが鈴のような眼つき、それがきわめて仇っぽい。で、この眼で笑われたならば、たいがいの男はグンニャリとなろう。
ところで鼻だがオンモリと高く、そうして上品になだらかである、口はというにまことに小さく、その上いうところの受け口でこれがまた非常に色っぽい。ニッと笑って前歯でも見せたら、おそらく男はフラフラとなろう。その年ごろは十八、九で、二十歳までは行ってはいないだろう。身長が高くて痩せぎすである。首なんか今にも抜けそうに長い。
その女掏摸と並びながら、手代ふうの若い男が行く。相棒であることはいうまでもない。どこか道化た顔つきである。薄くて細くて短い眉毛、それと比較して調和のとれた、細くて小さくてショボショボした眼つき、獅子鼻ではないが似たような鼻、もうこれだけでも贔屓目に見ても、美男であるとはいわれない。その上に口が大変物である。俺は自信のある雄弁家だとそう披露でもしているように、やけに大きく薄いばかりか反歯でさえもあるのである。年はそちこち二十八、九か、色浅黒く肥えている。
で、二人を一見すれば、相当大家の商人の娘を、醜い手代がお供して、歩いているということができる。が、二人へ接近して、その会話を聞いたならば、胆を冷すに相違ない。
「姐ご、あいつは関東方で」「そうかい、それじゃア引っこ抜いてやろう」「おっとおっと今度はいけない、あのお侍さんは京師方で」
「そうかいそうかい止めにしよう」などといっているのだから。
さてそのすり方だが見事であった。つまりこんなようにするのである。向こうから武士がやって来る。と、人波に押されたかのように、ヒョロヒョロと女掏摸がよろめいて行って、武士の胸もとへポンとぶつかる。
「とんだ粗相をいたしました。ホッ、ホッ、ホッ、ごめんあそばせ」例の眼で笑い例の口で笑う。と、ぶつかられた武士であるが、ぶつかられた瞬間にはちょっと怒る。
「注意しゃっしゃい! 粗忽千万な!」よくよく見ると美形である。で、ガラリと調子が変わる。「これはこれは娘ごで。大事ござらぬ、ハッ、ハッ、ハッ。もしなんならもう一度でも」それから同僚を振り返って、「拙者非常に幸福でござる」
だが非常にお気の毒である。もうこのころには懐中物は、とうにすられているのだから。
そういう掏摸をつけながら、代官松は捕えようともせずに、悠々と歩いて行くのであった。
「武士ばかりをするのが不思議だよ」これが松吉には不思議なのであった。
「武士ばかりをするのが不思議だよ。いったいどうしたというのだろう? それにさ、も一つ変なことがある。関東方だの京師方だのと、妙な符牒をつけている。どうも俺にはわからないよ。──と、こういうと穏当なのだが、ナーニ俺にはわかっている。だからいっそう眼が放されない」
目前に男女の二人の掏摸が、ボンボン仕事をやっているのを、目明したるところの代官松が、引っ捕えようともしないのは、そういう疑念があるからであった。すなわち二人の男女の掏摸が「関東方だ、京師方だ」と、符牒をつけて分けへだてをして、関東方の武士ばかりを、狙ってするということが、ひどく疑わしく思われるからであった。
「どうやらきゃつらの残党どもが、最近に江戸へ入り込んで来て、何やら策動をしているそうだ。……こいつら二人の男女の掏摸も、なんとなくきゃつらの残党らしい。……取っておさえるのは訳はないが、それよりももう少しつけて行って、はたしてきゃつらの残党なのか、そうでないかを確かめてやろう。そのほうが俺には大事なのだからな」でニヤリニヤリ笑って、二人の後をつけるのであった。
処は名に負う江戸一番の盛り場の両国の広小路である。で、往来の両側には、女芝居や男芝居の、垢離場の芝居小屋が立っている。軽業、落語、女義太夫──などの掛け小屋もかかっている。木戸銭はたいがい十六文で、芝居の中銭も十六文、──といったような安物である。
野天芸人の諸〻も、葦簾を掛けたり天幕を張って、その中で芸を売っている。「蛇使い」もあれば「鳥娘」もある。「独楽廻し」もあれば「籠抜け」もある。「でろでろ祭文」や「居合抜き」「どっこいどっこい」の賭博屋から「銅の小判」というような、いかもの屋までも並んでいる。そういう間に介在して、飲食店ができている。卵の花寿司、鰯の天麩羅、海老の蒲焼き、豆滓の寿司──などというような飲食店で、四文出せば口にはいろうという、うまくて安い食物ばかりを、選んで出している飲食店なのである。
大川に添った川岸には、水茶屋がビッシリと並んでいる。軒を並べているところから、これを一名並び茶屋ともいう。
「梅本」「嬉し野」「浮舟」「青柳」など、筆太に染め出した、浅黄の長い暖簾などが、ヒラリヒラリとなびいている。店の作りが変っていて、隣りの店とのへだてがない。隣り同士で話ができる。「柳原へ出る夜鷹のひととせ、そりゃアとほうもない別嬪で。ためしに買ってご覧なさい」「へいへい昨晩こころみました」「ああさようか、お早いことで」などというような会話もできる。銀ごしらえではあるまいか? そんなようにも思われるほどに、ピカピカ光る大きな茶釜が、店の片隅に置いてある。そこから白湯を汲み出しては、桜の花をポッチリ落とし、それを厚手の茶碗などへ入れて、お客の前へ持って来る。持って来る茶屋女が仇者であって、この土地の名物である。抜けるような綺麗な頸足をして、冷つくような素足をして、臆面もなく客へ見せて、「おや、近来お見限りね」──はじめてのお客へ向かってさえ、こんなお世辞を振りまくのであった。
そういう建物にはさまれて、広々と延びている往来には、今や人が出盛っていた。勤番者らしい武士が行けば、房州出らしい下女も行く。職人も通れば折助も通る。宗匠らしい老人から、侠な鳶らしい若者も通る。ごった返しているのである。時刻からいえば夕暮れ近くで、カッと明るい日の光が、建物にも往来にもみなぎっている。その中で幟がハタハタとひらめき、その中で絵看板が毒々しく輝き、そうしてその中で太鼓の音が、オデデコオデデコと鳴っている。万事が明るく花やかで、そうして陽気で賑やかであった。そういう境地を縫いながら、二人の掏摸がすってまわる、そうしてそれを代官松が、笑いながらつけて歩いて行く。
「あ、またやったなあ、またはたいた。ずいぶん綺麗にはたくなあ。ああも綺麗に仕事をされると、俺といえども感心するよ」感心しながらつけて行く。が、その直後に代官松は、感心してばかりはいられないような、一つの事件にぶつかることになった。というのは群衆を分けるようにして、一人の威厳のある大身らしい武士が、二人の家来を供に連れて、行く手のほうから歩いて来たのを娘姿の例の掏摸が、例のごとくにしてすったからである。
「ありゃア『本郷の殿様』だ! 偉いお方をすりゃアがった。こいつアうっちゃってはおかれない!」
「本郷の殿様」と呼ばれた武士は、まことに威厳のある風采であった。年の格好は五十歳あまりで、鬢髪に塩をまじえている。太くうねっている一文字の眉は、臥蚕という文字にうってつけである。眼は細くて切れ長で、眼尻が耳まで届いていると、そうもいいたいほどである。その眼の光の鋭いことは! まさしく剃刀の刃であった。鼻の附け根には窪味がなくて、額からすぐに、盛りあがっている。小鼻が小さくて食い上がっている。で、そのために高い鼻が、完全の鉤鼻をなしている。鼻の下から唇へつづく、人中の丈が短くて、剣先形をなしている。すなわち貴人の相である。ところが口はどこにあるのだろう? そんなにもいわなければならないほどにも、唇が薄くて引き締っていた。で、一見酷薄に見える。が、左右の端に、深い笑窪ができているので酷薄の味を緩和している。顎の中央を地閣というが、そこの窪味がきわだって深い。これは剣難の相である。がそういう欠点も、広い額、厚い垂れ頬、意志強そうないかめしい顎、そういうものが救っている。驚くべきは顔色であって、白皙に赤味を加えている、二十歳時代の、青年の顔の色そっくりというべきであった。鉄色の羽織を着ていたが、それは高価な鶉織らしく、その定紋は抱茗荷である。はいている袴は精好織で仕立上がりを畳へ立てたら、崩れずにピンと立つでもあろうか、高尚と高価と粋と堅実とを、四つ備えた織物として、この時代の少数の貴人たちが、好んで用いた品である。さて帯びている大小であるが、鞘は黒塗りで柄糸は茶で、鍔に黄金の象眼でもあるのか、陽を受けて時々カッと光る。
そういう風采の人物であったが決して四辺など見廻そうとはせずに、グッと正面へ眼をつけたままで歩調正しく歩いて来る。まさかに円光とはいわれないけれど、異様に征服的の雰囲気とはいえる、そういう雰囲気が立っているかのように、その人物が進むにつれてみなぎり流れている群衆が、自然と左右へ道をよける。で、掻き分ける必要はなく、歩いて来ることができるのであった。そうしてシトシトと歩いて来て垢離場の芝居小屋の前まで来て、通り過ぎようとした時に、娘姿の例の掏摸が、例によって人波に押されたかのように、ヒョロヒョロとよろめいて出たが、ポンと「本郷の殿様」の胸へ、美しい身体をぶっつけたのであった。
「とんだ粗相をいたしました。ホッ、ホッ、ホッ、ご免あそばせ」──で、スルリと抜けたのである。だがその瞬間に右の手が上がって、真白い腕が肘の辺まで現われ、それが夕陽にひらめいた。どうやら何かを投げたらしい。それを受け取った者がある。手代ふうをした相棒の掏摸で、両手をヒョイと腹の前へ出すと、落ちて来た何かをチョロリと受け、スーッと袖の中へ入れてしまった。眼にも止まらない早わざである。で、男女の二人の掏摸は、人波をくぐって歩き出した。
すられた「本郷の殿様」は、すられたことに気づかなかったらしい。変わらぬ歩き方で歩いて行く。しかしぶつかられた一刹那には、さすがにちょっとばかり驚いたらしく、いくらか胸を反らすようにしたが、切れ長の細い眼をパッと開いた。と、夕陽の加減ばかりではなくて、本来が鋭い眼だからでもあろう、瞳のあたりに燠のような光が、チラ、チラ、チラと燃えるように見えた、妖精じみた光である。が、それとてほんの一瞬間で、上眼瞼がすぐに瞳をおおうて、もとの通りの細い眼となった。そうしてあえて叱ろうともせず、ましていわんや振り返ろうともせず変らぬ歩き方で歩き出した。で、すった者はすったまま、すられた者はすられたまま何の事件も起こらずにすれ違ってそのまま別れようとした。
しかし目明しの代官松だけは見過ごしておくことはできなかった。「ありゃア『本郷の殿様』だ、偉いお方をすりゃアがった。こいつアうっちゃってはおかれない!」はじめて捕る気になったらしい。裾を捲くると人波をひらいて、二人の掏摸を追っかけた。と、二人の掏摸であるが、いち早く気配を感じたらしい、一緒に背後を振り返ったが、「姐ご、いけない、目つけられた」「お逃げよ、急いで……まいてやろうよ」これも人波を押しひらき、裾を蹴ひらいて走り出した。
二人の掏摸が逃げて行くのを、目明しの代官松が追って行く。所は両国の広小路で、人が出盛ってうねっている。逃げるには慣れている掏摸であった。掻いくぐり掻いくぐり逃げて行く。令嬢姿の女掏摸の、衣裳の裾がひるがえり、深紅の蹴出しが渦を巻き、石榴の花弁そっくりである。それを洩れて脛がチラチラしたが、ピンと張り切った脛であり、脂肪づいてもいるらしく、形のよいこともおびただしい。で、行人が眼を止めたが、「悪くないなあ」と眼でささやく。
女掏摸は相棒を見返ったが、
「素晴らしい物をすったんだよ。目的の獲物をすったのさ、取り返されたら大変だ、どうでもこうでも逃げおわせなければならない。……あ、いけない、追いせまって来た」
「え、本当で、そいつア偉い、へえ、あいつをはたいたんで、偉いなあ、大できだ! たまるかたまるか取り返されてたまるか! ナーニ大丈夫だ、逃げおわせますとも」それから人波を掻きわけたが、「ご免ください、ご免ください、忘れ物をしたのでございますよ。急いで取りに行きますので」それから背後を振り返ったが、「あ、いけない、とっ捕まりそうだ」
二人は懸命にひた走る。女掏摸の髪の簪が夕陽をはねてピラピラとひらめき、眼のふちのあたりが充血をして、美しさと凄さとを見せている。前こごみにのばした上半身の、胸が劇しく揺れているのは、乳房が踊っているからであろう。引き添って走っている男掏摸の、醜い顔には殺気がある。唇を漏れてはみ出している、反歯が犬の歯を想わせる。陽がたまって光っているからである。
で、二人は素早く走る。
二人の逃げ方は素早かったが、代官松の追い方は、さらにいっそう素早かった。これは当然というべきであろう。稼業が目明しというのであるから。追うのには慣れているはずである。
「『本郷の殿様』と承知の上で、懐中物をすったのであろうか? それとも知らずにすったのであろうか? きゃつらがきゃつらの残党なら承知ですったと見なさなければならない。何をいったいすったのだろう? 大事な物をすったかもしれない。とっ捕まえて絞り上げて、取った物をこっちへ取り返さなければならない」
左手で衣裳の裾をたぐり、右手で人波を左右へ分け、「どけ! 寄るな! 御用の者だ!」で、ヒタヒタと追っかけた。
こうして十間とは走らなかったであろう、二人の掏摸へ追いついた。
「待て! こいつら! 悪い奴らだ!」
女掏摸の振り袖が風になびいて、眼の前へ流れて来たところを、グッと握った代官松は、こう怒声をあびせかけたが、にわかにその手をダラリと下げると、あらぬ方へ驚きの眼を投げた。
「よッ、これはどうしたのだ、あの老人が歩いている。あの老人に相違ない! 背後姿だが見覚えがある。だがどうにもおかしいなア、あの老人なら去年の四月に、三宅の島で死んだはずだ」
茫然といったような形容詞は、まさにこの時の代官松の、表情にかぶせるべきものであろう。そんなようにも茫然と──掏摸のことなどは忘れたかのように──代官松は眼を据えた。
「あの老人があの老人なら、とほうもない獲物といわなければならない。こいつアしっかり見届けてやろう」
小刻みに忍びやかに走り出した。
両国橋の橋詰めをめがけて、歩いて行く一人の老人があった。編笠をいだいている上に、向こうを向いているところから、顔の形はわからなかったが、半白の切下げの長髪が、左右の肩へ振りかかって、歩調につれて揺れるのが、一種の特色をなしていた。人波の上をぬきんでて、五寸あまりも身丈が高い。非常な長身といわなければならない。清躯あたかも鶴のごとしと、こうもいったら当たるであろうか、そんなにも老人は痩せていて、そうしてそんなにも清気であった。無紋の黒の羽織を着して、薄茶色の衣裳をまとっている。袴を避けた着流しである。大小はどうやら短いらしい、羽織の裾をわずかに抜いて鐺の先だけを見せている。儒者といったような風采である。これが目明しの代官松が、疑心を差しはさんだ老人なのであったが、このほかにもう一人の人が、この老人へ眼をつけて、そうして同じように疑心をはさんだ。
「本郷の殿様」その人なのであった。で、立ち止まって見守った。
両国橋の橋詰めのほうへ、歩いて行く儒者ふうの老人を、「本郷の殿様」と呼ばれた武士は、疑念を差しはさんで見守ったが、足を止めるとつぶやいた。「おッ、これはどうしたのだ、あの老人が歩いている。あの老人に相違ない。背後姿だが見覚えがある。……だがどうにもおかしなことだ、あの老人なら去年の四月に、三宅の島で死んだはずだ」──代官松のつぶやきと、同じつぶやきをつぶやいたのである。だがその次につぶやいた言葉は、かなり恐ろしいものであった。「あの老人があの老人なら、とうてい活かしてはおかれない。幕府にとっての一敵国だ、俺にとっても一敵国だ。……これはぜひとも確かめなければならない」
「本郷の殿様」と呼ばれた武士と、代官松という目明しとに、疑念を持たれて見守られているとは、儒者ふうの老人は知らぬ気であった。いわれぬ気高さと清らかさとを、やや前こごみの姿勢に保たさせ、おおらかとして歩いて行く。円光などとはいわれなかったが、一種の雰囲気とはいうことができよう。そういう一種の雰囲気を、儒者ふうの老人もまとっていた。で、群衆が自然と分かれて、老人の行く手をひらくようにした。が、儒者ふうの老人のまとっているところの雰囲気は、「本郷の殿様」と呼ばれている武士のまとっているところの雰囲気とは、全然別趣のものであって、穏和と清浄と学者的の真面目さ──そういうものを合わせたような、限りない奥ゆかしい雰囲気であった。「本郷の殿様」に対しては、人は威圧を感ずるのであろう、儒者ふうの老人に対しては、尊敬を払うに相違ない。
往来の片側に大道売卜者が、貧しい店を出していたが、そこまで行くと儒者ふうの老人は、ほんのわずかに顔を向けた。と、編笠から洩れていた髪が、ゆるやかにうねって襞を作って、半白の色が真珠色に光った。が、すぐ前通りに正面を向いて、おおらかとして歩いて行った。
「本郷の殿様」はうなずいたが、「矢柄、矢柄」と声をかけた。
「は」といいながら腰をかがめたのは、三十七、八の供の武士であったが、京都所司代の番士をしていた、ほかならぬ矢柄源兵衛であった。
と、「本郷の殿様」は、心持ち顎をしゃくって見せたが、「見覚えはないかな、あの老人に?」
「は」というと矢柄源兵衛は、儒者ふうの老人へ眼をつけた。
「殿、あの仁は……これは不思議……」
「うむ、お前にも合点が行かぬか」
「合点が行きませんでござります、死なれたはずのあの仁が……」
「そち走れ! たしかめて参れ」
「は。たしかめると申しますと?」
「編笠から顔をのぞいて見い!」
「かしこまりましてございます」こういった時には矢柄源兵衛は、すでに幾足か踏み出していた。群衆を排して老儒者を追って、橋詰めのほうへ走って行く。
見送った「本郷の殿様」は、ヒョイと懐中へ手を入れたが、「あの老人があの老人なら、京都から送られた留書き奉書が、いよいよ重大なものとなる。……はてな?」というと愕然とした。
「ない! 失われた! 先刻の娘!」
で四辺をキラキラと見た。と、誰かに追われてでもいるのか、さっき胸もとへぶつかって来た振り袖姿の町娘が、人波を分けてあわただしそうに、これも両国の橋詰めのほうへ走って行く姿が眼についた。
「掏摸だな! 女め! 一大事だ……下坂下坂」と声をかけ、もう一人の供の侍の、下坂源次郎の寄って来るのへ、「追え捕えろ! あの娘を!」
もちろん下坂源次郎には何の理由だかわからなかったが、烈しい主人の気合に打たれて、思わず自分も意気込んだ。「は」というと身をひるがえして、「どけ! どけ! どけ!」と人波を割って娘の後を追っかけた。
ガチガチと歯音の聞こえたのは、「本郷の殿様」が口の中で、歯叩きをしたがためであろう。
「今回の陰謀は大きいぞ! しかも連絡があるらしい! 女の掏摸! あの老人!」
「本郷の殿様」は顫える左手で、刀の鍔際をひっつかんだ。眼では老儒者を睨んでいる。
しかるに儒者ふうの老人を合点が行かないというように、みつめているもう一人の人物があった。貧しい店を出していたところの、大道売卜者の老人であった。
大道売卜者の老人が、儒者ふうの老人へ気づいたのは、決して自分のほうからではなかった。呼びかけられて気づいたのである。その左は並び床であり、その右は矢場であり、二軒にはさまれて空地があったが、そこに売卜者の店があった。算木、筮竹、天眼鏡、そうして二、三冊の易の書物──それらを載せた脚高の見台、これが店の一切であった。葦簾も天幕も張ってない。見台には白布がかかっていて、「人相手相家相周易」などという文字が書かれてあって、十二宮殿の人相画や、天地人三才の手相画が、うまくない筆勢で描かれてもいた。それさえひどく墨色が褪せて白がよごれて鼠色をなした掛け布の面ににじんでいた。が、そういう店を控えて、牀几に腰をかけている老売卜者の、姿や顔というものは、いっそうによごれて褪せていた。黒の木綿の紋付きの羽織、同じく黒の木綿の衣裳、茶縞の小倉のよれよれの小袴。でも大小は帯びていた。といって名ばかりの大小で、柄糸はゆるくほぐれているし、鞘の塗りなどもはげていた。老年になって知行に離れた、みじめな浪人の身の上だとは、一見してわかる姿であった。
地の薄くなった胡麻塩の髪を、小さい髷に取り上げている。顔は小さくて萎びていて、そうして黄味を帯びていた。古びた柑橘を想わせる。にもかかわらず顔の道具は、いかめしいまでに調っていた。高くて順直でのびやかな鼻には、素性のよさが物語られているし、禿げ上がった広い額には、叡智的のところさえある。が、大きくて厚手の口には、頑固らしいところがうかがわれる。心の窓だといわれている眼こそは、何より特色的であった。何物をか怒り何物をか呪い、何物をか嘲笑しているぞ──といっているような眼つきなのである。しかしそういう眼つきのために、表情は穢されてはいなかった。むしろそのために老売卜者の顔は、悲壮にも見え純真にも見えた。
往来を人波はうねっていたが、店へ立ち寄る者はなかった。で売卜者は鼻の先を黒表紙の易書であおぎながら──すなわち塵埃を払いながら、無心に人波を眺めていた。
その時呼び声が聞こえて来たのである。
「お気をおつけなされ、今日があぶない! お手前の人相をご覧なされ!」
で、ギョッとして老売卜者が、声の来たほうへ眼をやった時に、儒者ふうの老人を目つけたのである。「おお!」という声が筒抜けた。老売卜者が漏らしたのである。「おおこれはどうしたのだ、大先生が歩いておられる。大先生に相違ない。背後姿だが見覚えがある。……とはいえどうにもおかしなことだ、大先生なら去年の四月に、三宅の島で逝去なられたはずだ!」
つぶやきながらも老売卜者は、懐しさ類うべきものもない──牀几から、腰を上げると立ち上がって、両手を見台の上へつくと、毛をむしられた鶏の首のような細いたるんだ筋だらけの首を、抜けるだけ長く襟から抜いて、儒者ふうの老人を見送った。
「本郷の殿様」と呼ばれた武士や、代官松がつぶやいたところの、つぶやきと同じようなつぶやきを、老売卜者もつぶやいたのであった。が、その後のつぶやきは、二人とは反対なものであった。
「大先生がお丈夫なら、こんな嬉しいことはない。また私は浮世へ出ることができる」
感情が昂ぶったがためでもあろう、見台へついていた左右の手の、指の先がピリピリと顫え出した。と、うっすりと眼の中へ、涙のようなものが浮かみ出た。
「お確かめしようお確かめしよう。たしかに大先生であられるか、それとも全くの人違いか」
で、牀几から踏み出した。追って行こうとしたのである。しかしその時意外の事件が、老売卜者の足を止めた。
「お爺さん頼むよ、預かっておくれよ!」
優しくはあったがあわただしそうな、女の声がこう聞こえて、それと同時に見台の上へ、厚手に巻かれた奉書の紙が、音を立てて落ちて来たことである。
反射運動とでもいうのであろう、老売卜者はそれと見ると、ドンと牀几へ腰を下ろして、片袖を上げると巻き奉書を、その袖の下へ隠したが、眼を返すと声の来た方角を見た。と、往来の人波を分けて、誰かに追われてでもいるように、さもあわただしく走って行く、娘と手代とが眼にはいった。「はてな?」とつぶやきはしたものの、それよりも大切なものがあった。儒者ふうの老人の行方である。で、ふたたび眼で追ったが、「おッ危険だ! 切り合うぞ!」老売卜者は体をこわばらせた。
「おッ、危険だ、切り合うぞ」老売卜者が体をこわばらせたのは、次のような事件が起こったからである。目明しふうの壮漢が、人波を分けて泳ぐように、儒者ふうの老人に近寄って行く。と、もう一人の若い武士が、これも人波を押し分けて儒者ふうの老人へ近寄って行くその態度でおおよそは知れる、二人ながら儒者ふうの老人へ、禍を加えようとしているらしい。しかしそのために老売卜者が、「おッ、危険だ、切り合うぞ」と、驚きの声をあげたのではなかった。五人の中年の逞しい武士が、目明しふうの壮漢と、若い武士とへ立ち向かうように、にわかに足を止めて振り返って、刀にソリを打たせたからであった。
五人の武士は何者なのであろう? 儒者ふうの老人の護衛らしかった。どこにこの時までいたのであろう? 往来の人たちに気づかれないように、儒者ふうの老人を囲繞して、さっきから歩いていたのであった。つまりそれとなく方陣を作って、真ん中へ儒者ふうの老人を入れて、互いに関係がありながら、関係ないというように、さっきから歩いていたのであった。それがにわかに足を止めて目明しと若い武士とへ向かったのである。
距離が少しくへだたっていたので、五人の中年の逞しい武士の姿は仔細にはわからなかったが、いずれも目立たぬ扮装をして、いずれも編笠を真深にかぶって、そうして袴を裾短かにはいて、意気込んでいるということだけは十分に看取することができた。で、じっと静まっている。で、もし目明しと若い武士とが、執念く儒者ふうの老人へ、追いすがってでも行こうものなら、五人の中年の逞しい武士は、いっせいに抜いて叩っ切るであろう。
そこで老売卜者が声を上げたのである。「おッ、危険だ! 切り合うぞ!」と。
が事件は案じたほどにもなく、呆気なく無事に終わりをつげた。すなわち目明しと若い武士とが、五人の中年の逞しい武士の、不意の敵対に胆を奪われたように、ギョッとした塩梅に立ちすくんだが、駄目だと観念をしたのであろう、人波をくぐってもと来たほうへ、引っ返してしまったからである。
「ああ安心、これでよかった」声を漏らした老売卜者は、のばした首をもとの座へ据えたが、眼では儒者ふうの老人を、なおも熱心に見守った。
そういう事件のあったことを、少しも知らないというように、儒者ふうの老人は変らぬ姿勢で、おおらかに足を運んでいた。むしろ神々しい姿である。と、まもなく両国橋の、橋詰めの擬宝珠の前まで行った。そうしてそれを渡りかけた時に、逞しい中年の五人の武士が、追いついてすぐ囲繞した。六人が橋を渡って行く、河風が吹き上げて来たからでもあろう、身の長の高い儒者ふうの老人の、編笠を洩れた長髪が、二、三度斜めになびいたが、それさえ気高く思われた。
こうして一行が見えなくなった時に、太い溜息を一つ吐いたが、老売卜者は腕を組んだ。
「いよいよ大先生に相違ない。護衛の人たちを連れておられる……では大先生には三宅の島で、おなくなりなされたのではなかったのか? ……それにしてもこのような江戸の土地などへ、いつからお乗り込みなされたのであろう? ……どうともしてお住まいを突きとめたい、そうしてお預かりの品を、どうともしてお手へ渡したい」
瞑目をして考えている。陰惨としていた顔の上に、歓喜の色が浮かんだのは、明るい希望が湧いたからでもあろう。が、まことに不思議なことには、その歓喜の色なるものが、にわかに顔から影を消して、反対のものが現われた。疑惑と不安との色なのである。それは老売卜者の心の中へ、儒者ふうの老人の呼びかけた言葉が、この時甦生って来たからであった。「お気をつけなされ、今日があぶない! お手前の人相をご覧なされ!」それはこういう言葉なのであった。「私に呼びかけたに相違ない!」で、老売卜者は刀を抜いた。こしらえは粗末ではあったけれども中身は十分に磨かれていた。三寸あまりも抜いた時に、夕陽がぶつかったからでもあろう、虹のような光を放ったが、それの面へ顔を写して見た。人相を写して見たのである。
「ああ、なんだ! この人相は!」で、ガックリと見台の上へ両手をつくと沈み込んだ。その手に触れたものがあった。
「うむ、さっきの巻き奉書だな!」夢中でスルスルと解いて見たが、グーッと懐中へねじ込んでしまった。「死なれない! 死なれない! 死なれない!」で、茫然と空を見た。いつまでもいつまでも眺めている。が、その空もすっかりと暮れて、夜が大江戸を包んだ時に、上野に向かう下谷の道を、一つの人影が歩いていた。浪人ふうの若い武士である。
浪人ふうの若い武士が、下谷の通りを歩いている。今しがた降った雨が止んで、雲切れがして月が出たが、往来の左右は寺々で、燈火一筋さしていない。で、四辺が暗闇で姿がハッキリわからなかった。しかしどうやら尾羽打ち枯らした、みすぼらしい浪人のようすである。少しばかり酒気も帯びているらしくて、歩く足つきが定まらない。高台寺、常林寺、永昌寺、秦宗寺を通れば広徳寺で、両国についでの盛り場であったが、今夜は妙にうら寂しい。おでん、麦湯、甘酒などの屋台店が出ているばかりである。と家蔭から一人の女が白い手拭いを吹き流しにかぶって、菰を抱いてチョロチョロと現われたが、「もしえ、ちょいと」と声をかけた。「ふん」と浪人は鼻を鳴らしたが、「二十四文も持ってはいないよ」錆のあるドスのきく声であった。「いやはや俺も夜鷹風情に声をかけられる身分となったか。どこまでおっこちて行くことやら」でヒョロヒョロと先へ進んだ。往来が突きあたると常照寺になる。向かい合ってタラタラと並んでいるのはお筒持ちの小身の組屋敷であったが、そこを右へとって進んで行けば、寂しい寂しい鶯谷となる。そっちへ浪人は歩いて行く。と、にわかに足を止めたが、グッと前方を睨むようにした。
「うむ、ありゃ爺めだ!」わずかばかり思案をしたようであったが、すぐに足音を忍ばせて、シタシタシタシタと追っかけた。「私情からいっても恨みがある。公情からいえば主義の敵だ。どうせ生かせてはおけない奴だ」──でシタシタと追っかけた。そういう恐ろしい浪人者につけられているとは感づきもせずに一人のわびし気な老人が、二間あまりの先を歩いている。両国にいた大道売卜者であった。いつものように店の道具を、一軒の懇意な水茶屋へ預けて、深い考えに沈みながら、ここまで歩いて来たのであった。
「準頭に赤色が現われていた。赤脈が眸をつらぬいていた。争われない剣難の相であった」先刻方自分の人相を、刀の平へ写して見た時、それが現われていたことを、今改めて思い出したのであった。「それでは俺は殺されるのか。誰がこの俺を殺すのだろう? ……ああ死にたくない死にたくない! ……大先生にお遭いしなければならない。お遭いするまでは死なれない。……お遭いして品々をお渡ししたい。……ああそして巻き奉書を!」ツト懐中へ手を入れると巻き奉書をしっかりとつかんだ。
「恐ろしい恐ろしい巻き奉書だ、幕府の有司の手に渡ったら、上は徳大寺大納言様から、数十人の公卿方のお命が消えてしまわないものでもない。のみならず下は俺のような廃者さえも憂目を見る」──それにしても老売卜者は巻き奉書があんな偶然の出来事から、自分の手へはいったということについて、一面この上もなく不思議に思い、他面感謝をしたくなった。「町娘ふうのあの娘と、手代ふうをしたあの男とは、俺という人間を知っていて、それであのように預けたのであろうか? それとも二人は俺というものの、素性も身分も少しも知らずに、ほんの偶然に預けたのであろうか? ……誰やらに追われていたようであったが、誰に追われていたのであろう?」
群集を掻き分けてあわただしそうに、逃げて行った二人の男女の姿が、老売卜者の眼に見えて来た。
「どっちみち恐ろしい巻き奉書が、俺の手へはいったということは、天佑というよりいいようがない。有難いことだ」
老売卜者は歩いて行く。そのうなだれたぼんのくぼあたりへ、月の光が落ちていて、抜き衣紋になっている肩の形が、いかにも寂しく見受けられる。歩き方にも力がなくて、素足の踵が裾をはねて、よろめくように動くのは、心の乱れている証拠ともいえよう。帯びている大小も重そうである、羽織の裾をかかげるようにして、はみ出している鞘のひと所が、時々生白く光るのは、月の光の加減でもあろう。と、老売卜者はつぶやいた。
「佐幕党の手へは渡されない。大先生へお目にかかって、どうでもお渡ししなければならない。……死なれない死なれない死なれない!」
しかしまもなく傷ましい事件が老売卜者の身の上に起こった。筆法を変えて描写しよう。冴えた腕だ! 背後袈裟に切った!
冴えた腕だ、うしろ袈裟に切った。悲鳴をあげて倒れたのは、例の売卜者の老人であったが、ガリガリと土を引っ掻いた。
「た、たれだ──ッ」と引き声でいう。
血刀を下げて突っ立ったのは、例のつけて来た浪人であったが、裾を高々と端折っていた。
「武左衛門殿、拙者でござる」
「むッ、わりゃア……」
「拙者だよ」
「悪人!」
「くたばれ」
「に、人畜生!」
傷手にも屈せず起き上がって、浪人の腰へむしゃぶりついた。その武左衛門を蹴返すと、またもや一太刀あびせかけた。
もう、武左衛門は動かれない。かすかに呻きをあげながら、背に波を打たせるばかりである。
しばらく浪人は見ていたが、ゆるゆると武左衛門へまたがると、そろそろと切っ先をこめかみへ下ろした。プッツリと止どめを刺そうとしたとき足早に歩いて来る足音がした。チェッと舌打ちをひとつしたが、身をひるがえすと浪人者は、いずこへともなく走り去った。
やがて来かかった人影がある。誰か迎いにでも来たのだろう、傘を二本持っている。みなりの粗末な二十歳ぐらいの女で、ぬかるみを踏み踏み近よって来た。
「おや」とつぶやいてたたずんだのは、武左衛門の姿を見かけたからであろう。月あかりでじっと見守ったが、
「お父様」と叫ぶとベタベタとすわった。
と、武左衛門は顔を上げたが、「君江か……敵は……」それっきりであった。いやいや最後にもう一声いった。「渡すな、文書を頼んだぞよ」まったく息が絶えてしまった。君江は死骸を抱くようにしたが、死骸へ額を押しあてた。あまりに意外な出来事なので気がボーッとしたのらしい、泣き声をさえも立てようとはしない。うずくまっているばかりである。その時君江の肩を、うしろからおさえるものがあった。ハッとして君江は振り返ったが、
「ま、あなたは竹之助様!」
「君江か。ふうむ、どうしたことだ! ……おッこれは武左衛門殿が……」
「はい何者かにむごたらしく殺されましてござります」
胸へ腕を組んで見下ろしているのは、着流し姿の武士であった。感慨に堪えないというように、しばらく武士は黙っていたが、つぶやくように声を洩らした。
「頑固なお方でございましたゆえ恨みをうけたのでござりましょうよ。……子さえできている二人の仲を生木をさくように割かれたお方だ」
不意に君江が声を上げた。「小柄が一本、落ちております!」
「小柄?」と武士は手をのばしたが、「なんだ、こいつは、俺の小柄だ」それから寒いように笑ったが、「浪人ぐらしも久しくなる。刀の鞘などガタガタだ。で、今しがた落としたのだろうよ。……それはとにかくうっちゃってはおけない、届ける所へ届けずばなるまい。俺は一走り行って来る」
南条竹之助という若い武士が、こういいすてて走り去った、後には一つの死骸と一人の娘とが、凄く寂しく只に残った。と雨が降って来た。さっき方あがった雨である。ふたたび下ろして来たのである。死骸の上に降りかかる。君江は傘をひらいたが、死骸の上へおおいかざした。
「お気の毒なお父様、お可哀そうなお父様、君江はこんなに泣いております。成仏なすってくださいまし。そうしてどうぞこの妾を、お許しなすってくださいまし。妾は一人になりました。みよりのないものになりました。で、お父様がお嫌いでも、子まである仲でございますゆえ、竹之助様と一緒になりまする。お許しなすってくださいまし」
片手で傘の柄を握りしめて、片手をひらいて額へあてて拝むような形をしたが、泣きながら君江はいうのであった。傘の破れ目から雨が漏って、それが傘の柄を伝わって、ボタボタと死骸の上へ落ちる。それが君江には悲しいらしい。ひた泣きに泣いて掻き口説くのであった。
泣いても泣いても泣ききれなければ、口説いても口説いても口説ききれない。これが君江の心らしかった。
「雨におぬれにならないようにと、傘を持ちましてわざわざと、お迎えに参ったのでございます。傘はお役に立ちませんでした。いえいえお役に立ちました。このようにお父様をおおうております。でもわたくしといたしましては、傘で死なれたお父様をおおうてあげようとは思いませんでした。ほんとに夢のようでございます。悲しい悲しい悲しい夢! ……ああボタボタと雨が漏る。雨までがお父様をさいなむ。不幸な不幸なお父様!」
木立ちを通して田圃を越して、雨に漉されて色を増したはるかの町に燈火が見える。
自分は傘をさそうともせずに、しとどに雨にぬれながら、ひた泣きに君江は泣くのであった。
「上州甘楽郡小幡の城主、織田美濃守信邦様と申せば、禄はわずかに二万石ながら、北畠内府常真様のお子、兵部大輔信良様の後胤、織田一統の貴族として、国持ち城持ちのお身柄でもないのに、世々従四位下侍従にも進み、網代の輿に爪折り傘を許され、由緒の深いりっぱなお身分、そのお方のご家老として、世にときめいた吉田玄蕃様の一族の長者として、一藩の尊敬の的になられた妾のお父様が事もあろうに、みすぼらしい売卜者の姿として、所もあろうに夜の往来で、誰にともなく闇討ちにされて、このようにあえなく亡くなられようとは、妾には本当には思われません。その上に敵の手がかりはなく、怨みを晴らす術もない。成仏なすってくださいましと、どのように妾が申しましたところで、成仏なされてはくだされますまい。また妾にいたしましても、憎い敵を見つけ出して、一太刀なりと怨みませねば、この心が落ちつきませぬ。……どこかに手がかりはないものであろうか?」
闇をあてもなく見廻したが、雨や枝や葉を顫わせている藪畳が茂っているばかりであった。と、君江の心の中へ、ピカリとひらめくものがあった。で「小柄!」とつぶやいた。殺された父の死骸の横に、落ち散っていた小柄のことが、瞬間に思い出されたからである。
「でも、あの小柄は竹之助様が、自分の小柄だと仰せられた。では敵の小柄ではない」
で、君江は考え込んだ。と、にわかに身を固くした。闇の中で君江は眼を閉じた。
「あの竹之助様とお父様とは、婿舅でありながら、恐ろしいまでに不和であられた。……子まである仲を引き裂いて、竹之助様をおいだされた。……そのくせはじめはお父様のほうから、婿として竹之助様を望まれたのに。……何がお二人を不和にしたのやら、いまだに妾にはわからない。……不和! 憎しみ! 舅と婿! ……それではもしや竹之助様が?」
この疑いは君江にとっては、悲しくもあれば恐ろしくもあった。
「そんなことがあってよいものか。こんな疑いはやめよう」しかし悲しくも恐ろしい、この疑いは君江の心から消え去ろうとはしなかった。
この間も雨は降りつづいて、柄漏れの滴がいよいよ繁く、武左衛門の死骸へ降りかかる。ふと君江は腕をのばしたが、死骸の懐中へ手を入れた。
「臨終にお父様が仰せられた──渡すな、文書を、懐中の文書を! ──どのような文書があるのやら」で、ソロソロとひき出した。
「たしかにお預かりいたしました。誰にも渡すことではござりませぬ。ご安心なすってくださいまし」自分の懐中へ巻き奉書を、大事そうに手早く納めた時に、町の方角から提灯の火が、点々とこちらへ近寄って来た。
こういう事件の起こったのは、明和六年の晩春初夏の、ようやく初夜へはいったころのことで、所は下谷の車坂から、根岸の里へ下りようとする、上野の山の裾の辺で、人家がとだえて藪畳があったが、その藪畳での出来事である。
日数がたってその月が暮れて、翌月の中旬となった時に、本郷の高台の一郭で、ひとつの変った事件が起こった。というのは女煙術師が、煙術を使っていたのである。
一人の女煙術師が、往来で煙術を使っている。赤い手甲に赤い脚絆、鬱金の襷をかけている。編笠をかぶっているところから、その顔形はわからなかったが、年の格好は十八、九でもあろうか、小づくりではあるが姿がよくて、たしかに美人に思われる。手に持ったは煙管であったが、長さ五尺はありそうである。羅宇に蒔絵が施してある。
ところで煙術とはどういうものなのであろう? 支那から渡って来たもので、煙草の煙りを口へ吸って、それを口から吐き出して、柳に蹴毬とか、仮名文字とか、輪廓だけの龍虎とかそういうものを空へかいて、見物へ見せる芸なのである。小規模のお座敷の芸としても、きわめて小規模のものであって、とうてい嵐の吹くような、往来などでは演ずることができない。元禄年間に一時流行って、それからしばらく中絶したが、明和年間にまた流行った。というのは一人の美人が出て、上手にそれを使ったからでもあったが、それよりむしろその美人が、目立つような派手やかな風俗をして、その風俗とその美貌とを、売り物にしたがためである。
で、今一人の女煙術師が、往来で煙術を使っている。まず煙管をポンと上げたが吸い口を口へ持って来た。深く呼吸を吸ったかと思うとモクモクと煙りを吐き出した。首を左右前後に振る。それで調子をとるのであろう、はたして空へ文字ができた。幾個か幾個かできたのである。が、なんと書かれたものか、それはほとんどわからなかった。というのは空に月こそあれ、そうして月光が満ちてこそおれ、今日の時刻でいう時は、十二時を過ごした夜だからである。夜の暗さにぼかされて、煙りの文字がわからないのである。
とはいえ女煙術師が、すきとおるような綺麗な声で、その口上を述べ出したので書かれた文字も明らかになった。
「ただ今書きました煙りの文字は、和歌の一首でござります。『くもるともなにか怨みん月今宵晴れを待つべき身にしあらねば』こういう和歌なのでござります。どういう意味かと申しますことは、いまさらわたくしが申さずとも、ご承知のことと存ぜられます。辞世の和歌なのでござります。こういう和歌を作った後で、その人は不幸にも切られました。そうして獄門にかけられました。では悪人かと申しますに、決してそうではございません。よいお方だったのでござります。そうしてよいお方でありましたので、そんな目にあったのでございます。全く全く浮世には、そういうことがございますねえ。よいお方であったがために、かえって不幸にお逢いなさる──というそんな変なことが……」
だがいったい女煙術師は、誰に向かって煙術を使って、口上を述べているのだろう。一人も見物はいないではないか。またいないのが当然でもある。時刻は深い夜であり、所は本郷の一画で、大名屋敷が並んでいる。下町と違って昼間でも、人通りの少ない地点である。
で、見物はいなかった。それでは女煙術師は、いない見物を相手にして、そんなことをいっているのであろうか? ──と思うと少し違う。一人だけ見物はいたのである。
夜だからこれもハッキリとは、その風貌はわからなかったが、袴を着けない着流し姿で、たしかに蝋塗りと思われるが、長目の大小を帯びている。京都あたりの武士ではあるまいか? とそんなように思われるほどにも、身体全体は優しかったが、腰の構えがドッシリとしていて、いわゆる寸分の隙もない。どっちかというと身長は高く、胸などのびやかに張っている。鼻が端麗だということは、斜めに受けている月光のために、際立っている陰影によって、受け取ることができそうである。
そういう若い武士が女煙術師の、二間あまりの背後に立って、煙術を眺めているのであった。
「どうもな俺には不思議だよ」ふと若い武士はつぶやいた、「どうしてあの和歌を知っているのであろう。それにどうしてあのような和歌を、ああも大っぴらに喋舌るのであろう? うっかり口に出すとあぶない和歌だ。それにさ、あの和歌はこの俺にとっては、縁故の深い和歌なのだ。おかしいなあ、どうしたのだろう!」──だがその次の瞬間には、もっとおかしな事件が起こった。
そのおかしな事件というのはクルリと身を返した女煙術師が、小走りに走って来たかと思うと、ボンと若い武士へぶつかって、
「とんだ粗相をいたしました」
こういって謝ったことである。
「いや拙者こそ。……どういたしまして」
かえって気の毒だというように、若い武士は笑って挨拶をした。
「粗忽な妾でございますこと。ホッ、ホッ、ホッご免あそばせ」
女煙術師は行き過ぎた。
だがぶつかられた若い武士は、どうやらテレたらしい。女煙術師を見送ったが、口の中でつぶやいた。
「油断をしているとこんな目に逢う。一刀流では皆伝の技倆、起倒流では免許の技倆、などと自慢をしていながら、真正面から女の子のためにポンとばかりにぶつかられて、かわすことさえできなかったんだからなあ。油断をしているとこんな目に逢う」
どうやら苦く笑ったらしい、顔の一所へ白々と、一列の歯が現われた。
「そうはいってももっともともいえるさ」また口の中でつぶやいた。「こんな深夜にこんな所で、見物もないのに煙術を使って、迂濶にはいえないあのような和歌を、あんなにも大っぴらに喋舌っていたのだからなあ。見とれていたのは当然だよ。……いったいどういう女なのだろう!」
左側は十五万石榊原式部大輔、そのお方のお屋敷で、海鼠壁が長く延びている。その海鼠壁をぬきんでて、お庭の植え込みが繁ってい、右側は普門院常照寺で、白壁が長く延びている。それの間にはさまれている道を、松平備後守のお屋敷のほうへ、女煙術師は小走っていた。白くひらめくものがある。月夜を海にたとえたならば、その中で魚がひらめくように、女煙術師の足の踵が、チロチロと白くひらめくのであった。
「立っていたところでしかたがない。どれソロソロ帰ろうか」
女煙術師の行ったほうとは、全く反対の方角へ、若い武士はゆるゆると方向を変えたが、雪駄の音を響かせて二足三足歩き出した。
と、どうしたのか立ち止まったが、「しまった、すられた、印籠をすられた」
腰のあたりへ片手をあてている。で、クルリと振り返ったが、女煙術師を眼で追った。
「あの女がすったに相違ない。さっきまであった印籠だ。どこへも落とす気遣いはない。あの女がすったに相違ない。そういえばちょっとおかしかったよ。肩を少しく前へかしげて、顔を地面へうつむけて、小走るように走って来て、ポンとこの俺へぶつかったんだからなあ。粗忽でぶつかったぶつかり方ではないよ。すり取る手段としてぶつかったものさ。こいつうっちゃってはおかれないなあ」
で、若い武士は小戻りに戻って「待て!」と声をかけようとしたが「待ったり」と自分で自分をおさえた。「これは迂濶には呼べないよ」ニヤリと苦く笑ったらしい。また顔へ白く歯が見えた。「さて呼び止めて調べてみて、もし印籠がなかろうものなら、引っ込みのつかない不態となる。それにさ、疑いというようなものは、むやみと人にかけるものではない。困った困った困ったことになったぞ」
女煙術師を眼で追った。
女煙術師の後ろ姿は、月光を浴びているところから、見えていることは見えていたが、今は小さくなっていた。まもなく右へ曲がるだろう。すると松平備後守の、宏大な屋敷の前へ出る、そこをまた右へ曲がるかもしれない。と不忍の池畔へ出る。それから先は町家町で露路や小路が入り組んでいる、自由にまぎれて隠れることができる。
追っかけるなら今であった。
「印籠のことはともかくとして、ずいぶん変っている女煙術師だ、こっそり後をつけて行って、住居だけでも突きとめてやろう」
これが若い武士の本意であった。でシトシトと追っかけた。
もうこれだけの事件でも、変った事件といわなければならない。ところが同じこの一郭で、またもや変った事件が起こった。二人の姿の消えた時に、それと反対の方角から、一人の武士が現われて、こっちへ近寄って来たのである。
現われた武士は浪人らしくて、尾羽打ち枯らした扮装であって、月代なども伸びていた。朱鞘の大小は差していたが、鞘などはげちょろけているらしい。が時々光るのは、月光が宿っているからであろう。
地上へ細っこい影を曳いて、だんだんこちらへ近寄って来る。足もと定まらず歩いて来る。どうやら酒にでも酔っているらしい。痩せてはいるが身長は高く、肩が怒って凛々しいのは、武道に深い嗜みを持っている証拠ということができる。
と、月を振り仰いだ。まさしくりっぱな顔であった。が、気味の悪い顔ともいえる。はね上がった眉、切れ長の眼、高くて細い長い鼻、いつも苦い物をふくんでいるぞと、そういっているような食いしばった口、顳顬は低く頬骨は高く、頤はずっこけてはいたけれど、頤の骨は張っていた。年はおよそ二十三、四で、五までは行っていないらしい。
そういう浪人がヒョロヒョロと、足もと定まらず歩いて来た。
こうして榊原式部大輔のお屋敷の外側を通り抜けて、松平備後守のお屋敷の外壁の近くまでやって来た時に、一つの事件が湧き起こった。そこは丁字形をなしていたが、右手の道から遊び人ふうの男が、これも酒にでも酔っているのであろう、千鳥足をして現われて来たがドーンと浪人にぶつかった。
が、その時には浪人者は、酔ってはいても正気であるぞと、そういったような塩梅に、スルリと体を右へそらして、そのぶつかりを流してしまった。と遊び人ふうの人間は、自分の力に自分が負けて、グーッとのめると地へ倒れた。
「気をつけろよ、なんという態だ」
声をかけておいて浪人者は、丁字形の道を曲がりかけた。
するとまたもや同じような、遊び人ふうの人間が、行く手にあたって現われたが、ドーンと浪人へぶつかって来た。
が、その時には浪人者は、すでに左手へ避けていた。で、同じように遊び人ふうの男は、自分の力に自分が負けて、グーッとのめると地へ倒れた。
「気をつけろよ、なんという態だ」
いいすてると浪人は丁字形を曲がった。
しかしまたもや行く手にあたって、三人のこれも遊び人ふうの男が、抜いた匕首に相違ない、それを月光にキラつかせながら、のっそりと立っているのを見た時、浪人はちょいと足を止めた。
それから「ふうん」と鼻を鳴らしたが、ゆっくりと背後を振り返って見た。
地に倒れていた遊び人ふうの、二人の男が立ち上がっていて、これも抜いた匕首を、月の光にキラつかせている。
腹背に敵を受けたのである。はさみ打ちの位置に置かれたのである。
「ははあそうか、あいつらの仲間か」
口に出して浪人はつぶやいたが、たいして驚いたようすもなかった。
「どうせ撲り合いにはなるだろうよ。切り合いになんかなるものか」
セセラ笑いを洩らしたが、それでも左手を鍔際へやると軽く鯉口をくつろげた。
「さてこれからどうしたものだ?」
小首を傾げはしたものの、逃げようかなどと思ったのではなく、こちらから先方へ進んで行こうか、それとも先方からやってくるのをたたずんでここで待ち受けようかと、一瞬間思案をしたものらしい。
「どっちみちたいした相手ではない。俺のほうから行ってやろう。なにさ自宅へ帰るのさ」
で、浪人は無造作に、三人のほうへ歩き出した。その結果起こったのが乱闘であった。
遊び人ふうの一人の男は、匕首を月光にひらめかすと、毬のように弾んで突いて来た。とそれよりも少しばかり早く、同じく月光をひらめかして、水平に流れる光物があった。すぐに悲鳴が起こったが、同時に一つの人の影が、往来のはずれへケシ飛んだ。浪人が腰の物を素破抜いて、斬ろうともせず、突こうともせず柄頭で喰らわしたのを眉間へ受けて、遊び人ふうの人間が、往来のはずれへケシ飛んだのである。が、そういう一刹那に、今度は遊び人ふうの人間が、前後から二人突いて来た。
前後から浪人へ突いてかかった二人の遊び人の運命も、きわめて簡単に片づけられた。
斜めにぶっつけた体当たりで、まず一人の遊び人の、腰の構えを砕いておいて、さっと振り返った浪人は、片手撲りの峰打ちで、もう一人の遊び人の肩を打った。
と、背後へ下がったが、背後に海鼠壁が立っていた。それへ背中をあてるようにしたが、あたかも威嚇でもするように、片手下段にのびのびと、頭上へ刀を捧げたのである。
「まだ来る気かな。……今度は切るぞ!」
で順々に五人を見た。左の腕を肘から曲げて、掌を腰骨へあてている。右足を半歩あまり前へ踏み出し、左足の踵を浮かせている。で、いくばくか上半身が、前方に向かって傾いている。のっかかったような姿勢なのである。捧げた刀は月光をまとって、鯖の腹のように蒼白く光り、柄の頭が額にかかって、その影が顔を隈どっている。で両眼が穴のように、黒くそうして深く見える。しかも浪人はそういう姿勢で、静まり返っているのである。ただし刀身は脈々と、漣のように顫えている。で、月光がはねられて、顔の隈がたえまなく移動する。居つかぬように軟かく、刀をゆすっているのである。
静まり返っているだけ、かえって凄く思われる。もしも本当に斬る気になって、翻然と飛び出して来たならば、そんな五人の遊び人などは、一薙ぎ二薙ぎで斃されるであろう。
ところが一方遊び人たちも、武道のほうはともかくとして、喧嘩の骨法は知っているとみえて、そうしてとうてい浪人に対して、勝ち目はないと思ったものとみえて、眉間を突かれた遊び人は、その眉間を両手でおさえ、肩を打たれた遊び人は、その肩を片手でしっかりとつかみ、体当たりを喰らった遊び人は、横腹のあたりを両手で抱き、二人の無傷の遊び人と一緒に、脛を月光にチラチラと見せて、右手のほうへ一散に、素ばしっこい呼吸で逃げ出した。
と、浪人は捧げていた刀を、ダラリと垂直に引っ下げたが、
「これ」と遊び人たちを呼び止めた。
「お前たちの姐ごのお粂にいえ! 浪人こそはしているが、まだまだ芸人ごろん棒などに、拙者めったにヒケは取らぬと! ハッ、ハッ、ハッ、しっかりといえ! そうしてさらにこういいたせ、あくまでお前たちに張り合ってみせると! お前たちは大勢、俺は一人、それで十分張り合ってみせると! さらにこうもいってくれ! お粂よ、おおかたお前の素性と、そうしてお前のやり口とを、俺はおおよそ探り知ったと! そうして俺とは一切合財、あべこべであり逆であると!」
だが浪人の最後の言葉が、まだすっかりとはいいきらないうちに、五人の遊び人の逃げて行く姿は、小さくなって消えてしまった。
で、ひっそりとなったのである。
と、浪人は左手を上げたが、刀身へ袖を軽くかけた。それからゆるゆると拭ったが、単に塵埃をふいたまでである。すぐにささやかな鍔音がした。無造作に刀を納めたのであろう。胸のあたりへ手をやったが、乱れた襟を直したのである。と、シトシトと歩き出した。
さすがに酔いだけは醒めたらしい。踏んで行く足に狂いがない。おちついて歩いて行くのである。だがなんとなくその姿は、浮世の裏道を、人目を憚り人目を恐れ、そうして自分でも人を呪い、そうして自分でも浮世を呪い、こそこそ通って行くところの、気の毒な陰惨な廃人の、姿を思わせるものがあった。
その左側に海鼠壁を持って、その背後に影法師を曳いて、そうして半身を月光にさらして、腰から下を茫とぼかして、浪人は先へ歩いて行く。
しかし十間とは歩かなかった。
「お武家、お待ち、ちょっとお待ち!」
一種の素晴らしい威厳を持った男の声が背後のほうから、こういって浪人を呼んだからである。で、浪人は足を止めた。
「また変な物が出たらしい。今夜はよくよくおかしな晩だ、いろいろの役者が登場するよ」
つぶやいて浪人は振り返ったが、「ふうん こいつは素敵もない鴨だ」
頭巾で面を包んでいるので、容貌は少しもわからなかったが、大名のように貫禄のある、一人のりっぱな侍が、二人の武士を供につれて眼の前に立っていたのである。
浪人の眼の前に立っている大名のような貫禄のある武士は、身体つきや声のようすから見て、年はそちこち五十ぐらいでもあろうか身長は高く肥えてもいた。折り目正しく袴をはいて、長目の羽織を着ていたが、おかしなことには定紋がない。無紋の羽織を着ているのであった。で、胸高に大小をたばさみ、その柄頭を右手の扇で、軽く拍子どって叩いているが、それはその武士の癖のようであった。そうしてそういう癖にさえ、一種のいわれぬ威厳があった。しかし向かい合って立っている浪人にとって苦痛なのは、その武士全体から逼って来る、陰森とした圧力で、それが浪人の心持ちを、理由なしに圧迫するのであった。頭巾に包まれている眉深の顔は、月にそむいているがために、ほとんど見ることはできなかったが、刺すように見ている眼ばかりが、陰影の奥に感ぜられて、それがまた浪人の心持ちを、恐怖的に圧迫するのであった。
武士は浪人をみつめている。というよりも浪人のようすを、検査しているといったほうがよい。そんなにも執念くおちつき払って、無言で浪人を見ているのであった。
「なんだこいつは無礼な奴だ」浪人は思わざるを得なかった。「呼び止めておいて物をいわない。なめるようにいつまでもジロジロ見る」
で、皮肉をいおうとした。しかしいうことはできなかった。例の理由のない圧迫が、浪人の口を封ずるからである。
「なんの素敵な鴨なものか、うっかりすると酷い目に逢うぞ」何となく浪人には思われた。「これは躊躇なく逃げたほうがいい」しかし逃げることもできそうもなかった。例の理由のない圧迫が、浪人の足を止めるからである。「叩っ切ろうかな? 叩っ切ろうかな?」
だがこう思った瞬間に、そう思ったことが相手の武士へ、どうやら直感されたらしい。
つと武士は一足前へ出たが、
「むやみと刀など揮わぬがよい」
「は」
「よいか」「は」「よいか」
といつか浪人はうなだれていた。
と、武士は刀の柄頭を、右手の白扇で拍子づけて、軽く二、三度叩いたが、
「通りかかって、見たというものさ。そちの素晴らしい手並みをな。で、呼び止めたというものさ。何も恐れるにおよばない。俺は決して役人ではないよ」ここで口調を優しくしたが、「見受けるところ、浪人らしいの」
「は、さようにございます」浪人の本当の心としては「そち」と下目に呼ばれたり、「何も恐れるにおよばない」などと、威嚇的に物をいわれたこと不快でもあれば業腹でもあったが、例の理由のない圧迫に押されて、そういう本心を出すことができず、つい和しく慇懃にそんなように口から出したのであった。
と、武士は肩でうなずいてみせたが、
「俺の屋敷へ遊びに参れ」不意にこんなことをいい出した。
浪人は意外に感じたのであろう、ぼんやりとして黙っている。
「俺はな、久しく探していたのだよ」そういう浪人のようすなどには、かかわりがないというように武士は後をいいつづけた。「お前のような人間をな。浪人でそうして腕が立って、人を殺した経験のある。……俺にはわかるよ、殺したことがあろう?」
今度は浪人は怯かされたらしい、思わず二、三歩後へ下がった。
「で、姓名はなんというな?」
──いったいこれはどうなるんだ? これが浪人の心持ちであった。追っかけ追っかけ訊かれることが、いちいち浪人には恐怖だからである。
「は、私の姓名は……」
「おいい、これ、何というな?」
どうしたものかそれに応じて、浪人は宣ろうとはしなかった。足もとをみつめて黙っている。しかし心ではいっているのであった。「名を宣ることはいやなのだ。俺の本名を聞いたが最後、たいがいの武士は俺に対して、憎むか嘲るかするのだからな」
で、宣ろうとはしなかった。そういう浪人の困惑した態度を、相手の武士は訝しそうに、しばらくの間見守っていたが、にわかに笑声をほころばせた。
「やはり恐れているようだの。俺を恐れているようだの。では俺から宣るとしよう」
では俺から宣ることにしよう。──大名のような貫禄のある武士は、さも無造作にこういったが、すぐに無造作に名を宣った。
「俺は北条美作だよ」
しかし無造作には宣ったけれども、その北条美作という名は、恐ろしい姓名だと思われる。
というのはそれを聞いた浪人が、まるで雷にでも打たれたかのように、おかしいほどにも飛び上がって、そうして背後へ引き下がったが、すぐに土下座をしたからである。
「北条の殿様でござりましたか、さようなこととは少しも存ぜず、まことにご無礼をいたしました。お許しおかれくださいますよう」
慇懃に丁寧に挨拶をした。
ところで北条美作とは、どういう身分の武士なのであろう?
