塩原多助旅日記
三遊亭円朝
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いや是は若林先生、さア此方へお這入んなさい。どうも久し振でお目に掛りました。裏猿楽町二番地へ御転住になつたといふ事でございますから、一寸お家見舞にあがるんですが、どうも何も貴方のお座敷へ出すやうな話がないので、つい御無沙汰致しました。時に斯ういふ話があるんです。是は貴方も御承知の石切河岸にゐた故人柴田是真翁の処へ私が行つて聞いた話ですが、是は可笑しいて……私が何処へ行つても口馴れてお喋りをするのは御承知の塩原多助の伝だが、此の多助の伝は是真翁が教へてくれたのが初まりだが、可笑しいぢやありませぬか。どういふ訳かといふと、其頃私が怪談の話の種子を調べようと思つて、方々へ行つて怪談の種子を買出したと云ふのは、私の家に百幅幽霊の掛物があるから、百怪談といふものを拵へて話したいと思ふ時分の事で、其頃はまだ世の中が開けないで、怪談の話の売れる時分だから、種子を探して歩いた。或時是真翁の処へ行くと、是真翁が「お前は此頃大層怪談の種子を探しておいでださうだ。」「どうか怪談の種子を百種買出して見たいと思ひます。八代目団十郎や市村羽左衛門の怪談、沢村宗十郎の御殿女中の怪談、岩井半四郎の怪談、其他聞いた事見た事を種々集めてゐるんですが」と云ふと、是真翁が「円朝さん、妙な怪談の種子がある。こりやア面白い怪談だが、お前何を知らないか、塩原多助といふ本所相生町二丁目の炭屋の怪談を」「知りませぬ」「さうかね、塩原多助といふ炭屋の井戸は内井戸であつたさうだが、其家はたいした身代だから、何とかいふ名のある結構な石でこしらへた立派な井戸ださうだ。ところが其の井戸の中へ嫁が身を投げて死んだり、二代目と三代目の主人が気違ひになつたりしたのが、其家の潰れる初まりといふので、そりやア何とも云へない凄い怪談がある」「へー、それはどう云ふ筋です」「委しい事は知らないが、何でも其の初代の多助といふ人は上州の方から出て来た人で、同じ国者が多助を便つて来て、私もお前のやうな大きな身代になりたい、国の家が潰れたから江戸で稼いで、国の家を再興したいと思つて出て来たのだから、どうか資本を貸してくれと云ふと、多助がそりやアいけない、他人に資本を借りてやるやうな事では仕方がない、何でも自分で苦しんで蟻が塔を積むやうにボツ〳〵身代をこしらへたのでなくては、大きな身代になれるものではないから、兎も角も細かい商ひをして二朱か三朱の裏店へ住つて、一生懸命に稼ぎ、朝は暗い中から商ひに出、日が暮てから帰つて来るやうにし、夜は翌日の買出しに出る支度をし、一時か一時半ほか寝ないで稼いで、金を貯めなければ、本当に金は貯らない。私なども其位な苦しみをして漸く斯ういふ身の上になつたのだ。と云はれて此人も多助のいふことを成程と感心したから、自分も何ぞ商ひをしようといふので、是から漬物屋を初めた。すると相応に商ひもあるから、商ひ高の内より貯めて置いて、これを多助に預けたのが段々積つて、二百両ばかりになつた。其頃の百両二百両と云ふのは大したものだから、もう是で国へ帰つて田地も買へるし、家も建てられるといふので、大いに悦んで多助に相談の上、国へ帰つた。国へ帰つて田地を買ふ約束をしたり、家を建る木材を山から伐り出すやうにしたり、ちやんと手筈を付けて江戸へ帰つて来ると、塩原多助が死んでゐた。さア大いに驚いて、早速多助の家へ行つて、番頭に掛合ふと、番頭は狡い奴だから、そんなものはお預り申した覚えはござりませぬ、大旦那様お亡れの時お遺言もございませぬから上る事は出来ない、一体お前さんは何を証拠に預けたと云ひなさるか、預けたものなら証拠が無ければならない。といふ取つても付けない挨拶。其時分は人間が大様だから、金を預ける通帳をこしらへて、一々附けては置いたが、その帳面は多助の方へ預けた儘国へ帰つたのを、番頭がちよろまかしてしまつたから、何も証拠はない。