行乞記
三八九日記
種田山頭火
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十二月廿八日 曇、雨、どしや降り、春日へ、そして熊本へ。
もう三八九日記としてもよいだらうと思ふ、水が一すぢに流れるやうに、私の生活もしづかにしめやかになつたから。──
途上、梅二枝を買ふ、三銭、一杯飲む、十銭、そして駅で新聞を読む、ロハだ。
夕方から、元坊を訪ねる、何といふ深切さだらう、Y君の店に寄る、Y君もいゝ人だ、I書店の主人と話す、開業以来二十七年、最初の最深の不景気だといふ、さうだらう、さうだらうが、不景気不景気で誰もが生きてゐる、たゞ生きてゐるのだ、死ねないのだらう!
晴れた朝の悲しいたよりだつた(寸鶏頭君の病篤し)
・酔へば人がなつかしうなつて出てゆく
師走夕暮、広告人形がうごく
久しぶりに話してゐる雨となつた
どしやぶり、正月の餅もらうてもどる
・どうなるものかとはだしであるく
暮れてまだ搗いて餅のおいしからう
濡れて戻つて机の塵
Sがお正月餅を一袋くれた、饀餅、平餅、粟餅、どれもこれもありがたくいたゞいた、元坊のところでも搗きたてのホヤ〳〵餅をおいしく食べた。……
寝床の中でつく〴〵考へる、──私は幸福な不幸人だ、恵まれた邪宗徒だ、私はいつでも死ねる、もがかずに、従容として! 私にはもうアルコールもいらない、カルモチンもいらない、ゲルトもいらない、フラウもいらない、……やつぱりウソはウソだけれど、気分は気分だ。
十二月廿九日 晴、紺屋町から春日駅へ、小春日和の温かさ。
或る人へのたよりに、『……こゝへ移つて来てから、ほんたうにしづかな時間が流れてゆきます、自分自身の寝床──たとへそれはどんなにみすぼらしいものであつても──を持つてゐることが、こんなにも身心をおちつかせるかと、自分ながら驚いてをります、ちようど、一茶が長年待ち望んでゐた家庭を持つた時のよろこびもこんなだつたらうと、ひとりで微苦笑を禁じえませんでした。……』
ぶら〳〵歩いてゐるうちに、酒が飲みたくなつて、飲むだけの十銭は持つてゐたので、一杯ひつかけた、漬物、皿、炭、等々を買つたら、もう財布には一銭銅貨四枚しか残つてゐない。
ルンペンは一夜の契約だが、今の私は来年の十五日までは、こゝにゐることが出来る、米と炭と数の子と水仙と白足袋とを買つたら、それこそおめでたいお正月だ!(餅はすでに貰つた。酒も貰へるかも知れない、乞食根性をだすなよ)
月の葉ぼたんへ尿してゐる
誰もが忙しがつてる寒月があつた
三八九の原稿を書くのに、日記八冊焼き捨てゝしまつたので困つた、しかし困つても、焼き捨てたのはよかつたらう、──過去は一切焼き捨てなければ駄目だから、──放下了也。
十二月卅日 風は冷たいけれど上々吉のお天気、さすがに師走らしい。
私は刻々私らしくなりつゝある、私の生活も日々私の生活らしくなりつゝある、何にしてもうれしい事だ、私もこんどこそはルンペンの足を洗ふことが出来るのだ。
草鞋のかろさと下駄のおもさとを考へる、殊に足駄をひきずつて泥濘を歩くと、すぐ足が痛くなり腫れあがつて歩けなくなる、長袖を着て下駄を穿いて活動が出来るものか。
師走の人ごみにまじつて、ぶら〳〵歩く、買う銭もなければ、あまり買ひたいものもない、あんまりのんきな師走の私かな。
私には師走もなければ、したがつて正月もない、気取つていへば、毎日が師走でもあり正月でもある。
あんな夢を見たけさのほがらか
けさも一りん開いた梅のしづけさ
鐘が鳴る師走の鐘が鳴りわたる
・街は師走の広告燈の明滅
・仲よい夫婦で大きな荷物
飾窓の御馳走のうつくしいことよ
うつくしう飾られた児を見せにくる
寒い風の広告人形がよろめく
朝日まぶしい餅をいたゞく
午前は元寛さん来訪、夜は馬酔木居往訪、三人で餅を焼いて食べながら話した、元寛さんは元寛さんのやうに、馬酔木さんは馬酔木さんのやうに、どちともすぐれた魂を持つてゐられる。……
元寛さんから餅と数の子とを貰つた、ありがたかつた。
二本三銭の梅が咲きはじめた
・明日はお正月の数の子まで貰つた
・ぐるりとまはつてまたひとりになる
霜枯れの菊の枯れざま
・霜の大地へコマぶつつける
洟垂息子の独馬は強いな
降つてきたのは煤だつた
畠の葉ぼたんのよう売れてさみしくなる
夕ざれは豆腐屋の笛もなつかしく
十二月卅一日 曇つて寒い、暮れてからは雨になつた、今年もおしまひだ。
嚢中に四銭しかない、三銭で入浴、一銭でヒトモジ一把、文字通りの無一物だ、いかに私でも──師走がない正月がない私でも困るので、夕方、寥平さんを訪ね、事情を明かして少し借りる、いや大いに掠める、寥平さんのすぐれた魂にうたれる。……
見切の白足袋一足十銭、水仙一本弐銭、そして酒一升一円也、──これで私の正月支度は出来た、さあ正月よ、やつてこい!