九千石の旗本なのであった。がそれだけではなんでもない、たかが旗本にすぎないのだから。ところが北条美作は、ある者には、一世の豪傑として、恐れ敬われ尊ばれていた。が、一方では奸物として憎まれ嫌われはばかられていた。何がいったいそうさせるのであろう? 時の老中の筆頭で、松平左近将監武元なる人の、遠縁にあたっているばかりか、その武元に取り入って切れ味の鋭い懐中刀として、その武元を自在に動かす、──というのが理由の一つであった。そうして京都の貧しい公卿の、美しい姫を養女として養い、巧みに時の将軍に勧めて、その側室としたことによって、将軍家のお覚えがいともめでたい。──というのが理由の一つであった。いやいやそういう美しい女を一人将軍家へ勧めたばかりではなくて、いろいろの手蔓を求めては、美しい女を狩り集めて来て、利き所利き所の諸侯へ勧めて、その側室とすることによって、一種の閨閥を形成くった。──というのが理由の一つでもあった。
で賄賂請託が到る所から到来した。それに密かに佐渡の金山の、山役人と結托をしていた。で美作は暴富であった。そうして美作はその暴富を、巧妙に活用することによって、自分の勢力を布衍した。というのはこれも利き所利き所の諸侯へ金子を貸すことによって、金権を手中に握ったのである。
これを要約していう時は、金と女とを進物にして、閥をつくったということになる。
で、若年寄をはじめとして、大目附であろうと町奉行であろうと、北条美作に対しては一目置かざるを得なかった。
その上に美作は人物としては、胆力が大きく機智が縦横で、それにすこぶる執拗であって、かつ用心深かった。そうして性質からいう時は、この上もなく陰性で、黒幕的性質にできていた。もし美作が望んだならば、五万石以上の大名ともなれるし、役付くこともできるのであったが、それも望もうとはしなかった。表面に立つことを嫌ったからである。
もう一つ美作の特徴として、挙げなければならない一事がある。徹底したる佐幕思想──ということがそれである。したがって美作は同じ程度に、勤王思想を嫌忌した。で、有名な宝暦事件、すなわち竹内式部なる処士が、徳大寺卿をはじめとして、京都の公卿に賓師となって、勤王思想を鼓吹した時に、左近将監武元に策して、断然たる処置をとらせたり、その後ほどを経て起こったところの、山県大弐、藤井右門の、同じような勤王事件に際して、これも将監武元に策して苛酷な辛辣な処置をとらせた。
幕府方にとっては力強い味方で、京都方にとっては恐ろしい敵──というのが北条美作なのであった。
どっちみち北条美作なる武士は、この当時一個の惑星として、諸人に凄まじく思われていたことは、争われない事実であった。
その美作だというのである。浪人が飛び下がって土下座をして慇懃に丁寧に挨拶をしたのは、当然なことといわなければなるまい。
しかし北条美作にとっては、そうも慇懃に丁寧に、その浪人に土下座までされて、挨拶をされたということは、ちょっとおかしく思われたらしい。声を立てるようにして笑ったが、「さあさあ俺は宣りを上げたよ、今度はお前が宣るがいい」
「桃ノ井兵馬と申します」これが浪人の宣りであった。
「桃ノ井? ふうむ、兵馬というか?」美作は何やら考え込んだ。
「桃ノ井? ふうむ、兵馬というか」こういって考え込んだ北条美作は、月光を浴びながら土下座をしている浪人の姿をあらためて見たが、理由ありそうにうかがうように訊ねた。
「桃ノ井の姓が気にかかる。そちの父の名はなんというぞ?」
──と、兵馬はいよいよますます、慇懃の度を強めたが、「桃ノ井久馬と申します」
「何?」とこれを訊くと北条美作は、あたかも物にでも引かれたかのように──いやいやむしろ懐しそうに、二、三歩前へツカツカと出たが、
「桃ノ井久馬ならば存じている。神田小柳町に住居していたはずだ」
「はい、さようでござります」
「そうであったか、そうであったか、桃ノ井久馬の伜であったか。では俺とは縁の深い者だ」
「ご縁深き者にござります」
「…………」美作はここで沈黙をした。探るように兵馬を見下ろしている。それを兵馬が下のほうから顔をあお向けて見上げている。異様な沈黙となったのである。が、その沈黙が破られた時に、二人の間に次のような、意味深い問答が取り交わされた。
「お前の父は忠義者であったよ」
「が、お咎めを受けまして、日本橋において三日間晒らされ、遠島されましてござりまする」
「宮崎準曹、佐藤源太夫、禅僧霊宗らの忠義者とな」
「はい、同罪とありまして、遠島されましてござります」
「気の毒な身の上となったものよ。助けようと俺も手を尽くしてはみたが、そこまでは力がおよばなかった」
「口惜しい儀にござりました」
「そち、この俺を怨んではいまいな?」
「なかなかもちましてそのような事、もったい至極もござりませぬ」
「久馬は怨んでいたであろうか?」
「いえいえ反対にござります。遠島まぎわに父の口より承わりましてござります。北条の殿様があったればこそ、死罪にも行なわれず軽い遠島と! ご恩のほどを忘れるなよと……」
「怨まれれば怨まれる節もあるが、怨んでいないと耳にすれば、やはり俺には有難い」
「なんのお怨みなどいたしましょう。怨みは他の人にござります」
「他の人?」と美作は首を伸ばしたが、「さあ何者であろうやら?」
「山県大弐にござります。藤井右門にござります」
「が、彼は殺されたはずだ。死罪獄門になったはずだ。で、この世にはいない者どもだ」
「しかし後胤や一味の者が、残っているはずにござります」
「なるほど」という北条美作は、兵馬へ身近く進んだが、「そち、消息を知っていると見える?」
「さぐり知りましてござります。よりより彼らの後胤や一味が、京都から江戸をさしまして、いろいろのものに姿をやつして、入り込みました由にござります」
「しかもな」という北条美作は、前こごみに体をこごませたが、「恐ろしい大物も入り込んだらしい」
「は?」と訊き返した桃ノ井兵馬は、合点がいかないというようにしたが、「と仰せられる大物の意味は?」
「いずれは話す。今日はいうまい」しかし兵馬は押し返した。「三宅の島でなくなられたはずの、あの恐ろしい人物が、江戸入りされたものと存じますが?」
「そこまでそちは知っておるのか?」北条美作は驚いたらしい。「よくもあくまできわめたものだ」
──と、兵馬はヌッとばかりに、顔を月光に上向けたが、沈痛の口調でいい出した。
「この私という人間が世間の者に嫌われまして、裏切り者の子であるとか、不義の人間の子であるとか、噂を立てられます根本は、その三宅の島で死なれたところの、あの恐ろしい人物に、端を発しておりますゆえ、あの人物に関しましては、詳しく詳しく詳しく詳しく従来も探っておりました。で、その結果知りましたことは……」しかしここまでいって来ると、兵馬は憂鬱のようすになったが、突然話の方向を変えて、全くあらぬことをいい出した。
兵馬はこのようにいい出したのである。
「……其方共儀、一途ニ御為ヲ存ジ可訴出候ワバ、疑敷心附候趣、虚実ニ不拘見聞ニ及ビ候通、有体ニ訴出ベキ所、上モナク恐多キ儀ヲ、厚ク相聞エ候様取拵申立候儀ハ、都テ公儀ヲ憚ラザル致方、不届ノ至、殊ニ其方共ノ訴ヨリ、大勢無罪ノモノ迄入牢イタシ、御詮議ニ相成リ、其上無名ノ捨訴状、捨文等有之、右認方全ク其方共ノ仕業ニ相聞エ、重科ノ者ニ付死罪申付ベキ者ニ候処、大弐、右門企ノ儀ハ、兵学雑談、或ハ堂上方ノ儀、其外恐入候不敬ノ雑談申散候ハ、其方共申立ヨリ相知レ候、大弐ハ死罪、右門儀ハ獄門罷成、御仕置相立候ニ付、不届ナガラ訴人ノ事故此処ヲ以テ、其方共助命申付、日本橋ニ於テ、三日晒ノ上、遠島之ヲ申付ル」
兵馬の口調は暗誦的であった。永らくの間心の中にあって、しばしば繰り返していた文章を、暗誦たというようなところがあった。
「これは私の父をはじめ、宮崎準曹、佐藤源太夫、禅僧霊宗に下されました、断罪の文にござります。つまり私の父などは、幕府のおためを存じまして、謀叛人企てを明らさまに、お訴えを致しました結果としてかえってお叱りを受けましたしだいで、逆しま事のようには存じますが、こういう結果になりましたのも山県大弐や藤井右門の、恐るべく憎き陰謀にその端を発しておりまする。しかるに大弐や右門なるものの、その陰謀の源泉は、三宅島において逝くなられましたはずの、あの恐るべき人物から流れ出ているはずにござります。したがって私にとりましては、三宅島において逝くなられたはずの、その恐るべき人物こそ、怨みの的にござります」
なお兵馬はいいつづけようとしてか、片膝を立てて胸を反らせたが、感情がにわかにたかぶったからでもあろう、言葉切れがして絶句した。と見てとった北条美作は、なだめるように片手を伸ばすと、おさえつけるように上下したが、
「詳しいことは屋敷で聞こう。明日にも訪ねて来るがよい」
立てた片膝を地へ敷くと、兵馬はつつましく頭を下げた。
「参上いたしますでござります」
「隠し扶持なども進ぜよう。生活に事を欠かぬように、この美作が世話をしてやろう」
「は、忝けのう存じます」
「十分に怨め! 猟って取れ!」
「…………」
この意味は兵馬にはわからなかったらしい、無言で美作の顔を見た。と、美作は笑ったが、
「例の恐るべき人物と、大弐や右門の後胤や一味を怨んで猟り取れと申しておるのだ」
「それこそ私にとりましては……」兵馬は一種の武者振るいをしたが、「唯一の目的でござります」
「同時に幕府のためにもなる」
「何よりのことに存じます」
「同時に俺のためにもなる」
「お殿様のお為でござりましたら……」
「粉骨砕身してくれるか?」
「愚かのことにござります。命一つさえ捧げまする」
「ああよい片腕が俺にはできた」
「いえこの私にこそ力強い後ろ楯ができましてござります」
「では」というと北条美作は、鷹揚に顎をしゃくったが、「今夜はこれで別れよう」
二人の供を従えると、シトシトと美作は足を運んだ。
「大大名や大旗本が、この本郷にはたくさんあるが『本郷の殿様』と一口にいえば、すぐにも北条美作のご前と、誰も彼もがいちように、納得するほどにも有名なお方だ。そのお方に俺が見いだされたのだ。世に出ることができるかも知れない」
大名屋敷の海鼠壁に添って、肩のあたりを月光に濡らして、二人の供に前後を守らせ、歩いて行く美作の背後姿が、曲がって見えなくなった時まで目送をしていた桃ノ井兵馬は、こうつぶやくと立ち上がった。「俺も寝倉へ帰るとしよう」
無人となった境地には、月光ばかりが零れていた。しかるにこのころ一人の武士が、下谷の町の一所に、腕を組みながらたたずんでいた。「こんなりっぱな屋敷の中へ、はいって行ったとは不思議でならない。たかが女の煙術師ではないか」──眼の前に宏壮な屋敷があったが、眺めながら考えているのであった。
武士の眼の前にそびえている、宏壮な屋敷の構造は、大旗本の下屋敷ふうで、その正面には大門がありそれと並んで潜り門があり、土塀がグルリと取り巻いていた。おびただしいまでに庭木があって、いずれも年を経た常磐木と見えて、土塀の甍から高くぬきんでて、林のように繁っていた。幾棟か建物もあることであろうが、しかし庭木におおわれて、その一棟さえ見えなかった。大門の瓦屋根にさえぎられて、門の扉が裾のあたりで、月の光からのがれていたが、その薄暗い門の扉の上にいかめしい大鋲が打ってあるのが、少しく異様に見てとられた。用心堅固に守っているぞと、威嚇しているように感ぜられる。
いやいや用心堅固といえば、庭木の形にも見られるのであった。すなわち内側から土塀の方へ、鉄よりも堅く思われるような老木をビッシリ植え込んで、枝や葉を網のように参差させて防禦の態を造っているからである。何者か屋敷内へ入り込もうとして、たとえ土塀を乗り越したところで庭木の塀にさえぎられて、目的をとげることはできないであろう。屋敷の大きさは一町四方もあろうか、周囲の家々から独立をして、ひとりそびえているのである、あえてこの辺は屋敷町ではなくてむしろ町家町というべきであった。もっともはるか東北の方には藤堂和泉守や酒井左衛門尉や佐竹左京太夫や宗対馬守の、それこそ雄大な屋敷屋敷が、長屋町家を圧迫して月夜の蒼白い空を摩して、そそり立ってはいたけれど……。
で、この辺は町家町であった。しかもいうところの片側町であった。反対の側は神田川で、今、銀鱗を立てながら、大川のほうへ流れている。下流に橋が見えていたがそれはどうやら和泉橋らしい。とするとここは佐久間町の三丁目にあたっているのかもしれない。
「こんなりっぱな屋敷の中へ、はいって行ったとは不思議でならない、たかが女の煙術師ではないか」たたずんで見ていた若い武士は、今度は声に出してつぶやいたが、いかにも腑に落ちないというようすであった。本郷の往来で煙術を見ていて、うっかり油断をしていたところを女煙術師に印籠をすられた、──その若い武士であった。で、若い武士の思惑としては、たかが安手の芸人である。どこかみすぼらしい露路の奥の、棟割長屋の一軒へでも、はいって行くものと思っていた。しかるにどうやら期待は裏切られて、堂々たる構えのりっぱな屋敷へ女煙術師は入り込んだのである。
で、武士としてはこの事実は、化かされたようにも思われるのであった。
「他人の屋敷へはいったのではない。自分の家へはいったのだ。少なくもあの女の懇意な者の屋敷へはいったということはできる。……スタスタと道を歩いて来て、この屋敷の前まで来て、トン、トン、トンと潜り門を打って、二声三声物をいったかと思うと、すぐに内から潜り門の扉があいて、あの女を内へ入れたのだからな。……自分の屋敷か懇意な人の屋敷さ」眼の前に立っている屋敷の中へ、女煙術師がはいった時の、──そのはいり方の無造作だったことを、あらためて回想することによって武士の疑惑は深まったらしい。
「女煙術師も曲者らしいが、この屋敷も怪しく思われる」
で、しばらくは見まわしていた。屋敷内は寝静まっているらしい。人声もしなければ足音もしない。繁っている庭木の一所で、ねぐらをつくっていた雀でもあろうか、ひとしきり羽音が聞こえたが、それとてもすぐ止んでしまって、まったく物音が聞こえなくなった。
「いつまで眺めていたところで、別に得をすることもあるまい。思い切りよく帰るとしよう」
──で若い武士は立ち去ろうとしたが、立ち去ることはできなかった。
「印籠に未練がございますなら、お返しすることにいたしましょう」
潜り門の内側からの女の声が、悪戯ッ児らしい語調をもって、揶揄するように呼んだからである。
「ほう」という若い武士は、ちょっと度胆を抜かれたように、潜り門の前まで寄って行ったが、
「それではやはり拙者の印籠を、あなたにはおすりなされたので?」どうという訳ともなかったが、こんなような丁寧な言葉使いで若い武士は訊き返した。と、すぐに女の声がした。
「妾にとりましては印籠などは、どうでもよかったのでございますよ。欲しいと思ったのではございませんよ」依然としてその声は悪戯ッ児らしい、揶揄的の調子を帯びていた。潜り門の扉をへだてておりながら、声がハッキリと聞こえて来るのは、扉の合わせ目へ近々と口を寄せて物をいっているからであろう。追っかけて女の声がした。
「妾の本当に欲しいものは、ほかにあるのでございますよ」
「ほう、さようかな、なんでございましょう?」
どうやら若い武士の性質は、磊落で放胆で明るいらしい、叱咜も浴びせずに訊き返した。
と、女の声がした。
「誠心なのでございますよ」
「誠心? ほほう誠心がお好きか。風変りのものがお好きと見える」
またもや女の声がした。「鉄石心と申しましても、よろしいようでございますよ」
「だんだんヘチ物を望まれるようで」若い武士は興味を感じたらしい、面白そうにこういったが、「忠魂義胆などはいかがなもので?」──で、女の言葉を待った。
「何より結構でございますよ。ぜひとも頂戴いたしたいもので」だがこういった女の声には、今まであったような揄揶的のところや、悪戯ッ児らしいところなどは、おおよそ封ぜられてなくなっていた。真面目な語調となったのであった。
しかし若い武士はなんと思ったか、道化た口調で押し切った。「忠魂義胆がご入用なら、これからせいぜい骨を折って仕入れることにいたしましょう」
──と、女の声がした。「それにはおよぶまいと存ぜられます。ずっと昔から今日まで、変らずお持ちつづけておいでになる、その忠魂義胆だけで、もうもう十分でございますよ」
「どうもな、いよいよ変な女だ。俺のことをいくらか知っているらしい」若い武士はいささか気味が悪くなった。で、打ち案じて黙っていた。潜り門の向こう側でも黙っている。で、しばらくはひそかであった。
神田川を越した向こう側の、市橋下総守の屋敷の辺から、二声三声犬の声がしたが、つづいてギャッという悲鳴が起こった。往来の者に蹴られたのでもあろう。佐久間町の二丁目の方角から、駕籠が一挺来かかったが、相生町のほうへ曲がってしまった。
で、この境地は静かであった、霜でも置いたような月光が、往来を一杯に満たしている。
と、その時女の声が、潜り門の向こう側から呼びかけた。「妾は掏摸ではございません。でも掏摸かもしれません。妾は煙術師ではございません。でも煙術師かもしれません。……いえいえ本当の商売はそんなものではございません。放火商売なのでございますよ。……ちょうどあなた様と同じように!」
こんな妙なことをいい出したのである。
「ナニ拙者と同じように、放火商売だとおっしゃいますので?」さもさも驚いたというように、若い武士は胸を背後へ引いたが、「拙者は決して放火などはしませぬ」
しかし女はうべなわなかったらしい。同じ口調でいいつづけた。「神田の雉子町の四丁目で、一刀流の剣道指南の、道場をひらいておいでなされる、山県紋也というお方の本当のご商売は、放火商売なのでございますとも」
もしもこの時が昼であったならば、若い武士が心から仰天して、その眼を大きくみはったことに、恐らく感づいたことであろう。
「ほう」と若い武士はまたもいったが、「拙者の姓名をご存じとみえる」
「はいはい存じておりますとも。お名前ばかりではござりませぬ。ご素性からご行動から目的まで存じておるのでございますよ。で申し上げるのでございますよ、放火商売が本職だと。……そうして妾は幾度となく、あなた様とお逢いいたしました。そうしてお話をいたしました。ご懇意のはずでございますよ」
若い武士の山県紋也にとっては女のいうことが何から何まで意表に出るように思われた。「お逢いした覚えはござりませぬが、どこでお逢いしましたかしら?」
「はいはい石置き場のお屋敷で」
女はクスクスと笑ったようである。
石置き場の空屋敷で逢ったという。しかしそういう記憶はなかった。で、紋也はそれをいった。「その石置き場の空屋敷へは、私もたびたびまいりましたよ。しかし一度もあなたらしい、女煙術師などには逢いませんでした」
するとまたもや笑い声が、潜門扉の内側から聞こえて来たが、「それでは今度は女煙術師として、お目にかかることにいたしましょう」
「ほう」と紋也はそれを聞くと、声を洩らさざるを得なかった。
「それではあなたは女煙術師のほかに商売を持っておられますので?」
「はいはい、さようでございますとも」女の声は愉快そうであった。
「娘師、邯鄲師、源氏追い、四ツ師、置き引き、九官引き、攫浚付たり天蓋引き、暗殺組の女小頭、いろいろの商売を持っております」
「うーん」とそれを聞くと山県紋也はこういわざるを得なかった。「参った!」という意味なのである。事実紋也は女のお喋舌に、かなり参ってしまったのであった。しかし紋也は思い返した。「どこまでもこの俺を嬲る気なのだな」と──で、こだわらずに話しかけた。
「それでは石置き場の空屋敷では娘師、邯鄲師、源氏追い、四ツ師、置き引き、九官引き、攫浚付たり天蓋引き、暗殺組の女小頭──といったような商売の中の、その一つの商売人として、私とお逢いくださいましたので?」
とまた女の笑い声が、潜門扉の内側から聞こえて来たが、つづいてこういう声がした。「たった今し方も申しました、妾の本当の商売は放火商売なのでございますよ。で、石置き場の空屋敷では、その本職の放火商売人として、あなたにお目にかかりましたはずで」ここでプツリと話を止めたが、どうやら考え込んでいるようであった。と、後をいい継いだ。奇妙にも声が真面目である「ご回想なすってくださいまし、お思い出しなすってくださいまし、きっとお思い出されましょう。部屋の片隅の卓に倚って、醜い小男と肩を並べて、あなた様のお話に耳を澄まして、誰よりも先に手を拍き、誰よりも先に喝采をし、誰よりも先に賛成をする、一人の女がありました事を。……それが妾なのでございますよ」
「ああそれではあの私娼か!」山県紋也は思い出した。いかさまそういう女があった。が、紋也には合点がいかなかった。年齢とそうして風貌との相違が、著るしいがためであった。
「いかさま」と紋也は声をかけた。「そういう女とはあの空屋敷で、行くたびごとに逢いましたよ。しかし、その女は三十五、六で、風采もいやらしく容貌も醜く、態度も荒んで淫蕩で、あなたとは似ても似つかないような、そういう女でありましたよ。たしか私娼でありましたはずで」
すぐに女の声がした。
「顔や姿を変えることなどは、妾にはなんでもありません。年や態度を変えることなども、妾には何でもありません」
「では」と紋也はとがめるようにいった。「数あるあなたの商売の中には私娼という商売もありますので」
「はいはい私娼もいたしますとも」
「穢い女だ! いやな女だ!」
「でもお信じくださいまし、妾は処女でございますよ」
「何を莫迦な! 私娼だというのに!」
「でもお信じくださいまし。一歩手前で踏み止まります」
「一歩手前で?」と鸚鵡返した。
「許さないのでございますよ」
「ああなるほど。……ああなるほど」
「で、処女でございますよ」
二人はしばらく沈黙した。月がわずかばかり西へまわった。で、紋也が地へ敷いている影法師が少し東へ移った。
「妾の名はお粂と申します」潜門扉の内側の女の声が、沈黙を破ってこういったのを、いうところのキッカケとして、驚くばかりに能弁にお粂という女はいい出した。
「さっきも妾は申し上げましたが、なんの妾が印籠などに、眼をくれることがございましょう。印籠など欲しくはございません。さっそくお返しいたします。──と、このように申しましたならば、あなた様はおっしゃるでございましょう、では何ゆえ印籠をすったのかと。……それには訳がございます。この妾という人間を、強く強くあなた様に印象づけたく思いましたからで。……これが一つでございます。だがもう一つございます。このお屋敷をあなた様へ強く強く強く強く印象づけたいがためだったので。……つまりあなた様をここの屋敷へ、引っ張って来たかったためだったので……するとあなた様はおっしゃいましょう。ここは何者の屋敷なのかと? どういう性質の屋敷なのかと? ……今はお答えいたしかねます。でもこれだけは申し上げられます。あなた様と同じような考えを持って、あなた様と同じような仕事をしている、そういう人たちの籠っている、そういう屋敷でございますと。……で、妾は申し上げます。もしもあなた様が何かの事件で、危険が迫ってまいりましたならば決してご遠慮にもご斟酌にもおよばず、ここの屋敷へおいでなされましと。ご保護いたすでござりましょう。また私たちにいたしましても、あなた様のようなおりっぱなお方に、保護をしていただきたいのでございますよ。妾は思うのでございますよ。あなた様には敵がありましょうと。表立った敵も、隠れた敵も! ……私たちもそうなのでございますよ、たくさんに敵がございます。表立った敵も隠れた敵も! ……で、妾は申し上げましょう。同盟しなければいけませんと! ……はいはいあなた様と私たちとは! ……だがあなた様はおっしゃいましょう、お前は全体何者なのかと? お前の素性はなんであるかと? お答えすることにいたしましょう」
潜門扉の内側から聞こえていた、お粂という女の話し声が、ここでにわかにプッツリと絶えた。が、それもほんのわずかの間で、すぐ声が聞こえて来た。しかしそれは歌声であった。
「くもるとも……何か恨みん……月今宵……晴れを待つべき……身にしあらねば……」朗詠めいた節であった。「ね」とお粂の声がした。
「この和歌を作られた人物と、深い深い関係が、妾にはあるのでございますよ。そうしてこの和歌を作られた人と、あなた様のお父様にあたられる方とも、深い深い関係が、やはりあったはずでございますよ。したがってあなた様と妾とも、深い関係があるものと、こう申し上げてもよろしいようで。ああ……」という一種の嘆息めいた声が、潜門扉の内側から聞こえて来た。「父上同士は師弟で親友! ではお互いの息子と娘は師弟以上に親友以上に……ああ」とまたもや声がした。「恋人同士になったところで、不思議ではないではありませんか! ……恋し合い愛し合い助け合って、そうして同じ道へ向かう! ……なんていいことでございます。……妾はあなた様を恋しております。……でもこれ以上は申し上げられません。……さようならよ、さようならよ! でもまたすぐにお逢いできましょう。……印籠をお返しいたしますよ」
月光に水のように濡れて見える土塀の甍を躍り越えて、石塊のような小さな物が、紋也の頭上へ落ちて来たのは、そういった声の終えたころであった。で紋也は右手を伸ばして、宙で受け止めて握ったが、それはすられた印籠であった。で、手早く腰へつけたが、
「お粂殿。お粂殿」と声をかけた。が、お粂は立ち去ったのでもあろうか、潜門扉の内側から返事がなかった。
「はーン」と紋也は笑ったが、自分へ向かって笑ったのである。「これではまるっきり化かされたようなものだ。いつまでもまごまごしていようものなら、どんな目に逢わされるかわからない。帰ろう、帰ろう、家へ帰ろう」──で、紋也は二丁目のほうへ、片側町の家並みに添って、足を早めて歩き出した。しかし十間とは歩かないうちに、足を止めざるを得なかった。異様の行列が行く手のほうからこちらへ歩いて来たからである。
一挺の女駕籠を取り巻いて、数人の男女が歩いて来る。──これが行列の大体であった。異様なことではないではないか。──と、こういう事もいえばいえる。しかしやっぱり異様なのであった。駕籠が第一に異様である。大大名のお姫様が、外出の場合に使用するような、善美をきわめた女駕籠であって、塗りは総体に漆黒で、要所要所に金銀の蒔絵が、無比の精巧をもってちりばめられてある。引き扉には朱総が飾られてあって、駕籠の動揺に従って、焔のようにユラユラと揺れる。駕籠を取り巻いている男女の姿も、かなり異様なものであった。駕籠の前に立って二人の武士が、足音を盗んで歩いていたが、かぶっているところの覆面頭巾も、着ているところの無地の衣裳も、一様に濃厚な緑色であった。駕籠の後からつき従って来る、二人の武士の服装も、すなわち覆面も無地の衣裳も、同じように濃厚な緑色であった。
が、まだこれらはよいとしても、駕籠の左右を取り巻いている四人の女たちが揃いも揃って、同じように濃厚な緑色の被衣を深々とかぶっている姿は、どうにも異様といわなければならない。以上を簡単に形容すれば、濃緑の立ち木に取り巻かれて、黒塗りの朱総金銀蒔絵の駕籠が、ゆらめき出たということができよう。歩き方がいかにもしとやかで、誰も彼も物をいおうとはせず、咳一つ立てようともしない。しとやかに進んで来るのである。いやいや異様なのはこればかりではなかった。四人の武士が揃いも揃って、若くてそうして美貌だのに、四人の女が揃いも揃って、老年でそうして醜いのも、異様なことといわなければなるまい。
こういう異様な行列が、昼間でもあることか深い夜を、田舎でもあることか大江戸の町を、辻番などにも咎められずに、しとやかに練って来るということは、異様以上に奇怪ともいえよう。そういう行列に出会ったのである、山県紋也が足を止めたのは、当然のことというべきであろう。
「いったい何者の行列なのであろう? 駕籠には誰がいるのだろう?」──で、茫然と眺めやった。そういう紋也を驚かせて、異様以上の、怪奇以上の、凄いような事件の起こったのは、それからまもなくのことであった。駕籠が紋也の前まで来て、宙に舁かれたままで静止して、駕籠の扉が内から開けられて、女の顔がのぞいたのが、凄いような事件のはじまりであった。
月光がさえぎられているがために駕籠の中は闇に閉ざされていたが、その闇をさえ押しのけるほどにも、女の顔色は白かった。年が若いということと、高貴の女性だということと、艶麗の容貌だということと、姫君姿だということが、感覚的にではあったけれど、山県紋也には感じられた。濃緑の衣裳、濃緑の裲襠、それを着ているということも感ぜられた。衣裳の襟から花の茎のように、白く細々しく鮮かに、頸足が抜け出していることも、紋也の眼には見てとれた。
が、何よりも紋也の瞳に、強く印象されたのは、うつむけた顔の額越しに、凝然とみつめている女の眼つきで、よくいえば二粒の宝石であり、悪くいえば蝮の眼であるといえた。つまりそのようにも光が強くて魅力を持っているのであった。でその眼でみつめられた者は、一種の恍惚とした陶酔境に、墜落しなければならないであろう。闇の中に一輪の白芙蓉が咲き出て、そこへ二滴の露が溜って、その露が光を放っていると、こうも形容をしたならば、駕籠の中の容貌を、描き出すことができるかも知れない。と、その女が声をかけた。
「この若侍は凛々し過ぎるよ。接吻をしても駄目かもしれない。でも妾はこういう男も好きだよ。妾はこの男を手に入れてみせる。……でもこの男は拒絶るだろうよ。あの北条左内様のように。でも左内様は妾の物さ。……今夜から妾の物になるのさ。……今夜はこの男には用はないよ。だから今夜は帰るがいいよ。でも妾を覚えておいで。妾のほうでも覚えておくから。……一度接吻をしてあげよう。お前はフラフラになるだろう。いいえ一呼吸をかけてあげよう。お前はフラフラになるだろう。……一呼吸なのよ! 一呼吸なのよ!」
高貴の姫君に相違ないのに、駕籠の中の女のそういった声の、なんと荒んでいることぞ! そうしてそういった言葉つきの、なんとはしたなく下卑ていることぞ! たたずんで見ていた山県紋也は驚きと一緒にいわれぬ憎悪を胸に持たざるを得なかった。
「それにしてもこの女は何者なのであろう? 白痴でなければ狂人だ。何をいいかけているのだろう? 意味をなさない言葉ではないか……それにしてもこれはどうしたのだ? 胸を掻き乱す芳香は!」
炷物を炷いているのでもあろうか? 香料を身につけているのでもあろうか? 駕籠の中から形容に絶した、馨しい匂いが匂って来た。いやいやそうではなさそうであった。炷物を炷いているのでもなければ香料を身につけているのでもなくて、全く別の何物かから匂いは匂って来るようであった。では女の体臭であろうか? いやいやそうでもなさそうであった。もしも体臭であったならば、駕籠の扉をあけたその時から、匂いは匂って来なければならない。しかるに馨しいその匂いは、女が物をいい出した時から、忽然と匂い出して来たのである。
「もしこの芳香をたてつづけに、四半刻というものをきいていたならば俺はそれこそ色情狂になろう」山県紋也がこう思ったほどにもその匂いは催情的のものであった。そういう匂いを漂わせながら、なおも女はみつめていた。その女を蔽うているものといえば、黒塗り蒔絵の駕籠である。その駕籠を護っているものといえば、被衣をかぶった四人の老女と、覆面姿の四人の若武士と、脛を出した二人の駕籠舁きとである。そうしてそれらを見下ろしているのは、白けた晩い大輪の月で、燐のような光をこぼしている。
この一群をほかにしては人ッ子一人も通っていない。で、往来は空っぽであった。往来の片側に軒を並べて、無数の家々は立っていたが雨戸も窓もとざされているので、一筋の燈火さえ洩れて来ない。屋根ばかりを月光に化粧させて、地の上へ一列の家影を引いて、静まり返っているばかりである。この光景は幽鬼的といえる。そういう幽鬼的の光景を前にあたかも釘づけにでもされたかのように山県紋也は突っ立っていたが、それは動くことができないからであった。魅せられ麻痺されているからであった。
「匂いはいったいどこから来るのだ。……駕籠の中の女は何者なのだ。……なぜ老女たちも若い武士たちも、黙って無表情で突っ立っているのだ。……こいつらは俺を莫迦にしている」
いかさま四人の被衣をかぶった老女と、覆面姿の四人の武士とは、無表情のままで立っていた。顔が無表情というよりも、躯と態度とが無表情なのであった。すなわち老女も若い武士も、そこに紋也がいるということを、勘定に入れていないかのように、紋也のほうを見ようともせずに、空を見上げているのであった。
「こういう事件には慣れている」
「俺たちは毎々の出来事なのだ」
──こう語ってでもいるような、それは無視した態度でもあれば、冷淡をきわめた態度でもあった。
無表情でもなければ冷淡でもなく、まして無視していないものといえば、駕籠の中の女の眼であった。これは反対に執拗に、あたかも検査でもするかのように、紋也をいつまでもみつめている。
こういう両様の態度の中へ、紋也ははさまれているのである。しだいに怒りの感情が、胸の中へ盛り上がり昂まって来たのは、当然のことといってよかろう。「莫迦にしているのだ。嬲っているのだ」紋也はそろそろと右手を上げた。「叩き斬ってやろう! 叩き斬ってやろう!」で刀の柄を握った。と、その時駕籠の中で、ゆるゆると持ち上がる白い物があった。女が腕を上げたのである。と、コトリと音がした。見れば駕籠の扉がとざされている。女が内からとざしたのであろう。すぐに女の声がした。
「さあ駕籠をやるがよい」
駕籠がユラユラと動き出して、それを取り巻いた男女の者が長く往来へ影を曳いて、佐久間町三丁目の方角へ、シトシトシトシトと歩き出したのは、それからまもなくのことであって、そのために紋也は殺生沙汰から、あやうく救われることができたが、どうしたものか、にわかに「あッ」といった。駕籠の一団が三間足らずの先で、忽然とばかりに消えたからである。
駕籠の一団が紋也の眼の前の、三間足らずの先において、忽然とばかりに消えてしまったのは争われない事実ではあったけれど、さりとて地の中へ潜ったのでもなければ天へ上って行ったのでもなかった。一軒の家の中へはいったのである。
片側町の家並みが、月の光に染められもせずに、黒々と線を引いていたが、その一所に小さい門を持った、二階建ての家が立っていた。その造りは貧しげで、かつ小さくて狭そうであった。これという特色も備えていない、隠居家めいた家といえよう。
と、駕籠の一団であるが、その家の小門の前まで行くと予定の行動だというかのように、歩みをとどめて静まった。と、一人の若い武士であったが、群れから離れて小門の前まで行くと、ホトホトと小門を叩いたようであった。中からは声がしたらしい、まもなく小門が一杯に開いたが、それが再び閉ざされた時には、駕籠の一団は見えなくなっていた。小門の中へはいったのである。
だからこういう順序からいえば、駕籠の一団の見えなくなったのを、「忽然とばかりに消えてしまった」と、こういうことはいえないかもしれない。しかし紋也からいう時には、「忽然とばかりに消えてしまった」と、やはりいわなければならなかった。というのは駕籠の一団が、さも物々しく思われたがために、いずれは駕籠の一団は、ゆるゆると往来を進んで行って、厳しい立派な大きな屋敷へ、はいるものと思っていたのである。しかるに予想は裏切られて、すぐ眼の前の貧しげの家へ無造作にはいり込んでしまったのである。
「あやかしのように忽然と、眼の前へ現われて来た駕籠の一団は、あやかしのように忽然と、眼の前から消えてなくなってしまった」
こう紋也には思われたのである。
自然紋也の心の中へ、駕籠の一団を吸い込んだ小門を持った貧しげの家が、どういう性質の家であるのか、そうしてその家へはいり込んだ、駕籠の一団の正体と、そうしてこれからの行動とを思い切って見きわめてやりたいという、好奇的情熱が燃え上がったことは、至極のことというべきであろう。
いまだに流れている額の汗を、紋也は手の甲で拭いながら、しばらくは立ったままで考え込んだ。「まだまだ俺の心や躯は麻痺陶酔をしているようだ」しかし紋也は歩き出した。そうして小門の前へまで行った。耳を澄ましたが物音もしない。屋内はひたすら森閑としている。「こうなると俺は俺の眼を疑わざるを得なくなった。はたして駕籠の一団は、この家の中へはいったのであろうか? はいったように思われる。が、それにしては静かすぎるではないか」なおも耳を傾けたが、依然として屋内は静かであった。「ひとつ裏口へでもまわってみようか」屋内が静かだということが、いっそうに好奇的情熱を、紋也の心へ燃え立たせたらしい。
紋也はその家の壁に添って、横手の露路を裏へまわった。裏は小広い空地ではあったが、地面には雑草がぼうぼうと生えて、ところどころに木立ちがあって、切り石などが置いてあった。建築用の空地のようである。一所に生白く光るものがあった。地面には水が溜っていて、月が接吻けているからであろう。紋也は少しく距離を置いて、家のようすを一渡り見た。黒い板塀がかかっていて、その上へ家の二階だけが、月明の空を押し分けて、黒々と輪郭をつけていた。雨戸が引かれているからでもあろうか、一筋の燈火さえ洩れていない。依然として屋内は静かである。
「こうなると俺は俺の耳を、疑わなければならないようだ。あれだけの人数がはいり込んだのだ。人声のしないはずがない。それだのに人声がしないばかりか、咳の声さえ聞こえない。……聾者になったのではあるまいかな?」
紋也は少しく莫迦らしくなった。で、家へ帰ろうとした。で、塀に添って露路のほうへ、二足三足歩き出した。だが、その次に起こったのが第二段の恐ろしい出来事であった。塀の内側から足の音がしたが、ややあって塀の一所へ、ポッカリと四角の穴があいた。切り戸が内側からあけられたのらしい。と、その切り戸から黒い物体が、無造作に塀の外へ転がし出されたが、またすぐに切り戸は閉ざされてしまった。
「はて、なんだろう?」と怪しみながら、紋也は物体へ近寄ったが「若い男の死骸だ!」──と、数人の足音がした。
塀の切り戸から転がし出された、若い男の死骸なるものを、山県紋也が小腰をかがめて、調べてみようとした時に、数人の足音が聞こえて来た。家とは反対の方角から、家のほうへ近寄って来るのである。で、紋也はそっちを見た。空地に月光が充ちていたが、その月光を黒く抜いて、これも覆面しているらしい、五、六人の武士が一団となって、群像のように小走って来る。
「下手人に見られては迷惑である。どこかへ姿を隠してやろう」
──で、紋也は四辺を見た。と手近の一所に、五、六本の杉の木が立っていて、影を地上へ落としていた。
「あそこへ隠れてようすを見よう」──で、すばやく木蔭へはいって、覆面の武士たちを眺めやった。
一瞥しただけであったけれど、切り戸から地上へ転がし出された、若い男の死骸が異様なものであったことが、紋也の眼には焼きついていた。年は二十五、六でもあろうか、大店の商人の伜めいた、美貌で痩せがたの男であった。襟をひろげて、裾を乱して、そこから清らかな胸や脛を、痛々しそうに現わしていた。しかるにどうにも異様なのは、顔の表情に苦痛らしいものが、少しもなかったことであった。むしろ反対なものがあった。恍惚とした法悦感が、閉ざされた眼にも、ポッとあけた口にも、鮮かに漂っていたことであった。
髻がちぎれて髪が乱れて、額や頬へかかっていたが、それさえも苦痛のあらわれと見えずに、艶かしさを見せていた。法悦感の真っ只中において、息が絶えたものと見るべきであった。
杉の木蔭にかくれながら、覆面の武士の行動を、眺めやっている紋也の心には、そういう若者の異様な死相が、疑惑となって渦巻いていた。
その間も覆面の武士たちは、家のほうへ向かって小走って来たが、若者の死骸の前まで行くと、その死骸を包むようにして、足をとどめて前こごみになった。と、二人ひざまずいたが、やおら重々しく立ち上がった。見れば若者の死骸の足と、死骸の頭とを抱えている。どこかへ運んででも行くようである。まさしく運んで行くのであった。死骸を抱えた二人の武士が、早い足どりで歩くのを包んで、三、四人の覆面の武士たちが、また群像のようにかたまって、空地を横切って月光を縫って、元来たほうへ引っ返したのだから。
武士たちの姿が見えなくなった時に、紋也は杉の木蔭から出た。「行動がいかにも規則正しい、まるで予定の行動のようだ。塀の切り戸から死骸の出るのを、待ち設けていて運んで行ったようだ。彼らはいったい何者なのであろう?」疑惑から疑惑が続くのである。
「印籠をすった女煙術師、煙術師のはいり込んだりっぱな屋敷、その女煙術師の変った問答、幽鬼的の駕籠の行列、その駕籠の中の芳香を持った女、……そうして陰森としたこの小家、切り戸から出た若者の死骸、その死骸の異様な死相、死骸を運んで行った覆面の武士たち。……なんという今夜は気味の悪い晩だ! 何かに俺は憑かれている。帰ろう家へ帰ろう。これ以上に気味の悪いものにぶつかろうものなら、俺といえども怖気だつよ」──で紋也は露路へはいった。そうして露路から往来へ出た。とまたもや恐ろしいことが、往来で紋也を待ち受けていた。
更けた月夜の往来には、蠢めく物の影もなくて、佐久間町の通りは真っ直ぐに延びて、足もとのあたりは明るかったが、先暗がりに暗くなって、物の形がぼけて見えた。そういうはるかの往来にあたって黒々としたものが浮かび出たが、非常に早い走り方をもって、紋也のほうへ走って来た。近づくにしたがってよく見える。それは一人の若い武士であった。露出した顔を上へ向けて、月の光を吸い寄せている。盲目なのではあるまいか? 両方の眼を閉じている。が、唇は反対で、無心のようにあけられている、髻はちぎれてはいなかったが、髪が乱れてなびいていた。襟がはだけて胸が現われ、裾が崩れて脛を出していた。二十二、三の若い武士であった。紋也のいるのにも気づかないらしく、小門のある家の小門をめざして、夢中の態で飛び込もうとした。
「待たれい! 貴殿、左内氏ではないか!」
声をかけるとほとんど同時に、山県紋也は身を躍らせたが、背後から若い武士を羽掻い締めにして、ズルズルと小家から引き離した。「やはり北条左内氏だな! 狂気したのか! 心を静めろ!」なおも背後へズルズルと引いた。
北条左内と呼ばれた武士は、紋也のために羽掻い締めにされて、ズルズルと背後へ引きずられたので驚きと怒りとを感じたらしい。身を絞って紋也の羽掻い締めから、のがれようのがれようと焦心るようにしたが、
「誰だ! 無礼だ! 手を放せ! ……ああこの手を放してくれ! 呼ばれているのだ、行かなければならない!」
しかし紋也は放さなかった。「俺だ、俺だ、山県紋也だ!」
「山県紋也?」と、それを聞くと、左内は首をかしげるようにしたが、「どこかで聞いた覚えがある。がそんな事はどうでもいい! 手を放してくれ、手を放してくれ!」なおも体を踠かせる。
「どこかで聞いたような覚えがあると? 何をいうのだ! 驚いた男だ! 親友の俺を忘れたのか! ……気を確かにもて、正気づけ! 北条美作殿のご子息ではないか! 身分のあるりっぱな若殿ではないか! 取り乱した姿でこのような深夜に、なんと思ってどこへ行くぞ! いえ! いってくれ! どこへ行くのだ!」羽掻い締めにした両の腕をますます強く締めつけながら、その手で左内の体を揺すって、放心から解放させようとした。
しかし左内の放心的態度は、そのために解けようとはしなかった。今は踠いても駄目だと知ったのか、おとなしく躯をまかせてはいたが、そうして顔を空へ向けて、月へ蒼白くさらしてはいたが、茫然とした口調でいいつづけた。「……昼間は姫君だ! 夜は妖婦だ! ああそのお方が呼んでいるのだ! 今夜こそ接吻をしましょうと! ……だからぜひとも行かなければならない! ああ放してくれ、手を放せ! そうして俺を行かせてくれ! ……一呼吸はすでにかかっている! もう以前にかかっている! ……だから今度は接吻なのだ! ……」
月にさらされた左内の顔は、美しくて高尚で女性的であった、眼をほんのりと今あけた。鮠の形をした切れ長の眼で、睫毛が一倍に濃かったが、瞳に月光が宿っているのか、その濃い睫毛の合わさり目から、露のような光がチロチロと見える。神経質らしい高い鼻が、まともに月光を受けているので、寸が短く見做されたが、まことはむしろ長いほうであった、その鼻の影が上唇のあたりにちょんぼりと黒く染まって見える。ボッとあけられている唇の形はまるで女のそれのように、愛らしくて優しかった。頣が円くて頬がふくよかでやはり女のそれのようであった。そういう顔の下辺にあたって、すなわち胸の真ん中のあたりに、交叉された二本の腕があったが、背後から、しっかりと羽掻い締めにしている、山県紋也の腕なのであった。であたかも十字架のように見える。腕の十字架に締めつけられて、左内は身動きさえできないのであった。
羽掻い締めにしている山県紋也は、左内のうわごとを耳にしてどのように驚いたかしれなかった。というのは先刻方遭遇った駕籠の中の女のいった言葉が、思い出されたがためであった。──でも左内様は妾のものさ。──今夜から妾のものになるのさ。──それはこういった言葉であった。「ああそれでは親友の左内は、姫君姿の幽鬼的の女に、誘惑をされているのであったか。いよいようっちゃってはおかれない。どうともして正気に返さなければならない。だがどうしたらいいのだろう? 余りにも強く魅入られている」
しかしその時一つの考えが、紋也の頭にひらめいた。「うむ、そうだ、これをいってやろう」──紋也は首を伸ばして、左内の右の耳のあたりへ、近々と口を近づけたが、「貴殿には恋人があるはずだ、お狂言師の泉嘉門殿の十九になられる娘のお菊殿が! どのようなことがあろうとも、お菊殿を袖にはできますまい。ほかの女に誘なわれる! 不人情でござるぞ! 不人情でござるぞ!」
この紋也のささやいた言葉は、左内にはてきめんに効果があった。フッと左内は身顫いをしたが、
「お菊? お菊殿! いかにも俺の愛する人だ!」それから四辺を見まわしたが、「どこだ? ここは? 誰だ? 貴殿は? おッ山県紋也か! 俺はいったいどうしたのだ?」ようよう正気に返ったのであった。
正気に返ったと見て取ったので、羽掻い締めにしていた両の腕を素早く紋也は解き放したが、北条左内の前へ立った。
「左内殿、本心に戻られたか?」
「…………」左内はしかし黙っている。何やら考えているらしい。
「いずれ事情はあることであろう。が、只今は聞かぬことにしよう。拙者、お屋敷へまでお送りいたす。さあさあ一緒においでなされ」
「…………」しかし左内は黙っている。やはり考えているらしい。
「一人で帰られては心もとない。拙者、お屋敷へまでお送りいたす。さあさあ一緒においでなされ」
で、紋也は歩き出した。そういう紋也と肩を並べて、左内も足を運び出したが、なおも何か考えていた。と不意に足を釘づけにしたが、「紋也殿、ここはどこでござるな?」いぶかしそうに、声をかけた。
と、紋也は気づかわしそうに、左内の顔をのぞくようにしたが、「ここは佐久間町の二丁目でござる」
「ははあ佐久間町の二丁目で?」
またもや左内はいぶかしそうに、首をひねって考え込んだが、「なんと思ってこのような所へ、拙者深夜にまいったのでござろう!」
するとまた紋也は気づかわしそうに、左内の顔をのぞき込んだが、「それはかえって拙者のほうから貴殿にお訊ねをしたいのでござるよ。……が、今夜はやめにしましょう。貴殿もお訊ねなさらぬがよい。拙者もお訊ねいたしますまい。しかしこれだけは申し上げておく、どうやら貴殿には怪しい女性に、今夜は魅入られていたようでござると。で、今後はご注意なされ」
山県紋也は歩き出した。左内も並んで足を運んだが、またもやその足を釘づけにした。
「ああ俺にはわからない! 何がなんだかわからない! いつ、どうして、なんと思って、こんな所へ来たのだろう? ……そうしてなんだ、俺の姿は!」左内は自分の姿を見た。「髪がバラバラに乱れている。襟がダブダブにひらけている。裾がめちゃくちゃに崩れている。白痴か狂人のありさまだ! 俺はいったいどうしたのだ! ……今夜は俺には不思議な晩だ!」
「さよう」とそれを聞くと山県紋也は、一瞬の間微笑をほころばしたが、その微笑を引っ込ませると、逆に真面目な顔つきをした。それから両手を胸の辺まで上げたが、左内を柔かくおさえるようにした。
「今夜は不思議な晩でござるよ。拙者もこの眼で不思議なものを、いろいろさまざま見てござるよ。が、まあまあそれについては、二、三日のうちにお目にかかって、ゆっくりお話をいたしましょう。また拙者から貴殿に対して、承りたいこともござります。……ただし今夜は貴殿におかれては、順直にお屋敷へお帰りなされ。そうして今夜の行動を、とっくりとご自分にお考えなされ」子供に対する大人のように、物優しく紋也はこういったが、静かに先へ足を運んだ。
往来の上へ黒々と引かれた、二人の武士の影法師が、少しばかり長く延びたのは、月の傾いた証拠でもあろう。そういう影法師を供に連れて、二人は先へゆるゆると歩いた。片側町の家並みは、例によって静寂を保っていたが、反対側の神田川では、目覚めた鴎でも羽搏いたのであろう、バタバタという物音がした。しかし路上には人影はなくてこれも静寂を保っていた。
二人は先へ歩いて行く。歩きながら繰り返し繰り返して、左内はつぶやきを洩らすのであった。「今夜は俺には不思議な晩だ。何かを夢中でしたらしい」
そういう左内のつぶやきの声を紋也は耳に止めはしたが、合槌を打とうとはしなかった。しかし心では考えていた。「豪奢をきわめた女乗り物、その中にいた芳香を持った女、乗り物を取り巻いていた男女の供人、そうして裏塀の切り戸口から、転がし出された若い男の死骸、その男の死骸を運んで行った、覆面をした数人の武士。……これらの事件と北条左内とは、何らか関係がなければならない。よしよし近いうちに左内に質して、秘密のつながりを聞くことにしよう」
二人は先へ歩いて行く。が、にわかに二人ながら、足を止めなければならないことが起こった。闇に包まれていた一軒の家の軒の下から一人の男が、スルスルと姿を現わして、二人の前へまで来たからである。
「北条の若様ではござりませぬか」こういって声をかけたのは、闇に包まれていた一軒の家の、軒の下から現われた、敏捷らしい男であった。
「誰だな?」というと北条左内は足をとどめてすかすように見たが、
「ああお前か、松吉であったか」
「へい、松吉でございます」それは目明しの代官松であった。
「どこかのお戻りででもございますので」
「うむ」といったものの北条左内は、ろくろく返辞もしなかった。相手は下等な目明しである。旗本とはてんから身分が違う。それにもかかわらず父の美作が、どのような目的があるのかは知らぬが、この松吉に目をかけて、時々屋敷へ呼び寄せるのをいい気になって慣れ慣れしくふるまい、このような往来で心易そうにそんなように、言葉をかけたのが、潔癖の左内としては不愉快だからであった。と、そういう左内の心を、代官松は感じたらしい。てれたように顔をゆがめたがその顔を今度は紋也のほうへ向けると、
「これは山県の先生で、若様とご一緒でござりましたかな」
「さよう」紋也も冷淡であった。
「見られる通り二人一緒」──あえて代官松一人だけではなくて、あらゆる目明しというようなものを、日ごろから紋也は嫌っていた。もっとも世間の誰一人として、目明しを好きだというものはあるまい。が、紋也は身分においても、また抱いている志においても、またふるまっている行動においても、絶対に他人に知らせることのできない大きな秘密を持っていた。したがって、いっそうに紋也としては、目明しを嫌わねばならないのであった。代官松は江戸においても、名うての腕っこきの目明しであって、その上に紋也と同じように、神田の区域に住んでいた。で、紋也はずっと以前から、代官松のやり口については、注意と監視とを怠らなかった。しかるに決して思いなしばかりではなくて、たしかに相手の代官松のほうでも、紋也に何らかの疑いをかけて、探っているように思われた。
今その代官松に逢ったのである。冷淡にあつかったのは当然といえよう。
二人の武士にひとしなみに、冷淡至極にあつかわれたので、代官松はてれる以上に、怒りを胸へ燃やしたようであった。が、そのために立ち去ろうとはせずに、あべこべに執拗に構え込んで、ベラベラと皮肉に喋舌り出した。
「物騒な世間でございますよ。この泰平な徳川様の天下を、ひっくり返そうとするような奴らが、近来続々とどこからともなく、はいり込んで来たのでございますからな。……そうかと思うと娘のくせに掏摸を働こうという手合もあれば生若い武士の身分でいながら、水戸様の石置き場の空屋敷などで、つまらないことを説教して、人の心を乱す奴もある。女煙術師というような、変な芸人が産まれたかと思うと、死んでいるはずの老人が生きていてご府内を歩いたりしている。物騒、物騒、物騒な世間で、油断も隙もなりませんて。人と逢ったら悪党だと思え! これは金言でございますなあ。そこで私は押し切りまして、友達をお選びなさいましと。妙な人間と交際ろうものならご家名を穢すばかりでなくて謀叛人の汚名さえ着ましょうと。……そこへ行くとここに控えておられる山県紋也先生などは、よいお友達でございますよ。剣道にかけては一刀流の皆伝、柔術にかけては起倒流の免許、美男で品がよくて心が綺麗で、謀叛心なんかは持っていません。ご浪人ながらも道場の主人で、門弟衆などもたくさんにあって、内輪もだいぶご裕福らしい。もっともどんなに繁昌したところで、たかが道場の持ち主で、派手な生活はできますまい。にもかかわらず山県先生には、どうやら困っている人たちなどへは、派手にお金などを撒かれるようで、結構至極にございますよ。ただし疑えば疑えますて。全体どこからあんなお金が、集まって来るものでございますやら? ひょっとかすると軍資金として、箱根を越した方角から……おッとおッとこいつはいけない。ここまで喋舌っちゃアいけませんなあ。……で、お喋舌りはこれくらいとして、お別れすることにいたしましょう。とこういうといいのですが。ナーニもっともっと喋舌りますよ」
月光にたっぷり浸りながら、代官松はいいつづけるのであった。
と、紋也は身をひねったが、代官松には見えないように、右手をソロソロと上へ上げると、刀の柄へそっとかけた。
代官松を切ろうとでもするのか山県紋也は身をひねって、抜き打ち居合い腰の姿勢となったが、代官松には気がつかないと見える。なおもベラベラとまくし立てるのであった。
「……が、ご安心なさりませ、どのように世間が物騒であろうと、変な人間がはいり込んで来ようと、そうしてその変な人間たちが、蠢動妄動をしようとも、この私の眼の黒いうちは、だいそれた仕事はさせませんて。というのはそのうちにこの私が、腕に撚りをかけて秘密を探って一切合財をあばき立てて、一網打尽に引っ捕えて、獄門台へかけるという意味なので。ナーニわけはありませんよ。いと易いことでございますよ。それにあらかた今日までに、おおよそのところは調べ上げました。ただ私といたしましては、細かい雑魚などはどうでもよい、大きな鯨をにがしたくないので。それで今まで大事をとって、十手捕り縄をひらめかさなかったまで。……がそろそろひらめかしますよ。というのは鯨の居場所が、ほぼ見当がつきましたからで。で、とっておさえますよ。それもね、居場所といったところで、遠い所じゃアございません。鼻の先なのでございますよ、実は今夜も鯨の居場所を、それとなく探りに来たというもので。へいへいこれから参じます。いや全く悪い鯨で、三宅島の海の底のあたりに、死んで沈んでおればよいのに、フラフラと大江戸へ泳いで来て、町の真ん中に頑張って、いかめしい屋敷に囲まれて、住んでいるのでござりますからなあ。眼障りでしかたがございませんよ。で、生捕ってしまいますよ。この鯨さえ生捕ってしまえばたとえばヤットーの先生のようないわば雑魚のような連中は、自然と自滅をいたします。……おやまた少しばかり喋舌りすぎた。今度こそお別れといたしましょう。ご免ください、ご免ください。──とこういえばよいのですが、ナーニまだまだ喋舌りますよ」
こうベラベラとまくし立てながらも、代官松は眼をそばめて、紋也の顔をみつめるのであった。月の光にぼけてはいたが、紋也の顔はよく見える。まくし立てる言葉の一つ一つによって、どのように紋也が表情を変えるか? それをどうやら代官松は見て取ろうとしているようであった。しかし紋也の表情は、木彫りの面のそれのように、微動をさえもしなかった。ただし右の手はしっかりと、刀の柄にかかっていた。
茫然としているというよりも、呆気に取られているといったほうがこの場合の左内の態度にはまる。
「この目明しの松吉という男は、何をいったい喋舌っているのだ。わけのわからないことばかりをいうではないか。俺にはわけがわからない。それに平常の松吉といえば、こうもよく喋舌る男ではなかった。今夜はよほどどうかしている」これが左内の心持ちであった。が、そういう心持ちを、ひっくり返すような出来事が、俄然とばかり起こったのは、毒々しい口調で代官松がこういいかけた瞬間であった──「どだい京師の青公卿ばらが、自分たちの力量を計ろうともせずに、この治まっている徳川様の天下を……あッ、しまった! き、切る気か!」
この時紋也の体形が急に左へ傾いて、肩が一刹那沈むように見えたが、右手が素早く前へ伸びた。ワッという喚き声の起こったのは、それとほとんど同時であって、そうしてその次の瞬間には、黒い大きな毬のような物が、三間あまりもケシ飛んで、紋也と左内との前にいた代官松が見えなくなっていた。で二人の眼の前には、月の光を吸っている空間と往来があるばかりであった。
「貴殿、松吉めを切られましたので?」
「いや」と紋也は白く光る抜き身をダラリと地へ向けてひっ下げたが、
「刀にソリは打たせませんでしたよ」
「ああそれでは峰打ちなので?」
「さよう、懲らしてやりました。……あまりに不作法に喋舌りますのでな。……が、あいつも素早い奴でござる。ケシ飛び方が神妙でござった。裏鋩子を胴へ受けたばかりでござろう。……とにかく帰宅だ」
「帰宅することにしましょう」
さてこうして紋也と左内とは、この一郭から立ち去ったが、ちょうどそのころ一つの影が小門を持った小家の前へ、浮かむがように現われた。
ほかならぬ目明しの代官松であった。
小門のある家の小門の前へ、ボッと現われた代官松は、自分で自分を笑うがように、声を出してつぶやいた。「雑魚だ雑魚だと馬鹿にしたが、どうしてどうして紋也という男は、雑魚でないばかりか大物だ。気象も武道も素晴らしい。……あやうく俺は切られるところさ。……おや」
とつぶやくと代官松は、小門のある家の扉へ、軽く片頬を押しあてた。「たしかこの家は空屋のはずだが、今夜は人の気勢がする」
──で、しばらく聞き澄ました。
「借り手がついてはいったのだろう。ちっとも不思議なことはないさ」
代官松は歩き出した。
「一軒、二軒、三軒、四軒……小門のある家からはじまって、同じ並びの小さい借家が、ここ数ヵ月の以前から、一度に空屋になったのは、なんとなく俺には腑に落ちないよ」
月はいつの間にか家の背後へまわったからでもあろう、片側道の佐久間町の家並みは、いちように間口を黒めていたが、その家並みに添いながら、一軒、二軒と代官松は、家を数えて歩いて行った。
と、ぴったり、そこに建っている家というのは女煙術師と山県紋也と話し合ったところの屋敷であった。
と、スルスルと近寄って、代官松は大門の扉へ、しっかりと片耳を押しあてた。
「俺の本当の目的は、この屋敷にあろうというものさ。……一ヵ月このかた探っているのだが、いまだにハッキリとはわからない」
──で、聞き耳を引っ立てた。
今より一ヵ月の以前であったが、三宅島で死んだはずの老儒者が、両国の広小路を歩いていたので、たしかめようと後を追ったところ、老儒者には警護の武士があって、代官松をさえぎったがために、代官松は引きさがったが、そのまま引くような無能者ではなかった。引きさがって逃げたと思わせておいて、その実は見え隠れにつけて来て、そうして老儒者と警護の武士とが、この屋敷の中へはいったことを、覚られずに首尾よく突きとめたのであった。で、その後というものは、夜と昼との差別もなく、この屋敷へやって来ては、グルグルとようすを探ったり、近所の家々を訪れては、住人の起居を尋ねたりした。が、その結果知ったことといえば、このりっぱなお屋敷なるものが、八千石のお旗本の松浦左膳の控え家であることと、多くの武士が出入りをすることと、時々議論でもするらしい、人の話し声が洩れて来ることと──ただそれくらいのものであった。
「儒者ふうの老人がいるはずだが?」こう鎌をかけて近所の者へ訊いたが、「さあその点は存じません」と、あっけない挨拶を聞かされたばかりであった。
「いくらか妙に思われますのは、数ヵ月から並びの借家が、いっせいに店立ちしましたことで、なぜだろうと私たちは噂をしております」
こういう知らせを受けたことぐらいが乏しい代官松の獲物であった。
「土塀を乗り越えて屋敷の庭へはいって、思い切ってようすをさぐってみようか」──こう代官松は思うこともあったが、どうにも決心がつかなかった。というのはなんとなく神々しく、また何となく恐ろしく、ここの屋敷が思われるからであった。
で、今夜も見には来たが、やはり土塀を乗り越して、屋敷の中へ忍び込む気には、どのように努めてもならなかった。
「チェッ」と代官松は舌打ちをしたが「こんな経験はこれまでにはなかった。いったいどうしたというのだろう? これまでの俺と来た日には、どんな剣呑な屋敷へだろうと、これと思い込んで目星をつけた以上は、きっと忍び込んで探ったものだが、この屋敷に限って忍び込むことができない。……ヤキがまわったというものかな? それとも何かあらたかな物が、屋敷の中に在すからかな?」
はがゆく思われてならないのであった。
「一ぷくすって考えよう」大門からそれて土塀の裾へ、腰をかがめ込んだ代官松は、腰の煙管を引き抜くと、ゆるゆる莨を詰め出したが、「チェッ」とまたもや舌打ちをした。
「いけないいけない燧石を忘れた」
──とその時土塀の上から、意外にも女の声がした。「よろしかったらお火をお貸ししましょう」
同時に火の玉が下りて来た。
「よろしかったらお火をお貸ししましょう」こういう声が聞こえて来て、それと一緒に大きな火の玉が、眼の前へ下がって来たのであった。代官松たるもの仰天せざるを得まい。「何を!」と思わず叫び声を上げたが、眼の前の火の玉を睨むように見た。羅宇に蒔絵がほどこしてある、ずばぬけて巨大な一本の煙管が、その雁首へ莨の火を持って、そこからもうもうと煙りを上げて、眼の前の空間にふらついている。「ほう」とそれを見ると代官松は、驚きの声をまたも洩らしたが、グイと額を上へ向けると、背に背負っている土塀の上の、瓦屋根のほうへ眼をやった。と、黒々と茂っている、常磐木の葉を背景にして、瓦屋根の上へ夕顔のような、白い女の笑っている顔が、月の光のない中へ、抜けるように浮き出して見えていた。
「チェッ」とまたもや代官松は、三度目の舌打ちをしたかと思うと、やにわに右手を差し延ばして、巨大な煙管をひったくろうとした。がその時には巨大な煙管は、より素早さをもって、スーッと上へ引き上げられて、煙りばかりが暗さの中に、白い渦を巻いていた。
「恩知らずのお方でございますこと。せっかく親切に莨のお火を、お貸ししたではありませんか。それだのにお礼もおっしゃらずに、何ということをなさるのでしょう」
こういったのは土塀の上の、白い女の顔であった。もうこの時には代官松は、土塀から離れて往来へ立って、真正面から女を睨んで、怒りと恥とに身を揉んでいた。が代官松も只者ではない。よしよし図に乗って挑戯って来るこの女をうまくあやなして、屋敷のようすを探ってやろう──こう早くも心を決めた。で、わざとらしい笑い声を立てたが、
「お前さんは当時江戸で名高い、女煙術師のお粂さんで」まずこういって声をかけた。
「はいはいさようでございますよ、御贔屓にお願いいたします」土塀の上の女はお粂であったが、こういうと白い顔をゆがめて見せた。笑いを笑った証拠である。
──ひとつ油をかけてやろう──
こう代官松は考えたらしい。
「決してお世辞ではございませんよ、お前さんの煙術と来た日には、どこでもかしこでも大評判で、うらやましいほどでございますよ」──どうだたいがいは嬉しがるだろう──代官松はニヤニヤした。
が、お粂は逆手に出た。
「煙術も結構には相違ないが、縹緻のほうがもっといいと、皆様このようにおっしゃいます」
「おやおや」と代官松は苦く笑ったが、すぐに応ずることにした。
「それは申すまでもございませんよ。お前さんの縹緻と来た日には、唐天竺にもないということで」
「でも皆様はおっしゃいます」またもやお粂は上手に出た。「赤い手甲に赤い脚絆に、長い振り袖に鬱金の襷姿のほうが縹緻よりも、もっともっと結構だと」
「いやはやまたもやはぐらかされたぞ。一筋縄ではいかない女だ」代官松はいやになったが、しかし応ずることにした。「いやお前さんの扮装と来ては、豪勢な評判でございますよ」
──今度はなんというだろうかな? 代官松はヒヤヒヤしながら、お粂の返辞を待ち設けた。
「煙術より縹緻より扮装より、もっともっともっと素晴らしいものを持っていると、皆様はおっしゃりはしませんか、あなた様ばかりはおっしゃいますはずで」
「え?」と代官松は首をひねった。
「そうでございましょうかな? そうでございましょうかな?」
「両国でお逢いしましたねえ」
「え、両国で? さあいつごろ?」
「一月ほど前の真昼間に」
「はてね、どうも覚えがない」
──とお粂は蓮っ葉に笑ったが、
「つくりや顔を変えていたのでお気がつかなかったのでございましょうよ。お前さんの眼の前でポンポンと懐中物をはたいたはずで……」
「おッ、あの時の女掏摸が? ……」
「あい、妾さ」
「呆れたな」
「さんざお呆れよ」
「下りて来やがれ……」
ののしると一緒に代官松は、身を躍らせて飛びかかろうとしたが、もうその時にはお粂の顔は、土塀の上に見えなかった。しかしその代わりに男の顔が、同じ土塀の上に見えた。
お粂と入れ違いに土塀の上へ、獄門台の上の首のように、顔を現わした男といえば、お粂の相棒の金兵衛であった。
「今晩は」とばかり金兵衛の顔が代官松に向かって声をかけた。「ご苦労様にござります」
変な奴が出て来やがった──代官松はこう思ったので、返辞もせずに眼を怒らせて、金兵衛の顔を睨みつけた、右の肩をグッと怒らせたのは敵愾心を示した証拠である。
しかし金兵衛は代官松の、そういう態度に無関心かのように、ベラベラと能弁に喋舌り出した。
「私は金兵衛と申しまして、お粂さんの仲間なのでございますよ。で、ある時には煙術師としての、お粂さんの助手となりまして、大煙管をかついだりいたしますし、またある時には手代ふうをして、お嬢さんのお粂さんと一緒に、両国の広小路でやりましたような、ああいうこともいたします。そうかと思うと、お長屋の土塀へ、お粂さんが楽書きをいたしましたのを、偉いなどといって同意したりします。──もっともこれはなんのことだか、お前さんにはわかりますまいがね。そうかと思うとお粂さんと一緒に、水戸様の石置き場の空屋敷などへ行って、人の心へ火をつけるお若いお侍さんの、お話を熱心に承って、手を拍ったりなどいたします。……間の抜けた顔はしておりますが、案外に私は気が利いていまして、わけても眼と耳が利いておりまして、人様の思惑ややり口が、よくわかるのでございますよ。たとえばお前さんが一月このかた、この屋敷の土塀の周囲を、グルグルおまわりなさることや、近所のお神さんや子供さんの口から、ここのお屋敷の内輪のようすを聞きただそうとしたことなども、ちゃんと知っておりますので。……で、私といたしましてはせっかくにお骨折りくださいますので、ここのお屋敷の内輪のようすを、お知らせしたいのでございますが、少し故障がありまして、それだけはお話しいたしかねます。で……」
とここまでいって来たが、金兵衛は首を一方へ傾げた、お粂の顔色は白かったので、背後には常磐木を背負っていても、また月光にそむいていても、夕顔の花のように浮き出して見えたが、金兵衛の顔はそうはいかなかった。暗い中にいっそうに暗く見えた。そういう顔が傾がったかと思うと、辛辣な声が響き渡った。「やい、立ち去れ! 二度と来るな! 代官町の松吉め! ……ホッ、ホッ、ホッ、行きおる行きおる!」
相手が悪いと思いもしたし、自分の心を見抜かれたことが、小気味が悪くも思われたからであろう、金兵衛の毒舌を背後に聞き流して、屋敷の土塀に添いながら、屋敷の裏の方角へ、代官松は足早に歩いた。
「思ったよりも凄い奴らが、この屋敷の中には籠もっている」
土塀について左へ曲がった。それへついて進んで行く。こうして屋敷の裏側へ出たが、その裏側を行きつくすと、広い空地になっていた。建築用の空地らしい。空屋になっている数軒の小家の、裏側が空地に列をなしている。それについて代官松は先へ進んだ。こうして表口に小門を持った小家の裏まで歩いて来た時に、またもや気味の悪い出来事に、ぶつからざるを得ないことになった。その家の黒塀の切り戸が開いて、そこから若い男の死骸が空地の草の上へ抛り出されて、すぐに切り戸が閉ざされたのである。
代官松としては知らなかったのであるが、これで二人の男の死骸が、切り戸から空地へ出されたのであった。「おッ、死骸だ!」とうめくようにいったが、代官松はしゃがみ込んで、その死骸を調べようとした。しかるに引きつづいて意外なことが、代官松の眼前で演ぜられた。覆面の武士の一群が、どこからともなく走って来たが、代官松を押しのけて、男の死骸を運びかけたのである。
「やい、こいつら! 待て! 曲者!」
そういった代官松の怒った顔を一人の武士がのぞくようにしたが。「おお貴様は松吉か」
「どいつだ! あッ、あなた様方で!」
「今夜のことは人に洩らすな!」で、武士たちは足早に去って、代官松だけが残された。
「今夜は皮肉な厭な晩だなあ」
しかしそういう皮肉な晩も、その後、事もなく明けはなれて、翌日の昼になった時に、麹町三番町のお狂言師の、泉嘉門の屋敷の庭で恋語りをしている男女があった。
狂言には三つの流派がある。鷺流、和泉流、大蔵流である。ただし現在では鷺流は滅びて、二流だけになっている。「鷺はなかなか軽妙にして飛び放れたる芸をなし、和泉もまた鷺のごとし、唯ひとり大蔵は堅実なる芸をなせば素人受けなき方なり。さはいえ厳格の中に可笑味あり」これが三流の特色である。しかるに旧幕時代においては、鷺流と大蔵流が幕府方で、和泉流だけが京師方であった。どうして鷺流が滅びてしまったのかは、いまだにハッキリとはわかっていないが、噂によると、他の二流から、排斥されたからだということである。しかし旧幕の時代にあっては、勢力のあった流派である。
泉嘉門というお狂言師は、姓を泉と宣ってはいたが、流派は鷺流に属していて、しかも名人のオモ役者であった。年齢は四十八歳で、りっぱな顔の持ち主であった。由来お能役者やお狂言師は、その職業のしからしめるところか、おおかた使用をする面のような、端正の顔をしているものであるが、嘉門の顔もその例に洩れずに面のように端正であった。「中将」という面があるが、嘉門の顔はそれに似ていた。が、年は争われない。皺が顔にうねっていた。とはいえそういう皺にさえも閑雅で上品なものがあった。蓬々とした太い眉毛、魚の形をした夢見るような眼、決して険しくない高い鼻、軽く開いても強く結んでも、愛嬌のあふれる小型の口、これが顔の道具であった。こめかみから頬から頤へかけて、なだらかに引かれている顔の線は、芸術的といってもいいほどであった。顔全体の形からいえばやや長い卵形ということができよう。身体は大柄で威厳がある。
しかるにそういう嘉門の顔が、ここ数ヵ月に変って来た。眼に一抹の怒りが現われ、口に一抹の皮肉味が出て来た。これはどういうしだいなのであろう? 噂によるとある事件から、嘉門は宗家から破門されて、能界から圧迫排斥されて、表だって舞台へ上がることが、できなくなったからだということである。
で、嘉門はこのごろ中は、家にばかり鬱々と引き籠もっていて、朝に昼に晩に飲酒ばかりしていた。
今日も嘉門はただ一人で、取りちらされた盃盤を前に、裏座敷で酒を飲んでいる。
あけ放された障子の向こうは、広い板縁になっていたが、その向こうは荒廃した庭であった。庭好きの嘉門ではあったけれど、このごろでは手入れもしないものと見える。雑草なども伸びていた。庭の奥所に藤棚があって、咲き垂れている藤の花の周囲を、蜜蜂が群れて飛びめぐっていた。小さい築山の裾のあたりに、夏水仙の花が咲き揃っていたが、緑にまじっているがために、琥珀のような色が冴えて見えた。昼の陽が庭に降り注いでいる。で、葉の色も花の色も、活々と明るく健康に見えた、近くに泉水でもあるのであろう、樋から水でも落ちてくるのであろう、トコトコという音が聞こえていた。
庭が明るくて健康そうだのに、部屋の中の薄暗くて陰気なことは! しかしそういう薄暗さの中に、朱塗りの衣桁が立ててあって、「連歌盗人」の都雅な衣裳が、無造作に掛けられてあるところは、古風で美しい光景であった。その衣桁の足もとのあたりに、幾個かの箱が置いてあったが、面を入れておく箱なのであった。一つの箱の蓋が開いている、箱の底に深々と「泣尼」の面が、上向きに一面置かれてあったが、活きているような上作で、虚の眼が天井を見上げている。鉾だの爼庖丁だの、小道具の類が床に近く、乱雑に投げ出されて置いてもあったが、薄暗い部屋の微光の中で、その太刀の鞘の一本が銀灰色におぼめいているのが、これまた古風に眺められた。で、部屋の中は狼藉としている。
何事かにわかに思い出して、衣裳や面や小道具の類を、一時に引き出して吟味しているうちに、酒が飲みたくなったので、それらの物をうっちゃったままで、酒のほうへかかったものであろう。
明るい庭のほうへ横顔を向けて、盃をなめていた主人の嘉門は、ヒョイとばかりに腕を伸ばすと、黒塗りの膳の向こう側の、畳の上へ盃を置いたが、「太郎冠者殿まず一杯、ご相伴をなされ、ご相伴をなされ」こういって首を前へ伸ばした。
が、この部屋には嘉門のほかには、太郎冠者どころか次郎冠者どころか、誰一人としていないのであった。
誰も一人もいもしないのに、眼の前に太郎冠者がいるかのように、盃をさした狂言師の嘉門は、手を伸ばすと側の銚子を取り上げて、盃へ酒を一杯についだ。
「太郎冠者殿よ、遠慮はいらない。さあさあお過ごしなさりませ。酒は上等の灘物でござるよ、亭主役は泉嘉門でござる。不足はないはずでござりますがな」──かなり嘉門は酔っているらしい。少しくろれつのまわりかねる舌で、このように一人で喋舌って来たが、いもしないところの太郎冠者が、盃を取り上げて飲むはずがない。しかるにどうやらお狂言師の嘉門には、それが不服でならないらしい。皮肉なことをいい出した。
「さては冠者殿におかれましても、この嘉門を嫌っておられますそうな。困ったお方でござりますな。もっともいつでも太郎冠者殿は、意地の悪いお方でござりますがな。大名衆などをおさえお虐めなされる。また狂言に現われて来る大名衆と来た日には、現在の大名衆と同じように、ばからしい手合ばかりではございますがな。『鬼争』の大名は、臆病者でありますし、『萩大名』の大名は、無学無風流でござりますし、『墨塗』『伊文字』『釣女』などに、姿を現わす大名と来ては、好色でしかたがございません。また『靱猿』の大名は、圧制で残忍でございますよ。『鼻取相撲』や『文相撲』などに登場する大名と来た日には、力の弱い骨頂で、『栗焼』『太刀はい』『粟田口』『あかがり』などへ現われて来る、お大名衆と来た日には、まことにうってつけに太郎冠者殿に、からかわれるに適した人物でござんす。で、よろしく太郎冠者殿には、大名衆をお虐めなさりませ。しかし拙者は大名衆ではござらぬ。その大名衆と同じような、暴威を揮う人たちのために、さいなまれているお狂言師でござる。で、いじめてはいけません。むしろ可愛がっていただきたいもので。……で、お相伴くださりましょう。盃をお干しくださりましょう」
どのように嘉門が強請んだところで、座にいもしない太郎冠者が酒を飲み干す気づかいはない。で盃につがれた酒は、減りもしないで満ちている。
「止せ!」と嘉門は怒鳴りつけた。「このようにおすすめいたしましても、どうしても飲まないと仰せられるなら、無理に飲めとは申しますまい。……拙者がいただくでござりましょう」嘉門は腕を伸ばしたが、盃を口へまで持って来ると、キューッと一息に飲み干した。
「古いいい草だが甘露甘露で。これさえ飲んでおりますれば、不平も自棄も起こりませぬて。……では今度は次郎冠者殿へ、お相伴を願うでござりましょう」こういうと嘉門は盃の手を、黒塗りの膳の右側のほうへ、さも恭しく差し出したが、「お飲みくだされ、お飲みくだされ遠慮はいらない次郎冠者殿、器用にお飲みくださりませ」──で、盃を畳の上へ置いた。
しかしもちろんその方角にも、次郎冠者殿がいないばかりか、誰一人としていないのであった。盃には酒が満ちたままである。
「これはこれは呆れた話だ」嘉門はまたもや毒吐き出した。
「次郎冠者殿までが拙者を嫌ってお相伴をしてくださらないそうな。なんと申してよろしいやら、薄情な話でござりますなあ。人間が一度落ち目になると、寄ってたかって周囲の者が、さいなむようでございますなあ。……さいなみたければさいなむがよろしい、嘉門は少しもビクツキません。それにさ、俺は名人だよ!」大きく両眼を見開いたが自負と自信とに満ちた光が、その眼の中に輝いて見えた。が、その次の瞬間には、笑殺的な冷やかな光が、涙のように濡れて見えた。
「お狂言師の嘉門様は、はいはい名人でござりますとも。祝賀物をやらせても、鬼神天狗物をやらせても、片輪、いたずら、悪気のない物、争い物をやらせても、僧侶物から遊興物、婿取り物から夫婦物、盗人物から悪人物、何から何までやらせても、いつも名人でござりますよ。……それほどの名人の泉嘉門だ! 誰だ! 嫌って排斥するのは! ……ハッハッハッ、怒ってはいけない。浮世はこうしたものだからなあ。ともかく盃をいただきましょう」
盃を取り上げると口へ持って来た。で、キューッと飲み干したが、手酌でドクドクとつぎ出した。たてつづけに嘉門は酒をあおる。とカラリと盃を投げたが、フラフラと立ち上がると縁へ出て、庭下駄をはくと庭へ出た。
庭へ下り立ったお狂言師の嘉門は、したたかに酒に酔っているがために、歩く足どりが定まらない。ヒョロヒョロヒョロヒョロとよろめくのである。そういうあぶなっかしい足どりで、あてなしに庭を歩いて行く。
「草や木ばかりを見てさえいれば、不平も不満も起こらないのだが、活きて浮世に暮らしているからには、やはり人間を見なければならない。と、不平やら、不満やらが、すぐに鎌首を持ち上げて来る。いやだいやだ、人間はいやだ」
左のほうへヒョロヒョロとよろけた。「どっこい」というと足を踏み固めて、両膝へ両手の拳をついたが、
「転んではいけない立っていなければいけない、転んだが最後世間という奴が、重くその上へ乗っかかって来て、起きられないようにおさえつける。立ったり立ったり頑丈に立ったり」──で、酔眼を憤らしくあけたが、その眼の前に躑躅の叢が円らかにコンモリと茂っていて、花がつばらかに咲き出していた。「上にあるものといえば涯のない空だ、周囲にあるものといえば日の光ばかりだ、さえぎるものもなくのびのびとして、勝手に咲くことのできる花、勝手に咲くことのできる花、どうにも俺には羨ましいよ」しばらく躑躅の花を見ていたが、嘉門はフラフラと先へ進んだ。
〽いかに童子の御座あるか、童子と呼ぶはいかなるものぞ、山伏たちの御入候か……
寂びた美音で謡い出したのは「大江山」の一曲であった。と、今度は右のほうへヒョロヒョロヒョロヒョロとよろめいた。「どっこい」といって足を踏み固めて、また両膝へ両の拳をついたが、嘉門は胸を張って笑い出した。
「おびただしくも酔いにけり──酔うということはよいことさ、芸に酔い術に酔う。いつもいつも醒めている奴は冥利や金ばかりにかじりつく。ハッハッハ、陶然と酔えよ」今度は無邪気に酔眼をあけて、体のまわりを眺めやった。と、足もとに芍薬の花が十数本の青い茎の上に、群れて白々と咲いていた。微風が渡っているからでもあろう、花の群れが頭を振っている。
「芳香が高くて純潔で、雑気のない白芍薬の花よ! 俺はお前が大好きだよ。その根が人助けの薬になる。何から何までもいい花さ」──だが嘉門は先へ進んだ。
〽柳の下のおちご様は、朝日にむこうてお色が黒い……
小舞物の古雅な「柳の下」を微吟しながら歩いて行く。
〽お色が黒くば笠を召せ……
蹣跚として歩いて行く。と、またもや左のほうへ、ヒョロヒョロヒョロヒョロとよろめいた。
「どっこい」というと同じように、嘉門は足を踏み固めて、そうして両膝へ両の拳をついたが、あやうく転ぶのをまぬがれたのである。と、ヒョイと前を見た。牡丹桜の老木が立っていた。すでに季節は過ぎていたので、枝にも梢にも一面に、花はなくて新葉が萌え出ていた。がこれはどうしたのであろう、その色があせて花弁が縮れて、みすぼらしくはなっていたが、二束あまりの牡丹桜の、花がかたまってくっついていた。もろくもなっているのであろう、絶えず風にホロホロと散る。
「なんだか心が滅入って来た」嘉門は花を見上げたが、ふと寂しそうにつぶやいた。「季節に遅れてはかたなしだ。なんてみすぼらしい牡丹桜だ! 盛りが花やかであっただけに、衰えた今が、よりみじめだ。……うっかりしてはいられない。俺といえどもこうなるかもしれない」しかしにわかに笑い出した。「なあに、俺は大丈夫だ! 怒りを心に持っている。そのうちに愚昧の連中を、一人残らず吹き飛ばしてみせる。まずそれまで辛抱さ」しかしやはり寂しそうであった。いつか肩がうなだれて、顔が地面へ向いている。その肩の上に日がさして、その日の中の肩の上に、散った花弁が止まっている。
「これが、いけないといっているのだ」はねるように嘉門は幹から離れて、元気よく庭を彷徨い出した。「時々に起こってくる鬱ぎの虫! これが、いけないといっているのだ。……無理にも元気にふるまうがいい。さて元気だ! 元気を出して謡え!」
〽うらに来いとの笛の音、裏道来いとの笛の音……
元気よく嘉門は彷徨って行く。
〽裏道来いとの笛の音……
嘉門は手拍子を打ちながら、元気よく庭を彷徨って行く。
〽じょに吹く笛が麓にきこゆるおおさては推した、うらに来いとの笛の音……
元気よく蹣跚として彷徨って行く。手拍子を打つ手がヒラヒラと動いて、明るい初夏の日をはね返して、手首が肩の上へ上がるごとに、手の甲のほうが日蔭となって、掌のほうが明るんで見える。裾を乱して脛を出して、腰から下のほうを少しく沈めて、及び腰をして歩いて行く。顔に真っ向に日がさしていて、面のように調った顔の、眼や鼻に陰影がついている。
そういう嘉門を送り迎えるのは、手広い荒れ庭の草や木であった。
一所に花柘榴の木があって、赤い蕾が珠のように、枝に点々とつづられていたが、その中の二、三顆が襪のような花弁を、恥ずかしそうにはみ出させていた。その根もとにゆらゆらとなびいているのは、これも蕾の百合の花であったが、十日ほどたったら蕾を破ろう。
〽うらに来いとの笛の音、うら道来いとの笛の音……
嘉門は先へ歩いて行く。と、草萌えで青み渡っている、小さな築山の前へまで来た。その築山の裾の間から、新しい苔をまとったところの、筧が一本突き出されていたが、清らかの水が筧の口から、泉水の中へ流れ落ちて、細かい飛沫を上げていた。
「のうのう水鏡を見ようずるにて候」
わけのわからないことをいいながら、歩いていた嘉門は足を止めて泉水の縁へたたずんだが、やがて足を曲げてかがみ込んだ。と、姿が水へうつって、小鬢の生え際や額のあたりに、めっきりと増えた白い髪がのぞき込んだ嘉門の眼に映った。
「老いにけらしな今ははや。……なんの芸匠には年はないよ」で、嘉門は立ち上がったが、泉水をめぐって歩き出した。とまたもや嘉門は謡い出した。
〽杖にすがりてよろよろと、本の藁屋へかえりけり、百年の姥と聞こえしは、小町が果ての名なりけり……
「俺には年がないにしても、娘のお菊は女の身だ。迂濶にほうってはおかれない。『関寺小町』とおちぶれさせては、親として申し訳がないからなあ」
二坪ばかりの茶畑があって、緑青色の厚肉の葉が、押し合うように盛り上がっていたが、その傍らまで歩いて来た時に、嘉門は胸へ腕を組んだ。
「一刻で頑固で人と容れないで、思う通りをやってのける、俺の性質や暮らし方が、娘の出世に支障わったら、済まないことになるのだがなあ」
これに思いが至ったからであった。
「お菊は今年十九のはずだ。そろそろ婿を取ってやらなければならない。嫁に貰い手があるようなら、こだわらずに嫁にくれてやって俺の家は一代で潰してもよい。同業からヤクザの婿を貰って、なまじお狂言師に仕立てるよりも、嫁にやったほうが無難らしい」
嘉門の女房は数年の前に死んで、今は嘉門は鰥夫であった。子供はお菊一人しかない。で、嘉門はお菊に対しては、父としての世話をやくと一緒に、また母としてのいろいろの世話をも、やいてやらなければならなかった。しかるに嘉門の心の中では、限りなくお菊を可愛がってはいたが、自らの性質が禍いして、ずっとこれまではお菊に対して不注意の態度をとっていた。
それが済まなく思われたのである。
しかし嘉門は腕をといて、そうして元気よく笑い声を立ててまた蹣跚とさまよい出した。
「縹緻もよければ姿もよくて、しかも優しいあのお菊だ、自分の娘ながらりっぱなものだ、嫁に貰い手などザクザクあろう。あるともあるとも大ありだ。現にあのお方があるじゃアないか。……が、どうにもあのお方へだけは差し上げることはできないなあ」
〽草木は雨露のめぐみ、養い得ては花の父母……
「おや」と嘉門足を止めて、藤棚のほうをのぞき込んだ。「見て悪いものを見たようだぞ」
藤棚の横に捨て石があったが、それに腰をかけて若い男女が、睦まじそうに話していた。
藤棚の横の捨て石の上へ、腰をかけていた、若い男女は、ふと話し声を途絶えさせたが、一緒に捨て石から腰を上げた。その時まで遠々しく聞こえていた、嘉門の酔った小謡の声が、だんだんこっちへ近寄って来て、藤棚の向こう側まで来たかと思うと、にわかにフッツリと絶えたからであった。
と、二人は顔を見合わせたが、藤棚の向こう側をすかして見た。その藤棚の向こう側には、白い花をつけた馬酔木の叢が、こんもりと茂っているがためか、嘉門の姿は見えなかった。
「今日も嘉門殿はご機嫌のようで」
「このごろでは父は毎日のように、お酒をあがるのでござりますよ」
「お心に蟠りがおありなさるによって、それで飲されるのでござりましょう」
「気の毒な父でござります。気の毒な父でござります」
「すべて名人と申しますものは、不平と一徹と負けじ魂とに、悩まされるものでござりますよ」
「一倍父はその方面のことで、悩む性質でござりますので。……」
「悩みは誰にでもござります」
こういうと若い武士は物憂そうに元の捨て石へ腰を下ろしたが、「あなたもおかけなさりませ」
藤棚を漉して来た初夏の陽が、藤の花房の揺れるごとに、乱れた縞のような斑をなして、続いて捨て石に腰を下ろした若い娘の肩をさした。
二人はしばらく黙っている。
蜂の唸り声がかすかに聞こえて、隣りのお屋敷で飼っているらしい、老鶯の啼く声も届いて来た。
黙っているということが、どうやら二人には苦痛のようであった。二人ながら身体をもじもじとさせた。
切れた話のつづきでもあろう、何気なげに娘はいい継いだ。「お狂言も好きではござりますが、でも妾にはお能のほうが、もっと好きなのでござりますよ。お能の面などを眺めておりますと、もうそれだけで心の中が、ノビノビといたして参ります。小面や若女や増の面などはわけても大好きでございます。でも鉄輪の生成や、葵の上の泥眼や、黒塚に使う近江女などは、凄味がありまして恐ろしゅうござります」
捨て石の上へ穏やかに、膝を揃えて腰をかけて、そのふっくりとした、膝の上へ、靨の見えている両手を重ねて、つつましやかではあるが無邪気な言葉で、こう娘はいい継いだが、嘉門の一人子お菊であった。
「お能の面というものは、まことによろしいものでござりますよ。しかし私はあなたとは反対に、生成や泥眼や近江女などの面に、心を引かれるのでござりますよ。特に私には重荷悪尉の面が、好もしく思われるのでござりますよ」
お菊と向かい合って捨て石の上へ、こごみ加減に腰をかけて、お菊の顔に見入りながら、少し性急にこういったのは、袴姿の武士であったが、ほかならぬ北条左内であった。眼の中に一抹の悶えがある。
と、お菊は首を傾げるようにしたが、「あのように恐ろしい重荷悪尉の面が、なぜにあなたにはお気に召しますことやら」ここでいくらか口ごもったが、「妾にはただただあの面は、醜く凄くいやらしいものに、思われるだけでござりますよ」
「では」と左内はそれを聞くと、眼の中の一抹の悶えの色を、濃くするようにまばたきをしたが、「それではきっとお菊殿には、この私の顔などをも、醜く凄くいやらしいものに、お思いなさるでござりましょうな?」──で、不安そうにのぞき込んだ。
「まあまあ何をおっしゃいますことやら」お菊は呆れたというように、眼を張って左内の顔を見たが、「おからかいなさるものではござりませぬよ」
「なんのからかいなどいたしましょう。真面目に申し上げておりますので」左内の声は真剣であった。
「あなたにお逢いをいたしましてからは、私の心と申しますものは、重荷悪尉の主だといわれる、山科荘園の幽霊のように、恋の重荷に堪えられずに、嘆いたり恨んだり迷ったり、焦れているのでござりますよ。で、おそらくは私の顔は、重荷悪尉の面のように醜く凄くいやらしいものと、変り果てたものと存ぜられますよ」
で、お菊を呪うように見た。
左内から恋の告白をされて、お菊は眼もとを赫らめたが、物もいわずにうつむいて、膝の上で両手を握りしめた。
お狂言師の嘉門の家へ、北条左内が内々ではあったが贄を入れて弟子となったのは、この日から半年ほどの以前のことで、嘉門の芸風が独特であって、人柄にもりっぱなところがあると、人の噂に聞いたからであった。そうして入門をした北条左内は、嘉門の芸風や人柄については、もちろん感心はしたけれど、娘のお菊を見るに及んで、すっかり捉えられ魅せられてしまった。
親子の血統は争われないで、お菊の容貌は嘉門と似ていた。が男女の相違からでもあろう、嘉門の顔は「中将」の面に、よく似通っていたけれどお菊の顔はいっそう優しくて、「小面」の面に似通っていた。すなわち眼つきは半弓型で、上瞼が波形をなしていた。しかし下瞼は弛みのない、ピンと張り切った一文字で、心持ち眼尻が上がっているかしら? が権高には見えなかった。額の付け根から盛り上がっている鼻は、高くて肉太で高尚であって、いささか小鼻が根張ってはいたが、それがかえって富貴にさえ見えた。口はきわめて小さくて小鼻と口もととが平行している。で唇をとざしている時には、冥想的に見え意思強く見え、ポッと開けて前歯を見せている時には、処女的の無邪気さといいたげのものが、口のあたりに漂っていた。顔の輪郭は瓜実型で、頬骨などはないのかもしれないと、そう思われるほどにも頬の肉が、なだらかな線を引いてもいた。眉毛は父に似ていて太かったが、剃り込もうとさえしていない。「小面」の形と異う点は、わずかに頣の一ヵ所でもあろうか、「小面」の頣は長いのであったが、お菊の頤は円であった。
父の仕込んだ狂言の振りが、自然と姿に滲み込んでいて、中肉中身長の調った身体は、起居動作とも優雅である。顔や姿の美しさに、左内は捉えられたのであったが、親しく話し合うようになってからは、左内はお菊の心持ちに、より以上に捉えられた。父の嘉門が芸匠だからでもあろう、その血を受け継いでいるからでもあろう、お菊のおとなしい性質の中には、芸術的情操がふくまれていて、それがお菊の美しさと、清浄とを倍加しているのであった。
で、左内は入門をした時から、お菊に烈しい恋をしたが、しだいに日が経つにしたがって、恋心はますますつのるばかりであった。で、折りにふれ物につけて、今日までに左内は幾度ともなく、自分の悩ましい恋心をお菊に向かってほのめかしたのであったが、今日は思い切って、かなり率直に、重荷悪尉の面に例えて、恋心をお菊に訴えたのであった。
で、返辞を待っている。
お菊はなんといって答えるであろうか?