さア其人は口惜しくつて耐らないから、預けたに違ひない、多助さんさへゐれば其様なことを云ふ筈はないのだから、返してくれ。と云つても肯かない。決して預かつた覚えはない、と云ひ張る。預けた預からないの争ひになつた処が、出入りの車力や仕事師が多勢集つて来て、此奴は騙取に違ひないと云ふので、ポカ〳〵殴つて表へ突出したが、証拠がないから表向訴へることが出来ない。頭へ疵を付けられて泣く〳〵帰つたが、国では田地を買ひ、木材を伐り出す約束をして、手金まで打つてあるから、今更金が出来ないと云つて帰ることは出来ない。昔の人で了簡が狭いから、途方に暮れてすご〳〵と宅へ帰り、女房に一伍一什を話し、此上は夫婦別れをして、七歳ばかりになる女の子を女房に預けて、国へ帰るより仕方がない。と云ふと、お前さんのやうな生地のないものはない、預けたものを預からないと云はれて、はいと云つて帰つて来ると云ふのは、何ういふ訳です、殊に頭へ疵を付けられて帰つて来るとは、余り生地が無さ過る、そんな生地のない人と連添つてゐるのは嫌だ、此子はお前さんの子だからお前さんが育てるが宜い、私はもつと気丈な人のところへ縁付くから、といふ薄情な言ひ分、此女は国から連れて来たのではない、江戸で持つた女か知れない、それは判然分らないが、何しろ薄情の女だから亭主を表へ突き出す。男は怨めしさうに宅の方を睨んで、泣く〳〵向うへ行かうとすると、お父つアんエーと云つて女の子が追つ掛けて来るから、どうかお母さんの処へ帰つてくれ、お父つアんは無いものと思つてくれと言ひ聞かせて、泣きながら帰る子の後姿を見送り、あゝ口惜しい、二代目の多助といふ奴は恐ろしい奴だ、親父に金を預けた事を知つてゐながら、預かつた覚えはないと云ふのは酷い奴だ、塩原の家へ草を生やさずに置くべきか、と云つて吾妻橋からドンブリと身を投げた。さうすると円朝さん、その死骸が何ういふ潮時であつたか知らないが、流れ〳〵て塩原の前の桟橋へ着いたさうだ。それを店の小僧が見付けて、土左衛門が着いてゐます土左衛門が着いてゐますと云つて騒ぐ。若い衆がどれと云つて行つて見ると、どうも先刻店へ来て、番頭さんと争ひをして突出された田舎者に似てゐますといふから、どれと云つて番頭が行つて見ると、成程先刻店へ来た田舎者の土左衛門だから、悪人ながらも宜い心持はしない、身の毛慄立つたが、土左衛門突出してしまへと云ふので、仕事師が手鍵を持つて来たり、転子が長棹を持つて来たりして突出すと、また其の桟橋へ戻つて来る、幾ら突放しても戻つて来るから、そんなこつてはいけないと云ふので、三人掛つて漸く突出したところが、桟橋で車力が二人即死してしまひ、仕事師が一人気が違つてしまつたと云ふ騒ぎ。それから其れが祟りはしないか〳〵といふ気病みで、今いふ神経病とか何とか云ふのだらうが、二代目はそれを気病みにして遂に気が違つた。それから三代目が嫁を貰つたのは、名前は忘れたが、何でもお旗本のお嬢様とか何とかいふことだつた。お旗本のお嬢様が嫁に来るやうな身代になつたのだから、たいした身代になつた。すると此の嫁を姉と番頭とで虐めたので、嫁は辛くて居られないから、実家へ帰ると、親父は昔気質の武士だから、なか〳〵肯かない、去られて来るやうな者は手打にしてしまふ、仮令どんな事があらうとも、女は其の嫁した家を本当の家としなければならぬと云ふことを云ひ聞かして帰されたから、途方にくれて其の嫁が塩原の内井戸へ飛込んで幽霊に出るといふのが潰れ初めで、あの大きな家が潰れてしまつたが、何とこれは面白い怪談だらう」といふ話を聞いて、成程これは面白い話だ、これを種子にして面白い話をこしらへたいと思つたが、其の塩原多助といふ者が本所相生町に居たか居ないか、名さへ始めて聞いた位だから分らない。兎に角本所へ行つて探して見ようと思つて、是真翁の家を暇乞して是から直ぐに本所へ行きました。