人間は妙なもので、酒を一杯飲ませて下さいとはいひにくいが、煙草一服貸して下さいとはいひやすい、餅を頂戴しませうとはいひやすけれど、飯をよばれませうとはいひにくい、思ふに、自分の身に即きすぎた物、いひかへれば必要の度の強い物、誰もが持たなくてはならない物は強請しにくいらしい。
風呂敷といふものは何と便利なものだらう、大小自由だ、大きいものも小さいものも一枚で包める、とてもトランクやケースやバツグが及ばない、たゞモダーンではない。
食べたい時に食べ、寝たい時に寝る、私しやほんとに我がまゝ気まゝ。
偶然のない生活、当然のみの生活、必然の生活、「あるべき」が「あらずにはゐられない」となつた生活。
忙しい中の静けさ、貧しい中の安らかさ、といつたやうなものを、今日はしみ〴〵感じたことである。
寥平さんのおかげで、炊事具少々、端書六十枚、其他こま〴〵したものを買ふ、お歳暮を持つて千体仏へ行く、和尚さんもすぐれた魂で私を和げて下さつた。
あんまり気が沈むから二三杯ひつかける、そして人が懐かしうなつて、街をぶらつき、最後にSのところで夜明け近くまで話した(今夜は商店はたいがい徹夜営業である)、酔うて饒舌つて、年忘れしたが、自分自身をも忘れてしまつた。……
葉ぼたん抜かれる今年も暮れる
今年も今夜かぎりの雨となり
それでは昭和五年よ、一九三〇年よ、たいへんお世話になつた、各地の知友福寿長久、十方の施主災障消除、諸縁吉祥ならんことを祈ります。
一月一日 雨、可なり寒い。
いつもより早く起きて、お雑煮、数の子で一本、めでたい気分になつて、Sのところへ行き、年始状を受取る、一年一度の年始状といふものは無用ぢやない、断然有用だと思ふ。
年始郵便といふものをあまり好かない私は、元日に年始状を書く、今日も五十枚ばかり書いた、単に賀正と書いたのでは気がすまないので、いろ〳〵の事を書く、ずゐぶん労れた。
元旦の捨犬が鳴きやめない
売れ残つた葉ぼたん畑のお降り
・水仙いちりんのお正月です
・ひとり煮てひとり食べるお雑煮
一月二日 曇后晴、風、人、──お正月らしい場景となつた。
吉例によつて、お屠蘇とお雑煮だけは缺かさない、独り者にも春は来にけり、さても結構なお正月で御座います、午後になつて出かける、まづ千体仏へ、老師はお年始まはりで不在、つぎに茂森さん宅へ、こゝも廻礼でお留守、──歩くのが嫌になつて、人間がうるさくなつて、そのまゝ帰つて来た、夕方、思ひがけなく元坊来訪、今夜また馬酔木居で会合することを約束する、何も御馳走するものがないから密柑をあげる、私はお雑煮やりそこなひの雑炊を食べて、ぶら〳〵新市街の雑踏を歩いて、馬酔木さんを訪ねる、いろ〳〵お正月の御馳走になる、十分きこしめしたことはいふまでもない、だいぶおそくなつてSの店に寄つた、年賀状がきてはゐないかと思つて、──が、それがいけなかつた、彼女の御機嫌がよくないところへ、私が酔つたまぎれに言はなくてもいゝ事を言つた、とう〳〵喧嘩してしまつた、お互に感情を害して別れる、あゝ何といふ腐れ縁だらう!