膝の上へつつましく両袖を揃えて、袂から紅色をのぞかせて伏し眼を使って指の先をみつめて、お菊はなんとも答えなかった。しかし心では感謝と苦痛と、恋の心とを渦巻かせていた。
──りっぱな大身のお旗本の、若殿である北条左内が、たかが市井のお狂言師の娘の、自分のような人間を、恋してくれるということが、お菊にはむしろもったいなかった。いやいやそれよりも自分のようなものへ、叮嚀な慇懃な言葉つきで、親しく話してくれるという、そのことだけでも有難かった。しかもお菊は逢った時から、左内に深い恋心を感じて、いつであろうとも心も身体も、捧げ尽くそうと思っていた。で、これまでにも左内によって、きわめて微妙にではあったけれども、恋を告白をされるごとに、お菊は恋心をそそられて、すぐにも自分の心の中を打ちあけようと思ったりした。そうして今日はかなり率直に、左内に恋を打ちあけられたのである。お菊にとってはよい機会である。即座に心を打ちあけて、左内に縋って行くべきであった。しかるに何ゆえか沈黙を守って、恋の心を打ちあけようとはしない。これはどうしたことであろうか?
父の嘉門が二人の恋を、頑固にさえぎっているからであった。「あのお方へばかりはお前はやれない。あのお方のためにもならなければ、またお前のためにもならない。そうして私のためにもならない」このようにお菊へ注意するからであった。お菊は父を愛していた。愛する父の不同意を排して、恋しい男の左内の方へ、走って行くことは本意でなかった。
黙ってうつむいているお菊の横顔へ、鬢の毛がかかって顫えている。
しかしお菊にはどのような理由から、左内とそうして自分との恋を、父がさえぎるのかがわからなかった。
「お狂言の弟子の左内様としては、お父様は左内様に親切で、愛してもいれば尊敬してもいられる。嫌っても憎んでもいられない。それだのに二人の恋仲ばかりは嫌ってもいられればさえぎってもいられる。これはどういう理由からであろう? 妾と左内様とは身分や家柄が余りにも隔たり過ぎている。それに不安をお感じなされて、恋仲をさえぎろうとなされるのであろうか? でもお父様は芸匠だけに、そういう身分の高下などには、昔からずっと無頓着であられた。ほんの一時の慰み物として、妾をそそのかしているのだと、このように思っていられるからであろうか? いやいやそんなはずはない。左内様が真面目で一本気で、潔癖であられるという事は、お父様にも承知していられる。では何か深い事情があってお父様は二人の恋仲をさえぎられるに相違ない。いったいどのような事情なのであろう? ああ妾は事情を聞きたい」
しかし嘉門は今日までも、事情については語らなかった。父の否定的の思惑と、左内の一本気の恋心との、その中央にたたずんで、お菊は今日まで悩んで来た。そうして今も悩んでいた。
「お父様が事情をお話しくだされてそれが妾の胸に落ちたら、妾は恋を諦めて、左内様へ泣きながらこういおう、『どうぞお諦めくださりませ』と。もしもそれが反対となって、お父様が事情をお話しくだされて、妾の胸に落ちなかったら、妾はお父様へお願いしよう。『妾は左内様を恋しております。左内様と添わせてくださりませ。飽きられて捨てられても構いませぬ』と。……妾はお父様から事情を聞きたい」
しかし今日までは父の口から、事情を聞くことができなかった。で今のお菊の心持ちといえば、決断のつかないものであった。それで左内と向かい合って、捨て石の上へ腰をかけて、両袖を揃えて膝の上へ置いて、その袖の上で手を握りしめて、その手をうつむいてみつめたままで、沈黙を守っているのであった。
そういう姿勢でおりながらも、お菊は左内が燃えるような眼つきで、自分をみつめていることや、自分が黙っているがために、しだいに左内が焦立って来て、今にも鋭い声をあげるか、ないしはひざまずいて嘆願をするか、または怒って立ち去るか、ともかくも悲しい出来事が、すぐにも起こって来るであろうと、そういう気勢が感じられた。そうしてそれがお菊の心を、いよいよ苦しいものにした。
足もとに空色の螢草の花が、一束脆気に咲いていたが、花弁がかすかに顫え出した。花に添ってお菊の素足がある。それが顫えたがためであろう。
お菊の感じは正しかった。左内は捨て石に腰をかけて、お菊の姿をみつめながら、焦立つ心をおさえつけていた。左内の瞳に映っているものは、お菊のうつむけた形のよい額で、それが紅潮を呈していて、そこへ前髪の影がさして、眉毛のあたりの暗く見えるのさえ、左内には惚々しく悩ましかった。
いつまでもお菊が黙っている。それが左内の心持ちを、不安と焦燥とに導いたのも、お菊の察した通りであった。膝においた手を捻るように揉んだが、汗がまとっているからでもあろう、ツルリツルリと指がはずれた。「なんとも返辞をしないのは、俺を嫌っているからであろうか? それとも初心の乙女心から、恥じらい切っているからであろうか?」これが左内には疑問であった。「もしも前者ならば絶望である。もしも後者ならば口説き立てて、相手の心に熱情を燃やして、本心を語らせる必要がある。どうぞ後者であるように」……左内は後者を希望った。で、言葉に熱気をもたせて、猟り立てるように口説き出した。
「私は不作法の人間とは、決して思ってはおりませぬ。むしろ作法を心得ている人間のつもりでござります。しかし只今は故意と好んで、不作法のことを申し上げます。……私をお愛しくださりませ! 私を恋してくださりませ! 私を愛し恋していると、一言おっしゃってくださりませ! ……私はあなたを愛しております。それこそ心が狂うほどにも、私はあなたを恋しております。……証拠を見たいとおっしゃいますなら……」ここまでいって来て北条左内は、あえぐがように呼吸をついた。
あえぐがように呼吸をついた北条左内は、憑かれたように口説きつづけた。
「証拠を見たいとおっしゃいますならいくらでもお眼にかけましょう。まず私は屋敷を出ます。そうして町住居をいたします。あなたと一緒に世帯を持って、どのような貧しい生活にでも、投ずることにいたします。本来私は北条家の、長男の身分でありますので、家督を継がなければなりませぬが、あなたのためでござりましたら、いさぎよく長男の位置をすてて、舎弟に家を譲ります。……もしまたあなたが大旗本などの、一時養女ということになって、そこから北条家へ花嫁として、輿入れなさるのをお望みならば、きっと私は父を説いて、許しを得るよういたします。父と私とは気象の上で、いちじるしく相違しておりまして、父は私を腑甲斐ない者に思い、私は父を権謀に過ぎた、鋭さ余る性質として、好もしく思っておりませぬ。そうはいいましても父としましては、子としての私を愛してはおります。で、私が願いましたならば──根限り命限り願いましたならば、あなたを私の妻として、輿入れさせるということを、きっと許してくださりましょう。が、もし父が許しませねば、只今私が申しました通りに、私は家を捨てまして、あなたと一緒に町住居をして、あなたに不自由はかけませぬ。しかしこのように申しましたならば、あなたはおっしゃるかもしれませぬ。浮世の苦労を積んだことがない、旗本などの伜などが、情熱に駆られて家を出て、町住居などをしたところで、生活して行けるものではないと。……しかし私はいい切りましょう。いやいやそのような心配はないと! もしそのようになりましたならば、あの軽禄のご家人などが、楊子削りや唐傘張りや、門に立って謡をうたうことによって、生活を立てて行くように、私も楊子を削りましょうし、唐傘張りもいたしましょうし、門に立って謡をうたいもして、二人ばかりの生活なら、必ず立ててお目にかけます。……いえいえあなたとご一緒ならば、江戸を立ちのいて他国へ行って、流浪をしてもよろしゅうござります。……只今の私にとりましては、あなたは私の生命でもあれば、喜びなのでもござります。……私は父を捨てましょう。あなたもお捨てくださりませ! 私は家を出ましょう。あなたも家をお出くだされ! ……どうぞお願いいたします。私をお愛しくださりませ!」
情熱がいわせるからでもあろう、左内の声は甲高で、焔のような熱があって、しかも流れる水のように、音楽的で流暢であったが、さすがに顫えを帯びていた。言葉につれて体がのり出して、胸がしだいに前へ傾いて、顔が瑪瑙色に赤味を呈して、これも向かい合ったお菊のほうへ、ひたとばかりにすり寄って行く。
この凄いまでの左内の恋心が、処女のお菊の心の底を、揺り動かさないはずがない。
お菊は顔を不意に上げて、涙を充たせたみはった眼で、左内の顔を貪るように見たが、みるみる眼瞼が痙攣したかと思うと、左右の眼頭から大粒の涙が、押し出されたように頬へ流れた。何かいおうとするのでもあろう、これも痙攣をする唇を、二度も三度も蠢めかしたが、それがポッカリとあいたかと思うと、
「さ、左内様!」と魘されるようにいった。
「もったいないお言葉でござります。何と申してよろしいやら! もったいないお言葉でござります! ……このような私を若様が! ……そうまでそんなにまでおっしゃって! ……お屋敷を出なさろうと仰せられる! お父様を捨てようと仰せられる! ……なんの私に! なんの私に!」で、ヒョロヒョロと捨て石から立って、ぶつかるように前へ進んだ。
「ああ」と左内も呻くようにいって、同じように捨て石から立ち上がったが、
「それでは私を……」
「命にかけても……」
「おお、お愛しくださるか?」
歓喜に顫える手をのばして、お菊の両手を取ろうとした時に、
「〽裏道来いとの笛の音! ……これはこれは北条の若様、ここにおいででござりましたか」こういいながらお狂言師の嘉門が、馬酔木の裾をまわって、二人の傍へ寄って来た。
馬酔木の叢の裾をまわってヒョイと嘉門が現われたので、手を取り合おうとした左内とお菊とは、ハッとしたように飛びのいた。そういう二人を等分に見たが、嘉門は別になんともいわずに、酔いの醒めない足どりをもって、ヒョロリヒョロリと歩きながら、さも愉快そうに喋舌り出した。
「これは北条の若様で、ここにおいででございましたか、先刻お越しでございましたが、お酒をいただいておりましたので、お狂言のお稽古もできませんでした。……それはそうと今日はよいお天気でお日様が笑っておりますなあ。自然と人間の心持ちも笑いたくなるではござりませぬか」
いいいい嘉門は空を仰いだが、その額に明るく日があたって、咽喉のあたりが暗く見えた。と、両手をフラリと上げて、垂れている藤の花房へさわった。と、その花房にたかっていたらしい、無数の蟆子のような小さい羽虫が、花粉かのように舞い立ったが、日光の中に吸い込まれてしまった。上へのばした両手を下ろすと、その手を今度は胸へ組んで、ヒョロリヒョロリと歩き出した。「承れば左内様には、ご老中筆頭の左近将監様の、ご妾腹ながらもお姫様の、満知姫様とご婚約とのお事、結構なことでござりますなあ」右のほうへヒョロヒョロとよろめいたがそちらにお菊が放心したように、空虚の眼をして立っていた。
と、その顔を睨むように、嘉門は鋭く見やったが、「娘も十九になりました。婿取りせねばなりませぬ。大事な年頃なのでございますよ。若いりっぱなお武家様などと、こっそり人気のない花の蔭などで、自由な話などをしていては……ハッハッハッ、何をつまらない! つまらないことをいい出しましたなあ」こういうと嘉門はまたもよろけて、左のほうへ傾いたが、そっちに左内が憂鬱らしい姿勢で黙然としてたたずんでいた。と、嘉門はそのようすを見たが、意味ありそうにいいつづけた。
「浮世は厄介でござりますよ。異をちょっとでも樹てようとすれば、世間がすぐに圧迫けます。そのよい例がこの私で。私の狂言の流派といえば、ご承知の通り鷺流なので、大蔵流と相待ちまして、幕府方のお狂言でござります。ところが私は京師のお狂言の、和泉流を習いまして、その特徴を取り入れまして、私一個の狂言の型を、創りいだそうといたしましたところ、さっそく宗家から非難が出まして、そうして邪魔をされまして、その上に破門をされまして、今では私に表だって、舞台へ立つことのできないような、みじめな身の上となりました。……で私は思いますので、高いりっぱな身分のお方が、市井の貧しい娘などと、恋仲となって夫婦になって、町住居などをなさろうというのはやはり浮世の縄墨にはずれた、異を樹てることなのでございますとな。さようなことをなさいましょうものならすぐに世間から邪魔をされて、みじめなお身の上となりましょう。……高貴なお方は高貴なお方同士で、下賤な人間は下賤な人間同士で、嫁取り婿取りをなさいましたほうが、事なかれ主義という点で、よろしいようでございますよ。ハッハッハッ。何をつまらない! つまらないことを申しましたなあ」ここでさらに嘉門はよろめいて、左内とお菊とが向かい合って、黙然とたたずんでいる真ん中のあたりをヒョロヒョロと縫って向こう側へ行ったが、そこには花をつけていない百日紅の木が立っていた。と、嘉門は振り返って、百日紅の幹へ背をもたせかけて、左内とお菊を見比べたが、「それに近来私のところへ、気味の悪いお武家様が再々参られて、このようなことを申しますので『美しい娘を囮にして、若殿様をたぶらかすのは、不届き至極ゆえ注意さっしゃい!』と。そうして私はそのお方様から承ったのでござりますよ。左近将監様の姫君様と、左内様とのご婚約のことを。……なんの私が娘を囮に、高いご身分のお武家様などを、手中に入れなどいたしますものか。ハッハッハッ、つまらないことを!」
二人の男女の間を通って、またもや嘉門は酔いの醒めない足で、藤棚のほうへ歩いて行ったが、それからさらに馬酔木の叢の、裾を向こうへグルリとまわって、姿をしばらく隠してしまった。が、再び藤棚の下へ、蹣跚とした姿を現わした。
「ひとつ率直に申し上げましょう」どうしたのか嘉門は左内を睨んだが、「あなた様の父上の北条美作を、私は嫌いなのでございますよ」
こういってなおもいいつづけようとしてか、ペロリと舌で唇をしめした。
嘉門は唇を舌でしめしたが、かなり辛辣な口調をもって、こう左内へいいつづけた。
「あなた様のお父上の美作様を、私は嫌いなのでござりますよ。鷺流は幕府方の流儀であって、和泉流は京師方の流儀である。鷺流のお狂言師の嘉門たる者が、和泉流を習うとは不届きである。よろしく破門をするがよいと、宗家へ押して申されたお方が、美作様だからでございますよ。その他にも万事に美作様には、京師ふうのことをお嫌いなされて、事ごとに圧迫をなさいますそうな。よろしくないことに存じますよ。それに反してこの私は、どちらかと申せば幕府方よりも、京師方のほうが好もしいので、万事に則りたく存じます。……と、このように申しましたならば、美作様のご長男であられるあなた様のお心といたしましてはお怒りになるかは存じませぬが、実際に京師の公卿衆方に対して、幕府のお方のやり口は、苛酷に過ぎるようでございますなあ。ちょっとでも公卿衆方が時世に慨して、兵書をお講じになられたり、武備についてお心を配られると、すぐに迫害をなさいますようで。そうして公卿衆方に仰せられるそうで、『礼楽式典叙任叙勲、そういう方面へひたすらに、ご研究をお向けなさるがよろしい。兵備や政治は一切合財、幕府へおまかせなさるがよろしい。靖献遺言というような書物も、決してお読みになりませぬように』と。……先年竹内式部と申す処士が、王覇の説を唱えまして、禁裡様方の威福を計りましたところ、さっそく幕府方におかれましては、竹内様をはじめとして、徳大寺大納言様やその他の公卿衆に、弾圧をお加えなさいましたはずで。爾来徳大寺大納言様には、ご逼塞のごようすでございますなあ。ところが大納言様には以前からご贔屓にあずかっていまして、あるときにはわざわざ京師に召されまして、大納言様のご前におきまして、驚流のお狂言を幾番となく、ご覧に供しましたことがござりますよ。と、その時に大納言様は、私にこのように申されました。京師派のお狂言の和泉流には、もっとよろしいところがある。取って加味して一流を編めと。──で私は、和泉流を習いはじめたのでございますよ。すると先ほども申しました通りに、さっそくに邪魔がはいりましたので。いやはやどうにも不愉快の話で。──とまれ私と申す人間は、京師方の人間でござりますよ。しかるに北条左内様は、──あるいはご自身におかれましては、さようでないかは存じませぬが、しかしお父上との関係上、こりかたまりの幕府方のお方と、申し上げなければなりませぬようで。……で、私とあなた様とは、行くべき道筋が異っております。したがいまして娘のお菊も──ハッハッハッ、何を申すやら、つまらないことを申しましたなあ。……とにかくこの際にハッキリと、私から左内様へ申し上げましょう。……万事おあきらめくださりませと。それからお菊へいうことにしよう、高きを目ざすな! 下におれと! ……ホイ、ホイ、ホイ、つまらないことを。……どれどれこのような理屈よりも、謡いましたほうがよろしいようで。〽柳の下のお稚子様は、朝日に向こうてお色が黒い、お色が黒くば笠を召せ……」
藤の花房が下がっている。羽虫が日の中に飛んでいる。その日を浴びて、花房をかずいて嘉門は手拍子を拍ち出したが、まだまだ醒めない酔いの足で、ヒョロリヒョロリと彷徨い出した。
「〽笠も笠、いつきようとがり笠、おそり笠、じょに吹く笛が麓にきこゆる、……」
ヒョロリヒョロリと彷徨い出した。
と、憂鬱の表情を保って、黙って悄然とたたずんでいる北条左内の前へまで来たが、憐れむように顔をのぞいた。
「〽おおさては推した、うらに来いとの笛の音、うら道来いとの笛の音。……いやいや私は反対にいいます。左内様即座にお帰りなされと!」
それからまたもヒョロリヒョロリと、嘉門は千鳥に歩き出したが馬酔木の叢の元まで行くと、またまたグルリと振り返った。
「抑えろ抑えろ抑えつけろ! そのうちにはきっと爆発してみせる!」──こうして再びののしろうとしてか、左内の顔を睨むように見た。
馬酔木の叢の元まで行って、またまたグルリと振り返って、再びののしろうとでもするかのように、嘉門は左内を睨むように見たが、にわかにその眼をうるませると、むしろ嘆願でもするかのように、穏かな声で訓すようにいった。
「抑えろ抑えろ抑えつけろと、こう只今申しましたのは、私を圧迫するよくない人たちへ、いったつもりなのでございますよ。つまりお狂言師としての泉嘉門を、いくらでも勝手に抑えつけろ! そんなことには驚かないと、こう申した意味なのでございますよ。が、私はこの言葉を、そっくりあなた様に差し上げます。抑えろ抑えろ抑えつけろと! 心をお抑えなさいましと。──そのうちにはきっと爆発してみせると、只今このように申しましたのも私へ申しましたのでございますよ。つまりいくらでも圧迫をせい、そのうちに俺は爆発をしてみせるとこういう意味なのでございますよ。が、私はこの言葉を、今度は反対にひっくり返して、それをあなた様へ差し上げましょう。決して爆発なさいますなと。……おだやかに素直に無事泰平に、今後はおくらしなさいましと。……あなた様はよいお方でございます。純情で潔白でございます。お父上とは反対でございます。ですから私といたしましては、あなた様が大好きでございます。そのように大好きであればこそ、あなた様にお怪我がないようにと、お進めするのでございます。おだやかに素直に無事泰平に、今後はおくらしなさいましと。……もう一度ハッキリと申しましょう、私の娘のお菊などのことは、必ずご断念なさいましと! ホイ、ホイ、ホイ、なんだなんだとうとうお談義になりましたようで。ハッ、ハッ、ハッ、これも結構。……それではご免をこうむります。……あなた様もお帰宅なさりませ」
「〽うらに来いとの笛の音、うら道来いとの笛の音……いや、いや、いや、来てはなりませぬ」
嘉門はクルリと振り返ったが、例の蹣跚とした足どりで、馬酔木の叢の裾をまわって、今度こそ左内とお菊とを見すてて、家のほうへ引き返した。
このように泉嘉門のために、あけすけに拒絶をされてみれば、情熱家の北条左内としても、立ち去るよりほかに手段はなかった。悲しみと絶望とに顫えながら、それでも左内は取り乱そうとはせずに、
「お菊殿お暇をいたします」と、このように声をかけておいて、捨て石につっぷして泣きじゃくっているお菊へ背中を向けたかと思うと百日紅の立ち木の幹をまわって、その向こうに立っている裏木戸から抜けて、左内は姿を消してしまった。
で、その後のここの庭には、白々と頸を日にさらして、その頸へかかった後ろ髪を、細かく細かく細かく、顫わせて泣いているお菊のほかには、人の姿は見られなかった。
が、お菊の悲しい心を、慰めようとでもするかのように、一人の女が現われて来た。ほかでもないそれは山県紋也の、妹にあたる鈴江であったが、泉嘉門の屋敷の玄関へ、小走るように駆け込んで来た。
と、玄関の左の側に、裏庭へ通う小門があったが、そこから嘉門が顔をのぞかせた。
「おおこれは鈴江様で」
「お師匠様でござりますか。今日は稽古日でございますので、兄とともどもまいりました」
「稽古? ははあ、お狂言のな。……が、今日は駄目でござる。このように酔いしれておりますのでな。……ああそうそうちょうど幸い、お菊が泣いておりますので、あなた様の明るいご気象で、慰めてやってくださりませ。……さあさあこちらへおいでなされ。裏庭の片隅で泣いております。〽柳の下のお稚子様は、朝日に向こうて、お色が黒い──おいでくだされ、おいでくだされ」
小門をあけて引き入れたので、鈴江は胆をつぶしながらも、裏庭へはいって行った時、兄の紋也が笑をふくみながら、往来から玄関へはいって来た。
「ご免くだされ、ご免くだされ」
声をかけたが返辞がない。ただし裏庭の方角から、酔っているらしい嘉門のうた声が、むしろ悲壮に聞こえて来た。「今日もお酒を召されたと見える」つぶやいて小門をくぐろうとした時に、またもや一人の侍が、往来から玄関へはいって来た。
「うむ、貴殿は山県氏か」
「ほほう、これはどなたでござるな?」
「拙者は桃ノ井兵馬でござる」
心に大望を抱いている、山県紋也ではあったけれども、風雅の道は忘れなかった。狂言を好むところから、泉嘉門へ弟子入りをしたのは、この時から半年ほど以前のことで、北条左内と親しくなったのも、相弟子であるという関係からであった。妹の鈴江も濶達の気象で、かつは風雅を好んだので、兄と一緒に弟子入りをしたが、女同士のことであって泉嘉門の娘お菊と、すぐに親しい仲となった。
で、紋也も妹の鈴江も、嘉門の屋敷を訪ねることが、このごろでは無二の楽しみとなった。
今日は稽古日というところから兄妹が揃って来たのであった。
兄妹の来たことはよいとしても、なんの理由から桃ノ井兵馬は嘉門の家を訪ねて来たのであろうか?
兵馬も嘉門の弟子なのであろうか?
いやいや決してそうではなかった。嘉門の狂言の弟子でもないのに、この日ごろ兵馬は嘉門の屋敷を、しげしげとして訪ねるのであった。
何らかたくらみがなければならない。
とまれこうして紋也と兵馬とは、嘉門の屋敷の玄関の前で、ゆくりなく顔を合わせたのであった。
ところで紋也からいう時には、兵馬の姓名だけは知っていたが、人物を見るのは今日がはじめてでそれとても兵馬から宣られたればこそ、それを知ることができたのであった。もっともいつぞや大川の上へ、屋形船を浮かべて漕がせていた時に、並んで浮かんでいた屋形船の中から紙片を捲きつけた一本の小柄を、こっちの屋形船へ投げ込んだので、こっちからも小柄へ紙片を捲きつけて向こうの屋形船へ投げ返して、挑戦に応じたことがあったが、その小柄を投げてよこした男が、すなわち桃ノ井兵馬であって紙片に書いてあった文字といえば、「私情から申しても怨みがござる。公情から申せば主義の敵でござる。貴殿に闘いを宣するしだい、ご用心あってしかるべく候。──桃ノ井久馬の遺子兵馬より、山県紋也殿へ」──そうして紋也から応じた文字といえば「心得て候」という四文字であった。
まさにそういう出来事はあった。が、出来事はそれだけであって、桃ノ井兵馬という人物を、眼に見たことはなかったのであった。
「ははあこの男が兵馬なのか」
で、紋也は相手を見た。
古びた玄関が一方にある。その前に前庭がひろがっている。その小広い前庭を囲んで、黒い板壁がめぐらされてあって、その板壁に近く寄せて、常磐木が丈高く植え込まれていたが、その枝と葉を漉して来る、飛白のような日の光を浴びて、突っ立っている兵馬の風采といえば、痩せてはいるが身長は高くて、肩が怒って凛々しかった。はね上がった眉に切れ長の眼に、高くて細い長い鼻に、残忍らしい薄手の口などずいぶんと険しい人相であった。顳顬が低くて頬骨が高くて、頤がずっこけているところなども人を威嚇するに十分でもあった。しかし帯びている大小や、着ている衣裳はりっぱなもので、浪人などとは思われない。年は二十三、四らしい。
「これは手強い相手らしいぞ」紋也にはこんなように感じられたのでおのずと姿勢の構えがついた。「ひょっとかすると切り合いになるぞ」で──紋也は眼を配った。つまり足場を計ったのである。
と、そういう紋也のようすを、兵馬は刺すようにみつめていたが、ヒョイと右手を柄頭へかけると、
「ご所望しだいに素ッ破抜きましょうか」こういって口もとを曲げて見せた。左の唇が癇のためでもあろうか、斜めに上へまくれ上がって、そこから犬歯が尖って見える。
「さようさ」と紋也はすぐに応じた。が、刀へは手はかけずに、相手の瞳の動きを睨んだ。「ご所望しだいに切り合いましょうよ」
「が、おいやなら後日に譲る」いよいよ左の上唇を、上へまくって犬歯を見せて、兵馬は譏笑的にこういったが、柄から右手は放さなかった。「しかしあらかじめ申し上げておく、今日は切り合いをやめといたしても他日にはきっと討って取るとな」
「よかろう」と紋也もビクツカなかった。「すでにいつぞや大川の上で互いに戦いは宣したはずで。……再度の宣言くどうござるよ。……が、それにしても兵馬氏とやら俤がご尊父とそっくりでござるな」
すると兵馬は一歩進んだ。
一歩進んだ桃ノ井兵馬は、激怒に燃えるするどい瞳を、紋也の顔へ注いだが、どうしたのかにわかに笑い出した。
「貴殿の生活向きはいかがでござる」
「え?」とこれには紋也のほうが、度胆を抜かれた格好となったが、「ご親切は感謝、心配はござらぬ、裕福にくらしておりますよ」
「アッハッハッ、そうでもあるまい」兵馬はまたもや笑ったが、「道場の主の浪人ぐらし、仕官の拙者とは相違がござろう」
「いらぬ斟酌、ご無用ご無用」
「拙者の主人をご存知かな?」──なぜこんなことをいい出したのであろう? 兵馬はこういって紋也を見た。
「知りもいたさねば知ろうとも思わぬ」紋也の冷淡な声というものは!
が、兵馬は後をつづけた。「お明かしいたそう、拙者の主人を。権臣北条美作殿よ」
「ほほう」という山県紋也は、のぞくようにして兵馬を見たが、すぐにその眼へ冷笑を浮かべた。
「結構なご主人、似つかわしゅうござる。まことに貴殿に似つかわしゅうござる」
「貴殿もご仕官をなされてはいかが?」兵馬の笑殺的な声というものは!
「誰にな?」と紋也は怪訝そうにした。
「美作殿へよ、いうまでもござらぬ」
「ふん」と紋也は突っぱねたが、「まずご免、いやでござる」
「何ゆえな?」と兵馬は毒々しい。
「一世の奸物! 彼美作! なんの拙者が! 穢らわしいわい!」
「それに貴殿には讐敵のはずで」
「まさしくさよう、讐敵でござる」
「さてそこだ、不思議なことがある」罠にでも落とそうとするのであろうか、兵馬はネチネチといって来たが、「一世の奸物で貴殿の讐敵の、その北条の美作のご前の、ご子息の北条左内殿と、貴殿はお仲がよろしいそうで。不思議だの、なぜでござろう?」
ここへ搦ませようとしたものと見える。こういうと小気味よさそうに、ニヤリニヤリとほくそえんだ。「申し分ござらば、承るとしましょう」
しかし紋也はこういわれても、さして動揺しなかった。かえって愉快そうに笑いたくなるのである。
「美作殿は一世の奸物、これに相違はござらぬよ。が、ご子息の左内様は、それに反して潔白のご気象、……で、交りを結んでおるばかりで」
「ナーニそうではござるまい」兵馬は狡猾な笑い方をしたが、「取り入ろうと思っていられるのでござろう」
「誰にな?」と紋也は不審そうにした。
と、兵馬はどうしたものか、話を横にそらしたが、不意にこんなことをいい出した。
「ここの主人の嘉門殿には、美しい娘がいられるはずで」
──おやおや妙なことをいい出したぞ──紋也は見当を失ったが、
「いかにもござる、お菊殿と申す、それがなんとかいたしましたかな?」
──と、また兵馬はニヤリニヤリとしたが、
「駄目でござるよ、駄目でござるよ」
いよいよ紋也にはわからなくなった。で黙ってみつめやった。そういう山県紋也のようすが、兵馬にはおかしく思われたのであろう、例によって、唇をまくり上げて、犬歯を出して笑ったが、
「いけないいけない、取り持ってはいけない!」
しかしどうにもこの言葉も紋也には意味がわからなかった。で、黙然とみつめている。
「というわけはこういうわけで」兵馬は紋也のようすが、ますますおかしく思われるのであろう、嵩にかかった能弁で、まくし立てるように喋舌り出した。
「な、ご貴殿、そうでござろう。やはり浪人は辛いもので。そこで誰かに仕官をしたい。北条のご前は権臣だ。そこでご前に仕えようと思う。が、いかんせん伝手がない。考えたのが左内様のことよ。将を獲ようとする者は、まずその馬を射よというので美人の娘のお菊をけしかけ、巧く左内様に取りもって、そいつの縁で北条のご前へ……ハッハッハッ、いかがでござる! 拙者の眼力は狂うまいがな」しかしここまでいってくると、兵馬はまたもや話をそらせた。「紋也殿、紋也殿、紋也殿そういえば貴殿の俤も、よくご尊父に似ていられますな」
すると今度は紋也のほうが、ヌッとばかりに前へ出た。
ヌッとばかりに前へ出た、山県紋也の心持ちには、いいたいことがたくさんあったが、紋也はいっさいそれを封じて、逆手で相手を圧伏しようとした。「やはりな」とまずもって軽らかにいった。「美作殿と左内殿との、父子の関係は別なものとして、親と子は万事が似ているものと見えます。心も似るでござりましょうよ」
「心も?」といった兵馬の声にはなんとなく不安なものがあったが、
「心? いわっしゃい! なんの心か!」
「さればさ」紋也は嘲るようにしたが、「裏切る心よ! ……伝わっておろうよ!」
「裏切る心! ふふんばかな!」こうはいったものの桃ノ井兵馬はいよいよ不安に堪えないようであった。
と、そういう兵馬の心を、早くも紋也は見抜いたらしく、紋也のすがすがしい性質としては、少しく大人気ないほどにも、突っ込んだ調子で繰り返した。
「美作殿と左内殿との、父子の関係は別なものとして、親や子は万事が似ているものと見えます。心も似るでござりましょうよ」
で、相手の返辞を待った。
紋也の言葉は兵馬に痛いもののように思われた。ブルッと一つ身顫いをしたが、噛みつきたげの兇猛の眼つきで、紋也の顔を見上げ見下ろした。
「なるほど」と突然に兵馬はいったがその声は憤懣に満たされていた。「裏切る心が拙者にあると、こう貴殿にはいわれる気か!」相手の言葉の出よう一つで、すぐにでも切ろうとでもいうように、柄頭を拳でトントンと打った。と、目貫の象篏が、黄金無垢でできていたのでもあろう。陽をはねてキラキラと輝いた。
「さようさ」と紋也はうそぶくようにいったが、これもいつしか右の掌を、刀の柄へ掛けていた。「貴殿の父上の久馬殿は、拙者の父を裏切ったはずで」ひとしく刀の柄を打った。「裏切りこそは卑怯の卑怯、男子として恥ずべきことでござる。血統的にそういう心が、ご尊父より伝わっておられるなら、ご注意なされ、ご注意なされ」で右肩をそびやかして見せた。その肩の上には日があたっていて、一種の日溜りをなしていたが、そびやかした拍子に位置が変って、日溜りは紋也の首へ移った。
と、紋也は考えた。「少しく俺は焦心り出したぞ。いけないいけない冷静になろう」──で、柄から手を放して、静まった姿勢で相手を見た。
それが兵馬にも感ぜられたと見える。これも柄から手を放して、冷やかな態度で立ち向かったが、その冷やかな態度の中には、吸血鬼的の凄味があって、相手を怯かすに足るものがあった。
しかしこういう故意とらしく作った、加工的の冷静というものは、すぐに破られるものであった。
はたして兵馬は焦心り込んで来たが、叩きつけるように毒吐いた。
「何を白痴め! 何を申すか! なんの我が父が裏切るものか! 考えの相違だ! それだけだ!」
「違う!」と紋也は抑えるようにした。「議論に負けた憂さ晴らしよ!」
「藤井右門か! 単純な奴め!」
「が、我が父の同志ではあった」
「そ奴と我が父とが議論をしたのだ」
「さよう、そうして負けられたそうだ」
「意見の相違だ! 考えの相違だ! 勝敗はなかったということだ!」
「王覇の別さえ心得られずに、野心ばかりを逞しゅうされた、貴殿の父上が鮮かにその際負けたということでござるよ。拙者父より承ってござる!」
「ふむ、その貴殿の父上であるが、その際仲裁をしようともせずに、黙っていたということでござる! いやいや藤井右門の説へ、片贔屓をしたということでござる。拙者父より承った」
「あまりに明らかな勝敗ゆえ仲裁しようにもする術がなく、父は黙っていたそうにござる。それを根にもって卑怯にも貴殿の父上におかれては、我が父大弐と藤井殿とを、反謀の企てあるように、官へ密告されたそうな! 裏切りでござろう! 卑怯千万!」
明和年間の尊王事件の、その立て者の山県大弐の、遺児の山県紋也は、尊王事件をあばき立てたところの、裏切り者の張本人の、桃ノ井久馬の遺児の、桃ノ井兵馬とこのようにして、今や露骨に向かい合った。
明和尊王事件というのは「柳子新論」「院政記略」「省私録」等の名著を著わし、諸子百家の学に通じ、わけても兵学に堪能であった甲州の処士の山県大弐と、その友の藤井右門とによって、企てられた事件であって、小幡の城主織田信邦の家老の、吉田玄蕃をはじめとして、数百人の門弟があずかった。まず大弐と右門とであるが、江戸の地へ出て塾をひらいて、大義名分尊王抑覇の、堂々とした学説を立てて、兵学を論ずるにあたっては、諸国の城地を引例して、攻取の策を示したりした。すなわち朝権の衰微を憤り、尊王の精神を鼓吹して事を挙げようと企てたのであった。しかるにここに意外のことから計画は画餅に帰することになった。
織田家の用人松原郡太夫が家老の玄蕃の勢力を妬んで、玄蕃に異図のあるということを、藩主信邦に讒言をしたため、玄蕃は疑獄の人物となったが、調べが進むにしたがって、大弐と右門との企てが暗から明るみに出たのである。
しかるに一方大弐の門弟に、神田小柳町に住居をしている桃ノ井久馬という浪人があったが、一日右門と議論を戦わせたところ、右門のために説伏されて、面目を失ったところから、逆怨みをして同門弟の中の、宮崎準曹、佐藤源太夫、禅僧霊宗を語らって、大弐と右門との企てを、官に向かって密告した。
ここに至って幕府の有司は、一大事とばかり狼狽して、大弐と右門とを搦め取って、大弐を死罪に、右門を獄門に、それぞれ行ない処分をしたが、密告をした三人の者も、密告に誇張があったというので、遠島の刑に行なわれ、さらに織田家は国換えをされた。吉田玄蕃に至っては、お構いなしと放免にはなったが、その一族の幾人かは、主家を離れて浪人した。
以上が明和尊王事件の、きわめて荒い輪郭なのであるが、この余波を受けて偉大ともいうべき、もう一人の人物が処分された。ほかならぬ竹内式部である。式部は徳大寺大納言家の家臣で、垂加流の神道の鼓吹者で、かつ兵学の大家であったが、宝暦年間に京都において主人の徳大寺大納言家をはじめ、正親町三条公積卿などに、同じく尊王抑覇の説を述べて、門弟を集めること一千人に及び、まさに大事を企てようとしたが、時の京都の所司代たる松平輝高に搦め捕られて、追放の刑に処せられた。そうして明和事件の際には、八丈島へ流されることになった。しかるに八丈島へ到着しない先に、三宅島において逝去して、尊王主義の人々を悲しませた。
が、何ゆえ式部は流されたのであろうか? それは大弐や右門の人々と、縁のつながりがあったからである。というよりむしろこういったほうがよい。大弐と右門とは式部の思想を、受け継いで大事を企てたのであって、大弐と右門との背後には、竹内式部がいたのであると。とまれこうして竹内式部の宝暦尊王事件なるものも、大弐と右門の明和尊王事件も、幕府の手によって破壊されたが、表だって破壊をした者といえば、時の老中の筆頭であった松平左近将監武元であった。が、その将監の懐中刀として、縦横に策略を振るった者は梟雄北条美作であった。で、もし大弐や右門などに、遺児があったとしたならば、当然に将監と美作と、裏切り者の桃ノ井久馬とを、恨まないわけにはいかなかったろう、果然、大弐には遺児があった。紋也と鈴江と小次郎とである。
またもし裏切り者の桃ノ井久馬に、遺児があったとしたならば、大弐や右門の遺児に遺恨を持たざるを得なかったろう。果然久馬には遺児があった。ほかならぬ桃ノ井兵馬である。
今その紋也と兵馬とが、お狂言師の泉嘉門の玄関の前において互いに顔を合わせたのである。とうてい無事には済まされまい。
問答は無益と思ったのであろう。「まいるゾーッ」とばかりに声を掛けたが、桃ノ井兵馬は飛び込みざまに、天道流での乱軍刀だ、片手なぐりに切り込んだ。と、鏘然たる大刀の音がしたが、見れば二本の白刃が、縞を織っている日光の中に、鍔迫り合いをなしていた。すなわち紋也も同時に抜いて相手の太刀を横っ払い、つけ込んで、セメて、ひた押しとなり、鍔と鍔とを合わせたのである。睨み合って凄い四ツの眼! 顔と顔との中央にあたって、交叉をなした二本の氷柱! 抜き身だ! 輝く! ブーッと殺気!
鍔迫り合いの姿勢となった、山県紋也と桃ノ井兵馬とは、交叉された二本の太刀をへだてて、互いに眼と眼とで睨み合った。片側には泉嘉門の屋敷の、古びた障子の玄関があって、一匹の虻が障子の桟へ唸り立てながらぶつかっていた。玄関と反対の片側には、板塀と門とが立っていたが、門の口を通して白茶気た往来が、日の光に鈍く照らされながら、その一部分を見せていた。好天気の初夏の日盛りだのに、山の手の往来であるがためか、人の通って行く姿も見えない。と、一羽の雌鶏であったが、小さい鶏冠を傾けながら、近所の犬にでも追われたのであろう。啼きながら門内へ駆け込んで来た。が、切り合いに怯えたかのようにまた啼きながら往来のほうへ駆け出し、そのまま姿を消してしまったが、高い険しい啼き声ばかりは、なおしばらくは聞こえていた。
植え込みの枝や葉をくぐって、横ざしにさしている日の光が、かすかの顫えを持ちながら一瞬間には右へ傾き次の瞬間には左へよじれる二本の太刀の刀身を、氷柱のように輝かせている。
二人は押し合っているのである。
呼吸が合して離れたならば、二合目の太刀が合わされるであろう、どっちか一人の呼吸が乱れて、もしも構えが崩れたならば、離れた刹那に切られるであろう。
今はひたすらに押し合っているが、紋也は考えた。「師匠の屋敷の玄関先を、血で穢しては申し訳がない。悪い悪い。場所が悪い」
こういう場合にこれだけのことを、ハッキリ考えたということは心に余裕のある証拠であった。
「憎い桃ノ井兵馬であるが、斬って捨ててはこちらの身もあぶない。捕えられて咎めを受けるであろう。それに俺には志がある。兵馬ごときはどうでもよい。討つのは危険で討たれるのはいやだ。どうぞして難関をくぐりぬけたいものだ。それにしても思ったより手強い敵だ、天道流だな、太刀捌きでわかる」
考えがグルグルと渦を巻く。
と、その時遠々しくはあったが裏庭のほうから酔いしれているらしい、嘉門のうた声が聞こえて来た。どうやら泉水の岸の辺をめぐって、謡って彷徨っているらしい。
「うむ、そうだこれがよい、師匠に仲へはいってもらおう」
で、紋也は力を橈めた。
すぐにつけ込んで押して来る。その兵馬の押し手を受け受け、紋也はしだいに下がって行く。
こうして小門の前まで来た。とたんに紋也は押し返したが、一刀流での寄り身捨て身だ、交叉した太刀の交叉をといて、ハッと柔かに上へ上げて、兵馬がそれへのっかかって、袈裟掛けに切り込んで来たところを、左のほうへ体形を捨てた。で相手の太刀が流れた。間一髪に身を寄せたが、紋也は兵馬へぶつかろうとした。が、兵馬に油断があろうか。体あたりと感じて飛びのきざまに、またも斯流での乱軍刀だ、片手なぐりに胴を払った。きまれば紋也は胴輪切りだ。が、紋也は未然に察しその裏をかいて飛びのくや、小門を肩でグッーと押して、開いた隙から裏庭へはいった。背後下がりの刻み足で、太刀は中段真の構え、兵馬の眉間へ、鋩子先をさしつけ、居つかぬ用意にシタシタと動かし、ジリリ、ジリリ、ジリリ、ジリリと、庭の奥へと下がって行く。
引き手に釣られて追い迫るのは、危険至極の業であった。剣鬼のような桃ノ井兵馬が、それを知らないはずがない。それでは知っていてやるのであろうか? それとも激怒をしているがために、危険を忘れてしまったのであろうか? これは斯道の平青眼、鋩子先を紋也の肩口へさしつけ、引くままに引かれて庭の奥へ、ジリリ、ジリリ、ジリリ、ジリリ、これも刻み足をして追って行く。
「卑怯だ! 山県! 逃げるか! 来い!」
「…………」
ジリリジリリと後へ下がる。ジリジリと追い迫る。と、カチカチと鋩子先が、互いに触れ合って音を立てた。と思ったまもないように一本の太刀がはね上がったが、日の光を斜めに叩き割った。勝負! どちらだ⁉ 切られたのは誰だ⁉
悲鳴か太刀の音か斃れる音か、いずれかが起こらなければならないだろう? その窒息的の空気を通して、華やかに笑う女の声が、裏庭の奥から聞こえて来た。
「そのようにお泣きなさいますな。赤ちゃんのようではございませんか。さあさあお笑いなさりませ。涙をお拭きなさりませ。……おやおやさようでございましたか。あの左内様がお怒りになって、帰っておしまいなさいましたので。それでは泣かずにはおられますまい。でも先方からあなた様に対して、愛想づかしをなされたのではなくて、一刻者のお師匠様が、邪魔をなされたのでございますから、訳はないはずでございますよ。その内にはお師匠様も思案変えをされて、左内様とあなた様との想い合った仲を、お許しになることでござりましょう。また妾にいたしましても、兄ともどもにお師匠様へ、上手に吹き込んであげましょう。二人をご一緒になさいますようにと。……たとえ左内様が機嫌を害されて、今日はお帰りになりましたところで、きっと明日はおいでになりましょうよ。……お泣きなさいますな、お泣きなさいますな。……せっかく綺麗にしたお化粧が、涙で崩れてしまいますよ。涙をお拭きなさいませ。──それに、今日はよいお天気で、蜂や小鳥や虻までが、面白そうに唄っております。トコトコトコと泉水の音まで、笑っているではございませんか。お笑いなさりませ、お笑いなさりませ。……おやおやお笑いなさいましたね。おやおや涙を拭きましたね。それでこそよろしゅうござります。それでこそ綺麗なお菊様に、立ち帰ったということができましょう。……さあさあ捨て石から立って、ここへおいでなさりませ。妾とお並びなさりませ。そうして吹き針を習いましょう。お伝授することに致します。……むずかしいことなどございますものか。練習一つで覚えられますよ。もっとも二十本三十本の針を、つづけて吹くようになりますのには、こつもあれば、術もあって、容易に上達はいたしませんけれど、一本一本吹くことなどは、すぐにも覚えられるでござりましょうよ」
少しく片寄った頭上の辺には、紫の色の花房を垂れた、藤棚が小高くかかっているし、裾をグルリとめぐるようにしては、馬酔木の叢や百日紅の老木や、灌木などの飛び散っている、この裏庭の奥まった所に、一つの捨て石を横手に据えて、たたずみながら愉快そうに、元気よく軽く喋舌っているのは、紋也の妹の鈴江であった。
と、その気持ちのよい話ぶりのために、今し方左内と別れたことによって、捨て石の一つへつっ伏して、肩をふるわして泣きじゃくっていたお菊も、一時悲しみを忘れたと見えて、泣き顔を袖で蔽うようにしながら、いわれるままに立ち上がって、鈴江と肩を並べるようにした。
二人の娘の並んだ姿は、好もしい一幅の絵のようであった。身長が高くて、肉付きがよくて、肩などまるまると肥えてはいるが、女の美しさを失ってはいない。その眼鼻だちはおおまかで、頣など二重にくくれている。眼は過ぎるほどにも大きくて、やんちゃらしいおどけた表情が、絶えずチラチラと動いている。──これが鈴江の姿であった。吹き針に得意なところから、不断に稽古をするからでもあろう、唇がボッと膨らんでいたが、しかし卑しくは見えなかった。仲のよい娘というものは、今も昔も同じように、揃いの衣裳を着合うものと見えて、鈴江もお菊と同じように、緑色がかった友禅の衣裳に、水玉を白く染め抜いた帯を、キリリと形よく締めていた。
そういう鈴江と並んでいるお菊は、身長も二寸ほど低ければ、肉付きもずっと劣ってはいたが、そのためにかえって優しくも見えれば、また別様に美しくも見えた。お菊の髪の簪が、日の光を吸って光っている。そのすぐ横手にあるものといえば、ふっくりとした厚手の薄桃色の、鈴江の左の耳であった。
と、日の光をはね返して、宙で輝く物があった。伸ばした鈴江の右の掌に、載っている五十本の雌雄の針で、掌を埋ずめて盛り上がっている。
「さあさあお稽古をいたしましょう。妾から吹いてお目にかけます。その後であなたがなさりませ。女子の護身用の武器としては、吹き針が一等でございますよ」──にわかに吹き針が消えてしまった。鈴江が掌を閉ざしたからである。その握られた掌が鈴江の口もとまで上げられたが、口の中へ針を一杯にふくんだ、的は向こうの桐の木らしい。で、今や吹こうとした。
ボッと膨らませた鈴江の口から、銀の線でも延ばされたかのように、針が凄じい速さをもって、引き続き引き続き吹き出されたのは、それからまもなくのことであった。五間あまりのかなたにあたって、桐の木が一本立っていたが茶色がかった花の蕾が、空へ向かって群れ立っていた。相当に年を経た桐の木と見えて、幹などは太く頑丈であって、茶緑の鎧でも着ているようであったが、その前に丈の高い八手の木があって、その広い葉で桐の木の幹の、下半分を蔽うていた。
と、その八手の群葉をくぐって、銀の線が奥へ流れて行く、日の光を貫いた吹き針の針で、五間の空間を一直線に飛んで、空にあるうちは燦々と輝き、八手の葉の蔭に流れ込むや、葉と葉とでできている陰影に溺れて、瞬間光を消してしまった。
ゆっくりと十は数えられなかったであろう、それほどにもわずかな時間の間に、鈴江は見事に五十本の針を綺麗にすっかり吹いてしまった。と小走りに走って行って、八手の木の前へ立ったかと思うと、群葉を上へかかげるようにしたが、
「お菊様ご覧なさりませ。ここに桐の木の枝折れの痕が、瘤のようにできておりましょう。一ツ目小僧の眼のようで。これを狙ったのでございますよ。この眼のような瘤の周囲に、五十本の針が一本残らずこの通り真っ直ぐに突き刺さっております。……すべて吹き針と申しますものは、眼とか眉間とかいうような急所を狙って吹きつけるのが、大切の業とされております。で、私はこの幹の瘤を、敵方の眼だと心得て、吹きつけてやったのでございますよ。まあまあほんとに可哀そうに、これでこの眼は潰れてしまいました。ハッハッハ、可哀そうな桐の眼!」
なるほど桐の木の一所の幹に、瘤のような枝折れの痕があったが、見ればその瘤をグルリと囲んで、無数に針が突っ立っていた。鈴江の手によってかかげられた、八手の群葉の間を分けて、日の光が一筋に投げ込まれていたが、その日の光に照らされて、突き刺さっている針が光って、キラキラキラと耀うようすは、ゾッとするほどにも凄く見えた。
と、鈴江は右の手を延ばすと、無造作に針をさらうようにしたが、抜き取った五十本の針を握ると、お菊の傍へ飛び返って来た。
「もう一度妾がいたしましょう。今度は桐の木の下枝の蕾へ吹きつけることにいたしましょう」
いいいい鈴江は掌を開いた。
「これが雌針、これが雄針、これが雌針、これが雄針、長さは同じでございますが、太さが違うのでございます。同じ太さでありましたら、息が籠って吹かれません」
いいいい鈴江は左の手の指で、針の穂先を揃えるようにした。その針が薄紅い掌の肉の、円い窪みに充たされていて、水銀が溜っているように見えたが、反射する光沢が交叉し合って、それが掌から二寸ばかりの上で、虹のような色彩を織っている。と、水銀のような針の光も消えてしまった。鈴江が掌を閉じたからである。
「息使いがむずかしいのでございますよ。長く続けなければなりませんので。……こう胸を張って、こう首を延ばして、腹一杯に息を吸って、それから針を口へふくんで、それから吹くのでございますよ」で、右手を口もとまで上げた。
泉水のほうから嘉門の声で〽裏道来いとの笛の音……と、かすかではあるが聞こえて来た。酔いの醒めない謡声である。
と、微風が渡ったのでもあろう、藤の棚から垂れ下がっている、花の房が左右へなびき出した。
「では吹くことにいたしましょう、口もとへご注意なさりませ」
鈴江が針をふくもうとした時に、裏庭のかなたの小門の辺から、鏘然と太刀音が聞こえて来た。
「おや」と鈴江は声を上げたが、馬酔木の叢の裾の辺まで、小走りに走ってうかがった。
「あッ、お兄様が! あッ、大変だ!」
左の手で小褄を取り上げたが、赤い物を纒った白い脛が、裾からあらわに現われるを、恥ずかしく思わなければ気にも掛けないで、鈴江は一散に走り出した。
鈴江の耳へ聞こえて来た鏘然とした太刀の音は、ジリ、ジリ、と後へ退く山県紋也を追い詰めながら、ジリ、ジリ、と前へ進む桃ノ井兵馬が気をいらって、翻然として飛び込んで太刀を上げて、袈裟掛けに日の光を割ったのを、ひっぱずした紋也が突きを入れたのを、今度は兵馬が体形を流して取り直した太刀で横へ払った時に、響き渡った太刀の音なのであった。
「…………」
「…………」
相青眼だ! 同じ位だ!
紋也と兵馬とは構えをつけたままで、依然として一人は後へ退き、依然として一人は追い迫った。
「秘密も知ってる、大望も知ってる、行動も知ってる、みんな知ってる! 水戸様石置き場の空屋敷、そこでの企みも知っている! 貴様のことなら一切合財、調べ上げてみんな知っている! ……機会を待っていたばかりだ! どうせ討って取る貴様だったのだ! ……ここで貴様を討って取る、その後で余党を燼してみせる! ……俺ばかりではない、敵は多いぞ! 北条のご前に用心しろ! 岡っ引の松吉に用心しろ! 貴様にとってはみんな敵だ! が、今では必要もないか! この場で貴様を討つのだからな! 退くな! かかれ! 切り込んで来い! 怖いか、山県、兵馬が怖いか!」
喚きを上げ出した桃ノ井兵馬は、相手の紋也の冷静な態度に、自分自身の冷静な心が、掻き立てられてしまったらしい。喚きながらグッグッと詰めて行く。太刀先がしだいに顫えを加えて細かく細かく日の光を刻む。襟が開けて胸もとがのぞいて、青白い皮膚の肋骨の窪みに、膏汗がにじみ出て光っている。
圧せられて後へ引くのではなかった。策があって後へ引くのではあったが、しかし紋也には兵馬の殺気が、腥いまでに感じられた。
「人の心身へ喰い込んで、生血を吸って相手を殺して、自分自身を生かすという、吸血鬼のような凄い奴だ! 心からの怨みと執念とを、俺に注いでいるらしい。それに剣技も素晴らしい! いってみれば復讐鬼だ! うむ、うむ、うむ、手強い敵だ! おッ、来るな!」
と山県紋也は、少し乱れた鬢のほつれ毛を、これも汗ばんだ額へかけて、ともすれば忙しくなろうとする、呼吸を調え調えながら、刻み足をして下がったが、忽然サーッと左転した。と、あたかもつんのめるように、兵馬がその間へ飛び込んで来た。横へ一揮だ! 片手切りだ! が、その時には紋也の体は、小門のほうへ飛んでいた。すなわち位置が変ったのである。が、それとても一瞬間で、またもや兵馬は爪立つ気勢に、身長高々とのすようにしたが、紋也の真っ向へ太刀を下ろした。が、その太刀もひっぱずされて、いささか体形の崩れたのを、グッと引き止めて立ち直って、兵馬は太刀を振りかむったが、これはどうしたというのであろう。
「おッ」と叫ぶと柄を下げて、鍔を眼もとまで引きつけたが、さながら太刀を御幣かのように、左右へピューッと振り立てた。で、刀身が綯われるように、頭上で入れ違って綾を織って、そこに怪しい気味の悪い光り物が踊っているように見えた。がもし誰かが眼をそばめて、仔細に観察を下したならば、細い細い一本の銀の線が、兵馬の左の眼を狙って、流れ込んで行くのを見たことであろう。
が、その次に起こったことといえば、兵馬が抜き身をひっさげたままで、小門をくぐって一散に逃げて、その姿が庭から消えてしまった時に、牡丹桜の老木の幹の蔭から、五十本の針を吹き終えた鈴江が小走って来たことであった。
「うむ鈴江か、役に立てたな」
「はい、お兄様、どうやらこうやら」
紋也と鈴江とが向かい合ったときに、酔いを醒ました泉嘉門が、しっかりとした足どりで歩み寄った。
「あのお方なのでございますよ、左内様とお菊の仲を裂こうと、このごろしげしげとお越しになって、この私めを嚇しますのは」思案にあまったというように、こういうと嘉門は腕を組んだが、首をめぐらすと庭の奥を見た。その眼界に立っているのは、恐怖に怯えて眼をみはって、顫えているお菊の姿であった。馬酔木の叢を背後にして、倒れそうにして立っている。
日数が重なって初秋が来た。
日数が重なって初秋が来て、江戸へ涼気が訪れて来た。
とりあつめたる秋の憐れは、芒がなびいて、萩がこぼれて、女郎花の花が露にしおれて、虫の鳴きしきる郊外よりも、都会の片隅にあるものである。微禄の旗本屋敷の塀の、崩れた裾などに藤袴の花が、水引きの紅をひいて、空色に立っている姿などは、憐れみ深いものである。そうかと思うといっそうに微禄の、ご家人などのみすぼらしい邸の、こわれ垣根に寄り添いながら、木芙蓉の純白の大輪の花が行人に見られて咲いていてその奥の朽ちた縁の上に、主人の内職の唐傘などが、張られたばかりの白地を見せて、幾本か置かれてあるようすなどは、凄じいまでの憐れさといえよう。
霧の立つのもこの頃であれば蜻蛉の飛ぶのもこの頃であり、名月の深夜を怯やかしながら、雁の啼き渡るのもこのごろである。で、八百屋の店先などへは、唐芋や八つ頭や蓮根などが、牛蒡や青蕪と位置を争ってその存在を示すようになり、魚屋の店先へはかれいやひしこが、かじき鮪や鯊などと並んで、同じように存在を示すようになる。
葛の葉のうらみ貌なる細雨かな
バラバラと細雨が降ったかと思うと、すぐにあがって陽がこぼれるのも、この季節での出来事である。とまれ寂しい季節といえようが、一面には潔い。
投げられて坊主なりけり辻相撲
勇ましい男らしい辻相撲などがあそこにもここにも行なわれるからである。
町道場の道場の中で、打ち合う竹刀の冴えざえとした音が、往来の人の注意を引いて、足をとどめるもこのごろであって、これとても潔いということができよう。
そういう潔い竹刀の音が、神田雉子町の一所から、朝に夕に聞こえて来た。山県紋也の道場である。
さてある日のことであったが、面籠手を着けた山県紋也が、弟子に稽古をつけていた。黒の紋付きに黒の袴、朱色の胴をゆるやかにつけ、一刀流の流儀に準じて造られた鉢白の面をかむり、これも同じように流儀に準じた二段染めの籠手をはめた手で、握り太にして三尺五寸鞣し革で包んだ竹刀を引っ下げ、おりから武者窓から棒縞をなして、幾筋か場内へ流れ込んで来た午後の日の光に半身を染めて、悠々然として突っ立った態度は、まことに凛々しいものであった。
と、羽目板を背後にして、タラタラと並んでいる弟子たちのほうへ、面越しに視線を送ったが、
「さあさあどなたでもおいでなされ。今日は特別をもちまして、一刀流の型通りに、拙者、貴殿方をお相手として、真剣に立ち合ってお目にかけます。打つ太刀一本、引く足一足、ことごとく型にはめましょう。……ええと最初は負け退きとして、一人ずつ代わっておいでなされ。一人が負けたらすぐに一人、間髪を入れず飛び込んでござれ。ええとそれからその後においては、三人なり五人なり十人なりいかほど大勢でも構いません。一度にかかっておいでなされ。これとて当流の型通りに、立ち合って切ってお目にかけます。……さあさあどなたでもおいでなされ」
で、ピューッと竹刀を振った。と、チラチラと光る物が、道場の空間へ躍ったが、日の光が竹刀にはねられたのである。
「お稽古お願いいたします」
並んでいた列の一所から、こういう声が聞こえたかと思うと、面籠手をつけた一人の若者が、竹刀を引っ下げてすべり出た。
「おおこれは菰田氏か。さあさあおいでなさるがよい」で、中段にピタリと構えた。
菰田と呼ばれた若い男は、旗本の三男で重助といったが、これも構えを中段につけて、相手の瞳へ眼をつけた。
が、勝負にはならなかった。あせって打ち込んで来た菰田の竹刀を叩き落としたのが第一の太刀で、二の太刀で肩を袈裟に切った。
「参りましてござります」
「脇構えより奔出して、太刀を払って肩を切る! これがすなわち当流での『妖剣』。さあさあ代わっておいでなされ」
と、一人が飛び込んで来た。
飛び込んで来た大兵の武士は、庄田といって浪人であったが、腕は相当にすぐれていた。
「庄田氏か、さあ来られい」
また中段に竹刀を構えて、紋也は相手を凝視した。腕は相当にすぐれてはいたが、要するに紋也の門弟であった。師匠の紋也には及ぶべくもない。庄田内記も中段に構えて、同じように紋也を凝視したが、眼の先から放れない紋也の竹刀の、切っ先の気合に圧せられて、突くことも打つこともできなかった。そういう庄田を前に置きながら、紋也は子供でもあしらうように、のべつに愉快そうに喋舌りたてる。
「さあ来られいさあ来られい。ははあなるほど籠手を取る気らしい。が、お止めなされ、看破してござる。拙者看破をいたしてござる。ほほうさようか、今度は突きで。咽喉をねらっておりますようで。が、それとても無駄でござる。拙者看破をいたしてござる。ふうんさようか今度は面で。横面を取られるお意なので。が、それとても駄目でござる。拙者看破いたしてござる……どうもな貴殿はまだまだ未熟だ。『観見』の業が定まっていませぬ。『観』とはなんぞや? 答えましょうかな。『鑑みる』ということでござる。『見』とはなんぞや? 答えましょうかな。『直ちに見る』ということでござる。で、二つを合わせる時には、洞察直観ということになります。『観見』の業にさえ達しておれば、相手の心の動き方や、業の変化は自然とわかります。そうして自己の心の動きや、業の変化は反対に、相手に決して悟られません。貴殿のようすを見ていると、貴殿の心の動き方が、拙者にはいちいち歴々と見えます。先刻は拙者の籠手をねらい、その次には拙者の咽喉をねらい、その次には横面をねらわれたはずで。『心片寄れば業片寄る』──『観見』の業に達していない証拠で」
こういいながらも山県紋也は竹刀の切っ先に気合をこめて、ともすると打ち込んで来ようとする、庄田内記の竹刀の切っ先を、グッ、グッ、グッとおさえるのであった。むかい合って立っている庄田内記は焦燥を覚えざるを得なかった。
「今日は普通の稽古ではなくて、一刀流の型通りに、先生には相手をされるという。実戦の意気込みでかかって来いと、いわば挑戦をされたようなものだ。先生といえども鬼神ではあるまい。真の力を出し合っている本当の試合に一本でもよい、先生の籠手でも取ってみたいものだ」──で、気合に圧せられて、崩れようとする体形を、持ちこたえ持ちこたえて飛び込もうとした。
間隔は一間離れていた。武者窓からさしている日の光に、袋竹刀の片側が光って、半面が薄黒くぼけている。夕暮れの迫った時刻なのである。そういう竹刀がむかい合って、空間に二本泳いでいる。と、一本の竹刀であるが──すなわち庄田の竹刀であるが──切っ先が上へ上がろうとした。と、それよりも少しく早く、その切っ先をおさえるように、もう一本の竹刀の先が、すぐにグッと上へあがった。紋也は竹刀でおさえたのである。その鋭い気合に押されて萎縮をしたというように庄田の竹刀が左へまわった。と、その行く手に紋也の竹刀がすでにまわっていておさえつけた。とまた庄田の竹刀であるが、鋭い気合を避けかねたかのように今度は顫えを帯びながら、逃げるがように右へまわった。が依然と一本の竹刀が先まわりをして押えつけた。山県紋也の竹刀なのである。
剣法における三挫きの一つの、「太刀を殺す」の法である。切っ先をもって敵を攻めて、出ずれば突くぞ退けば追うぞ、避けたら踏んでぶっ放すぞと、竹刀先をもって挫くのである。一刀流の一巻書にいわく「気はあたかも大納言のごとく、業はさながら小者のごとし」と。その大納言の気合をもって、切っ先挫きに挫くのであった。
で、庄田はしだいにあせって、手も足も出なくなった時に、一つの事件が行なわれた。
「庄田氏十分にご用心召され。三段の撃ちで負かしてあげます。……庄田氏が負けて引き退がると同時に、方々決して遠慮はいらない、一度にかかっておいでなされ」こういって声をかけて置いて、紋也はドンと飛び込んだが、瞬間にカツ然と音がした。いやいや音は一つではなくて、間髪を入れずに続けざまに、竹刀の音が三度響いた。すなわち最初に面をとり、籠手を取り胴を取ったのである。
と、ド、ド、ドッと音がした。道場の羽目板を背後にして、道具をつけて居並んでいた十数人の門弟が、一度に立ち上がってかかって来たのである。
が、一つの事件というのは、師匠の紋也一人を相手に、十数人の門弟たちが竹刀の先をいっせいに揃えて、一種の半円を形どって、ジリジリと紋也へ攻め寄せて行って、ちょっとの隙でもあろうものなら、打ち込もうとひしめき合っているのを、平然として前へ据えて「八方分身須臾転化」敵の一人へは眼をつけずに、八方へ向かって眼を配って、しかも構えは中段を嫌って、上段に竹刀を振りかぶって、居付かぬように竹刀先を揺すぶり、前に在らんと欲して忽然として後に在り──変化自在に足拍子を取って、十数人の門弟を威嚇しながら、「さあ真っ先に誰を打とうか、うむ、よろしい佐藤氏としよう。型は当流での向卍だ。面を取って縦、胴を取っては横、防げるものなら防いでみられい」
叫ぶと同時に紋也の姿が、武者窓からさしていた夕陽を散らして、奔然として飛び出したが、同前に続けざまに竹刀の音が、二つ小気味よく響き渡った。半円の最左翼に構え込んでいた、佐藤志津馬という門弟が、向卍で打ち込まれたのであった。で、志津馬は引き下がったが、もうその時には紋也の姿は師範台の前の元の位置に、同じ姿勢で立っていた。上段にかぶられた竹刀の先が小さな渦を巻いている。柄を握っている左右の拳の、右の甲の辺が光っている。夕陽があたっているからである。と、紋也は声をかけた。
「次は誰だ、字喜多氏にしよう。型は当流での鷹の片羽だ。右肩を胸板まで切り下げる呼吸だ。用心! 行くぞ! 防いでごらん」
またもや紋也は飛び込んだが、同時に竹刀が空を割って、すぐに洞然たる音がした。最右翼にいた門弟の一人の、字喜多文吾が打たれたのである。
「さあさあ今度は誰にしよう。五十嵐氏がよい、五十嵐氏がよい。型は当流での虎尾剣だ。竹刀をはね上げて突きを上げましょう。行くぞ! よろしいか! さあ用心!」
字喜多文吾を打ち込むや否や、元の位置に飛び返った山県紋也は、こういうとまたまた飛び込んで、真ん中にいた門弟の一人の、五十嵐駒雄という若侍を、その虎尾剣で突きやった。が、一つの事件というのは、このようにいちいち注意を与えておいて、飛び込むごとに一人一人を、一刀流での型通りに、さも鮮かに打ち込んで、またたく間に三人の門弟を退治たことをいうのではない。全くほかのことなのである。
というのは大勢の門弟を相手に、山県紋也が実戦的の型を、そうやって示している間中、道場の左側の羽目板を背負って、町人とも見えれば遊び人とも見え、浪人とも見える一人の若人が、陰険らしい眼つきをして、紋也の一挙手一投足を、心ありそうに眺めていたが、不意に飛び上がると手をのばして、板壁に幾本かかけられてある、型の練習に使用する赤樫蛤刃の木剣の一つを、やにわに握ると矢のように飛び出し、四人目の門弟を打ち込もうとして、突き進んだ紋也の背後へまわるや、卑怯といおうか無礼といおうか、黒地の袴を裾長にはいた、紋也の諸足を力まかせに、ヒューッとばかりに薙ぎ払った。──そういうことをいうのである。
精巧に作られた蛤刃の赤樫の木剣ときたひには、鋭さ真剣にも劣らない。それで十分に薙がれたのである。剣豪の山県紋也といえどもひとたまりもなく倒されなければならない。
はたして呻きの声がして、つづいて倒れる音がした。
しかし武者窓からさし込んでくる夕陽のたまった床の上に、顔を上向けて、口を食いしばって、その口から白い泡を吹いて、胸の上で両手を握りしめて、長くのびている人間の姿は、意外にも山県紋也ではなくて、紋也の足を薙いだ若者であった。左のこめかみから頬へかけて太い黒痣ができている。みるみる黒痣はふくれ上がる。竹刀で喰らわされた痕である。
「おおこれは友吉殿だ」
「これはいったいどうしたのだ」
「悶絶している」
「いや気絶だ」立ち合っていた門弟たちも、見物していた門弟たちも、一度に驚きの声を洩らして、倒れている友吉を取り巻いた。
が、その時声がした。
「大事はござらぬ、捨てておおきなされ。……こやつは敵方の間者でござる」紋也が静かにいったのである。
取り巻いている門弟たちを分けて、山県紋也は気絶している友吉という男の、倒れている姿を見下ろしたが、
「方々」と門弟たちへ声をかけた。
「こやつを何者と思いますかな?」──で順々に門弟たちを見た。
下げている竹刀を顫わせたり、着けている胴の面を撫でたり、袴の襞をこすったりして、門弟たちはたたずんでいたが、答えようとはしなかった。というのは師匠の紋也の言葉を、意味取ることができなかったからで、それにはもっともの理由があった。友吉という男が一月ほど前から師匠の山県紋也の邸へ、内弟子として住み込んで、家事には忠実に働くし、剣道の稽古には精を出すしするので、内でも外でも評判がよかった。ただし決して武士ではないし、といって真面目の町人でもなくて、素性という点では疑わしくはあったが、町道場の習慣として素性の知れないそういったような男が弟子入りをするというようなことはあながちめずらしいことでもなかった。で、問題にしなかった。「友吉という男はよくできている」──というのが一般の評判であった。ところがこんな事件が起こって、そうして紋也に訊ねられたのであった。「こやつを何者と思いますかな?」と。……で、どうにも答えようがない。で、門弟たちは黙っていた。
と、紋也は門弟たちの、当惑したようなそういったようすを、笑止らしい眼つきで見まわしたが、下げていた竹刀をヒョイとのばすと、胸の上でしっかりと握っている友吉の両手をコツコツと打った。
「右の掌の小指の下と左の掌の人差し指の下に、縄胼胝ができておりますはずで。つまり不断に捕り縄の稽古を規則正しくやっている証拠で。こやつは目明しの輩下でござるということはずっと以前に、こやつが入門を願って来た時から、拙者にはハッキリとわかっておりました。にもかかわらず内弟子として、邸へ入り込ませて自由にさせたのには、少しく意味がありましたので、ようすを見ようとしたのでござる。するとはたして思った通り、表面ではまめまめしく働きながら、蔭へまわると陰険至極にも、拙者の書面をひらいて見たり、拙者の書き物をあけて読んだり、不都合のことばかりをいたしてござる。『ははあいよいよ間者だな』──と、このように見きわめましたので、近日に懲らしめて追いやろうものと、思案を凝らしておりましたしだいで。……すると今日の仕儀でござる。……しかしそれにしてもなんのために、拙者の足を薙ごうとしたか、この点ばかりは拙者にも疑問で。……が、どっちみちそのようなことはよろしい。とにかくこやつを介抱して、呼び生かして邸から追い出しくだされ」
フッと武者窓から外を見たが、
「おうおう、とうとう日が暮れてござる。稽古も今日はこれまでといたそう。さあさあお帰りなさるがよい。拙者はこれから例の所へ参る。庄田氏、菰田氏一緒にござれ」
こういいすてて面籠手をはずして衣裳を着換えて門弟をつれて、山県紋也が邸を出たのは、初夜を過ごしたころであったが、そうやって紋也が出て行った後の紋也の邸の奥の座敷で、しめやかに語っている男女の者があった。
一人は紋也の妹の鈴江で、もう一人は弟の小次郎であった。
「水戸様の石置き場の空屋敷へ、今夜も兄上にはまいられましたようで。私には不安でなりませぬ」
十七歳の小次郎は、まだ前髪を立てていた。紫の振り袖でも着せたいようなきゃしゃな美貌の少年武士である。肩などはなだらかで女の肩のようで、細い首の上へ面長の顔が、あぶなっかしそうにのっている。
燭台の灯がまたたいて、襖の引き手の円い金具が、そのつどしらじらと光って見える。で、部屋の中は静かであった。
と、サラサラと音がした。秋の夜風が出たのでもあろう。庭の木立ちが騒ぐのでもあろう。
と、コトコトと音がした、下女が台所で洗い物をしていて、器と器とをぶっつけたのでもあろう。しかし部屋の中は静かであった。
燈火に右の頬を明るく光らせて、キチンとすわっている小次郎の影が、左側の畳の上へ落ちている。と、その影法師を揺するようにして、小次郎は一膝一膝を進めたが、
「姉上そうではござりませぬか。私には不安でなりませぬ」──で、姉の鈴江を見た。
弟小次郎の平素着らしい、浅黄色の無地の袷の袖を、しなやかに縫っていた姉の鈴江は、うつむけていた額を軽く上げたが、
「ほんとに小次郎は弱気だねえ。そうも心配をするものではないよ。兄上には兄上の思惑があって、あそこへおいでになるのだからね」
──で顔をうつむけたが、しなやかに縫う手を進めて行く。布をくぐったり布に隠れたり、虫でもはって行くがように、針が銀色にチカチカと輝く。二人はしばらく黙り込んだ。
庭の草むらで露を吸いながら啼きしきっている虫でもあろう、虫の音が部屋まで届いて来た。
と、ポツンと音がした。昼間の間に部屋の中へ、こっそり忍び込んでいたのでもあろう、一匹の蟋蟀が飛んで来た。長い触鬚をピラピラと揺すって、巨大な蚤のような形をして燭台の脚の下にうずくまっている。いかにも初秋の夜らしかった。
「わけてもこのごろは私たちの一家は、つけ狙われておりますのに、あのような物騒な空屋敷などへ、しげしげおでかけなさいますのは不安至極に存じますよ」同じようなことをいいながら、小次郎は蟋蟀へ眼をやった。「あの石置き場の空屋敷は、いやなところでございます。恐ろしい所でございます。娼婦とゴロン棒と食い詰め者と、悪党どもの巣でございますもの」
しかし鈴江は微笑したばかりで、顔も上げなければ返辞もしない。針の手を進めて行くばかりである。
「私も二、三度は参りました。自分から進んで参ったのではなくて、兄上や姉上に無理強いをされて、やむを得ず参ったのではございますが。……行けば行くほど私にとりましてはあの石置き場の空屋敷は、いやなところでございます。何があそこにはあるでしょう? 腐った夜気、淫蕩の音色、麻痺した良心、不義悪徳、そのようなものばかりではございませんか。とうてい真面目な人間などが、行くところではございません」
またポツンと音がした。蟋蟀がひとはね元気よくはねて、燭台の燈火へ飛びつこうとしたが、そこまで力が及ばなかったからか、黒塗りの燭台の脚を越して、向こう側の畳の上へ落ちたがために、醸されたささやかな音であった。
畳の上へ兀然と立って、まるで怒ってでもいるように、飛び脚を高く鉤のように曲げて、蟋蟀は気勢をうかがっている。
姉が返辞をしないので、小次郎は寂しさを感じたらしい。独り言のようにつぶやいた。
「いつぞや泉嘉門殿の屋敷で、桃ノ井兵馬とかいう悪侍を、兄上と姉上とでお懲らしなされて以来、私たち一家の身の上へは、いつも物騒な脅迫の手がのばされているはずでございますよ。先刻方屋敷から追い出してやった、あの友吉という内弟子なども、どうやら敵方の間者とかいうことで。恐ろしいことにござりますよ」
しかし鈴江は依然として、しなやかに指を運ばして、袖を縫って行くばかりであった。まだ蟋蟀は動かない。触鬚で空間を探っている。
「姉上」と小次郎は声を強めた。
「姉上!」と小次郎は声を強めたが、姉の鈴江が縫う手も止めなければ、うつむいた額も上げなかったので、小次郎は意気込みを砕かれてしまって、気の弱い萎縮したおどおどした声で、独語のようにいい出した。
「どうやらこのごろ兄上のもとへ、京都の青地園子様から、いかにも思い余ったような、お気の毒なご書面がまいりましたようで。兄上から内情を承りました。そのご書面によりますと、園子様の兄上の青地清左衛門様は、徳大寺様の密使を受けまして、江戸へ密行をなされる途中、箱根の峠路で何者とも知れず、殺害なされてお逝くなりなされたそうで。お気の毒でお気の毒でなりませぬ。……私たち兄弟と同じように、園子様にはご両親がなくて、お一人のはずでござりますよ。それでぜひともこの土地へ参って、兄上とご一緒におなりになりたいような、お心持ちだとか承りました。これはまことにごもっとものことと、この小次郎には存ぜられます。おやさしいお美しい園子様と、兄上とは許婚でございますもの。で、私は兄上に向かって、すぐにも京都から園子様を、お呼びしてご一緒におなりなさいますようにと、おすすめしたのでございますよ。するとどうでしょう兄上には、『武家の堅苦しい娘などよりも、砕けた市井の女のほうが、わしの嗜好に一致する。水戸様石置き場の空屋敷に出入りをしている女どものほうが、私にはうってつけに恰好だよ』──などとこのようにおっしゃいまして、ご返辞さえも差し上げなかったようで。……で、私には思われました。兄上はお心が変られたのだと。大義という言葉をかこつけにして、その実は放蕩に溺れられたのだと。……よくないことでございます、よくないことでございます!」
園子という名がいわれ出した時から、鈴江は動揺を現わしはじめた。縫う手を止めて顔を上げたが、見れば眼の中に涙のようなものが、うっすらとして流れていた。
「実はね妾もお兄様から、園子様のご書面を見せられたのだよ。なんで妾が園子様へ、同情をしないことがありましょう。それこそ園子様というお方は、神様といおうか仏様といおうか、慈悲深くてご親切で犠牲的で、邪気というものの一点もない、お美しいお方ですものね。……でも妾はお兄様へ向かって、全くお前さんとは反対のことを、その時押し切っていったのだよ」こういってから姉の鈴江は、また縫い物の針を運ばせて、顔をそっとうつむけた。前髪にかぎられて燭台の灯が、眉まで影をつけている。
「反対のこととおっしゃいますと?」案外らしく小次郎が訊いた。切れ長の眼がパッとひらいて、一瞬間つぶらになったのは、驚いた証拠ということができよう。と、鈴江は顔を上げたが、
「まだまだ当分は園子様を、江戸へお呼び寄せなさいますなと、つまりこのようにいったのだよ」──で、またうつむいて縫って行った。
「それはまた何ゆえでございますか?」小次郎の声は急込んでいる。
「園子様があまりにもよいお方だからだよ」
「そのようによいお方でございますから、お呼び寄せなさればよろしいのに」
「園子様があまりにも清浄だからだよ」
「それではいよいよ園子様を、お呼び寄せなさればよろしいのに」
「園子様があまりにもお弱いからだよ」
「ではますますお呼び寄せになって、お助けなさればよろしいのに」するとにわかにすわり直すように、鈴江は厳然たる態度をとったが、
「小次郎!」と鋭く声をかけた。
「そういう園子様のよいご性質が江戸へおいでになることによって、悪くなられると思われるからだよ」
「私にはハッキリとわかりかねますが」
「というのは今の私たちのくらしが、秘密が多くて陰惨で、そうして殺伐で危険だからだよ」
「お言葉の通りでございますよ」小次郎は膝を乗り出すようにしたが、「私どもの只今のくらし方は秘密が多くて陰惨で、そうして殺伐で危険でござります。ですから私は申し上げましたので、もう少しく兄上におかれまして、ご自重なされてくださればよいにと」
「小次郎やお前は若死にしそうだねえ」どうしたものか姉の鈴江は、不意にこういって、小次郎を見据えた。
「小次郎やお前は若死にしそうだねえ」と、意外なことをいわれたので、小次郎は怪訝そうに姉をみつめた。と、鈴江はそういう小次郎の顔を鋭く見据えつづけたが、にわかに顔色を寂しそうにした。
「私たち三人の兄弟のうちで、お前さん一人だけが心配性で、物事にひどく屈托をして、悪いほうへ悪いほうへと、考えまわして行くということは、ずっと以前からわかってはいたが、このごろはそういった傾きが、だんだんひどくなって来たよ。で、このままで行こうものなら自分で自分へ病いをこしらえて斃れてしまいそうに思われるのだよ。……なんとなくお前さんは影が薄いねえ。それで妾はお前さんへいいたい。お兄様のことはお兄様にまかせ、妾のことは妾にまかせ、園子様のことなども心にかけないで、お前さんはお前さん一人だけのことを、考えるようになさるがよいとね。なるほどお前さんの眼から見れば、水戸様石置き場の空屋敷などへ、お兄様や妾が出かけて行くのは、物騒にも見えれば危険にも見え、また自堕落にも見えるかもしれない。でも、こういうことも思うがいいよ。お兄様にしてからが妾にしてからが決して決してそういった所ばかりへ出入りをしているのではないということをね。お前さんにしてからが知っているはずだよ。土屋采女正様のお屋敷へも牧野遠江守様のお屋敷へも、中川修理太夫様のお屋敷へも、水野豊後守様のお屋敷へも、いいえいいえそれどころではない、光圀様以来勤王の家として、柳営の方々にさえ恐れられていられる、水府お館へさえ招かれて、時々私たちは行くではないかえ。……敵は私たちに多いかもしれない。でも味方も多いのだよ。めったに乗ぜられるものではないよ。それにまだまだ私たちの素性や、目的や手段や後ろ楯については、ハッキリ気取られてはいないのだからね。心配するほどのことはないよ。……水戸様石置き場の空屋敷などへ、たとい私たちが出入りをしたにしても、それはほんの憂さ晴らしでもあり、いい換えれば息抜きでもあるのだよ。もっともあそこにいるああいう人たちへ、私たちの思惑を伝えるのも、大切なことには相違ないがね。……どっちみちお前さんが心配するように、お兄様にしてからが妾にしてからが、自堕落にもなっていなければ、危険にさらされてもいないのだよ。……」
こう鈴江はいって来たが、膝の上へ置いていた縫いかけの袖を、しずかに取り上げると畳の上へ敷いて、縫い目を爪先でこするようにした。
「上等の袷が仕立て上がります。明日から着せてあげましょう。くよくよせずと向島へでもいって、秋草の花でも見て来るがよいよ。……でもほんとにお前さんはこのごろ影が薄くなったねえ。妾にはなんとなく心がかりだよ。よくないことでも起こらなければよいが」
──と、その時ポツンという、ささやかな音がしたかと思うと、今まで燭台の向こう側にいた蟋蟀が近くへ飛んで来た。と、そろそろと歩き出したが、黒い羽根を燭台の灯に光らせて、鈴江の指の先まで来た。
「…………」無言で鈴江は手をのばすと、素早く蟋蟀を指の先でつまんだ。「ねえ小次郎やこれをご覧、可愛らしいけれども弱々しいではないかい。ちょうどお前さんのようだよ」眼の前へ蟋蟀をかざすようにしたが、「ちょっとでも指の先へ力を入れて、ほんの心持ち押えただけでも、弱い虫は死んでしまうだろうよ。お前さんもそんなように思われるねえ。ちょっとでも荒くあたろうものなら、お前さんは死んでしまいそうだよ」二本の指をヒョイといらった。「おいでおいで安全なところへ」──と、蟋蟀はひとはねはねたが、指の間から畳の上へ飛んで、そこでようすでも窺うかのように、例によって触角を空でふるわせた。