さて是真翁の宅を暇乞して、直に本所へ行つて、少し懇意の人があつたから段々聞いて見ると、二つ目の橋の側に金物屋さんが有るから、そこへ行つて聞いたら分るだらうと云ふ。それから其の金物屋さんで、名前は云へないが、是々の炭屋が有りましたかと聞くと、成程塩原多助といふ炭屋があつたさうだが、それは余程古いことだといふ。それでは塩原のことを委しく知つてゐる人がありませうかと云つて聞いたところが、無いといふ。何処を捜しても分らない。其時六十九になる、仕事師の頭といふほどではないが、世話番ぐらゐの人に聞くと、私は塩原の家へ出入をしてゐたが、細かいことは知りませぬといふ。それでは塩原の寺は何処でせうと聞いたところが、浅草の森下の──たしか東陽寺といふ禅宗寺だといふことでございますといふ。それから直に本所を出て吾妻橋を渡つて、森下へ行つて捜すと、今の八軒寺町に曹洞宗の東陽寺といふ寺があつた。門の所で車から下りてズツと這入ると、玄関の襖紙に円に十の字の標が付いてゐる。はてな、これは薩摩様のお寺ではないかと思ひました。門番の処で花を買つて十銭散財して、お墓を掃除して下さい、塩原多助の墓は此方でございませうか、私は塩原の縁類の者でございますが、始めてまゐつたので墓は知りませぬから、案内して下さいと云ふと、「へい畏りました」と云つて墓へ案内して掃除してくれましたから、墓の前に向つて私は縁類でも何でもないが、先祖代々と囘向をしながら、只見ると、墓石を取巻いて戒名が彫つてある。第一に塩原多助と深く彫つてある。石塔の裏には新らしい塔婆が立つてゐて、それに梅廼屋と書いてある。どういふ訳で梅廼屋が塔婆を上げたか、不審に思ひながら、矢立と紙入の鼻紙を取出して、戒名や俗名を皆写しましたが、年号月日が判然分りませぬから、寺の玄関へ掛つて、「お頼み申します」といふと、小坊主が出て取次ぎますから、「私は本所相生町二丁目の塩原多助の縁類のものでございますが、まだ塩原の墓も知らず、唯塩原のお寺は此方だといふことを聞伝へて、今日お墓参りにまゐりました、これはほんの心ばかりでございますが、どうか先代多助の御囘向を願ひたいものでございます」と云つて金を一円包んで出すと、奥から和尚様が出て来まして、「あなたが塩原多助の御縁類の方でございますか、愚僧が当住で……只今御囘向を……」「いえ、今日は拠ないことで急ぎますから、御囘向は後でなすつて下さい……塔婆をお立てなすつて、どうぞ御囘向を願ひます」「畏りました」と茶を入れて金米糖か何かを出します。すると和尚さんの手許に長谷川町の待合の梅廼屋の団扇が二本有りますから、はてな此寺に梅廼屋の団扇のあるのは何ういふ訳か、殊に塩原の墓にも梅廼屋の塔婆が立つて居りましたから、何か訳のあることゝ思つて、「和尚さん、こゝにある団扇は長川谷町の待合の梅廼屋の団扇ですか」「左様です」「梅廼屋は此方の檀家でございますか」「いえ檀家といふ訳ではありませぬが、長い間塩原の附届をしてゐる人は梅廼屋ほかありませぬ、それで此の団扇があるのです」「それは何ういふ訳です」と聞くと、梅廼屋は五代目の塩原多助の女房で、それが亭主が亡つてから、長谷川町へ梅廼屋といふ待合を出したのです」「へえーさうでございますか」それぢやア梅廼屋のお母に聞けば塩原の事は委しく分る。梅廼屋に聞くのは造作もない事だ。といふのは梅廼屋は落語社会の寄合茶屋でございますから……「有難うございます、どうか御囘向を願ひます、又参詣を致します」と云つて、それから直に浜町一丁目の花屋敷の相鉄といふ料理屋へ行つて、お膳を誂へ、家の車をやつて、此の車で直に来てくれと云つて梅廼屋を迎へにやりました。
梅廼屋は前にも申しました通り、落語家一統の寄合茶屋で、殊に当時私は落語家の頭取をして居りましたから、為になるお客と思ひもしまいが、早速其車で来てくれました。「何うしたんです、何か急の御用ですか」「いや、改まつてお聞き申したいのだが、お前は塩原といふ炭問屋へ嫁になつた事が有るさうだ」「いゝえ、炭問屋は疾うに潰れて、お厩橋へ来た時私が縁付いたのです」「お前の御亭主は」「秀三郎と云つて五代目でございます」「早く死んだのかえ」「へえ、少し気が違つて早く死にました」と云ふから、成程是真翁の話の通り祟つたのだなと思ひ当りました。