暁、火事があつた、裏の窓からよく見えた、私は善い意味での、我不関焉で、火事といふものを鑑賞した(罹災者に対してはほんたうにすまないと思ひながらも)。
さきころまでは何を食べても──水を飲んでさへも──塩つぽく感じたのに、けふこのごろは、何を食べても甘たらしく感じる、何の病気だらうか、しかし近来の私は健康である、今夜も馬酔木居で、肥えたといはれたが、なるほど、私は肥えた、手首を握つて見るに、今までにない大きさである。……
通信費が多いのには閉口する、こゝへ移つてから、転居の通知やら、年始状やらで、もう葉書を百五十枚ぐらいは買つたらう、これではとてもやりきれない(生活費の三割以上を占めるやうになる)、早く三八九を出して、それを利用したい。
先祖代々菩提とぶらふ水仙の花
酔へばけふもあんたの事(緑平さんに)
・うまい手品も寒い寒い風
正月二日の金峰山も晴れてきた
お正月の熊本を見おろす
・もう死ぬる声の捨猫をさがす
自動車も輪飾かざつて走る
持てるものみんな持つて歩いてゐる(老遍路さん)
よい月の葉ぼたんのよさ
追加二句
・訪ねる人もゐない街のぬかるみ
闇をつらぬいて自動車自動車
一月三日 うらゝか、幸福を感じる日、生きてゐるよろこび、死なゝいよろこび。
──昨夜の事を考へると憂欝になる、彼女の事、そして彼の事、彼等に絡まる私の事、──何となく気になるのでハガキをだす、そして風呂へゆく、垢も煩らひも洗ひ流してしまへ(ハガキの文句は、……昨夜はすまなかつた、酔中の放言許して下さい、お互にあんまりムキにならないで、もつとほがらかに、なごやかに、しめやかにつきあはふではありませんか、……といふ意味だつたが)。
お正月も暮れてまだ羽子をついてゐる
・お正月のまんまるいお月さんだ
夕闇せまりくる独馬をたゝかはせてゐる
おとなしく象は食べものを待つばつかり(有田洋行会所見二句)
食べものに鼻がとゞかない象は
水仙けさも一りんひらいた
・とりとめもなく考へてゐる水仙のかほり
考へてをる水仙ほころびる
水仙ひらかうとするしづけさにをる
・いやな夢見た朝の爪をきる
寝る前の尿する月夜ひろ〴〵
よい月夜のび〳〵と尿するなり
当座の感想を書きつけておく。──
恩は着なければならないが、恩に着せてはならない、恩を着せられてはやりきれない。
親しまれるのはうれしいが、憐れまれてはみじめだ。
与へる人のよろこびは与へられる人のさびしさとなる、もしほんたうに与へるならば、そしてほんたうに与へられるならば、能所共によろこびでなければならない。
与へられたものを、与へられたまゝに味ふ、それは聖者の境涯だ。
若い人には若い人の句があり、老人には老人の句があるべきである、そしてそれを貫いて流れるものは人間の真実である、句を読む人を感動せしむるものは、句を作る人の感激に外ならない。
父子共に句作者であつて、そしてその句が彼等のいづれの作であるかゞ解らないやうな句を作るやうでは情ない、現今の層雲にはかういふ悲しむべき傾向がある(今月号所載、谷尾さんの苦言は肯綮に当つてゐる、私もかね〴〵さう考へてもゐたし、またしば〳〵口に出して忠告もしてゐた)。
自嘲一句
詫手紙かいてさうして風呂へゆく
一月四日 曇、時雨、市中へ、泥濘の感覚!
昨日も今日も閉ぢ籠つて勉強した、暮れてから元寛居を訪ねる、腹いつぱいお正月の御馳走になつて戻つた。
一本二銭の水仙が三輪開いた、日本水仙は全く日本的な草花だと思ふ、花も葉も匂ひも、すべてが単純で清楚で気品が高い、しとやかさ、したしさ、そしてうるはしさを持つてゐる、私の最も好きな草花の一つである。
やうやく平静をとりもどした、誰も来ない一人の一日だつた。
米と塩──それだけ与へられたら十分だ、水だけは飲まうと思へば、いつだつて飲めるのだが。
しぐれ、どこかで三味を弾いてる
水兵さんがならんでくる葉ぼたん畑
今年のお正月もお隣りのラヂオ
ひそかに蓄音機かけてしぐれる
けふも返事が来ないしぐれもやう
・ひとり住んで捨てる物なし
二階ずまゐのやすけさのお粥が出来た
お正月もすんで葉ぼたんの雨となつて
さん〴〵降りつめられてひとり
ぬかるみふみゆくゆくところがない
・重いもの負うて夜道を戻つて来た
・戻れば水仙咲ききつてゐる
今夜は途上でうれしい事があつた、Sのところから、明日の句会のために、火鉢を提げて帰る途中だつた、重いもの、どしや降り、道の凹凸に足を踏みすべらして、鼻緒が切れて困つてゐると、そこの家から、すぐと老人が糸と火箸とを持つて来て下さつた、これは小さな出来事、ちよつとした深切であるが、その意義乃至効果は大きいと思ふ、実人生は観念よりも行動である、社会的革命の理論よりも一挙手一投足の労を吝まない人情に頭が下る。……