戸外では風の音がする。
風の音を縫って虫の声がする。
が、部屋の中は静かであった。
畳から取り上げた、袷の袖を、鈴江は無言で縫って行く。
そういう鈴江と対座をして、小次郎は腕を組んでいる。
で、部屋の中はしずかであった。
しかしそういう静けさを破って、小次郎の溜息が聞こえて来た。
「小次郎やお前溜息をついたの」
「…………」
「妾には見当がついているよ」
「…………」
「お前さんはいやになったんでしょうね」
「…………」
「巷で働くということが。……ねえお前さんにはいやになったんでしょうね」
「…………」
「そうねえ、お前さんの性質としては、それも無理ではないかもしれない」
「…………」
「お前さんは結局書斎の人だよ。……学者としてのお父様の、一面ばかりを受けついだ人だよ。……でも私たちのお父様には、巷に立って号令をして、世を動かそう清めようとなさる、そういう一面もおありになされたのだよ。……でもそういう一面は、お前さんには伝わっていないねえ」
「…………」
「お兄様とそうして妾とへは、色濃く伝わっているけれど」
「…………」
「でも妾はお前さんにいうよ。せめて剣道でもお稽古なさいってね、よそほかの道場へ通って行って、お稽古をしていただくのではなし、内の道場でお兄様から、お稽古をしていただけばよいのだからね。……以前はそうでもなかったけれど、この頃ではお前さんは道場へも出ず、竹刀を取り上げようともしないではないかえ。どうもそれではよくないねえ。だんだん体だって弱くなりましょうよ。……」
「…………」
「でも妾はお前さんが好きだよ。妾と性質が似ていないので、それでかえって好きなのかも知れない。……お兄様はあの通りに磊落で、快活で剽軽で大胆だから、やはり好きには相違ないけれども、でも妾にはお兄様は、兄弟などというよりも、同志といったほうがふさわしいのだよ。……そこへ行くとお前さんは反対だよ。兄弟らしい気がするよ。行き届いた細かい愛情で、お兄様や妾の身の上などを、いろいろに案じてくれるのだからねえ。可愛い可愛い弟と、妾には心から思われるのだよ。……だからもしお前さんの身の上などにもしものことがあろうものなら、妾にはどんなに悲しいだろう」
「…………」
「体を大切にしておくれよ。心をのびのびと持っておくれよ」
「…………」
「私たちの使命が片づいたら、さっそく江戸を引き払って、お前さんのすきな京都へ帰って、長閑なくらしをすることにしましょう」
「…………」
「京都! ああ、いい所だわねえ。──平和にまどろんでいる東山、鷹揚に流れている鴨の川、寂びた由縁のあるたくさんの寺々、秋に美しい嵯峨の草の野、春に美しい白河の郷、人の心も落ちついていて、険しい所などどこにもない。……妾だって京都は大好きなのだよ。ね、帰って行きましょう。そうしておちついた邸に住んで、お前さんは好きなご書物を読んで、みやびやかな公卿方のお邸へ参ってご講義などをなさるがよいよ。……私たち三人をずっと昔から、可愛がってくだされた正親町様の、清らかで質素なお邸などへね。……でも小次郎や、京都へ帰るには、帰って行けるだけの功をして帰って行かなければならないのだよ。でなかろうものなら笑われるのだからねえ。そうして申し訳がないのだからねえ」
「…………」
「だから妾はお前さんへいうのよ。辛抱をおしとね。今のくらしに辛抱をおしとね。じっとしていればよいのだからね。働かないでもよいのだからね。働くのはお兄様と妾とだけで、今のところよさそうに思われるからね。でもお前さんが元気を出して、お兄様や妾と一緒になって、同じように働こうとなされるなら、お兄様にも妾にも嬉しいのだけれど……」
そういって鈴江は小次郎を見た。
と、小次郎は腕を組んだままで、さっきから黙って聞いていたが、この時にわかに小次郎としては、意外なほどにもハッキリとした語気で、こうしたしたと意見をいった。
「はい姉上の仰せられましたように、結局私という人間は、書斎の人間でございましょう。単なる学究でございましょう。でも私といたしましては、体が弱くて元気がなくて、巷へ出て行って事を行なおうにも、行なうことのできないほどにも、柔弱の性質であるがために学究となったのではございません。ええそれはいうまでもなく、兄上や姉上に比べましては、柔弱には相違ございませぬが、しかし身体からいいましても、これと申して病気はないし、また心から申しましても、たいして卑怯でもありませんし、たいして臆病でもございませぬ。にもかかわらず巷へ出て行って、兄上や姉上と力を合わせて、事を行なおうと致しませぬのには、理由があるからでございます。……人間嫌いだからでございますよ、世間嫌いだからでございますよ。でもどうして私のような、このような若い身そらをもってそのように人間が嫌いになり、そのように世間が嫌いになったのか? 不思議に思われるかも存じませぬ。聞いていただくことにいたします。私がこのように若いがために、かえって鋭敏に人間や世間の、本当がわかるからなのでございます。私から見ますると人間というものは徹頭徹尾嘘ばかりに、終始しているように思われます。で、ある人が『こういった』とします。すると私には思われますので『あああの人の本当の心は、あの反対をいいたかったのだ』と。またある人が『こうした』とします。すると私には思われますので『あああの人の本当の心は、あの反対をしたかったのだ』と。……私には人間というものが信じられないのでございます、世間はどうかと申しますに、一人一人の人間などの、思惑などには頓着をせずに、自分勝手に勝手のほうへ、盲目的に進んで行きます。ですから一人の人間などが、世間の進みを自分の力でかえてみようなどといたしましても、なしとげられるものではございません。……どっちみち私にとりましては、人間も世間も嫌いでございます。ですから自然人間や世間の、渦巻の中へ出て行って、事を行なおうなどとは思いません。しかし私は思っております。本当の人間というものや、本当の世間というものは、決してそのようなものではない。もっともっとよいものだ。そうして私は思っております、そういう本当の人間や世間は、私たちの周囲には決してないと、それではどこにあるのでしょう? 申し上げることにいたします。高い所にございます。心の中にございます。決して見ることはできませんが、考えの中へは入れることができます。すると姉上は仰せられましょう。何にたよって考えられるのかと、申し上げることにいたします。古聖賢の書を読むことによって、本当の人間や本当の世間を、感じ見ることができるのだと。……書斎の人間になりましたのは、こういう意味からでございます。……だがなんて俺は馬鹿なんだ!」
こういうと小次郎は突然に立ったが、さも悩ましいとでもいうように、両手を上げると頭を抱えた。
「つまらないことを申し上げました。姉上が無知の人間かのように! 私が悟った人間かのように!」
フラフラと小次郎は歩き出した。「偽りのないところを申し上げます。私とて美しい娘を見れば、恋しくも愛らしくも思われます。いえいえもっともっと酷いことを、空想することさえもございます! 乳房を! 脛を! 抱擁をさえも!」
フラフラと小次郎は部屋をまわった。
「なんだか苦しくなりました。戸外へ出て歩いて参ります」
で、燭台の横を通って、クルリと鈴江に背中を向けて、小次郎は襖を引きあけたが、すぐに姿は消えてしまった。
と、履物でもはくらしい、あわただしそうなものの音が、玄関のほうから聞こえて来たが、歩いて行く音がつづいて聞こえ、門の潜り戸をあけたらしい音が、聞こえてそうして消えてしまった後は、なんの物音も聞こえなくなった。
「あの子はほんとに可哀そうだよ」縫い物の手を止めたままで、鈴江は口へ出してつぶやいた。
「いちずに思い詰める性質だからねえ。……よくないことでも起こらなければよいが」鈴江の心配は杞憂ではなかった。
というのは小次郎が月夜の町を、代官町まで彷徨って来た時、その代官町の露路の口から、数人の人影が現われて、次のような話をしたからである。その結果大事件が起こったからである。
山県紋也の邸を出て、雉子町の通りを東南へ下れば、吹矢町、本物町、番場町となって、神田川の河岸へ出る。──今日の地理とはだいぶ違う。その区域に立っている大名屋敷といえば、酒井若狭守、松平左衛門尉、青山下野守、土井能登守、──といったような人々の屋敷屋敷で、その間に定火消しの番所もあれば、町家も無数に立っている。そこを行き過ぎれば代官町となる。──すなわち今日の連雀町の辺で、町家ばかりが並んでいる。
さて邸を出た小次郎であるが、たっぷりと月光につかりながら、代官町まで彷徨って来た。と、小広い露路があったが、そこから四人の人影が出た。
「おやきゃつは友吉ではないか」たしかに一人は友吉であった。
「おおそうそう、この露路の奥に代官松の住居があったはずだ。ははアそれでは友吉という男は、あの目明しの代官松の乾児の一人であったのか」小次郎には胸に落ちて来た。「代官松が我々一家を目の敵にしてずっと以前から付け狙っていると聞いていたが、さては友吉というあの乾児を、狡猾にも間者として入り込ませて、家の秘密を探らせたものとみえる」
それにしても四人も打ち揃ってどこへ何をしに行くのであろうか? ──これが小次郎の気にかかった。
「後をつけてようすを見てやろう」──で、小次郎は後をつけた。
友吉をはじめとして四人の者は小次郎につけられているとも知らずに、広い往来へ肩を並べて、話しながら先へ進んで行った。
と、友吉の声が聞こえた。「……ふっと打てるような気がしたのさ、よしひっぱたいて片輪にしてやろう、こう思って足を払ったってものさ。……だがさすがは山県紋也だ、あべこべに俺らを打ち据えおった……左の横面が痛んでいけない」左手を上げると横面をおさえた。「ズキンズキンと痛みおる」四人は先へ進んで行く。
と、一人の男がいった。「苦心をした甲斐はあったってものさ。きゃつの背後楯の人間が正親町様だということが、お前の探索でわかったんだからな」
「うん」と友吉はうなずくようにしたが、「たいして手間暇はかからなかったってわけさ。京都から来る飛脚の状箱を、こっそりあけるだけでよかったのだからな」四人は先へ進んで行く。と、もう一人の男がいった。
「親分、うまくやってくれればよいが」
「そうさ」とこれは友吉であった。
「普通の捕り物とは違うのだからな」
「こっそり引っくくるか叩っ殺してしまえ──というのが狙いどころなんだからな」
しばらく四人は黙り込んだが、先へズンズン進んで行く。深夜というのでなかったけれども、道の両側の家々では、雨戸を引いて静まっていた。月光ばかりが道や屋根を照らして、霜のような色を見せている。
と、もう一人の男がいった。「だが佐久間町の屋敷には、何者が籠っているのだろうな」
「さあそいつはわからない。親分が何ともいわないんだからな」こういったのは友吉であった。
「俺らの役目は楽なものさ。あの屋敷を厳重に見守っている。そうして人数が出るようだったら、急いで走って行って親分に知らせる──というだけのことなんだからな」
「それじゃ何かい、あの屋敷には大勢の侍でもいるのかい」四人の中の一人であった。
「親分が何ともいわなかったから俺らにはどうなのかわかりゃアしないよ。……でも親分はこんなことはいった。幾人かの大名や旗本衆が、あの屋敷の老人を助けているとな」
「老人?」と一人が怪訝そうに、「老人なんかがいるのかい?」
「死んだ老人だということだ。去年伊豆の三宅島でな。……痛いなあ、ズキズキすらあ」また友吉は横面をおさえた。
「大きな鯨だともいわれていたっけ」
「死んだ年寄りの鯨なのかい?」
「じゃア人間じゃアないのだな」二人の男が笑いながら訊いた。
と、友吉も笑い声を立てたが、「老人で、鯨で、大学者だそうだ。そうして北条のお殿様にとっては、恐ろしい敵だということだ」
「北条の殿様の敵だとすれば、左近将監様にも敵にあたるわけだな」誰とも知れずに一人がいった。「お二人はグルだということだからな」
と「オイ」という声がした。友吉は急いでたしなめたのである。「ご老中様のお名前なんかを、大きな声でいうものじゃアないよ……だがお前のいった通り、糸をたぐるとそういうことになるなあ」
「左近将監様や北条の殿様の、敵にあたるというからには、自然代官松の親分にも、敵にあたるということになるな」──誰とも知れずもう一人がいった。「親分は北条のお殿様から、内々眼をかけられているのだからなあ」
「ということであってみれば、大学者で鯨で死んだ老人というのは、京師方の奴に相違ないなあ」誰とも知れずまた一人がいった。「将監様にしても美作様にしても、幕府のご権臣やお歴々で京師方の公卿衆の妄動ってやつを、敵として憎んでいられるのだからなあ」
「そうだよ」と友吉はうなずいてみせた。「大学者で鯨で死んだ老人というのが、京師方の人間だということだけは親分の口ぶりで確からしいよ。ところでその老人は老人として、左近将監様や北条美作様を、幕府方の元兇として敵としているし、また将監様や美作様は、その老人を京師方における、ちからのある陰謀の大立て者として、敵として憎んでいられるらしいのだよ」
いつか友吉をはじめとして、四人の乾児たちは往来を行きつくして、神田川にかけてある橋の上へその姿を現わした。
橋の欄干が月の光に濡れて、これも霜でも下りたかのように見える。おだやかに、流れている川の水の上にも、霜のように月の光が降りそそいでいて、水明りをボッと立てている。対岸には水谷町だの鞘町だのの、ゴチャゴチャとした小さい家ばかりを持った、町家町が黒々と横たわっていたが、屋根を抜いて高い火の見櫓が、星を頂きに飾りながら、四方を見まわして立っているのが、夜空に風情を添えて見せた。鞘町の向こうが佐久間町なのである。
「そこで水戸様石置き場の、空屋敷へ親分と俺たちの仲間が、今夜乱入しようとするので、大学者で鯨で死んだ老人って奴が、人数を出そうというのだな」
「とすると紋也とその老人とは、一味徒党というわけだな」
「そりゃア一味徒党だとも。でなかったら紋也を助けようとして、人数を出す気づかいはないからなあ」
「紋也も京師方の人間なら、老人も京師方の人間なのだからなあ」
橋を向こう側へ渡り越した時に、こう三人の仲間がいって、友吉のほうへ顔を向けた。
と、友吉はどうしたものか、そうではないというがように、首を二、三度左と右へ振ったが、
「どうも親分の口ぶりからみると、そうではないように思われるのさ。二人ながら京師方の人間ではあるが、働きはなんとなく別ッこらしいそうだ」
「連絡ってものもないのかな」
「うむ、どうもそうらしい」
「ではなぜ人数を出すのだろう?」
「部下が入り込んでいるからだそうだ」
「ほう、どんな部下なんだろう?」
「一人は綺麗な女煙術師で、一人は相棒の小男だそうだ」
「綺麗な女煙術師が、水戸様石置き場の空屋敷へ、出入りをしていると知っていたら、俺らそれこそ張りに行ったものを」
「どうだこれから出かけて行っては」
「焼き討ちにされるのはまっぴらだよ」ここで四人は一緒に笑った。
水谷町まで四人はやって来たが、やがて鞘町へ抜けようとした。
「届けて捕り物をするのではなし、焼き討ちなんかしてもいいものだろうかな」ふと一人が不安そうにいった。
「うん、そいつは大丈夫だよ」友吉はその一人へ顔を向けたが、「北条の殿様へ親分のほうから、申し上げてあるということだ」
「焼き討ちを今夜と定めたのは、どういうところから来ているのだろう?」
「それだってなんでもありゃアしない」いいながら友吉は四方を見たが、「おい、そろそろ佐久間町だぜ」
そこは佐久間町の一丁目であった。
友吉をはじめとして四人の者はこうして佐久間町の一丁目まで来たが、不思議な老人の籠もっているという、佐久間町二丁目の屋敷へまでは、少しく距離があったのでなおもヒソヒソ話しながら、ひそやかに先へ進んで行った。
月が四人を照らしている。四人の影が地へ曳いて見える。せわしそうに二、三人の往来の人が、四人とすれ違って歩いて行ったが、その後は一時人通りが絶えた。ここは片側の町である。一方の側には町家が並んで、家々は屋根を月光にさらして、灰白色にぼかしていたが反対の側には川があって、水が音も立てずに流れていた。すなわち神田川の流れである。四人は先へと進んで行く。
「なにの、それはこういうわけだ」友吉は含んだ笑い声で、一度に三人へ聞かせるようにいった。「第一に紋也の後ろ楯が、正親町様だとわかったので、それで遠慮も会釈もないやっつけることに定めたのさ。第二紋也が今日という今日俺らをひどい目に会わせたので、親分が俺らを気の毒がって、敵を取ってやろうというので、それでやっつけることに定めたってものさ。ああそうだよ、今夜やっつけることにな」得意そうに肩をそびやかすようにしたが、「親分は人情が厚いからなあ」
「全く親切で人情に厚いや」三人の中の一人がいった。「その親分だがやりそこなわなければよいが。全体幾人で出かけたんだろう?」
「四十人近くの人数だとよ」友吉の声に不安はなかった。「兄弟分の橋場の大将と、河岸の親分とがよろしいというので、一緒に行ってくれたそうだ」
「なるほど」と三人の中の一人がいった。「人数に不足はなさそうだな。……ところで火の手は上がらないかな」で、空を仰ぐように見た。
「そうさ、そろそろ上がるかもしれない。……少し急いで行くとしよう」
こうして四人は足を早めたが、まもなく佐久間町の二丁目の、土塀のいかめしい、植え込みの繁った、大門の厳重な屋根の前へ揃って姿を現わした。
「おいこの屋敷だ」
「さてどうする」
「四方へ散って見張ることにしよう」
「よかろう」
という声がしたかと思うと、友吉をはじめとして四人の男の姿が消えて見えなくなった。露路や裏手や物の蔭などへ、素早く姿をかくしたのであろう。で、ひとしきり静かとなって、人の姿は見えなくなった。が、一つの人影はあった。
「これはこうしてはいられない。代官松の連中が、水戸様石置き場の空屋敷を襲って、兄上に危害を加えようとしている。急いで走って行ってお知らせしなければならない」
その人影こそは他でもない、友吉をはじめとして四人の男を、代官町の露路から、ここまで後をつけて来て、四人の話を断片的にではあったが、耳にした山県小次郎であった。
「何が幸いになるかしれない。家を出て彷徨っていたばかりに、兄上の一大事を知ることができた! ……焼き討ち! 恐ろしい話! ……お知らせしよう! 近道はどっちだ! ……ああ間にあってくれればよいが! ……だが老人とは何者であろう? いやそんなことはどうでもよい! ……この屋敷は? どうでもよい! ……北条美作が承知だという! あぶないあぶない、いよいよあぶない! 女煙術師? その相棒? そんな人間はどうで……もよい! 危険だ危険だ兄上が危険だ!」考えがグルグル渦を巻く。
が、取る道は一つしかなかった。焼き討ちのはじまらないその以前に、水戸様石置き場の空屋敷へ行って、危険の迫っているということを兄に知らせるよりほかにはなかった。
で、小次郎は腰の大小を束に両手で握りしめると、佐久間町の通りを両国のほうへ、疾風のように走り出したが、このころ覆面をした忍び姿の、二人のりっぱな侍が、佐久間町二丁目の方角をめざして話しながらしとしとと歩いて来た。
両国橋を日本橋のほうへ渡って、さらに神田川を下谷のほうへ渡れば、平左衛門町の通りとなって、それを西のほうへたどって行けば、自然と佐久間町の通りへ出る。
月の光を故意と避けて、大小の鐺ばかりを薄白くぼかして、北条美作と桃ノ井兵馬とが、今悠々と歩いて行く。
と、美作は振り返ったが、「まだ火の手は上がらないと見える」
すると兵馬も振り返って見たが、「まもなく上がるでござりましょう」
──で、二人は歩いて行く。道の片側の家々は、窓も雨戸も閉ざしていた。家の影が往来に落ちていて、そこだけは黒々と闇であったが、闇からはずれた往来の上には、月の光が敷き充ちていて、霜でも置いたように白々と見えた。
美作と兵馬とは闇を縫って進む。人目を恐れているかららしい。
「松吉から知らせのあった時には、俺もちょっと不安に思ったが、行って見てすっかり安心したよ」美作の声は愉快そうであった。
「水戸様石置き場の空屋敷も、松吉の一味にああ囲まれましては、山県紋也をはじめとして、集まっている男女のヤクザ者たちは、一人として囲みを突破して、逃げ出すことはできますまい」
話しながら先へ進んで行く。どうやら二人の話から推せば、今夜水戸様石置き場の空屋敷を焼き討ちにかけようという、そういう知らせを代官松の手から、北条美作方へもたらされたので、そこで美作は兵馬を連れて焼き討ちが成功をするか、ないしは失敗に終わりはしまいかと不安に思って空屋敷へまで行って、ようすを見ての帰りらしい。
二人は先へ進んで行く。どこへ二人は行くのであろうか? 安心して本郷の美作の屋敷へ、引っ返して行く途中なのであろうか? いやいやそうではなさそうであった。こう美作がいい出したのであるから。
「紋也のほうはあれで片付く。松吉が仕止めてしまうであろう。……心にかかるはあの老人を助けている連中どもだ」
「は、さようでござります」
「人数を出さないとも限らないからな」
「は、さようでござります」
「厳重に見張りをすることにしよう」
「厳重に見張ることにいたしまする」
果然二人の行く先はわかった。例の佐久間町の二丁目の、不思議な老人の籠っている屋敷へ、見張りをするがために行くのであった。しばらく二人は沈黙をつづけて、先へ先へと歩いて行く。と、桃ノ井兵馬であるが、闇から月光の中へ出た。覆面をつけているがために、ハッキリとは顔はわからなかったが、一方の眼を白い布で、グルグルと包帯しているのが、黒い頭巾の間から洩れて、気味悪く月光に照らされて見えた。
「眼はどうだな? まだ痛むか?」
「はい」というと桃ノ井兵馬は、無意識のように片手を上げて、その包帯をした片眼をおさえた。「痛みは癒りましてござりますが……」
「視力のほうは恢復しないか」
「失明いたしましてござります」
「気の毒だな。気の毒に思う」すると兵馬は腰をかがめたが、「怨みが三重となりました」
「…………」美作には意味がわからなかったらしい。無言で闇から兵馬のほうをすかした。
「怨みが三重になりました」兵馬の声は顫えている。「主義の敵に親同士の怨みに、失明されました私自身の怨みに……」
「いかさま」──とそれを聞くと北条美作は、納得したように肩を揺すったが、「復讐の念も強まったであろう」
「いうまでもない儀にござります」ますます桃ノ井兵馬の声は、憤りと怨みとに顫えを帯びて来た。「大弐の遺児の兄弟三人、紋也と小次郎と鈴江を嬲り殺しにいたさないことには、胸の中が晴れませんでござります」
兵馬はまたもや片眼をおさえた。いつぞや泉嘉門の屋敷で、山県紋也と切り結んでいた際に、突然に紋也の妹の鈴江の、吹き針の鋭い針に射られて、潰されてしまった片眼なのであった。二人は先へ進んで行く。と、美作が声をひそめていった。「そちの女房の君江とかいう女子が、発狂したとは本当のことかな?」
「そちの女房の君江とかいう女子が、発狂したとは本当のことなのかな?」こう美作に訊ねられて、兵馬は明るい月の光の中で、苦いような寂しそうな笑い方をした。
「発狂というところへまではまいりませぬが、時々精神を昂奮させましたり、常規を逸した行動に出たり、言葉に出ることはござります」
「お前があまりに虐めたからであろう」こういいいい北条美作は、月の光のみちていて明るい、往来の中央へ歩み出して、兵馬と肩を並べるようにした。
「あまり女房などは虐めないがよいぞ」たしなめるような声であった。
が兵馬には美作の言葉が、いくらか気に入らないようすであった。
「いえいえ決して理由もないのに、女房などを虐めは致しませぬ。ご前におかれてもご必要のはずの例の重大な秘密の書類を、女房の手より奪い取ろうものと、あるいは押し強く尋ねましたり、時には打擲いたしましたり、嚇したりいたしますのでございます」
「いやそのことならばわかっているよ。再々お前が話してくれたからな」美作は今度はなだめるようにいったが、「しかしはたしてお前の女房が、重大な秘密の書類などを、隠して所持をしているだろうかな。……お前は確かだとはいってはいるが」少し怪しいというように、美作は小首を傾けて見せた。
「間違いなく確かにござります」こういうと兵馬は自信がありそうに、月の光でほの白く見える右の肩を心持ちそびやかすようにしたが、「竹内式部の高弟としまして、信用の誰よりも厚くありました者が、私の女房の父親にあたる吉田武左衛門にござります。で式部は罪を受けます以前に、重大な秘密の書類のいっさいを、その武左衛門に預けましたはずで。……さようでなければなんで私が、姓名を騙り身分を偽り、佐幕思想とは反対の勤王思想家と偽ってまで、武左衛門の家に近寄りまして、入り婿などになりましょうぞ」兵馬はいささか得意そうであった。二人は先へ進んで行く。
右手に流れている神田川の水が、にわかに微光を失ったのは、月が雲の中を通ったからであろう。が、ふたたび微光を放って、東へ東へと流れ出した。月が雲から現われたのである。
「兵馬!」と美作が声をかけた。
「そちの素性とそちの本名とを、女房はいまだに感づかないのかな」
「感づきませぬように存ぜられます」兵馬の声は笑止らしく、「佐幕方の浪人武士の、南条竹之助と思い込みまして、おりますようにござります」
「素性と本名とが知れた暁にはそちの女房はどうするであろうな?」
「本物の狂人になりましょう」
「狂人になっては可哀そうだの」
「敵方の女にござります」
「気が狂っても構わぬというのか」
「敵方の女にござります」
「が、連れ添う女房ではないか」
「女房などはさておきまして、たとえ実子でありましょうとも……」
「悪人だの! 極悪人だの」
「しかしご前と比べましては! ……」
「俺か、俺はな、善人だよ」
「は」と兵馬胆をつぶしたように、美作の顔をすかすように見たが、「ご前が善人にございますかな」
「いや善人とも善人とも」美作としては不似合いなほどにも、明るい道化た口調でいったが、
「なんなら証拠をあげてもよい」
「承りたいものにござります」
「懐中物を女の掏摸めに、すられたほどのうつけ者だよ、善人といってもよいではないか。……しかも大切な懐中物だった」
「巻き奉書のことでござりますか」
「うむ、両国の広小路ですられた」
「すりましたはお粂という女掏摸とのことで」
「うむ、松吉が話してくれたよ」
「女煙術使いでもありますそうで」
「うむ、松吉が話してくれたよ」
「例の老人の一味の由で」
「それも松吉が話してくれたよ」
「が、ご前にはお粂と申す女の、誠の素性につきましては、ご存知ないように存ぜられますが」兵馬はそれを知っているようであった。
自分はそれを知っていると、そういったような自信のある語調で、
「が、ご前にはお粂と申す女の、誠の素性につきましては、ご存知ないように存ぜられますが」と、兵馬が美作にいったのに答えて、
「京師方の女に相違ないと、松吉が話してくれたによって、それだけは俺も知ってはいるが、その他のことは何も知らぬよ。松吉にも詮索が届いていないらしい」こういって美作は兵馬のほうを見た。「お前は素性を知っているのかな?」
すると兵馬は覆面した顔を、上下へ二、三度上げ下げして「さよう」という意味を現わしたが、「私にとりましてはお粂という女は、山県兄弟と同じように、主義の敵でもありますれば、父以来の敵にもござります、いやいやそればかりではござりませぬ。お互い同士に敵でもあります。あの女はあの女と致しまして、この私に対しまして、敵対行動をとっております」
「女の身そらで大胆な奴だの」美作は意外に感じたらしい。「いつどのような手段をもって、あの女はそちに敵対したのか?」
興味深そうに美作は訊いた。と兵馬は苦々しそうに、左右の肩をそびやかしたが、
「ご前にはじめて本郷の通りで、お目通り致しましたあの夜のことで、お粂は手下の芸人ゴロを数人私にけしかけまして、討って取ろうといたしました」
「ははあそうか、あの夜であったか。……お粂の素性は何か?」
「さあ」といったが桃ノ井兵馬は、奇妙にもお粂の素性を、美作に語るのをはばかるようであった。
「ご前」と兵馬は笑い声でいった。
「あの女のことにつきましては、一切合財をこの私めに、おまかせくださるようお願い致したいもので」
「はてな」──とそれを訊くと北条美作は、解せないというように首を振ったが、「まかせるというのは何をまかせるのか?」「主として体躯にござります」──いよいよ兵馬は笑い声でいう。
「あの女は美しゅうございますので」
「ほほう」と美作にはわかったようであった。「そちはあの女を好いていると見える」
「いえ私は憎んでおります」兵馬は美作をさえぎるようにしたが、「とはいえあの女が美人であると、そういう点につきましては、なんの異存もござりませぬ」
「さようか。……しかし、……どうしようというのか?」
「あの女を私ひっ捕えまして、その美しさを味わいます。と、そのことは私にとりましては二重の得となりましょう。……一つは復讐となりまするし、一つは享楽になりますので」
「凄いの」と美作は驚いたようにいったが、「その凄さが俺には好きだよ。よしよしお粂というあの女のことは、いっさいそのほうにまかせることにしよう。素性も聞かないことにしよう。……それにしても火の手はまだ上がらぬかな」
ふと立ち止まって北条美作は両国の方面と思われるほうへ、覆面頭巾の顔を向けた。空には真珠色の月の光が、海原の潮を想わせるように、茫々として満ちている。込み入った都会の建物は、あるいは高くあるいは低く、あるいは尖りあるいは扁平に、その空の下からささえている。巨大な箒木のそれのように、建物の屋根をぬきんでて、空を摩している形があったが、薬研堀不動の森の木であった。その森の木から北東の一帯に、両国の盛り場はあるのであったが、水戸様石置き場の空屋敷も、そこの付近になくてはならない。で、もし石置き場の空屋敷が、焼き討ちにかかったとしたならば、その辺の空がいったいに、深紅に染められなければならなかった。まだ焼き討ちは行なわれないのであろう。その辺の空は月の光で同じ真珠色にぼかされていた。
ふと止めた足をまた運んで、北条美作が歩き出したので、これも同じように足を止めていた桃ノ井兵馬も歩き出した。肩を並べて先へ進む。
「お粂という女の一身については、いっさいをお前へまかせることにするが、あの女にすられた巻き奉書だけは、どうともしてこちらへ取り返さなければならぬ」こういった美作の声の中には、断乎とした決心がこもっていた。
「取り返すことには致しまするが、その巻き奉書にはどのようなことが、記されてあるのでござりましょうか?」ぜひに聞きたいというように、兵馬は好奇心と熱心とで訊ねて、美作の顔をすかして見た。
巻き奉書の内容は何か? ──なるほどこれは兵馬にとっては、聞いて知りたいことであろう。で、兵馬は訊いたのであったが、美作の答えは曖昧であった。
「もちろん俺は知っているよ。京都所司代の番士の一人の、矢柄源兵衛が京都表から、わざわざ俺に持って来たのだからな。ただし本来は巻き奉書は、矢柄源兵衛の手によって、俺の所へ持ち来たされる文書では決してなかったのだ。京師の徳大寺大納言から、例の屋敷の老人のもとへ送られて来たところの文書なのだ。使者は徳大寺家の公卿侍の青地清左衛門という武士であったそうな。その清左衛門を矢柄源兵衛めが、箱根の山の中で討ち取って、奪って俺の所へ持って来たものだ。……さあ中身だが何といおうかな。俺は熟読したのであるから中身の有りようは存じてはいるが、ちとお前へはいいにくい。……しかしこういうことだけはいえる。──お前が奪おうと心掛けているお前の女房の持っているところの秘密文書の内容には『金子のあり場所』が記されてあるし、巻き奉書の中身には『人間の数』が記されてあるとな。いやいやそれ以上に大切なものが、血によって記されてあるのだよ。よいか、血汐で! それも無数に! どうもこれ以上はいわれないよ。……が、もう一言こういうことはいえる。お前の女房の隠して持っている秘密の文書を手に入れた上に、巻き奉書を手に入れたならば、あの老人をはじめとして、京師方の『一味』と『動力』とを根こそぎ刈り取ってしまうことができると。……もうこれ以上に話すことはできない」
こういうと美作は口をつぐんで、正面を睨んだままで歩きつづけた。
この美作の説明は、兵馬にとっては不足でもあれば、また不満でもあったけれども、いわないといったんいったからには、金輪際口を開こうとはしない、剛情我慢で英雄的の美作の性質を熟知しているので、強いて訊ねようとはしなかった。とはいえ口の中ではつぶやいたのである。
「君江が隠して保存している、秘密の文書の中身には『金子のあり場所』が示してあるという。『金子のあり場所?』『金子のあり場所?』だがいったいなんのことであろう? 俺はそんなことは知らなかった。あの老人が罪を受ける前に、秘密の文書を取り揃えて、君江の父親の武左衛門の手へ、ひそかに預けたということばかりを、探って知ったばかりなのだ。秘密の文書の内容が、なんであるかは知らなかったのだ。……金子のあり場所が示してあるという。さてはそういう文書なのかな。……ではいよいよ君江をせめて、秘密の文書を手に入れなければならない! もう一息だ! もう一息だ! もう一息君江をさいなんだならば、君江のほうから苦しくなって、進んで持ち出して来るだろう。……巻き奉書の中身には、人の数が示してあるという。なんのことだかわからない。血によって記されてあるという。しかも血汐で! しかも無数に! なんのことだかわからない。……が、どっちみちこの巻き奉書も、どうでも手中に入れなければならない。……お粂がすって奪ったという。今でもお粂が持っているかしら? それとも例の老人の手へ、すでに渡してしまったかしら? ……水戸様石置き場の空屋敷へ、お粂は今夜も行っているはずだ。松吉がうまく捕えてくれればよいが」
考えながら桃ノ井兵馬は、北条美作と肩を並べて、先へと足を運んで行く。
人の往来が稀で、ここの通りは静かである。依然として左側に流れている神田川の水の面には、月の光が降りそそがれているし、右側に並んで軒を揃えている町家の門口は月の光にそむいて、暗く寂しく静もっている。川と家並みとにはさまれて、長くのびている往来の面には、月の光が蒼白く注がれ、そこへ家の影が筋を引いて、明るさと暗さとのハッキリした縞をこれも依然としてつけていた。
そこを二人は進むのであった。
「泉嘉門の近況はどうか?」こう美作が声をかけたのは、しばらく歩いた後のことであった。
「今日もようすを見ようものと、嘉門の屋敷へ参りましたところ、嘉門は不在でござりました。が、娘がおりましたので……」こういって来て桃ノ井兵馬は、荒淫らしい笑い声を洩らした。
桃ノ井兵馬の荒淫らしい、笑い声を聞くと北条美作は、さすがに不快になったらしく、手に持っていた扇の先で、刀の柄を烈しく打った。と、カッカッと音がして、すぐに白い物が胸の前で躍った。カッカッと柄を打った拍子に、扇が開いて白い地紙が、月の光をはねたからである。
「嘉門が不在で娘がいたとか? その娘をお前はどうかしたのか?」──すると、兵馬はまた笑ったが、
「お菊と申す嘉門の娘は、高貴の姫君にも劣らないほどにも、美しくて上品にござります。で、……」というとまた笑ったが、心ありそうに黙ってしまった。
その心ありそうな兵馬の沈黙が、いよいよ美作を不快にしたらしく、
「嘉門の娘のお菊という女子の、美しくて上品だということについては、伜の左内から聞き及んでいるよ。であればこそ伜の左内めが妻にしようなどと悩んでいるのだ」
「娘お菊の心持ちも、いまだにご子息左内様から、離れられないように見受けられました」──それが俺には面白くないのだ──といいたげの口吻が、兵馬の言葉の節にあった。それがまた北条美作には、不快なものに響いたらしい。
「だからお前へいいつけたのではないか。左内とお菊との仲を裂いて、双方をしてあきらめさせるようにと」
「はいさようでござりますとも」──どうしたのかここで桃ノ井兵馬は、残忍な笑い声をひとしきり立てたが、「で、私は本日も参って、嘉門の留守をうかがいまして、ズカズカ家の中にはいって行きまして、娘お菊の柔かい腕を……」
「莫迦者!」と突然それを聞くと、美作は怒声を筒抜かせた。「辱しめたのか! なぜそのようなことをしたか!」
しかし兵馬は驚かなかった。
「私が穢したとお聞きになりましたら、いかほど左内様がご執心でも、おあきらめなさろうと存じましてな」
「うむ」
「しかるに」
「何?」
「失敗で」
「失敗? ふうむ、何ゆえであったか?」
「相手があまりにも清浄で、神々しいほど初心でありましたので、おのずからひけましてござります」
「ほほうそんなにもよい娘か」こういうと美作は打ち案じるがように、にわかに首を足もとへ向けた。黙々として歩いて行く。と、不意に美作はいった。「嘉門は悶えているであろうな?」
「酒びたりとなって、不平不満をいいつづけて、悶えているそうにござります。……今日も朝から酔いしれまして、フラフラとなんのあてもなく、外出しましたそうにござります。暁方に帰宅をいたしましたり、二日も三日も家を外に、泊まってまいることもありますそうで」
しかし兵馬はこういって来て、急に口をつぐんでしまった。というのは肝腎の北条美作が、兵馬の言葉を聞こうともせずに、上の空でいるように見えたからである。が、必ずしも北条美作は、上の空で歩いているのではなかった。突然このようにいったのであるから。
「左近将監武元様には、最近にとりわけご寵愛であった、年若い側室を失われたはずだ。……お菊という娘がそれほどにも……」
「は?」と兵馬は迎えるようにいった。「奪い取りまして左近将監様へ……」
「さようさ」と美作は思案しいしいいったが、「そちに依頼をするかもしれない」
「いと易いことにござります」
こうして互いに話しながら、佐久間町の町の入り口まで、美作と兵馬とが歩いて来た時に、一つの事件が行なわれた。というのは一人の若衆武士が、佐久間町のほうから風のように、二人のほうへ走って来たが、美作の身体へぶつかったのであった。
「無礼者めが! 粗忽千万!」
「火急の場合、お許しのほどを……」
「おっ、貴様は山県小次郎か!」
「どなたでござるな?」
「桃ノ井兵馬だ!」
「斬れ!」と美作の声がした。
が、この時火事の光が、両国の空を深紅に染めた。水戸様石置き場の空屋敷が、今や焼き討ちをされたのである。
水戸様石置き場の空屋敷などといえば、化物屋敷めいて聞こえはするが、決してそのようなものではなくて、一種の下賤の歓楽境なのであった。水戸様の建築の用材の石を、積み重ねておく置き地があったが、空地は凄いほどにも広かった。で全然必要のない、無駄な空地もあるわけである。そういう無駄な空地の所へ、いつからともなく家が建ったが、これが大変な家なのであった。というのは今日の言葉でいえば、バラック建てとでもいうべきであろうか、ろくろく鉋も掛けないような、粗末な薄っぺらな板を集めて、きわめてやにっこく造られたもので、家の内で灯されている燈火の光が、板の隙間から見えようという、そういう大変な家なのであったが、しかし本当の「大変さ」は、そういう家の造りよりも、その家へ集まって来るところの、人間のほうにあるのであった。
まず夜鷹が集まって来た。というのは家を建てたものが、四谷の夜鷹宿の親方の、喜六という老人であったので、そうして家を建てた目的というのが、変った夜鷹宿を設けようという、そういう目的であったからでもある。夜鷹がその家へ集まるので、当然に嫖客が集まって来る。その嫖客たるや大変物で、折助や船頭や紙屑買いや、座頭や下職や臥煙などで最下等の部に属している、そういったような人間どもであった。で夜鷹と嫖客とが集まる。人間であるから飲み食いしたい。──という要求をいち早く見抜いた、これも下等な屋台店などの主人が、こっそりそこへ店をひらいた。と、意外にそれがあたった。
「負けているものか」というところで、居酒屋の主人が酒店を開いた。とまたこれが大きにあたった。「負けているものか」というところで、駄菓子屋が店をひらいてみた。ところでこれも大きにあたった。「負けているものか」というところで──さよう続々と店ができた。「ああも店々が繁昌するのは、夜鷹宿が嗜好に合ったからだ。それ夜鷹宿をもっとふやせ」──というのであちこちに巣食っていた夜鷹宿の主人が出張って来て、空地へ夜鷹宿を建てたところ、予期したように繁昌する。夜鷹宿が増築されたので、飲食店も数を増し、嫖客の数も数を増し、大いに盛るところから、それ地代などが騰貴して、縄張りなどの争いも起こる。と、元締めというようなものが、自然とできて世話をやいたり、頭をはねたりカスリを取ったり、うまいことをして贅をつくしたりする。
女を買って飲み食いをする──そればかりでは面白くない。勝負勝負! これに限る! というので賭博が行なわれる。そこで博徒が入り込んで来て、「これはなんだ、渡りをつけろ! ……テラ銭をよこせ!」などと嚇す。そんなことには驚かないで、「お前さん貸元になってください」「うむ、そうか、それもよかろう」──嚇しに来た人間が大将になって、駒箱を膝へ引き寄せて、「さあ客人張りなせえ」などといって商売をする。
こうして成立をとげたのが、水戸様石置き場空屋敷なのであるが、しかしどうして空屋敷などというのか? というのは簡単な理由からで、昼間はいっさい商売をしない。で建物という建物が、空屋のようにガランとしている。そこで空屋敷というのであった。
しかしそのような歓楽境が、そのような径路で成り立ったことについて、官では制裁を加えないのであろうか? 水戸様の用地だという事と、夜だけの商売だという点とで、いうところの、「見ていて見ない振りをする」──大目に見ていたということである。が、それとても一面のことで、役人などは元締めの手から賄賂を貰ってはいたそうである。
繁昌するので美人も集まる。ちょっとりっぱな客なども来る。若い武士なども来るようになって、高尚めいた取りあつかいを、三、四軒の家ではしたそうである。
ところがこのごろいつとはなしにここへ集まって来る男女の間へ、一つの流行唄が流行だした。「葵の花はまもなく凋もう、しかしその代わりに菊の花が、全盛をきわめて咲くであろう。夏の次には秋が来るものだ」──こういう意味の流行唄なのであった。流行したは山県紋也であって、今宵も紋也は一軒の家の、土間の床几へ腰をかけながら、チビリチビリと酒を飲んでいた。
「献酬などはまどろっこしい。酒は手酌に限るようだ。さて手酌で一杯飲もう。……しかし何かを祝おうではないか」
こう紋也がいった時に、奥の座敷の方角から、女の笑い声が聞こえて来た。
「よろしい飲もう、女の笑い声のために!」で、紋也は盃を干した。
すぐに徳利を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだが、徳利を置くと盃を取った。
「さて、何かを祝おうではないか」で、四辺へ眼を配った。裸蝋燭が焔を上げて、卓袱台の一所に立っていた。
「よろしい飲もう、裸蝋燭のために!」で、紋也は盃を干した。
すぐに徳利を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだが、徳利を置くと盃を取った。
「さて何かを祝おうではないか」で、四辺へ眼を配った。正面に外への出入り口があって、暖簾が夜風になびいていた。
「よろしい飲もう。暖簾のために」で、紋也は盃を干した。
すぐに徳利を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだが、徳利を置くと盃を取った。
「さて何かを祝おうではないか」で、四辺へ眼を配った。暖簾をくぐって嫖客の群れが、二、三人土間にはいって来た。
「よろしい飲もう、お客さんたちのために」
で、紋也は盃を干した。すぐに徳利を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだが、徳利を置くと盃を取った。
「さて何かを祝おうではないか」で四辺へ眼を配った。土間へはいって来た嫖客の群れが、賑やかに女たちに迎えられて、奥の部屋のほうへ通って行った。
「よろしい飲もう、享楽のために」で、紋也は盃を干した。
すぐに徳利を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだが、徳利を置くと盃を取った。
「さて何かを祝おうではないか」で、四辺へ眼を配った。
三尺幅に一間ぐらいの長さの、足高の卓袱台が四、五台がところ、土間に位置よく置かれてあったが、その一台を前に控えて、紋也は飲んでいるのであった。空の徳利が五、六本がところ、左の側に片寄せられてある。三皿ばかりの酒の肴が卓袱台の上に置かれてあったが、一皿だけが荒らされていた。一見柔弱に思われるほどにも、紋也は美男でもあり、きゃしゃでもあったが、酒にはきわめて強かった。そうして酔っても崩れなかった。軽快な言葉つきや態度などが、いよいよ軽快になるばかりであった。そうして得意の冗談口や、洒落や滑稽や逆説などが口を突いてほとばしり出るばかりであった。
十分に紋也は酔っているらしい。白皙の顔に紅潮がさし、眼の色が少しく据わっている。しかし姿勢は崩れていない。背後に奥の部屋へ通って行かれる、上がり框の障子を背負い、右手に料理場の暖簾口を持ち、正面に外への出入り口を控えた、そういう位置へ腰を下ろしながら、一人で喋舌って手酌で飲んで、眼につく物や耳に聞こえるものを、いちいち祝福して乾盃するのであった。ここは家号を「笹家」といって、水戸様石置き場の空屋敷の中では、かなりに大きい私娼宿なのであった。
それにしても紋也は一人だけで、そうやって飲んでいるのであろうか? 紋也の供をしてここへ来たはずの、庄田、菰田の二人の門弟の、姿の見えないのはどうしたのだろう? 二人の門弟は土間から上がって、奥の小座敷の屏風の蔭あたりで、白首を相手に遊んでいるのかもしれない。しかし紋也は一人だけで、酒を飲んで喋舌っているのではなかった。
女煙術師のみなりをした、お粂が同じ卓袱台を前に──もっとも少しく片隅へ寄って、山県紋也を見守りながら、両手の肘を卓袱台の上へ突いて、両の掌で頤をささえて、いたずらっ児らしい顔付きをして、床几に腰をかけていた。
「さて何かを祝おうではないか」こう紋也が五度目にいって、四辺へ眼を配った時に、不意にお粂が声をかけた。
「妾をお祝いなさいまし」それから右の手を前へ出したが、「一ついただこうではございませんか」
──妾をお祝いなさいまし。……ひとついただこうではございませんか──こういってお粂が右の手を出して、紋也から盃を貰おうとしたが、紋也は素気なく首を振った。
「いやいや盃は差し上げますまい。付け込まれる恐れがありますのでな。……あなたを祝うこともいたしますまい。付け込まれる恐れがありますのでな」──で紋也は酒の満ちている盃を口まで持って行ったが、グッと一息に飲み干してしまった。と、盃を台の上へ置いた。それから少しく据わっている眼を真っ直ぐにお粂の顔へ注いだ。「うっかり好意を見せようものなら、すぐさま付け込んで来るというのが、今の世の人間でございますからな」
で、唇をゆがめて見せた。裸蝋燭の光があたって顔の半面は明るく見えたが、反対側の半面は、影をなして暗かった。で、唇をゆがめた時に、明るい半面に隷属している、前歯の四本だけが光って見えたが、その表情には用心深いところがあった。「どのように我輩を誘惑したところで、我輩は決して誘惑されはしないよ」──といったようなところがあった。
結局お粂は拒絶られたのである。差し出した右手を所在なさそうに──やり場に困るといったように、差し出したままで迷わしていたが、にわかに侮辱でもされたかのように、ヒョイとひっ込ませると頤の下へやった。
「なんの妾がそのようなことを……」それからお粂はいらいらしながらいった。「付け込むことなどいたしましょう。付け込ませるあなた様でもございますまいに」
「いや」と紋也はそれを聞くと、ゆがめていた唇を食いしめるようにしたが、「あなたこそ私にとりましては、恐ろしい侵入者でございますよ。……正気の心を奪おうとされます」──で、徳利を取り上げると、手酌で盃へ酒をついだ。
「…………」お粂は返辞をしなかったが、頤をささえていた両の手を下ろすと、卓袱台の上を無意識にこすった。思い惑っているようすといえよう。何かいおうかいうまいかと思って、思案にあまっているようすでもあった。と、にわかに横を向いたが、「恋しているからでござりましょうよ。……恋されている殿方というものは、恋している女をあつかましい者にも、付け込む人間にも見なさいますもので」こういってお粂は柄にも似合わず、台の上で指をもてあそび出した。
「誰が誰を恋しておりますのやら」今度はいささか気の毒そうに、そうして真相を知っていながら、わざと知るまいと努めるかのように、余事のようないいまわし方をしたが、「触れたくないものでござりますな。恋というような言葉などには」──で、盃を取り上げたが、濡れている縁を蝋燭の火に光らせ、つと口まで持って行って、すぐと紋也は一息に干した。
しばらく四辺は静かであった。二人とも黙っているからである。
嫖客の群れの往来する姿が、出入り口の暖簾の隙から見える。と、時々チュッチュッという艶めかしい私娼の口を鳴らす音が、嫖客の駄洒落や鼻唄もまじって、二人の耳へまで届いて来た。
だがここの土間はしずかであった。と、その静けさを破壊しない程度の、悩ましいようなつぶやきの声が、こうお粂の口から出た。
「ずっと以前からでございますよ、一度しみじみとしたお話などを、いたしたいものと存じまして、変ないいまわし方ではございますが、あなた様の後を今日が日まで、どのように追いかけたことでしょう。するとどうでしょうあなた様には妾が悪女ででもあるかのように、逢うまい逢うまい、話をしまいと、そういうごようすをお見せになられて、避けてばっかりおいでなされた。……」怨情とでもいうのであろう。眼には痛々しい光をたたえて、お粂は紋也をみつめたのであった。
そういうお粂のようすを見ては、恬淡で磊落な紋也といえども、釣り込まれて優しい言葉ぐらいは掛けてやらなければならないだろう。しかるに紋也は逆に出た。
「しみじみとしたお話などを、あなたと取りかわせておりましょうものなら、あのいつぞやの晩のように、印籠をすられるでござりましょうよ」それから笑い声を高く立てた。
なぜそのように山県紋也は、しおらしいお粂の言葉に対して、まるでお粂を冷かすかのような返辞と笑い声とを立てたのであろうか?
紋也はお粂を嫌っているのであろうか? それともそのほかに訳があるのであろうか? それは今のところわからなかった。
そんなような挨拶を紋也にされて、お粂はしおれてしまったであろうか? それとも怒って席を立ったであろうか? いやいや結果は反対であった。そういう紋也の挨拶ぶりが、お粂の心をして自由にさせ、また軽快にさせたらしい。同じように笑い声を高く立てたが、「あの印籠のことでござりますか。でもすり取りはいたしましたものの、お返ししたはずでございますよ。……そうして印籠をすり取りましたわけは、もうあの晩にあなた様に、申し上げたはずでござりますよ。妾という女のあるということと、佐久間町二丁目の土塀のあるお屋敷を、あなた様へ強くお知らせしたい。──というのがわけでありましたはずで」
こういってはお粂はもう一度笑ったが、急に真面目な表情を作って、教えるかのようにいい継いだ。
「同志のはずでございますよ。はいはいあなた様とこの妾とは。……同じ一つの目的へ向かって、進んでいる同志でございますよ」
で、紋也の返辞を待った。と、紋也はうなずいて見せたが、すぐに次のように意外のことをいった。
「同じ一つの目的に向かって、進んで行く同志ではありましょう。──しかしお互いにたのうだお方は、別々のはずでございますよ」──で、盃へ酒をついだが、今度はすぐに飲もうとはせずに、盃中の酒に映っている燈火の影を凝視した。
「たのうだお方?」と紋也の言葉を、お粂は口へ出してなぞるようにしたが、やがて意味がわかったものと見える。雌蕊のようにも白い頸を、抜けるほど前へ伸ばすようにしたが、
「ええええ、さようでございますとも。妾のほうのたのうだお方は、徳大寺様でござります」
「私のほうのたのうだお方は、正親町様にござりますか」こういって紋也は意味ありそうに、お粂の近々と迫っている情熱的の美しい顔へ、鋭く視線をぶっつけた。「目的が同じでありましょうとも、たとえ同志でありましょうとも、たのうだお方が別であってみれば、やはり我々二人の者は、やはり別々に別れ別れに、働くのが本当でござりますよ」
「そのようなことがござりますものか」どうしたのかこういったお粂の声には、叱りつけるような響きがあった。「たのうだお方が別々であろうと、目的は同じでござります。一心同体になりまして、力を合わせて働くのが、本当でもあれば強くもあります」
しかし紋也はうけがわなかった。フト横を向いて眼をつむった。燈火のほうへ向けられた顔は、一杯に燈火の光を浴びて、明るく華やかに見られたが、つむっている両眼の下の眼瞼が、目立つほどにも痙攣を起こしているので、不安気な顔ともいうことができた。不意に紋也は眼をあけたが、その眼でお粂を睨むように見た。
「本当のことを申し上げましょう」紋也の声には情熱があった。「みんな嘘だったのでございますよ。これまで私があなたに対して、申し上げたことも振る舞って来たことも、みんな嘘だったのでござりますよ。本当のことを申し上げましょう」ここで紋也はためらうようにしたが、たたきつけるように一句いった。「私には毒なのでござります! そのあなたの美しい姿が!」
これはお粂の身にとっては、嬉しくもあれば苦しくもあり、魘されるような言葉でもあった。なんといって応じたらよいだろうかお粂には咄嗟にはわからなかった。で黙って紋也をみつめた。
と、今度は紋也の口から、お粂にとっては恐ろしい言葉が、たたきつけるように洩らされた。
「私にはあるのでござりますよ。あなたの美しさに捉えられたり、あなたの情熱に溺れたりしては、申し訳のない一人の女が!」
「恋人⁉」とお粂は上気していった。
「京師方の娘! 私の許婚!」──するとお粂は狂人のように、胸の前で両手を叩き合わせたが、憑かれた女のように口説き出した。
「あなたに許婚がありましょうとも、よしんば恋人がありましょうとも、なんで妾がそのようなことで、あなたを断念いたしましょう。妾はかえって勇気づきます。妾はきっとあなたの許婚を、この妾の燃えるような心で、あなたから離してお目にかけます。この妾という人間は、そういう性質なのでございます。競争相手が一人でもあると、勇気づくのでございますよ。……そうして一旦思い込んだことは、よしんば悪い事でもありましょうとも、いつかはきっとやりとげて見せます。ええええ妾という人間は、そういう性質なのでございますよ。……妾はあなたを愛しております。ですからどのような邪魔があろうと、きっとあなたを手の中へ入れて、妾のものにしてお目にかけます。……さああなたの許婚とやらはどのようにお美しく、おしとやかで、どのようにお利口かは存じませぬが、そのようなこととて妾にとりましては怖くも恐ろしくもございません。競争相手が優れている、苦手であれば苦手であるほど、妾には力がはいりますし、勇気づいても参ります。……いずれはあなたの許婚ゆえ、お上品でお人柄でお嬢様でご身分もよろしゅうございましょう。でも妾にはそのようなことも、怖くも恐ろしくもございません。……こう思うのでございますよ。そういうお上品なお嬢様ならば、かえって妾にはよい幸いだと! 苦労などなすってはおりますまい。ねんねえ様でございましょう。策もなければ手管もない、箱入り人形でございましょう。……妾は反対でございます。上品でもなければ人柄でもなく、箱入り人形でもありませねば、ねんねえ様でもありません。苦労をした人間でございます。……掏摸で芸人でございます。浮世の垢をなめております。……ねんねえのあなたのお許婚などを、虐めておさえつけて追い出すことぐらいは朝飯前の仕事でございます。……あなたを必ず捉えて見せます! あなたをきっと溺らせて見せます!」
すわっていた床几から腰を上げて、赤い手甲を甲斐甲斐しくはめた、両の手を台の上へしっかりと突いて、肩を前のめりに前へ傾けて顔を紋也の顔へ差しつけ、物をいうごとに頬の後れ毛を、耳の後ろまでひるがえして、こう口説き立てたお粂のようすは、毒婦とも見れば妖婦とも見え、淫婦にさえも見えるのであった。
しかるにそういうお粂と対して、向かい合って腰をかけている、山県紋也の態度というものは冷然として静かであった。みつめている眼にもこれといって、怒りを宿しているのでもなければ、閉じている心にも表情がなく、先刻方眼瞼に現われていた痙攣さえも今はなかった。がもし誰かが注意をして紋也の膝の上を見やったならば、その膝の上で両の手の指を、握ったり放したり揉んだりして、心の内の烈しい動揺を、押さえつけているということを、見のがすことはできなかったであろう。紋也はお粂の言葉によって、事実は感情を嵐のように、掻き立てられ乱され荒らされたのであった。そうしてそれを見せまいとして、強い意志でおさえつけているのであった。
で、二人は黙っている。顔と顔とを突き合わせて、怨み合ってでもいるように、憎み合ってでもいるように、喰らい付きそうにして見合っている。
で、四辺は静かであった。戸外を人の通る足音がする。音締めの悪い三味線の音が、座敷のほうから聞こえても来た。
〽葵は枯れても
ああ、ああ、
菊は栄える
唄って通る声がしたが、門口でフッと消えてしまった。と、一人の職人ふうの男が、暖簾を分けて顔を出したが、皮肉めいたことをいったかと思うと、顔を引っ込ませて行ってしまった。
土間を設けて卓袱台を置いて、裸蝋燭をあかりとして、陰惨とした暗い中で、酒を飲ませるというやり方は、水戸様石置き場の空屋敷の、私娼宿でやるやり方なのであった。ここだけで女を相手にして酒を飲むだけで帰って行く──といったような客もあれば、奥の座敷へ女と一緒に寝に行くというようなお客もあった。そうかと思うとよその女を、こっそりとここへ引っ張って来て、ここの私娼をまじえないで、媾曳をして帰るという、そういったような客もあった。紋也とお粂との関係などは、最後のものに当たるらしい。で、私娼もやって来なければ、他の客も避けて行くのであった。──と、咽び泣く声がした。お粂が突っ伏して泣き出したのである。
鬱金色の縮緬の襷をかけて、派手やかな模様の振り袖を着て、深紅の手甲と脚絆とをつけた、妖艶な女の煙術師姿の、若いお粂が台へ突っ伏して、髪の簪の銀のビラビラを、後れ毛と一緒に顫わせて、咽び泣いている向こう側に、美男で若くて凛々しい風貌の、山県紋也が冷然として、時々盃をなめながら、無言でお粂を見守っているようすは、水戸様石置き場の空屋敷という、特殊の私娼窟であるがために何となく凄味に眺められた。土間の中は陰森として薄暗い。蝋燭の火が揺らめいて、土間の上の男女の二つの影を物の怪のように顫わしている。気象の勝った男勝りのお粂が何ゆえにそのように弱々しそうに咽び泣きなどをはじめたのであろう? 磊落で豪放で親切な紋也が、何ゆえに冷然としているのであろう?
とまれお粂は咽び泣いているし紋也は冷然として無言でいる。でこの土間の中は物寂しくて、鬼気にこめられているようにさえ見えたが、もし紋也にしろお粂にしろ、戸外のほうへ注意をむけて戸外のようすをうかがったならば、歩いている人々の足の音が、にわかにせわしく乱れて聞こえ、口々に何事かをいい合いながら、すれ違ったりぶつかったりして、露路のほうへ走って行く者もあれば、水戸様石置き場の空屋敷という、この一画から遠のく者もあって、混雑を呈していることにきっと感づいたに相違ない。
「喧嘩!」「人殺しか!」「賭場の手入れ?」「……いや変な奴が歩きまわっているのだ」「うそうそ家のまわりをまわっている」「あそこの露路には五人いた」「あそこの空地には十人いた」──などといったようなささやき声などが、ささやかれてもいるのであった。「捕り物かな?」「そうかもしれない」「だが風態がそれらしくないよ」──などという声も聞こえなされた。「なんだか知らないが気味が悪いよ」「よくないことが起こりそうだ」「怪我をしないうちに引き上げよう」──という声なども聞こえるのであった。
何が戸外では起こっているのであろう?
あの目明しの代官松が、兄弟分と乾分とを率いて、水戸様石置き場の空屋敷へ、焼き討ちをかけて、混乱させて、ドサクサまぎれに山県紋也や、同志の者を片付けようとして、入り込んで来たに過ぎないのであった。
水戸様石置き場の空屋敷というのは、一方は隅田の川に面し、反対の側は寺院通りに面し、いうところの鰻の寝所のような、南北に長い空地であって、北のはずれには一ツ目橋があって、渡れば相生町や尾上河岸へ出られ、南のはずれを少し行けば、有名な幕府のお舟蔵となる。そういう空地へ貧民窟のような、穢らしい小家がゴチャゴチャと立ち、狭い露路が無数に通っているかと思うと、草の生えた小広い空地などが、随所にできていたりした。そうしてそういう草の空地には、おでん燗酒の屋台店だの、天幕張りや菰張りの食物店などが群れをなして建っていたり、ポツポツと離れて建っていたりした。官許を得ての盛り場ではないので、燈火などは乏しく灯ってようやく人の顔の見える程度の、明るさを保っているばかりであった。
でもし誰かが高い所へ上がって、夜この一画を見下ろしたならば、異形なものに見えたことであろう。大地にへばり付いている小さい家々は、──ある一所には数をなしてかたまり、ある一所にはバラバラに立って無秩序をなしている小さい家は、──襤褸でもかたまっているように見え、その家々の集合によって、無数に織られている露路という露路を、ウネウネと歩いている嫖客たちの列は、虫けらのように見えることであろう。ところどころからあるかなしかの、薄明るい光が茫と立って、それが四辺を明るめているようすは、全然光のないよりも、かえって気味悪く見えるかもしれない。一ツ目橋のほうへやや近く、家のない空地がひらけていたが、そこに比較的に明るい燈火が、四方菰張りの小屋の隙を通して、幾筋となく漏れ出て見えたが、それは賭博小屋の火の光であった。その賭博小屋から隅田川のほうへ寄った、土地の低い一所に木立ちがあったが、そこに三人の人の影がささやきもせずに立っていた。と、一つの人の影が、賭博小屋の前をすべるようにして、三人の人影へ走り寄ってきた。
「親分、とうとう目付け出しました。紋也は笹家におりますので」
「そうか」という声がすぐ応じたが、三人の中の一人であって、代官松の声であった。
「そうか」というと代官松は、知らせに来た乾児の猪吉という男を、迎え取るがように一足出たが、
「そうか、紋也は笹家にいたか。いいことをした、よく目付けた。この界隈を焼き討ちにかけても、肝腎の紋也をのがしてしまっては、何の役にも立たないのだからな。で、まあ手を分けて探したんだが、おり場所がわかって安心した。……え、なんだって? ふうんそうか! お粂も一緒にいるというのか? いやそいつは好都合だ、一緒にやっつけることができるのだからな。……構うものか、さあ押し出せ、そうして四方から火を掛けろ! 官許を得ていない盛り場だ、焼き払ったところで咎にはならない。その上に渡りがついている、美作様や左近将監様から、それとなくお町奉行の依田様のほうへ、ご内意が行っているはずだ。何をやろうと後難は受けない。笹家を中心にして四方八方へ、構わないから火をつけてしまえ! さぞマア私娼やお客野郎などが、泡を食って逃げ出すことだろう。そこがこっちの付け目なのだ! ドサクサまぎれに紋也の野郎を、みんなでめちゃめちゃに叩き殺してしまえ! さあ行け行け早く行け! ……いけない、いけない、ちょっと待ってくれ! 紋也の野郎をねむらせるはいいが、お粂の阿魔を殺してはいけない。どうともして引っかついで連れて来るがいい。というのは桃ノ井兵馬様が、そういって俺に頼んだからさ。それにあの女は美作様から、大事な物をすっているはずだ。あいつをたたいて口を割って、あり場所をいわせて取り返さなけりゃアならない。だからよお粂は殺しちゃアいけない。さあ行け行け、早く行け! ……おッといけない待った待った。兄弟分に知らせなけりゃアいけない! ……これこれ文三前へ出な。お前は東へ飛んで行くがいい。橋場の卯之さんが野郎どもをつれて、そっちを固めていなさるはずだ。で、大将にこういってくれ。紋也の在家がわかりました。笹家にいるそうでございます。これから退治にとりかかりますので、万端よろしく願いますとな。──これこれ勘八前へ出な。お前は西へ飛んで行くがいい。河岸の源さんが野郎どもを連れて、そっちを固めていなさるはずだ。で、源さんにこういってくれ。紋也の在家がわかりました。笹家にいるそうでございます。これから退治にとりかかりますので、万端よろしく願いますとな。……さあこれでいい早く行け! いや待て待て、いうことがある。紋也は素晴らしい手利きなのだ。そのうえおそらくあいつの贔屓が、この界隈にはたくさんいよう。で、うっかりして下手なことをすると、こっちに怪我人ができるかもしれない。だからよ。十分に用心してかかりな。……さあこれでいい早く行け! いや待て待ていうことがある。揃えて隠してある捕り物道具だ! あいつをうまく使うようにしな。……今度こそいい、早く行きな。……おっとおっとまだいけない。そうだもう一言いうことがある。正規の召し捕りじゃアないのだから、『御用』の声も『神妙』の声も、かけないようにするがいい。そうしてなんだ、紋也の贔屓が紋也に贔屓をしてかかって来たら、遠慮はいらないから叩きのめしてしまえ! 喧嘩でございますといってしまえば、後難もなければ咎めも受けまい。……さあ行け、行け、今度こそいい!」
立ち木が月の光をさえぎっているので、代官松と三人の乾児の、姿も顔もぼんやりとしている。が、正面には賭場があって、燈火の光が隙間からさしている。そうして右手にも左手にも、私娼窟の小家がゴチャゴチャと、固まって地面にへばりついている。そこからも燈火の光が見える。が、この境地は暗かった。
その暗い境地に身を隠して紋也のおり場所を目付けたというそういう報知を待ちかまえていた、目明かしの代官町の松吉が乾児の一人の猪吉の口から今やおり場所を聞いたのであった。で、指図を下したのであった。と、二つの人の影が、木立ちを離れて東と西とへ、礫のように走り出したが、親分の代官松の指図通りに、橋場の卯之吉と河岸の源介のもとへ、伝言をするために走って行く、文三と勘八との姿であった。
「猪吉、お前は一緒に来な。笹家の前でようすを見よう」こういったのは代官松で、いうと同時に木立ちから離れて、家のあるほうへ歩き出したが、二人の姿が遠のいた時に、
「偉いことになったぞ、大変だア!」と、木立ちの背後で声を上げて、地団太を踏む人の影があった。
「偉いことになったぞ、大変だあ!」と、代官松と乾児の猪吉とが、立ち去った後の木立ちの背後で、声を上げて地団太を踏み出したのはお粂の相棒の金兵衛であった。いつのまにそこへ来ていたのであろうか? 今日の夕方お粂と一緒に水戸様石置き場の空屋敷へ、常連として来たのであったがまもなく姿を現わしたのが、お粂の恋している山県紋也で、それと見るとお粂は金兵衛のことなど、見返りもしないというように、むしろ金兵衛を邪魔のようにして、紋也とばかり親しそうにした。で、金兵衛には面白くなかった。
「へ、山県様、山県様、へ、紋也様、紋也様、紋也様ばかりを追いまわすがいい。お粂さんには面白かろうが、金兵衛さんにはおかしくもないて。……それもさ、山県紋也さんのほうでも、姐ごを想っているのならいいが紋也さんのほうではさほどでもなくて、どっちかといえば逃げまわっている。それだのに姐ごはカラ夢中だ。紋也様、紋也様、紋也様! まるで紋也様が福の神で、札の束でもくわえて来るように、追っかけおんまわしひっ捉えようとしている。気に入りませんね! 気に入りませんとも」
──で金兵衛は一人離れて、屋台店をのぞいたり、私娼宿の女をからかったり、賭場に立ち入って見物をしたり、ここの境地をずっと以前から、あてもなしに歩きまわっていたところ、にわかに四方が騒がしくなって、殺気立った気分が醸されたばかりか、なんとなく場近いと思われるような、幾群れかの人間が物でも探すように、露路や小路へ入り込んだり、家々の門をのぞいたりするので、「はてな?」と思わざるを得なかった。と、そのうちに眼に付いたのが、目明しの代官町の松吉であった。「いよいよこいつははてなになったぞ」──で金兵衛は見え隠れして、代官松の後をつけてこの木蔭へまで来たのであった。そうして立ち聞きをしたのであった。
「偉いことになったぞ、大変だあ!」で金兵衛は地団太を踏んだ。「さあこうしてはいられない! 紋也さんとお粂さんとがしめられてしまう! どうしたらいいのだ! どうしたらいいのだ!」──外に策のあるはずがない。笹家という家へ駆けつけて行って、紋也とお粂とへ事情を話して、逃がしてしまうより策はない。「まに合ってくれ! まに合ってくれ……」で、金兵衛は走り出した。
木立ちを出ると空地である。行く手に一群の家がある、が、そこには笹家はない。南のはずれにたむろしている、私娼窟の中の一所に、都合悪く笹家はあるのであった。で、笹家まで駆けつけるには、空地をトッ走って家の群れへはいって、露路から露路をくぐりぬけて、二所ばかりの小空地を越して、ふたたび家の群れの中へはいって、さらに露路から露路を縫い入って、はじめて達することができるのであった。金兵衛は空地を走っている。頭が大きく体が小さくて、子供のような格好の彼だ。裾をたくし上げて脛を出して、その脛を雑草の露に濡らして、月の光に生白く光らせ、家の群れのほうへ走って行く。
「焼き討ち! 困った! 凄いことになったぞ! ……目明し! 畜生! 代官松め!」
とぎれとぎれに口の中で、連絡のないことをつぶやきながら懸命に金兵衛は走って行く。「いけない、お粂さんしめられるんだぜ! お逃げよ、お逃げよ、お逃げよ! ……まだ大丈夫だ! 火の手があがらない! ……山県の先生! オイ紋也さん! いけない、いけない、殺されるんだぜ!」
金兵衛は懸命に走って行く。こうして空地を走り抜けて、最初の家の群れが彼の前へ立って、彼の行く手をさえぎった時に、その家の群れの露路や小路から、人の群れがゾロゾロと現われて来た。まだ焼き討ちははじまってはいない。焔も煙りも立ってはいない。しかしなんとなく不安と殺気とが、この盛り場へみなぎり出したので、嫖客の群れが恐怖心を抱いて、家路に向かって帰り出した、その人たちの群れなのであった。
「ご免ください、ご免ください!」こう金兵衛は声を掛けながら、群衆を掻き分けて進もうとしたが、あふれ出る群衆に押し戻されて先へ進むことが難儀となった。が、躊躇してはいられない。無理にも掻き分けて進まなければならない。
「ご免ください、ご免ください! ……やい畜生! どけ、どけ、どけ! ……へい、お願いでございます、急ぎの用事でございます、ちょっとどうぞ道をおあけなすって! ……わからねえ奴らだな、邪魔をしちゃアいけない! 通せ、通せ、通してくれ! ……何がなんでえ、このべらぼう! 人二人の命にかかわることだ! むやみやたらとぶつかって来るない! 素直に通せ! 片寄れ、片寄れ! ……え、なるほど、これは失礼、まっぴらご免くださいまし。とんだぞんざいを申しました。いかさま大変な混雑で。一人掻き分けて先へ行くのは、よくないことではございましょうが、りっぱな若いお侍さんと、途方もなく別嬪のお嬢さんとが、ひどい目に逢いかかっておりますのでね。助けにまいるのでございますよ。……雑言はまっぴらご免なすって。はいはいいくらでもあやまりますとも。はいはいいくらでもあやまりますから、どうぞ通しておくんなさい! ……やい、馬鹿者、気を付けやがれ! ぶつかって来る奴があるものか! あッ痛い! 悪い奴だ! わざと横から胴を突きゃアがる! いけねえ、ご免だ! ひどいなあ、背後から背中を小突きゃアがる! ……」
あやまったり怒鳴ったり毒吐いたり、悲鳴をあげたり、呪ったりしながら、金兵衛は先へ進むのであったが、露路はといえば一間たらずの幅で、群衆はといえば後から後から、うねるようにして歩いて来るので、早く走ることは困難であった。その上に一方群衆のほうは何物とも知れない不安の空気に、漠然と怯やかされているのである。で、急いでここを出て、家へ帰ろうとしているのである。一足でも余計に先へ出ようと、足を早めているのである。
その群衆と逆行して、群衆の行くほうとは反対のほうへ、傍若無人に乱暴に、人を掻き分けたり突きのけたりして、がむしゃらに行こうとする金兵衛の態度は、群衆には小憎らしく見えたらしい。で、わざと背後から小突いたり、横から拳で突いたりした。しかし金兵衛は群衆から、突かれようが撲られようが邪魔をされようが、そんなことには頓着をしないで依然として人を掻き分けたり、また突きのけたりして先へ進んだ。が、道程の遠く思われることは! そうして歩きにくく思われることは! そのくせ平素の夜であったら、今もがいているこの位置から、紋也とお粂のいる笹家などへは、一走りに行きつくことができるのであった。すなわち実際の距離からいえば、たいして遠くはないのであった。ただ群衆がみなぎっている。露路を一杯にしてうねって来る。で平素の夜のように、早く走ることができないのであった。で、距離が遠く思われるのであった。
でもとうとう四つ辻まで来た。角々に立っている小さな私娼宿は、戸外のなんとない恐迫観念の、そのあおりをいつのまにか感じたものと見えて、門口に出して置いた行燈をしまい、門の戸をガタガタと閉てはじめていた。辻を中心にして三方の露路から、辻に向かって人の群れが、例によってうねって押し寄せて来た。いずれも口々につぶやいている。何をいっているのかはわからなかったが、その声々が一つになって一種の恐怖を醸し出してはいた。そうして群衆は足を早めて、今、金兵衛がたどって来た露路を、金兵衛と逆行して進み出した。
三方から群衆は集まったのである。辻は人間で泡立つように見えた。と、その人間の泡をくぐって、頭の大きな体の小さな、不具じみた男が喚きながら、両手を宙に打ち振ったり、両手で人の群れを押しひらいたりして、一つの露路へ進もうとしていたが、まもなく姿が見えなくなった。金兵衛が人の波に溺れたのである。金兵衛を溺らせた人の波は、その金兵衛の溺れたあたりで、ひとしきり雑音を立てたようであったが、すぐに一方へ進み出した。溺れた金兵衛の体の上を無慈悲な波が──群衆の足が、踏みにじって越していったのでもあろう。が、まもなく辻から離れた、一筋の露路の一所へ、金兵衛の姿が現われた。溺らした人波から体を救って、そこまで泳いで来たのであろう。髪が顔へ乱れている。衣裳が所々破れている。手足に生血がにじみ出しているのを、側の私娼宿の燈火の光が、黒い色に照らしている。
「山県の先生、お逃げなすって! お粂の姐ご、逃げなせえ!」──人波を分けて無二無三に、なおも金兵衛は進んで行く。
いく筋かの露路をくぐりにくぐって、それでも金兵衛は空地へ出た。空地には幾つかの屋台店が、点々として立っていたが、漠然とした恐怖に怯やかされたからであろう、屋台店の主人はあわただしそうに、店の道具を片付けていた。いつもなら空地は比較的に、人の姿がまばらなのであったが、今夜はそうはいかなかった。
漠然とした恐怖に怯やかされて、家路へ帰って行く人の群れが、四方の露路から現われいで、ここの空地へ集まって、それからさらに露路を通って、水戸様石置き場の空屋敷の、この気味の悪い境地から、外へ出ようとしているのであるから、空地は人の群れで充たされていた。で、金兵衛は同じように、詫びをいったり毒吐いたり、人に突きあたったり突きあたられたり、もがいたり喘いだり、押し返されたりしながら、突き進まざるを得なかった。空地はたいして広くはなかった。しかしこの時の金兵衛には、一里もあるように思われたが、それでもようやくのことで、金兵衛は空地を横切って、空地の向こうにたむろしている私娼窟の露路へはいることができた。
この露路を抜ければ、今と同じような小広い第二の空地となり、その空地を抜ければ一番に大きな、私娼窟の一廓へ出ることができる。そこまで駆けつけなければならなかった。その私娼窟の一廓に、山県紋也とお粂とのいる笹家という家があるのであるから。が彼ははたしてそこまで駆けつけ得られたか? 不幸にも金兵衛は駆けつけられなかった。
第二の空地までたどりついた時に、笹家の立っている方角から、突然に悲鳴と叫喚とが起こって、つづいてカッと火の光がさして、見る見る月の夜が紅色に染められ、すぐに屋根を抜いて焔の束が、煙りをともなって上がったからである。
「しまった! 焼き討ちだ! まに合わなかった!」
呻きながら突っ立った金兵衛の周囲を、「火事だーッ」と喚き、「助けてくれーッ」と叫んで、逃げて来る男と女との群れが、荒々しい渦となって捲き立った。
「…………」
金兵衛は無言で突き進んだ。一人の女がぶつかって来た。髪が乱れて裾が崩れて、白い脛が股まで現われている。かわして金兵衛が突き進む横から、一人の坊主がよろけかかって来た。かわして金兵衛は突き進む。火光で空地は真昼かのように、明るく華やかに輝いては見えたが、凄い華やかさといわなければなるまい。火の粉が八方へ散って行く。その中に月が浮かんでいる。なんと妖怪じみた酸漿色の月だ! 火の粉と月との真下の地上を、押し合い突き合いぶつかり合って、人の群れがあたかも野犬かのように吠えて呻いて走り廻る。
と、一所に穴ができた。数人の人間が地に倒れたところへ、十数人の人間が襲いかかって倒れている人間へつまずいて、折り重なって倒れたために、穴があいたように見えたのである。が、その穴はすぐに埋まった。倒れている人間を踏み越え踏み越え、無数の人間が後から後からと、波のように寄せて来たからである。
掻き分け掻き分け金兵衛は進む。しかし少しもはかどらない。ともすれば後へ追われようとする。
「どうしたものだ! どうしたものだ!」
とうとう金兵衛は絶望の声を上げた。が、その時に一人の武士が抜けかかっている大小を抜けかけたままで、あわてふためいて走って来て、正面から金兵衛にぶつかったがために、金兵衛は活路をひらくことができた。というのは金兵衛はそれと見てとると、「借りるぜ!」というや右手をのばして、武士の刀を引っこ抜いたが、それを頭上に振りかぶると、火事の光をはね飛ばすように、左右にピューッと振りまわし、「やい、どけどけ! 道をあけろ!」──で群衆が胆をつぶして、左右へダラダラ開いたからである。
「有難い!」と金兵衛が叫んだ時には、すでに数間を走っていた。しかしこうして空地を駆け抜けて、露路の一つへ飛び込もうとした時に「待て!」と呼び止める声がした。で、ギョッとして眼を走らした、金兵衛の前に突っ立っていたのは、五人の乾児を周囲に持った、代官町の松吉であった。
「手はじめにこいつからやっつけてしまえ! そうしてその後で紋也とお粂だ!」
金兵衛を包んで揉み立てたのは、代官松の乾児であったが、紋也とお粂との運命は?