「お前さんの所に何か書物はありませぬかえ──御先祖塩原多助の書類か何か残つてゐませぬか」「何も有りませぬ、少しは残つてゐた物も有りましたが、此前の火事で焼けましたから、書付類はありませぬが、御先祖様の着た黒羽二重に大きな轡の紋の附いた着物が一枚あります。それは二代目塩原が、大層良い身代になつて跡目相続をした時、お父さん、お前さんはもう是だけの身代になつたら、少しはさつぱりした着物をお召しなさるが宜い、何時までも木綿の筒ツぽでは可笑しいから、これを着て下さいと云つて、其の黒羽二重の着物を出したところが、こんな物を着るやうで、商人の身代が上るものかと云つて、一度も着たことは無かつたさうです。其の着物が残つて居ります。それから御先代の木像と過去帳が残つて居ります」「それでは、ちよいとそれを持つて来て貰ひたい」といふと、女将は直に車に乗つて行つて取つて来ました。其中に誂へた御飯が出来ましたから、御飯を食べて、其の過去帳を皆写してしまつた。其の過去帳の中に「塩原多助養父塩原覚右衛門、実父塩原覚右衛門」と同じ名前が書いてある。はてな、同じ名前は変だと思つたから、「お母さん、こゝに同じ名前があるが、是は何ういふ訳だらう」と聞くと、「それは私には分りませぬ、そんな事が書物にあつたと云ひますけれども、私には分りませぬ」「初代の多助といふ人は上州の人ださうですが、さうかえ」「さうでございます、上州沼田の在だと云ふことでございます」「何処村といふことは分りませぬか」「どうも分りませぬ」「それぢや少し聞いたことが有るから、私は一つ沼田へ行つて見ようと思ふ」「沼田の親類もあの五代目が達者の時分は折々尋ねて来ましたが、亡つて後は音沙汰はありませぬ、もしお逢ひになつたら、どうか宜しく・……」「何といふ名前です」「お師匠さん、私は年を老つて物おぼえが悪くなつて、よく覚えて居りませぬが、何でも多の字の付く名前でしたが、忘れました」「分りませぬか」「分りませぬ」どうも村名も分らず、名前も分らず、殆ど困りましたけれども、細かに尋ねたら知れぬ事もあるまいと、是から宅へ帰つて、直に旅立の支度を始めたから、宅の者は驚いて、何処へ行くといふ。少し理由があつて旅をすると云ふと、弟子や何かが一緒に行きたがるが、弟子では少し都合の悪いことがある。宅に酒井伝吉といふ車を曳く男がある、此男は力が九人力ある、なぜ九人力あるかといふと、大根河岸の親類の三周へ火事の手伝ひにやつたところが、一人で畳を一度に九枚持出したから、九人力あると私が考へた。其の伝吉を呼んで、「時に私は今度下野から上州の方へ行くに就て、お前を供に連れて行かうと思ふが、面白くも何ともない、ひどい山の中へ行くんだが、行くかえ」「それは有難い、──どんな山の中でも行きます、私の生国は越中の富山で、反魂丹売ですから、荷物を脊負つて、まだ薬の広まらない山の中ばかり売つて歩くのです、さうして又翌年其の山の中を売つて歩くので、山の中は歩きつけて居ります、又私は力がありますから、途中で追剥が五人や六人出ても大丈夫でございます、富山の薬屋は風呂敷を前で本当に結んでは居りませぬ、追剥にでも逢ふと、直に風呂敷の結び目がずつと抜けてしまつて、後へ荷物を投り出し、直と匕首を抜いて追剥と闘ふくらゐでなければ、迚も薬屋は出来ませぬ、私が行けば大丈夫でございます、御安心なさい」「さうかえ、足は大丈夫かえ」「足は大丈夫でございます、車を引いてゐる位でございますから」と云ふので、是から支度をしまして、両人で出かけましたが、何でも歩かなければ実地は履めませぬ。東京の内はうるさいから車に乗つて、千住掃部宿で車より下りて、是から上州沼田へ捜しに行きました。
底本:「明治の文学 第3巻 三遊亭円朝」筑摩書房
2001(平成13)年8月25日初版第1刷発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2006年11月15日作成
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