一月五日 霧が深い、そしてナマ温かい、だん〳〵晴れた。
朝湯へはいる、私に許された唯一の贅沢だ、日本人は入浴好きだが、それは保健のためでもあり、享楽でもある、殊に朝湯は趣味である、三銭の報償としては、入浴は私に有難過ぎるほどの物を与へてくれる。
次郎さんから悲しい手紙が来た、次郎さんの目下の境遇としては、無理からぬことゝは思ふが、それはあまりにセンチメンタルだつた、さつそく返事をあげなければならない、そして平素の厚情に酬ゐなければならない、それにしても、彼は何といふ正直な人だらう、そして彼女は何といふ薄情な女だらう、何にしても三人の子供が可哀想だ、彼等に恵みあれ。
午後はこの部屋で、三八九会第一回の句会を開催した、最初の努力でもあり娯楽でもあつた、来会者は予想通り、稀也、馬酔木、元寛の三君に過ぎなかつたけれど、水入らずの愉快な集まりだつた、句会をすましてから、汽車辨当を買つて来て晩餐会をやつた、うまかつた、私たちにふさはしい会合だつた。
だいぶ酔うて街へ出た、そしてまた彼女の店へ行つた、逢つたところでどうなるのでもないが、やつぱり逢ひたくなる、男と女、私と彼女との交渉ほど妙なものはない。
自転車が、どこにもあるやうに、蓄音機も、どこの家庭にもある、よく普及したものは、地下足袋、ラヂオ、等、等。
朝霧の赤いポストが立つてゐる
霧の朝日の葉ぼたんのかゞやき
・おみくじひいてかへるぬかるみ
冬日ぬくう毛皮を張る
しぐれ、まいにち他人の銭を数へる
山に向つて久しぶりの大声
灯が一つあつて別れてゆく
葉ぼたん畑よい月がのぼる
一月六日 雨、何といふ薄気味の悪い暖さだらう、そして何といふ陰欝な空模様だらう。
昨日は大金(今の現状では)を費つたが、今日は殆んど費はなかつた、切手三銭と湯銭三銭とだけ。
隔日に粥を食べることにしてゐる、経済的には僅かしか助からないけれど、急に運動不足になつた胃のためにたいへんよろしい。
次郎さんに手紙を書いた、──その心中を察して余りある事、感傷的になつては詰らない事、気持転換策として禅の本を読まれたい事、一度来訪ありたき事、等、等。
苦痛のために身心を歪曲されるやうでは駄目だ、人生といふものはおのづから道が開けてくるものである、といふよりも、人間は自分自身の道を見出さずには生きられないのである。
干し物そのまゝにしてしぐれてゐる
・ま夜中、熱いものをすゝる
・食べるもの食べつくしてひとり
とりわけてうつくしい葉ぼたんの日ざし
・ぬくい夜の赤児へ話しかけてゐる
一月七日 曇、后晴、寒くなつた、冬らしくなつた(昨日から小寒入だ)
銭がなくなつた、餅もなくなつたし米もなくなつた(銭は精確にいへば、まだ十三銭残つてゐるが)。
朝は腹も空いてゐないからお茶を飲んですます、午後は屑うどんを少しばかり買つて食べる、夜は密柑の残つたのを食べる、お茶がやつぱり一等うまい。
昨日も今日もアルコールなしだつた、飲みたいとも思はなかつた、私もやつとアルコールだけは揚棄することが出来らしい、そして昨日も今日も私一人だつた、訪ねてもゆかず、訪ねてくるものもなかつた、たゞ一人ぢつとして読んでゐた、考へてゐた、そして平静だつた。
・お茶でもすませる今日が暮れた
・散つては咲く梅の水かへる
寒うなつて葉ぼたんうつくしい
生活の御詠歌うたふも寒いこと
・音たてゝ食べる夜の人
・街の雑音の密柑むく
・星が寒う晴れてくるデパートの窓も
・いちりんのその水仙もしぼんだ
尿する月かくす雲のはやさよ
寒月の捨犬が鳴きつゞける
一月八日 朝のうちはうらゝかな晴れだつたが、午後は曇つた。
今朝は嫌な事と嬉しい事とがあつた、その二つを相殺しても、まだまだ嬉しさが余りあつた、──といふのは、起きてすぐ前の畠に尿して道を横ぎらうとするところへ、まご〴〵走る自動車がやつてきた、彼は巡査だつた、私が尿したのを見たのだらう、そして恐らくは自分のまご〴〵を隠すためだらう、そこへ小便してはいかんぢやないか、といひ捨てゝいつた、私は無論何とも答へなかつた、そして彼の没常識を憐んだ、私などはなるたけ小言をいひたくないのに、彼はなるたけ小言がいひたいのだ、とうてい部長にもなれない彼だ、なぜ彼等はあんなにこせ〳〵するのだらう、──嬉しい事といふのは、郷里の妹からたよりがあつたのだ、ゲルトも送つてくれたし、着物も送つてくれた、私はさつそくその着物をつけて、そのゲルトで買物しい〳〵歩いた、あゝ何といふ肉縁のあたゝかさだらう!