この頃紋也とお粂との二人は、一つの露路で戦っていた。
「さあお粂殿ついておいでなされ! 決して拙者と離れぬようになされ! ……敵がかかれば用捨をしないで、突くとも切るともご自由になされ! 必ず彼らに捕えられぬように! ……これは尋常の火事ではござらぬ! 放火でござる、放火でござる! ……しかも我々を仕止めようとして企らんでいたした放火でござる!」
血にぬれた抜き身を右手に下げて乱れた髪を額へかけて、はだけた胸へ返り血を浴びて、棒にでもうたれたのか脛の一所へ、紫色の大きな痣をつけた山県紋也はこう叫びながら、露路の向こうを睨みつけた。ここは火事元の笹家からは、少しく離れた露路ではあったが、しかし空からは火の粉が降り、黒煙が強い臭気とともに、四方八方から渦巻いて来た、で、左右に幾十軒とない、小箱のような私娼宿を持ち、前後に狭い道を持ったこの露路の中は燃えるほどにも熱く、呼吸づくことのできがたいほどにも、煙りと熱とに充たされていた。だが露路内には人影がなかった。
みんな逃げ出してしまったからであろう。家々の戸障子は蹴放されて、出しかけてとうとうまに合わなかったらしい、荷物の群れが家々の門や、露路に雑然として捨てられてある。火事が起これば火事につれて、嵐の起こるものであったが、今や嵐が起こっていた。轟々という嵐の音が、焼けて崩れる物の音やいまだに四方八方の露路で、逃げてまわっているらしい人間の悲鳴や叫喚や足の音とともに、地獄の音楽のそれかのように、露路の周囲や空の上から、紋也の耳へ伝わって来た。周囲がそれほどにも騒がしいのにここの露路だけに人の声がなく、人の姿の見えないのはいったいどうしたというのであろう? 紋也には理由がわからなかった。火事だという声に驚いて、お粂をうながして山県紋也が、笹家から外へ飛び出した時には、笹家を包んで三方から、すでに火の手が上がっていた。
「火事でござるぞ、お逃げなされ! 庄田氏、菰田氏お逃げなされ!」奥の部屋で私娼と飲んでいるはずの、二人の門弟へ声を掛けておいてお粂を背後に従えて、露路を一方へ突っ走って、丁字形の一所へ現われるや、紋也とお粂とは七、八人の者に、取り捲かれて打ってかかられた。
「人違いをするな! あわて者め!」──人違いであると思ったので、こう声をかけた山県紋也は、刀も抜かないで駈け抜けようとした。が、どうしたのか七、八人の者は、長脇差や棍棒をふるって、そうしてなんとも物をいわずに、無二無三に打ちかかって来た。「はてな、さては人違いではないのか! 俺たちを打ち取ろうとしているのか? ──とするとこやつらは何者であろう?」それは紋也にはわからなかったとはいえ紋也はこう思った。「俺たちには敵があるはずだ。それも無数にあるはずだ。代官松の一味から桃ノ井兵馬の一味から。……佐幕方の奴らは一人残らず敵だ! ……こやつらはその中のどれかなのであろう」──紋也には躊躇できなかった。決心をして刀を引っこ抜くと、やにわに一人を叩き切って、それに怯えて後へ退く、敵方の隙をうかがって、脇差しのほうを素早く抜くと、ついて来たお粂の手へ渡した。
「お粂殿、拙者へついてござれ!」──で、まっしぐらに突き進んだ周囲を群衆が走って行く、火の舌がなぐれて襲って来る。ドーッと火柱が燃え落ちて来た。そういう境地を突破して、一つの十字路まで走って来た。と、その三方に人数を分けて、脇差しや棍棒や匕首を握った敵らしい人影が十数人もいた。で紋也とお粂との二人は、敵のいない一方の露路をめざして、疾風のように突ッ走った。するとまたもや交叉点へ出たが、そこにも敵が待ちかまえていた。ただし一方の露路だけには、敵の姿は見えなかった。で、そっちへひた走った。と、またまた十字路へ出た。そうしてその結果は同じであった。三方だけに敵の群れがいて、一方だけにいなかった。当然二人は敵のいない露路へ走り込まざるを得ないだろう。牽制されて、牽制されて、最後に逃げ込んだ露路というのが、今、二人のいる露路なのであった。あらかじめこの露路へ追い詰めて、打っ取ろうと企らんでいたのかもしれない。この露路ばかりが他の露路と違って、群衆の姿がないのであるから、誰にも邪魔されないで、捕るにも斬るにも格好の露路だ! 紋也とお粂とはどうするであろうか?
「ともかく急いで歩きましょう」背後に従っているお粂のほうへ、こう紋也は声をかけたが、露路を一方へ歩き出した。
──何らか奸策が行なわれているらしい。彼らのいないという理由はない。突然どこからか現われて来て、我ら二人を襲うのであろう。だから動くのは危険なのではあるが、動かないことには救われない。この熱さ! この息苦しさ! 火の粉! 煙り! 焼け落ちる火柱! ……火元の笹家には近いらしい。いまにも焔がまわって来よう。いやもう四方へまわっているかもしれない。よしんば火が四方へまわらなくとも、右側に並んでいる私娼宿へは、まもなく火が移って焼けなければならない。その私娼宿の背後にあたって、火元の笹家があるのであるから。で、こうやっているうちにも焔が私娼宿の屋根を越して、空へ猛然と上がるかもしれない。そうして私娼宿の門や窓から黒煙と一緒に束のような焔が、ドッと噴き出して来るかもしれない。
「どうともして露路から出なければならない。手近に空地があったはずだ。いそいでそこへ行くことにしよう」抜き身を背後へかくすようにして、火光で深紅に輝いている、細い露路を一方へ歩き出した。だが三間とは歩かなかったであろう、その時左側に並んでいる、私娼宿の家々の屋根の上へ、夜ではあったが火事の光で、猩々緋のように輝いている、凄くて美しい明るい空を背景として人の姿が、七、八人陰影のように現われた。と見てとった山県紋也は、「きゃつらだ!」と叫ぶと抜き身を引き付け、屋根から飛び下りてかかってでも来たら、叩き切ってやろうと上を仰いだ。が紋也のその考えは、より惨酷の所業によって、すぐに裏切られてしまうことになった。
と、いうのは屋根の上の人間どもが、何やらいっせいに叫んだかと思うと、突然に彼らの両手が上がって、つづいて両手が下げられた時礫や丸太や火のついている棒が、紋也の頭上へ恐ろしい勢いで、唸りながら落ちて来たからである。
「卑怯者め!」と紋也は叫んだ。がその声は次の瞬間には消えて、細い露路の一所を埋めるようにして礫や丸太や火のついている棒が、うずたかいまでに塊まった。火のついている棒からは焔があがって、丸太のほうへ移って行った。
紋也の姿はどこにもない。お粂の姿も見当たらない。二人はどこへ行ったのであろう? 打ち倒されてしまったのであろうか? 礫や丸太や火のついている棒の、それらの下にいるのであろうか? いやいや二人は別の所にいた。左側に並んでいる私娼宿の壁へ、ピッタリと背中を平めかしてつけて、投げ落とされる丸太や礫や、火のついている棒の災いから、巧みにのがれているのであった。
幸いに負傷もしなかったらしい。
紋也は抜き身を脇構えに構えて、その切っ先をピリつかせながら、いまもなお屋根から投げ落とされて来る、礫や丸太や火のついている棒が、露路へたまるのを睨んでいた。が、紋也は考えた。「ぐずぐずしてはいられない。いよいよきゃつらはこの露路の中で、我々を殺そうとしているらしい。このあんばいで察する時には、次々に彼らは奸策を設けて、二人を進退きわまらせるらしい。突破突破、突破しよう! 空地へ出よう、群衆とまざろう、そうして混雑に身をまぎらせて、水戸様石置き場の空屋敷から、のがれて市中へはいることにしよう」──敵であろうとなかろうと行く手をさえぎる人間があったら、用捨なく切って切り崩して、活路をひらこうと決心をした。で、お粂を見返ったが、
「お粂殿拙者へついてござれ! 拙者活路をひらきましょう。寄る者があったら遠慮会釈なく、斬るなり突くなりなさるがよろしい。今はお互いの身が大事でござる。……いざ!」というと山県紋也は、露路の真ん中へ飛び出したが一方へ向かって走り出した。
と、一軒の家の中から、二人の人間が現われたが、走って来る紋也に狙いをつけて、巨大な物をガラガラと投げた。左右には家が立ち並んでいる。作られている露路は帯のように狭い、その狭い露路の宙を飛んで、捕り物用特殊の投げ梯子が、二挺風を切って飛んで来たが、悲鳴は起こらなかった。紋也もお粂も身をかがめて、梯子の下をくぐったからである。が、その次の瞬間において、火光を叩き割る光り物があって、すぐにすさまじい悲鳴が起こった。一人の人間が倒れている。一人の人間が逃げて行く。男女二人が追いかけて行く。
敵の一人を真っ向にかけて、一刀に切り倒した山県紋也は、新しく血に濡れた抜き身を引っ下げ、逃げて行くもう一人の敵の後を、お粂を背後に従えて、今やまっしぐらに走って行く。露路は狭い! 帯のようだ。露路は明るい! 昼のようだ。その中を黒煙が渦巻いている、バラバラバラバラと火の粉が降る。金の箔でも撒いたようである。家々を越して束のような焔と、髪の毛のような黒煙とが、うねりにうねって上がっている。走る走るその境地を走る。と、逃げて行く敵の一人が、一軒の家の前まで行くや、合図めいた大きな声を上げた。
とその敵は駆け抜けたが、気の付かぬ紋也が走って来て、その家の前まではせつけた時に、その家の門から一人の男が、はずんだ毬のように飛び出して、反対側の家の前まで行った。と、露路を横に一直線に、グーッと一筋の縄が張られた。足を掬おう張り縄である。かかったが最後山県紋也は、もんどり打って倒れなければならない。が、紋也は倒れなかった。察した刹那にサーッと一揮り! 縄を真ん中から切り払った。力に負けたというのでもあろう、縄の端を握って立っていた敵が、ヨロヨロとよろめいて前へ出た。
「くたばれ!」一刀! ドーッと血煙り!
「いざお粂殿!」
「はい紋也様!」
火元の笹家が燃え尽くして、この時横倒しに倒れたのでもあろうか、ゴーッというすさまじい物音がしたが、見る見る瞬間に露路の上から煙りと火の粉との厚衾が、紋也とお粂とを圧して来た。烈しい臭気だ、呼吸が詰まる! 恐ろしい煙りだ、眼があかれない! 火の粉が鬢を焼き袖を焼く! 嵐に飛ばされる屋根や板木片が、肩を打ち頭を打ち腕を打つ! にわかに窒息しようとした。火事場に起こる現象である。一所に真空ができたのである。「ムーッ」と紋也は呻いたが、猛然として走り出した。しかしにわかに足を止めて、振り返らざるを得なかった。背後にあたって十数人の、荒々しい男のののしる声が、お粂らしい女の叫び声にまじって、紋也の耳へ聞こえて来たからである。
いつのまにどこから現われ出たのであろう、得物を持った十二、三人の男がお粂を真ん中に取りこめて、得物得物を打ち振って、お粂を叩き倒そうとしている。狭い明るい露路の一所に、黒い物がグルグルと渦を巻いて、その渦巻の上のあたりを、白光を放って一本の刀が、素早く左右前後にひらめき、そのつど赤い色が渦巻を縫って、花弁のようにひるがえって見える。赤い手甲の手へ脇差しを握って十数人の敵を相手にして、捕えられまい捕えられまいとして、お粂が苦闘をしているのであった。が、お粂は一人であった。しかるに敵は多勢であった。まもなく地上へ叩き倒されて、やがてかつがれて行くことであろう。
ところが結果は反対となった。お粂を真ん中へ取りこめて、渦巻のようにグルグルとまわって、揉みに揉んでいた十二、三人の男の、その中の一人が悲鳴を上げて、持っていた棒を地へ落として、渦巻の中から一人離れてよろめくと見るまにぶっ倒れて肩からタラタラと血を流して、のた打ったのをキッカケにして、渦巻の一角が崩れ立った。
見れば一人の武士が血刀を揮って立っていた。お粂があぶないと見てとって、引っ返して来た山県紋也が、敵の一人を袈裟掛けに斃し、第二の犠牲を目付けようと、刀を揮っているのであった。
「紋也だ!」「野郎!」「叩き伏せろ!」
お粂を見すててかかって来たが、露路が狭いので多勢が一度に、かかって行くことはできなかった。そこを付け目に山県紋也は、「お粂殿お粂殿まわりなされ! 拙者の背後へまわりなされ! ……カーッ!」とばかりに気合を掛けたが、掛けた時には飛び込んでいた。そうして飛び込んだその時には、真っ先立って来た敵の一人の、頬から頤まで割り付けていた。
刀が上がった! 火光をはねた。刀が引かれた! 横へ走った。と、悲鳴! 血の匂いだ! ダッダッダッと引き退く足音! 三人目を腰車にぶっ放して、青眼に構えをつけたままの、紋也の眼前三間の間には、二つの死骸がころがっているばかりで、敵の姿は見られなかったが、三間のかなたには群らがっていた。そこまで敵は逃げたのである。紋也の背後にお粂がいる。
「さあこの隙に、お粂殿!」「あい!」──一散! 走り出した時だ! 行く手に人影が現われた。
行く手に現われた人の影は、その数、十人はあるであろうか、得物得物をひらめかして、煙りと火の粉の狭い露路を一ぱいにして寄せて来た。まさしく敵の同勢なのである。その同勢の現われたのを合図に、一旦退いた背後の敵勢が、これも露路を一ぱいにして、二人のほうへ押し寄せて来た。結局紋也とお粂との二人は、前後腹背に敵を受けて、退路を断ち切られてしまったのである。
「やられた!」という心持ちは、この時の紋也の心持ちであった。「あらかじめ計ってやったことだ! 引っ包んで、討ち取ろうと計っていたのだ! 左右は人家で逃げ路がない。前後は敵にさえぎられてしまった。どうしたらいいのだ! どうしたらいいのだ!」
走っていた足を釘づけにして、紋也は露路へ突っ立ったが、その間も前後の敵の勢いは、威嚇的の喊声を上げながら、二人のほうへ寄せて来た。
「お粂殿お粂殿、もういけませぬ。覚悟をなされ、覚悟をなされ! ……いや、まだまだ大丈夫でござる。なんとかして活路を開きましょう。……うむお粂殿こうおしなされ! 二人の背中を合わせましょう。背後から来る敵の勢を、あなたにおいてお防ぎくだされ! 拙者は前の敵に向かって、一人二人切って落としましょう。崩れ立ったところを駆け抜けましょう!」
──で二人は背中を合わせた。
すると不思議にも押し寄せて来た、前方の敵の勢が足を止めたがすぐにバラバラと崩れ立ち、ドーッと後ろへ引っ返した。が、一間とは引っ返さないうちに、今度は紋也のほうへ走って来た。しかし一間とは走って来ないうちに、またまた背後のほうへ引っ返した。つまり一所で寄せつ返しつ、揉み合いひしめき合っているのである。
と、これはどうしたのであろう、二人ばかり地上へ倒れたではないか。と、これはどうしたのであろう、お互い同士が得物得物を、火光にキラキラとひらめかして、煙りの一ぱいに渦巻いている、露路で、打ちつ打たれつしているではないか。怒声と悲鳴と喚声とが、焼け落ちる物の音を貫いて、すさまじいまでに聞こえて来る。いったいどうしたというのであろう? 同士打ち喧嘩をはじめたのであろうか? いやいやそれはそうではなかった。彼らの群れの後方からこういう呼び声が聞こえて来たのであるから。
「先生先生山県先生、もはや大丈夫にござります。お助けにはせつけて参りました」
庄田内記の声であった、つづいて別の声が聞こえて来た。
「先生先生山県先生、我ら血路をひらきます、おのがれくだされおのがれくだされ!」
菰田重助の声であった。すなわち石置き場の空屋敷へ、宵の間に紋也が連れて来て、笹家の奥の間で遊ばせておいた、二人の内弟子が火事だと知って、笹家を外へ飛び出したところ、師匠の紋也の姿が見えない、怪我でもさせたら大変だというので、あちこち探しているうちに、この露路の中へまぎれ込み、紋也の危急に逢ったところから切り立てたのであった。
勇気百倍という心持ちは、この時の紋也の心持ちであろう。
「庄田と菰田とが助けに来てくれたか! 有難い! 有難い! 有難い!」で大音に声をかけた。「ご両所であったか、ご助勢感謝! こやつらは悪漢で破落戸でござる! 切って切って切りまくりくだされ!」で背後を振り返って見た。と、前方の味方の勢が、崩れ立ったのを見たからであろう、背後から寄せて来た敵の勢も、こちらへ寄せて来ようとはせずに、一つ所のようすを見守っていた。
「うむ、この隙にこの露路を出よう」でお粂へ声をかけた。
「ご覧の通りに二人の門弟が、前方から助けにまいりました。我らも切り込んではさみ討ちとし、ともかくも露路からのがれましょう。背後は大丈夫でござりますよ。寄せて来る気づかいはござりませぬ。いざ!」
というと紋也は太刀をかざし、お粂を背後へ従えると疾風のように走り出した。が、しかし見よ、その瞬間に、すさまじい音が轟いて露路が火の海に一変したことを! 右手に並んでいた家並みが、焼けて崩れて落ちたからであった。
焼け落ちた家並みが露路をおおうて、焔々として焔を上げて、黒煙と火の粉とを八方へ吹いて、反対側の家並みをさえ、まもなく同じように焼き落とそうとしている。その露路の中で戦っていた紋也やお粂や二人の門弟や、代官松の乾児たちは、どういう運命になったことであろうか。焼け落ちた家並みの下敷きとなったら、潰されたあげくに焼き殺されなければならない。それともうまくのがれたであろうか? しかし猛火はそういう人間の運命などには関係なく、ますます焔を上げ煙りを吹き、火の粉を八方へ散らしている。
いやいや露路にいた人間どもは、下敷きにもならなければ焼き殺されもしないで、別の露路を走っていた。先に立って走って行く二人の武士があった。庄田とそうして菰田なのである。すぐその後に引きつづいて、一人の武士と一人の女とが、乱れた姿で走っていた。紋也とそうしてお粂とであった。その後から多勢の人間が、得物をかざして追って行った。代官松の乾児たちであった。その露路にも火の光はみなぎっていて、火の粉や煙りは流れ込んで来たが、焔は入り込んではいなかった。住人はおおかた逃げ去ったものと見えて、人影はきわめてまれまれであった。
その人影だが光の加減からでもあろう、人間のようには見えないで、気味の悪い人間の影法師のように見えた。と、多勢の影法師が、その先のほうを走って行く男と女との影法師へ、かぶさるようにして走りかかった。と、男の影法師であろうが、翩翻と背後へ飛び返ると、二度ばかり白光をひらめかした。と、同時に走りかかって来た多勢の影法師の先頭に立った二つは、もんどり打って地へ倒れた。紋也の太刀に二人の敵が見事に切られて倒されたのであった。で、多勢の影法師が、ムラムラと後へ引きしりぞき、それを見捨てた一つの影法師は、女の影法師と前後して、一散に先へ走って行く。その先を二つの影法師が走る。庄田とそうして菰田なのであったが、多勢の影法師も、一時は退いたが盛り返して、ふたたび後を追っかけた。
火光は赤く、煙りは黒く、火の粉が金箔のようにキラキラする。両側の家々の屋根は明るく、門口は煙りでぼやけている。走る! 走る! 走る! 走る! そういう露路を影法師の群れが走る。と、先に立った二人の武士姿の、影法師がまず消えてしまった。露路が丁字形をなしていたが、角を曲がって右手のほうへ、その影法師が走ったからである。つづいて男女の影法師が、同じ角から消えてしまった。少しまをおいて大勢の影法師が同じ角から消えてしまった。で、この境地に残っているものといえば、火光と煙りと火の粉と家並みと、逃げおくれてウロウロうごめいている可哀そうな幾人かの住人たちであった。
が、この時別のほうの露路で、同じようなことが行なわれていた。すなわち白刃をひっさげて時々それを打ち振って、行く手の人間を払うようにして、武士姿の二つの影法師が、一散に走って行く後から、これも血刀をひっさげた、男女二つの影法師が、同じく一散に走って行く。と、その後から一団となった多勢の影法師が得物を揮って、先へ走る影法師を追っかけて行く。が、この露路と以前の露路との、ちがうところも少しはあった。
火光も煙りもみちていたが、そうして火の粉も散っていたが、以前の露路のそれらと比較する時、稀薄であるということである。以前の露路よりも火元の笹家に、遠ざかっている証拠といえよう。いやそれよりも以前の露路より、いっそうちがっているところがあった。家財をまとめたり家財を運んだり、老幼を助けて避難しようとしている住人の群れが相当にあって、そのため逃げて行く影法師も、また追って行く影法師も、ともすると行動をさえぎられる──というそういうことであった。
しかしまたもや同じような順序で、──まず武士姿の二つの影法師から、つづいて男女の影法師となり、最後に多勢の影法師が、丁字形をなしている一角から、次々に消えてしまった後は、ここの露路も火光と避難する人と、煙りと火の粉との世界となった。が、この時別のほうの露路では、同じようなことが行なわれていた。二人の武士の影法師が走って行く、男女の影法師が走って行く。多勢の影法師が追って行く。火光、煙り、逃げ迷う人々! そうして逃げ迷う人々の数は、その露路においていちじるしかった。空地に近い証拠である。
とうとう影法師の一行は、空地の入り口へまで走って来た。
庄田内記と菰田重助とに、先を走らせて血路をひらかせ、幾筋かの露路をくぐりくぐって、お粂を助け介抱して、それでも空地の入り口まで、ようやくたどりついた山県紋也は、「さぞ空地は火事を避ける人で、ごったがえしているだろう、そこを取りえに人の群れにまぎれて、この場の危険をまぬがれよう」と、こう思って空地へ眼を走らせた。紋也の想像には狂いがなく、火事の光に照らされている、空地をうずめて人の群れが、大波のようにうねっていた。が、これはどうしたことであろう? この入り口に接近した、眼の前の空地の一所だけに、群衆の姿が見えないとは。とはいえ全然いないのではなかった。脇差しをめちゃめちゃに振りまわしている、一人の小男を包囲して、捕えよう捕えようとしているらしい、六人の男がグルグルグルグルと、渦巻のようにまわっていた。その一団を遠巻きにして、避難の人たちが走ったり倒れたり、人を突きのけたり人に突かれたり、波のようにうねっているのであった。
「はてな?」と紋也はとっさに思った。
「あの小男は何者だろう?」見覚えがあるように思ったからである。
と、その時紋也と引き添い、左側のほうを走っていた、お粂が甲高くこう叫んだので、小男の素性が紋也に知れた。
「金ちゃん、金ちゃん、金ちゃんじゃアないか……」
小男はお粂の相棒にあたる、金ちゃんこと金兵衛であった。と、金兵衛だがお粂のほうを見た。
「やア姐ごか! お粂の姐ごか! おッ山県先生も! 有難い有難い、助かりましたかい! ……さあ野郎ども、もういけまい! 姐ごと先生とがいらっしゃったんだ! 金ちゃんだって随分強い! 三人だぜ三人だぜ! 一人の俺にだってかなわなかったお前らだ! そいつが三人になったんだ! どうだかなうまい、顫えろ顫えろ! どうだーッ」
と一はねはねるようにして、脇差しを揮って前へ飛び、敵の一人を袈裟がけにしたが、敵に素早くかわされたらしい。で金兵衛も飛び返った。そうして、そこで声をかけた。
「こいつらはあいつらでござりますよ。例の目明しの代官松の、乾児たちなのでございますよ。先生と姐ごとをやっつけようというので人数を入れて放火をして、どさくさまぎれにお二人さんを、討って取ろうともくろんだので。……そこにおりますそこにおります! 代官松めがそこにおります! ……私は偶然立ち聞きしたんで。そこでお知らせしようとしたんで。で、走って来ましたんで。そこをこいつらに取り巻かれたんで。……もう大丈夫だ、ビクビクするものか! 見やがれ!」と喚くと今のように脇差しを揮って前へ飛び、敵の一人を真っ向から切った。しかし今度もはずれてしまった。で、金兵衛も飛び返ったが、「先生、姐ご、油断はできません。こいつらばかりじゃアありませんので、橋場の卯之吉とかいう奴や、河岸の源吉とかいう奴が、多勢の乾児を引き連れてはいり込んでいるということでいずれ現われるでございましょう。討ってかかるでございましょう。……おのれ!」と叫ぶとまたまた金兵衛は、例によって脇差しを打ち振って、はねるように前へ飛び出して行って、敵の一人を横薙ぎにかけた。が、しかしこれもはずされたらしい。一人も敵は倒れなかったのだから。
火事は一ヵ所ばかりでなく、どうやら諸方に起こったらしい。東にも西にも火の手が見える。ここの空地も明るさを加え、熱さを加え混乱を加えた。で、あっちこっちの露路口から、ここの空地へ逃げ込んで来る、無数の幼老男女によって、今まで一団体をつくっていた金兵衛と代官松と乾児との組も、その団体を崩されかかった。避難の人の群れが無我夢中に、彼らへ殺到して来たからである。と、その混乱の間を割って、紋也とお粂とが走って来る前へ、一人の男が突き進んだ。
「山県の先生、お粂の姐ご! もういけませんぜ、覚悟をしてくだせえ! 四方八方を取り囲んだんだ! 逃げようたって逃がしはしない! ……おい野郎ども方向を変えろ! 金兵衛なんかうっちゃっておけ! 紋也とお粂とへかかって行け! 一人は眠らせろ! 一人はさらえ!」代官松こと松吉であった。
「そうか」と紋也は代官松の言葉や、金兵衛の喚いた言葉によって、この出来事がハッキリとわかった。
「代官松の乾児どもが、我々に害を加えようと、放火や襲撃を企てたのか。おぼろげながらもそう感じてはいたが、これで事情がすっかりとわかった。が、どのような理由のもとに我々へ害を加えようとするのか? いやこれとてもおおよそはわかる。上に立っている大物が、我々の主義と行動とを押さえつけよう苅り取ろうと、代官松を使嗾したのだ。……さあ、では、これからどうしたものだ? どうしようもこうしようもありはしない、斬って斬って斬りまくって、この一廓からのがれ出て、市中へはいり込んで身を隠すより、他に手段がありようはない。……」
で紋也はせわしそうに、お粂のほうへ眼を走らせたが、「ごらんの通りのありさまでござる。敵は代官松の一味の由で、目的は我々を害そうとの事で、容易ならぬ危難にござります。ついては何よりの手段として、一刻も早くこの境地から離れ市中へはいることにいたしましょう。拙者の後よりついてござれ! 拙者血路をひらきましょう! 一ツ目橋のほうへ! 一ツ目橋のほうへ!」それから四方へ眼をやったが、
「庄田氏はおらぬか! 菰田氏はおらぬか!」すると二人の声が聞こえた。
「庄田でござります! ここにおります!」
「菰田でござります! ここにおります!」
見れば二人の内門弟は、血ぬられた刀を引きそばめ、乱れた鬢髪に崩れた衣裳で、代官松らの背後のあたりに、平めかした姿勢で立っていた。指揮さえ下したなら一議にも及ばず、斬って入ろうの構えであった。
「こんな奴とは問答は無益だ」このように思ったがためであろう、代官松の挑戦の言葉へ、紋也は返辞を投げつけようともせず「やれ!」と叫ぶと自分自身、血刀を揮って突き進んだ。「まず金兵衛殿を助け出せ!」
髪は乱れて頸に垂れ簪は脱けて散乱し、紅い掛け布はよれよれとなり、襟をはだけて、返り血を浴びた──そのために凄愴の美を加えた、肉付きのよい胸を現わし、赤い手甲の両の手に脇差しをしっかりと握ったお粂が、すぐにその後から突き進んだ。と挟撃でもするように、その瞬間に二人の門弟が、背後からドッと斬り込んだ。
火事の光で地上は明るく、明るい地上を人間の波が、うねりで泡立ち沸き立っている。と、その一所が急湍のように、物すさまじく渦巻いたが、悲鳴と喚き声と刃音とが、周囲の雑音を貫いて、ひときわ高く轟くや、バタバタと倒れる人の姿が見え、つづいて一組の人間が、周囲の群衆を左右に割って一ツ目橋の方角へ、走って行くのが見てとられた。が、数間とは走らなかったであろう、その一ツ目橋の方角から、一団の人数が現われいでこれも周囲の群衆を割ってこちらをさして走って来た。と、思うまもあらばこそであった。河岸の方角からまたも一団の得物を持った人数が現われたが、同じようにこちらへ走って来た。と、思うまもあらばこそであった、たった今急湍のように人の渦が渦巻いていたその所から、四人の人数が走り出て、同じようにこちらへ走って来た、そうして三組の人の群れが、一ツ目橋のほうへ走って行く、一組の人数をおっ取り囲んだ時に、ふたたび乱闘が行なわれた。
「代官町の兄貴か!」「河岸の兄弟か!」「代官町の兄貴か!」「橋場の兄弟か!」こういう声々が取り交わされ、つづいてこういう声が聞こえた。「そいつが紋也だ! こいつがお粂だ! いいところへ来た! さあやってくれ!」
一ツ目橋の方角から駈け付けて来た一団の人数は、河岸の源介の勢であり、河岸の方角から走って来た一団は、橋場の卯之吉の勢であり、背後から追って来た四人の人数は、代官松と乾児とであった。
三方に敵を引き受けたのは、紋也とお粂と金兵衛と、庄田と菰田との五人であった。宙に上がる棍棒、空にうねる捕り縄、紅色の火事の遠照りを縫って、霰のように飛ぶ無数の目潰し! が、それらを四方に受けて、八方へ斬り返す五本の刀! 空は深紅だ! 周囲は人波だ! と紋也たちの一団であったが、さっきからの乱闘に疲れていた。しだいしだいに弱って来た。
もしも天上に人がいて、眼の下の光景を眺めたならば、こういう光景を見たことであろう、一人の娘が脇差しを揮って、数人の男と戦っていたが、脇差しを地上へ叩き落とされてしまった。と、数人の男たちであるが、すぐに飛びかかって揉み立てたあげく、娘をかついで走り出した。かつがれて行くのはお粂なのである。と、見てとった一人の小男が、これも脇差しを揮いながら、数人の男と戦っていたが、お粂を誘拐から救おうとして、かつがれて行くほうへ走り出した。が、そのとたんに一人の敵に、棍棒で足を払われたため、モンドリ打ってぶっ倒れた。と、数人の敵であったが、倒れた小男へ──金兵衛の体へ、一度にドッと襲いかかって、グルグルと縄で縛り上げようとした。
が、金兵衛も縛られようとはしない。起き上がろう起き上がろうと手足をもがかせる。それと見てとった一人の若い武士が、ギョッとしたように立ちすくんだが、十数人の敵を相手にして切り捲くっていた血に濡れた刀を、脇構えに構えて突き進んだ。ほかならぬ山県紋也である。金兵衛を助けようとして突き進んだのである。が、その時少し離れた処から、女の叫び声が聞こえて来たので、またギョッとして声の来たほうを見た。お粂がかつがれて行こうとしている。
「しまった!」というように一瞬間、また紋也は立ちすくんだが、これは金兵衛を助けようか、それともお粂を救おうかと、躊躇したものと見てよかろう。しかし紋也はお粂のほうへ走った。
こういう境地から数間離れた、ほかの一画では二人の武士が──庄田内記と菰田重助とであったが、これも刀を打ち揮い、十数人の敵を相手にして、苦しい戦いをつづけていた。
火事の光は深度を加えて、今は地上は昼よりも明るく、地を這っている小虫をさえも、数え取ることができそうであり、そういう明るい地面を埋ずめて、逃げ迷っている無数の男女が、そういう乱闘の修羅の場をめぐって、うねり、波立ち、崩れ、集まり、また押し寄せたり退いたりしていた。
お粂はかつがれて行くであろうか? 金兵衛は縛られて捕えられるであろうか? 紋也にお粂が助けられるであろうか? 苦戦している庄田と菰田とは、結局どうなることだろう? と、これはなんということだ! この地獄の光景の中へ、
〽葵は枯れても
ああああ
菊は栄える
と、多勢のうたう歌の声が、忽然と響いて来たではないか!
と、これはなんということだ! 賭場の立っている方角から、十人、二十人、三十人、続々と異形の人の影が、得物得物を振りかざしてこちらへ走って来るではないか! 香具師、博徒、遊芸人、破落戸たちの群れであった。
と、これはなんということだ! その一団の走るにつづいて、今まで夢中で逃げまわっていた、避難の人々が逃げまわるのを止めて、
〽葵は枯れても
ああああ
菊は栄える
と、これも同音に歌いながら、その一団にはせ加わって、こちらへ走って来るではないか!
「山県先生をお助けしろ!」誰いうとなく叫ぶものがあった。
「お助け申せ! お助け申せ!」一団が同音に声を合わせた。
かつて紋也が弟の小次郎へ、「俺が巷へ呼びかけた声が、どんなに多勢の口々によって、叫ばれているかを聞くがよい」と、こういう意味のことをいったことがあったがその叫びこそこの叫びなのであった。
水戸様石置き場の空屋敷という、この境地へ入り込んで、潜行的に山県紋也が、下賤と見なされている人たちへ、どれほど恩をほどこしたかどれほど思想を吹き込んだか、その証跡が今や挙がった。紋也急難と伝え聞くや、自分の危険を打ち忘れて、こぞって救いにはせ向かったのである。その一団が襲いかかった時、以前にもました大乱闘が、空地の中で行なわれたが、やがて集団的の乱闘が、ここに一組、そこに一組と、分立的の乱闘と変った。と、一散に一人の武士が乱闘の場から走り出た。
乱闘の場から走り出たのは、これまでの戦いに薄手ではあるが、数ヵ所に傷を負った紋也であった。髪は乱れて顔へかかり、衣裳の袖はちぎれて取れ、手にも足にも血を流し、引っ下げた刀をピリつかせている。代官松の一団からいえば、紋也を討って取ることが、この夜の襲撃の主なる目的で、逃がしてはならない獲物なのであった。が、思いもおよばなかった、意外の敵が現われて、「葵は枯れても、ああああ、菊は栄える」と、歌いながら攻めてかかられたので、一団はことごとく気を呑まれて、この新手の敵に向かい、紋也が乱闘の場から抜けて、一ツ目橋の方角へ、走って行くのに気が付かなかった。で、紋也ははずむ息をおさえ、ともすると定まらずよろめこうとする、疲労れた足を踏みしめ踏みしめ、絶えずぶつかって来る群衆の波を、血刀を振って左右へ払い、一ツ目橋のほうへ突き進んだ。が、半町とは走らなかったであろう、紋也はにわかに足を止めたが、振り返ると乱闘の場を眺めた。
「お、お粂殿! ……うっちゃってはおけない!」──のがれようと思う一心から、遮二無二ここまで走っては来たが、お粂が敵に取りこめられて、乱闘の場に残っていることを、フッとこの時思い出したのであった。「女を捨ててはおかれない」──で、紋也は取って返した。取って返して戦ったならば、疲労れ切っている躯である、おおかた斃されてしまうだろう。……そういう予感はあったけれども、見捨てて自分だけ助かろうという、卑怯な心にはなれなかった。
「お粂殿! お粂殿! お粂殿!」と、人の声、足音、物の破壊れる音、火事に付き物の嵐の音、声や音に一ぱいに充たされている、ここの修羅場の騒音を通して、紋也は大音に呼んでみた。と、どうだろうその声に答えて、数間の先からお粂の声が「紋也様!」とすぐ答えたではないか。意外な結果に驚いて、声の来たほうへ紋也は向いた。そこにあるものといえば群衆であったが、その群衆を脇差しで払って、お粂がこちらへ走って来るのが見えた。
「おお、お粂殿か、お怪我はなかったか」安心した紋也は走り寄りながら、こう叫んでお粂を抱えるようにした。「金兵衛殿は? 門弟どもは?」
紋也の腕に抱えられて、お粂は荒いあえぎ声を上げた。「ご、ご安心なさりませ、金兵衛もお二人のご門弟衆も、道を変えておのがれなさいました」──で、紋也にひしとすがった。「意外の助けが出ましたので……みんなそのほうへかかりまして……隙のできたのを見てとって……めいめいのがれたのでございます。……あなたをお探しいたしました。……やっと、……お声が……聞こえましたので……」
「有難い……」と紋也は腕にこめた力で、お粂の肩を引き締めたが、「さあ一緒に! 見付けられないうちに!」
「はい」とお粂も立ち直った。「お屋敷にお帰りなされては、危険至極でございます。……それよりも妾の屋敷のほうへ! 私たちのおります屋敷のほうへ! ……あそこは安全でござります!」
「まずこの空地を! ……一ツ目橋から! ……」
で、二人は走り出した。なおも群衆がぶつかって来て、二人の間をへだてようとする。それを払って突き進む。一ツ目橋を向こうへ越すと、相生町の一画へ出る。それを北のほうへ走って行けば尾上町の河岸へ出る。河岸について走って左へ曲がれば、九十八間の両国橋となる。両国橋を渡り越せば、吉川町となり柳橋となる。そこの町筋を西へ走れば、久左衛門町となり佐久間町となり、儒者ふうの老人の籠っている、例のいかめしい屋敷となる。いつか二人は久左衛門町まで来た。火事を見る人が往来の上や、屋根の上などに立っていたが、その人影とてまれまれであって、町筋はむしろ寂しかった。
紋也もお粂も疲れ切っていた、今にも二人ながら倒れそうであった。それに紋也には心配があった。自分を討ち漏らした代官松の徒が、あくまで自分を討って取ろうとして、自分の屋敷へ討ち入りはしまいか? 討ち入られたが最後、妹も弟も、難を受けなければならないだろう。妹には吹き針の武芸がある。あるいは難をのがれるかもしれない。が、弟は柔弱者だ。討って取られてしまうだろう。
「小次郎! 小次郎! 小次郎!」と、思わず紋也は声を上げたが、その小次郎は紋也の行く手の、佐久間町の入り口の往来で、難を受けているはずである。
一人の若衆武士が佐久間町のほうから、疾風のように走って来て、おりから佐久間町の入り口へまで来た、北条美作と桃ノ井兵馬とへ、──いや先に立っていた美作の胸へ、ドンとばかりにつきあたり、
「無礼者めが! 粗忽千万!」
「火急の場合、お許しのほどを」
「おっ、貴様は山県小次郎か!」
「どなたでござるな?」
「桃ノ井兵馬だ!」
「切れ!」という美作の声がしてつづいて兵馬が抜き討ちざまに、小次郎の胴へ切りつけたのは、水戸様石置き場の空屋敷にある笹家から火の手の上がった時で、小次郎の兄の山県紋也が受難の時刻と同じ時刻であった。
小次郎は柔弱ではあったけれども、ともかくも兄に仕込まれて、多少とも武術の心得はあった。抜き討ちに兵馬に切り付けられたが、その一刀を胴へ受けて、そのまま斃れてしまうというほどにも、不鍛錬未熟の人間ではなかった。こういう場合に自然と出る「あッ」という驚きの声を上げたが、声を上げた時には小次郎は、反射的運動とでもいうべきであろうか、パッと背後へ両足で飛び、これとても反射的運動といえよう、左手で刀の鯉口を握り、右手で柄を握りしめ眼前に刀を上段にかぶり、刀身を月光にひらめかし、黒頭巾の中から白々と、左の一眼を繃帯した、白い布を気味悪くのぞかせて、開いている右眼で睨んでいる殺気に充ちた兵馬の姿を、絶体絶命の心持ちで怯えながらみつめていた。
両足で背後へ飛んだ時に、おのずからそうなった位置なのであろう、家々の屋根が月の光をさえぎり、そのためにできた蔭があって、往来の左側を暗めていたが、そこに小次郎は立っていた。で兵馬には小次郎の姿は暗さに包まれて不分明であったが、兵馬の姿は月の光に、青白く照らされて明らかであった。兵馬の姿が明らかに見える! ということが小次郎にとっては、即恐ろしいことであった。前後に踏んでいる兵馬の足が、衣裳から洩れて現われていたが、その足がジリリ、ジリリ、ジリリと、小次郎のほうへ寄って来る。柄の頭を握っている兵馬の拳が、月光の加減か、尋常ならず大きく見えたが、同じくジリリ、ジリリ、ジリリと、小次郎のほうへ寄って来る。
が、何よりも恐ろしいのは、拳の下にすわっている穴のように見える一眼で、それは人間の眼というよりも、一個の独立した奇怪な生物──というように見なされた。その眼が同じく小次郎のほうへ、ジリリ、ジリリと寄って来る。兵馬その者の姿勢から、全体的に感ぜられるものは、兎を捕えるにも全力を注ぐといい伝えられている獣王の獅子で、どうあろうとよし、こうあろうとよし、あくまでも小次郎を討って取ろうと、深く決心をしているような、真に物凄い殺気であった。そういう兵馬を前に置いて、何ゆえ小次郎は刀を抜かずに、みつめたままで立っているのであろう。小次郎には刀が抜けないのであった。
桃ノ井兵馬という名は聞いていたが、そうして兵馬が自分たち一族の、敵であるということも聞いていたが、そうしていつぞや兄の紋也と、姉の鈴江とが泉嘉門の屋敷で、その兵馬を懲らしたという、そういうことも知ってはいたが、しかし逢うのははじめてであった。剣技の素晴らしいということも、以前から小次郎は聞いていた。が、どのくらい素晴らしいのか、それは今までは知らなかった。しかるに今や逢ったのである。剣技の素晴らしい一族の敵に! と、想像をしていたよりも、なんと恐ろしい敵なんだろう! 刀を抜こうにも抜くことができない。抜くとたんに隙ができるだろう。そこを一刀にやられるだろう。──で、小次郎は棒か杭のように、ただに立っているばかりであった。
両国の方面の霧の深かった空がしだいに紅色に染まって来た。水戸様石置き場の空屋敷が、焼き討ちのために焼けているからである。しだいに大火になるらしい。空の紅色が月の光を奪って、見る見るうちに濃くなって来た。
「兄上!」と小次郎は紋也のことを思った。「お身があぶない、お身があぶない!」
──心の隙といわなければなるまい! この息詰まるような闘争の間に、兄の安危へ心を移したのであるから。果然! 一刀真っ向へ来た! つづいて「ワッ」という悲鳴が起こって、小次郎の姿が地へ倒れたが、同時に刀光が地上五寸の、空間を横へ一流れした。
しかし小次郎は切られたのではなくて、兵馬が切ってかかった時に、行動したというよりも無我夢中に、これもいい得べくんば反射運動的に、前方へ向かって飛び出して行き、兵馬の体へぶつかったところ、自分の力に自分が負けて、ドッと地上へ倒れたが、その瞬間に心が開けて、刀を抜くだけの余裕ができた。で、引き抜くや倒れたままで、兵馬の足を薙いだのであった。「ワッ」という悲鳴をあげたのも、真っ向を切られたがためではなくて、真っ向を切られたと思ったからであった。
月光が道の上に敷いていて、霜のような色を見せている。その道の上を素速い早さで、コロコロと転がって行く物の形があった。起きよう起きようと努めてみても、恐怖のために足が立たないで、転がって行く小次郎の体なのであった。と、一本の氷柱のようなものが、小次郎の体の転がって行くつど、月光をはねたり飛ばしたりした。そこは小次郎も武士であった、転んでも刀を放さなかった。握っている刀が光るのである。
火事の遠照りがここまでも届いて、ここの空間は薄紅い色に、ボッと気味悪くぼかされていたが、その空間の一所に、腰を落として右の足を曲げて、股の中所に太刀柄をあてて、天道流の下段に構えて、転がって行く小次郎の転がって行く姿を、睨み付けている武士があったが、いうまでもなく兵馬であった。月光と火光とに練り合わされて、微妙な色と光とが、曲げたためにかえって釣り上がった衣裳の裾の下から出ている脛の一所を照らしていた。と、なんだろう紐のようなものが、脛を伝わって足の甲のほうへ、ズルズルとたぐられて行くではないか。昼間見たらその紐は赤く見えよう。夜である今は蒼黒い色に見えた。小次郎に刀で薙がれた時に、迂濶に受けた傷口から、流れてしたたっている血汐なのであった。
柔弱者の小次郎を一刀に仕止めることができず、その上にあべこべに傷を負わされたので、兵馬はカッとのぼせてしまった。がしかし小次郎が立ちあがって、構えているのであったならば、すぐにこの太刀を下すことができたが、あたかも転がって行く俵のように、小次郎は地上を転がっていた。柔道に寝業というものがあって、これにかかると練達の士でも意外に不覚を取るものである。剣道の外伝にも寝業はある。同じく迂濶にかかろうものなら、同じく不覚を取るものであった。兵馬ほどの腕利きの武士である、小次郎が取るにも足らないような、武道未熟の武士であるという、そういうことはわかっていた。が、寝業をされた日には、多少とも用心をしなければならない。そこで下段に構えをつけて、はやる心を押し静めて、小次郎のコロコロと転んで行くようすをグッとみつめているのであった。
その兵馬の心持ちといえば、山県の一族は自分にとって、主義の敵であり父の仇であり、片眼を潰された怨みから、自分自身の仇でもあって、なぶり殺しにしてやらなければ、心の晴れない怨敵であった。その一人の怨敵小次郎が、眼の前に地上に転がっている。
「うむ、うむ、うむ、有難いぞ! 一太刀切って自由を奪って、その後でさんざんになぶってやろう。耳を剃り落とし眼をクリ抜き、鼻をえぐり取り指を折り、綺麗な艶々しい前髪を、一本一本むしり取ってやろう」
感情が極度に昂奮すると、人間は物がいえなくなる。むしろ能弁家で、毒舌家で人をさいなむ場合にも、喋舌りまくる兵馬ではあったけれど、感情が極度に昂奮していた。で、石のように黙ったままで、左へ転がれば左のほうへ、右へ転がれば右のほうへ、小次郎の体の転んで行くほうへ、鉾子を角立てて差し向けて、ジリリ……ジリリ……と刻み足で進んだ。
で、この二人のたたずまいは、凄惨なものといわなければなるまい。しかるにそういう二人から、三間あまりへだたった、家の影の濃い道の上に、寂然としてたたずんで、その二人の凄惨なたたずまいを、見守っている一人の武士があった。北条美作その人であった。黒頭巾の中から剃刀のような眼で、二人を眺めていることであろうが、影の暗さにおおわれて、ただ一様に黒く見えた。刀の柄へ手さえ掛けていない。が、これはどうしたのであろう、ゆるゆると右の肘を張り、右足をそろりと前へ出した。と、手が刀の柄へかかった。見れば美作の立っている前へ、小次郎の体がころがって来る。
北条美作のたたずんでいるほうへ、小次郎が転がって行くといっても、地上をコロコロと俵のように、今は転がって行くのではなくて、立ち上がろうとしても腰が立たず、起き上がろうとしても足が利かない、それでいてやはり立ち上がろうとし、それでいてやはり起き上がろうとする。そこである時には半ば立ち、またある時には全く転がり、そうかと思うと片膝だけで立つ。そういうありさまで転がって行くのであった。で、そのようすは重い傷を負って、もがきまわっている人間のように見えた。が、なぜ美作の立っているほうへ、好んで転がって行くのであろう?
いやいや決して小次郎は、好んでそのほうへ転がって行くのではなくて、落とした石が転落するや、いやでも同じ方向へ向かって、加速度に転落して行くのと同じに、小次郎も最初に転がったほうへ、加速度に転がって行くまでであった。そうして小次郎には自分の行く手に、ゆるゆると右の肘を張って、右足をそろりと前へ出して、柄頭へ手をかけて狙いすましている北条美作という人間が、たたずんでいる姿なるものがまことは眼にはいっていないのであった。
「桃ノ井兵馬! 我々の敵だ! 凄い人間だ! 恐ろしい剣技だ! そいつに俺はぶつかったのだ! 俺は殺される殺される! が、俺はどうしても殺されるのはいやだ! といって兵馬を討ち取ることはできない! 俺は剣道が未熟なのだから! ではいったいどうしたらいいのだ? 逃げよう逃げよう、どうぞして逃げよう」転がりながらも心の中で、ハッキリと考えていることといえば、それ以外の何物でもなかった。同時に小次郎はこう思っていた。「水戸様石置き場の空屋敷で、兄上が苦闘しておられるだろう。行ってお力にならなければならない。少なくも兄上を焼き討ちにかけた敵の素性と手配りとだけは、どうしてもお聞かせしなければならない」
火事は大きくなったらしい。ここ佐久間町と両国とはかなりの距離を持っているのに、ここまで届いている遠照りの光が、しだいに色を濃くして来て、今にも火の粉の幾片かが、降って来はしないかとさえ思われた。で、付近の幾軒かでは、表戸をあけてのぞいたり、屋根の上へ昇って見たようであったが、大川をへだてた両国の地点が、火元であると知ったからか、まもなく人影は消えてしまった。擦半が鳴って寺の鐘が鳴って、火消しのはせて行く足の音なども、聞こえて来たことは来たけれども、この佐久間町の往来ばかりは、ただに寂しくて人通りもなかった。このことは美作と兵馬にとっては、好都合のことではあったけれども、小次郎にとっては不幸であった。もしも人通りがあったならば、美作も兵馬も気を兼ねて、小次郎を討つことを控えたであろうから。
と、一つの黒い形が、ムックリと地上から持ち上がった。小次郎が辛うじて立ち上がったのである。と、一つの黒い形が、すぐに地上へくず折れた。小次郎が膝を突いたのである。と、同じ黒い一つの形がズルズルと地上を這って行った。小次郎が地を這ったのである。と、這っていた小次郎であったが、反射的に何物かを感じたらしい、グイと顔を上向けた。と、その顔を見下ろしながら、頭巾をかぶった威厳のある武士が、今にも斬り下ろそう構えの下に、刀の柄へ手をかけていた。
「ハーッ」と小次郎は気を呑んだ、恐怖が昂ずると夢中になる。美作の姿を眼に入れて、敵が二人だと知った瞬間、立てなかった足がにわかに立って、美作と二尺とは離れなかったであろう、そのようにも美作と接近した位置へ、グーッと小次郎は突っ立った。これは美作にも意外であったらしい。「おっ!」というような声を立てたが、抜き討ちにかけるには近すぎた。で、後ろざまに飛びさがり、無言の気合でサーッと斬った。どうだ! いや! 斃れなかった! ただ鏘然たる音ばかりがした。夢中で小次郎が持っていた刀を、頭上へ高く捧げたため、斬り付けた北条美作の刀が、鍔で意外にも受けられたのである。が、その次の瞬間において、横様に小次郎へ飛びかかる魔のようにすさまじい人影があった。両手を上げて刀を捧げて、今も小次郎は美作の刀を、棒立ちになってささえている。まる見えになった胴を割るべく、兵馬が飛びかかって行ったのであった。
しかし兵馬はあせっていた。というのは小次郎が起き上がるのを待って、討ち取ろうとようすを見ていたところ、小次郎は起き上がりは起き上がったものの、その時にはすでに北条美作が、真っ向を割るべく刀を下ろしていた。で、兵馬は切ることができなかった。が、これだけならまだよかったが、美作の切り下ろした刀を受けて、小次郎が棒立ちに立ってしまった。と、その姿勢が兵馬の眼には、小次郎のために美作のほうが、今にも切って斃されそうに見えた。で、美作を助けようとして、まる見えに見えている小次郎の胴を、割ろうとして飛びかかって行ったのである。しかし飛び切った瞬間に、しまったと思わざるを得なかった。小次郎と美作とがくっつき合って、ほとんど一個の群像のように、向かい合って立っていたからであって、小次郎を切ろうとして薙いだ刀が、美作を切ろうも知れないからであった。で兵馬は飛びかかったが、急に刀を手もとへ引くと、にわかに足を踏み固めて、すぐに小次郎の背後を目掛けて、飛鳥のように斜めに走った。兵馬の眼の前に見えているのは、小次郎の細い頸足と、刀を捧げているがために、怒って見える両肩と、頭の上にこちらに向かって切っ先だけを突き出して、その切っ先を燐かのように、蒼白く月光にさらしている、受けられている美作の刀とであった。「切りよい姿勢だ!」「胴を輪切ろう」と思ったのではない感じたのである。感じた時には切っていなければならない。兵馬の刀が左横へ流れて返るや小次郎の後胴へはいった! ──という手はずになるべきであったが、またもや兵馬はスカされてしまった。美作の刀を夢中でささえて、放心したように立っていた、非力の小次郎がささえる力に負けてヒョロヒョロヒョロヒョロと後ろへさがり、もたれるように兵馬の胸へ、体当たりめいたものをくれたからであった。
「チェッ」という舌打ちの声がした。二度の失策に業を湧かして、兵馬の鳴らした舌打ちであった。しかるに舌打ちを鳴らした時には、再度の舌打ちを鳴らさなければ、どうにも我慢のできないような、意外な出来事が起こっていた。兵馬の足もとに小次郎の体が、倒れて独楽のようにまわっていたが、振りまわした小次郎の刀の先に触れて、また兵馬が脛を切られたからである。
「こやつ! 猪口才! ううむ、切ったな!」
しかし兵馬がわめいた時には、二間あまりのかなたの道を、両国のほうへ無二無三に、──どういう理由でそうもにわかに、走るだけの度胸が出たのであろうか──小次郎は黒々と走っていた。
「ご前!」と兵馬は美作を呼んだ。「残念……拙者……傷を負うてござる! ……ご前ご前、小次郎めを!」
「傷は重傷か! 兵馬兵馬」
「ご心配ご無用! かすり傷でござる! ……が、いささか、出血が多く! ……ご前ご前、小次郎めを!」
「うむ」と美作がいった時には、すでに小次郎を追っかけていた。
美作が小次郎を追っかけて行くのを、眼で追いながら大地にすわって、兵馬は結んでいた帯を解いて、一方の端を歯で噛んだが、ビリビリと細く引き裂いた。と、脛へ捲き付けたが、受けた傷を繃帯したのであった。その間も兵馬は眼で追った。
「おッ、しめた! 追い付いた! うむ、ご前が切り付けた! あッ、いけない! 切りそこなった! 小次郎め小次郎めまだ走りおる! ……いよいよしめたぞ! 追いついたぞ! やッ、ご前が手をのばした! 生け擒りにするおつもりらしい。……お偉い! ご前! 捕えましたな! ……なんだなんだ、どうしたのだ! 小次郎め振り切って逃げて行く! ……なんだろうご前の持っておられるのは⁉ ……袖だ袖だ小次郎めの袖だ! ……今度はよかろう、追い付いた! 大丈夫だ大丈夫だ、今度は切るぞ!」
しかし兵馬は口をつぐむと、裂き残りの帯を腰へ巻いて、刺されたかのように飛び上がったが、美作と小次郎の走って行ったほうへ、足の傷などは忘れたように、身体をひらめかして一散に走った。何かに仰天したようすである。
三度目に美作が小次郎へ追いつき、ぶっ放さんとした時、松永町のほうと通じている、小広い横丁から一団の者が、忽然として現われて来て、小次郎を保護でもするかのように、小次郎を人数の真ん中へ包んで、美作をさえぎってしまったからである。
小次郎を中へ包むようにして、美作をさえぎって往来の中央へ、たむろするようにたたずんでいる、十人の一団は武士が四人に駕籠舁きが二人に女が四人という、まことに変わった一団であって、武士はいずれも年が若く、健かで美貌であるらしく、頭巾で顔をこそ包んでいるがお小姓じみたところがあった。緑色の小袖を一様に着て、羽織なしに袴をはいていた。四人の女はこれに反して、いずれも醜い老女らしく、これも緑色の衣裳を纒い、緑色の被衣をかぶっていた。
と、二人の駕籠舁きによって、舁がれている女駕籠が一挺あったが、塗りは総体に黒色で金銀の蒔絵がほどこしてあって、扉のあたりに深紅の総が、焔の束のように下がっていた。その駕籠の扉に引き添って、地に膝を突いて、小次郎が烈しくあえぎながら、それでも刀は手から放さず、握ったままで静まっていた。
なんという不思議な一団なのであろう? が、この不思議な一団はいつぞやも佐久間町の往来へ、このような姿で現われて出て、小次郎の兄の山県紋也を、驚かせたことがあったはずであり、北条美作の子息にあたる左内をおびき寄せたはずである。が、あの時には駕籠の扉があいて、姫君姿の妖艶な女が顔をのぞかせたはずであった。今夜もそういうことにならなければなるまい。
はたして駕籠の扉が内側からあいて、女が顔をのぞかせた。夕顔の花のそれのように、なんという白い顔であろう。二顆の宝石でも懸けたように、なんという光の強い眼であろう。いつぞやの夜の姫君姿の女と同じ女であった。いつぞやの夜にはその女が物いうごとに形容に絶した、愛欲をそそる馨しい匂いが、息苦しいまでに匂って来て、紋也を恍惚の境地へまで墜落させたはずであったが、はたして今夜はどうであろうか?