米を買つた、一升拾六銭だ、米はほんたうに安い、安すぎる、粒々辛苦、そして損々不足などゝ考へざるをえないではないか。
どうも通信費には困る、毎日葉書の五六枚、手紙の二三本書かないことはない、今日は葉書六枚、手紙三本書いた。
・送つてくれたあたゝかさを着て出る(妹に)
吹いても吹いても飴が売れない鮮人の笛かよ
・向きあつて知るも知らぬも濁酒を飲む(居酒屋にて)
□
かきおきかいておいてさうして(述懐)
一月九日 雨、曇、晴、曇、雨。
起きると、そのまゝで木炭と豆腐とを買ひに行く、久しぶりに豆腐を味はつた、やつぱり豆腐はうまい。
あんまり憂欝だから二三杯ひつかける、その元気で、彼女を訪ねて炬燵を借りる、酒くさいといつて叱られた。
帰家穏坐とはいへないが、たしかに帰庵閑坐だ。
昨夜も今夜も鶏が鳴きだすまで寝なかつた、寝られなかつた。
お正月の母子でうたうてくる
また降りだしてひとりである
ほころびを縫ふほどにしぐれる
・縫うてくれるものがないほころび縫つてゐる
一月十日 雪が積んでゐる、まだ降つてゐる、風がふく、寒く強く。
近来にない寒さだつた、寒が一時に押し寄せたやうだつた、手拭も葱も御飯も凍つた、窓から吹雪が吹き込んで閉口した。
ありがたいことには炬燵があつた、粕汁があつた。
朝湯朝酒は勿体ないなあ。
今日は金比羅さんの初縁日で、おまゐりの老若男女が前の街道をぞろ〳〵通る、信仰は寒さにもめげないのが尊い。
隙洩る風はこの部屋をいかにも佗住居らしくする、そしてその風をこらへて、せくゞまつてゐる自分をいかにも佗人らしくする。……
寒いにつけても、ルンペン時代のつらさを思ひ出さずにはゐられない。
酒ほどうまいものはない、そして酒ほどにがいものはない、──酒ではさんざ苦労した、苦労しすぎた。……
雪の葉ぼたんのしゞま
さら〳〵ふりつむ雪見ても
雪夜、隣室は聖書ものがたり
・ヤスかヤスかサムかサムか雪雪(ふれ売一句)
吹雪吹きこむ窓の下で食べる
一月十一日 曇つて晴れる、雪の後のなごやかさ。
いつものやうに、御飯を炊いて、そして汁鍋をかけておいて湯屋へ。──
あんまり寒いから一杯ひつかける、流行感冒にでもかゝつてはつまらないから、といふのはやつぱり嘘だ、酒好きは何のかのといつては飲む、まあ、飲める間に飲んでおくがよからう、飲みたくても飲めない時節があるし、飲めても飲めない時節がある。……
事実を曲げては無論いけない、といつて、事実に囚へられては、また、いけない(句作上に於て殊に然り)。
あるだけのものを着てあたゝかうをる
・かあいらしい雪兎が解けます
・豆腐屋さんがかちあつた寒い四ツ角
雪の朝の郵便も来ない
雪の夕べをつゝましう生きてゐる
・逢うて戻ればぬかるみ
・十分に食べて雪ふる
雪の夜半の誘惑からのがれてきた
寒ン空、二人連れは男と女
一月十二日 曇、陰欝そのものといつたやうな天候だ。
外は雪、内は酒──憂欝を消すものは、いや、融かすものは何か、酒、入浴、談笑、散歩、等、等、私にあつては。
雪の葉ぼたんの枯れるのか
曇り日の重いもの牽きなやむ
・凍テ土をひた走るバスも空つぽ
・雪ふる何も五十銭
夕方から熊本へ出かける(こゝも市内だけれど、感じでは出かけるのだ)、元寛さん馬酔木兄さんに逢ふ、別れて宵々さんを訪ねる、御夫婦で餅よ飯よと歓待して下さる(咄、酒がなかつた、などといふな)、私はこんなに誰もから歓待されていゝのだらうか。
一月十三日 曇、今日もまた雪でも降つて来さうな。
苦味生さんから、方向転換の手紙が来た、苦味生さんの気持は解る(苦味生さんに私の気持が解るやうに)、お互に、生きる上に於て、真面目であるならば、人間と人間とのまじはりをつゞけてゆける、めい〳〵嘘のない道を辿りませう、といふ意味の返事を出しておいた。
昨夜も夜明けの鶏がうたふまで眠らなかつた、いろ〳〵の事──おもに、三八九の事──が気になつて寝つかれなかつたのである、私も案外、小児病的で恥づかしい。
雪もよひ、飯が焦げついた
一月十四日 曇、降りさうで降らない雪模様。しかし、とにかく、炬燵があつて粕汁があつて、そして──。
東京の林君から来信、すぐ返信を書く、お互に年をとりましたね、でもまだ色気がありますね、日暮れて途遠し、そして、さうだ、そしてまだよぼ〳〵してゐますね。……
先夜の吹雪で吹きとばされた綿入遂に不明、惜しい品でないだけ、それだけ考へさせる。
雪空、痒いところを掻く
雪空、いつまでも女の話で(隣室の青年達に)
・雪の日の葱一把
・一把一銭の根深汁です
一月十五日 晴、三寒四温といふがじつさいだ。
少々憂欝である(アルコールが切れたせいか)、憂欝なんか吐き捨てゝしまへ、米と塩と炭とがあるぢやないか。
夕方からまた出かける(やつぱり人間が恋しいのだ!)、馬酔木さんを訪ねてポートワインをよばれる、それから彼女を訪ねる、今夜は珍らしく御気嫌がよろしい、裏でしよんぼり新聞を読んでゐると、地震だ、かなりひどかつたが、地震では関東大震災の卒業生だから驚かない、それがいゝ事かわるい事かは第二の問題として。
けふは家主から前払間代の催促をうけたので、わざ〳〵出かけたのだつたが、馬酔木さんには何としてもいひだせなかつた、詮方なしに、彼女に申込む、快く最初の無心を聞いてくれた、ありがたかつた、同時にいろ〳〵相談をうけたが!