今夜もいつぞやの夜と同じであった。女の顔は駕籠の中で月光に隠されているがために、一様にほの白く見えるばかりであったが、その顔の一所に黒い疪ができて──女が唇をあけたからであろう──こう小次郎へいった時に小次郎の心を恍惚とさせてほとんど絶息させるまでの馨しい匂いが、言葉と一緒に匂って来た。
「このお若い衆は気に入ったよ、ああ妾の気に入ったよ。この人へ接吻をして上げよう。この人は嬉しがるに相違ない。妾がこの人を嬉しがるように。……まだこの人は童貞らしいよ。まだこの人は女子の肌の、胸から下を見ていないよ。この人の心は顔立ちでわかる。冷やかなものや堅い物や、寂しい物や静かなものに、ずっと養われて来たらしいよ。では妾が見せて上げよう、それとはまるっきり別なものを。……そうしてこの人へ教えて上げよう、それとはまるっきり別の物のほうに、生き甲斐のある物のあるということを。……半分しかこの人は知らないのだよ。だから妾は後の半分を、この人へ知らせて上げることにしよう」
で、馨しい匂いが、香料のように匂って来たのであった。と、飼い犬でも甘やかすような命令的ではあるけれども、優しい声が駕籠の中から聞こえた。
「おいで、さあ、ここへおいで。お出し、さあ、お前の手を」
──と、その声のいい終えられた時に、二本の細い白い線が、暗い駕籠の中から差し出されて、小次郎のほうへのばされた。袖が捲くれて二の腕までも露出された女の腕であった。必死の闘いの直後において、この光景に接したばかりか、例の芳香に燻らされたのであった。小次郎に何の意識があろう。差し出された女の手の先に磁気でも起こっているかのように、連れて小次郎も手を出した。刃物の地に落ちた音がしたが小次郎が刀を落としたのであろう。四本の腕がからみ合い、二つの顔が近寄って行く。
と、この怪しくも肉欲的の、それでいて静的のたたずまいを破って、叱咤するようないかめしい声が、一所から聞こえて来た。
「姫! 穢らわしい! 狂気なされたか!」
抜き身をひっさげて戦慄しながら立っていた北条美作であった。
最初は切って捨てようとし、二度目は生け擒りしようとし、三度目にはまたもや切り捨てようとして、刀を高く振りかむった時に、松永町へ通う横丁から、駕籠の一団が現われ出て、殺そうとした小次郎を、瞬間に中へ取りこめて、切ろうとして追って来た美作を、恐れげもなくさえぎったのであったが、この時の美作の心持ちといえば、行列が異様であったがために「気を呑まれた」というあの心持ちであった。が、彼ほどの人物である。いつまでも気を呑まれてはいなかった。ましてや彼はこの時代における、梟雄であって権臣であって、大目附であろうと若年寄であろうと、はばかったほどの勢力家であった。で、そのような行列などが、彼の所業などをさえぎろうものなら、有無をいわせず切り払ったところで、咎められるような心配はなく、切り捨てご免というような、好都合に計らわれるのは知れていた。そうして美作自身においても、そういうことは知悉していた。
で、気を呑まれた心持ちから、恢復するや突き進んで、その行列を誰何した上で、小次郎をこなたへ取り戻すか、きかない時には行列の人数を、切り払った上で取り戻そうと、ヌッとばかりに進み出たのであった。がしかし、美作はそのとたんにさらに意外な物を見た。内側から駕籠の扉がひきあけられて、浮かび出た女の顔であった。
「おッ、これは姫君ではないか! 何ということだ! 何ということだ!」──で、またまた気を呑まれて、茫然として突っ立ったのである。どうして彼ほどの人物が、たかが女の顔を見て、そうまで気を呑まれたのであろうか? 駕籠の中にいる姫君姿の女が、美作にとっての苦手であるか、ないしはその女の父母か縁辺に美作にとっての苦手があるか、どっちかでなければならなかった。とまれ美作は茫然として、抜き身をダラリと下げたままで、一団の前にたたずんでいた。しかるに駕籠の中の女であったが、美作がそこにいることなどを、知っていても知らないというように、小次郎に向かって話しかけ、小次郎に向かって手をのばし、これものばした小次郎の手を、恥ずかし気もなく握りしめて、駕籠へ近々と引き寄せて、そうして自分では駕籠から外へ、胸から上を傾けて、そうして顔を下げて行って、上向いている小次郎の顔へ、今や落としかけようとした。
「姫! 穢らわしい! 狂気なされたか!」
──で、美作は声をかけたのであった。
美作ほどの人物に、辛辣に声をかけられたのである。姫君姿の駕籠の中の女はハッとして態度を変えなければなるまい。しかるに女は変えなかった。同じ態度を保っていた。これはなんたる好奇的な形か! 緑色の衣裳と緑色の被衣を、一様に着ている女たちを、四本の常磐木にたとえたならば、緑色の小袖に覆面姿の、四人の武士たちも同じように、四本の常磐木にたとえることができよう。その常磐木に囲繞されて、黒塗りの駕籠が中央にあるのは、岩といってもよさそうであった。その岩から外へはみ出して、一叢の花が咲いていたがその中の純白の大輪の花が、得ならぬ芳香をあげながら、ゆるゆると下へうつむいて行く。真下にも一輪の白い花があって──華奢で美男で色白の、小次郎の顔とて花ではないか──うつむいて来る雌花を受けようとしている。
火事は大火となったと見えて、空に赤味が加わって来た。が、地上には月の光がおだやかに蒼白く敷かれている。木々の静まっていることは──四人の女も四人の武士も、このような出来事には慣れているぞと、そういってでもいるように、姫君姿の女のほうへも、小次郎のほうへも見向こうとさえしない。──木々の静まっていることは! ──いずれも冷然とたたずんで、保護をするのが役目であると、心を定めているかのように、駕籠の周囲を守っている。と、白々と二輪の花が、今や一つになろうとした。しかしその時地を蹴るような、荒々しい音が手近で起こった。駕籠の一団から一間ほど離れて、立っていた美作が驚きと怒りで、思わず地団太を踏んだからであった。
「お噂はお噂ばかりでなく、誠のことでありましたか! ご乱行にも程がござる! ご自分にお恥じなさりませ! 左内を、左内を、いかがなされるお気か! 穢らわしゅうござるぞ! 穢らわしゅうござるぞ!」
片手にひっさげた抜き身を顫わせ、美作は駕籠へ近よろうとした。
と、女は顔を上げたが、美作のほうをすかして見た。
「左内様なら知っているよ。あの人は妾の可愛い人さ。でもまだあの人は駄目なのだよ。妾の自由にならないのだから。……誰なの、お前は、そこに立っている人は?」
駕籠を取り巻いて守っている老女と武士とは木立ちのようであったが、木と木との間に隙があるように、そこにも隙ができていて、その隙の向こう側に北条美作が、依然として抜き身をひっさげて、駕籠のほうをみつめて立っていた。その美作の顔を見るべく、姫君姿の駕籠の中の女は、顔を上げて隙から隙の向こう側を見たが、現の人間とは思われないような──いい得べくんば他界的の声で、こう美作へ声をかけた。
お前は誰であるかと訊ねたのである。
これには美作も驚いたようであった。隙間から女を睨むように見えたが、
「私儀は北条美作でござる。左内の父の美作でござる」──で、老女たちと武士たちとを分けて、駕籠へ接近しようとした。が、接近することはできなかった。
「北条美作? 妾は知らぬよ。見れば穢ならしいお侍さんだが、一度もこれまで見たことがないよ」──こういう言葉が女の口から例の他界的の響きのある声で、すぐに聞こえて来たからであった。これはどうやら美作にとっては、意外の意外であるらしかった。接近しようとして踏み出した足を、釘づけにして突っ立ったが、
「姫君には何を仰せられる。お屋敷へ参上いたすごとに、お目にかかっているではござりませぬか、ましてこのごろでは伜の左内の事で……」しかし美作にはいい切れなかった。重なった激情的の出来事のために、気絶をしたらしい小次郎の体の肩のあたりへ腕を巻いて、小次郎の片頬へ自分の片頬を重たそうにのせた姫君姿の女が、美作の言葉など聞こうともせず、美作のほうなど見ようともせず、いよいよ赤味を加えて来た火事の遠照りの空の一所に、張りつけたようにかかっている銅色の月へ眼をやり、例の他界的の響きのある声で、あこがれるように歌うように、
「……大森林がうねっているよ。大きな滝が落ちているよ。古沼に蛟が泳いでいるよ。ご覧よ、豹を追っかけて裸体の人間が走って行くから。おおとうとう追い付いた。口へ手を掛けて引き裂いてしまった……ごらんよ、裸体の人間たちが大きな大きな歯朶の蔭へ、獣皮の天幕を張ったから。篝火が幾つとなく燃えているよ。照らされているのは何だろう? 弓だよ、矢だよ、石器だよ。壺で何かを煮ているではないか! 矢に塗りつける毒液だよ。……遠くで狼が吠えている。近くで栗鼠がはねている。月が雲を割って現われた。はるかのむこうで銀箔のように、平らに何か光っている。山椒魚の棲んでいる湖なのさ。……お聞きよお聞きよ閧の声が聞こえる。大森林の向こう側にある、他部落の敵勢が征めて来たのさ。……ご覧よ、獣皮の天幕の中から、裸体の人たちが武器を持って、蝗のように飛び出したから! ……大森林の中へ消えてしまった……閧の声が聞こえる、打ち合う音が聞こえる、悲鳴が聞こえる、喚き声が聞こえる。……静かになったよ。静かになったよ。……どうしたのだろう、歌声が聞こえる! ……大森林から人が出た。みんな裸体の人たちだ。さっき出て行った人たちだ。いくさに勝って帰って来たのだ。……踊る踊る裸体の人たちが踊る! 歌う歌う裸体の人たちが歌う! ……篝火が足の裏を照らしている。篝火が盾を照らしている。輪になってみんな踊っている。……おお楽の音がする! 手太鼓の音が! 角笛の音が! ……ご覧よご覧よ大きな乳房を! ご覧よご覧よ太い股を! ご覧よご覧よ逞しい腕を! 髪を束ねて垂らしている! 女だ女だ女王様だ! ……月が隠れた、深夜になった。寝所を調えている男がある。とりわけ大きな天幕の中で! ……ご覧よご覧よ女王様が寝たから! 裸体の男が捲いている逞しい腕で捲いている。……でもその男は追い出された。別の裸体の男が来た。乳房が男の胸を受けた。でもこの男も追い出された。別の裸体の男が来た。やがては追い出されることだろう。でも今は女王様に抱かれている。……沼では水牛が水を飲み、林では猿猴が眠っている。そうして荒野の洞窟では、魔女が十三の髑髏を並べて、人の生命を占っている……また女王様は別の男を召された」──夢のようなことをいい出したからである。
「その女王様が妾なのだよ」気絶したらしい小次郎の身体の、肩のあたりへ腕を捲いて、小次郎の片頬へ自分の片頬を、重たそうにのせた姫君姿の女は、駕籠から半身を外へ現わし、守護の老女たちと武士たちとに、周囲をグルリと厳重に守らせ、その向こうに立っている美作などは、眼中にないというように、視線をさえも送ろうとはせず例の他界的の響きを持った、あこがれるような声でいいつづけた。
「その女王様が妾なのだよ。……妾はいろいろの男を知っている。あの男は町人の伜だったが、鞣した皮のように滑らかだったよ。あの男は若いご家人だったが、足の力が強かったよ。あの男は下等な船夫だったが、胸が広くて厚かったよ。そうしてあの男は歌舞伎役者だったが、じき泣きだしたよ。妾より五つも年の下の、旗本の三男を手に入れた時には、弟のように可愛がってやったよ。……犬のように這わせたり、魚のように裸体にしたり、牡丹の花弁を一枚一枚、はいでやったあげくに太い蕊を、むき出しにするように男の衣裳を、一枚一枚はいでもやったよ。妾の髪の毛で男の咽喉首を、蛇のように巻いてもやったし、重い衾を幾枚も重ねて、その中で男を蒸してもやったよ。……ご覧よ、女王様が別の男を召した。ご覧よ水牛が沼から上がって、獣皮の天幕の裾の下から、顔を入れて閨をうかがっているから。お聞きよ、たくさんの天幕の中から、男のうなされている声が聞こえる。……洞窟では魔女が占っているよ。『まだ宜しいまだ宜しい』と。魔女は思っているのだよ。『この生活は血によって伝わり、夜の間において現われる』と。……駕籠をおやり! 若衆武士をお連れ!」──と、変化が行なわれた。
二人の武士が身をかがめたが、気絶をしている小次郎の体の、肩と足をささえ持ち、自分で扉を閉じて内へ隠れた、姫君姿の女を乗せた黒塗り蒔絵の女駕籠が、ユラユラと揺れて進み出した、そのかたわらに引き添って、ほかの武士たちと老女たちとによって、その周囲を守らせて、すでに深紅の色と変った、火事の遠照りの空の下を佐久間町の二丁目の方角をさして、粛々としかし傍若無人に、美作を後にして歩み出したのである。一団はしだいに遠のいて行く。
若年寄から大目附、町奉行にさえも一目を置かせる、美作ほどの人物にも、去って行く駕籠の一団を、止どめることはできないものと見えて、しだいに小さくしだいに朦朧と、やがては消えるであろう駕籠の一団を、ただに茫然と見送っていた。と、気抜けでもしたように一つ大きく溜息をついたが、一軒の家の門の柱へ、背をもたせかけてうなだれた。先刻方小次郎を追い詰めて、その片袖をもぎ取ったがその片袖を左手に持ったまま、捨てることさえも忘れたようであった。諸方で擦半や寺々の鐘が、いまだに鳴ってはいたけれど、この往来ばかりは静かなことよ! ──、少なくも美作にはめいりそうなほどにも身のまわりが静寂に思われているらしい。と、かたわらから呼ぶ声が聞こえた。
「ご前ご前、いかがなさいました」──繃帯をしていない一眼を頭巾の奥でしばたたきながら、傷を負った足を爪先立てて、両腕を胸へ物々しく組んで、美作の正面へたたずみながら、さもいぶかしいというように、美作のようすを眺め見ていた、それは桃ノ井兵馬であった。
「あれは何者にござりますか? 駕籠の中におられた姫君姿の女は?」
美作の後を追って来て、美作の背後にたたずんで、姫君姿の駕籠の中の女の、言葉や所業を美作と一緒に兵馬もすっかり見聞いたのであった。そうして兵馬には姫君姿の女が、美作が怪しく思った以上に、怪しく思われてならなかったのである。
「ご前」と兵馬はややあっていった。「化生の物とも思われませぬが、あの女は何者にござりますか?」
「あれか」と美作ははじめて答えた。が、その後をいいつづけようとはしないで、柱から離れると酔漢かのように、ヒョロヒョロと前へ歩み出した。
「あれか」と美作は先へ進んだ。
「あれか……あれはな……殿の息女だ! ……左内が……いかさま……諾わないはずだ。……」ヒョロヒョロヒョロヒョロと先へ進んだ。
と、二つの人の影が、背後からこちらへ走って来た。
「火事は両国だということだ! 水戸様石置き場の空屋敷だそうだ!」
往来を人々が走りながら、こういう叫び声を立てた時、鈴江は居間で針仕事をしていた。
「まあ」とつぶやいたが立ち上がって鈴江は雨戸をあけて見た。なるほど両国の方角から、火の手がカッとあがっていた。
「水戸様石置き場の空屋敷へは、今宵も兄上には行っていられるはずだ。火事のためにお怪我でもなさらなければよいが」──で、たたずんでしばらく見ていた。火事は盛んになるらしくて火の手が見る見る大きくなった。
「隙のない兄上であられるから、お怪我などなされる気づかいはないが、でもなんだか心配だねえ」──しかし鈴江は女の身空で、たとえ火事場へ駆け付けたところでなんの役にも立ちはしまい。……こう思って出かけようとはしなかった。がいうところの予感でもあろうか、何となく兄の紋也の身の上に、変事があるような気持ちがして、しだいに心持ちがいらいらして来た。「そうだ誰かにようすを見て来て貰おう」──で、鈴江は内門弟を呼んだ。
「代地様代地様ちょっと来てくだされ」──と、玄関に近い部屋から、男の答える声がしたが、すぐに襖をあける音がして、二十八、九歳の質朴らしい、代地という武士が姿を現わした。
「お嬢様ご用でございますかな。……や、これはこれは火事でござるか」この時まで勉強をしていたのでもあろう、青表紙の本を持っていた。
「あのね」と鈴江はすぐにいった。
「兄上が行っていられるのだよ。水戸様石置き場の空屋敷へね。ところで火事が起こったのだよ。その水戸様石置き場の空屋敷にね」
「ほほうさようでございますか。これは心配でございますなあ」
「でね」と鈴江はいいつづけた。
「ちょっとようすを見て来ておくれ」
「かしこまりましてござります」こういうと代地はあわただしそうに、玄関のほうへ小走って行ったが、まもなく潜り戸の開く音がした。
ますます大火になると見えて、空が赤味を加えて来て、擦半の音や鐘の音が、いらだたしそうに聞こえて来た。
鈴江は縁の上にたたずんだままで、いつまでも不安そうに眺めていると、その時玄関のほうから、あわただしく呼ぶ声が聞こえて来た。
「お嬢様お嬢様大変でござる! 水戸様石置き場の空屋敷を……」
みなまで聞かないで縁から離れて、鈴江は玄関まで走って行った。両国に屋敷を持っていて、毎日道場へ通って来る五十嵐駒雄という門弟が、大急ぎで走って来たからでもあろう、荒い呼吸をハッハッとつきながら、沓脱ぎの上に立っていたが鈴江の姿を眼に入れると、
「代官松の一味の輩が、先生に危害を加えようと、水戸様石置き場の空屋敷へ、只今焼き討ちをかけましたそうで。……」
「まあ」と鈴江は胸をそらせた。
「代官松めが……兄上に対して……でもどうしてあなたにおかれては?」
すると駒雄は手の甲をもって、額の汗を押しぬぐったが、「自宅に近うございますので、両国一帯の盛り場は──妙ないい方ではございますが、私の縄張りにございます。で、今宵もブラブラと水戸様石置き場の空屋敷を、……すると火事ではござりませぬか。はてなと注意をして見ていましたところ、『焼き打ちだ焼き打ちだ! 放火だ! 放火だ!』とそういう声がまず聞こえて、『代官松めが乾児をひきいて、はいり込んで来た!』という声々が──これはどうやらあそこの賭場にいた博徒どもが傷持つ自分の脛から、目ざとく目付けたところから、叫び出したものと存じますが、そういう声々がつづいて聞こえて……いえもうこれだけで結構なので、一散に走ってお嬢様へお知らせに参上いたしました。……で、今ごろは先生におかれましては……」
鈴江はその後を聞こうとはしないで、裾をひるがえすと居間のほうへ走った。が、すぐさま現われた。
「五十嵐様ご一緒においでくだされ!」
五十本の吹き針を右の手に握って左の手では褄を引き上げ、はきものもはかない足袋跣足で、こう駒雄へ声を掛けた時には、鈴江は門外へ走り出していた。
「常日頃から代官松が、兄上をはじめ私たちに、狙いをつけていたことは、私たちにもわかっていた。その代官松が乾児をひきいて、放火焼き討ちを企てながら、水戸様石置き場の空屋敷へ、はいり込んだというからには、五十嵐様のいわれたように、もうこれだけで結構だ、兄上に危害を加えようとして、出張って行ったに相違ない。うっちゃってはおけない! お助けに行こう!」──で、鈴江は走るのであった。火事とはいっても雉子町の往来は、火元とへだたっているがために、立ち騒ぐような人の群れもなく、時々門に出て眺める人や、屋根の上へのぼってようすを見る人が、まれまれにあるばかりであった。しかし火事には付きものの火事見物の弥次馬らしいものが、五人七人かたまって、走って行く姿は見てとれた、空は赤かったが地は蒼かった。
火事の遠照りと月の光とが、おのおのを色づけているからであろう。吹き針を握った右の手を、乳房のあたりへしっかりとあて、褄を取った左の手を下腹部へつけ、裾から洩れる友禅の襲衣を、白い脂肪づいた脛にからませ、走るにつれてぶつかる風に、鬢の毛を乱して背後へなびかせ、これもぶつかる風に流れる、振り袖を長くひらめかして、走って行く鈴江のようすというものは、美女であるだけに凄味があって、狂女を思わせるものがあった。で、まれまれではあったけれども、門に出ている人や道を歩いている人は、眼を見張って鈴江を見送った。雉子町の通りを両国をさして、東南に向かって走って行けば、吹矢町となり、番場町となり、神田川の河岸へ出る。渡って先へ走って行けば、代官町となり水谷町となり、鞘町となって佐久間町となる。
頸を抜けるほど衣紋から抜いて薄白く月光に浮き出させて、前こごみに体を傾けて、足のもどかしさに焦心りながらも、しかし武術のたしなみはある、決して口で呼吸をしないで、唇をかたく引き結び不安と殺気とで眼を輝かせ、そういう町通りを人目も恥じず、鈴江は走りに走って行ったが、「焼き討ちにかけられたその上に、大勢の者に襲われたでは、武道すぐれた兄上といえども、難儀をされないものでもない。もしもの事があろうものなら自分たちの企てた一大事も、水の泡になって消えてしまうし、父上のご意志も建てられない。自分たち一族にしてからが、みじめな身の上になってしまう……兄上! 兄上! 兄上! 兄上! ご無事でおいでくださいまし!」と、念じに念じているのであった。
そういう鈴江を守るようにして、鈴江とすれすれに肩を並べ、大小の鍔際をおさえながら五十嵐駒雄は走っていた。出来事が出来事であるがために、無駄な駄弁などを弄そうともしない。鈴江と一緒に走って行く。不意に鈴江は小次郎のことを思った。
「さっき方、家を出て行ったが小次郎はどこへ行ったものであろう? 町を歩いているうちに、火事の噂を聞いてくれたかしら? 聞いたならあの子も駈けつけるであろう。柔弱な弟ではあるけれども、こんな場合には駈けつけてくれて、助けになってもらいたいものだ、小次郎! 小次郎! 小次郎! 小次郎!」
懸命に走る! 懸命に走る! 吹矢町を走り抜け、本物町も走り抜けた。番場町も走り抜け、神田川の河岸へ出た。と、橋を渡り越して、なおも鈴江と駒雄とは、東南のほうへ走り下った。こうして佐久間町の二丁目まで来たが、その時鈴江は行く手にあたって、黒塗り蒔絵らしい一挺の駕籠を、四人の武士と四人の老女とが、警護をするように引きつつみ、若侍の死骸らしい物を、その中の二人の武士が釣って、粛々とこちらへ進んで来るのを見た。火事場へ駆けつけて兄を助けようと、息せいている場合ではあったけれども、行列があまりにも異様であって、妖気にさえも充ちていたので、「まあ」とばかりに声を上げて、鈴江は足を釘づけにした。と、なんということであろう? その行列は消えたではないか。いやいや実は消えたのではない、傍らに立っていたりっぱでもない、小門を持った二階屋へ、消えてしまったといってもよいほどに、倐忽とはいり込んでしまったのである。
「五十嵐様、あれは?」と息をのみながら、鈴江は駒雄へ顔を向けた。「さあ」と駒雄はいいはしたが、後へ継ぐべき言葉はなかった。
武士たちがいずれも頭巾をかむって、緑色の小袖を着ていたことと老女たちがこれも緑色をした、衣裳と被衣とを着けていたことが、鈴江の眼には残っていたが、二人の武士が前後に立って、若衆髷の武士の死骸らしい物の、肩と足とをささえ持って、真ん中にして歩いていた姿が、わけても眼の底に残っていた。「死骸? 死骸? 若衆武士の死骸!」──すると、鈴江にはその死骸に、見覚えがあるような気持ちがした。「誰だったろう? 誰だったろう?」──今にも記憶に浮かびそうであったが、浮かびそうで容易に浮かばなかった。「誰だったろう? 誰だったろう?」──と、この時駒雄の声が、追い立てるように聞こえて来た。
「火の手が盛んになりましたぞ! 鈴江殿お急ぎなさりませ」
「火の手? ……盛ん? ……あっそうだった! 兄上をお助けに行くのだった!」鈴江は気がついて空を見た。火元の両国へ近づいたためと、火事が大きくなったためとこの二つの原因からであろう、遠照りなどとはいわれないほどにも、両国のほうの空はいうまでもなく真上の空までカッと明るく、珊瑚を砕いて塗りつけたように見えた。
「さあ五十嵐様、急ぎましょうぞ!」
またも鈴江は褄を取り、足袋跣足の足で裾を蹴り、吹き針を握った右の手を、乳のあたりへしっかりと当てて、頸足をのばして前こごみにこごんで往来を一散に走り出した。が、鈴江と駒雄とが、こうして走って行ったならば、こちらへ歩いて来る二人の仇敵に──北条美作と桃ノ井兵馬とに、邂逅しなければならないだろう。
しかし鈴江も五十嵐駒雄も、そのようなこととは知らなかった。で、一散に走って行った。と、その時数個の人の姿が、儒者ふうの老人の籠っているはずの、例のいかめしい屋敷の蔭からスルスルと姿を現わしたが、
「おい」とその中の一人の男が、鈴江の後ろ姿を見送りながらいった。「紋也の妹の鈴江という娘だ。吹き針にかけては達者なものだ。もう一人の武士は五十嵐といって、紋也の門弟でも腕利きの男だ。揃ってあわただしく走って行くのは、火事が水戸様石置き場の空屋敷だということを聞いたので、紋也のことが心配になって、そこでようすを見に行くのだろう。腕利きだけにやっては不味い! そっと追っかけてしめてしまえ!」代官松の乾児の友吉であった。
「よかろう」と、後の数人がいったが、そういった時には足音を盗んで、友吉を先頭に走り出していた。
しかし鈴江も五十嵐駒雄も、そのようなこととは知らなかった。で、一散に走って行く。ところでこの頃美作と兵馬は、火事の光を背と肩とへ浴びて、佐久間町の入り口から鈴江たちのほうへ、変った足どりで歩いていた。美作は酔漢のそれかのように、現心もないように、依然として抜き身を下げたままで、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと歩いて来る。と、その後から不安そうに、兵馬が胸へ腕を組みながら、美作が左へよろめけば、自分もつれて左のほうへ歩き、美作が右へよろめけば、自分もつれて右のほうへ歩き、もしも倒れたら抱き起こそうものと、心構えをしてついて来た。
「美作様ほどの人物が、手を下すことさえできなかった、姫君姿の駕籠の中の女は、どのような素性の女性なのであろう?」これが兵馬には不可解であった。
「惜しいことをした惜しいことをした、すんでに敵の片割れの、小次郎を討つことができたのに、意外な邪魔が現われて、討ち損じた上にさらわれてしまった」──何ゆえあの女がああいう態度で、小次郎をさらって行ったのか、これも兵馬には不可解であった。ヒョロヒョロと左右へよろめきながら、美作は先へ進んで行く。つれて左右へ足を運びながら、兵馬が後をつけて行く。と、この時背後のほうから、二つの人の影が走って来たが、しだいに二人へ近づいて来た。「お屋敷は眼の先となりました。……ようやく危難をまぬがれました。もう大丈夫でござります。お苦しゅうともご辛抱なさりませ」
一つの人影がこういったが、若い女の声であった。
「大丈夫でござる、お案じなさるな。……が、少しばかり傷を負うてござる。……ちと苦しい。……いや大丈夫!」
一つの男の声が答えて、かえって女をいたわるようにしたが、事実は少なからず苦しいようであった。
と、この男女の二人の者が、美作と兵馬へ追い付いて、そうして駆け抜けて行こうとした時に、「紋也か!」と凄愴な声が響いて、「お粂も一緒か!」と次いで響いた。
「汝は兵馬か!」鏘然と太刀音!
二組の人数がガッと塊まり、サッと開いた瞬間において、砂塵がムーッと月夜に立った。月夜にムーッと立ち上がった砂塵は、時ならぬ煙りの壁と見てよかろう。半透明の煙りの壁をへだてて、紋也と兵馬とが向かい合い、美作とお粂とが向かい合っている。が、一呼吸をする隙もなかった、小次郎を討ち損じたばかりでなく、薄手さえ負わされて激怒している兵馬は、仇敵の的である紋也と逢って、激怒を二倍に高めたらしい。天道流での「軍捨利払い」だ! すくむがように肩をちぢめたが、中段に構えている紋也の刀を、自分の額へ受ける覚悟で、縮めた肩で躍りかかった。払い上げた刀の切っ先二寸が、相手の右腕へはいったが最後、腕を落として頤を払い、相手の顔を下から逆に、斜めに半分割りつけたであろう。が、またもや太刀の音がして、一所から砂塵が上がったが、二つの人影が入れ違った。兵馬の刀を右へおさえて、左足を飛ばすとさながら飛燕だ、紋也が前方へ飛んだのである、とその次の一髪の間に、紋也の右側に人があって、上段にかぶった刀のままで、スルスルと前方へ走るのが見えた。
「お逃げ! お粂殿! ……真っ向があぶない!」
スルスルと前方へ走って行く者が、美作であるということと美作の正面にお粂がいて、脇差しをあぶなさそうに青眼に付けて、立っているのとを突嗟に感じて、紋也がお粂へ注意をしたのであった。が、そう呼びかけた自分の言葉が、わずかにいい終えた直後において、紋也は頭上に刀気を感じ、自分の正面に一つの眼が、獣の眼のように燃えながら、迫っているのを眼に入れた。太刀音! 砂塵! からみ合った人影! ……しかし……別れて……二間をへだてた! ……山形をなした相青眼の、二本の刀が宙に浮かんで、砂塵の壁を刻んでいる。
「依然として凄いの! 凄い技倆だ!」兵馬の刀の切っ先を、二間のかなたに据えながら、兵馬の一眼を頭巾の奥の、繃帯の間にみつめながら、自分も青眼に構えをつけて紋也は思わざるを得なかった。
「さあこれからどうしたものだ、兵馬は敵の一人ではあるが、退治るにも及ばない小敵だ。このような人間を退治たところで、自分が久しく企てている、一大事を仕とげる足しにもならず、かえって障害になるくらいだ。……さわりたくないのだ、さわりたくないのだ」
──で、紋也の希望としては、この闘いを切り上げて、お粂の住んでいる例の屋敷へ、入り込んで休息したかった。が、すさまじい剣技を持った兵馬が、「やわかのがすものか」と、吸血鬼のような陰々たる殺気を、刀の切っ先にただよわせて一分を刻み二分を刻み、そろりそろりと刻み足で、真正面から迫って来ていた。紋也にもそれを引っぱずして、のがれ去ることはできなかった。その紋也はどうかというに、乱闘の際に幾箇所となく、薄手を受けているばかりでなく、全身ことごとく疲労していた。のがれ去ることができないばかりか、しだいしだいに、しだいしだいに、兵馬に圧迫されるのであった。
「屋敷は手近だ、駆け込みたいものだ! お粂殿と一緒に! お粂殿を助けて!」──そのお粂であるがどうしているであろう? 刹那、紋也はお粂のことを思った。と、そのとたんに太刀の音が、兵馬の立っている背後のほうの、数間のかなたから響いて来た。
と、そこにもつれ合っている、男女の人影が見られたが、美作とお粂とが切り合っているのであった。
太刀音はしたが男女の人影の、男のほうも女のほうも、どっちも倒れはしなかった。美作もお粂も切られなかったのであろう。
「いかにお粂が女丈夫でも、北条美作にはかなうべくもない。よくこれまで持ちこたえていたものだ」──紋也にとっては北条美作は、一面主義の大敵であり、一族の仇の元兇であったが、親友の左内の父でもあった。で、従来も美作については、十分に研究を届かせておき、風貌態度も調べておいた。で、今こうしてぶつかった時にも、すぐに美作だと知ったのであった。「よくこれまで持ちこたえていたものだ。しかしあぶない! もうあぶない!」──心をお粂へ運ばせたがために、気合がゆるんで隙ができた。なんの兵馬が見のがすことがあろうぞ。
風を起こして真っ向へ刀を下ろした。四度烈しい太刀音がしたが、紋也の疲労はいちじるしく、受けは受けたものの兵馬に押されて、タジタジと後へ引きさがった。「しめた!」という心持ちは、この時の兵馬の心持ちであろう。合わせていた刀を引っ払うと、瞬間に左脇へ流したが、返すとあの手と全く同じだ! 天道流での「軍捨利払い」だ! うんと上斜めに払い上げた。刀の切っ先二寸がところ、紋也の右腕へはいったが最後、腕を落として頤を払い、紋也の顔を下から逆に、斜めに半分割り付けたであろう。
運命? どうだ? 紋也の運命は?
いちじるしく疲労れてはいたものの、むざむざ討たれるような紋也ではなかった。かろうじて受けて身をかわしたが、ヒョロヒョロヒョロヒョロとまた後へ下がって、一軒の家の雨戸へもたれ、ハッハッハッと大息をついた。が、それとても間ともいえない、短い分秒の間であった。
「…………」無言ながらも掛け声よりも凄く、殺気に充ちた兵馬の刀が、咽喉を狙って突き出されて来た。
「…………」紋也になんの声が出よう、同じく無言で力も弱く、中段に構えていた刀を揮って、捲き落とす心組で横へ払ったが、合わさった刀の音とともに、一本の刀が宙へ飛び、数尺のかなたの地の上へ落ちた。兵馬の刀を捲き落とそうとして、かえって兵馬の剛刀にはねられ、紋也が刀を飛ばしたのである。紋也はハーッと息を呑んだが、窮して通ずるさっそくの気転で、必ず今度こそは討って取ると、大上段に刀を上げて、切り下ろそうとしてのしかかって来た兵馬の肩へガッとばかりに、自分の頭で頭突きをくれた。が、結果どうなったろう? 疲労をしている紋也の頭突きが、猛気に精一杯燃えている、兵馬にどうして感じようぞ! はね返されて地へ倒れて、地上に石があったと見える。後脳をしたたか打ち付けたが、そのまま意識を失ってしまった。
が、意識を失う際に、兵馬の刀が蒼光って、顔の上へ落ちて来ようとしたのと、妹の鈴江らしい「兄上!」という声が近くで聞こえ、つづいて「先生!」と呼んだらしい、男の声が同じほうから聞こえ同時に落ちかかって来た兵馬の刀が落ちかからずに横へそれて、「鈴江か! 南無三! ううむ吹き針!」こういう兵馬の声が聞こえ、「ご前ご前! お逃げなされ!」と、美作にでも呼びかけているらしい、これも兵馬らしい声が聞こえ、それに応じて美作らしい声で、「うむ走れ!」と答える声が──、つづいてお粂らしい女の声で、「すってやったぞ! すってやったぞ!」と嘲るような声がして、そうしてバタバタと走って行く音や、走って来る音が乱雑に聞こえ、ちょっとの間しずかになったかと思うと、ワーッという四、五人の人間の、閧の声らしいものが聞こえて来て、「友吉でございます! 友吉でございます!」とそういう声が聞こえて来たかと思うと、またもや大勢の足音が、こちらへ向かって走って来るようであったが、「やッ屋敷から人数が出た! 逃げろ! 身をかくせ! 捕えられないようにしろ!」と、誰ともなく呼ぶ声が聞こえて来た。──そこで紋也の意識は絶えた。
ずっと下火にはなったけれども、火事の光は空に薄赤く、地には月光が蒼澄んでいた。戦いの後の寂しさよ、佐久間町入り口の往来には、人の子一人いなかった。踏み荒らされた地面の土は、ところどころ穴をなしていて、血汐のにじんだような所もあった。片側町の家々では、太刀音や悲鳴や閧の声に、怯やかされたか、雨戸をあけて外を見ようとする者さえなかった。と、その時静寂を破って、謡う声が横丁から聞こえて来た。
〽柳の下のお稚子様は、朝日に向こうてお色が黒い……
〽お色が黒くば笠を召せ、笠も笠、いつきようとがり笠、おそり笠、じょに吹く笛がふもとにきこゆる……
謡いつづけて横丁の口から、佐久間町の通りへ現われて来たのは、お狂言師の泉嘉門であった。不平を酒でまぎらわしはじめたのは、久しい前からのことであったが、このごろではいっそう烈しくなって、家で連日飲むばかりでなく、外へ出ては暴飲をし、往来へ倒れては夜を明かし、居酒屋で眠っては帰宅しようともしない。今日も朝から酒を飲んで、昼ごろになって家を出て、どこでこれほどにも飲んだのであろうか、足もとが定まらないというよりも、身体全体が定まらないように、手で空を泳ぐような格好をしたり、肩で家々の小門や柱へ、痣のできるほどぶつかったりして蹣跚飄々として歩いて来た。
いかに窶れたことであろう! 高い鼻は尖って棘のようになり顳顬は槌で叩かれたかのように、痩せてくぼんでへっこんで、広がった額が狭まって見える。月の光がみなぎっているので、空へ向かって顔を仰向けた時には、細まった頬やずっこけた頤が、際立って蒼白く眺められたが、落ちくぼんだ眼窩がその代わりに、髑髏のそれのように黒く見えた。ひえびえと寒い秋の夜だのに酔いのために身体が熱いのか、襟をはだけて肋骨の見える、胸を腹まで現わしている。左の脚が膝の上まで、裾から捲くれて見えているのは、裾を端折っているからであろう。
〽おおさては推した。裏に来いとの笛の音、裏道来いとの笛の音……
うたいながら先へ歩いて行く。やがて佐久間町の三丁目へ来た。儒者ふうの老人の籠っているはずの、いかめしい屋敷の門の前まで来たが、屋敷に籠っている人たちにも、またこの屋敷そのものにも、嘉門は全然無関係であった。で、先へ進んで行った。
〽柳の下のお稚子さまは……
うたいながら先へ進んで行く。
水戸様石置き場の空屋敷を、今はことごとく燃やしつくしたのでもあろうか、空を染めていた火事の紅色は、この時おおかた褪めてしまって、夜がふけたので冴え冴えしさを加えた、月光ばかりが空にみなぎり、家々の甍の屋根を白め、往来の片側を流れている神田川の水に銀箔を踊らせ、往来を霜のように色づけていた。と、その往来の上に縮んだり延びたり、大きくなったり小さくなったりする、異様な黒い形があって、嘉門を追いながらついて行ったが、なんでもない嘉門の影法師なのであった。その影法師の一所から、細っこい枯れたような枝が出た。
嘉門が月でも捉えようとするのか、空へ向かって手を上げたのである。と、影法師が地上から、全然形を消してしまった。疲労たのか酔って苦しいのか、嘉門が地上へうずくまったからである。と、にわかに影法師が、地上へ現われて動き出した。しかも元気よく延び縮みする。嘉門が元気よく歩き出したからで、どことなくようすが浮き浮きとしている。と、嘉門はうたい出した。
「太郎冠者、おじゃるかや」「は、おん前に」「何がな面白いことはないか」「権門衆のおやりになることは、ことごとく面白うおじゃります」「たとえばどんな面白いことがある」「私利私欲にふけりながら、お国のためじゃと申しております」「いかさまこれは面白い」「公平公平と申すことによって、不公平ばかりをいたします」「いかさまこれは面白い」「何をやっても一方の人は当たり、何をやっても一方の人ははずれる、肥って行く人と痩せて行く人と、ハッキリ分かれおりまする」「これはどうも面白くないが」「にもかかわらず肥って行く人は、泰平な浮世じゃと申しております」「なるほどこれは面白い。が、お前のいっていることは、誰も彼も知っていることばかりじゃ。あえて珍しいことでもない。珍しいことがどこかにないか?」「珍しい人間ならおじゃります」「聞きたいものじゃ、なんという男じゃ」「お狂言師の泉嘉門という、穢らしい老人におじゃります」「聞いたような名だがどこが珍しい」──「〽泉嘉門の珍しさは、なんにたとえん唐衣、錦の心を持ちながらも、襤褸に劣る身ぞと、人目に見ゆる情けなや、ころは神無月の夜なりしが、酒をとうべてヒョロヒョロと……」でたらめの謡をうたいながら、佐久間町二丁目まで彷徨って来た。と、女の声であったが、子守唄をうたう声が聞こえて来た。
〽あの山越えて行く時は、里の土産に何持たむ。……
佐久間町の二丁目と三丁目との境いは、儒者ふうの老人の籠っている例の宏大な屋敷であって、その屋敷から東南の方が、佐久間町の三丁目となっていて、それと反対の西北のほうが、佐久間町の二丁目となっていた。で、怪しい四軒の空家は、二丁目のほうに属しているのであった。あの山越えて行く時は里の土産に何持たむ……と、今しもこういう子守唄の声が、女の声で細々と聞こえて来たが、それは四軒の怪しい空家の、西北のはずれの一軒から、さらに西北へ数軒離れた横町へ通ずる狭い横丁の、一所から聞こえて来るのであった。その横丁は狭い上に家並みが不揃いで凸凹があった。で、あまねく照らしている月の光もこの横丁へは、あまねく落ちては来なかった。が、あたかも水たまりかのように、道の上へ蒼白い一たまりほどの、水のようなものがたまっていたが凹んでいる家の屋根の上にある月がそこへだけ光をこぼしてそこだけを明るめているのであった。
と、その一つの月の光の圏へ一人の女が現われた。痩せ細った身体、痩せ細った顔、髪は乱れて肩へかかり、裾は崩れて脛を現わし、見る影もなく窶れている。しかも背中へは子供を背負って、枝のように細い両手をまわし、子供の尻の辺を抱きかかえ、自然と前へこごんでいる胸から、夜目にも蒼い乳房を出し、酒に酔ってでもいるかのように、足もとさだまらず歩いて来る。と、無心に空を仰いだ、落ちくぼんだ眼窩の底に沈んで、正気の人間の眼とは見えない、異様に鋭く、異様に痴呆的の狂人じみた眼が光っていたが、その二つの眼を縦断して険しい高い鼻があり、その下に前歯を食いしめて、唇ばかりをポッカリとあけた小さな口がついていた。
で、もしこの女が貧しくなくて、正気で肥えていて着飾っていたなら、十分に美人として通りそうであった。かさ張った物でも入れているのであろう、両方の袂がふくれていてダラリと下へ下がっていて、歩くごとに股のあたりで揺れ動いた。虐待と貧しさとに発狂をした、可哀そうな若妻とは一眼でわかった。が、それにしても母の肩の上へ、これも痩せこけた頤をのせて、眠りにはいっている二歳ばかりの、男の子の可憐さというものは! 栄養が不足しているからでもあろう、首は抜けそうに痩せているし母親の肩でおさえつけられている、頬などにも肉はついていなかった。が、その面立は母親に似ていて、美しい輪郭を持っていた。片手を無心に上へのばして母親の肩の上へ掛けていたが、月光に磁器のように白く脆く見えた。母親がおぼつかなく歩くにつれて、子供の顔は母の肩の上で、ガクリガクリと動揺した。それでも眼ざめようとしないのは泣き疲れて眠りにはいったからであろう。と、眼の下の頬の上に何やら水のように濡れているものが、今、母親がフラリフラリと歩き、そのため子供の顔が揺れて、ちょっとばかり空のほうへ向いた時に、月の光で照らし出された。子供の流した涙らしい。
と、子を背負った女の姿が、闇に呑まれて見えなくなった。月光のたまりからそれたからである。が、まもなく狭い横丁の、闇に埋められている暗い中から、子守唄の声が流れて来た。
〽あの山越えて行く時は、里の土産に何持たむ。……
すぐに女の声が聞こえた。
「坊や、お眠り、よい子だねえ。……竹太郎はよい子でございます、泣きもむずかりもいたしませぬ。鉦に太鼓に笙の笛、赤い鼻緒の下駄持たむ……」
──と、子を背負った女の姿が月の光に照らし出された。凹んでいる家がそこにあって、そこだけの空地へ空の月が、光をこぼしているがために、できている月光のたまりの圏内へ、女がはいって行ったからであった。負われている子のぼんのくぼが、妙に痛々しく蒼白く見え、裾からはみ出されている女のふくら脛が蛇の腹のようにヌラヌラして見えた。
「お父様を探しに行きましょうねえ。そうしてお渡しいたしましょうねえ。あのお方があのようにもほしがるのだから……。坊や、お笑い、竹太郎や」
しかしまもなく女の姿は、ふたたび闇に呑まれてしまって、横丁から佐久間町の通りへ出られる、出口の辺で唄う声が聞こえた。あの山越えて行く時は……と、その声の絶えた時に、誰かに向かって話しかけるような、同じ女の話し声が佐久間町の通りから聞こえて来た。
「お爺様、ご存知ではござりませぬか? 妾の大事な竹之助様の行方を?」
すると老人の声が聞こえた。
「竹之助様? 存じませぬなあ」
「可愛いお方なのでございますよ」また女の声がいった。
「可愛いお方でございますかな」答えて老人の声がいった。
「それはそれは結構なことで」
「妾の良人なのでございます」
「ああさようで。お前様の良人で。で、可愛いお方なので」
「妾を大変可愛がってくれます」
「ご夫婦仲がよろしいそうな」
「ピシャピシャ叩くのでございますよ」
「叩く? ほう! 何を叩くので?」
「顔や手足を叩きますので」
「どなた様がどなた様を叩きますので」
「竹之助様が叩くのでございますよ。はい妾を! 君江さんを!」
「ああお前様は君江さんというので」
「はいはいさようでございます……で娘なのでございます」
「娘? ほう、どなた様の娘で」
「武左衛門の娘なのでございますよ」
「武左衛門? どうもな存じませんて」
「りっぱなお方でございました」
「あッ、これはごもっともさまで。お前様には孝行と見えますなあ。お父様を大変褒めていられる」
「玄蕃様の一族なのでございます」
「さあ、また一人わからないお方ができた。玄蕃様? 玄蕃様? さあわからないぞ」
「でも殺されてしまいました」
「やれやれ玄蕃様はお気の毒な」
「お父様なのでございますよ」
「…………」
「小柄が落ちておりました」
「…………」
「臨終にお父様がおっしゃいました。『渡すな! 文書を! 頼んだぞよ!』と」
「…………」
「文書は二通でございます」
「…………」
「一本は巻き奉書でございます。お父様の懐中にございました」
「…………」
「一通は綴じ紙でございます。ずっと前からお父様が、こっそり妾にお預けなされて、このようにおっしゃってでございます。『老人の俺だからいつ死ぬかもしれない。敵のある身だからいつ殺されるかもしれない。で、お前に預けておく。誰にも決して渡してはいけない。竹内式部様の一味のほかには』……でも、竹之助様はおっしゃいます。『持っているだろうから渡せ渡せ!』って。……で、叩くのでございます。……ピチャ、ピチャ、ピチャ! ──ピチャ、ピチャ、ピチャ!」突然老人の笑い声が起こった。
「何がなんだかわからない。ワッワッ! ワッハッハッ! ……どうやらお前様は気が狂っているようだ」すると女の声が聞こえた。
「気など狂ってはおりませぬ。こんなに幸福なのでございますもの。でも妾は申し上げます、お酒には酔っておりますようで。……お爺様も酔ってでございますな」すると老人の声が聞こえた。
「俺が酔っている? 何をいうことやら! 俺はな発狂しているのだよ! ……虐める奴があるのでな」
「妾はお酒に酔っております」女の声はなおつづいた。「お爺様お願いいたします。二品をお渡しくださいまし」
「二品? 何かな? 二品というのは?」
「巻き奉書と綴じ紙とでございますよ」
「で、どなたに渡しますので?」
「竹之助様へでございますよ」
「ああお前様の可愛いご良人に?」
「でも近来は寄り付きませぬ」
「なるほど、お家へ寄り付かないので」
「お爺様お探ししてくださいまし」
「どうもな、それは、ちとむずかしい」
「探してお渡ししてくださいまし」
「どうもな、それは、ちとむずかしい。俺は竹之助様を存じませんのでな」
「竹之助様は美男でございます」
「まことに有難う存じます」
「でも片眼なのでございます」
「片眼? はてな? それで美男で?」
「今年の夏頃に潰されました」
「それじゃ兵馬という武士に似ている──桃ノ井兵馬とはおっしゃいませぬかな?」
しかし女の声は否定した。
「いいえいいえ妾の良人は、南条竹之助様といいまして、そのような桃ノ井兵馬などという、いやらしい名前ではございません」
「さようかな、それはそれは」老人の声はいぶかしそうであった。「が、片眼をつぶされたといえば」
「いいえいいえそれに妾の良人は、禁裡様方のお味方で、忠義なお方なのでございます」
「ははさようで、では人違いだ。兵馬と申すお武士は、幕府の犬でございますからな」
「それを好んでお父様が、夫婦にしたのでございます」
「よいお心掛けでございますよ。そうでなければなりませぬ」
「でも離縁してしまいました」
「離縁? はてな、変なことで。どういう理由からでございましょう?」
「偽り者だ! 贋者だ! 憎い敵方の一味だと申して!」
「とするとやっぱり幕府方の犬かな」しかし老人の言葉に対して、女の声は答えなかった。全くあらぬことをいい出した。
「敵を討ってくださりませ!」これには老人も驚いたようであった。
「敵を? が、どなた様の敵を?」
「何者かに殺されましたお父様の敵を」
「これはどうも迷惑千万!」老人の声はあわてていた。「俺はな、泉嘉門と申してお狂言師なのでございますよ。で、武芸などはできませぬ。でな、お許しを願いたいもので」
「申しているのでございます。お願いしているのでございます」
「金輪際ご辞退を申します」
「すると竹之助様が申されました」
「…………」
「秘密の文書を手渡したら、喜んで敵を討ってやろうと」
「アッハッハッ、なんのことだ」老人の声はノンビリとした。「俺にお頼みしているのではないので」
「で、お爺様、渡してくだされ」
「さあ、また渡せが始まったが、これもご辞退いたしますよ。私、竹之助様を存じませんでな」
「ここにあるのでございますよ」女は何かを取り出したようであった。「両袖へ入れて参りました。巻き奉書と綴じ紙とを」
「ちとな、どうもな、これは乱暴! そう手を引っ張ってはいけませぬ! 無理に握らせてはいけませぬ!」さも困ったというような老人の声が聞こえて来た。「あッとうとう押し付けてしまった」
と、女の声がした。
「よいお月夜でございますねえ」
「…………」
「川で水鳥が羽搏いております」
「…………」
「お爺様、お遊びにおいでくだされ」
「…………」
「妾と竹之助様とのささやかな住居は、根岸にあるのでございますよ」
しかし老人の答える声は、応とも否とも聞こえなかった。巻き奉書と綴じ紙とを、無理に女に預けられて当惑をしているからでもあろう。
と、女の声がした。
「竹太郎は可愛らしゅうございますねえ」
「やれやれ」といよいよ当惑したらしい、老人の声が聞こえて来た。
「またわからない人が一人できた。竹太郎様とはどなた様なので?」
「坊やはおねんねでございます」
「ははは背負っていらっしゃる坊ちゃんなので」
「ピチャ、ピチャ、ピチャ! ──ピチャ、ピチャ、ピチャ! 坊やを叩くのでございます」
「それはよろしくございませんなあ。お前様、お叩きなさらぬがよい」
「竹之助様がいとしがって、ピチャ、ピチャ、ピチャ! ──ピチャ、ピチャ、ピチャ! 坊やを叩くのでございます」
「どうもな、お前様、俺にはわからぬ」老人の声が興醒めたようにいった。「お前様をピチャピチャお叩きになり、坊ちゃんをピチャピチャお叩きになる。それで可愛がりいとしがるという。とんと、俺にはわかりませぬなあ。いやいや反対でございましょう。竹之助様というお武家様は、邪慳なお方なのでございましょう」
「ねえ。お爺様お聞きくだされ、二日も三日も竹之助様は、食べさせないのでございますよ。ええええご飯を、坊やや妾へ」
「…………」
「それでいて今年の初夏のころから、竹之助様はご仕官なされて、ご裕福なのでございますよ」
老人の声は聞こえなかった。返辞をしないでいるのであろう。で、佐久間町の夜の通りには、なんの物音も聞こえないで、いかにも秋の深夜らしく、ひっそりとして寂しかった。が、ややあって女の声がした。
「どこへご仕官なさいましたのやら、明してくださいませんので、妾は心細うございますけれど、でも心強うございます。浪人ぐらしのころから見ますと、竹之助様にはおりっぱになられて、大小から衣裳からお持ち物まで、きらびやかにおなりなされたのですから。……でも、妾と坊やとには、なんのかかわりもござりませぬ。……いえいえかえって悪くなりました。……『出て行け!』などと申しますし『見るもいやだ』などと申しますし『敵同士だ』などと申しますし『渡せ渡せ文書を渡せ!』と、以前よりも執拗申しますし、それにちっとも寄り付きませぬ。家へ帰ってまいりませぬ……お爺様なぜでございましょう。……」
しかし返辞は聞こえなかった。老人は黙っているのであろう。
と、また女の声が聞こえた。
「竹太郎が可哀そうでございます。妾にお乳が出ませぬゆえ、お乳を飲むことができませぬ。で、泣くのでございますよ。妾も竹太郎も声を合わせて。……」なお老人は黙っているらしい。返辞が聞こえて来なかった。
と、突然に歌の声が聞こえた。
〽鉦に太鼓に笙の笛、赤い鼻緒の下駄持たむ。……
「坊や、行こうねえ、お父様を探しに」
〽あの山越えて行く時は……
「さようならよ、お爺様」
〽里の土産に何持たむ……
「お爺様、お願いいたしました二品をお渡しくださいまし、あのご親切な竹之助様へ! ……おや、水鳥が羽搏いたよ! 水がお月様へ笑いかけているよ。……坊や、お眠り、よい子の坊や。……萩の花は少し凋れましたが、まだ美しゅうございます。お遊びにおいでくださいまし。……吉田玄蕃様の一族で、筋目正しいお父様も、根岸に近い藪畳で、初夏の雨の降る寂しい晩に、人手にかかって殺されました。せっかく妾がお傘を持って、お迎えに道までまいりましたのに。……傘からは雨が洩りましたよ。遠くで町の灯が見えていました。……小柄が落ちてはおりましたが、竹之助様の小柄でした」どうやら女は歩き出したらしい、声がしだいに離れて行く。
「妾を忘れないでくださいまし」女の声が離れた所から聞こえた。「よいお爺様でございました。……袂が軽くなりました。二品をお渡ししたからです。心が軽くなりました。二品を竹之助様が受けとられましたら、坊やや妾を可愛がりましょう。そう思うと心が軽くなります」
声がだんだん遠のいて行く。
「おや、貸家札が張ってあるよ。四軒揃って空家だそうな。幸福にお暮らしなさりませ! 空家に住んでおられる方へ!」
さらに声が遠ざかった。
「おや、りっぱなお屋敷があるよ。庭木がこんもりと繁っているねえ。幸福にお暮らしなさりませ! お屋敷へ住んでおられる方へ!」
その時老人の声が聞こえた。
「いったいここはどこなんだ!」すっかり酔いのまわり切った、ろれつのまわらない濁声であった。
「誰かと話をしたはずだが、誰と話をしたのやら」
老人も少しずつ歩き出したらしい。声が少しずつ移って行く。
「酔っぱらいの若い女とだった。……が、どんなことを話したやら。……」
少しずつ歩いて行くらしい。声がしだいに移って行く。
「なんだこいつは? 巻き奉書だ! ……おや、こんな綴じ紙がある! ……どこでどうして手に入れたのかな?」しだいに声が遠のいて行く。
「誰かに何かを渡してくれと、誰かに頼まれたはずだったが、誰が誰なのか誰が知るものか」
ここは佐久間町の往来で、月が明るく照らしている。泉嘉門はよろめきながら、往来を西北のほうへ歩いて行く。
と、子守唄の声が聞こえた。
「おや」と嘉門はつぶやいたが、ゆるゆると背後を振り返って見た。夜がふけて月が傾いたからか、落ちていた往来の片側の、家並みの蔭がなくなっていて、往来はことごとく霜の降ったように、白く幅広く縦の帯をなして月光を浴びて延びていた。と、その往来を一個の人影があやつり人形を想わせるように、たよりなげに先へ進んでいた。子供を背負った女であった。
〽あの山越えて行く時は……
無心といえば無心であり、憐れといえば憐れであり、愚かしいといえば愚かしいともいえる、しみ入るような子守唄は、その女がうたっているらしかった。女の歩いて行くあたりから嘉門に届いて来たのであるから。
「ああそうだったあの女子だった」と転ばないように両足を踏ん張り、両膝へ両手をいかめしく突き、突いた手の甲と差し出した顔の、頤ばかりを薄白く月の光に照らさせ、見送っていた嘉門はこうつぶやいたが、「君江様とこういったっけ。なんでもご亭主は竹之助様だった。その君江様とお話をして、その竹之助様へ手渡すようにと、この巻き奉書と綴じ紙とを、無理往生に預けられたのだっけ。……と、ここまでは思い出したが、さあその後がわからなくなったぞ……ええと竹之助様! 竹之助様! ……ええ竹之助様! 竹之助様! ……と、こう繰り返していったところで、おいよと竹之助様が返辞をして、立ち現われるものでもなし。さりとてまるッきり宛がないのに日本の国中を探しもならず。……これは困ったことになったぞ」
酔いはなかなか醒めないばかりか、かえって深まさって行くとみえて、巻き奉書と綴じ紙を、ねじ込んだがために膨れ上がっている、懐中のあたりをブルブルブルと、蒟蒻のように顫わせている。とにわかにヒョロヒョロヒョロヒョロと、嘉門は二、三歩前へ出た。
「君江殿あぶない、そこは川じゃ!」──で、両手を突き出したがそれでささえようとしたのでもあろう。
なるほど、これはあぶなかった。人影──すなわち君江なのであるが、神田川が家並みと反対の側に、たっぷりと水をたたえた姿で、月光を浮かべて流れているのに、狂った心から気が付かなかったのだろう、落ち込もうとして寄って行ったのであるから。がようやく気が付いたらしいので、岸で辛うじて踏みとどまって、今度は川とは反対のほうへ、フラリフラリと歩いて行った。
「まずよかった、命びろいをなされた」安堵をしたというように、嘉門はまたも両足を踏んばり、膝の上へ両手をいかめしく突いた。が、それとても一瞬間で、またもやヒョロヒョロと飛び出して行った。「あぶない! 君江殿! そこは石垣じゃ!」
いかさまこれもあぶなかった。家並みの一所に石の垣が、少しく往来へ突き出して、荒々しく築かれて延びていたが、それへ君江が背負った子の、竹太郎の頭を打ち付けようばかりに、フラフラとよろめいて行ったのであるから。が、もう一足というところで、どうやら心付いたと見えて、足を踏みたえて姿勢を直し、それから先へ歩き出した。
「まずよかった、これで安心」──で、嘉門は吐息をしたが、「打ち付けたら最後坊やの頭は、石榴のように割れたところさ」──でしばらく見送った。しかしどうにも君江の姿が、嘉門には不安にもあぶなっかしくも、また憐れにも見えたようであった。
「それにさ、こんな厄介な預り物を持っていたでは、俺といえども迷惑じゃ。追い付いて返してあげたほうがいい」──で、嘉門は小走りながら、「巻き奉書と綴じ紙! 君江様お返し致しますぞ!」と、酔った濁声を張り上げた。しかし君江には聞き取れないと見えて、先へ先へと歩いて行く。
と、不意に消えてしまった。
「ヤッ」と嘉門は胆を潰したように、こういって小走る足を止めたが、止めた拍子によろめいて、一方の側へヒョロヒョロと寄った。とその嘉門を背後から、グッとささえるものがあった。
「誰じゃい! 邪魔な!」と怒り声を上げて、嘉門は邪見に振り返ったが、振り返った嘉門を見下ろしていたのは、男でもなければ女でもなく、儒者ふうの老人の籠っている宏大な屋敷の大門であった。
「門かよ……」と嘉門は確かにてれて鼻白んだ声で怒鳴ったが、ますます酔いは深まったと見える。もはや君江を追って行こうともせずに門へ背中をあてたままで抱き膝をしてかがみ込んだ。
「それにしても君江さまはどうしたものか?」
そう思った嘉門を笑うかのように、横町らしいところから……里の土産に何もろた……
子守唄の声が聞こえて来た。
「不意に消えたと思ったのにそれでは横町へまがったのか」いよいよ嘉門は鼻白んだらしい、自分を嘲笑けるようにつぶやいたが、「どうでも返さなければいけないのだがナア……といって追っかけるには疲れすぎた……厄介なのは巻き奉書さ……迷惑なのは綴じ紙さ……眠い……と」しかし嘉門はいった、「眠い──とはいえ返さなければならない」
「鉦に太鼓に……笙の笛」君江の唄う子守唄がまた遠々しく聞こえて来たが、まもなく消え、聞こえなくなった、遠くへ行ってしまったからであろう。でこの境地はひっそりとなって神田川の水音と水鳥でもあろうその川の中で羽搏く音が眠い嘉門の眼を誘うてさらさらと聞こえ、はたはたと響いた、大門の鋲が光っていてその下に膝を抱いてうずくまって、顔を膝頭におしあてて眠りにはいっている、嘉門の全身も明るすぎるほどに明るんで見えた。なんのさえぎるものもなく月が差し込んでいるからであった。
風がひとしきり吹き渡った、と、その風に誘われて空のほうから月光を縫って、無数に落ちて来る細いものがあった。広大な屋敷の土塀の裏に生い繁っている樹々の葉のうち、秋の季節にしおれた葉がもろくも散って来たのであった、嘉門の頸へも散りかかり背へも散りかかり嘉門の肩へも散りかかった。そして嘉門のうずくまっているその正面の往来へも散り落ちて小黒い点をこしらえた。と、その点が動き出した、落ち葉が風にあおられたからであろうが、それとても、ひとしきりでたまった落ち葉が静まった、風が吹き止んだからであろう、しかし再び落ち葉が動いて一身に体を躍り上がらせ、一めぐりぐるぐるとめぐったのは旋風が吹いて来たからであろう、と渦まいた落ち葉であったか、嘉門の顔へ襲いかかった、風がそのほうへ吹いたからであろう、にわかに嘉門は顔を上げたが、
「寒い!」とつぶやくと膝を抱いたまま両方の手をふところへ入れた。
「なんだ?」嘉門はまたもつぶやいた。同時にふところから手を抜いたが、白いものが両手にもたれていた。「巻き奉書と綴じ紙だなア」──で無心に膝の前の地面の上へ二品を置いて嘉門はボンヤリと眺めやった。がしばらく間をおいてから右手を伸ばすと巻き奉書をとりあげ一種の好奇心にかられたからでもあろうさらさらと一方へ開いて見た。人の名がごじゃごじゃと書いてある、その下へ赤いものがついている──面白くもないようにつぶやいたがそのままポイと投り出して、右手をのばすと地に置いてある綴じ紙を取り上げてめくり出した、「いろいろな図面が描いてあるがこれには用はない」──でまたポイと投り出したが、いまだに酔いが醒めないと見えて再度両手で膝を抱き膝頭の上に顔をあて、すぐにうとうとと眠りにはいった。
で地上には落ち葉のほかはあけられたままの綴じ紙とほぐされたままの巻き奉書が月の光で巨大な蛾の死骸かのように白々と光を浴びてすてられてあった。時々二品がふるえるのは依然として風が吹くからであろう。
何事も知らない泉嘉門はただにいつまでも眠っている。
がまことにこの出来事は重大きわまる出来事であると断言しなければならないだろう。
巻き奉書は徳大寺家が公卿侍青地清左衛門の手から「あのお方」の手に渡すように命じて江戸へ上したもので非常に大切な、かつ危険な意味深い品物といわなければならない。
しかも箱根の山中で矢柄源兵衛という武士によって、──京都所司代の番士であっていまは北条美作の手に養われている武士であったが──その武士によって奪われた上に美作の手にはいった品で、これにつき美作は桃ノ井兵馬へ今宵次のようにいったはずである。
「巻き奉書の内容には『人間の数』が記されてある。いやいやそれ以上に大切なものが血によって記されてあるのだよ。よいか血汐で! それも無数に!」──では、あるいは巻き奉書は、徳大寺家を盟主とした倒幕の志士の連判状かもしれない。ところで美作は同じく今宵、綴じ紙についてもいっている。「秘密文書の内容には、金子のあり場所が記されてある」と。では、宝暦尊王事件──竹内式部が大義を企てたその時の軍資金というようなものの、あり場所が記されてあるものと、解釈をしてもよいかもしれない。なお美作は二品について「──で、この二品を手に入れたならば、京師方の『一味』と『動力』とを、根こそぎ苅り取ることができる」とこういうこともいっている。
で、この二品は幕府方にとっては、きわめて重大なものであり、ぜひとも手中に入れなければ、安心のできない品であるとともに、京師方にとっても重大なもので、やはりぜひとも手に入れなければ、安心のできない品なのであった。
しかるに一品の巻き奉書のほうは、いったん美作の手へははいったが、お粂と金兵衛とにすり取られた。がその次の瞬間には、武左衛門の手へはいってしまい、またその次の機会には──武左衛門が惨殺された結果、娘の君江の手にはいり、最後に嘉門の手にはいり、今や往来に投げ出されている。
他の一品の秘密文書のほうは──紙に綴られているところから、綴じ紙といってもよいだろう──久しい前から武左衛門が、深く蔵して世に現わさず、娘の君江に預けておいた。ところがそれも嘉門の手にはいり同じく往来に投げ出されている。
で、何者であろうとも、取ろうと思えばこの二品を、今はすぐにも取ることができる。
北条美作と桃ノ井兵馬とが、この二品を手に入れようと、苦心しているのは事実であり、またお粂と金兵衛とが綴じ紙のほうはともかくとして、巻き奉書を手に入れようとして探しているのも事実であった。
で、敵味方四人のうち、誰かがここへ来合わせたならば、易々として二品を手に入れることができよう。
ところで今宵煙術師のお粂は、気を失った紋也を助けて、紋也の妹の鈴江ともども、今嘉門がうずくまっている宏大な屋敷へはいったはずである。でもしお粂が何かの機会で一足門外へ出たならば、二品を手中に入れることができよう。
いやいやお粂一人だけではない──京師方の人であるお粂や金兵衛をかくまっている屋敷であるからには、例の儒者ふうの老人をはじめ、屋敷にいるほどの人々は、京師方の人々と見てよかろう。だからそれらの人々の誰かが、何かの機会で門外へ出て、この二品を見たならば、即座に手中に入れることができる。
これに反して美作や兵馬が、さっきの乱闘で、一旦は逃げても、屋敷のようすをうかがおうとして、ここらあたりへ立ち現われ、もしも二品を眼に入れたならば、手もなく奪って行くことができる。しかし屋敷からは人も出ず、誰もが来かかろうとはしなかった。
屋敷の門にうずくまって、眠っている嘉門の正面の、月光に明るい往来の上に、その月光を白々と受けて、微風に顫えながら巻き奉書と、綴じ紙とが置かれてある。
一番鶏の啼き声がして、夜の深さを教えたが、まもなく啼きやんでひっそりとした。
と、その時一個の人影が、佐久間町の入り口の方角から、こなたをめざして歩いて来た。酒にでも酔っているのであろうか? それとも怪我でもしているのであろうか? 右へよろめき左へよろめき、立ち止まったり小走ったりして、さもたよりなげに歩いて来る。女ではなくて男であった。杖でも持っているのであろうか棒のようなものを地に突いて、それにすがって休むこともあった。が時々杖が光った。杖ではなくて抜き身らしい。
と屋敷の前へまで来た。で、その男は潜りへ行き、潜りの戸を打とうとして手を上げた。
しかしそのとき気が付いたらしい、嘉門の前へ眼をやった。その眼が二品へ移った時、男はそろそろ寄って行った。
男は金ちゃんの金兵衛であった。
水戸様石置き場の空屋敷で、代官松の一味の者に襲われて金兵衛は苦闘をした。意外な助けが現われたので、ようやく一方の血路を開いて、危険な境内からのがれたものの、すぐに屋敷へは帰れなかった。棍棒で幾所か叩かれたり、倒された時に幾所か打ったり、重傷や深傷はなかったが、しかし無数に傷を受けて、歩行が自由にできなかったからで、で、あちこちで身体を休めたり、井戸水などを飲んだりした。
その上金兵衛はお粂に対しては、この上もなく忠実だった。はたしてお粂が危険な境内から、のがれ出ることができたかどうかとどうにも心配であったので、一旦かなり遠のきながらも、引っ返して石置き場へ行って見もした。お粂ものがれたようすだったのに、安心をして引き上げたが、衣裳はズタズタに裂けているし、手足からは血汐が流れているし、乱れた髪は顔へかかっているし、それに途中の用心として、脇差しは持って行かなければならない、その脇差しは血に塗られている──、金兵衛の姿は物凄かった。で、大通りなどを通ったならば、人に咎められる恐れがあり、咎められては危険であった。で、あちこちとまわり道をして、露路や横丁をくぐり抜けて意外に時を費して、今ようやくこの屋敷の前へ、たどりつくことができたのであった。
見れば一人の老人が、門の裾のあたりにうずくまって、抱き膝をして眠っている。「酒にでも酔っているらしい。それにしても道端で眠るとは、のん気至極の老人ではある」こう思って金兵衛はおかしかったが、その老人の眠っている前の、往来の上に白々と月の光に照らされている、巻いた紙と綴った紙が、風にあおられて置かれてあるのを見るや、疑念を起こさざるを得なかった。「なんだろう?」と口の中でつぶやいたが、老人の正面へ歩いて行って、老人との間へ二品をはさんで、金兵衛はそっとかがみ込んだ。巻き奉書の一部分が解けていて面を月が明るめていた。と、金兵衛の眼に付いたのは「徳大寺公城」という署名であり、その下におされた血判であった。
「…………」
金兵衛の胸は動悸をうった。
「こりゃア例の巻き奉書だ!」ムズと金兵衛は巻き奉書を握った。「目付けた目付けた巻き奉書を目付けた!」──否、口に出していったのではない、口の中で歓喜して叫んだまでであった。で、ヌッと立ち上がって、潜りのほうへ走ろうとした。が、金兵衛はもう一品の、綴じ紙に心を引きつけられ、そろそろと立ち帰ったが、またも老人の前へかがんで、綴じ紙の頁をめくって見た。いくつかの図面を幾枚かの紙に、順序を追って描かれてあり、最後の頁に「竹内式部、可蔵者也」と記されてあった。
「…………」
もちろん金兵衛にはこの綴じ紙の、性質も価値もわかっていなかった。しかし、竹内式部という、この署名こそは金兵衛にとっては、何物よりも権威があった。
「竹内式部可蔵者也と、ハッキリと記されている以上は、式部先生の持ち品とみてよい。では『あのお方』へ捧ぐべきものだ」金兵衛は突嗟にこう思った。「巻き奉書と往来側に、一緒に置かれてあるからには、連絡のある物かもしれない。いずれは重大な品なのだろう」それにしても金兵衛には不思議でならなかった。「眠りこけている穢ならしい、この老人の膝の前に、置かれてある以上はこの二品は、この老人が所持していたものと解釈してもよさそうだ。この老人は何者なのであろう? どうして持っているのであろう?」
──が、老人を前に据えて、ゆるゆる考えていたのではなくて、瞬間にそのように思ったまでであった。右手に抜き身を持っていたので、金兵衛は左の手をのばすと、すでに持っていた巻き奉書と、一束にして綴じ紙を、ギュッとばかりにひっつかんだ。が、そのとたんに何者かが、金兵衛の左手を打つ者があった。
「あッ」と金兵衛は声を上げたがもうその時には二つの品は、他人の手によって持たれていた。
「賊め!」と叫んで金兵衛の前へ立ち上がったのは泉嘉門であったが、二品はその手に持たれていた。
「これはある人からの預かり物じゃ! 何をなされる! 奪うことはならぬよ!」
一流に秀でた名人には、隙というのはないという。泉嘉門においては、したたかに酔ってはいたけれども、また眠ってはいたけれども、預かり物の二つの品を奪い取られようとした時に、一種の感覚で知ったのでもあろう。咄嗟に眼をあけると手をのばして、金兵衛の小手をピッシリと打った。武道には門外漢ではあったけれども、お狂言師としては無双の名人、物事の気合には達していた。で、打った手に、狂いはなく、おのずと急所へはまったものと見える。
しかるに一方金兵衛のほうでは、相手が酔いしれて眠っていたので、油断をして心の構えさえもせず、それに久しく探し求めていた、大切な品物が目付かったので、嬉しさにあわただしく握ったのであった。そこをピッシリと打たれたので、取り落としたのは当然といえよう。と、取り落とした次の瞬間には、嘉門は二品を拾っていた。そうして拾った次の瞬間には、すでに嘉門は立ち上がっていた。
宏大な屋敷の門の扉を背後に、取り返した二品を背のほうへ隠し、酔っていたがこれもお狂言によって、鍛えたがためにガッシリとしている、腰を引き加減にこごませて、真っ向から射している月の光を、額から足の爪先へまで浴びて嘉門は金兵衛を睨み付けた。額越しに見るというあの見方で、金兵衛を睨み付けているところから、落ちくぼんだ眼窩一帯が、陰をなして暗くなっていた。が、その中で黒い露のように、チラチラと輝き動くものがあった。まばたきをしない両眼なのである。
その嘉門と二間の距離をおいて、右手に抜き身をひっさげて、左手を握ったり解いたりして、心の驚きをあからさまに示して、突っ立っている男があったが、頭が人並みより大きくて、体が人並みより小さくて、片輪者らしいところがあった。いうまでもなく金兵衛なのであった。薄くて細くて短い眉毛、細くて小さくてショボショボした眼付き、獅子鼻ではないが似たような鼻、唇の薄い歯の反った大きな口、──で、顔は醜いのであったが、幸い月が背後にあって、光にそむいているがために、嘉門の眼には見えなかった。が、もし月が前にあって、顔を照らしておったならば、そういう金兵衛の醜い顔が、困惑と絶望と驚愕とで、ゆがんで行くのを見たことであろう。
しばらくの間二人は黙っていた。
「お爺さん!」とゴックリと唾を飲みながら、とうとう金兵衛はいい出した。「ごもっとも様でございます。私が悪うございました。どんなに欲しい品物だろうと、お前さんという持ち主があって、その持ち主が眠っていなさる隙に、取ろうとしたのは悪うございました。あやまります、あやまります。で、堪忍しておくんなさい」いいいい金兵衛は二つも三つも、つづけさまに丁寧に頭を下げた。と、そのつどに抜き身が揺れて、ギラギラとすさまじい光を放ち、嘉門と金兵衛の間の地面へ、落ちている影法師の頭の所が、のびたり縮んだりしてうごめくように見えた。
「が、お爺さん、お願いします! お前さんの持っている品物だが、私たちにとっては大切なものなので、どうぞ渡してくださいまし」で、またゴックリと唾を飲んで、二つも三つも頭を下げた。と、抜き身がそのつど揺れて、ギラギラとすさまじい光を放ち、取りようによっては口ではあやまるが、聞かない時には叩き切るぞと、威嚇しているようにも思われた。
はたして嘉門にはそう思われたらしい。
「ならぬ!」といかめしく答えたが、横歩きにそろそろと右手のほうへ、──すなわち佐久間町の二丁目のほうへ、蟹が歩くように位置を移した。「どういうお方かは知りませぬが、抜き身を引っ下げておいでなさる。しかも私の眠っている隙に、二品を黙って持って行こうとなされた。善いお方でないということだけは、私にもハッキリとわかりますよ。今、なんとかおっしゃいましたな、『お前さんの持っている品物だが、私たちにとっては大切なものなので、どうぞ渡してくださいまし!』ならぬ! 渡さぬ! 決して渡さぬ! お前様たちにとって大切な品なら、この品を私にお預けなされた、さっきの酔っぱらいの女子にとっても、大切な品物でありましょうよ。で、渡さぬ! 決して渡さぬ! さっきの女子を探し出して、女子の手へお返ししなければならない」──で、いよいよ横歩きをして、門扉から離れて往来へ出た。と、その鼻先へすさまじく光る、抜き身の先が差し付けられた。
二品を持たれて逃げられた日には、一大事であると焦慮されたので、金兵衛は夢中で抜き身を差し付け、嘉門のほうへジリジリと寄ったが、しかし切る気ではなかったので差し付けながらも丁寧な言葉で、願いを繰り返すばかりであった。
「はいはいお爺さん、ごもっとも様で、みんなごもっとも様でございますよ。……が、ごもっとも様はごもっとも様として、その品物ばかりはどうでもこうでも、頂戴いたさなければなりませぬ。お渡しなすってくださいまし。どうやら只今のお言葉によれば、元からお前様の品ではなくてどなたからかお預かりなされた品のようで。ではおそらくお前様にはその品物の中身や値打ちが、わかっておいでではありますまい。だからこそそのようにおっしゃって、頑固にお断わりなさいますので。で、申し上げることに致します。大変な品物なのでございますよ。もしその品物が敵方の手に──という敵の何者であるかは、申し上げることはできませぬが──恐ろしい人たちなのでございますよ。……その人たちへ渡ろうものなら、大事件が起こるのでございますよ。というのは官位の高いお方や、身分のりっぱな人たちや、私どものようなやくざ者までが、一網打尽に猟り取られて、流されもすれば押し込められもし殺されもするのでございますよ。そうしてそのあげくに国中が乱れないとも限りませんので。……とこのように申し上げましたら、なるほどこれは重大な品だ、手渡してやらなければ気の毒だと、必ずや思われるでございましょうね。さあさあお渡しくださいまし」──で、いよいよジリジリと寄って、抜き身の切っ先を差しつけた。
しかるに嘉門には金兵衛のそういう言葉と、そういう態度とが、金兵衛の予想とは正反対に、悪く聞こえもすれば見えもしたらしい。「黙らっしゃい!」と怒り声を上げた「なんだなんだ、不届き千万! 人に頼みごとをしようというのに抜き身の切っ先を差しつけて、嚇すということがあるものか! 物を頼むには頼みようがある。腰をかがめるなり手を下げるなり、ひざまずくなりすべきものだ! それをなんぞや血に濡れた抜き身を、臆面もなく差しつけおる! 抜き身を捨てろ! これを捨てろ!」──いいいい嘉門は背後のほうへ、一歩一歩小刻みに下がった。と、嘉門の正面に、小長い物が差し出されて、それが月光に白々と浮いて、差し付けられている抜き身の切っ先を、迎えるように上下へ動いた。武道には全く門外漢の、お狂言師の嘉門ではあったが、こういう場合にはおのずからに、こういう姿勢を取るものと見えて、綴じ紙と一緒に右の手に、握り持っていた巻き奉書を、剣道でのいわば平青眼の形に、グッと前のほうへ差し出して、金兵衛が差しつけている血に濡れた抜き身に、ヒタとばかりに向かい合わせたのであった。
「抜き身?」と金兵衛は不思議そうにいったが、「あッ、いかさま、これはこれは、抜き身を差しつけておりましたなあ」こういうとはじめて気付いたように、──事実はじめて気がついたのでもあるが──ヒョイと抜き身を左の脇腹の、袖の下へ隠すように押し隠した。「これでよろしゅうございますかな?」──で、グッと眼を据えて、眼の前の空間に浮かんでいる、巻き奉書を凝視した。
しかし金兵衛のそういう姿勢は剣道でいうところの脇構えであって、構えの中でも特に陰険な、殺気に充ちたものとして、相手を恐れさせる構えであった。武道に門外漢の嘉門には、もちろん金兵衛のそういう姿勢が、脇構えであるかなんの構えであるかは、知るところではなかったけれども、姿勢そのものの持っている、殺気ばかりは感ぜられた。で、嘉門は同じように、ジリジリと小刻みに下がったが、「抜き身を捨てろと申しているのだ! なぜ捨てぬか、なぜ持っている! 袖の下へこっそりと隠しておいて、機を見て払い上げて俺の胴を、斜に切ろうとしているのだな! 抜き身を捨てろ! これ捨てろ!」
すると金兵衛は、「へい」といったが、二品はぜひとも手に入れなければならない。そのためにはどのようないい分でも聞こう。──という心持ちが動いたものと見えてガタガタと地上へひざまずくと、抜き身を膝の前へ真っすぐに置き、両手を柄頭の後方へ置いた。「これでよろしゅうございましょうな。……二品をお渡しくださりませ」
しかしそういう金兵衛の姿勢は剣道でいうところの「伏叉の構え」に、おのずからはまっているのであって「脇構え」より恐ろしい構えなのであった。
刀の切っ先を相手に向けて、突然に地上へひざまずいて、刀を膝の前へ置き、両の拳を柄頭から、五寸あまりこちらの地上へ据える。と突然にひざまずかれたので、相手がギョッとして動揺する。その隙を狙って電光のように、柄を両手にひっつかみ、身をのし上げると前方へ飛び出し、相手の胸へ突きを入れる──「伏叉の構え」の恐ろしさは、こういう変化にあるのであった。武道には不鍛錬の金兵衛であった。「伏叉の構え」などは知らなかった。抜き身を捨てろ、ひざまずけと、そう嘉門にいわれたので抜き身を捨ててひざまずいて、嘉門のいいつけに従ったまでであった。ところが一方嘉門においても、武道には全然門外漢であって、「伏叉の構え」というようなものは知ってもいなければ聞いてもいなかった。がそこは感覚である、金兵衛のそういう構え方が、恐ろしく感ぜられてならなかった。で、差しつけた巻き奉書を、いよいよ夢中で差しつけながら、またもジリジリと後へ下がった。
「うむ、さようか、ひざまずかれたか! ふん、なるほど、抜き身を捨てられたか。……それで一通り物を頼む、作法はできたということにはなる。……が、いけない、まだいけない。切っ先がこっちへ向いているではないか。これ横へやれ、横へやれ!」いいいいさらに幾足となく嘉門は小刻みに背後へ下がった。
と、金兵衛は、「へい」といったが、抜き身の柄へ片手をかけると、おとなしく抜き身の位置を変えた。すなわち、切っ先を横にしたのである。
「これでよろしゅうございますかな?」
「さようさ」と嘉門はしぶしぶといった。が、巻き奉書を差しつけたままで、またも小刻みに背後へ下がった。「さようさ、うむ、それはよろしい。……だがお前さん後へお下がり! 抜き身の前にすわっていて、飛びかかろうとでもするように、柄頭の側へ両手を据えて、私を恐い眼で睨んでいたでは、人に物を頼む作法にはならない。お下がりお下がり、二、三尺お下がり」いいいい嘉門は自分でも、ソロリと背後へまた下がった。
どうもしかたがなかったので、いわれるままに金兵衛は、抜き身から二尺ほど背後へ下がった。
「これでよろしゅうございましょうかな?」──で、いかにも手に入れたそうに、月光の明るい空間に、おいでおいでをしているがように、上下へ揺れている眼の先の、嘉門の差しつけている巻き奉書へ、金兵衛はグッと眼を注いだ。
「さようさ、うむ、それでよろしい」
こういいながらまたもや背後へ、ソロリと嘉門は引き下がった。で、二人の間隔は、相当の開きを持って来た。
と、嘉門はいかめしくいった。
「これ、そこな人よ、よくお聞き、お前さんはこの二品について、たった今しがた恐ろしいほどの、話を話してくだされた。聞けば聞くほどこの二品は、重大な値打ちのある品物らしい。ところでお前さんも今いったように、この二品は私の物ではなくて、若い女子から預けられた品じゃ。もしこの二品が値打ちのない、つまらない品であろうなら、私はお前さんへ渡したかもしれない。ところがそうではなさそうだ。……で、はっきりといっておく! この品物はお前さんへは渡さぬ! 預け主を探し出してお返しする! ……恨むならこの品の重大な値打ちを、私に精々教えてくれた、お前さんの口を恨むがよい」こういって来て泉嘉門は、嘲るように笑ったが、クルリと金兵衛へ背を向けると、一散に走って逃げ出した。
しかしその次の瞬間に、嘉門は意外な言葉を聞いた。
「待て! 爺! 待て! 泥棒!」
「なに、泥棒! こやつ、無礼!」で、裏門は振り返った。「賊は汝じゃ! 猛々しい奴め! ……場合によっては大音を上げて、町の人々を起こすぞよ!」
「大音を上げる? 面白い上げろ!」──すでに抜き身をひっさげて、嘉門の前まで追い迫っていた金兵衛はこういうとゲラゲラと笑った。
「大音を上げろ! 人を呼べ! 汝が呼ばねば俺が呼ぶ! 汝のような老耄の声より、俺の声が大きいぞ!」
事実金兵衛は大音を上げた。
「お粂の姐ご! お屋敷の方々! お出合いくだされ、お出合いくだされ!」
「あッ」と嘉門の驚くまいことか!
てっきり賊と思い込んでいた金兵衛のほうからあべこべに、「泥棒!」と声をかけられたばかりか、「お出合いくだされ!」と大音に、四方に向かって声を上げられたのである。泉嘉門は仰天したが、どうすることもできなかった。差し出した巻き奉書をあわただしく、綴じ紙と一緒に懐中の奥へ、ねじ込むと茫然たたずんだ。
が、嘉門にはもう一つほかのことが感ぜられた。宏大な屋敷が立っていたが、そこから人が出て来ようともせず、屋敷と並んで二階建ての、小家が四軒立っていたが、そこからも人は出て来ないで、静まっていることであった。四軒の小家は空家なのであるから、人の出て来ないのは当然としても、宏大な屋敷には儒者ふうをした例の老人をはじめとして、多勢の人がいるはずである。金兵衛の上げた大音につれて、何人か屋敷から走り出なければ、不自然なことといわなければならない。にもかかわらず屋敷からは誰もが走り出て来なかった。金兵衛にとってもこの事実は、意外なことであったと見えて、抜き身を嘉門へ突きつけながら、そうして隙を見て叩っ斬ろうとして、グッグッと前へ進みながら、
「お粂の姐ご、どうしたんですい! 来てくださいまし! 来てくださいまし! ……お屋敷の方々、どうしたのですい! 来てくださいまし! 大変もない獲物が逃げるのでござんす! 早く取り押えておくんなさい! 私はあちこち怪我をして、身体が不自由でございます! 取りにがすかもしれません! 来てくださいまし! 来てくださいまし!」と、いよいよ大音を上げるのであった。
「やい!」と金兵衛は人を呼ぶ一方、嘉門へ向かっても威嚇の声をかけた。「渡せ! さあさあ、二品を渡せ! いやか、老耄、いやというなら斬るぞ! ……これ、俺様はな、強い男だ! その上途方もなく敏捷っこい男だ! 皆さまも大変怖がってくださる。俺から見れば、汝などは物の数にもはいらない奴だ! 取ろうと思えばそんな二品、すぐにもすって取ることができる! するぞよ、老耄、さあするぞ! ……が、いけない、今夜は参った! あちこちへ傷を受けている……あッ、足が攣る! おやよろける! が、きっとする! 用心しろよ! ……待ったり、どうも今夜はいけない! それ、な、そうだろう、肝腎の手がさ、こうもフラフラしているんだからな! 掏摸に大切なは手なんだぜ! 指の先だといってもいいが。……その手がお前フラフラなんだよ。やっとまア刀を持っているという訳さ! だから今夜はすりにくいのだ! ……が、きっとする! すって見せる! ……それとも汝から渡してくれるか! お礼はいうぜ、おい、お渡し! ……いやか? いやなら声を上げるぜ! お粂の姐ご! 来てくださいまし!」
金兵衛は無数に傷を受けていた。その上に道を歩いて来た。その上に嘉門の持っている、巻き奉書と綴じ紙とを、手に入れようと心掛けて、嘉門のいうなりに従って、ひざまずいたり後へ下がったり、苦しい呼吸で物をいったりした。その上に今は大音を上げたり、嘉門の後を追っかけたり、能弁に威嚇の言葉をさえ発した。で、体は疲労れ切っていた。見れば抜き身を差しつけて、時々空で振りまわしたが、持つ手もだるそうに力がなかった。振りまわされるつど月光を散らして、抜き身は燐のように光ったものの、人に迫る殺気は見られなかった。
左の半身に月光を浴び、右の半身に蔭を持ち、前に立っている嘉門を目掛けて、これも月光を一杯に浴びて生白く見えている往来の中央を、突き進んではいたけれども、一足ごとに左右へよろけたり、前と後へよろけたりした。ハッハッと大息をついているので、口がポカリとあいていて反歯が唇から飛び出して見えたが、左の側の上の歯の、二本ばかりがどうした加減か、ひときわ白く眺められて、獣の歯を連想させた。
と、これはなんとしたのであろうか、金兵衛はにわかに身をひるがえすと屋敷の門のほうへよろめき走った。
「お粂の姐ご、来てください! 獲物が逃げる! 取り押さえてください! 俺には駄目だ! 疲労れ切ってしまった!」
同時に門の扉へ手を上げたが、ひらめかすと一緒に乱打した。ドン! ドン! ドン! ……ドン! ドン! ドン!