彼女のところで、裏のおばさんの御馳走──それは、みんなが、きたないといつて捨てるさうなが──をいたゞく、老婆心切とはおばさんの贈物だらうか、みんなは何といふ罰あたりどもだらう、じつさい、私は憤慨した、奴鳴りつけてやりたいほど興奮した。
今日で、熊本へ戻つてから一ヶ月目だ、あゝこの一ヶ月、私は人に知れない苦悩をなめさせられた、それもよからう、私は幸にして、苦悩の意義を体験してゐるから。
・痛む足なれば陽にあてる
・人のなつかしくて餅のやけるにほひして
・よう寝られた朝の葉ぼたん
雪もよひ雪とならなかつたビルデイング
・何か捨てゝいつた人の寒い影
・そうてまがる建物つめたし
・子のために画いてゐるのは鬼らしい(馬酔木さんに)
・警察署の雪はまだ残つてゐる
・あんなに泣く子の父はゐないのだ
一月十六日 曇、やがて晴、あたゝかだつた。
朝、時雨亭さん桂子さんから、三八九会加入のハガキが来た、うれしかつた、一杯やりたいのをこらへて、ゆつくり食べる。……
午後散歩、途中で春菊を買つて帰る、夜も散歩、とう〳〵誘惑にまけて、ひつかけること濁酒一杯、焼酎一杯(それは二十銭だけれど、現今の財政では大支出だ!)。
唐人街、新市街、どこを歩いても、見切品ばかりが眼について嫌になつちまう、人間がそも〳〵見切だから詮方もないが、実は旧臘以来、安物ばかり買はされてきたせいだ。
・あたゝかく人を葬る仕度してゐる
晴れて遠く阿蘇がまともにまつしろ(こゝから)
・凩に焼かれる魚がうごいてゐる
捨てられた梅も咲いてゐる
枯れきつてでかい樹だ
・デパートのてつぺんの憂欝から下りる
・星晴れてのんびりと尿する
尿してゐるあちらはヂヤズか
こゝに重大問題、いや〳〵重大記録が残つてゐた、──それはかうである、──十三日は午後、三八九の趣意書を、どうしても刷りあげるつもりで出て、蔚山町の黎明社へいつた、そこは謄写刷の専門店だ、主人が留守で弟子が一人、その弟子を説きつけて刷りあげた、それを持つて、元寛君へ駈けつけて、そこで四方八方、といつても、面識のある、好意を持つてくれさうな俳友へ配つた、実は手帖を忘れて行つたので、そんな事柄をこま〴〵と書きつけておいたのだが、……ともかく、私の生活の第一歩だけは、これできまつた訳だ、それを書き忘れてゐたのだから、私もだいぶ修行が積んだやうだ、三八九最初の、そして最大のナンセンスとでもいひたいもの如件。
終電車重い響を残して帰つた
・星があつて男と女
・霙ふる、売らなきやならない花をならべる
・霙ふるポストへ投げこんだ無心状
・ぬかるみをきてぬかるみをかへる
不幸はたしかに人を反省せしめる、それが不幸の幸福だ、幸福な人はとかく躓づく、不幸はその人を立つて歩かせる!
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……へんてこな一夜だつた、……酔うて彼女を訪ねた、……そして、とう〳〵花園、ぢやない、野菜畑の墻を踰えてしまつた、今まで踰えないですんだのに、しかし早晩、踰える墻、踰えずにはすまされない墻だつたが、……もう仕方がない、踰えた責任を持つより外はない……それにしても女はやつぱり弱かつた。……
一月十七日 晴、あたゝかだつたが、私の身心は何となく寒かつた。
帰途、薬湯に入つてコダハリを洗ひ流す、そして一杯ひつかけて、ぐつすり寝た、もとより夢は悪夢にきまつてゐる、いはゞ現実の悪夢だ。
今日は一句も出来なかつた、心持が逼迫してゐては句の出来ないのが本当だ、退一歩して、回光返照の境地に入らなければ、私の句は生れない。
一月十八日 晴、きのふもけふもよいお天気だつた、そして私も閉ぢ籠つて読んだり書いたりした。
夕方から散歩、ぶら〳〵歩きまはる、目的意識なしに──それが遊びだ──そこに浄土がある、私の三八九がある!
また逢うてまた別れる、逢ふたり別れたり、──それが世間相! そして常住だよ。
こゝの家庭はずゐぶんやゝこしい、寄合世帯ぢやないかと思ふ、爺さんはガリ〳〵、婆さんはブク〳〵、息子は変人、娘は足りない、等、等、等、うるさいね。
・凩に明るく灯して母子です
凩のラヂオをり〳〵きこえる
闇夜いそいで戻る馬を叱りつゝ
凩、餅がふくれあがる
・のび〳〵と尿してゐて咎められた
一月十九日 けふもよい晴れ、朝湯朝酒、思無邪。
朝湯の人々、すなはち、有閑階級の有閑老人もおもしろい、寒い温かい、あゝあゝあゝの欠伸。
濁酒を飲む、観音像(?)を買ふ、ホウレン草を買ふ。
元寛さんを訪ねて、また厚意に触れた、馬酔木さんに逢うて人間のよさに触れた。
・日向ぼつこする猫も親子
小春日、仏像を買うて戻つた
日向ぬくうしてませた児だ
・餅二つ、けふのいのち
ホウレン草の一把一銭ありがたや
うらゝかにいたづらに唄うて乞うてゐる
(ルンペンに)
生きたくてドツコイシヨ唄うてあるく
巷に立つて運命を説いてる髯
有田洋行会の象をうたふ
象も痩せて鼻のばす身体うごかす
なんぼ食べても食べ足りない象はうごく
さぞ寒からう象にもフトンがない
しきりに鼻をふる象に何かやれ
鼻をさしのべる象には食べるもの
愛嬌ふりまく象はメクラだつたのか
君ヶ代吹いてオツトセイは何ともない
一月廿日 うらゝか、今日の昨日を考へる、微苦笑する外はない。
すまなかつた、寥平さんにも、彼女にも、私自身にも、──しかし、脱線したのぢやない、それだけまた心苦しい。
苦味生さんから来信、あたゝかい、あたゝかすぎる、さつそく返信、そして寝る、悪夢はくるなよ。
自分が見え坊だつたことに気付いて、また微苦笑する外なかつた、といふのは、私は先頃より頭部から顔面へかけて痒いものが出来て困つてゐる、それへテイリユウ膏を塗布するのだが、見えない部分よりも見える部分──自分からも他人からも──へ兎角たび〳〵塗布する。……
風の音にも何やかや
□
・大空晴れわたり死骸の沈黙
木枯やぼう〳〵としてゐる
一月廿一日 晴れたり曇つたり、大寒入だといふのに温かいことだ。
今日は昼も夜も階下の夫婦が喧嘩しつゞけてゐる、こゝも人里、塵多し、全く塵が多過ぎます、勿論、私自身も塵だらけだよ。
よろめくや寒ン空ふけて
電燈のひかりにうかぶや葉ぼたん
ひとり住むことにもなれてあたゝかく
一月廿二日 雨、憂欝な平静。
稀也さんから突然、岡山へ転任するといふ通知があつたので、逓信局に元、馬の二君を訪ねて、送別句会の打合をする。
途上で少しばかり飲んだ、最初は酒、そして焼酎、最後にまた酒! 何といつても酒がうまい、酔心地がよい、焼酎はうまくない、うまくない焼酎を飲むのは経済的だからだ、酔ひたいからだ、同じ貨幣で、酒はうまいけれど焼酎は酔へるからだ、飲むことが味ふことであるのは理想だ、飲むうちに味ふほどに酔うてくるなら申分ないけれど、それは私の現状が許さない、だから、好きでもない焼酎を飲む、眼をつぶつて、息もしないやうにして、ぐつと呻るのである、みじめだとは自分でも知つてゐる、此辺の消息は酒飲みの酒好きでないと解らない、酒を飲むのに目的意識があつては嘘だが、目的意識がなくならないから焼酎を飲むのである。……
夫婦で洗ふ赤児がおとなしい
夫婦喧嘩もいつしかやんだ寒の月
夕ぐれのどの家も子供だらけだ
酔うほどは買へない酒をすゝるのか
一月廿三日 雨、曇、何といふ気まぐれ日和だらう。
夜、元寛居で、稀也送別句会を開く、稀也さんは、いかにも世間慣れた(世間摺れたとは違ふ)好紳士だつた、別れるのは悲しいが、それが人生だ、よく飲んでよく話した。
冷やかに明けてくる霽れてくる
・出来そこなひの飯たべて今日を逝かせる
寒ン空、別れなければならない
恋猫の声も別れか
寒い星空の下で別れる
・重荷おもくて唄うたふ
・ひとりにはなりきれない空を見あげる
あたゝかく店の鶯がもう啼いて
よいお天気の山芋売かな
畑は月夜の葉ぼたんに尿する
稀也さんに、元寛さんへも馬酔木さんへも木葉猿をげる、そして稀也さんも私も酔ふた、酔うて別れて思ひ残すことなし、よい別れだつた。
裏のおばさんに『あたゝかいですね』といふと『ワクドウが水にはいつたから』と答へる、熊本の老人は誰でもさういふ、ワクドウ(蟇の方言である)が水にはいる(産卵のためである)、だから暖かいと理窟である、ワクドウが水に入つたから暖かいのでなくて、暖かいからワクドウが水に入るのだから、原因結果を取違へてゐるのだが、考へやうによつては、面白くないこともない、私たちはいつもしば〳〵かういふ錯誤をくりかへしつゝあるではないか。
一月廿四日 うらゝかだつた、うらゝかでないのは私と彼女との仲だつた。