と、内側から声が答えた。「どなた! 金ちゃんかい? 待ちかねていたよ!」
門の内側から答えた声が、お粂の声だと知ったので、金兵衛は喜びに飛び上がって、門の扉から離れると、潜り戸へつかまってピョンピョンとはねた。で、裾がひるがえってふくら脛が月光を蹴るように見えた。
「有難い! 姐ごか! おいでなすって! 潜り門をあけて来てください! ……姐ご、あいつだ! 目付かりましたんで! ……が、逃げて行ってしまいます! とっ捕まえなければなりません! ……足があるのでござんすからね! 何さ、そいつを持っている爺に!」
しかし門の内のお粂の声は、驚いてもあわててもいなかった。喜んでいるようにも聞こえなかった。
「妾、金ちゃんを待っていたのだよ。……心配のことがあってね」
その声はむしろ深い愁いと、深い悲しみとに放心をした、洞然とした声であった。
「金ちゃん大変遅かったのねえ。でもよく殺されもしなかったのねえ。妾は随分心配したよ。水戸様石置き場の空屋敷から逃げ出したことは知っていたが、あんまり帰りが遅いので、途中で悪漢にでも襲われて、大怪我でもしなけりゃよいがってねえ」
「姐ご、有難い! お礼をいいます。……だがお礼はお礼として、ゆっくりいわせていただきましょう。今はそれどころじゃアありません。ね、あれが、京都からのあれが──徳大寺様からご依頼をされた、おわかりでしょうな、あの獲物が、たった今目付かったじゃアありませんか! 取り返さなければいけません! ……姐ご、お願いだ! 来ておくんなさい! 助太刀! そうなんで! 助太刀をしてください! ……私は駄目なんで! 力がないんで! 受けてね、傷です! めちゃくちゃに受けて!」
「傷? おおいやだ! 金ちゃんもかい? ……ねえ、あのお方もそうなんだよ」
「じれったいなあ、何をいっているので! ……姐ご、巻き奉書だ! 目付かったんだ!」
「金ちゃん、紋也さんが危篤いんだよ」
「紋也⁉ 知らない! 知りませんねえ!」
「途中で悪者に襲われてねえ」
「爺が巻き奉書を持って行こうとするんだ!」
「後脳をひどく打ったのだよ」
「打とうにも俺には力がない」
「いまだに正気がつかれないのだよ」
「爺もだいぶ酔っている」
「妾は心配で心配でねえ……」
「やい! 姐ご! たいがいにしろ!」とうとう金兵衛は怒鳴りつけた。「一人のための物じゃアない、多勢のためのものなのだ! しかも命にかかわるものだ! 姐ごも俺も一生懸命に今日まで探していた大切なものだ! そいつが目付かったといっているのだ! 俺一人では取り返せない姐ごに助けてもらいたい! こういってお願いをしているのだ! まごまごしているとなくなってしまう! というのは変に強情な、頑固な老人が持って行って、渡してくれようとしないばかりか、持って行ってしまおうとしているのだ! 姐ご、あけな! 潜り戸をあけな!」で金兵衛は手を上げると、夢中のように潜り戸を叩いた。
しかし、内側からは依然として放心したようなお粂の声が、このように聞こえて来た。
「はいって来ればよいではないかい。お前さんが帰って来なかったんだよ、誰が潜り門など閉てておこう。さっきからあいているのだよ、鍵なんかかかってはいないのだよ」
──その時ずっと奥のほうから──屋敷の玄関と思われるあたりから山県紋也の妹の鈴江の、声らしい声で呼ぶのが聞こえた。
「お粂様! 兄が! ……眼を! ……呼吸を!」
「呼吸を! あッ」というお粂の声が、魂消るように聞こえたかと思うと、玄関のほうへ走り返る、狂気じみた足の音がした。
「チェッ、潜り門はあいていたのか!」ドンと押した金兵衛の手につれて潜り門はバックリと口をあけた。
「しめた! 方々! お屋敷の方々!」
潜り門の口から顔を差し入れ、こう金兵衛は声をかけたが、ハッと気が付いて振り返って見た。月に白々と往来はあったが、嘉門の姿は見えなかった。
「いない! ううーん、爺はいない!」
金兵衛は思わず声を上げたが、しかしよくよく考えてみれば、泉嘉門のいなくなったのは、当然のことであるかもしれない。潜り門の内外でお粂を相手に押し問答をしていた間中、夢中になっていた金兵衛は、一度も振り返って嘉門のほうを、眺めたことがなかったのであるから。だからその間に一散に走って、身を隠そうと思ったら、身を隠すことができたはずである。で、おそらく泉嘉門は、そうやって身を隠したのであろう。が、しかし金兵衛には、こう思われざるを得なかった。
「お粂の姐ごと話していた時間はほんのわずかな間であった。その上に爺は酔っていた。で、走って逃げて行ったところで、そう遠くへは行っていまい! よし、追っかけて捉えてやろう!」
で、金兵衛は走り出した。薄傷を無数に受けていて、全身が綿のように疲労れていて、自分だけでは爺の手から、例の巻き奉書と綴じ紙とを、奪い取ることはむずかしいと、このように思ったところから屋敷の人やお粂を呼んで、助けを乞うた金兵衛なのであったが、どうしたものか屋敷の中からは誰一人として現われては来ず、お粂までが放心をしたような声であらぬ事をいったそのあげくに、屋内へはいってしまったので、どうしても自分一人だけで、重大な二品を取り返さなければならない──という立場に立ったので、奇蹟的の勇気が金兵衛に出た。
「のがしてなろうか! 取り返さないでおこうか!」──で、金兵衛はひた走った。
しかし勇気は勇気であり、躯の衰弱は衰弱であった。左に神田川の流れを持ち、右に町家の家並みを持った、月に明るい佐久間町の往来を、前へのめったり後へよろけたり、下げている抜き身を杖のように突いたり、そうかと思うと肩へかついだりして、走って行く金兵衛の姿というものは、凄惨というよりも滑稽であり、恐ろしいというよりも道化ていた。身長が人並みよりきわ立って低く、頭が人並みよりとりわけ大きく、侏儒か佝僂かを想わせた。そういう金兵衛がそういったようすで、あえぎあえぎ走って行くのである。で、もし人が前から来て、金兵衛を見たならばこう思うであろう。
「玩具の刀を偉そうに持って、縹緻の悪い卑しい家の子供が、こんな夜中に悪戯をしている」と。しかし本人の金兵衛にとっては悪戯どころの騒ぎではなかった。命がけの真剣な働きなのであった。と、かついでいた抜き身を下げると、だるそうに地上へ突き立てたが、もたれかかったら刀身が折れよう、で、縋るように身を寄せると、金兵衛は足を止めて右のほうを睨んだ。そこに一筋の露路があって、犬の吠え声がしたからであった。露路の入り口から二、三間ばかりの地点は、横ざしにさし込んでいる月の光のために、かなりハッキリと見えていたが、それから先は暗かったので、見きわめることができなかった。まもなく犬の吠え声もやんだ。
「爺め、この露路へ逃げ込みはしなかったかな?」ふと金兵衛には思われたので、露路口に立ってすかして見たのであったが、やはり真っすぐに佐久間町の往来を、先へ追って行くことにした。こうして佐久間町の通りをはせ過ぎ、代官町の入り口まで来た、しかしその間に老人らしい男の姿らしいものさえ見なかった。「ではやっぱりさっきの爺は、この大通りは通らずに、どこかの露路へでも逃げ込んだのかな?」こう思って金兵衛は力を落としたが、それと一緒に堪え堪えていた、体の衰弱が一時に出て、立っていることさえできなくなった。
「残念だがもうしかたがない。これ以上は俺には追って行かれない」──で、金兵衛はグタグタになって、往来の上へ両膝をついて、首をうなだれて太い息をついた。が、その時人の気勢が行く手にあたって感ぜられたので、首を上げて行く手をすかして見た。すると一人の大兵の男が、こちらをさして歩いて来るのが、月の光に鮮やかに見えた。「有難い、あの人に訊ねて見よう。この先で老人を見かけなかったかと?」──で、少しばかり元気づいて、金兵衛は地上から立ち上がった。と、大兵の男であったが、金兵衛の前まで来たかと思うと、
「今晩は」と泣くような声をかけた。「お妻さんをご存知ではございますまいか? 私の大事なお妻太夫さんを?」
「お妻太夫さんですって? 知りませんね」──老人を見かけはしなかったかと、こっちから訊ねようと思っていたのに、来かかった大兵の男のほうから、「お妻さんをご存知ではございますまいか? 私の大事なお妻太夫さんを」などと、泣くような声で訊ねられたので、金兵衛はムッとしてそういったが「お妻さん」という女太夫の名にも、そういった泣くような男の声にも、何となく聞き覚えがあったので、大兵の男をつくづくと見た。年は二十七、八で、片耳のない大男で、魯鈍そうにズングリと肥えていた。
「おい、お前さんは鴫丸さんじゃアないか⁉」こう金兵衛は声を掛けたが、この時その男を思い出したのであった。
と、大男は金兵衛の顔へ、愚かしい瞳を押し据えたが、「へい、さようでございます。鴫丸様でございます」
「フーッ」と金兵衛は笑いを吹いた。「鴫丸様の『様』はあるまい。相変わらずのお前さんだ。あの時はたしか自分のことを芸人衆様といっていたっけ」
「へいさようでございます。芸人衆様の鴫丸様が、わたくしなのでございますよ。で、役目といいますれば……」
「わかっているよ、こうなんだろう。『軽い口上を申し上げまして、お上品にお客様衆を笑わせる』途方もなくりっぱな口上いいなんだろう?」
「よくご存知でございますな」こういうと鴫丸は不審しそうに、金兵衛の顔へ押し据えた眼を、パチリパチリとしばたたいたが、「あなた様はどなた様でございますかな?」
「見忘れたかね、無理はない、お前さんと逢って話をしたのは、今年の春の霞の深かった晩で、今は霧の立つ秋の夜だからなあ。半年以上もたっているだろうよ。が、俺は覚えているよ。京都で逢って話をしたはずだ。千本お屋敷のご用地の露路でね。ね、そうだろう思い出すだろうがね」
すると鴫丸の魯鈍そうな眼へ、喜びの色がかすかにさした。
「あッ、さようでございました。そうそう私も覚えております。あの時にはたいそうご親切に、私をお呼び止めくださいまして、いろいろお言葉をくださいましたはずで、まことに有難う存じました」──で鴫丸はお辞儀をした。
「ナーニお礼には及びませんよ」金兵衛はテレて苦笑いをしたが、「思い出してくれて有難い。で、何かね」といって来たが、金兵衛には思われてならなかった。「あの時にもお粂の姐ごに逢おうと、急いで走って来たのであったが、この鴫丸という男に逢うと、妙に心持ちがノンビリとして、急がしい用事など忘れてしまって、無駄話をしたりからかったりしたが、今夜の俺というものは、あの時の俺よりも倍も二倍も、急がしくもあれば大事な身の上で、道の真ん中へ突っ立って、無駄話などをしていることは、許されていないにもかかわらず、こうやってこの男と話していると、やはり心持ちがノンビリとして来る。それにさいつも急がしい時に限って、この男とぶつかるのも変な因縁だ。どうやら俺とこの男とは、縁のつながりがあるらしいぞ」──金兵衛は苦笑いをつづけたままで、鴫丸へノンビリと話しかけた。
「あの時もたしかお前さんには、お妻太夫さんを血眼になって、探しておいでなすったようだが、今夜も探していらっしゃいますので?」
「へい」と鴫丸はうなずいて見せた。
「探しているのでございます」
「すると、お前さんはあの時以来、ずっと京から江戸へかけて、お妻太夫さんを探していられるので」
「いんね」と鴫丸はかぶりを振った。「あの時は目付かってでございます」
「で、またお紛失しなすったので?」
「へい」と鴫丸はまたうなずいた。「今夜も紛失してしまいました。いえいえ今夜ばかりではなく、その後ずっといろいろの土地で、お妻太夫さんを紛失しまして、心配をいたしましてございます」
「それはもうもうご心配ですとも」金兵衛はともすると吹き出そうとする笑いを、前歯で噛み殺したが、「で、ただ今はお前さんの一座は、江戸においででござんすかね?」
「いんね」と鴫丸は首を振った。
「鮫洲にいるのでございますよ。でも……」と鴫丸は後をつづけた。
「でも」といいつづけた鴫丸の声には、愚かしい得意さが籠っていた。「今こそ鮫洲にはおりまするが、近いうちに一座は打ち上げまして、東海道を大津まで、上って参るはずにございます。はいはい私ども一座の者は、東海道の宿や駅を、お得意にしておりまして、ご贔屓様もたくさんにあります。江戸や浪華や京などという、そのような繁華な都などは、物の数にも入れておりませぬ」
「ほう」と金兵衛は眼をみはった。「お前さんのお話を聞いておりますと、どうやら繁華な都よりも、街道筋の宿や駅のほうに、権威を認めておりますようで。少し変ではございませんかな。物の数にも入れないなどとは?」
「はいはいさようでございますとも、そのような繁華な都などは、物の数にも入れませぬし、権威も認めておりませぬ」
「大変な見識でございますな。だがしかしそれはどういう訳で?」
「繁華な都で打ちましても、ご見物衆が来てくれませぬ」
「あッ、なるほど、そういう訳がらで、これでスッパリとわかりました」
「したがいまして私の口上も、聞いてくださらないのでございますよ」
「不届きな見物でございますな」
「で、権威を認めません」
「物の数にも入れませんかな」
「宿や駅のほうがよろしゅうございますよ」
「それにしてもなぜに都の方々が、お前さんの一座を見物に来ないか、研究たことはございませんかな?」
「それはいろいろに研究てみました」
「おわかりになったでございましょうな?」
「よくわかりましてござります」
「それはさようでございましょうとも」
「あまりに中身のよすぎる物は、かえって都の方々には、受けないものだと申しますことを、その結果知りましてございますよ」
「中身?」と金兵衛は訊き返した。「何の中身でござんすかえ?」
「へい、私ども一座の中身で」
「それがよすぎるとおっしゃるので?」
「はいはいさようでございます」──ひどい自信家があったものだ! 金兵衛には笑いもできなかった。
「では」と金兵衛はからかうように訊いた。
「よすぎる中身の一座をひきいてお前さんにはあの時以来──京でお逢いしたあの時以来、東海道を順々に打って、鮫洲まで来たのでござんすかね」
「へーい、さようでございますよ」鴫丸はまたも得意そうなようすを、間延びした声に籠らせたが、「あの時は大津で打っていました。お妻太夫さんが目付かりましたので私は大変に喜びまして、さっそく戻っていただきまして、翌日に大津を立ちました。大津はよい所でございます。瀬多の蜆が名物で……」
──おや! と金兵衛は毒気を抜かれた。「話が瀬多蜆へ移って行ったぞ! とはいえ俺も瀬多蜆は好きだ」
「さようさよう瀬多の蜆は、結構な名物でございますとも」
「草津でも打ちましてございますが、あそこの名物と申しますれば……」
「はいはい姥ヶ餅でござんすとも」──俺だって食い物には、少しは通だ! 負けているものかという心持ちで、先まわりをして金兵衛がいった。
「姥ヶ餅が名物でございますとも」鴫丸は鷹揚にうなずいて見せた。
「で、たくさんいただきまして、それから関へ参りまして、打ちましたところが大人気で、一座喜びましてございますが、あそこの名物と申しますれば……」
「地蔵さんじゃアあるまいね」
「いんね、地蔵さんも名物であります」
「といって食べはしますまいね」
「はい、あなた様、お地蔵様は堅い石でできておりますので、食べようものなら歯を欠きます」
──まるでこれでは俺のほうが、教えられてでもいるようだ! 金兵衛はかえって鼻白んだが、
「それから順々に東海道を、打って下って来たんですね。もう結構よくわかりました。名所案内のお話はいずれゆっくり伺うとして、おい鴫丸さん、聞きたいことがある! この先で老人と逢わなかったかね?」金兵衛は引き締ってグッと訊いた。
金兵衛は引きしまって訊いたけれども、鴫丸のほうでは引きしまろうとはしないで、相も変わらぬノソッとしたようすで、
「お老人にでございますかな? へい、お逢い致しました」
「逢ったか!」と金兵衛は声をはずませて、「おい、話してくれ! どの辺で逢った!」
「へい、この先でございますよ」こういうと鴫丸は首を返して、今来たほうを振り返った。代官町のふけた通りには、人っ子一人いなかった。半町ほど先から道が曲がって、見通すことはできなかったが、その曲がり角にかなり大きな、薬種屋らしい家があって、廂にかかげてある看板のあたりに、鋭く白く光る物があった。金具に月光がさしているのであろう。その薬種屋と向かいあった、反対側の家の前に巨大の払子を想わせるような、柳が一本立っていたが、頂きの辺がほの白く光り、裾のあたりが黒く見えた。月が上にあるからであろう。
「おおそうか! この先で逢ったか! しめた! 有難い、さっきの爺だろう!」元気づいた金兵衛はこういうと、杖がわりについていた血に濡れた抜き身を、小脇に引っさげて走り出した。が、その足を不意に止めると、「おい鴫丸さん、その爺は、酒に酔ってフラフラしていたろうね」
「へい、フラフラしておりました」月光にギラツク金兵衛の抜き身へ、この時はじめて気がついたらしく、怯えたような顫え声で、こう鴫丸は返辞をしたが、眼では抜き身をみつめていた。
「箒と塵取りとを持っていました」
「何を!」と意外な鴫丸の返辞に、金兵衛は毒気を抜かれたらしく、走って行く代わりに走り返り、こういうと抜き身を前へ突き出し、鴫丸の鼻の先で振りまわし、「箒と塵取り? なんだそれは!」
「へい」と鴫丸はジタジタと下がった。「往来を掃いていたのでございますよ。へい、家の前の往来なので」
「違う!」と金兵衛は怒鳴りつけた。「持っていたのは巻き奉書だ! そうして糸で綴った紙だ! ……そうだろうがな? その爺はどうした?」
「家の内へはいってしまいました」どうにも抜き身が怖いと見えてまたジタジタと背後へ下がり、隙を見て逃げようとしているらしく、鴫丸は四辺をキョロキョロと見た。
「いつ逢ったのだ? どこで逢ったのだ?」
「今日の夕方でございます。品川の通りでございます。お妻太夫さんをお探ししながら、来かかった時でございます」
「やい!」
「…………」
「馬鹿者!」
「…………」
「何をいいおる!」
「…………」
「チェッ」
「…………」
「鈍物!」
「…………」
「叩っ切るぞ!」
「…………」
「これ、たった今なんといった! この先で逢ったといったではないか!」
「へい、確かに申し上げました。……来る道中で逢いましたので、この先で逢ったと申し上げました」
「先は先だが遠過ぎるわい!」
「でもあなた様、やっぱり先で……」
「まだいうつもりか! この化け物めが!」
腹に据えかねたというように、金兵衛は抜き身を振りかぶると、鴫丸を目掛けて飛びかかった。と、ワッという声が起こって、佐久間町の方角へ転がるように、走って行く牛のような形が見えた。「お助けなすって! 人殺しだアーッ」
それは逃げて行く鴫丸であったが、やがて姿は見えなくなった。月光の充ちている往来の上へ、で、しょんぼりと残ったのは、落胆をした金兵衛一人であった。「とんだ鈍物にかかりあって、大事な時を潰してしまった。さてこれからどうしたものだ」──まだ未練があると見えて、屋敷へ引っ返して行こうとはしないで、衰弱した体を引きずるようにして、金兵衛は先へ進んで行った。と、数十人の人影が、行く手にあたって現われた。水戸様石置き場の空屋敷から、引き揚げて来た代官松の一味らしい。で、金兵衛は立ちすくんだが、このころ佐久間町二丁目の、例の空家の一軒の、小門の塀上へ人の姿が、一つポッツリと現われた。
真っ向から月光がさし込んでいるので、小門の塀の上へ姿をあらわした人物の姿がよく見えた。意外にも泉嘉門であった。君江という見も知らない女子の手から、無理に二品を預けられたところ不具者のような小男のために、その二品の内容の重大であることを語られたあげくに、その小男に抜き身で迫られて、その二品を取られようとした。で、やるまいと争っているうちに、宏大な屋敷の門の扉を、その小男が親しそうに、叩いた上で人を呼んだ。すると門内から返事があった。で、嘉門は驚いてしまった。
「では、この小男と屋敷の人とは、連絡のある一味なのか。では屋敷から人が出て来て、小男に加勢をした上で、俺を襲って二つの品物を奪い取るに相違ない。これはこうしてはいられない。逃げて行かなければならないだろう」──で、嘉門は逃げかけたが、「俺の酔っているこの足で、逃げたところで、逃げおおせられまい。それよりもどこかへ身を隠して、急場のしのぎをしたほうがいい」──不意に嘉門にはこう思われたので、素早く四辺へ眼を配った。と、眼についたのは四軒の空家で西北のはずれの一軒が、最も間近に立っていた。そこはお狂言師の身も軽く門の一所へ手を掛けると、塀を越して空家の庭へ下り、外のようすをうかがった。すると宏大な屋敷からは、人数の出て来るようすもなく例の小男一人だけが、佐久間町の往来を西北のほうへ、空家の前を駆け抜けて、走って行ったのを聞き知った。
「やれ有難い、これでのがれた」──こう思いながらも泉嘉門は、なおしばらくようすをうかがったが、依然として宏大な屋敷からは、人の出て来る気配もなく、また走って行った小男の、帰って来る気配もなかったので、「急いで家へ帰るとしよう」──で、またもや塀へ手をかけ、身をひるがえして塀の上へ、今や姿を現わしたのであった。塀の上へ体を据えながら、月に明るい往来の左右へ嘉門はせわしく眼を配った。明るい往来の明るさは、落ちている小石さえわかるほどであったが、人の姿は見えなかった。往来の向こう側を流れている神田川の水の音ばかりが、寂寥の中での音であった。
「よし」と嘉門は口の中でいうと塀をすべって下りかけた。真っ向からさし込んでいる月光によって、嘉門の姿はよく見える。懐中の辺のふくらんでいるのは、巻き奉書と綴じ紙とが、そこに蔵されてあるからであろう。と、あらわに痩せた脛が膝の上まで捲くれ上がり衣裳の裾から洩れて見えたが、その脛が一本塀の上から、塀の面へのばされて、拇指の先が鈎のように曲がって、塀の面の一所へ疣のように吸い付いた。拇指をぬかした四本の指の爪が貝のように光っている、月光があたっているからであろう。それは嘉門の右の足であって、塀の面を伝って、往来へ下りようとしているのであった。「えいッ」と口の中で声をかけて、嘉門はやがて飛び降りようとした。
すると意外にも背後のほうから、「誰じゃい!」と嗄れた声が聞こえた。「…………」──で、嘉門はギョッとして、声の来たほうを振り返って見た。小広い前庭の奥にあたって、この家の玄関が立っていたが、今まで閉ざされていた玄関の戸が、一方へ細くあけられていて、その隙から手燭を携えた緑色の被衣をかずいた女の、物の化じみた姿が見えた。砂金色をした手燭の光が、被衣の中に納まっている女の顔へあたっていたので、女の顔は鮮やかに見えたが、醜い老女の顔であった。「あッ」と嘉門は声を上げた。空家だと思っていた家の中から、そのような大奥の老女めいた女が現われて来たのであるから、驚いて声をあげたのである。
「誰じゃ⁉」と老女はまた声をかけた。と、背後を振り返った。「方々どうやら賊のようでござる!」
「あッ」と嘉門はまた声を上げた。手燭をかかげている老女の背後に、同じように緑色の被衣をかぶった、幾人かの老女がいるばかりでなく、緑色の小袖をまとっている若い美男らしい侍が、幾人かいて戸の隙間から、こなたをのぞいたからであった。
ダ、ダダ、ダ、ダーッと烈しい音がした。嘉門が塀の上から往来の上へ、転落をした音であった。と、白々と紙らしい物が、塀の内側の庭の上へ落ちた。
塀の上から転落をした拍子に、懐中の中にあった二品の中の、綴じ紙のほうが懐中から飛び出し、塀の内側の庭の上へ、蛾のように白く落ちたのをも、嘉門は少しも知らなかった。
「ああ空家ではなかったのか! み、醜い妖怪じみた老女! び、美男のお侍たち! 化け物屋敷だアーッ、化け物屋敷だアーッ」──嘉門は夢中で往来を走った。どちらの方角へ走っているのかそれさえ嘉門にはわかっていないようであった。足にまかせて走って行く。しかし嘉門は佐久間町の通りを、代官町の方角へ、今や走っているのであった。酔いなどとうに醒めてしまって、恐怖ばかりが心にあった。
しかしそれにしても厳密にいえば、空家と思っていた家の中から、老女と若侍とが現われて、誰何したというそればかりのことでおちつきのある芸匠の身分の泉嘉門ほどの人物が、こうも恐怖を感ずるとは、ちょっと受け取れないことではあった。想うに嘉門は見えた事実よりも、事実の奥に秘められている、見えなかった事実や聞こえなかった事実──そういうものから放射される、鬼気ないしは魔気というようなものに、襲われた結果恐怖したのかもしれない。敏感な芸匠であるだけに、鬼気ないしは魔気というようなものを感ずる力は大きいはずである。
左側に流れている神田川の水が、月の光に踊っているのも、嘉門には美しく見えないばかりか、物すさまじく見えるようであり、右手に並んでいる家々の雨戸や、塀や柱などが、影を往来へ引こうとはせずに、さし込まれている月の光によって、蒼白く鮮やかに見えているのさえ、白い巨大な墓のように、恐ろしく嘉門には思われるようであった。さっき方まで大事にしていた、預かり物のことなども、今は忘れているらしく、手では懐中を抑えてもいない。いやいや手では衣裳の裾を、下等な人間のやるように、高々と持って捲くり上げていた。で、諸足が股の上まで見える。
嘉門は夢中で走って行く。
と、この時行く手にあたって、一つの人影が現われたが、これも何物かに怯やかされたかのように、奔牛のような速さで走って来た。
「お助けなすって! 人殺しだアーッ」
二人の距離が近よって、すれ違おうとした時に、奔牛のように走って来た男が、こう叫ぶと嘉門へしがみ付いた。
「ワッ」と嘉門は叫び声を上げたが、力をこめて振りもぎった。
「お助けなすって! 人殺しだアーッ」
──が、こう再度叫んだ時には、嘉門の姿は遠のいていて、嘉門に強く振りもぎられたために、地へ倒れた鴫丸ばかりが、往来の真ん中に残っていた。
「ホーッ」
と鴫丸は太い息をついた。と、そのことが鴫丸の恐怖を、かえって心から消したと見えて、もう叫ぼうとも走ろうともしないで、トホンと地上へすわったままでいた。しかしすぐに「おや」といって、ノッソリと片手を前へ伸ばした。月光に薄白い往来の色を一所きわ立てて白く染めて、巻かれた小長い奉書紙が、膝の前にころがっていたからであった。
「何かな?」と鴫丸は巻き奉書を取り上げ、無心にスルスルとひろげて見た。
「たくさんの字が書いてある。赤い色が付いている」
しかし鴫丸の身にとっては、なんの値打ちもない品物であった。で無心に捲き納めると、無心に片手に握り持った。
鴫丸はガックリと首をたれて、何やら茫然と考え出した。
しかしにわかに立ち上がると、
「お妻太夫さん! お妻太夫さん」と泣き出しそうな憐れっぽい声で、あくがれるように呼ばわったが、佐久間町のほうへ歩き出した。
手に持たれている巻き奉書が──嘉門の懐中に蔵されていて、鴫丸を強く振りもぎった時に、落としたところの巻き奉書であるが──ダラリと下げられているがために、その先が鴫丸の足の甲を、かすったり打ったりしてひらめいて見えた。
宏大な屋敷の前まで来た。しかし鴫丸には関係がなかった。で、先へ歩いて行った。
「お妻太夫さん! お妻太夫さん!」──しかしその声も遠ざかって、呼び主の姿も朧となり、やがて見えなくなった後は、この一郭は静まり返った。とはいえ宏大な屋敷の奥の、一つの部屋からは声がしていた。
「奉公心得の事! ……」神々しい老人の声であった。
「それ大君は、上古伊弉冊尊、天日を請受け、天照大神を生み給い、この国の君とし給いしより、天地海山よく治まりて、民の衣食住不足なく、人の人たる道も明らかになれり。されば、代々の帝の御位に即かせ給うは、天の日を嗣ぐということにて、天津日嗣といい、また宮仕えし給う人を、雲の上人といい、都を天といい、四方の国、東国よりも、西国よりも、京へ上るといえり。たとえば今床の下に、物の生ぜざるにて見れば、天日の光及ばぬ処には、いっこう草木生ぜず。しかればおよそ万物、天日のお蔭蒙らざるものなければ、そのご子孫の大君は君なり、父なり天なれば、この国に生きとし生けるもの、人間はもちろん、鳥獣草木に至るまで、みなこの君を敬い尊び、各品物の才能をつくしてご用に立て、二心なく奉公し奉る!」こう説いている老人の声が、神々しく部屋から聞こえて来た。
日本に君臨したもう皇室の淵源に遡って説いているのであって、大義名分を正すにはここから説き出さなければならないのであった。が何者が説いているのであろう? どこの部屋で説いているのであろう?
ある時には遠いはるかの部屋で、説いているようにも聞こえて来るし、ある時にはほんの手近の所で──隣りの部屋というような、そのようなほんの手近の部屋で、説いているようにも聞こえて来る。
神々しい声には相違なかったが単なる神々しい声ではなくて、その底にすさまじい覇気を持ち、熱を持ち闘争性を持ち、革命心を持った、溌溂とした声であった。
あの広い深い大洋をめざして、大渓谷を流れて行く、一筋の谷川があったとしたならば、岩に激して響きを上げ、淵にたたえて沈潜し、滝と落下して音を立て、他の細流を収容しては、睦まじそうなささやきを交わし、しかも谷川の谷川らしい清浄を保って流れて行くであろう! ──そういう谷川の流れの音を、連想させるに足るような、それは神々しい声でもあった。
誰に向かって説いているのであろう? 説いている人の姿が見えない。なんで聞いている人々の姿が見えることがあろう。
しかし多くの人に向かって、説いているのだということは、老人の講義の音で知れた。
時々老人の講義の隙に、講義のさまたげにならないようにと、十分に注意をしているらしいつつましい咳の音もすれば、幾人かの人たちが衣紋を直すらしいささやかな音も聞こえて来た。
ここは儒者ふうの老人の、籠っている宏大な屋敷であって、深夜であることには疑いない。
戸外には嵐が出たと見える。
木立ちの騒ぐ音がした。
老人の声がしばらくとだえて、嵐の音の吹き絶えた時に、二、三尺離れた所から、嘆くような願うような若い女の声で、こういっているのが聞こえて来た。
「眼をお開きなされてくださいまし! お心をお取り返しなされてくださいまし! あなた! あなた! あなた! あなた! ……このお額の冷たいことは! ……もしもあなたのお身の上に、もしものことがありましょうものなら私は生きてはおりませぬ! ……ご一緒に死にます、ご一緒に死にます!」つづいて泣く声が聞こえて来たが額へ滴の落ちたのを感じた。
と、その額をおおうようにして、熱い柔かい物が触れた。
「誰かどこかで講義をしている。誰かどこかで泣いている。……ここはどこだ? 俺はどうしたのだ?」
部屋の一所に燭台があって、燈火が部屋を明るめていた。その燈火に淡く照らされながら、床の上に寝ている武士があり、その枕もとにすわっている若い美しい娘があった。山県紋也とお粂とであった。
「頭が痛む。……体が痛む。……訳がわからない。……どうしたのだろう?」半分意識を恢復した中で山県紋也はこう思った。
講義の声が聞こえて来た。
「故に大君に背くものあれば、親兄弟たりといえども、すなわちこれを誅して君に帰すること、我国の大義なり。いわんや官禄いただく人々は世にいう三代相伝の主人などという類にあらず。神代より先祖代々の臣下にして、父母兄弟に至るまで、大恩を蒙むるなれば、その身はもちろん、紙一枚、糸一筋、みな大君のたまものなり。あやまりて我身のものと思い給うべからず。わけてお側近く奉公したまう人々は、天照大神の冥加にかない、先祖神霊の御恵みに預かりたまう身なれば、いよいよ敬いかしずき奉る心、しばらくも忘れたもうべからず」
ここで老人の声が絶えて、四辺が森然と静かになった。が、すぐに老人の声がした。
「これこそは臣道の大綱でござって、上は将軍家より下は庶民にまで、一様に行ない違うべからざる、一大事の道でござりますぞ! 三代相伝というごときは、将軍と旗本、大名と侍、この関係にはあてはまりましょうが、君と民草との関係には、あてはまらざる義にござりますぞ!」──で、またも声が絶えて、四辺が森然と静かになったが、戸外の嵐は吹きまさったと見えて、庭木の枝が枝とすれ、葉が葉とすれ合う音がして、遠波が寄せて来るかのように、紋也の耳へ聞こえて来た。
「あれは奉公心得書だ! 奉公心得書を講義していられる」……半ば意識の朦朧とした状態の中で、こう紋也は一瞬間思った。「先年三宅島でご逝去された竹内式部先生が、堂上方のためにお書きになった、あれは奉公心得書だ!」
誰が何者へなんのために、どこで講義をしているのか、紋也は知りたいと努力した。しかし後脳が重く痛み、全身が燃えるように熱をもって痛み、意識がしだいに失われて行った。
「俺はいったい生きているのか? それとも俺は死んでいるのか? 死んではいけない! 死んではいけない! 誰でもいいから俺を介抱してくれ!」紋也は大声に声を上げた。しかし声は出なかった。出したと思ったばかりであった。しかしその次の瞬間に、聞き覚えのある女の声で、「紋也様が口を動かしなされた!」歓喜に顫えているようにいう者があって、つづいて同じその声が、「紋也様お粂でございます! 正気づかれてくださりませ! 傷は浅いのでございます。正気づかれてくださいまし! 私をご覧くださいまし! お眼を開かれて! 一眼私を!」いいつづける声が聞こえて来た。
「お粂?」と紋也は半意識の中で繰り返すように考えてみた。「お粂? 俺は知っているようだ。どこかで確かに聞いた名だ」で紋也は努力をしてお粂という女を見ようとして、あけにくい両眼をしゃにむにあけた。と、最初に見えたのは橙黄色の燈火の光で、つづいて橙黄色の光の中に、夕顔の花を想わせるような、ぼっと白い女の顔であった。が、見えたのはそれだけであって、すぐに世界が暗くなって、何もかも一切見えなくなった。せっかくあけた眼を閉じたからである。しかし紋也は女の声を聞いた。
「紋也様にはお眼をおあけなされた! だんだん正気を取り返される! もう大丈夫だ! もう大丈夫だ!」
つづいて紋也は温く柔かく──それが額にのせられた時から、一種のなつかしさと物恋しさと、心の平和とを覚えたところの──温い柔かい物を額へ感じた。
「ああ、いいな、心が和む!」──紋也は半意識の中で、こう思って涙ぐみたくなった。「だがこれはなんだろう?」
燭台の燈火がまばたきながら、下へのばされて白く細く、抜け出ている女の頸足と、それへ崩れてもつれかかって、揺れている女の後れ毛とを、惨しくも見えれば艶かしくも見える、そういうように照らしていて、その下に蒼白の色をした、男の顔のあることを、これも橙黄色に照らしていた。いやいや燈光は、その男の額へ、接吻している女の唇の初々しい顫えをも照らしていた。
と、襖が静かに開いた。
襖をあけてはいって来たのは、紋也の妹の鈴江であった。
「容態はいかがでございましょうか?」
ささやくように訊ねながら、寝ている紋也の足のほうへ、鈴江はしずかにすわったが、不安そうに顔を差しのばすと、紋也の顔をのぞき込んだ。
「口をお動かしなされました。ほんのかすかではありましたが、眼もお開きなさいました。もう大丈夫でございます」
襖が開いたので驚いて、紋也の額にあてていた唇をあわてて離すと顔を上げて、急いでお粂はすわり直したが、こういうと鈴江をまぶしそうに見た。
「さきほども口をにわかにあけ眼を苦しそうにあけましたが、いまにも呼吸を引き取りそうなほどにも、危険く見えましてございますのであなた様をお呼び致しましたが……あの時にはどうやらあなた様には、門の内外でどなた様かと、お話ししておいでなさいましたようで」
「金兵衛殿とでございました」こうお粂は答えたが、金兵衛の名を口へ出したので、その金兵衛が門の外で話しかけた言葉を思い出した。
──巻き奉書といったようであった! 誰かが持って行くといったようであった! 妾に出て来て加勢をしてくれと、たしかにこうもいったようであった! ──
「巻き奉書、巻き奉書⁉」にわかにお粂はハッと思った。「私たちが以前から探している、あの巻き奉書のことかしら?」
──それにしても金兵衛はどうしているのであろう? なぜ屋敷へ帰って来ないのであろう? ──
お粂は急に気がかりになった。で、放心したように、部屋の一所へ眼をやった。
お粂は衣裳を着かえていた。いかにも武家の娘らしい、凛々しい姿となっていた。しかし全体が弱々しく、だる気でもあれば苦しそうでもあった。膝を崩してすわってさえいた。水戸様石置き場の空屋敷や、佐久間町の入り口で行なわれた、烈しい戦いに薄手ではあったが、幾箇所か傷を受けたからであった。崩している膝をおおうている、衣裳の裾をかかげたならば、傷を包んでいる白い布を、脛のあたりに見ることができよう。
左手を畳へささえるように突いて、右手をなるたけ動かさないように、膝の上へそっとのせていたが、その右の手のその腕あたりにも、繃帯は結ばれているのであった。島田髷も今は崩されていて、髪は無造作に束ねられていた。燈火を受けている右の頬の、耳の下辺に黒い痣が、大きくむごたらしくできていたが、棍棒などでうたれた痕であろう。
しかし負傷ということになれば、紋也のほうがいちじるしかった。燭台の燈火を横から受けて、しとねの上に仰臥して、その上へ絹夜具を引きかけて、咽喉と顔とを夜具の襟から出して、静まっている紋也から、夜具を取りのけて見たならば、手といわず足といわず胴といわず白布で一面にグルグルと、捲き立てられてあることに、驚かされるに相違ない。水戸様石置き場の空屋敷でこうむったところの傷なのである。
しかしいずれも致命傷ではなくて、ほんの浅い切り傷であり、骨にまで達しない打ち傷であった。しかし佐久間町の入り口で、桃ノ井兵馬と闘って、体あたりをしてくれたのが失敗して、自分で自分をあおのけに倒して、大地で後脳を打ったのが一番に重い傷といえよう。で、気絶してしまった。その気絶した紋也をになって、ここの屋敷へ連れて来るや否や、ここの屋敷に詰めている、医師によって手あてを加えられ、さっきから寝かされているのであった。正気づくことはわかっていたが、一刻も早く正気づくようにと、お粂も鈴江も願っているのであった。
いかに紋也の憔悴したことか! 眼窩がくぼんで蔭をなしている。頬の肉がゲッソリと落ち込んで、頬骨が高く立っている。髷はほぐれて乱れた髪を、枕の外へはみ出させている。
この部屋ははたして広いのであろうか? 病める人の神経をいら立てないように、燭台の燈火を細ませているので、お粂と鈴江と寝ている紋也との、三人の姿を照らしているばかりで、部屋を一杯には照らしていなかった。燈火の光の圏内に水を張った小桶だの薬の壺だのがにぶく光って置いてある。
「お粂様、お休みなさりませ」ややあって鈴江はお粂にいった。
「いえ」とお粂はすぐにいった。「妾がお看護いたします。あなたこそお休みくださりませ」「いえ」と鈴江は押し返した。「妾は疲労れてもおりませねば、怪我をいたしてもおりませぬ。それだのにあなた様はお疲労れでもあれば、お怪我もいたしておられますことゆえどうぞお休みくださりませ。兄は大丈夫でございます。妾が看護ることに致しましょう」
しかしお粂はどういわれても、この部屋から出ようとはしなかった。そうして紋也の介抱を、ほかの人にまかせようとしなかった。
お粂にとって山県紋也は、何物にも変えられない恋人であった。その恋人と難を受けて、その恋人と共に戦い、そうして共に怪我を受け、しかも恋人はそれがために、意識を失っているのであった。怪我をしたということと意識を失っているということとは、お粂には悲しくはあったけれども、そのためにこうやってその恋人を、自分で介抱をすることができる。──ということは喜びであった。自分も幾箇所か怪我をしている。しかしそれとても恋人と一緒に、受けたところの怪我であると、こう思えば苦痛にも感じなかった。
自分が介抱に堪えられないほどにも深傷を負っているのであったらほかならぬ恋人の妹である、鈴江に恋人の介抱を、こだわらずに依頼するであろう。現在の自分はそうではない。で、介抱がしたかった。それに! ──とお粂は思うのであった。京都の土地に紋也様には、許婚のお方がおありなさるそうな。ではどれほどに焦心れても、自分の恋心を紋也様には、将来受け入れてくださらないかもしれない。また自分にしてからが、水戸様石置き場の空屋敷の、笹家の土間で感情のままに、──亢ぶった感情の流れるままに、あなたに恋人がありましょうとも、よしんば許婚がありましょうとも、そのようなことは数にも入れず、きっとあなたを妾の手に必ず入れてお目にかけるなどといいはったものの、紋也様を心から恋している自分にはかえってできがたいことかもしれない。
二人の目的は同じでも、たのうだお方が別なのであるから紋也様にはご恢復をなされたらば、この屋敷から立ち去られて、妾などには眼もくれないで、お働きなされることであろう。ではこうやって自分の手で、紋也様の介抱のできるのは、今夜一晩だけであるかもしれない。とげられない恋の思い出に、どこまでも自分で介抱したい。──
で、お粂はすわったままで、鈴江に紋也の介抱をまかせて、他の部屋へ行って休もうなどとは、思いもしなければしもしなかった。
と、そういう優しい悲しい、お粂の心持ちが感ぜられたからでもあろうか、今鈴江は休むようにと、強いてお粂に勧めもしないで、向かい合って黙ってすわっていた。
細めておいた燭台の燈火が、にわかに焔を太くした。で、鈴江のくくれている、逞しいほどの頤のあたりに、ほつれている鬢の毛がテラテラと光り、お粂が膝へ置いている右手の爪を桃色に染め、二人の女に見守られている、紋也の乾いている唇から、洩れて見える前歯を白く浮き立たせた。しかし焔はすぐに細まって、以前よりも部屋の中が暗くなったので、二人の女と一人の武士との、姿が茫とぼけてしまい、焔が太くなった時に一枚の襖の一つの引き手が、妙にキラキラ輝いて見えたが、今は反対に見えなくなった。
二人の女は黙っている。と、その時襖の外から、鈴江を呼ぶ男の声がした。
「鈴江殿、行って参りました。お邸にはこれという異変もなく、代官松の一味の者の、襲ったようすもござりませぬ。しかしいまだに小次郎殿には、ご帰宅されてはおりませぬ……」
五十嵐駒雄の声であった。邸のようすが案じられ、小次郎の身の上も気にかかったので、鈴江が心配して五十嵐駒雄に、雉子町にある自分の邸の、ようすを見てもらいに行ってもらったところ、こういう返辞をもたらせ、駒雄が帰って来たのであった。
「静かに!」と鈴江は注意をして、紋也のようすをうかがった。駒雄の声が高かったからである。
「そちらへ参ってお聞きいたしましょう」
鈴江は部屋を出たが、その時例の老人の、神々しい声が聞こえて来た。
「しかれどもただ、業のみ敬いて、誠の心うすければ、君に諂うに近うして、君を欺くにも至るべし。本心より二心なく敬うを忠といえり、忠は己が心を尽くすの名にして、如才なき本心を、業と共に尽くすことなり。そのお側近うつこうる身は、はじめのほどは、恐れ慎むの心もっぱらなれども、慣れては衰うるものにや。古より忠は宦成に怠り病いは小癒に加わり、禍いは懈惰に生じ孝は妻子に衰うという、また礼記にも、狎れてしかしてこれを愛すといえり」
講義をしている老人の位置が、おそらく接近をしたのではなくて、紋也の意識が以前よりも、恢復されたがためであろう、そういう老人の講義の声が、紋也の耳へ粒立って、今は聞こえて来るようになった。
「どうでもこれは誤まりではない、竹内式部先生が、堂上方のおためを計って、お書きになった奉公心得書を、どなたかが講じておられるのだ」で、紋也はどうぞして自分も、講義の席へ連らなって、講義を聞きたい欲望にとらわれざるを得なかった。
「あの奉公心得書を講義する人があるとすれば、竹内式部先生か、そうでなければ自分の父上の山県大弐でなければならない。そうでなければ父上の同志の藤井右門殿でなければならない。しかしそれらの三人の方々は、とうに死なれてしまわれたはずだ」──それだのに講義をする者がある! これがどうにも紋也にとっては、不思議に思われてならなかった。したがって講義をしている人の何者であるかということを確かめたい欲望にとらわれもした。まず紋也は眼をあけた。
と燈火の光なのであろう、橙黄色のほのかな光が、以前のようにすぐに眼に映り、つづいてその中に浮いている白い女の顔が見えた。
「女がいる、誰であろう?」──紋也は女を確かめようとして、できるだけ強く視力を凝らした。すると白い女の顔が、静かに上へ昇って行った。「はて、これはなんということだ!」──こう紋也が思った時、女の顔がユラユラと揺れて、橙黄色の光が、ぼんやりと輪形を作っている天井の下を一方へ動いた。
「女は、どこかへ行くのだとみえる」──紋也は、漠然とそう思った。
事実それに相違なかった。
「金ちゃんはどうしているのだろう? なぜ帰って来ないのだろう? ……金ちゃんのいった巻き奉書という言葉! これも妾には気にかかる」──こう思ったお粂が我慢できなくなって、門外へ行ってようすを見ようと今そっと立って歩き出したのであった。
襖があいて半分閉じた、そのあわさり目からほの白い形が、紋也の寝姿に向けられた。
部屋の外の廊下へは出たものの、紋也のことが心にかかって、のぞいているお粂の顔であった。
が、その顔が引っ込んで、襖が全く合わさって、廊下を小走って行くらしいお粂の足音がしばらくの間聞こえやがて聞こえなくなった時には、この部屋には仰臥したままの山県紋也一人となった。
と、神々しい老人の講義の声がまた聞こえて来た。
「わけても君のご寵愛に預かる人は、幸いに天地万民のために君を正しき道にいざない奉り、ご前に進みては、道ある人を進め、善をのべ、邪まなる人はもちろん話をも防ぎ、ただ善き道に導き奉り、共に天神地祇の冥助を、永く蒙り給わんことを願い給うべし。しからば若き人のあまりに行き過ぎたるは、憎ましきものなれば、言葉を慎み、時を計り給うべし……」ここで講義の声が切れたが、すぐにあたかも叱咤するような、同じ老人の声が聞こえて来た。
「山県大弐、藤井右門、この人々の行ないこそは、あまりに行き過ぎたる行ないでござって、芽生えんとした尊王抑覇の大切の若芽を苅り取りたるものでござる!」
「何を!」と紋也は思わず叫んだ。と、その拍子に全身に怒りと気力とがみなぎって、意識が完全に甦った。
夜具が最初に一方へはねられ、次に紋也の起き上がった姿がしとねの上へ現われた。
と、紋也は立ち上がった。しかし痛みに堪えられないように、すぐに横倒しに倒れかかったが、そのかたわらに両刀のあるのを、手に引っつかむと脇差しを帯び、刀を杖にまた立ち上がるや、スルスルと部屋を襖のほうへ歩き襖を蹴開くと廊下へ出た。
廊下へ立ちいでた山県紋也は、まず四辺を見まわして見た。廊下は長くのびていたが、ところどころに金網をかぶせた、網行燈が置かれてあるので、廊下はどこまでも見渡されて、その一方がずっとかなたで、突然に絶えているのが見え、そこに階下へ行く降り口の、設けられてあることが見受けられ、したがってここがこの屋敷の、二階にあたっていることが、おのずから紋也に感ぜられた。が、そっちからは講義の声が、聞こえて来るとは思われなかった。
廊下の左右は部屋部屋と見えて襖が一つづきに並んでいた。その襖へ背中をもたせかけてともすれば衰弱で倒れようとする、体をようやくこらえ、刀を杖に突くようにして、紋也はしばらくたたずんだが、ほかの一方の廊下のほうへ、おぼつかない眼を走らせた。
と、数間離れた距離の、廊下の一所へ蒼々と、月光らしいものがさし込んでいて、木立ちの影とも思われる物が、同じ廊下の一所の、月光らしい光の中に、躍っているのが見て取られ、その方角から講義の声が、聞こえて来るように感ぜられた。
「父上の所業や藤井殿の所業を、行き過ぎた所業だとののしりおった! この言葉ばかりは許されない!」──と、こういう憤りが、半意識の中に伏せっていた紋也をして、意識を恢復させ床から起こし部屋を出させ、廊下へ今や立たせたのであったが、同じ憤りが紋也を駆って、講義の声の聞こえるほうへ、夢中に足を運ばせた。
と、すぐかたわらに網行燈が、片寄せられて置かれてあったが、その前を紋也が通った時、よろめく足の右の足首に、巻かれてある繃帯が赤黄色く染まった。網行燈の燈火が照らしたからである。
しかしその足のすぐ前に、水のようにテラテラ濡れ光る物が、廊下から縦に上のほうへ、延びているのはなんであろう? 杖にしている刀の鞘が、網行燈の燈火に照らされ、同じように光っているのであった。と、その刀の鞘が動いて、前方へ向かって歩き出した時、繃帯をした足も歩き出した。と、今まで廊下の右に、落ちていた紋也の影法師が、前方の廊下の面へ落ちた。網行燈を背後に見すてて、紋也が先へ進んだからである。
しかしまもなく紋也の姿が、蒼白く半身照らされて見えた。月の光のさし込んでいる、その一所まで行ったからである。
で、紋也は月の光の、さし込んで来るほうへ眼をやった。
廊下を中にしてその左右に、部屋部屋が二列に立ち並び、襖を二列に並べていたが、そこばかりには部屋がなくて、部屋のある所には欄干があり、その向こうに広大な中庭があり、月がその向こうの空にあって、植え込みの枝や葉をくぐって廊下へまでも蒼白い光を、水のように注ぎ込んでいるのが見られた。
中庭はきわめて広かった。が、その広い中庭へ二棟の部屋が向かい合って、翼のように突き出されているので、その二棟の部屋によって、包まれている中庭の一部は、これはきわめて狭かった。その二棟の部屋のうち、左側にあるのがたった今し方、紋也が寝ていた部屋であり、向かい合った右側の部屋から、講義の声が聞こえて来た。
この屋敷は宏大であり、その上に厚い土塀によって、外界と境をなしていた。その土塀の内側には、常磐木が鬱々と籠っている。で、屋敷の構内の、どの部屋で講義をしようとも、声は外界へは聞こえないであろう。
という安心から来ているのでもあろう、今、講義の行なわれている、右側の部屋にはたった一枚の、雨戸さえ引かれてはいなかった。で、その部屋で灯されている、燈火の光が塗り骨障子の、障子の紙を赤黄色く染め、中庭の一部を明るめていた。見ればその部屋と向かい合っている、紋也が今までいた左手の部屋の、雨戸も一枚も引かれてなかった。
なるほど、老人の講義の声が、寝ていた紋也の耳へまで、筒抜けに届いて来たはずである。
やがて紋也の立ち姿が、月光の上から突然に消えて、廊下の先のほうへ現われた。が、その次には紋也の姿は、廊下のどこにも見えなくなった。しかし廊下が鉤の手に曲がって、老人が講義をしている部屋の、入り口のほうへつづいていたが、その廊下の先へヒョロリヒョロリと進んで行く紋也の姿は見られた。
鉤の手のように曲がっている廊下を、先へたどるにつれて、神々しい老人の講義の声や、多勢の人たちの衣紋を直す音や、しわぶきの声などが聞こえて来た。続いている廊下の左側に、一面に立てられてある襖があったが、広い部屋だということは、その襖の数がおびただしいので知れた。数間の先にあるのであったが、衰弱をしている紋也には、そこまでたどるのがたいていでなかった。
例によって刀を鞘ぐるみ突いて、それを唯一の杖として、よろめく足を踏みしめ踏みしめ、この廊下にも置いてある、網行燈のかたわらを過ぎ、過ぎる時繃帯した右の足首の、白い繃帯を赤黄色く染め、刀の鞘を水に濡らしたように、テラテラと艶々しく光らせて、わずかにするようにして進むのであった。
これほど宏大な屋敷であるのに今歩いて来た廊下にも、今歩いている廊下にも、廊下の左右の部屋部屋にも、人の姿の見えないのは──人のいる気勢のしないのは、いったいどうしたことなのであろう? 屋敷中の人が出払って、一つの部屋に集まって、老人の講義を聞いているのであろうか? が廊下を通る者のないのはその者にとって幸いであり紋也にとっても幸いであった。誰かが廊下を歩いて来て紋也の姿を見かけたならば、必ずや誰何するであろう。と、紋也は気が立っている。一刀に切って捨てるかもしれない。ただちに血の雨が降らされる。屋敷中の人々が現われ出て紋也を取りこめて惨殺するかもしれない。
しかし人は通らなかった。で、今はひそやかであった。
それにしても対照の変わっていることよ! 一室においては大義名分の、おだやかな講義が行なわれていていずれは衣紋を正しゅうした、多勢の武士たちがかしこまって、その講義を粛然と聞いているであろうに、廊下では刀を杖に突いた乱髪の負傷した山県紋也が、よろめきながら歩いている。
その紋也の心持ちといえば、竹内式部先生が、書き記した奉公心得書を、講義している老人が、竹内式部先生の、衣鉢を継いで勤王抑覇の、運動を起こした紋也の父の山県大弐や、その同志の藤井右門の行なった業を、行き過ぎた所業だとこのようにいって、非難を加えていることに、憤りを抱いているのであった。
「では父上の遺業を継いで、事を謀っているこの紋也の今日まで行なって来たことも、行き過ぎた行ないといわなければなるまい!」
「いや、そのようなはずはない!」
不意に紋也は歩みを止めた。見れば講義の行なわれている広いらしい部屋の襖の前に、この時たどりついていた。
少し紋也の姿勢がのび、突いていた刀がヒョイと上がり、鐺が左の脇の下から、背後のほうへ突き出された。すぐその鐺の光ったのは紋也の背後の廊下の一所に、網行燈が置かれてあって、その光が鐺を照らしたからであった。
紋也の姿勢ののびたのは、全身に力を入れたからであって、刀を小脇に抱い込んだのは、襖をあけた瞬間に、部屋の中にいる武士たちの群れが、斬り付けて来ないものでもない、その時抜き合わせて戦おうと構えをつけたがためであった。
背後に置いてある網行燈のかたわらに人が立っていて、紋也の姿を見ていたならば、一旦のばされた紋也の姿勢が、やがて反対に前へ傾き腰から上が暗くなり、頸足ばかりが暗い中で、妙に生白く見えたことと、腰から下が網行燈の光で、ほのかに明るんで見えていて、右の足が前へ踏み出され、左足が背後へ踏み引かれ、踵を上げたその左足の踵が網行燈の光に染まって、際立って赤黄色く見えたことと、左の手がそっとのばされて襖の引き手へ掛けられたこととを、見て取ることができたであろう。そうして次の瞬間、襖が一枚引きあけられ、あけられた隙から燈火の洪水が、一部屋からドッと流れ出て、紋也の姿を光に溺らせ、その紋也をしてのけぞらせたことを見てとることができたであろう。
講義の行なわれている部屋の襖を、引きあけた紋也は、何を見たか? 燈火の洪水に溺れながら、体をのけぞらせたばかりであった。紋也の考えでは襖をあけて、部屋へ踏み込もうと思っていたのである。それが部屋へ踏み込まないばかりでなく、あべこべに背後へのけぞったのである。意外な光景を見たものと、こういわざるを得ないだろう。
しかし意外な光景は、その部屋ばかりにあるのではなくて、全然別の場所にもあった。女駕籠をにない小次郎を吊るした例の異形な行列が、入り込んだ二階屋がその場所であった。
被衣はかぶってはいなかったが、緑色の小袖を一様に着た、四人の老女が半円を作って、半円の切れ目へ燭台を置いて、その光で綴じ紙を眺めながら、顔を寄せ合ってささやき合っていた。
一方の仕切りは襖であったが、立てつけの悪い安物と見えて、襖と襖との合わさり目が、よく合わされずに隣りの部屋の、燈火も見えればささやく声なども、細かくこちらへ聞こえて来た。
と、一人の老女がいった。
「りっぱなお屋敷でございますな」──で、図面を指さした。片眼の上瞼がダラリと下がって、ほとんど瞳をおおうていて、隻眼のように見えている。それは醜い老女であった。「りっぱなお屋敷でございますわい」こう応じたのは鼻柱が曲がった──それは性的の悪い病い、中年のころに曲がったものらしい。──同じく醜い老女であったが、「このお屋敷には見覚えがある。これは水戸様のお下屋敷でござるよ」ともう一人の老女へいった。「あなた様にもお見覚えがありましょうがな」
するともう一人のその老女がいった。
「妾にも見覚えがございますとも。水戸様のお下屋敷でございますとも」──そういった老女の醜さも、他の老女に負けなかった。上の歯茎がこれも悪病でほとんど腐って取れていた。で、言葉が不明瞭であった。
「よくまあこれだけ詳しく正しくあの水戸様のお下屋敷を、写したものでございますなあ」
後につづけてこういったのは、これも三人の老女に劣らず、醜いもう一人の老女であった。眉毛が左右ともなくなっている。
隻眼に見える老女がいった。
「なんの符牒でございましょう、赤い色で十文字が記されてあります。ほんの小さく図面の一所に……」
そこで、四人の老女たちは、白髪の頭を寄せ合った。と、燭台の燈火が映えた。で、あたかも老女たちの頭は、小長い無数の銀の線を、綯い合わせてできた畸形な球が、四つ塊まっているように見えた。
そういう四つの球の下に、これも燭台の燈火を浴びて、橙黄色に映えている、綴じ紙の最初の一枚が、広げられたままで置かれてあったが、いかさま見ればその面に、大門、玄関、客間、寝室、別館、大書院、亭、廻廊、控えの間、宿直の間、廐舎、婢女の間、家士たちの溜り、調理の場所、無数の建物が描かれてあり、そういう建物をグルリと取り巻いた、前庭後庭中庭などの、変化縦横の庭園の様が、同じく精巧に描かれてあった。と、一所に築山があり、裾をめぐって流れがあり、巨大な池がその末にあり、池に石橋が渡されてあり、石橋を渡った一所に、石燈籠が立っていたが、その石燈籠の台石のほとりに、朱色で十文字が記されてあった。
と、皺だらけの手がのばされ、枝のようにコチコチとひからびている、二本の指がひょいと動いた。鼻柱の曲がっている一人の老女が綴じ紙を一枚めくったのである。
と、そこにも大名衆の、下屋敷らしい宏大な、建物と庭園との絵図面がこれも精巧に描かれてあった。一所に竹の林があり、その竹林の根もとのあたりに、同じく朱色の十文字の符牒が、あるかなしかに描かれていた。しかも数は二個であった。
「これはどうやら土屋采女正様の、お下屋敷のようでございますな」歯茎の取れている老女がいった。が、すぐに紙がめくられた。
めくられた綴じ紙の面には、またも図面が描かれてあった。しかし大名の下屋敷などの、庭を取り入れた図面ではなくて、四面を小丘で囲ませて、その中央の低い所へ、豪農らしい堅固質素の、しかし十分宏壮な家が、作られたところの図面であった。
眉毛のない老女がつぶやくようにいった。
「よい家相でございますな。──四面高くして中央平坦、ここに家宅を構えるものは、富貴延命六畜田蚕、加増されて名誉の達人起こり、君には忠、親には孝、他に類少なき上相となす──家相にピッタリとはまっております。どこの農家でございましょうやら?」
──で、三人の老女たちを見た。
「どこの農家でございましょうやら」
隻眼の老女はこう答えておいて、こごませていた体を上へのばすと、投げるように頭を背後へやった、と、すぐその顔を燭台の燈火が照らした。額にも頬にも紐のような、太い皺が幾うねかうねっていて、乏しい燭台の燈火の光に、陰をなすまでに深くもあった。「江戸の界隈に建てられた、農家のようではございませぬな。建て方がいかにも田舎じみております」
「美濃あたりの建て方でございます」
ややあってこのようにいったのは、鼻柱の曲がっている老女であった。「それにしても不思議でございますな、小丘の麓に赤い色で、十文字が三つ記されてあります」
その十文字の赤い符牒を、たしかめようとするかのように、その鼻柱の曲がっている老女は、いよいよ体をこごませて、顔を図面へ押しつけるようにした。
すぐに抜け出た頸足が、燭台の燈火に照らされたが、脂肪気がなくてカサカサとしていて、折れそうに細っこくて穢ならしかった。それでいて腫物でもあるのであろう、角に切った膏薬が貼ってあった。
いかにもその老女がいった通り、東側に立っている小丘の麓に、朱色の十文字が小さくはあったが、たしかに三つ記されてあった。と、一本の腕が出て指が綴じ紙を一枚めくった。横から歯茎の取れている老女が、次の図面を見ようとして、綴じ紙をめくったのであった。
また図面が描かれてあった。
とはいえそこに描かれてある図面は、大名衆の下屋敷でもなく、田舎の豪農の家でもなく、一宇の寺院の仁王門であって、その仁王門の礎のあたりに、例によって朱色の十文字の符牒が、このたびは四つ記されてあった。
「どこの仁王門でございましょう?」
こういったのは歯茎のない老女で、こういうと片方の膝を崩し、体をいやらしくクネクネとさせた。少し拡がった胸もとのへんを、燭台の燈火が光らせたが、一つ家の鬼女を想わせるように、皮膚がたるんでいて茶色をなしていた。
誰も返事をしなかった。誰もが知っていないからであろう。
「どれどれ次をめくって見ましょう」
こういって体をいざらせて来たのは、両方の眉毛のない老女であったが、少しく燭台へ接近したため、禿げている眉の痕がテラテラと光って、癩患の人間を連想させた。と、その老女が綴じ紙をめくった。と、すぐに声々がいった。
「これは珍しゅうございますな」「大河があります。岩があります?」「信濃あたりの地図でもあろうか?」「ここには十文字の符牒がない」
いかさまめくられた紙の面には、山岳と森林と大きな河と、突兀峨々としてつらなっている岩とによって形作られている所の広汎の地図が描かれてあった。一人の老女がいったように、朱色で記された十文字の、例の符牒は付いていなかった。
が、その代わりに大河の流れに、これはなんという美しい色だ! 燃え立つばかりの深紅の色で、牡丹の花が描かれてあった。
この謎めいた牡丹の花には、醜い四人の老女たちも、特に好奇心をそそられたと見えて、無言で一所へ視線を集めた。
で、しばらく静かであった。しかしその時隣りの部屋から、
「枕をおかいなさりませ! おいやならば……そう、おいやならば……」と、そういう艶めかしい女の声が、そそのかすように聞こえて来たので、老女たちはニッと笑い合った。
隣りの部屋の女の声を聞いて、笑ったのは女たちばかりではなくて、ほかに四人の男があった。女の声の聞こえて来た、その部屋を中にはさむようにして、老女たちのいる部屋からいえば、反対側にあたる所に、同じような部屋ができていたが、そこに置かれてある一基の燭台の橙黄色の燈火に照らされ、端坐をしたり、肘枕をしたり、横になったり、胡坐をかいたりして、武士にあるまじい自堕落な態度で、緑色の衣裳を一様に着た、四人の美貌の若い武士がいたが、この武士たちが笑ったのであった。一人の武士がいった。
「ちと今夜ののは手剛いと見える」肘枕をしている武士なのであったが、こういうと荒淫の女の唇を、連想させるに足るような赤い薄手の受け口めいた唇を、いよいよ上へそらすようにした。枕にしている左の腕が、肘のあたりから露出していて滑らかそうな柔かそうな蒼白い皮膚が燈火に映えて見えた。睫毛がとりわけ濃いためか、眼が隈取られているように見える。「が、どのように我を張っても、しまいにはきっと退治られる奴さ! 我を張るだけが馬鹿というものさ。それに苦痛の事ではなし」
「そうだ」とすぐに答えるものがあった。端坐している武士であって、この武士の特色ともいうべきものは、女などよりも髪の毛が多く、女などよりも髪の毛が黒く、艶々と光っていることであった。
「そうとも、苦痛のことではないよ。いや苦痛の反対だ」ここでその武士は腕を組んで、考えるように首を傾げた。で、左の半面が、燈火の光にそむくようになった。そのためでもあろう、端麗の鼻が、一方の側へ濃い陰をつけて、その端麗さを浮き彫りにした。「ああ、だがあれはどこだったろう? 俺が夢をむさぼったのは?」ここでその武士は左へ傾げていた首を、右のほうへ傾げ変えた。で、鼻の反対側に同じように陰が濃くついて、同じように端麗さを浮き彫りにした。
「めっきり記憶がなくなってしまった。俺の頭はどうかしている。いやいや頭ばかりではない、身体全体がどうかしている。精力がない! 虚茫けてしまった。……はっきり覚えていることといえば、その時の痙攣一つだけだ」
「俺といえどもそうなんだよ」ややあってこのようにいうものがあったが、それは燭台に遠く離れて胡坐をかいている武士であった。三日も四日も日の目を見ずに、寝部屋ばっかりに伏せっていて、異性の匂いばかりを嗜んでいたため衰弱し切った若い男に、往々見られるそれのような、怪しい淫な病的な、赤味を頬に持っていて、それがかえって美しい、──といったような武士であった。「俺といえどもそうなんだよ、痙攣れるような思い出ばかりが、頭の一所に残っているばかりで、そのほかのことは覚えていない。……しかし俺はどうしても求める! あの恍惚とした夢を求める!」
──間! しばらくは静かであった。燭台に丁字ができたと見える。燭台の燈火が細まって、部屋の中がおもむろに薄暗くなった。その薄暗い部屋の中で、絶望したような声が聞こえた。
「俺だけは出たい! この境地から出たい! そうして昔の俺になりたい!」胡坐をかいている武士のかたわらに、長々と身体をのばした姿で、横になっていた武士があったが、その武士が悲痛にそういったのであった。「四人の中では最初だった! 俺が一番最初だった! あの、痲痺と陶酔とを味わったのは!」ここでその武士は仰臥した。と、その富士型の秀でた額を、燭台の燈火が橙黄色に照らした。
「一人であるように願ったものだ! あの餌食になるものが、この俺一人であるようにと! ……ところがそこへお前たちが来た! そのほか毎晩外来のものが幾人となくやって来た! どんなに俺は嫉妬したか! どんなに俺は悩んだか! それこそ俺は発狂しそうだった! でも俺は待っていた! どうぞもう一度来るようにと! ああ、そうなのだよ、しかし今では諦めてしまった! 昔にかえりたい! この境地から出たい!」
──間! しばらくは静かであった。戸外で吹く風の音ばかりが聞こえる。しかし隣り部屋から女の声が聞こえた。
「……屏風へかけるがよいよ!」
その声を聞くと四人の武士は、眼を見合わせてまたも笑った。
その中の一人の武士がいった。
「屏風へかけるがよいよ、か、……うむとうとうそこまで行ったか」──で、じっと耳を澄ませた。
「俺にもそういうことがあった」もう一人の武士がややあっていった。「で、俺は帯を屏風の上へかけたものだ」ここでその武士は考えるようにしたが、「その時俺の献上の帯が、キューキューと鳴ったのを覚えている。そうしてあの縮緬の帯が、先に枝垂れた花のように、屏風の上にかけられてあって、なかば眩んでいた俺の瞳に、焼きついたのも覚えている」──この武士もじっと耳を澄ませた。しかし隣りの部屋からは、何の物音も聞こえなかった。
仕切られているところの襖の桟の、隙間がかなりあいているので、隣りの部屋をのぞこうとしたら、十分のぞくことはできるのであった。いやいやのぞくことができるばかりではなくて、むしろそこからのぞかせようとして、意識して桟をあけてあるのだと、そう思われる節さえあった。
こう一人の武士がいったのである。
「なぜ我々に見させようとするのか? なぜ我々に聞かせようとするのか」
桟は黒く塗られていた。黒い二筋の縦の縞の中に、橙黄色の一筋の縞が、光をなして引かれていた。隣りの部屋の燈火の光が、桟の隙間からさしているのであろう。と一瞬間橙黄色の縞が、真紅の色にカッと燃えた。緋の縮緬でも横切ったのであろう。
「なぜだろう俺にはわからない」眉毛の濃い武士が肘枕をしたまま、こういって軽くその眼を閉じた。
「獣の匂いがしたのだからなあ」
「俺には古沼の匂いがしたよ。そうして大森林の匂いがしたよ」病的に怪しい赤味を頬に持っている武士がいった。「そうしてその匂いをかいだ時に、遠い太古の歌のようなものが聞こえた。あのお方の肌が歌ったのでもあろうよ?」──それから組んでいた胡坐をとくと、二本の足を畳の上へ這わせた。と、燭台の燈火がすぐに照らして、くるぶしのあたりからうねっている静脈を黒く浮き立たせた。
「俺は外来の男を羨む」つぶやくようにいったものがあった。富士型の秀でた額を持った、横様に寝ていた武士であったが、こういうとグルリと寝返りを打った。女の腰を想わせるような、ねばっこい細いきゃしゃな腰が、それにつれて軟らかくうねったので、爬虫類でもうごめいたように見えた。
「彼らは一度で抛り出されるのだ。死骸のようにグダグダにされて、裏木戸から外へ抛り出されるのだ。が、彼らも一生涯、そのことは忘れられまい。そのため癈人になるだろう。とはいえ毎夜見聞きしなければならない、俺たちよりは幸福だろう」
間! またも静かになった。しかし隣り部屋から女の声が聞こえた。
「誰よりもお前が気に入ったよ」
どうやらこういった女の声は、若い美貌の武士たちを、驚きと絶望とへ陥入れたらしい。四人一度に寄り添ってしまった。でおのずから四人の姿は、燭台の燈火を中央にして、一種の円陣を形作った。眉毛の濃い武士の切れの長い眼は、いつもの倍ほどに見ひらかれているし、富士型の額を持った武士の、鬢の後れ毛は顫えているし、端麗な鼻をした武士の頬は、いちじるしく痙攣を起こしているし、薄手の受け口めいた唇の武士は、ガチガチと奥歯を噛むようにした。と、富士型をした額を持った武士が、にわかにヨロヨロと立ち上がった。すると、腰から裾へかけて、燭台の燈火がからみついて、裾から出ている足の革足袋の、紫色を藤色に染めた。と、その武士はよろめくように歩いて、襖の前まで寄って行ったが、あたかも襖へ食いつくようにして、その襖の合わさり目から、隣りの部屋をのぞいて見た。
すると端麗な鼻を持った武士が、不安そうに声をかけた。
「貴殿ばかりは見てはいけない。よくないことが起こるだろう」すると受け口の武士もいった。
「そうだ、なるたけ見ないほうがいい。貴殿は一番苦しんでいる。だからなるたけ見ないほうがいい。……窒息して死ななければ、自分で自分を殺すようになろう」するともう一人の武士がいった。
「我々四人は仲間なのだ。一人欠けても寂しくなろう。なるたけ大事を取ってもらいたい! 貴殿見るのは止めたほうがいい」
しかし富士型の額を持った武士は、隙見をすることをやめなかった。
「今、あのお方は頤を両手でささえておられる。蝮の眼が若衆武士を狙っている」隙見をしながらそういった。
四人の武士が集まって、燭台の燈火を取り巻いていたのが、富士型の額を持った武士が、一人だけ円陣から抜け出して、襖の面へくっついたので、円陣の一所へ空所ができてそこからさし出ている燈火の光が、襖のほうへ届いて行って、そこにくっついている例の武士の腰から踵までを光らせている。腰にたばさんでいる小刀の鐺が、生白く光って見えるのは、そこへ燭台の燈火が、止まっているがためであろう。
と、その武士がうなされるようにいった。ずっとその先に若衆武士がいる……蒼白な顔! 食いしばった口! 若衆武士は半身を縮ませている! 狙われている蝶のようだ! あのお方の頸足が象牙の筒のようにのびた。象牙の玉を半分に割って、伏せたように滑らかで白い肩だ! 焔が二片畳の上を嘗めた! だんだん距離がせばまって来た。でも五尺はあるだろう。
そういっている武士の後ろ姿を、三人の武士は不安そうに、凝視しながらささやき合った。
「昔へかえりたい! この境地から出たい! ……こう、あの男はいったではないか、その男が隣りの部屋を見ている。諦めから猛然と反対のほうへ行こう!」
「嫉妬のためにいたたまらずに、のがれようとしているあの男だ! それが隣り部屋を見ているのだ! 兇暴になろうぞ、血を見ることになろうぞ!」
「お聞き、あのお方の声が聞こえる」はたして声が聞こえて来た。
「こういうことはこれまでになかった! お前は妾には不思議に見える! 優しい顔や姿には似で、おごそかで清らかな心を持ってる。だから妾には好ましいのだよ。妾はぜひともその心を食べて、噛み砕いて呑んでしまいたい! お前は『永遠の男性』らしい。だから妾は食べてやりたい! そうしてお前を変えてやりたい!」
女の声の絶えた時に、例の富士型の額を持った武士が、顫える声でいいつづけた。
「今、若衆武士が右手を上げた。だがあの眼は何といったらよいのだ! 悲しみの涙をたたえていて、怒りの焔を燃やしている。……だが背後へ引こうとしていながら、同じ所から動かない。とうとう距離は三尺ばかりになった」
そういう武士の後ろ姿を、仲間の三人の美貌の武士たちは、恐怖しながら見守った。
「すぐにあの男は悶絶するぞ!」──その時女の声が笑った。
笑い声をまじえた女の声が、四人の美貌の武士たちのいるこなたの部屋へまで聞こえて来た。
「もがいても駄目なら忍耐えても駄目だよ。どうせはそこへ落ち込むんだから。みんなの男がそうであったように。でも暁方の鐘が鳴ったら、あるいはそうでなくなるかもしれない。とはいえ結局はのがれられないのだよ。夜は今夜だけではないのだから明日の夜もあれば明後日の夜もある。夜は永遠につづくのだよ。昼が永遠につづくように。……夜は女の領分なのだよ! 歯朶の葉が人間の丈よりも高く、獣皮の天幕で女王様が、男を召したころから! 夜になるとそのころの荒野の洞窟に、住居をしていた占術家の魔女が十三の髑髏の盃の中へ、いろいろさまざまの草や木や石や、生物から採ったお酒を盛って、妾の所へ来るのだよ。何で妾が飲まないことがあろう。飲むと妾は甦るのだよ。呼吸に身体に心持ちに、太古の女王様が甦るのだよ。誰であろうと妾を止めることはできない。止めた人へは笑ってやる。するとその人はのがれてしまう。誰であろうと妾をさえぎることはできない。さえぎった人へは睨んでやる。するとその人は逃げてしまう。お父上であろうと母上であろうと、兄弟であろうと役人であろうと! だが妾はさえぎらないのだよ。どうして、そうなのか知らないのだよ。魔女が教えてくれただけだよ。『誰も彼もが持っているものをお前へ強くくれたばかりだ』と。『お前は永遠の女性なのだから、永遠の男性を見付け出すまでは、そういうことをしてもよい』と。おいで! さあ、ここへおいで! なんだか妾には思われるよ! お前こそ妾の見付けていた魔女のいった永遠の男なのだと! おいで、さあここへおいで!」
ここで女の声は絶えた。麻痺されるような沈黙が来た。何がその次に起こったろうか?