米の安さ、野菜の安さ、人間の生命も安くなつたらしい。
朝湯のこゝろよさ、それを二重にする朝酒のうまさ。
一月廿五日 また雨。
午後、稀也さんを見送るべく熊本駅まで出かけたが、どうしても見出せなかつた、新聞を読んで帰つてくると、間もなく馬酔木さんが来訪、続いて元寛さんも来訪、うどんを食べて、同道して出かける、やうやくにして鑪板を買つて貰つた(今夜もまた元寛君のホントウのシンセツに触れた)。
また降りだしてひとり
・ぬかるみ、こゝろ触れあうてゆく
一月廿六日 雨、終日終夜、鉛筆を走らせる。
凩の葉ぼたんのかゞやかに
・いちにちいちりんの水仙ひらく
一月廿七日 晴れて寒い。
一杯やりたいが、湯銭さへもない。
・握りしめるその手のヒビだらけ
暮れて寒い土を掘る寒い人
けふも出来そこなひの飯で寒い
一月廿八日 晴、霜、ありがたい手紙が来た、来た、来た。
やつと謄写刷が出来た、元寛居を訪ねて喜んで貰ふ、納本、発送、うれしい忙しさ。
入浴して煙草を買ふ、一杯ひつかける。……
生きるとは味ふことだ、物そのものを味ふとき生き甲斐を感じる、味ふことの出来ないのが不幸の人だ。
鰯三百目十銭、十四尾あつたから一尾が七厘、何と安い、そして何と肥えた鰯だらう。
一月廿九日 降つて曇つて暖かい、すつかり春だ。
犬を洗つてやる爺さん婆さんの日向
・鶏を殺して鶏臭い手を清めてゐる
夕方、三八九第一集を持つて寥平さんを訪ねる、例の如く飲む、最初は或る蕎麦屋で、しかしそこはヱロ味ぷん〳〵だから、さらに一日本店で飲み直す、そして最後はタクシーで送られる。
寥平居で、重錐時計といふものを見た、床しい印籠も見た、そして逢へば飲み、飲めば酔ふた次第である。
一月三十日
宿酔日和、彼女の厄介になる、不平をいはれ、小言をいたゞく、仕方ない。
夜は茂森さんを訪ねる、そして友情にあまやかされる。
一月三十一日
やつぱり独りがよい。
女の話はなしつゞけて袋貼りつゞける
(隣室の若者に)
袋貼り貼り若さを逃がす
・ラジオ声高う寒夜へ話しかけてゐる
二月一日 降つたり霽れたり、夜はおぼろ月がうつくしかつた。
三八九第一集を発送して、重荷を下ろしたやうに、ほつとしたことである、心も軽く身も軽くだ。
今日もまた苦味生さんの真情に触れた。
・笛を吹いても踊らない子供らだ
・あるだけの米を炊いて置く
競るほどに売るほどに暮れた
・逢ふまへのたんぽゝ咲いてゐる
一杯やりたい夕焼空
俳句は一生の道草とはおもしろい言葉かな。
二月二日 また雨、何といふ嫌らしい雨だらう。
私も人並に風邪気味になつてゐる。
更けてやつと出来た御飯が半熟
ゲルトが手にいつたので、何よりもまづ米を、炭を、そして醤油を買つた(空気がタダなのはほんたうに有難いことだ)。
二月三日 曇、よく眠られた朝の快さ。
生きるも死ぬるも仏の心、ゆくもかへるも仏の心。
不思議な暖かさである、『寒の春』といふ造語が必要だ、気味の悪い暖かさでもある。
・こゝに住みなれてヒビアカギレ
・つゝましう存らへてあたゝかい飯
・豆腐屋の笛で夕餉にする
日の落ちる方へ尿してゐる
馬酔木居を訪ねてビールの御馳走になる、私は至るところで、そしてあらゆる人から恵まれてゐる、それがうれしくもあればさびしくもある。
子供はお宝、オタカラ〳〵というてあやしてゐる。
二月四日 雨、節分、寒明け。
ひとりで、しづかで、きらくで。
・ひとりはなれてぬかるみをふむ
二月五日 まだ降つてゐる、春雨のやうな、また五月雨のやうな。
毎日、うれしい手紙がくる。
雨風の一人、泥濘の一人、幸福の一人、寂静の一人だつた。
・雨のおみくじも凶か
凩、書きつゞけてゐる
・ひとりの火おこす
味取在住時代 三句
久しぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる
けふも托鉢、こゝもかしこも花ざかり
ねむり深い村を見おろし尿する
追加一句
松はみな枝たれて南無観世音(味取観音堂の耕畝として)
行乞途上
旅法衣ふきまくる風にまかす
底本:「山頭火全集 第三巻」春陽堂書店
1986(昭和61)年5月25日第1刷発行
1989(平成元)年3月20日第4刷
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:さくらんぼ
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年3月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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