「今、あのお方が飛びかかった! なんだ! ああ! 腰刀が抜かれた!」
しかしその次にはその武士は、喜びと恐怖とで飛び上がって、襖から離れて畳の上へ倒れた。
「突いた! 股を! 自分の股を! とうとう忍耐た! 若衆武士は忍耐た!」
何がその次に起こったであろうか? 四人の醜い老女たちの、控えている部屋へ行って見たならば、何が起こったか知ることができよう。
四人の醜い老女たちは、その時一度に立ち上がった。というのは隣り部屋を仕切っている、襖が向こう側から蹴放されて、抜き身を握った山県小次郎が、股から下を血に染めて、よろめきながら出たからである。
が、小次郎はすぐに倒れた。倒れながら小次郎は夢中のように、畳の上にひろげられていた、綴じ紙を片手で引っつかみ、股の一所へ押しあてた。流れ出る血汐をおさえたのである。
そういう小次郎を見守っているのは、茫然とした四人の老女であったが、その老女たちの背後にあたって、すなわち蹴放された襖の奥の、隣りの部屋の敷居際にあたって、皓々とした発光体のような、純白な生物が佇立していた。これも小次郎を見守っている。
洞然と開かれていた小次郎の眼が、しだいしだいに細まって来た。と、睫毛が下眼瞼をおおうた。俄然身体が傾いた。で、小次郎は横へ倒れた。股のあたりが、だんだんと赤く染まって行く。綴じ紙が血汐を吸うからであった。しかも小次郎は綴じ紙を、握ったままで放そうとはしない。──で、部屋の中は陰惨として、限りない静寂に充たされていた。
と、そういう静寂を破って、佐久間町の往来からわめく声が、ここの部屋まで届いて来た。
「お粂の姐ご、一大事だ! お屋敷の方々、大変でござんす! 代官松の一味の者が、多勢押し寄せて参ります!」
それは金兵衛の声であった。
金兵衛が往来を走っていた。いやいや走っているのではなくて、這いまわってうごめいているのであった。その片側に神田川の、ゆるやかに流れる川を持ち、反対の側に家並みを持った、この佐久間町の往来には、例によって月光が敷き満ちていて、蒼白い明るさを保っていたが、行人の姿は見られなかった。で、うごめいている形といえば、金兵衛以外には一個もなかった。その金兵衛の姿と来ては、さながら襤褸の塊りのようであった。髻がちぎれて髪が乱れて、顔へかかっているがために、金兵衛の顔はわからなかったが、時々一所が白く光った。犬の歯のような反歯であった。
地に突いている左右の手が肩までムキ出しに見えていて、脇の下から翼のような物が時々ひるがえって宙に泳ぐのは、両方の袖が半分ちぎれてブラブラになっているかららしい。今、金兵衛は先方へ躄った。がその次には横へ倒れた。すると右の手が空へ向かって、棒のように突き出された。何かその手が握っている、抜き身を持っているはずであって抜き身なら月光に光らなければならない、ところが光ろうとはしなかった。何を握っているのだろう? 刀身の折れた柄ばかりを、依然抜き身であるかのように懸命に握っているのであった。体を起こすと躄って進んだ。
「お粂の姐ご、一大事だ! お屋敷の方々、大変でござんす!」ここでまた金兵衛は横倒しになったが、起きると先へ躄って進んだ。「代官松の一味の者が、多勢押し寄せて参ります!」何を金兵衛はどうしたのだろう? 巻き奉書と綴じ紙とを、逃げて行った泉嘉門の手から奪い取ろうと追って行ったところを、嘉門と逢うことはできなかったが、その代わりに鴫丸と久しぶりに会い鴫丸の駄弁を聞いているうちに、いくばくかの時間を潰してしまった。で、鴫丸を嚇しつけて、抜き身を揮って追い払って、金兵衛は嘉門に追い付こうと、なおも先のほうへ走って行ったところ、代官町へいつか出た。
と、目明しの代官松が、乾児や兄弟分を引き連れて、水戸様石置き場の空屋敷から、自分の家へ帰るのと逢った。ギョッとはしたがさすがは金兵衛で、そのまま引っ返して逃げようとはしないで、こっそりと体を忍ばせて、代官松の住居へ近寄り、彼らのようすをうかがったところ、水戸様石置き場の空屋敷で、紋也やお粂を取り逃がしたことに、怒りをなした代官松が、兇暴となり自暴自棄となって、衆をひきいて佐久間町の、儒者ふうの老人の籠っている、屋敷に乱入をした上で、儒者ふうの老人を退治てしまえと、荒々しく命じている声を聞き、それの用意に取りかかった、兄弟分や乾児の行動を、見届けて金兵衛は胆をつぶした。そこで素早く走り帰って、この一大事を屋敷の人々へ、至急注進しようとした。
で、走って来たのであった。しかし金兵衛は傷を負ってはいたし、おびただしく疲労をしていたので、佐久間町の通りまで来たころには、走ろうにも走ることができなくなった。そこで這ったり躄ったり、うごめいたりして二尺三尺と、儒者ふうの老人の籠っている、屋敷のほうへ進んでいるのであった。辛うじて躄って進むばかりでなく喚きの声を上げるのさえ、今はほとんど絶え絶えであった。それでも四軒並んでいる、空家の前を通り抜けて、目的の屋敷の土塀近くまで来た。それだのに眼の前に見えている、大門まで一気に行けないのは、疲労と衰弱とが極端に、金兵衛を虐んでいるからであろう。
「来るのだ! 姐ご! 大勢来るのだ! 今度こそあぶない! がむしゃらになってる! 代官松めががむしゃらになってる! ……俺らだ! 金兵衛だ! 誰か来てくれ! ……苦しい! ナニ糞! だが苦しい! 水だ! 水をくれ! 舌がつるんだ……足がつるんだ! 歩かれねえ! ……うッ、うッ、うッ」といったかと思うと、ようやく大門の前まで行き、手を伸ばして潜り戸に触れたが、全く気絶をしたと見えて、伸ばした両手の腕の上へ、額を押しあてると動かなくなった。と、この時往来の一方の金兵衛がたどって来た方角から、黒い雲でも湧き出したかのように、一群の人数が現われ出て、こちらをさして寄せて来た。代官松の一味であった。しかしこの時潜り戸の内側で、二人の女の話し声がした。
「お粂様、どちらへ参られます?」
「はい、妾、金兵衛殿を探しに……鈴江様、どちらへ参られます?」
「はい、妾、小次郎を探しに」──で、潜り戸をあける音がしたが……。
お粂と鈴江との話し声が、潜り戸の内側から聞こえて来て、潜り戸をあける音がしたが、そのまま潜り戸があけられて、気絶をしている金兵衛や、はるかの往来に姿を現わした代官松の一味の者を、お粂と鈴江とが認めたならば、事件は大波瀾となったことであろう。
が、事件を少しく後へ戻して、儒者ふうの老人の籠っているこの宏大な屋敷の裏の、月の光のさし込んでいる庭の一所へ鈴江を置いてその心持ちを探ることにしよう。
弟の小次郎の安否を気づかい、五十嵐駒雄を走らせて、神田雉子町の自分の家の、ようすを見させにやったところ、家には変わったこともなく、小次郎の消息は不明であると、駒雄が報告を持って来たのは、鈴江が兄の紋也の寝ているここの屋敷の二階の部屋に、お粂と話していた時であったが、詳しくようすを訊ねようとしてその部屋を出て駒雄と一緒に、鈴江は裏庭へ出て行った。しかし、そうやって裏庭へ出て、駒雄に詳しく訊ねたが詳しく知ることはできなかった。というのはきわめて匇卒の間に、駒雄は雉子町の紋也の家を見まわして調べたに過ぎないのであるから。で、代官松の一味の者が襲っては来なかったということと、小次郎がいなかったということと二つ以外にはいうことはなかった。そこで鈴江は駒雄へ頼んだ。
「どうぞ雉子町の私たちの家で、留守居していただきとう存じます。そうして小次郎が帰りましたならば、今夜の事情をお話しくだされて、ここのお屋敷へあなたともども、ぜひともおいでくださいますよう」──そこで駒雄は意を体して、雉子町の紋也の家へ行き、鈴江ばかりが裏庭へ残った。裏庭の土塀の内側に添って、木立ちが深く茂っていたが、それの一本へ背をもたせかけて、鈴江は考えに打ち沈んだ。うなだれた顔は暗かったが、頸足と肩とが木立ちを通してさしている月の光にあたって、水にでも濡れているかのように、蒼白い色におぼめいて見え、裾からわずかばかりはみ出している足の爪先がわけても白く見えた。月光がたまっているからであろう。
「北条美作の印籠で、妾があの時にすりましたと、お粂様がおっしゃって渡してくだされたが、抱き茗荷の定紋が、金蒔絵をなして付いている。美作の印籠に相違あるまい」
こう鈴江がつぶやきながら、眼の前へ差し出した掌の上に、一つの印籠がのっていて、月光が灰色にけぶらせていた。
さっき方佐久間町の入り口で、美作と兵馬とを相手にして、紋也とお粂とは切り合っていたが、そこへ鈴江と駒雄とが、駆け付けて行って助勢をした。で、美作と兵馬とは、驚いて一散に走って逃げた。が、その時佐久間町のほうから、鈴江と駒雄とを尾行けて来た、友吉の一団が走って来て、美作と兵馬とへ味方をした。そこで美作と兵馬とは、盛り返して来て引っ返して、気絶をしている紋也をはじめ、お粂や鈴江や駒雄などを、一挙に討って取ろうとした。が、成功しなかった。儒者ふうの老人が籠っている宏大な屋敷の潜りの戸があいて、騒がしい往来のようすを見るべく、武士たちが現われて来たからである。この武士たちにかかられては、勝ち目のあろうはずはなかった。で美作をはじめとして、兵馬も友吉の一団も、そのまま逃げて姿を隠した、その混乱の間を縫ってお粂が印籠をすったのである。
今、月光をためている、鈴江の開いた掌の上に、静もりのっている印籠こそは、その時にすった印籠なのであった。
「印籠も印籠ではあるけれども、佐久間町の入り口の往来の上に捨てられてあった片袖が、妾にはどうにも心配でならない」こう鈴江がつぶやいて、印籠をのせていない一方の手に、かたく握っていた男物の片袖を月にすかすようにして、鈴江は額の上へかざした。「妾が小次郎へ縫ってあげた、平着の衣裳の片袖なのだからねえ」──で、鈴江は不安そうに、いつまでもいつまでも片袖をみつめた。
その片袖にあたっていた、これも蒼白い月の光の、一所がチラチラと乱れたのは、夜風が木立ちの枝葉を揺すって、月の光のさし込んでいた、隙間穴を崩したからであろう。
「あの佐久間町の入り口で、小次郎が誰かに何らかの害を、受けたように思われて心配でならない」──で、また、鈴江は考え込んだ。
美作と兵馬と友吉との勢が、逃げて姿を隠したので、鈴江や駒雄は安堵して、気絶をして地上に倒れている、紋也をまずもって抱き上げて、微傷と疲労とで気落ちをしている、お粂をも助けて一同揃って、儒者ふうの老人の籠っている、屋敷へ向かって引き上げかけた時、ふと鈴江は往来の上に、男衣裳の片袖らしいものが、ふみにじられているのを見た。で、思わず取り上げて見た。そうしてそれが弟の小次郎の、衣裳の片袖にまぎれないことに、思い至って愕然とした。で、感じられたことといえば、弟の小次郎がこの界隈を、歩いていたということと、自分で袖をもぐはずがないので、誰かにもがれたに相違がなく片袖をもがれたとあるからには、何者かと小次郎が争って、もがれたものに相違がない!
誰と何のために争ったのだろう? その結果小次郎はどうしたであろう? 大怪我などをしなかったであろうか? 惨殺などされはしなかったであろうか? ──とそういうことであった。二度までも駒雄に依頼をして、自分の家のようすを見させ、小次郎の安否を確かめさせたのは、そういう不安と心配とが、鈴江の心にあったからであった。
無心に木立ちから離れたが、考えに深く沈みながら、鈴江は庭を歩きまわった。木立ちの作っている暗い影から、今や鈴江は外へ出た。女としては肥え過ぎるほどにも肥えていた頬や頤のあたりが、にわかに痩せたように見受けられたのは月の光の加減ばかりでもあるまい。
「お粂様のお話による時には、兄上やお粂様が走って来て、美作や兵馬とぶつかった時、いやその前から北条美作は、抜き身を引っ下げていたそうである。ではその前に北条美作には、誰かをあの辺で切ったのかもしれない」
月の光を体に浴びて、細身に見える鈴江の姿が、不意に一方へよろめいたのは、不吉の予感に顫えたからであろう。
「小次郎の片袖があそこにあって美作が抜き身をひっ下げながら、あそこを歩いていたのであるから、あそこで小次郎を虐んで、片袖をもぐほどにも虐んで、そのあげくに切って殺したものと、こう考えれば考えられる」──で、また鈴江は一方へよろけた。
「恐ろしいことだ! 恐ろしいことだ!」
木立ちと反対の方角には、幾棟かに別れて建っている、宏大な屋敷の建物が、黒くおごそかに見えていたが、突き出されてできている一軒の部屋から華やかな燈火の橙黄色の光が、雨戸を閉ててない障子一面に、栄えて鈴江の眼に映った。講義の声がまれまれに聞こえる。
その部屋とわずかな距離をおいて、これも突き出された部屋があったが、内の燈火が暗いと見えて、障子は華やかでも明るくもなかった。その部屋になかば無意識のままに、寝ているはずの紋也のことを、チラリと鈴江は考えたが、お粂様が看護をしていてくださる、だから心配はなさそうである。それに兄上は時さえ経てば、きっと意識を取り返し、そうして意識をさえ取り返したならば、後は養生一つだけで、昔通りに健康になられる──と、確信されているので、鈴江にはたいした不安ではなかった。小次郎の安危へ心を移した。
「家を出かけて行く時から、小次郎のようすは寂しそうだったよ。兄上や妾の行動について、優しい弱々しい清浄な、小次郎らしい心持ちから、いろいろと心配をしてくれたが、心配をされた私たちは、危難を受けは受けたものの、こうやって二人ながら生きていて、同じこの屋敷におちついているのに、心配をしてくれた小次郎のほうが、行方の知れない身の上となった。……ひょっとかするとあの時の言葉が、別れの言葉ではなかったかしら?」
一軒建物が建っていて、その影が地上に落ちていた。その影の中へ一時はいって、姿を黒めて見えなくなったが、その影からやがて現われて、鈴江の姿が月光に照らされ、顔が明るく見えた時、眼が大きく見開かれた。
「あれは!」と声に出して鈴江はいった。「異様だった駕籠の行列の中に、釣るされていた若衆武士は!」──で、鈴江は棒立ちになった。
眼を大きく見開いて、鈴江が棒立ちに立ったのは、思いあたることがあったからであった。紋也の危難を救おうとして、雉子町の自分の家から出て、五十嵐駒雄を伴って佐久間町の二丁目まで来た時であった。緑色の衣裳を一様に着た、四人の若い侍と緑色の被衣を一様にかぶった、四人の老女たちに囲繞されて、黒塗り蒔絵らしい女駕籠が一挺行く手から現われて来て、四軒並んでいた空家の一軒へ、忽然としてはいってしまったが、その時鈴江は二人の侍が、死骸らしい若衆武士の肩と足とを、釣るすがようにささえ持ってやはり空家の一軒へ、はいり込んだのを見て取った。
その時は意外であり、あわただしい場合であったので、その若衆武士の何者であるかに思い及ぶことができなくてただ何となく若衆武士に、見覚えがあるというように思いなされたばかりであった。
「どうも妾にはあの若衆武士が、小次郎に似ているように思われるよ」
今になって鈴江にはそう思われて来た。
「とはいえあのような得体の知れない、気味の悪い行列の人たちに、小次郎が連れられて行くはずはない」
鈴江は思案にふけりながら、庭をそろそろと歩き出した。
広大な武家屋敷の庭なのであるから、築山があったり泉水があったり、亭があったり石橋があったり、風雅の構えを持っているのが当然でなければならないのに、ここの庭にはそういったような構えらしいものは見られなかった。一様に平坦にならされていた。何者か敵に攻め込まれた時、駆け引き自在であろうことを希望んで、昔はそうした風雅な構えをたしかに構えてはいたけれども、このごろになって手を入れて、ならしたようなところがあった。
で、鈴江は歩き出したが、何物にもさえぎられることなく、建物の陰影へはいった時と、木立ちの陰影へはいった時以外は月光に照らされて明らかであった。今は月光に背を向けているので、顔と爪先とが暗く見えた。
「でも」と鈴江は思案した。「釣るされて行った若衆武士が、とにかく小次郎に似ていたのではあるし、小次郎に似た武士を連れ込んだ家が、このお屋敷からほんの手近のすぐこの先にあるのであるから、こっそりその家へ忍び込んで確かめて見る必要はどうしてもあるよ」
しかし鈴江には躊躇された。
「小気味の悪い行列だったよ。その行列がはいり込んだのだよ。小気味の悪い事件などが、あの家の中で起こっているかもしれない。忍び込むのは妾にはいやだ」
後へ引っ返して彷徨った。で、月光が正面を照らして、今はかえって細めている愁を持った眼のあたりを、睫毛の見えるまでに明るめた。「でも」と鈴江はさらに思った。「そういう小気味の悪い行列が、事実あの家へ小次郎を連れて、はいり込んだのだとあってみればそれこそ打ち捨てておかれない」で、鈴江は引っ返した。
「探すあてのない小次郎なのだよ。少しでも小次郎に似通っている、そういう武士が手近の家に連れ込まれているとあるからには、何を差しおいても探さなければならない」ここに鈴江の考えがのびた。
「とはいえあの時の若衆武士は、死骸そっくりのようすをしていたよ。あれが小次郎であったならば? 小次郎の死骸であったならば?」
ふとこの一事に思いが到って、鈴江は肌に粟を生じた。
持っていた小次郎の片袖と美作の印籠とを夢中のように懐中へ押し入れると褄を取り上げ、建物の一面に添いながら、鈴江は表門のほうへ走り出した。こうして裏庭から鈴江の姿が、消えて見えなくなった時、玄関側へ姿が現われ、その玄関側から鈴江の姿が消えて見えなくなった時、潜り戸の内側へ現われた。
そうしてそこで金兵衛を探しに紋也の寝ている部屋から出て来た、お粂とバッタリ顔を合わせた。で、二人はいったのである。
「お粂様、どちらへ参られます?」
「はい、妾、金兵衛殿を探しに、……鈴江様、どちらへ参られます?」「はい、妾、小次郎を探しに」──で、潜り戸をあけかけた。
お粂と鈴江との二人の娘が、潜りの内側で話し合って、それから潜りをあけかけたが、そのまま潜りがあけられて、気絶をしている金兵衛の姿や、はるかの往来に姿を現わした、代官松の一味の者を、そのお粂と鈴江とが認めたならば、事件は大波瀾となったことであろう。
が、事件をまた後へ戻して、山県紋也の身の上について、調べを届かせることにしよう。威厳のある神々しい老人の声で、講義をしている部屋の襖を引きあけた時に山県紋也は、いかにも驚いたというように、棒立ちになって胸をそらせたが、これは予想と全然反した光景を眼の前に見たからではなくて、こうもあろうかと想像をしていた、そういう光景を見た上に、空想することさえできなかった、珍しい物を見たからであった。
部屋の大きさは五十畳敷もあろうか、武家の屋敷の部屋としては、尋常をきわめた構造であったが、一方の壁ばかりは奇をきわめていた。というのは天井へまで届くほどにも、高い幾層かの黒塗りの棚が壁をおおうて立てられてあって、その層々とした棚の上に、無数の書籍をはじめとして、大砲の模型、小銃の模型、地雷の模型、巨大な地球儀、城砦の模型、軍船の模型、洋刀の模型、背嚢の模型、馬具の模型、測量器、靴や軍帽や喇叭や軍鼓や、洋式軍服や携帯テントや望遠鏡というようなものが、整然として置かれてあり、その大棚を背後に背負って、二十人あまりのりっぱな武士が、袴羽織を折り目正しく着て、端然としてすわっていた。
いやいや端然としてすわっているのはそれら二十人余の武士ばかりではなくて、部屋の中央と思われる辺にも、七人の武士が端坐していた。いやいや端然としてすわっているのは、決してそれらの武士ばかりではなくて、壮麗な床の間を背後にして、七人の武士と二十人余の武士と、そうして異国ふうの大棚とに、向かい合いながら部屋の奥に溜塗りの小型の見台を据えて、端坐している儒者ふうの、神々しいような老武士があった。
身長が人並みより高いのと、総髪に切り下げて両肩へ垂らしたたっぷりとある髪が白いのとが人の眼を引くに十分であったが、青年のように血色のよい顔肌、総のように厚い漆黒の眉毛、山根のあたりから高く盛り上がって、準頭が豊かに円な鼻、左右の隅がやや上にあがり、形の大きい厚手の口等は、貴人の相を想わせて、同じく人の眼を引くに足りた。しかし最も特色的なのは、黒白の色がハッキリとしていて、瞳に人を射る光があり、眼頭細く下に傾き、眼尻が上がってこれも細く、上の瞼は尋常であるが、下の瞼は弧形をなし、白味少なく黒味の多い、世にいうところの君子眼であろう。人を射る眼光は鋭いけれども、征服的のところはなくて、懐し味さえ持っていた。見台を前に控えているからには、講義をしていたものと見てよく、紋也の耳にした講義の声はこの老儒者の唇から発せられた声と見てよかろう。黒羽二重の紋服の上に、同じ紋付の羽織をはおり、白綸子の下着を襟からのぞかせ、白い絹の太紐を──それは羽織の紐なのであるが、胸もと高く結んで垂れ、折り目の高い袴の膝に、両手の掌を開いてのせ、正面に顔を向けていた。
部屋の四隅に大燭台があって、橙黄色の華やかな光を、互いに部屋の中に交叉させて、明るさと暖かさとを充たせていたが、老儒者の左側にも燭台があって、老儒者の姿とその周囲とを、とりわけ明るく明るめていた。懐紙が開いたまま座の一所にあった。講義を聞いていた武士たちの一人が、ひそかに取り出して使ったが、講義を聞くのに気を取られて、懐中へ入れるのを忘れていたのであろう。青々とした畳の上に、純白の懐紙が置いてあるのであるから、あるだけの燭台の燈火の光が、それへ吸収されたかのように、いやが上にも白く見えた。と、その懐紙がパッとめくれて、二、三葉が部屋の中を歩いた。
紋也が襖をあけたので、あけられた隙から風が吹き込み、そのように懐紙を歩かせたのであろう。と、いっせいに部屋の武士たちは、紋也のほうへ顔を向けた。
「薩、長、土、肥に水戸に越前か!」とたんに紋也が呻くようにいった。「佐賀藩の重臣もおいでなさる!」
「薩、長、土、肥に水戸に越前か! 佐賀藩の重臣もおいでになる!」こう紋也の呻いたのには、もっともの理由があるのであった。紋也が襖をあけた瞬間に、紋也の眼に見えたものといえば、例の異国ふうの大棚と、神々しい儒者ふうの老武士とすわっている二十人余の武士と、これも端然とすわっている部屋の中央の七人の武士と、大きな五基の燭台と──そういうもののいっさいであって、それも別々にハッキリと、見えて来たのでは決してなくて、そういうものが一つに塊まって一度に見えて来たのであった。しかるに紋也がそういうようにして部屋の襖をあけたがために、部屋の人たちは驚いたように、揃っていっせいに紋也のほうを見た。と、紋也の引きあけた襖が、その部屋の中央にあたっている襖の一枚であったがために、おのずからその部屋の中央の辺に並んでいる七人の武士の顔を、正視しなければならないことになった。で、紋也は正視した、するとどうだろう、その七人の武士に紋也は見覚えがあるではないか。
すなわち一人は薩摩の大領、島津修理太夫のお側用人、猪飼市之進その人であり、もう一人は毛利大膳太夫の家老、宍戸備前その人であり、もう一人は山内土佐守の家老、桐間蔵人その人であり、もう一人は鍋島家の重臣の、諫早益千代その人であり、もう一人は松平三河守の智謀、永見文庫介その人であり、もう一人は水戸家の若年寄、渡辺半蔵その人なのであった。そうしてこれらの人々は、日ごろから紋也が接近しようとして苦心して手蔓を求めていた相手で、これらの人々と懇親となり、これらの人々へ己が思想を、吐露したあげくにこれらの人々が、その思想に共鳴をしてくれたならば、主家を動かすことさえできる。そういう素晴らしい大大名の、威権嚇々たる重臣方なのであったが、ところがそういう重臣方が、さもつつましく膝を揃えて眼の前に端坐しているのであった。紋也が呻いたのは当然といえよう。
さてその七人をはじめとして、正面の儒者ふうの老武士も、二十人余の武士たちも、そうやっていっせいに紋也のほうを向いたが、これはなんということであろう! 叫びの声も立てなければ、咎め立てする声も立てず、ましてや立ち上がって来る者もなく、寂然と眺めているばかりであった。で、紋也も立ったままでいた。その紋也はどうかというに、髪は乱れて顔へかかり顔は血の気を失って、葱の茎のように蒼白く、体中を白布で捲き立てていて、しかも刀を杖ついていた。真っ向から部屋の中の大燭台の明るい燈火を浴びたがために、落ちくぼんだ眼窩の底のほうで、ギラギラと輝いている血走った眼の、その血走りがいよいよよく見え、意外の光景に接したがために、アングリとあけた口の中の、舌の色さえ見えるほどであって、そのためにいよいよ紋也の姿は、すさまじく恐ろしく物騒に見えた。で、どのように沈着た人でも、この紋也の姿を眼に入れたならば、動揺しないではいられないであろう。にもかかわらず部屋の中にいる、二十人余の人たちは、動じようとはしないのであった。
このことが今度は紋也の心へ、いわれぬ不思議を産み出したようであった。七人の武士たちから眼を放すと、見台を前に控えながら、床の間に近く端坐している老儒者のほうへ視線を送った。これは当然のことであろう。紋也が見てもって重要人物としている七人の有名な武士たちをはじめ、二十人余の武士たちを、眼の前に置いて悠々然と、しかも威厳と権威とをもって教えるがよう講義をしている、そういう老儒者は紋也にとっては、驚異でなければならないのであるから。
「どういうご身分のお方なのであろう?」で、老儒者をつくづくと見た。
と、その威厳のある老儒者であるが、右の手を胸へ軽く上げたかと思うと、ホトホトと見台の縁を打った。諸人の注意を呼んだのである。
「力ある大国の大名を、打って一丸となし、その連合の大勢力をもって、尊王抑覇の大業を企つべきをあえてなさず、ただに民間市井の衆に、説を説いて事を図ろうとなされた山県大弐殿と藤井右門殿との、行ない方は率直に申せば、遺憾ながら少しく軽率でござった」──今は紋也から眼を放して、ひたすら老儒者をみつめている、部屋中の武士たちに向かいながら老儒者の説き出した言葉といえば実にこのような言葉であった。
「忠義の道は一筋でござる!」突然に老儒者の講義の方角が、この一句によって一変した。
「今まで主として講じましたは、帝に仕え奉る、庶民の具体的の方法でござって、京師方の公卿や殿中人を、標準といたしたものでござるが、ただちに関東の武家方にも、あてはまるべき方法でござる、いやいや武家方ばかりでなく、浜に塩を焼く海人乙女にも、山に木を伐る山賤にも、あてはまるべき方法でござる。で、奉公心得の件は、以上で大略尽くしましたるはず、しからば説を一転して、忠義の道のいかなるものかの本道について説くことにしましょう」
老儒者の顔が一段と輝き、頬の赤味が色を増し、眼の光が鋭さを増し両肩に波を打っていた切り下げた総髪の髪の先が、白い泡でも湧いたかのように、その肩の上で湧き立ったが、これは老儒者の精神が、緊張したがためであろう。
と、おごそかな声が響いた。
「一目瞭然のことであり、一句万世に通ずべき、簡単にしてしかも揺るがぬ、一大真理でござるによって、某、くどうは説きませぬ。一言をもって申し上げまする。ゆえに方々におかれましても、十分にお聞きくだされた上、日夜反覆熟慮して、簡単の言葉の奥にひそむ、深くして広く鋭くして正しい、真理について思案をめぐらされ、言葉の意味の真核を、ムズと握って放さざるとともに、それを実行に現わすことによって、帝の尊厳仁慈の大御心に、専心帰依をおなしくだされ。同時におのおのの心と肉体とを、健かに清々しくお保ちくだされ! 一言とはなんぞや! 一言とはなんぞや!」
──と、この時老儒者の横手の、燭台の燈火が鳥の翼にでも、あおられたかのようにヒラヒラと、焔を一方へ傾がせたが、これは老儒者が気概の充ちたままに、左右の腕を高く上げて、それを振り下ろして見台の縁を、打ってそうしてグッとつかんで、前こごみに体を先方へのばして、正面につつましく端坐している、多くの武士をみつめるようにした時、両方の袖がひるがえって、風を起こして燭台の燈火を、一あおりあおったがためであった。
「いわく!」と老儒者は前こごみにしていた、体の半分を後へ引くと、改めてグッとすわり直し、恭謙そのものを形に現わしたならば、こうもあろうかと思われるような、──そういう恭謙な態度となったが「いわく!」ともう一度言葉をなぞった。
「まことに日の本の実の姿と申せば、皇位に即して主権存し、皇統に即して皇位存し、連綿として二千幾百年、不純の物を一毫もまじえず、今日に及んだものでござって、かくのごときは世界万国、いずこにも見られざる国の姿でござって、尊むべく崇むべく誇るべき、真個奇蹟的の事実でござる。方々!」と老儒者は首を突き出した。が、その首を後へ引くと、再び恭謙の態を作ったが「ああ諸人が究極において、持ちたきものは『純粋性』でござる! もろもろの思想、もろもろの学、さまざまの生活、無数の経験! 学び、考え、触れ、行なうの、究極の目的はそれ一つでござる。しかも悲しいかな諸人にあっては、学び、考え、触れ、行なう──さよう行なうことによって、いよいよ純粋性に遠ざかり、混迷の度を強めてござる! かるがゆえにあえて某は申す! 我らには唯一に純粋性の、動かぬ大柱の帝がおわす! 尊み、崇め、誇り、仕えよと! 結果はいかに? 明らかでござる! 上は帝の徳を増し、国を盛んにし民を富ませ、下は仕うる個々の人々の心を統一純粋に帰せしめ、和楽内にあり平和四周にあり、幸福と安心との殿堂に、住居することができるでござろう! よろしゅうござるかな! よろしゅうござるかな! これこそ忠義の本道でござる!」
ここで老儒者は言葉を切って、端坐をしている武士たちを見たが、にわかにその眼を遠くへ走らせると、異国の武具の精巧の模型を、置き並べてある正面の、大棚へ瞳を据えるようにした。と、優しい声でいった。
「よく集めたのう、見事なものじゃ! ……大業をとげるには進んだ武器を、こう集めるのが本当でござる」──いいいい視線を返したが、紋也に向かって声をかけた。
「山県紋也殿おすわりなさるがよろしい。だいぶ衰弱をいたしているようでござる。しかし衰弱を致しておられても、そのようにここまで来られるようでござれば、まずまず大丈夫でござりましょう。お粂殿に詳しく承わってござる、水戸様石置き場空屋敷とやらで、随分ひどい目に逢われましたそうで。がそれとても貴殿のお父上や、藤井右門殿の遭遇なされた、悪い運命に比べられては、それこそ数にもはいりますまい。……とはいえ大変お気の毒でござった。しかしこの際申し上げる、今後はあのような下々の場所などへは、あまり繁々と参られぬがよろしい」ここまでいって来て、老儒者は不意に言葉を切った。
それまで刀を杖について、それにすがってたたずんでいた、紋也がヒョロヒョロと座敷の中へよろめきながらはいって来たからであった。その姿のすさまじいことは! 顔色といえば蒼白であり、眼といえば玉のようにむき出され、口といえば椀のように開かれて、上の前歯が唇から洩れ喰いつきそうにもけわしく見える。そういう顔をバッとおおうて簾のようにかかっているのは、髷のない乱れた髪の毛であって、歩むにつれてなびくように揺れる。はだけた襟から見えているのは胸に巻いた痛々しい白布であり、崩れた裾から見えているのは、これも脛を巻いた痛々しい、少し血のにじんでいる白布であった。
畳の数にして十畳あまり、それでも前へ進んだであろうか、ついていた刀をだるそうにあげると、グーッと前へ差し出して、左の手で鞘を上向きに握り、右の手に柄の頭を握り、紋也はその時足を止めた。玉のようにむき出された血走った眼の、なんと鋭く老儒者の顔を睨みつづけていることか! と、また二、三歩前へ進んだ。老儒者を切ろうとでもするのであろうか? もしもそうならば部屋の中に端坐をしている二十人余の、武士たちがいっせいに立ち上がってさえぎらなければならないではないか。武士たちは寂然と静まっていた。
と、また紋也は二、三歩進んだ。なぜ武士たちはさえぎらないのであろう?
紋也の顔の表情に、殺気らしいものが一抹もなく、驚きの表情ばかりがあるからであった。すなわち玉のようにむき出された眼も、椀のようにワングリと開かれた口も、驚きの表情にほかならないのであった。
不意に部屋の中を明るめていた橙黄色の燭台の燈火が、まばたきをしたように見てとれたが、紋也が投げ出した刀の鞘が、燈火をはねたに過ぎなかった。投げ出した刀が音を立てて落ちて、のびたように畳の上へおちついた時、その横に膝を突き手を揃えて、かしこまっている武士があった。紋也以外の誰であるものか。
「……やはり……あなた様におかれましては……」胸が苦しく息づきかねたか、こういって来て紋也は絶句した。が、つつましく後をつづけた。
「……父より詳しく承わりました。……ご容貌なり……お姿なり……」また紋也は絶句したが、その代わりにスルスルと膝を進めた。
「たしかあなた様におかれましては……三宅の島でご逝去なされた、大先生に相違ござりませぬ! しかし……どうして……あなた様が……不思議でござります! 不思議でござります!」
そういった紋也の言葉に答えて、老儒者は何かいおうとしたらしく、見台から躯をのり出すようにしたが、にわかに躯を元の位置に直すと、耳傾けるように首を傾けた。
屋敷の門のある方角から、お粂と鈴江との叫ぶ声が、甲高に聞こえて来たからであった。
「お屋敷の方々ご用心あそばせ! 代官松の一味の者が!」
つづいて潜り戸へ錠をおろす音が、かなりあわただしく響いて聞こえ、すぐに玄関から屋敷の中へ、駆け込んで来る足の音がしたが、金兵衛らしい男の声で、弱々しく叫ぶのが聞こえて来た。「自暴自棄になってるからあぶないんだ! 乱入して来るぜ! 思慮分別なく! ……美作も兵馬もまじっているのだ!」
この物語も後数回で、大団円とすることにしよう。
お粂と鈴江と金兵衛とが、北条美作や桃ノ井兵馬や、代官松の一味の者が、襲って来るぞと叫んだ直後は、ここの宏大な屋敷の中にあるいちじるしい変化が起こった。
第一は屋敷内のあらゆる燈火が一度に消えたことであり、第二は屋敷の土塀の内側に、生い繁っていた立ち木の枝葉が、大暴風雨にでも襲われたように、気味悪く揺すれたことであった。
で、襲って来た代官松や、美作や兵馬の輩は、しばらくの間気を飲まれて、乗り込んで行くことができなかった。
それにしても美作というような身分の重い権臣が、代官松というような、目明しなどの中にまじって、軽率に襲って来たのであろう?
いやいや襲って来たのではなくて、代官松をして襲わせて、ようすを見ようとしたのであった。
それにしても美作ともあろう者が、代官松の家などに、どうしてこの時までいたのであろう?
佐久間町の入り口の往来で美作はさんざんな目にあった。で、体なども疲労した。それで兵馬がこういって進めた。
「代官町の松吉の家で、しばらくご休息なさりませ」と。
で美作は休息した。そこへ続々と引き揚げて来たのが、代官松の一味であった。で、襲わせることにした。
「大物の正体を見きわめてやろう、後難があったらあった時のことだ。なんとか始末をすることができよう」
権臣だという自負もあり、さんざんの目に合わされた、うっ憤もあったところから、美作は決行したのであった。
屋敷を襲ったとはいうものの、市中ではあり屋敷そのものが、旗本の持ち物であったので、かん声をあげたり門を破ったりして、まさかに乱入はできなかった。なるたけ人目に立たないように、屋敷の周囲を取り巻いて、しばらくのあいだ見守っていた。
そのうちに揺れていた木々もしずまり、ざわざわとなんとなく騒がしかった屋敷の中が、しずまったので美作は傍にいる兵馬へいった。
「松吉を屋敷へいれてみろ」
兵馬は松吉へ意を伝えた。
で、代官松の松吉は、数人の子分を従えて、土塀を越してはいって行った。
相当の時間がたったようであった。
その時屋敷の潜り戸が、内側からおおっぴらにあけられて、代官松が顔を出した。
「皆様おはいりくださいまし。屋敷は無人でございます」
で、一同は中へはいった。
なるほど、どの部屋を見まわって見ても、人っ子一人いなかった。
「ははあ」
と美作は苦笑いをした。
「立ち木など揺すって子供だましをして、我々がちゅうちょしている隙に、どこぞへ立ち去って行ったものと見える」
それにしても不思議でならなかった。屋敷の周囲を固めていたのに、どこからのがれて行ったのであろう。
しかし間もなく代官松が、秘密のカラクリを探して来た。
屋敷の土べいの一所が、長方形にくり抜けると露路であり、その向こう側に空家があり、空家の塀もくり抜かれていて、開閉自在となっていた。四軒並んでいた空家の塀が、ことごとくそうなっていたのであった。思うに最初から屋敷の人たちは、そういう間道を作ろうために、四軒の家を買収して、わざと空家にしていたのであろう。
そうして屋敷の人たちは、三方だけの立ち木を揺すって、美作たちをそのほうへ集め、その隙にここから立ち去ったのであろう。
美作たちは四軒の空家を、一軒ずつ順々に調べて行った。
はずれの一軒へ来た時に、一同は意外なものを見た。
一様に縁色の衣裳を着た、四人の老女と四人の武士とに、そのまわりを守られて、姫君姿の一人の美女が、白痴のようにぼう然と、一つの部屋にすわっているのを、美作たちは見たのであった。
「先刻の女子でござりますな」
驚いて兵馬が美作へいった。
と、美作はうなずいたが、
「右近将監武元殿の、お屋敷へ丁寧にお送りいたせ」
「は。……しかし女子の身分は?」
いぶかしそうに兵馬は訊いた。
「武元殿の妾腹の姫よ。満知姫様と申し上げるお方だ。……せがれ、左内の婚約の主だ」
「それに致してもこのありさまは?」
「夜な夜なご乱行をなされるという、おうわさがあったがうそと思うていた。……しかし、やっぱり事実であった。……左内がほかの女子のほうへ心を傾けたのはもっともだ。……左内もずいぶん苦しんだらしい。……今後は彼の思うままにさせよう」
「ご正気のようには見えませぬが?」
「どういう訳かわしは知らぬが、夜の暗が襲うてくるごとに、満知姫様にはごようすが変わり、獣のようになられるそうだ」
元始の人間の血液が、ある特質の人間だけに間けつ的に遺伝って、夜になるごとに、その人間は、その元始の人間の、生活を如実にするという──これについては米国の作家ジャック・ロンドンなども書いている。
思うに満知姫がそれなのであろう。その不幸な人間なのであろう。それにしても満知姫が物をいうごとに、かおって来た芳香は何なのであろう。
愛欲生活に充たされていた元始の人間はおのずからに催情的の芳香を、呼吸の中に持っていたと、碩学エロイスが説いている。その芳香を夜の間だけ、満知姫も持っていたのであろう。それにしても満知姫の犠牲になって、絶息するまでに衰弱をしたいろいろの人間をこの空家の、塀の切り戸から運び去った、武士たちはそもそも何者なのであろう。やはり満知姫の家臣であったと解釈すべきが至当であろう。
老女や若い美男の武士に、緑色の衣裳をなぜ着せたか? きわめて容易に説明できる。姫が元始の森林の、縁の色を愛したからである。老女に醜女をなぜ選んだか? 美しさを引き立てようためだったのだ。満知姫自身の美しさを。
満知姫の犠牲になろうとした山県小次郎はどうしたか?
四辺に姿が見えなかった。屋敷の人々がこの空家を通って、去って行く時に小次郎を見付けて、連れて立ち去ったものであろう。では小次郎が血をおさえていた、図面の描いてあった綴じ紙も、屋敷の人に発見されて、持ちさられたものと見てよかろう。空家を見終わった美作たちは、ふたたび屋敷へ引き返して、二階のほうへ上がって行った。
と、広々とした部屋があって、一方の壁に巨大な棚が、からっぽのままで据えてあった。しかしながらここには様々のものが──精巧をきわめた武器などの模型が──置かれてあったはずである。なくなっているのはどうしたのであろう?
立ち去る時に屋敷の人々が、いっさい運んで行ったのであろう。さて、こうして美作たちが屋敷を見まわっている時に、一人の大男がお茶の水あたりを、
「お妻太夫さん、お妻太夫さん」と、呼びながら淋しそうにさまよっていた。鴫丸以外の誰でもなかった。
行く手に小橋がかかっていて、そこまで行った時鴫丸は、疲労と眠気とに襲われたからか、欄干へよってうとうとと眠った。と、女の声がした。
「竹之助様をご存知ではありますまいか?」
突然に声かけられたので、驚いて鴫丸は眼をさましたが、無心に持っていた巻き奉書を、この時川の中へ落としてしまった。
「存じませんでござります」いいいい鴫丸は眼をみはった。子を負った女が立っていた。
子を負った女は君江であった。この時まで市中に良人をたずねて、さまよい歩いていたものと見える。
「あなたご存知ではござりますまいか、私の大事なお妻太夫さんを?」今度は鴫丸が愚かしく訊いた。
と、君江は首をかしげたが、「存じませんでござります」
そこで二人は黙り込んだ。川の中へ落とされた巻き奉書は、水へ沈んだのか流されたのか、川の面には見られなかった。秘密を包んで永遠に、人の世へ二度とは現われまい。不意に鴫丸が愚かしくいった。
「ではご一緒にお妻太夫さんと竹之助様とをお探ししましょう」君江には否やがなかったと見える。
「一緒にお探しいたしましょうよ」
こういって小橋を一方へ渡った。鴫丸も並んで歩いて行った。狂女と白痴との二人であった。どこまで歩いて行くことであろう。
これは後日のことであるが、大津の駅路にお妻太夫の、小屋掛けの見世物がかかった時、その菰張りの楽屋の中に、君江とその子の竹太郎とが、一座の人たちに可愛がられながら無邪気に平和に暮らしていて、鴫丸がいつも竹太郎を、膝の上へ乗せてあやしたり、背に負ってあやしていたそうである。鴫丸が君江に同情して、自分の座へ連れて来たものと見える。
仇敵である桃ノ井兵馬と、虐められながら住んでいるより、お妻太夫の座中にいて、可愛がられていたほうが、君江にとっても竹太郎にとっても、幸福なことといわなければならない。
さて、こうして日がたって、秋の終わりが迫って来た。そのころ一団の旅人が、信濃の国は伊那の郡天龍川の岸に沿って、下流へ下流へと歩いていた。一挺の駕籠をとりまいた、男と女との一団であって、その中には山県紋也もいれば、その弟の小次郎もいれば、その妹の鈴江もいれば、藤井右門の遺女の女煙術師のお粂もいれば、その仲間の金兵衛もいた。駕籠の中には誰がいるのであろう?
日あたりのよい丘の上へ、その一団がさしかかった時、しばらく休息することになった。と、下ろされた駕籠の中から一人の老人が現われたが、例の宏大な屋敷にいた、儒者ふうの老人その人であった。
枯れ草を敷いて一同の者は、長閑そうに四辺の風景を見た。眼の下につらなりそびえている奇岩の裾を天龍の流れが、南に向かって流れていて、岩に激して上がる飛沫が岩の間に錦を拡げている紅葉を艶々しく濡らしていた。
老儒者は懐中へ手を入れたが、綴じ紙を取り出すと膝の上へ拡げた。
「目的の地も近くなった。京丸の地はもう間近だ」いいいい老儒者は綴じ紙の面に描かれてある細密の地図のその一所に記されてある牡丹の符牒へ眼を注いだ。
「はじめには水戸様のお下屋敷へ、その次には土屋采女正様のこれも同じお下屋敷へ、次には美濃の豪農の関重左衛門の屋敷のほとりへ、その次には石山の仁王門の下へ、あばかれるを恐れて地を変えて埋め、最後の京丸の秘密境へ埋めておいた莫大の金子は、この綴じ紙が手にはいったので、我々の所有となることになった。……そのために苦労をした吉田武左衛門はどうしたことやら?」
憮然とした老儒者の眼尻のあたりに涙がにじんで露のように見えた。と、側にいた紋也が訊いた。
「吉田武左衛門と仰せられる仁と、綴じ紙との間には関係があるのでござりましょうか?」
「金子を転々と埋め変えて、そのつど符牒をつけたのが、ほかならぬ吉田武左衛門なのだよ。……俺の門下の中にあっても、信用のおける人物であった」
丘をめぐって雑木林があり、小鳥が飛び来たり飛び去っては、紅葉を散らし、紅葉を散らした。
「俺はな、一度だけ武左衛門を見かけた」思い出したように老儒者はいった。
「代官松とかいう目明しが、俺の正体を見きわめようとして、追って来た日の両国の往来で、俺は、売卜者に尾羽打ち枯らした、吉田武左衛門の姿を見かけた。剣難の相が現われていたので俺は注意を与えておいて、翌日から人を市中へ配って、武左衛門の住居を探させたが、今もって発見することができない。あるいはこの世にいないのかもしれない……それでいて武左衛門の預かっていた、この大切な綴じ紙ばかりは、小次郎殿の手によって、あのような変な空家から、偶然発見することができた。いずれいろいろの事情の下に、めぐりめぐってあちこちの人へ渡り、あげくにあそこから目付けられたのであろう」いよいよ老儒者は憮然とした。と、側にいたお粂がいった。
「先生がお見掛けなされました、両国にいた売卜者には、妾も縁がござります。徳大寺様から清左衛門様へ預け、先生へお手渡し致しますはずの、例の重大な巻き奉書。──それにしても巻き奉書をお持ちになって、江戸へ下られた清左衛門様には、お気の毒にも箱根の山中で、誰にともなく討ち果たされ、この世を去られてしまいまして巻き奉書も奪われました。──で妾と金兵衛殿とは、巻き奉書を奪った者は幕府方の武士に相違ないと、このように見当を付けまして、専心探索に取りかかりました。……でもなぜ私たち二人の者が、巻き奉書を取り返そうと、苦心いたしたのでございましょう? 徳大寺様からこのように命ぜられましたからでございます。『今大切の巻き奉書を、青地清左衛門へつかわして、大先生へもたらせたが、道中のほどが心もとない。で、そのほうたち二人へ命ずる。それとなく清左衛門を警護するように』と。……その警護に失策をしまして、巻き奉書を他人の手へ、奪い取られたのでございます。どのように苦心を致しましても、こちらへ奪い返しませねば、徳大寺様に対しまして、私ども申し訳が立ちませぬ。……ところがあの日両国の往来で、北条美作の懐中から奪い取ることができました。……でもすぐ目明しの代官松に、目付けられて烈しく追いかけられました。巻き奉書を持っていて、取り押さえられては一大事と、このように咄嗟に思いましたので、一時預かっていただこうものと、大道売卜者の老人の店へ、投げるようにしておきましたが、その売卜者の老人が、お話の吉田武左衛門様とは、思いも及ばないでおりました」
その日のことを回想するように、こういうお粂は感慨深そうに、張りのある大型の眼を細めた。
「ところがどうだろう、その巻き奉書を、お狂言師のような老人があの晩綴じ紙と一緒くたにしてお屋敷の前でひろげていたではないか」
お粂の横につつましやかに、すわっていた金兵衛がこのようにいった。
「取り返そうと手を尽くしてみたが、とうとう持って逃げられてしまった。……思い出してもムカムカする。あの晩は俺たちには悪い晩だった。……水戸様石置き場の空屋敷のあの惨酷な焼き討ちから、お狂言師の老人に、なぶられたあげくに逃げられたことから、美作や兵馬や代官松めに、屋敷を囲まれて襲われたことから……そうして屋敷から引き上げたことから。……思い出してもムカムカする」──で金兵衛はジリジリしたようすで、小鬢のあたりを指で掻いた。しかし老儒者は微笑しながらいった。
「あれは予定の引き上げだったのだよ。ここの屋敷もめざされております、水戸様のお下屋敷へお移りなされと、勧められていたおりだったのだから。……むしろよい晩だったといったほうがいい。探していた綴じ紙を引き上げの際に、手に入れることができたのだからな」──といいいい老儒者は綴じ紙をたたむと、深く懐中へ入れた。
天龍川の水音が、秋晴れの空気を顫わせている。栗色の兎が草むらから出た。が、逃げようともしなかった。
「どのようなことが巻き奉書には、書かれているのでござりますか?」──ややあって紋也が慇懃に訊ねた。
「存ぜぬ」と老儒者は言下に答えた。「手に入れることができなかったのだからな。ああそうだよ、巻き奉書を。……しかし推量をすることはできる」
「…………」紋也は無言で老儒者を見た。
「血判をした連判状であろうよ」
「…………」
「徳大寺卿をはじめとして京師の勤王の公卿方が、集められた衆人の血判状であろうよ」
「…………」
「とはいえ徳大寺公城卿は、尊きご身分でおわします。ご自身血判などされるはずはない。集められた衆人の血判状であろうよ」
「それを先生へもたらせました?」
「わからぬ」と老儒者はふたたびいった。
「が、これとても推量はできる。俺を引き出そうとされたのであろう。しかし俺としては出なかったであろうよ。たとえ巻き奉書がまいったところで」
「それは何ゆえでござりまするか?」
「宝暦の事件に懲りているから」
「公卿方は賢明にはおわしますが、武力も金力もお持ちでない。再度ご計画なされようとも、成功なされる気づかいはない。それに」
と老儒者は紋也を見た。
「公卿方の間にも党派があって、結束がおぼつかなく思われるからでもあるよ」
「党派などおありでござりましょうか?」
「そなたは確か正親町卿から、お心を受けて江戸へ出て、志士を募っておられたはずだが?」
「仰せ通りにござります」
「それが党派のある証拠だ。徳大寺卿と正親町卿とが、別々に企てておられるではないか」
「胸に落ちましてござります」
「俺はな」と老儒者は意味深くいった。「島をのがれて江戸へはいって以来、武力と金力の充実ている、大名衆へ眼をつけて、ひたすら思想を吹き込んだものだ」
「薩、長、土、肥に水戸、佐賀、越前⁉」
「さよう」と老儒者はうなずいて見せた。「彼らはそれぞれ立つであろう」ここで老儒者はお粂にいった。「くもるとも何か怨みん月今宵晴れを待つべき身にしあらねば……そなたのお父上の藤井右門殿の、この悲壮な辞世の和歌が、間もなく世人に崇められて、うたわれるようになりましょうよ」
「…………」お粂は無言で頭を下げた。と、その時紋也がいった。
「京丸に埋めました金子と申すは?」
「あれか、宝暦の事件の際に、同志が諸方から集めた金子だ。……これを活用して事を挙げるのが、我々の今後の仕事なのだ。さて、そろそろ出かけるとしよう」
老儒者の乗った駕籠を取り巻き、一団は先へ歩き出した。荷物を背負っている人足などもあった。何がはいっているのであろう? 新しい軍器の模型かもしれない。
年が代わって春となった。お狂言師の泉嘉門の、花の咲いている裏庭で、恋語りをしている男女があった。北条左内とお菊とである。
「父も性質が変わりました」といいいい左内は微笑をした。
「去年の初秋からでございますよ。にわかにおだやかになりまして私の申す意見などにも、耳を傾けるようになりました。よく口癖に申したりします。『事というのは齟齬するものだ。俺はこれからは我は張らぬよ』このように申すのでございますよ」
鶯の啼き声が聞こえて来た。小舞物をうたう声などもした。
「父もおだやかになりましたし、元気にもなりましてござります。お聞きなさりませ『柳の下』を、あのように朗らかにうたっております。……このごろ破門を許されまして、舞台に立つことができましたので、元気になったのでござります」──で、お菊は聞こえて来る嘉門のうた声に耳を澄ました。
すると、左内がささやくようにいった。
「嘉門殿を舞台に立たせますよう、宗家へ申し入れましたのが、私の父なのでございますよ」
「まあ」とお菊は眼をみはったが、感謝にたえないというように、左内へ初々しく頭を下げた。
二人をおおうている彼岸桜が、陽に蒸されて今にも崩れそうに見えた。ふとお菊は不安そうに訊いた。
「桃ノ井兵馬と申される恐ろしいお侍さまがございましたが。……」
「兵馬でござるか、どうしておるやら。『あの男はあまりに惨忍に過ぎる』このように父が申しまして、出入りを止めてしまいました。……が、いやらしい人間のことなど、考えないことに致しましょう」泉水で鯉のはねるらしい、清々しいかすかな音がした。
「あのう」とお菊は口籠るようにいった。
「あなた様にはお許婚のお方が……」
「ああありました、満知姫様といいます」どうしたのか左内はこの言葉をいうと、妙に憂鬱の顔をした。
「が、お命はありますまい」
「…………」
「ひどくご衰弱なされましてな、骨と皮ばかりになりました」
「…………」
「お気の毒なお方なのでございますよ。……いささか狂質がありますので。……が、もう何も申しますまい。不快な他の人の身の上などは。……」
二人の恋はかなうであろうか?
身分の相違はいちじるしいが、しかし左内の情熱と、すがすがしい心境からそん度すれば。……
とにかくここにあるものといえば、恋以外の何物でもなかった。
(山重なって森深く、岩たたなわって谷をなし、天龍の川の流るる所、古昔より神仙住居して、深紅のぼたんの花を養う。大いさかさを凌ぐものあり、ひょうひょうとして水に浮かび、流れに従って海に入る。神仙の住地を京丸と称し、花を京丸ぼたんという。地名あれども所在を知らず。云々)
これが京丸という別天地について、いい伝えられて来たうわさであって、天龍峡あたりにあったものと見える。
ところが明和のある時代から、すなわち老儒者の一団が、その地を目ざしてはいり込んだころから、京丸のあるらしい地点へ向かって、諸国から武士たちがはいり込んだり、武士たちが諸国へ出て行ったりするのを、天龍川の沿岸に住む村人たちは眼に止めた。
あるそまなどはこういうことをいった。
「ある日私は道に迷って、谷深くはいってゆきました。するとどうでしょう木の香の新しい、幾棟かの家々が建っていて、武士たちがおるではありませんか。講義をしている声もすれば、武芸を習っている音もすれば、何か機械でも造っているらしい、つちの音などもいたしました。で私は驚いて、急いで横へそれましたところ、一軒の家から神々しいような、長身の老人が出て来られまして、川のほうへ歩いてゆきました。引きつけられたとでもいうのでしょう。歩いてゆく老人の後へついて、私も歩いてゆきました。と、天龍の岸へ出ました。私はそこで胆をつぶしました。四方山のような岩にかこまれ、一方だけに口をあけた、二町四方もあるであろうか──そんなにも広い平らの土地に、ひもうせんとでもいいましょうか、深紅の敷き物が敷いてあったからです。で、私はすくんでしまいました。そのまに老人はひもうせんの上を、先に歩いてゆきました。ところがどうにも不思議なのは、ひもうせんが老人の歩くにつれて、左右へユラユラと揺れるばかりでなく、その老人の腰から下を、見えないように隠すのです。で、私はよくよく見ました。なんと意外ではありませんか、ひもうせんだと思っていたのは、深紅のぼたんの花だったのです。そのうちに老人が出て来ましたので、私は恐る恐るお訊ねいたしました。『あなた様はどなた様でございますか?』と。
するとその老人が申されました『わしは天龍道人だよ』と。
──で私はまた訊きました。
『ここはどこなのでございますか?』と。
すると老人は申されました。
『ああここは京丸だよ』と。
それから私は京丸から出て、ようやく家へ帰りましたが、もう一度行って見ようなどとは、夢にも思っておりません。こうなんともいえないような、強い力が一方にあって、そうして一方には仙境じみた、尊気の力があるのですから、ちょっと私などには寄りつきかねます」
天龍道人だと称した老人が例の老儒者であろうなら、その老儒者は宝暦事件の立て者、垂加流の神道の祖述者であり、兵法学者であり、勤王家であった竹内式部その人だと、こう想像してよさそうである。
何ゆえかというに信濃の人々は「竹内式部先生は、奇跡的に三宅島からのがれ出て、天龍河畔に隠せいして、みずから天龍道人と称して、晩年を平和に送った」と、今日も固く信じており、証拠もある点まで挙げているのであるから。
老儒者は竹内式部としても、決して平和に平凡に、京丸へ隠せいしたのではなくて、一方ではぼたんの花を養い、「自然」の美しさを称えながら、他方では例の金子を用いて、諸国の志士や義人たちを集め、あるいは尊王抑覇の講義に、または新兵器の製造に、専心したものと断じてよい。
京丸に住む人たちの中には、紋也や、お粂や、小次郎や、鈴江や、金兵衛などがいるはずである。
これらの人々も竹内式部、天龍道人の指揮の下に、京丸にあっては事業を助け、諸国へ出ては説を述べ、明治維新の大変革の、原動力となったことであろう。
とまれ竹内式部といい山県大弐といい、藤井右門といい、近世における尊王主義の士は明治維新の大業に対して、暁鐘をついた人たちであった。
で、その次に来たるものは、太陽を掲げるものでなければならない。
薩、長、土、肥に、水戸、佐賀、越前の憂国の志士たちがそれである。
そうしてそういう人たちを、養い教えた人物が、竹内式部だということができる。
それにしても紋也とお粂との恋は、その後どうなったことであろう?
紋也には許婚の娘があったはずだ。お粂との恋はとげられなかったかもしれない。
しかし大業の前にあっては、二人ながら恋などは問題にしないで働いたものと解釈してよかろう。
昭和四年の今日においても、京丸という神秘境は、名はあるがあり場所はわからない。
しかし今日も時あって、ぼたんの花の咲く候になると、かさほどの大いさのぼたんの花が、天龍川の上流から、流れてくるということである。
いやいや物語は以上だけで、完結することはできなかった。
素晴らしい重大な出来事が、まもなく起こったのであるから。
それは初夏のことであったが、一人の武士と一人の娘とが、旅よそおいをりりしくして、京丸のある地点から京都に向かって発足した。
山県紋也と鈴江とであった。
「園子様おたっしゃでおいでなさればよいが」
「さようさ、たっしゃでおいでなさればよいが」
「兄上を慕って江戸表などへ、おいでなさらなければよろしゅうございますが」
「わしもその事が心配なのだよ。江戸表へ出たいというような事を書面にしたためてよこされたのは、去年の初秋のことであってその後仕事に取りまぎれて、わしは消息さえしなかった。……江戸表へなどおいででなければよいが」
「園子様のお兄様の青地清左衛門様を、箱根の山中で討ち取りましたは、何者なのでございましょう?」
「これだけはいまだにわからない。いずれは北条美作などの、一味の者と思われるが」
「さぞ園子様におかれましては、敵が討ちとうございましょうな」
「わしにしてからが討ってあげたい」
「京丸へお呼び寄せなさいましてから、園子様のお心を伺って、敵の素性を突き止めて、兄上がお助太刀なさいまして、敵討ちをおさせなさりませ」
「そうさ、わしもそう思っている」
兄妹が歩みを運びながら、話し合っている話といえば、おおよそこのようなものであった。
京丸での仕事のだいたいの形が、この初夏までにでき上がったので、紋也にとっては許婚の青地園子を京丸へ呼び寄せ、安全に保護を加えようと、二人が迎えに行くところなのであった。
「お粂様、お可哀そうでございますな」
悪戯ッ子らしいからかい声で、ややあって鈴江が紋也へいった。
「なぜな?」と紋也は訊き返した。
「元気よく江戸へ旅立たれたではないか」
「お許婚の園子様を、京丸へお迎え取りなされようと、兄上がおいいだしなされた日に、不意にお粂様にはさびしそうになされて『私は江戸表へ参ります。そうして江戸の同志の方々と、江戸で仕事をいたします』と、このようにいわれて金兵衛殿と、京丸を出られたではございませぬか」
「江戸で働くのも大いによろしい」
「それにしてもにわかにあのように。……」
「まあまあそれはいわないほうがよかろう」
「園子様とお逢いなされるのが、お苦しいからでございましょうよ」
紋也は返辞をしなかった。ただ、黙々と歩いて行った。飯田の城下も通り過ぎ、日数を重ねて浜松へ出た。この浜松から東海道となる。東海道を京に向かって、二人の兄妹は歩いてゆく、編がさで二人ながら顔を隠し、人目につかぬように歩いてゆく。旅人や、旅かごや、乗りかけ馬などが、街道筋を通っていた。武士も通れば商人も通り、道中師らしい人物も通り、女連れの群れなども往来していた。
松並木は青く海も青く、海にはかもめが白々と飛び、並木の土手には草の花が、松の根を美しく飾っていた。
で、賑やかで長閑そうであった。
しかるにいっこう長閑そうになく、憂うつらしいようすをした、浪人者らしい二人の武士が、京都のほうへ歩いていた。
深編がさをいただいているので顔を見ることはできなかったが、一人は桃ノ井兵馬であり、もう一人は矢柄源兵衛なのであった。
「どうやらとうとう見失ったらしい。矢柄氏なんと思われるかな?」
「さようさ」と矢柄源兵衛はいった。
「見失ったようでございますな。……一人は男一人は女、その取り合わせが面白うござる、根よく探したら見つかりましょうよ」
で、二人は歩いて行った。
北条美作の心持ちが変わっておだやかな態度となって以来、桃ノ井兵馬は出入りを止められ、またも浪人の身の上となり、妻の君江にさえ逃げられて、江戸に住むことが苦痛となった。
矢柄源兵衛も同じであった。青地清左衛門を箱根の山中で討ち取ったあげくに巻き奉書を奪い、北条美作へもたらせるや、北条美作に愛せられ、美作から京都の所司代の、阿部伊予守へ懇望して、源兵衛を番士の籍から抜かせ、自分の家臣へ加えたが、美作の心が変わるとともに、源兵衛は冷遇されるようになった。
で、源兵衛は浪人した。
浪人はしたが食うことができない。
そこで食えない兵馬をかたらい、切り取りなどを行なったが、いよいよますます食えなくなった。
そこで二人はこう考えた。「京都へ行ってよい運をつかもう」──で、旅をして来たのであった。
しかるに掛川まで来た時であったが、意外な人間を発見した。旅よそおいをした一人の娘が、旅よそおいをした若い男を、供のようにして引き連れて、街道をたどって行くのである。二人ながら編がさをかぶっているので、顔を見る事はできなかったが、姿や物腰で知ることができた。女はお粂であり男は金兵衛であった。
見て取るや兵馬は、「しめた!」と思った。
「藤井右門の遺児としては、お粂は己には怨敵だが、しかし己はあの女が好きだ。手に入れて自由にした上で、息の根を止めてやることにしよう」──で源兵衛にも旨を含め、見え隠れに二人の後をつけた。
が、袋井を通り抜けて、見付の駅路へはいった時、どうしたものか見失ってしまった。
で、今、街道を歩きながら、兵馬と源兵衛とは残念そうに、その事について話しているのであった。
紋服ではあるがあかじみた単衣を、二人ながらだらりと着流している。はいているたびも切れていれば、はいている雪駄も切れていた。歩くごとにかわいている地面から、バッバッとほこりが舞い上がって、裾をまみれさせた。
二人は先へたどって行く。
事実二人の思っているように、お粂と金兵衛とがこの街道を、京へ旅しているのであろうか。
二人は事実旅していた。
しかしこのころ二人の者は、見付の駅路の棒鼻のあたりを、話しながら先へ進んでいた。
「お許婚の園子様を、紋也様には京から呼び寄せ、京丸へこさせてお住居なさるという。当然のことではあろうけれど、私には悲しくも口惜しい。私は園子様とお逢いしたくない」──で金兵衛を誘って、江戸表へ出て働こうという、そういう口実で京丸を出て、事実江戸へ出たのであったが、江戸にはいろいろの思い出があって、住居をすることが苦しかった。「京都にも同志の人たちはある。その人たちと働くことにしよう。それにその後の出来事を、徳大寺様にお目にかかって、お話をする義務もある」──で、京都へ出かけることにした。
見付の駅路まで来た時であったが、その駅路から一里ばかり離れた、妙塚という小さい里に、縁結びの地蔵尊のあるということに、ふと気がついたところから、参詣をすることにした。
で、金兵衛と参詣して、時をつぶして見付まで帰って、今、棒鼻の辺を歩いているのであった。
編がさをかぶって、道行を着て、手甲脚半に手足をよそおい、お粂はスタスタと歩いてゆく。尻端折りをして道中差しを差して、並んで金兵衛が歩いてゆく。
夕暮れに近い時刻であって、旅宿の門では留女が、客を呼ぶ声を立てはじめていた。
こうなっては事件が起こらなければなるまい! 紋也の組と、兵馬の組と、お粂の組とが同じ街道を、同じ日に同じ方角へ向かって、同じ時刻に歩いているのであるから。
案外に事件は起こらなかった。
三組の人数は歩いていたが、距離がへだたっていたがために、顔を合わせることがなかったからである。幾日か幾日か泊まりを重ねて、三組の人たちは大津の駅路へはいった。しかるに同じ日にもう一組の男女が京都から大津の駅路へはいった。
旅よそおいをした若い娘を乳母らしい老女と下僕らしい男とが、守護でもするように前後にはさんで、入り込んで来た一組であった。すげのかさをかぶって道行を着て、かいきの手甲脚半をつけて、たびに付けひものぞうりをはき、杖をついた娘の旅の姿は、上品で清らかで美しくて、処女の気高ささえ持っていた。引いたように細い三ヵ月形の眉、その下にうるおっている切れ長の眼、鼻の形の高尚さは、人に頭を下げさせるに足りた。長目のあごにかさのひもが、結ばれて赤く見えていたが、唇の赤さと似たものがあった。
「園子お嬢様は旅ははじめて、さぞお疲れでござりましょう。少しばかり早くはござりますが、旅宿を取ることにいたしましょう」──四十歳あまりでたくましくて、忠実らしい下僕はいったが、「お咲殿そのほうがよろしかろうな」乳母らしい老女へ顔を向けた。
「そのほうがよろしゅうございますとも。江戸までは長旅にございます。今から足など痛めましては、それこそ大変でございます。旅宿を取ることにいたしましょう」──乳母のお咲はこういうようにいった。
「私のことなら大丈夫だよ。私はちっとも疲れてはいない。一日でも早くお江戸へゆきたい。ね、もう一宿ゆくことにしようよ。……でもお前たち小平やお咲が、疲れているようなら泊まってもよいが」──娘はかさの中でこういうようにいった。
徳大寺卿のくげ侍の、青地清左衛門の妹であり、山県紋也の許婚である、それは青地園子であった。どうして旅などしているのであろう? 許婚の紋也を恋慕って、江戸表を差して行く途中なのであった。
「山県様に一日も早く、お逢いなさろうと思し召して、先をお急ぎなさいますそうな」下僕の小平はからかうようにいった。「がお嬢様それはいけませぬ。逢わない内の楽しみにも、よいところがあるものでござりますよ」
「まあ小平は……何をいうことやら」
しかし三人は泊まることにして、千代古屋という旅宿屋へはいって行った。
「お早いお着きでございます」
──で、三人は奥へ通された。
しだいに夜が迫って来て、続々と旅人は旅宿の門をくぐった。と、その時二人の浪人が、千代古屋の門をくぐったが、そのみすぼらしい風さいから、どうやら帳場から断わられたらしい。が、二人の浪人は、そのようなことには慣れていると見えて、番頭と押し問答をしたあげくに、ズカズカと奥へ通って行った。
「はい千代古屋でございます。お泊まりなさいまし、お泊まりなさいまし」──留女は門口でなおも呼んだ。と、その声に引かれたかのように、前後して二組の男女の旅人が、千代古屋の門の土間へはいった。一組は紋也と鈴江であり、一組はお粂と金兵衛とであった。が、一足違ったためか、双方とも心づかなかった。別れ別れて別々の部屋へ、案内されて通ったのである。
「お泊まりなさいまし、お泊まりなさいまし」
なおも留女は門口で呼んだ。
「お妻太夫さんの見世物を見に、お島さん行って見たいねえ」
「こっそりごまかして見にゆこうか」
留女たちは客を招く合間に、こんな話を話し合っていたが、この大津の駅路のはずれの、水無神社の境内に、事実この時お妻太夫の一座が、見世物の小屋をかけていた。──が、千代古屋の奥の部屋の、出来事について語ることとしよう。
「兵馬氏、飯を持って来ぬの」
「虐待しおる。アッハハハハッ。ただし珍しいことでもない。源兵衛殿、気永く待つことにしましょう」──二人の浪人が話しあっていた。
さっき方番頭と押し問答をしてむしろ脅かして千代古屋の奥へ、通って行った浪人は、桃ノ井兵馬と矢柄源兵衛とであった。
暗い行燈の光を前に、二人は腹立たしそうに話していた。
「こう虐待をされるような、こんな身分におちぶれるほどなら、何も人一人たたっ切って、巻き奉書など奪わなければよかった」
「青地清左衛門を叩っ切ったことかな」
「うん」と源兵衛は不気味そうにいった。箱根の山中で背後から、声をかけずに叩っ切ったが、今ではいやな気持ちがしている。
「ナーニ人間の一人や二人、叩っ切ったところでなんでもありゃアしない。……それはそれとして飯が遅いな。……おや、廊下で足音がした。下女めが夕飯を持って来たのかな」
で、二人は耳をすました。しかし廊下での足音は、部屋の前から立ち去ってしまった。
「なんだなんだ面白くもない」
しかしもし二人の浪人者が、廊下に足音を立てた主の、素性を知ることができたならば「面白くもない」というような、そのような比較的のん気な気持ちで、話し合っていることはできなかったであろう。というのは廊下での足音の主が、源兵衛が箱根の山中で、討ち果たした青地清左衛門の妹の、園子その人であったからである。
園子であるが自分の部屋を出て、かわやへ行って用をたして、廊下を何気なく帰って来た。と、部屋の中で話し声が聞こえた。兄清左衛門のうわさが出た。そこで足を止めて聞き耳を立てて、源兵衛の話をいっさい聞いた。
「この部屋にいる源兵衛という武士が、さては兄上の下手人なのか! これで敵を知ることができた。逃がしはしない! 兄上の敵だ!」──で、たしなみの懐剣を、引き抜いて部屋へ躍り込んで、敵を討とうと思ったが、小平やお咲に知らせなかったら、後になって怨まれることであろう。それに部屋には敵の他に、連れの侍がいるらしい。気をはやらせて飛び込んで行ったら、あべこべに返り討ちにされようもしれぬ。一旦自分の部屋へ帰って、小平とお咲とへ事情を話して、三人で切ってはいることにしよう。──で、自分の部屋へ引っ返したが、その部屋というのは源兵衛の部屋から、三間ほど離れた所にあった。
部屋へ飛び込むと園子はいった。
「さあ助太刀をしておくれ! 兄上を討ち果たしたにくい敵が、同じ宿に泊まっているのだよ。かなわぬまでも切り込んで。……」
「お嬢様!」とそれを聞くと下僕の小平が、まずたくましい顔の上へ、敵がい心をムラムラとだした。
「お咲殿、そなたも守り刀で!」
「あい!」とお咲も懐剣を握った。
「どんな武士か知らないがナーニ! ナーニ! ナーニ! ナーニ!」小平は傍へ引きつけておいた、道中差しを取りあげたが、「ご主人様もお守りくださりょう。三人かかって討って取り、かなわぬ時は切り死にするばかりだ」──で、ヌッと突っ立った。
「ではお嬢様」
「小平や頼むよ」
「私も命限り根限り!」
──で、三人は勢い込んで、部屋から出ると廊下づたいに、源兵衛と兵馬のこもっている、部屋のほうへ足音を忍んで進んだ。
はたして敵討ちはできるであろうか。討つほうはかよわい娘であり、助太刀をするのは下僕と乳母だ。武道には未熟の連中である。しかるに一方討たれるほうは、人を殺したことのある、兇悪の矢柄源兵衛である。のみならず源兵衛には剣鬼のような、桃ノ井兵馬がついている。
この敵討ちはあぶないあぶない!
そういう気分がその一郭で、醸されているということを、なんで紋也が鈴江が知ろう。
二人は五、六間へだたった、一間の中に向かい合って、夕飯の終えた後の時間を、寝もせず静かに話していた。と、突然一所から、ののしり合う声が聞こえて来た。
「兄上の敵!」
「何を女郎が!」
──で、紋也と鈴江とは、ハッとしたように眼を見合わせたが、次の瞬間には二人ながら──一人は刀を引っ下げて、一人は吹き針を手に持って、立ち上がって廊下へ走り出していた。
しかるにこの頃もう一組の者が、一つの部屋で話し合っていたが、「おや」といって顔を見合わせた。紋也たちのいた部屋の正面の、小綺麗の部屋にいた一組であって、他ならぬお粂と金兵衛とであった。
「兄上の敵といったようだね。しかもうら若い女の声で」
「へい、姐ご、そういったようで」
「行ってみようよ、ねえ、金ちゃん」
「行ってみましょう!」と金兵衛は立った。
ふすまをあけたが二人一緒だ! スルスルと廊下へ走り出て、声のしたほうへ小走った。と、その二人のすぐ行く手を、一人の武士と一人の娘とが、やはり先のほうへ小走っていた。
「あッ」とお粂が声をあげた。
「山県さんだよ! 紋也さんだよ!」
「よッ、妹ごの鈴江様もおられる!」
しかし金兵衛がそういった時には、紋也の姿も鈴江の姿も、曲がり角を曲がって見えなくなっていた。とはいえすぐに叫び声がした。
「おッ、これは園子様か!」
つづいて女の喜び声が聞こえた。
「あッ、紋也様! 鈴江様にも!」
つづいて紋也の声が聞こえた。
「おのれは兵馬か! 桃ノ井兵馬か!」
「うーむ、貴様は山県兄妹か!」
つづいて女の声がした。
「兄の敵でござります! そこにいる矢柄源兵衛という男が!」
──たちまち太刀音が数合したが、すぐに人間の倒れる音がし、
「園子様! とどめをお刺しなされ!」紋也の声が響き渡り、「おのれ! 逃げるか! 卑きょうだ! 兵馬!」こう同じ声がつづいて起こった。
しかしその次の瞬間において、廊下をはせてゆく足音がした。
まだ浅夜であったので、大津の町は賑わっていた。と、その往来を一人の浪人が、抜き身をさげて走って来た。千代古屋から逃れ出た兵馬であった。と、その後から大勢の者が、棒などを持って追っかけて来た。千代古屋の若い衆を先に立てて近所の人々が訳わからずに群衆心理に支配されて、兵馬を追って来たのであった。
「食い逃げだ!」「賊だ!」「敵討ちだ!」──で、一同追って来た。
──紋也に逢おうとは思わなかった。鈴江に逢おうとは思わなかった。その上廊下の曲がり角のあたりで、お粂と金兵衛の姿を見た! いったいどうしたというのだろう? ……とうとう源兵衛は討たれてしまった……なぜ己もあの時紋也を相手に、切り死にをしてしまわなかったのか! 尾羽打ち枯らした浪人の己だ! 今後の立身などおぼつかない! 切り死にすればよかったではないか!
走りながら兵馬はこんなことを思った。
──仇敵の山県紋也に討たれて死ぬのが口惜しく思ったからだろう。それで夢中で逃げたのだろう! 追って来おる! 追って来おる! 追って来おる! 食い逃げ、賊だと叫んでおる! ……町人どもに追い詰められて捕えられては恥の恥だ! ……腹を切りたい! 死に場所を得たい!
兵馬は走りながらこう思った。で、兵馬は横道へそれた。しかし群集は追って来た。兵馬は露路露路をくぐって逃げた。しかし群集は追って来た。と、兵馬は駅路のはずれの、神社の広い境内へ出た。そこにかけ小屋が立っていて、赤い提灯が釣るされてあり、人々が木戸から出入りしていた。
「よし」と兵馬は咄嗟に思った。
「まぎれて小屋へはいってやろう」──抜き身を鞘に納めるや、素早く木戸から中へはいった。
お妻太夫の見世物小屋であって、その舞台裏の楽屋の中に、一人の女が子供を膝にし、さも平和そうにうたっていた。
「あの山越えてゆく時は……」
「竹太郎やお笑い、よい子の竹太郎や! お父様を目付けにゆきましょうねえ」
しかしその時見物席のほうから、どよめく人々の声が聞こえ、こっちへ走ってくる足の音がし、楽屋へ何者か飛び込んで来た。
「お前は君江! うーむ、竹太郎も!」
飛び込んで来たのは桃ノ井兵馬で、この結末は簡単であった。女房の君江の前へすわると、
「お前の父親武左衛門殿を、殺害したのはこの己だ、己はお前には父の仇だ! さあこの刀で怨みを晴らせ」と、刀を抜くと桃ノ井兵馬は、君江へ渡して討たれようとした。が、君江は発狂していた。で、ただぼう然とみつめてばかりいた。そこで兵馬はいったそうである。「親の敵ではあるけれども、お前にとっては己は良人だ。まさか討つことはできないだろう。……よしよしこうして討たれよう」──抜き身の柄を君江に持たせ、手を持ち添えて自分から、兵馬は切っ先を胸もと深く、突き込んでこの世を辞したそうである。
「竹太郎を頼む! これだけは頼む! 死に場所を得た! せめてもの慰め!」これが最後の言葉であったそうな。
しかるにこのころ千代古屋では、お粂とそうして園子との間に、こういうしおらしいすがすがしい話が取り交わされていたそうである。
「おうわさは承わっておりました。あなた様が園子様でござりましたか。お若い娘ごの身空をもって、よう仇討ちをなされました。見ればお優しくて気高くて、それでいて勇気もおありなさる。紋也様とはよいお配偶、私などおよびもつきませぬ」これはお粂がいったのであった。
「藤井右門様のお嬢様の、あなた様はお粂様でござりましたか。お見受けしますればかん難辛苦を、数々お重ねなされましたごようす、私などおよびもつきませぬ。何とぞ今後は妹とも覚し召して、万事お教えくださいますよう」これは園子がいったのであった。
もうこれだけでよいではないか。お粂は活動的婦人であって、園子の気品に打たれたのであった。紋也に対する恋心を、いさぎよく園子へ譲ったものと、こう解釈してよいばかりか、事実自分の恋を捨てて、その後は江戸や京都の地や、京丸などへ往来して、得意の煙術を種にして、同じ志の義人や志士を、京丸へきゅう合したそうである。矢柄源兵衛を切り倒したのは、山県紋也に他ならなかったが、とどめを刺したのは園子であって、兄にあたる青地清左衛門の敵を討ち取ったものということができる。
園子を加えた京丸の地へ、その後続々と志士や義人が、集まって来て倒幕の策を講じたということに関しては、詳説するにもあたるまい。
ここで作者は顔を出す。
百五十七回を書いた時、読者の一人から次のような、親切な手紙を受け取った。
前略貴作「娘煙術師」拝読仕候、京丸の所在ご不明の由お記載に候えども、右は交通甚だ不便の地なるも、確かに現存し、現に小生叔母の娘が嫁しおり候、小生は京丸より東南約十里の土地の産に候、ただし京丸へは未到に候
では作者は読者に約する、明日にも新舞子を発足して、京丸の別天地へ行ってみよう。そうして竹内式部をはじめ、この物語へ出た多くの人々の、その後の生活を調べてみよう。おそらく意外にして有意味の歴史を、発見することができるだろう。その発見した歴史をもとに、近い将来にこの物語の続篇を書くのも面白いではないか。
作者は信州諏訪の産で、京丸についても京丸ぼたんについても、京丸で晩年を送ったという、天龍道人竹内式部──この偉大なる人物についても、いわれぬ愛着を持っていて、以前にも「京丸ぼたん」と題して、長篇物語を書いたことがあった。実地踏査をすることによって、さらに新しい物語を、作ることができようかと思われる。
「娘煙術師」の物語にしても、あえて作者はいっておく。「決してでたらめの空想のみによって、作ったものではないということを」
底本:「娘煙術師(上、下)」国枝史郎伝奇文庫(十四、十五)、講談社
1976(昭和51)年6月12日第1刷発行
初出:「朝日新聞」
1928(昭和3)年8月26日~1929(昭和4)年2月22日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では、一般的に読点「、」とする数箇所に終止符「.」が使われていますが、すべて読点に統一しました。
※底本での「頤」と「頣」、「鬨」と「閧」、「盾」と「楯」、「痲痺」と「麻痺」、それぞれの混在は、いずれも底本通りにしました。
入力:阿和泉拓
校正:六郷梧三郎
2010年11月9日作成
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